イスラムの横暴に腰抜けなイギリス協会

The English version of this entry can be read here.
最近イギリスにおけるイスラム教徒の暴挙は目に余るものがある。彼等の暴挙は暴力的な犯罪のみならず、彼等がイギリス政府に要求する理不尽な特別扱いにある。しかしこの状況をみるにつけ、私はイギリスの問題はイスラム教徒にあるのではなく、イギリスの国教のイギリス協会そのものにあるのだと考える。
英国には国教というものがある。多くのイギリス人がこの国の協会による教えを道徳的な基準として仰いでいる。イギリス帝国の国民にとって協会だけは常に妥協せず、変化せず、苦境に屈しない強固な柱のような存在として人々の心の拠り所となっているのである。
人間とは弱いものだ。神の期待に常に応えることはできない。しかし信者たちは神が自分達に何を求めているかを常に知っている。少なくとも人々が神の教えに近付けるように導いてくれるのが協会であるはずだ。
だからこそ人々は他人のために命を投げ出して正しいことをしようとするのではないか?
だからこそ普通の人々が悪と立ち向かうために立ち上がるのではないのか?人々が何が悪で何が善かを知っているからこそ、善を保つために戦う勇気を持てるのではないのか?
しかしもしもその精神の拠り所となるはずの協会が弱腰になって、争いを避けるためにと、ことあるごとに不寛容に寛容になれといって、人間を生け贄にするような野蛮な宗教に理解を示せとか言い出したらどうなるだろう。
信じられないことだが、イギリスでは実際にそんなことはすでに起きているのである。トム・ブランクリーが伝えるこのニュースなどは まさにその典型例だ。

この話は二週間前に、キリスト教文明発展の指導力として900年の伝統を持つ大学のある町、イギリスはオックスフォードから来たものだ。またしても青い鳥よりも恐ろしいものがイギリスの空を脅かしている。オックスフォード中央聖廟の役員たちは聖廟の塔のてっぺんから大型スピーカーで町中に響くようけたたましい音で一日に五回イスラム教のお祈りを放送する許可を申し出たという、過去900年に渡って春夏秋冬に地元の協会の鐘の音だけが聴かれてきたこの町でである。

今さら驚くことではないが、オックスフォードのイギリス協会主教であるジョン・プリットチャート神父は(the Right Rev. John Pritchard)地元のキリスト教信者たちは「多様性を楽しむ」べきであると発表した。この神父は先日イギリスにシャリア法を取り入れるべきだと語ったカンタベリーの大主教の跡継ぎとされている人物である。
問題なのはヨーロッパのイスラム教徒が移住先の社会を彼等の信仰に合わせて変えていこうとしていることではなく、ヨーロッパ人が自ら進んで彼等に迎合しているこである。シャリア法の侵攻はこのまま続くであろう。このまま何の抵抗も受けないのであれば。

もしキリスト教の教えに「多様性」の大事さを説く部分があるというなら見せていただきたいものだ。信仰の多様性を受け入れるならキリスト教を信じる意味がないではないか?壊れた道徳の羅針盤は何処も示さない。暴力への理解は平和などもたらさない。かえってことは混乱し暴力は増すのみである。そしてその結果キリスト教信者は減ってしまうのだ。
イギリスでイスラム教の暴力団が麻薬売買をし未成年の少女たちを売春に追い込んでいるという話は大分前から問題になっている。しかしこうした少女たちの親たちが地元警察に訴えでても警察当局は少数民族の異文化に十分な理解を示していない と責められるのではないかと懸念し、しかもやり過ぎれば人種暴動になりかねないと恐れてイスラムやくざを取り締まろうとしない。(Hat tip to Lionheart.)

昨晩ラマダンファウンデーションのモハメッド・シャフィク会長は警察は犯罪者の人種によって取り扱いを差別していると批判した。
氏によると警察はブラックバーンやオルダムで起きたような人種暴動を恐れて「神経過敏」になりきちんとした取り締まりを行っていないと言う。
今週のパノラマ誌の氏の問題な発言は2004年のチャンネル4のドキュメンタリー番組で爆発敵な話題を巻き起こした問題に再び火をつけることとなった。
この番組ではブラッドフォードのアジア人(パキスタン人)が地元の未成年白人少女たちを売春婦として教育しているというものだったが、チャンネル4の番組リストからは外されていた。
警察が地元の選挙期間中に人種暴動を誘発する恐れがあると主張したことが原因だった。

しかし英国のイスラム教徒たちが要求しているのは「寛容」などという生易しいものではない。最近パキスタン人移民二世代目の青少年たちが、ナチス台頭直前のヒットラー青年団よろしく、キリスト教徒やユダヤ教徒に対して実際に暴力を振るう事件が 相次いでいる。

三月五日、聖ジョージ協会の前で、神父のカラーを着用していたキャノン・アインスワースさん57歳は(Canon Ainsworth)二人のアジア人の若者に殴る蹴るの暴力を受けた。その間もう一人が宗教的暴言を叫び続けたという。神父は切り傷、打撲、両目に青あざの怪我を負った。神父は聖バースロミュー病院から一旦退院したが、その後怪我の後遺症が出たため再び入院した。

しかし英国警察はなにもしない。イギリス協会もただただ腰を抜かすだけである。いや、厳密にはそれは正しくない。警察がなにもしてないというのは嘘だ。 彼等はイスラムの暴挙を暴露したイギリス人ブロガーライオンハートをイスラム教徒への人種的な嫌悪を広めるとして逮捕していたんだっけ。ミスター苺が皮肉っぽく、「イギリスには言論の自由が尊重されてて良かったねえ〜。」と言っている。これもイギリスの人権擁護法のたまものである。
どうやらイギリスはイスラム過激派を止めることより、それを暴露する人間の口を閉ざし、シャリアという五右衛門風呂のなかで序々に煮え殺されるのを好むらしい。ローチェスター市の主教、マイケル・ナズィアー・アリ神父(the Right Reverend Michael Nazir-Ali)がイスラム教徒による非イスラム教徒への暴力を非難すると、反対に彼に対してあちこちから非難轟々の嵐が集まった。自由民主党の党首までも一緒になって神父を非難しているのだから信じられない。

日曜日のテレグラフ紙にローチェスター市の主教、マイケル・ナズィアー・アリ神父は多様性こそが宗教団体を隔離する原因であり、非イスラム教徒らがイスラム過激派が占めている土地でひどい扱いを受けていると書いた。

アリ神父は政府が強制している混合は「道徳および精神的な見解」に欠けるとし(国教として)設立されているイギリス協会を優先しないことを指摘、これが「多様信仰のちゃんぽん」になったと強く批判した。
神父はさらにシャリア法の一部、特に聖廟の上から大型スピーカーでの祈祷放送は英国において適切であるかどうか懸念を示した。
これに対して自由民主党の党首、ニック・クレッグ氏は神父は非イスラム教徒「立ち入り禁止地区」ができているという証拠を出していないとし、神父の発言は「非常に挑発的ないい方だ」と表現した。

クレッグ氏が文化的に敏感であれば、神父の名前からして彼がパキスタン系移民であることに気が付いたはずだ。神父の家族自体はずっとキリスト教徒だったらしいが、イスラム社会で少数派のキリスト教徒としてイスラム教を批判することがどれほど勇気のいることか、多様文化に理解を示すことに忙しいクレッグ氏には理解できないのだろう。イスラム社会出身なだけあってアリ神父にはイギリス協会の教えが根本的にイスラム教のそれとは相容れないことを身にしみにて知っているのであろう。
で、このような信者や神父らへのイスラム教徒による暴力をイギリス協会の大主教様はどう思われているのかといえば、この人は以前にもイギリスにシャリアを適用すべきなどといってるようなトンデモ大主教だけあって、今回もまた イスラム過激派とその犠牲者を同等扱いする発言をした。.
神父の文章はちょっと難かしいので直訳せずに要約すると、要するに内部で分裂している社会でも外部からの敵を正しく見極めることができれば一時的に団結することが出来るのは自然である。不安定な状態にあるイスラム圏の人々が不思議な西側のキリスト教を悪視するのも、困惑し脅えたヨーロッパ社会がイスラム教を「自分らの生き方を破壊する」宗教だという映像にしがみつくのも同じことなのである。といった意味のことを書いている。
大主教がこんな調子じゃ英国のイスラム教徒がごう慢になるのは当たり前だ。そして同時にイギリスのキリスト教徒たちが宗教そのものに失望して協会を去っていくのも当然の成り行きである。といってカトリック教会が迷える子羊の英国市民をすくってくれるのかといえば、ローマ法王からも援助の手が届いているという話は聞かない。
イギリスでは最近結婚する人の数が極端に減っているそうだ。今年は記録的に結婚数が最低だったという。イスラム教徒が増え、協会へいく人々の数が激減し、「アジア人青年たち」が一夫多妻性を本気で要求する世の中で、協会が何だ、結婚がなんだ、神様が何だ、キリスト教などくそくらえだ!とイギリス市民がやけになるのは当たり前ではないか?
ローウェン・ウィリアムス大主教やジョン・プリチャード主教の声は英国中に響き渡る。真の危険はイスラム教徒達がごう慢になることではなく、英国市民が絶望し信仰を捨ててしまうことにあるのだ。もし英国のキリスト教徒たちがイギリス協会に精神的な救いを見いだせなくなったならば彼等が何処へ行けばいいのだ? もし協会がイスラムテロリストもキリスト教信者も何の変わりもないのだと主張するなら、誰が祈ったり聖書に従ったり結婚したりする必要があるのだ?そんな神のために誰が戦ったりするものか!
私はキリスト教徒ではないが、それでもイギリス協会が直面している危機は肌で感じるものがある。だからあえていわせてもらう。イギリス協会は多様主義社会主義左翼世俗主義の神父らを即刻排除すべきである。これはまずカンタベリーの大主教を追い出すことからはじめるべきだ。奴らには神の言葉を代弁する資格などない!自分の宗教の教えを体を張って守れないような腰抜けな人間に自分を神父などと呼ぶ資格はない!こんな奴らをのさばらせておいてはイギリス協会そのものの破壊を意味するだけでなく偉大なる英国として知られた国自身の崩壊を意味するのだ。
イギリス協会の存続は英国の存続を意味する。英国は決してイギリス協会をこいつら腰抜け主教どもに乗っ取られてはならない!
カカシには偉大なる英国が抵抗もせずにイスラム教の魔の手に墜ちるのを見るに忍びない。英国には悪と立ち向かう勇気ある騎士は一人も残っていないのか? もちろん中には勇気ある人々が何人かはいる。ライオンハートがそのひとりだし、メラニーやアリ神父もそのひとりだ。そしてアフガニスタンやイラクでイスラム過激派と戦うイギリス軍人たちの存在も忘れてはならない。(トニー・ブレアが去った後では軍隊も本領を発揮できないでいるが)
しかし彼等だけではまだまだ足りない。イギリス協会が彼等の背後を守ってくれないのに、どやって戦士らは目の前の敵に面することができるのだ?


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銅像にバーカ! ヨーロッパでイスラム教女性虐待に抗議

アメリカのリベラルフェミニストたちは、クリントン時代にはイスラム圏の女性虐待の習慣にずいぶん批判的であったのに、いったんブッシュ政権になってイスラム教テロリストとの戦いが始まるやいなや、イスラム教への批判を完全にやめてしまった。それどころか、いまだに依然としてイスラム圏の女性虐待を批判するフェミニストたちを「過激派」などといって批判するにいたっている。
そんななか、ヨーロッパのフェミニストたちは自分達の原点を忘れていない。Gate of Viennaによると、去年の9月を皮切りに、ヨーロッパ各地のドイツ語を話す国々で、暴走するイスラム教徒による女性虐待に抗議した女性たちが各地の銅像にイスラム教の女性が着る、頭からかかとまで覆い隠す、バーカという着物を着せる静かな運動を行っているそうだ。
この運動を行っている団体の声明文によると、先日2008年3月6日、この団体はヨーロッパ各地で銅像にバーカを着せる運動をおこなった。これはヨーロッパのイスラム化及びそれによって禁句とされる問題について市民に討論を呼びかけるのが目的である。過去6か月に渡って団体はドイツ、フィンランド、ロシアなどヨーロッパ全土に広めてきた。今回、Berlin, Braunschweig, Dortmund, Düsseldorf, Helsinki, Moscow, Tampere, そして Turku,において、8体の銅像にバーカもしくはスカーフを着せた。ヨーロッパの価値観を強調するため、銅像には「男女平等」と書かれた腕章をつけさせ、片方の手に1948年に国連で適用された人権宣言の条約が書かれた看板をもたせ、もう片方の手にコーランの女性の扱いかたが書かれた看板をもたせた。
彼等はヨーロッパ各地で、バーカやスカーフを着て歩くイスラム教女性の姿が目立つようになってきたことを懸念して、これはヨーロッパ諸国の自由と平等へのあからさまな挑戦だと考えている。そして彼等はイスラムの教えにはヨーロッパの基盤である男女平等、個人の自由、人権といったものとは絶対に相容れないものがあるとし、このことについてヨーロッパ市民は十分に考えるべきだとしている。
以前に私はイギリスのカンタベリー主教がイギリスにも一部イスラム教の法則シャリアを取り入れるべきだと提案したことについて書いたが、この団体は、シャリアとコーランを文字どおりに適用するやり方はヨーロッパの自由主義に真っ向から逆らうものであり、共存は不可能であるとしている。
移民を多く受け入れた国ではどこでも同じ問題を抱えるが、常識的に考えて、移民を受け入れた国が移民に合わせるのではなく、移民してきた人々こそが自分を受け入れてくれた国の文化や法律を尊重するのが筋のはず。にも関わらず、欧米諸国に移住してきたイスラム教徒たちは、自分達の法律をそのまま持ち込み、それが移住先の国の法律に触れようとどうしようとおかまいなしに施行する。そしてホストカントリーの市民が苦情を述べれば、「差別だ」、人権侵害だ!」といって大騒ぎをする。
最近イギリスではスーパーのレジで、イスラム教の店員は酒類を扱わなくてもよいことになったところが出来たという。アメリカでもボストンのハーバード大学でおくゆかしいイスラム教女性のために体育館で女性のみの使用時間を設けはじめた。
イギリスやカナダで人権擁護法がイスラム批判をする人々への言論弾圧につながっていることは、ここでも何度も紹介しているが、欧州諸国でもイスラム批判はほぼタブーな主題となっているようだ。そこでこの団体の目的は、禁制とされているこれらの問題、特に女性虐待の習慣について、ヨーロッパ市民は討論をすべきであると呼びかけているのである。
しかし我々はイスラム教徒の宗教の自由を尊重すべきではないのか、という意見もある。無論、自由諸国においては宗教の自由は尊重されなければならない。だが、それもその宗教がその土地の法律に触れない限りにおいてという条件はつけるべきだ。そうでなければ、その宗教が人間の生け贄を神に捧げるのが習慣だったら、自由諸国で乙女が八つ裂きにされるのを容認してもいいのか、ということになってしまうからだ。
ヨーロッパ諸国では、実際に家族の名前を汚したとして、親の決めた許嫁ではなく自分の好きな人と結婚しようとした女性が父兄に殺されたり、妹の離婚の自由を弁護した兄が父親の雇ったやくざに半殺しの目に合うといった事件が頻繁に起きている。これも、シャリア法で規定されているからといってヨーロッパ諸国は容認してもいいというのか?
このやり方ではイスラム教徒という少数派の人権を守るという名目で、イスラム教社会に生きざるおえない移民個人の人権は無視されている。親がイスラム教徒なら子供は好むと好まざるとにかかわらずイスラム教徒であるとされる。シャリア法では改宗は認められないどころか極刑に値する罪である。このような社会で生きる個人には人権も自由もあり得ないのだ。このような社会で女性がバーカやスカーフを着用するのが彼女たちの自由意志であるなどと考えるのはナイーブすぎる。
この団体の主張は、自由国家に生きる人間は誰もがその自由国家の法律によって守られるべきであり、イスラム教徒も例外であってはならないということだ。本当の意味での人権尊重はイスラム社会の自分勝手な行動を容認することではなく、権力のある一部のイスラム教徒による人権迫害から市民を守ることにあるのである。

我々はこの運動を通じて、特定の宗教運動に禁句となった主題があり、それに即座に対処すべきであるということを提示するものである。禁句とされている主題だからといって我々は黙っているべきではない。この問題を指摘することは人種差別ではない。イスラム社会に生きる女性たちが、それがわが国であろうと外国であろうと、彼女たちの権利について我々が主張しないことこそ人種差別である。かつて西洋の女性たちの人権のために立ち上がった人々はどこへ行ったのだ?イスラム教女性だけは援助もせずに放っておいていいという理屈は成り立たない。

ここでこの団体は人権宣言とコーランを比べ、どこが違っているかを提示している。国連の人権宣言では『すべての人間は生まれながらにして自由であり平等な尊厳と権利を持つ。』

“All human beings are born free and equal in dignity and rights. They are endowed with reason and conscience and should act towards one another in a spirit of brotherhood.”
— Universal Declaration of Human Rights, United Nations, Art. 1

とあるのに対して、コーランでは、

“To those (women) on whose part you fear desertion, admonish them, and leave them alone in the sleeping-places and beat them.”
— Quran, Sura 4,34
逃走する可能性のある女ちは、警告せよ、そして寝床に放置せよ、そして殴れ。

以前にとある左翼フェミニストが、どうしてフェミニストがイスラム教を批判しなきゃいけないのだと聞いていた。ぜひとも彼女に読んでほしい声明文だ。


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イギリス、カンタベリー大主教の発言が呼ぶ波紋、その2

今日は、イギリスの国教教会の最高指導者であるカンタベリー大主教の問題発言についての分析を続けよう。これまでのお話は下記参照。
ことの起こりはこちら
カンタベリー大主教の発言が呼ぶ波紋、その1

個人主義より全体主義

ウィリアムス大主教にとって大事なのは個人ではなく、その個人が所属する団体である。この場合は無論イスラム教団体だ。
ウィリアムス主教はイスラム教団体がシャリアを求める以上、イスラム教徒全員がシャリアの法のもとで生きるべきだと主張する。ウマと呼ばれるイスラム教徒たちはサウジアラビアに住んでいようと、インドネシアだろうとワジリスタンだろうとパキスタンやアフガニスタンであろうと、パリの郊外であろうとオーストラリアのクロヌラ海岸であろうと、そしてもちろんそれがイギリスでも、イスラム教徒であれば誰でもシャリア法のもとに生きるべきだというのである。ウィリアムスはシャリア法のもとに生きることが個人ではなくウマ(イスラム教徒)という団体が受け継いだ権利だというのだ。
しかし、単にイスラム教という漠然とした宗教でつながっているだけの団体に「権利」などというものがあるのだろうか?(アメリカの法廷では「権利」とは常に個人の権利でありグループや団体に認められるべきではないという裁断をくだしている。)
ウィリアムス大主教が、人々がウマに属している、と語る時これは人々がある協会に所属しているというのとは全く違う意味を持つ。一個人が特定のキリスト教の協会のメンバーになる場合、これはその一個人の意志によるものであり、生まれながらにしてその協会に属しているというわけではない。しかしイスラム教徒は自分が好むと好まざるとに関わらずイスラム教徒の子供として生まれた人間はすべてイスラム教に属すると考える。そのような状況に生まれた一個人がイスラム教を拒絶した場合、イスラム教はその個人の意志を認めるどころか背信者として非常に重たい罪に問う。背信者に課する罰は大抵が死刑である。
ウィリアムス大主教もこの点については問題だと認めており、イギリスの法廷は背信者への罰を認めるべきではないと主張している。しかしながらウィリアムス大主教は背信者への社会的制裁は容認している。つまりウィリアムスは、イスラム教徒として生まれた者がイスラム教を拒絶するのは罪であり死すらもイスラムの呪文から個人を解かない、という概念を容認しているのだ。
ウィリアム大主教が「ウマ」(イスラム教徒)という場合には、こうした自らの意志に反してイスラム教社会に無理矢理組み込まれた人々まで含まれてしまうのである。

非現実的な理想主義:

ウィリアムスの念頭には非常に洗練された理想的なイスラム教徒が存在するようで、イギリスが適用するシャリア法は決して個人の人権を迫害するようなものにはならないという幻想を抱いているようだ。だがこれはイギリスですでに起きている現実とはかけ離れた理想だ。ウィリアムスは自分の目で見ている現実のイスラム教徒を無視している。西洋文化の基本ともいえる推論から観察そして結論を出すというシステムを完全に無視してしまっているのだ。下記はウィリアムス主教のお説教の一部。

There needs to be access to recognised authority acting for a religious group: there is already, of course, an Islamic Shari’a Council, much in demand for rulings on marital questions in the UK; and if we were to see more latitude given in law to rights and scruples rooted in religious identity, we should need a much enhanced and quite sophisticated version of such a body, with increased resource and a high degree of community recognition, so that ‘vexatious’ claims could be summarily dealt with. The secular lawyer needs to know where the potential conflict is real, legally and religiously serious, and where it is grounded in either nuisance or ignorance. There can be no blank cheques given to unexamined scruples.

14 So the second objection to an increased legal recognition of communal religious identities can be met if we are prepared to think about the basic ground rules that might organise the relationship between jurisdictions, making sure that we do not collude with unexamined systems that have oppressive effect or allow shared public liberties to be decisively taken away by a supplementary jurisdiction. Once again, there are no blank cheques.

ーーイスラム教徒には正しいシャリア法を適用できる公式に認められた組織が必要である。すでにシャリア法を解釈するイスラム法評議会(Islamic Shari’a Council)という非公式な組織がイギリス国内での結婚問題の解決に大変必要とされている。このような組織に合法な権限を与え社会が公式な組織として認めれば、評議会はより洗練されたものとなり、下らない嫌がらせのような訴訟は的確に処分されるようになる。宗教的な習慣を十分に理解した世俗主義の弁護士は、宗教上どういう点で問題が起き、どういう訴えが宗教上正しいもので、どういうものが単に無知やきまぐれからくるものなのか判断する知識を習得する必要がある。こうした調査なくして訴えを盲滅法に認めることはない。またこの新しい法が人々の権利や自由を弾圧するようなものにならないよう十分な配慮が必要であるーー
だが現実にシャリア法を適用することで市民の自由が弾圧されないなどという理想が通用したことはない。マルクス主義の理想がスターリン主義の現実に取って代わられたように、平和主義の理想が凶暴な左翼反米革命主義に変貌したように、シャリア法廷がどれほど「洗練された」西洋式概念を取り入れた形でイギリス国民が納得できるような法廷、という理想で始まろうと現実には単にシャリア法を文字どおり行使する横暴な組織と化すことは目に見えている。
ウィリアムスの欠点は彼が信じているはずの宗教を基盤としている西洋文化を全く信用していないということだ。宗教と西洋の法廷は矛盾しない。もしあるイスラム教徒がシャリア法のもとに生きたいと思えば我々は彼のその権利を尊重する。だが、その反対は絶対に許されない。
ウィリアムスがいうような「洗練された」イスラム教なら特に西洋の法律との矛盾はない。今現在のイギリスで、非公式なシャリア法廷がアクメッドの娘のソフィアはファイサルと結婚しなければならないと決めることは完全に合法だ。ただし、ソフィアとファイサルがその決断を受け入れるか拒絶するかは彼等自身の判断に任される。なぜなら西洋文化は個人の決断の権利を保証しているからだ。
イスラム教への自発的な「服従」はすでに西洋社会は実存する法律で認めている。ウィリアムスがいうようなシャリア法を裁定する法廷など取り入れれば、シャリア法が既存の法律を規制する形になってしまうことは免れない。

  1. イギリスにはすでに強制力はないが自発的に従いたい個人が従うことが出来るイスラム教法廷が存在している。
  2. ウィリアムスはこのイスラム法廷に強制力のある公式な権力を与えよと唱えている。
  3. つまりウィリアムスはイスラム教法廷に、彼等が自分勝手に決めた「イスラム教徒」たちに、個人がそのような法律に従いたいと思っているかどうかにかかわらず、無理矢理にイスラム教を行使する権限を与えよというのだ。

このような法律が適用されれば、現実の社会ではイスラム法評議会が貧民窟のイスラム教住民を独裁政権によって牛耳ることは間違いない。たとえイギリスの法律がそのような拡大されたシャリアを認めなかったとしても、一旦公式で行使力のあるシャリア法が存在するという概念んが人々の思想に入れば、シャリア法をとなえる支配層の権限を強大させようという動きに発展することは間違いないのである。そうなれば無教養で民度の低いイスラム移民がイスラム教リーダーたちの唱える単純なシャリアに従って、奴隷を持ったり、重婚したり、家族の名誉のために妻や娘を殺すことなど普通になるだろう。
「軒下貸して母屋取られる」というように、一旦一部でもシャリアが公式に認められれば、その権限を拡大しようとするのは人間として当たり前の欲望だ。ましてやイスラム教には常に他の宗教を迫害して自分らの宗教を強制的に広めるというモハメッドの教えがある。イスラム教徒が多数を占める地域で、イギリスのごく一部だからといって少しでもシャリアが合法として認められれば、イスラム教徒がそれだけで満足するはずがない。そのうちイスラム教徒が住んでいようといまいとイギリス全体でシャリア法を受け入れるべきだという要求が生まれ、それが実現すれば現存するイギリスの法律がシャリアと矛盾する場合にはシャリアを優先させるべきだという主張になり、いずれはイギリスの法律をシャリアのみにすべきだという要求になるのだ。
それを多数派のイギリス国民が拒絶すれば、シャリアが国の法律となるまでテロ行為をしてでも命がけで戦うと誓う過激派が出てくるのは時間の問題だ。そうなったらイギリスは内乱の憂き目にあう。
イギリスがほんの一部だからなどといって、シャリアの一部でも適用すれば、その妥協はイギリス政府が軟弱な証拠であると解釈され、今こそイギリス政府を攻めるチャンスとばかりに、イスラム教徒らはそれを足場にどんどんと無理難題をふっかけてくるだろう。一旦降参したイギリス法廷が次の要求を拒絶するのはもっとむずかしくなるのだ。


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「イギリスはシャリア法を適用すべき」イギリス国教カンタベリー大主教の発言が呼ぶ波紋、その1

昨日イギリス国国教会の最高指導者、『カンタベリー大主教が7日、英BBCラジオの番組で、英国内で「シャリア法(イスラム法)」を部分的に適用することは「避けられないと思う」と述べ』た話についてちょっと紹介したが、きょうはお約束どおり、ミスター苺の詳しい分析を参考にしてこちらでも考えてみよう。
人は神を信じなくなると….

人は神を信じなくなると何も信じなくなるのではなく、なんでも信じるようになる。

–とはG.K. Chestertonが 言ったとか言わないとかという話だが言ったとすれば名言だ。
イギリス国教教会の最高指導者であるローワン・ウィリアムス大主教は、険悪化するイギリス在住のイスラム教徒との関係を緩和するためにイスラム回教の法律であるシャリアをイギリス国内で適用すべきであると語ったが、これはおよそ神を信じる者の言うことではない。もしウィリアムスが旧約聖書に描かれている自由(個人が自由に人生を選ぶ権利)を愛する神を信じているならば、それとは全く正反対の概念を唱える宗教をイギリスが取り入れるべきだなどと言えるはずがないからだ。
となると自然に、ローワン・ウィリアムス大主教は本当に神様を信じているのだろうか?という疑問が生まれる。

普遍の正義を拒絶する大主教

ウィリアムス主教の考え方は、マルクス主義ともいえるほど全体主義だ。彼にいわせると世の中には多々の団体が存在するが、その関係は常に競い合う団体同士の力関係にあるというもので、政治上での葛藤は人数が多数を占める「有力な団体」と少数派の「無力な団体」に別れるというものだ。
シャリアをイギリスの法律に取り入れるべきと議論するためには、イスラム教徒が他の改革者と同じように民主的な改革を求めている団体であるかのように扱う必要がある。しかし無論イスラム教団体は民主的な改革など求めていない。彼等は意見があわない人間にファトワを発令し、信者に呼びかけて地下鉄を爆破したりしているのだ。このような理不尽な行為をウィリアム大主教はどう弁護しようというのか?
これはアメリカの黒人活動家のアル・シャープトンやジェシー・ジャクソンなどがよく使う手なのだが、有力な団体(多数派)のみが人種(宗教的)差別を行うことが出来る、という理屈を適用すれば、少数派によるどんな理不尽な行為も正当化することができる。無力な団体である少数派が多数派を差別するのはあたりまえ。これは力のある多数派が少数派を差別するのとは全く別な行為だとするのである。だから少数派が多少荒っぽい行為をしたとしても、(例えば自爆テロとか、、)他に手段がないのだから許されるという理屈になる。
こういう理屈はイスラエルとパレスチナとの紛争でもよく用いられることで、イスラエルが標的を絞った空爆で数人のテロリストを殺すと世間からやいのやいの言われるが、パレスチナのテロリストが自爆テロをやって無関係なユダヤ人を何十人何百人と殺しても、強力な軍隊を持つイスラエルとまともに戦っても勝ち目がないし、歴史的にしいたげられてきた無力な団体だから、パレスチナ人にはテロ以外に方法がないといって弁護される、というように起用される。
であるからウィリアムスはイスラム教徒の多少の横暴は見て見ぬ振りをしてやるべきだというのだ。たとえそれが異教徒を迫害する過激な行為のように見えたとしてもだ。裏を返せばここにカカシにはウィリアム大主教の「所詮イスラム教徒などキリスト教徒と同じ基準で判断するような存在ではない』という差別意識が伺われるのだが、ま、それはそれだ。
下記は大主教のお説教の一部である。難解な文章で直訳は無理なのでまとめるとこういうことになる。

I have argued recently in a discussion of the moral background to legislation about incitement to religious hatred that any crime involving religious offence has to be thought about in terms of its tendency to create or reinforce a position in which a religious person or group could be gravely disadvantaged in regard to access to speaking in public in their own right: offence needs to be connected to issues of power and status, so that a powerful individual or group making derogatory or defamatory statements about a disadvantaged minority might be thought to be increasing that disadvantage. The point I am making here is similar. If the law of the land takes no account of what might be for certain agents a proper rationale for behaviour — for protest against certain unforeseen professional requirements, for instance, which would compromise religious discipline or belief — it fails in a significant way to communicate with someone involved in the legal process (or indeed to receive their communication), and so, on at least one kind of legal theory (expounded recently, for example, by R.A. Duff), fails in one of its purposes.

ーーーー宗教上の憎しみが生み出す犯罪については、犯罪を犯した人間が所属する団体がどのくらい無力な立場におかれており、公共で発言する機会がどれほどあるのかを考える必要がある。犯罪は犯罪者の力と立場を考慮に入れて判断されなければならない。法律はその個人の行動がその個人が所属する団体において正しい行為かどうかを見極めてから判断するべきである。それをしないと、その土地の法律が犯罪者個人の所属する団体の宗教や教えに反するものであった場合に、その個人との正しい意思疎通は不可能となる。ーーーー
ユダヤ・キリスト教の基盤となる「普遍の正義」とは画期的な概念だ。それはたとえ犯罪をおかした者が王様であろうと乞食であろうと犯罪は犯罪であり、それは神の法律によって同じように裁かれるという思想である。ウィリアム大主教は「人々は誰も同じように神の法によって裁かれる」という西洋文化の基本となった宗教を投げ捨てて、イスラム教徒だけを特別扱いすべきだと主張しているのである。同じ犯罪をおかしてもイスラム教徒だけは別の法律で特別に裁かれるべきだというのだ。なにしろウィリアムスは英国に在住する他の少数派であるアイルランド人のカトリック法とか、フランス人移民のナポレオン法を適用せよとは呼びかけていないのだから。
西洋文化の土台となる「普遍の正義」というひとつの柱を破壊したウィリアムス大主教は、西洋文化を強く支えてきたもうひとつの柱、「個人主義」もなぎ倒そうとする。
その話は次回に続く。


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イスラム教批判はイスラモフォビアなのか?

私が二年近く書いてきた過激派イスラム教批判について、ある場所で批判をなさっている方がらしたので、こちらへ来て話されてはどうかとお誘いしたのだが、カカシのブログは読んでいるということなので、彼の私及びアメリカのネオコンに対する批判をちょっと載せてみよう。
まずは一宿一飯さんのあるブログへのコメント。

所詮憶測ながら苺畑カカシさんのイスラモフォビアに関して感じることは、「恐らくこの人は実際にモスリムに合って対話した経験も無ければする気も無く、単に自分の世界観を維持するための仮想的を必要としているに過ぎない」と言うものです。実際に接触してみれば、例えば敬虔なクリスチャン・モスリム・ジューイッシュは「共通する価値観を持っている」訳で、現実にハマス創設者ヤシン師にはユダヤ宗教界における高位の和平支持派ラビとの親交があったと言うような話など実例は幾らでもある訳なのですが。
別に、「真に共存の可能性を持っているのは西欧化した世俗主義者のみ」では無いのですけれどね。苺畑さんの決め付けは多分に「自分の壊れやすく、多分に現実と齟齬を来たしてしまいがちな価値観を守るために、少しでもそれに沿わないものは攻撃せずにはおられない」と言うような衝動的な物に見えてしまう。

一宿一飯さんは私の書いたことを読む前に某ブロガーによる「カカシはイスラム教恐怖症だ」という偏向な意見を読んでしまったため、私の書いていることもそういう色眼鏡をかけてよんだのだろうと思う。もう少し気をつけて読んでくれれば、私が攻撃しているのはイスラム教徒全般ではなく、過激派イスラム教徒およびイスラム教テロリストなのだということがわかるはずである。
常連の読者のかたがたならご存じだが、私はこのブログにおいて我々文明社会はイスラム教全体を敵に回してはならないと何度も強調してきた。イスラムの危機:テロリズムはイスラムの教えに反するにおいて歴史家のバーナード・ルイス博士の言葉を借りてこのように書いた。

現代のテロはイスラム教とほぼ同義語になってしまっているので、テロリズムがイスラムの教えに反するなどといっても、そんなことは頭の弱いリベラル連中のプロパガンダとしか受け止められない読者も多いだろう。私がここで何度も紹介してきたロバート・スペンサーなどもその口で、テロリズムこそがイスラムの真髄だなどと平気で言う。だがここでルイス教授はあえて、イスラムは平和な宗教だと主張する。…

…イスラム教徒はイスラム教を守るために戦うことは義務付けられているが、非戦闘員を殺したり虐待することは禁じられている。死を覚悟で戦うことは期待されるが、自ら命を絶つことは許されない。だとしたら、テロリストのやっていることは完全にこのイスラムの教えに反することになるではないか?何故このようなことをしている人間がイスラム教原理主義者だなどと大きな顔をしていられるのだろう?
…イスラム教過激派はイスラム教の名のものとに西洋に宣戦布告をした。彼らの解釈はコーランの正しい解釈のひとつである。だが、テロリストを正当なイスラム教徒として扱ってはならない。テロリストを原理主義者などと呼んではいけない。コーランの解釈はひとつではない。長くつづられたコーランのなかには戦争を唱える箇所もあれば平和を唱える箇所もある。他宗教に寛容となり、弱いものを守り無実の人間を傷つけてはならないという教えもイスラム教の原理なのである。イスラム教徒の中には、西洋文化の落ち度も理解しながら、また自分らの社会の弱点を捉えながら近代化を進めようとしている人々がいる。前者とは戦い以外に道はない。だが、後者とは歩み寄れる。我々現代人はこの二つのグループを十分に見極める目を養ない、穏健派を出来る限り応援しなければならない。

私は穏健派イスラム教徒となら歩み寄れるという言い方はしたが、歩み寄れるイスラム教徒は「西欧化した世俗主義者のみ」などといった覚えは一度もない。いや、それどころか私はヨーロッパの世俗主義をずっと批判してきている。私の「滅び行く欧州、栄えるイスラムの脅威シリーズ」を読んでいただければ分かるが、私はここでヨーロッパの行き過ぎた世俗主義こそがヨーロッパの崩壊につながると書いている。そのまとめとして目覚めるヨーロッパでこのように書いた。

(マーク)スタインはヨーロッパの世俗主義が現在の欧州の堕落を招いたのだと書いている。私はこれには全く同意見。イスラム教という宗教に対抗できるのはヨーロッパの基盤となっているジュデオ・クリスチャンの価値観しかない。

またカカシはイスラム教こそ悪の根源といいはるロバート・スペンサーの映画を紹介した時もこのように述べた。

私はこのブログでも何度か文明社会がイスラム教徒全体を敵に回すことの危険性を主張してきた。 だから私は悪の根源はイスラムの教えにあるというこのドキュメンタリーの製作者たちの意見には全面的に賛成できないでいる。 特にシューバット氏はイギリスのブレア首相がイスラム教を「平和を愛する宗教」だと何度も繰り返すことに関して、愚かなのか嘘つきなのかどちらかだろう、と言い切ることには全く同意できない。
ブレア首相ほど対テロ戦争に関して自分の政治生命を犠牲にしてまでブッシュ大統領と一緒になって努力してきた政治家はいない。 ブレア首相ほどイスラムテロリストの脅威を正しく理解して戦い続けなければならないと主張した人はいない。 私は911事件以後のこの世の中にブレア首相という立派な政治家がイギリスにいてくれたことを何度神に感謝したか知れない。
「イスラムについて、、」の製作者たちがわかっていないのは、政治家達がイスラムを「平和な宗教」だと主張し、テロリストは過激派であり、本来のイスラム教の教えを歪曲しているのだと語るには理由があるということだ。 イスラム教の人口は12億といわれている。 この中で過激派は約一割というではないか。 彼らはその一割の過激派と戦うために我々文明諸国に対して12億の人々全体を敵に回せというのか? 
無論、数や欧米の戦争技術をすれば、12億の敵をもってしても西洋社会がいずれは勝つだろう。 だが、もしそのような戦争がおきれば、第2次世界大戦どころの騒ぎではなくなるということがこのドキュメンタリーの製作者たちにはわかっているのだろうか?

一宿一飯さんの誤解は過激派イスラム教及びイスラム教テロリストへの批判を、イスラム教全体への批判イスラム教徒への人種差別およびイスラム教恐怖症、と混同してしまっていることにある。イスラム教過激派による犯罪やテロ行為を指摘して批判することは決して個々のイスラム教徒への人種差別でもなければ人権迫害でもない。それを混同してしまうと今ヨーロッパやカナダで起きているような人権擁護法の乱用のようなことが起きてしまうのである。
さて、一宿一飯さんは、私がイギリスのブロガーがイスラム批評をして逮捕状が出たという話を紹介した時、ラディカルフェミニストのフィリス・チェスラー女史のブログからインタビューを引用したことに関して、ラディカル・フェミニストたちのイスラム教蔑視はごう慢であり、イスラム教を批判しているというだけで、カカシが嫌いなはずのラディカルフェミニストを好意的に扱うのは私のアメリカ的なごう慢の現れであるという意見を述べられている。
まず第一に、私はチェスラーなる人がラディカルフェミニストであるという事実は知らなかった。しかし彼女がもしラディカルフェミニストだとしたら、彼女のイスラム教批判は全く理にかなっている。なぜならば、本当に女性優先の思想を持つ人であるならば、男尊女卑の最たるものであるイスラム教を批判するのはごく自然だからである。ラディカルフェミニストと自称する人ならばイスラム教の厳しい掟を恐れるのは当たり前だ。なにしろ強姦された被害者がむち打ちの刑にあうようなイスラム圏国が存在するのである。このような宗教を恐れることはフォビア(恐怖症)などではなく当然な自己防衛的な警戒心である。
私は自分はフェミニストだとか女性救済を目的としているといいながら、敵の敵は味方というせこい考えで非常な女性迫害をしている過激派イスラム教を全く批判しないリベラルフェミニストのほうがよっぽども偽善的だと思う。カカシは自分とは全く意見の合わない人でも信念をもって自分の考えを貫き通すひとのことは尊敬する。それがラディカルフェミニストであれ、共産主義者であれ同じである。反対に言うこととやることが正反対の偽善者は軽蔑する。
一宿一飯さんは、私のパレスチナ人への批判的な考えを『「遅れた、未開な非西欧」に対する敵意』だと考えているようだが、私がパレスチナ人に批判的なのはイスラエルがガザを撤退して自治をする絶好の機会を与えられた時に、ハマスというテロ軍団を政権に選び、自治にはまったく無関心で、ただただユダヤ人殺しだけを念頭において、平和交渉に何度も応じているイスラエルに執拗にミサイルをうち続けているからである。パレスチナ人はアラブ諸国でも民度が低いという悪評の高い民族だ。これはカカシの人種的偏見でもなんでもない。パレスチナ人の子供たちが飢えで死ぬようなことがあったら、これは一重に戦争に明け暮れて自分らの子供たちの将来にむとんちゃくなパレスチナのテロリストどもの責任である。
さて、ここで一宿一飯さんの白人コンプレックスについて反論したい。

..経営者さんは苺畑さんを「アメリカ保守の真似をしている」と評されましたが、私は「大変日本人的な反応」だと感じているのです。

「遅れた、未開な非西欧」に対する敵意と「自分の愛するアメリカ・西欧・白人社会」に固執するが故の「国粋主義」、そしてそれは「自身が日本人であるから」ではないかと。苺畑さんにとって依然憧れの「他者」であるアメリカと言う国の言説は、相互に如何に食い違い、相反していてもそれが「西欧・白人社会・アメリカ」を肯定し補強する範囲においては「矛盾せず」、逆にそれらの価値を批判し、見直そうとする言説には無条件に「敵」のレッテルが貼られるのではないかと。
差別は廃さなければいけないが、それは別に「白人・男性・プロテスタント」の価値観を否定するものでは無い筈なのにこの扱いは何だ、と言うのと同じ感覚を日本人も、そして世界各地のモスリムも持っていると言う事です。
少なくとも私の眼にはネオコンサバティズムとラディカルフェミニズムの「傲慢さ」「愚かしさ」は同じものに映ります。それは一部にドメスティックバイオレンス常習者や過激主義者が居るからと言って「すべての白人男性」「すべてのイスラム教徒」そして「全ての日本人の男」は野蛮で旧弊で遅れていると決め付ける類の愚かさです。
私にとって新保守主義は「保守」でもなんでもない。西洋かぶれの妄言に過ぎません。自分達の文化を否定し、西欧に媚び諂い、彼等にほめて貰う為に他のアジア人を殊更に野蛮と蔑む態度の恥知らずさに「お前達はそれでも日本人か」と怒りたくなることは枚挙に暇がありません。

私はネオコンではない。宗教右翼とか孤立主義の旧保守派とも違うが、どちらかといえば旧保守派に近いと思う。私としてはネオコンはリベラルすぎると思うので。ま、それはいいのだが、この白人に対する羨望という意識は、はっきり言って一宿一飯さん自信の反影だという気がする。アメリカは移民の国であり、その市民の種族も多種多様である。確かに過去には有色人種が差別されるという風潮がなかったわけではないが、カリフォルニアのように出会う人の半分以上が外国出身といういうような社会に住んでいると、白人だから何か特別に偉いなどと感じることはまずなくなる。少なくとも私は白人がうらやましいとか白人になりたいとか思ったことは一度もない。
アメリカにはいい面もあれば悪い面もある。特に日本はアメリカのよくない面を輸入し過ぎると思う。日本の教育界やフェミニストなどが「欧米では〜がとても進んでいる。日本も見習うべき」などといって取り入れる概念が日本社会の役に立ったことなどほとんどないと断言できる。
アメリカに長年住んで、アメリカの保守派思想を取り入れたカカシがアメリカ人なら、アメリカでフェミニスト活動を長年つづけて左翼フェミニストとなった例の小山のエミちゃんも立派なアメリカ人だろう。一宿一飯さんが、欧米を一緒くたにして白人社会と呼んでいるのも、彼が白人はすべて同じだという人種差別意識を持っている証拠だ。
私が生きているのはアメリカであり欧州ではない。欧州とアメリカではその文化に雲泥の差がある。私が価値あるものとしているのは人種や性別や年齢にこだわらずに個人の才能で判断してくれるアメリカの自由主義だ。これは白人であるとかプロテスタントであるとかなどということとは完全に無関係だ。もっとも一宿一飯さんが自由平等は白人プロテスタント男性の専売特許だと言い張るなら、また話は別だが。


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ここまで来たイギリスの人権擁護法:イスラム批判で保守派ブロガーに逮捕状!

人権擁護法カテゴリーを新しく建設しました。海外における人権擁護法の悪影響や日本が海外から学ぶべき情報を特集しておりますので御覧下さい。*
瀬戸氏のところで、人権擁護法が日本でも浮上しているというお話を読んで、これは由々しき問題だと感じている。私は瀬戸氏の考えには100%同意しているわけではないが、この法律が人権弾圧に悪用される恐ろしい可能性を持つ法律であるという点には全面的に同意する。
日本よりも一足先に人権擁護法を適用したイギリスやカナダでは人権擁護法がイスラムテロリストや犯罪者によって悪用され、善良な一般市民の自由が迫害されているという話を私はこのブログでも何度かしてきたが、今回はイスラム過激派によって生活を台無しにされたイギリスの保守派ブロガー、ライオンハート(Lionheart)の話をしたい。
イギリスといえば、日本やアメリカと同じで自由な国であるはずだ。言論の自由、特に政治的な意見を述べることは国の法律が保証しているはず。誰も命の危険を感じずに思ったことがいえるのが自由主義国の特徴のはず。だが、イスラム過激派に乗っ取られつつあるヨーロッパ諸国では、いまや命の危険を感じずにイスラム批判をすることは出来なくなった。これらの国の政府は人権擁護法を使って命を狙われる市民の身を守るどころか、イスラム批判をする人間を「憎しみや暴力を煽る」という罪でかえって法的に罰するというひどい状況が起きている。日本も今、人権擁護法案が検討されているが、このような法律が適用された場合、これが市民の自由にどのような悪影響を及ぼすか、自由を愛する市民の皆様に肝に銘じていただきたい。
ライオンハートの実名はポール。彼はイギリスのルトン(Luton)の出身だ。このルトンという町は最近パキスタン系イスラム教移民やアルカエダ系の暴力団が多く住み着くようになり、麻薬売買や売春などが蔓延する非常に柄の悪い町と化してしまった。7/7のロンドン地下鉄テロの犯人たちもすべてルトン出身。ルトンには自爆テロを育てるような過激聖廟がいくつかある。
ポールは自分の住む町がイスラム系暴力団に乗っ取られていくのを憂いて、その暴虐の実態を記録し、警察に協力して麻薬販売者を逮捕する手伝いをしたりしていた。しかしポールによると腐敗した警察の内部からポールの本名が情報提供者としてイスラム系暴力団に暴露されてしまったという。
命を狙われはじめたポールは住処を追われ隠れ身となった。そしてポールは自分の身に起きた話を多くの人に読んでもらおうとブログを書きはじめた。これがイギリス警察にいわせると「憎しみと暴力を煽る」行為だというのである。
チェスラークロニクルのフィリスが行ったポール・ライオンハートとのインタビューによると、ポールは現在31歳。逮捕を目前に控えて、友人を通じてイギリスでも指折りの腕のいい弁護士を紹介してもらったという。またアメリカの弁護士も相談に乗ってくれているという。

フィリス: イギリスでは他のブロガーでこういう目にあったひとはいるの?

ポール: いや、ブロガーでは僕が初めてです。
フィリス: いったいあなたは逮捕されるようなどんなことを書いたの?
ポール: 僕は自分が住んでいるルトンとダンスタブル(Dunstable)のなかにある大きなパキスタンイスラム系居住区で起きている現場の様子をこと細かく書きつらねました。ルトンはご存じのように7/7自爆犯人の出発点で、国際イスラムテロリスト非常に多くのつながりがあるのです。僕はそのことについてブログに書きました。
僕は市街を仕切っている麻薬密売暴力団から命を狙われたため逃げなければなりませんでした。知り合いが僕の経験を書き留められるようにとブログを設置してくれました。それ以来僕は住所不定になり図書館や友達のインターネットを借りてブログを書き続けているのです。
フィリス: 「人種差別」の告発の背後にいるのは誰ですか?どうしてイギリス政府がその告発に対処することになったのですか?
ポール: 僕には全くわかりません。でもそのうちに明かになると確信しています。この「人種差別」告発は僕を黙らせるために利用されています。僕は僕をよく知っていてこの告発がどれだけ馬鹿げたものかを反論してくれる多人種の友達をいくらでも紹介することができます。僕の親友の一人は黒人です。僕にはユダヤ人の友達がたくさんいますし、僕はイスラエルのために命をかけることだってできる。オマー・バクリとアム・ハムザ(7/7事件の犯人)事件に関わったグレン・ジェニーも僕を応援してくれてます。
フィリス: ユダヤ人嫌いや反ユダヤ差別が人種差別だと理解しているなんて新鮮だわ。あなたはこの戦いには何がかかっていると思う?
ポール: 僕の自由、僕の命、僕が自分の身に個人的に何が起きているのか、僕の町で、僕の国で、そして文明社会で、西側諸国に仕掛けられたイスラム教聖戦について真実を語る自由です。さらに文明社会全体がかかっています。イスラム世界はユダヤ人種や西側諸国の完全破壊を唱えているのです。

にも関わらず、イギリス警察は西側社会を崩壊せよと唱えるイスラム過激派やイギリス国内の安全を脅かす当のイスラム暴力団を野放しにしてその悪行を暴いているポールを逮捕しようというのだから本末転倒だ。ポールはイスラム過激派が西洋社会を破壊し世界支配をしようとしていることは明らかであり、自分らの世代が戦わなければいったい文明社会の将来はどうなってしまうのだと問いかける。
ところで、ポール自身がニオナチだという噂がアメリカのブログ界でひろがった。その原因はポールが英国ナショナル党(BNP)というニオナチグループに同情的な意見を書いたことが何回かあることだ。確かに過去ログのなかにはBNPを支持するようなエントリーがあるにはある。ポールにいわせるとBNPはニオナチではないという考えらしい。彼自身はナチスを嫌っているし自分のブログにはキリスト教の十字架とユダヤ教のデイビッドの星を並べて「連合!」と書かれているくらいだから、彼自身がニオナチということはないと思う。しかし人種差別を糾弾する立場の人間が人種差別を売り物にしているようなグループと交友関係をもっているというのはちょっと問題だ。誤解を受けるようなエントリーがあったことも十分反省の余地があるだろう。
しかし仮に彼がニオナチでも、だったら彼の言論の自由は迫害されてもいいという理屈にはならない。ポールはイスラム教徒を一斉に狩出して皆殺しにしてしまえ、などと言ったわけではないのだ。実際に自分の住む地元でイスラム系暴力団によってどのような犯罪がおかされているかを暴露しただけなのだ。これがなんで「憎しみや暴力を煽った」などという罪になるのだ?「ニオナチのブロガーの身に起きたことだからどうでもいい」などと考えていると、次の逮捕状は我々に送られてくるかもしれないのだ。
人権擁護法などという法律が、本当に人権擁護になど使われた試しはない。どこの国でもこの法律が取り入れられると人権擁護と称した自由弾圧と人権迫害に悪用されるだけなのだ。イギリスしかり、カナダしかりである。
日本にはイスラム教テロリストなどいないから関係ないなどと考えるならそれはとんでもない思い違いだ。日本にも中国や東南アジアの暴力団関係者がいくらも入ってきているではないか。もし外国人暴力団によって脅かされている地元の日本人が地元の状況をブログに「うちの近所では中国系暴力団の経営する風俗店で麻薬売買が行われている。」とか「中国人らしいやくざな男たちが町を歩き回り、婦女子は恐くて通りをあるけない」などと書いたら、中国人に対する人種差別、「中国人への憎しみと暴力を煽る行為」といわれて告訴されるなどというシナリオは人権擁護法の下では十分にあり得ることなのである。
こうした西側諸国の前例から日本の人々もよく学んでいただきたいと思う。
人権擁護法断じて反対!
関連エントリー:
カナダ:イスラム批判は人権迫害? 
カナダ:イスラム批判は人権迫害? その2
人権保護という名の言論弾圧


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サルコージ第二の試練、パリの暴動

やっと鉄道労働組合のストライキが収まったと思ったら、今度はパリの暴動。酔っぱらったアフリカ系イスラム移民二人が警察のオートバイにぶつかって死んだのをきっかけに始まったこの暴動は2005年の時よりも大規模なものだという。

2005年の3週間に亘る暴動の最初の数日間よりも、或る意味この暴動はより悪質なようだ。当時、若者達はバラバラのようで、彼等の破壊はほとんど投石や放火によるものであり、車のような一番身近で一番簡単な標的が狙われていた。今回は猟銃、ガソリン爆弾、石が警察に向けられている。

「現場にいた同僚から聞いたところだと、これは2005年に我々が目撃したものよりも遥かに酷い状況だ」と警察官で組合幹部のPatrice Ribeiroが火曜日にRTLラジオに語った。
「昨夜は一線を越えた。要するに、彼らは武器を使ったんだ。彼らは武器を使って警察に発砲した。これは本物のゲリラ戦だ」。
Ribeiroは、過剰な武力を避けようと必死になっている警察も、いつまでも応戦せずに打たれっ放しではいない、と警告した

 (強調はカカシ)
サルコージ大統領は選挙の際にフランスの経済を立て直し、フランスに法と秩序を取り戻すと公約した。就任後のサルコージはここ6か月間、経済面に力を入れてきたようだが治安については特に新しい対策をとってきたわけではない。フランスのイスラム系暴徒らがここまで凶暴化したのも先のシラク政権が移民の気を損ねるのを恐れて何も対策をとってこなかったことにある。2005年の暴動でも警察はほとんどなにもせずに傍観していただけだ。
今回の暴動でも明らかなように、暴徒の行動は日増しに悪くなるばかりである。すでに今回は保育園に火がつけられ、駆け付けた警察や消防隊に暴徒が狩猟用ライフルを発砲するなどといった行為が連続した。このような行為を放っておけば単なる暴動が、自動車爆弾テロにエスカレートするのは時間の問題だ。このままではフランス各地で国内イスラム暴徒によるテロ多発が起きる可能性は非常に高い。
内政省時代から若者の暴力沙汰には強気な態度をみせてきたサルコージだが、大統領となった今、本気でこれらの暴徒を鎮圧するだけの勇気がサルコージにあるだろうか? ストライキ打破に続いて、今度はパリの治安維持。サルコージのお手並み拝見といったところだ。


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ヨーロッパの中国離れ、でもフランスは武器を売りたい

最近中国というと悪い話ししかきかないが、これまで比較的中国には穏健だったヨーロッパでも中国離れが起きているようだ、喜多さんが翻訳しているこの「『中国への密月』は終わった」という記事でその傾向が詳しく説明されている。
今週北京で第十回EU中国サミットが行われるそうだが、これまでと違って参加者の間ではかなり緊張した雰囲気が高まっているという。ヨーロッパによる中国に対する印象が悪化した理由は対中赤字や中国政府のスパイ行為、人権問題など多くある。

中国への前向きな世論の認識はこの一年間で劇的に下がった。フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、イギリスでの世論調査では、20%から15%に下がっている。これは主に仕事のアウトソーシングと、EUの膨れ上がる対中赤字の結果である。対中赤字は一時間毎に€1,500万ずつ増えており、2007年は2006年の€1,280億から€1,700億以上に上りそうだ。

ヨーロッパのムードは、中国の産業スパイ事件やドイツ首相事務所やイギリス外務省(そして米国防総省)のコンピューター・ネットワークへのハッキング事件にも影響を受けている。
また、中国での、特にチベットでの人権侵害への懸念も同様だ。
ヨーロッパ企業も中国への不満の声を益々高めている。様々な差別的貿易および投資行為は、中国にあるヨーロッパその他の企業を苦しめており特に知的財産権の盗難や、中国金融サービス業、流通ネットワーク、そして保護対象産業への市場参入障壁が挙げられる。

ヨーロッパの中国に関するムードが悪化している徴候は去年の暮れに発表された欧州委員会の中国に関する「コミュニケーション」や欧州理事会の「結論」調書や今年初めの悲観的な「中国戦略文書」などに現れているという。
またヨーロッパの政権交代でこれまで比較的親中国だった政治リーダーたちが去ったこともヨーロッパの中国離れの要因になっているらしい。この中国への険悪ムードは、中国からの粗悪品流入や貿易赤字、スパイ行為、そしてこの間の香港でのバトルグループ寄港拒絶など、中国からのあからさまな敵意などでかなり頭にきているアメリカのムードと一致しているらしい。
もっとも比較的親米といわれるフランスのサルコージ新大統領は、中国訪問の際にアメリカが先導している中国への武器輸出禁止問題については輸出禁止を解禁すべきだという意志をあらわにしており、前首相のシラクよりは中道派とはいうものの、まだまだ武器輸出で金儲けをしたいお腐乱すフランスの中国市場への姿勢はかわらないようだ。しかしそれに関してフランス各紙がサルコージ大統領が中国に「へつらっている」と一斉に批判しているのはちょっと面白い。


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前代未聞! ストライキを破った仏サルコージ首相

フランスの新しい首相、ニコラス・サルコージは本気でフランスの暴走している年金問題に取り組むと公約した。しかし前首相のシラクなども年金問題を改良すると公約しながら労働組合のストに会って怯んでしまった例もあり、サルコージがどれだけ強力なフランスの労働組合に立ち向かえるのか多くの市民がサルコージの信念の強さに疑問をもっていた。
そのサルコージの信念を試す時がついに訪れた。11月に入ってフランスでは鉄道労働組合を中心とする大規模なストライキが行われたのである。

パリ:フランスはもう一週間以上にわたってサルコージ首相の経済改革に抗議したストライキで麻痺状態にある。ノアの箱船よろしく労働組合の抗議はフランスでは通常の鉄道、公務員、教員、の他に看護婦、タバコ店経営者、空港職員、漁師や劇場の大道具係までが一緒になってのストである。

この木曜日、フランスの大学半分は抗議者によって休校となり、弁護士や裁判官らまでが仕事から離れると異議申し立てをしたほどだ。
デモ行進による交通混乱はまるで過去の革命を思い出させる。しかし今回はなにかが違っていた。

その違っているものとは何か? それはこのゼネストに一般市民からの支持がほとんど得られなかったということである。通勤の不便を感じているビジネスマンや中間試験を逃した大学生など、フランス市民はこれまでと違って、50歳でそれまでの給料相当の年金がもらえるようになる贅沢すぎる年金プログラムを維持しようという労働組合の姿勢にあからさまな反感を見せている。
フランスでは黒い11月(Black November)といわれ、政府が新しい方針を打ち出す度に労働組合による大規模なストライキがおき、政権はそれに負けてあきらめるというやり方が、1968年以降何度も繰り返されてきた。フランスの経済方針はこのやり方で何十年も続いてきたのである。
しかし今回はサルコージの全く怯みを見せない態度とそれを支持する市民の声に労働組合もじょじょにあきらめを見せ、22日の木曜日には多くの労働者がストをやめて職場にもどった

組合のリーダーたちは昨日敗北をみとめた。「我々は現実を見つめなければならない。事情が変わったのだ。ストライキはもう解決方法ではない。スト作戦では勝てない。」とパリの地下鉄従業員を代表しているサッド連合のリーダー、Philippe Touzet氏はブルームバーグニュースのインタビューで語った。

これはサルコージ首相の最初の大勝利である。フランスの労働者にストライキは解決方法ではないと認めさせるとは、フランス首相としては前代未聞である!
ストライキを破って政権の方針を貫き通した例としては、過去にイギリスのマーガレット・サッチャーやアメリカのロナルド・レーガンがあるが、サルコージの名はフランスの悪名高い労働組合のストを破った例として歴史に残るだろう。
フランスといえばストライキというイメージがあるほど、フランスの労働組合の強さは有名だが、昨今組合は結構フランス市民からの支持を失っているようだ。実際にフランスで組合に属している人口はたったの7%なのだそうだ。これならアメリカのそれよりずっと低い。しかも最近は組合のなかでも理想派と現実派でかなり分裂が起きているという。
大学などでも学生組合のメンバーはゼネスト参加に反対したにもかかわらず、過激な学生らによって学校全体が閉鎖された学校もあり、伝統的に左よりで労働組合に同情的だったフランスの学生らもフランス経済はこれまで通りではなだめだ、改革が必要だという現実路線に移行しているようだ。
むろんそういう背景があるからこそ、保守派のサルコージが首相に選ばれたわけだが、選挙時の公約と実際の方針とが噛み合ないのはよくあること。それをサルコージが先ず最初の試練に打ち勝ったというのは非常に大きな意味がある。


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デンマーク、反イスラム過激派運動員、イスラム暴徒に襲われる

デンマークに、Stop Islamisation of Europe(ヨーロッパのイスラム化を止める会)という市民団体があるが、彼らが先日コペンハーゲンでデモ行進を行う直前、運転中の二台の車が襲われ、運動員四人がイスラム系暴徒に鉄パイプで殴られ重傷を負という事件があった。下記は彼らのサイトからで、けが人の写真が何枚か掲載されている。彼らは主流メディアはこの事件を完全に無視しているか、歪曲した報道をしていると書いている。ことのいきさつは下記のとおり。
10月21日、SIOEはコペンハーゲンでデモを行うと発表した。デモが始まる前に主催者のアンダース・グラヴァースさん(Anders Gravers)はもうひとつの車の後をついてミニバンを指定された場所に駐車すべく運転していた。バンには74歳の婦人ともうひとりのメンバーが乗っていた。
アンダースさんが車を止めて車から出ようとしたとき、突然フロントガラスが何者かによって割られた。二人のイスラム系暴徒が「車からひきだせ!」と大声をあげてアンダースと隣に乗っていた乗客を助手席側の窓を割って鉄パイプで殴りだした。老婦人はソーダの入っているビンで頭を殴られた。
アンダースさんは暴徒の顔を足で蹴り、車から消火器をとりだしもうひとりの暴徒の肩を激しく打った。後になってわかったことだが、どうやら暴徒はアンダースさんを刺し殺そうとしたようで、アンダースさんのシャツにはいくつも切った後があった。しかしアンダースさんはシャツのしたに防弾チョッキをきていたためナイフによる怪我は免れた。
突然暴徒はいなくなったが、もうひとりの男性のメンバーは4~5人の暴徒に鉄パイプでなぐられ道端に倒れていた。彼も何度か刺されたがチョッキのおかげで命は取り留めた。アンダースの前の車に乗っていた婦人は混乱して暴徒の指図どおりに車からおりてしまったため、逃げようとしたところをやはり鉄パイプで殴られた。
おどろいたことにアンダースさんは怪我にもかかわらず、デモ行進に参加したという。この程度のことでは黙りはしないという信念からだ。
デンマークでのイスラム教移民による暴虐はここ数年かなりひどくなっているようだが、左翼の政府がこうした犯罪者を取り締まるどころか、過激派に怯えて彼らに迎合するような態度ばかりをとるため、過激派はどんどん図にのって一般市民を苦しめている。
SIOEのようなグループの活動は、今回の事件でもわかるように、すでに命がけのものとなっている。もし彼らがいまのうちにこの戦いに勝たなければ、デンマークに言論の自由など存在しなくなってしまう。それにしても、このようなグループがデモ行進をするのに警察の警備はなかったのだろうか?アンダースさんは携帯電話のシグナルが届かず、警察を呼べなかったと言っているが、アメリカの場合、どんなグループでもあらかじめデモ行進は許可が必要で、そのイベント次第で規模は異なるが、必ず警察がたちあうことになっている。特にSIOEのように過激な敵の多い団体がデモをする場合には群衆規制をする機動隊が出るのは普通だ。
もし、デンマーク政府が反イスラム過激派のデモ行進に対して消極的だというのであれば、主催者側は参加者の警備に対してもっと積極的な態度をとるべきではないだろうか?アンダースさんや他のメンバーが防弾チョッキを着用していたことからして、彼らはそれなりの危険を感じていたはずである。だとしたらもう一歩進んで、ボディガードを付けるとか、自分なりに武装するとか何かしら考えるべきである。
彼らは今回のことで、相手が待ち伏せや暗殺を使ってまで、反イスラム過激派を黙らせようとしていることを充分に学んだはず。今後はブラックウォーターの警備員でも雇って身を守ることを考えて欲しい。
いったいデンマーク政府は誰の味方なのだとききたい!


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