ポリコレのせいで意地悪度が激減してしまった意地悪な少女たち、ミュージカル映画ミーンガールズ

ミュージカル「ミーンガールズ(意地悪な少女たち)」を観て来た。この映画は2004年の同名の映画のミュージカル版である。ミュージカルとしてはブロードウエイなど舞台ですでに公開されており、日本でも元アイドル歌手の生田絵梨花主演で2023年初期に舞台になっている。

あらすじ:動物学者の母親とケニアで暮らしていたケイディは16歳でアメリカに帰国し、高校に通う事になる。これまで自宅学習をし、学校に通ったことがないケイディは初めての学校生活に緊張気味。なかなかみんなに馴染めず、浮いているケイディに話しかけたのは顔にピアスをしているちょっと変わった感じのジャニスという女の子とゲイ男子デミアンの二人。二人からは、学校には派閥があり、特にヤバいのはプラスチックスという学校のアイドル的存在の女子三人組であると教えられる。

プラスチックスのボスのレジーナはこの学校では女王様のような存在。何故かそのレジーナから一週間だけ一緒にお昼ご飯を一緒に食べてもいいと言われるケイディ。ケイディは戸惑いながらも仲間に加わる。しかしすぐにケイディは自分が数学の時間に一目ぼれしたアーロンがレジーナの元彼氏だったことを知る。レジーナはケイディの片思いに気付くとアーロンをケイディの目の前で誘惑し奪ってしまう。

傷ついたケイディはジャニスとデミアンに相談。二人はケイディはプラスチックの仲間になったふりをして秘密を探ってレジーナに仕返しをしようと提案。ケイディはうまくレジーナに取り入ってプラスチックスを内部から破壊を試みるのだが、、あらすじ終わり

私はアメリカで高校に行ったことがないので、アメリカの高校がこんなにも風紀が乱れているとは信じがたいのだが、先ずプラスチックスの少女三人組の服装の露出度が凄い。この三人はスタイルも抜群で特にリーダーのレジーナの体型は素晴らしく肉感的。その彼女たちが胸もあらわなぴちぴちのドレスで歩き回るのだからすごい。ジャニスとデミアンが学校内での派閥を色々説明するが、一つのグループはいちゃいちゃグループで、学校の食堂でどうどうとディープキッスをしていたりする。まあ映画だから誇張されてはいるのだろうが、今やアメリカの高校では生徒同士の性行為など普通らしい。「今や」って元の話は2004年だから、もうそんなのは普通なんだろう。

オリジナルの2004年の映画はミュージカルではなかったので、この映画はリメイクとはいえ別の媒体になっていることでもあり、色々比べるよりミュージカルとして楽しい作品になっているかを評価すべきだと思うのだが、やはり批評家たちはオリジナルと比べて遥かに劣るという意見で一致している。

私はオリジナル映画を2004年に観たが、20年も前のことだし、そんなに印象に残っていなかったので詳しいことは覚えていない。なのでこのリメイクはまあまあの出来だったのではないかと思っていた。しかし当時10代でこの映画の大ファンだった人たちからすると、このリメイクは許せないほどポリコレ改造されているのだそうだ。

実はこの映画オリジナル公開当時、ティーン女子の間でものすごい人気となり、所謂カルト映画になっていた。それで映画内のセリフなどが学校で流行り言葉になったりしていたのだそうだ。当時の10代女子のファン達は台詞全てを暗記するくらい何度も映画を見ており、この映画の隅々まで知り尽くしているというわけ。そういうファンが沢山いるなかで、ミュージカルとはいえリメイクとなると作品の出来は魚の目鷹の目で見られてしまう。

脚本はオリジナル同様ティナ・フェイというコメディアン・女優・脚本家であり、彼女は元映画と同じ主役のケイディの担任教師役である。同じ人が脚本を書いているとはいえ20年も経つと政治的状況はかなり変わっている。なにせいまや多様性の時代だから。

それで無論登場人物の人種も多種多様となる。先ず元映画では白人男性だったデミアンが黒人に、プラスチックスの一人カレンはインド系。まあ2024年だからこの辺の人種変更はしょうがないとして、問題とされるのはジャニスがレズビアンとして描かれていること。

元映画ではジャニスはレバノン出身でレバニーズ(レバノン人)だと名乗っていたのに、プラスチックスの無知な女子たちはそれをレズビアンだと間違えて彼女を何かとレズだと言ってからかうというシーンがある。ジャニスは異性愛者なのでこれが気に入らない。しかし、リメイクでは彼女がレズビアンという設定になっており、それをからかうというのは悪趣味ということなのか、意地悪な少女たちの誰もそれを口にしないのだ。

人種を扱ったジョークも削られている。ケイディ―はアフリカからの転校生なので、レジーナが「どうしてアフリカから来たのに色が白いの?」などと聞くシーンがあったそうなのだが、今回はそれはない。というよりケイディがアフリカ出身ということでからかわれるというシーンはほぼ見られなかった。出身国を理由にからかうのは人種差別になるからだろうか?

しかしこうなってくると、意地悪な少女たちが他の子たちを虐める材料があまりない。他人をブス扱いするとかオタク扱いするとか、というシーンもそんなになかったし。となると一体彼女たちの何がそんなに意地悪なのかという話になってしまう。

またハローウィンでの衣装についても批評家たちは手厳しかった。2004年ではハローウィンは少女たちが大っぴらにセクシーな恰好が出来る日だという暗黙の了解がある。それを理解せずに実際に怖い仮装で現れたケイディ―は浮いてしまう。しかしここでも女子たちの露出度の高い行き過ぎた衣装はフェミニストの規制がかかったのか、かなり大人しいものになってしまっているというのである。保守的な私の目には十分セクシーに見えたのだが。

さて、ここまでは私の感想ではなく、他の元映画ファンたちによる批評だが、ここからは私が気になった点について述べよう。先ず主役のケイディにもレジーナにも父親の姿が観られない。元映画ではケイディは父親の仕事の関係でアフリカで育った設定になっていたが、今回は母親が動物学者という設定で父親は出てこない。レジーナにも父親が居たはずだが、今回は姿が見られなかった。二人とも母子家庭にする意味は何だったんだろう?

私は昔からミュージカルには非常に甘い。もし歌と踊りのレベルが高ければ、筋など申し訳程度のものでも許してしまうたち。それに元映画をそんなに覚えていなかったので、元との違いは全く気にならなかった。出演者たちは皆歌がうまい。特にレジーナ役のレネー・ラップの歌唱力は素晴らしい。彼女はブロードウエイで同じ役を演じたのだそうだ。道理でうまいはずである。

映画が最初からジャニスとダミアンの歌で始まるが、この二人もいい。主役はケイディだが、ジャニスAuli’i Cravalhoが一番いい歌を歌っている。彼女の歌唱力は力強く素晴らしい。かなりの役得。

踊りも結構前面に出ており良かったと思う。

ただ、後で言われてい気付いたのだが、観ている間は歌も踊りもまあまあ楽しめたにもかかわらず、映画が終っても一つもメロディーを思い出せない。良く出来たミュージカルの場合は、帰り際に鼻歌を歌いたくなうくらい一つくらいメロディーが頭に残るはずである。例えばこの間観たウォンカならピュアイマジネーションやウンパルンパの歌、キャッツならメモリー、レミゼラブルなら民衆の歌といったように。残念ながらこの映画ではそういう歌は一つもなかった。

ところでこれは最近のハリウッド映画の広告のやり方らしいのだが、どうもミュージカル映画をミュージカル映画だと解るように予告で宣伝しないのが普通になっているらしい。実をいうと私はこの間観たウォンカとチョコレート工場の始まりがミュージカルであるとは知らずに観に行き、冒頭から主役が歌い始めてびっくりした。この間公開されたカラーパープルも予告編ではミュージカルかどうかわからない。今回のミーンガールズも姪っ子がブロードウェイのミュージカルファンでなければ知らずにただのリメイクだと思って観に行ったかもしれない。

どうもハリウッドはミュージカル映画は人気がないと思っているらしい。しかし、普通の映画だと思って観に行ったのにミュージカルだったら、ミュージカルファンはいいが、そうでない人は失望するのではないか?どうもこのマーケティングは理解に苦しむ。


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テキサスの高校、男子自認の女子生徒が男役から降ろされた事件、日本文化との違いを考える

アップデート:11月17日現在。この学校はあまりにも批判を浴びたため、女子生徒は主役に返り咲いた。Transgender student reinstated to role in Oklahoma the musical following uproar (msn.com)

11月11日

先日テキサス州の高校で、男子を自認する女子生徒が学校の演劇部で上演する「オクラホマ」の主役に選ばれたのもつかの間、最近出来たテキサスの条令で男子と女子の違いは生得的性で分けられるという規則に従って生得的女子である彼女は男役から降ろされるというニュースを読んだ。これはちょっとやり過ぎだろう。その規則はスポーツ競技やお手洗いや更衣室に関する規則であり、演劇部での配役にまで影響があるというのはおかしくないか?

実は私は随分前からアメリカの方が日本よりも男と女という性別のステレオタイプに拘りがあるように感じていた。特に同性愛について寛容であるようで、実はそうでもない。

この間も書いた通り私は高校時代に演劇部に所属していたが、うちの高校は女子の数が男子の数より圧倒的に多く、その比率は4:1だった。それでクラブ活動では男子はほとんどスポーツ競技に取られてしまい、演劇だの合唱だのといったクラブには男子が入ることは先ずなかった。しかし当時は宝塚が大人気の頃である。我々も宝塚のようなロマンチックなお芝居をしたいと思うと、どうしても女子が男役をやるしかない。それで声もひくく男っぽく見えた私は当然のことながら男役を演じる羽目になった。(別に嫌ではなかったが)日本には女子校や男子校が多いので、異性の役を演じることに違和感がない。だいたい歌舞伎や宝塚が日本の文化として受け入れられているのだから当然と言えば当然のことだろう。

ところが欧米社会にはこういう伝統がない。シェークスピアの時代には女性が舞台に立つのは破廉恥であるとして男性が女性役を演じていたが、それも次第に女優の登場で廃れていった。今やシェークスピアも女性役は女性が演じている。そして何故かそうなってしまうと異性を演じるのはオペラの少年役を女性歌手が演じる時以外はほぼタブーとなってしまった。何故なんだろう?

何十年も前のイギリスの映画で、主役の男性が恋に落ちた女性が実は男性だったという筋の話があった。私はその映画を観た時、この「女性」が最初にシルエットで登場した時から、この俳優は男だと解っていた。しかし非常に美しい人だったので女役を演じているのだろうと思っていた。そしたら映画の真ん中あたりで実は男性だったということが暴露され、主人公が大ショックを受けるというシーンが出て来た。私はこの役柄が女性だと思っていたので驚いたが、この俳優をずっと女優だと思い込んでみていた他の観客たちがハッと一斉に息をのむ声が聞こえ、彼等がいかに驚いたかが察せられた。後で一緒にいた男友達にその話をすると「いや、男が女役を演じるなんてあり得ないよ。僕はすごくびっくりした。てっきり女だと思っていた」と言われた。

アメリカでKPopが人気を博する以前は、日本のジャニーズのようなボーイバンドは「女々しくて気持ち悪い」と思われる傾向にあった。今ではあまりあからさまにそういう表現をする人はいないが、ちょっと前までは少しでもなよなよした男に向かって「ゲイ!」と言って蔑むのは結構普通だった。まだガラケイ電話が普通だった頃、私の同僚アメリカ人男性が日本人の恋人からもらった飾りを携帯に付けてもっていたら、他の同僚から「ゲイ!」といってからかわれていたくらいだ。

それでふと思ったのだが、もしかして今のアメリカのトランスジェンダリズムはこれらのステレオタイプに対する反動なのではないだろうか。男が女っぽかったり女が男っぽかったりすると何かおかしいという先入観が強すぎるから、ちょっとでもその枠に嵌らないと自分は異性なのではないかと思い込んでしまうのかも。いや、異性であると言い放てば自分の趣味を大っぴらにしてもゲイだのなんだのからかわれずに済むという考えなのかも。裏を返せばアメリカって今でも同性愛者に対する非常に根強い偏見を持っているという意味なのではないだろうか。最近同性愛者の間でトランスジェンダリズムほどホモフォビアの概念もないと言われるようになったのはそういうことなのかもしれない。

スポーツやトイレや更衣室で男女を分けるのは当然のことだが、演劇に関してはその役に一番合った人が演じればいい。トランスジェンダーだろうと何だろうと役柄として成立すればそれでいいのではないだろうか?


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千と千尋の神隠し、メッセージが良く分からない舞台版

アマゾンプライムでミュージカルを探していたら、「千と千尋の神隠し」舞台版があったのでストリームで観た。これはジブリの同題名のアニメ映画の舞台化だ。メインの役はすべてダブルキャストだったが、私は橋本環奈の千尋、醍醐虎汰朗のハク、夏木マリの湯ばあば、妃海風のリンといった顔ぶれで観た。

私がこのアニメ映画を観たのは公開当時一回キリなので細かいところは忘れてしまったが、当時はアニメ映画としては史上最高の売り上げだったような覚えがある。アメリカでもこの映画はSprited Away(神隠し)という題名で人気があった。

私が覚えている限り舞台は映画の筋をそのまま追っているように思えた。ざっとあらすじを言うと、10歳の少女荻野千尋は両親と共に引越し先のニュータウンへと車で向かう途中、父の思いつきから森の中の不思議なトンネルから通じる無人の町へ迷い込む、町はなにか時代遅れの派手な建物が並んでおり、父親はバブルの頃に沢山あちこちに建って潰れたテーマパークの廃墟だろうと言う。誰も居ない町なのに何故か一軒だけ開いている食べ物やがあり、千尋の両親はその匂いに魅かれてがつがつと並べられていた食べ物を食べてしまう。すると不思議、両親は二匹の多き豚に変身してしまったのだ。千尋たちはトンネルをくぐって八百万の神々が住む別世界に迷い込んでしまっていたのである。

白龍になったハクを助ける千尋(橋本環奈)
白龍になったハクを助ける千尋(橋本環奈)

そこに平安時代の子供のような恰好をした少年ハクが登場。千尋は一旦は戻れと忠告されるが、親を救うためにこの世界に残る決心をする千尋に、ハクは湯ばあばのところへ行って仕事をしたいと言えと助言をする。千尋は湯ばあばが経営する湯屋で下働きをしながらどうやって両親を救うか考える。

とまあこんな感じで話は始まる。元々がアニメのファンタジーであるから、ジブリの世界を舞台にするとなるとかなり大変だ。それで背景にはスクリーンを使って動画を映し出し、冒頭の車に乗っているシーンなどは背景に景色が映し出されてそれがどんどん動いて車が走っている感じを出していた。

湯屋の舞台装置もかなり凝っていて湯ばあばの部屋になったりお風呂場になったり番台になったりする。湯屋に勤める下働きの女中たちや使用人の男たちなどアンサンブルの数はかなり多い。

色々でてくる妖怪たちは大きいものは着ぐるみ、小さいものは浄瑠璃のような人形で黒子の人形遣いが人形の後ろで台詞を言う。また窯爺という腕が何本もある妖怪は後ろ側に何人もの人が居てそれぞれの腕を演じていた。

面白いと思ったのは、映画のような特撮は一切なく、ケーブルも使わず、千尋が水のなかで動き回ったり、龍となったハクの上に乗って飛ぶシーンでは黒子たちが彼女を持ち上げ何人もで千尋を移動させ、あたかも彼女が水に浮いている感じや空を飛んでいる感じをだしていたことだ。

千尋役の橋本環奈は元気一杯で一生懸命やってる感じが伝わって来て好感が持てる。全編ほとんど出っ放しなのでこれはかなり大変だ。私が一番気に入った役柄は妃海風(ひなみ ふう)演じるリン。彼女は湯屋で千尋を子分のように受け入れて色々教えてくれる姉御肌の女性だ。女なのにずっと男口調で全く女らしい仕草をしない。まるで宝塚の男役みたいだなと思っていたら、案の定妃海風は元宝塚女優だった。あ、やっぱり。夏木マリの湯ばあばは味があって面白いが、あの大きな顔を被っているので表情がちょっとわかりにくい。

ただミュージカル調ではありながら何故か主要人物は誰も歌わないし踊らない。歌や踊りはあくまでアンサンブルの人たちがする。私はこれはちょっと不満だった。この話はミュージカル要素がいくらもあるし、せっかく歌手が何人も出ているのだから歌わせないというのも変な話ではないか?

舞台は映画の筋を忠実に追っているようには見えたが、どうも私が映画を観た時に比べて何がいいたいのかよくわからない。千尋が神々の住む世界に迷い込んだのは分かるが、どうすれば親たちを救えるのかがはっきりせず、なにか行き当たりばったりのことをしている感じがするのだ。「かおなし」や坊や沼の神といった登場人物はそれなりに面白いが、一体彼等は何のために出て来たのだろうか?ストーリー上の彼等の役割がはっきりしない。

私の記憶では原作では環境汚染への批判メッセージがかなり強かったように覚えている。だが舞台版ではあまりそれには触れていない。それでハクのキャラクターがあまり生きていない気がする。彼が自分の名前を忘れた理由や、なぜ湯ばあばの弟子になったのかなど、ちょっと動機がよくつかめない。

最終的に千尋は両親を取り戻して元の世界に帰ることが出来るのだが、なぜ湯ばあばがそれを許したのかどうも解せないのだ。もっと湯ばあばと取引でもして試練を与えられ、それをこなした結果帰れるとかいう設定のほうが自然である。

湯婆婆の夏木マリ
湯婆婆の夏木マリ

色々不満はあるが、全体的には楽しい舞台だった。実際に生で観たらもっと迫力があるんじゃないかと思う。もしリバイバルを観る機会があれば皆さまにはお勧めする。


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サンセット大通り、最初からネタバレなのにやっぱり理解に苦しむエンディング

サンセット大通りは1950年に公開されたフィルムノワール風につくられた大傑作映画である。(ビリー・ワイルダー監督、ウイリアム・ホールデンとグロリア・スワンソン主演。)

この映画の特徴は冒頭でネタバレがあることだ。ハリウッドの豪邸のプールに浮かぶ一人の若い男の死体。この男がホールデン演じるジョー・ギルス。男を殺したのはこの豪邸の持主で元大女優のノーマ・デズモンド。この物語は中年の女が若い男を殺して終わることは分かるが、どうしてそんなことになったのか、その話は数か月前にさかのぼるのだが、その解説をするのがなんとプールに浮かんでいる男その人なのである。

実は今日私がお話したいのは映画の方の感想ではなくこの映画を元にしたアンドリュー・ロイド・ウエバーによるミュージカルの方である。しかし筋は映画を忠実に再現しているので、どちらの話も一緒にして差し支えないだろう。

私がこの映画を観たのはもうずいぶん昔だ。とはいっても公開当時はまだ生まれていなかったので観たのは大人になった80年代だ。それでもちゃんと映画館で観た覚えがあるので、多分どこかの名画座あたりで観たのだろう。

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グロリア・スワンソン(映画サンセット大通りより)

ミュージカルの方は1994年のブロードウェイバージョンをグレン・クロースとアラン・キャンベル主演でロサンゼルスでミスター苺と一緒に観た。残念なことに私は当時この作品の偉大さに気付かなかった。後に私はイレイン・ぺージの歌を(https://youtu.be/zlk-gj5Ukes?si=bHWpWxgKU3Irr1K)動画で見て、あれ?これってかなりいいミュージカルなんじゃ、、と思い直したのだ。で、今回私が観たのはコンサートでイギリスのウエストエンドでのオリジナルキャスト、パティ―・ルポーンとケビン・アンダーソン主役のバージョンである。(1993年)

話の舞台は1950年代のハリウッド映画界隈。舞台でも出だしは映画と同じでジョーがプールに浮かんでいるところから始まる。ここは映画のようにフィルムで紹介されるが、その横でジョーが立って話を解説し始める。

ジョー・ギルスはハリウッドで脚本家として一旗揚げようと一年くらい前にやってきた。いくつか低予算映画には採用されたりしたが、今は全く仕事がない。壁紙の禿げた安アパートで暮らし毎日借金取りに追われている。色々エージェントや伝手をつかって仕事得ようとするが全くうまくいかない。

この状況が「Let’s have lunch」という最初の曲で説明される。ハリウッドでは持ちかけられた話を適当に誤魔化すためにこの「いつか昼食でも取りながら話そう」と言うのが定番と言われている。実際に話すつもりなら、その場で話すのが筋なわけだから、「まあそのうちに」とか言われている間はまるで希望がないと言えるだろう。この曲の間にスタジオで衣装を来た人たちが行きかい、二階建ての舞台の上の方でコーラスガールたちがリハーサルをしている姿がえがかれる。スタジオ内のばたばたとした忙しさのなかにジョーの絶望感と借金取りにおわれる緊迫感が感じられる。

そんなある日、借金取りから車で逃げている最中に道に迷ってとある屋敷のドライブウェイに迷い込んでしまう。そこがサンセット通りにあるノーマの屋敷である。ペットのチンパンジーのお葬式をしようと葬儀屋を待っていた屋敷の主に葬儀屋と間違われて屋敷内に案内されてしまう。屋敷の女主人が無声映画時代の大スターだったノーマ・デズモンドであることに気付いたジョーは「あんたは昔大物だった」と言うと、「私は今でも大物だ。小さくなったのは映画のほうだ」と答えるノーマ。ここでノーマの最初のアリア「With one look」が始まる。ここで女優は観客の心をつかむ必要があるが、ルポーンは見事にそれをやってのける。この歌でノーマの自分の昔のイメージへの狂気的な執着度がうかがわれる。

誤解が溶けてジョーが脚本家であることを知ったノーマは、自分が書いたというサロメという分厚い脚本をジョーに渡し、それをなんとかきちんとした脚本に書き換えてほしいと仕事の依頼をする。その間ノーマの屋敷の離れに住むと言う約束で。ミュージカルでは説明がないが、映画ではノーマはジョーに黙ってジョーのアパートの家賃を支払ってジョーの荷物をすべて屋敷に移してしまう。ここですでにノーマによるジョーへのコントロールが始まっているのである。

ノーマは大きな屋敷に侍従のマックスと二人暮らし。トーキーになって20年以上も経っているというのに、無声時代の自分の名声にしがみつき、時代の流れに全く順応できていない。ノーマに献身的に尽くすマックスは、ノーマの幻想を壊さないためにせっせとファンレターを書き続けている。ノーマと毎日のように脚本を書く日が数か月続き、毎日高級料理をたべ上等のシャンパンを飲み高価なスーツまで買ってもらうジョー。大晦日にノーマはパーティをすると言ってジョーを相手にタンゴを踊る。そして如何に今年が完璧な年だったかをジョーに囁く「Perfet year」。しかし踊っている最中にノーマから愛の告白をされたジョーは息の詰まる思いでノーマの求愛を拒絶する。そして若い仲間たちのいるハリウッドスタジオへ向かう。

スタジオで大晦日のパーティーに参加したジョーは友人の婚約者であり以前に少し話をしたデミル監督の元でスクリプトガールをしているベティと再会し、一緒に脚本を書かないかと提案される。彼女の提案をうけ、やはり屋敷は出ようと決心したジョーはマックスに電話をしてその旨を告げようとするが、その時ノーマがカミソリで手首を切ったと知らされる。急いで屋敷に戻ったジョーは、ノーマの哀れな姿に罪悪感と同情心が混ざりノーマに口づけをする。ノーマはジョーの襟首をつかみ引き寄せ、しっかりとジョーの首に手を回す。もうお前を離さないとでもいうかのように。

自分の命を人質にとって男を引き留めようとするやり口は汚い。しかしジョーもその手口には気付いたはずだ。ジョーのこの口づけはジョーの無条件降伏でもある。俺はこの女から逃れられないと覚悟を決めた口づけだ。ここで第一幕目が終る。

二幕目の冒頭はこの芝居の主題歌ともいえるジョーのソロ、サンセットブルバードだ。

ノーマの若い燕となり快適な暮らしをしているジョーだが、自分が籠の鳥であることは十分自覚している。それでいて自分から去ることができない自分の優柔不断さに苛立ちを感じている。それがジョーの歌のなかで一番重要な主題歌「サンセットブルバード」である。

そうさ、名声を求めてここへ来た。プール付き犬付き名誉が欲しかった。ワーナーの敷地に駐車場。でも一年経って地獄の一部屋、折り畳みのベッドに角が剥がれた壁紙。

サンセットブルバード、曲がりくねった道、秘密で金持ちで怖いサンセット大通り。油断してる奴を飲みこもうと待っている。

夢だけじゃ戦争には勝てない。ここじゃ何時も点数を控えてる。日焼けの下で熾烈な戦い。借りて来たほほ笑み、誰かのグラスを注ぎ、誰かの奥さんにキス、誰かのケツにキス。金のためなら何でもするさ。

サンセットブルバード、見出しの大通り。たどり着くのはほんのはじまり。サンセットブルバード、大当たり大通り、一度勝ったら勝ち続ける。

(魂を)売り渡したと思うか?ああそうだよ売り渡した。いい依頼があるのを待ってるんだよ。快適な部屋、定期的な配給、24時間五つ星のサービスだ。正直俺はあのご婦人が好きだしね。彼女の愚行に打たれたんだ。泳ぎながら彼女の金を受け取ってる。彼女の日没(サンセット)を観ながら。

ま、作家だからね、俺は。(後略)

引きこもり生活をしていたノーマが唯一外出するシーンがある。それはパラマウントスタジオから電話がかかってきたことがきっかけだ。ノーマはジョーと書いていた脚本をスタジオに送っていたため、それが受け入れられ女優として主役を演じられるものと思い込みマックスにクラシックカーを運転させてジョーを連れてスタジオへ向かう。スタジオを見学に来たと思ったデミル監督(映画では本人が演じている)はノーマを椅子に座らせて「今リハーサル中だからここで見学してくれ」と言う。

スタジオでは昔のノーマをしっている照明係が「デズモンドさん、デズモンドさん、はっきり見させてくださいよ」と言ってノーマに照明を当てる。それを観た他のスタッフたちが「ノーマ・デズモンドだ!」といって集まってくる。ノーマは久しぶりにファンに囲まれて上機嫌。ここでノーマが歌う「As if we never said goodbye」(まるで一度もさよならを言ったことがないかのよう)はどこでも歌われる名曲である。ルポーンの哀愁に満ちた歌声には心を打たれる。

結局スタジオからの電話は彼女へのオファーではなく、彼女のクラッシックカーを借りたいという話だったのだが、それを知ったマックスはそのことを絶対にノーマに知らせまいと決心しジョーにも口止めする。なぜそこまでマックスがノーマを守ろうとするのかジョーが問い詰めると、マックスは実は自分は昔映画監督で16歳のノーマをスターにしたのは自分だったこと、そして彼はノーマの最初の夫だったことを告白する。しようと思えば映画監督を続けられたのに、ノーマの失脚とともにノーマを守るために自分も映画界を去ったのである。マックスはこれからもノーマを守っていくとジョーに次げる。マックスもまたジョーと同じでノーマの奴隷となっているのだ。

ジョーは次第にそんな生活に飽きて、夜ごと屋敷を抜け出してはベティと一緒にオリジナルの脚本を書き始める。そうしているうちにベティは婚約者が居ながらジョーに魅かれジョーもまたベティーに魅かれていく。二人が恋に落ちる様子が「Too Much in Love to Care」(愛しすぎて気にならない)で歌われる。しかしこの間ジョーは一度もベティにノーマのことを話していないのだ。どんどんベティに魅かれて生きながら、ノーマの愛人を辞めていないジョー。

ジョーが外で女と会っていることを知ったノーマはベティの電話番号を突き止め彼女に何度と電話をして嫌がらせをする。その現場に居合わせたジョーはノーマから電話を取り上げベティにノーマのサンセット通りの住所を教えて今すぐ来いと言って電話を切る。

駆け付けたベティに向かってジョーは自分がノーマの囲い者であることを白状する。ベティは「そんなことは知らない。私は何も聞かなかった。さっさと荷物をまとめて一緒に出て行きましょう」という。だがジョーは自分はここの生活が気に入っている。ここを出ても仕事などない。またあの安アパートに戻れというのか、君は婚約者の元へ戻って結婚しな。時々遊びにおいでよ、プールを使わせてあげるからと皮肉たっぷりに言う。

ベティはショックを受けてそのまま立ち去ってしまう。ジョーはベティを引き留めようと一旦は腕を伸ばすがその手を引っ込めソファに座りこもうとしてソファから崩れ落ちてしまう。

そこへノーマが入って来て「ありがとうジョー」と言うが、ジョーはスーツケースを持って出て行こうとする。そしてどうなったか、それが冒頭のシーンである。

さてここで私には解らないことがあった。結局ノーマの元を去ろうと決心したのなら、なぜベティと一緒に出て行かなかったのだろう?どうせ出ていくなら好きな人と一緒の方がよかったのでは?何故ベティに心にもない三下り半を下したりしたのだ?

色々な人の解釈を聴いていて納得したのは、ジョーはすでにハリウッドで腐敗してしまった敗北者だという気持ちがあった。それでベティまで腐敗させたくなかったという親切心からではないかという話。たしかに、もう自分が立ち直るのは手遅れだが、愛するベティだけでもなんとか救いたいという気持ちだったのかもしれない。多分ジョーはノーマの家を出たら、故郷のオハイオにでも帰って、また一からやり直そうと考えていたのだろう。

だがノーマ(ハリウッド)は自分勝手な退場は許さない。利用するだけ利用し役立たずになったら追い出すまでジョーはノーマの奴隷だったのである。

同じテーマのこんな歌を思い出す。

ようこそホテルカリフォルニアへ、チェックアウトは何時でも出来ます。でも永遠に去ることはできません。

一番有名なシーンについて書くのを忘れていた。冒頭のシーンでジョーがプールに浮かんでいると言ったが、そこにはすでに警察や新聞記者らが集まっていた。フラッシュをたいて写真を撮っている報道陣を観て、狂気の絶頂に達してしまうノーマ、あたかも撮影現場にいるかのように大袈裟なポーズを取りながら長い螺旋階段をおりてくる。映画ではこの間、階段やその下に集まっている警察官や報道陣はまるで時が止ったかのように動かず、ノーマだけがゆっくりと階段を降りてくる。

そして無声映画の役者特有のドラマチックな表情をしたかと思うと例の有名な台詞で幕が閉じる。

「デミル監督、クロースアップをどうぞ。」


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映画のミュージカル化が大成功した「プロデューサーズ」に大感激

本日のカカシミュージカル観賞批評はメル・ブルックス監督の1958年公開の同題名の映画を、やはりブルックス監督が舞台でミュージカル化した「プロデューサーズ」。いやあ、聞いてはいたけど素晴らしかった。

さっきウィキで調べたところによると、この映画はヒットラーを主演させるミュージカルを作るという悪趣味な内容のせいなのか、日本での公開は何と2000年までされなかったというのだから驚いた。ミュージカルがブロードウェイで発表されたのが2001年だったので、ぎりぎり間に合った感がある。

映画とミュージカルの筋は全く同じなのでウィキからあらすじを拝借。ネタバレあり。

かつてはブロードウェイの大物プロデューサーだったが、今はすっかり落ち目のマックス・ビアリストックは、裕福な老婦人たちのご機嫌取りで金銭を稼ぐ日々。ある日、マックスの事務所へ気弱な会計士のレオ・ブルームが訪れる。彼は帳簿を調べている内に、ミュージカルを当てるより失敗させた方がより大儲けできることに気付く。マックスはこれはいいアイデアだと、レオを誘い最低なミュージカルを作って一攫千金の詐欺を企む。

確実に失敗させるためにはまずは最低な脚本を、と探し当てたのはナチシンパのドイツ人フランツ・リープキンが書いた『ヒトラーの春』(Springtime for Hitler)だった。首尾よく上演権をとりつけたマックスは早速金集めに奔走、高額の配当をエサに愛人の老婦人たちから莫大な出資金を騙し取る。続いて最低な演出家として、ゲイで女装趣味の演出家ロジャー・デ・ブリーを起用。そして最低の役者として主役のヒトラーに選ばれたのは、別のオーディション会場と間違えて来たヒッピーのイカレ男ロレンツォ・サン・デュボワ(イニシャルからLSDと呼ばれる)である。

以降ネタバレ注意!

これで万全、上演は失敗間違いなし!とほくそえむ2人だったが、やがて初日を迎えると予想外の反応が待っていた。最初こそ馬鹿げた内容に腹を立てる客が続出したものの、LSDが怪演するオカマ風ヒトラーに観客は爆笑につぐ爆笑。ナチ党員が手に手をとって陽気に歌い踊るあまりにも俗悪極まる内容に、ヒトラーを笑い者にした反ナチの風刺コメディだと観客に勘違いされる。結果はなんとミュージカルは大ヒットしてしまうのだった。

このミュージカルは公開するや大ヒットを飛ばし、何年ものロングランで主役も何回か入れ替わったが、2005年には今度はこのミュージカル版がオリジナルキャストのネイサン・レーンのマックスと、マシュー・ブロードリックのリオで映画化され公開された。何故かこちらの方はあまり業績はよくなかったのだが。

私が今回観た舞台は、ブロードウェイ版ではなく、なんと5年前に行われたサミット高校の演劇部公演によるものだ。ユーチューブではよく高校や大学の演劇部による舞台公演がアップされているが、これらの舞台は素人とは思えないほど素晴らしい掘り出し物がよくある。今回のこのプロダクションは舞台装置から衣装からオーケストラから、そしてもちろん役者たちの演技に至るまで、高校生とは思えない非常に質の高いものだった。

私は元の映画を1970年代に観た記憶がある。私はメル・ブルックスの大ファンだったので、1978年から2000年にかけて彼の映画を結構まとめて観た。ただ、私は当時無知な日本人女性だったことから、ブルックス監督がいかにあからさまに自分のユダヤ文化を全面的に押し出す監督なのかということに気が付かなかった。

ユダヤ文化というのは結構特異なもので、それにしょっちゅう面していないと、それがユダヤ文化なのだと言うことにも気づけない。このミュージカルではマックスもだがリオは特にユダヤ人典型の人物である。ミュージカルナンバーも屋根の上のバイオリン弾きを思わす踊りや音楽が最初から流れて来るし、ジョークもいちいちユダヤ風。ブルックス監督特有のこれでもかというくらいしつこい。

そういうわけだから、マックスとリオがプロデュースしようというミュージカルが「ヒットラーの春」なんてのは悪趣味も行き過ぎだし、誰がこんなものを見たがるものか、となるのが当然な成り行きである。

これにういて実はちょっと面白い話がある。ユダヤ系である我が夫ミスター苺はこの話について何も知らなかった。それで私がユーチューブでこのミュージカルを観ているところに部屋に入ってきたミスター苺は、私がちょうど観ていた「春の日、ヒットラーのドイツ~」というコーラスにヒットラー青年団の制服を着た若者たちがハイルヒットラーの敬礼をしながらグースステップで歩き回るナンバーを観て「なんだこの悪趣味なナンバーは、早く消せ!」と怒ったことがあるのだ。それで私が「いやいや、これは風刺だから。ジョークジョーク」と説明したのだが、主人は「冗談でもやっていいことと悪いことがある」とプンプンに怒ってしまったのだ。今回私と一緒に最初から最後まで観たミスター苺は同じナンバーのところで大笑いしていたが。

というわけで、いかにこの主題がユダヤ系の人びとにとって敏感なものであるかがお分かりいただけたと思う。だからこそミュージカルとして絶対に成功するはずはないとマックスとリオは踏んだわけである。

このミュージカルがミュージカルとして非常に優れている点は、マックスとリオが脚本家や監督を訪ねるシーンでそれぞれ個性あるキャラクターによるミュージカルナンバーが繰り広げられることや、主役を選ぶオーディションのシーンなどでも登場人物たちの個性が非常によく表れていて面白いことだ。主役は確かにマックスとリオだが、脇のキャラクターたちの見せ場が多く面白い。

そして極めつけは何と言っても「春の日、ヒットラーのドイツ」ナンバーである。これはユーチューブに色々なバージョンが上がっているが2005年の映画のバージョンが特に良い。独唱は私が大好きなジョン・バローマン。

このミュージカルにはいくつも良いミュージカルナンバーがあるが、最後のほうでマックスが独唱するシーンは素晴らしい。これは単に歌がうまいだけでは駄目で、コメディーとしての要素をしっかり表現んできる役者でなければ務まらない。ブロードウェイと映画ではネイソン・レーンが演じているが、彼はブロードウェイではコメディーミュージカル俳優としてはベテラン。映画ではラカージャフォーでも主演を演じているので親しみのある人も多いだろう。

日本の皆さんには映画バージョンをお薦めする。


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