ポリコレのせいで意地悪度が激減してしまった意地悪な少女たち、ミュージカル映画ミーンガールズ

ミュージカル「ミーンガールズ(意地悪な少女たち)」を観て来た。この映画は2004年の同名の映画のミュージカル版である。ミュージカルとしてはブロードウエイなど舞台ですでに公開されており、日本でも元アイドル歌手の生田絵梨花主演で2023年初期に舞台になっている。

あらすじ:動物学者の母親とケニアで暮らしていたケイディは16歳でアメリカに帰国し、高校に通う事になる。これまで自宅学習をし、学校に通ったことがないケイディは初めての学校生活に緊張気味。なかなかみんなに馴染めず、浮いているケイディに話しかけたのは顔にピアスをしているちょっと変わった感じのジャニスという女の子とゲイ男子デミアンの二人。二人からは、学校には派閥があり、特にヤバいのはプラスチックスという学校のアイドル的存在の女子三人組であると教えられる。

プラスチックスのボスのレジーナはこの学校では女王様のような存在。何故かそのレジーナから一週間だけ一緒にお昼ご飯を一緒に食べてもいいと言われるケイディ。ケイディは戸惑いながらも仲間に加わる。しかしすぐにケイディは自分が数学の時間に一目ぼれしたアーロンがレジーナの元彼氏だったことを知る。レジーナはケイディの片思いに気付くとアーロンをケイディの目の前で誘惑し奪ってしまう。

傷ついたケイディはジャニスとデミアンに相談。二人はケイディはプラスチックの仲間になったふりをして秘密を探ってレジーナに仕返しをしようと提案。ケイディはうまくレジーナに取り入ってプラスチックスを内部から破壊を試みるのだが、、あらすじ終わり

私はアメリカで高校に行ったことがないので、アメリカの高校がこんなにも風紀が乱れているとは信じがたいのだが、先ずプラスチックスの少女三人組の服装の露出度が凄い。この三人はスタイルも抜群で特にリーダーのレジーナの体型は素晴らしく肉感的。その彼女たちが胸もあらわなぴちぴちのドレスで歩き回るのだからすごい。ジャニスとデミアンが学校内での派閥を色々説明するが、一つのグループはいちゃいちゃグループで、学校の食堂でどうどうとディープキッスをしていたりする。まあ映画だから誇張されてはいるのだろうが、今やアメリカの高校では生徒同士の性行為など普通らしい。「今や」って元の話は2004年だから、もうそんなのは普通なんだろう。

オリジナルの2004年の映画はミュージカルではなかったので、この映画はリメイクとはいえ別の媒体になっていることでもあり、色々比べるよりミュージカルとして楽しい作品になっているかを評価すべきだと思うのだが、やはり批評家たちはオリジナルと比べて遥かに劣るという意見で一致している。

私はオリジナル映画を2004年に観たが、20年も前のことだし、そんなに印象に残っていなかったので詳しいことは覚えていない。なのでこのリメイクはまあまあの出来だったのではないかと思っていた。しかし当時10代でこの映画の大ファンだった人たちからすると、このリメイクは許せないほどポリコレ改造されているのだそうだ。

実はこの映画オリジナル公開当時、ティーン女子の間でものすごい人気となり、所謂カルト映画になっていた。それで映画内のセリフなどが学校で流行り言葉になったりしていたのだそうだ。当時の10代女子のファン達は台詞全てを暗記するくらい何度も映画を見ており、この映画の隅々まで知り尽くしているというわけ。そういうファンが沢山いるなかで、ミュージカルとはいえリメイクとなると作品の出来は魚の目鷹の目で見られてしまう。

脚本はオリジナル同様ティナ・フェイというコメディアン・女優・脚本家であり、彼女は元映画と同じ主役のケイディの担任教師役である。同じ人が脚本を書いているとはいえ20年も経つと政治的状況はかなり変わっている。なにせいまや多様性の時代だから。

それで無論登場人物の人種も多種多様となる。先ず元映画では白人男性だったデミアンが黒人に、プラスチックスの一人カレンはインド系。まあ2024年だからこの辺の人種変更はしょうがないとして、問題とされるのはジャニスがレズビアンとして描かれていること。

元映画ではジャニスはレバノン出身でレバニーズ(レバノン人)だと名乗っていたのに、プラスチックスの無知な女子たちはそれをレズビアンだと間違えて彼女を何かとレズだと言ってからかうというシーンがある。ジャニスは異性愛者なのでこれが気に入らない。しかし、リメイクでは彼女がレズビアンという設定になっており、それをからかうというのは悪趣味ということなのか、意地悪な少女たちの誰もそれを口にしないのだ。

人種を扱ったジョークも削られている。ケイディ―はアフリカからの転校生なので、レジーナが「どうしてアフリカから来たのに色が白いの?」などと聞くシーンがあったそうなのだが、今回はそれはない。というよりケイディがアフリカ出身ということでからかわれるというシーンはほぼ見られなかった。出身国を理由にからかうのは人種差別になるからだろうか?

しかしこうなってくると、意地悪な少女たちが他の子たちを虐める材料があまりない。他人をブス扱いするとかオタク扱いするとか、というシーンもそんなになかったし。となると一体彼女たちの何がそんなに意地悪なのかという話になってしまう。

またハローウィンでの衣装についても批評家たちは手厳しかった。2004年ではハローウィンは少女たちが大っぴらにセクシーな恰好が出来る日だという暗黙の了解がある。それを理解せずに実際に怖い仮装で現れたケイディ―は浮いてしまう。しかしここでも女子たちの露出度の高い行き過ぎた衣装はフェミニストの規制がかかったのか、かなり大人しいものになってしまっているというのである。保守的な私の目には十分セクシーに見えたのだが。

さて、ここまでは私の感想ではなく、他の元映画ファンたちによる批評だが、ここからは私が気になった点について述べよう。先ず主役のケイディにもレジーナにも父親の姿が観られない。元映画ではケイディは父親の仕事の関係でアフリカで育った設定になっていたが、今回は母親が動物学者という設定で父親は出てこない。レジーナにも父親が居たはずだが、今回は姿が見られなかった。二人とも母子家庭にする意味は何だったんだろう?

私は昔からミュージカルには非常に甘い。もし歌と踊りのレベルが高ければ、筋など申し訳程度のものでも許してしまうたち。それに元映画をそんなに覚えていなかったので、元との違いは全く気にならなかった。出演者たちは皆歌がうまい。特にレジーナ役のレネー・ラップの歌唱力は素晴らしい。彼女はブロードウエイで同じ役を演じたのだそうだ。道理でうまいはずである。

映画が最初からジャニスとダミアンの歌で始まるが、この二人もいい。主役はケイディだが、ジャニスAuli’i Cravalhoが一番いい歌を歌っている。彼女の歌唱力は力強く素晴らしい。かなりの役得。

踊りも結構前面に出ており良かったと思う。

ただ、後で言われてい気付いたのだが、観ている間は歌も踊りもまあまあ楽しめたにもかかわらず、映画が終っても一つもメロディーを思い出せない。良く出来たミュージカルの場合は、帰り際に鼻歌を歌いたくなうくらい一つくらいメロディーが頭に残るはずである。例えばこの間観たウォンカならピュアイマジネーションやウンパルンパの歌、キャッツならメモリー、レミゼラブルなら民衆の歌といったように。残念ながらこの映画ではそういう歌は一つもなかった。

ところでこれは最近のハリウッド映画の広告のやり方らしいのだが、どうもミュージカル映画をミュージカル映画だと解るように予告で宣伝しないのが普通になっているらしい。実をいうと私はこの間観たウォンカとチョコレート工場の始まりがミュージカルであるとは知らずに観に行き、冒頭から主役が歌い始めてびっくりした。この間公開されたカラーパープルも予告編ではミュージカルかどうかわからない。今回のミーンガールズも姪っ子がブロードウェイのミュージカルファンでなければ知らずにただのリメイクだと思って観に行ったかもしれない。

どうもハリウッドはミュージカル映画は人気がないと思っているらしい。しかし、普通の映画だと思って観に行ったのにミュージカルだったら、ミュージカルファンはいいが、そうでない人は失望するのではないか?どうもこのマーケティングは理解に苦しむ。


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テキサスの高校、男子自認の女子生徒が男役から降ろされた事件、日本文化との違いを考える

アップデート:11月17日現在。この学校はあまりにも批判を浴びたため、女子生徒は主役に返り咲いた。Transgender student reinstated to role in Oklahoma the musical following uproar (msn.com)

11月11日

先日テキサス州の高校で、男子を自認する女子生徒が学校の演劇部で上演する「オクラホマ」の主役に選ばれたのもつかの間、最近出来たテキサスの条令で男子と女子の違いは生得的性で分けられるという規則に従って生得的女子である彼女は男役から降ろされるというニュースを読んだ。これはちょっとやり過ぎだろう。その規則はスポーツ競技やお手洗いや更衣室に関する規則であり、演劇部での配役にまで影響があるというのはおかしくないか?

実は私は随分前からアメリカの方が日本よりも男と女という性別のステレオタイプに拘りがあるように感じていた。特に同性愛について寛容であるようで、実はそうでもない。

この間も書いた通り私は高校時代に演劇部に所属していたが、うちの高校は女子の数が男子の数より圧倒的に多く、その比率は4:1だった。それでクラブ活動では男子はほとんどスポーツ競技に取られてしまい、演劇だの合唱だのといったクラブには男子が入ることは先ずなかった。しかし当時は宝塚が大人気の頃である。我々も宝塚のようなロマンチックなお芝居をしたいと思うと、どうしても女子が男役をやるしかない。それで声もひくく男っぽく見えた私は当然のことながら男役を演じる羽目になった。(別に嫌ではなかったが)日本には女子校や男子校が多いので、異性の役を演じることに違和感がない。だいたい歌舞伎や宝塚が日本の文化として受け入れられているのだから当然と言えば当然のことだろう。

ところが欧米社会にはこういう伝統がない。シェークスピアの時代には女性が舞台に立つのは破廉恥であるとして男性が女性役を演じていたが、それも次第に女優の登場で廃れていった。今やシェークスピアも女性役は女性が演じている。そして何故かそうなってしまうと異性を演じるのはオペラの少年役を女性歌手が演じる時以外はほぼタブーとなってしまった。何故なんだろう?

何十年も前のイギリスの映画で、主役の男性が恋に落ちた女性が実は男性だったという筋の話があった。私はその映画を観た時、この「女性」が最初にシルエットで登場した時から、この俳優は男だと解っていた。しかし非常に美しい人だったので女役を演じているのだろうと思っていた。そしたら映画の真ん中あたりで実は男性だったということが暴露され、主人公が大ショックを受けるというシーンが出て来た。私はこの役柄が女性だと思っていたので驚いたが、この俳優をずっと女優だと思い込んでみていた他の観客たちがハッと一斉に息をのむ声が聞こえ、彼等がいかに驚いたかが察せられた。後で一緒にいた男友達にその話をすると「いや、男が女役を演じるなんてあり得ないよ。僕はすごくびっくりした。てっきり女だと思っていた」と言われた。

アメリカでKPopが人気を博する以前は、日本のジャニーズのようなボーイバンドは「女々しくて気持ち悪い」と思われる傾向にあった。今ではあまりあからさまにそういう表現をする人はいないが、ちょっと前までは少しでもなよなよした男に向かって「ゲイ!」と言って蔑むのは結構普通だった。まだガラケイ電話が普通だった頃、私の同僚アメリカ人男性が日本人の恋人からもらった飾りを携帯に付けてもっていたら、他の同僚から「ゲイ!」といってからかわれていたくらいだ。

それでふと思ったのだが、もしかして今のアメリカのトランスジェンダリズムはこれらのステレオタイプに対する反動なのではないだろうか。男が女っぽかったり女が男っぽかったりすると何かおかしいという先入観が強すぎるから、ちょっとでもその枠に嵌らないと自分は異性なのではないかと思い込んでしまうのかも。いや、異性であると言い放てば自分の趣味を大っぴらにしてもゲイだのなんだのからかわれずに済むという考えなのかも。裏を返せばアメリカって今でも同性愛者に対する非常に根強い偏見を持っているという意味なのではないだろうか。最近同性愛者の間でトランスジェンダリズムほどホモフォビアの概念もないと言われるようになったのはそういうことなのかもしれない。

スポーツやトイレや更衣室で男女を分けるのは当然のことだが、演劇に関してはその役に一番合った人が演じればいい。トランスジェンダーだろうと何だろうと役柄として成立すればそれでいいのではないだろうか?


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キャリア絶頂期にミーツ―でキャンセルされたケビン・スペーシー、アメリカとイギリス双方の法廷で無実!

ケビン・スペーシーと言えばアメリカでは大御所映画俳優。その演技力の幅は広くブロードウェイの舞台でも活躍し、数々の映画に出演しアカデミー賞も受賞している。またテレビでもアメリカ版ハウスオブカードの主役も務め、ネットフリックス至上最高の視聴率だった。俳優としてのスペーシーのキャリアはまさに順風満帆といったところだったのだが、2017年、突然若い俳優からミーツ―攻撃を受けてしまう。そして彼のキャリアには急ブレーキがかかってしまったのだ。

2017年、アンソニー・ラップという男優から、ラップが未成年の頃にスペーシーに性的加害をされたと告発された。彼はスタートレックシリーズのディスカバリーでゲイのエンジニアを演じた男性だ。ラップは1986年に当時14歳だったラップをスペーシーが自宅のアパートで開かれたパーティーに招待し、ラップを寝室に連れ込んで性行為をしようとしたが、スペーシーが泥酔していたのでラップは逃げることができたというもの。

この告発があって以来、スペーシーは主演のドラマから降板させられ、撮影途中だった映画も中断。2017年以来スペーシーの姿を見ることはほとんどなくなった。その後無名の男性からもバーでスペーシーに股間を触られたとか、ハウスオブの撮影現場でスペーシーからセクハラを受けたなどという告発もあったが、それぞれ裁判にまではいかなかった。

しかし2022年10月、アンソニー・ラップはスペーシーを訴えていた民事裁判で自分の告発は嘘だったことを認めるという意外な展開があった。

そして三か月前、イギリスでもスペーシーが性加害をしたという刑事裁判で、陪審員たちはスペーシーの無罪判決を下した。この裁判を追っていたダグラス・マレーに言わせると、有罪の証拠はほとんどなく、裁判沙汰になるべきではない事件だったと怒りを隠せない様子だった。

さて、実は私はこの一連の事件をほとんど追っていなかった。私はケビン・スペーシーは好きだが、ドラマも観ていなかったし、ああ、また別の俳優がミーツ―の犠牲になったのかと思ったくらいだ。無論本当に有罪かどうかもわからないのに、単に誰かが告発すればそれで大人気スターのキャリアが崩壊するなんてことがあってもいいのだろうかと疑問だった。出来れば私は彼が無実であってほしいと思っていた。

ただ、当時私は彼は有罪だと思っていたのだ。その理由はラップの告発がバラエティー紙で発表された直後、スペーシーは謝罪文を出したからである。スペーシーはラップの言うようなことは記憶にないとしながら、「酔って不適切な行為をしたことについて心から謝罪する」 “I owe him the sincerest apology for what would have been deeply inappropriate drunken behavior.”という内容の謝罪をした。

私が思ったのはスペーシーがその事件を覚えていないのは本当だろうが、普段からそういうことをしょっちゅうやっているから、その事件そのものの記憶はないが、もしかしたらやったかも、と思ったのだろうということだ。しかしこの裁判の途中で、スペーシーは彼は周りからとにかく謝って置けとプレッシャーをかけられたという。スペーシーの事務所としては、大したことではないのでさっさと謝ってしまえば事は収まるという考えだったのだろうが、ミーツ―狂気のあの時代、これが罪を認めたと解釈され、スペーシーは完全に干されてしまったのだ。スペーシーは自分は子供に性愛を感じないので自分がそんな行為をしていないことは確信していたとし、自分のしていないことには決して謝罪していはいけないと学んだと話している。

ラップの裁判についての記事を読んでいたら、スペーシーは当時26歳でブロードウェイ舞台に出ており、当時ラップは同じ舞台俳優ジョン・バローマンとも友達で、スペーシーは二人を自分のアパートに招待したことがあった。バローマンは裁判中にスペーシーのアパートに行った時の話を証言している。バローマンの証言では三人でスペーシーの犬と遊んだとかありふれた話で、この事件とは無関係だった。ただ、ラップはスペーシーのアパートには事件があったとされる一度しか行ったことがないと言っていたことと矛盾している。

またラップの話がおかしいのはスペーシーのアパートは一間でラップが言うようなリビングと寝室と別れておらず、自宅でパーティーなど開いたことはなかったとスペーシーは証言している。

結局これはラップが昔からの知り合いであるスペーシーの成功に嫉妬して、彼を引きずりおろそうとでっち上げた話だったわけである。

で、このことでラップは罰を受けるのか?ラップはスペーシーと違ってさほど有名な俳優ではない。舞台では色々活躍していたようだが、2017年にスタートレックのレギュラーになるまで私は彼の名前をきいたことがなかった。やっと自分のキャリアにも芽が出始めた頃にスペーシーを告発というのも卑怯きわまりない。

私はハリウッドの掌返しには本当に呆れている。はっきり言ってラップの告発が100%本当だったとしてもその程度で一人の男のキャリアを潰していいのか?ハリウッドではそんなこと普通に起きていることではないのか?スペーシーをキャンセルした重役たちも身に覚えがあるだろう。しかも何の証拠もない、単にラップがそう言っているというだけなのに。

さて、スペーシーは二つの裁判で無罪となった。では中断されていた彼のキャリアはこれからどうなるのだろうか?彼の演技力やカリスマは誰もが認めることだ。しかしいったん傷物となってしまった彼に仕事の依頼は来るだろうか?

ダグラス・マレーはロンドンでの自分の講演の最後にサプライズでケビン・スペーシーを招待し、シェークスピアの一節をスペーシーに演じさせた。その場にいた観客からはスタンディングオベーションがあった。帰ってきてほしい。ケビン・スペイシー。

何も知らないうちに彼の有罪を決めつけた私も反省。


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キャンセルカルチャーに積極的に加担していたユダヤ系有名人たちが次々に悟るユダヤ人差別の現実

ハリウッド映画界は人種差別や女性差別に敏感で白人男性キャラをやたらに黒人女性キャラに書き換えたり、ミーツ―運動の頃は女性が被害者だと訴えさえすれば証拠もないのに男性俳優たちのキャリアを潰して悦に入っていたり、BLMへの支持をためらいなく行っていた。トランス差別は駄目だといって代名詞を間違えただけの人びとをソーシャルメディアで叩いたり、トランス女性は男性だと言ったJKローリングのような有名人を散々非難してきた。アメリカにとって一番の危機は白人至上主義だとまで言っていた人たちもいた。では今起きているあからさまなユダヤ人差別については俳優たちは皆立ち上がってビデオでも作って「ユダヤ人差別をやめよう!」と訴えるのかと思えばそんなことはない。英語的表現をするなら「この沈黙は耳を擘く(つんざく)ほどだ」。

これについてユダヤ系の芸能人やプロジューサーたちがハリウッドの偽善主義に声を上げている

人気スィットコムの俳優・コメディアンであるジェリー・サインフェルド、ジュリアナ・マーゴリス(Julianna Margulies)を筆頭にハリウッドのプロジューサーやNBCニュースの前社長ノア・オッペンハイマーなどが昨今の反ユダヤ傾向のついてハリウッドの沈黙を批判する声明文を公開した。

芸能人のジェリー・サインフェルド、サシャ・バロン・コーエン、ジョシュ・ギャッド、イーライ・ロスを含む数百人の全米脚本家組合(WGA)組合員が10月15日、ハリウッドで最も強力な組合のひとつである自分たちの組合が、当時イスラエルに対するハマスの攻撃について声明を出さなかった「唯一の主要ハリウッド組合」であることを非難する公開書簡に署名した。

この書簡には、オッペンハイマーと『ミセス・ダウトファイア』の脚本家ランディ・メイエム・シンガーの署名も含まれており、この問題に関するWGAの偽善を指摘している。

毅然とした態度で臨むことに関しては、全米脚本家組合は常に模範を示してきた。雇用主が私たちの作品を搾取しようとしたとき、ギルドは勇敢に声を上げた。BLM運動が起こったとき、ギルドは当然のように声を上げた。MeTooの清算が行われ、ハリウッドが変わらなければならなくなったとき、ギルドは再び声を上げた。

「しかし、テロリストがイスラエルに侵入し、ユダヤ人を殺害し、レイプし、誘拐したとき、ギルドは沈黙を守った。」

署名者たちはまた、10月7日にイスラエルで起こったことについて明確な声明を打ち出し、WGAや自分たちの考え方に従わない他の組合は “筋書きを失っている “と示唆した。

太字で強調された彼らの手紙は、「私たちは、ハマスが無実の市民に対して犯した凶悪な犯罪を明確かつ強力に非難したい脚本家グループです」と宣言している。

イスラエルとパレスチナの人々の対立は複雑で微妙なニュアンスに満ちているが、10月7日に行われた犯罪は単純で残酷だ。もし私たちがそれを、蛮行というとんでもない行為と呼ぶために立ち上がることができないのであれば、私たちは筋道を失っているのです」。

大ヒットTVドラマ『ジ・アメリカンズ』のショーランナーであるジョエル・フィールズは、先月開催されたVarietyの “Hollywood & Antisemitism Summit “において、自身の発言でWGAを非難した。パネルでフィールズは、「脚本家組合はわれわれを深く失望させた」と宣言した。

彼はさらに、「歴史の正しい側にいることを確認するために常に声明を出している組織なのに、悲しいことに沈黙を通して声明を出している 」と付け加えた。

芸能人やプロジューサーや脚本家などにはユダヤ系が非常に多い。ハリウッドはWWII戦前からユダヤ系によって成り立ってきたといっても過言ではない。にもかかわらず何故今回に限ってハリウッドは沈黙を守っているのか。

女性コメディアンのエイミー・シューマー(ユダヤ系)も10月7日後にイスラエルの犠牲者に同情的なコメントをソーシャルメディアで繰り返し、メディアが反イスラエルのプロパガンダを広めていると批判すると、彼女のインスタグラムには沢山の批判が集まった。その凄まじい勢いに彼女は自分のコメント欄を規制した。シューマーは極左翼リベラルで私が彼女の言うことに同意したことは一度もない。彼女自身もこれまで自分と意見の合わない人たちのキャンセルをほくそえんでいたクチであるから、今回彼女がどれほど批判されようと同情の余地はない。とはいうものの、彼女がユダヤ系だからというだけでなく、無実の民間人が虐殺されたことを悲しむことも、メディアが反イスラエルの報道をしていると指摘することも正当な行為だ。ずっと左翼リベラルでキャンセルカルチャーの恐ろしさに気付かなかったシューマーも、今度のことで左翼の邪悪さを少しは学んだだろうか?

最後に人気ユーチューバーの話をしよう。イーサン・クレイン(Ehan Klein)はイスラエル出身のアメリカ人で妻はIDFで兵役を務めたこともある。私は彼のことは良く知らないのだが、彼はもともとそれほど政治的な動画は作ってこなかったらしい。

クレインは昔はジョーダン・B・ピーターソン教授をインタビューするなどして、割とまともな動画を作っていた。ところが最近トルコ系で極左翼のハサーン・パイカースというユーチューバーと組んでポッドキャストを始めた。その頃からクレインはかなり左翼に感化されてしまったようだ。そして以前には教授のことを尊敬していたにもかかわらず、いつの間にか教授を批判しおちょくるようになっていた。これについてピーターソン教授は左翼に迎合して常に彼等に合わせようとしていると、いつかほんのちょっとの間違いで奴らは牙をむくよと忠告していた。

10月7日直後、イスラム教徒であるハサーンとユダヤ人であるイーサンがハマスとイスラエルの戦争について話していた時、寄せられたコメントを読んでイーサンはショックを受けた。何故なら今まで自分のファンだと思っていた人たちがほぼ全面的にハマスの行為を正当化し、イスラエルが全面的に悪く虐殺された人たちは自業自得だと述べ、しかもイーサンがユダヤ人であることから、彼をシオニストの豚などと罵ったからである。これを語っているときのイーサンは怒りと悲しみで涙を抑えるのがやっとだった。

イーサンはもともとイスラエル政府には批判的であったしネタニヤフは弾劾されるべきだと語ってきたが、そんなことでは怒るファンたちは気が収まらない。すこしでもイスラエルに同情的なことを言うイーサンを心から憎んでいる様子だった。いや、イーサンがどれほどイスラエル政府を批判しようとも、イーサンがイスラエル出身のユダヤ人であることがそもそも気に入らないのだろうから何を言っても無駄だとは思うが。イーサンは本当に自分が迎合していた極左翼のファン達がどういう人間の集まりだったのか知らなかったようだ。

イーサンはハサーンとのポッドキャストを辞めソーシャルメディアからも距離を置いている。もし彼が戻ってくるとしたら、多分もう政治的な話はしないのではないだろうか?


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千と千尋の神隠し、メッセージが良く分からない舞台版

アマゾンプライムでミュージカルを探していたら、「千と千尋の神隠し」舞台版があったのでストリームで観た。これはジブリの同題名のアニメ映画の舞台化だ。メインの役はすべてダブルキャストだったが、私は橋本環奈の千尋、醍醐虎汰朗のハク、夏木マリの湯ばあば、妃海風のリンといった顔ぶれで観た。

私がこのアニメ映画を観たのは公開当時一回キリなので細かいところは忘れてしまったが、当時はアニメ映画としては史上最高の売り上げだったような覚えがある。アメリカでもこの映画はSprited Away(神隠し)という題名で人気があった。

私が覚えている限り舞台は映画の筋をそのまま追っているように思えた。ざっとあらすじを言うと、10歳の少女荻野千尋は両親と共に引越し先のニュータウンへと車で向かう途中、父の思いつきから森の中の不思議なトンネルから通じる無人の町へ迷い込む、町はなにか時代遅れの派手な建物が並んでおり、父親はバブルの頃に沢山あちこちに建って潰れたテーマパークの廃墟だろうと言う。誰も居ない町なのに何故か一軒だけ開いている食べ物やがあり、千尋の両親はその匂いに魅かれてがつがつと並べられていた食べ物を食べてしまう。すると不思議、両親は二匹の多き豚に変身してしまったのだ。千尋たちはトンネルをくぐって八百万の神々が住む別世界に迷い込んでしまっていたのである。

白龍になったハクを助ける千尋(橋本環奈)
白龍になったハクを助ける千尋(橋本環奈)

そこに平安時代の子供のような恰好をした少年ハクが登場。千尋は一旦は戻れと忠告されるが、親を救うためにこの世界に残る決心をする千尋に、ハクは湯ばあばのところへ行って仕事をしたいと言えと助言をする。千尋は湯ばあばが経営する湯屋で下働きをしながらどうやって両親を救うか考える。

とまあこんな感じで話は始まる。元々がアニメのファンタジーであるから、ジブリの世界を舞台にするとなるとかなり大変だ。それで背景にはスクリーンを使って動画を映し出し、冒頭の車に乗っているシーンなどは背景に景色が映し出されてそれがどんどん動いて車が走っている感じを出していた。

湯屋の舞台装置もかなり凝っていて湯ばあばの部屋になったりお風呂場になったり番台になったりする。湯屋に勤める下働きの女中たちや使用人の男たちなどアンサンブルの数はかなり多い。

色々でてくる妖怪たちは大きいものは着ぐるみ、小さいものは浄瑠璃のような人形で黒子の人形遣いが人形の後ろで台詞を言う。また窯爺という腕が何本もある妖怪は後ろ側に何人もの人が居てそれぞれの腕を演じていた。

面白いと思ったのは、映画のような特撮は一切なく、ケーブルも使わず、千尋が水のなかで動き回ったり、龍となったハクの上に乗って飛ぶシーンでは黒子たちが彼女を持ち上げ何人もで千尋を移動させ、あたかも彼女が水に浮いている感じや空を飛んでいる感じをだしていたことだ。

千尋役の橋本環奈は元気一杯で一生懸命やってる感じが伝わって来て好感が持てる。全編ほとんど出っ放しなのでこれはかなり大変だ。私が一番気に入った役柄は妃海風(ひなみ ふう)演じるリン。彼女は湯屋で千尋を子分のように受け入れて色々教えてくれる姉御肌の女性だ。女なのにずっと男口調で全く女らしい仕草をしない。まるで宝塚の男役みたいだなと思っていたら、案の定妃海風は元宝塚女優だった。あ、やっぱり。夏木マリの湯ばあばは味があって面白いが、あの大きな顔を被っているので表情がちょっとわかりにくい。

ただミュージカル調ではありながら何故か主要人物は誰も歌わないし踊らない。歌や踊りはあくまでアンサンブルの人たちがする。私はこれはちょっと不満だった。この話はミュージカル要素がいくらもあるし、せっかく歌手が何人も出ているのだから歌わせないというのも変な話ではないか?

舞台は映画の筋を忠実に追っているようには見えたが、どうも私が映画を観た時に比べて何がいいたいのかよくわからない。千尋が神々の住む世界に迷い込んだのは分かるが、どうすれば親たちを救えるのかがはっきりせず、なにか行き当たりばったりのことをしている感じがするのだ。「かおなし」や坊や沼の神といった登場人物はそれなりに面白いが、一体彼等は何のために出て来たのだろうか?ストーリー上の彼等の役割がはっきりしない。

私の記憶では原作では環境汚染への批判メッセージがかなり強かったように覚えている。だが舞台版ではあまりそれには触れていない。それでハクのキャラクターがあまり生きていない気がする。彼が自分の名前を忘れた理由や、なぜ湯ばあばの弟子になったのかなど、ちょっと動機がよくつかめない。

最終的に千尋は両親を取り戻して元の世界に帰ることが出来るのだが、なぜ湯ばあばがそれを許したのかどうも解せないのだ。もっと湯ばあばと取引でもして試練を与えられ、それをこなした結果帰れるとかいう設定のほうが自然である。

湯婆婆の夏木マリ
湯婆婆の夏木マリ

色々不満はあるが、全体的には楽しい舞台だった。実際に生で観たらもっと迫力があるんじゃないかと思う。もしリバイバルを観る機会があれば皆さまにはお勧めする。


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サンセット大通り、最初からネタバレなのにやっぱり理解に苦しむエンディング

サンセット大通りは1950年に公開されたフィルムノワール風につくられた大傑作映画である。(ビリー・ワイルダー監督、ウイリアム・ホールデンとグロリア・スワンソン主演。)

この映画の特徴は冒頭でネタバレがあることだ。ハリウッドの豪邸のプールに浮かぶ一人の若い男の死体。この男がホールデン演じるジョー・ギルス。男を殺したのはこの豪邸の持主で元大女優のノーマ・デズモンド。この物語は中年の女が若い男を殺して終わることは分かるが、どうしてそんなことになったのか、その話は数か月前にさかのぼるのだが、その解説をするのがなんとプールに浮かんでいる男その人なのである。

実は今日私がお話したいのは映画の方の感想ではなくこの映画を元にしたアンドリュー・ロイド・ウエバーによるミュージカルの方である。しかし筋は映画を忠実に再現しているので、どちらの話も一緒にして差し支えないだろう。

私がこの映画を観たのはもうずいぶん昔だ。とはいっても公開当時はまだ生まれていなかったので観たのは大人になった80年代だ。それでもちゃんと映画館で観た覚えがあるので、多分どこかの名画座あたりで観たのだろう。

YouTube

グロリア・スワンソン(映画サンセット大通りより)

ミュージカルの方は1994年のブロードウェイバージョンをグレン・クロースとアラン・キャンベル主演でロサンゼルスでミスター苺と一緒に観た。残念なことに私は当時この作品の偉大さに気付かなかった。後に私はイレイン・ぺージの歌を(https://youtu.be/zlk-gj5Ukes?si=bHWpWxgKU3Irr1K)動画で見て、あれ?これってかなりいいミュージカルなんじゃ、、と思い直したのだ。で、今回私が観たのはコンサートでイギリスのウエストエンドでのオリジナルキャスト、パティ―・ルポーンとケビン・アンダーソン主役のバージョンである。(1993年)

話の舞台は1950年代のハリウッド映画界隈。舞台でも出だしは映画と同じでジョーがプールに浮かんでいるところから始まる。ここは映画のようにフィルムで紹介されるが、その横でジョーが立って話を解説し始める。

ジョー・ギルスはハリウッドで脚本家として一旗揚げようと一年くらい前にやってきた。いくつか低予算映画には採用されたりしたが、今は全く仕事がない。壁紙の禿げた安アパートで暮らし毎日借金取りに追われている。色々エージェントや伝手をつかって仕事得ようとするが全くうまくいかない。

この状況が「Let’s have lunch」という最初の曲で説明される。ハリウッドでは持ちかけられた話を適当に誤魔化すためにこの「いつか昼食でも取りながら話そう」と言うのが定番と言われている。実際に話すつもりなら、その場で話すのが筋なわけだから、「まあそのうちに」とか言われている間はまるで希望がないと言えるだろう。この曲の間にスタジオで衣装を来た人たちが行きかい、二階建ての舞台の上の方でコーラスガールたちがリハーサルをしている姿がえがかれる。スタジオ内のばたばたとした忙しさのなかにジョーの絶望感と借金取りにおわれる緊迫感が感じられる。

そんなある日、借金取りから車で逃げている最中に道に迷ってとある屋敷のドライブウェイに迷い込んでしまう。そこがサンセット通りにあるノーマの屋敷である。ペットのチンパンジーのお葬式をしようと葬儀屋を待っていた屋敷の主に葬儀屋と間違われて屋敷内に案内されてしまう。屋敷の女主人が無声映画時代の大スターだったノーマ・デズモンドであることに気付いたジョーは「あんたは昔大物だった」と言うと、「私は今でも大物だ。小さくなったのは映画のほうだ」と答えるノーマ。ここでノーマの最初のアリア「With one look」が始まる。ここで女優は観客の心をつかむ必要があるが、ルポーンは見事にそれをやってのける。この歌でノーマの自分の昔のイメージへの狂気的な執着度がうかがわれる。

誤解が溶けてジョーが脚本家であることを知ったノーマは、自分が書いたというサロメという分厚い脚本をジョーに渡し、それをなんとかきちんとした脚本に書き換えてほしいと仕事の依頼をする。その間ノーマの屋敷の離れに住むと言う約束で。ミュージカルでは説明がないが、映画ではノーマはジョーに黙ってジョーのアパートの家賃を支払ってジョーの荷物をすべて屋敷に移してしまう。ここですでにノーマによるジョーへのコントロールが始まっているのである。

ノーマは大きな屋敷に侍従のマックスと二人暮らし。トーキーになって20年以上も経っているというのに、無声時代の自分の名声にしがみつき、時代の流れに全く順応できていない。ノーマに献身的に尽くすマックスは、ノーマの幻想を壊さないためにせっせとファンレターを書き続けている。ノーマと毎日のように脚本を書く日が数か月続き、毎日高級料理をたべ上等のシャンパンを飲み高価なスーツまで買ってもらうジョー。大晦日にノーマはパーティをすると言ってジョーを相手にタンゴを踊る。そして如何に今年が完璧な年だったかをジョーに囁く「Perfet year」。しかし踊っている最中にノーマから愛の告白をされたジョーは息の詰まる思いでノーマの求愛を拒絶する。そして若い仲間たちのいるハリウッドスタジオへ向かう。

スタジオで大晦日のパーティーに参加したジョーは友人の婚約者であり以前に少し話をしたデミル監督の元でスクリプトガールをしているベティと再会し、一緒に脚本を書かないかと提案される。彼女の提案をうけ、やはり屋敷は出ようと決心したジョーはマックスに電話をしてその旨を告げようとするが、その時ノーマがカミソリで手首を切ったと知らされる。急いで屋敷に戻ったジョーは、ノーマの哀れな姿に罪悪感と同情心が混ざりノーマに口づけをする。ノーマはジョーの襟首をつかみ引き寄せ、しっかりとジョーの首に手を回す。もうお前を離さないとでもいうかのように。

自分の命を人質にとって男を引き留めようとするやり口は汚い。しかしジョーもその手口には気付いたはずだ。ジョーのこの口づけはジョーの無条件降伏でもある。俺はこの女から逃れられないと覚悟を決めた口づけだ。ここで第一幕目が終る。

二幕目の冒頭はこの芝居の主題歌ともいえるジョーのソロ、サンセットブルバードだ。

ノーマの若い燕となり快適な暮らしをしているジョーだが、自分が籠の鳥であることは十分自覚している。それでいて自分から去ることができない自分の優柔不断さに苛立ちを感じている。それがジョーの歌のなかで一番重要な主題歌「サンセットブルバード」である。

そうさ、名声を求めてここへ来た。プール付き犬付き名誉が欲しかった。ワーナーの敷地に駐車場。でも一年経って地獄の一部屋、折り畳みのベッドに角が剥がれた壁紙。

サンセットブルバード、曲がりくねった道、秘密で金持ちで怖いサンセット大通り。油断してる奴を飲みこもうと待っている。

夢だけじゃ戦争には勝てない。ここじゃ何時も点数を控えてる。日焼けの下で熾烈な戦い。借りて来たほほ笑み、誰かのグラスを注ぎ、誰かの奥さんにキス、誰かのケツにキス。金のためなら何でもするさ。

サンセットブルバード、見出しの大通り。たどり着くのはほんのはじまり。サンセットブルバード、大当たり大通り、一度勝ったら勝ち続ける。

(魂を)売り渡したと思うか?ああそうだよ売り渡した。いい依頼があるのを待ってるんだよ。快適な部屋、定期的な配給、24時間五つ星のサービスだ。正直俺はあのご婦人が好きだしね。彼女の愚行に打たれたんだ。泳ぎながら彼女の金を受け取ってる。彼女の日没(サンセット)を観ながら。

ま、作家だからね、俺は。(後略)

引きこもり生活をしていたノーマが唯一外出するシーンがある。それはパラマウントスタジオから電話がかかってきたことがきっかけだ。ノーマはジョーと書いていた脚本をスタジオに送っていたため、それが受け入れられ女優として主役を演じられるものと思い込みマックスにクラシックカーを運転させてジョーを連れてスタジオへ向かう。スタジオを見学に来たと思ったデミル監督(映画では本人が演じている)はノーマを椅子に座らせて「今リハーサル中だからここで見学してくれ」と言う。

スタジオでは昔のノーマをしっている照明係が「デズモンドさん、デズモンドさん、はっきり見させてくださいよ」と言ってノーマに照明を当てる。それを観た他のスタッフたちが「ノーマ・デズモンドだ!」といって集まってくる。ノーマは久しぶりにファンに囲まれて上機嫌。ここでノーマが歌う「As if we never said goodbye」(まるで一度もさよならを言ったことがないかのよう)はどこでも歌われる名曲である。ルポーンの哀愁に満ちた歌声には心を打たれる。

結局スタジオからの電話は彼女へのオファーではなく、彼女のクラッシックカーを借りたいという話だったのだが、それを知ったマックスはそのことを絶対にノーマに知らせまいと決心しジョーにも口止めする。なぜそこまでマックスがノーマを守ろうとするのかジョーが問い詰めると、マックスは実は自分は昔映画監督で16歳のノーマをスターにしたのは自分だったこと、そして彼はノーマの最初の夫だったことを告白する。しようと思えば映画監督を続けられたのに、ノーマの失脚とともにノーマを守るために自分も映画界を去ったのである。マックスはこれからもノーマを守っていくとジョーに次げる。マックスもまたジョーと同じでノーマの奴隷となっているのだ。

ジョーは次第にそんな生活に飽きて、夜ごと屋敷を抜け出してはベティと一緒にオリジナルの脚本を書き始める。そうしているうちにベティは婚約者が居ながらジョーに魅かれジョーもまたベティーに魅かれていく。二人が恋に落ちる様子が「Too Much in Love to Care」(愛しすぎて気にならない)で歌われる。しかしこの間ジョーは一度もベティにノーマのことを話していないのだ。どんどんベティに魅かれて生きながら、ノーマの愛人を辞めていないジョー。

ジョーが外で女と会っていることを知ったノーマはベティの電話番号を突き止め彼女に何度と電話をして嫌がらせをする。その現場に居合わせたジョーはノーマから電話を取り上げベティにノーマのサンセット通りの住所を教えて今すぐ来いと言って電話を切る。

駆け付けたベティに向かってジョーは自分がノーマの囲い者であることを白状する。ベティは「そんなことは知らない。私は何も聞かなかった。さっさと荷物をまとめて一緒に出て行きましょう」という。だがジョーは自分はここの生活が気に入っている。ここを出ても仕事などない。またあの安アパートに戻れというのか、君は婚約者の元へ戻って結婚しな。時々遊びにおいでよ、プールを使わせてあげるからと皮肉たっぷりに言う。

ベティはショックを受けてそのまま立ち去ってしまう。ジョーはベティを引き留めようと一旦は腕を伸ばすがその手を引っ込めソファに座りこもうとしてソファから崩れ落ちてしまう。

そこへノーマが入って来て「ありがとうジョー」と言うが、ジョーはスーツケースを持って出て行こうとする。そしてどうなったか、それが冒頭のシーンである。

さてここで私には解らないことがあった。結局ノーマの元を去ろうと決心したのなら、なぜベティと一緒に出て行かなかったのだろう?どうせ出ていくなら好きな人と一緒の方がよかったのでは?何故ベティに心にもない三下り半を下したりしたのだ?

色々な人の解釈を聴いていて納得したのは、ジョーはすでにハリウッドで腐敗してしまった敗北者だという気持ちがあった。それでベティまで腐敗させたくなかったという親切心からではないかという話。たしかに、もう自分が立ち直るのは手遅れだが、愛するベティだけでもなんとか救いたいという気持ちだったのかもしれない。多分ジョーはノーマの家を出たら、故郷のオハイオにでも帰って、また一からやり直そうと考えていたのだろう。

だがノーマ(ハリウッド)は自分勝手な退場は許さない。利用するだけ利用し役立たずになったら追い出すまでジョーはノーマの奴隷だったのである。

同じテーマのこんな歌を思い出す。

ようこそホテルカリフォルニアへ、チェックアウトは何時でも出来ます。でも永遠に去ることはできません。

一番有名なシーンについて書くのを忘れていた。冒頭のシーンでジョーがプールに浮かんでいると言ったが、そこにはすでに警察や新聞記者らが集まっていた。フラッシュをたいて写真を撮っている報道陣を観て、狂気の絶頂に達してしまうノーマ、あたかも撮影現場にいるかのように大袈裟なポーズを取りながら長い螺旋階段をおりてくる。映画ではこの間、階段やその下に集まっている警察官や報道陣はまるで時が止ったかのように動かず、ノーマだけがゆっくりと階段を降りてくる。

そして無声映画の役者特有のドラマチックな表情をしたかと思うと例の有名な台詞で幕が閉じる。

「デミル監督、クロースアップをどうぞ。」


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国中がロックダウンで苦しんでいる中も仕事をしていたハリウッドのストライキなど国民は興味がない

ハリウッドの脚本家と俳優たちが合同ストライクを始めてすでに100日を超えるそうだ。テレビなんぞ全く観ない私からすれば、だから何?と言ったところだが、実をいえばアメリカ市民のほとんどが私と同じように感じているようで、私が良く観てるユーチューバーが行ったアンケート調査ではストライキを辞めて早く戻ってこいと答えたのが何とたったの3.2%だったそうだ。ま、彼の視聴者はもともとハリウッドファンではないから当然の結果だが。

一回の出演料が何千万ドルとかいうような大型スターはともかく、脇役でちょこちょこ出ているような下っ端俳優などは一か月も二か月も収入が無かったら暮らしていけない。それに撮影がなければヘアやメイクさんや技術や大道具など、撮影関係でその他いろいろな仕事をしてる人たちの生活にも支障をきたすだろう。確かにお気の毒なことではある。しかしながら、、

2020年3月から始まった2年間のロックダウンにより、どれだけのビジネスが崩壊したかを考えると、その間ずっと仕事をし続けていた芸能界が三か月やちょっと休んだからといって同情心を持てと言われてもそれは難しいだろう。

私はロックダウン中にレストラン経営者が室内飲食を禁止されたため、野外テラスを設置したにもかかわらず、不衛生ということで営業を許可されないその真横で、映画撮影のためのケイタリング用野外食事場が設置されている前で泣きながら訴えていた動画を今も鮮明に覚えている。何故レストランの野外テーブルは駄目で、撮影現場のケイタリングは良いのか、何が違うんだと彼女は訴えていた。

だいたいロックダウンで生活に必要不可欠だからと営業を継続できたビジネスと、不必要だと言われて閉店を余儀なくされた商売との不公平さは今もって理解できない。

ステイプルと言う大型文房具店は開いているのに、その隣にあるキッチン用品専門店は休店。文房具店へ入るのは安全でも台所用品店に入るのは危険とはどういう意味だ?洋服も売っているウォールマートのような大型小売店は開いているのに、個人経営の洋品店は休店。同じように不可解な理由で美容院やエステなども休店。ロックダウンの影響で潰れたビジネスはうちの近所だけでも、先に話した台所用品店、50年以上やっていたコーヒーショップ、行きつけのカフェ、近所で唯一本物の味がしたラーメン屋、個人経営の中華店、苺畑夫婦が30年来通っていた運動ジム、などなど数えたらキリがない。

人びとがそうやって苦しんでいる間にも映画やテレビの仕事は続いていた。それでいて金持ち芸能人たちがテレビで「マスクしろ!」「ワクチン打て!」「ソーシャルディスタンスを守れ!」などと煩いお説教を人々にしていたことを我々は未だ忘れていない。

それはともかく、最近のハリウッド映画はすでに観客離れが始まっている。この夏は大型映画の不発ぶりが特に顕著で、ディズニーのリトルマーメイドやライトイヤー、インディアナジョーンズ、ミッションインポッシブルなどが不入りで次々にずっこけた。これまで必ず成功していたヒーローものもザ・フラッシ、シャザーン、ブルービートルなど全く駄目だった。テレビ界でもテレビドラマ至上最高の製作費を投入したロードオブザリングスシリーズが大失敗、黒人女性を起用したクレオパトラシリーズも大不評、とまあこんな具合だ。個人的には楽しみにしていたスタートレックのピカードやストレンジニューワールドの新シーズンが酷すぎて観られたものじゃなく、パラマウントのストリームはキャンセルした。(ただしネットフリックスのワンピース実写版は評判がいい)

この映画やテレビの観客離れが続いているのも、最近のハリウッド作品のポリコレお説教に人々が嫌気をさしてきたからだろう。それにロックダウン中に押し付けられたストリーミングサービスのおかげで我々は別に新作品を観なくても、昔の傑作品をいくらでも観ることが出来る。

何にしろインフレで大変は人々がハリウッドなんぞに同情する余裕はないのである。


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キャンセルカルチャーに立ち向かうアメリカ

ジェイソン・アルディーンのTry that ina small townという曲が人種差別の歌だと言い掛かりをつけられ、カントリーミュージックテレビ局がビデオ放映を中止するなどしてアルディーンに圧力をかけたが、左翼の必死のキャンセル努力とは裏腹に曲自体は大ヒットである。

Chart (2023)Peak
position
カナダ Canada (Canadian Hot 100)[45]9
グローバル200 Global 200 (Billboard)[46]2
ニュージーランドヒットシングルスNew Zealand Hot Singles (RMNZ)[47]26
オランダグローバルNetherlands Global (Dutch Top 40)[48]28
イギリスシングルスヒットUK Singles Sales (OCC)[49]9
アメリカビルボード上位100US Billboard Hot 100[50]1
アメリカカントリーエアプレイUS Country Airplay (Billboard)[51]20
アメリカ人気カントリーソングスUS Hot Country Songs (Billboard)[44]1

アルディーンはキャンセルカルチャーの圧力に屈せず謝罪を全くしていない。反対にアルディーンの曲をかけない決断をしたCMTの方が視聴者からボイコットの対象になっているくらいだ。CMT Suffers Huge Blow After Boycott Calls Over Jason Aldean Music Video Ban (msn.com)

CMTは自分らの視聴者を理解していない。カントリーファンは愛国心の強い人が圧倒的に多いのだ。アルディーンの歌はアメリカが犯罪者の暴力で破壊されつつあるのを憂う歌だ。そんな歌を締め出したらファンが怒るのは当然だろう。女装男のディランモルベイニーと提携して破産寸前に追い込まれているバドライトもうそうだが、大企業は消費者をバカにした態度をもういい加減やめたらどうなのだろうか。

さて、もう一人、こちらも危うくキャンセルされそうになった歌手の話をしよう。こちらは詳しいことをBlahさんがツイッターで説明してくれている

この歌手の名前はNe-Yoというラッパーだ。数日前のインタビューでトランスジェンダーに批判的な発言をしたのが今回の炎上の原因。

「親がちょっと親としての役割を忘れかけてるんじゃねぇかなって思うよ。お前の5歳児がさ、『ダディ、ぼくはおんなのこなんだ』って言って、それ認めちゃうんかよって。5歳だぞ…許可すりゃ一日中キャンディばっか食べてる年齢だ…まだ車の運転もできないのに、性別は決められるってのかよ?一体いつから5歳、6歳、12歳の子供に生涯を変える選択をさせるのを良しとするようになったんだ?いつからだよ?わからん。」 (略)

「もしも自分の息子が『ダディ、ぼく、おんなのこになりたいの』って言ってきたら、『息子よ、おんなのこって何だろうね?』と訊いてやるんだよ。息子はどうすると思う?人形遊びをしたいかもしれない。いいんだよしても。人形で遊べばいい。でもお前は人形遊びをする男の子ってだけだ。『ピンクが着たい』って?いいじゃねぇか、ピンクを着れば。でもお前はピンクを着てる男の子だよ。」

普段は政治的なことを言わない芸能人が、こうやってたまに本音でいいことを言うというのはこれまでにもあったことなのだが、大抵の場合1日も経たないうちに左翼メディアやSNSで叩かれて、必死に謝罪して「ごめんなさい、勉強します、許してください」で幕を閉じるので、どうせ今回もそういうことになるんだろうと思っていた。NeYoはアルディーンと違って黒人ラッパーなのでなおさらだ。

案の定翌日にはNeYoからの謝罪声明がツイッターに掲載された。

「反省に反省を重ね、子育てと性自認に関する私のコメントで傷つけてしまった方々に深くお詫び申し上げます。私は常にLGBTQI+コミュニティにおける愛と包括性を提唱してきたので、私の言葉がいかに無神経で攻撃的なものと解釈されたかは理解しています。 ジェンダー・アイデンティティは微妙なニュアンスを持つものであり、正直なところ、私自身このトピックについてもっと深く学ぶべきだと認めます。そうしていずれ、一層の共感を持って対話に臨めるようになればと思います。 私は愛を持ってすべての人の表現の自由と幸福の追求を支持していく所存です。」

彼のファンは怒ったが、まあどうせそんなことになるだろうと思っていた私は驚かなかった。しかしNe-Yoは黒人ラッパーで、マッチョな文化のある黒人界隈ではトランスジェンダリズムはさほど人気はない。特に彼のファンは多分彼と同じ意見をもっているはず。だからNe–Yoは謝罪などせずに持論を貫き通しても決して彼の人気には悪影響など及ぼさないはずだ。だから人々は非常に落胆した。

ところがその翌日、Ne-Yoは自分の言葉で今度はインスタグラムで謝罪を撤回。先の謝罪文は自分が書いたものではなく、彼の事務所の広報部が書いたものであり自分の本意ではないことを明らかにした。

親愛なるみんな、どうしてる。Ne-Yoだ。普段はあんまり自分が何を思ってるとか何をどうするとかについて話さねぇんだけど、っていうのもみんなそれぞれ意見なんて持ってるし、なにも特別なことじゃないからな。 でもこれは俺が強く感じてることだから言わせてくれ。パブリシストのコンピュータからじゃなく、俺の口から直接聞いてもらいたい。(略)

だけど、誰かが俺に質問を投げかけたら、俺には俺の意見がある。俺は子供達が人生を台無しにするような決断をするのを、決して見過ごせない。俺はそれは絶対にできない。だめだ。

それで俺がキャンセルされるって言うんなら、世界はもうNe-Yoを必要としてないのかもしれねぇな。でも俺は全く構わない。俺はハスラーでなんとでもやっていける、俺には養わなきゃいけない子供達がいるからな。何があっても俺はやる。

ブラボー!Ne-Yoさん、良く言ってくれた。キャンセルカルチャーの圧力に負けないでくれてありがとう。

私はヒップホップは全然興味ないのでNe-Yoがどのくらいの大物ラッパーなのかは知らないのだが、だいぶ人気のある人らしい。こういう人気のある人が父親の責任についてこうして語ってくれるというのは非常に頼もしい。

キャンセルカルチャーと戦うためには、キャンセルに参加しないことが一番大事なことだ。大物芸能人が人種差別だのトランス差別だの言われても怯まず謝罪せず毅然とした態度を示し、それでもファン達から見放されない例がいくつも出てくれば、レコード会社や事務所がパニックを起こして芸能人たちと即座に手を切るなどということはなくなるだろう。さらにCMTのように手を切ったおかげでかえってウ経済的なダメージを受けるとなれば、左翼に染まっている大企業も早々簡単にキャンセルに参加することは出来なくなる。

だから今回この二人の大物がキャンセルカルチャーに立ち向かってくれたことは非常に喜ばしい限りだ。


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LGBTQ+支持のゲイ俳優も容赦なく攻撃するキャンセルカルチャー

私が好きなミュージカル俳優/歌手にジョン・バローマン(John Barrowman)という男性がいる。彼はスコットランドのグラスゴー出身だが、子供の頃に家族と一緒にカリフォルニアに移住、アメリカに帰化して、いまやアメリカ人俳優として舞台やテレビドラマやトークショー司会やコンサート歌手と、幅広い分野で活躍をしている。今日はその彼が一年ちょっと前にセクハラの汚名を着せられて、もう少しでキャンセルされそうになったというお話をしたい。

ジョン・バローマンの大ブレイクは1989年、彼がまだ22歳の頃にイギリスの大物舞台女優イレイン・ペイジに見い出され、ペイジ主演のエニシングゴーズ(Anything Goes)でペイジの相手役ビリー・クローカー役に抜擢されたことに始まる。その後イギリスのウエストエンドやニューヨークのブロードウェイの舞台で大活躍をするが、アメリカの視聴者にも知られるようになったのは2005年に再出発したドクターWHOでキャプテン・ジャック・ハークネス役を演じたのが最初だろう。その後も何度もドクターWHOに同役でゲスト出演しドクターWHOのスピンオフ番組トーチウッドの主演を演じた。最近ではヒーローものシリーズのアローで悪役を演じたりしている。彼は一応アメリカ人俳優ではあるが、出身地の母国UKでの活躍のほうが目立ち、イギリスの朝番組や音楽番組の司会などでも忙しかった。しかし常にアメリカ人キャラクターを保っており、イギリスの番組でもずっとアメリカ訛りで通している。

ドクターWhoのキャスト(左端がノエル・クラーク)とジョン・バローマン(右)

Josh Barrowman in Doctor Who

さて、そんな彼がトラブルに巻き込まれたのは2021年の春、ドクターWHOで共演したノエル・クラーク(Noel Clarke)が20人からの女性からセクハラされたと告発されたのがきっかけだ。このことでクラークの過去が色々掘り起こされ、そのなかでクラークが2015年にコンベンションかなにかでバローマンがドクターWHOの撮影現場で何度か局部をさらけ出したという話をしている動画が浮上し話題となってしまったのだ。これについてはバローマンは2008年にドクターWHOの制作者から注意を受けており、その時から何度も謝罪しており、他のインタビューや自叙伝でも色々と書いている。クラーク以外の共演者たちもバローマンの行動について面白おかしい思い出として話をしている。つまり仲間内やファンの間では広く知られていることであり新しいニュースではなかった。しかしクラークのセクハラスキャンダルが出た時点でクラークよりも遥かに知名度のあるバローマンの方にゴシップ雑誌やSNSやユーチューブチャンネルなどが食いついてしまったのだ。

おかげでドクターWHOのTime Fracture劇場版からバローマンのシーンがカットされてしまったり、トーチウッドの特別番組がキャンセルされたりジャック・ハークネスの劇画発売が発売直前にドタキャンされたりした。2021年後半、もうバローマンのキャリアはこれで終わりかと思われるほどひどい状態となってしまった。

バローマン本人は下記のように声明文を出しただけで、しばらくの間、特にこれといった発言をしなかった。

今にして思えば、私の高揚した行動によって動揺を招いたかもしれないことは理解していますし、以前にも謝罪しています(略)2008年11月の(最初の)謝罪以来、私の理解と行動も変わりました。

これは正しい行動だったと思う。こんなくだらないことで騒ぎ立てる奴らにはいくら謝罪しても意味がないからだ。かえって弱みを見せればその分叩かれるだけである。

バローマンは翌年2022年初期に、ロレイン・ケリーと言うスコットランドで人気の朝番組でスキャンダル初のインタビューを受ける。ロレインはもともとバローマンとは友人関係にあり、このインタビューもかなり同情的なものだった。これがスコットランドの番組であること、インタビュアーがスコットランド人であることなどから、普段はアメリカ人キャラクターを崩さないバローマンだが、この時はスコットランドのお国訛りで話している。

バローマンはインタビューでこれは15年前の出来事であり、身内だけの撮影現場でのことで、周りも皆ふざけていて誰もきにしていなかったこと、その後も色々な場所で何度も謝罪しており自分の自叙伝にも書いていることを説明し、ちょっとしたおふざけがまるで深刻なセクハラでもあるかのようにゴシップ紙に大袈裟に脚色されて書かれてしまったと怒りをぶつけた。無論今ならそんなことはしないが、過去を変えることは出来ないと語った。

興味深かったのはバローマンが「キャンセルカルチャー」という言葉を何度か使ったことだ。この言葉は主に保守派の人たちが使い出した言葉で、特にLGBTQ+に関して批判的なことを言った人たちがキャリアを破壊されてきたことに使われてきた。イギリスではJKローリングのようにトランスジェンダーに批判的な発言をした人たちが攻撃され色々な場でキャンセルされてきた。

ここではっきりさせておかなければならないのは、ジョン・バローマンは自分がゲイであることを最初からオープンにしていただけでなく、LGBTQ+活動にも積極的に参加していたということである。キャプテン・ジャック・ハークネスのキャラクターはバイセクシュアルで、彼には女性ファンも多いが男性ファンもかなりいる。そんな彼でさえもこのキャンセルカルチャーは容赦なく攻撃したのだ。

左翼リベラルたちはキャンセルカルチャーなどというものは存在しない。これは右翼保守の陰謀論だとか被害妄想だとか言って来た。だからそれをゲイでLGBTQ+の熱烈支持者であるバローマンが使ったのは皮肉である。保守派を黙らせるための手段がまわりまわって自分らの仲間をも攻撃し始めたというわけだ。

私はこの件でBBCは非常に偽善的だと思った。この話が広まった際に、BBCはあたかもバローマンの過去の行動を全く知らなかったかのように言っているが、すでに2008年の段階でBBCは彼に注意までしていたという事実があり、それでことは解決していたはずである。バローマン主演のトーチウッドが始まった時には、バローマンの現場での行為は有名だった。いくら注意を促したとはいえ人気があるからといって穏便に済ましていたものを、今になってあたかも驚いたようにふるまうのは卑怯だろう。そんなに許せないことだったなら、なぜ当時彼を首にしなかったのだ?当時は大したことだとは思わなかったのなら、今の価値観で15年以上も前のことを蒸し返すのはおかしいだろう。

それにBBCの番組では男女の裸体など普通に放映している。イギリスのテレビはアメリカと違って、セックスに関する描写がおおらかである。アメリカでは普通のネットワーク番組では男性の局部どころか臀部すらも映さない。だがイギリス国営放送のBBCでは男性の正面からの全裸など普通に映される。そういう局で、バローマンがうちわの仲間たちの間で裸になったからなんだというのだ?

BBCが支持しているLGBTQ+のプライド月間では、全裸の男たちが子どもたちの前で男性器をひけらかしているではないか。ああいう行為を批判しないなら、バローマンの行為だけ批判するのはおかしいだろう。

結局バローマンはどうなったのかというと、ロレインでのインタビューでも謝罪をちょっとした後は、新しく始まるテレビ番組のレギュラーになった話や自分のコンサートツアーの宣伝でインタビューの大半が埋まった。この後にも他の番組でのインタビューで、やはり冒頭でスキャンダルの話をちょっとした後は、今後のイベントの宣伝をしていた。司会者たちが好意的であったことから考えて、ああ、これで終わったんだなと感じた。イギリスメディアはバローマンを許したのだ。

そして一年後の今、バローマンのフェイスブックを覗いてみると、コンサートやコンベンション出演の予定がぎっしり詰まっている。どうやらバローマンはキャンセルカルチャーの攻撃を生き延びたようである。


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カントリー歌手ジェイソン・アルディーンがそう簡単にキャンセルされないわけ

ここ数年、芸能人や著名人が何か反ポリコレ的な発言をすると、すぐに左翼リベラル連中が大騒ぎをしメディアも一緒になって叩き、本人に弁明する機会も与えず数時間後にはスポンサーが去ったり、事務所から解雇されたりとなり、翌日には当人がひれ伏して謝罪し許しを請うというシナリオが何度となく繰り返されてきた。しかし今回のジェイソン・アルディーンの場合はこれまでと違っている。

事の起こりはカントリー歌手ジェイソン・アルディーンが新曲Try That In A Small Townのミュージックビデオを数日前に発表したことにある。この曲はすでに5月に発売が開始されており売れ行きも好調だった。ところが一週間ほど前、このMVが発表された直後、そのビデオの内容が人種差別的であるとか、暴力を煽っているとか言い掛かりをつけられSNSで大炎上となった。お決まり通り根性のないカントリー専門の音楽チャンネル、カントリーミュージックテレビジョンが即アルディーンの新曲をプレイリストから外してしまった。

いつもならここで歌手は謝罪の声明文を出すところなのだが、アルディーンはそれをせず、自分は何も悪いことはしていないと毅然としている。しかも不思議なことにアルディーンはファンから見放されるどころか、かえって新曲の売上は上がりファンたちも完全にアルディーンの味方をしている。反対にアルディーンの曲をかけないといったテレビ局をボイコットしようという動きさえある。カントリー歌手の間からも新曲への批判は言い掛かりだとアルディーンを弁護する声もいくつか上がっている。

アルディーンは金曜日行われたコンサートでもこのこと触れ「長い一週間だった」とはじめた。「俺は誇りあるアメリカ人だ。俺はこの国を愛してる。俺はこの国に、このくだらねえことが始まるまえの元の姿にもどってほしいんだ。」と語った。「USA, USA」と声援を送るファンたちに「キャンセルカルチャーてのはあるんだ。それは人の人生をすべて破壊しようとするんだ。でも今週俺が見たのは、カントリーミュージックファンがそのくだらなさを見透かしたってことだ。そうだろ?俺はカントリーファンがこれまで見たことないほど応援してくれるのを見たんだ、それは凄いものだったよ」そして今後もこの歌を歌うかと色々な人に聞かれたが「答えは簡単だ。言葉は放たれた!お前らは声高に言ったんだ。」そして彼は新曲を唄い始めた。

私はビデオを見たが、すべてここ数年で起きた暴動や犯罪事件のニュース画像である。犯罪を犯している犯人たちも人種は様々で、特にどの人種に取り立てて焦点を当てているわけでもない。これを見て黒人差別だと言っている人のほうが、犯罪を犯すのはすべて黒人だという偏見を持っていると言えるだろう。

アルディーンはこういう行為は、大都市では許されても小さな町では通用しないぞということを言っているのだ。

左翼リベラルが気に入らないのは、ニューヨークやサンフランシスコなどの大都市がどんどん民主党の悪政によって破壊されている事実を指摘されたことなのだ。そして小さい町の愛国心あるアメリカ人は都会の政治家たちの思い通りにはならないことが腹立たしいのだ。

今回のファン達の反応でアルディーンがどれほど正しかったかが明らかになった。キャンセルカルチャーだあ?小さい町でやってみろ!


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