差別をする自由は尊重されるべきか?

先日ネットでとある女性と同性婚について話をしていた。彼女のツイッターを読む限り、彼女は離婚専門の弁護士であり共同親権に反対する立場の人であると推測される。ま、それはいいのだが、私の主張は同性婚が合法になったら、宗教上の理由から同性婚にサービス提供を拒否する人が訴えられる可能性があるという話をしたら、彼女は「誰にも差別をする自由などない」と断言した。

これは非常に興味深い宣言だ。人権屋の皆さまは、やたらにこの「差別」という言葉を使いたがる。なんでもかんでも「差別だあ~」と言えば相手を黙らさせることが出来る魔法の呪文ででもあるかのように。だが私は差別も自由人の大事な権利だと考えている。

差別という言葉を使うから語弊があるが、これが区別であれば、特に問題はないはず。我々は日常生活において色々なものを区別している。私は甘いものは好きだが塩辛いものは好きではない、ズボンは好きだがスカートは嫌い、
Aさんは好きだがBさんは嫌い、といったように。そして私たちは皆、その好き嫌いを基本にして自分らの行動を決めている。これはれっきとした差別だ。だが、何を好み、誰と付き合うか、それは個人の自由であるはず。

無論これが個人単位ではなく企業など商売になったらどうなるかという問題はある。例えば私がキリスト教の神父だとして、自分の協会に同性婚の結婚式を挙げてくれという依頼が来たら、私は宗教上の理由からお断りするしかない。だが私には法律上この依頼を断る権利があるのだろうか? いや、宗教の自由が保証されている日本では、断る権利を守る必要があるのでは?

私は「~は差別されなければならない」という差別的な法律さえ取り除けば、個人や民営の企業が誰をどのように差別しようと認められるべきだと考えている。昔アメリカで黒人と白人が一緒の施設で行動することを違法としたジム・クロー法などは、例えレストランの経営者が黒人客にも入ってほしいと思ったとしても、経営者にはその自由はなかったのである。つまり、法律が差別を強制していたのだ。だからこのような悪法は撤廃されて正しかった。

しかし、差別法を撤去することと、差別をしてはいけない、という法律を通すことは違う。私は差別を撤廃するのは法律ではなく市場だと考えている。例えば黒人の多い地域でレストランを営む経営者が黒人客を拒否したとする。こういう行為は店の客数を減らすことになり不経済だ。それに黒人の友達や家族の居る客や、差別者の店を好まない客など、客数は極端に減るだろう。だから経営者もこんな不経済な差別はやらなくなる。

反対に○○人は行儀が悪く、大して物も頼まないのに長居をするため不経済だと思えば、経営者が「○○人はお断り」と言っても構わないと私は思う。そうなれば、今度はまた別の経営者が「○○人大歓迎」という店を始めればいい。そうすれば、それなりに儲かるだろう。

だから私は本当に差別をなくしたいなら、法律を通すのではなく市場に任せておけば自然と是正されると考えている。資本主義がきちんと機能していればそういうことになる。(残念ながら現状のアメリカではそのような差別は許されていないが。)

ただし、誰もが必要な公共施設の場合はこういう差別は許容できない。水道局とか市役所とか銀行とか、一般人にとってなくてはならない組織での差別は人権迫害であるから、そういう企業に限っては、個人の好き嫌いによる差別はあってはならない。

しかし、「~を差別してはいけない」という法律はいったい何をして「差別した」ということになるのか、それをはっきりさせる必要がある。これがはっきりしないと左翼活動家によってなんでもかんでも差別だと騒がれて訴えられたり、政府によって罰せられたりする可能性は出てくるからだ。

しかし、同性婚推進者にしろLGBT活動家にしろ、この差別の定義をはっきりっせようとする人はない。

たとえば、LGBT差別解消法なるものが通過した場合、男性性器のある女性自認の人物を女湯に入れないのはトランス差別とみなされるのか、といったことは、事前にはっきりさせる必要があるが、活動家の方々は、そんな心配はいらない、そんな問題は起きない、というだけで、我々が聞いている差別の定義をはっきり示すことは絶対にしない。それだけ強く変化を要求するのであれば、何故変化が必要なのかしっかり説明する義務が彼らにはあるのではないか?

彼らは知っているのだ。同性婚もLGBT法も、当事者たちの人権を向上させるためなどというのは表向きで、本当の理由は一般人の自由を迫害することにあると。左翼は特に宗教家が嫌いなので、宗教の自由が迫害されることは弊害ではなく計画的だ。

だから我々は騙されてはいけない。彼らの目的は差別撤廃などというものではない。彼らの目的は自由社会を破壊することだ。よって、差別する自由は守られなければならないのだ。


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カトリック生徒たちが老インディアン男性を囲んで嫌がらせをしたというフェイクニュースに完全に騙された左翼たち

先日命のための行進が行われたワシントンDCで、行進に参加していたカトリック高校の生徒たちが、そばに居合わせたインディアンの老人を取り囲み大声を張り上げるなど嫌がらせをしたというニュースがアメリカ中(いや世界中)で報道された。アメリカの左翼芸能人や政治家たちはこぞって少年たちの悪口をツイートし、なかには少年たちの住所やメルアドなどを公表して脅迫電話や脅迫状を送り付ける者たちまで現れた。日本でも鈴木一人とかいう経済学者がここぞとばかりにアメリカの悪口をツイート。

ところが前後の様子を写した別の角度からのビデオが浮上し、実は最初の記事にはかなり意図的な誤りがあることが判明した。こちらその様子を説明しているリーズンの記事

新しく浮上した二時間にわたるビデオを観てみると、少年たちとインディアンおっさんとの遭遇がどのようなものだったのか、その文脈が明らかになる。

ビデオによると、マガハット(メイクアメリカグレートアゲイン=アメリカを再び偉大にしよう、のMAGAという頭文字をかたどった赤い帽子)姿の少年たちは老人に人種差別に満ちた嫌がらせなど全くしていないだけでなく、差別的でホモフォブな罵倒を繰り返すおかしな黒人カルトの前で冷静を保っている。この黒人たちはヒーブルーイスラエライツという訳の解らないカルトのメンバーで、反白人で反キリスト教で反同性愛者という国粋主義カルト。インディアンのおっさんが現れる前に、この黒人グループはマガハットカトリックグループの少年たちに差別用語を使って罵倒していた。

フィリップというインディアンのじいさんは、この二つのティーンエージャーたちのグループの間に入り込み、ドラムを叩きながら白人少年たちの方に近寄って来た。最初白人少年たちはおっさんの意図が解らず、じいさんと一緒になって歌っていた。これがじいさんに同意してなのか、じいさんをからかうつもりだったのかは、はっきりしない。

フィリップじいさんの行進に道を譲らなかった少年がいた。少年は笑顔をみせながらおっさんをじっと見つめている。最初に報道されたビデオはここから始まる。少年がなぜ笑顔でじいさんの顔を見つめているのかはわからないが、少年の顔の前でうるさくドラムを叩くじいさに対して、少年の態度は非常に冷静だ。少年は何も言わず、じいさんを罵るでもなく、ただ笑顔で見つめていただけだ。それを嘲笑と取るかどうかは視聴者の勝手だが、これをもってして少年が人種差別的な態度を取ったというのは言い過ぎにもほどがある。

笑顔で黙って見つめる少年にフィリップじいさんはドラムを叩きながら何度も何度も詰め寄った。そのうちじいさんは飽きたのか、少年の前から立ち去った。ビデオはこのリンクから見ることが出来る。

フィリップ爺さんが立ち去った後も、黒人カルトメンバーたちは白人少年たちのことを「おカマ野郎」とか「ヨーロッパへ帰れ」とか訳の解らない罵声を飛ばしていたが、白人少年たちはその挑発に乗らずに学校の応援チアーで声を張り上げ、黒人たちの声をかき消そうとした。

さて、この時、なぜかフィリップ爺さんは再びこの二つのグループの間に割って入って来た。爺さんはのちにザ・デトロイトフリープレス紙のインタビューでこう答えている。

「(白人少年たちは)四人の黒人たちに襲い掛かろうとしていました」それで(フィリップ氏)は事が大ごとにならないうちに仲裁に入ろとした。

He seems profoundly mistaken: The video footage taken by the black nationalists shows no evidence the white teenagers had any intention of attacking. Nevertheless, Phillips characterized the kids as “beasts” and the hate-group members as “their prey”:

しかしフィリップ爺さんは状況を完全に誤解していた。黒人国粋主義者たちが撮ったビデオには白人少年たちが攻撃してくる様子は全く写っていない。にも拘わらずフィリップ爺さんは少年たちを「獣ども」と言い黒人たちは「獲物」だとまで表現した。

「その時私は気づいたのです。私は自分を獣と獲物の間に置いてしまったのだと。」とフィリップ氏。「この若者たちは獣のようで、黒人たちは獲物のようでした。そして私はその真ん中に居たのです。それで彼ら(白人達)は一ポンドの肉を欲しており、その矛先が私に向けられたのです。」

またしてもこれはフィリップ爺さんの誤解だった。爺さんは白人少年たちが「壁を建てろ」と叫んだというが、記者が聞く限りそんな言葉は全く聞こえないという。無論子供たちは色々なことを叫んでいたので、そんなことを言った少年もいたかもしれないが、記者にはそれは聞こえなかったという。

地元新聞に語った少年たちの証言によると、彼らは母校のスポーツ応援音頭を幾つか繰り返しただけだという。記者によるとこの少年の証言は正しいという。

「僕たちの学校は男子校なので、テンションあがっちゃうんです。」と学生の一人。「これまでにも何回もやったように、暇つぶしに応援音頭をとろうってことになったんです。そしたらそのなかにネーサン・フィリップ率いる大人たちがドラムを叩きながら入って来たんです。最初僕たちはなにか文化的な表現で僕たちの応援に合わせて叩いてくれてるのかなと思ったんです。」この生徒によると、生徒たちが笑っていたのは音楽を楽しんでいたからだという。しかしそのうちに混乱してきた。事実何人かが「何が起きてるの?」と言っている声が聞こえる。

子供たちが何か変なことを言ってフィリップを威嚇しようとした可能性はあるとはいうものの、ビデオにはそのような映像は全く写っていない。少なくともフィリップ爺さんが言うようなことが起きた証拠は全くない。

さてここで、人種差別者扱いされたコビンぐトン高校の生徒、ニック・サンドマン君の言い分を聞いてみよう。

僕は金曜日の午後リンカーンメモリアルにおいて起きたことを、僕や僕の家族に向けられた間違いやあからさまな嘘をただすために、事実のみをお話します。

僕がビデオのなかでアメリカ原住民抗議者に詰め寄られた生徒です。僕はリンカーンメモリアルに午後4時30分に着きました。僕は、バスがケンタッキーに向けてワシントンを出発する5時半までに来るように言われていました。僕たちは命のための行進に参加しており、その後少人数のグループに分かれて観光をしていました。

僕たちが着いた時、四人のアフリカ系アメリカ人の抗議者がリンカーンメモリアルの階段のところに居ることに気が付きました。僕は彼らが何に対して抗議をしていたのかわかりませんでした。でも彼らが僕たちの学校の生徒たちに侮辱的な言葉を放っているのを聞きました。

抗議者たちは口々に憎しみに満ちたことを言ってました。彼らは僕たちを「レイシスト」「偏狭者」「馬鹿白人」「おカマ野郎」「近親婚子供」などと呼びました。また、僕たちの学校のアフリカ系アメリカ人の生徒に対して僕たちが彼の臓器を増殖しているなどとひどいことを言いました。僕にはその侮辱の意味が解りません。でも聞いてびっくりしました。

僕たちは公共の場で大声で罵られたので、生徒の一人が僕らに向けて叫ばれているひどい侮辱に対抗するため学校のお祈り音頭を取ってもいいかと付き添いの先生に聞きました。 この音頭は普通スポーツ競技の時に取られるものです。これらはすべてポジティブなもので普通の高校でよく聞かれるものと似ています。付き添いの先生が歌ってもいいと許可をくれました。僕たちは許可なくして音頭を取るなどということは絶対にしません。

この間ずっと学校のお祈り音頭以外の声は聴かれませんでした。僕は生徒の誰ひとりとして「壁を建てろ」とか何か侮辱的なことや人種差別主義的なことを言うのを聞いていません。 そうでないという確定は全くの間違いです。僕たちは大きな声で音頭を取っていました。なぜなら抗議者たちの憎しみのこもった罵倒をかきけしたかったからです。

数分後、それまで僕が気づかなかったアメリカ原住民の抗議者たちが僕たちのグループに近づいてきました。原住民の抗議者たちはドラムを持っていて少なくとも一人の人がカメラを持っていました。

ビデオに写っているみんながみた抗議者が、ドラムを叩きながら群衆のなかをうねり歩き、人々は彼に道を開けていました。誰も彼の行く手を遮ろうとはしませんでした。彼は僕に焦点を合わし、僕の顔から数センチのところまで近づいてきました。彼は僕を睨みつけながらずっと太鼓をたたき続けました。

僕はこの人と全く交渉していません。言葉も交わしていません。身振りで何かを示したり威圧するような動きもしていません。正直な話、僕はどうしてこの人が僕に近づいてきたのか驚き困惑しました。僕たちはすでに他の抗議グループから怒鳴られていたし、二つ目のグループが近づいてきて僕は、大人たちがティーンエージャーたちを挑発して何か手のつけられないことになるのではないかと心配になりました。

それで僕は動かずに冷静にしていることで、状況を鎮めることが出来ると信じました。僕はみんながカメラを持っていることに気が付きました。それで大人たちが僕らを挑発して何か大きな衝突を起こそうとしているのではないかと考えました。それで僕は黙ったままこれ以上ことが荒立たないことを祈りました。

ドラムが鳴っている間、抗議者のメンバーが僕たちに「お前らは俺たちの土地を奪った」とか「ヨーロッパへ帰れ」などと怒鳴りました。僕たちの同級生が何か答えようとしているのを聞きました。僕はクラスメートたちに抗議者と話をするのを止めるように手ぶりで示しました。僕たちは落ち着いてこの緊張を鎮めなければならなかったからです。

僕は決して原住民の道を塞いだとは思っていません。彼は僕を避けて行こうとはしませんでした。彼は僕に詰め寄るためにわざと僕を選んだのは明らかです。僕にはそれが何故なのかはわかりませんが。

この衝突は先生の一人がバスが来たので帰る時間だと言ったことで終わりました。僕は先生の指図に従ってバスの方へ向かいました。この時僕は、落ち着いていたことで問題は解決したと思いました。僕は暴力に至らなくてよかったと感謝しました。

僕には何故この二つのグループが僕たちに絡んできたのか全く理解できませんし、いったいリンカーンメモリアルで何にに対して抗議をしてたのかもわかりません。僕たちはただ単にバスに乗るためにあつまっていただけで、決してメディアの大騒ぎの中心になるようなことはしていません。公共でのデモに遭遇したのは僕にとって生まれて初めてです。ましてやデモに巻き込まれるなんていうのも初めてです。

僕はわざと抗議者たちに変な顔をしたりもしてません。僕は微笑みましたが、それは僕が怒ったり威圧されたり挑発されて問題を拡大する気はないことを彼にわかってもらうためです。僕は敬虔なクリスチャンでカトリック教徒です。僕は常に僕の宗教の教えに従うよう努力しています。他人に敬意を表し暴力に至る行為を避けることに勤めています。

僕はこの人に何の敵意も持っていません。僕は彼が抗議をする言論の自由を尊重しますし、いつでもリンカーンメモリアルで祈りの声を上げることも支持します。ただ僕は彼は他人の空間に侵略してくる作戦については考えなおすべきだと思いますが、それも彼の選択です。

僕は人種差別者を含め存在するあらゆるひどい名前で呼ばれました。でも僕は暴徒のように僕の家族の名誉を汚すことは許せません。僕の両親はあの旅行には参加していませんでした。そして僕は公共の場で家族の代表として恥かしくない行動をするよう努めています。

僕は暴力や命を脅かす脅迫をソーシャルメディアで受け取りました。ある人は僕を学校で襲うと脅迫し、ある人は僕の近所に住んでいると言っています。僕の両親は暗殺の脅迫状を受け、ビジネスに対してもネット攻撃を受けています。

僕は自分の学校を先生たちをクラスメートたちを愛しています。僕は良い成績をとるために一生懸命勉強してきましたし、課外授業にも色々参加してきました。僕は 僕たちの学校の生徒たちがアフリカ系市民や原住民に対して差別的なひどいことを言ったなどということを、多くの人々が起きていないことを起きたかのように信じていることに非常な悲しみを感じます。

僕は他の人たちのことは言えませんが、僕のみに関してだけ言うならば、コビントンカトリック高校の生徒たちはすべての人種や文化に尊敬の念を持っています。僕たちはすべてに人々の言論の自由を支持します。僕はフィリップさんの言ったことについて何もいうことはありません。僕は彼をしらないし彼の心の中のことが解るとも思えません。また他の抗議者に関してもこれ以上言うつもりはありません。彼らの心のうちは解りませんから。

フィリップさんが元海兵隊の米国退役軍人だということを読みました。彼の貢献に感謝するとともに制服を着て国を守ってくれている方々に感謝いたします。もしだれか一人自由に発言する権利があるとしたら、それは海兵隊退役軍人です。

僕は自分が観察し感じたことしか話せません。しかし僕はたった数秒のビデオを観ただけで判断を下すのではなく、すでにインターネットで観られる長い方のビデオをみてくださるようにお願いします。長編のほうは目的ある人々が表現したのとは全く違う映像であることがわかるはずです。

僕は何が起きたのかをはっきりさせるために、コビントン高校の主教様たちににこの事実を告げました。 そして僕はどのような捜査にも自主的に協力する旨を明らかにしました。

なんという立派な高校生なんだ。白人高校生だから人種差別者に違いないと思って挑発したフィリップ爺さんや、前後の状況も知らないでカトリック生徒たちを人種差別扱いした左翼の大人たちとは大違いである。

事実が分かった今、彼らをさんざんこき下ろした大人たちは謝罪する覚悟はあるのだろうか? かなり疑問だがね。


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胎児の命を守れ、ペンス副大統領がトランプ大統領の激励のメッセージを届ける。無視するメディア。

今年も二回目の反トランプ左翼らによるウィメンズマーチ(女性行進)がアメリカ全国各地で行われた。いつものように主流メディアは、あたかもこの行進がアメリカ全土の女性たちに支持されているかのように報道している。日本のメディアも便乗して大々的に報道している。

しかし、もうひとつ、大規模な行進がもう何十年も行われていることをご存知の方はどのくらいいるのだろうか。この行進はマーチフォーライフ(命のための行進)と言って、人工妊娠中絶に反対する行進で妊娠中絶がアメリカで合法になった1974年からずっと毎年繰り返されている。毎年何万という人々が集まり、去年はトランプ大統領も参加して演説を行うなど大々的な行事になっているにも拘わらず、主流メディアは完全無視。下記は今年の様子。

今年はペンス副大統領が参加し、トランプ大統領からの激励のメッセージを届けた。トランプ大統領のメッセージ動画はこちら

一方、メディアが大々的に報道している女性行進は、拙ブログでも紹介したように、女性行進の主催者があまりにも反ユダヤ主義を表に出し過ぎるため、数々の支部が女性行進から離れ、ついには民主党も組織から距離を置くに至った。しかし女性行進はそれでも反ユダヤ姿勢を崩さず、ユダヤ系メンバーたちの離脱が目立つようになった。

そんななか、何故私が女性行進から去ったのかというユダヤ教の女性ラビ(ユダヤ司教)の公開手紙を見つけたので読んでみたい。 著者の名前はRabbi Nicole Guzik ニコール・グージック司教。

司教は今回のロサンゼルスにおける女性行進に参加するにあたり、最近の女性行進組織の反ユダヤ的な発言に懸念を抱き、LA支部の共催者 エミリアナ・グレカとディーナ・カッツに問い合わせをした。女性行進が反ユダヤ主義だという悪評が立ち始めてからも、司教は一応彼女たちの言い分も聞くべきだという寛大な気持ちでいた。グージック司教は共催者の二人と何度も会って話、ロサンゼルスの行進は全国本部とは違ってイスラエルをアパルトヘイト政権だなどといって攻撃したりはしない、もし演説者が台本からはずれてイスラエルを攻撃するような発言をした場合は音楽をかけて即座に退場させると約束させた。

しかし、女性行進LAが開会されて一時間もたたないうちにその約束は破られた。イスラム教市民団体でモスレム同胞軍と深いつながりのある組織代表のマーワ・リファヒー(the Council on American-Islamic Relations)は自分の持ち時間を使ってパレスチナ政策について話し始めた。彼女がイスラエルをアパルトヘイト政権と言ったところで、司教は何時音楽が鳴るのだろうか、演説の中断は何時されるのかと待っていたが、何も起きなかった。

誰がこのスピーカーの審査をしたのだ?何故反ユダヤ演説はさせない、この反ヘイトの場所では許されないという保証がされたのだ?なぜワシントン主催者を弁護することが許されたのだ?私は自分の声を使って私の評判にかけてユダヤ女性は歓迎されている必要とされているという主催者を信じて、この組織を弁護してきた。私たちは必要とされているかもしれない、だが歓迎はされていない。それが良く分かった。

腹を立てた司教とその家族はその場から立ち去った。その時共催者の一人エミリアナに遭遇した司教は自分の不満を述べたが、エミリアナはただ謝罪しただけで特に何かを変えようとする気配はなかった。司教は自分がユダヤ教徒として利用されたのだと悟り、屈辱を覚えたという。

一緒に参加していた他のユダヤ系女性たちも口々に「もうたくさんだ。これが私の最期の行進だ」と言っていた。

ニューヨークで行われた女性行進では、リンダ・ゴキブリー・サーサワーがまったく恥もなく、「モスレムであることを恥じていない、パレスチナ人であることを恥じていない」と言って反イスラエル、反ユダヤ教の演説をぶった。女性行進は女性のための行進などではなく、単にトランプ大統領の親イスラエル政策に繁多なだけの完全なる反ユダヤ行進だと証明されたのである。


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「公衆トイレ論文は信用ならない」を読んで分析してくれたブロガーさんに感謝しよう

去年の9月ごろだったかUCLAのお偉い学者さんたちが、マサチューセッツ州の公衆トイレにおけるトランス許容方針を起用した各地域で施行前と後とで性犯罪は特に増えなかったという論文を発表した。私はそれを最初に読んだときに、なんかうさんくさい調査だなと思っており、時間があるときにちゃんと読んで分析しようと思っていた。そんなことを考えているうちに、六帖のかたすみさんが一部二部に分けて丁寧に分析してくだすったので、怠慢人全般に成り代わって私からお礼を言いたい。六帖さん、ありがとう。

詳しいことは六帖さんのブログを読んでいただくとして、六帖さんがこの論文は信用ならないとする理由として、先ず第一に調査者たちがバリバリのLGBT推進者であることを指摘している。新法律は何の悪影響を与えないという偏見から始めた調査なので、その結果も自分らの都合のいいようになっている可能性は高い。

その他、六帖さんは、調査となったサンプルの範囲が狭すぎることや、人口数や文化の近い都市との比較も、かなりいい加減なものがあると指摘している。

そして、何よりも大事なのは、アメリカの小さな地域での調査が日本でも当てはまるのかどうかということだ。

日本とアメリカでは公衆トイレの施設そのものに違いがあると六帖さんは指摘する。このことに関してはアメリカ住まいである私の方がその違いを説明できるかもしれない。

日本のトイレは昔の和式トイレの名残からなのか個室はかなりの密室となっているが、アメリカの公衆トイレは扉の上や下にかなりの隙間があるだけでなく、扉と横壁にもかなりの隙間があるので、中に誰かが居るというのは外から容易に察することが出来る。洋式トイレはよしんば誰かがドアを開けても臀部が丸見えになるわけではないので、このくらいでも女性たちは特に気にしない。

六帖さんも指摘しているように、アメリカの場合、公園などで公衆トイレがあるところというのは、だいたい治安のいいところであり、そうでない場所ではレストランや映画館やデパートの中にあり、割合管理も厳しい。確かにそういわれてみればそうかもしれない。

それとこれは六帖さんも指摘していることであるが、この調査は地域の人が犯罪が起きたとして被害届を出した数のみを対象としているので、嫌な目にあっても泣き寝入りした人たちの体験談は含まれていない。

この法律が通る以前には男子が女子トイレに入ること自体が犯罪だったわけだが、法律後はあからさまな男子が女子トイレに入ってきて女子たちが嫌な思いをしたとしても、それは犯罪としてみなされない。ということは、法律規定後はかえって犯罪率が下がるなんてこともあり得る。

以前に似たような法律を通したワシントン州のシアトルの更衣室で男性が女子更衣室に居座っても管理人が警察を呼べなかったという事件が起きている。

こういうふうに女性が嫌な思いをしても、それが違法ではないから犯罪とみなされないというだけで、この法律による悪影響は起きていないと言い切るのには無理がある。

ところで、拙ブログでもすでに何度か取り上げてきたアメリカの大型小売店ターゲットにおける試着室での問題をもう一度振り返ってみよう。ターゲットは2016年から性自認に一致する方のトイレや試着室の使用を許容しているが、女子試着室で男性が女性の裸を隠し撮りする事件が後を絶たない。

日本でこのような方針を決行しようというなら、マサチューセッツの一部の地域だけの限られた調査だけでなく、こうした方針を取り入れた欧米のあちこちの例をすべて調査したうえで、そのようなことを日本でやることの悪影響について十分な吟味をする必要がある。そして、そんな悪影響を無視してまで強行する必要があるというきちんとした理由も提供してもらいたいものだ。


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トランスジェンダーこそ男女差別の究極思想では?

年末に女性を自認する人間を女子施設に立ち入らせることの是非について色々やりとりをしたが、ふと考えさせられることがあった。トランスとしての整形手術を受けるためには二年間異性として暮らさなければならないという規則が日本やアメリカにはある。しかし、この異性として暮らすというのはどういうことなんだろうかと私は常に不思議に思っていた。

例えば私の場合、明日から私は男として暮らしますと決めたとしよう。私の仕事は男でも女でも出来る仕事で、お給料も同じことをやってれば全く同率。職場に制服はないし、ドレスコードもこれといってないので女だからドレスを着なければならないというわけでもない。カジュアルな職場だから私がブラウスとスカートをやめてポロシャツにスラックスの恰好で出勤しても別に誰も気が付かないだろう。

他人の迷惑もあるから、トイレや更衣室やシャワーは女性用を使うとなると職場において私の生活には全く変化はない。

では個人的な生活はどうか。異性になろうというからには、すでにパートナーの理解を得ていると考えると、その他の友達や家族に男名で呼んでくれとか、彼と呼んでくれとか頼むこと以外は特に変化はない。今まで通り帰宅したら食事作って食べてテレビ見たりネットしたりして終わるだけ。私は元々買い物とか嫌いだし、友達や家族と外出するにしても男だろうと女だろうと全く違いはない。

となると、いったい私の生活の何が変わるのだろう?欧米のような男女平等社会においては、男であっても女であっても均等に機会は与えられる。昔と違って男でなければ出来ない仕事とか、行かれない場所とか、参加できない団体もそれほどない。

ということは女性らしさや男性らしさはその人の内面の問題なのではないだろうか?

普通の人は自分が自分をどう思っているかということに関して他人の承認を求めても意味がないことを知っている。例えば自分は美人だと思っていても、実際はブスだったら回りは美人としては扱ってくれないだろう。自分はまだまだ若いと思っていても、60歳こして孫も居る人を20代の人たちが「若い」とは思ってくれない。でもだから何なんだと私は言いたい。

自分の内面のイメージと自分の外見が一致しない人などいくらでもいる。それは男か女かということだけでなく、美人かブスか、デブか痩せか、若いか年寄りかなど色々だ。しかし一般の人は、自分なりに外見と中身を一致させようと努力するか、単にそんなもんだとあきらめるかで終わる。他人に自分を美人だと認めろとか年寄り扱いするなとか要求するのは自分勝手なことだと誰もが知っている。

なのに何故トランスだけが他人の考えや行動を規制する特権を持つと思うのだろうか?何故トランスのみが自分らの妄想に他人が付き合わなければならないと思うのだろうか?

何度も書いたが、何故男っぽい女性や、女っぽい男性ではだめなのだろう?人はそれぞれ色々な素質や性質があるわけで、それが男とか女といったステレオタイプに結び付かないことなどいくらでもある。もし女性がエンジニアになりたかったら、先ず彼女は男性に性転換しなきゃならんなどという理屈はない。わざわざ自分の特性にあった性に転換しなければならないと思うことこそ、男女差別の最たるものだ。

私はトランスコ活動家の横暴にこれ以上付き合うつもりはない。彼らが我々の言葉使いや生活態度にまで口出ししてくる以上、彼らとの接点は全くないと考えている。彼らこそが男女差別者の最たるものだからだ。



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「女湯に男性器のある男が入ってくるなんてあり得ない」という活動家の嘘に騙されるな

バズフィードで遠藤豆たなる自称男性のトランス活動家が書いた松浦大悟さんの「女湯に男性器のある人を入れないのは差別」論への疑問というエッセーを紹介されたので読んでみたが、後退派左翼特有のはぐらかしとおとぼけに満ちた非常に不誠実な内容だった。


ことの次第は、2019年1月5日放送のAbemaTV「みのもんたのよるバズ!」で元参議院議員の松浦大悟氏が、事実誤認にもとづいて「トランスジェンダー」への恐怖を煽ったこと。 (強調はカカシ) (略)
野党提出のLGBT差別解消法案を批判する流れで「男性器のついたトランスジェンダーを女湯に入れないと差別になってしまう」と語った松浦氏の発言はSNSでも拡散され、現在インターネット上ではトランスジェンダーへの無理解にもとづくバッシングが起きています。

後退派左翼の常套手段のひとつで、非常に効果的なのは、左翼の目指す非常に過激な目的を隠し、それを指摘する保守派を被害妄想扱いすることだ。左翼のゴールは一般人には理解できない過激なものなので、普通の人は「まさか、いくらなんでも、そんなこと」と思ってしまうのを逆手に取り、「そんなことをあるわけないじゃ~ん」と一笑に付すのである。しかし本心ではまさにそれをやろうと企んでいるのだ。

このオマメがやってるのもまさにそれ。松浦氏が事実誤認のもとに「恐怖を煽った」とか「トランスジェンダーへの無理解に基づくバッシング」とかあたかもトランスらが被害者であり、批判者は無理解で偏狭な差別者であるという書き方である。

遠藤は野党発案のLGBT差別解消案によって男性器のある者を女湯に入れさせなければならない危険性など全くないと言い張る。


現在の野党案が事業者(企業など)に求めているのは、「性的指向または性自認に係る社会的障壁の除去が必要である旨の申出があった場合において、その実施に伴う負担が過重でないときは、個人の権利利益を侵害することとならないよう、性的指向又は性自認に係る社会的障壁の除去の実施について必要かつ合理的な配慮をするように努めなければならない」(第十条)であり、いわゆる合理的配慮なのです。「無茶な配慮はさすがに求めない」上で、個別具体的に当事者どうしの合理的な話し合いができることを後押しすることが目的であることがわかります。

何をもってして「無茶な配慮」と判断するのかが明確でない限り、「合理的は配慮」などという言葉使いには全く意味がない。すでに女子トイレに自称女性の女装男を入れろという要求はトランス界隈から出ている。男子を女子施設に入れては駄目だという我々に対して「トランスを疎外する差別者め!このヘイター!レイシスト!」と罵ってるトランスヒステリーたちがすでに存在している。女子トイレがいいなら、なぜ女湯は駄目なのかとなるのは時間の問題。この法案において、そんなことが絶対に起きないという安全弁がきちんと設置されていない限り、絶対にそういう結果になる。保証する。

「男性器のあるトランスジェンダーが女湯に入ってくる。それを拒むと差別になる」という議論は、あたかもトランスジェンダーたちから(あるいはLGBTの運動サイドから)そのような法制化の要望の声が上がっているかのような誤解を与えていますが、実際にはそのような主張を私は耳にしたことがありません。


は!私はこんな不誠実な文章は読んだことがない!「実際にそのような主張を私は耳にしたことがありません」?だって?よくそんなそらぞらしいことが言えるな。冗談じゃない。トランス界隈の人たちはそればかり言ってるではないか!男子を女子施設に入れてはいけないという我々に対してトランス女は女性だ、女性扱いしないのは差別だ!と何度も何度も繰り返しているではないか、何をいまさら、聞いたことがないだ!冗談も休み休み言って欲しい。いくら後退派左翼の得意技だからと言ってここまでとぼけられると呆れて物が言えない。(いうけど)

アメリカのリベラル州各地で自認する性の施設を使う条令を通した地方自治体では、条令の是非を議論する際、反対派による「トランスを装った変態男が女子施設に入ってくる危険をどう防ぐのか」という質問に対して擁護派は「そんなことは起き得ない」の一点張りで、実際に起こりうる問題についての議論を全くしようとしなかった。そうやって条令が通ってしまった地域では覗きやセクハラが起きたり、実際強姦が起きたりしている。


最後に、性犯罪についても述べておきましょう。トランスジェンダーは既存の男女という枠組みをぐずぐずにして、性犯罪を増やす存在なのではないかと心配されることがあります。
しかし、アメリカの大学UCLAの研究所によって2018年に行われた初の大規模研究によれば、性自認に沿ったトイレや更衣室を使える法制度を持つ都市とそうでない都市での性犯罪の発生率は変わらなかったとのことです。

こういう一つの調査だけでなく、イギリスで自分はトランスだと主張して女子収容所に移された強姦魔が女子受刑者を犯した事実や、公共プールなどの更衣室で起きた90%の性犯罪が男女共同更衣室で起きているといったデータも一緒に紹介すべきだろう。だいたいUCLAの調査はかなり怪しいと私は思ってる。それについてはまた後程書くつもりだが。

繰り返すが、遠藤はこの法案によって男性器のある者が女湯に入ってくる危険はないと言っているが、女子トイレや更衣室がいいなら何故女湯はだめなのだという質問に答えられるのか?それが出来ないなら、この法案にその危険性は全くないなどと断言はできない。断言できないなら、松浦氏への反論にはなっていない。

それとこういう人たちの非常に典型な傲慢さとして、「部外者は黙れ」と言う態度だ。


知らないのなら、識者であるかのように語るべきではない
LGBT当事者という言葉はやっかいです。レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字を合わせたLGBTという言葉は「アジア」に似ていて、たいていの日本人がフィリピンの食事情に詳しくないように、L・G・B・T間でお互いのことをわかっていないこともよくあることです。

自分こそトランスジェンダーのバブルの中に生きていて、一般人のことが全く理解できていないのではないか? 我々一般人は性犯罪など心配せずに安心して用を足したり着替えたりお風呂にはいったりしたいだけ。トランスがそれと同じことを本当に求めているというなら、理不尽な要求はしないはずだ。申し訳ないが少数派はそれなりに不便なのは仕方ない。障碍者と違ってトランスたちはそれを自分たちで選んだのだから、今更その付けを一般人に回さないでほしい。


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同性婚を憲法24条の解釈次第で合法に出来るなら9条はどうなる?

松浦大悟参議院議員がツイッターでLGBT論争に潜む憲法学者のダブル・スタンダードという村田晃嗣(同志社大学法学部教授) のエッセイを紹介していた。実はこれは憲法24条の解釈を変えて同性婚を合法にすべきだという意見を聞いた時に私も即座に考えたことだった。

憲法24条第一項には 「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」 とあるが、憲法新解釈派の言い分は、憲法起草当時は同性結婚などは想定外のことだったので、この場合の「両性」とは必ずしも男女という意味ではなく、同性同士の結婚を明確に禁じているわけではないというものだ。

しかし、こういう理屈が通るとなると必然的にある疑問が生じる。


ところで、9条と自衛隊、日米安全保障条約の関係については、中学生が普通にこの条文を読めば自衛隊は違憲だと思うだろうと、しばしば批判されてきた。同じ事が24条と同性婚にも該当しよう。


逆に、24条が同性婚を否定していないという理屈を9条に当てはめれば、先の大戦の反省に立って侵略行為を行なわないというのが条文の沿革であり、集団的自衛権の行使を明示的に禁止してはいないことになろう。

私は憲法9条は日本の安全保障のためにも改正されるべきだと考えるが、既存の憲法をその解釈だけ変えて好き勝手に歪曲してもよいという考えには全く賛成できない。もし同性婚推進派がどうしても同性婚が日本に必要だと考えるのであれば、その是非をしっかり国民に示し説得し議会で十分に議論した末に憲法を改正すべきである。それをせずに憲法の解釈だけを変えて自分らの主張を押し通そうとするのは法治国家ではあってはならないことだ。

もしこのようなことが通るなら、同じ理屈が9条にもあてはまってしまうのだということを後退派左翼たちは十分に考える必要がある。

憲法の想定していなかった現実に、われわれは直面しているのである。憲法の精神は尊重されるべきだが、憲法が想定していなかった現実までその枠に押し込めるのは、知的傲慢である。


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