どんでん返しに次ぐどんでん返し、頼りになる男性と女性の魅力が出ているARGYLLE/アーガイル

昨日観て来た映画「アーガイル」日本では3月1日公開とのことなのでネタバレしないように感想を書いて行こう。ネタバレ無し。

まずはあらすじ:エリー・コンウェイ(ブライス・ダラス・ハワード)は「アーガイル」というジェームス・ボンド並のスパイを描いた小説で大人気の作家。すでにシリーズ四作を出版しており、今は第五作目を執筆中。原稿を母親(キャサリン・オハラ)に送って感想を聞くと、結末が出ていないと指摘される。連載小説だから結末は次回作で暴かれるのだと説明しても、それじゃあ読者が納得しない、明日にでもそちらに行くから二人で結末を考えようと提案される。しかし気晴らしもあってエリーは自分が実家に帰ろうと決める。実家へ向かう列車のなかで長髪の薄汚い若い男がエリーの目の前の席に座る。

そこへエリーにサインを求めて来た若い男の手を突然この男が掴むと、なんと若い男はナイフをもっていた。ここで列車の中で次から次へと男たちが長髪男に襲い掛かるも長髪男は次々になぎ倒していく。悲鳴をあげて逃げようとするエリーの手を長髪男がつかみ、自分にしっかり抱きつけという。そしてどこからか取り出したパラセイリングで二人は列車から脱出。

どこかの山小屋に逃げ延びると、長髪男は自分はエイデン・ワイルド(サム・ロックウェル)というスパイで、エリーの書いている小説の内容があまりにも現実に近いため、エリーの命はある悪徳スパイ組織に狙われていると告げる。このスパイ組織が求めているのはエリーが執筆中の五作目の結末にかかっているというのだ。あらすじ終わり

なんてあらすじを書くまでもなく添付した予告編ですべてが説明されていた。吹き替え版もあるので字幕が苦手な方はそちらをお薦め。

予告編でも解る通り、これはかなりのドタバタコメディー。アクションシーンも完全にハチャメチャで、あり得ない格闘や撃ち合いが何回も起きる。アクションの振り付けはかなり面白いが、正直格闘シーンが多すぎると言うのが私の感想。ただ筋の展開は結構面白い。どんでん返しがいくつもあるので、ここではそれについて書くのは控えておこう。

私が気に入った部分は、この映画にはポリコレ色が少ないこと。最近のアクション映画はやたら強い女性が出て来るがこの映画は一貫して頼りになる男性エイデンが主人公のエリーを守っていくという筋書き。最後のほうで強い女性が何人か登場するが、物語上自然な展開なので受け入れられる。

予告編に出て来る最初のシーンが映画の冒頭シーンなのだが、エリーの描くアーガイルは超ハンサムなヘンリー・カヴィル演じる男性スパイで、アーガイルのパートナーも元プロレス選手のジョン・シナ。そして悪役女性スパイは金髪のセクシー美女。典型的な1960年代のイギリススパイ映画みたいな設定で、小説内の登場人物も全員美男美女。小説内のキャラクターで人々が想像しているわけだから美男美女なのは当たり前だが、最近やたらと肥満でブスの黒人女性ばかり見せつけられている私としては新鮮だった。

一方現実社会のエリーは赤毛の普通の容貌の白人女性で、エイデンも背はエリーよりも低く、見た目はごく普通の白人男性。エリーがエイデンはスパイに見えないと言うと、スパイがアーガイルみたいに恰好よかったら目立ってしょうがない、というようなセリフがあった。ポリコレ映画ならさしずめエイデンの役は格好いい黒人男性が演じそうだが、そうでないところがかえって新鮮だった。

黒人のキャラクターが居ないわけではない。アーガイルのもう一人のパートナー(アリアナ・デポーズ)は黒人女性だし、後で出て来るサミュエル・ジャクソンの役も黒人だ。別に黒人が出て来てはいけないという意味ではなく、彼等がさりげなく普通の人として出て来るので多様性の押し付けという無理やり感がない。

一緒に映画を観に行った叔母から指摘されて知ったのだが、主役のブライス・ダラス・ハワードはロン・ハワード監督の娘なんだそうだ。なるほどあの赤毛は父親譲りか。彼女のコメディタイミングは絶妙である。エイデン役のサム・ロックウェルとのケミストリーも良い。

母親役のキャサリン・オハラはホームアローンでお母さん役をやったことでも有名だが、もともとコメディアンなのでこういう映画にはぴったりだ。

アクションコメディーが好きなひとにはお薦めの映画である。

主な配役:


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ポリコレのせいで意地悪度が激減してしまった意地悪な少女たち、ミュージカル映画ミーンガールズ

ミュージカル「ミーンガールズ(意地悪な少女たち)」を観て来た。この映画は2004年の同名の映画のミュージカル版である。ミュージカルとしてはブロードウエイなど舞台ですでに公開されており、日本でも元アイドル歌手の生田絵梨花主演で2023年初期に舞台になっている。

あらすじ:動物学者の母親とケニアで暮らしていたケイディは16歳でアメリカに帰国し、高校に通う事になる。これまで自宅学習をし、学校に通ったことがないケイディは初めての学校生活に緊張気味。なかなかみんなに馴染めず、浮いているケイディに話しかけたのは顔にピアスをしているちょっと変わった感じのジャニスという女の子とゲイ男子デミアンの二人。二人からは、学校には派閥があり、特にヤバいのはプラスチックスという学校のアイドル的存在の女子三人組であると教えられる。

プラスチックスのボスのレジーナはこの学校では女王様のような存在。何故かそのレジーナから一週間だけ一緒にお昼ご飯を一緒に食べてもいいと言われるケイディ。ケイディは戸惑いながらも仲間に加わる。しかしすぐにケイディは自分が数学の時間に一目ぼれしたアーロンがレジーナの元彼氏だったことを知る。レジーナはケイディの片思いに気付くとアーロンをケイディの目の前で誘惑し奪ってしまう。

傷ついたケイディはジャニスとデミアンに相談。二人はケイディはプラスチックの仲間になったふりをして秘密を探ってレジーナに仕返しをしようと提案。ケイディはうまくレジーナに取り入ってプラスチックスを内部から破壊を試みるのだが、、あらすじ終わり

私はアメリカで高校に行ったことがないので、アメリカの高校がこんなにも風紀が乱れているとは信じがたいのだが、先ずプラスチックスの少女三人組の服装の露出度が凄い。この三人はスタイルも抜群で特にリーダーのレジーナの体型は素晴らしく肉感的。その彼女たちが胸もあらわなぴちぴちのドレスで歩き回るのだからすごい。ジャニスとデミアンが学校内での派閥を色々説明するが、一つのグループはいちゃいちゃグループで、学校の食堂でどうどうとディープキッスをしていたりする。まあ映画だから誇張されてはいるのだろうが、今やアメリカの高校では生徒同士の性行為など普通らしい。「今や」って元の話は2004年だから、もうそんなのは普通なんだろう。

オリジナルの2004年の映画はミュージカルではなかったので、この映画はリメイクとはいえ別の媒体になっていることでもあり、色々比べるよりミュージカルとして楽しい作品になっているかを評価すべきだと思うのだが、やはり批評家たちはオリジナルと比べて遥かに劣るという意見で一致している。

私はオリジナル映画を2004年に観たが、20年も前のことだし、そんなに印象に残っていなかったので詳しいことは覚えていない。なのでこのリメイクはまあまあの出来だったのではないかと思っていた。しかし当時10代でこの映画の大ファンだった人たちからすると、このリメイクは許せないほどポリコレ改造されているのだそうだ。

実はこの映画オリジナル公開当時、ティーン女子の間でものすごい人気となり、所謂カルト映画になっていた。それで映画内のセリフなどが学校で流行り言葉になったりしていたのだそうだ。当時の10代女子のファン達は台詞全てを暗記するくらい何度も映画を見ており、この映画の隅々まで知り尽くしているというわけ。そういうファンが沢山いるなかで、ミュージカルとはいえリメイクとなると作品の出来は魚の目鷹の目で見られてしまう。

脚本はオリジナル同様ティナ・フェイというコメディアン・女優・脚本家であり、彼女は元映画と同じ主役のケイディの担任教師役である。同じ人が脚本を書いているとはいえ20年も経つと政治的状況はかなり変わっている。なにせいまや多様性の時代だから。

それで無論登場人物の人種も多種多様となる。先ず元映画では白人男性だったデミアンが黒人に、プラスチックスの一人カレンはインド系。まあ2024年だからこの辺の人種変更はしょうがないとして、問題とされるのはジャニスがレズビアンとして描かれていること。

元映画ではジャニスはレバノン出身でレバニーズ(レバノン人)だと名乗っていたのに、プラスチックスの無知な女子たちはそれをレズビアンだと間違えて彼女を何かとレズだと言ってからかうというシーンがある。ジャニスは異性愛者なのでこれが気に入らない。しかし、リメイクでは彼女がレズビアンという設定になっており、それをからかうというのは悪趣味ということなのか、意地悪な少女たちの誰もそれを口にしないのだ。

人種を扱ったジョークも削られている。ケイディ―はアフリカからの転校生なので、レジーナが「どうしてアフリカから来たのに色が白いの?」などと聞くシーンがあったそうなのだが、今回はそれはない。というよりケイディがアフリカ出身ということでからかわれるというシーンはほぼ見られなかった。出身国を理由にからかうのは人種差別になるからだろうか?

しかしこうなってくると、意地悪な少女たちが他の子たちを虐める材料があまりない。他人をブス扱いするとかオタク扱いするとか、というシーンもそんなになかったし。となると一体彼女たちの何がそんなに意地悪なのかという話になってしまう。

またハローウィンでの衣装についても批評家たちは手厳しかった。2004年ではハローウィンは少女たちが大っぴらにセクシーな恰好が出来る日だという暗黙の了解がある。それを理解せずに実際に怖い仮装で現れたケイディ―は浮いてしまう。しかしここでも女子たちの露出度の高い行き過ぎた衣装はフェミニストの規制がかかったのか、かなり大人しいものになってしまっているというのである。保守的な私の目には十分セクシーに見えたのだが。

さて、ここまでは私の感想ではなく、他の元映画ファンたちによる批評だが、ここからは私が気になった点について述べよう。先ず主役のケイディにもレジーナにも父親の姿が観られない。元映画ではケイディは父親の仕事の関係でアフリカで育った設定になっていたが、今回は母親が動物学者という設定で父親は出てこない。レジーナにも父親が居たはずだが、今回は姿が見られなかった。二人とも母子家庭にする意味は何だったんだろう?

私は昔からミュージカルには非常に甘い。もし歌と踊りのレベルが高ければ、筋など申し訳程度のものでも許してしまうたち。それに元映画をそんなに覚えていなかったので、元との違いは全く気にならなかった。出演者たちは皆歌がうまい。特にレジーナ役のレネー・ラップの歌唱力は素晴らしい。彼女はブロードウエイで同じ役を演じたのだそうだ。道理でうまいはずである。

映画が最初からジャニスとダミアンの歌で始まるが、この二人もいい。主役はケイディだが、ジャニスAuli’i Cravalhoが一番いい歌を歌っている。彼女の歌唱力は力強く素晴らしい。かなりの役得。

踊りも結構前面に出ており良かったと思う。

ただ、後で言われてい気付いたのだが、観ている間は歌も踊りもまあまあ楽しめたにもかかわらず、映画が終っても一つもメロディーを思い出せない。良く出来たミュージカルの場合は、帰り際に鼻歌を歌いたくなうくらい一つくらいメロディーが頭に残るはずである。例えばこの間観たウォンカならピュアイマジネーションやウンパルンパの歌、キャッツならメモリー、レミゼラブルなら民衆の歌といったように。残念ながらこの映画ではそういう歌は一つもなかった。

ところでこれは最近のハリウッド映画の広告のやり方らしいのだが、どうもミュージカル映画をミュージカル映画だと解るように予告で宣伝しないのが普通になっているらしい。実をいうと私はこの間観たウォンカとチョコレート工場の始まりがミュージカルであるとは知らずに観に行き、冒頭から主役が歌い始めてびっくりした。この間公開されたカラーパープルも予告編ではミュージカルかどうかわからない。今回のミーンガールズも姪っ子がブロードウェイのミュージカルファンでなければ知らずにただのリメイクだと思って観に行ったかもしれない。

どうもハリウッドはミュージカル映画は人気がないと思っているらしい。しかし、普通の映画だと思って観に行ったのにミュージカルだったら、ミュージカルファンはいいが、そうでない人は失望するのではないか?どうもこのマーケティングは理解に苦しむ。


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ディズニールーカスフィルムは映画スターウォーズを誰のために作っているのか?

2012年10月、ルーカスフィルムがディズニーに買収され、キャサリン・ケネディーがトップになってからというもの、かつて類を見ない成功を収めた映画シリーズ、スターウォーズの衰退は悲惨なるものだ。最初の三部作が公開された1970年代後半から80年代初期、あの人気たるや凄まじいものだった。一作目のNew Hope(1977)に関しては、ミスター苺と初めて会った1979年に、「スターウォーズ観た?」と聞かれ「もちろん!二回も観ちゃったよ」と言ったら、「僕なんか12回も観た!」と言いい、一緒に居た他のSFファンの友人たちも「当たり前じゃん」という顔をして頷いていたのをよく覚えてる。

第2作のEmpire Strikes Back (1980), やReturn of the Jedi (1983)は長い列にならんで深夜のショーをミスター苺を含めた仲間たちで観に行った。特にジェダイの時は、観に行った回の券がすべて売り切れており、今みたいにオンラインで予約できるような時代ではなかったので、真夜中の回まで何時間も映画館の外で並んで待った記憶がある。

私としては1999年から始まったエピソードI, II, & III(1999-2005)そしてThe Clone Wars (2008)は、最初の三部作には全く及ばない凡作だったとは思うが、それでもまあまあ楽しめないことはなかった。興行成績も良くスターウォーズとしては十分な結果だった。

2015年にエピソードVIIのThe Force Awakensが公開された時は、どうしようかと迷ったが、長年のスターウォーズファンとしては一応観ておこうと思って観に行った。正直あまりにもひどい内容でつまらなかったという感想以外には内容についてはほぼ何も覚えていない。覚えているのはハン・ソロが意味もなく殺されたということと、プリンセス・レアを演じたキャリー・フィッシャーが随分年取ったなと、年取ったルークが最後の1シーン出て来たなくらいだ。Rogue One(2016)を観た頃には、もう私の中でスターウォーズは完全に終わっていた。私は見ていないがVIII & IXはかなり評判が悪く興行成績も散々たるものだった。

テレビシリーズの方もどんどん視聴率が下がっており、もうスターウォーズは終わりにすべき、少なくともキャサリン・ケネディーを首にして一からやり直しをすべきという声がファン達の間からも業界からも上がっている。しかし何とディズニーはまたまた新しいスター・ウォーズをあの評判の悪かったレイ・スカイウォーカーを主役にして制作するという。しかも映画監督としてはほとんど無名のフェミニスト活動家を大抜擢。そして制作発表の記者会見でこの女性は「いまや2024年だ。そろそろ、女性が活躍すべき時がきた。私は男性に居心地悪い思いをさせるのが好きだ」などと言い放った。

次回作はどんなものかとかファンは何を期待したらいいか、という話ではなく如何に自分が革新的なフェミニストであるかという話に終始したのだ。これはもう映画なんか観なくても、どんなフェミニスト説経映画になるか予測できる。もし映画を作る前からその映画を破壊する最適な方法があるなら、いかに監督が男嫌いのフェミニストであるかを強調することだろう。

いったいディズニーはスターウォーズを誰のために作っているのだ?

オリジナルのスターウォーズが世界的に大ヒットした理由は何かといえば、危機に瀕する美しいお姫様を勇敢な王子様と仲間の騎士たちが危険を顧みずに救いに向かうという昔ながらのおとぎ話と、手に汗握るSFアクションを組み合わせたことにより、若い男性はもとより女性にも子供たちも惹きつけたからだ。SF好きにも、ロマンス好きにも、アクション好きにも、すべての人びとにアピールする映画だったからだ。

普通SFやアクション映画の対象は若い男性たちだ。それなのに最初から「男を居心地悪くするのが好きだ」などと言ってるフェミニストの作る映画を男性達が観に行きたいと思うわけがない。かといって女性たちの大半は最初からSFアクションなんて興味ない。だから女性を惹きつけるために、どんなアクション映画でもヒーローと美女のロマンスの筋が組み込まれているのだ。しかしフェミニストの作るアクション映画は鼻もちならない生意気な女が男のようにふるまって本物の男たちをなぎ倒し、彼女に心を寄せる男たちをコケにするのが目に見えている。そんな映画普通の女性は見たいだろうか?私はごめんだね。

私はだいたい男が演じるはずの役をただ女にやらせて、強い女性を描いてるだのなんだのいう映画が大嫌いだ。たとえば初の女性ドクターと鳴り物入りだった13代目ドクターWHO。私は我慢してシーズン1と2を観たが、何故この役を女性が演じなければならないのか全く分からなかった。同じ台本で言葉を一つも変えずに男性にやらせても全く変わらない内容だったからだ。

女性を主役にしたいなら、女性でなければ演じられない特別な要素を作ってほしい。前にも書いたかもしれないが、同じドクターWHOでも悪役のマスターが生まれ変わった時女性のミッシーになったが、彼女はビクトリアン淑女のような出で立ちで美しく品がありコケティッシュで魅力的な女性だった。しかし性格は完全にサイコパスのマスターだったし、そのおちゃめっぷりと頭の良さは明らかにタイムロードだった。しかしあの役は女性でしか演じられない。何故女性初のドクターはああいう風に女性でしか出せない味を出さなかったのだ?

これまでにも女性のアクションヒロインはいくらでも居た。ワンダーウーマンやXenaやキャットウーマンなどがいい例である。彼女たちは美しくセクシーだが力強い。そして男性をコケにしたり馬鹿にしたりせず、格好いい男性と熱烈な恋にも落ちる。だからこれらのヒロインたちは長年男性からも女性からも愛されてきたのだ。

フェミニストが映画を作ってはいけないとは言わない。だが男をコケにして女が男のようにふるまう映画は男性からも女性からも受け入れられない。ディズニーにとって2023年は散々たるものだった。ディズニーは2024年もそれを繰り返したいのか?


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不思議な甘さを感じたオリジナルミュージカル映画「ウォンカとチョコレート工場のはじまり」

「ウィリー・ウォンカとチョコレート工場」といえば1971年にジーン・ワイルダー主演で日本でも「夢のチョコレート工場」という邦題で公開された。オリジナルの方の映画はクラシックとして多くの子供達に愛されている映画である。2005年にジョニー・デップ主演でリメイクされたが、デップの演技が気味悪くて子供が観て楽しいものではないのでお薦めできない。

オリジナルの話では工場主のウォンカが工場の跡継ぎを探して数人の子供を自分の工場に集め、工場見物をさせながら自分の跡継ぎにふさわしい子供を選ぶという内容だった。今回の映画はそのウォンカがまだ若かりし頃、どのような経緯で工場を始めたのかという話になっている。

久しぶりの本格派ミュージカルで、メリー・ポピンズを思わせるものがあった。日本では何故かアメリカより一週間早い12月8日に公開され、アメリカでは15日公開で週末の売れ行きは3900万ドルと調子のいいスタートだ。先ほど読んだ記事によると、最近のハリウッドではミュージカルはなかなかヒットしないため、予告編では本編がミュージカルであることをあまり強調しなかったという。そのおかげで私はウォンカがミュージカルであるとは全く知らずに観に行き、冒頭からウォンカの歌で始まった時は非常に嬉しい驚きを感じた。

先ず私が一番気に入ったのは色の鮮やかさだ。最近のハリウッド映画は昔のテクニカラーの時代のように鮮明な色ではなく全体的に灰色がかった暗い画像が定番だが、この映画は1970年代のオリジナル映画の鮮やかな色彩をそのまま持ってきたような色合いで非常に好感が持てた。

話はウォンカが船の長旅を終えてとある街に現れるところから始まる。最初のシーンは船に乗っていたウォンカが船から降りて町を歩き回りながらどんどんとお金を使いはたしてしまう状況が一曲の歌で表現される。ジーン・ワイルダーのウォンカも現実離れしたアスレチックな人物だったが、若いウォンカはさらに身軽で普通の人間では先ずできないだろうと思われる軽業を何気なくやってしまう。ここですでに彼は何やら不思議な魔力を持った人物であることが解る。さらに一文無しになってしまったウォンカが夜のベンチに腰掛け、持っていたケースからポットを取り出し暖かいホットチョコレートをグラスに注ぎこむところなど、彼がメリー・ポピンズを思わせるといったのはまさにそれ。

ウォンカが船を降りてついた街並みがおとぎの国のような美しいヨーロッパ風の町で素敵だ。彼が足を踏み入れるショッピングモールは昔のポワロ―の映画で観た屋内ショッピングモールみたいで凄く綺麗。これってきっとイギリスに実現するモールだと思う。

ベンチで休んでいたウォンカに親切そうな男ブリーチャーが声をかける。ブリーチャーに宿代は後払いでも大丈夫な宿があると紹介されスクラビット夫人が経営する宿でお世話になることになる。だが実はこの宿は地下で洗濯屋を営んでおり、貧乏な泊り客に法外な宿代を課し払えない客を地下に閉じ込めて奴隷労働者として働かせていたのだった。ウォンカは最初に約束した金額に色々な経費を上乗せされ、まんまと罠にはまり地下に放り込まれてしまう。しかし地下で出会った宿で働く少女ヌードルの手助けでウォンカは毎日宿から抜け出しこつこつとお金を貯め借金を返そうと考える。

ウォンカの作るチョコレートは非常に美味で神秘的な味がするため、街頭で売るウォンカの屋台は大繁盛。しかし町でチョコレート商売を独占しているビジネスマンたちがこれを面白く思わず警察署長を買収してウォンカの商売を潰そうとする。

ウォンカがチョコレートを売るシーンの歌も踊りも素敵だ。チョコレートを食べると人々は宙に浮いてしまう。なぜそうなるかという説明は一切ないのだが観客は自然と子のファンタジーの世界に引き込まれる。

登場人物はそれぞれ個性があって皆とても魅力的だ。悪役である商売敵のビジネスマン三人と警察署長の掛け合いは面白い。教会のビショップにはミスタービーンでおなじみのコメディアン、ローワン・アトキンソンが登場。またウォンカがカカオ豆を採取した島の島人ウンパルンパ人を演じるヒュー・グラントの上品なイギリス訛りが傑作だ。洗濯屋で奴隷となっている男女四人ともウォンカは仲間となって行動するが、彼等が奴隷になるまでのそれぞれの職業がのちのち生かされることになり、話に無駄がない。

ウォンカと少女ヌードルの友情も心が温まる。チョコレートに必要なキリンのミルクを取りに二人で動物園に行くシーンはちょうどいいコメディーと幻想の世界である。

この映画の素晴らしいところは、最近のハリウッド映画には珍しく、これといったポリコレメッセ―ジは全くない。配役は白人も黒人も混ざっているが全く無理のない設定だ。ともかく家族で観に行っても安心して観ていられる映画だ。ヌードルは未だ12歳くらいなので大人のウォンカとはぐくむものは普通の友情。これといったロマンスもないが、それが非常に自然だった。

ティモシー・シャラメの演技はそのままジーン・ワイルダーを思わせるものがあり、この人が後々あのウォンカになるというのは全く納得のいくキャラクターになっていた。オリジナルのイメージを全く壊さずに新しい話を作ってくれたことは嬉しい。

日本語吹き替え版では歌も吹き替えになっている。吹き替えの花村想太のほうがシャラメより歌がずっとうまい。それから最後にオリジナル映画の主題歌ピュアイマジネーションが出て来たのは非常によかった。

花村想太

キャスト:


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メッセージに負けないコメディ、自称男子の女子スポーツ参加をおちょくった映画レイディーボーラーズ

ベン・シャピーロやマット・ウォルシの保守派ポッドキャストプラットフォームのデイリーワイヤー(DW)社が本格的にコメディ映画を制作した。DWの共同創設者であるジェラミー・ボーリングが脚本・演出・主演をこなしている。

ボーリングという人は凄い人で、これまでにも自分らの番組から手をひいたスポンサーに立ち向かって「ジェラミーレイザー(髭剃り)」を売り出したり、女性週間にトランス女性をモデルにしたハーシーズチョコレートに対抗してHe/Sheチョコレートを発売するなど面白いことをやってきた。またここ数年マット・ウォルシの「女とは何ぞや」などドキュメンタリーやSFやウエスタンやミステリーなどのフィクション映画も手掛け、最近は子供向けのテレビ番組も始めた。DWは保守派メディアとしてどんどん企業拡大を目指している。

今作品は低予算でかなりの短期間で制作された映画であるし、普通のハリウッド俳優は出演したがらないこともあり、演技経験が有る無しに関わらず、デイリーワイヤー出演者総出の配役である。それでかなり素人感のある映画なのではないかと思われたが、意外や意外、結構おもしろかった。

あらすじ:かつて高校のバスケチームを全国大会で連続優勝させる輝かしい業績を持つコーチ・ロブ(ジェラミー・ボーリング)だが、15年後の今はすっかり落ちぶれ、まるでやる気のない高校生チームのコーチ。しかも、今やポリコレの高校では昔のような厳しい訓練は受け入れられず生徒を厳しく説教をしたため、その仕事さえも首になってしまう。コーチ・ロブは私生活でも妻のダービー(レキシ―・コンターシ)とは離婚裁判中。そんな彼がひょんなことから国際選手権の出場資格が一般公募になったことを知り、多様性・平等・包括規則の抜け穴を悪用し、かつての高校バスケチームメンバーを集めて男子のみの「女子チーム」を結成し国際選手権に挑む。==

お察しの通り、この映画は男子が自分は女子だといって女子競技に参加することのバカバカしさをテーマにしたものだ。保守派のDWが制作したとあって保守的なメッセージが前面にでてお説教じみた映画になるのではないかと思ったが、そんなことはなく結構コメディーとして成り立っている。最近の高予算のポリコレ映画なんかよりもよっぽど説教じみてない。

映画全般にトランスジェンダリズム推進者たちの言説が満載されているため、ちょっと詰め込み過ぎの感はある。ただ彼等の主張をこうやって並べ立てると、いかにトランスジェンダリズムそのものがパロディーであるかが顕著になる。

例えばコーチロブの10歳の娘ウィニー(ローズィー・サラフィン・ハーパー)が学校で女子自認男子のペニスをお手洗いで見せられたとか、それに抗議するコーチロブを娘がトランスフォーブと責めたり、資本主義が家父長制度の最たるものだなどと授業の内容を羅列するシーンは可笑しくて笑えるのだが、実際にこれが学校で教えられていると思うと笑ってもいられない。

また全員男子の「女子チーム」をメディアが担ぎ上げ、ネットで人気が出て「女子選手一日目」とかディラン・モルベイニーをおちょくったシーンも、ディランそのものがパロディーなだけに何とも言えない。

もちろん男子が女子のふりをして女子競技に参加するという話はこれまでにも何度も映画になっている。だが、この映画とそれらの映画の違うところは、それまでの映画では男子はあくまでも女子の振りをしており、彼等が男であると知っていたのはごく一部の人たちだけだったのに対し、この映画では誰が見ても男子と解る男たちが女子だと主張して競技に参加しているということだ。レイディーボーラーズの男たちは髭もすね毛も剃っておらず、どこからどう見ても男に見えるにもかかわらず、メディアが「衝撃的に美しく勇敢」と繰り返すことに誰も異論を唱えることができないのである。

コーチロブを誘惑し男子の女子チーム結成を企てる女性ジャーナリストのグウェン(ビリー・ラエ・ブランディト)は自分のジャーナリストとしての立場を利用し男子だけの「女子チーム」は美しく勇敢だという論説を押し通してしまう。ローカルテレビ局のアナウンサー、ドレイク(マイケル・ノールズ)とステーシー(ブレット・クーパー)は最初は男子は女子に比べ不公平に優利なのではないかとグウェンに質問しようとするが「トランスフォブ」と一括されてしまう。

この二人のアナウンサーたちがシーンを追うごとに自分らが如何にマイノリティーであるかをアピールするためにどんどん自分達の祖先が先住民であったことを強調しはじめインディアン酋長のような恰好に変わっていくのもおもしろい。

レイディーボーラーズのメンバーたちは最初は自分らがインチキをしているという罪悪感を持っているのだが、だんだんと周りのメディアなどに持ち上げられ、雑誌に載ったりインタビューを受けたり、また別の競技でも優秀な成績を収めるなどし始めると、だんだんと自分らのイカサマが気にならなくなっていく。それどころか突然訪れた名声に酔い始めてしまう。私はこれを観ていて、ディラン・モルベイニーも本当はパロディーのつもりで始めた「女の〇日目」動画が思わぬヒットをしてしまい、その一時の名声に酔っているのではないだろうか。

メンバーたちがだんだんと「自認女性」に慣れて来るのとは裏腹に、コーチロブは自分が始めたことであるにも関わらず、だんだんと罪悪感にさいなまれるようになる。娘のウィニーが「私も男の子になりたい。男の子は何でも女の子より優れてるから」と言い始めて、そんなことはないよ、と諭しながら、自分が如何に間違ったことをしているかを悟るシーンはちょっと感動する。

バスケチームの五人を演じるのは明らかにプロの俳優。中でもチームのエースであるアレックス(ダニエル・コンシダイン)と元タオルボーイで「女の子選手一日目」を演じるタイラー・フィッシャーの演技は光る。他の三人ジェイク・クレイン、ブレイン・クレイン、デイビッド・コーンは何故か役名と本名が同じ。ジェイクとブレインは兄弟を演じているが、もしかして本当に兄弟なのかも。長身のデイビッドはバスケを諦めて山男になっていたのをコーチロブらの説得で下界に戻ってくるが、この場面もかなり面白い。(後で調べたらクレイン兄弟とデイビッドは三人でDWでスポーツ関係のトークショー番組を持っており、大学時代はスポーツ選手だった。三人ともクレイン兄弟は185cmくらいでデイビッドは190cm以上の長身。ただし三人とも演技の経験はないそうだ。それにしては上手だな。)

プロの役者に混ざってDWのポッドキャスターたちもちょい役で出ているが、妻の新しい恋人役の超左翼長髪ヒッピーのクリス役のマット・ウォルシはじめ、ニュースキャスター役のマイケル・ノールズやブレット・クーパーそしてベン・シャピーロなど結構演技が冴えている。それもそのはず、主役のジェラミー・ボーリングもマイケル・ノールズもブレット・クーパーも昔役者を目指したことがあり全くの素人というわけではないのだ。シャピーロは役者ではないが、長年メディアで活躍しているだけあって結構いい味を出している。最後の方で自分はトランス女性なのかもと悩み始めるアレックスのカウンセラーとして、ジョーダン・B・ピーターソン博士がちょろっと登場したのには笑ってしまった。

低予算の独立映画なので、演技にしろ脚本にしろ、ところどころ「もうちょっと」と思うところはあるが、それでも結構まとまった映画になっていたと思う。ともかくずっと笑い続けられたのでコメディとしては合格点である。


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トランスジェンダー選手をおちょくった保守系映画に発狂するリベラル

私がメンバー登録をしている保守派のポッドキャストチャンネルのデイリーワイヤー(DW)がコメディー映画を制作した。DWは数年前からポッドキャストやニュース記事だけでなく、ハリウッド映画界から締め出された保守派俳優などを雇ってサスペンスドラマや西部劇などのストリーミング映画を作ってきた。しかし最近映画プロダクションの予算をかなり引き揚げて色々な映画を発表している。来年の4月には白雪姫も公開予定だ。また虹色に染まってる子供向けテレビ番組に対抗して独自に子供向け番組の制作も始めた。12月1日にオンディマンドストリーミングで公開される映画Lady Ballers(レイディーボーラー)を左翼リベラルのLGBT雑誌LGBTQ Nationが紹介していたので読んでみたい。Rightwingers made a “comedy” movie attacking trans women in sports & it looks terrible (msn.com)。下記はDWの共同経営者ジェラミー・ボーリングのXより。

LGBTQネイションはこの映画を「極右翼反トランスのデイリーワイヤー」による反トランスジェンダー映画だと言っている。出演者にはリア・トーマスと対戦したこともあり、今や女子スポーツを守る運動をしているライリー・バーカー(旧姓ゲインズ)を含め、「女とは何ぞや」のドキュメンタリーで一躍スターになったマット・ウォルシが長髪のヒッピーのノンバイナリー(?)役で出演。

記事はトランスの男性や男児をバカにした映画でかなりひどそうと書いている。私は予告編を見たが、予告だけでもかなり面白そうだ。

Lady Ballers』と題されたこの映画の予告編は、シスジェンダーの男性たちがトランス女性になりすまし、このスポーツを支配する目的で女子バスケットボールのリーグに1チームとして参加することを決意する様子を描いている。記事からちょっと引用しよう。今回のDeepLの翻訳は酷すぎたので日本語として通じるようにかなり書き換えた。

予告編では、この映画を「今年最もトリガーを引き起こすコメディ」と呼んでいるが、これは革新派な人々は敏感過ぎる(トリガー)「雪片」のようにもろいという右派の説を揶揄したものだ。しかしこれは皮肉だ、なにしろ『デイリー・ワイヤー』こそがトランスジェンダーの存在を恐れるあまり、起きてもいないことを題材に映画まで作ってしまったのだから。

予告編には、トランス活動家のディラン・マルバニー(プロのスポーツ選手ではまったくない)をあざ笑うシーンや、テッド・クルーズ上院議員(テキサス州選出)がカメオ出演しているシーンもある。また別のシーンでは、俳優たちが 「トランスエイジ」になり、大人として子供たちのスポーツチームでプレーすることも可能だとトランスのアイデンティティーの概念を軽んじる場面もある。そして予告編は、野球の試合中に大人が子供に大怪我を負わせるシーンに切り替わる。

記事はこの映画はシス女性はスポーツに適しておらずシス男性のほうが自然に優れているという前提で作られていると語る。いや、女子がスポーツに適していないのではなく、女子スポーツと男子スポーツは全く別物であるという話をしているのだ。子供が大人に勝てないからといって子供はスポーツに適していないなどという人はいない。次元の違う話をして誤魔化さないでもらいたいもんだ。

映画ではDWのポッドキャスターであるベン・シャピーロやマイケル・ノールズや上院議員のテッド・クルーズなどもちょい役で登場する。

私はすでにメンバーなので映画を観たらまたその感想を書くつもりだが、LGBTQ雑誌がわざわざ予告編をこき下ろしているということは結構波紋を呼びそうだ。


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登場人物の成長結果を出して欲しかった、ザ・ホールドオーバーズ(居残り組)

本日の映画紹介はザ・ホールドオーバーズ(居残り組)。日本で公開されるかどうかは分からないので邦題は私の勝手な意訳。

あらすじ:1970年12月。ボストンで郊外の裕福層の子息ばかりが通う小学校から高校までの全寮制男子学校で高校教師をしている中年男性ポールはクリスマス休暇中キャンパスに残って、種々の事情から家に帰らず学校に残る生徒達の監視役を押し付けらえる。それというのも学校に多額の寄付をしてきた家族の息子を前学期に落第させたことから学長に睨まれていたからだった。

居残り組は主人公の高校生アンガスと宿敵のテディ、高校のフットボール選手で大金持ちの息子ジェイソン、小学生二人はモルモン教宣教中家庭のアレックス、韓国人留学生のユージュンの五人。大人は教師のポール、賄い女性で最近息子が戦死したばかりのマリー、用務員のダニーの三人。大きなキャンパスでたった8人だけで二週間暮らすことになるのだが、ポールはもともと生徒からも同僚の教師たちからも好かれていない変わり者。休みなのに勉強や運動を強制するポールに生徒達はげんなり。自宅が改装中で家に帰らない予定だったジェイソンは、他の生徒達が望むなら親に連絡してヘリコプターを呼んでスキーリゾートに連れて行ってあげると提案。半信半疑だった生徒達だが実際にヘリコプターが迎えに来て、親たちの承諾が取れた生徒達はヘリコプターに乗り込みキャンパスを去っていった。親との連絡が取れなかったアンガスを除いては。

アンガスはもともとは自宅へ帰り母親と旅行をする予定だった。しかし母親は再婚相手の夫と延期していた新婚旅行をついに実現させることになったと言って突如アンガスとの約束を破ったのだ。そして教師のポールが連絡しても外遊中の母親とは連絡が取れなかったため、アンガスは他の生徒たちと一緒にスキーリゾートへ行くことはできなかったのだ。

これで学校にはポールとアンガス、そしてマリーとダニーだけの生活が始まる。まったく気の合わないポールとアンガスだが、色々な出来事を通じてだんだんと心を開いていく。あらすじ終わり

まあこういう映画は予告編を見た時からだいたいの筋の予測はつく。最初は頑固者でいけすかない教師とやんちゃでどうしようもない子供達が共同生活をしていくうちにだんだんとお互い理解が深まっていくといった内容だろうと思っていた。それで前半で四人の生徒が去ってしまったのはちょっと意外だった。せっかく四人の背景を説明しておきながら、それ以降彼等がどうなったのか全くわからない。それと予告編ではもっとコメディータッチの映画に見えたのだが、だんだん深刻になっていき、最後のほうはコメディ映画とは言えない内容になってしまった。

この先ちょっとだけネタバレあり。

後半はアンガスとポールが主要な登場人物となる。ずっと独身生活を送ってきたポールは昼間からウイスキーを飲むアル中で、金持ちの同級生からカンニングの汚名を着せられハーバード大学から追い出された過去があった。自分もこの学校出身なのだが金持ちの息子ではなく奨学金で大学まで行っていたので、同学校に通う金持ち生徒たちにはすくなからぬ偏見を持っていた。しかし、アンガスが死んだと言っていた父親は実は精神病院に入っていたことを知り、アンガスは彼なりにつらい状況にあることを知る。また気丈にふるまっていたマリーも実は息子の死から全く立ち直れていないことも解ってくる。

こうしたことが解るにつれポールはアンガスへの偏見をなくし、二人はだんだんと友情をはぐくむようになる。この段階の表現は非常に良いと思う。ただ私はもう少し二人の成長ぶりを見たかった。たとえばポールはアンガスとの友情を通じて金持ちボンボンたちにもそれなりの悩みがあることを悟り、お酒を諦め生徒からも好かれる教師になるとか、アンガスは勉学に励んでコーネル大学に入学するとか。そういう後日談が欲しかった。

休みが終わって生徒達は戻ってくるが、ポールの態度にはあまり変化が見られない。私はここでクリスマスキャロルのスクルージ風に何か別の人格が現れてくれるのではと期待していたのだがそれはなかった。ただアンガスが父親の病院を訪れたことが母親にばれて罰として士官学校に転校させられるのを防ぐためにポールがアンガスを守って責任を取るくだりはいい。

最後にこの映画はもう少しアップビートで終わってほしかったので、このまま何も変えなくてもいいから後日談を文章でいいから付け加えてほしかった。たとえば、、

ポールは遂に書くと言っていた本の執筆を完成させ、今は教師を辞めて作家としてボストン郊外に在住。アンガスは高校を主席で卒業後、コーネル大学に進学し考古学の博士号を取って同大学で教授に就任といったように。それだけでかなり観客の気持ちがすっきりすると思う。せっかく1970年という時代を背景にしたのだから、その後どうなったのかという話をちょっと付け加えても良かったのではないかと思った。

Cast (in credits order) complete, awaiting verification  

主な配役一覧 IMDbより
Paul GiamattiPaul Hunham
Dominic SessaAngus Tully
Da’Vine Joy RandolphMary Lamb
Carrie PrestonMiss Lydia Crane
Brady HepnerTeddy Kountze
Ian DolleyAlex Ollerman
Jim KaplanYe-Joon Park
Michael ProvostJason Smith
Andrew GarmanDr. Hardy Woodrup
Naheem GarciaDanny
Stephen ThorneThomas Tully
Gillian VigmanJudy Clotfelter
Tate DonovanStanley Clotfelter

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キャリア絶頂期にミーツ―でキャンセルされたケビン・スペーシー、アメリカとイギリス双方の法廷で無実!

ケビン・スペーシーと言えばアメリカでは大御所映画俳優。その演技力の幅は広くブロードウェイの舞台でも活躍し、数々の映画に出演しアカデミー賞も受賞している。またテレビでもアメリカ版ハウスオブカードの主役も務め、ネットフリックス至上最高の視聴率だった。俳優としてのスペーシーのキャリアはまさに順風満帆といったところだったのだが、2017年、突然若い俳優からミーツ―攻撃を受けてしまう。そして彼のキャリアには急ブレーキがかかってしまったのだ。

2017年、アンソニー・ラップという男優から、ラップが未成年の頃にスペーシーに性的加害をされたと告発された。彼はスタートレックシリーズのディスカバリーでゲイのエンジニアを演じた男性だ。ラップは1986年に当時14歳だったラップをスペーシーが自宅のアパートで開かれたパーティーに招待し、ラップを寝室に連れ込んで性行為をしようとしたが、スペーシーが泥酔していたのでラップは逃げることができたというもの。

この告発があって以来、スペーシーは主演のドラマから降板させられ、撮影途中だった映画も中断。2017年以来スペーシーの姿を見ることはほとんどなくなった。その後無名の男性からもバーでスペーシーに股間を触られたとか、ハウスオブの撮影現場でスペーシーからセクハラを受けたなどという告発もあったが、それぞれ裁判にまではいかなかった。

しかし2022年10月、アンソニー・ラップはスペーシーを訴えていた民事裁判で自分の告発は嘘だったことを認めるという意外な展開があった。

そして三か月前、イギリスでもスペーシーが性加害をしたという刑事裁判で、陪審員たちはスペーシーの無罪判決を下した。この裁判を追っていたダグラス・マレーに言わせると、有罪の証拠はほとんどなく、裁判沙汰になるべきではない事件だったと怒りを隠せない様子だった。

さて、実は私はこの一連の事件をほとんど追っていなかった。私はケビン・スペーシーは好きだが、ドラマも観ていなかったし、ああ、また別の俳優がミーツ―の犠牲になったのかと思ったくらいだ。無論本当に有罪かどうかもわからないのに、単に誰かが告発すればそれで大人気スターのキャリアが崩壊するなんてことがあってもいいのだろうかと疑問だった。出来れば私は彼が無実であってほしいと思っていた。

ただ、当時私は彼は有罪だと思っていたのだ。その理由はラップの告発がバラエティー紙で発表された直後、スペーシーは謝罪文を出したからである。スペーシーはラップの言うようなことは記憶にないとしながら、「酔って不適切な行為をしたことについて心から謝罪する」 “I owe him the sincerest apology for what would have been deeply inappropriate drunken behavior.”という内容の謝罪をした。

私が思ったのはスペーシーがその事件を覚えていないのは本当だろうが、普段からそういうことをしょっちゅうやっているから、その事件そのものの記憶はないが、もしかしたらやったかも、と思ったのだろうということだ。しかしこの裁判の途中で、スペーシーは彼は周りからとにかく謝って置けとプレッシャーをかけられたという。スペーシーの事務所としては、大したことではないのでさっさと謝ってしまえば事は収まるという考えだったのだろうが、ミーツ―狂気のあの時代、これが罪を認めたと解釈され、スペーシーは完全に干されてしまったのだ。スペーシーは自分は子供に性愛を感じないので自分がそんな行為をしていないことは確信していたとし、自分のしていないことには決して謝罪していはいけないと学んだと話している。

ラップの裁判についての記事を読んでいたら、スペーシーは当時26歳でブロードウェイ舞台に出ており、当時ラップは同じ舞台俳優ジョン・バローマンとも友達で、スペーシーは二人を自分のアパートに招待したことがあった。バローマンは裁判中にスペーシーのアパートに行った時の話を証言している。バローマンの証言では三人でスペーシーの犬と遊んだとかありふれた話で、この事件とは無関係だった。ただ、ラップはスペーシーのアパートには事件があったとされる一度しか行ったことがないと言っていたことと矛盾している。

またラップの話がおかしいのはスペーシーのアパートは一間でラップが言うようなリビングと寝室と別れておらず、自宅でパーティーなど開いたことはなかったとスペーシーは証言している。

結局これはラップが昔からの知り合いであるスペーシーの成功に嫉妬して、彼を引きずりおろそうとでっち上げた話だったわけである。

で、このことでラップは罰を受けるのか?ラップはスペーシーと違ってさほど有名な俳優ではない。舞台では色々活躍していたようだが、2017年にスタートレックのレギュラーになるまで私は彼の名前をきいたことがなかった。やっと自分のキャリアにも芽が出始めた頃にスペーシーを告発というのも卑怯きわまりない。

私はハリウッドの掌返しには本当に呆れている。はっきり言ってラップの告発が100%本当だったとしてもその程度で一人の男のキャリアを潰していいのか?ハリウッドではそんなこと普通に起きていることではないのか?スペーシーをキャンセルした重役たちも身に覚えがあるだろう。しかも何の証拠もない、単にラップがそう言っているというだけなのに。

さて、スペーシーは二つの裁判で無罪となった。では中断されていた彼のキャリアはこれからどうなるのだろうか?彼の演技力やカリスマは誰もが認めることだ。しかしいったん傷物となってしまった彼に仕事の依頼は来るだろうか?

ダグラス・マレーはロンドンでの自分の講演の最後にサプライズでケビン・スペーシーを招待し、シェークスピアの一節をスペーシーに演じさせた。その場にいた観客からはスタンディングオベーションがあった。帰ってきてほしい。ケビン・スペイシー。

何も知らないうちに彼の有罪を決めつけた私も反省。


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ディズニーのポリコレ白雪姫公開一年延期!7人の小人シーンをすべてCGでやり直しか

以前にもディズニーが来年3月に公開予定の白雪姫が、あまりにもポリコレ過ぎるという噂がたち、しかも主演女優レイチェル・ズィグラーがあちこちで白雪姫の原作の悪口を言い回り、王子様はストーカーだとか、王子役はなくされ俳優も首にされるかもとか冗談交じりで言っていたことが仇となり、まだ公開されていないというのに白雪姫実写版の名前は地に落ちた状態になっていた。

数週間前に撮影現場の写真が流出し、7人の小人ならぬ7人のホームレスという感じで、小人がひとりしか入っていないと大騒ぎになった。小人俳優たちもディズニー映画なら出演したかったのにとカンカン。

つい先日、ディズニー社創設100年の記念日に、デイリーワイヤーは独自の白雪姫を人気ポッドキャスターのブレット・クーパーを主演にして制作を始めたと発表。ディズニーの白雪姫と真正面からぶつかる姿勢を見せた。そして二日前にパロディー漫画で知られるサウスパークがディズニー社のポリコレぶりをおちょくったパンダバースシリーズを公開。これが大人気をかもしている。

と言う中でなんとディズニーは実写版白雪姫の公開を一年延期して2024年3月ではなく2025年3月に公開すると発表した。しかも同時に最近漏洩した写真では7人の小人が人間ではなく何故か全部CGに入れ替わっていたのである。以前からディズニーがこの白雪姫を救いたければ、すべて配役を入れ替えて最初からやり直す以外にないと言われていたが、まさにそれをやる気のようだ。ただ主演はそのままのようだが。

Disney

私の想像だが、このディズニーの白雪姫は公開されないのではないかと思う。もうあまりにも色々言われ過ぎて公開しても誰も観ないだろう。これ以上金を注ぎ込んで色々やっても無駄だ。もう損を受け入れてストリームだけにするとか完全にキャンセルするか道はないと思う。

最近のディズニー映画は昔のような魔力はない。公開する映画が後から後から不発。ポリコレ過ぎて面白くないという悪評判が立ち、同性愛者のラブシーンなどがあり親たちが子どもを安心して連れていけなくなっている。そしてディズニーランドも入場料の値上げや超人気の乗り物スプラッシュマウンテンを除去してしまうなどで入場者の数が激減しているそうだ。

しかもキャストや他の従業員の質も低下の一途をたどり、園内の掃除が行き届いていなかったり、喧嘩が起きても従業員では制圧できずに警備員が呼ばれるなど、もうきれいでも安全でもない場所になっている。

もともとディズニーランドの従業員の給料は低いことで有名だが、それでもディズニーは規律が厳しく、ここで務まったということが履歴書にあれば後々の就職に拍が付くという評判だった。しかしコロナ禍の後、アメリカのインフレも手伝ってか安月給で仕事がきついディズニーは人手不足に悩んでいるという。それで従業員の質がどんどん落ちているというのだ。園の中で喧嘩がおきるなどというのも、昔なら従業員が喧嘩のきっかけをすぐに察知して原因となりそうな人たちをすぐ退場させたものだが、今やそんな能力のある人が居ないので、喧嘩が起きてしまってから警備員を呼ぶと言う羽目になってしまうというのだ。

最近は口髭の生えた女装男が子どものお姫様の貸衣装の店に居たり、入れ墨した人がいたりで、本当にディズニーランドも高い入場料を払ってまでいくような場所ではなくなってしまった。


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サンセット大通り、最初からネタバレなのにやっぱり理解に苦しむエンディング

サンセット大通りは1950年に公開されたフィルムノワール風につくられた大傑作映画である。(ビリー・ワイルダー監督、ウイリアム・ホールデンとグロリア・スワンソン主演。)

この映画の特徴は冒頭でネタバレがあることだ。ハリウッドの豪邸のプールに浮かぶ一人の若い男の死体。この男がホールデン演じるジョー・ギルス。男を殺したのはこの豪邸の持主で元大女優のノーマ・デズモンド。この物語は中年の女が若い男を殺して終わることは分かるが、どうしてそんなことになったのか、その話は数か月前にさかのぼるのだが、その解説をするのがなんとプールに浮かんでいる男その人なのである。

実は今日私がお話したいのは映画の方の感想ではなくこの映画を元にしたアンドリュー・ロイド・ウエバーによるミュージカルの方である。しかし筋は映画を忠実に再現しているので、どちらの話も一緒にして差し支えないだろう。

私がこの映画を観たのはもうずいぶん昔だ。とはいっても公開当時はまだ生まれていなかったので観たのは大人になった80年代だ。それでもちゃんと映画館で観た覚えがあるので、多分どこかの名画座あたりで観たのだろう。

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グロリア・スワンソン(映画サンセット大通りより)

ミュージカルの方は1994年のブロードウェイバージョンをグレン・クロースとアラン・キャンベル主演でロサンゼルスでミスター苺と一緒に観た。残念なことに私は当時この作品の偉大さに気付かなかった。後に私はイレイン・ぺージの歌を(https://youtu.be/zlk-gj5Ukes?si=bHWpWxgKU3Irr1K)動画で見て、あれ?これってかなりいいミュージカルなんじゃ、、と思い直したのだ。で、今回私が観たのはコンサートでイギリスのウエストエンドでのオリジナルキャスト、パティ―・ルポーンとケビン・アンダーソン主役のバージョンである。(1993年)

話の舞台は1950年代のハリウッド映画界隈。舞台でも出だしは映画と同じでジョーがプールに浮かんでいるところから始まる。ここは映画のようにフィルムで紹介されるが、その横でジョーが立って話を解説し始める。

ジョー・ギルスはハリウッドで脚本家として一旗揚げようと一年くらい前にやってきた。いくつか低予算映画には採用されたりしたが、今は全く仕事がない。壁紙の禿げた安アパートで暮らし毎日借金取りに追われている。色々エージェントや伝手をつかって仕事得ようとするが全くうまくいかない。

この状況が「Let’s have lunch」という最初の曲で説明される。ハリウッドでは持ちかけられた話を適当に誤魔化すためにこの「いつか昼食でも取りながら話そう」と言うのが定番と言われている。実際に話すつもりなら、その場で話すのが筋なわけだから、「まあそのうちに」とか言われている間はまるで希望がないと言えるだろう。この曲の間にスタジオで衣装を来た人たちが行きかい、二階建ての舞台の上の方でコーラスガールたちがリハーサルをしている姿がえがかれる。スタジオ内のばたばたとした忙しさのなかにジョーの絶望感と借金取りにおわれる緊迫感が感じられる。

そんなある日、借金取りから車で逃げている最中に道に迷ってとある屋敷のドライブウェイに迷い込んでしまう。そこがサンセット通りにあるノーマの屋敷である。ペットのチンパンジーのお葬式をしようと葬儀屋を待っていた屋敷の主に葬儀屋と間違われて屋敷内に案内されてしまう。屋敷の女主人が無声映画時代の大スターだったノーマ・デズモンドであることに気付いたジョーは「あんたは昔大物だった」と言うと、「私は今でも大物だ。小さくなったのは映画のほうだ」と答えるノーマ。ここでノーマの最初のアリア「With one look」が始まる。ここで女優は観客の心をつかむ必要があるが、ルポーンは見事にそれをやってのける。この歌でノーマの自分の昔のイメージへの狂気的な執着度がうかがわれる。

誤解が溶けてジョーが脚本家であることを知ったノーマは、自分が書いたというサロメという分厚い脚本をジョーに渡し、それをなんとかきちんとした脚本に書き換えてほしいと仕事の依頼をする。その間ノーマの屋敷の離れに住むと言う約束で。ミュージカルでは説明がないが、映画ではノーマはジョーに黙ってジョーのアパートの家賃を支払ってジョーの荷物をすべて屋敷に移してしまう。ここですでにノーマによるジョーへのコントロールが始まっているのである。

ノーマは大きな屋敷に侍従のマックスと二人暮らし。トーキーになって20年以上も経っているというのに、無声時代の自分の名声にしがみつき、時代の流れに全く順応できていない。ノーマに献身的に尽くすマックスは、ノーマの幻想を壊さないためにせっせとファンレターを書き続けている。ノーマと毎日のように脚本を書く日が数か月続き、毎日高級料理をたべ上等のシャンパンを飲み高価なスーツまで買ってもらうジョー。大晦日にノーマはパーティをすると言ってジョーを相手にタンゴを踊る。そして如何に今年が完璧な年だったかをジョーに囁く「Perfet year」。しかし踊っている最中にノーマから愛の告白をされたジョーは息の詰まる思いでノーマの求愛を拒絶する。そして若い仲間たちのいるハリウッドスタジオへ向かう。

スタジオで大晦日のパーティーに参加したジョーは友人の婚約者であり以前に少し話をしたデミル監督の元でスクリプトガールをしているベティと再会し、一緒に脚本を書かないかと提案される。彼女の提案をうけ、やはり屋敷は出ようと決心したジョーはマックスに電話をしてその旨を告げようとするが、その時ノーマがカミソリで手首を切ったと知らされる。急いで屋敷に戻ったジョーは、ノーマの哀れな姿に罪悪感と同情心が混ざりノーマに口づけをする。ノーマはジョーの襟首をつかみ引き寄せ、しっかりとジョーの首に手を回す。もうお前を離さないとでもいうかのように。

自分の命を人質にとって男を引き留めようとするやり口は汚い。しかしジョーもその手口には気付いたはずだ。ジョーのこの口づけはジョーの無条件降伏でもある。俺はこの女から逃れられないと覚悟を決めた口づけだ。ここで第一幕目が終る。

二幕目の冒頭はこの芝居の主題歌ともいえるジョーのソロ、サンセットブルバードだ。

ノーマの若い燕となり快適な暮らしをしているジョーだが、自分が籠の鳥であることは十分自覚している。それでいて自分から去ることができない自分の優柔不断さに苛立ちを感じている。それがジョーの歌のなかで一番重要な主題歌「サンセットブルバード」である。

そうさ、名声を求めてここへ来た。プール付き犬付き名誉が欲しかった。ワーナーの敷地に駐車場。でも一年経って地獄の一部屋、折り畳みのベッドに角が剥がれた壁紙。

サンセットブルバード、曲がりくねった道、秘密で金持ちで怖いサンセット大通り。油断してる奴を飲みこもうと待っている。

夢だけじゃ戦争には勝てない。ここじゃ何時も点数を控えてる。日焼けの下で熾烈な戦い。借りて来たほほ笑み、誰かのグラスを注ぎ、誰かの奥さんにキス、誰かのケツにキス。金のためなら何でもするさ。

サンセットブルバード、見出しの大通り。たどり着くのはほんのはじまり。サンセットブルバード、大当たり大通り、一度勝ったら勝ち続ける。

(魂を)売り渡したと思うか?ああそうだよ売り渡した。いい依頼があるのを待ってるんだよ。快適な部屋、定期的な配給、24時間五つ星のサービスだ。正直俺はあのご婦人が好きだしね。彼女の愚行に打たれたんだ。泳ぎながら彼女の金を受け取ってる。彼女の日没(サンセット)を観ながら。

ま、作家だからね、俺は。(後略)

引きこもり生活をしていたノーマが唯一外出するシーンがある。それはパラマウントスタジオから電話がかかってきたことがきっかけだ。ノーマはジョーと書いていた脚本をスタジオに送っていたため、それが受け入れられ女優として主役を演じられるものと思い込みマックスにクラシックカーを運転させてジョーを連れてスタジオへ向かう。スタジオを見学に来たと思ったデミル監督(映画では本人が演じている)はノーマを椅子に座らせて「今リハーサル中だからここで見学してくれ」と言う。

スタジオでは昔のノーマをしっている照明係が「デズモンドさん、デズモンドさん、はっきり見させてくださいよ」と言ってノーマに照明を当てる。それを観た他のスタッフたちが「ノーマ・デズモンドだ!」といって集まってくる。ノーマは久しぶりにファンに囲まれて上機嫌。ここでノーマが歌う「As if we never said goodbye」(まるで一度もさよならを言ったことがないかのよう)はどこでも歌われる名曲である。ルポーンの哀愁に満ちた歌声には心を打たれる。

結局スタジオからの電話は彼女へのオファーではなく、彼女のクラッシックカーを借りたいという話だったのだが、それを知ったマックスはそのことを絶対にノーマに知らせまいと決心しジョーにも口止めする。なぜそこまでマックスがノーマを守ろうとするのかジョーが問い詰めると、マックスは実は自分は昔映画監督で16歳のノーマをスターにしたのは自分だったこと、そして彼はノーマの最初の夫だったことを告白する。しようと思えば映画監督を続けられたのに、ノーマの失脚とともにノーマを守るために自分も映画界を去ったのである。マックスはこれからもノーマを守っていくとジョーに次げる。マックスもまたジョーと同じでノーマの奴隷となっているのだ。

ジョーは次第にそんな生活に飽きて、夜ごと屋敷を抜け出してはベティと一緒にオリジナルの脚本を書き始める。そうしているうちにベティは婚約者が居ながらジョーに魅かれジョーもまたベティーに魅かれていく。二人が恋に落ちる様子が「Too Much in Love to Care」(愛しすぎて気にならない)で歌われる。しかしこの間ジョーは一度もベティにノーマのことを話していないのだ。どんどんベティに魅かれて生きながら、ノーマの愛人を辞めていないジョー。

ジョーが外で女と会っていることを知ったノーマはベティの電話番号を突き止め彼女に何度と電話をして嫌がらせをする。その現場に居合わせたジョーはノーマから電話を取り上げベティにノーマのサンセット通りの住所を教えて今すぐ来いと言って電話を切る。

駆け付けたベティに向かってジョーは自分がノーマの囲い者であることを白状する。ベティは「そんなことは知らない。私は何も聞かなかった。さっさと荷物をまとめて一緒に出て行きましょう」という。だがジョーは自分はここの生活が気に入っている。ここを出ても仕事などない。またあの安アパートに戻れというのか、君は婚約者の元へ戻って結婚しな。時々遊びにおいでよ、プールを使わせてあげるからと皮肉たっぷりに言う。

ベティはショックを受けてそのまま立ち去ってしまう。ジョーはベティを引き留めようと一旦は腕を伸ばすがその手を引っ込めソファに座りこもうとしてソファから崩れ落ちてしまう。

そこへノーマが入って来て「ありがとうジョー」と言うが、ジョーはスーツケースを持って出て行こうとする。そしてどうなったか、それが冒頭のシーンである。

さてここで私には解らないことがあった。結局ノーマの元を去ろうと決心したのなら、なぜベティと一緒に出て行かなかったのだろう?どうせ出ていくなら好きな人と一緒の方がよかったのでは?何故ベティに心にもない三下り半を下したりしたのだ?

色々な人の解釈を聴いていて納得したのは、ジョーはすでにハリウッドで腐敗してしまった敗北者だという気持ちがあった。それでベティまで腐敗させたくなかったという親切心からではないかという話。たしかに、もう自分が立ち直るのは手遅れだが、愛するベティだけでもなんとか救いたいという気持ちだったのかもしれない。多分ジョーはノーマの家を出たら、故郷のオハイオにでも帰って、また一からやり直そうと考えていたのだろう。

だがノーマ(ハリウッド)は自分勝手な退場は許さない。利用するだけ利用し役立たずになったら追い出すまでジョーはノーマの奴隷だったのである。

同じテーマのこんな歌を思い出す。

ようこそホテルカリフォルニアへ、チェックアウトは何時でも出来ます。でも永遠に去ることはできません。

一番有名なシーンについて書くのを忘れていた。冒頭のシーンでジョーがプールに浮かんでいると言ったが、そこにはすでに警察や新聞記者らが集まっていた。フラッシュをたいて写真を撮っている報道陣を観て、狂気の絶頂に達してしまうノーマ、あたかも撮影現場にいるかのように大袈裟なポーズを取りながら長い螺旋階段をおりてくる。映画ではこの間、階段やその下に集まっている警察官や報道陣はまるで時が止ったかのように動かず、ノーマだけがゆっくりと階段を降りてくる。

そして無声映画の役者特有のドラマチックな表情をしたかと思うと例の有名な台詞で幕が閉じる。

「デミル監督、クロースアップをどうぞ。」


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