November 18, 2006

何故西洋社会はイスラムの事実を認めないのか?

さて、イスラムについて文明社会が知るべき事実、シリーズ三段目の最終回はおなじみロバート・スペンサー氏のおでましである。

スペンサー氏は、西洋社会は悪の根源はイスラム教にあるという明白な事実を受け入れようとしないと語る。この事実はイスラム教の教えをみれば誰にでもわかる事実だという。 本来ならば「イスラムについて、、」のようなドキュメンタリーはハリウッドの主流映画会社が作るような作品であり、多くの人々にイスラムの脅威を知らしめる必要があるのだと。

にも拘わらず主流メディアはこの事実を無視しようとする。 しかしこの事実を永久に無視し続けることは不可能だと氏は語る、なぜならこの事実に真っ向から立ち向かわなければ我々は自滅してしまうからである。

シューバット氏はコロンビア大学で演説した時に受けた生徒達からの反応をこのように語る。

私の演説のなかで、私はイスラムへの批判のみならず、プロテスタントの変革者マーティン・ルーサー の書いた「ユダヤ教とその嘘」についても批判しました。また私はマーティン・ルーサー・キングJRが黒人の人権のために戦ったと讃えたにもかかわらず、生徒達からは人種差別者、偏見主義と批判を受けました。 どうして私がマーティン・ルーサーを批判したことについては誰も私をキリスト教への偏見だと批判しないのでしょうか?

ここまではよく聞く話だが次のシューバット氏の話には衝撃的だ。

私がテロリストだったときには世界は私を解放戦士と呼びました。 私が「解放戦士」だったときは私は「ユダヤ人はシャイロックだ、イスラエルは人種差別政権だ、(アメリカの)議会もメディアもユダヤ人によってコントロールされている」と言いたい放題でした。 その頃は私はユダヤ人を憎んでいました。でもこのごろは気が変わってすべての人々を愛するようになると、私は人種差別者とレッテルを貼られるようになったのです。

しかもシューバット氏がテロリスト時代に言っていたようなレトリックがいまではアメリカの大学教授らが普通に言っているというのだ。 彼らがテロリストの味方といわれず、シューバット氏が人種差別者と言われるなんて逆さまではないのだろうか? またシューバット氏はイギリスのBBCでインタビューを受けたとき、こんな応答をした。

インタビュアーは私に「今日の問題は原理主義にあるのでは」と聞くので私は「キリスト教の原理主義は我々に頭痛を与えるだけだが、イスラム教の原理主義は我々の頭を肩から斬り取るんですよ」とこたえたところ、速やかに感謝され出口に案内されました。

私はこのブログでも何度か文明社会がイスラム教徒全体を敵に回すことの危険性を主張してきた。 だから私は悪の根源はイスラムの教えにあるというこのドキュメンタリーの製作者たちの意見には全面的に賛成できないでいる。 特にシューバット氏はイギリスのブレア首相がイスラム教を「平和を愛する宗教」だと何度も繰り返すことに関して、愚かなのか嘘つきなのかどちらかだろう、と言い切ることには全く同意できない。

ブレア首相ほど対テロ戦争に関して自分の政治生命を犠牲にしてまでブッシュ大統領と一緒になって努力してきた政治家はいない。 ブレア首相ほどイスラムテロリストの脅威を正しく理解して戦い続けなければならないと主張した人はいない。 私は911事件以後のこの世の中にブレア首相という立派な政治家がイギリスにいてくれたことを何度神に感謝したか知れない。

「イスラムについて、、」の製作者たちがわかっていないのは、政治家達がイスラムを「平和な宗教」だと主張し、テロリストは過激派であり、本来のイスラム教の教えを歪曲しているのだと語るには理由があるということだ。 イスラム教の人口は12億といわれている。 この中で過激派は約一割というではないか。 彼らはその一割の過激派と戦うために我々文明諸国に対して12億の人々全体を敵に回せというのか? 

無論、数や欧米の戦争技術をすれば、12億の敵をもってしても西洋社会がいずれは勝つだろう。 だが、もしそのような戦争がおきれば、第2次世界大戦どころの騒ぎではなくなるということがこのドキュメンタリーの製作者たちにはわかっているのだろうか?

イスラムの教えそのものに問題があるという事実は私も認める。 その事実から我々が目をそむけてはいけないという事実も認めよう。 しかしながら、12億からいるイスラム教徒全体を敵に回して我々が得るものは何もない。

キリスト教、ユダヤ教、仏教、ヒンドゥー、どの宗教をとってみても、詳しい読み方をすればあらゆる部分で暴力を容認する節を見つけることができるはずだ。 これらの宗教の歴史のなかにも他宗教を排斥し虐待してきた事実があるではないか。 だがこれらの宗教が現在の平和的な共存をみつけたのには理由があるはずだ。 その変革がイスラム教だけには出来ないと断言してしまうのはあまりにも乱暴ではないだろうか?

イスラム教徒でも大抵の人々はテロリストではない。 大抵の人々はただ普通に自分らのささやかな生活を守って生きたいだけの人々だ。 彼らが心のよりどころとしているイスラム教を真正面から批判するよりも、イスラム教を正しく解釈せよと促すことのほうが建設的ではないだろうか? 我々はイスラム教徒でありながら穏健派の道を選んだ沈黙の多数派に注目し、何故それが可能なのかを考える必要があると思う。

私はこのようなドキュメンタリーが作られることには賛成だ。 そして多くの西洋人が(日本も含む)イスラム教の脅威を学ぶべきであるとも、アメリカの教育の場でイスラムを美化した嘘が教えられているという事実を暴露し変えていく事実も必要だと思う。 だが、政治家達は今までどおりイスラムは本来は平和な宗教であるというレトリックを言い続けるべきだ。 そしてイスラム教徒ら自身にその「事実」を納得してもらい、暴力的な過激派ジハーディズムを拒絶してもらよう努力すべきだと考える。

本来のイスラム教の実態への教育は政府レベルではなく、草の根運動でやっていくべきだと私はおもう。

November 18, 2006, 現時間 4:44 PM

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コメント

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下記投稿者名: asean

おはようございます、カカシさん

宗教が生活の一部になっている(はず)の多くの第三世界において実はその宗教が最も遠い存在である。

ことを先進国の人達には理解してほしいものですね。

多くの一般的なイスラム教徒は(例えばアフガニスタンのムジャヒディンにした所で)タリバンという
パキスタン系原理主義者に遭遇して初めてイスラム原理主義を知った、と言っても過言ではないからです。

欧米に移住したイスラム教徒がどうしてああまでも無理難題を要求するかのような態度を示すのか?
にしても、実はイスラム教がその元凶なのではなく(7世紀のままなのが問題なのですが)欧米型の自由・民主主義が
保障する「自由」という概念が7世紀のままのイスラム教に解釈の幅を与えてしまうからに他ならない、と考えられるのです。

カカシさんの仰ってることはイスラム教が21世紀という現代にどうイスラム教自体が変革するのか?という問いを含んでいるのです。

その為に最も重要なことは、当のイスラム教徒が真にイスラム教を学習し直す必要性があるのです。

しかし、それを実現する為には「権力闘争」の一環でもある宗派対立的な問題を解消する必要性をイスラム内部
(特に宗教指導者層、エリート層)が理解しなくてはなりません。
(統合する必要性はありません、キリスト教でもカトリックとプロテスタントが存在するのですがから)

以前、ローマ法王の発言に対して批判が噴出しましたが、あの最大のポイントはローマ法王の神学論争としての発言に対して
イスラム教が神学論争として応えられないこと大きな問題が含まれていたのは自明なのです。

しかし、スーダン等でも発生しているように、多くの第三世界では一般的な人達が平穏な日常を先ず確保されないが故に
イスラム教を学習し直す暇が成立していない。

言葉は悪いですが、そういう人達には聖書もコーランも究極のファンタジーでしかなく目の前にある過酷な現実の問題には残念なことに何の解決策にもならない。
(腹が膨れる訳でも死なない訳でもないですからね・・・)

イスラム教徒自身にその問題に取り組むことが出来るか否か?その為には何が必要なのか?
(自身の努力?国際社会の支援?・・・)

>草の根運動・・・・

確かにそれも重要なことの”一部分”ではあるのですが、それだけではちょっと足りない。
なぜなら、イスラムの歴史は自分達よりも劣った未開で身勝手な野蛮人を平定する必要性の中で
つまり下方へのベクトルしか持たない宗教として存在していたからに他ならないからです。
(世界で絶対唯一正しい神アッラー自身は進化:時代の変化への対応:を必要としない・・・つまり
アッラー自身が7世紀という時代に幽閉されてしまった)

為政者が統治者という理解から国民の幸福を第一義に考える上でイスラム教とどう対応していくのか?という意識が育たなくてはならない、っと僕は考えています。
(いうなれば指導者の質の問題ですね)

多くのイスラム教徒や宗教指導者が「平和的な問題解決の手法」を考え出すことが出来るか?
つい最近インドネシアであった「反対の為の反対運動」のように動員したイスラム教徒を煽るだけの過激なアジテーション等といったパフォーマンスではない手法をです。
(あの報道をみても、先導している連中からは「愚衆を指導している」という態度がありありと見える訳です)

難しいですけど、なんらかの解決方法を見つけ出さなくてはならいのも又事実なのですが・・・

上記投稿者名: asean Author Profile Page 日付 November 19, 2006 6:47 PM

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