アロハシャツとバミューダショーツ、半世紀前のアメリカ人観光客

ちょっと前に久しぶりに東京へ行った友達が、「いやあ、円安のせいか外国人観光客がすっごかったわよ」と話していた。それでちょっと思い出したことがあった。

もう10年以上も前になるが、両親と叔母と我々夫婦がニューヨーク旅行をしたことがある。その時何故か父がド派手なアロハシャツを着ていた。このシャツは私が以前にハワイに出張で行った時のお土産に買ったものだ。どうしてニューヨークでアロハシャツなど着ているのかと聞くと父は「アメリカ人は旅行にアロハシャツを着るんだろう?東京で見るアメリカ人観光客はいつもアロハシャツを着ていたぞ。」と答えた。え?お父さん、それいったい何時の話?

実は父がこのように思ったのには理由がある。これは私がまだ中学生くらいの話なので、もう50年くらい前のことだ。当時日本とアメリカをつなぐ航空会社といえばパンアメリカンと日本航空だけだった。当時は直行便はなく、アメリカ人は必ずホノルル経由で日本へ来たのだ。まだ一ドル300円とかいう時代だったので日本から海外旅行出来るような人は少なかったが、アメリカからの観光客は結構多かった。とはいえ航空賃は今のように安かったわけではないので、アメリカからの観光客もお金持ちが多く、今のように東京が外国人で溢れかえるなどという状況とは程遠いものだった。

どうせホノルルを経由するのなら、ハワイにも何泊かして観光してから日本へ行こうと考える人が多かったのは当然だ。ハワイはアメリカの一部とはいえ、多くのアメリカ人にとっては異国情緒のある場所である。それで多くのツアーはロサンゼルスからハワイ観光そして日本というふうになっていたのだ。

ハワイに行ったことのある人ならよくご存じだろうが、ハワイはトロピカルアイランドなので、いくら夏服でも他所の服はしっくりこない。それに至るところでド派手なアロハシャツやバミューダショーツが売られているから、せっかくなので買って着ようとなる。実はアロハシャツにもピンからキリまであって、10ドル20ドルくらいで一回洗濯したら破れてしまうような安物から100ドル以上する質もデザインも良いものから色々である。安物のシャツは色も鮮やかでデザインも派手なのでハワイ以外の場所ではちょっと恥かしくて着られない。だから島で観光中だけ着る感じである。

ツアーは夏場が多かったこともあり、ハワイでアロハシャツとバミューダショーツを買った男性と、サマードレスの妻という中高年アメリカ人夫婦が、すっかり観光気分で(観光だが)東京の町をうろうろする姿を当時東京で仕事をしていた父はよく見かけたのだ。アメリカから直行便が出るようになった昭和55年くらいでも、そんな恰好のアメリカ人観光客は未だ結構いた。

一度父が仕事から帰って来て、東京駅でアメリカ人ツアーに出会った話をしていた。「アロハシャツにバミューダショーツの大柄な中年男性が疲れ切った顔で荷物を一杯もって座り込んでいた。そして近くに居た太った奥さんに『ハニ―』と話しかけているのを聞いて笑っちゃったよ」と言っていたのを今でも覚えている。

日本人からすると、中高年の男性が妻を「ハニー」なんて呼ぶのはこっぱずかしいという感じがするが、アメリカ人夫婦の間では単なる呼び名なのであまり意味はない。もっとも私はミスター苺から「ハニー」なんて呼ばれたことは一度もないけど(笑)。

https://pin.it/36YDibZF3

現在はロサンゼルスから羽田や成田まで直行便が幾らも出ているし、ハワイなんてそんなに珍しいところでもないので、ハワイ経由の観光客は減ったかもしれない。航空運賃も安くなり若い人でも日本に来れるようになったから、東京をアロハシャツで歩きまわるようなセンスのない人も減っただろう。父がニューヨークでアロハシャツを着ていた10年前でも、すでにそんな人はいなかったと思う。

でも自慢げに鮮やかな色のアロハシャツを着ていた父には、今時ださい、なんてことは口が裂けてもいえなかったけど。


Comment

吹雪のバージニアミッション第三話、日本食レストランに救われたホテル監禁体験

吹雪の中をパイロットシップに乗ってなんとか埠頭にたどり着いた我々民間人チームは、迎えに来てくれていた四輪駆動のSUV,ランドローバー数台にそれぞれ乗り込んだ。ここで私の任務が終るかと言えば全くそうではなかった。私のもう一人のチームメンバーの若い男性二人には、まだもうひとつ任務が残されていた。

我々は二週間にわたる航海で得た実験のデータが入ったハードドライブを所持していた。これは機密情報であり我々が一時でも目を離していいものではない。このまま空港に向かって飛行機に乗ると言うのであれば別だが、我々は一晩バージニアのホテルで泊まる予定だったので、機密メディアを持ったままの宿泊は許されていない。そういう場合は二人のチームで交互に守ることになっているが、それはあらかじめ決められたチームでなければならず、私とその男性とはそれぞれ別のデータを所持しており、指定されたチームメンバーではなかった。

それで我々のデータはきちんとした金庫にしまっておく必要があった。もし船が港に付くのであれば、船に置いてきても良かったわけだが、船はこのまま航海を続けるので、データは我々が降ろしてそれぞれが勤務する基地まで運ぶか郵送する必要があったのだ。私の場合はカリフォルニア、彼の場合はニュージャージー。というわけだから、我々は安全とされるノーフォーク基地内のとある金庫室にデータを一晩預けなければならなかった。

私とその男性を乗せてくれたドライバーの叔母ちゃんはミシガン出身の元海軍人。こんな吹雪の中を真夜中に出て来てくれてありがとうと言うと、「私はミシガン出身よ、こんな雪なんともないわ。こんなんでびびってるバージニア人は軟弱よ」というと彼女はガハハハッと大声で笑った。

機密データをなんとか安全な金庫室に預けて私のレンタルカーを止めてあった駐車所に戻ると、案の定私の車は雪に埋もれていた。幸いなことに一緒に居た男性はレンタルカーを航海前に返してしまい車を持っていなかったので、私の車を雪から掘り起こしてくれた上にホテルまで運転してくれた。「僕は現役の時ドイツで勤務してたから雪道なんて平気さ」と元陸軍人の彼は言った。

その時彼は、実はその晩のホテル予約をしていないことを私に告げた。彼は日中に港に付けると思っていたので、その足で飛行機に乗ってしまおうと思っていたらしい。しかし船の乗り換えで色々あって、その時はすでに午前2時。私は自分が常連であるホテルに行こうと提案。あのホテルなら私は顔が効く。一晩くらいなんとかなると思ったからだ。

思った通り、ホテル側はシーズンオフでがら空き。駆け込みの客でも十分対応してくれた。私たちは翌朝一緒に空港まで行こうと約束してそれぞれの部屋に行った。私は電話で翌日の飛行機の手配をし、これでなんとかこの任務完了と思い眠りについた。

翌朝、我々は金庫からデータを取り出し私は無事郵送を済ませ、彼は彼のデータを自分の胸ポケットにしまい込み、これで安全となったのでノーフォーク空港に向かった。男性が無事チェックインするのを見守ってから私は自分の予約した航空会社のカウンターまで行くと、なんと予約が入っていない!それで確認すると私の予約は翌日になっていると言われた。あ、そうか、夜中に電話した時「明日の飛行機」と言ってしまったのが原因だった。すでに零時を過ぎていたから予約は翌日になっていたのだ。

仕方なく私はタクシーに乗ってさっきチェックアウトしたばかりのホテルに戻った。事情を説明したら、まだ部屋の掃除は住んでないので、同じ部屋にもう一晩泊まってもいいと言われた。まあ、いいか、一日くらい伸びたからってどうということはない。データは郵送してしまったからもう何の心配もない。そう思い私はその晩はお気に入りの日本人経営の日本食レストランに食べに行った。

「え?明日お帰りで?それは無理ですよ。吹雪がくるってんで空港は閉鎖されますよ。道だって塞がれるし、うちは明日は休みにする予定です」と店の大将が言う。

大将によれば、天候の悪化が予測されるため、空港は閉鎖、緊急など公式な乗り物以外の車の運転は禁止というお触れが出ているという。

バージニアビーチにあるこの店は私がノーフォークに行く度に必ずよる日本食レストラン(ジャパレス)である。もうここ30年近くアメリカのジャパレスは中国人や韓国人経営の店ばかりで、生粋の日本食が食べられる店などほとんどない。しかしこの店は珍しく経営者は日本人でウエイトレスも皆年季のはいった地元日本人女性達である。私は出張手当が出るのをいいことに、この店に行く度に一人ではどう考えても食べきれない品数を注文する。すべて持ち帰って翌日の朝食や昼食にするからである。

Kyushu Japanese Restaurant – Google Maps

この店の存在は私の日系人の後輩が教えてくれた。それ以後私はバージニア出張中何度も訪れるだけでなく、数人の同僚を連れて団体で行くことも多かったので、この店は私のことを気に入っていた。日本女性のウエイトレスは、私が断らないことを知っていたので、私がいくとなんだかんだとお薦めの品をすすめた。

それで大将は帰り際に私にお弁当を包んでくれた。「どうせ明日は一日ホテル監禁になりますからね」馴染みのお店というものはありがたいものだ。

ホテルに戻って航空会社に電話をすると、やっぱり空港は閉鎖されるとのこと。すべての飛行機はキャンセル。吹雪が収まるまで数日間は身動きが効かないということが解った。カリフォルニアの上司にその旨を伝えると、「なんとかして帰ってこい」という。なんとかしてったって、道路は閉鎖され飛行場も閉鎖されてるのに、どうやって帰って来いと言うのだ!

それで私は一応「わかりました」とはいったものの、どうせ吹雪が収まるまでどうしようもないと思ったので、腹をくくってホテル監禁状態に甘んじることにした。結局その後三日位ホテルで缶詰めになったが、包んでもらったお弁当のおかげで、なんとか飢えをしのぐことが出来た、、って大袈裟かな?


Comment

吹雪のバージニアミッション第2話、怖かった海上での船乗り換え

私が米国海軍駆逐艦に乗る仕事をしていたと言う話は以前にもした通り。今日はある冬、吹雪の中駆逐艦から小さいいパイロット船に乗り換えた時のお話をしたいと思う。

私は海軍で民間人エンジニアとして長年働いていたが、その仕事のひとつとして駆逐艦に乗って航海をすることが含まれていた。しかし私は乗組員ではかったので、艦での仕事が終わると艦そのものはまだ航海中でも途中下船をしなければならないことが度々あった。航海中の船から途中下船をするとなると、その方法は限られている。

ひとつは航行中に別の船に乗り換えて、その船によって港まで連れて行ってもらう。もうひとつは、ヘリコプターに迎えに来てもらって最寄りの陸まで運んでもらうことである。私はその双方とも経験しているが、今回の話は別の船に移動した時の話だ。

その日我々の民間人エンジニアリングチームは二週間に及ぶ航海の末下船することになっていた。

当初の計画では、下船はRigid inflatable boatという通称「RIB」という上記の写真のような小さなモーターボートに乗り換えて港まで行くはずだった。しかしこのモーターボートは波が荒かったり風が強かったりすると転覆する恐れがある。それでなくとも乗客は外部の空気に丸出しなので乗っている間かなり水浸しになる。この年のバージニアは特に寒く、この日の気温は摂氏マイナス22度だった。駆逐艦は中型とはいうものの結構大きいので、デックから小舟に乗り換えるためには10メートルくらいある縄梯子を伝って海面のボートに降りなければならない。この冷たい海水のなかにもし落ちたら数分でお陀仏である。こんな状況での乗り換えは非常に危険だし、モーターボートが無事港にたどり着けるかもかなり疑問だった。なにしろ乗船時間は少なくとも一時間という長時間だったのだから。

カカシ注:写真をそのまま張れないが、こちらのリンクの写真を見てほしい。ちょうど私も乗ったことのある米駆逐艦に近づくモーターボートの写真が載っている。こういうボートに乗って港まで一時間近く走行する予定だったのである。Petty Officers ride in a rigid-hull inflatable boat as they approach the USS Mason. (31494897982) – Rigid inflatable boat – Wikipedia

私は民間人のチームリーダーに、もしどうしてもボートでの移動が必要だというのなら、私は艦と一緒に数日余計に航海してもいいから、乗組員と一緒に最寄りの港で降ろしてもらいたいと申し出た。しかしリーダーは艦長に掛け合いさえしてくれなかった。元軍人のリーダーは上官を極度に恐れるきらいがあり、ちょっとでも規則に外れる選択肢は問題外として取り合ってさえくれなかった。

我々民間人十数人は寒空の夜間に甲板に集められた。これからRIBへの乗り換えを始めるため、それぞれ救命ベストを着用した。私はずっと嫌がっていたが、もうそんな意見が聞き入れてもらえる状況ではなかった。甲板でRIBを降ろすのを待っていたら雪が降り始めた。気温はさらに下がり風も強くなり、甲板に立っているのさえ苦痛に思われるほど天候は悪化した。艦にとどまりたいという私の要請を却下したチームリーダーですら、不安になってきているのがその表情から見て取れた。

そのうちに雪は吹雪へと変わり、目の前が全く見えない状態になった。こんな状況で縄梯子を伝いながら小舟に乗り換えるなんて可能なのか、あり得ないだろうと私たちは口々に言い合っていると、リーダーが大声で「艦長命令だ。艦内へ戻れ、移動は中止だ」と怒鳴った。あまりにも天候が悪化したためRIBを降ろすのは不可能だと艦長が判断したらしい。そりゃそうだろう、いくら民間人でも我々の身になにかおきたら艦長の責任だ。

私たちは一旦救命ベストを外し艦内で待機した。しばらくして屋根付き壁付のパイロットシップを呼び寄せて、そちらに移動することに決めたという知らせが入った。この船は船内部はきちんと屋根と窓に覆われており、乗員は外部の空気にさらされないようになっている。しかしパイロットシップの元来の役目は港に近づく大型船を港へ誘導することなので長距離運転は出来ない。それで我々の駆逐艦はさらにずっと港に近づかなければならなかった。だったら艦自体が港へいけばいいじゃないかと思われるかもしれないが、大型船が港に付くとなると色々な準備が必要で、それにかかる時間と労力とお金は相当のなものだ。だから大型船は不必要に港には近づかない。

というわけで、艦がパイロットシップの行動範囲に入る付近まで一時間近く待機した。ようやくパイロットシップが港から到着。それでも海面に浮かぶパイロットシップまで甲板から縄梯子で降りると言う行動を避けることはできなかった。真夜中の吹雪のなか縄梯子を10メートルも降りるというのは普通なら絶対やりたくない行為である。

しかしこの長い縄梯子も最後のステップまでパイロットシップに届いていなかったので、ステップがなくなった時点で手を放して飛び降りなければならなかった。パイロットシップの乗組員が「大丈夫、I got you 手を放して!」というのでぱっと手を放して後ろに飛び降りると誰かの大きな腕が私を包み込んだ。ありがとう!私は涙が出る思いだった。

ずっと寒い甲板で吹雪に晒されていた我々はやっと暖かいパイロットシップの中にはいり一息つくことが出来た。

パイロットシップののろのろ運転でやっと桟橋にたどり着いた時は夜中2時過ぎ。気温はさらに低く吹雪はその勢いを増していた。桟橋には陸で待機していたチームメンバーの叔母ちゃんドライバー達がそれぞれのランドローバーSUVから手を振った。我々は数台の車に乗り込んで次の目的地へ向かった。

私の夜はまだ終わっていないのだが、それはまた別の機会にお話ししよう。


Comment

吹雪のバージニアミッション第一話、雪道運転

私が海軍で民間人として長年働いていたという話は何度もしているが、今回はそんな中でも特に思い出に残っているとあるミッション(任務)の話をしたいと思う。書いているうちに長くなってしまったので「吹雪のバージニアミッション」三部作としてお話していこう。

私はカリフォルニア南部住まいで山のふもとに住んでいる。それで一年中雪が降るなどと言うことは全くない。南カリフォルニア(土地の日系人は南加『なんか』と呼ぶ)の気候は乾季と雨季に別れ、12月から2月くらまでが雨季。気温も結構下がり、東京の11月頃と変わらない感じになる。よく南加は乾いたハワイのような場所だと勘違いされている方がいるが、寒い時は氷点下にもなるのでお気をつけ頂きたい。

住まいは南加でも仕事柄私は東海岸に出張することが多かった。私の出張は長期のものが多く、一度行くと2~3か月の滞在ということは普通だった。それで毎年冬は東海岸で過ごすということが何年も続いた。私がしょっちゅう冬を過ごしたのはバージニア州にあるノーフォークという市。ここには巨大な海軍基地があるからである。ノーフォークの気候は日本の関東地方と非常に似ており、夏は蒸し暑く冬は寒い。だが雪はたまにしか降らず、降っても積もるというのは珍しい。しかし東京でもたまに豪雪が降ることがあるように、ノーフォークでも時々そんな年が襲ってくる。

今回のミッションは一か月ほど港内で駆逐艦に備えた新しいソフトウエアの検査をし、その後実際に二週間ほど航海に出てその性能を確かめるというものだった。

その年のノーフォークは稀に見る寒波に見舞われていた。私はノーフォークのダウンタウンにあるレジデンスインというマリオット系の長期滞在用ホテルに泊まっていた。勤務先の海軍基地までは車で15分くらいだった。私の勤務時間は午前6時からだったが、色々準備もあるのでだいたい5時半くらまでには出勤していた。

出張が始まった日から毎日のように雪が降った。最初は積もるほどではなかったが、そのうち降雪の量が増え道がだんだん雪で埋まっていくようになった。問題なのはノーフォークは近隣の他の州と違って普段そんなに雪が降らない。それで除雪対策というものがなってないのだ。除雪車も全く足りないので近隣州から借りてくると言う始末。それに住民も雪になれていないので、家の前の雪かきは頻繁にしなければならないという感覚もない。それで大通り以外の裏道などは積雪でにっちもさっちもいかない状態になった。

市民も雪道運転になど慣れていないから事故が多発。ある朝私はホテルから基地までの7マイルの間に5件くらい事故を見た。格いう私も左折をしようとして凍った道路の上を5~6メートル横に滑ってしまい、大きな半円を描いて曲がるというお粗末ぶり。早朝で誰も周りにいなかったことが幸いして危うく難を逃れた。

なんとか基地にたどり着いたとはいうものの、基地内の状態もかなりひどかった。皆さんは海軍基地の内部がどんなふうかご想像がつかないかもしれないが、制服を着た軍人が集団で行進していたり、普通に歩き回っているという以外は、ごく普通の町である。内部には工場があり、オフィス街があり、家族用の住宅区域や独身者用の集団住宅などもある。子供もいるので幼稚園や小学校もあるし、レストランやスーパーも運動ジムもある。多分全体で2万人は常備生活したり仕事したりしているものと思われる。

そんなふうだから車通りの多い大通りは除雪が行われてはいたものの、埠頭付近の駐車場は全く除雪が行き届いていなかった。駐車場には30センチちかく雪が積もっており、表面に書かれた線など全くみえないので、人々は適当な場所に車をとめていた。私も駐車場にはいったすぐ傍に車をとめてそのまま仕事に行った。

一日仕事を済ませて駐車場に戻ってみると、さらに雪が降って止まっている車はみんな雪の中に埋まっていた。だいたいどこら辺にとめたかは覚えていたが、見つけるのに一苦労。車のキーを使ってホーンを鳴らしライトのついた車を探すしかなかった。

いざ車が見つかっても、掘り起こすのが素手では大変。シャベルも何も持っていなかったので、もってたバインダーを使って雪を掻き、なんとか車は外に出たものの、雪にすべって車が動かない。ちょうど通りかかった男性の同僚に、タイヤの下の雪をどけてもらって、なんとか車の発進が出来た。

もう雪道運転はこりごりである。


Comment

飛行機の予約が入ってない!悪夢の出張真冬編

日本は寒波だそうなので、真冬に起きた悪夢の出張の話をしよう。

これは2018年くらいの出来事だったように記憶している。その日私と同僚の三人はバージニアに出張するためロサンゼルス空港に来ていた。私は出張の際は何時もシャトルバスを雇い、他の数人の客との乗り合いで空港まで行っていた。

西海岸から東海岸に行く場合、東は西より3時間も早いため、こちらから5~6時間かけて飛んでいくと、向こうに着くのはかなり遅い時間になってしまう。それで我々は朝いちばんの7時の便を予約していた。子の便に乗ればノーフォーク空港に着くのは午後5時頃。そこからレンタルカーを借りて三人で車で二時間の最終目的地に着くと言う日程だった。

私は夜の運転は好まないので、できればノーフォークに一泊して翌朝一番で運転して行った方がいいと思ったのだが、ホテル一泊料金を惜しむ上部の命令でそれはならなかった。私はもうこの予約の段階から嫌な予感がしていたのだ。

それでも一人での運転ではなく、他の二人は若い男性だし私が一番先輩なので、後部座席で寝て行けばいいやと思っていた。

朝7時の便となると、乗り合いのシャトルバスは午前4時くらいに迎えに来る。なにしろ空港までにあちこちに寄るので時間がかかるのだ。それでも空港についたのは午前5時くらいだった。こんな時間だと自動チェックインすら開いてないので6時まで待機。しかしいざチェックインしようとすると私の予約番号が受け入れられない。機械ではどうしようもないのでカウンターで職員と話すと、予約は入っていたが、入金が締め切りに間に合わなかったため予約は取り消されたという。なんと!

それで職場の旅行部門に電話すると、入金が間に合わなかったので次の便に乗ってくれと言われた。次の便て何時?午前10時?じゃあノーフォークに着くのは?午後9時半!え~!

あいにく予約がキャンセルされていたのは私だけだったため、もうこの時点で同僚二人とは別行動になってしまった。真夜中に二時間も一人で運転する気はさらさらなかったので、空港近くのホテルを予約して、翌朝レンタルカーを借りて同僚に追いつけばいいと腹をくくった。

四時間遅れでついたノーフォークは雪。カリフォルニアとの温度差に震えた。タクシーに乗って予約したホテルに着いた頃には10時を裕に回っていた。しかしここでも問題発生。予約がはいってない!え?なんで?

仕方なくホテルのロビーから、またまた24時間サービスの旅行部に電話すると「予約入れましたよ。え?ノーフォーク?いや、予約はニューポートニュース空港の横の、、、」なんと予約は同じバージニアでも全然違う空港。そこまで行くには車で30分以上かかる。しかも私は車などないし、こんな時間にタクシーなんて無理。ホテルに空きの部屋がないか聞いてみたが満室。がっかりしている私を見て気の毒におもったのか、ホテルの受付嬢が近所のホテルを当たってくれた。そしてすぐ隣のホテルに空きがあると教えてくれた。しかも荷物が多い私が近くとはいえ雪道を歩いていくのは無理なので、ホテルのシャトルバスで送ってくれるという。なんとありがたい。

やっと隣のホテルに着いた時はもう真夜中。スーツケースをがらがら引いてチェックインカウンターまで行くと、なんとロサンゼルス空港で7時の便にのったはずの同僚二人が居るではないか!

「どうしたの?もうとっくに目的地に着いてる頃でしょ?」

なんと乗継便が雪のせいで3時間も遅れただけでなく、彼らの荷物がノーフォークではなく例のニューポートニュース空港に行ってしまったというのだ。それで二人はレンタルカーでそちらの空港へ荷物を取りに。ところが行ってみると荷物はノーフォークに配送されたと言われ、結局ノーフォークまでまた戻って荷物をやっと受け取ったと言う。

こういう場合、荷物は後でホテルまで届けてもらってもいいのだが、我々の最終目的地はここではないので、そんなことをしている余裕はない。

結局二人は、これから二時間以上も運転していくのは無理と考え空港近くで部屋の空いているこのホテルにたどり着いたというわけ。

だから言ったじゃないか、最初からノーフォークで一泊予定にしておけばよかったんだと。

ま、終わりよければすべてよし。我々三人は翌朝しっかり朝ごはんを食べてから目的地へ向かったのであった。


Comment

一泊二日の旅、GPSに躍らされた帰り道

今週水曜日に一泊二日で出かける予定があったのだが、水と木曜日は大雨警報が出ているため、急遽予定を変えて金土で旅行に行って来た。行先は何度もいったことがある場所なので行き方は解っていた。(一つの高速を200キロ走って降りたらすぐ右に曲がるというだけの道順)。しかし最近は道路状況などをリアルタイムで教えてくれるGPSが便利なので、一応GPSをつけていた。

金曜日の天気は快晴で素晴らしい旅行日和だった。しかしなぜか高速では立て続けに三つの事故。1マイルを通過するのに一時間という酷い状況だった。やっと事故現場を通過してなんとか軌道に乗ったなと思ったら、GPSが下の道へ降りろとうるさく言う。私は事故通過で疲れていたので知らない道を行くのは億劫になり、GPSを無視してそのまま現地へ直行。一時間遅れで無事到着。

行きはよいよい帰りは怖いとはよく言ったもの。帰りは心の余裕があったのでGPSの言うことを聞いてみようと思った。翌日の土曜日も快晴で息が白くなるほど寒い朝だった。こんないい天気なら走ったことのない道を行くのも楽しいかもしれないと思い、高速に乗らずGPSのいう「近道」を通ることにした。これがいけなかった!

GPSが導いた道は対向車と二車線のみで分離帯もないハイウエイ。高速道路から見える景色とは断然に違って美しい景色が広がっていった。左右に広がる野原、緑の木々、素晴らしい、美しい、などと思いながら走っていると、だんだんと道が山の方へと進んだ。そしてだんだん道の傾斜が急になり、道路もくねくね曲がり始めた。これは山を登るんだなと解ったが、登るということは後で降りることになるはずだがと不安になった。

See the source image
左右に広がる野原、緑の木々、素晴らしい、美しい

道はどんどん山を登る。カーブもかなり急になってきた。にも拘わらず対向車はビュンビュン飛ばしてくる。怖くなって私のスピードが落ちてくると、私の後ろに車の列が出来てしまった。こういう場合路肩に寄れれば一旦寄って後ろの車を先に行かせるのだが、いつまで行っても寄れるような路肩はない。それどころか、山が開けて突然崖っぷちの道が開ける。

オーマイガー!

そんなこんなで20kmは走ったと思ったら今度は下りが始まった。GPSによると、高速に合流するまでまだ20キロもあるという!下りは上りよりずっと怖かった。右側は絶壁の峡谷(というほどでもないが、私にはそう見えた)。そしてヘアピンカーブがくねくねと続く。まるで日光のイロハ坂の雰囲気。そして突然目の前に広がった碧い海!美しい、素晴らしい!でも怖い!

もし私がただの乗客として乗っていたなら、この景色を十分楽しめたのだろうけど、運転してる身としてはそんな余裕はなかった。ブレーキを踏みながらの下りは車に良くないとは思ったが、あんまり速く走りたくない。でも下りなのでスピードが出てしまいどうしようもない。手に汗を握らせながら、あと何㎞走ればいいんだあと思いながら走っていると、GPSの若い男性の声が(以前は女性の声じゃなかったっけ?)「あと5km」と言う。え~あと5kmもあるの~!

しかしこの頃には山を下り切って、今度は海岸沿いの平たい道になりホッと一息。そうか、解ったぞ。GPSのいう近道とは山を迂回する高速と違って、山を登って降りる道のことだったのか。そうと知っていれば絶対行かなかったのに。死ぬかと思ったよ。

確かに景色は素晴らしかったけど、あんな怖い思いをするくらいなら景色もなにもない高速をだらだら走った方がずっと良かった。

San Marcos Pass (California Hwy 154)--not one of my favorite places, but  crossed this going to Los Olivos. | Arch bridge, Bridge, California vacation

コールドスプリングブリッジ

ネットで調べたらこんな写真が出て来た!こんな橋を渡った記憶がないなあ。それとも恐怖で記憶がふっとんだのだろうか?(笑)


View comments (4)

ワーホリする日本人の90%が英語取得を失敗するという話

最近ユーチューブでワーホリでオーストラリア行きましたあ、カナダに来てます~と言って動画を上げてる人が沢山いるが、その中で多くの人に共通している話題というのが「こんなつもりじゃなかったのに~」という話。こんなつもりというのは、要するに一年くらいのワーホリで日常会話ができるくらいになって、地元企業で雇ってもらえるくらいにはなれるはず、というつもりだったということ。

ところが蓋を開けてみたら、まわりは日本人だらけ、地元の人は愚か他の外国人の友達もできない、英語なんて全然覚えないから日本食レストランですら雇ってくれない、という現実。

ワーホリあっせん業の人たちの話によると、日本人でワーホリを一年体験して、きちんと英語が話せるようになる人は先ずおらず、90%の人が失敗して帰国するということだった。え~なにそれ~?

はっきり言って私が腹が立ったのは「こんなはずじゃなかったあ~」という動画を上げていた人が、すでにオーストラリアに来て六か月だと話していたことだ。これじゃいけないと気が付くまでに6か月もかかったってどういうことよ?

ま、その話は置いといて。あっせん業の人たちも言っていたが、ESLには普通五段階ある。

  1. 初級。中学一年程度。
  2. 初中級。中学2~3年程度。
  3. 中級。高校生一年程度。
  4. 中高級。高校卒程度。
  5. 上級。普通に大学一年生の授業が受けられる程度

で、ワーホリで外国へ行こうという人の平均英語力は1~2だそうで、一年滞在後に3位になっていればいい方なんだそうだ。はっきり言ってこの程度の英語力ではファーストフードのバイトも出来ないかもしれない。(日本人経営でも)

こう考えると、自慢じゃないがカカシがアメリカに来た頃の英語力は多分3から4の間くらいだったと思う。それで一年のアメリカ滞在でどのくらいまでレベルが上がったかと言えば4卒業程度かな。5でなかったことは確かだ。

ところでESLレベルが4や5だからといって、きちんとした英語が話せるというレベルではない。この程度になれば大学の授業を受けてもついていけるというレベル。普通の企業に就職するにしても、何か他に技術がなければ難しいだろう。私から言わせればレベル5になってはじめてスタート地点に立ったようなものだ。

さて、私も何度か自分のホームステイ時代の話をしたことがあるが、1980年代のカリフォルニア南部も日本人が多く、日系人地区に住めば英語など出来なくても十分に生きていけた。それで楽な方を選んでしまえば、一年住んでようが10年いようが英語など全く覚えないひとなどざらにいた。そういえば当時ロサンゼルスの大学、UCLAに留学した日本人学生の卒業率はたったの2%だったという話を聞いたことがある。

外国に来たばっかりで右も左もわからなければ、地元にいる日本人を頼りにしてしまう気持ちは解る。しかし英語を習得しようとしてきたのであれば、何か月も経ってから、「こんなつもりじゃなかったのに~」なんて呑気なことを言ってる場合じゃないだろうに。

確かに私も最初の二か月くらいは英語学校に通いながらも、学校で知り合った日本人とばかり付き合っていた。しかしこれではいけないと気を取り直して、日本人とのつきあいはほどほどにした。当時はネットなんてなかったので、ユーチューブで日本語のテレビ番組ばっかり観てしまうなんて誘惑はなかったことも幸いして、なんとか日本語を避ける生活をすることが出来た。

結局、英語が出来るようになるならないは、場所を変えるだけではだめで、本人がどれだけ真剣にやる気があるのかによるのだろう。以前にもフィリピンに短期留学してレベル1の段階からなんとか意志の疎通が出来るようになった人のビデオを観たが、彼はものすごく一生懸命勉強していた。もし日本にいる時に、あの真剣さで勉強していたら留学なんて必要なかったのかもしれないが、それに気が付けただけでも留学の価値はあったと言えるだろう。

まあ一年間外国で遊ぶつもりならワーホリもいい考えかもしれないがね。


Comment

留学中の学生のアドバイスなんて参考にならない件

私が好きなユーチューバーのひとり、ヤスラーじゃーなるさんが、最近留学中のユーチューバーが留学志望者からお金をとってアドバイスをして、金銭をめぐってトラブルが起きたという話を紹介していた。彼に言わせれば留学中の学生にアドバイスを求めること自体がおかしいとのことだった。これ、私も全く同感。

ヤスラーさんはアメリカに高校留学して大学もアメリカで出て就職をカナダでして10年以上海外生活をしている社会人。まあそういう人だから留学や海外就職の仕方など最近の情報も良く知っているし、本気で留学したい人には参考になる情報を持っているだろう。そういう人にアドバイスを求めるなら参考になると思う。

だが今留学中の人間は、特に親の金使って学費も生活費もまかなってもらってるお客さんみたいな人には海外生活の大変さなどわからないし、ましてや就職事情なんて全く分からない。そんな人にアドバイスを求める方が悪い。ま、金銭トラブルが起きたとしても、それはまだ学生たちが子供だからだろう。

効果的な短期留学とは何か

それではここで僭越ながらアメリカ生活30余年のカカシが短期で語学留学をする人にちょっとアドバイス。現在の留学事情は知らないが、留学した際にもっとも短期で効果的に言葉を学ぶ方法は今も昔も変わらない。

基礎がないと上達も遅い

英語は文法など出来なくてもしゃべっている間に自然としゃべれるようになると言う人がいるが、自然に学ぶにしてもある程度の基礎は必要だ。この間、あまり教養がないと思われるとある日本の芸能人がアメリカに半年足らず「留学」した時の話をしていたのを聞いた。

彼女は個人で一日3~4時間英語の先生と話をするという授業を受けていたそうだが、最初のうちは何を言われているのか全くわからず数週間が過ぎたと言っていた。私は高校卒業後すぐに英語専門学校へ通ったが、その授業はすべてネイティブ教師による英語だった。しかし第一日目から教師の言っていることは理解できた。無論初心者にわかりやすい語彙でゆっくり話してくれたからには違いないが、それでも解るためには多少の語彙や文法力がなければ無理だったはず。私が教師の言ってることが多少なりとも理解できたのは高校までの基礎が出来ていたからだろう。

その芸能人がどのくらい英語力を得たのかというと、コンサートに駆け付けたアメリカ人男性ファンから「君はすばらしい」と言われていたのさえ「え、何、今なんて言った?」と通訳さんに聞いていたくらいなので、留学で英語力を養うという目的は全く果たせなかったようだ。

基礎は何故大事なのか

最近フィリピンに語学留学し、教わってる英語のレベルが低いのに、それでも理解できずに帰宅してから日本語の教科書でおさらいをしてやっとついて行ってると語っている人のビデオを観た。もし高校までの英語を完全マスターしていたら、もっと高いレベルの授業から受けられたはずで、せっかくの留学で基礎をやり直すという無駄な時間を使っていると反省していた。

まさしくその通り。私の経験からしても英語圏でESLを初心者レベルから勉強したら、一年や二年では上級者レベルに到達できない。それに初心者レベルのクラスは自分と同じように英語が下手な外国人ばかりなので、クラスメートと話をしてもかえって変な英語のくせを覚えてしまうのがオチ。

三か月とか一年といった短期語学留学で効果的に英語を学ぼうと思うのであれば、上記のフィリピン留学の人みたいに時間を無駄にしないよう、留学前に基礎をしっかり勉強しておくことが大切。

しかしここでいう基礎とはヒアリングやスピーキングのことではない。大切なのは語彙と文法そして作文能力を高めることだ。

知ってる言葉は聞き取りやすい

語彙を増やすことの大切さは色々あるが、語彙が広いと聞き取りの際にひっかかる言葉が多くなる。英語初心者は相手がわ~と話している言葉がひとつのつながった音にしか聞こえないが、もし知ってる単語がいくつか聞こえたら、文章がところどころ区切れて聞こえる。例えば「わーわー、寿司、わーわー、レストラン」という風に聞こえたら、寿司屋の話かなという想像がつく。だから知ってる言葉が多ければ多いほど聞き取りの役にたつ。「出る単」でもなんでもいいから使って、とにかく語彙を増やしておくことが大事。

文法が解れば文章を再構成できる

高校レベルの文法がしっかり頭にはいっていれば、相手に言われたことがすべて聞き取れなくても文章を再構成することができる。例えば、「学校、わ~わ~、何、わ~わ~勉強?」としか聞こえてこなくても、文法がしっかりしていれば、「学校で何を勉強しているのですか」と頭のなかで文章を再構成することが可能だ。日常つかう簡単な文章をいくつか暗記して空で言えるくらいになっていれば、普通の会話はそのバリエーションであることに気づく。こうしておけばヒアリングは非常に早く上達する。

文章力があると上級者用授業が受けられる

短時間で高レベルの能力を身に付けるためには、やはりESLも上級者並みのクラスから始める必要がある。アメリカのコミュニティーカレッジのESLなどではレベルが低い順に1から5まであるが、それぞれ一学期づつで年に二学期しかないと5にたどり着くには二年半もかかってしまう。これを短期でマスターするつもりなら、せいぜいレベル3以上のクラスに入る必要がある。そのためにはどうすればいいか。

大抵の場合能力テストは作文のみで面接などはない。なので短時間にきちんとした作文が書ければ上位のクラスに入ることが出来る。普通こういう作文で要求されるのは、ある話題に関して賛成か反対かの立場を取り、何故そう思うのかを見三つの項目に分けて書く。所要時間は50分くらいが普通。

こういう作文でさっさと考えをまとめるためには時事問題に日頃から注意を払っておくことが大切。地球温暖化とかプラスチック汚染の話とか、米中貿易問題とか、話題になってる話に関して自分の考えをまとめておくとこういう時に役に立つ。

日本語は話すな!

最後に一番大切なのは自分を英語漬けにすること。留学生あるあるでよく聞く話は、留学先で日本人と友達になって日本人とばかり付き合って現地の人と全然友達になれないということ。たかが三か月や一年の留学でこれをやってしまったら本当に時間がもったいない。それでも回りに日本人がいるとつい甘えてしまうという全く自制心がない人は、日本人が居ない場所に留学するのも一つの手だ。

一番お勧めできないのが日本人経営の日本人学生を対象にした語学学校。いくら英語圏の国にあってもクラスメートがすべて日本人だったら、日本で外語学校に通うのと何ら変わりはない。ここは心を鬼にして日本人を避け、英語のみを使うように努力する。留学中のほんの一年足らずのことだ、出来るよ。頑張れ!

結論として

結局留学に関してのアドバイスを受けたいなら、いったい何のために留学しようと思っているのかをはっきりさせる必要がある。単なる留学手続きの話なら今在学中の留学生から最新情報を聞き出すのはよいことだろう。どういう授業を受けるのが効果的かという話なら、卒業後に何をしたいのかで話が変わってくるが、大学卒業して海外で就職したいのか、日本で就職したいのか、もっと上の学校に進学したいのか、そうした目的をはっきり決めてからそうした経験を積んだひとからアドバイスを受けるのが得策だろう。

ま、カカシのような人間に出来るのは勉強のしかたくらいで、留学に関するアドバイスはあまり出来ない。なにしろ情報が古すぎるから。でも語学の学びかたは別に変わっていないので、多少なりとも参考になればうれしいかな。


Comment

昔も今もあんまり変わらないホームステイの問題点

時々ユーチューブで北米やオーストラリア・ニュージーランドに留学した人たちがホームステイ体験談をアップしているのを見ることがある。無論成功談もあれば失敗談もあるわけだが、色々観ていて私が何十年も前に体験したことと大差ないなあと感慨にふけってしまった。

ホームステイと一口に言っても、私の頃のホームステイと今とでは形式が違う。簡単に言うならば、今のホームステイは下宿、昔のホームステイは住み込みの使用人。今ホームステイと呼ばれるシステムは、一般家庭の一部屋を借りて家賃と食費を払う形。私の頃は家賃や食費は払わない代わりに、簡単な家事や子守といった労働力を提供するものだった。

どちらの形が良いとは言わないが、学生たちの体験は、ホストファミリーがどういう動機で学生を受け入れているかで雲泥の差が出てくるようだ。

多くの学生が寮生活やアパートなどではなくホームステイを選ぶ理由は、言葉も未熟だし年も若いので保護者的な立場になってくれるホストファミリーと暮らした方が自分も実家の親も安心だというのがある。また、地元の家庭で暮らせば地元の生活習慣や言葉や文化を学べるという利点がある。私なぞは一年もアメリカ人家族と一緒に暮らせば英語なんてペラペラになって帰国できると甘い考えを持っていた。

現在の形のホームステイは下宿形式なので、ホストファミリーがビジネスとして下宿を経営していると考えていた場合どうなるのか、その問題点を挙げてみよう。

1.家族との交流がない

ホストファミリーが学生を単なる下宿人だと考えていたとしたら、特に家族の一員のような扱いをする必要はない。家族ではないから一緒に食事をとることもないし、子供たちが学生と遊ぶといったこともない。結局学生は自分の部屋に閉じこもり、外国に住んでいるのに一般家庭の習慣を学ぶこともなく、言葉を学ぶこともない。何人かの学生が言っていたが、何か自分は食事の時だけエサを与えられている飼われた動物のような気がしたという。

2.食事が粗末になる

下宿という商売をしているとなると、大家さんは経費を節約するために下宿人の食費を切り詰めるようになる。家族ではステーキだのなんだのを食べていても、下宿人には冷凍のブリート一つとか、ひどいのになると腐りかけた残飯みたいなものが出て来たと一人の学生は言っていた。これじゃあペットよりひどい扱いだ。余談だが我が父が学生の頃食事つきの下宿をしていたが、そこでも夕飯のメニューがひどすぎてしょっちゅう大家さんに苦情を言っていたと父は語っていた。

3.やたらハウスメートが多い

下宿が商売なら下宿人が多いほうがいい。それでやたら多くの学生を色々な国から受け入れたりするので、学生同士の間でも人間関係で揉める可能性がある。文化や習慣の違い過ぎる学生が何人も一軒に集まるのは良いことではない。ましてやその誰もがまだ地元の文化にさえ慣れていないのに。

ホームステイで失敗しない方法

1.あらかじめ自分の期待とホストファミリーの期待が合っているか確かめる

先ず自分が何故ホームステイを選んだのかをきちんと考える必要がある。単に住む場所があって食事が出てくるという下宿に住みたいだけなら、かえって大家さんやその家族との交流などない方がいい。部屋がきれいで食事がきちんと出てきさせすればいい。その反対に、地元家庭との交流を通じて地元文化や言葉を学びたいと思っているのであれば、ホストファミリーに求めることも違うはず。そういう学生は食事を家族と一緒にすることが出来るのか、家族とはどのように接することが出来るのか、他にハウスメートが何人いるのか、あらかじめホストファミリーに確かめておくべきだろう。高校生くらいの若い人の場合は保護者としてエージェンシーの人に一緒について行ってもらうことをお勧めする。子供だけだと思うと馬鹿にされる可能性があるからだ。

2.友達やネットなどで情報交換をする

ひどい扱いを受けた学生たちの一番の問題は、自分がひどい扱いを受けているということに中々気が付かないことだ。外国の習慣も何もわからないから、もしかしたらこっちの人はこういうことが普通なのかもしれないと考えて我慢してしまう。特に日本人はおとなしいので馬鹿にされる可能性は大きい。

だんだん慣れてきて、他のホームステイをしてる友達などと情報交換をし、モノの値段なども解るようになってくると、自分がいかに粗末な扱いをされ、劣悪な食事を出されているかに気が付く。どうもおかしいと思ってエージェンシーに連絡しても我慢しろの一点張り。全く取り付く島もなというのは私の頃と全く変わらない。

ただ昔と違って今は情報時代。ネットなどでホームステイをした人達の体験談を色々聞くことが出来るので、自分の状況が普通なのかそれ以下なのかはわかるはず。おかしいと思ったら遠慮せずにエージェンシーに連絡を取り、家を変えてもらうことをお勧めする。

3.苦情ははっきり述べる

なにかしら疑問に思ったら、つたない英語でもいいからはっきり苦情を言うべきだ。外国では以心伝心などというものはありえない。苦情はしっかり言わなければ伝わらない。家賃も食費も払っているなら、言ってみれば学生はお客様だ。だったらそれなりの扱いをしてもらって当然。自分は食費は一食1000円くらいは払っている、それならこの程度の質のものを出してもらいたい、とはっきり言ったほうが良い。

それにこれは私の経験からだが、おとなしく何でも我慢している日本人はアメリカなどの国では薄気味悪いと思われる。感情は大げさなくらい表現した方がいい。それでだめなら他の家に変えてもらうしかない。お金を払ってるんだったらそのくらい強気でいいと思う。

なんにしても準備が大切

私もそうだったのだが、若い人が留学したいと思う時、その願望だけが先走ってきちんとした下調べをしていかないことが一番問題だ。何か疑問があっても、それが弊害になって外国へ行かれなくなってしまうのが怖くて無視してしまう。気持ちは解るが落ち着いてきちんと準備を進めた方がいい。繰り返すが、最近はユーチューブなどでホームステイ体験談を発信している人が多く居るので、そういう人の失敗談に耳を傾け自分はそれを繰り返さないように気を付けよう。

高校留学はお勧めできない

私が一番お勧めできないのは高校留学。言葉を学ぶなら若い方がいいと思うかもしれないがそうでもない。高校時代からアメリカに住んでいるという人たちの英語を聞いていると、中学生くらいまでにネイティブとしての能力を身に付けていなければ、後は16歳で始めても20歳で初めても英語習得にはそれほど変わりはないということに気づく。

北米に比べて日本の高校教育はレベルが高い。この時期に一般教育を日本で受けておかないと日本人としての教養が身に付かないまま外国暮らしをすることになる。普通に高校に行くだけでも大変なのに、さらに言葉を学びながら高校レベルの授業を受けるのは至難の業だ。基礎的な教育は母国語で受けておいたほうがいい。また、アメリカの高校に行きながら日本の大学をめざすという受験勉強は先ず無理だろう。となると必然的に大学も北米で進学するということになるが、本人も両親もその覚悟は出来ているのだろうか?

それに前にも書いた通り、高校生のような若い子が赤の他人の家で、しかも外国人の家で暮らすというのは問題だ。ま、留学をしようなどという子はしっかりしているから非行に走るなどということはないとしても、子供だと思ってホストファミリーがいい加減に扱う可能性は大いにある。保護者が傍にいないので余計にそうなる可能性が高い。

色々問題点ばかりを挙げてきたが、決して私は留学するなとかホームステイをするなとか言ってるわけではない。冒険は若いころにしておいた方がいい。留学したいとか海外生活したいと思う人はどんどん外に出て体験してみるべきだろう。

私が言いたいのは、何をするにしても、先ず下調べをしっかりしておくこと、その先のこともしっかり考えておくこと。それだけだ。


Comment

ヒッチハイクしてアメリカ横断を試みた15歳の無謀さ

先日からツイッターで日本人の15歳(中学生)の少年が一人でヒッチハイクしながらアメリカ横断を試みているという話がバズっていた。クレジットカードもキャッシュカードも持っていないので現金10万円を持ち歩いているなどとツイッターで自慢げに話していたらしく、外国暮らしの人が多い私のネット仲間たちの間では、「無謀すぎる」「危険だ」「殺される」など批判と心配の声が上がっていた。しかし、初めて数日後に警察に保護され帰国となった模様。まあ一応一安心といったところか。

彼の話が出て、ツイッター界隈ではアメリカが如何に危険な場所かという話が続々出ていたが、アメリカ在住の私としてはかなり怪しげな話も出ており、おいおい、そこまで危険じゃないよ、と言いたくなった。アメリカでなくても危険ななところもあれば安全なところもある。問題なのはよそ者にはどこが危険でどこが安全かが解らないことだ。

ツイッターでも話したが、私の回りで起きた昔の事件を思い出した。もう30年近く前の話だが、日本から来た新婚の夫婦が、「地球の歩き方」なる本を参考に、ロサンゼルスのグレイハウンドバスの駅からリトル東京まで歩いていく途中、強盗に襲われて現金などを奪われた。不幸中の幸いというか、旦那が鼻をへし折られたくらいで済み、新妻は無傷だった。もっとひどいことになる可能性はあったので、このくらいで済んで本当によかった。

日本の方々はご存知ないが、グレイハウンドバスターミナルのあるところは現地の人なら良く知っている非常に治安の悪い場所。また、リトル東京も日本人が多いからと言って油断は出来ない。日本村の回りはホームレスがたむろするおっかないところが沢山あるのだ。

当時はすでにツアー旅行に飽きた日本人が個人で旅行することが流行っており、色々なガイドブックに誘われてのこのこやってくる日本人が色々ひどい目にあっていた。ガイドブックを書く人もかなり無責任だなと現地の我々は思ったものである。

さて、 外国の怖さが解らないという愚か者は何も日本人だけとは限らない。 世間知らずでナイーブな馬鹿が身の程知らずのことをやって悲劇的な最期を遂げた例は欧米でもいくらもある。 この間もカナダのカップルが世界平和を証明しようとイラクへサイクリングの旅に出かけてすぐ殺されたなんて事件があったばかり。

もうひとつ思い出したのは1996年に本当にあった話。高校を卒業したばかりのアメリカ青年がアラスカの森林で冒険したいと全く基礎知識も持たずに一人で行って餓死するという事件があった。これは後にInto the wildという本になり、後に映画化もされているので興味ある人は観てみるといい。近所でよく狩猟などをしている現地の人に言わせると、周りには食用の植物もたくさんあり、食べられる獲物もいくらでも居たので、餓死をするような場所ではなかったということだった。しかし植物の知識もなく、狩りの仕方も知らない野外生活をしたことのない人間にはアラスカの原野は厳しい場所だ。知らないということは本当に恐ろしい。

2~3年前に私の友人(スイス系アメリカ人)の息子がイギリスに留学することになり、その前にベルギーのブルッセルに寄って観光すると言って一人で出かけるという話をしていた。私が「ブルッセルは危ないよ、行かない方がいい。」と警告すると友人は「え?なにが?大丈夫だよ、うちの子ドイツ語もフランス語も話せるから」とかとぼけたことを言っていかせてしまった。その一週間後にブルッセル空港爆破テロ発生。すぐに友人に電話して「○○ちゃん大丈夫だった?」と聞いたところ、父親は涼しい顔で「あ、うちの子は二日前にあの空港を通り過ぎてたから大丈夫だったよ。」などと言ってる。あと二日ずれてたら殺されてたかもしれないという危機感ゼロ。まったくこの親にしてこの子ありだと呆れてしまった。

この15歳少年の親も言葉も解らない外国に子供を一人で行かせるなんて無責任にもほどがある。世の中には危険が一杯ある。そうと知ってて出かけていくならまだしも、何もしらずに、よって何の準備もせずに、出かけていくは本当に危険だ。よい子の皆さんには絶対真似をしないように是非お願いしたい。

親も気を付けろ!


Comment