今日は、イギリスの国教教会の最高指導者であるカンタベリー大主教の問題発言についての分析を続けよう。これまでのお話は下記参照。
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カンタベリー大主教の発言が呼ぶ波紋、その1

個人主義より全体主義

ウィリアムス大主教にとって大事なのは個人ではなく、その個人が所属する団体である。この場合は無論イスラム教団体だ。
ウィリアムス主教はイスラム教団体がシャリアを求める以上、イスラム教徒全員がシャリアの法のもとで生きるべきだと主張する。ウマと呼ばれるイスラム教徒たちはサウジアラビアに住んでいようと、インドネシアだろうとワジリスタンだろうとパキスタンやアフガニスタンであろうと、パリの郊外であろうとオーストラリアのクロヌラ海岸であろうと、そしてもちろんそれがイギリスでも、イスラム教徒であれば誰でもシャリア法のもとに生きるべきだというのである。ウィリアムスはシャリア法のもとに生きることが個人ではなくウマ(イスラム教徒)という団体が受け継いだ権利だというのだ。
しかし、単にイスラム教という漠然とした宗教でつながっているだけの団体に「権利」などというものがあるのだろうか?(アメリカの法廷では「権利」とは常に個人の権利でありグループや団体に認められるべきではないという裁断をくだしている。)
ウィリアムス大主教が、人々がウマに属している、と語る時これは人々がある協会に所属しているというのとは全く違う意味を持つ。一個人が特定のキリスト教の協会のメンバーになる場合、これはその一個人の意志によるものであり、生まれながらにしてその協会に属しているというわけではない。しかしイスラム教徒は自分が好むと好まざるとに関わらずイスラム教徒の子供として生まれた人間はすべてイスラム教に属すると考える。そのような状況に生まれた一個人がイスラム教を拒絶した場合、イスラム教はその個人の意志を認めるどころか背信者として非常に重たい罪に問う。背信者に課する罰は大抵が死刑である。
ウィリアムス大主教もこの点については問題だと認めており、イギリスの法廷は背信者への罰を認めるべきではないと主張している。しかしながらウィリアムス大主教は背信者への社会的制裁は容認している。つまりウィリアムスは、イスラム教徒として生まれた者がイスラム教を拒絶するのは罪であり死すらもイスラムの呪文から個人を解かない、という概念を容認しているのだ。
ウィリアム大主教が「ウマ」(イスラム教徒)という場合には、こうした自らの意志に反してイスラム教社会に無理矢理組み込まれた人々まで含まれてしまうのである。

非現実的な理想主義:

ウィリアムスの念頭には非常に洗練された理想的なイスラム教徒が存在するようで、イギリスが適用するシャリア法は決して個人の人権を迫害するようなものにはならないという幻想を抱いているようだ。だがこれはイギリスですでに起きている現実とはかけ離れた理想だ。ウィリアムスは自分の目で見ている現実のイスラム教徒を無視している。西洋文化の基本ともいえる推論から観察そして結論を出すというシステムを完全に無視してしまっているのだ。下記はウィリアムス主教のお説教の一部。

There needs to be access to recognised authority acting for a religious group: there is already, of course, an Islamic Shari’a Council, much in demand for rulings on marital questions in the UK; and if we were to see more latitude given in law to rights and scruples rooted in religious identity, we should need a much enhanced and quite sophisticated version of such a body, with increased resource and a high degree of community recognition, so that ‘vexatious’ claims could be summarily dealt with. The secular lawyer needs to know where the potential conflict is real, legally and religiously serious, and where it is grounded in either nuisance or ignorance. There can be no blank cheques given to unexamined scruples.

14 So the second objection to an increased legal recognition of communal religious identities can be met if we are prepared to think about the basic ground rules that might organise the relationship between jurisdictions, making sure that we do not collude with unexamined systems that have oppressive effect or allow shared public liberties to be decisively taken away by a supplementary jurisdiction. Once again, there are no blank cheques.

ーーイスラム教徒には正しいシャリア法を適用できる公式に認められた組織が必要である。すでにシャリア法を解釈するイスラム法評議会(Islamic Shari’a Council)という非公式な組織がイギリス国内での結婚問題の解決に大変必要とされている。このような組織に合法な権限を与え社会が公式な組織として認めれば、評議会はより洗練されたものとなり、下らない嫌がらせのような訴訟は的確に処分されるようになる。宗教的な習慣を十分に理解した世俗主義の弁護士は、宗教上どういう点で問題が起き、どういう訴えが宗教上正しいもので、どういうものが単に無知やきまぐれからくるものなのか判断する知識を習得する必要がある。こうした調査なくして訴えを盲滅法に認めることはない。またこの新しい法が人々の権利や自由を弾圧するようなものにならないよう十分な配慮が必要であるーー
だが現実にシャリア法を適用することで市民の自由が弾圧されないなどという理想が通用したことはない。マルクス主義の理想がスターリン主義の現実に取って代わられたように、平和主義の理想が凶暴な左翼反米革命主義に変貌したように、シャリア法廷がどれほど「洗練された」西洋式概念を取り入れた形でイギリス国民が納得できるような法廷、という理想で始まろうと現実には単にシャリア法を文字どおり行使する横暴な組織と化すことは目に見えている。
ウィリアムスの欠点は彼が信じているはずの宗教を基盤としている西洋文化を全く信用していないということだ。宗教と西洋の法廷は矛盾しない。もしあるイスラム教徒がシャリア法のもとに生きたいと思えば我々は彼のその権利を尊重する。だが、その反対は絶対に許されない。
ウィリアムスがいうような「洗練された」イスラム教なら特に西洋の法律との矛盾はない。今現在のイギリスで、非公式なシャリア法廷がアクメッドの娘のソフィアはファイサルと結婚しなければならないと決めることは完全に合法だ。ただし、ソフィアとファイサルがその決断を受け入れるか拒絶するかは彼等自身の判断に任される。なぜなら西洋文化は個人の決断の権利を保証しているからだ。
イスラム教への自発的な「服従」はすでに西洋社会は実存する法律で認めている。ウィリアムスがいうようなシャリア法を裁定する法廷など取り入れれば、シャリア法が既存の法律を規制する形になってしまうことは免れない。

  1. イギリスにはすでに強制力はないが自発的に従いたい個人が従うことが出来るイスラム教法廷が存在している。
  2. ウィリアムスはこのイスラム法廷に強制力のある公式な権力を与えよと唱えている。
  3. つまりウィリアムスはイスラム教法廷に、彼等が自分勝手に決めた「イスラム教徒」たちに、個人がそのような法律に従いたいと思っているかどうかにかかわらず、無理矢理にイスラム教を行使する権限を与えよというのだ。

このような法律が適用されれば、現実の社会ではイスラム法評議会が貧民窟のイスラム教住民を独裁政権によって牛耳ることは間違いない。たとえイギリスの法律がそのような拡大されたシャリアを認めなかったとしても、一旦公式で行使力のあるシャリア法が存在するという概念んが人々の思想に入れば、シャリア法をとなえる支配層の権限を強大させようという動きに発展することは間違いないのである。そうなれば無教養で民度の低いイスラム移民がイスラム教リーダーたちの唱える単純なシャリアに従って、奴隷を持ったり、重婚したり、家族の名誉のために妻や娘を殺すことなど普通になるだろう。
「軒下貸して母屋取られる」というように、一旦一部でもシャリアが公式に認められれば、その権限を拡大しようとするのは人間として当たり前の欲望だ。ましてやイスラム教には常に他の宗教を迫害して自分らの宗教を強制的に広めるというモハメッドの教えがある。イスラム教徒が多数を占める地域で、イギリスのごく一部だからといって少しでもシャリアが合法として認められれば、イスラム教徒がそれだけで満足するはずがない。そのうちイスラム教徒が住んでいようといまいとイギリス全体でシャリア法を受け入れるべきだという要求が生まれ、それが実現すれば現存するイギリスの法律がシャリアと矛盾する場合にはシャリアを優先させるべきだという主張になり、いずれはイギリスの法律をシャリアのみにすべきだという要求になるのだ。
それを多数派のイギリス国民が拒絶すれば、シャリアが国の法律となるまでテロ行為をしてでも命がけで戦うと誓う過激派が出てくるのは時間の問題だ。そうなったらイギリスは内乱の憂き目にあう。
イギリスがほんの一部だからなどといって、シャリアの一部でも適用すれば、その妥協はイギリス政府が軟弱な証拠であると解釈され、今こそイギリス政府を攻めるチャンスとばかりに、イスラム教徒らはそれを足場にどんどんと無理難題をふっかけてくるだろう。一旦降参したイギリス法廷が次の要求を拒絶するのはもっとむずかしくなるのだ。


1 response to イギリス、カンタベリー大主教の発言が呼ぶ波紋、その2

Emmanuel Chanel16 years ago

カトリック相続法の類がムスリムに対して現在必要な処置…になるのか?

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