今回は、ブログカテゴリーの映画と独裁者オバマの陰謀の両方に該当するトピックである。保守派作家のデニーシュ・デスーザ制作の反オバマ記録映画『2016年、オバマのアメリカ』が、限られた映画館で封切になったにも関わらず、金曜日の売り上げは全国一位になるという意外な人気を呼んでいる。
映画はドキュメンタリー風で、オバマやデスーザが若い頃の出来事を多少ドキュドラマ風にとらえ、母親違いの弟を含むオバマの昔の知り合いなどのインタビューとデスーザのナレーションで構成されている。オバマという政治家を批判する映画ということで、マイケル・ムーアの突撃取材映画を思わせるが、ムーアと違ってデスーザは政治学者なので、ムーアの意地の悪い嘘だらけの反保守映画と違って、論理建ててオバマを批判していて興味深い。
デスーザのオバマ論は、オバマ思想は国粋主義のファシズムでもなければヨーロッパ風の社会主義でもない。オバマの思想は反植民地主義であるというもの。そしてその根本はオバマが生き別れになったケニアの革命活動家の実父の思想にあるというのである。
映画はそのデスーザの説を裏付けるために、オバマの生い立ちを追い、オバマの実父の出身地ケニアやオバマが実母とその再婚の相手と暮らしたインドネシアに出かけて行く。
デスーザはインド出身でオバマとは同じ年。オバマ同様第三国家で育ったことから、幼少時代をインドネシアで過ごしたオバマの体験がよく理解出来ると言う。だが、インドという発展途上国の古いしきたりが嫌いでアメリカに移住したデスーザと違って、オバマは元植民地の革命精神に同調し、植民地主義を取って来たヨーロッパ諸国を忌み嫌っているという。
反植民地主義といえば、アメリカこそ、その最たるもののはずだ。アメリカは元々イギリスの植民地として作られ、イギリスから革命によって自由を勝ち取った国で、アメリカ自らは一度も植民地主義を持った事がない。だが、経済面でも軍事面でも、そして特に文化の面で、世界的に影響を及ぼす国ということでアメリカを帝国と批判する人は多い。特に少数民族の元植民地の人々はアメリカを白人の国と思い込み、イギリスやフランスと一緒くたにして憎んだりする。デスーザ自身、アメリカの大学へ行く事になった時、家族から「アメリカは白人ばっかだぞ」と脅されたと言う。
オバマは実の父に一度しか会ったことがない。にも関わらずオバマは革命家だった父の理想像を持ち続け、ずっと父に憧れていた。オバマの自叙伝の題名は「ドーリム・フロム・マイファザー」で『我が父からの夢』というもの。白人でアメリカ人の実母はバリバリの左翼革命主義者だった、そして自分と乳飲み子を捨てた夫を憎むどころか、その革命精神のすばらしさを常にバラクに教えていた。イスラム教徒のインドネシア人と再婚した母はバラクを連れてインドネシアに住むが、再婚相手が妻子を養うためにオランダ企業と契約し商売を始めたことで夫婦間に亀裂が生まれ、バラクはハワイの実家に戻され白人でバリバリ左翼の祖父母に育てられる。革命主義の実母は再婚相手が資本主義になったことが許せなかったのだ。
デスーザはオバマの青年時代に多いに影響を及ぼした革命家や、反アメリカ黒人牧師のジェラマイヤー・ライトなどについても述べ,いかにバラク・オバマが第三国家の虐げる帝国としてアメリカの自由主義を憎んでいるかを証明する。
私はこれまでにもオバマほどアメリカ嫌いのアメリカ大統領は初めてだと思っていたが、デスーザの映画を観ていて、なるほどそういうわけだったのか、と納得がいった。
デスーザは2008年のアメリカはバラク・オバマがどういう男か知らずに希望と変革という言葉に夢を託してオバマを選んでしまった。だが、今やアメリカはオバマの政策によってどれだけアメリカが傷ついたかを学んだはずだという。
オバマが再選されたら2016年にはどんなひどいことになっているか、アメリカ市民は今度の選挙で正しい選択をするだろうか?
デスーザの映画はその問いかけで幕を閉じる。
反オバマ映画『2016年オバマのアメリカ』が意外な反響を呼ぶ
気張り過ぎ、きれいだけど中身が薄いスノーホワイト
もう一つの「白雪姫」は「スノーホワイトアンドザハンツマン」(白雪姫と漁師の意、邦題はスノーホワイト)公式サイトはこちら。
シネマトゥデイの紹介から、
世界中で愛されているグリム童話「白雪姫」を大胆にアレンジした、白雪姫と女王が死闘を繰り広げるアドベンチャー。戦術とサバイバル術を身に付けた白雪姫ことスノーホワイトには『トワイライト』シリーズのクリステン・スチュワートがふんし、『モンスター』のシャーリーズ・セロン、『マイティ・ソー』のクリス・ヘムズワースが共演。メガホンを取るのはCMディレクター出身のルパート・サンダーズ。オリジナリティーを加えたストーリーはもちろん、白雪姫の斬新なイメージを演出するスタイリッシュな映像やファッションも要チェックだ。
実際にこの説明通りの映画だったらかなり面白いものになったと思うのだが、「スタイリッシュな映像やファッション」という以外にはあんまり観るところがないと言うのが正直な感想。シネマトグラフィーは最高だし、豪快なシーンも多く、確かにみかけは美しい。登場人物の演出も演技も格好よくクールである。だが、あまりにもクールに見せようするのが先走って、人格や人間関係の形成が不十分である。
前記のミラーミラーと同様、主役はどちらかというと白雪姫演じるスチュワートより、王妃のシャリーズ・セロンのほうで、こっちのほうが断然得な役だ。しかし、セロンの美貌は申し分ないが、彼女の演じる役柄自体にはかなり問題がある。
先ず王妃が魔女であるという設定がはっきりしない。子供の頃何かのいきさつで魔女になったらしいという回想シーンが映画のところどころで出て来るが、はっきり言って王妃は最初から魔女だとして、過去のことなど見せない方がややこしくなくてよかったと思う。彼女の過去はあまり映画の主題とは関係ないからだ。
また、王妃の魔女としての力があやふやである。王妃が変装と毒使いの名人であることは童話でも描かれているが、セロン王妃は何百羽のカラスに化けて空を飛んだり、遠距離に居る人間に魔法をかけたり、ガラスの兵士らを操ったり、若い乙女の生気を吸って若さを保ったりと、あまりにも色々で出来過ぎる。また、ナイフで刺されても死なない不死身でもある。
それはそれでいいが、だとしたらいったい白雪姫はどうすれば王妃を倒すことが出来るのか、そのへんの説明が必要だ。明らかに普通のやり方では王妃を殺すことは出来ないのだから。
私が非常にまどろっこしく思ったのは猟師と白雪姫との関係だ。原作では漁師は王妃から姫を殺せと命じられる。そしてその証拠として姫の心臓を持ち帰れと。だが土壇場で姫の可憐な姿を哀れに思った猟師は姫を逃がしてイノシシの心臓を持って帰る。
予告編を見る限りでは、この映画の猟師(クリス・ヘムスワース、Chris Hemsworth)は単に白雪姫を哀れと思うだけでなく、その美しさに打たれて姫に恋をするという印象を持つ。しかし、ヘムスワースの猟師は特に白雪姫の美しさに圧倒された風でもない。王妃のやり方が気に入らずに姫の味方として寝返るまではいいが、命がけで白雪姫を救おうとしたり、ましてや姫に恋心まで持つようになるという動機や過程がはっきり描かれていない。白雪姫は確かに美しいが、それ以外には猟師に恋心を抱かせるような特別な魅力を感じさせないからだ。
スノーホワイトの白雪姫は王妃によって塔の牢獄に何年も幽閉されている。牢獄は汚く、姫はぼろを着て大したものも食べさせてもらえていない印象を受ける。そのお姫様が、王妃の弟フィン(Sam Spruell)の隙を付いて逃亡し、追っ手の手を逃れて下水道に滑り込み、崖っぷちから海に飛び込んで逃げきるなど、プロのスタントマンでも出来そうもないことを十年近くも牢獄で幽閉されていた小娘がやってのけるのは不自然。
これが、王亡き後、王妃に無視されていることをいいことに、姫が森で女の子らしからぬ運動神経を見せて飛び回っている姿などを見せていれば、いざという時に姫が軽業師よろしく王妃の手からすり抜けるというのも納得がいくのだが、そういう下敷きがされていないので姫の運動神経は不自然である。
王妃の手を逃れて森に逃げ込んだ後、白雪姫は姫の刺客からボディガードへと寝返った猟師とともに隣国で亡き王の残党を集めている前国王の重臣バース(Ian McShane)の元へむかう。その途中に女性ばかりの村を訪れたり小人達と出会ったりする。だが、この旅の部分は無駄が多い割には、必要な話の展開が不足している。
この旅の間で必要なのは、猟師と白雪姫の間になんらかの感情が生まれること、白雪姫が森でのサバイバル術や格闘技などをまなぶこと、そして小人達との友情を育む事、である。
私は予告編を観た時に、白雪姫が猟師に連れられて森に逃げた後、小人たちに救われ小人達から数年に渡って牛若丸さながら戦術を学んだ後、いざと言う時は兵を上げようと待ち構えていた前国王の残党たちと合流して時期を計って王妃に反旗を翻すようになる、という展開を期待していた。
だが、そうしたことは一切おきず、意味も無くやたらに怪物が現れたりキリスト教の象徴の白い鹿が現れたり妖精が飛び回ったりして時間を無駄にし、それがストーリー展開に全く結びついていない。
途中で再会する幼なじみのウィリアム(サム・クラフリン)との関係も今ひとつはっきりしないし、亡き王の残党が何故小娘の白雪姫に従がって不死身の女王と闘う気になれるのか、白雪姫の演説だけでは全く説得力がない。
ここでもし、隣国でバースと合流した白雪姫が戦略師としての才能を見せ、次々に小さな戦闘に勝ち抜き、遂に王妃の国に攻め入るというくらいのことをしてくれれば、何故軍隊が白雪姫に従う気持ちになれるのか納得がいく。
白雪姫の指導力は別に武術でなくてもいい。いや、かえって武術などではなく、なにか魔法のような力で、不死身の王妃も白雪姫のその力でのみ倒す事が可能である、といった設定があると面白い。
だが、これらのことでストーリー展開が面白くなったとしても、この映画には一番重要なものが抜けている。
白雪姫の童話で一番大切なのは、毒リンゴを食べて昏睡状態に陥った姫を王子様の愛情を混めたキッスが救うというもの。それがなければ白雪姫とは言えないのだ。
だが、スノーホワイトではその肝心な王子様の存在がない。
ミスター苺いわく、何百年にも渡って生き残って来た童話にはそれなりの力強さがある。それをドラマチックに書き直そうとすることに自体に無理があるのだと。『そんなことをせずにオリジナルの映画を作ればいいじゃないか、、』
ミスター苺、それをいっちゃあおしまいよ。
SFの魅力たっぷり、シリーズ最高の出来。メンインブラック3
久しぶりにスカっとする映画を観た。今日の映画はシリーズ第三弾目のメンインブラック3。
シリーズの第一話は結構アイディアが斬新で面白いと思ったが、二話目はあまり記憶にない。別に好きでも嫌いでもなかった覚えがある。しかしこの第三話目はこれまでで最高に面白いストーリー展開になっている。特にSFファンには非常に楽しめる魅力ある作品だ。
あらすじ:話はトミーリー・ジョーンズ扮するエージェントKが40年前に逮捕してずっと月の刑務所で臭いメシを食っていたボリス・ザ・アニマル(Jemaine Clement)が刑務所を脱走するところからはじまる。ボリスはタイムマシンを使って40年前にもどり、逮捕される前にエージェントKを殺そうと企む。アニマルが脱走したと聞いて何時になく動揺するKを見て、ウィル・スミス扮するKのパートナー、エージェントジェイは、口の固いKから事情を引き出そうとするのだがまるでだめ。
その晩Kが真夜中にジェイに電話をしてくる。何か言いたそうなのに口ごもるKに、苛立ったジェイは電話を切ってしまう。ところが翌日出勤したオフィスにはKの存在がまるでない。Kの存在を主張する現所長のエージェントO(エマ・トンプソン)は、Kは40年前に殉職していると語った上で、会った事がないはずのKを覚えているジェイは、もしや時空間にはまっているのではないかと説明する。Kをもとの次元に連れ戻すためにはジェイ自らが時間を溯ってKがボリスに殺される前にKの命を救う必要があるのだ。
これが話の設定で、映画の大半はジェイが溯った1960年代のアメリカが舞台になる。若い頃のKを演じるのはジョッシュ・ブローリン(Josh Brolin)。正直言ってトミーリー・ジョーンズの若い頃よりずっとハンサム。しかしジョーンズのエージェントKの訛りや癖がそっくりそのままのブローリンのKに会ったジェイが、ブローリンがすぐに若い頃のKだと気がつくのは納得がいく。
ただ、若いKは老人のKより表情も豊で笑顔も見せる。特に好きな女性、若いエージェントO(アリス・イブ)の話をする時なんかはハナの下を伸ばしてデレデレである。そんなKを観て「まったく何があったんだよ。」と首をかしげるジェイ。
タイムとラベルをして現れたという人間を過去の人間が信じるためにはそれなりの心構えが必要だが、KはもともとMIBの人間。普通の人間が信じられないような宇宙人の存在を知っているし、1960年代の地球の技術では考えられないような高技術を常に使って仕事をしている。だから厳重機密のはずのMIBのことを熟知しているジェイが未来から来たと言えば、それほど信じ難い話でもない。
この話は1980年代に大人気を得たやはりタイムとラベルを扱ったバックトゥーザフューチャーシリーズを思わせ、非常によく出来たSF映画だ。
冒頭のシーンに現れるトミーリー・ジョーンズはかなり年老いて見え、現場のエージェントをやるにはちょっと無理があるように見えたので、時代を溯って若いエージェントKが現れるという設定はうまいなと感じた。特にブローリンの演技がいいので違和感がない。
是非おすすめである。
ふたつの白雪姫、バリウッド対ハリウッド、まずは「白雪姫と鏡の女王」から
最近続けてグリム童話の「白雪姫」を原作とする映画の公開があったので、カカシも早速観て来た。ふたつの映画はターセム・シン監督のミラーミラー(邦題:白雪姫と鏡の女王)とルパート・サンダース監督のスノーホワイトアンドザハンツマン(邦題:スノーホワイト)である。(何故邦題を『白雪姫と猟師』としないのか不思議)
日本ではスノーホワイトの方はふき替え版などもあって、もうすでに公開になっているが、何故かミラーミラーのほうは9月公開になるらしい。
何故同じ時期に同じ題材の映画が続けて制作されたのかは解らないが、同じ題材を使ったにも関わらず捉え方はまるで違う。ただ双方とも白雪姫より意地悪継母の王妃の方が得役になっていて、特にミラーミラーのほうのジュリア・ロバーツの演技はさすがである。
ストーリーはどちらも原作の筋に沿っている。白雪姫の父親の王が二度目の妻を娶った時から何かが起きる。父親は死ぬか姿を消すかして数年後の今は継母である父の後妻が女王として国を仕切っているが、魔女である継母の魔力によって国全体が黒く枯れた状態になっている。
シン監督のミラーミラーは最初からコメディタッチで描かれており、確かにロバーツの王妃は魔法使いではあるのだが、国が貧乏で破産状態なのは特に彼女の魔力のせいではなく、単に彼女の贅沢三昧な無駄使いが原因。しかも特に経済立て直しの政策も立てず、単に足りない分はすでに理不尽な税金で飢えている庶民からさらに税金を取り立てるしか脳がない、まるでオバマ王みたいな王妃である。
ロバーツ王妃は日がな夜がな自分の美しさを磨くことと贅沢三昧な暮らしをすることにしか興味がなく、しょっちゅう鏡の前に立って「鏡よ、鏡よ、この国で誰が一番美しい?」とやっているわけ。王妃が偶然現れた隣国の王子アーミー・ハマーと結婚しようと必死に美容に励むシーンは笑える。猟師役を演じたブロードウェイ役者、ネイソン・レーンとの絡みもおもしろい。
さて、この鏡とのやり取りなのだが、ロバーツ王妃の鏡に写るのは王妃の分身で、ディズニー映画の低く深い男性の声とは大違い。鏡とのやり取りも、割と普通の女性が鏡を観ながら「あらやだ、私、皺が増えたかしら、、あら、これシミかしら、、」とやってるのとおんなじ感じで、それに答える鏡の分身が結構意地悪で面白い。
白雪姫を演じるリリー・コリンズは愛らしく、いかにも白雪姫という感じがする。ミラーミラーは白雪姫が猟師(ネーサン・レーン)によって森に置き去りにされるところまでは原作にかなり忠実だ。しかしリリー姫が森の小人達に会うところから、ストーリーはグリム童話からはなれていく。
童話の方では、白雪姫が小人達の家に住むようになり家事などをして小人達と家族のようになるが、映画の方では小人達から武術を教わる弟子となる。このへんの訓練は昔のカンフー映画を思わせるが、訓練を通じて姫と小人達の交流が深まり、原作同様姫と小人達の間には深い友情が生まれて行く。これはディズニー映画で姫が歌いながら動物たちも一緒に「さあ仕事だよ」といって掃除したりするシーンと同様ほほえましい。
小人達に鍛えられたリリー姫は、最初に森に現れた頃のように単に可憐で世間知らずのお姫様ではない。姫がまだ生きていることを知った王妃からの攻撃にも、ハンサムなプリンスチャーミングを待っているほどか弱くもない。
ところでアーミー・ハマー演じる王子様だが、原作では老女に化けた王妃からもらった毒リンゴを食べた白雪姫を救うことになっているが、アーミー王子は顔はいいけどかなりのドジ。最初に登場する場面でもお付きと一緒に盗賊に襲われ身ぐるみはがれてステテコ姿で木からつるされてしまう。ロバーツ王妃の魔法にかかって犬みたいにそこいら中を嗅ぎ回ったり、リリー姫を救おうと閉ざされた扉に体当たりするのはいいが、扉が重過ぎて全然開かずにふーふーいったりするシーンなど、全然恰好よくない。
一番笑ったのは、最後のシーンでリリー姫がバリウッド映画さながらに全く場違いな歌を歌いだし、完全にバリウッドミュージカル風に回りのひとたちと踊るシーン。な、なんなんだ、これは、と思ったら何の事はない。監督がバリウッド出身のインド人監督だった。
床に転げ落ちて笑うような喜劇ではないが、全体的にほんわかした気分になる映画。日曜日の午後に家族連れで行くにはよいのではないかな。
勇敢な海軍シールチームを描いた「アクト・オブ・ベイラー」
Act of Valorという久しぶりにスカっとする映画をみた。ミスター苺がオンラインで見つけた試写会。シールチームを描いた映画だとは聞いていたが、どうせまたイスラムテロリストと闘うという設定で出動した米兵が、現地で金を盗むとか、地元婦女子に暴行を加えるとか、無実の市民を無差別に虐殺するとかいう話なんじゃないのか、とあまり乗り気になれずに観に行ったのだが、中身はまさにその逆、アメリカ兵が完全に善い側にまわった、勧善懲悪の映画だった。
試写会だったからなのかもしれないが、映画の冒頭で製作者のマイク・マッコイ(Mike McCoy)とスコット・ワーフ(Scott Waugh)による挨拶が入っていた。そこで二人は、主役のシールチームは役者ではなく現役のシールチームメンバーなのだと説明している。
かなり細かくシールチームの活動を描写しているので、素人の俳優にシール的な動きを教えるより、本物のシールに演技を教えた方が効果があるということだろう。 話は実際の話を元にしたとはいっても、登場人物や状況は架空のもの。しかし本物のチームを使っているので、チームメンバーの名前とランクはそのまま。本名が使われているせいなのか、IMDbのキャストには名前が乗っていない。
演技は度素人のはずなのに、シールチームメンバーたちの演技は説得力がある。もっともミスター苺いわく、軍人はどのような状況でも感情的にならずに冷静に状況判断をするように訓練されているし、そういう人でなければエリート中のエリートであるシールになどなれないわけだから、感情的な演技は要求されない。任務を与えられた時に「何か質問は?」と聞かれて、「任務にかけられる時間はどのくらいなのか、」「脱出が巧く行かない場合、どこでランデブーしたらいいか」とかいった任務上の質問は、常に自分らの仕事のうえで交わされている会話だからそれほど難しいこともないだろう。
あらすじは非常に簡単。誘拐されたCIA工作員モラレス(ロザリン・サンチェズ)を救うべくシールチームは救出の任務を課される。モラレスはボランティアの医者として現地に潜入し、密輸麻薬組織を調べていたが、相棒の工作員と連絡中に相棒を殺され自分は誘拐されてしまったのだ。最初は単なる麻薬密輸組織に捉えられた工作員の救出という任務に見えたが、探って行くうちに、フィリピンやアフリカのイスラム聖戦テロリスト(ジェイソン・コテル)や、ロシアマフィア(Alex Veadov)などの関係も明らかになり、シールチームの任務はどんどん拡大していく。
私はシールチームの訓練のドキュメンタリーや、アフガニスタンで一人生き残ったシールの体験談なども読んでいるから、ある程度シールの行動は理解しているように思っていたが、この映画を観ていて、シール達と彼らを上部から後方から援助する部隊の技術やテクノロジーなど、まざまざと見せつけられて完全に圧倒された。
監督たちの話だと、戦闘場面では実弾を使ったり、シール達が潜水艦に乗り込むシーンなどは、本物の潜水艦と経度緯度の位地と時間を待ち合わせて、たった4時間のウィンドーで撮影し、撮影が終わると潜水艦はどこへともなく消えてしまった。監督達は、観客がその場でシールの立場になって映画を体験してもらいたいと語っていたが、その目的は完全に果たせていると思う。
最初の方でシール達が飛行機からパラシュートで飛び降りて行くシーンは、ハイラインのスターシップトゥルーパーのドロッブのシーンを思わせる。ここで実際にパラシュートで降りたチームはリープフロッグというシールのスカイダイビングチーム。夜の空にまるで忍者みたいに音もなく降りて行くシール達の姿はすごく不気味だ。
シール達の任務は悪者が厳重に武装している要塞のようなアジトへ潜り込んで行くことが多い。ここでもシール達は忍者よろしく緑のカモフラージュやシダなどで身体を覆い、沼のなかからにょきっと顔をだす。プレデターでもこんなシーンがあったが、本物と俳優ではこうも違うのかと改めて監督達が本物シールを使った理由が理解できた。
メキシコのドラッグカーテルのアジトでの撃ち合いでは、狭い建物のあちこちに悪い奴らが隠れて待ち構えている。建物のなかにはギャング達の家族も一緒に住んでいる。扉を蹴破って入って行くと寝巻き姿の中年の女が悲鳴をあげていたりする。だが、寝巻き姿のオバンだから安心なのかといえばそんなことはない。オバンだって自動小銃を撃つ事は出来るのだ。とっさの判断でこの女を見逃すのか殺すのか決めなければならない、間違えればこちらが命を落とすことになるのだ。
イラクやアフガニスタンの戦闘で、「一般市民」が殺される度に、米兵は無差別に無実の市民を虐殺していると大騒ぎしていたメディアや批評家たちにこの映画を是非見てもらいたい。一瞬の判断で死ぬか生きるかという戦いをしているシール達が、どれほど超人的な判断力で無用な殺傷をしないように気をつけているか、よくよく考えてもらいたい。自分たちがそんな立場に置かれて、全く間違いを犯さないと誰が言える? これだけ危険な場所で命がけの仕事をしている兵士らに対し、戦闘中の起きた悲劇をとりあげて、まるで彼らを犯罪者のように扱った連中は戦場の厳しさなど全く理解できていないのだ。
こういう映画がイラク・アフガニスタン戦争中にもっと多く作られていたなら、二つの戦争はもっと多くの国民の支持を得ることが出来ていただろう。
だが、大手映画スタジオはこういう映画には興味がない。CGIだらけの意味のないアクション映画ばかり作っていて、戦争映画といえば必ずアメリカ軍が悪い方に回り、イスラムテロリストが良いほうか犠牲者という設定ばかりだ。それで何故イラク・アフガン戦争をテーマにした映画の業績が上がらないのか首をひねってる馬鹿さ加減。
この映画がボックスオフィスでも大成功を収めることを祈る。
不気味に現在の社会と重なる映画『肩をすくめるアトラス』
リバタリアンのカリスマ、ロシア出身のアイン・ランド原作のAtlas Shrugged (『アトラス、肩をすくめる』の意。)が映画化され公開された。
アイン・ランドは共産圏のロシアからアメリカに亡命して作家となった女性で、利己主義の美徳を説いた人だ。彼女の伝記はヘレン・ミレン主演でアイン・ランドの情熱というテレビ映画にもなっているので、「アトラス、、、」と二本立てで観るのも悪くない。
原作は一種のSF小説なのだが、ジョージ・オーウェルの「アニマルファーム」や「1984」と同じように、社会主義の恐ろしさを描いた小説だ。読者がリバタリアン系保守派なら一読の価値ある小説だが、いかんせん長いので、アイン・ランドが誰か彼女の思想はどのようなものなのか、全く知らない人はこの映画から入って行くのも悪くない。小説の精神を誠実に保った非常に素直な映画だ。
原作が書かれたのは1957年なので、アメリカの主流な交通機関が鉄道という設定は現在のアメリカ社会を舞台にするには無理があるのではないかと思ったのだが、アラブ諸国での紛争で原油の値段が暴騰し飛行機や自家用車での移動や輸送が不可能になったという説明があり、「うまい」と思わずうなってしまった。この映画の撮影中にはまだエジプトやリビアの紛争が起きていなかったはずだが、この映画がSFとして設定した未来像が実際にそのまま起きていることは非常に不気味だ。
しかも、冒頭でテレビの政治討論番組で実業家と政治家が言い争いをするなか、実業家が「アメリカにはいくらも資源があるのに、国が発掘を拒んでいる」と政府の方針に文句をいうあたりなど、まさに去年の原油漏れ以来海洋原油発掘を事実上差し止めにしているオバマ王や、アラスカのアンワーの原油発掘を自然保護を理由にかたくなに拒む民主党議員達の政策をそのまま批判しているかのようだ。
もっともアイン・ランドの原作は、誰が何時の時代に読んでも、私にもそんな経験があると思わせる部分がいくつも出てくる。特に左翼リベラルとしょっちゅうやりあってる人間なら、小説のところどころで主人公に浴びせられる批判は、そっくりそのままの語彙で浴びせられた経験があるはずで、作家は私の人生を何故知っているのかと不思議に思う場面が数々ある。
映画の設定は2016年という近い未来。世界はアラブ諸国の原油生産国での紛争がもとで資源不足。交通や輸送手段は鉄道が主な手段として残っているだけ。政府の社会主義的な悪政策のせいでアメリカの中小企業は大打撃を得ており、社会は非常な不景気で1930年代の大恐慌のような失業率は25%以上。
日に日に政府による産業への官制が厳しくなっていくなか、父親から受け継いだ鉄道会社タガートトランスコンティネンタルの副社長として、なんとか会社を保もっていこうとしているのが主人公のダグニー・タガート(Taylor Schilling)。長男として社長の座を引き継いだ弟のジェームス(Matthew Marsden)は社長とは肩書きだけの理想家。ジェームスは政治家に取り入るしか能がないビジネスの才能はゼロの男。実際の経営にたずさわっているのは姉のダグニーで、彼女がいなければ、とっくの昔に倒産していただろう会社経営だが、利益のためなら容赦なく無駄を切り捨てるダグニーの経営姿勢に対して「姉さんは冷酷だ、他人の気持ちなど一度も考えたことがないんだろう」とことあるごとに批判的な態度をとるジェームス・タガート。
100年も修復されていない線路を長距離に渡って新しくし、新幹線のような高速列車を通そうと野心を燃やすダグニーは、最新の鉄を生産しているリアドンメタル製鉄会社の社長ヘンリー(ハンク)・リアドン(Grant Bowler)と契約を結ぶ。
リアドンはこの不況時において非常な成功を収めている数少ない実業家であるが、その家庭には恵まれていない。30も過ぎて仕事もせずに兄の脛かじりの実弟フィリップ(Grant Bowler)はリアドンから自分が支持する左翼団体への10万ドルという寄付金をせびりとっておきながら、大企業主からの寄付金だとわかると左翼団体として恥かしいので小切手ではなく銀行へ直接振り込んで欲しいなどという。実母(Christina Pickles)も妻のリリアン(Rebecca Wisocky)もリアドンの経済力のおかげで贅沢な暮らしをさせてもらっているにもかかわらず、金儲けのために働く実業家としてのリアドンに対し軽蔑心を隠す事が出来ない。
特に妻のリリアンは冷たい美女で、豪華なドレスや高価な宝石を身にまとい高級社会の妻としての世間体にしか興味がなく、そんな生活を可能にしているハンクへの愛情などひとかけらも感じていない。ハンクは妻と寝室も別々で、時折性行為のためだけに妻の寝室を訪問する以外には、二人の間に精神的なつながりは全くない。
そんなハンクが自分と同じように事業に情熱をそそぐダグニーと出会い、二人の仲が急速に進展するのは当然のこと。だが、二人が力を合わせて高速列車を走らせようとする間にも、二人を取り囲む世界はファシズムへの道を猛烈な勢いで進んで行く。
政府が次々に提案する法律は、労働者を守るとか平等や公平を保つためという名目のもとに通されるが、実際には才能と実力のある企業を競争相手の企業や政府が結託して気に入らない企業をつぶしたり食い物にするのが目的な理不尽な法律ばかり。
映画はディストピアを描いた架空小説ではあるが、そのなかに出てくる逸話は現代社会と不気味に重なる部分がある。
労働組合が企業を乗っ取り、組合が経営者に給料を能力別ではなく必要に応じて金額を決めるやり方を強制してつぶれてしまった企業などは、労働組合に食い物にされて労働組合のオバマ政府に乗っ取られたジェネラルモーターズを思い出させるし、企業が勝手に本社を移転しないように規制する法律は、ワシントン州のシアトル市にあるボーイング社が労働組合の力から逃れるために他州に移転しようとしてオバマ政権の労働省からクレームがついた例などを思い出させる。
能力と実行力のある人々が支えて来た社会を、何の能力もなく自分では何も生産しない腐敗した政治家や理想主義の社会主義者たちがどんどん蝕んで行く。そんななかで、ダグニーの回りでは才能ある人々が次々に姿を消して行く。それぞれに「ジョン・ガルトって誰だ?」という不思議な言葉を残して。
この映画は三部作の第一作なのだそうだ。すでに三部まで制作が済んでいるのかどうか解らないが、こんな反社会主義映画が政策されたということ自体奇跡に近い。無論ハリウッドでは非難囂々。公開している映画館の数も限られているし、宣伝も派手にはされていない。
だが、保守派ブロガーやトークラジオなどの紹介で、結構地味な人気が出て来ているようだ。2012年の選挙を前に、オバマ王や民主党が幅を利かせると社会がどういうことになるかを知ってもらうためにも、アイン・ランドなど聞いたこともないという普通の人に観てもらいたい映画だ。
失って初めてわかる真実の愛、泣かせますシュレック4
真実の愛、それはそのまっただ中にいると気がつかないことがある。本当の幸せと言うのは、「あ〜ぼかあ〜しやわせだな〜」と実感することよりも、後になってみて「ああ、今思うとあの頃は幸せだったんだな。」ということのほうが多いのかもしれない。
本日はシリーズ四段目で最終回のシュレック4についてお話したい。日本での公開は2010年12月18日だそうだ。
シュレックも子持ち男になって早くも一年。子育てに忙しい毎日。妻のフィオナとロマンティックな時間を過ごしたくても、ロバや長靴を履いた猫が朝早くから夜遅くまで毎日のように訪れてはどんちゃん騒ぎ。こっちの迷惑などまるで念頭にない。観光客を乗せたバスがシュレックの家を観に定期的に訪れるから、ゆっくり泥風呂にもはいってられない。
そんなある日、子供たちの誕生会で村人の子供から雄叫びのリクエストを受けたシュレックはついに堪忍袋の緒がきれてしまう。子供の誕生日を台無しにして、愛妻フィオナとも大げんか。
フィオナからお説教をうけてむしゃくしゃしながらパーティ会場を後にしたシュレックは思う。ああ、昔は自分は恐れられていたものだがなあ、町に繰り出せば人々は恐れおののいて逃げ惑った物だ。あの頃はよかったよなあ。一日でいいからあの頃に戻りたいなあ。
そんなシュレックの前にランプルスティルトスキン(Rumplestiltskin)という小悪魔が現れる。スティルトスキンは、シュレックの望む一日をあげるから、交換にシュレックの過去の一日をくれないかと提案。「いいさ、過去の一日くらい、好きな日を選んでもってけよ。」と気軽に契約書に署名してしまうシュレック。
だが、シュレックが望んだ、オーガが人々に恐れられる世界とは、シュレックが存在していた世界とは根本的にどこか違う。ロバとも猫とも出会っていない、ましてやフィオナと恋に落ちた事実もない。なぜならシュレックが望んだ一日と引き換えにした過去の一日とは、シュレックの生まれた日だったからである。シュレックが生まれなかった世界での一日。日没までにまだ出会ってもいないフィオナの真実を愛を得られければ、シュレックの存在は永遠に消滅してしまう。どうするシュレック、時間がないぞ。
結婚してしばらくたった誰でもそうかもしれないが、シュレックもまた、妻フィオナの愛情を当たり前のように感じ始めていた。日々の忙しさにかまけて、子育ての大変さにめげて、大事なものを見失っていた。それを小悪魔の策略で失ってみて初めて自分の持っていたものの価値を知る。
この映画は、シュレックがシュレックのことを知らないフィオナとキスを交わせばそれで済むというような単純な内容ではない。実際にフィオナがシュレックを愛さなければ小悪魔の魔法は解けないのだ。
新しい次元の世界で出会ったフィオナは、閉じ込められていた塔からシュレックに救われたか弱い御姫様ではない。なにしろシュレックが存在しない世界だからフィオナはシュレックに救われるというわけにはいかない。待って待って誰も助けに来てくれなかったという過去のある彼女のもとに、とつぜんシュレックが現れて、「我こそがそなたの真の愛じゃ」てなことをいってもビンタを食らうのが関の山。たった一日でフィオナの愛を射止めるなんてそう簡単にはいかない。
話の設定は、クリスマスの時期によくテレビで放映される昔の映画、ジミー・スチュワート主演の「イッツ ア ワンダフルライフ (すばらしき人生)」と同じ。もしも自分がこの世に存在していなかったら、自分の回りの世界はどう変わっていたか、というアルターネートヒストリーのSF物語といったところだ。
いつもながら、おとぎ話のキャラクターをうまく起用しているところは傑作。
ロバとシュレックの掛け合いは飽きがこない。第一作の時はエディー・マーフィーのロバは煩く感じたが、回を追うごとにキャラクターに味が出て来た感じがする。アントニオ・バンデラスの猫も、今回はちょっと中年太り過ぎのせいか、いつもの潤う目もちょっと効果が薄いよう。ランプルスティルトスキンの手下の魔女たちは、明らかにオズの魔法使いの魔女で水は天敵。最後のほうはエロル・フリンのロビンフッドを思わせる。
妻の愛、大切な子供達、そして友情。失ってみて初めて解るその大切さ。シュレックはアニメとは思えないほど奥が深い。そのほのぼのさに思わず泣いてしまった。
自分の生活がマンネリ化してる人に希望を与える心温まる映画だ。是非おすすめ。
左翼プロパガンダと解っていても楽しんでしまった「マイレージ、マイライフ」
今日の映画、マイレージ・マイライフ(英語題名はUp in the air)が日本で公開されたのは今年の三月(アメリカ公開は去年の11月)。アカデミー最優秀映画賞の候補にも上がったほどで、内容はかなり上出来だと思う。どうして一年も前に公開済みの映画を今頃観たのかというと、出張ばかりしている同僚が最近出張先のホテルのテレビで観て、いやに気に入ったらしく、私も興味があるのではと勧めてくれたからだ。
主人公のライアン・ギンガム(ジョージ・クルーニー)の仕事は、リストラ中の企業に出向いて行っては自社の従業員を自ら解雇する根性のない重役らに替わって解雇して回ることだ。ライアンはその時だけで後は個人的なつながりを全く持たないこの仕事が気に入っている。
ファーストクラスで飛び回り、一年のうち322日間出張していることや、手荷物だけでする手軽な荷造りの技術にも誇りを持っている。フリークエントトラベラー(頻繁に旅をする人)だから航空会社でもレンタルカー会社でもホテルでもVIP扱い。どこへ行っても列に並んだりせずVIPカードを見せてほぼ素通り。結婚したこともないし、女性関係はカジュアルで満足。両親はとっくに他界し、結婚間近に控えた妹や男性関係に恵まれない姉とも、ほとんど付き合いはない。人間関係といったら、しょっちゅう使ってるアメリカン航空のチェックイン係りの女性に「おかえりなさい、ギンガムさん」と言ってもらうことくらい。
そんなライアンの生活に二つの変化が起きる。ひとつは魅力的なキャリアウーマン、アレックス(ヴェラ・ファーミガ)との出会い。もうひとつはライアンの会社が新しく採用したインターネットでの解雇方式を提案する有能な新入社員ナタリー(アナ・ケンドリック)の指導を命令されたことだ。
ライアンが自分の能率的な仕事の仕方や生活習慣を、片手間で行ってるレクチャーで説明したり、すばやくセキュリティーチェックを通るための方法を新人のナタリーに教授したりする場面はユーモアたっぷりで楽しめる。フリークエントフライヤーのカカシとしては「なるほど~。」と勉強になる部分も多くあった。
だが、私が一番気に入ったのはホテルのバーでアレックスと出会う場面だ。バーのカウンターでアレックスが何かのVIPカードを弄んでいる。ライアンがそのカードではどこどこの店では使えないとか、どういう得点があるとかないとか言う話を始めると、自分と同じように色々なメンバーシップカードを持ってるライアンに興味を示すアレックス。
即座に二人はテーブルを挟んでお互いのVIPカードをトランプのように出してその格を競い合う。ライアンのマイレージ数にすっかり魅了されるアレックス。お酒の入った勢いもあるが、マイレージの話で完全に意気投合していく二人の姿はその後に続くベッドシーンよりもずっと色気がある。(ここまで読んでベッドシーンがあると期待した読者は、その淡白な描写に失望するはず。)
一夜を共にした二人は、次回の再開場所をお互いの忙しいスケジュールにあわせてノートパソコンではじき出す。
私がこのへんのくだりを気に入ったわけは、私自身が同僚たちとVIPレベルを比べてカードを見せ合った経験があるし、同じ仕事をしてるのに本社で会う機会などほとんどない同僚たちと示し合わせて飛行機の待ち時間を利用して出先の空港で会ったなんてこともあるからで、同じフリークエントトラベラーとして共感できる点が非常に多くあるからだろう。
しかし、ここまで観ていて、この映画がこれまで個人的な人間関係を持てなかったライアンがアレックスとの出会いによって人との交流の大切さを学ぶロマンティックコメディーだと思ったら大間違い。この映画の本筋はもっと腹黒い反資本主義思想が根底にある。
先ず第一に、ライアンの勤める会社が繁盛するということは、アメリカの景気が不況であちこちで企業がリストラをせざる終えなくなっている状況が背景にある。しかも、企業は景気のいいときはさんざん従業員を利用しておきながら、ちょっと経営不振になると個人感情などおかまいなしに利用価値のなくなった部品を捨てるかのように社員を簡単に解雇する。
この映画のしたたかなところは、企業をあからさまに悪者として責めないところだ。にくったらしく葉巻を吸うような脂ぎった中年男が重役として出てくるわけでもなければ、私腹を肥やす重役のために、まじめな下っ端社員が解雇されるなどというシーンは全く見せない。いや、それどころかこの映画では企業の姿はほとんど描かれない。リストラを決意した重役や、長年勤めた従業員の解雇を外注する人々の冷酷な姿も見せない。だからこそ、この映画に現れる企業はなにかしら不気味で冷酷な物体としてのイメージしかわかない。
映画でライアンに解雇される従業員の一部は俳優ではなく、実際に最近解雇された一般人を起用している。
「30年もまじめに勤めた見返りがこういう仕打ちなんですか?」
「住宅ローンも組んだばっかりなのに、いったいどうやって生活しろっていうんですか?」
「女房や子供にどういう顔みせろってんだよ!」
若い人はまだしも、50や60になって突然リストラされたら、いったいどうすればいいのか。しかも企業は何十年と働いた従業員にねぎらいの言葉をかける気遣いもない。個人的に解雇する勇気すらないで、ライアンのような刺客を雇ってリストラをする。なんて冷酷非情なやつらなんだ!
という感情を観客に生み出させることが出来ればこの映画のプロパガンダは成功したことになる。プロパガンダを承知の上で観ていたカカシですら、自ら従業員を解雇できない重役の根性を批判したくなったほどだから、この映画は非常に良く出来た左翼プロパガンダだといえる。
しかし現実を考えて見よう。
カカシもこれまでに3回ほどリストラされたことがある。そのうち二回とも私は直接の上司から解雇された。どれも会社の経営状態などを考えたら仕方ない現実だった。私がリストラを言い渡される前からすでに社内では大幅な人員削減がおこなわれていたので、私のところに話が来るのは時間の問題だった。
左翼リベラルは認めないが、企業も生き物だ。企業は決して顔のない血も涙もない冷血非道な物体ではない。企業は利益をあげることが商売だが、それが出来なくなれば損失を最小限に抑え何とか生存に勤めるのがその義務でもある。
どんな企業が好き好んでリストラなどするだろう。
確かに長年勤めてきた会社から解雇されてうれしいわけはない。若くてやり直しがいくらでも出来るというならともかく、50だの60だのになって定年間近でリストラなどされたらいまさらどうしろというのだ、という気にもなる。リストラされた当時は私も傷ついた。特に最初の企業は8年も勤めていて、昇進まで約束されていたので、突然の解雇はショックだった。だからこの映画に出てくるリストラされた従業員たちの気持ちは手にとるほど良くわかる。
だが、だからといって企業がリストラをしなかったらどうなるのだ? リストラをするということ自体、企業は経営難でうまくいっていないという証拠だ。そのまま全く経営方針を変えずに同じことを繰り返していれば、いずれは企業自体が倒産の憂き目にある。会社がつぶれれば社員全員が失業するのだ。一部の社員を解雇するだけでは収まらないのだ。
左翼連中はそういう現実を全く考慮に入れない。
すでに公開済みの映画なのでネタばれを心配する必要はないのかもしれないが、ここで私は実際の映画の終わりではなく、私自身が考えた資本主義的終わり方を披露しておきたい。以下はカカシ風結末で映画の本当の結末ではないのであしからず。
ナタリーの訓練を終え、ライアンはナタリーを本社に帰す。アレックスに会いに行った先でのライアンとアレックスのやりとりは映画のまま。
ホテルに帰ったライアンには本社から緊急なイーメールが届いている。翌日ビデオ会議に参加するようにという内容だった。
翌日ビデオ会議を開いてみると、なんとこれはインターネットによるライアンへの解雇通告だった。本社はナタリーの提案を受け入れ本格的にネット解雇に方針を切り替えることにしたため、外回りのライアンたちの職種は削除されることになったからだ。そしてネット解雇部の新しい部長は誰あろうナタリー。
次のシーン。
どこかのホテルのロビー。ライアン・ギンガムのレクチャー看板が飾ってある。その題名は「リストラ後の職探しはどうするか、あなたの未来を考える。」とかなんとかいうもの。会社を首になったライアンは解雇任務を改め、失業した人々のために本当の意味でのキャリアカウンセラーをする仕事を始めたのだ。「あなたの新しい人生は解雇されたときから始まるのです。」観客の中にはライアン自身が解雇した社員たちの顔も見られる。
最後にリストラされた人々が家族の支えでなんとか立ち直ったとかいう証言を流す代わりに、リストラのおかげで自分がそれまで惰性でつづけていた仕事を辞めることが出来、自分が本当にやりたかったキャリアを見出すことが出来た、というような証言が立て続けにされる。
カカシ自身、最初のリストラにあって始めて、それまでの仕事では自分の才能が充分に生かされていなかったことや、給料が低すぎたことを知ったし、二度目三度目のリストラのおかげで、自分の職種には未来がないことを悟り、新しく学歴を得て全く違う分野に視野を広げることが出来た。
そういうことが出来るたのも、アメリカが資本主義の国であり、七転び八起きを許容してくれる社会だからこそだ。そういうことを描写してくれたなら、この映画は満点の価値ありだろう。
無論、この映画のメッセージはその正反対。にもかかわらず、ジョージ・クルーニーのチャーミングな演技に半資本主義プロパガンダ映画にすっかり魅了されてしまったカカシであった。
巣立ち行く子供を見送る寂しい親の気持ち、トーイストーリー3
今日は日本では7月公開のトーイストーリー3段目のご紹介。日本語ふき替え版の予告編はこちら。
最近久しぶりに映画を立て続けにみてしまったのだが、シュレック4に始まってアイアンマン2と今度はトーイストーリー3。なんだか続編ばっかだなあ。
普通続編というのは前の話の人気におんぶしてるだけで、回が進むごとに質が下がるのが定番なのだが、この三つの映画は回を追うごとによくなってる。特にトーイストーリー3は2よりずっと中身が濃い。
本筋は割と単純。私の記憶だけで会話を再現すると、おもちゃと遊んでいたアンディも、早いものでもう17歳。明日から家を出て別の町にある大学へと向かう。勉強部屋を取り払って大人への一歩を歩き出すのだ。そこでお母さんは、「行く前に部屋の整理をしてちょうだいね、要らないものは捨てるか屋根裏部屋にしまうかしてよ。」そして「もう遊ばなくなったおもちゃは、保育園に寄付するから。」
「こんな古いおもちゃ、誰も欲しがらないよ」というアンディの本音は、まだ手放したくない子供時代の自分。一番気に入っているカウボーイの人形ウッディだけ大学行きの箱に入れて、あとは屋根裏にしまおうとおもちゃをゴミ袋に入れるアンディ。ところがお母さんはこれをゴミと間違えて外に出してしまう。
ゴミとして捨てられるくらいなら、とおもちゃたちは保育園寄付用の箱に大移動。着いた保育園で、ストロベリー色の熊のロッツオや着せ替え人形のケンドールら保育園のおもちゃたちに暖かく迎えられる。保育園ではこどもたちが毎日のように遊んでくれるよ、と言われたアンディのおもちゃたちは大喜び。アンディの妹のおもちゃだったバービーもハンサムなケンに一目惚れ。
ここは天国だ。ずっとここに居よう。おもちゃたちは、ひとりだけ別の箱にいて間違いを見届け、おもちゃたちを救うために追いかけて来たウッディの「アンディは君たちを捨てたんじゃない、間違いだよ、家に帰ろう」という声にも聞く耳もたない。「アンディは俺たちを捨てようとしたじゃないか、もう俺たちは必要とされてないんだ。」
しかし、一見パラダイスに見える保育園には、熊のラッツオが仕切る暗黒の世界があった。おもちゃたちは腹黒いラッツオとその仲間達が企む恐ろしい陰謀に嵌りつつあるのであった。
この映画のテーマは子離れの難しさにある。ウッディたちはおもちゃだが、子供の頃からアンディと一緒にいて、その育成の過程を見守って来た親のような存在だ。アンディに対してもそうした愛情がある。だからアンディが大人になって、用無しになってしまう自分らの存在を嘆いているのだ。
育って行く子供は手離さなければならない、そして親は親で子育てを含まない自分らだけの新しい生活を始めなければならない。だがそれは口で言うほど簡単なことではない。熊のラッツオが悪者になったのも、元の持ち主から捨てられたという恨みから立ち直れなかったのが原因。
この映画の主役はもちろんウッディなのだが、それぞれのキャラクター達の活躍は面白い。宇宙探検家のバズライトイヤーがリセットされてスペイン語を話だし、カウガールのジェシー相手にパサドブレを踊るシーンは傑作。ミスターポテトヘッドが胴体をポテトの替わりにうすっぺらなメキシコのパン、トルティーヤを使って鳥に食べられそうになるのは笑える。
また、ケンとバービーが恋に落ちるのは当然の成り行き。「まるで私たち、一緒になるために作られたみたい」って当たり前だ!。でもこのケンのドリームハウスにはケンの着替え用の服がいっぱいなのだが、その服が皆1970代のディスコ風。ちょっとケンちゃん、服に拘りすぎない?もしかしてあのケがあるとか、、
そうそう、保育園から抜け出そうとしているウッディを道でみつけて家に持ち帰った幼女の家に、カカシが持ってるのと同じトトロのぬいぐるみがあったのには笑ってしまった。トトロは何も言わないが、そういえばオリジナルでもトトロは無口。
すっかり整理が終わって空っぽになったアンディの部屋をみて、お母さんはハッと息を飲んだ。解っていたことではあるけれど、こうして改めて整理した部屋を見ると、この子は本当に巣立って行くのだなと実感する。カカシはお母さんと一緒に涙ぐんでしまった。
さて、おもちゃたちはロッツオの仕組んだ罠から抜け出すことが出来るだろうか? ウッディは無事アンディと一緒に大学へ行くのだろうか、そして残されたおもちゃたちの運命はいかに?
トーイストーリ3は、子供も大人も別の意味でおもちゃたちの冒険を楽しめる。是非おすすめ。
退屈きわまりないベンジャミン・バトンのつまらない一生
先日アカデミー賞の候補が発表されたが、どの候補に入った映画のどれひとつ観ていなかったことに気がつき、これは発表がある前にちゃんと観ておかなければいけないと思いたった。それで芸術作として評判も高く、SF的な要素も含む『ベンジャミン・バトンの数奇な一生』を観ることにした。(日本では二月七日封切り)
普通カカシが映画を評価する時は、その映画の出来云々よりもその映画そのものを作る価値があったかどうかということが最低基準となる。どれほど画像がきれいだろうと配役が豪華だろうと特撮が優れていようと、その映画が何か観客に訴えるものを持っていなければその映画はただのフィルムの無駄使いである。しかも、そういうくだらない映画がアカデミーにノミネートなどされてしまうと、ノミネートされた映画くらいは観ておかなければと考えるカカシのような観客の大切な三時間までもが浪費されてしまうのだからはた迷惑もいいところだ。
ここまで書けばお察しの通り、カカシはこの映画は気に入らなかった。全く観る価値がないとさえ言わせてもらう。
この映画の設定は、ブラッド・ピット扮するベンジャミン・バトン(カタカナ表記は「ボタン」とすべき。彼の苗字は生家の事業であるボタン製造会社にちなんだもの)という第一次世界大戦の終戦の日に生まれた男が、赤ん坊としてではなく、肉体的には80歳を超える老人として生まれ、時が経つとともに若返り最後には赤ん坊になって死ぬという話だ。すでに読者諸君が予告編を観ていたら、わざわざ映画館に足を運ぶ必要はない。なにも三時間も時間を無駄にしなくても、すべてのことはその三分間の予告で知ることができるからだ。
この映画は完全にアイデア倒れだ。カカシはSFファンなのでこの映画のSF要素に魅かれたのだが、製作者は単に年寄りが若返るという設定以外に全く科学空想としての想像力が働かなかったと見える。三時間という長時間をかけたにも関わらず、語った話は取り立てておもしろくもおかしくもない、つまらない男のくだらない人生を語るだけで済ましてしまっている。これが同じ筋で赤ん坊で生まれ、年をとって耄碌して死んだ男の人生を語ったとしても、全く違和感のないありきたいりの人生を語っているのだ。ベンジャミン・バトンの人生は数奇どころか何ひとつ面白いことがおきない退屈極まりない生涯だ。若返る男という不思議な宿命を持つ男なら、もっと面白い体験があってもよさそうなものだ。
だいたいこの映画は観客に何を訴えたいのだ?
映画はベンジャミン・バトン(ブラッド・ピット)の生涯の恋人デイジー(ケイト・ブランシェット)が年老いてハリケーンカトリーナが近づくニューオーリンズの病院で死の床に着いているところから始まる。病院で付き添っているのはデイジーの中年の娘キャロライン(ジュリア・オーモンド)。
キャロラインの口ぶりからして、娘と母親の間はあまり親密ではなかったようで、娘が病床につきそっているのも、母親との間が疎遠のままで死に別れたくないという理由からだ。プロのバレリーナとしてアメリカ人では初めてソ連のボリショイバレエ団にゲスト出演を許可された母親のデイジーの逸脱したキャリアに比べ、娘のキャロラインは特にこれといった才能がなく、本人はそのことを恥じて母親に対して卑屈になっている印象を受ける。母親のデイジーが娘に自分の昔の恋人であるベンジャミン・バトンという奇妙な男の日記を読んで聞かせてくれと頼むところから、回想シーンが始まって本編となる。
こういうふうにお膳立てをしたからには、ベンジャミンの生涯を娘に語らせることによって、デイジーは親を失望させたと卑屈になっている中年娘に何かしら言いたいことがあるはずだ。普通なら回想シーンが終わった時点で娘が何かを悟るように物語が転回されるべきだ。ところが、三時間の退屈な映画を全編見終わっても、いったいこの物語を語ることでデイジーは娘のキャロラインに何を伝えたかったのか観客にはさっぱり解らないのである。
産時に妻を失い悲嘆にくれるベンジャミンの父親(ジェイソン・フレミング)は、しわくちゃで老人のような赤ん坊のベンジャミンを老人ホームの階段に捨てる。それを見つけた老人ホームの黒人管理人クイニー(Taraji P. Henson)はベンジャミンを保護し自分の子供として育てる。
物語の最初の方でベンジャミンが80歳くらいから60代前半に若返るまでの17年間に、彼の養母が管理する老人ホームに、訪れては死んで行った人々の話がされるが、これらの老人たちの話がベンジャミンの人格形成にどのような役に立っているのかさっぱりわからない。ベンジャミンと当時7歳だった後の恋人デイジー(エル・ファニング)が出会うのはこの頃だ。ベンジャミンは実家の老人ホームに居る祖母のホリスター夫人(フィオナ・ヘイル)を度々訊ねて来るデイジーに不思議な魅力を感じる。
映画のほぼ全編にベンジャミンを演じるピットのモノトーンのナレーションが入るのだが、このナレーションに全く感情が込められていないせいか、ベンジャミンによる周りの人々への感情移入が全く感じられない。まるでベンジャミンは部外者で周囲の人間を単に観察しているかのような印象を受けるのだ。
ベンジャミンが独立して実家を出て船乗りとしての生活を始めてからも、この部外者のような無表情さは変わらない。これはブラッド・ピットの演技が下手なせいなのか、それとも演出が悪いのか解らないのだが、従船の船長(ジャレッド・ハリス)をはじめとするカラフルな船員たちとの出会いや、アラスカのホテルのロビーで出会いベンジャミンが恋におちる人妻エリザベス(ティルダ・スイントン)との関係にしても、ベンジャミンがこれらの人々との交流において何を感じたのか、彼の人生はこれらの出会いによってどう変わったのかといった話が全くされないのだ。つまりこれらの出会いや逸話が映画の前後の話と全くつながらないのである。
第二次世界大戦終戦後、ベンジャミンは実家の老人ホームに戻り、すっかり年老いた養母のクイニーと一緒に再び暮らし始める。そこで帰省中の美しく成長してプロのバレリーナになったデイジーと再会するのだが、、、、
と、もしもこの先の筋をすべてここでばらしても、決してネタバレなどという大げさなものにはならない。何故ならこの先の一時間半に渡っての映画の中では特にこれといって驚くようなことも感動するようなことも起きないからだ。
ベンジャミン・バトンの人生にはいったいどんな意味があったのだ?彼を愛したデイジーの人生はどう影響を受けたのだ?その話を後に学んだ娘のキャロラインは何を感じたのだ?
そうした問いかけに、まったく無頓着なのがこの映画、ベンジャミン・バトンの数奇な一生である。