ジャージーボーイズ、イーストウッド監督、舞台俳優を起用して大成功

1960年代後半から70年代前半にティーンポップの大人気歌手だったフランキー・バリとそのボーカルグループ、フォーシーンズのメンバー四人の若者たちの伝記映画。ジャージーボーイズというタイトルは、四人ともニュージャージー州出身だからということだけでなく、四人が育った環境が、貧しいイタリア移民子孫の集まる地元で、マフィアがらみの伝統文化が深く浸透しているという意味からくる。言ってみれば東京下町の江戸っ子気質みたいなものかな。マフィアは除くとして、、(日本語字幕予告編はこちら
アクションスターで一世を風靡したクリント・イーストウッド監督は、ハリウッド映画では珍しく映画ファンには知名度の低いミュージカル舞台俳優を起用。2005年ブロードウェイのオリジナルキャストで主役のフランキー・バリを演じてトニー賞受賞経験もあるジョン・ロイド・ヤングをはじめ、作詞作曲及びキーボードのボビー・コーディオ(エリック・バーガン)、ベースのニック・マシ(マイケル・ラマんダ)など四人のうち三人までもがオーストラリアやラスベガスの舞台でそれぞれの役をこなしてきたベテランミュージカル俳優たち。わずかにトミー・デビートだけが多少知名度のあるテレビ俳優で映画経験もあるビンセント・ピアッツアが演じている。
脇にはフランキーの守護神でマフィアの親分を演じるベテラン俳優のクリストファー・ウォーキン、作曲家としてのボビーの才能を発見するジョー・ペシ(そ、あのジョー・ペシ!)を演じるジョーイ・ルソが映える。
イーストウッド監督は、歌える俳優を起用したことをフル活用し、バックミュージシャンを使ってシーンで歌われる歌は生で録音したんだそうだ。フォーシーズンズの四人のハーモニーは抜群で主役のロイドヤングの声はフランキーそっくり!高音のフォルセットが凄く冴えてる。
映画全面を通じてヒットに次ぐヒットを飛ばしたフランキー・バリとフォーシ−ズンと後にバリがソロとなってからのヒット作が映画の進行とともに流されるが、それぞれの曲がその時のムードにぴったりはまっていていい。
今の若い世代はフランキー・バリなんて聞いた事がないかもしれないが、シェリー,ビッグガールズドンクライ、ウォークライクアマン、キャントテイクマイアイズオフオブユーなど、彼の歌は今でも歌い続けられているので、バリが歌ったとは知らずに耳には馴染みのある曲が多いはず。
映画のテーマは四人の音楽活動だけでなく、最年長でフランキーを実の弟のようにかわいがっていたトミーとその幼なじみのニックの三人の深い友情が根底にある。若い頃から指導力があり行動的なトミーは自然とグループのリーダー及びマネージャーのような役割を果たしグループの金銭の取り扱いもしていた。だが、トミーは若い頃からチンピラで常に怪しげな商売をしては刑務所を出たり入ったりしてきた前科者。フランキーやニックが契約書など交わさず何でもジャージーのやり方だと言って握手だけして、何もかもトミーに任せっきりにしてきたことが後になって大きな問題を引き起こすことになる。
幸いにしてトミーの友達のジョーイの紹介で最後に加わったボビーは、同じニュージャージー出身でもちょっと毛色の違う人種。他の三人と違ってマフィア文化とは無縁だし教養もあり作曲の才能だけでなくビジネスの才能もあった。ボビーはグループとは別にフランキーと作曲家とソロ歌手としてのパートナー契約を結ぶ。この契約が後にトミーが引き起こす膨大な大借金からグループを救うこととなる。
私はフォーシーズンズ及びフランキー・バリの歌のほとんどをボビー・コーディオが書いていたとは全く知らなかった。トミーとニックは幼なじみだし、それぞれ多少の才能はあったとはいえ、グループのメインはフランキーとボビー。トミーの借金問題でトミーとニックが抜けてグループが解散した後も、この二人がずっとパートナーとして継続できたことは音楽ファンにとっては非常に幸運なことだった。
主役四人の歌唱力は申し分ないが、トミーのビンセント・ピアツアの演技はさすがである。多少音楽才能はあるとはいえ、所詮チンピラなやくざとしての域を抜けきれない哀れな男。この役だけは映画経験のあるピアツアを起用したクリントン監督の意図は理解できる。
ところで元が戯曲だから映画でも舞台の雰囲気があちこちに漂っている。例えば四人がそれぞれカメラに向って本音を話かけるシーンなどはシェークスピア風。最後に登場人物が集まって踊ったり歌ったりするのも舞台のカーテンコール風で思わず「ブラボー」と歓声を上げたくなった。この映画には絶対にアカデミー賞を取ってもらいたい。これでロイド・ヤングがアカデミー主演男優賞を取ったら、彼はトニーとアカデミー両方で同じ役で主演男優賞を取ることになる。非常に興味深いことだ。


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宮崎監督の飛行機への愛が政治を超えた風立ちぬ

日本ではすごい人気だったという宮崎駿監督の「風立ちぬ」が近所の映画館に来ていたので観て来た。私は昔から「隣のトトロ」の大ファンでお風呂場はすべてトトロモチーフにしているくらい。ただ、監督の宮崎氏はかなり左寄りの思考で「もののけ姫」とか「千と千尋の神隠し」などは彼の左翼リベラル特有の環境保全思想が全面的に出過ぎていて、映画全体がお説教ぶっていて嫌だった。また宮崎氏が護憲法9条派であることも有名なので、零戦の設計者である堀越二郎の人生を描くとなると、やたら反戦のプロパガンダを聞かされるのかなと心配だった。しかし映画では堀越二郎は戦争に加担した悪人としてではなく、単に航空科学に熱烈な情熱を注いだエンジニアだということだったので観に行くことにした。
宮崎の映画では、背景描写の細やかな美しさにはいつも心を打たれる。特に監督が育った昔の日本を描写する時、実際その時代を生き、その場を愛した監督の気持ちがひしひしと伝わってくる。この映画も例外ではない。堀越二郎が育った大正時代の田舎町。泥道を行く馬車や川を行く小舟の数々。風ぞよめく広大な草原。確かにここなら、美しい飛行機を作りたい少年が夢を見られるかもしれないと思う。この草原で少年二郎は尊敬するイタリアの設計技師カプローニに白昼夢のなかで出会う。実際に二郎がカプローニにあったことがあったのかは解らないが、カプローニは映画のところどころで二郎の幻想として登場する。
人気映画なのでいまさらあらすじをご説明するまでもないと思うが、特に説明するような筋というものもない。堀越二郎という大正時代から昭和の戦争前夜に活躍した天才的な航空科学技師の少年から青年期を描いたもので、あちこちで二郎がスライドルールを使って(計算機など無い時代)飛行機の設計に没頭している姿が全体的にまったりなペースで描かれる。
愛妻奈緒子とのラブストーリーも二郎の飛行機への愛とだぶる。二郎と奈緒子が紙飛行機を投げ合って遊びながら二人の愛は深まる。結核に病む病弱な奈緒子との明日をもしれない短い愛の暮らし。横たわる奈緒子の手をつなぎながら夜遅くまで設計に励む二郎。
これを普通のアニメを期待していた子供が観ていたらかなり退屈してしまうだろう。この映画が日本で大人気だったというのはちょっと不思議だ。観客層はかなり高年層の人たちだったのだろうか。もし日本の若者がこの映画を本気で好きだったのなら、日本の若者はアメリカの若者達よりかなり集中力があるのだなと感心してしまう。なにせハリウッド得意の手に汗握るアクションの連続とはほど遠い映画だからである。
映画を通じて感じるのは宮崎の古い日本への懐かしい想いと飛行機への愛情である。自分の設計が戦争の道具に使われるという葛藤は二郎にはない。ナチスの台頭を目前にしたドイツへの訪問や国内で特高警察に睨まれたことなども割とさりげなく扱われ、二郎自身には全く政治色はない。戦争に加担した主人公の罪を無視しているという批判もあるらしいが、宮崎が堀越二郎の伝記を反戦プロパガンダに使わないでくれたことに私は感謝している。その誘惑は多いにあったはずだから。
だいたい世界恐慌まっただなかの日本で飛行機設計技師が勤められる分野といえば防衛関係なのは当たり前。旅客機など無い時代だ、お得意さまが軍隊なのは自然の成り行き。第一、日本人技師が自分の設計が日本の国防のために使われることに誇りこそ感じるにしても、違和感を持つ方がおかしい。
ただ政治色云々より映画としては今ひとつかなという気はする。二郎が東京で関東大震災に出会うとか戦争を目前にするという背景はあるが、二郎自身の人生はそれほど波瀾万丈ではなく、これといった出来事が起きない。愛妻の奈緒子をはじめ、幻想の世界のカプロー二、三菱の上司黒川や同僚の本庄、妹の佳代やドイツ人のカストルプなど、面白い登場人物に囲まれてはいるが、二郎自身が秘密警察に逮捕されたわけでもないし、偉大なる設計士との感動的な出会いもない。ドイツでの研修旅行もエンジニアの一行として同行したような気分になった。
さて、面白い効果として、何故か関東大震災や飛行機のエンジンやプロペラの音響効果がすべて人の声でされている。また背景描写が非常に現実的であるにも拘らず、登場人物の描写は漫画的な質素さがあり、ところどころぎくしゃくとしていて、これにもちょっと違和感がある。
英語版で観たので英語の声優については、二郎役のジョセフ・ゴードン・レビットの淡々とした口調はエンジニアの二郎にはぴったりだ。黒川を演じたマーティン・ショートが択一。ロード・オブ・ザ・リングスでフロドを演じたイライジャ・ウッドが曽根という役で登場したらしいが、全く印象になかった。二郎は奈保子とフランス語を話したりドイツではドイツ語を話したりしているが、日本語版ではどのようにしたのだろう?またカプロー二のイタリア語訛りはどんなふうに演じたのか興味あるところだ。
「隣のトトロ」や「魔女の宅急便」には及ばないが、説教じみずに飛行機への愛を語ったと言う点でまずまずの出来といったところか。


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アメリカ軍人の武勇伝ローンサバイバーが大人気なのは何故か?その謎を探る!

去年の12月に公開され、日本では三月公開の「ローンサバイバー」あえて訳すなら『孤独な生還者』なんてどうかな?アフガニスタン戦争中に実際にあった戦闘を元にしたアメリカ海軍誇るシールチームの武勇伝。制作費も低く地味な映画なのにも拘らず意外な人気で大入り満員。封切から四週間も全米売り上げナンバー1の座を保った。それにしても人気がないはずの戦争映画なのに、こんなにも人気があるのはいったい何故? 今日はその謎を探ってみよう!(とドキュメンタリーテレビの冒頭みたいな台詞を書いてみた。)
この映画のあらすじは、実はカカシ自身が書いた2007年にマーカス・ルテレル原作本を読んだ時のエントリーがあるので引用しよう。(ネタバレあり!)

たとえばこの状況を読者の皆さんはどう判断されるだろう。アフガニスタンの山奥にテロリストのアジトがあるので偵察に行って来いと命令を受けた海軍特別部隊シール4人が、偵察中に羊飼いの村人三人に出くわした。戦闘規制では非武装の非戦闘員を攻撃してはいけないということになっているが、彼らの顔つきから明らかにアメリカ人を憎んでいる様子。シールの4人はこの三人を殺すべきか開放すべきか悩んだ。開放すれば、仲間達に自分らの任務を知られ待ち伏せされる可能性が多いにある。かといって、キリスト教徒としてまだあどけない顔の少年を含む一般市民を殺すのは気が引ける。第一タリバンかどうかもわからない市民をやたらに殺したりすれば、殺人犯として帰国してから裁判にかけられる可能性は大きい。シールたちはどうすればよかったのだろうか?

結論から言わせてもらうと、シールたちは殺すという意見が一人で、もう一人はどっちでもいい、他の二人が殺さずに開放するという意見で羊飼いたちは開放された。そしてその二時間後、シール4人は200人からのタリバン戦闘員たちに待ち伏せされた(中略)(生還者は後に)「どんな戦略でも、偵察員が発見された場合には目撃者を殺すのが当たり前だ。それを戦闘規制(ROE)を恐れて三人を開放したことは私の生涯で一番の失態だった」と語っている。

イラク/アフガン戦争中には、戦争を描いた映画がいくつか作られたがどれも不入りだった。それでハリウッド映画業界では、ブッシュ政権下の戦争がアメリカ国民の間で不人気なため、これらの戦争を描写した映画も不人気なのだという結論がくだされた。しかし、彼らが一つ見落としていた大事な点がある。それは、どれもこれも反米映画だったということだ!!
いったいどこの誰が金を払って自分の国をけちょんけちょんに貶す(けなす)映画など観に行くか?
これについてはカカシも過去に幾つか書いて来た。
学習力ないハリウッド、「ストップロス」反戦映画がまたも不入り
反戦映画が不入りなのは何故か
悲劇的な封切り、ディパルマ監督の反米映画「リダクテド」
今回の映画が好評なのは、悪者はタリバン、正義の味方はアメリカ軍、とはっきりしているからだろう。そして二百人からの悪者に囲まれながらたった四人で数時間に渡り闘い続け相手をほぼ全滅させたという快挙がアメリカ人の正義感を振り起こすからだろう。
映画は原作にほぼ忠実ではあるが、ただ時間の問題もあり、大事なシーンがかなり削られている。たとえば主人公のマーカスがシールになるための訓練をした数週間がオープニングのシーンで役者抜きの本物の訓練の模様が流れるだけ。それとタリバンとの熾烈な闘いの後に一人生き残ったマーカスが親米なアフガニスタン村民に助けられてからの時間もちょっと短過ぎる。本ではもっとアフガンの村に行ってからの描写がされており、村人たちとの交流も詳細に書かれている。映画ではこのあたりのシーンが足りない。また原作にはない戦闘シーンなどが加えられている。
映画に批判的な意見は、ほとんどが反戦主義の左翼リベラルたちによるもの。右翼のプロパガンダだとか戦闘を美化しているとか、ま、くだらないものだばかりだ。
特にLAウィークリー誌の載ったエイミー・ニコルソンの批評がひどすぎると、人気ラジオDJのグレン・ベックが旅費を負担するから自分の番組に出演して原作者で生還者のマーカス・ルテレル本人の前で言ってみろと番組で言うほどだった。
先ず彼女の記事は「バトルシップのピーター・バーグ監督の最新映画はプロパガンダまるだしのねつ造映画」と始まり、原作はルテレルの直筆ではなく、ルテレルがイラクに出動中、イギリスのゴーストライターが劇的にするために10人の敵を200人と書き換えたものだと続く。まったく何を根拠にこんな出鱈目を書いているのか。私はこの話だけでなくアフガニスタンやイラクでの戦闘がどのようなものだったか、かなり詳しく追っていた。
タリバンの戦闘員たちは重武装をし残虐であるとはいえ、その戦闘技術はアメリカ軍のエリートシール隊とは比べ物にならない。アメリカ兵ひとりあたり20から30人のタリバン戦死者が出るなんて言うのはごく普通に起きていた。何故かと言うとタリバンたちのやり方は物量作戦。つまりむやみやたらに突撃してくるだけで作戦がない。守り体制にあるアメリカ兵たちからしてみたら射撃しやすい状態にある。とはいえ、たった4人対200人ではいくらアメリカ兵が有能でも圧倒的に不利。救援なしではいずれは負ける。当時の戦闘状態を把握している人ならルテレルの記述はさほど大げさとは思えない。それを敵がたった10人だったなんて馬鹿なことが言えるのはニコルソンがどれだけアフガニスタン戦争を解っていないかという証拠だ。
彼女はアフガニスタン戦争はアメリカが勝手に始めた茶色人悪白人善という感情の戦争に地元民が巻き込まれただけという書き方。そして戦地に送られたシールたちもまた政権による犠牲者なのだと言いたいらしい。ま、ウィークリーみたいな零細新聞なんかに書いてる批評家の書くことなんか気にしてもしょうがないが、左翼リベラルの批評なんてのは往々にしてこんなもんだ。
ニコルソンはベックの番組で取り上げられたことで、誰も読まないウィークリーを読んだ退役軍人や家族たちからツイッターで非難囂々。軍人について何もしらないニコルソンが軍人たちの意見を聞くのもジャーナリストとしての勉強になるかもしれない。ま、無理でしょうけどね。


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メリーポピンズが救いに来たのは誰?父親像のあり方を描いたセイビングミスターバンクス

先日ディズニー映画、セイビングミスターバンクス(邦題『ウォルトディズニーの約束』日本公開2014年3月21日)を観た。予告編を観た時は、それほど面白そうな映画ではなかったので期待していなかったのだが、封を開けてみたら予想以外に非常にいい映画でちょっと驚いた。
これは1964年のミュージカル映画「メリー・ポピンズ」制作時の裏話なのだが、ウォルト・ディズニー(トム・ハンクス)が原作者のパメラ・L・トラバース(エマ・トンプソン)女史から映画製作権利を取得するため20数年に渡って女史を口説き落としたという話は有名。映画は、そのトラバース女史がいよいよ台本制作を監督するためロサンゼルスにやって来るという設定で、トラバースの非現実的な要求や我が儘で傲慢な態度に脚本家のドン(Bradley Whitford)や音楽担当のシャーマン兄弟(B.J. Novak、Jason Schwartzman)が四苦八苦するという話。
本当のトラバースが非常に難しい人だったというのは悪名高く、写真で観る限り顔も常にしかめっ面のおっかなそうなオバさんだ。映画はトラバースの子供時代にオーストラリアで育った頃の話とだぶり、銀行員だった父親(Colin Farrell)がミスターバンクス、父親が病気になってから助っ人として遠く東から訪れた伯母(母親の姉)のエリー(Rachel Griffiths)がメリー・ポピンズのモデルになっていることが示唆される。
ディズニーがトラバースをスタジオに招いた時、ディズニーがこの映画を作りたいのは昔娘と交わした約束にあると話をする。
「娘との約束はまもらなければなりません。どれだけ時間が経とうと。それが父親というものですよ。」
というようなことを言うと、トラバースは「そうでしょうか?」と意味深に答える。
私は原作を読んだことはないが、原作を読んだミスター苺にいわせると、メリー・ポピンズは決して好感を持てるような女性ではないという。映画のなかでもパメラは、ディズニー映画のメリーが優し過ぎると抗議。メリー・ポピンズは子供達に現実社会の厳しさに打ち勝つよう厳しくしつけをしなければならないのだと強調する。そして映画自体が音楽やアニメなども含め楽観的過ぎることに大きな不満を見せる。
ディズニーはパメラがこういうきつい性格になった原因はパメラがヘレン・ゴフ(パメラ・L・トラバースの本名)だった子供の頃の苦労にあるのではないかと判断する。
回想シーンに現れる父親のトラバース・ゴフはアル中で娘のヘレン(Annie Rose Buckley、パメラの本名はヘレン・ゴフ)につらい想いをさせる。実際にパメラの父親は銀行の支店長だったのに途中で窓口に降格されてしまったという過去があるので、娘のヘレンが父親に失望したことがあったのは確かだろう。しかしそれでも父親を愛していたことは、ペンネームに父親の名前をつかったことや、ドンとシャーマン兄弟が描いたミスターバンクスの性格にミスターバンクスが意地悪過ぎると半泣きで抗議する場面で顕著に現れている。
英語題の「セイビングミスターバンクス」は「バンクスさんを救う」という意味。家族を救いに来たオバのエリーはパメラの父親を救うことは出来なかった。
「メリー・ポピンズが救いにきたのは子供達ではない。ミスター・バンクスなんだね。」
とウォルト。ウォルトがパメラに自分の厳しかった父親の話をするシーンは感動的で涙が止まらない。ウォルトは父親を愛していたと同時に父親の厳し過ぎる仕打ちを憎んでいた。ウォルトはパメラに子供時代に苦労したのは彼女だけではない、いつまでも過去の悲しみに執着していてはいけないと語るのである。
エマ・トンプソンはトラバースの難しい性格をかなりよく演じていると思うが、実際のトラバース女史はもっと偏屈だったらしい。トンプソンのトラバースは偏屈ながらも好感の持てる作家として描かれている。(それに本人よりずっと美人だし、、、)
ところで、邦題の「ウォルト・ディズニーの約束」というのは非常に良い題名だと思う。バンクスさんを救うでは日本語としてはちょっとおかしい。ディズニーが娘と交わした約束という情熱が最後には実を結んだのであるから、これは非常に適格な題名だ。意味の解らないカタカナ名が多いなか、満足のいく邦題である。
題材はメリー・ポピンズでも映画の内容は大人向け。地味だが非常に感動的な映画である。是非お薦めする。


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暴力なし、セックスなし、SFなし、大人の映画ゼロ・グラビティーが大人気

久しぶりに大人向けの映画を観た。邦題はゼロ・グラビティ(無重力)(日本12月公開)。この映画はいまアメリカで売り上げナンバー1の映画である。しかも35歳以上の大人に人気があるという。登場人物はたったの五人、しかも顔が出てくるのは二人だけであとの三人は声だけ。悪者が出て来る暴力シーンもなければ主役二人の男女のセックスシーンもない。完全に現代の科学に基づいており、宇宙人も出て来ないしト大型ロボットも出て来ない。にもかかわらず二週間続けて売り上げナンバー1というのはどういうことなのだろうか?
あらすじといっても特にない。それというのも、スペースシャトルの乗組員の三人がシャトルの外で修理に当たっていた時、突発的な事故によってジョージ・クルーニー演ずる宇宙飛行士マット・コワルスキーとサンドラ・ブロック演じるペイロードスペシャリスト(スペースシャトルの搭乗科学技術者。積み込まれた実験装置や観測装置の操作および実験を担当する専門職の宇宙飛行士)ライアン・ストーン博士だけが生き残り、そのあとなんとかして二人が生きて地球に戻ろうとする冒険が描かれているだけだからなのだ。映画の説明をこちらから引用させてもらうと、、

予告編の冒頭で映し出されるのは宇宙空間から見た美しい地球の姿。そこではスペースシャトルが地球を周回しており、メディカル・エンジニアのライアン・ストーン博士(ブロック)とベテラン宇宙飛行士マット・コワルスキー(クルーニー)は船外でミッションを遂行している。しかし、突発的な事故が発生し、ふたりは無重力(ゼロ・グラビティ)空間に放り出される。映像は、突発的な状況に直面しパニックにおちいる主人公ふたりの動揺を生々しくとらえ、衝突によって大破した機器が宇宙空間に拡散してく映像が緊張感を高める。やがて訪れるのは助けの声さえも届かない漆黒の闇。映画は、地球との交信手段も絶たれ、酸素残量が2時間になってしまった状態から生還を試みるふたりの姿を描くという。

この映画の魅力はコワルスキーとストーンがいかにして生延びるかと苦心して様々な現実的な作戦を試みるところにある。無論実際に彼らのしたことが可能かどうかは疑問だが、それでもあり得ると観客に思わせるところが味噌だ。
コワルスキーはベテラン飛行士だが、ストーンは科学者で飛行士ではない。最初にシャトルから引き離されて宇宙に放り出された時の彼女のパニックぶりは非常に理解出来る。全くスケールは違うが、私が何年か前にカーンリバーの濁流下りをした時、ボートが転覆して濁流で何回転もした時のことを思い出した。無重力状態では摩擦がないから回転しだしたら止まらない。自分がそんな目にあったらあのくらいのパニックでは収まらないだろうと思う。
それでも彼女はコワルスキーにおんぶにだっこで頼り切るわけにはいかない。生存者はたったの二人きり。ベテラン飛行士とはいえ、コワルスキーは二人分の責任をすべて背負い込むことはできないのだ。それに気づいて自分でも気づかなかった予想外の勇気を奮い起こす彼女の姿は凛々しい。
宇宙の冷酷ながらも美しい映像描写はすばらしい。映画は普通版と3D版とがあるが、3D版をおすすめする。他の映画では意味もなく3Dのものが結構あるが、この映画は自然に3Dを駆使しており、充分に観る価値がある。
この映画がこれほどまでに人気を呼ぶということは、ハリウッドがどう思おうと、ティーンエージャー向きのアホな映画ばかりで大人の観客は内容のある大人の映画に飢えているということだ。ハリウッドにはこれに学んで内容の濃い大人の映画をもっと作って欲しいものだ。


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人気スターに恋をした哀れなボーイトーイの悲劇:ビハインドキャンデラブラ

1930年代後半から1980年代半ばまでポップなピアノ奏者として人気スターの座を保ったリベラチというエンターテイナーと、その同性愛人スコット・ソーソン(Scott Thorson)との6年にわたる関係を描いたのがこのHBO映画”Behind the Candelabra“(「燭台の背後に」の意。邦題は「恋するリベラーチェ」)である。題材はソーソンの同名の自叙伝からとったもので、舞台となるのはリベラチが人気ディナーショーをやっていた頃のラスベガス。スコットとリベラチが出会った1977年からリベラチが死去する1987までが描かれている。
リベラチは日本ではあまり知られていないが、クラシック音楽を一般大衆にも受け入れられるようにポップなアレンジで軽快に弾くスタイルが人気を呼んで、1950年代には「ザ・リベラチ・ショー」という大人気テレビ番組に出演していた。その後もコンサートやリサイタルやテレビゲスト出演など色々と活躍していたが、1970年代にはラスベガスヒルトンやレイクタホで毎晩大入り満員の豪華絢爛なディナーショーを繰り広げていた。スコットがリベラチに会ったのはこの頃のことで、1977年に友人にラスベガスのショーに連れて行ってもらったのがきっかけだった。リベラチが57歳、スコットが17歳の時だった。
昔からリベラチが同性愛者だという話は囁かれていたが、50年代から70年代のアメリカで同性愛を公認するのは難しかった。一度リベラチはゴシップマガジンに同性愛をすっぱ抜かれて反対に雑誌社を訴え勝訴したことがある。にもかかわらずリベラチの同性愛嗜好は公然の秘密だった。ま、リベラチのパフォーマンスを一度でも観たら、彼がホモなのは一目瞭然だから仕方ないだろう。
ミスターショーマンシップと呼ばれた中年太りのリベラチを演じるのは名俳優マイケル・ダグラス。そのずっと若い愛人役のスコットにマット・デーモン。二人ともマッチョでタフガイのイメージがあり、なよなよなホモのリベラチや美少年スコットのイメージとはほど遠いのだが、さっすが名俳優だけあって二人の同性愛ぶりには説得力がある。
ゲイバーでスコットと知り合いリベラチとの間をとりもった友人のボブ・ブラックを演じるのはクォンタムリープやスタートレックでおなじみのテレビ俳優スコット・バキュラ。実はずっと映画をみていてボビーを演じているのがバキュラだと言うことに全く気がつかなかった。バキュラは身体も結構大きくてかなりの男前なのだが、70年代風の長髪が異様に似合って当時のゲイのイメージがよく出ている。
この話はスコットの体験談が題材となっているので、スコットとリベラチとの関係はリベラチに居た無数の愛人たちとのうすっぺらな関係とは違うということが強調されている。スコット自身は二人は愛し愛される特別な関係にあったのに、最後にはゴミのように捨てられてしまったと悲劇のヒロインを気取っている。だが、実際に二人の関係が他の愛人とくらべて特別なものだったのかどうか、これはかなり疑問である。
スコットがリベラチのお気に入りとなって有頂天になっていた当初から不幸な結末の予兆はいくらもあった。スコットが初めてリベラチの楽屋を訪れた時、リベラチの取り巻きに混じって一人苦虫をかみつぶしたような顔でひたすらむしゃむしゃ昼飯を食っていた男がいる。これはスコットがリベラチと住むためボストンバッグを持って現れたのと入れ替わりに出て行ったリベラチの愛弟子ピアノ奏者のビリー(シャイアン・ジャクソン)だった。
出口でビリーのはめていた金の指輪を外させたのはリベラチの忠実なマネージャー、シーモア(ダン・アクロイド)。リベラチのハウスボーイのカルーチ(ブルース・ラムジー)からも、スコットは「お前が最初じゃない、これまでにも何人も来ては去って行った、いずれシーモアから電話で、もう君は必要ないと宣告されて終わるのさ。」と忠告を受ける。
スコットはカルーチの言葉やシーモアが自分に向ける軽蔑に満ちた視線に腹を立てながらも、自分がいつかは別の若い男によってお気に入りの座を奪われることを常に恐れていた。リベラチの愛情を保つためリベラチに言われるままに整形手術を受けたりもした。この整形外科医のジャック・スターツを演じるロブ・ロウの演技が傑作。彼にはコミックアクターとしての才能があると思う。リベラチからスコットの顔を若い頃の自分に似せて欲しいと依頼を受けた時のロブ・ロウの間の取りかたは最高だ。
スターツ医師から処方された痩せ薬や手術後の痛み止めなどがきっかけで、スコットはどんどんと麻薬にとりつかれていく。リベラチから家を買ってもらい、車を何台もあてがってもらい、毛皮のコートや金の指輪等の贈り物をいくらも貰っていながらも、自分がいつかは捨てられるという恐怖からなのか麻薬中毒になっていく。だがスコットが麻薬に溺れれば溺れるほどリベラチの心は遠ざかって行く。リベラチを失いたくないという気持ちから麻薬に走り、それがかえってリベラチを遠ざけてしまうという悪循環がここで生まれる。
この映画はリベラチとスコットのラブストーリーということになっているが、実際にリベラチがスコットを特別に愛していたのかどうかは解らない。ただ他の愛人たちよりは時間的に長い付き合いだったということもあるし、別れた後のリベラチの気前のいい慰謝料から考えて、リベラチはスコットのことを実際に愛していたのかもしれない。
だが、自分には全く才能もなく、ただ綺麗で若いというだけのスコットがいずれはリベラチに飽きられてしまうと恐れるのは当然のことだろう。しかしそうと解っていたのなら、麻薬におぼれるなど自虐的な行為に走らずに、限られた時間内でのリベラチの愛情をもっと育むべきだったのではないか?それをせずに与えられたこずかいを無駄使いして、捨てられたら慰謝料を目当てに訴訟をおこすなど、はっきり言って愛情を持っていた愛人のする行為とは思えない。
実際のスコットは現在他人のクレジットカードを違法に使った罪で刑務所に入っている。本気でリベラチを愛していたのかしれないが、リベラチ側はスコットは麻薬中毒の行き過ぎでリベラチの宝石などを盗むようになっていたと語っていた。そうした姿は映画では描かれておらず、ボーイトーイとして遊ばれた無能なゲイボーイの哀れさをマット・デーモンは見事に演じている。


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活劇が多過ぎて目が回るホビットの思いがけない冒険

今夜の映画はJRRトールキン原作、ピータージャクソン監督の指輪物語(ロードオブザリング)の前編である「ホビットの冒険」の第一話「ホビットの思いがけない冒険」である。

カカシがこの原作を初めて読んだのは20年くらい前だが10年くらい前に読み直した。そして5〜6年前に今度は日本語でも読んでみた。ま、そういうわけだから原作には結構くわしいつもり。

原作を知らない人は、ジャクソン監督のロードオブザリングの前編だから、ロードと同じような雰囲気の作品を想像するかもしれないが、実はホビットは子供向けの小説として書かれたものなでロードとは全く違う代物だ。それに原作が三部作という長編のロードに比べ、ホビットは子供用の短い一冊の小説(邦訳は上下二冊)。ジャクソン監督はロードの成功を再現させようとホビットも三部作にしたようだが、ちょっと無理があるように感じた。

物語はロードでホビットのビルボ・バギンス(イアン・ホルム)が甥のフロド(イライジャ・ウッド)にバッグエンドと呼ばれる自分の家を託して110歳の誕生日に姿を消したあの運命の日から60年前の回想録として始まる。居心地のいいバッグエンドで刺激のない自適悠々な暮らしにすっかり満足していた若い(50歳!)ビルボ(マーティン・フリーマン)が自慢の家バッグエンドの前で煙管(キセル)タバコをふかしているところへ突然魔法使いのガンダルフ(イアン・マケラン)が現れる。ビルボに冒険の旅に出る気はあるかと、なにやら不思議なことを言い残して去って行ったガンダルフだが、翌日の晩、バッグエンドには続々と予期せぬ客たちが現れる。現れたのは見知らぬ小人たちで、口々に自己紹介をすると「どうぞよろしく」と言ってあたかも招待された訪問客のようにビルボの家のなかにずかずか入って来てビルボが慌てて出す食事をがつがつと食べ始める。

実は、こうやってビルボの家に現れた13人の小人達は、大昔に竜に奪い取られた小人の王国を取り戻そうと冒険を計画している勇士らで、冒険に参加する14人目の勇士に会うためにガンダルフの紹介でバッグエンドに現れたのだった。しかもその14人目の勇士というのが自分だと知ったビルボはびっくり。小人達にビルボは「忍びの者」として有名だとガンダルフから聞いていると言われ、またまたびっくり。とまあ色々あってビルボは13人の小人達とガンダルフと一緒に冒険の旅に出る事になる。

映画は、この冒頭のシーンから途中でトロルに出会うとこくらいまでは結構原作の筋に沿っている。特に小人達がビルボの家で飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎをするところや、小人の王子トーリン(リチャード・アーミテージ)が昔を忍んで歌を歌うシーンは感動的である。

しかしながら、原作の冒険だけだと戦いのシーンが少な過ぎるとでも感じたのか、ジャクソン監督はトーリンの祖父の時代にゴブリンと大戦争をした回想シーンや、オークらに追跡されるシーンを加えたりで、とにかく格闘に続く格闘で忙しいったらない。しかも3Dということで、やたらにカメラワークが激しく目が回る。私は3Dでは観なかったが、3Dで観たひとたちは乗り物酔いのような気分になったと語っていた。

原作の良いところは、冒険など性に合わないと言っていたビルボが腕力ではなく機転を効かせてあらゆる場面でドワーフ達を危機から救うところにある。映画でもビルボが頭を使って危機から脱出する場面は非常に良い。特にゴラム(アンディ・サーキス)との運命的な出会いやビルボが指輪を発見するいきさつなど、原作に忠実な場面は非常に面白い。

ロードを観た時、是非ジャクソン監督にホビットも作ってもらいたいと思った。そしてその際にはイアン・ホルム主演でイアン・マケランのガンダルフにアンディ・サーキスのゴラムが適役だと思っていた。しかし若いビルボを演じるマーティン・フリーマンは非常にいい。ホルムがもっと若かったら是非とも若いビルボも演じて欲しかったのだが、フリーマンの演技も味があるのでこれは良い配役だと思う。

エルフの村リバンデールでエルロンド(ヒュー・ウィービング)やサルマン(クリストファー・リー)やガラドリエル(ケイト・ブランシェット)達が集まって会議を開くシーンは映画ファンとしてはうれしい再会ではあるが、原作にはなく、よって話の展開にはあまり意味をなさない。
ビルボの出て来るシーンは原作に沿っていて面白いが、ドワーフ達の格闘シーンは後で加えたものだけに筋が進まず時間稼ぎという感が拭えない。ただ、それぞれのドワーフ達の個性が出ているし演技もすばらしいので、それはそれなりに観る価値はある。

ただ、ジャクソン監督は英雄的な格好いい役柄が必要だとでも思ったのか、アーミテージのトーリンは小人としてはちょっと恰好良過ぎるし、若いフィリとキリを演じるディーン・オゴーマンとアイダン・ターナーはティーンエイジアイドルみたいで可愛いすぎる。

と色々批判はあるが、全体的には面白い映画だと思う。私はすでに二回観たが、二回目の方が面白く感じたので、一応おすすめ。


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ヒュー・ジャクマンの歌唱力が冴えた映画レ・ミゼラブル

最近のハリウッドのミュージカルというと、主役に歌えない役者を使うことが多くてブロードウェイミュージカルが映画になると舞台ファンの間から「映画では良さは解らない、舞台をみなくっちゃ、、、」と言われることが多かった。しかし今回のレ・ミゼラブルに関しては主役陣の歌唱力には往々にして満足した。ただ全体的に映画としての演出が先きだって、肝心の歌が多少犠牲になった感がある。二時間半という長さも、舞台とちがって休憩が入らない映画としてはちょっと長過ぎたかも。
私が子供の頃、初めて読んだ大作といえば原作のビクトル・ヒューゴーの「ああ無情」。当時の私はフランス文学に凝っていて、なかでも少女コゼットがジャン・バルジャンに救われるシーンが好きで何度も読み返した記憶がある。
舞台は革命が終わり、ナポレオン時代も終わり、再びルイ王邸が仕切る復古時代の仏蘭西。青年の頃に飢える妹の子供達のためにパンを盗んだ罪で5年の刑に処されたジャン・バルジャンは拘束中に何回か脱走を企て失敗し刑期が加算され、結局合計19年もの長い間囚人奴隷として拘束されてきた。そのジャン・バルジャンがやっと刑期を終えて保釈される。だが、前科者のジャンに職を与えてくれる人などおらず、あちこちを彷徨ううちにとある教会にたどり着く。親切な神父によって一晩の宿を与えられたジャンは教会の銀の燭台を盗んで逃走。すぐに地元の警察に取り押さえられ教会に連れ戻されるが、そこで神父は燭台は自分がジャンにあげたものだと言ってジャンを弁護。恩を仇で返した男にそこまで慈悲をみせてくれた神父の親切さにうたれたジャンは、心を入れ替えて善人になると神に誓う。
レ・ミゼはミュージカルというよりオベラである。中で台詞はほとんど入らず全てが歌。踊りはない。よって踊りの好きな軽いメッセージのミュージカルが好きな私としてはちょっと苦手なタイプ。大昔にブロードウェイのコンサート版を観た時の印象はオペラとしては音楽が貧弱だが、ミュージカルとしては楽しみに欠けるというあまり好意的なものではなかった。
しかし映画版の方は、主役のジャン・バルジャンを演じたヒュー・ジャクマンが良いからなのか、舞台版より良かった思う。ジャクマンが歌えることは以前からサンセットブルバードなどでも聴いていたので知っていたが、力強く歌う「裁き」も最後の方でつぶやくように同じ歌を歌った時も非常によかった。彼の演技には泣いてしまった。
映画はジャン・バルジャン及び囚人奴隷たちが大型の船を造船所に引きつけるところから始まる。これは映画ならではの壮絶なシーン。
ただ、映画ということで演出と演技に重点を置くあまり、全体的に歌の迫力が犠牲になったように思う。特に職を失って娼婦に身を落としたフォンティーヌ(アン・ハサウェイ)の「夢破れて」は、あまりにもつぶやきすぎで歌という感じがしない。フォンティーヌは瀕死の病人なので、あまり元気に歌うのもなんではあるが、普通の人間が歌を歌うということ自体がすでに不自然なのであるから、もう少し元気よく歌っても良かったのではないかと思う。特にこの歌は有名だし他でも多くの歌手が歌っている事でもあり、もう少し歌らしく歌ってほしかった。
同じことがフォンティーヌの娘コゼット(アマンダ・セイフライド)と一緒に育った里親夫婦の実の娘エポニーヌ(サマンサ・バークス)の歌う「オンマイオン」でも言える。
歌についてもうひとつ苦情があるとしたら、仮釈放の規則を破ったジャン・バルジャンを執拗に追いかけるジャベール刑事を演じるラッセル・クローの歌唱力は他の役者の歌がうまいこともあってかなり劣る。ラッセル・クローは好きな役者だし彼の演技は申し分ないのだが、ジャベールは非常に大事な役なので、やはりもっと歌のうまい役者を選ぶべきだったのではないか。
旅館経営者のティナルディエ夫妻(サーシャ・バロン・コーヘン、ヘレナ・ポナム・カーター)の「宿屋主人の歌」は舞台ではショーストッパーになる歌なので期待していたのだが、ここでもティナルディエ夫婦の小悪党ぶりの演出は上出来だが、歌そのものがよくきこえない。オペラは確かに演技もだが、なんといっても歌が主役だし、二人とも歌はうまいのだから、もっと歌唱力を前面に出してほしかった。
そういう面では革命派の若者達の歌はコゼットにひとめ惚れするマリウス(エディ・レッドメイン)にしろリーダー格のアンジョラス(アーロン・トヴエイト)にしろ得をしていると思う。なにせ役柄からして革命家を気取って勇ましく歌うことが許されるので、おもいっきりその歌唱力を披露することが出来るからだ。
マリウスとコゼットが出会うシーンでもデュエットはキズメットで王子とマシアーナが出会うシーンを思い出させるが、歌そのものはあまり印象深くない。原作ではコゼットはもっと重要な役なのだが、ミュージカルではエポニーヌのほうに重点が置かれている。
政治的には、私はフランス革命は大嫌いなので、革命派気取りの若者達には全く同調できない。彼らは今風のオキュパイヤーのようにただ理想に溢れただけのアホにすぎないからだ。しかし、原作でもミュージカルでも彼らを取り立てて美化してるわけではないので、そのへんは気に入った。
最後に死んだ革命派たちとジャン・バルジャンが赤い旗を翻しながら「民衆の歌」を歌うシーンは完全に余計だが、リベラルの多いブロードウェイとハリウッドの映画だから、そのへんはしょうがないだろう。


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最後の一滴の勇気、お説教じみた完全な右翼プロパガンダだけど、こんな映画もあっていいさ

本日の映画は”Last Ounce of Courage ラストオンスオブカレッジ“。あえて訳すならば「最後の一滴の勇気」という意味。ラジオで聞いた広告では、戦争で英雄として勲章までもらったことがある男が、息子が戦死し、その嘆きのあまり愛国心を見失って失望しているところへ、ずっと離れ離れに暮らしていた亡き息子の未亡人と10代の若者に育った孫息子が帰ってくる。孫との交流を通じて男は新たな戦いに挑む。戦いはもっと身の回りに近いところにあった。というものだった。
しかしこれが、最初は頑固だったおじいちゃんの気持ちが孫の真心が通じて温まるというような映画だと思ったら大間違い。実際はアメリカ人が忘れかけているキリスト教を基本とするアメリカの価値観を見直し、自由の国アメリカへの愛国心を奮い立たせようという宗教保守のプロパガンダ映画なのである!
以前に自分の言いたいことを頭ごなしに説教するような映画は、映画の作り方のなかでも最低のやり方だと聞いたことがあるが、まさにこれがそれ。プロパガンダは熟練している左翼リベラルの映画つくりみたいに、ロマンスとかアクションとかおもしろいストーリーの裏に隠して何気なく知らないうちにプロパガンダを説くなんて器用な真似は出来ない。
この「ラスト、、」ときたら、あまりにも不器用で、最初から最後まで宗教保守の価値観をかなづちを振り下ろすごとく、これでもかあ、あれでもかあ、と説教するのだ。最後のほうでは、なんと主人公のボブが孫のクリスチャンと一緒に重たい十字架をミッションの建物の上に引き上げ、逮捕寸前にビルの屋上で演説をぶったりする。ちょっと、あんた、そこまでやる?
であるから、映画の出来としてはかなりの素人芸だし、特撮は低レベルだし、ストリー展開もぎこちない。 役者の演技ときたら、見てらんないのから名演技まであって、かなりまちまちだ。だから、芸術としての映画を考えた場合、かなりひどい点数を取りそうな映画である。
し、か、し、プロパガンダもここまであからさまにやられると、かえって気持ちよかったりする。特に右翼や宗教保守のプロパガンダ映画は珍しいので、それなりの価値はあるだろう。
それに、悪者として出てくる左翼リベラルたちの描写が、あまりにも大げさで突拍子もなくてステレオタイプで、これじゃあまるでパロディじゃないの、と思わせるほどおかしいのだが、実はそれが的を射ていて笑えないのだ。
ボブの孫息子クリスチャン(名前からしてキリスト教徒!)が、転入したばかりの中学に父の遺品である聖書を持ち込み罰せられるシーンからして実際にありそうなことだし、市役所の敷地内に大きなクリスマスツリーを建てることが禁止されたり、市スポンサーのミッションから十字架が取り除かれたり、市主催のクリスマス祭りが冬祭りと改名されたりなど、すべて実際のアメリカ全国各地で起きている現状なのである。
映画の中で私がもっとも気に入ったのは、主人公ボブのクリスマスを取り戻そうキャンペーンよりも、中学で冬の学芸会にキリスト誕生のお芝居を復活させようと学校のドラマコーチの目を盗んで子供たちが陰謀を企む筋。題して「クリスマス大作戦」。この作戦の名前を考えるシーンでの子供たちの素朴な演技がほほえましい。
ドラマコーチの書いた冬のお芝居は宗教に関する言葉がすべて削除され、天使の変わりに宇宙人が出てきたりする。「清しこの夜」から宗教取り除いて何が残るんだ、と聞きたくなるが、この替え歌が笑える。また、このお芝居で歌ったり踊ったりする子供たちの演技は子供らしくてかわいい。実際に私はキリスト生誕劇中劇を全編みたいなとおもってしまったくらい。
クリスマスの映画を何でこの暑い9月に公開するのかといえば、もちろん11月の選挙を前に公開しておきたかったということだろう。そりゃそうだ、プロパガンダは世論に影響を及ぼすのが目的だからね。選挙前にやんなきゃ意味が無い。
ただ、選挙云々に限らず、亡き父をしのんで、孫息子のクリスチャンが祖父のボブに向かって尋ねるシーン、脚本を読んだわけではないので覚えている限り再現すると、、

「おじいちゃん、お父さんは何のために死んだの?」

「そりゃお前、お国のためだよ。」
「そうじゃなくて、何を守るために死んだの?」

と言う会話があった。
これはアメリカ人一人一人が尋ねる価値のある重大な質問だと思う。


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反オバマ映画『2016年オバマのアメリカ』が意外な反響を呼ぶ

今回は、ブログカテゴリーの映画と独裁者オバマの陰謀の両方に該当するトピックである。保守派作家のデニーシュ・デスーザ制作の反オバマ記録映画『2016年、オバマのアメリカ』が、限られた映画館で封切になったにも関わらず、金曜日の売り上げは全国一位になるという意外な人気を呼んでいる。
映画はドキュメンタリー風で、オバマやデスーザが若い頃の出来事を多少ドキュドラマ風にとらえ、母親違いの弟を含むオバマの昔の知り合いなどのインタビューとデスーザのナレーションで構成されている。オバマという政治家を批判する映画ということで、マイケル・ムーアの突撃取材映画を思わせるが、ムーアと違ってデスーザは政治学者なので、ムーアの意地の悪い嘘だらけの反保守映画と違って、論理建ててオバマを批判していて興味深い。
デスーザのオバマ論は、オバマ思想は国粋主義のファシズムでもなければヨーロッパ風の社会主義でもない。オバマの思想は反植民地主義であるというもの。そしてその根本はオバマが生き別れになったケニアの革命活動家の実父の思想にあるというのである。
映画はそのデスーザの説を裏付けるために、オバマの生い立ちを追い、オバマの実父の出身地ケニアやオバマが実母とその再婚の相手と暮らしたインドネシアに出かけて行く。
デスーザはインド出身でオバマとは同じ年。オバマ同様第三国家で育ったことから、幼少時代をインドネシアで過ごしたオバマの体験がよく理解出来ると言う。だが、インドという発展途上国の古いしきたりが嫌いでアメリカに移住したデスーザと違って、オバマは元植民地の革命精神に同調し、植民地主義を取って来たヨーロッパ諸国を忌み嫌っているという。
反植民地主義といえば、アメリカこそ、その最たるもののはずだ。アメリカは元々イギリスの植民地として作られ、イギリスから革命によって自由を勝ち取った国で、アメリカ自らは一度も植民地主義を持った事がない。だが、経済面でも軍事面でも、そして特に文化の面で、世界的に影響を及ぼす国ということでアメリカを帝国と批判する人は多い。特に少数民族の元植民地の人々はアメリカを白人の国と思い込み、イギリスやフランスと一緒くたにして憎んだりする。デスーザ自身、アメリカの大学へ行く事になった時、家族から「アメリカは白人ばっかだぞ」と脅されたと言う。
オバマは実の父に一度しか会ったことがない。にも関わらずオバマは革命家だった父の理想像を持ち続け、ずっと父に憧れていた。オバマの自叙伝の題名は「ドーリム・フロム・マイファザー」で『我が父からの夢』というもの。白人でアメリカ人の実母はバリバリの左翼革命主義者だった、そして自分と乳飲み子を捨てた夫を憎むどころか、その革命精神のすばらしさを常にバラクに教えていた。イスラム教徒のインドネシア人と再婚した母はバラクを連れてインドネシアに住むが、再婚相手が妻子を養うためにオランダ企業と契約し商売を始めたことで夫婦間に亀裂が生まれ、バラクはハワイの実家に戻され白人でバリバリ左翼の祖父母に育てられる。革命主義の実母は再婚相手が資本主義になったことが許せなかったのだ。
デスーザはオバマの青年時代に多いに影響を及ぼした革命家や、反アメリカ黒人牧師のジェラマイヤー・ライトなどについても述べ,いかにバラク・オバマが第三国家の虐げる帝国としてアメリカの自由主義を憎んでいるかを証明する。
私はこれまでにもオバマほどアメリカ嫌いのアメリカ大統領は初めてだと思っていたが、デスーザの映画を観ていて、なるほどそういうわけだったのか、と納得がいった。
デスーザは2008年のアメリカはバラク・オバマがどういう男か知らずに希望と変革という言葉に夢を託してオバマを選んでしまった。だが、今やアメリカはオバマの政策によってどれだけアメリカが傷ついたかを学んだはずだという。
オバマが再選されたら2016年にはどんなひどいことになっているか、アメリカ市民は今度の選挙で正しい選択をするだろうか?
デスーザの映画はその問いかけで幕を閉じる。


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