失って初めてわかる真実の愛、泣かせますシュレック4

真実の愛、それはそのまっただ中にいると気がつかないことがある。本当の幸せと言うのは、「あ〜ぼかあ〜しやわせだな〜」と実感することよりも、後になってみて「ああ、今思うとあの頃は幸せだったんだな。」ということのほうが多いのかもしれない。
本日はシリーズ四段目で最終回のシュレック4についてお話したい。日本での公開は2010年12月18日だそうだ。
シュレックも子持ち男になって早くも一年。子育てに忙しい毎日。妻のフィオナとロマンティックな時間を過ごしたくても、ロバや長靴を履いた猫が朝早くから夜遅くまで毎日のように訪れてはどんちゃん騒ぎ。こっちの迷惑などまるで念頭にない。観光客を乗せたバスがシュレックの家を観に定期的に訪れるから、ゆっくり泥風呂にもはいってられない。
そんなある日、子供たちの誕生会で村人の子供から雄叫びのリクエストを受けたシュレックはついに堪忍袋の緒がきれてしまう。子供の誕生日を台無しにして、愛妻フィオナとも大げんか。
フィオナからお説教をうけてむしゃくしゃしながらパーティ会場を後にしたシュレックは思う。ああ、昔は自分は恐れられていたものだがなあ、町に繰り出せば人々は恐れおののいて逃げ惑った物だ。あの頃はよかったよなあ。一日でいいからあの頃に戻りたいなあ。
そんなシュレックの前にランプルスティルトスキン(Rumplestiltskin)という小悪魔が現れる。スティルトスキンは、シュレックの望む一日をあげるから、交換にシュレックの過去の一日をくれないかと提案。「いいさ、過去の一日くらい、好きな日を選んでもってけよ。」と気軽に契約書に署名してしまうシュレック。
だが、シュレックが望んだ、オーガが人々に恐れられる世界とは、シュレックが存在していた世界とは根本的にどこか違う。ロバとも猫とも出会っていない、ましてやフィオナと恋に落ちた事実もない。なぜならシュレックが望んだ一日と引き換えにした過去の一日とは、シュレックの生まれた日だったからである。シュレックが生まれなかった世界での一日。日没までにまだ出会ってもいないフィオナの真実を愛を得られければ、シュレックの存在は永遠に消滅してしまう。どうするシュレック、時間がないぞ。
結婚してしばらくたった誰でもそうかもしれないが、シュレックもまた、妻フィオナの愛情を当たり前のように感じ始めていた。日々の忙しさにかまけて、子育ての大変さにめげて、大事なものを見失っていた。それを小悪魔の策略で失ってみて初めて自分の持っていたものの価値を知る。
この映画は、シュレックがシュレックのことを知らないフィオナとキスを交わせばそれで済むというような単純な内容ではない。実際にフィオナがシュレックを愛さなければ小悪魔の魔法は解けないのだ。
新しい次元の世界で出会ったフィオナは、閉じ込められていた塔からシュレックに救われたか弱い御姫様ではない。なにしろシュレックが存在しない世界だからフィオナはシュレックに救われるというわけにはいかない。待って待って誰も助けに来てくれなかったという過去のある彼女のもとに、とつぜんシュレックが現れて、「我こそがそなたの真の愛じゃ」てなことをいってもビンタを食らうのが関の山。たった一日でフィオナの愛を射止めるなんてそう簡単にはいかない。
話の設定は、クリスマスの時期によくテレビで放映される昔の映画、ジミー・スチュワート主演の「イッツ ア ワンダフルライフ (すばらしき人生)」と同じ。もしも自分がこの世に存在していなかったら、自分の回りの世界はどう変わっていたか、というアルターネートヒストリーのSF物語といったところだ。
いつもながら、おとぎ話のキャラクターをうまく起用しているところは傑作。
ロバとシュレックの掛け合いは飽きがこない。第一作の時はエディー・マーフィーのロバは煩く感じたが、回を追うごとにキャラクターに味が出て来た感じがする。アントニオ・バンデラスの猫も、今回はちょっと中年太り過ぎのせいか、いつもの潤う目もちょっと効果が薄いよう。ランプルスティルトスキンの手下の魔女たちは、明らかにオズの魔法使いの魔女で水は天敵。最後のほうはエロル・フリンのロビンフッドを思わせる。
妻の愛、大切な子供達、そして友情。失ってみて初めて解るその大切さ。シュレックはアニメとは思えないほど奥が深い。そのほのぼのさに思わず泣いてしまった。
自分の生活がマンネリ化してる人に希望を与える心温まる映画だ。是非おすすめ。


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左翼プロパガンダと解っていても楽しんでしまった「マイレージ、マイライフ」

今日の映画、マイレージ・マイライフ(英語題名はUp in the air)が日本で公開されたのは今年の三月(アメリカ公開は去年の11月)。アカデミー最優秀映画賞の候補にも上がったほどで、内容はかなり上出来だと思う。どうして一年も前に公開済みの映画を今頃観たのかというと、出張ばかりしている同僚が最近出張先のホテルのテレビで観て、いやに気に入ったらしく、私も興味があるのではと勧めてくれたからだ。

主人公のライアン・ギンガム(ジョージ・クルーニー)の仕事は、リストラ中の企業に出向いて行っては自社の従業員を自ら解雇する根性のない重役らに替わって解雇して回ることだ。ライアンはその時だけで後は個人的なつながりを全く持たないこの仕事が気に入っている。

ファーストクラスで飛び回り、一年のうち322日間出張していることや、手荷物だけでする手軽な荷造りの技術にも誇りを持っている。フリークエントトラベラー(頻繁に旅をする人)だから航空会社でもレンタルカー会社でもホテルでもVIP扱い。どこへ行っても列に並んだりせずVIPカードを見せてほぼ素通り。結婚したこともないし、女性関係はカジュアルで満足。両親はとっくに他界し、結婚間近に控えた妹や男性関係に恵まれない姉とも、ほとんど付き合いはない。人間関係といったら、しょっちゅう使ってるアメリカン航空のチェックイン係りの女性に「おかえりなさい、ギンガムさん」と言ってもらうことくらい。

そんなライアンの生活に二つの変化が起きる。ひとつは魅力的なキャリアウーマン、アレックス(ヴェラ・ファーミガ)との出会い。もうひとつはライアンの会社が新しく採用したインターネットでの解雇方式を提案する有能な新入社員ナタリー(アナ・ケンドリック)の指導を命令されたことだ。

ライアンが自分の能率的な仕事の仕方や生活習慣を、片手間で行ってるレクチャーで説明したり、すばやくセキュリティーチェックを通るための方法を新人のナタリーに教授したりする場面はユーモアたっぷりで楽しめる。フリークエントフライヤーのカカシとしては「なるほど~。」と勉強になる部分も多くあった。

だが、私が一番気に入ったのはホテルのバーでアレックスと出会う場面だ。バーのカウンターでアレックスが何かのVIPカードを弄んでいる。ライアンがそのカードではどこどこの店では使えないとか、どういう得点があるとかないとか言う話を始めると、自分と同じように色々なメンバーシップカードを持ってるライアンに興味を示すアレックス。

即座に二人はテーブルを挟んでお互いのVIPカードをトランプのように出してその格を競い合う。ライアンのマイレージ数にすっかり魅了されるアレックス。お酒の入った勢いもあるが、マイレージの話で完全に意気投合していく二人の姿はその後に続くベッドシーンよりもずっと色気がある。(ここまで読んでベッドシーンがあると期待した読者は、その淡白な描写に失望するはず。)

一夜を共にした二人は、次回の再開場所をお互いの忙しいスケジュールにあわせてノートパソコンではじき出す。
私がこのへんのくだりを気に入ったわけは、私自身が同僚たちとVIPレベルを比べてカードを見せ合った経験があるし、同じ仕事をしてるのに本社で会う機会などほとんどない同僚たちと示し合わせて飛行機の待ち時間を利用して出先の空港で会ったなんてこともあるからで、同じフリークエントトラベラーとして共感できる点が非常に多くあるからだろう。

しかし、ここまで観ていて、この映画がこれまで個人的な人間関係を持てなかったライアンがアレックスとの出会いによって人との交流の大切さを学ぶロマンティックコメディーだと思ったら大間違い。この映画の本筋はもっと腹黒い反資本主義思想が根底にある。

先ず第一に、ライアンの勤める会社が繁盛するということは、アメリカの景気が不況であちこちで企業がリストラをせざる終えなくなっている状況が背景にある。しかも、企業は景気のいいときはさんざん従業員を利用しておきながら、ちょっと経営不振になると個人感情などおかまいなしに利用価値のなくなった部品を捨てるかのように社員を簡単に解雇する。

この映画のしたたかなところは、企業をあからさまに悪者として責めないところだ。にくったらしく葉巻を吸うような脂ぎった中年男が重役として出てくるわけでもなければ、私腹を肥やす重役のために、まじめな下っ端社員が解雇されるなどというシーンは全く見せない。いや、それどころかこの映画では企業の姿はほとんど描かれない。リストラを決意した重役や、長年勤めた従業員の解雇を外注する人々の冷酷な姿も見せない。だからこそ、この映画に現れる企業はなにかしら不気味で冷酷な物体としてのイメージしかわかない。

映画でライアンに解雇される従業員の一部は俳優ではなく、実際に最近解雇された一般人を起用している。
「30年もまじめに勤めた見返りがこういう仕打ちなんですか?」
「住宅ローンも組んだばっかりなのに、いったいどうやって生活しろっていうんですか?」
「女房や子供にどういう顔みせろってんだよ!」
若い人はまだしも、50や60になって突然リストラされたら、いったいどうすればいいのか。しかも企業は何十年と働いた従業員にねぎらいの言葉をかける気遣いもない。個人的に解雇する勇気すらないで、ライアンのような刺客を雇ってリストラをする。なんて冷酷非情なやつらなんだ!
という感情を観客に生み出させることが出来ればこの映画のプロパガンダは成功したことになる。プロパガンダを承知の上で観ていたカカシですら、自ら従業員を解雇できない重役の根性を批判したくなったほどだから、この映画は非常に良く出来た左翼プロパガンダだといえる。
しかし現実を考えて見よう。
カカシもこれまでに3回ほどリストラされたことがある。そのうち二回とも私は直接の上司から解雇された。どれも会社の経営状態などを考えたら仕方ない現実だった。私がリストラを言い渡される前からすでに社内では大幅な人員削減がおこなわれていたので、私のところに話が来るのは時間の問題だった。
左翼リベラルは認めないが、企業も生き物だ。企業は決して顔のない血も涙もない冷血非道な物体ではない。企業は利益をあげることが商売だが、それが出来なくなれば損失を最小限に抑え何とか生存に勤めるのがその義務でもある。
どんな企業が好き好んでリストラなどするだろう。
確かに長年勤めてきた会社から解雇されてうれしいわけはない。若くてやり直しがいくらでも出来るというならともかく、50だの60だのになって定年間近でリストラなどされたらいまさらどうしろというのだ、という気にもなる。リストラされた当時は私も傷ついた。特に最初の企業は8年も勤めていて、昇進まで約束されていたので、突然の解雇はショックだった。だからこの映画に出てくるリストラされた従業員たちの気持ちは手にとるほど良くわかる。
だが、だからといって企業がリストラをしなかったらどうなるのだ? リストラをするということ自体、企業は経営難でうまくいっていないという証拠だ。そのまま全く経営方針を変えずに同じことを繰り返していれば、いずれは企業自体が倒産の憂き目にある。会社がつぶれれば社員全員が失業するのだ。一部の社員を解雇するだけでは収まらないのだ。
左翼連中はそういう現実を全く考慮に入れない。
すでに公開済みの映画なのでネタばれを心配する必要はないのかもしれないが、ここで私は実際の映画の終わりではなく、私自身が考えた資本主義的終わり方を披露しておきたい。以下はカカシ風結末で映画の本当の結末ではないのであしからず。
ナタリーの訓練を終え、ライアンはナタリーを本社に帰す。アレックスに会いに行った先でのライアンとアレックスのやりとりは映画のまま。
ホテルに帰ったライアンには本社から緊急なイーメールが届いている。翌日ビデオ会議に参加するようにという内容だった。
翌日ビデオ会議を開いてみると、なんとこれはインターネットによるライアンへの解雇通告だった。本社はナタリーの提案を受け入れ本格的にネット解雇に方針を切り替えることにしたため、外回りのライアンたちの職種は削除されることになったからだ。そしてネット解雇部の新しい部長は誰あろうナタリー。
次のシーン。
どこかのホテルのロビー。ライアン・ギンガムのレクチャー看板が飾ってある。その題名は「リストラ後の職探しはどうするか、あなたの未来を考える。」とかなんとかいうもの。会社を首になったライアンは解雇任務を改め、失業した人々のために本当の意味でのキャリアカウンセラーをする仕事を始めたのだ。「あなたの新しい人生は解雇されたときから始まるのです。」観客の中にはライアン自身が解雇した社員たちの顔も見られる。
最後にリストラされた人々が家族の支えでなんとか立ち直ったとかいう証言を流す代わりに、リストラのおかげで自分がそれまで惰性でつづけていた仕事を辞めることが出来、自分が本当にやりたかったキャリアを見出すことが出来た、というような証言が立て続けにされる。
カカシ自身、最初のリストラにあって始めて、それまでの仕事では自分の才能が充分に生かされていなかったことや、給料が低すぎたことを知ったし、二度目三度目のリストラのおかげで、自分の職種には未来がないことを悟り、新しく学歴を得て全く違う分野に視野を広げることが出来た。
そういうことが出来るたのも、アメリカが資本主義の国であり、七転び八起きを許容してくれる社会だからこそだ。そういうことを描写してくれたなら、この映画は満点の価値ありだろう。
無論、この映画のメッセージはその正反対。にもかかわらず、ジョージ・クルーニーのチャーミングな演技に半資本主義プロパガンダ映画にすっかり魅了されてしまったカカシであった。


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巣立ち行く子供を見送る寂しい親の気持ち、トーイストーリー3

今日は日本では7月公開のトーイストーリー3段目のご紹介。日本語ふき替え版の予告編はこちら。

最近久しぶりに映画を立て続けにみてしまったのだが、シュレック4に始まってアイアンマン2と今度はトーイストーリー3。なんだか続編ばっかだなあ。
普通続編というのは前の話の人気におんぶしてるだけで、回が進むごとに質が下がるのが定番なのだが、この三つの映画は回を追うごとによくなってる。特にトーイストーリー3は2よりずっと中身が濃い。
本筋は割と単純。私の記憶だけで会話を再現すると、おもちゃと遊んでいたアンディも、早いものでもう17歳。明日から家を出て別の町にある大学へと向かう。勉強部屋を取り払って大人への一歩を歩き出すのだ。そこでお母さんは、「行く前に部屋の整理をしてちょうだいね、要らないものは捨てるか屋根裏部屋にしまうかしてよ。」そして「もう遊ばなくなったおもちゃは、保育園に寄付するから。」
「こんな古いおもちゃ、誰も欲しがらないよ」というアンディの本音は、まだ手放したくない子供時代の自分。一番気に入っているカウボーイの人形ウッディだけ大学行きの箱に入れて、あとは屋根裏にしまおうとおもちゃをゴミ袋に入れるアンディ。ところがお母さんはこれをゴミと間違えて外に出してしまう。
ゴミとして捨てられるくらいなら、とおもちゃたちは保育園寄付用の箱に大移動。着いた保育園で、ストロベリー色の熊のロッツオや着せ替え人形のケンドールら保育園のおもちゃたちに暖かく迎えられる。保育園ではこどもたちが毎日のように遊んでくれるよ、と言われたアンディのおもちゃたちは大喜び。アンディの妹のおもちゃだったバービーもハンサムなケンに一目惚れ。
ここは天国だ。ずっとここに居よう。おもちゃたちは、ひとりだけ別の箱にいて間違いを見届け、おもちゃたちを救うために追いかけて来たウッディの「アンディは君たちを捨てたんじゃない、間違いだよ、家に帰ろう」という声にも聞く耳もたない。「アンディは俺たちを捨てようとしたじゃないか、もう俺たちは必要とされてないんだ。」
しかし、一見パラダイスに見える保育園には、熊のラッツオが仕切る暗黒の世界があった。おもちゃたちは腹黒いラッツオとその仲間達が企む恐ろしい陰謀に嵌りつつあるのであった。
この映画のテーマは子離れの難しさにある。ウッディたちはおもちゃだが、子供の頃からアンディと一緒にいて、その育成の過程を見守って来た親のような存在だ。アンディに対してもそうした愛情がある。だからアンディが大人になって、用無しになってしまう自分らの存在を嘆いているのだ。
育って行く子供は手離さなければならない、そして親は親で子育てを含まない自分らだけの新しい生活を始めなければならない。だがそれは口で言うほど簡単なことではない。熊のラッツオが悪者になったのも、元の持ち主から捨てられたという恨みから立ち直れなかったのが原因。
この映画の主役はもちろんウッディなのだが、それぞれのキャラクター達の活躍は面白い。宇宙探検家のバズライトイヤーがリセットされてスペイン語を話だし、カウガールのジェシー相手にパサドブレを踊るシーンは傑作。ミスターポテトヘッドが胴体をポテトの替わりにうすっぺらなメキシコのパン、トルティーヤを使って鳥に食べられそうになるのは笑える。
また、ケンとバービーが恋に落ちるのは当然の成り行き。「まるで私たち、一緒になるために作られたみたい」って当たり前だ!。でもこのケンのドリームハウスにはケンの着替え用の服がいっぱいなのだが、その服が皆1970代のディスコ風。ちょっとケンちゃん、服に拘りすぎない?もしかしてあのケがあるとか、、
そうそう、保育園から抜け出そうとしているウッディを道でみつけて家に持ち帰った幼女の家に、カカシが持ってるのと同じトトロのぬいぐるみがあったのには笑ってしまった。トトロは何も言わないが、そういえばオリジナルでもトトロは無口。
すっかり整理が終わって空っぽになったアンディの部屋をみて、お母さんはハッと息を飲んだ。解っていたことではあるけれど、こうして改めて整理した部屋を見ると、この子は本当に巣立って行くのだなと実感する。カカシはお母さんと一緒に涙ぐんでしまった。
さて、おもちゃたちはロッツオの仕組んだ罠から抜け出すことが出来るだろうか? ウッディは無事アンディと一緒に大学へ行くのだろうか、そして残されたおもちゃたちの運命はいかに?
トーイストーリ3は、子供も大人も別の意味でおもちゃたちの冒険を楽しめる。是非おすすめ。


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退屈きわまりないベンジャミン・バトンのつまらない一生

先日アカデミー賞の候補が発表されたが、どの候補に入った映画のどれひとつ観ていなかったことに気がつき、これは発表がある前にちゃんと観ておかなければいけないと思いたった。それで芸術作として評判も高く、SF的な要素も含む『ベンジャミン・バトンの数奇な一生』を観ることにした。(日本では二月七日封切り)
普通カカシが映画を評価する時は、その映画の出来云々よりもその映画そのものを作る価値があったかどうかということが最低基準となる。どれほど画像がきれいだろうと配役が豪華だろうと特撮が優れていようと、その映画が何か観客に訴えるものを持っていなければその映画はただのフィルムの無駄使いである。しかも、そういうくだらない映画がアカデミーにノミネートなどされてしまうと、ノミネートされた映画くらいは観ておかなければと考えるカカシのような観客の大切な三時間までもが浪費されてしまうのだからはた迷惑もいいところだ。
ここまで書けばお察しの通り、カカシはこの映画は気に入らなかった。全く観る価値がないとさえ言わせてもらう。
この映画の設定は、ブラッド・ピット扮するベンジャミン・バトン(カタカナ表記は「ボタン」とすべき。彼の苗字は生家の事業であるボタン製造会社にちなんだもの)という第一次世界大戦の終戦の日に生まれた男が、赤ん坊としてではなく、肉体的には80歳を超える老人として生まれ、時が経つとともに若返り最後には赤ん坊になって死ぬという話だ。すでに読者諸君が予告編を観ていたら、わざわざ映画館に足を運ぶ必要はない。なにも三時間も時間を無駄にしなくても、すべてのことはその三分間の予告で知ることができるからだ。
この映画は完全にアイデア倒れだ。カカシはSFファンなのでこの映画のSF要素に魅かれたのだが、製作者は単に年寄りが若返るという設定以外に全く科学空想としての想像力が働かなかったと見える。三時間という長時間をかけたにも関わらず、語った話は取り立てておもしろくもおかしくもない、つまらない男のくだらない人生を語るだけで済ましてしまっている。これが同じ筋で赤ん坊で生まれ、年をとって耄碌して死んだ男の人生を語ったとしても、全く違和感のないありきたいりの人生を語っているのだ。ベンジャミン・バトンの人生は数奇どころか何ひとつ面白いことがおきない退屈極まりない生涯だ。若返る男という不思議な宿命を持つ男なら、もっと面白い体験があってもよさそうなものだ。
だいたいこの映画は観客に何を訴えたいのだ?
映画はベンジャミン・バトン(ブラッド・ピット)の生涯の恋人デイジー(ケイト・ブランシェット)が年老いてハリケーンカトリーナが近づくニューオーリンズの病院で死の床に着いているところから始まる。病院で付き添っているのはデイジーの中年の娘キャロライン(ジュリア・オーモンド)。
キャロラインの口ぶりからして、娘と母親の間はあまり親密ではなかったようで、娘が病床につきそっているのも、母親との間が疎遠のままで死に別れたくないという理由からだ。プロのバレリーナとしてアメリカ人では初めてソ連のボリショイバレエ団にゲスト出演を許可された母親のデイジーの逸脱したキャリアに比べ、娘のキャロラインは特にこれといった才能がなく、本人はそのことを恥じて母親に対して卑屈になっている印象を受ける。母親のデイジーが娘に自分の昔の恋人であるベンジャミン・バトンという奇妙な男の日記を読んで聞かせてくれと頼むところから、回想シーンが始まって本編となる。
こういうふうにお膳立てをしたからには、ベンジャミンの生涯を娘に語らせることによって、デイジーは親を失望させたと卑屈になっている中年娘に何かしら言いたいことがあるはずだ。普通なら回想シーンが終わった時点で娘が何かを悟るように物語が転回されるべきだ。ところが、三時間の退屈な映画を全編見終わっても、いったいこの物語を語ることでデイジーは娘のキャロラインに何を伝えたかったのか観客にはさっぱり解らないのである。
産時に妻を失い悲嘆にくれるベンジャミンの父親(ジェイソン・フレミング)は、しわくちゃで老人のような赤ん坊のベンジャミンを老人ホームの階段に捨てる。それを見つけた老人ホームの黒人管理人クイニー(Taraji P. Henson)はベンジャミンを保護し自分の子供として育てる。
物語の最初の方でベンジャミンが80歳くらいから60代前半に若返るまでの17年間に、彼の養母が管理する老人ホームに、訪れては死んで行った人々の話がされるが、これらの老人たちの話がベンジャミンの人格形成にどのような役に立っているのかさっぱりわからない。ベンジャミンと当時7歳だった後の恋人デイジー(エル・ファニング)が出会うのはこの頃だ。ベンジャミンは実家の老人ホームに居る祖母のホリスター夫人(フィオナ・ヘイル)を度々訊ねて来るデイジーに不思議な魅力を感じる。
映画のほぼ全編にベンジャミンを演じるピットのモノトーンのナレーションが入るのだが、このナレーションに全く感情が込められていないせいか、ベンジャミンによる周りの人々への感情移入が全く感じられない。まるでベンジャミンは部外者で周囲の人間を単に観察しているかのような印象を受けるのだ。
ベンジャミンが独立して実家を出て船乗りとしての生活を始めてからも、この部外者のような無表情さは変わらない。これはブラッド・ピットの演技が下手なせいなのか、それとも演出が悪いのか解らないのだが、従船の船長(ジャレッド・ハリス)をはじめとするカラフルな船員たちとの出会いや、アラスカのホテルのロビーで出会いベンジャミンが恋におちる人妻エリザベス(ティルダ・スイントン)との関係にしても、ベンジャミンがこれらの人々との交流において何を感じたのか、彼の人生はこれらの出会いによってどう変わったのかといった話が全くされないのだ。つまりこれらの出会いや逸話が映画の前後の話と全くつながらないのである。
第二次世界大戦終戦後、ベンジャミンは実家の老人ホームに戻り、すっかり年老いた養母のクイニーと一緒に再び暮らし始める。そこで帰省中の美しく成長してプロのバレリーナになったデイジーと再会するのだが、、、、
と、もしもこの先の筋をすべてここでばらしても、決してネタバレなどという大げさなものにはならない。何故ならこの先の一時間半に渡っての映画の中では特にこれといって驚くようなことも感動するようなことも起きないからだ。
ベンジャミン・バトンの人生にはいったいどんな意味があったのだ?彼を愛したデイジーの人生はどう影響を受けたのだ?その話を後に学んだ娘のキャロラインは何を感じたのだ?
そうした問いかけに、まったく無頓着なのがこの映画、ベンジャミン・バトンの数奇な一生である。


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共産主義と戦うインディアナ・ジョーンズ最新作

日本では6月21日にロードショー開始のインディ・ジョーンズ、クリスタル・スカルの王国を一足先に観てきたので、本日はそのお話から。
なぜ日本では主人公のヘンリー(ハリソン・フォード)をインディアナと言わずにインディと呼ぶのかわからないが、まあもう1981年に公開されたレイダース/失われたアーク(聖櫃)の時からそう呼んでいるのだから今更変えるのも不自然だろう。
今回の最新作はオリジナルの1930年代のナチス台頭の時代から20年後の冷戦中の1957年が舞台となっている。それで必然的に悪役もナチスドイツから共産主義者へと変わった。ハリウッド映画がソ連共産党と戦うのは久しぶりではないかな。
スターリン主義の悪役イリーナはロード・オブ・ザ・リングスで年齢不詳のガラドリエルを演じたケイト・ブランシェット。彼女自身も年齢不詳の冷たい美しさを見せているが、黒いボブカットの髪型や不自然なアクセントは、冷戦時代から使われてきたソ連スパイのステレオタイプそのもので、ちょっと滑稽な感じがする。
もっともインディ・ジョーンズの特徴はまじめぶらないところにあるので、こういうステレオタイプも決して場違いではない。なにしろ映画の最初のシーンは、穴から顔を出したモグラが、走ってくるジープに驚いて穴に引っ込むというもので、これからして、この映画全体の音程が察知できるというもの。
このジープの列はテキサスの砂漠で行われている原爆実験現場を通っているのだがこの冒険についてあんまり書くとネタバレなので、共産党スパイによって売り渡されたインディ・ジョーンズは奇跡的に原爆実験現場から命からがら逃げおおすとだけ書いておこう。(はじまりでインディが死んじゃおしまいだから当たり前だが、、)
しかし、当時はアメリカ政府や大学にソ連スパイがはびこっていたため、かなり神経質になっていたCIAは、ヘンリーがトップシークレットの実験現場に何故居たのか、ヘンリーが教授を勤める大学にまで取り調べに来る。これを理由に大学側はジョーンズ教授を解雇。それに抗議した学長(ジム・ブロードベント)も辞任する。
大学から出て行くために荷造りを始めるヘンリーに学長は「最近わしはこの国が理解できんよ。誰も彼も共産党のスパイ扱いで、被害妄想にかられている。」という。しかしこの台詞ははっきりいってストーリー展開から矛盾している。
この映画の最大の悪者は共産主義者であり、しかも冒頭シーンでインディは共産党スパイにひどい目にあわされるのである。そのことを学長はよく知っているのだ。だから政府や大学が共産党スパイに神経質なのはあたりまえ。被害妄想でもなんでもない。
スピルバーグ監督は有名なリベラルではあるが、リベラル=共産主義ではない。だから共産主義者が悪者でも問題はないはず。この台詞は不自然で場違いなので、多分元のシナリオにはなく、後から左巻きの脚本家が挿入したのだろう。
もちろん共産主義者を相手にしているとはいっても、インディ・ジョーンズのことだからそれほど政治色が濃い訳ではない。映画の本題は政治的な紛争ではなく、インディが巻き込まれる不思議な冒険にある。
大学を首になったヘンリーは、若き日のマーロン・ブランドを思わせる革ジャンを着てハーリーデイビッドソンを乗り回すマット・ウィリアムス(シャイア・ラブーフ)に出会う。マットと彼の母親は、ヘンリーの親友で考古学者のオクスリー教授(ジョン・ハート)に世話になったものだという。マットは南米にいる自分の母親から手紙で、オクスリー教授が行方不明になったので、ヘンリーに助けを求めるように言われたのだという。
実はオクスリー教授が発見したのはクリスタル・スカルという頭蓋骨で、何世紀も前に墓から盗まれたものだった。この頭蓋骨を元の墓に返したものには偉大なる力が与えられると伝えられている。問題は誰もこの墓が南米のどこかにあるという以外には確かな場所を知らないということである。
そこでインディ・ジョーンズはマット青年と一緒に先ずはオクスリー教授の行方を探し求め、ひいてはクリスタル・スカルを元の墓に戻すという冒険を始めるのであった。
無論ソ連のスパイ達に後を追われているので、南米のジャングルでは手に汗逃げる追跡格闘シーンはあり、小舟に乗って逃げるシーンではナイアガラの滝さながらの滝に落ちたりもする。遺跡ではレイダースの冒頭のようなからくりのある建物を走るまくるシーンもあって、インディならではの冒険が楽しめる。
ハリソン・フォードは60歳を超すと思われるが、どうしてどうして、まだまだ格好いい。二作目で父親を演じたショーン・コネリーも格好よかったが、フォードの渋みのきいた、それでいてコメディータイミングを失わないおちゃめな点も魅力的である。
若い観客のために二枚目青年俳優ラルーフを起用したのは解るが、カカシが中年だからなのかもしれないが、やはりラルーフではフォードの魅力にはかなわない。もっともラルーフのマットも最初はヘンリーが年寄りだと思って馬鹿にしているが、悪者との格闘でヘンリーが非常にタフであることを知って感心する。ここでスピルバーグが特に胸焼けするような青年と中年男の友情など表現しないでくれるので観客としては非常に助かる。
第一作目でヘンリーの恋人マリオン・レイヴンウッド(カレン・アレン)がマットの母親として登場するが、一作目ほどの存在感はない。ま、カカシの他人のことは言えないが女性は27年も経ってしまうと腰回りが気になるな。
ところで、ミスター苺が「インディ・ジョーンズは共和党支持だったんだな」と言うので、「え、なんで?」と聴いたら、イリーナに銃を向けられ「最後に言いたことはあるか?」と聞かれたときに、「俺はアイクが好きだ」と答えたからだという。アイクとは時の共和党の大統領候補指名のドワイト・アイゼンハワーのことだ。若いひとのどのくらいがこの台詞の意味を理解できたのか興味深い。


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二つに一つじゃないんだけど、、、インテリジェントデザイン対無神論

アップデートあり:下記参照
先日ベン・スタインという俳優で保守派政治評論家が監督した、マイケル・ムーア風の進化論批判ドキュメンタリー、Expelled: No Intelligence Allowedという映画を見た。実はこの映画に関する評論はしようかどうかちょっと迷っていたのだが、本日、偶然にも左翼フェミニストの小山エミさんが無神論者について書いていたのを読んで、関連のある話題なのでちょっとお話することにしよう。
先ずはベン・スタインのExpelled…の映画評論をする前に、アメリカにおける進化論に関する問題について説明しておく必要がある。アメリカはユダヤ・キリスト教の信者が非常に多い。以前からアメリカは非常に宗教心の強い国だと書いているが未だに旧約聖書の「創造説」を文字通り信じている人が少数とはいえ結構な数居るのである。そういう人たちは進化論を受け入れることは神への信仰を捨てることにつながると誤解している。
困ったことに無神論者で科学作家のリチャード・ドーキンスなどが、進化論に代表されるように科学と信仰は相容れないと断言してしまっていることから、本来ならば対立する理由のない進化論受け入れ側と創造説側の二つのグループが不必要な争いを行う結果となっている。
しかし創造説側は最近、といっても20年くらい前だが、科学説である進化論に打ち勝つためには、旧約聖書を持ち出してきてもそれは宗教だと片付けられてしまい、説得力がないことに気がついた。そこで彼らは創造説に科学的根拠があることを説明するために新たに「インテリジェントデザイン(ID)」という説を紹介した。
これは自然哲学で神の存在を証明する論理としてウィリアム・ペイリーの「盲目の時計職人」という説をもとにしている。複雑な構成を持つ時計が荒野に落ちていたら、それを作った時計職人がどこかに存在するように、他の複雑な実態も意図的に作った誰かが存在するはずだという理論である。地上に存在する生物、特に人間は、あまりにも複雑すぎる生体であり、誰かの意図的な設計なくしては説明できないというわけだ。無論この理論にはかなり穴があいているが、ベン・スタインの映画はこの理論を元にしている。
Expelled…はマイケル・ムーアも真っ青になるほど不公平で理不尽な構成になっている。先ず映画は冒頭のテーマソングでベルリンの壁を映し、東側の共産主義が進化論側で西側の自由主義がID側であると象徴。
スタインは進化論説者をダーウィニストと呼び、あたかも進化論がダーウィンという教祖によって創設されたカルトか何かのような表現をしている。しかも進化論を受け入れたら単に無神論者になるだけでなく、ユージェニクスを推進したナチスや共産主義者になるとさえ示唆しているのである。
これほど根拠もなく相手側を侮辱するやり方もないだろう。私は保守派評論家としてスタインのことはこれまで尊敬していたが、今回の映画を見てその卑怯なやり方に非常に失望した。根拠も示さずに感情のみに訴えるなら、左翼やリベラルと何の変わりもない。スタインはムーアより頭がいいだけ質が悪い。
スタインのやり方が卑怯な例のひとつとして、スタインはドーキンスのような進化論説者のなかでも過激な無神論科学者だけを集めてきて、「神など存在しない」と何度も繰り返させる。スタインは敬虔なクリスチャンであり克つ進化論を受け入れている遺伝子学の第一人者であるフランシス・コリンズのような科学者がいるにも関わらず、そういう人を一人も紹介しない。
映画の中でも進化論と宗教は矛盾しないと唱える人を紹介しておきながら、その人たちがどういう説を持ってして矛盾でないことを説明しているのかを紹介せず、あたかも彼らが信仰者をだまして進化論を受け入れさせようとしているかのようなコメントを入れている。皮肉なことにその一番の手助けをしているのが、進化論を信じる者は無神論者であると言っているドーキンスなのである。
はっきり言ってドーキンスのような無神論者とスタインのようなID論者は一つの硬貨の二つの顔だと言っていい。
科学を信じたら神を信じられないなど一体誰が決めたのだ?種の進化という真実を学ぶことによって神の力を信じられなくなるなどと本気で信じるなら、スタインこそ神への信仰に自信がない無神論者なのではないか?彼の信仰とはそんなにも軟弱なものなのか?
私は神の存在を信じる。科学を学べば学ぶほどその神秘さに驚嘆しない科学者はいないだろう。これこそ偉大なる神の創造であると信じることに何の無理があるというのだ?種族の進化こそ神の設計であると考えれば進化論と創造説に矛盾はない。何故ここに無意味な矛盾を見いだす必要があるのだろうか。これこそ信仰者を科学的に無知にしておきたい無心論者の陰謀を感じるのは私だけだろうか?
ところで、小山エミが無神論者たちが、無神論という宗教の信者になってしまっているのではないかと書いているがそれはかなり的を射ていると思う。

無神論者たちのふるまいは、信仰者のそれと何ら変わらないのではないかーーすなわち無神論者たちは、無神論という新しい宗教の信者であり、その他の宗教の信者と本質的に何ら変わらないのではないかーーという問いかけは、多くの人が直感的に感じるものだ。…

…ユートピア思想と選民思想(自分たちこそ最も優れた人間であるという思い込み)は、わたしが参加しているグループにおいても頻繁に感じた。かれらから見れば、宗教を信仰している人はそれだけでかれらより非理性的であり、冷笑するしかない対象なのだ。このままいくと、迷える子羊=信仰者を救うために無神論の布教活動でもはじめかねない。

進化論専門の科学者のなかに無神論者が多いことは確かだが、無神論を唱えるひとが必ずしも科学的な考えに基づいて無神になったというわけではない。進化論進化論と大騒ぎして創造説を馬鹿にする人々の間でも進化論が科学的に証明されているという事実だけを鵜呑みにしてその科学的な学説を何も理解せずにまるで信仰のように受け入れている人々がどれほどいることだろう。つまり、進化論そのものが信仰となっている人々が無神論を唱える人々のなかに少なからずいるのだということも念頭に置いておく必要がある。
科学は真実を求めるものにとってすばらしいものである。だが科学は中立だ。科学は道徳的判断を下さない。それを見誤ると無神論者も創造説者も同じ間違いを犯すのである。
神を信じるか信じないか、進化論では二つに一つの答えは見いだせないのだ。
アップデート: 本文中に引用した小山エミさんがこのエントリーへの返答をこちらでしている。それに対する私の返答はこのエントリーのコメント欄でさせてもらった。


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学習力ないハリウッド、「ストップロス」反戦映画がまたも不入り

観てない映画の批評をするのも何だが、映画館で予告編を見ただけで十分にどういう映画かという予想はついたので観にいっていないし、観る気もない。と考えたのはどうやらカカシひとりではなかったようである。
ニッキー・フィンクの週末客入り情報サイトによると、キンペリー・ピアス監督の反イラク映画、ストップロスの売り上げはかなり悪いようだ。
金曜日7番で始まったストップロスの売り上げは8番に下がり、金曜と土曜の売り上げをあわせてもたったの170万ドル。これまでの合計はわずか460万ドルという情けなさ。この映画はMTV Filmsでは今週末一番評判がよかったにもかかわらず、制作会社のパラマウントはあまり期待をしていなかったようだ。パラマウントの重役によると、イラク戦争をテーマにした映画はこれまで成功した試しがないからだという。「イラク戦争の映画なんて誰もみたくないんですよ。どれだけ才能のあるタレントを起用しても、すばらしい予告編をつくってみても、人々は全く興味をもってくれません。これはまだ決着のついていない戦争にたいして市場がこの葛藤のドラマを受け入れる用意ができていないということでしょう。良い映画なので非常に残念です。ちょっと時代に先駆けしすぎているのでしょう。」
アホか!このパラマウント重役はアメリカ市民の軍隊に対する心情も愛国心も全く理解できないらしい。アメリカ人はイラク戦争の映画をみたくないのではなく、アメリカ人がいつも悪役になる戦争映画を拒絶しているだけだ!イラクで英雄として活躍するアメリカ軍人を主役に映画をつくってみろ!ボックスオフィス売り上げナンバー1は間違いない。
一応どういう映画なのかということを説明しておくと、イラクで活躍し英雄となって故郷のテキサスへ戻ってきた主人公は、戦場にいく前の平凡な生活に戻ろうとするが、突然かれの意に反して再びイラクへ呼び戻される。せっかく普通の生活に戻ろうと思っていた主人公の生活はめちゃくちゃになる、、といったもの。
だいたいこの筋の背景からしておかしい。アメリカは志願制なので、赤紙の召集令状がくるわけじゃない。一応特定の年数で契約して入隊するが、年期が切れても時と場合によっては年期が延期されることもあるし、一応正規軍からの除隊はしてもその後しばらくは予備軍として残るので緊急事態が発生すれば呼び戻される。これは軍隊に入隊する人はすべて覚悟の上ですることなので、戦争が続いている以上、また呼び戻される可能性はいくらでもある。軍人は戦争をするのが仕事なのだから、そんなこと当たり前ではないか。そんなことでいちいちひっくりかえっていては軍人など勤まらない。
私はイラクへ二回行き、三回目の出動が決まっている海兵隊員と話をしたことがあるが、イラクでの体験はどういうものだったかという私の質問に対してかれは、「よかったですよ。文句をいうことは何もありません。」と笑顔で答えていた。
イラクに呼ばれる可能性がかなり高い陸軍予備軍で軍医をつとめている若い男性と、イラク出動の可能性について話したときも、「命令が出ればいきますよ。任務ですから。」とたんたんとした口調ではなしていた。
自分は除隊しいまや予備軍にいて、二番目の子供ができるのを待っていた同僚の海兵隊員はイラク戦争そのものには反対だったが、「もちろん呼ばれれば行くよ。マリンだからね。」と語っていた。
つまり、私の周りにいる軍人でイラクにいきたくないよ〜、やだよ〜、とやってる人は一人もいないってことだ。うちの職場では自分の息子がイラクに行っていると自慢げに写真を同僚に似せて回るおやじさん達は何人かいるが、、、
ところで面白いのは、フィンクのサイトに寄せられたコメントだ。フィンクはこの映画だけでなく、ほかにもいくつか映画を紹介しているのに、700以上も寄せられたコメントはほとんどがストップロスに関するものばかり。しかもその意見はほとんどがカカシと同じ。下記はその一部。

反戦プロパガンダばかり作くるのをやめれば観客はみにいくようになるよ。スタジオの奴らにそんなことがわからいってのは本当に驚きだね。損失続きなのに同じような反戦映画を包装しなおして作り続けるハリウッドにはあきれるよ。—ジョー

ハリウッドが今製作する「戦争」映画をみたら、ジョン・ウェインは草葉の陰で泣いているだろうよ。もし彼が生きていたらハリウッドのばかどもに一発かましているところだ —ジェフ
ストップロスだって?今頃なにいってんだ?1950年代の初期の兵役は朝鮮戦争のおかげで、みんな一年以上のばされた。1952年になって多少延期が減り、自分の任期は1952年の8月16日のはずだったが、実際に除隊したのは11月のことだった。なんて情けない泣き虫どもだ。—Jpjm

このようなコメントをハリウッドの重役や監督たちはどう受け止めるのだろう。ま、多分馬の耳に念仏で、保守派のアホどもがなにをぬかすか。映画作りの複雑さを理解していない田舎者のいうことなど聞く耳持たん、てな調子だろう。彼等は典型的なバカサヨなので(久しぶりにこの言葉をつかったな)自分らは無知でバカな観客を教育してやらなければならないというナルシシストな使命に燃えている。だからいくら作る映画作る映画が不入りでも、こりもせずにプロパガンダ映画を作り続けるというわけだ。
関連エントリー:
反戦映画が不入りなのはなぜか?
悲劇的な封切り、ディパルマ監督の反米映画「リダクテド」


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永遠の愛を皮肉なく語る「魔法にかけられて」

きょうはディズニー映画のEnchanted (放題は「魔法にかけられて、日本公開は来年の3月)を紹介しよう。
これはおとぎの国のお姫さまや王子様が現在のニューヨークへ送り込まれたらどうなるかというお話。おとぎの国にいる時は登場人物はすべてアニメーションだが、マンホールを通じてニューヨークへ訪れるとすべて実写になってしまう。
物語はおとぎ話のある王国を支配する魔女のナリサ王妃(スーザン・サランドン)が、継子のエドワード王子(ジェームス・マースデン)が結婚したら自分から支配者の権限を奪い取るのではないかと心配しているところから始まる。王妃の心配をよそに王子は怪物退治中に森で出会ったジゼル姫(エイミー・アダムス)に一目惚れしてしまう。木から落ちるところを王子に救われたジゼル姫も翌日結婚しようという王子の言葉を当然のように受け入れ、二人は永遠の愛を歌いながら白馬に乗って城へ向かう。これを魔法の鏡でみていた魔女の王妃はジゼルを騙して21世紀のニューヨークへ送り込んでしまう。それを知ったエドワード王子は従僕のナタニエル(ティモシー・スパル)とチップモンクのピップと一緒にニューヨークへジゼル姫を救うべくやってくる。
現実の社会でジゼル姫が出あう人々は、おとぎの国の人々のように親切ではない。城の絵が描かれた看板によじ上って落ちそうなところを通りがかりの子持ち弁護士ロバート(パトリック・デンプシー)に救われたジゼル姫は「私がこれまであった人たちは、あまり善いひとたちではありませんでした。」と言う。皮肉たっぷりに「ようこそニューヨークへ」と言うロバートの言葉に純粋に「ありがとう」と答えるジゼル姫に何かを感じるロバート。
この手の映画ではおとぎ話の道徳観をおちょくるものが多いが、この映画ではジゼルの純粋な感情をおちょくる気配は全くない。それどころかジゼル姫の誠意が一見シニカルにみえるニューヨーカーの心を動かす。それというのも、ニューヨークにきて実写になってるジゼル姫はおとぎの国にいた頃の不思議な力を失っていないからだ。姫が森で白雪姫さながらに鳥や動物たちをソプラノの声で呼び寄せる力はニューヨークの高層ビルからでも鳩や溝鼠やごきぶりに通用するし、ロバートが5年間つきあっている恋人のナンシーに最近愛していると言っていないという言葉に「言わなければ、彼女はあなたに愛されているとどうしてわかるの?」と言って歌い出すシーンでは、姫の歌声に魅せられてセントラルパークにいる普通のニューヨーカーがつられて歌い出し道路工事現場の労働者が踊り出したりして大規模なミュージカルナンバーになってしまう。
現実の社会に住むロバートは、離婚専門の弁護士で醜い離婚裁判をさんざんみせつけられ永遠の愛など信じていない。だからエドワード王子との愛を語るジゼル姫もどっかねじがはずれたかわいそうな女性くらいにしか考えていない。しかし前妻に逃げられて男手一つで6歳のモーガン(レイチェル・コーベイ)を育てるロバートは現実の愛に失望しているとはいえ決して悪い男ではない。それどころかおとぎ話の理想を追い求めて娘のモーガンが傷付くのを恐れている娘思いの父親なのだ。この当たりがサンタクロースなど信じるなといっていた34丁目の奇跡の母親に似ている。ロバートがシニカルなのは傷付くのを恐れるためだ。
さて、ロバートにジゼル姫がすくわれたとは知らないエドワード王子は一足遅れてニューヨークへやってくるが、ハンサムで誠実で勇気満々だがおつむの方は空っぽなのでやることが完全にとんちんかん。自分の婚約者をニューヨークへ送り込んだのがまま母であることも、従僕にみせかけているナタニエルの醜い本性も見抜くことができないで、やたら勇気を振り回して歌いだすから厄介だ。
だが、この王子を憎めないのは、彼のやることには全く裏腹がなく常に誠実だということだ。この王子を演じているジェームス・マースデンは確かヘアースプレイでもきれいなだけ軽薄な男を演じていたが、不自然に美形なだけにこの手の役が似合うのかもしれない。
ロバートがジゼル姫から永遠の愛が存在することを教えられるのと同時に、ジゼル姫もまたロバートのおかげで恋に落ちるということは、単に美男美女が白馬にまたがりながら愛の歌を歌うことではないのだと学ぶ。
物語の結論はおとぎばなしのように予測は付くが、それでも終わったときに感激の涙と笑顔で、「めでたし、めでたし」とつい拍手喝さいを送りたくなってしまう映画だった。


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予告編の域を出ない「ライラの冒険、黄金の羅針盤」

日本では三月半ばに公開されることになっているファンタジー映画、Golden Compass, 邦題「ライラの冒険、黄金の羅針盤」を観てきた。日本語の予告編はこちら
ミスター苺が原作のライラの冒険を読んで非常に気に入ったので、映画にも期待を寄せていた。しかし、こんなことはいいたくないがちょっと失望したというのが本音である。
この映画の原作はフィリップ・プルマン著の同題の小説三部作の第一部にあたる。あらすじを説明したいのだが、複雑すぎる上に説明不足でいったい何がなんだかさっぱりわからないというのが正直な印象だ。
***あらすじ****
私なりに映画を見ただけで理解したあらすじを述べるならば、先ずこの世界には似通ってはいるが少しづつ違う多数の次元が存在するという設定だ。この映画の舞台となっている次元では人々の魂がディーモンと呼ばれる動物の形をして体の外に現れる。このディーモンは精神的にも肉体的にも母体である人間と深く結びついており、動物の形をしているとはいえ母体の人間と普通に会話を交わすことができる。ディーモンが傷つけられれば人間も傷付き、人間とディーモンが切り離されると母体の人間は魂の抜けたごとく恍惚の人となってしまう。
この世界を統治しているのは中世ヨーロッパのカトリック教会さながらのマジェスティリアンと言われる組織である。マジェステリアンは人々の私生活から思想にいたるまで細かく支配している。
主人公のライラ(ダコタ・ブルー・リチャード)は、物心ついた時から大学に預けられて教育を受けている多感な少女である。ちまたでゴブラーと呼ばれる怪しげな組織に子供たちが次々と誘拐されているという噂を耳にしても、ライラは親友のロジャー(ベン・ウォーカー)に「あんたがさらわれたら絶対助けにいってあげる」と断言できほど決断力も勇気もある少女だ。
ライラの保護者であるアスリアル伯爵(ダニエル・クレイグ)は冒険家でしょっちゅう危険な場所を旅しているが、今回は北極において別の次元への糸口となるダスト(埃)と呼ばれる不思議な現象を発見したと大学の教授らの前で発表する。伯爵はこれをさらに研究するため大学から研究資金を出してもらうべく帰国して嘆願する。しかし別次元の窓口への研究は自分達の権力に脅威を及ぼすと考えるマジェステリアはこの伯爵の研究に懸念を抱く。
マジェステリアの意向に背き、伯爵に研究資金を提供した大学の学長(ジャック・シェファード)だが、危ないからと伯爵には置いてけぼりを食ったライラを、自分の助手にして北極探検旅行につれていきたいという不思議な女性、コルター夫人(ニコール・キッドマン)の要請を断ることができない。学長はライラに夫人を「学校の友人」として紹介するが、その口ぶりから何らかの形で夫人が大学の方針にかなり口出しできる権力者であることがわかる。
もともとアスリアル伯爵について北極旅行をしたいと思っていたライラはこの機会に飛びつく。夫人と旅立つ前夜、学長はライラに「真実を示すものだ」として黄金の羅針盤を渡す。この黄金の羅針盤がライラの人生を大きく変えることになろうとはこの時のライラには知る由もなかった。
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とまああらすじはこの程度にしておこう。予告編を見てもらえばわかるが、後にライラはコルター夫人と別れて北極での冒険にディーモンを持たないが人間と同じ頭脳を持つ鎧を着た白熊を雇ったり、マジェステリアを敵にまわしているジプシャンといわれる地下組織の仲間になったりして冒険を繰り返す。コンピューターアニメーションで描かれているシロクマの声は「ロードオブザリングス(LOTR)」でガンダルフを演じたイアン・マケオンの声だ。またマジェステリアのリーダーとして、シェークスピア役者のデレック・ジャコービが顔を出すが、その会議の席に座っている幹部の役柄でカミオ出演しているのは同じくLOTRでサルマンを演じたクリストファー・リー。魔女役で登場するのは先の007のボンドガール、エバ・グリーンと、豪華絢爛な配役なのだが、映画そのものの出来はというといまひとつ物足りない。
まず原作ではこれが三部作の一部目なので、話が完結しないのはしょうがないのだが、映画としては三部作だといって作っていない限り、一応話しの筋がまとまるようにしておくべきだ。冒険が次に続くのはかまわないのだが、一応この冒険はこれで終わりという一段落をつけてもらいたい。
第二に、この映画の主題はいったい何なのかがわからない。最初にこの世界以外に別の次元があるというナレーションが入るわりには、その筋がいまひとつ煮つまらない。どうして別の次元との交流があると現次元の支配者が困るのか、どうしてアスリエル伯爵はそんなに一生懸命別の次元に行きたいのか、そのへんの説明がほとんどない。
また子供が何者かによって拉致されているという話も、ライラは子供たちを救う目的で冒険を始めたというより、たまたま冒険に出合ったという感じで、どうして彼女が危険を承知で冒険に出かけるのかその動機がどうも頼りない。
人間とディーモンとの深いつながりが充分に説明されていないため、どうして子供をさらって組織がその関係に拘っているのかよく理解できない。
それに非常に大事なものだとして渡された黄金の羅針盤が、あまり活躍しないし、ライラがしょっちゅう眺めている割にはこの羅針盤がどういう意味を持つのか、ライラが学ぶ過程がまったく描かれていない。またライラがこの羅針盤を解読できるのは、ライラがこの世界で言い伝えられている不思議な才能を持つ魔女だからではないのか、という話も尻切れトンボになっている。
つまり、この映画は登場人物と、この次元の仕組みを説明するだけで終わってしまっており、なにやら二時間に渡るなが~い予告編をみさせられた感じがした。いったい何時になったら肝心の話が始まるのだろうと思っているうちに映画は終わってしまった。
人気が出たら、二部三部と続けるつもりだったのだろうが、週末の入りはかなり悪かったらしいから続編は無理だろう。


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悲劇的な封切り、ディパルマ監督の反米映画「リダクテド」

このあいだも反戦映画が不入りなのはなぜか?でも書いたが、アメリカで次々に公開されている対テロ戦争への批判メッセージを多分に含んだ反戦映画が全く人気がない。しかしその中でもアメリカ兵がイラク少女を強姦しその家族を惨殺するという話を描いたブライアン・ディパルマ監督の「リダクテド」には観客は全く近寄らない。ニューヨークポストによれば、封切りの週末の売り上げ成績はなんとたったの$25,628、全国でこの映画を見た人はたった3000人という計算になる。 これは興行上まれにみる大惨事となった。プロデューサーのマーク・キューバンはディパルマに経費だけで売り下げたいと提案したが、周到なディパルマは断った。

映画評論家のマイケル・メッドビッドは「私が見たなかで最悪の映画」と批判。…「Aリストの映画監督、大規模な宣伝、タイムス、ニューヨーカー、左よりのサローンのようなサイトなどでの高い評価にもかかわらずです。もっと少ない劇場で公開されたジョー・ストラマーのパンクロックバンド、クラッシュのドキュメンタリーの三周目より少ない客入りです。」とある映画関係者はメールで語った。「映画の反戦テーマに賛成してるひとたちですら観にいく努力をしなかったということになります。」

反戦だからといって反米とは限らないと私は何度も強調しているのに、まだ映画関係者は分からないらしい。
私が心配するのは、アメリカ国内でこのような映画がいくら不人気でも、これが諸外国で公開された場合の悪影響である。特に言論の自由のないイスラム諸国では、真実でない背信映画を国が政策を許可するはずがないと考える。だからこのような映画がアメリカ人の手でつくられたということは真実に違いないと勘違いしてしまう可能性が高い。それでなくてもアメリカへ嫌悪の意識が高いこれらの国へ、アメリカ人自らの手で反米プロパガンダをつくることの愚かさ。これでテロリストへの志願者が増え、アメリカ人が一人でも多く殺されたら、彼等の血はマーク・キューバンとブライアン・ディパルマの手に塗られていると自覚してもらいたいものだ。


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