クリスマスに欠かせない映画リストに加わった「ロンドンに奇跡を起こした男」

本日は昨日観た「ロンドンに奇跡を起こした男」を紹介したいと思う。原題は”A man who invented Christmas.” 実はこの映画アメリカでは去年のクリスマスに公開になっており、私とミスター苺と友達の三人で映画館でみたのだが、今年のクリスマスシーズンに是非また観たいと思ってミスター苺にDVDを注文してもらった。それで昨日二回目の鑑賞となったわけ。

そしたら日本での公開は今年の11月末だったということなので、感想を書くのにはちょうどいいタイミングだ。

映画のテーマはかの有名なイギリスの作家チャールズ・ディケンズがどのようにしてクリスマスカロルを書くに至ったかという話だ。添付した予告は日本語吹き替え版。

私がクリスマスカロルを読んだのは中学一年生の時。実はその内容については全く知らずに文庫本を買い、読みだしたら止まらなくなり一気に読んでしまった。この映画を観る前提としてクリスマスカロルを読むか、いくつかある名作映画の一つでも観ておくとより楽しみが増す。一応クリスマスカロルをご存知ない方のために概要を説明するが、知ってる人は飛ばして次の段落へどうぞ。

クリスマスカロルあらすじ:18世紀のロンドンにスクルージという強欲でケチな金貸しが居た。彼はお金持ちであるにも拘わらず、たった一人いる従業員のボブを低い給料でこき使い、事務所の暖炉にくべる炭すらも節約させていた。たった一人の親戚である甥のフレディが毎年クリスマスに家に招待するが、「クリスマスなどくだらない」と毎年甥っ子を追い払っていた。

そんなスクルージのところへ7年前のクリスマスイブに亡くなったビジネスパートナーのマーリーが幽霊となって現れる。マーリーは生前強欲な人生を送ったおかげで今はあの世で鎖につながれてさまよっていると語る。スクルージが自分と同じ目に会いたくなければ、改心して生き方を変えねばならないと忠告。スクルージはそんな必要はないと拒絶するが、マーリーは今夜続けて三人の幽霊が現れる。そして彼らがスクルージの改心のために導いてくれるので、彼らの言うことをよーく聞くようにと言い残して去っていく。

「馬鹿馬鹿しい、夕飯の消化不良で妄想を見たのだ」そう思って床についたスクルージだが、午前一時の鐘が鳴ると、マーリーが言った通り、一人の輝かしい姿をした幽霊が自分の目の前に現れるのだった、、、以下省略。クリスマスカロルのあらすじ終わり

さて本題の映画だが、1843年の冬、チャールズ・ディケンズ(ダン・スティーブンス)はオリバーツイストやニコラスニコルビーなどの作品の成功で、アメリカ講演ツアーなども行うほどの人気作家になっていたが、その後三作続けて不作が続きスランプに陥っていた。しかも、気前よく慈善事業に寄付したり身分不相応の贅沢をしたりしていたことなどもあり、かなり金銭に困るようになっていた。そのうえ借金ばかりして子供時代のディケンズに散々苦労をかけていた父親のジョン(ジョナサン・プライス)と母親が隠居していた田舎からロンドンに出てきてディケンズの家に居候を始める。すでに子だくさんのディケンズの妻ケイト(モーフィッド・クラーク)は、さらに妊娠していることを告げる。なんとか今年中に新作を発表して成功させなければ破産寸前のディケンズ。そんな彼が思いつくのが強欲な金貸し男のクリスマスの話、、

何故私が最初にクリスマスカロルを知っておいた方がいいと言ったかと言うと、この映画の節々でディケンズがカロルで使ったキャラクターのモデルとなる人々や、小説のなかのセリフが出てくるからである。

例えば冒頭で出てくる鼻持ちならない金持ちとディケンズの会話で、貧乏人への寄付をする必要はないと述べる金持ち男が「(子供専門の)工場や刑務所はないのかね?」とディケンズに問うシーン。「ありますよ、でもあんなところに行くくらいなら死んだ方がいいと思うひとがほとんどです。」と答えるディケンズに「だったら死んで人口過多に還元すればいい。」と金持ちが答えるやりとりは、そのままスクルージと寄付を集めに来た紳士たちとの会話。

他にも、ディケンズはお金があったのに一人寂しく死んで葬式に誰も来ない孤独な男の埋葬を目撃したり、やせこけた子供二人をコートの下から見せて子供を売ろうとしている男に怒りを覚えたり、クリスマスなどくだらないと言いながら通り過ぎる老人を見かけたりする。こうしたシーンは物語のあちこちに登場する。

さて、ディケンズが作家としてどのようなことを小説の参考にするかというのを見るのも面白いが、作家というビジネスがいかに大変かを知るのも興味深い。ディケンズは三作も不作続きだったため出版社からの前借はもう出来ない。そこで親友でマネージャーのジョン・フォスター(ジャスティン・エドワーズ)と個人的に資金繰りをする羽目になる。挿絵作家や印刷工場との交渉も自分たちで行い、クリスマス前の6週間ですべてを完了されなければならないのだ。つまり、完全なる自費出版。これで小説が駄作で売れなかったら完全に破滅。ものすごいプレッシャーである。

さて、映画を観ていて気付くことは、ディケンズの目の前に表れる物語の登場人物たちはディケンズの知り合いや友達や使用人の姿とだぶっていること。スクルージ役のクリストファー・プラマーは映画の最初の頃に「クリスマスなんかくだらん」と言って通り過ぎた老人だし、スクルージの元パートナーのマーリー(ドナルド・サンプラー)は、ディケンズが良く行く紳士クラブの年寄りウエイターだし、クリスマスの過去の幽霊はディケンズの子供たちに幽霊の話をしていた若い女中のサラ(アナ・マーフィー)。そしてクリスマス現在の幽霊は挿絵作家がインスピレーションが沸かないと言った時にモデルに使ったディケンズの親友ジョン。(付けたし:片輪のタイニーティムは姉夫婦の息子がモデル。)

ディケンズは自分が作り出したキャラクター達と話をしながら小説を書いていく。だがだんだんとキャラクターたちがディケンズと議論を始める。ボブの片端(かたわ)の息子ティムが死んでしまうなどとんでもない、とか、スクルージが改心せずに話が終わるのはおかしいとか。

ディケンズは大人になって小説家として成功し、幸せな結婚生活を送っているが、実は子供の頃はいい加減な一発屋の父親の借金のためにワークハウスと言われる劣悪な労働環境の子供ばかりの手工場で奴隷のようにこき使われた過去がある。ディケンズはそのことで少なからず父親のことを恨んでいた。

小説を書くにあたり試行錯誤するディケンズが、キャラクターたちとの交流によって、妻や親友や使用人たち、そして父親との関係も見直すようになっていく過程は心を撃つ。

主役のダン・スティーブンスは他の映画では見たことがなかった。典型的なイギリス人俳優という演技だが、結構三枚目的なところが、「ジーブス」や「ハウス」などのテレビ番組で有名なヒュー・ローリーと似ている。考えが浮かばずに書斎で大暴れするシーンは面白い。格好悪さを全くきにしない演技が素敵だ。

私が特に気に入ったのは父親役のジョナサン・プライス。彼はミュージカル俳優としても有名だが、お人好しで、親しみも持て、子供たちにはとっても優しいが、経済観念ゼロなため全く頼りにならない父親役をとても同情できる人として演じている。

今年から我が家ではクリスマスシーズンには欠かせない名作映画の一つに加わった。

ちなみに私がお勧めするクリスマスカロルの映画は、ジョージ・C・スコット主演の「スクルージ」。ご参考までにどうぞ。

付けたし:日本語吹き替え版ではスクルージをミュージカルで演じた市村正親がスクルージ役で登場。主役のディケンズは私が大好きな声優小野大輔。二人とも適役!


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映画ボヘミアンラプソディー、フレディの人生よりバンドの功績に焦点をあててほしかった

先日、クイーンのリードボーカリスト、フレディ・マーキュリーの人生を描いた映画ボヘミアンラプソディーを観て、その感想をツイッターで色々書いていたら結構反響があった。あ、こういうことはブログに書かなきぃかんなと今頃思いついた。

クイーンは1970年代中期に大ヒットして1980年代にはイギリスで80年代最高のバンドとして賞までもらってるくらいの偉大なロックバンド。最初はヘビーメタル調だったが、フレディ・マーキュリーの影響もあって、ハーモニーを生かしたオペラ的な音楽をやってみたり、個性的な音で旋風を巻き起こしたバンド。

映画がどんな風かは実際に映画と事実とでの違いを指摘した記事があったので、これを読んでいただくとよくわかるのだが、先ずバンドの結成から始まり、結成してからアメリカツアーにたどり着く、ロックとしては風変りなボヘミアンラプソディーの誕生、バイセクシャルなフレディと、その妻との不思議な友情、フレディのシングルアルバム、そしてライブエイドコンサートでのクライマックス。

映画の筋としてはあんまり大したことはない。バイオピック(伝記映画)でも面白いものもあるが、普通の人は、例えロックンローラーでも、そんなに波乱万丈な生き方をしているわけではないからだ。特にクイーンはみんな高学歴でフレディ以外はそれほど破廉恥な生き方をしておらず、麻薬におぼれて破産してしまうとか結婚離婚を繰り返すとかいったこともしていない。つまり、プライベートではそれほど変な人生は送っていないのだ。

この映画はクイーンの映画というよりフレディ・マーキュリーのプライベートな人生に焦点を当てすぎている。フレディは確かにカラフルな人ではあったが、ファンとしては彼の人生そのものよりも、クイーンのメンバーとしてどのように音楽創りをしていたかに興味があるのではないだろうか?いや、ファンでなくても、そういうことに焦点を当てた方が面白い。

映画でもバンドがスイスの山奥のモントレー(Montreux)スタジオでアルバムを作る場面が出てくるが、別のドキュメンタリーのインタビューで観たリード・ギターリストでバンドのリーダーでもあるブライアン・メイによると、当時クイーンは色々な音を試していた。多重録音もその一つ。彼らが尊敬していたビートルズもアルバムで色々試していたが、クイーンの頃は録音技術も発達していたので、かなり面白い音が出たと話していた。映画でも色々メンバーたちがドラムに水をかけたり、バケツを使ったりというシーンがあったが、彼らが何をしようとしていたのか、もう少し説明があってもよかったのではないかと思う。

私にとってのクイーンと言えば、中学生の頃にラジオのロック音楽番組を聴いてた頃に、キラークイーンが何週間もナンバー1だったというのが最初の記憶。当時クイーンは日本ツアーを行っており大成功を収めている。日本ツアーをした頃の動画がユーチューブでも見られるので是非ご覧になることをお勧めする。今思えばコンサートに行ければよかったのなあ。(コンサートなんて親が絶対に行かせてくれなかった。)

日本ツアーと言えば、ツイッターで色々な人から指摘されたのだが、クイーンはアメリカよりも日本で最初に人気が出た。アメリカツアーは日本ツアーの後なのである。クイーンが日本に来た時に日本は大歓迎で、何百というファンが空港におしかけたり、クイーンは行く先々で群衆に出会い、ちょっと怖い思いをしたようだ。これも別のインタビューで観たのだが、彼らは日本に来る前にそれほど自分たちが日本で人気があるとは知らず、また日本のファンはお行儀がいいので心配はないと言われていたのに、実際にコンサートをやったらみんな立ち上がって舞台に駆け寄ろうとしたりの大騒ぎでびっくりしたそうだ。

そういうこともあるので、クイーンのバイオピックに日本ツアーが出てこないのは不自然。しかし他のファンの人から「日本ツアーの様子は出てましたか」と聞かれて、そんなシーンはなかったなあと不思議に思ったのである。

そうしたらば、、なんと、実際は日本ツアーのシーンは撮影してあったんだそうだ。何故か本編ではカットされたという話を聞いて驚いてしまった。これにはちょっとしたコントラバーシーがあり、映画の予告ではドラマーのロジャー・テイラーが旭日旗のTシャツを着て空港(多分成田)に他のメンバーと到着するシーンがあったが、誰かからのクレームで(誰とは言わないが)ロジャーのシャツが赤く塗りつぶされたというのである。本編ではこの予告シーンは全く使われていなかったので、私にはよく意味が解らなかったのだが、日本ツアーのシーンが完全に削られていたとなって、やっとその意味が分かったのだ。

さて俳優だが、フレディ以外はずいぶんメンバーに似た人たちを集めたなと思う。特にベースのジョン・ディーコンなんかそっくり。クイーンのメンバーたちが女装して歌う”I want to break free”では、あのミュージックビデオがかなり正確に再現されていて、ロジャーは完全コピーだ。

当時のロジャーはすごくかわいくて本当に女学生に見えた。うちの父はフレディやロジャーの高音から、クイーンには女性が居ると思い込んでいて、アルバムの写真でロジャーを観て納得していたものだ。

ところで女装のアイデアはロジャーで、フレディが口ひげをわざと剃らずに女装したが、間に入ったバレエのようなシーンはフレディのアイデア。その場面ではちゃんと髭をそっている。そういうことも映画で言ってくれたらおもしろかったのに。

他のメンバー役の役者たちはすごく似ているのに、フレディ役のラミ・マレックは全然似てないし演技も下手。フレディがトルコ系だったから、人種が近い人を探したのだろうけど、別に似てなくてもいいからもっと演技のうまい人にやってもらいたかった。フレディが出っ歯だったので、マレックは多分付け歯を使ったのだろうが、それでセリフが言いにくそうだった。それに、フレディの男らしい勇ましさを全く感じられない小柄な感じに見えた。身長はフレディと同じなんだそうだが、どうしてあんなに小ぶりに見えたのだろう。やっぱりフレディの存在感を表すのは難しかったのだろうか。つまり、それだけ演技が下手だってことだ。

ただ、全体的にクイーンの演奏によるヒット曲がちりばめられており、特に最後のライブエイドのシーンでは本当に野外コンサートを観てるような迫力があった。クイーンファンなら音楽を聴くというだけでも観る価値はある。最後には一緒に「うい~あ~ざちゃ~んぴお~んず」と合唱しよう。

余談だが、80年代後半、アメリカでクイーンの人気が下火になっていた頃、自分の映画ウエインズワールドの一シーンにボヘミアンラプソディーを起用し、クイーンのアメリカでの人気を盛り返すことに貢献したマイク・マイヤーズがプロジューサーの役で出演している。

配役:
フレディー・マーキュリー:ラミ・マレック
ロジャー・テイラー:ベン・ハーディー
ジョン・ディーコン:ジョセフ・マツェロ
ブライアン・メイ:グイリム・リー


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舞台:同性愛を全面的に出し過ぎた「ドリアン・グレイの肖像」

19世紀の詩人オスカー・ワイルドが書いた唯一つの小説として有名な「ドリアン・グレイの肖像」を地方劇団の舞台で観て来た。あまりにもローカルな話題なので劇団名を紹介しても意味ないかもしれないが、一応ノイズ・ウィズインという劇団の公演で、動画広告のリンクはこちら

あらすじ:舞台は19世紀のロンドン。画家のバジル・ハルワードは素晴らしい美貌を持つ青年ドリアン・グレイの神秘的な魅力に魅せられその肖像画を描く。バジルの友人ヘンリー(ハリー)・ワットン卿は画家の部屋でモデルをするグレイに遭遇。若さと美しさのみに価値があるとハリーに言われ、自分の代わりに肖像画が年をとればいいのにと願うドリアン。その後ハリーの悪影響で堕落したデカダンスな生活を満喫するドリアンは、いつの間にか自分ではなく肖像画が年を取っていくことに気が付く。しかも自分がなにか悪行を犯す度に、肖像画は醜くなっていくような、、、

有名な話なので何度も映画化や舞台化されている作品だが、こういうクラッシックも現代的な価値観で観るとずいぶん違った舞台になるものだなと思った。オスカー・ワイルドがバイセクシャルだったことは有名だが、だからといって彼の作品に同性愛色が濃いと考えるのは短絡的な発想だ。原作を読んでもドリアン・グレイが同性愛者だったという描写はないし、ましてやハリーやバジルに限ってはそんな気配すらない。だが、この舞台では、女性を除く男性の主要人物はすべてゲイであるという設定になっていた。

先ず最初のシーン。まだドリアンが登場する前の場面で、バジルがドリアンの肖像画を描きながら、ドリアンとどのように出会ったかという話をハリーにしているときの回想シーンでは、バジルとドリアンがほぼ顔と顔を突き合わせるようにして立っている姿が登場する。明らかに二人の間に同性愛的な興味が生まれたという描写だ。そんな話をしている時にドリアンが登場。ドリアンの美貌に一目ぼれするハリーの前でドリアンはさっさと衣服を脱ぎ捨て素っ裸になって壇上に立ちポーズをとる。言っておくがこれは舞台なので(私は最前列だった)素っ裸の姿は観客全員の前でということになる。

別に役者が脱ぐこと自体は問題ではないが、この場面でドリアンが裸になる理由がよくわからない。19世紀の時代的背景から言って貴族の男性が自分の肖像画に裸でモデルになるというのは先ず考えられないからだ。

ま、それはいいとして、ドリアン・グレイの悲劇はジキルアンドハイドと非常に似ている。舞台は同じくビクトリアン時代のロンドン。何故この時期が大事なのかというと、当時のイギリスの上流階級はビクトリア女王の潔癖主義影響を受けて男も女も非常にお行儀のよい行動をすることが求められていた。結婚している夫婦のセックスですらも必要悪と思われていたくらいなので、婚外交渉などもっての他であったし、ましてや同性愛など完全に違法。事実、著者のワイルドはその趣味が原因で刑務所送りになったくらいだから。

そういう時代なので、社会が許さない価値観でドリアンを誘惑するハリーの存在は重要なのだ。ハリーは美しく潔癖なドリアンを自分の自堕落で邪悪な世界に引き入れようと誘惑するのである。彼はドリアンを自分の愛人にしようと誘惑しているわけではない。ここで二人の関係を同性愛で引き寄せられたかのように表現すると、ハリーが代表する邪悪な世界の危険性が薄れてしまう。

またバジルがドリアンとハリーが仲良くなりすぎることを警戒するのも、バジル自身が善良な人間なので、ドリアンがハリーの悪影響にそまってしまうことを恐れているのであり、自分が片思いするドリアンをハリーに盗られてしまうという嫉妬と描かれるべきではない。

ドリアンが同性愛行為をしたり、その魅力で男性を誘惑すること自体は問題ないだろう。なぜなら当時の価値観から言えば、同性愛による誘惑は邪悪で変態的なものと受け取れるからで、他人を堕落させるドリアンの行為としては納得がいくからだ。しかし、それはドリアンが同性愛者ではないという前提があってこそ成り立つ理屈であり、彼が実際に同性愛者だったらこれは意味がない。

この舞台で一番気になったのは、肝心な肖像画が全く描かれていないということだ。これは意図的なものだというのは解るのだが、わざと等身大の額縁だけを見せ、額縁の向こう側で数人の黒服の男女がひそひそ声でドリアンやハリーのセリフを繰り返す。おそろしく変貌した自分の作品を見てバジルが驚愕するシーンでも絵そのものは見せない。

ドリアンの代わりに絵が変わっていくという話なので、絵がどのように醜くなっていくかを示さないとこの物語の一番肝心な部分が抜けてしまう。いったいバジルは何にそれほど驚愕したのか、ドリアンがこの絵を恐れて屋根裏部屋に隠してしまうのは何故なのか、やはりその中身を見せないと意味がない。

カカシ注:この先はネタバレ

遂に自分の犯した悪行の数々に罪悪感にさいなまれたドリアンが、醜く変貌し自分の魂を映し出す肖像画を破壊しようとする。しかしその途端にドリアン自身が醜い姿へと変貌し、肖像画は昔の美しいドリアンの姿へと戻る。

最後のシーンは醜く変貌したドリアンの死体を使用人が発見するという、ジキルとハイドと非常に似たような場面になるのだが、この舞台ではまたまた主役が素っ裸になって額縁の中に立ち、年寄りの俳優が床に横たわっていた。しかし年寄りの俳優は年はとっていたが特に醜くもなく、観客にショックを与えるような姿ではなかった。

醜い絵を破壊しようとして自分が破壊された時のドリアンは吐き気を催すほど醜い姿でなくてはならない。ここでも単に肖像画はドリアンを若く保つためだけのものだったと描写されていることに不満を覚えた。

同じ題名で日本でも舞台化されたようだが、あらすじを読む限り中身は全然違うようだ。

配役:

ヘンリー・ワットン卿:フレドリック・スチュアート
バジル・ハルワード:アミン・エル・ガマール
ドリアン・グレイ:コーリン・ベイツ


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理解しがたいトランスジェンダーの「同性愛」嗜好

ちょっと変な短編映画を二作見てしまった。ユーチューブでたまたま出くわしたので題名も何も覚えてないのだが、二つともテーマが女性から男性に移行した人たちが男性に恋をするというものだったのでちょっとお話したい。

最初の映画の主役はゲイの男性で、男性だと思って付き合いはじめた人物が実は元は女性のいわゆるFTMであることを知って戸惑う話。主人公がFTMの子の友達と会うシーンでは、みんなLGBTQ+の訳の解らない代名詞を使うことを主人公に要求。ゲイの主人公は「僕にはわかんないよ、僕は『正常』な人間だから!」と言うシーンは笑ってしまった。男の人を好きになるゲイの男性が普通というのがトランスの世界なのである。これはもしかしてトランスジェンダーやノンバイナリーとかいう訳の解らん連中をおちょくったパロディ映画だったのかもしれない。

もうひとつの方は、主人公の男性が男と思って付き合った人間が、ゲイバッシングでさんざん殴る蹴るの暴行を受け病院に運ばれる。そこで恋人が実は女だったことが解り主人公は吐いてしまうほどショックを受ける。しかし相手がFTMであることを受け入れた主人公は、再び恋人と付き合うようになるが、いざセックスをしようとしたら実は主人公もFTMであったことが解って今度は恋人の方が拒絶する。その恋人は「僕はずっと普通の人として溶け込みたいと思っていた。」と言って去っていく。

私はこの結末を予測していたので驚きはしなかったが「なんでだよ~!」という気持ちでいっぱいだった。生物学的な女性が男性に魅力を感じるならそれは普通ではないか?男性/女性であるということの基本は異性に対する性欲であるはず。だからこそ同性愛者は異質な存在なのであり少数派として扱われてきたのだ。それが異性に愛情を感じるのに自分は異性だと思い込むというのはどういうことだろう?しかも「普通の人間として溶け込みたい」人が、わざわざ社会が異質と思う性転換という行為に及ぶというのはどういうことなのか?異性が好きならそのままの状態で異性と付き合えばいいだけの話。そうすれば普通の人間として社会に溶け込むことが出来るではないか。それが普通なんだから。

ところで最初の映画で主人公と恋人がどのようにセックスすればいいのかを悩むシーンがあった。だが、二人は生物学的な男女カップルなので、普通にすれば全く問題ないと思うんだけどね。人間はそういうふうに出来てるんだから。

余談だが、私の美容師はゲイの男性だがもう孫が何人も居るおっさん。それというのも男と思ってナンパした子が実は女性で、一回きりの交渉で女性が妊娠してしまったからなんだそうだ。彼の場合、相手が異性とわかっても特に拒絶反応は起きなかったらしい。その後その女性とは結婚はしなかったが、母子とはずっと家族として付き合ってる。だから孫たちからも慕われている。

自称トランスの人々は、どうして生まれたままの性を受け入れることができないのだろう?同性に愛情を感じるというのは感情の問題なのでどうしようもないが、自分が女性/男性として生まれたことは単にそれを受け入れるだけで何の弊害も生まれない。好きな人が同性でも異性でも今の時代特に問題はない。異性のような恰好をしたいならすればいい。制服などで規制されている場合は臨機応変に対応し社会になるべく迷惑のかからないプライベートな時に男装なり女装なりを楽しめばいいではないか。

私が同性愛者に関しては全く嫌悪感を覚えないのにトランスジェンダーを受け入れられないのは、彼/彼女たちが自分らの異質な嗜好を他者に押し付け拒絶されると、ありのままの自分を受け入れてくれない、といって駄々をこねるからである。

ありのままの自分を最初に拒絶したのは誰あろう自分たちなのに。


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「国家が死滅する時」トランプは第二のリンカーンに成り得るのか?

保守派作家で映画プロデューサーでもあるディネシュ・デスーザ(Dinesh D’Souza)製作のドキュメンタリー映画、“Death of a Nation”(国家が死滅する時)を観て来た。デスーザ制作のドキュメンタリーはこれで確か四作目だが今までで一番良い出来になっていると思う。

デスーザは過去に「オバマのアメリカ」、「アメリカのない世界」、「ヒラリーのアメリカ」といった保守思想を全面的に押し出した映画製作で有名だ。オバマ前大統領はデスーザの映画にいたく腹を立て、普通なら罰金程度で終わる選挙法違反行為でデスーザを逮捕し禁固刑に処すという行為に出たほどだ。せんだってトランプ大統領はデスーザに恩赦を下し、晴れてデスーザは前科者の汚名を晴らすことが出来た。前作のヒラリーのアメリカはヒラリー・クリントンが大統領選で落選するのにかなりの影響を与えたと言われている。

さて今回の国家が死滅する時は、ファシズムとは何であるのか、そして如何に米民主党がその創設時からファシズムを崇拝してきたかを如実に語っている。デスーザの映画はドキュメンタリーとはいうものの、半分は俳優を使った再現シーンで回を重ねるごとにその質が高まっている。今回もドイツ人俳優を起用してヒットラーやその配下のブラウンシャツ愚連隊による悪行が赤裸々に描写されている。

映画は普段トランプ及び共和党をナチスだのファシストだの人種差別者だのと罵っている米民主党こそが、実はファシズム及び奴隷制度を信念としてきた党であり、彼らがことあるごとに持ち出してくるナチスの政策は実は米民主党の政策をお手本にしていたということを順序だてて証明していく。

読者諸氏のなかでアメリカの奴隷制度や黒人差別法や白人至上主義テロ軍団KKKを固持していた党が現在リベラルを気取る民主党だということをご存知の方がどれだけいるだろうか?ご存知ないとしても気を悪くすることはない。アメリカ国内で特に民主党支持派のなかでこの歴史的事実を知っている人の割合は限りなくゼロに近いのだ。

ヒットラー曰く「大きな嘘は繰り返し語れば信じてもらえるようになる」。民主党は絶対的なファシスト奴隷主義党の過去を隠すために1960年代の人権運動後、自分らこそが少数派の人権を守る正義の味方であり共和党こそが人種差別の党なのだという大嘘をつき続けてきた。そして主流メディアが一緒になってこの嘘を広めたため、多くの人がジム・クロー法のような人種差別法を施行したのが民主党で、白人至上主義テロ団体であるKKKが民主党の手先だったという事実を忘れてしまった。今や大半の黒人は共和党こそが人種差別の党であると信じている。敵ながらあっぱれなプロパガンダ政策である。

だが歴史的事実はこれとは全く正反対。後退派左翼はアメリカが奴隷制度によって設立された国だと言い張るが、アメリカの創設の父たちは奴隷制度を嫌っていた。独立宣言のなかで「すべての人々は平等に創られている」とあるのは文字通り白人も黒人も平等だという意味だった。ではなぜその場で奴隷制度を廃絶しなかったのかと言えば、南部の州(後の民主党)が奴隷制度廃絶をするなら独立運動に参加しないと断固拒否したからなのだ。奴隷貿易を廃止し黒人の価値をゼロと言い張っていた南部に対してその価値を白人の3/5まで引き上げたのも、奴隷制度を固持したい南部と廃止したい北部との妥協だったのだ。しかし、後になって奴隷制度を廃絶することが出来たのは、この「すべての人々は平等」という独立宣言があったからこそなのである。(「すべての白人」としていないことからもそれは明白なはず。)

民主党創設者のアンドリュー・ジャクソン大統領はファシストで奴隷制度主義だった。映画はヒットラーがいかにジャクソンを崇拝し彼の思想をお手本にしていたかを語る。興味深いのはユダヤ人種浄化を図ったナチスでさえ、誰をユダヤ人とみなすかについて、米民主党による『一滴でも黒人の血が混ざっていれば黒人とみなす』という基準はあまりにも人種差別過ぎると判断し、ユダヤ人とみなされるには少なくとも祖父母の三人までがユダヤ人である場合に限るとした点だ。

今や悪の代表として引き合いに出されるナチス党のファシズムだが、アメリカを第一次世界大戦に巻き込んだウッドロー・ウイルソン大統領も、リベラルの神様みたいに崇め奉られているフランクリン・D・ルーズベルト大統領も完全なるファシストだった。ヒットラーは同じファシストのルーズベルトが大統領に選ばれたことを歓迎していたくらいなのだ。(日本が真珠湾攻撃をしたり、ドイツがアメリカに宣戦布告をしたりなどしなかったら、世の中はどれほど変わっていたのか、考えただけでも恐ろしい。)

ファシズムは右翼だと言う人がいるが、これは正しくない。ファシズムとは社会主義の変形であり根本は共産主義と同じだ。共産主義が世界的社会主義であるのに対し、ファシズムは国粋型社会主義である。ナチスという名前にしても原名はNationalsozialistische Deutsche Arbeiterparteiといって国粋社会主義ドイツ労働党という意味である。だからファシズムを右翼と結びつけて共和党は右翼だからファシストだという理屈はこじつけなのである。

同映画はヒットラーがキリスト教徒だったとか保守的だったという神話をことごとく崩していく。たとえばヒットラーがキリスト教会と手を結んでいたということに関しても、ヒットラーは政権を握るまで教会の協力が必要だったから教会を支持しているふりをしていただけで、政権を握ってからはキリスト教徒を弾圧した。またナチスが同性愛者を迫害したということに関しても、ナチス政権下で一般の同性愛者が拘束されたのは事実だが、ナチス党の幹部にはかなり多くの同性愛者が居たことは周知の事実であり、ヒットラーは仕事が出来る人間ならプライベートで何をしていようと関知しないという姿勢を取っていた。つまり社会的にもヒットラーは決して保守派ではなかったのである。

色々な面でナチス党と多くの共通点を持つのは共和党ではなく民主党の方なのだ。いまでも民主党は昔と全く変わっていない。彼らの目指すところはファシズムであり奴隷制度である。

次によく耳にする民主党の大嘘は、確かに民主党は奴隷制度支持で白人至上主義だったが、1960年代以降デキシークラットと呼ばれる人種差別主義の南部民主党員はこぞって共和党に移籍し民主党と共和党は完全に入れ替わったというもの。だが、1964年の人権法によって人種差別法が廃止された後に民主党から共和党に移籍した議員はストローム・サーモンとジェシー・ヘルムスのたった二人である(しかもヘルムスは人権法当時はまだ上院議員ではなかった)。KKKメンバーでビル・クリントン大統領の恩師と言われたロバート・バードは死ぬまで民主党員を貫き通した。クリントンは後にバードのKKK所属に関して、「当時はKKKに所属していなければ民主党員になれなかった」と言っているくらい、KKKと民主党のつながりは深かったののである。だいたい人種差別主義で白人至上主義の民主党員が黒人の人権を守る人権法を推し進めた共和党に移籍するということからして理屈に合わない。今の南部が共和党支持になったのは人権法が通ったずっと後のロナルド・レーガン大統領の頃である。つまり、南部の人種差別者が死に絶えて次の世代の反差別者の時代になってから南部は共和党に移ったのだ。

同映画はこのような歴史的な事実を再現映像で示しながら、現在の自称アンティファや左翼が言うアルトライトの実情にも言及する。自称アンティファ実はファシストどもの暴力的な手段はナチスドイツのブラウンシャツのやり方と全く同じ。アルトライトの象徴のように左翼からもてはやされている白人至上主義ナチス崇拝主義者のリチャード・スペンサーが実は左翼で社会主義者でファシストである事実も映画は暴露する。左翼はあたかもスペンサーがアルトライトを代表するかのように報道するが、スペンサーは左翼だ。決してアルトライトなどではない。同映画のなかで彼は自らその事実を認めている。

ドナルド・トランプ大統領は民主党から敵視されているが、こういうことは昔にもあったとデスーザは言う。奴隷制度廃止のために南北戦争を指揮したエイブラハム・リンカーン大統領の時がそうだった。ファシズムと奴隷制度を固持しようとした南部に勇敢に戦って勝ったリンカーンのように、当時と全く変わらず暴力で国民の自由を奪い奴隷化を目指す民主党に対抗してトランプ大統領は勝利を収めることが出来るであろうか。

拙ブログを長年お読みの諸氏はご存知の通り、カカシはトランプ大統領候補を全く支持していなかった。彼が本質的な共和党員であることを信じていなかったからである。普段から民主党やメディアは信じないと言っていたくせに、左翼連中の大嘘に騙され、トランプは本当の共和党大統領になどなれないと思っていたカカシ。だが、私は間違っていた。トランプは素晴らしい大統領だ。ヒラリーでなくトランプが大統領になってくれて本当に助かった。

今のアメリカは岐路に立たされている。アメリカがファシズムの波に押し流されるかどうかはトランプ政権にかかっているのだ。この戦いは南北戦争と同じぐらい大切な戦いだ。

トランプはリンカーンとなりえるだろうか?私は成り得ると信じる。私はアメリカ国民を信じる。この映画はアメリカ国民に勇気を与えてくれる素晴らしい映画だ。ぜひぜひ多くのアメリカ人に見てもらいたい。特に民主党支持者の方々にお勧めする。

アメリカに神のご加護あれ!God Bless America!


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風と共に去りぬがポリコレ規制に触れた日

アメリカの歴史を抹消しようとする動きは遂にアカデミー賞受賞傑作映画「風と共に去りぬ」にまで手を伸ばしてきた。政治は自分たちには関係がないと思っていても、言論規制はこのように我々の生活の隅々まで手を伸ばしてくるのである。
テネシー州のメンフィス市にあるオーフィウム劇場では毎夏恒例風と共に去りぬの上映が今月11日をもって今後同映画を上映しない旨を発表した。劇場側の案内によると、この映画上映に関していくつかの苦情をもらったことから経営者の判断で今後の上映はしないことにしたというのだ。
私は風と共に去りぬを中学生の頃に読んで、その時ずいぶんと黒人差別をあからさまにした小説だなと思ったものだ。しかし同時に南北戦争を南部の金持ちの視点から見たという意味では興味深い小説だとも思った。その後宝塚の舞台や映画も観たが、どちらからも原作にあるあからさまな黒人差別の描写はかなり削られていた。
しかし、1970年代に初演された宝塚の舞台版とは違って映画の方は公開が1930年代。まだまだ黒人差別が普通だった時代なだけに、今だったら信じられないような描写があることは確か。
先ず南部の視点から見ているので南部軍は英雄で、奴隷制度廃止を唱えていた北軍を悪者にしていること。それだけでなく、映画を通じて優しい人とされている従妹のメラニーが、主人公のスカーレットが安い労働者として白人囚人を雇ったとき、囚人を無理やり働かせるなんて非人道的だ、何故くろんぼを雇わない?と怒ったり、スカーレットが黒人と白人の二人組に襲われそうになり逃げかえってきた後、KKKのメンバーであるスカーレットの家人が黒人退治に出かけて警察に追われるシーンなどがあったりする。
この小説は我々現代人からは受け入れられない視点から見ていることは確かだ。だが昔はこういうふうに考えている人もいたということを知っておくのも大事な勉強だ。原作者のマーガレット・ミッチェルは南北戦争当時の人ではない。この小説は彼女が昔の南部にあこがれて書いた幻想小説である。
それに対して奴隷制度時代に生きていたマーク・トウェイン作のハックルベリーフィンの冒険はトウェインの実体験が背後にあるためかなり重みが違う。マーク・トウェインの名作であるこの小説も多くの小学校や中学校の図書館から取り除かれている。その理由というのもニガー(黒んぼの意味)という黒人侮蔑語が小説内で頻繁に使われているから、というのが理由だ。しかしハックの冒険ほど奴隷制度を批判した小説も珍しい。しかもこの小説の舞台は作家の生きていた実社会の物語なのだ。黒人奴隷がいて当たり前な社会に生きていたトウエインが奴隷逃亡に加担する少年の話を書くことは、言ってみれば当時のポリティカルコレクトネスに多いに違反する行為だったはずだ。
それなのに奴隷制度を批判し黒人差別反対と唱える人に限ってハックの冒険を排斥しようとする。奴隷制度の悪を描き、その制度に反抗した勇気ある少年の話を当時普通に使われていた侮蔑語を使っているからといって排斥することの愚かさに彼らは気が付かない。
このままだと学校教育で南北戦争を教えてはいけないという時代が来るのは近い。何故アメリカは国家二分の戦いをしたのか。なぜあれほどまでの犠牲を出して親兄弟が敵対するような戦争をやったのか。そのことを理解できないから、南部軍英雄の彫像を破壊したり、国歌斉唱の時に起立しないで膝をついてみたり、星条旗を冒涜したりする馬鹿人間が出てくるのだ。南北戦争の本当の意味を国民が理解していたら、アメリカ国民がアメリカに誇りをもちこそすれ恥を感じるようなことは断固あり得ないはずだ。
繰り返すが奴隷解放を歌って北部軍を率いた大統領は誰あろう共和党のエイブラハム・リンカーンである。

“Those who don’t know history are doomed to repeat it.” 「歴史を忘れるものは歴史を繰り返す」
                    ー     Edmund Burke エドモンド・バーク。

風と共に去りぬ -あらすじ
物語は南北戦争勃発寸前の南部ジョージア州アトランタ市で始まる。主人公のスカーレット・オハラは通称タラという大農場を持つアイルランド系移民の金持ち令嬢。(タラというのはオハラ氏の祖国アイルランドの出身地の名前)負けん気の強いうら若きスカーレットは慕っていたアシュレーに激しく求愛するが、彼が従妹のメラニーと結婚するつもりだと聞いて、腹いせに好きでもない男と結婚してしまう。
そうこうしているうちに南北戦争が始まる。夫のチャールズはわずか結婚二か月で戦地で病死。若くして未亡人となったスカーレットは大邸宅を負傷兵たちのために明け渡し、戦争中ずっと負傷兵の看病に身を尽くす。
南部は負け、スカーレットの大農場も破産。金に困ったスカーレットは怪しげな手段で金儲けをして裕福で危険な魅力を持つレット・バトラーと結婚。二人の間には娘が授かるが、スカーレットの思いは今もアシュレーのもの。スカーレットはレットの献身的な愛情を素直に受け止められない。そんな二人の間に悲劇が訪れる。二人の愛娘が落馬してこの世を去り、スカーレットとレッドの亀裂はさらに深まる。そんな折、アシュレーの妻メラニーが病死。メラニーの死に振り乱すアシュレーを見て、やっとスカーレットはアシュレーの弱さを知り、レットの深い愛を悟り、自分がどれほどレットを愛するようになっていたかを悟る。
レッドの本当の愛と自分の気持ちを知ったスカーレットはそのことを伝えようとレットのもとに行くが、レットは荷物をまとめて家を出ていこうとしていた。あなたを愛している、あなたが居なくなったら私はどうすればいいの、というスカーレットに対し、レッドは、
「正直なところ、俺にはもうどうでもいいことだ」”Frankly my dear, I don’t give a damn.”
という名台詞を残して去っていく。残されたスカーレットは私はどうすればいいの、といったんは泣き崩れるが「それは明日考えよう、明日は明日の風がふく」と言って立ち上がる。
ーーーーーーあらすじ終わりーーーーー


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地球は過去19年間温まっていない、冷却期に入る恐れも

この間、ダンカークという映画を観に行ったときに、アル・ゴアの空想非化学映画「不都合な(不)真実」の続編トゥルーストゥパワーの予告編(ビデオ)を見てしまった。あんまりバカバカしかったので、トランプがEPA(環境庁)をつぶしてやると演説している部分でわざと拍手を送ってやったら、後退派左翼で牛耳られる映画館ではかなりの顰蹙を買ってしまった、私とミスター苺に向かって「黙れ!」「トランプは裏切り者だ、このくそ野郎!」などとヤジが飛んだ。
しっかしながら、アルゴアがいっくら映画なんぞを作ってみても地球温暖化が起きていないという「不都合な真実」を変えることは出来ない。
今年の五月に紹介された記事なのだが、デンマーク気象研究所Danish Meteorological Institute (DMI). の調査によると、北極の海氷は例年よりずっと厚く、地球はここ19年間全く温暖化していないということが解った。
2016年12月から北極の気温は零下20度(摂氏)以下が続いている。4月現在の北極海氷は13年前の4月の厚さまで戻った。さらに海氷が非常に薄いと言われた2008年に比べて今年の海氷の厚さはどこも少なくとも2メートルはあるという。グリーンランドのアイスキャップはこの冬、ここ数年に比べて速い速度で増えている。
エルニーニョのおかげで例年にない暑さと言われた2016年だが、記録的に暑いと言われた17年前の1998年のエルニーニョの時同様、数か月後の今は0.6度ほど温度が下がっている。
ということは、地球温暖化の傾向は19年前から全くないということになる。
地球は温暖化が起きているどころかミニ氷河期に向かっているという説もある。最近の太陽活動の減少から三年以内にかなりの温度低下が見られるだろうというもの。地球は230年周期で冷却するが、その周期は2014年に始まり2019年にはずっと気温が落ち込むという予測だ。
気象学者らによると、太陽活動の大きな現象が予測されており、2020年から2053年までの33年間に極度の冷却が期待されるという。もし本当に地球が冷却周期に入っているのだとしたら、温暖化などよりずっと世界経済に悪影響を及ぼす。
地球気象周期研究所の会長デイビッド・ディリー(David Dilley)氏によると、地球の温暖や冷却の周期は地球と月と太陽の引力関係によって決まるという。それぞれの周期は約12万年周期で巡ってくるが、そのうちでも230年周期で小さな温暖冷却が巡ってくる。西暦900年からすでに五回に渡って温暖化周期が巡ってきたが、その度ごとに冷却期が続くという。
前回の温暖化周期が終わったのが1790年。2020年はその230年後にあたる。そのことからディリー氏は2019年あたりから極度な冷却が始まるだろうと予測している。そうなった場合、イギリスでは1940年に見られたような摂氏零下21度などという温度を見るかもしれない。「2019年からはじまる冷却は2020年から2021年の間に地球の温度を1940年から1960年のレベルまで引き下げることでしょう」とディリー氏は語る。
2019年になって本当に地球冷却化が始まったら、アルゴアはじめ温暖化迷信の妄信者たちはどうするのだろうか?それでも地球は温暖化してると喚き続けるつもりなのだろうか?


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ワンダーウーマンはフェミニストじゃない、左翼メディアからの不思議な攻撃

今年はどの映画も全く不入りで悩んでいるハリウッドだが、その中で一つだけ興行成績ダントツの大人気映画ワンダーウーマン(日本語公式サイト)を観てきた。
これは人気があれば三部作になるらしい話の第一部。ワンダーウーマンの出生物語。舞台は第一次世界大戦の真っ最中。女性戦士のアマゾン族のお姫様として、ダイアナは外世界からは完全に隔離された女性だけの住む離島で育った。そこへアメリカ軍のパイロットスティーブ・トラバーの乗った戦闘機が海に墜落。それを目撃したダイアナはスティーブを海から救出するが、スティーブの後を追ってきたドイツ軍により島は襲撃を受ける。多数の犠牲者をだしながらも、何とか外敵を撃墜したアマゾン族は、スティーブからオトマン帝国とドイツが共謀して化学兵器を開発している事実を学ぶ。世界中の人々がオトマンおよびドイツによって脅威にさらされていると知ったダイアナは、これはゼウスの息子で戦いの神であるアレスの仕業に違いないと確信。人々をアレスの魔力から救出すべき使命に燃えたダイアナはスティーブと共に現実社会へと旅立つ。
ダイアナは当初、闘いの神であるアレスを倒しさえすれば戦争は収まるものと非常にナイーブな気持ちで挑むのだが、現実はそんな単純なものではない。アレスは人々の戦闘心や他人を服従させ支配したいという野心に拍車をかけるだけであり、戦う戦わないは人間の自由意志によるものだ。ダイアナはスティーブの援助でそのことを少しづつ学んでいく。この映画の一番大事な点は個人の「自由意志」だ。悪を選ぶも善を選ぶも個人の自由意志なのだ。そんな人間を超人ワンダーウーマンが救う価値があるのだろうか?
常にスーパーヒーローが男ばっかりだと文句を言っている左翼フェミニストたちにとってワンダーウーマンは歓迎すべきヒロインであるはずだが、なぜか彼女たちの批評は冷ややかである。
左翼雑誌のスレートは、ワンダーウーマンの美しさが許せないようだ。主演のガル・ガドットがあまりにも美しく、ダイアナが絶世の美女であることが映画のあちこちで強調され、彼女が登場する場面ですべての男性の目が彼女の美しさに魅せられてしまうことが気に入らないというのだ。登場人物の一人が「恐怖を感じると共に性的興奮にかられる」と語るシーンが観客の笑いを誘うことにこの批評家は怒りを隠せない
そして主演のガドットがイスラエル国民であり、イスラエル軍で戦ったこともある元兵士であるということも左翼連中には気に入らないらしい。彼女がイスラエル人であることが原因でモスレム圏では上映が禁止された国もある。
同じく左翼雑誌のサローンも、ガドットがイスラエル人であることが気に入らないなかのひとつ。
ガドットがパレスチナ人の悪行を自分のツイッターで批判していたことを指して、イスラエルがパレスチナに対してしている悪行について書かないのは片手落ちだと批判。はっきり言って戦争している敵を批判するのは戦士として当然のことだろう。なんで他国による自国の批判までツイートしなければならないのか?彼女にそんな義理はない。第一、それと映画と何の関係があるのだ?
同じくサローンの別の記事では、スーパーヒーローは個人の強さを美化する傾向があり、政府設立の階級制エリート意識丸出しで平等とは程遠いと語る。これははっきり言って矛盾している。政府設立の階級制度では個人主義は奨励されない。なぜなら生まれが高階級の人間は個人的に能力があるなしにかかわらず権限が高いからだ。この批評家はわざと階級制度を持ち出すことによってスーパーヒーローの個人主義を批判している。彼女にとっての平等とは誰もが平等に力のない状態を指すのだろう。
特に馬鹿馬鹿しいのがMSマガジンのこれ、なぜワンダーウーマンは太った有色人種ではないのかという批判。そんなこといちいち説明する必要があるのか?

なぜワンダーウーマンは有色人種ではないの?ガドットがワンダーウーマンを演じると決まった時、観衆は彼女の貧乳を批判し恥をかかせた。もし主役を黒人女性が演じるとなったら白人至上主義者たちが何と言ったか想像がつく。(アマゾン族の住む)パラダイス島には白人と共に黒人戦士もいる。これは良い傾向だ。だが他の人種が見あたらない。

アマゾン族の島はギリシャにあるのだ。ギリシャにそうそういろんな人種が集まるわけはない。だいたい一つの種族で成り立っているのに、人種がまちまちだったらそれこそ変である。
あ、それともうひとつ。主演のガル・ガドットはユダヤ人で白人ではない。アラブ人と同様セマイト人種である。

また、女戦士たちは皆強く勇敢だが、誰もが背が高く細身ですぐにもファッションモデルをやれそうだ。(略)なぜ戦士のなかには太目のがっちりした背の低いタイプがいないのか?

確かに戦士がファッションモデルみたいに痩せ痩せで筋肉がない女ばかりだったら問題ではあるが、私の見た限り、かなりがっしりした女優も居た。アマゾン族は高度な技術のあるエリート戦士の集まりだから、必然的に戦闘に有利な体系の人間を集める。太って動きの鈍い人間じゃ役に立たない。これ、常識。

もうひとつの問題は明らかな同性愛描写が両性愛の普通化によって隠されてしまうことだ

女ばかりの種族ならダイアナもレズビアンであるべきなのに、男性のスティーブに恋をするのはおかしいということらしい。なぜダイアナをレズビアンで通さずヘテロセクシャルにしたのかという批判だ。ダイアナは自分の出生を選んだわけではないので、周りに男が居ないから男の必要性に気が付かなかっただけ。彼女が男性に魅かれても不思議でもなんでもない。それにワンダーウーマンがレズビアンだったという描写は原作にもないので、観客は彼女と男性とのロマンスを期待しているだろうし、これは商業映画として当たり前の決断だと思うけどね。
な~んかこれら左翼の批評は映画とは無関係のところでされているように思える。強い女ワンダーウーマンをフェミニズムの象徴として素直に喜べないフェミニストたちって、いったいどういう神経してるんだろう?
主な配役:
ダイアナ・プリンス / ワンダーウーマン、演 – ガル・ガドット
スティーブ・トレバー、演 – クリス・パイン アメリカ陸軍航空部隊長。
ヒッポリタ女王、演 – コニー・ニールセン セミスキラを治める女王でありダイアナの母。
アンティオペ将軍 演 – ロビン・ライト ヒッポリタ女王の妹でありダイアナの叔母。
エッタ・キャンディ 演 – ルーシー・デイヴィス スティーブ・トレバーの秘書。
サムイール 演 – サイード・タグマウイ
ドクター・ポイズン、演 – エレナ・アナヤ 毒物の専門家であり気違い科学者。
サー・パトリック・モーガン  演 – デヴィッド・シューリス


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懐かしさとジャズに心を奪われた「坂道のアポロン」

2012年にアニメシリーズとして報道された「坂道のアポロン」の全12作を観て感激してしまった。アニメシリーズは古いのだが、2018年には実写版の映画になるということなので、ちょっと中途半端な時期かもしれないが感想を述べさせてもらおう。
このアニメを見た時すぐに気が付くべきだったことがある。すばらしいジャズミュージックが全編に散らばめられているということよりも、高校生男女の純愛やBLをまったく感じさせない男同士の友情に感銘することよりも先に、なぜカカシがこのアニメに懐かしい思いを感じるのか、もっと早く気が付くべきだった。このアニメには現代の若者たちの間で失われてしまった何かがあるのような気がした。いったいそれは何なんだろう?
先ずはあらすじ、

主人公の薫は16歳の高校一年生。最近九州の佐世保に引っ越してきた。両親は薫が赤ん坊の時に離婚。父親に引き取られたとはいえ、船乗りの父親の仕事のせいであっちこっちの学校に転校を繰り返し、家でも一人でいることが多かった。そんな薫を案じて父親は自分の兄夫婦の安定した家庭に薫を預ける。これによって薫は生まれて初めて同じ学校に長期在籍することが可能となった。しかし、母親に捨てられたという気持ちや同年代の子供たちとの出会いと別れを繰り返してきたことによる傷つきやすい気持ちはそう簡単には癒されない。かえって多くの人に囲まれると吐き気がするという癖まで身に付けてしまっていた。

そんな薫だが学級委員で世話好きな律子の親切に心をほだされ、彼女に淡い恋心も抱く。律子の幼馴染でちょっと不良で乱暴者の仙太郎ともジャズミュージックを通じて友達になる。多くの兄弟姉妹に囲まれて幸せそうな仙太郎だが、彼にも出生を巡るつらい過去があった。
律子の父勉の営むレコードショップの地下で、薫のピアノ、仙太郎のドラム、勉のベース、そして東京の大学から時々帰省する仙太郎の先輩淳一のトランペットという構成でジャズセッションを何度か繰り返し、薫は青春を謳歌するようになる。

先ず変だなと気が付くのは律子の父親がレコードショップを経営しているということ。今時レコードショップなんて誰がやってる?ま、楽器やCDやDVDと一緒にビニールのレコード盤を売ってる店はあるが、レコード専門店なんて時代おくれも甚だしいだろう。これだけでも明らかなはず。そして1990年以降に作られたアニメでは必ず登場人物の手に握られているあの四角い物体が全く描写されていない、ということも大きなヒントだったはず。
そうなんだ、このアニメの舞台は過去なんだ、ずっと昔ではないがちょっと昔の日本。薫の同級生の星二が今やロックの時代だとか言ってビートルズだのスパイダースの歌を歌ってることから察して、まあ1960年代半ばの1965年くらいかな、と想像していたところ、ミスター苺が「学生運動に淳一が巻き込まれるところから考えて、1966年以降のはず」という。それでウィキで調べたらなんと大当たり、物語は1966年の初夏からはじまるのだ。
関係ないが、ここで私がものすごく好きなアニメの傑作「となりのトトロ」を思い出した。あのアニメの舞台は1950年代半ば頃の雰囲気がある。主役の五月は6歳くらい。彼女が1950年生まれだったとしたら、1966年にはちょうど薫と同じ高校生だなあと考えてしまったのだ。どうも私はこの頃の日本が懐かしく思われるのだ。
私は薫より多分10歳くらい年下だ。だが、私が育った頃にも、まだまだこんな雰囲気はかなり漂っていたように思う。まだ携帯もネットもない時代。地球温暖化とか少子化問題なんて誰も考えてなかった時代。
さて、本題に戻ると、このアニメの最大の魅力はなんといっても全編を通して聞こえてくるジャズミュージック。それが単にBGMとして起用されているのではなく、登場人物たちが演奏する一曲一曲がきちんと最初から最後まで演奏されるということ。なんかガーシュインの音楽満載のミュージカル「パリのアメリカ人」を思い出させる。
地下室でのジャズセッションもだが、佐世保という土地柄アメリカ人セイラーにも人気のジャズ喫茶での「バットノットフォミー」でみせる淳一の歌唱力や、高校の文化祭での薫と仙太郎のジャズメドレー。特に文化祭のシーンはものすごい感動する。これはユーチューブでもすぐ見つかるから是非おすすめ。だが私が一番好きなシーンは薫と律子と仙太郎が高校最後の文化祭を目指して(My favorite things 私の一番好きなもの)「マイフェイバレットシング」を練習する場面。ここに三人の友情が結晶化されるからだ。私が一番好きなことは今こうしてこうやっていること、という律子の言葉が心に残る。
この映画のサウンドトラックは英語版だと「キッズオンザスロープ」(坂道の子供たち)として売られている。英語版吹替もあるが、私は九州弁のアニメの方がずっと好きだな。それにアメリカの声優は日本の声優より失がかなり落ちる。ま、需要が少ないからしょうがないといえばしょうがないのだが。
登場人物の複雑にからむ純愛物語がエログロなしに描かれているので、どの年代の子供が観ても大丈夫。最近のアニメはものすごいどぎついものが多いなか、こういう純愛は新鮮だ。ちょっとメロドラマチックなところはあるにはある。薫と律子の駅でのシーンはちょっとありきたりすぎって感じ。
ただ私が残念に思ったのは最終回。あ、これからはネタバレありなので要注意。
最初から12作で完結する予定だったのか、まだ2シーズン目もあると思って油断していたのかわからないのだが、最終回が端折りすぎ。仙太郎は文化祭の後に家出して行方不明になったまま。薫と律子は高校を卒業して薫が東京の大学に、律子は地元の大学に進学。最後に二人が言葉を交わした時に気まずい別れ方をしたまま。駅に見送りに来た律子との別れのシーンで二人はなんとかこれからも付き合えそうという余韻はあるが、はっきりしない。
そしてそのまま8年後と場面が変わる。ここで残り時間はもう10分を切る。東京で医者のインターンとして忙しく働く薫は、高校時代に淳一と駆け落ちした一年上の百合香と偶然再会。彼女の持っていた一枚の写真から仙太郎の行方を突き止めて再会。そこに律子も現れてめでたしめでたし。
てな感じなのだがなんかしっくりこない。
この8年間、薫と律子はどういうふうに付き合っていたのだろうか? お互い手紙のやり取りをしていたとか、薫は休みには時々帰省していたとか、律子が時々は上京していたとか、そういうことが全然知らされない。
15年ぶりに再会した薫と母親はその後どうなったのか。あれからも母親とは時々会っていたのか、それともせいぜい年賀状や暑中見舞い程度の関係だったのか?
原作の漫画は薫と律子の卒業後も連載が続いたので、色々これらの説明がされるらしい。だが、アニメを観ている人には、やはりアニメだけで納得できる完結編を作るべきだったと思う。
ただ私はラストシーンで薫が今は神父見習いとなった仙太郎の教会へたどり着き、教会のパイプオルガンで薫が仙太郎に最初に紹介されたジャズ「モーニン」を弾き始め、それを聞いた仙太郎が外からかけこんできてドラムを演奏し出すというくだりは好きだ。大昔にジャネット・マクドナルドとネルソン・エディが”When I’m calling you.. woooo”をデュエットするシーンを思い出させる。(わからない人は検索してよね。)
さあて、それではここでカカシ風エンディングを二つ提案。
手紙編:8年後のシーンから始まって、現在の薫の状況を表す映像に薫の声でナレーションが入る。
「りっちゃん、お元気ですか。最近なかなか手紙を書けなくてごめんなさい。研修生になってからというもの忙しくて目が回りそうです。寝る時間もないほど働いています。母さんの店にも最近行ってません。母さんは心配して時々電話をくれますが、忙しいのはわかっているので許してくれていると思います。僕も時々は母さんの店にいって、何年か前にふと現れた淳一兄さんとやったように、またジャズセッションをやりたいです。
あ、そういえば、この間星二君をテレビで観ました。彼もポップスターになる夢がかなったようですね。
りっちゃん。今年の春は佐世保に帰ろうと思います。その頃には休暇が取れるはずですから。僕は今度りっちぁんに合う時に、どうしても言いたいことがあります。僕の研修期間はまだ続きますが、そろそろ僕たち二人の将来を語り合う時だとは思いませんか?
そうそう、この間、誰にあったと思います?百合香さんが病院に来ました、、、、」
これで百合香が病院に来たシーンに続く。こうしておけば二人がずっと付き合っていたことや、最後に律子が仙太郎の居る教会に突然姿を現した理由がはっきりする。
続編シリーズを期待した編
後半を薫が大学に向かう駅での見送りシーンから始めるのはそのまま。伯母と勉に挨拶を済ませた薫が電車に乗った時、ドアが閉まる直前、見送りに来ないと思っていた律子が走ってくる。「薫さん、薫さん、よかった間に合った。」「りっちゃん」「薫さん、私、決めた。大学卒業したら東京に行くから。薫さんのところに行くから、待っとって、、薫さんとこにお嫁さんに行くから、、それまで待っとって、、」「りっちゃん」そして電車の扉が閉まる。電車の後ろに走ってプラットホームに走る律子に向かって薫は叫ぶ。「必ず来いよ、待ってるから、待ってるから!」
次のシーン。ダフルバッグを肩に抱えた大きな男が九州離島の田舎道を歩いている。離島の先端にある教会の前まで来ると男は外に出てきた神父に挨拶をする。神父、「お~お前か、新しい見習いというのは、、よお着たの。まあおはいり。」どこからともなく小さい子供たちが集まってくる。教会が面倒を見ているみなしごたちだ。「お兄ちゃん、神父さんになるの?」子供たちを抱き上げて笑顔をみせるのは誰あろう仙太郎。
そして最後は薫、仙太郎、勉、淳一の地下室でのジャズセッションの回想シーンでモーニンを演奏して終わり。
これだと希望を持ったまま終われるし、続編があっても辻褄があう。


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舞台迫力を再現したNBCテレビ、へアースプレイーライブ

テレビで舞台ミュージカルを再現するのはなかなか難しい。映画ほどの深い映像感はないし、舞台のような迫力もない。それでテレビスタジオでのミュージカルというのはどうしても安っぽくなってしまうのだが、今回のヘアースプレイはユニバーサルスタジオ(多分)のバックドロップを使った野外映像と、テレビスタジオをうまく組み合わせた迫力ある出来になっていた。特にヘアースプレイはシーンの大半がテレビスタジオという設定になっていりるので、テレビ映画にするには恰好の題材だったと言えるだろう。
このミュージカルは1960年代メリーランド州ボルティモア市が舞台。その背景にあるのは白人と黒人の隔離主義。人気テレビ番組でも白人と黒人が一緒に踊るなどということは考えられない時代だった。女子高生のトレーシー(マディ・ベイリオMaddie Baillio)は、テレビの視聴者参加ダンス番組のレギューラーに採用されるのが夢。スポンサーのヘアースプレー会社主催のミスへアースプレーコンテストのオーディションに応募するのだが、太っているせいで番組女性プロデューサーのベルマ(クリスティン・チェノウェスKristin Chenoweth)からは相手にされない。しかし番組がトレーシーの高校でライブ放映をした際に番組司会のコーニー(デレク・ホフ Derek Hough)の目に留まり、番組中に以前に黒人男子ロブ(ビリー・アイクナーBilly Eichner)から習ったダンスステップを披露して話題になる。もともと太っていたことで他のきれいな白人の女の子たちには受け入れられなかったトレーシーだが、黒人生徒たちと仲良くなって白人と黒人混同でダンス番組に出演しようと言い出したことから、トレーシーは計らずも人権運動のリーダーとなってしまう。

BLMとかファットシェイミングとか言って、やたらと黒人や肥満体の被害者意識が高い時代において、このライブは結構時代に沿った選択だったかもしれない。少なくとも左翼リベラルなプロデューサーたちはそう思ったのではないかと思う。しかしそういう濃い政治色があるにも関わらず、カカシがそれを無視してこの作品を楽しめたのは、その演出もさることながら、出演者たちのすばらしい演技にある。
先ずダンス番組ホストのコーニー・コリンズを演じるデレク・ホフは長期ダンス番組のレギュラーとして大人気のボールルームダンサー。さすがにプロのダンサーだけあって踊りは抜群。しかし歌手としての才能も見せて踊りながら歌ってビートに乗り切っていた。踊ってすぐの台詞でもまるで息が乱れていない。この役は格好言い男の役なので、一見得役に見えるのだがうまくやらないと見過ごされてしまう。役者次第でつまらなくもなれば面白くもなる役柄だと思う。コーニーという名前には中身がないのに外見だけ誠実さを見せようと格好をつけている意味あいがあるのだが、ホフはそのうすっぺらながらも、人種を超えた才能を見出すという実業家としての才能を非常にうまく演じている。
私が思わず拍手を送りたくなったのが番組の女プロデューサー、ベルマ・ボン・タスル役のクリスティン・チェノウェス。若いときの自分とそっくりな娘のアンバー(Dove Cameron)をスターにしようと躍起になっている教育ママ。自分が若かった頃の夢と今の状況を比べて歌う彼女のソロ。メランコリーにはじまって激しくメゾからソプラノへと変るクライマックスはすばらしい。
私がこのプロダクションがものすごく気に入った理由は、チェノウェスに限らず出演者たちが歌にしろ踊りにしろまるで遠慮せずに思い切って演技しまくっているという点。デレク・ホフの踊りにしろチェノウェスの歌にしろ、その才能が全面的に前に出ているのだ。
そして才能といえば、ドリームガールスでアカデミー助演女優賞を獲ったジェニファー・ハドソンのモーターマウス(早口)メイベリーは超一級!彼女の歌いっぷりは誰がきいても感激すること間違いなし。若い頃はぽっちゃり系だったのに今はすっきり痩せてゴージャスな美女になったハドソン。その上あの歌唱力、あの貫禄。もう彼女の歌を聴くだけでこのミュージカルを観た甲斐があるといえる。
トレーシーのボーイフレンド、リンク・ラーキンを演じるギャレット・クレイトン(Garrett Clayton)は正統派ハンサムボーイをまじめに演じているのがいい。同じハンサムでもコーニーのような意識した格好良さではなくて、トレーシーへの純粋な恋心とトレーシーが進めようとする人種混合運動への戸惑いを、わざとらしくない素直な演技をしている。
トレーシーの親友ペニー・ピングルトンはアリアナ・グランデ(Ariana Grande)という人気歌手(らしい)。子供っぽくておとなしい感じのペニーを良く演じていたと思うが、歌手の割りにはそんなに歌がうまいと思わなかった。ペニーが一目ぼれする黒人少年のロブ・バーカーを演じるのはビリー・アイクナー(Billy Eichner)。彼は歌も踊りも抜群。特に1960年代のダンススタイルがものすごく様になっていて、当時の踊りを真似しているという感じはなく、本当に’60年代の若者という感じがした。ペニーが一目惚するのもわかるというもの。
トレーシーの母親エドナと父親ウィルバーを演じるのはおカマのブロードウェースター、ハービー・ファイアーステイン(Harvey Fierstein)と人気コメディアンのマーティン・ショート(Martin Short)。ヘアースプレイはミュージカルの元になった同名のオリジナル映画のときから、ベルマ役はどう転んでも女性には見えない逞(たくま)しい男性が演じることになっている。ファイアーステインのがらがらな濁声と小柄なショートとの絡み合いは何故かロマンチック。さすが二人とも年期が入っている。
と、ここまで脇役を褒めてしまったのに主役を批判するのは気が引けるのだが、主役のマディ・ベイリオはこのライブのためのオーディションで選ばれた新人。周りに歌唱力のある人が多いためちょっと力不足が目立ってしまった。歌は決して下手ではないのだが声に力強さが感じられない。冒頭は彼女の歌から始まるので、もっと元気よく歌って欲しかった。演技はまあまあといったところかな。問題なのはトレーシーは太っているが踊りがうまいという設定。現実問題としてあんなに太っていて踊りがうまいというのは難しい。というよりダンサー並に踊れる太った女優を見つけること事態不可能に近いはず。太っていても身が軽い人はいるが、このミュージカルは踊りのシーンが多く長い。どの役も激しい踊りと歌が次から次へと続くので普通体型の人でも大変。特にこれはライブなので、踊りのすぐ後に続くシーンではダンサーたちの激しい息遣いが聞こえてくるほどだった。ベイリオは時折台詞が息切れでよく聞き取れないこところがあった。もっとも舞台ではみんな普通にやっていることなので言い訳にはならないが。
ともかく全体的に舞台のテレビミュージカルとは思えないほど舞台の迫力が感じられるすばらしい作品になっていた。もしDVD発売があったら是非お勧め。


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