ミュージカル仕立てのエルトン・ジョン伝記映画、ロケットマン

前回の晩年だけを描いたジュディ・ガーランド伝記映画とは正反対に、幼児期から現在に至るまでのエルトン・ジョンの半世紀を描いたロケットマンはとってもよかった。映画の売り上げはクィーンのフレディ・マーキュリーを描いたボヘミアンラプソディほどよくなかったようだが、映画としてこちらの方がよく仕上がっていると思う。

先ずなんといってもいいのが、映画が完全にミュージカル仕立てになっていること。歌手の伝記だから時々彼のうたう場面があるというのではなく、実際に登場人物が会話の途中で歌い出し、周りの人達が踊り出すという正真正銘の恥じないミュージカルなのだ。 タロン・エジャトンがエルトン・ジョンを演じ全曲みごとに歌いこなす。

エルトン・ジョンといえば奇抜な恰好でピアノを弾きながらワイルドな歌を歌うことで有名だ。映画の冒頭ではジョンが悪魔のようなギラギラ衣装でスポットライトを浴びながら廊下を歩いてくる。扉が開き満場のスタジアムが繰り広げられるのかと思いきや、なんとそこは薬物依存症回復病院のオリエンテーション室。他の依存症患者たちに交じって、ジョンは折り畳みのパイプ椅子に座り、「僕はエルトンジョン。アル中、薬物依存症、セックス依存症です。」と言って自分の生い立ちを話はじめる。ここで「ビッチイズバック」をジョンが歌い出し、回想シーンが始まる。この出だしのミュージックナンバーがこの映画のトーンを決める。

ジョンは1950年代のイギリスでレジョナル・ドワイト(子役マシュー・イレズリー)として生まれ育つ。子供の頃からピアノの才能があり、ピアノ教師の勧めで王立音楽学校( The Royal Academy of Music )へ奨学金で入学。しかし両親の仲は悪く、父親のスタンリー(スティーブ・マッキントッシュ)は幼いレジーに全く愛情を示さない。結局父親は母親(ブライス・ダラス・ハワード)の浮気が原因で母子を捨てて出ていく、子供のレジーにさよならも言わず。この頃からジョンは愛情に飢えていた。

十代のジョンはイギリスツアー中のアメリカのソールバンドの伴奏バンドの一員となる。バンドメンバーの勧めで作曲も手掛けるようになり、名前もエルトン・ジョンと改名。 ディック・ジェイムス(ステファン・グラハム)のDJMレコードと契約し、レイ・ウィリアムス(チャーリー・ロウ)をマネージャーとして本格的なミュージック活動を始める。ここでウィリアムスの紹介で生涯の大親友そしてビジネスパートナーとなる作詞家のバーニー・トーピン(ジェイミー・ベル)と出会う。

トーピンの詩に曲を付けながら歌う「ユアソング」のシーンは感動的だ。これでジョンとタウピンの作詞作曲コンビがどれだけ素晴らしいものであるかがはっきりする。

エルトン・ジョンが同性愛者であることは周知の事実だが、私はてっきりジョンとトーピンは恋人同士なのだと思っていた。しかし映画によれば、彼らの関係は兄弟のような大親友であり愛人関係にはなかった。トーピンは異性愛者でジョンのアメリカ遠征などにもずっと付き添っていたが、パーティーで出会う様々な女性たちと楽しんでいた。

そんなアメリカでのパーティーで、トーピンが美女と消えた後、一人残されたジョンの傍に近づいてきたのがジョン・リード(リチャード・マデン)。ジョンはリードのエキゾチックな魅力に一目ぼれ、二人は一夜を共にする。これがジョンの後の自堕落な暮らしのきっかけとなる。

ジョンのキャリアはロケットのようにうなぎのぼりに成功していく。数々のヒットを飛ばし1970年代最高のアーティストとなっていく。この頃からジョンは奇抜な衣装を着て、そのステージもかなりワイルドなものとなっていった。しかしその反面、マネージャーとなったリードによる悪影響で酒や麻薬におぼれるようになるジョン。リードからの虐待や裏切りが続き、薬物やセックス依存がひどくなり、大親友のトーピンまでも遠ざけてしまい、遂には自殺未遂、、、

その後どうなるかは映画を観てもらうとしても、ジョンはいまでも元気に生存しているし、男性と結婚して子育てに励んでいるくらいなので、ハッピーエンドであることは間違いない。ジョンのヒット曲がその場その場に合わせてミュージカルのナンバーとしてちりばめられている。

個人的にジョンの最初のマネージャーを演じたチャーリー・ロウとトーピンを演じたジェイミー・ベルが光ってると思う。ミュージカル好きでジョンのファンにはたまらない映画。是非お勧め。

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伝記映画(バイオピック)の難しさを感じた「ジュディ」

先日往年のミュージカルスター、ジュディー・ガーランドの晩年を描いた レネー・ゼルウィガー主演 「ジュディ」を観て来た。

私はジュディー・ガーランドの大のファンで彼女の出演した映画は若いころミッキー・ルーニーと共演したアンディー・ハーディのシリーズから、オズの魔法使いといった少女時代から、ミートミーインセントルイスやハービーガールズといった青春期、そしてサマーストックやイースターパレードといった大人になってからの映画も大好き。スター誕生では歌や踊りだけでなく強い演技力も見せた。彼女の主演した映画はすべてではないがMGM時代のものはほとんど観てる。であるから、彼女のような大スターの人生を描くなら、こうした功績についても色々語ってほしいと思うのは一ファンとして当然のこと。

しかし、往年のミュージカルスターの伝記とはいえ、この映画「ジュディ」は彼女の過去についての描写がほとんどない。それどころかガーランドが落ちぶれて一文無しになり、住む家すらない麻薬とアルコールの中毒に苦しむ惨めな中年女性という印象が全面に押し出されている。

ゼルウィガーが吹替を使わずにすべての曲を熱唱しているところはすばらしいし、かつての面影が歌っている時だけかすかに見え隠れする描写はさすがゼルウィガーという気がするが、それでもあんな偉大なスターの終わりがこんなに惨めだったと強調したいなら、かつての輝かしい時代との比較が必要だったのではないだろうか?

映画はかつての大女優とは思えないほど落ちぶれ、安キャバレーで歌いながら宿泊していたホテルからも追い出されてしまうような一文なしのガーランドが、別居中の夫シドニー(ルーファス・ソウル)から二人の幼い子供たちの親権を取るためにイギリスの人気ナイトクラブで出演していた数か月を描いている。

身長150センチという小柄な体系のため、太っていなくてもぽっちゃりに見えてしまうガーランドは、MGM時代にスタジオから痩せるように常に圧力を受けていた。厳しいマネージャーが付いていて食事もろくろく食べさせてもらえなかった。また長時間の撮影に耐えるために覚せい剤を渡され、夜は眠れないため睡眠薬を処方された。1930年代のハリウッドスタジオによる子役虐待は悪名高い。そのせいでガーランドは少女時代が終わっても薬に頼らずには機能しないほどの中毒患者になっていた。

薬物依存症であるため、時間はきっちり守れないし、舞台に穴をあけてしまうなど日常茶飯事。ガーランドのキャリアが破壊されてしまったのも、過去三回の結婚が破滅したのも、ほとんどこれが原因。だからイギリスのクラブ出演もかなり危ないスタートを切る。

そんな彼女の面倒をみるのがロザリン(ジェシー・バックリー)。本人の昔のインタビューによると、ガーランドの世話は大変だったが、一旦スイッチが入ると彼女の歌は最高だったと語っていた。ゼルウィガーは舞台袖で「だめ、歌えない」と言ってたガーランドが、舞台に立った途端に素晴らしいパフォーマンスを見せるのを対象的に見せる。

ゼルウィガーはプロの歌手ではないので、ガーランドの声にしてはちょっと弱々しい感を否めないが、ガーランド自身がかなり衰弱していたことでもあり、この頃の彼女の声はかなり弱っていた可能性はあるから、結構現実的なのかもしれない。

ただガーランドのファンとしては、往年の力強い歌声をもっと聞きたかったなという気がする。

ガーランドはこの公演中に12歳年下のミッキー(フィン・ウィットロック)と結婚するが、結局うまくはいかない。数か月後、薬物摂取で事故死したガーランドの遺体を自宅で見つけたのが、最後の夫ミッキーだった。享年47歳という若さだった。


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往年の人気コメディコンビ、スタン・ローレルとオリバー・ハーディーの晩年を描いた「僕たちのラストステージ」

ローレル&ハーディーと言っても日本の観客には昔の映画によっぽど詳しいひとでないとあまり馴染みはないかもしれないが、二人はチャップリンやバスター・キートンやハロルド・ロイドと同年代で一躍かもしたコメディチーム。しかも彼らの場合は無声映画がトーキーへと移行しても人気が落ちるどころかさらに人気が上がったという珍しい存在。スタン・ローレルはイギリスのミュージックホール(アメリカでいうボードビル)でチャップリンの代役をしていたこともあり、チャップリンの渡米後、自分もアメリカへ渡り、50以上の映画に出演し脚本や演出も手掛けていた。オリバー・ハーディーのほうもアメリカの映画界で250もの作品に出演しそれなりに人気を得ていた。

二人がコンビを組んだのは1926年に何本かのショートフィルムに共演したのがはじまりだが、プロデューサーのハル・ローチのスタジオで1927年に公開されたPutting Pants on Philipでの共演が公式な始まりだ。ちなみに最初のトーキー映画が公開されたのが1927年。その後二人は1945年まで第一線のコメディチームとして映画に出続けていた。彼らがコンビで出演した映画は107本、そのうち主演は32本というから、彼らがどれだけ人気のあるコンビだったかが伺われる。

とはいうものの、いくら人気者でも時間が経てば人気も廃れる。当映画が始まる1953年頃には、もうすでに彼らの人気も下火になり、二人とも60歳代になっており、オリバーはその肥満体から心臓もかなり弱っている。この映画はそんな二人がカムバックを目指して新しい映画の資金繰りや人気集めのためにイギリスで舞台公演ツアーをした数か月を描いたもの。

この映画で一番すごいなと思ったのは、主役の スタンとオリバーを演じたスティーヴ・クーガンとジョン・C・ライリー 。二人の見かけがスタンとオリバーにそっくりなだけでなく、その声や身振り手振りがそっくりなのだ。私はローレル&ハーディの大ファンで彼らの作品はほとんど観ているのでこれは太鼓判を押す。

普通コメディアンを俳優が演じると、例えどれだけルティーンを忠実に再現しても、何か間の取り方がずれていたり、しっくりいかずに全く笑えないことが多いのだが、この二人が再現した病院の一室や、ダンスや、駅のプラットフォームでのルティーンは本当にローレル&ハーディを舞台で観ている錯覚に陥らせる。病院のシーンでは、我を忘れて笑ってしまった。特にクーガンのローレルはもう彼そのものといった感じ。私はローレルの素顔は知らないが、きっとローレルはこんなふうだったんだろうなと思わせる演技だ。

演技と言えば、彼らのイギリスツアーを企画した一癖ある興行主バーナード・デルフォントを演じるルーファス・ジョーンズも素晴らしい。一見親しみ深く二人のことを親身に思っているようで実は金儲けしか興味がなく、二人をいいように手玉に取る。それでいて憎めないチャーミングな男。

スタンとオリバーの妻たちを演じるニナ・アリアンダとシャーリー・ヘンダーソンも名演技を見せる。二人の妻たちは全く気が合わず、その仲の悪さは至るところに出てくるが、それもこれも二人とも夫を愛してるが故だ。

二人がイギリスに着き最初にたどり着いた宿は、かつてハリウッドの大スターとしてはあるまじき安宿。最初の劇場も地方のこじんまりしたところで、しかも客足はパラパラで空席ばかり。それでもデルフォントのアイディアで色々なイベントに(無償で)ゲスト出演することにより、だんだんとイギリスツアーでの評判も上がり、各劇場は満席になっていく。そしてついにロンドンでは三千人以上入る大劇場で二週間講演が決まるのだが、つまらないことから二人は喧嘩をし口も利かない状態に。このままツアーは決行できるのか、そして二人が望む映画の企画はどうなるのか、、

興味深いのはスタンのプロフェッショナリズムだ。彼は常にコメディアンであるキャラクターを守り続け、普段でも自分がスタン・ローレルだと気づかれるとすぐにギャグを演じる。オリバーは何時もそれに付き合わされ、いいかげんうんざりすることもある。二人のリーダー格はスタンで、ネタを常に考えているのもスタン。なので二人の間がぎくしゃくすることもある。

明らかに二人は親友というような仲ではなかった。しかしお互いにビジネスパートナーとして信頼もし尊敬もしあっていた。クーガンとライリーはその息の合った様子を非常にうまく表現している。

ローレル&ハーディを全く知らなかったと言う人にも二人のプロフェッショナリズムと友情に心温まることだろう。是非是非おすすめする。そしてこの映画をみてローレル&ハーディに少しでも興味を持ったら、彼らのショートフィルムなども是非ご覧になっていただきたい。きっと大笑いすること間違いなし。私のお薦めはミュージックボックス。サイレントでもトーキーでも面白い。

では最後に映画でも再現された二人のダンスを張っておこう。


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映画やドラマの気になった言葉使い色々

今回の帰省中や往復飛行機の中で日本のテレビ番組や映画を色々観たが、どうも気になることがいくつかあったので書き留めておきたい。

タメ口

先ず気になったのが言葉使いの変化。近年私は「タメ口」という言葉を学んだ。最初何のことかわからなかったのだが、文脈からどうやら先輩らに対して敬語や丁寧語を使わず友達同士のような言葉使いをすることをいうらしい。昔は誰かがタメ口を使っているなどと文句を言う人は居なかった。なぜなら誰もそんな言葉使いをテレビ番組でしていなかったから。ところが最近ではバラエティなどの出演者が自分のことを「俺」などといって全くはばからない。例え一緒に出演している人たちが友達だったとしても、視聴者は彼らにとってはお客さんのはずで、お客さんが観てる前でタメ口は失礼だという感覚はないらしい。

かと思うと、全く不適切なところでやたらに丁寧な尊敬語を使う人が居る。アナウンサーなどが若い芸能人の話をしている時ですら、「~さんがおっしゃいました」などと言うのはちょっと変。

NHKのニュースを聴いていたらこんな感じのニュースが流れた「犯人は周りから忠告を受けていたのに出かけ犯行に及びました。でも犯行は未然に防がれました。」ニュースというのは口語ではなく文章語を使うべきであり、従来ならば「、、、いたにも拘わらず」「しかしながら、、、」と言うべきところ。私からいわせるとNHKのニュースでこんな言葉使いをするのは信じがたい。しかしこの傾向はすでに去年から観察しているので、これは間違いではなく、すでに正式な話し方として受け入れられているようだ。

ドラマの吹替

外国ドラマの吹替にも気になる点が非常にあった。以前に吹替の台本を書いている人が「いまだに昔気質の人がいて、言葉使いが古すぎる。今は誰もそんな言葉使いをしないと主張しているのだが、」と言っているのを聞いたことがある。だが、今の吹替を聞いていると、どうやら昔気質の人々は皆引退したようだ。昔なら「キャシー、あなたは私の恋人を奪ったのよ。」というところを今では「キャシー、あなたは私の恋人を奪ったんだよ。」となる。日本人同士の若い人たちの会話ならそれでもいいのかもしれないが、どうも洋画でこういう話方をされるとかなり違和感がある。

それでもまあ、これは時代だから仕方ないとしても、韓国の時代劇を観ていて、これはないだろうというものに遭遇した。三国時代の韓国を舞台にしたドラマで、家来たちが王のことを「王様」と呼んでいたのだ。日本ならさしずめ「殿」と呼ぶところであるが、日本の殿様と区別するということでチョナを「王様」と訳したのであろう。しかしながら、「王様」というのは第三者が使う代名詞であり直接相手に使う呼称ではない。「○○様は××国の王様であられる」は良いが、家来が王様に呼びかける時は「陛下」か「殿下」となる。日本でも天皇のことを「天皇様」と呼ばず「帝」もしくは「陛下」と呼ぶように。また同じドラマの中で、お女中たちが王妃のことを「奥様」と呼んでいた。これは「奥方様」だ。妃はそこいらの奥さんたちとは格が違うのだから。

いったいどうすれば、こんな非常識な言葉使いが台本に通るのだろう? 例え最初の翻訳者が無知で間違えたのだとしても、校正する人が居たはずで、その段階で誰も気が付かなかったとは考えられない。素人の私がおかしいと思うくらいなのだから。だとしたら彼らは故意にこの言葉使いを選んだのだろうか?そうだとすれば余計にその理解できない。

時代劇の現代語

帰りの飛行機で「鎌倉物語」という映画を観た。登場人物の服装や乗ってる車から察するに1950年代もしくはそれ以前を舞台にしているように見えたのだが、主人公の若い女性の言葉使いがまるで現代風。昔ながらの時代劇でも最近は現代語を使うことが多くなってきているとはいうものの、あまりにも感性が現代過ぎると、時代物を観ているという雰囲気に入り込めない。

古い時代になると、当時の言葉使いでは現代人には理解できない場合もあるので完璧に歴史に忠実になれとは言わない。しかし現代人でも理解できる程度の古い言い回しは残しておくべきではないだろうか?少なくとも現代とは違う時代の人々の話なのだという印象を持たせるための手段として、今とは違う言葉を使うべきではないだろうか?

私が古臭いだけ?

まあ、現大日本人に違和感がないのであれば、私ごときが苦情を述べる必要もないのかもしれない。だがこうやって少しづつ伝統が失われていくのだと思うと、なにかちょっと寂しい気がする。


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翔んで埼玉、千葉県人として大いに笑った

今年(2019年)2月に公開された 魔夜峰央(まやみねお)原作の「翔んで埼玉」を日本からアメリカに帰る飛行機の中でみた。私がこの映画に興味があったのは私が好きな俳優の加藤諒が出ていたからだ。彼はやはり私が好きな「パテリコ」にも舞台と映画で主演していたことから知った俳優。偶然でもないが「パテリコ」も「翔んで埼玉 」も同じ魔夜峰央の原作。これは二つを見比べれば一目瞭然だが。

ちょうどカカシは先週日本に里帰りしており、その時に久々に一緒に食事をした女友達が埼玉県に在住であるという話から、この映画のことが話題に上った。隣県の千葉県人(だった)私に対し、現埼玉県人の彼女は「最近の埼玉はすごいのよ」とこの映画の話をしてくれたのだ。

物語は完全なるファンタジーの世界だが、現代日本が未だに徳川時代のような封建社会にあり、東京が中心となり埼玉や千葉は何かと蔑まれており、これらの県民が東京都に入るためには通行手形が必要。東京都民は選民として特権階級であり、埼玉や千葉県民は下層階級。そんな埼玉県民がライバル県民の千葉県と戦いながらも東京都に盾をつくといった内容。

「パテリコ」がそうであったように、「翔んで埼玉」も普通にBLの世界なので、それを主流俳優たちが平気でやってのけるというのが日本のすごいところだな。主役の男性二人壇ノ浦百美(二階堂ふみ) と麻実麗(GACKT) は明らかに恋愛関係にあるし、千葉解放戦線の 阿久津翔(伊勢谷友介)による麗への拷問シーンや麗の配下の男性たち同士の間でもなんか不思議なムードが漂う。

はっきり言って原作者の魔夜峰央と言う人は色々なところでインジョークを混ぜている。「パテリコ」でも萩尾望都の「11月のギムナジウム」で出て来たセリフ「誰が殺したクックロビン」 が突如としてパテリコの口を横切ったりしていたが、今回も作者の宝塚ファン度や腐女子特有ジョークが多々で観られた。(摩耶自身は男性らしけど)

それから作家の宝塚ファン度も大したもの。だいたい麻美麗からして往年の宝塚女優の芸名だ。映画の冒頭でアメリカ帰りの麻美麗を紹介する学校の先生の声がしてくるが、それがいかにも宝塚男役風のセリフ回し。するとその声の主は宝塚男役風化粧した男装の麗人。麗を取り巻く女性たちの話方は完全に宝塚女役風。

もっとも腐女子度や塚ファン度のみならず、関東地方の人にしかわからないインジョークも満載だ。千葉県の常磐線電車のアナウンスとか、そのあまりの完璧さに私はのけぞって笑いそうになった。その他千葉県や埼玉県の地名や特産物(ピーナッツ!)などの話題もバカバカしくておかしくて大笑いした。

真面目な話、初めて男役に挑戦したという二階堂ふみの演技は素晴らしかった。こういうギャグ映画では俳優は真面目に演技をしないと観客はしらける。どれだけハチャメチャな状況にあろうと、どれだけ奇想天外な役柄であろうと、登場人物そのものは真剣に取り組んでいる。だから決してカメラを意識した登場人物を馬鹿にした演技をしてはいけないのだ。その点二階堂は偏見に満ちた特権階級の御曹司でありながら、その偏見を乗り越えていく百美の役を誠実に描いており好感が持てた。

二階堂だけでなく、この傾向はすべての俳優に言えることで、これだけのギャグ映画に真剣に取り組んでくれたということに感謝の意を表したい。

ともかく大笑いした映画なのでお薦め!


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予定外の子供なんて存在しない、妊娠中絶反対を訴える力強い映画、アンプランド(Unplanned)

先日、アラバマ州で非常に厳しい人工中絶規制法が通った。それで私は書きかけでそのままになっていた映画の話をしようと思う。

その映画というのは、アメリカの妊娠中絶専門施設プランドペアレントフッドのテキサス州にある支部の最年少局長としてやり手だった女性が、徐々にそのやり方に疑問を持ち、遂に反中絶運動家になるまでの話を描いたアンプランド。

プランドペアレントフッド(PP)とは家族計画という意味。この組織は表向きは避妊や妊婦への医療提供をするNPO無益法人ということになっているが、実は単なる中絶専門施設。アンプランドという題名は計画していなかったとか予定外のという意味で、PPの家族計画という名前にかけている。

映画は冒頭から中絶手術の生々しいシーンで観客を引き込む。主人公のアビーはPP支部の局長だが看護婦ではない。8年も務めていた自分の施設でも、それまで中絶手術に立ち会ったことは一度もなかった。彼女はその日たまたま手が足りなかった手術室に駆り出され、妊婦のお腹にエコーの器具をあてがう役を請け負った。そばにあるビデオモニターには、はっきりと胎児の姿が写っている。医師が吸引機を妊婦の胎内に差し込むと小さな胎児はあきらかに防衛本能をはたらかして逃げようとしている。そして吸引機が作動すると、胎児が動いていた部分が、あっという間に空洞になった。

私はこのシーンを息をのんでみていた。悲鳴を挙げそうになったので両手で口をふさいだ。嗚咽を抑えようと必死になった。あまりにもショックでその場から逃げ出したい思いがした。ふと気が付くと映画が始まるまでざわついていた劇場はシーンとしており、女性たちが私と同じように悲鳴を抑えている緊張感が伝わって来た。

この、冒頭から観客の感情をつかむやり方は非常に効果的だ。映画はその場面から十数年前に話がさかのぼり、主人公アビーが大学生だった頃からはじまる。アビー・ジョンソンとプランドペアレントフッドの出会いは彼女が大学生の頃、学校のサークル勧誘イベントで誘われたのがきっかけ。避妊に力を入れなるべく中絶を減らし、いざという時は安全な中絶手術を提供するという宣伝文句に動かされ、アビーはボランティアとしてPPで勤めはじめる。その後彼女は無責任なボーイフレンドとの間に出来た子供を中絶。親の反対を押し切ってその男性と結婚したが夫の浮気ですぐ離婚。離婚寸前に二度の中絶を経験する。自身の中絶体験は決して良いものではなかったのにも拘わらず、アビーは若い女性を救うためだという信念に燃えてPPで正式に勤め始める。

診療所では有能なアビーはどんどん出世し最年少の局長にまでなったが、彼女の良心に常に影を差していたのはPP診療所の前で診療所へやってくる若い女性たちに話しかけている中絶反対のキリスト教徒たち。また、敬虔なキリスト教徒であるアビーの両親もそして彼女の再婚相手で娘の父でもある夫もアビーの仕事には反対だった。

アビー・ジョンソンは悪人ではない。彼女は本当にPPが女性を救っていると信じていた。女性が妊娠中絶は非道徳的ではないと自分に言い聞かせるのは簡単だ。

先ず未婚で妊娠してしまったら、両親に未婚なのにセックスしていたことがばれてしまう、学校も辞めなきゃならなくなる、世間の偏見の目のなか貧困に耐えながら子供を育てなきゃならなくなる、養子の貰い手なんてそうそう居るわけないし、そんな家庭に生まれた子供だって幸せにならないだろう。たった一度の若気の至りで一生女の子だけが罰を受けるなんて不公平だ。それに、初期での中絶なんてまだ小さな細胞で胎児は痛みなど感じない。盲腸を取るより簡単な治療なんだから、、、などなどなど

しかしPPのカウンセラーは若い女性たちに中絶をすることによる肉体や精神的な影響について話すことはない。養子を迎えたがっている不妊症の夫婦がいくらでも居る事実も伝えない。ましてや一個の人間の命を自分の勝手な都合で殺してしまうということが如何に罪深いことなのかということを若い女性たちは教えられない。

中絶を法律で禁じても違法で危険な中絶をする少女たちは後を絶たないだろう。いくら禁欲を解いてみても本能には勝てない。だったら不覚にも妊娠してしまった若い女性たちが違法で危険な中絶をして命を落とすようなことにならないためにも、安価で安全な中絶施設を提供することの何が悪いのか。そう思いたい人の気持ちはよくわかる。

でも忘れないでほしい。中絶は母体のみの手術ではない。尊い命がかかわっているのだ。自分の身体をどうしようと余計なお世話だというが、胎児の身体は母親の身体ではない。母親だからというだけの理由で殺してもいいということにはならない。他に選択肢があるならなおさらではないか?確かに15~6歳で妊娠してしまったらどうすればいい?親にセックスしてることが知れてしまう。さっさと除去してしまいたい。その気持ちはよくわかる。でも彼女が抹殺してしまいたいその命をのどから手がでるほど欲しがっている夫婦もいるのだ。

私はアメリカの学校でどのような性教育がされているのか知らないが、避妊の話だけでなく、命の尊さについてもしっかり教えて欲しいと思う。

残念ながらPPのような組織がなくなるとは思えない。また、全国的に中絶を違法にすることが可能とも思えない。ただ、PPを無益法人ではなく営利企業として連邦政府からの補助金は今すぐやめるべきだと思う。大事なのは法律で禁じることではなく、若い人たちに中絶以外に選択肢があることを我慢強く説いていくしかないだろう。PPの柵の向こう側から祈っているキリスト教徒たちのように。いつか、アビーの心に届いたように、我々の声が届くように祈ろう。


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アメリカを理解してないドラマ、日系二世を描いた「山河燃ゆ」

1984年NHKで放映された大河ドラマ「山河燃ゆ」を何日かにわけてほぼ全編観た。原作は山崎豊子の「二つの祖国」が原作とのこと。率直な感想を述べさせてもらえば、51回もの長編を全部見る価値はない。特に結末は観た時間を返して欲しいと思うほどひどかった。

このシリーズは第二次世界大戦を通して天羽賢治(あもうけんじ 松本幸四郎9代目)という日系二世の男性が日本とアメリカのはざまに立って苦労する話だ。 物語は、大きく分けて三つ。戦前の賢治の日本での生活。戦中アメリカ国内と戦場で、そして戦後の東京裁判の様子。天羽賢治は当時良く居た帰米二世と言われる若者。アメリカ生まれでアメリカ育ちだが、両親が高等教育を日本で受けさせようと長男を日本へ送り返すことがよくあったのだ。

日本人原作の日本制作シリーズだから仕方ないと言えば仕方ないのだが、私が持った違和感は製作者がアメリカ社会やアメリカ人を理解していないことが根本にあるのだと思う。全体的に日本社会や日本人を描いている場面はいいのだが、アメリカ人やアメリカ社会の描き方がおかしい。

物語は賢治が日本で大学を卒業しアメリカへ帰ろうという戦争前2~3年ころから始まる。ウィキによると賢治の日本での生活はドラマのために書き加えられたものらしいのだが、この部分が長すぎる。ここだけで17~8回が注がれていて、いったい何時になったらアメリカの話になるんだろうと思ったくらいだ。

話も筋と関係ない余計なものが多すぎる。戦前の日本で賢治が恋に落ちる大原麗子演じる三島典子とのすれ違い恋愛は昔のメロドラマを観ているようで苛立つし、アメリカで賢治の親友チャーリー(沢田研二)が婚約者のなぎこ(島田陽子)と恋人のエイミー(多岐川裕美)を二股かけているくだりもやりすぎだし不自然だ。友達の三島圭介を演じる篠田三郎の演技は落ち着いている。

戦争が始まって西海岸の日系人たちはアメリカの国籍があるなしに拘わらず強制的にスーツケースふたつのみをもってカリフォルニア北部やアリゾナの収容所に送られた。天羽家も近所の人たちと一緒にマンザナール収容所へ。実は私はもっと収容所での生活についての描写を期待していたのだが、ここでの生活はほんの数回のエピソードで終わってしまった。日系人収容所に関するドキュメンタリーやドラマはアメリカでも多く作られ、私は色々観て知っていたが、日本の人たちはそんなこと全くしらなかっただろうから、もっと詳しく描いてもよかったように思う。

ウィキペディアを読んでいてわかったのだが、原作では賢治及び日系人がアメリカでかなりの偏見や差別にあうことがもっと詳しく描かれているようなのだが、ドラマではあまりそれが描かれていない。話のみそはこういうところにあるはずだ。日系二世アメリカ人の話なのに、アメリカにおける日系人たちの生活が深く描かれていない。そこに私は違和感を持ったのだ。

先ず一番にダメなの白人俳優たち。ケント・ギルバートさんとか何人かはまあまあの演技をしているが、ほとんどが日本在住のアメリカ人で演技が多少できる程度の素人ばかり。大御所歌舞伎役者の幸四郎相手に高校生の学芸会みたいな芝居をされると完全に白ける。

日系人を演じる若い日本人役者たちの演技もひどい。英語が下手なのはしょうがないとしても、日本語のセリフもまともに言えない子たちが何人か居る。賢治の弟の勇(堤大二郎)と妹の春子(柏原芳恵)は多分当時のアイドル歌手かなんかなんだろう。まるで活舌が回っていないし、特に柏原の英語のセリフは聞くに堪えない。また、二人ともアメリカ人のはずなのに身振り素振りが全然アメリカ人のそれではない。若干沢田研二のみがなんとかアメリカ人風のボディランゲージを使っているが、それでもかなり不自然。ただ、なぜか島田陽子と弟忠の西田敏行の英語は非常にきれいで自然だった。賢治の父(三船敏郎)は一世で英語が苦手ということになっているのに、ちょっと話した時の三船の英語はうまかった。

日本人視聴者のためのドラマだから、日本人に人気のある俳優を使いたいのは解るのだが、日系二世ともなると、やはり日系人俳優を使うべきだったのではないだろうか?ただ、収容所に兵士志願者を募りに来た日系陸軍兵を演じた二世兵の俳優やその場で彼に質問をしていた数人の俳優たちの英語は完璧だったので、多分彼らは本物の日系アメリカ人俳優だったのだろう。アメリカ人俳優は白人にしろ二世にしろ全員あのレベルの人たちで固めてほしかった。

それから細かいことを言うようだが、衣装の時代考証もかなりおかしい。日本での日本人俳優たちの衣装は結構いいのだが、白人男優たちのスーツが当時のものではない。あたかも白人俳優たちの衣装は用意されず自前の服で来るように言われたかのようで1930~1950年代の服装とはいいがたいものだった。高予算シリーズなんだからこんなところでけちるのはおかしくないか?

撮影はところどころアメリカでロケをしている。リトル東京も出てくる。しかし、どうもアメリカという雰囲気がしない。

ところでこのシリーズには裏話がある。1984年当時私はすでにアメリカに住んでいたが、当時ロサンゼルスの日本語放送ではNHKの大河ドラマを一週遅れで放映していた。私は沢田研二の大ファンなので、彼が賢治の親友チャーリーを演じるというので予告編を見て非常に楽しみにしていた記憶がある。

ところが実際にはドラマはLAでは放映されなかった。その理由はちょうどそのころ日系三世たちが中心となって第二次世界大戦中に収容所に送られた日系一世及び二世への賠償金を求めて国を相手に訴訟を起こしていた最中であり、日系人はアメリカ人だ、日本帝国に忠誠心など持っていなかったという原告の主張が二つの祖国をもって悩む主人公の話と噛み合わなかったせいだろう。私は知らなかったのだが、番組は放送されてから日系人たちの苦情が殺到して打ち切りになったのだそうだ。

当時はそんなにヒステリーにならなくてもいいのではないかと思ったが、実際にシリーズを観てみて抗議をした日系人たちの気持ちがわかるような気がした。番組に出てくる日系二世登場人物たちがあまりにも日本人過ぎるのだ。

ルーズベルト大統領が人種差別から日系人を迫害したのは事実ではあるが、その対応に普通のアメリカ人が、敵国の人間なんだから当たり前だろうと思ってしまったのは、日系人は日本人だという偏見があったからなのだ。日系人は日本人の血を継いでいるが彼らはアメリカ人なのだ。一世も国籍こそなかったが、それはアメリカの法律で移民一世の帰化が認められていなかったからであり、彼らは10代の頃に移住しずっとアメリカ人として30年以上アメリカで暮らしていた。そんな彼らが天皇陛下や帝国日本に忠儀心など持っていただろうか。

私も以前に、もし日本とアメリカが戦争したら、どちらに忠誠を誓うかと聞かれたことがある。私は躊躇なくそれはアメリカだと答えた。何故ならば、自由の国アメリカと戦争をするような国に日本がなってしまったとしたら、そんな日本政府はなくなってしまうべきだと思うからである。

多くの日系二世たちは自分が見たことも行ったこともない日本に未練などなかっただろうし、忠誠心など持っていたとは思えない。確かにアメリカ政府のやり方には腹を立てていただろう。だがそれとこれは話が別。

そういう部分をこのドラマがきちんと描写していたら、日系人たちから攻撃されるようなこともなかったと思う。しょせん日本人がアメリカ人を描くなどということには無理があったのかもしれない。


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クリスマスに欠かせない映画リストに加わった「ロンドンに奇跡を起こした男」

本日は昨日観た「ロンドンに奇跡を起こした男」を紹介したいと思う。原題は”A man who invented Christmas.” 実はこの映画アメリカでは去年のクリスマスに公開になっており、私とミスター苺と友達の三人で映画館でみたのだが、今年のクリスマスシーズンに是非また観たいと思ってミスター苺にDVDを注文してもらった。それで昨日二回目の鑑賞となったわけ。

そしたら日本での公開は今年の11月末だったということなので、感想を書くのにはちょうどいいタイミングだ。

映画のテーマはかの有名なイギリスの作家チャールズ・ディケンズがどのようにしてクリスマスカロルを書くに至ったかという話だ。添付した予告は日本語吹き替え版。

私がクリスマスカロルを読んだのは中学一年生の時。実はその内容については全く知らずに文庫本を買い、読みだしたら止まらなくなり一気に読んでしまった。この映画を観る前提としてクリスマスカロルを読むか、いくつかある名作映画の一つでも観ておくとより楽しみが増す。一応クリスマスカロルをご存知ない方のために概要を説明するが、知ってる人は飛ばして次の段落へどうぞ。

クリスマスカロルあらすじ:18世紀のロンドンにスクルージという強欲でケチな金貸しが居た。彼はお金持ちであるにも拘わらず、たった一人いる従業員のボブを低い給料でこき使い、事務所の暖炉にくべる炭すらも節約させていた。たった一人の親戚である甥のフレディが毎年クリスマスに家に招待するが、「クリスマスなどくだらない」と毎年甥っ子を追い払っていた。

そんなスクルージのところへ7年前のクリスマスイブに亡くなったビジネスパートナーのマーリーが幽霊となって現れる。マーリーは生前強欲な人生を送ったおかげで今はあの世で鎖につながれてさまよっていると語る。スクルージが自分と同じ目に会いたくなければ、改心して生き方を変えねばならないと忠告。スクルージはそんな必要はないと拒絶するが、マーリーは今夜続けて三人の幽霊が現れる。そして彼らがスクルージの改心のために導いてくれるので、彼らの言うことをよーく聞くようにと言い残して去っていく。

「馬鹿馬鹿しい、夕飯の消化不良で妄想を見たのだ」そう思って床についたスクルージだが、午前一時の鐘が鳴ると、マーリーが言った通り、一人の輝かしい姿をした幽霊が自分の目の前に現れるのだった、、、以下省略。クリスマスカロルのあらすじ終わり

さて本題の映画だが、1843年の冬、チャールズ・ディケンズ(ダン・スティーブンス)はオリバーツイストやニコラスニコルビーなどの作品の成功で、アメリカ講演ツアーなども行うほどの人気作家になっていたが、その後三作続けて不作が続きスランプに陥っていた。しかも、気前よく慈善事業に寄付したり身分不相応の贅沢をしたりしていたことなどもあり、かなり金銭に困るようになっていた。そのうえ借金ばかりして子供時代のディケンズに散々苦労をかけていた父親のジョン(ジョナサン・プライス)と母親が隠居していた田舎からロンドンに出てきてディケンズの家に居候を始める。すでに子だくさんのディケンズの妻ケイト(モーフィッド・クラーク)は、さらに妊娠していることを告げる。なんとか今年中に新作を発表して成功させなければ破産寸前のディケンズ。そんな彼が思いつくのが強欲な金貸し男のクリスマスの話、、

何故私が最初にクリスマスカロルを知っておいた方がいいと言ったかと言うと、この映画の節々でディケンズがカロルで使ったキャラクターのモデルとなる人々や、小説のなかのセリフが出てくるからである。

例えば冒頭で出てくる鼻持ちならない金持ちとディケンズの会話で、貧乏人への寄付をする必要はないと述べる金持ち男が「(子供専門の)工場や刑務所はないのかね?」とディケンズに問うシーン。「ありますよ、でもあんなところに行くくらいなら死んだ方がいいと思うひとがほとんどです。」と答えるディケンズに「だったら死んで人口過多に還元すればいい。」と金持ちが答えるやりとりは、そのままスクルージと寄付を集めに来た紳士たちとの会話。

他にも、ディケンズはお金があったのに一人寂しく死んで葬式に誰も来ない孤独な男の埋葬を目撃したり、やせこけた子供二人をコートの下から見せて子供を売ろうとしている男に怒りを覚えたり、クリスマスなどくだらないと言いながら通り過ぎる老人を見かけたりする。こうしたシーンは物語のあちこちに登場する。

さて、ディケンズが作家としてどのようなことを小説の参考にするかというのを見るのも面白いが、作家というビジネスがいかに大変かを知るのも興味深い。ディケンズは三作も不作続きだったため出版社からの前借はもう出来ない。そこで親友でマネージャーのジョン・フォスター(ジャスティン・エドワーズ)と個人的に資金繰りをする羽目になる。挿絵作家や印刷工場との交渉も自分たちで行い、クリスマス前の6週間ですべてを完了されなければならないのだ。つまり、完全なる自費出版。これで小説が駄作で売れなかったら完全に破滅。ものすごいプレッシャーである。

さて、映画を観ていて気付くことは、ディケンズの目の前に表れる物語の登場人物たちはディケンズの知り合いや友達や使用人の姿とだぶっていること。スクルージ役のクリストファー・プラマーは映画の最初の頃に「クリスマスなんかくだらん」と言って通り過ぎた老人だし、スクルージの元パートナーのマーリー(ドナルド・サンプラー)は、ディケンズが良く行く紳士クラブの年寄りウエイターだし、クリスマスの過去の幽霊はディケンズの子供たちに幽霊の話をしていた若い女中のサラ(アナ・マーフィー)。そしてクリスマス現在の幽霊は挿絵作家がインスピレーションが沸かないと言った時にモデルに使ったディケンズの親友ジョン。(付けたし:片輪のタイニーティムは姉夫婦の息子がモデル。)

ディケンズは自分が作り出したキャラクター達と話をしながら小説を書いていく。だがだんだんとキャラクターたちがディケンズと議論を始める。ボブの片端(かたわ)の息子ティムが死んでしまうなどとんでもない、とか、スクルージが改心せずに話が終わるのはおかしいとか。

ディケンズは大人になって小説家として成功し、幸せな結婚生活を送っているが、実は子供の頃はいい加減な一発屋の父親の借金のためにワークハウスと言われる劣悪な労働環境の子供ばかりの手工場で奴隷のようにこき使われた過去がある。ディケンズはそのことで少なからず父親のことを恨んでいた。

小説を書くにあたり試行錯誤するディケンズが、キャラクターたちとの交流によって、妻や親友や使用人たち、そして父親との関係も見直すようになっていく過程は心を撃つ。

主役のダン・スティーブンスは他の映画では見たことがなかった。典型的なイギリス人俳優という演技だが、結構三枚目的なところが、「ジーブス」や「ハウス」などのテレビ番組で有名なヒュー・ローリーと似ている。考えが浮かばずに書斎で大暴れするシーンは面白い。格好悪さを全くきにしない演技が素敵だ。

私が特に気に入ったのは父親役のジョナサン・プライス。彼はミュージカル俳優としても有名だが、お人好しで、親しみも持て、子供たちにはとっても優しいが、経済観念ゼロなため全く頼りにならない父親役をとても同情できる人として演じている。

今年から我が家ではクリスマスシーズンには欠かせない名作映画の一つに加わった。

ちなみに私がお勧めするクリスマスカロルの映画は、ジョージ・C・スコット主演の「スクルージ」。ご参考までにどうぞ。

付けたし:日本語吹き替え版ではスクルージをミュージカルで演じた市村正親がスクルージ役で登場。主役のディケンズは私が大好きな声優小野大輔。二人とも適役!


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映画ボヘミアンラプソディー、フレディの人生よりバンドの功績に焦点をあててほしかった

先日、クイーンのリードボーカリスト、フレディ・マーキュリーの人生を描いた映画ボヘミアンラプソディーを観て、その感想をツイッターで色々書いていたら結構反響があった。あ、こういうことはブログに書かなきぃかんなと今頃思いついた。

クイーンは1970年代中期に大ヒットして1980年代にはイギリスで80年代最高のバンドとして賞までもらってるくらいの偉大なロックバンド。最初はヘビーメタル調だったが、フレディ・マーキュリーの影響もあって、ハーモニーを生かしたオペラ的な音楽をやってみたり、個性的な音で旋風を巻き起こしたバンド。

映画がどんな風かは実際に映画と事実とでの違いを指摘した記事があったので、これを読んでいただくとよくわかるのだが、先ずバンドの結成から始まり、結成してからアメリカツアーにたどり着く、ロックとしては風変りなボヘミアンラプソディーの誕生、バイセクシャルなフレディと、その妻との不思議な友情、フレディのシングルアルバム、そしてライブエイドコンサートでのクライマックス。

映画の筋としてはあんまり大したことはない。バイオピック(伝記映画)でも面白いものもあるが、普通の人は、例えロックンローラーでも、そんなに波乱万丈な生き方をしているわけではないからだ。特にクイーンはみんな高学歴でフレディ以外はそれほど破廉恥な生き方をしておらず、麻薬におぼれて破産してしまうとか結婚離婚を繰り返すとかいったこともしていない。つまり、プライベートではそれほど変な人生は送っていないのだ。

この映画はクイーンの映画というよりフレディ・マーキュリーのプライベートな人生に焦点を当てすぎている。フレディは確かにカラフルな人ではあったが、ファンとしては彼の人生そのものよりも、クイーンのメンバーとしてどのように音楽創りをしていたかに興味があるのではないだろうか?いや、ファンでなくても、そういうことに焦点を当てた方が面白い。

映画でもバンドがスイスの山奥のモントレー(Montreux)スタジオでアルバムを作る場面が出てくるが、別のドキュメンタリーのインタビューで観たリード・ギターリストでバンドのリーダーでもあるブライアン・メイによると、当時クイーンは色々な音を試していた。多重録音もその一つ。彼らが尊敬していたビートルズもアルバムで色々試していたが、クイーンの頃は録音技術も発達していたので、かなり面白い音が出たと話していた。映画でも色々メンバーたちがドラムに水をかけたり、バケツを使ったりというシーンがあったが、彼らが何をしようとしていたのか、もう少し説明があってもよかったのではないかと思う。

私にとってのクイーンと言えば、中学生の頃にラジオのロック音楽番組を聴いてた頃に、キラークイーンが何週間もナンバー1だったというのが最初の記憶。当時クイーンは日本ツアーを行っており大成功を収めている。日本ツアーをした頃の動画がユーチューブでも見られるので是非ご覧になることをお勧めする。今思えばコンサートに行ければよかったのなあ。(コンサートなんて親が絶対に行かせてくれなかった。)

日本ツアーと言えば、ツイッターで色々な人から指摘されたのだが、クイーンはアメリカよりも日本で最初に人気が出た。アメリカツアーは日本ツアーの後なのである。クイーンが日本に来た時に日本は大歓迎で、何百というファンが空港におしかけたり、クイーンは行く先々で群衆に出会い、ちょっと怖い思いをしたようだ。これも別のインタビューで観たのだが、彼らは日本に来る前にそれほど自分たちが日本で人気があるとは知らず、また日本のファンはお行儀がいいので心配はないと言われていたのに、実際にコンサートをやったらみんな立ち上がって舞台に駆け寄ろうとしたりの大騒ぎでびっくりしたそうだ。

そういうこともあるので、クイーンのバイオピックに日本ツアーが出てこないのは不自然。しかし他のファンの人から「日本ツアーの様子は出てましたか」と聞かれて、そんなシーンはなかったなあと不思議に思ったのである。

そうしたらば、、なんと、実際は日本ツアーのシーンは撮影してあったんだそうだ。何故か本編ではカットされたという話を聞いて驚いてしまった。これにはちょっとしたコントラバーシーがあり、映画の予告ではドラマーのロジャー・テイラーが旭日旗のTシャツを着て空港(多分成田)に他のメンバーと到着するシーンがあったが、誰かからのクレームで(誰とは言わないが)ロジャーのシャツが赤く塗りつぶされたというのである。本編ではこの予告シーンは全く使われていなかったので、私にはよく意味が解らなかったのだが、日本ツアーのシーンが完全に削られていたとなって、やっとその意味が分かったのだ。

さて俳優だが、フレディ以外はずいぶんメンバーに似た人たちを集めたなと思う。特にベースのジョン・ディーコンなんかそっくり。クイーンのメンバーたちが女装して歌う”I want to break free”では、あのミュージックビデオがかなり正確に再現されていて、ロジャーは完全コピーだ。

当時のロジャーはすごくかわいくて本当に女学生に見えた。うちの父はフレディやロジャーの高音から、クイーンには女性が居ると思い込んでいて、アルバムの写真でロジャーを観て納得していたものだ。

ところで女装のアイデアはロジャーで、フレディが口ひげをわざと剃らずに女装したが、間に入ったバレエのようなシーンはフレディのアイデア。その場面ではちゃんと髭をそっている。そういうことも映画で言ってくれたらおもしろかったのに。

他のメンバー役の役者たちはすごく似ているのに、フレディ役のラミ・マレックは全然似てないし演技も下手。フレディがトルコ系だったから、人種が近い人を探したのだろうけど、別に似てなくてもいいからもっと演技のうまい人にやってもらいたかった。フレディが出っ歯だったので、マレックは多分付け歯を使ったのだろうが、それでセリフが言いにくそうだった。それに、フレディの男らしい勇ましさを全く感じられない小柄な感じに見えた。身長はフレディと同じなんだそうだが、どうしてあんなに小ぶりに見えたのだろう。やっぱりフレディの存在感を表すのは難しかったのだろうか。つまり、それだけ演技が下手だってことだ。

ただ、全体的にクイーンの演奏によるヒット曲がちりばめられており、特に最後のライブエイドのシーンでは本当に野外コンサートを観てるような迫力があった。クイーンファンなら音楽を聴くというだけでも観る価値はある。最後には一緒に「うい~あ~ざちゃ~んぴお~んず」と合唱しよう。

余談だが、80年代後半、アメリカでクイーンの人気が下火になっていた頃、自分の映画ウエインズワールドの一シーンにボヘミアンラプソディーを起用し、クイーンのアメリカでの人気を盛り返すことに貢献したマイク・マイヤーズがプロジューサーの役で出演している。

配役:
フレディー・マーキュリー:ラミ・マレック
ロジャー・テイラー:ベン・ハーディー
ジョン・ディーコン:ジョセフ・マツェロ
ブライアン・メイ:グイリム・リー


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舞台:同性愛を全面的に出し過ぎた「ドリアン・グレイの肖像」

19世紀の詩人オスカー・ワイルドが書いた唯一つの小説として有名な「ドリアン・グレイの肖像」を地方劇団の舞台で観て来た。あまりにもローカルな話題なので劇団名を紹介しても意味ないかもしれないが、一応ノイズ・ウィズインという劇団の公演で、動画広告のリンクはこちら

あらすじ:舞台は19世紀のロンドン。画家のバジル・ハルワードは素晴らしい美貌を持つ青年ドリアン・グレイの神秘的な魅力に魅せられその肖像画を描く。バジルの友人ヘンリー(ハリー)・ワットン卿は画家の部屋でモデルをするグレイに遭遇。若さと美しさのみに価値があるとハリーに言われ、自分の代わりに肖像画が年をとればいいのにと願うドリアン。その後ハリーの悪影響で堕落したデカダンスな生活を満喫するドリアンは、いつの間にか自分ではなく肖像画が年を取っていくことに気が付く。しかも自分がなにか悪行を犯す度に、肖像画は醜くなっていくような、、、

有名な話なので何度も映画化や舞台化されている作品だが、こういうクラッシックも現代的な価値観で観るとずいぶん違った舞台になるものだなと思った。オスカー・ワイルドがバイセクシャルだったことは有名だが、だからといって彼の作品に同性愛色が濃いと考えるのは短絡的な発想だ。原作を読んでもドリアン・グレイが同性愛者だったという描写はないし、ましてやハリーやバジルに限ってはそんな気配すらない。だが、この舞台では、女性を除く男性の主要人物はすべてゲイであるという設定になっていた。

先ず最初のシーン。まだドリアンが登場する前の場面で、バジルがドリアンの肖像画を描きながら、ドリアンとどのように出会ったかという話をハリーにしているときの回想シーンでは、バジルとドリアンがほぼ顔と顔を突き合わせるようにして立っている姿が登場する。明らかに二人の間に同性愛的な興味が生まれたという描写だ。そんな話をしている時にドリアンが登場。ドリアンの美貌に一目ぼれするハリーの前でドリアンはさっさと衣服を脱ぎ捨て素っ裸になって壇上に立ちポーズをとる。言っておくがこれは舞台なので(私は最前列だった)素っ裸の姿は観客全員の前でということになる。

別に役者が脱ぐこと自体は問題ではないが、この場面でドリアンが裸になる理由がよくわからない。19世紀の時代的背景から言って貴族の男性が自分の肖像画に裸でモデルになるというのは先ず考えられないからだ。

ま、それはいいとして、ドリアン・グレイの悲劇はジキルアンドハイドと非常に似ている。舞台は同じくビクトリアン時代のロンドン。何故この時期が大事なのかというと、当時のイギリスの上流階級はビクトリア女王の潔癖主義影響を受けて男も女も非常にお行儀のよい行動をすることが求められていた。結婚している夫婦のセックスですらも必要悪と思われていたくらいなので、婚外交渉などもっての他であったし、ましてや同性愛など完全に違法。事実、著者のワイルドはその趣味が原因で刑務所送りになったくらいだから。

そういう時代なので、社会が許さない価値観でドリアンを誘惑するハリーの存在は重要なのだ。ハリーは美しく潔癖なドリアンを自分の自堕落で邪悪な世界に引き入れようと誘惑するのである。彼はドリアンを自分の愛人にしようと誘惑しているわけではない。ここで二人の関係を同性愛で引き寄せられたかのように表現すると、ハリーが代表する邪悪な世界の危険性が薄れてしまう。

またバジルがドリアンとハリーが仲良くなりすぎることを警戒するのも、バジル自身が善良な人間なので、ドリアンがハリーの悪影響にそまってしまうことを恐れているのであり、自分が片思いするドリアンをハリーに盗られてしまうという嫉妬と描かれるべきではない。

ドリアンが同性愛行為をしたり、その魅力で男性を誘惑すること自体は問題ないだろう。なぜなら当時の価値観から言えば、同性愛による誘惑は邪悪で変態的なものと受け取れるからで、他人を堕落させるドリアンの行為としては納得がいくからだ。しかし、それはドリアンが同性愛者ではないという前提があってこそ成り立つ理屈であり、彼が実際に同性愛者だったらこれは意味がない。

この舞台で一番気になったのは、肝心な肖像画が全く描かれていないということだ。これは意図的なものだというのは解るのだが、わざと等身大の額縁だけを見せ、額縁の向こう側で数人の黒服の男女がひそひそ声でドリアンやハリーのセリフを繰り返す。おそろしく変貌した自分の作品を見てバジルが驚愕するシーンでも絵そのものは見せない。

ドリアンの代わりに絵が変わっていくという話なので、絵がどのように醜くなっていくかを示さないとこの物語の一番肝心な部分が抜けてしまう。いったいバジルは何にそれほど驚愕したのか、ドリアンがこの絵を恐れて屋根裏部屋に隠してしまうのは何故なのか、やはりその中身を見せないと意味がない。

カカシ注:この先はネタバレ

遂に自分の犯した悪行の数々に罪悪感にさいなまれたドリアンが、醜く変貌し自分の魂を映し出す肖像画を破壊しようとする。しかしその途端にドリアン自身が醜い姿へと変貌し、肖像画は昔の美しいドリアンの姿へと戻る。

最後のシーンは醜く変貌したドリアンの死体を使用人が発見するという、ジキルとハイドと非常に似たような場面になるのだが、この舞台ではまたまた主役が素っ裸になって額縁の中に立ち、年寄りの俳優が床に横たわっていた。しかし年寄りの俳優は年はとっていたが特に醜くもなく、観客にショックを与えるような姿ではなかった。

醜い絵を破壊しようとして自分が破壊された時のドリアンは吐き気を催すほど醜い姿でなくてはならない。ここでも単に肖像画はドリアンを若く保つためだけのものだったと描写されていることに不満を覚えた。

同じ題名で日本でも舞台化されたようだが、あらすじを読む限り中身は全然違うようだ。

配役:

ヘンリー・ワットン卿:フレドリック・スチュアート
バジル・ハルワード:アミン・エル・ガマール
ドリアン・グレイ:コーリン・ベイツ


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