翔んで埼玉、千葉県人として大いに笑った

今年(2019年)2月に公開された 魔夜峰央(まやみねお)原作の「翔んで埼玉」を日本からアメリカに帰る飛行機の中でみた。私がこの映画に興味があったのは私が好きな俳優の加藤諒が出ていたからだ。彼はやはり私が好きな「パテリコ」にも舞台と映画で主演していたことから知った俳優。偶然でもないが「パテリコ」も「翔んで埼玉 」も同じ魔夜峰央の原作。これは二つを見比べれば一目瞭然だが。

ちょうどカカシは先週日本に里帰りしており、その時に久々に一緒に食事をした女友達が埼玉県に在住であるという話から、この映画のことが話題に上った。隣県の千葉県人(だった)私に対し、現埼玉県人の彼女は「最近の埼玉はすごいのよ」とこの映画の話をしてくれたのだ。

物語は完全なるファンタジーの世界だが、現代日本が未だに徳川時代のような封建社会にあり、東京が中心となり埼玉や千葉は何かと蔑まれており、これらの県民が東京都に入るためには通行手形が必要。東京都民は選民として特権階級であり、埼玉や千葉県民は下層階級。そんな埼玉県民がライバル県民の千葉県と戦いながらも東京都に盾をつくといった内容。

「パテリコ」がそうであったように、「翔んで埼玉」も普通にBLの世界なので、それを主流俳優たちが平気でやってのけるというのが日本のすごいところだな。主役の男性二人壇ノ浦百美(二階堂ふみ) と麻実麗(GACKT) は明らかに恋愛関係にあるし、千葉解放戦線の 阿久津翔(伊勢谷友介)による麗への拷問シーンや麗の配下の男性たち同士の間でもなんか不思議なムードが漂う。

はっきり言って原作者の魔夜峰央と言う人は色々なところでインジョークを混ぜている。「パテリコ」でも萩尾望都の「11月のギムナジウム」で出て来たセリフ「誰が殺したクックロビン」 が突如としてパテリコの口を横切ったりしていたが、今回も作者の宝塚ファン度や腐女子特有ジョークが多々で観られた。(摩耶自身は男性らしけど)

それから作家の宝塚ファン度も大したもの。だいたい麻美麗からして往年の宝塚女優の芸名だ。映画の冒頭でアメリカ帰りの麻美麗を紹介する学校の先生の声がしてくるが、それがいかにも宝塚男役風のセリフ回し。するとその声の主は宝塚男役風化粧した男装の麗人。麗を取り巻く女性たちの話方は完全に宝塚女役風。

もっとも腐女子度や塚ファン度のみならず、関東地方の人にしかわからないインジョークも満載だ。千葉県の常磐線電車のアナウンスとか、そのあまりの完璧さに私はのけぞって笑いそうになった。その他千葉県や埼玉県の地名や特産物(ピーナッツ!)などの話題もバカバカしくておかしくて大笑いした。

真面目な話、初めて男役に挑戦したという二階堂ふみの演技は素晴らしかった。こういうギャグ映画では俳優は真面目に演技をしないと観客はしらける。どれだけハチャメチャな状況にあろうと、どれだけ奇想天外な役柄であろうと、登場人物そのものは真剣に取り組んでいる。だから決してカメラを意識した登場人物を馬鹿にした演技をしてはいけないのだ。その点二階堂は偏見に満ちた特権階級の御曹司でありながら、その偏見を乗り越えていく百美の役を誠実に描いており好感が持てた。

二階堂だけでなく、この傾向はすべての俳優に言えることで、これだけのギャグ映画に真剣に取り組んでくれたということに感謝の意を表したい。

ともかく大笑いした映画なのでお薦め!


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予定外の子供なんて存在しない、妊娠中絶反対を訴える力強い映画、アンプランド(Unplanned)

先日、アラバマ州で非常に厳しい人工中絶規制法が通った。それで私は書きかけでそのままになっていた映画の話をしようと思う。

その映画というのは、アメリカの妊娠中絶専門施設プランドペアレントフッドのテキサス州にある支部の最年少局長としてやり手だった女性が、徐々にそのやり方に疑問を持ち、遂に反中絶運動家になるまでの話を描いたアンプランド。

プランドペアレントフッド(PP)とは家族計画という意味。この組織は表向きは避妊や妊婦への医療提供をするNPO無益法人ということになっているが、実は単なる中絶専門施設。アンプランドという題名は計画していなかったとか予定外のという意味で、PPの家族計画という名前にかけている。

映画は冒頭から中絶手術の生々しいシーンで観客を引き込む。主人公のアビーはPP支部の局長だが看護婦ではない。8年も務めていた自分の施設でも、それまで中絶手術に立ち会ったことは一度もなかった。彼女はその日たまたま手が足りなかった手術室に駆り出され、妊婦のお腹にエコーの器具をあてがう役を請け負った。そばにあるビデオモニターには、はっきりと胎児の姿が写っている。医師が吸引機を妊婦の胎内に差し込むと小さな胎児はあきらかに防衛本能をはたらかして逃げようとしている。そして吸引機が作動すると、胎児が動いていた部分が、あっという間に空洞になった。

私はこのシーンを息をのんでみていた。悲鳴を挙げそうになったので両手で口をふさいだ。嗚咽を抑えようと必死になった。あまりにもショックでその場から逃げ出したい思いがした。ふと気が付くと映画が始まるまでざわついていた劇場はシーンとしており、女性たちが私と同じように悲鳴を抑えている緊張感が伝わって来た。

この、冒頭から観客の感情をつかむやり方は非常に効果的だ。映画はその場面から十数年前に話がさかのぼり、主人公アビーが大学生だった頃からはじまる。アビー・ジョンソンとプランドペアレントフッドの出会いは彼女が大学生の頃、学校のサークル勧誘イベントで誘われたのがきっかけ。避妊に力を入れなるべく中絶を減らし、いざという時は安全な中絶手術を提供するという宣伝文句に動かされ、アビーはボランティアとしてPPで勤めはじめる。その後彼女は無責任なボーイフレンドとの間に出来た子供を中絶。親の反対を押し切ってその男性と結婚したが夫の浮気ですぐ離婚。離婚寸前に二度の中絶を経験する。自身の中絶体験は決して良いものではなかったのにも拘わらず、アビーは若い女性を救うためだという信念に燃えてPPで正式に勤め始める。

診療所では有能なアビーはどんどん出世し最年少の局長にまでなったが、彼女の良心に常に影を差していたのはPP診療所の前で診療所へやってくる若い女性たちに話しかけている中絶反対のキリスト教徒たち。また、敬虔なキリスト教徒であるアビーの両親もそして彼女の再婚相手で娘の父でもある夫もアビーの仕事には反対だった。

アビー・ジョンソンは悪人ではない。彼女は本当にPPが女性を救っていると信じていた。女性が妊娠中絶は非道徳的ではないと自分に言い聞かせるのは簡単だ。

先ず未婚で妊娠してしまったら、両親に未婚なのにセックスしていたことがばれてしまう、学校も辞めなきゃならなくなる、世間の偏見の目のなか貧困に耐えながら子供を育てなきゃならなくなる、養子の貰い手なんてそうそう居るわけないし、そんな家庭に生まれた子供だって幸せにならないだろう。たった一度の若気の至りで一生女の子だけが罰を受けるなんて不公平だ。それに、初期での中絶なんてまだ小さな細胞で胎児は痛みなど感じない。盲腸を取るより簡単な治療なんだから、、、などなどなど

しかしPPのカウンセラーは若い女性たちに中絶をすることによる肉体や精神的な影響について話すことはない。養子を迎えたがっている不妊症の夫婦がいくらでも居る事実も伝えない。ましてや一個の人間の命を自分の勝手な都合で殺してしまうということが如何に罪深いことなのかということを若い女性たちは教えられない。

中絶を法律で禁じても違法で危険な中絶をする少女たちは後を絶たないだろう。いくら禁欲を解いてみても本能には勝てない。だったら不覚にも妊娠してしまった若い女性たちが違法で危険な中絶をして命を落とすようなことにならないためにも、安価で安全な中絶施設を提供することの何が悪いのか。そう思いたい人の気持ちはよくわかる。

でも忘れないでほしい。中絶は母体のみの手術ではない。尊い命がかかわっているのだ。自分の身体をどうしようと余計なお世話だというが、胎児の身体は母親の身体ではない。母親だからというだけの理由で殺してもいいということにはならない。他に選択肢があるならなおさらではないか?確かに15~6歳で妊娠してしまったらどうすればいい?親にセックスしてることが知れてしまう。さっさと除去してしまいたい。その気持ちはよくわかる。でも彼女が抹殺してしまいたいその命をのどから手がでるほど欲しがっている夫婦もいるのだ。

私はアメリカの学校でどのような性教育がされているのか知らないが、避妊の話だけでなく、命の尊さについてもしっかり教えて欲しいと思う。

残念ながらPPのような組織がなくなるとは思えない。また、全国的に中絶を違法にすることが可能とも思えない。ただ、PPを無益法人ではなく営利企業として連邦政府からの補助金は今すぐやめるべきだと思う。大事なのは法律で禁じることではなく、若い人たちに中絶以外に選択肢があることを我慢強く説いていくしかないだろう。PPの柵の向こう側から祈っているキリスト教徒たちのように。いつか、アビーの心に届いたように、我々の声が届くように祈ろう。


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アメリカを理解してないドラマ、日系二世を描いた「山河燃ゆ」

1984年NHKで放映された大河ドラマ「山河燃ゆ」を何日かにわけてほぼ全編観た。原作は山崎豊子の「二つの祖国」が原作とのこと。率直な感想を述べさせてもらえば、51回もの長編を全部見る価値はない。特に結末は観た時間を返して欲しいと思うほどひどかった。

このシリーズは第二次世界大戦を通して天羽賢治(あもうけんじ 松本幸四郎9代目)という日系二世の男性が日本とアメリカのはざまに立って苦労する話だ。 物語は、大きく分けて三つ。戦前の賢治の日本での生活。戦中アメリカ国内と戦場で、そして戦後の東京裁判の様子。天羽賢治は当時良く居た帰米二世と言われる若者。アメリカ生まれでアメリカ育ちだが、両親が高等教育を日本で受けさせようと長男を日本へ送り返すことがよくあったのだ。

日本人原作の日本制作シリーズだから仕方ないと言えば仕方ないのだが、私が持った違和感は製作者がアメリカ社会やアメリカ人を理解していないことが根本にあるのだと思う。全体的に日本社会や日本人を描いている場面はいいのだが、アメリカ人やアメリカ社会の描き方がおかしい。

物語は賢治が日本で大学を卒業しアメリカへ帰ろうという戦争前2~3年ころから始まる。ウィキによると賢治の日本での生活はドラマのために書き加えられたものらしいのだが、この部分が長すぎる。ここだけで17~8回が注がれていて、いったい何時になったらアメリカの話になるんだろうと思ったくらいだ。

話も筋と関係ない余計なものが多すぎる。戦前の日本で賢治が恋に落ちる大原麗子演じる三島典子とのすれ違い恋愛は昔のメロドラマを観ているようで苛立つし、アメリカで賢治の親友チャーリー(沢田研二)が婚約者のなぎこ(島田陽子)と恋人のエイミー(多岐川裕美)を二股かけているくだりもやりすぎだし不自然だ。友達の三島圭介を演じる篠田三郎の演技は落ち着いている。

戦争が始まって西海岸の日系人たちはアメリカの国籍があるなしに拘わらず強制的にスーツケースふたつのみをもってカリフォルニア北部やアリゾナの収容所に送られた。天羽家も近所の人たちと一緒にマンザナール収容所へ。実は私はもっと収容所での生活についての描写を期待していたのだが、ここでの生活はほんの数回のエピソードで終わってしまった。日系人収容所に関するドキュメンタリーやドラマはアメリカでも多く作られ、私は色々観て知っていたが、日本の人たちはそんなこと全くしらなかっただろうから、もっと詳しく描いてもよかったように思う。

ウィキペディアを読んでいてわかったのだが、原作では賢治及び日系人がアメリカでかなりの偏見や差別にあうことがもっと詳しく描かれているようなのだが、ドラマではあまりそれが描かれていない。話のみそはこういうところにあるはずだ。日系二世アメリカ人の話なのに、アメリカにおける日系人たちの生活が深く描かれていない。そこに私は違和感を持ったのだ。

先ず一番にダメなの白人俳優たち。ケント・ギルバートさんとか何人かはまあまあの演技をしているが、ほとんどが日本在住のアメリカ人で演技が多少できる程度の素人ばかり。大御所歌舞伎役者の幸四郎相手に高校生の学芸会みたいな芝居をされると完全に白ける。

日系人を演じる若い日本人役者たちの演技もひどい。英語が下手なのはしょうがないとしても、日本語のセリフもまともに言えない子たちが何人か居る。賢治の弟の勇(堤大二郎)と妹の春子(柏原芳恵)は多分当時のアイドル歌手かなんかなんだろう。まるで活舌が回っていないし、特に柏原の英語のセリフは聞くに堪えない。また、二人ともアメリカ人のはずなのに身振り素振りが全然アメリカ人のそれではない。若干沢田研二のみがなんとかアメリカ人風のボディランゲージを使っているが、それでもかなり不自然。ただ、なぜか島田陽子と弟忠の西田敏行の英語は非常にきれいで自然だった。賢治の父(三船敏郎)は一世で英語が苦手ということになっているのに、ちょっと話した時の三船の英語はうまかった。

日本人視聴者のためのドラマだから、日本人に人気のある俳優を使いたいのは解るのだが、日系二世ともなると、やはり日系人俳優を使うべきだったのではないだろうか?ただ、収容所に兵士志願者を募りに来た日系陸軍兵を演じた二世兵の俳優やその場で彼に質問をしていた数人の俳優たちの英語は完璧だったので、多分彼らは本物の日系アメリカ人俳優だったのだろう。アメリカ人俳優は白人にしろ二世にしろ全員あのレベルの人たちで固めてほしかった。

それから細かいことを言うようだが、衣装の時代考証もかなりおかしい。日本での日本人俳優たちの衣装は結構いいのだが、白人男優たちのスーツが当時のものではない。あたかも白人俳優たちの衣装は用意されず自前の服で来るように言われたかのようで1930~1950年代の服装とはいいがたいものだった。高予算シリーズなんだからこんなところでけちるのはおかしくないか?

撮影はところどころアメリカでロケをしている。リトル東京も出てくる。しかし、どうもアメリカという雰囲気がしない。

ところでこのシリーズには裏話がある。1984年当時私はすでにアメリカに住んでいたが、当時ロサンゼルスの日本語放送ではNHKの大河ドラマを一週遅れで放映していた。私は沢田研二の大ファンなので、彼が賢治の親友チャーリーを演じるというので予告編を見て非常に楽しみにしていた記憶がある。

ところが実際にはドラマはLAでは放映されなかった。その理由はちょうどそのころ日系三世たちが中心となって第二次世界大戦中に収容所に送られた日系一世及び二世への賠償金を求めて国を相手に訴訟を起こしていた最中であり、日系人はアメリカ人だ、日本帝国に忠誠心など持っていなかったという原告の主張が二つの祖国をもって悩む主人公の話と噛み合わなかったせいだろう。私は知らなかったのだが、番組は放送されてから日系人たちの苦情が殺到して打ち切りになったのだそうだ。

当時はそんなにヒステリーにならなくてもいいのではないかと思ったが、実際にシリーズを観てみて抗議をした日系人たちの気持ちがわかるような気がした。番組に出てくる日系二世登場人物たちがあまりにも日本人過ぎるのだ。

ルーズベルト大統領が人種差別から日系人を迫害したのは事実ではあるが、その対応に普通のアメリカ人が、敵国の人間なんだから当たり前だろうと思ってしまったのは、日系人は日本人だという偏見があったからなのだ。日系人は日本人の血を継いでいるが彼らはアメリカ人なのだ。一世も国籍こそなかったが、それはアメリカの法律で移民一世の帰化が認められていなかったからであり、彼らは10代の頃に移住しずっとアメリカ人として30年以上アメリカで暮らしていた。そんな彼らが天皇陛下や帝国日本に忠儀心など持っていただろうか。

私も以前に、もし日本とアメリカが戦争したら、どちらに忠誠を誓うかと聞かれたことがある。私は躊躇なくそれはアメリカだと答えた。何故ならば、自由の国アメリカと戦争をするような国に日本がなってしまったとしたら、そんな日本政府はなくなってしまうべきだと思うからである。

多くの日系二世たちは自分が見たことも行ったこともない日本に未練などなかっただろうし、忠誠心など持っていたとは思えない。確かにアメリカ政府のやり方には腹を立てていただろう。だがそれとこれは話が別。

そういう部分をこのドラマがきちんと描写していたら、日系人たちから攻撃されるようなこともなかったと思う。しょせん日本人がアメリカ人を描くなどということには無理があったのかもしれない。


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クリスマスに欠かせない映画リストに加わった「ロンドンに奇跡を起こした男」

本日は昨日観た「ロンドンに奇跡を起こした男」を紹介したいと思う。原題は”A man who invented Christmas.” 実はこの映画アメリカでは去年のクリスマスに公開になっており、私とミスター苺と友達の三人で映画館でみたのだが、今年のクリスマスシーズンに是非また観たいと思ってミスター苺にDVDを注文してもらった。それで昨日二回目の鑑賞となったわけ。

そしたら日本での公開は今年の11月末だったということなので、感想を書くのにはちょうどいいタイミングだ。

映画のテーマはかの有名なイギリスの作家チャールズ・ディケンズがどのようにしてクリスマスカロルを書くに至ったかという話だ。添付した予告は日本語吹き替え版。

私がクリスマスカロルを読んだのは中学一年生の時。実はその内容については全く知らずに文庫本を買い、読みだしたら止まらなくなり一気に読んでしまった。この映画を観る前提としてクリスマスカロルを読むか、いくつかある名作映画の一つでも観ておくとより楽しみが増す。一応クリスマスカロルをご存知ない方のために概要を説明するが、知ってる人は飛ばして次の段落へどうぞ。

クリスマスカロルあらすじ:18世紀のロンドンにスクルージという強欲でケチな金貸しが居た。彼はお金持ちであるにも拘わらず、たった一人いる従業員のボブを低い給料でこき使い、事務所の暖炉にくべる炭すらも節約させていた。たった一人の親戚である甥のフレディが毎年クリスマスに家に招待するが、「クリスマスなどくだらない」と毎年甥っ子を追い払っていた。

そんなスクルージのところへ7年前のクリスマスイブに亡くなったビジネスパートナーのマーリーが幽霊となって現れる。マーリーは生前強欲な人生を送ったおかげで今はあの世で鎖につながれてさまよっていると語る。スクルージが自分と同じ目に会いたくなければ、改心して生き方を変えねばならないと忠告。スクルージはそんな必要はないと拒絶するが、マーリーは今夜続けて三人の幽霊が現れる。そして彼らがスクルージの改心のために導いてくれるので、彼らの言うことをよーく聞くようにと言い残して去っていく。

「馬鹿馬鹿しい、夕飯の消化不良で妄想を見たのだ」そう思って床についたスクルージだが、午前一時の鐘が鳴ると、マーリーが言った通り、一人の輝かしい姿をした幽霊が自分の目の前に現れるのだった、、、以下省略。クリスマスカロルのあらすじ終わり

さて本題の映画だが、1843年の冬、チャールズ・ディケンズ(ダン・スティーブンス)はオリバーツイストやニコラスニコルビーなどの作品の成功で、アメリカ講演ツアーなども行うほどの人気作家になっていたが、その後三作続けて不作が続きスランプに陥っていた。しかも、気前よく慈善事業に寄付したり身分不相応の贅沢をしたりしていたことなどもあり、かなり金銭に困るようになっていた。そのうえ借金ばかりして子供時代のディケンズに散々苦労をかけていた父親のジョン(ジョナサン・プライス)と母親が隠居していた田舎からロンドンに出てきてディケンズの家に居候を始める。すでに子だくさんのディケンズの妻ケイト(モーフィッド・クラーク)は、さらに妊娠していることを告げる。なんとか今年中に新作を発表して成功させなければ破産寸前のディケンズ。そんな彼が思いつくのが強欲な金貸し男のクリスマスの話、、

何故私が最初にクリスマスカロルを知っておいた方がいいと言ったかと言うと、この映画の節々でディケンズがカロルで使ったキャラクターのモデルとなる人々や、小説のなかのセリフが出てくるからである。

例えば冒頭で出てくる鼻持ちならない金持ちとディケンズの会話で、貧乏人への寄付をする必要はないと述べる金持ち男が「(子供専門の)工場や刑務所はないのかね?」とディケンズに問うシーン。「ありますよ、でもあんなところに行くくらいなら死んだ方がいいと思うひとがほとんどです。」と答えるディケンズに「だったら死んで人口過多に還元すればいい。」と金持ちが答えるやりとりは、そのままスクルージと寄付を集めに来た紳士たちとの会話。

他にも、ディケンズはお金があったのに一人寂しく死んで葬式に誰も来ない孤独な男の埋葬を目撃したり、やせこけた子供二人をコートの下から見せて子供を売ろうとしている男に怒りを覚えたり、クリスマスなどくだらないと言いながら通り過ぎる老人を見かけたりする。こうしたシーンは物語のあちこちに登場する。

さて、ディケンズが作家としてどのようなことを小説の参考にするかというのを見るのも面白いが、作家というビジネスがいかに大変かを知るのも興味深い。ディケンズは三作も不作続きだったため出版社からの前借はもう出来ない。そこで親友でマネージャーのジョン・フォスター(ジャスティン・エドワーズ)と個人的に資金繰りをする羽目になる。挿絵作家や印刷工場との交渉も自分たちで行い、クリスマス前の6週間ですべてを完了されなければならないのだ。つまり、完全なる自費出版。これで小説が駄作で売れなかったら完全に破滅。ものすごいプレッシャーである。

さて、映画を観ていて気付くことは、ディケンズの目の前に表れる物語の登場人物たちはディケンズの知り合いや友達や使用人の姿とだぶっていること。スクルージ役のクリストファー・プラマーは映画の最初の頃に「クリスマスなんかくだらん」と言って通り過ぎた老人だし、スクルージの元パートナーのマーリー(ドナルド・サンプラー)は、ディケンズが良く行く紳士クラブの年寄りウエイターだし、クリスマスの過去の幽霊はディケンズの子供たちに幽霊の話をしていた若い女中のサラ(アナ・マーフィー)。そしてクリスマス現在の幽霊は挿絵作家がインスピレーションが沸かないと言った時にモデルに使ったディケンズの親友ジョン。(付けたし:片輪のタイニーティムは姉夫婦の息子がモデル。)

ディケンズは自分が作り出したキャラクター達と話をしながら小説を書いていく。だがだんだんとキャラクターたちがディケンズと議論を始める。ボブの片端(かたわ)の息子ティムが死んでしまうなどとんでもない、とか、スクルージが改心せずに話が終わるのはおかしいとか。

ディケンズは大人になって小説家として成功し、幸せな結婚生活を送っているが、実は子供の頃はいい加減な一発屋の父親の借金のためにワークハウスと言われる劣悪な労働環境の子供ばかりの手工場で奴隷のようにこき使われた過去がある。ディケンズはそのことで少なからず父親のことを恨んでいた。

小説を書くにあたり試行錯誤するディケンズが、キャラクターたちとの交流によって、妻や親友や使用人たち、そして父親との関係も見直すようになっていく過程は心を撃つ。

主役のダン・スティーブンスは他の映画では見たことがなかった。典型的なイギリス人俳優という演技だが、結構三枚目的なところが、「ジーブス」や「ハウス」などのテレビ番組で有名なヒュー・ローリーと似ている。考えが浮かばずに書斎で大暴れするシーンは面白い。格好悪さを全くきにしない演技が素敵だ。

私が特に気に入ったのは父親役のジョナサン・プライス。彼はミュージカル俳優としても有名だが、お人好しで、親しみも持て、子供たちにはとっても優しいが、経済観念ゼロなため全く頼りにならない父親役をとても同情できる人として演じている。

今年から我が家ではクリスマスシーズンには欠かせない名作映画の一つに加わった。

ちなみに私がお勧めするクリスマスカロルの映画は、ジョージ・C・スコット主演の「スクルージ」。ご参考までにどうぞ。

付けたし:日本語吹き替え版ではスクルージをミュージカルで演じた市村正親がスクルージ役で登場。主役のディケンズは私が大好きな声優小野大輔。二人とも適役!


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映画ボヘミアンラプソディー、フレディの人生よりバンドの功績に焦点をあててほしかった

先日、クイーンのリードボーカリスト、フレディ・マーキュリーの人生を描いた映画ボヘミアンラプソディーを観て、その感想をツイッターで色々書いていたら結構反響があった。あ、こういうことはブログに書かなきぃかんなと今頃思いついた。

クイーンは1970年代中期に大ヒットして1980年代にはイギリスで80年代最高のバンドとして賞までもらってるくらいの偉大なロックバンド。最初はヘビーメタル調だったが、フレディ・マーキュリーの影響もあって、ハーモニーを生かしたオペラ的な音楽をやってみたり、個性的な音で旋風を巻き起こしたバンド。

映画がどんな風かは実際に映画と事実とでの違いを指摘した記事があったので、これを読んでいただくとよくわかるのだが、先ずバンドの結成から始まり、結成してからアメリカツアーにたどり着く、ロックとしては風変りなボヘミアンラプソディーの誕生、バイセクシャルなフレディと、その妻との不思議な友情、フレディのシングルアルバム、そしてライブエイドコンサートでのクライマックス。

映画の筋としてはあんまり大したことはない。バイオピック(伝記映画)でも面白いものもあるが、普通の人は、例えロックンローラーでも、そんなに波乱万丈な生き方をしているわけではないからだ。特にクイーンはみんな高学歴でフレディ以外はそれほど破廉恥な生き方をしておらず、麻薬におぼれて破産してしまうとか結婚離婚を繰り返すとかいったこともしていない。つまり、プライベートではそれほど変な人生は送っていないのだ。

この映画はクイーンの映画というよりフレディ・マーキュリーのプライベートな人生に焦点を当てすぎている。フレディは確かにカラフルな人ではあったが、ファンとしては彼の人生そのものよりも、クイーンのメンバーとしてどのように音楽創りをしていたかに興味があるのではないだろうか?いや、ファンでなくても、そういうことに焦点を当てた方が面白い。

映画でもバンドがスイスの山奥のモントレー(Montreux)スタジオでアルバムを作る場面が出てくるが、別のドキュメンタリーのインタビューで観たリード・ギターリストでバンドのリーダーでもあるブライアン・メイによると、当時クイーンは色々な音を試していた。多重録音もその一つ。彼らが尊敬していたビートルズもアルバムで色々試していたが、クイーンの頃は録音技術も発達していたので、かなり面白い音が出たと話していた。映画でも色々メンバーたちがドラムに水をかけたり、バケツを使ったりというシーンがあったが、彼らが何をしようとしていたのか、もう少し説明があってもよかったのではないかと思う。

私にとってのクイーンと言えば、中学生の頃にラジオのロック音楽番組を聴いてた頃に、キラークイーンが何週間もナンバー1だったというのが最初の記憶。当時クイーンは日本ツアーを行っており大成功を収めている。日本ツアーをした頃の動画がユーチューブでも見られるので是非ご覧になることをお勧めする。今思えばコンサートに行ければよかったのなあ。(コンサートなんて親が絶対に行かせてくれなかった。)

日本ツアーと言えば、ツイッターで色々な人から指摘されたのだが、クイーンはアメリカよりも日本で最初に人気が出た。アメリカツアーは日本ツアーの後なのである。クイーンが日本に来た時に日本は大歓迎で、何百というファンが空港におしかけたり、クイーンは行く先々で群衆に出会い、ちょっと怖い思いをしたようだ。これも別のインタビューで観たのだが、彼らは日本に来る前にそれほど自分たちが日本で人気があるとは知らず、また日本のファンはお行儀がいいので心配はないと言われていたのに、実際にコンサートをやったらみんな立ち上がって舞台に駆け寄ろうとしたりの大騒ぎでびっくりしたそうだ。

そういうこともあるので、クイーンのバイオピックに日本ツアーが出てこないのは不自然。しかし他のファンの人から「日本ツアーの様子は出てましたか」と聞かれて、そんなシーンはなかったなあと不思議に思ったのである。

そうしたらば、、なんと、実際は日本ツアーのシーンは撮影してあったんだそうだ。何故か本編ではカットされたという話を聞いて驚いてしまった。これにはちょっとしたコントラバーシーがあり、映画の予告ではドラマーのロジャー・テイラーが旭日旗のTシャツを着て空港(多分成田)に他のメンバーと到着するシーンがあったが、誰かからのクレームで(誰とは言わないが)ロジャーのシャツが赤く塗りつぶされたというのである。本編ではこの予告シーンは全く使われていなかったので、私にはよく意味が解らなかったのだが、日本ツアーのシーンが完全に削られていたとなって、やっとその意味が分かったのだ。

さて俳優だが、フレディ以外はずいぶんメンバーに似た人たちを集めたなと思う。特にベースのジョン・ディーコンなんかそっくり。クイーンのメンバーたちが女装して歌う”I want to break free”では、あのミュージックビデオがかなり正確に再現されていて、ロジャーは完全コピーだ。

当時のロジャーはすごくかわいくて本当に女学生に見えた。うちの父はフレディやロジャーの高音から、クイーンには女性が居ると思い込んでいて、アルバムの写真でロジャーを観て納得していたものだ。

ところで女装のアイデアはロジャーで、フレディが口ひげをわざと剃らずに女装したが、間に入ったバレエのようなシーンはフレディのアイデア。その場面ではちゃんと髭をそっている。そういうことも映画で言ってくれたらおもしろかったのに。

他のメンバー役の役者たちはすごく似ているのに、フレディ役のラミ・マレックは全然似てないし演技も下手。フレディがトルコ系だったから、人種が近い人を探したのだろうけど、別に似てなくてもいいからもっと演技のうまい人にやってもらいたかった。フレディが出っ歯だったので、マレックは多分付け歯を使ったのだろうが、それでセリフが言いにくそうだった。それに、フレディの男らしい勇ましさを全く感じられない小柄な感じに見えた。身長はフレディと同じなんだそうだが、どうしてあんなに小ぶりに見えたのだろう。やっぱりフレディの存在感を表すのは難しかったのだろうか。つまり、それだけ演技が下手だってことだ。

ただ、全体的にクイーンの演奏によるヒット曲がちりばめられており、特に最後のライブエイドのシーンでは本当に野外コンサートを観てるような迫力があった。クイーンファンなら音楽を聴くというだけでも観る価値はある。最後には一緒に「うい~あ~ざちゃ~んぴお~んず」と合唱しよう。

余談だが、80年代後半、アメリカでクイーンの人気が下火になっていた頃、自分の映画ウエインズワールドの一シーンにボヘミアンラプソディーを起用し、クイーンのアメリカでの人気を盛り返すことに貢献したマイク・マイヤーズがプロジューサーの役で出演している。

配役:
フレディー・マーキュリー:ラミ・マレック
ロジャー・テイラー:ベン・ハーディー
ジョン・ディーコン:ジョセフ・マツェロ
ブライアン・メイ:グイリム・リー


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舞台:同性愛を全面的に出し過ぎた「ドリアン・グレイの肖像」

19世紀の詩人オスカー・ワイルドが書いた唯一つの小説として有名な「ドリアン・グレイの肖像」を地方劇団の舞台で観て来た。あまりにもローカルな話題なので劇団名を紹介しても意味ないかもしれないが、一応ノイズ・ウィズインという劇団の公演で、動画広告のリンクはこちら

あらすじ:舞台は19世紀のロンドン。画家のバジル・ハルワードは素晴らしい美貌を持つ青年ドリアン・グレイの神秘的な魅力に魅せられその肖像画を描く。バジルの友人ヘンリー(ハリー)・ワットン卿は画家の部屋でモデルをするグレイに遭遇。若さと美しさのみに価値があるとハリーに言われ、自分の代わりに肖像画が年をとればいいのにと願うドリアン。その後ハリーの悪影響で堕落したデカダンスな生活を満喫するドリアンは、いつの間にか自分ではなく肖像画が年を取っていくことに気が付く。しかも自分がなにか悪行を犯す度に、肖像画は醜くなっていくような、、、

有名な話なので何度も映画化や舞台化されている作品だが、こういうクラッシックも現代的な価値観で観るとずいぶん違った舞台になるものだなと思った。オスカー・ワイルドがバイセクシャルだったことは有名だが、だからといって彼の作品に同性愛色が濃いと考えるのは短絡的な発想だ。原作を読んでもドリアン・グレイが同性愛者だったという描写はないし、ましてやハリーやバジルに限ってはそんな気配すらない。だが、この舞台では、女性を除く男性の主要人物はすべてゲイであるという設定になっていた。

先ず最初のシーン。まだドリアンが登場する前の場面で、バジルがドリアンの肖像画を描きながら、ドリアンとどのように出会ったかという話をハリーにしているときの回想シーンでは、バジルとドリアンがほぼ顔と顔を突き合わせるようにして立っている姿が登場する。明らかに二人の間に同性愛的な興味が生まれたという描写だ。そんな話をしている時にドリアンが登場。ドリアンの美貌に一目ぼれするハリーの前でドリアンはさっさと衣服を脱ぎ捨て素っ裸になって壇上に立ちポーズをとる。言っておくがこれは舞台なので(私は最前列だった)素っ裸の姿は観客全員の前でということになる。

別に役者が脱ぐこと自体は問題ではないが、この場面でドリアンが裸になる理由がよくわからない。19世紀の時代的背景から言って貴族の男性が自分の肖像画に裸でモデルになるというのは先ず考えられないからだ。

ま、それはいいとして、ドリアン・グレイの悲劇はジキルアンドハイドと非常に似ている。舞台は同じくビクトリアン時代のロンドン。何故この時期が大事なのかというと、当時のイギリスの上流階級はビクトリア女王の潔癖主義影響を受けて男も女も非常にお行儀のよい行動をすることが求められていた。結婚している夫婦のセックスですらも必要悪と思われていたくらいなので、婚外交渉などもっての他であったし、ましてや同性愛など完全に違法。事実、著者のワイルドはその趣味が原因で刑務所送りになったくらいだから。

そういう時代なので、社会が許さない価値観でドリアンを誘惑するハリーの存在は重要なのだ。ハリーは美しく潔癖なドリアンを自分の自堕落で邪悪な世界に引き入れようと誘惑するのである。彼はドリアンを自分の愛人にしようと誘惑しているわけではない。ここで二人の関係を同性愛で引き寄せられたかのように表現すると、ハリーが代表する邪悪な世界の危険性が薄れてしまう。

またバジルがドリアンとハリーが仲良くなりすぎることを警戒するのも、バジル自身が善良な人間なので、ドリアンがハリーの悪影響にそまってしまうことを恐れているのであり、自分が片思いするドリアンをハリーに盗られてしまうという嫉妬と描かれるべきではない。

ドリアンが同性愛行為をしたり、その魅力で男性を誘惑すること自体は問題ないだろう。なぜなら当時の価値観から言えば、同性愛による誘惑は邪悪で変態的なものと受け取れるからで、他人を堕落させるドリアンの行為としては納得がいくからだ。しかし、それはドリアンが同性愛者ではないという前提があってこそ成り立つ理屈であり、彼が実際に同性愛者だったらこれは意味がない。

この舞台で一番気になったのは、肝心な肖像画が全く描かれていないということだ。これは意図的なものだというのは解るのだが、わざと等身大の額縁だけを見せ、額縁の向こう側で数人の黒服の男女がひそひそ声でドリアンやハリーのセリフを繰り返す。おそろしく変貌した自分の作品を見てバジルが驚愕するシーンでも絵そのものは見せない。

ドリアンの代わりに絵が変わっていくという話なので、絵がどのように醜くなっていくかを示さないとこの物語の一番肝心な部分が抜けてしまう。いったいバジルは何にそれほど驚愕したのか、ドリアンがこの絵を恐れて屋根裏部屋に隠してしまうのは何故なのか、やはりその中身を見せないと意味がない。

カカシ注:この先はネタバレ

遂に自分の犯した悪行の数々に罪悪感にさいなまれたドリアンが、醜く変貌し自分の魂を映し出す肖像画を破壊しようとする。しかしその途端にドリアン自身が醜い姿へと変貌し、肖像画は昔の美しいドリアンの姿へと戻る。

最後のシーンは醜く変貌したドリアンの死体を使用人が発見するという、ジキルとハイドと非常に似たような場面になるのだが、この舞台ではまたまた主役が素っ裸になって額縁の中に立ち、年寄りの俳優が床に横たわっていた。しかし年寄りの俳優は年はとっていたが特に醜くもなく、観客にショックを与えるような姿ではなかった。

醜い絵を破壊しようとして自分が破壊された時のドリアンは吐き気を催すほど醜い姿でなくてはならない。ここでも単に肖像画はドリアンを若く保つためだけのものだったと描写されていることに不満を覚えた。

同じ題名で日本でも舞台化されたようだが、あらすじを読む限り中身は全然違うようだ。

配役:

ヘンリー・ワットン卿:フレドリック・スチュアート
バジル・ハルワード:アミン・エル・ガマール
ドリアン・グレイ:コーリン・ベイツ


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理解しがたいトランスジェンダーの「同性愛」嗜好

ちょっと変な短編映画を二作見てしまった。ユーチューブでたまたま出くわしたので題名も何も覚えてないのだが、二つともテーマが女性から男性に移行した人たちが男性に恋をするというものだったのでちょっとお話したい。

最初の映画の主役はゲイの男性で、男性だと思って付き合いはじめた人物が実は元は女性のいわゆるFTMであることを知って戸惑う話。主人公がFTMの子の友達と会うシーンでは、みんなLGBTQ+の訳の解らない代名詞を使うことを主人公に要求。ゲイの主人公は「僕にはわかんないよ、僕は『正常』な人間だから!」と言うシーンは笑ってしまった。男の人を好きになるゲイの男性が普通というのがトランスの世界なのである。これはもしかしてトランスジェンダーやノンバイナリーとかいう訳の解らん連中をおちょくったパロディ映画だったのかもしれない。

もうひとつの方は、主人公の男性が男と思って付き合った人間が、ゲイバッシングでさんざん殴る蹴るの暴行を受け病院に運ばれる。そこで恋人が実は女だったことが解り主人公は吐いてしまうほどショックを受ける。しかし相手がFTMであることを受け入れた主人公は、再び恋人と付き合うようになるが、いざセックスをしようとしたら実は主人公もFTMであったことが解って今度は恋人の方が拒絶する。その恋人は「僕はずっと普通の人として溶け込みたいと思っていた。」と言って去っていく。

私はこの結末を予測していたので驚きはしなかったが「なんでだよ~!」という気持ちでいっぱいだった。生物学的な女性が男性に魅力を感じるならそれは普通ではないか?男性/女性であるということの基本は異性に対する性欲であるはず。だからこそ同性愛者は異質な存在なのであり少数派として扱われてきたのだ。それが異性に愛情を感じるのに自分は異性だと思い込むというのはどういうことだろう?しかも「普通の人間として溶け込みたい」人が、わざわざ社会が異質と思う性転換という行為に及ぶというのはどういうことなのか?異性が好きならそのままの状態で異性と付き合えばいいだけの話。そうすれば普通の人間として社会に溶け込むことが出来るではないか。それが普通なんだから。

ところで最初の映画で主人公と恋人がどのようにセックスすればいいのかを悩むシーンがあった。だが、二人は生物学的な男女カップルなので、普通にすれば全く問題ないと思うんだけどね。人間はそういうふうに出来てるんだから。

余談だが、私の美容師はゲイの男性だがもう孫が何人も居るおっさん。それというのも男と思ってナンパした子が実は女性で、一回きりの交渉で女性が妊娠してしまったからなんだそうだ。彼の場合、相手が異性とわかっても特に拒絶反応は起きなかったらしい。その後その女性とは結婚はしなかったが、母子とはずっと家族として付き合ってる。だから孫たちからも慕われている。

自称トランスの人々は、どうして生まれたままの性を受け入れることができないのだろう?同性に愛情を感じるというのは感情の問題なのでどうしようもないが、自分が女性/男性として生まれたことは単にそれを受け入れるだけで何の弊害も生まれない。好きな人が同性でも異性でも今の時代特に問題はない。異性のような恰好をしたいならすればいい。制服などで規制されている場合は臨機応変に対応し社会になるべく迷惑のかからないプライベートな時に男装なり女装なりを楽しめばいいではないか。

私が同性愛者に関しては全く嫌悪感を覚えないのにトランスジェンダーを受け入れられないのは、彼/彼女たちが自分らの異質な嗜好を他者に押し付け拒絶されると、ありのままの自分を受け入れてくれない、といって駄々をこねるからである。

ありのままの自分を最初に拒絶したのは誰あろう自分たちなのに。


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「国家が死滅する時」トランプは第二のリンカーンに成り得るのか?

保守派作家で映画プロデューサーでもあるディネシュ・デスーザ(Dinesh D’Souza)製作のドキュメンタリー映画、“Death of a Nation”(国家が死滅する時)を観て来た。デスーザ制作のドキュメンタリーはこれで確か四作目だが今までで一番良い出来になっていると思う。

デスーザは過去に「オバマのアメリカ」、「アメリカのない世界」、「ヒラリーのアメリカ」といった保守思想を全面的に押し出した映画製作で有名だ。オバマ前大統領はデスーザの映画にいたく腹を立て、普通なら罰金程度で終わる選挙法違反行為でデスーザを逮捕し禁固刑に処すという行為に出たほどだ。せんだってトランプ大統領はデスーザに恩赦を下し、晴れてデスーザは前科者の汚名を晴らすことが出来た。前作のヒラリーのアメリカはヒラリー・クリントンが大統領選で落選するのにかなりの影響を与えたと言われている。

さて今回の国家が死滅する時は、ファシズムとは何であるのか、そして如何に米民主党がその創設時からファシズムを崇拝してきたかを如実に語っている。デスーザの映画はドキュメンタリーとはいうものの、半分は俳優を使った再現シーンで回を重ねるごとにその質が高まっている。今回もドイツ人俳優を起用してヒットラーやその配下のブラウンシャツ愚連隊による悪行が赤裸々に描写されている。

映画は普段トランプ及び共和党をナチスだのファシストだの人種差別者だのと罵っている米民主党こそが、実はファシズム及び奴隷制度を信念としてきた党であり、彼らがことあるごとに持ち出してくるナチスの政策は実は米民主党の政策をお手本にしていたということを順序だてて証明していく。

読者諸氏のなかでアメリカの奴隷制度や黒人差別法や白人至上主義テロ軍団KKKを固持していた党が現在リベラルを気取る民主党だということをご存知の方がどれだけいるだろうか?ご存知ないとしても気を悪くすることはない。アメリカ国内で特に民主党支持派のなかでこの歴史的事実を知っている人の割合は限りなくゼロに近いのだ。

ヒットラー曰く「大きな嘘は繰り返し語れば信じてもらえるようになる」。民主党は絶対的なファシスト奴隷主義党の過去を隠すために1960年代の人権運動後、自分らこそが少数派の人権を守る正義の味方であり共和党こそが人種差別の党なのだという大嘘をつき続けてきた。そして主流メディアが一緒になってこの嘘を広めたため、多くの人がジム・クロー法のような人種差別法を施行したのが民主党で、白人至上主義テロ団体であるKKKが民主党の手先だったという事実を忘れてしまった。今や大半の黒人は共和党こそが人種差別の党であると信じている。敵ながらあっぱれなプロパガンダ政策である。

だが歴史的事実はこれとは全く正反対。後退派左翼はアメリカが奴隷制度によって設立された国だと言い張るが、アメリカの創設の父たちは奴隷制度を嫌っていた。独立宣言のなかで「すべての人々は平等に創られている」とあるのは文字通り白人も黒人も平等だという意味だった。ではなぜその場で奴隷制度を廃絶しなかったのかと言えば、南部の州(後の民主党)が奴隷制度廃絶をするなら独立運動に参加しないと断固拒否したからなのだ。奴隷貿易を廃止し黒人の価値をゼロと言い張っていた南部に対してその価値を白人の3/5まで引き上げたのも、奴隷制度を固持したい南部と廃止したい北部との妥協だったのだ。しかし、後になって奴隷制度を廃絶することが出来たのは、この「すべての人々は平等」という独立宣言があったからこそなのである。(「すべての白人」としていないことからもそれは明白なはず。)

民主党創設者のアンドリュー・ジャクソン大統領はファシストで奴隷制度主義だった。映画はヒットラーがいかにジャクソンを崇拝し彼の思想をお手本にしていたかを語る。興味深いのはユダヤ人種浄化を図ったナチスでさえ、誰をユダヤ人とみなすかについて、米民主党による『一滴でも黒人の血が混ざっていれば黒人とみなす』という基準はあまりにも人種差別過ぎると判断し、ユダヤ人とみなされるには少なくとも祖父母の三人までがユダヤ人である場合に限るとした点だ。

今や悪の代表として引き合いに出されるナチス党のファシズムだが、アメリカを第一次世界大戦に巻き込んだウッドロー・ウイルソン大統領も、リベラルの神様みたいに崇め奉られているフランクリン・D・ルーズベルト大統領も完全なるファシストだった。ヒットラーは同じファシストのルーズベルトが大統領に選ばれたことを歓迎していたくらいなのだ。(日本が真珠湾攻撃をしたり、ドイツがアメリカに宣戦布告をしたりなどしなかったら、世の中はどれほど変わっていたのか、考えただけでも恐ろしい。)

ファシズムは右翼だと言う人がいるが、これは正しくない。ファシズムとは社会主義の変形であり根本は共産主義と同じだ。共産主義が世界的社会主義であるのに対し、ファシズムは国粋型社会主義である。ナチスという名前にしても原名はNationalsozialistische Deutsche Arbeiterparteiといって国粋社会主義ドイツ労働党という意味である。だからファシズムを右翼と結びつけて共和党は右翼だからファシストだという理屈はこじつけなのである。

同映画はヒットラーがキリスト教徒だったとか保守的だったという神話をことごとく崩していく。たとえばヒットラーがキリスト教会と手を結んでいたということに関しても、ヒットラーは政権を握るまで教会の協力が必要だったから教会を支持しているふりをしていただけで、政権を握ってからはキリスト教徒を弾圧した。またナチスが同性愛者を迫害したということに関しても、ナチス政権下で一般の同性愛者が拘束されたのは事実だが、ナチス党の幹部にはかなり多くの同性愛者が居たことは周知の事実であり、ヒットラーは仕事が出来る人間ならプライベートで何をしていようと関知しないという姿勢を取っていた。つまり社会的にもヒットラーは決して保守派ではなかったのである。

色々な面でナチス党と多くの共通点を持つのは共和党ではなく民主党の方なのだ。いまでも民主党は昔と全く変わっていない。彼らの目指すところはファシズムであり奴隷制度である。

次によく耳にする民主党の大嘘は、確かに民主党は奴隷制度支持で白人至上主義だったが、1960年代以降デキシークラットと呼ばれる人種差別主義の南部民主党員はこぞって共和党に移籍し民主党と共和党は完全に入れ替わったというもの。だが、1964年の人権法によって人種差別法が廃止された後に民主党から共和党に移籍した議員はストローム・サーモンとジェシー・ヘルムスのたった二人である(しかもヘルムスは人権法当時はまだ上院議員ではなかった)。KKKメンバーでビル・クリントン大統領の恩師と言われたロバート・バードは死ぬまで民主党員を貫き通した。クリントンは後にバードのKKK所属に関して、「当時はKKKに所属していなければ民主党員になれなかった」と言っているくらい、KKKと民主党のつながりは深かったののである。だいたい人種差別主義で白人至上主義の民主党員が黒人の人権を守る人権法を推し進めた共和党に移籍するということからして理屈に合わない。今の南部が共和党支持になったのは人権法が通ったずっと後のロナルド・レーガン大統領の頃である。つまり、南部の人種差別者が死に絶えて次の世代の反差別者の時代になってから南部は共和党に移ったのだ。

同映画はこのような歴史的な事実を再現映像で示しながら、現在の自称アンティファや左翼が言うアルトライトの実情にも言及する。自称アンティファ実はファシストどもの暴力的な手段はナチスドイツのブラウンシャツのやり方と全く同じ。アルトライトの象徴のように左翼からもてはやされている白人至上主義ナチス崇拝主義者のリチャード・スペンサーが実は左翼で社会主義者でファシストである事実も映画は暴露する。左翼はあたかもスペンサーがアルトライトを代表するかのように報道するが、スペンサーは左翼だ。決してアルトライトなどではない。同映画のなかで彼は自らその事実を認めている。

ドナルド・トランプ大統領は民主党から敵視されているが、こういうことは昔にもあったとデスーザは言う。奴隷制度廃止のために南北戦争を指揮したエイブラハム・リンカーン大統領の時がそうだった。ファシズムと奴隷制度を固持しようとした南部に勇敢に戦って勝ったリンカーンのように、当時と全く変わらず暴力で国民の自由を奪い奴隷化を目指す民主党に対抗してトランプ大統領は勝利を収めることが出来るであろうか。

拙ブログを長年お読みの諸氏はご存知の通り、カカシはトランプ大統領候補を全く支持していなかった。彼が本質的な共和党員であることを信じていなかったからである。普段から民主党やメディアは信じないと言っていたくせに、左翼連中の大嘘に騙され、トランプは本当の共和党大統領になどなれないと思っていたカカシ。だが、私は間違っていた。トランプは素晴らしい大統領だ。ヒラリーでなくトランプが大統領になってくれて本当に助かった。

今のアメリカは岐路に立たされている。アメリカがファシズムの波に押し流されるかどうかはトランプ政権にかかっているのだ。この戦いは南北戦争と同じぐらい大切な戦いだ。

トランプはリンカーンとなりえるだろうか?私は成り得ると信じる。私はアメリカ国民を信じる。この映画はアメリカ国民に勇気を与えてくれる素晴らしい映画だ。ぜひぜひ多くのアメリカ人に見てもらいたい。特に民主党支持者の方々にお勧めする。

アメリカに神のご加護あれ!God Bless America!


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風と共に去りぬがポリコレ規制に触れた日

アメリカの歴史を抹消しようとする動きは遂にアカデミー賞受賞傑作映画「風と共に去りぬ」にまで手を伸ばしてきた。政治は自分たちには関係がないと思っていても、言論規制はこのように我々の生活の隅々まで手を伸ばしてくるのである。
テネシー州のメンフィス市にあるオーフィウム劇場では毎夏恒例風と共に去りぬの上映が今月11日をもって今後同映画を上映しない旨を発表した。劇場側の案内によると、この映画上映に関していくつかの苦情をもらったことから経営者の判断で今後の上映はしないことにしたというのだ。
私は風と共に去りぬを中学生の頃に読んで、その時ずいぶんと黒人差別をあからさまにした小説だなと思ったものだ。しかし同時に南北戦争を南部の金持ちの視点から見たという意味では興味深い小説だとも思った。その後宝塚の舞台や映画も観たが、どちらからも原作にあるあからさまな黒人差別の描写はかなり削られていた。
しかし、1970年代に初演された宝塚の舞台版とは違って映画の方は公開が1930年代。まだまだ黒人差別が普通だった時代なだけに、今だったら信じられないような描写があることは確か。
先ず南部の視点から見ているので南部軍は英雄で、奴隷制度廃止を唱えていた北軍を悪者にしていること。それだけでなく、映画を通じて優しい人とされている従妹のメラニーが、主人公のスカーレットが安い労働者として白人囚人を雇ったとき、囚人を無理やり働かせるなんて非人道的だ、何故くろんぼを雇わない?と怒ったり、スカーレットが黒人と白人の二人組に襲われそうになり逃げかえってきた後、KKKのメンバーであるスカーレットの家人が黒人退治に出かけて警察に追われるシーンなどがあったりする。
この小説は我々現代人からは受け入れられない視点から見ていることは確かだ。だが昔はこういうふうに考えている人もいたということを知っておくのも大事な勉強だ。原作者のマーガレット・ミッチェルは南北戦争当時の人ではない。この小説は彼女が昔の南部にあこがれて書いた幻想小説である。
それに対して奴隷制度時代に生きていたマーク・トウェイン作のハックルベリーフィンの冒険はトウェインの実体験が背後にあるためかなり重みが違う。マーク・トウェインの名作であるこの小説も多くの小学校や中学校の図書館から取り除かれている。その理由というのもニガー(黒んぼの意味)という黒人侮蔑語が小説内で頻繁に使われているから、というのが理由だ。しかしハックの冒険ほど奴隷制度を批判した小説も珍しい。しかもこの小説の舞台は作家の生きていた実社会の物語なのだ。黒人奴隷がいて当たり前な社会に生きていたトウエインが奴隷逃亡に加担する少年の話を書くことは、言ってみれば当時のポリティカルコレクトネスに多いに違反する行為だったはずだ。
それなのに奴隷制度を批判し黒人差別反対と唱える人に限ってハックの冒険を排斥しようとする。奴隷制度の悪を描き、その制度に反抗した勇気ある少年の話を当時普通に使われていた侮蔑語を使っているからといって排斥することの愚かさに彼らは気が付かない。
このままだと学校教育で南北戦争を教えてはいけないという時代が来るのは近い。何故アメリカは国家二分の戦いをしたのか。なぜあれほどまでの犠牲を出して親兄弟が敵対するような戦争をやったのか。そのことを理解できないから、南部軍英雄の彫像を破壊したり、国歌斉唱の時に起立しないで膝をついてみたり、星条旗を冒涜したりする馬鹿人間が出てくるのだ。南北戦争の本当の意味を国民が理解していたら、アメリカ国民がアメリカに誇りをもちこそすれ恥を感じるようなことは断固あり得ないはずだ。
繰り返すが奴隷解放を歌って北部軍を率いた大統領は誰あろう共和党のエイブラハム・リンカーンである。

“Those who don’t know history are doomed to repeat it.” 「歴史を忘れるものは歴史を繰り返す」
                    ー     Edmund Burke エドモンド・バーク。

風と共に去りぬ -あらすじ
物語は南北戦争勃発寸前の南部ジョージア州アトランタ市で始まる。主人公のスカーレット・オハラは通称タラという大農場を持つアイルランド系移民の金持ち令嬢。(タラというのはオハラ氏の祖国アイルランドの出身地の名前)負けん気の強いうら若きスカーレットは慕っていたアシュレーに激しく求愛するが、彼が従妹のメラニーと結婚するつもりだと聞いて、腹いせに好きでもない男と結婚してしまう。
そうこうしているうちに南北戦争が始まる。夫のチャールズはわずか結婚二か月で戦地で病死。若くして未亡人となったスカーレットは大邸宅を負傷兵たちのために明け渡し、戦争中ずっと負傷兵の看病に身を尽くす。
南部は負け、スカーレットの大農場も破産。金に困ったスカーレットは怪しげな手段で金儲けをして裕福で危険な魅力を持つレット・バトラーと結婚。二人の間には娘が授かるが、スカーレットの思いは今もアシュレーのもの。スカーレットはレットの献身的な愛情を素直に受け止められない。そんな二人の間に悲劇が訪れる。二人の愛娘が落馬してこの世を去り、スカーレットとレッドの亀裂はさらに深まる。そんな折、アシュレーの妻メラニーが病死。メラニーの死に振り乱すアシュレーを見て、やっとスカーレットはアシュレーの弱さを知り、レットの深い愛を悟り、自分がどれほどレットを愛するようになっていたかを悟る。
レッドの本当の愛と自分の気持ちを知ったスカーレットはそのことを伝えようとレットのもとに行くが、レットは荷物をまとめて家を出ていこうとしていた。あなたを愛している、あなたが居なくなったら私はどうすればいいの、というスカーレットに対し、レッドは、
「正直なところ、俺にはもうどうでもいいことだ」”Frankly my dear, I don’t give a damn.”
という名台詞を残して去っていく。残されたスカーレットは私はどうすればいいの、といったんは泣き崩れるが「それは明日考えよう、明日は明日の風がふく」と言って立ち上がる。
ーーーーーーあらすじ終わりーーーーー


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地球は過去19年間温まっていない、冷却期に入る恐れも

この間、ダンカークという映画を観に行ったときに、アル・ゴアの空想非化学映画「不都合な(不)真実」の続編トゥルーストゥパワーの予告編(ビデオ)を見てしまった。あんまりバカバカしかったので、トランプがEPA(環境庁)をつぶしてやると演説している部分でわざと拍手を送ってやったら、後退派左翼で牛耳られる映画館ではかなりの顰蹙を買ってしまった、私とミスター苺に向かって「黙れ!」「トランプは裏切り者だ、このくそ野郎!」などとヤジが飛んだ。
しっかしながら、アルゴアがいっくら映画なんぞを作ってみても地球温暖化が起きていないという「不都合な真実」を変えることは出来ない。
今年の五月に紹介された記事なのだが、デンマーク気象研究所Danish Meteorological Institute (DMI). の調査によると、北極の海氷は例年よりずっと厚く、地球はここ19年間全く温暖化していないということが解った。
2016年12月から北極の気温は零下20度(摂氏)以下が続いている。4月現在の北極海氷は13年前の4月の厚さまで戻った。さらに海氷が非常に薄いと言われた2008年に比べて今年の海氷の厚さはどこも少なくとも2メートルはあるという。グリーンランドのアイスキャップはこの冬、ここ数年に比べて速い速度で増えている。
エルニーニョのおかげで例年にない暑さと言われた2016年だが、記録的に暑いと言われた17年前の1998年のエルニーニョの時同様、数か月後の今は0.6度ほど温度が下がっている。
ということは、地球温暖化の傾向は19年前から全くないということになる。
地球は温暖化が起きているどころかミニ氷河期に向かっているという説もある。最近の太陽活動の減少から三年以内にかなりの温度低下が見られるだろうというもの。地球は230年周期で冷却するが、その周期は2014年に始まり2019年にはずっと気温が落ち込むという予測だ。
気象学者らによると、太陽活動の大きな現象が予測されており、2020年から2053年までの33年間に極度の冷却が期待されるという。もし本当に地球が冷却周期に入っているのだとしたら、温暖化などよりずっと世界経済に悪影響を及ぼす。
地球気象周期研究所の会長デイビッド・ディリー(David Dilley)氏によると、地球の温暖や冷却の周期は地球と月と太陽の引力関係によって決まるという。それぞれの周期は約12万年周期で巡ってくるが、そのうちでも230年周期で小さな温暖冷却が巡ってくる。西暦900年からすでに五回に渡って温暖化周期が巡ってきたが、その度ごとに冷却期が続くという。
前回の温暖化周期が終わったのが1790年。2020年はその230年後にあたる。そのことからディリー氏は2019年あたりから極度な冷却が始まるだろうと予測している。そうなった場合、イギリスでは1940年に見られたような摂氏零下21度などという温度を見るかもしれない。「2019年からはじまる冷却は2020年から2021年の間に地球の温度を1940年から1960年のレベルまで引き下げることでしょう」とディリー氏は語る。
2019年になって本当に地球冷却化が始まったら、アルゴアはじめ温暖化迷信の妄信者たちはどうするのだろうか?それでも地球は温暖化してると喚き続けるつもりなのだろうか?


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