風と共に去りぬがポリコレ規制に触れた日

アメリカの歴史を抹消しようとする動きは遂にアカデミー賞受賞傑作映画「風と共に去りぬ」にまで手を伸ばしてきた。政治は自分たちには関係がないと思っていても、言論規制はこのように我々の生活の隅々まで手を伸ばしてくるのである。
テネシー州のメンフィス市にあるオーフィウム劇場では毎夏恒例風と共に去りぬの上映が今月11日をもって今後同映画を上映しない旨を発表した。劇場側の案内によると、この映画上映に関していくつかの苦情をもらったことから経営者の判断で今後の上映はしないことにしたというのだ。
私は風と共に去りぬを中学生の頃に読んで、その時ずいぶんと黒人差別をあからさまにした小説だなと思ったものだ。しかし同時に南北戦争を南部の金持ちの視点から見たという意味では興味深い小説だとも思った。その後宝塚の舞台や映画も観たが、どちらからも原作にあるあからさまな黒人差別の描写はかなり削られていた。
しかし、1970年代に初演された宝塚の舞台版とは違って映画の方は公開が1930年代。まだまだ黒人差別が普通だった時代なだけに、今だったら信じられないような描写があることは確か。
先ず南部の視点から見ているので南部軍は英雄で、奴隷制度廃止を唱えていた北軍を悪者にしていること。それだけでなく、映画を通じて優しい人とされている従妹のメラニーが、主人公のスカーレットが安い労働者として白人囚人を雇ったとき、囚人を無理やり働かせるなんて非人道的だ、何故くろんぼを雇わない?と怒ったり、スカーレットが黒人と白人の二人組に襲われそうになり逃げかえってきた後、KKKのメンバーであるスカーレットの家人が黒人退治に出かけて警察に追われるシーンなどがあったりする。
この小説は我々現代人からは受け入れられない視点から見ていることは確かだ。だが昔はこういうふうに考えている人もいたということを知っておくのも大事な勉強だ。原作者のマーガレット・ミッチェルは南北戦争当時の人ではない。この小説は彼女が昔の南部にあこがれて書いた幻想小説である。
それに対して奴隷制度時代に生きていたマーク・トウェイン作のハックルベリーフィンの冒険はトウェインの実体験が背後にあるためかなり重みが違う。マーク・トウェインの名作であるこの小説も多くの小学校や中学校の図書館から取り除かれている。その理由というのもニガー(黒んぼの意味)という黒人侮蔑語が小説内で頻繁に使われているから、というのが理由だ。しかしハックの冒険ほど奴隷制度を批判した小説も珍しい。しかもこの小説の舞台は作家の生きていた実社会の物語なのだ。黒人奴隷がいて当たり前な社会に生きていたトウエインが奴隷逃亡に加担する少年の話を書くことは、言ってみれば当時のポリティカルコレクトネスに多いに違反する行為だったはずだ。
それなのに奴隷制度を批判し黒人差別反対と唱える人に限ってハックの冒険を排斥しようとする。奴隷制度の悪を描き、その制度に反抗した勇気ある少年の話を当時普通に使われていた侮蔑語を使っているからといって排斥することの愚かさに彼らは気が付かない。
このままだと学校教育で南北戦争を教えてはいけないという時代が来るのは近い。何故アメリカは国家二分の戦いをしたのか。なぜあれほどまでの犠牲を出して親兄弟が敵対するような戦争をやったのか。そのことを理解できないから、南部軍英雄の彫像を破壊したり、国歌斉唱の時に起立しないで膝をついてみたり、星条旗を冒涜したりする馬鹿人間が出てくるのだ。南北戦争の本当の意味を国民が理解していたら、アメリカ国民がアメリカに誇りをもちこそすれ恥を感じるようなことは断固あり得ないはずだ。
繰り返すが奴隷解放を歌って北部軍を率いた大統領は誰あろう共和党のエイブラハム・リンカーンである。

“Those who don’t know history are doomed to repeat it.” 「歴史を忘れるものは歴史を繰り返す」
                    ー     Edmund Burke エドモンド・バーク。

風と共に去りぬ -あらすじ
物語は南北戦争勃発寸前の南部ジョージア州アトランタ市で始まる。主人公のスカーレット・オハラは通称タラという大農場を持つアイルランド系移民の金持ち令嬢。(タラというのはオハラ氏の祖国アイルランドの出身地の名前)負けん気の強いうら若きスカーレットは慕っていたアシュレーに激しく求愛するが、彼が従妹のメラニーと結婚するつもりだと聞いて、腹いせに好きでもない男と結婚してしまう。
そうこうしているうちに南北戦争が始まる。夫のチャールズはわずか結婚二か月で戦地で病死。若くして未亡人となったスカーレットは大邸宅を負傷兵たちのために明け渡し、戦争中ずっと負傷兵の看病に身を尽くす。
南部は負け、スカーレットの大農場も破産。金に困ったスカーレットは怪しげな手段で金儲けをして裕福で危険な魅力を持つレット・バトラーと結婚。二人の間には娘が授かるが、スカーレットの思いは今もアシュレーのもの。スカーレットはレットの献身的な愛情を素直に受け止められない。そんな二人の間に悲劇が訪れる。二人の愛娘が落馬してこの世を去り、スカーレットとレッドの亀裂はさらに深まる。そんな折、アシュレーの妻メラニーが病死。メラニーの死に振り乱すアシュレーを見て、やっとスカーレットはアシュレーの弱さを知り、レットの深い愛を悟り、自分がどれほどレットを愛するようになっていたかを悟る。
レッドの本当の愛と自分の気持ちを知ったスカーレットはそのことを伝えようとレットのもとに行くが、レットは荷物をまとめて家を出ていこうとしていた。あなたを愛している、あなたが居なくなったら私はどうすればいいの、というスカーレットに対し、レッドは、
「正直なところ、俺にはもうどうでもいいことだ」”Frankly my dear, I don’t give a damn.”
という名台詞を残して去っていく。残されたスカーレットは私はどうすればいいの、といったんは泣き崩れるが「それは明日考えよう、明日は明日の風がふく」と言って立ち上がる。
ーーーーーーあらすじ終わりーーーーー


View comments (2)

地球は過去19年間温まっていない、冷却期に入る恐れも

この間、ダンカークという映画を観に行ったときに、アル・ゴアの空想非化学映画「不都合な(不)真実」の続編トゥルーストゥパワーの予告編(ビデオ)を見てしまった。あんまりバカバカしかったので、トランプがEPA(環境庁)をつぶしてやると演説している部分でわざと拍手を送ってやったら、後退派左翼で牛耳られる映画館ではかなりの顰蹙を買ってしまった、私とミスター苺に向かって「黙れ!」「トランプは裏切り者だ、このくそ野郎!」などとヤジが飛んだ。
しっかしながら、アルゴアがいっくら映画なんぞを作ってみても地球温暖化が起きていないという「不都合な真実」を変えることは出来ない。
今年の五月に紹介された記事なのだが、デンマーク気象研究所Danish Meteorological Institute (DMI). の調査によると、北極の海氷は例年よりずっと厚く、地球はここ19年間全く温暖化していないということが解った。
2016年12月から北極の気温は零下20度(摂氏)以下が続いている。4月現在の北極海氷は13年前の4月の厚さまで戻った。さらに海氷が非常に薄いと言われた2008年に比べて今年の海氷の厚さはどこも少なくとも2メートルはあるという。グリーンランドのアイスキャップはこの冬、ここ数年に比べて速い速度で増えている。
エルニーニョのおかげで例年にない暑さと言われた2016年だが、記録的に暑いと言われた17年前の1998年のエルニーニョの時同様、数か月後の今は0.6度ほど温度が下がっている。
ということは、地球温暖化の傾向は19年前から全くないということになる。
地球は温暖化が起きているどころかミニ氷河期に向かっているという説もある。最近の太陽活動の減少から三年以内にかなりの温度低下が見られるだろうというもの。地球は230年周期で冷却するが、その周期は2014年に始まり2019年にはずっと気温が落ち込むという予測だ。
気象学者らによると、太陽活動の大きな現象が予測されており、2020年から2053年までの33年間に極度の冷却が期待されるという。もし本当に地球が冷却周期に入っているのだとしたら、温暖化などよりずっと世界経済に悪影響を及ぼす。
地球気象周期研究所の会長デイビッド・ディリー(David Dilley)氏によると、地球の温暖や冷却の周期は地球と月と太陽の引力関係によって決まるという。それぞれの周期は約12万年周期で巡ってくるが、そのうちでも230年周期で小さな温暖冷却が巡ってくる。西暦900年からすでに五回に渡って温暖化周期が巡ってきたが、その度ごとに冷却期が続くという。
前回の温暖化周期が終わったのが1790年。2020年はその230年後にあたる。そのことからディリー氏は2019年あたりから極度な冷却が始まるだろうと予測している。そうなった場合、イギリスでは1940年に見られたような摂氏零下21度などという温度を見るかもしれない。「2019年からはじまる冷却は2020年から2021年の間に地球の温度を1940年から1960年のレベルまで引き下げることでしょう」とディリー氏は語る。
2019年になって本当に地球冷却化が始まったら、アルゴアはじめ温暖化迷信の妄信者たちはどうするのだろうか?それでも地球は温暖化してると喚き続けるつもりなのだろうか?


Comment

ワンダーウーマンはフェミニストじゃない、左翼メディアからの不思議な攻撃

今年はどの映画も全く不入りで悩んでいるハリウッドだが、その中で一つだけ興行成績ダントツの大人気映画ワンダーウーマン(日本語公式サイト)を観てきた。
これは人気があれば三部作になるらしい話の第一部。ワンダーウーマンの出生物語。舞台は第一次世界大戦の真っ最中。女性戦士のアマゾン族のお姫様として、ダイアナは外世界からは完全に隔離された女性だけの住む離島で育った。そこへアメリカ軍のパイロットスティーブ・トラバーの乗った戦闘機が海に墜落。それを目撃したダイアナはスティーブを海から救出するが、スティーブの後を追ってきたドイツ軍により島は襲撃を受ける。多数の犠牲者をだしながらも、何とか外敵を撃墜したアマゾン族は、スティーブからオトマン帝国とドイツが共謀して化学兵器を開発している事実を学ぶ。世界中の人々がオトマンおよびドイツによって脅威にさらされていると知ったダイアナは、これはゼウスの息子で戦いの神であるアレスの仕業に違いないと確信。人々をアレスの魔力から救出すべき使命に燃えたダイアナはスティーブと共に現実社会へと旅立つ。
ダイアナは当初、闘いの神であるアレスを倒しさえすれば戦争は収まるものと非常にナイーブな気持ちで挑むのだが、現実はそんな単純なものではない。アレスは人々の戦闘心や他人を服従させ支配したいという野心に拍車をかけるだけであり、戦う戦わないは人間の自由意志によるものだ。ダイアナはスティーブの援助でそのことを少しづつ学んでいく。この映画の一番大事な点は個人の「自由意志」だ。悪を選ぶも善を選ぶも個人の自由意志なのだ。そんな人間を超人ワンダーウーマンが救う価値があるのだろうか?
常にスーパーヒーローが男ばっかりだと文句を言っている左翼フェミニストたちにとってワンダーウーマンは歓迎すべきヒロインであるはずだが、なぜか彼女たちの批評は冷ややかである。
左翼雑誌のスレートは、ワンダーウーマンの美しさが許せないようだ。主演のガル・ガドットがあまりにも美しく、ダイアナが絶世の美女であることが映画のあちこちで強調され、彼女が登場する場面ですべての男性の目が彼女の美しさに魅せられてしまうことが気に入らないというのだ。登場人物の一人が「恐怖を感じると共に性的興奮にかられる」と語るシーンが観客の笑いを誘うことにこの批評家は怒りを隠せない
そして主演のガドットがイスラエル国民であり、イスラエル軍で戦ったこともある元兵士であるということも左翼連中には気に入らないらしい。彼女がイスラエル人であることが原因でモスレム圏では上映が禁止された国もある。
同じく左翼雑誌のサローンも、ガドットがイスラエル人であることが気に入らないなかのひとつ。
ガドットがパレスチナ人の悪行を自分のツイッターで批判していたことを指して、イスラエルがパレスチナに対してしている悪行について書かないのは片手落ちだと批判。はっきり言って戦争している敵を批判するのは戦士として当然のことだろう。なんで他国による自国の批判までツイートしなければならないのか?彼女にそんな義理はない。第一、それと映画と何の関係があるのだ?
同じくサローンの別の記事では、スーパーヒーローは個人の強さを美化する傾向があり、政府設立の階級制エリート意識丸出しで平等とは程遠いと語る。これははっきり言って矛盾している。政府設立の階級制度では個人主義は奨励されない。なぜなら生まれが高階級の人間は個人的に能力があるなしにかかわらず権限が高いからだ。この批評家はわざと階級制度を持ち出すことによってスーパーヒーローの個人主義を批判している。彼女にとっての平等とは誰もが平等に力のない状態を指すのだろう。
特に馬鹿馬鹿しいのがMSマガジンのこれ、なぜワンダーウーマンは太った有色人種ではないのかという批判。そんなこといちいち説明する必要があるのか?

なぜワンダーウーマンは有色人種ではないの?ガドットがワンダーウーマンを演じると決まった時、観衆は彼女の貧乳を批判し恥をかかせた。もし主役を黒人女性が演じるとなったら白人至上主義者たちが何と言ったか想像がつく。(アマゾン族の住む)パラダイス島には白人と共に黒人戦士もいる。これは良い傾向だ。だが他の人種が見あたらない。

アマゾン族の島はギリシャにあるのだ。ギリシャにそうそういろんな人種が集まるわけはない。だいたい一つの種族で成り立っているのに、人種がまちまちだったらそれこそ変である。
あ、それともうひとつ。主演のガル・ガドットはユダヤ人で白人ではない。アラブ人と同様セマイト人種である。

また、女戦士たちは皆強く勇敢だが、誰もが背が高く細身ですぐにもファッションモデルをやれそうだ。(略)なぜ戦士のなかには太目のがっちりした背の低いタイプがいないのか?

確かに戦士がファッションモデルみたいに痩せ痩せで筋肉がない女ばかりだったら問題ではあるが、私の見た限り、かなりがっしりした女優も居た。アマゾン族は高度な技術のあるエリート戦士の集まりだから、必然的に戦闘に有利な体系の人間を集める。太って動きの鈍い人間じゃ役に立たない。これ、常識。

もうひとつの問題は明らかな同性愛描写が両性愛の普通化によって隠されてしまうことだ

女ばかりの種族ならダイアナもレズビアンであるべきなのに、男性のスティーブに恋をするのはおかしいということらしい。なぜダイアナをレズビアンで通さずヘテロセクシャルにしたのかという批判だ。ダイアナは自分の出生を選んだわけではないので、周りに男が居ないから男の必要性に気が付かなかっただけ。彼女が男性に魅かれても不思議でもなんでもない。それにワンダーウーマンがレズビアンだったという描写は原作にもないので、観客は彼女と男性とのロマンスを期待しているだろうし、これは商業映画として当たり前の決断だと思うけどね。
な~んかこれら左翼の批評は映画とは無関係のところでされているように思える。強い女ワンダーウーマンをフェミニズムの象徴として素直に喜べないフェミニストたちって、いったいどういう神経してるんだろう?
主な配役:
ダイアナ・プリンス / ワンダーウーマン、演 – ガル・ガドット
スティーブ・トレバー、演 – クリス・パイン アメリカ陸軍航空部隊長。
ヒッポリタ女王、演 – コニー・ニールセン セミスキラを治める女王でありダイアナの母。
アンティオペ将軍 演 – ロビン・ライト ヒッポリタ女王の妹でありダイアナの叔母。
エッタ・キャンディ 演 – ルーシー・デイヴィス スティーブ・トレバーの秘書。
サムイール 演 – サイード・タグマウイ
ドクター・ポイズン、演 – エレナ・アナヤ 毒物の専門家であり気違い科学者。
サー・パトリック・モーガン  演 – デヴィッド・シューリス


View comments (2)

懐かしさとジャズに心を奪われた「坂道のアポロン」

2012年にアニメシリーズとして報道された「坂道のアポロン」の全12作を観て感激してしまった。アニメシリーズは古いのだが、2018年には実写版の映画になるということなので、ちょっと中途半端な時期かもしれないが感想を述べさせてもらおう。
このアニメを見た時すぐに気が付くべきだったことがある。すばらしいジャズミュージックが全編に散らばめられているということよりも、高校生男女の純愛やBLをまったく感じさせない男同士の友情に感銘することよりも先に、なぜカカシがこのアニメに懐かしい思いを感じるのか、もっと早く気が付くべきだった。このアニメには現代の若者たちの間で失われてしまった何かがあるのような気がした。いったいそれは何なんだろう?
先ずはあらすじ、

主人公の薫は16歳の高校一年生。最近九州の佐世保に引っ越してきた。両親は薫が赤ん坊の時に離婚。父親に引き取られたとはいえ、船乗りの父親の仕事のせいであっちこっちの学校に転校を繰り返し、家でも一人でいることが多かった。そんな薫を案じて父親は自分の兄夫婦の安定した家庭に薫を預ける。これによって薫は生まれて初めて同じ学校に長期在籍することが可能となった。しかし、母親に捨てられたという気持ちや同年代の子供たちとの出会いと別れを繰り返してきたことによる傷つきやすい気持ちはそう簡単には癒されない。かえって多くの人に囲まれると吐き気がするという癖まで身に付けてしまっていた。

そんな薫だが学級委員で世話好きな律子の親切に心をほだされ、彼女に淡い恋心も抱く。律子の幼馴染でちょっと不良で乱暴者の仙太郎ともジャズミュージックを通じて友達になる。多くの兄弟姉妹に囲まれて幸せそうな仙太郎だが、彼にも出生を巡るつらい過去があった。
律子の父勉の営むレコードショップの地下で、薫のピアノ、仙太郎のドラム、勉のベース、そして東京の大学から時々帰省する仙太郎の先輩淳一のトランペットという構成でジャズセッションを何度か繰り返し、薫は青春を謳歌するようになる。

先ず変だなと気が付くのは律子の父親がレコードショップを経営しているということ。今時レコードショップなんて誰がやってる?ま、楽器やCDやDVDと一緒にビニールのレコード盤を売ってる店はあるが、レコード専門店なんて時代おくれも甚だしいだろう。これだけでも明らかなはず。そして1990年以降に作られたアニメでは必ず登場人物の手に握られているあの四角い物体が全く描写されていない、ということも大きなヒントだったはず。
そうなんだ、このアニメの舞台は過去なんだ、ずっと昔ではないがちょっと昔の日本。薫の同級生の星二が今やロックの時代だとか言ってビートルズだのスパイダースの歌を歌ってることから察して、まあ1960年代半ばの1965年くらいかな、と想像していたところ、ミスター苺が「学生運動に淳一が巻き込まれるところから考えて、1966年以降のはず」という。それでウィキで調べたらなんと大当たり、物語は1966年の初夏からはじまるのだ。
関係ないが、ここで私がものすごく好きなアニメの傑作「となりのトトロ」を思い出した。あのアニメの舞台は1950年代半ば頃の雰囲気がある。主役の五月は6歳くらい。彼女が1950年生まれだったとしたら、1966年にはちょうど薫と同じ高校生だなあと考えてしまったのだ。どうも私はこの頃の日本が懐かしく思われるのだ。
私は薫より多分10歳くらい年下だ。だが、私が育った頃にも、まだまだこんな雰囲気はかなり漂っていたように思う。まだ携帯もネットもない時代。地球温暖化とか少子化問題なんて誰も考えてなかった時代。
さて、本題に戻ると、このアニメの最大の魅力はなんといっても全編を通して聞こえてくるジャズミュージック。それが単にBGMとして起用されているのではなく、登場人物たちが演奏する一曲一曲がきちんと最初から最後まで演奏されるということ。なんかガーシュインの音楽満載のミュージカル「パリのアメリカ人」を思い出させる。
地下室でのジャズセッションもだが、佐世保という土地柄アメリカ人セイラーにも人気のジャズ喫茶での「バットノットフォミー」でみせる淳一の歌唱力や、高校の文化祭での薫と仙太郎のジャズメドレー。特に文化祭のシーンはものすごい感動する。これはユーチューブでもすぐ見つかるから是非おすすめ。だが私が一番好きなシーンは薫と律子と仙太郎が高校最後の文化祭を目指して(My favorite things 私の一番好きなもの)「マイフェイバレットシング」を練習する場面。ここに三人の友情が結晶化されるからだ。私が一番好きなことは今こうしてこうやっていること、という律子の言葉が心に残る。
この映画のサウンドトラックは英語版だと「キッズオンザスロープ」(坂道の子供たち)として売られている。英語版吹替もあるが、私は九州弁のアニメの方がずっと好きだな。それにアメリカの声優は日本の声優より失がかなり落ちる。ま、需要が少ないからしょうがないといえばしょうがないのだが。
登場人物の複雑にからむ純愛物語がエログロなしに描かれているので、どの年代の子供が観ても大丈夫。最近のアニメはものすごいどぎついものが多いなか、こういう純愛は新鮮だ。ちょっとメロドラマチックなところはあるにはある。薫と律子の駅でのシーンはちょっとありきたりすぎって感じ。
ただ私が残念に思ったのは最終回。あ、これからはネタバレありなので要注意。
最初から12作で完結する予定だったのか、まだ2シーズン目もあると思って油断していたのかわからないのだが、最終回が端折りすぎ。仙太郎は文化祭の後に家出して行方不明になったまま。薫と律子は高校を卒業して薫が東京の大学に、律子は地元の大学に進学。最後に二人が言葉を交わした時に気まずい別れ方をしたまま。駅に見送りに来た律子との別れのシーンで二人はなんとかこれからも付き合えそうという余韻はあるが、はっきりしない。
そしてそのまま8年後と場面が変わる。ここで残り時間はもう10分を切る。東京で医者のインターンとして忙しく働く薫は、高校時代に淳一と駆け落ちした一年上の百合香と偶然再会。彼女の持っていた一枚の写真から仙太郎の行方を突き止めて再会。そこに律子も現れてめでたしめでたし。
てな感じなのだがなんかしっくりこない。
この8年間、薫と律子はどういうふうに付き合っていたのだろうか? お互い手紙のやり取りをしていたとか、薫は休みには時々帰省していたとか、律子が時々は上京していたとか、そういうことが全然知らされない。
15年ぶりに再会した薫と母親はその後どうなったのか。あれからも母親とは時々会っていたのか、それともせいぜい年賀状や暑中見舞い程度の関係だったのか?
原作の漫画は薫と律子の卒業後も連載が続いたので、色々これらの説明がされるらしい。だが、アニメを観ている人には、やはりアニメだけで納得できる完結編を作るべきだったと思う。
ただ私はラストシーンで薫が今は神父見習いとなった仙太郎の教会へたどり着き、教会のパイプオルガンで薫が仙太郎に最初に紹介されたジャズ「モーニン」を弾き始め、それを聞いた仙太郎が外からかけこんできてドラムを演奏し出すというくだりは好きだ。大昔にジャネット・マクドナルドとネルソン・エディが”When I’m calling you.. woooo”をデュエットするシーンを思い出させる。(わからない人は検索してよね。)
さあて、それではここでカカシ風エンディングを二つ提案。
手紙編:8年後のシーンから始まって、現在の薫の状況を表す映像に薫の声でナレーションが入る。
「りっちゃん、お元気ですか。最近なかなか手紙を書けなくてごめんなさい。研修生になってからというもの忙しくて目が回りそうです。寝る時間もないほど働いています。母さんの店にも最近行ってません。母さんは心配して時々電話をくれますが、忙しいのはわかっているので許してくれていると思います。僕も時々は母さんの店にいって、何年か前にふと現れた淳一兄さんとやったように、またジャズセッションをやりたいです。
あ、そういえば、この間星二君をテレビで観ました。彼もポップスターになる夢がかなったようですね。
りっちゃん。今年の春は佐世保に帰ろうと思います。その頃には休暇が取れるはずですから。僕は今度りっちぁんに合う時に、どうしても言いたいことがあります。僕の研修期間はまだ続きますが、そろそろ僕たち二人の将来を語り合う時だとは思いませんか?
そうそう、この間、誰にあったと思います?百合香さんが病院に来ました、、、、」
これで百合香が病院に来たシーンに続く。こうしておけば二人がずっと付き合っていたことや、最後に律子が仙太郎の居る教会に突然姿を現した理由がはっきりする。
続編シリーズを期待した編
後半を薫が大学に向かう駅での見送りシーンから始めるのはそのまま。伯母と勉に挨拶を済ませた薫が電車に乗った時、ドアが閉まる直前、見送りに来ないと思っていた律子が走ってくる。「薫さん、薫さん、よかった間に合った。」「りっちゃん」「薫さん、私、決めた。大学卒業したら東京に行くから。薫さんのところに行くから、待っとって、、薫さんとこにお嫁さんに行くから、、それまで待っとって、、」「りっちゃん」そして電車の扉が閉まる。電車の後ろに走ってプラットホームに走る律子に向かって薫は叫ぶ。「必ず来いよ、待ってるから、待ってるから!」
次のシーン。ダフルバッグを肩に抱えた大きな男が九州離島の田舎道を歩いている。離島の先端にある教会の前まで来ると男は外に出てきた神父に挨拶をする。神父、「お~お前か、新しい見習いというのは、、よお着たの。まあおはいり。」どこからともなく小さい子供たちが集まってくる。教会が面倒を見ているみなしごたちだ。「お兄ちゃん、神父さんになるの?」子供たちを抱き上げて笑顔をみせるのは誰あろう仙太郎。
そして最後は薫、仙太郎、勉、淳一の地下室でのジャズセッションの回想シーンでモーニンを演奏して終わり。
これだと希望を持ったまま終われるし、続編があっても辻褄があう。


Comment

舞台迫力を再現したNBCテレビ、へアースプレイーライブ

テレビで舞台ミュージカルを再現するのはなかなか難しい。映画ほどの深い映像感はないし、舞台のような迫力もない。それでテレビスタジオでのミュージカルというのはどうしても安っぽくなってしまうのだが、今回のヘアースプレイはユニバーサルスタジオ(多分)のバックドロップを使った野外映像と、テレビスタジオをうまく組み合わせた迫力ある出来になっていた。特にヘアースプレイはシーンの大半がテレビスタジオという設定になっていりるので、テレビ映画にするには恰好の題材だったと言えるだろう。
このミュージカルは1960年代メリーランド州ボルティモア市が舞台。その背景にあるのは白人と黒人の隔離主義。人気テレビ番組でも白人と黒人が一緒に踊るなどということは考えられない時代だった。女子高生のトレーシー(マディ・ベイリオMaddie Baillio)は、テレビの視聴者参加ダンス番組のレギューラーに採用されるのが夢。スポンサーのヘアースプレー会社主催のミスへアースプレーコンテストのオーディションに応募するのだが、太っているせいで番組女性プロデューサーのベルマ(クリスティン・チェノウェスKristin Chenoweth)からは相手にされない。しかし番組がトレーシーの高校でライブ放映をした際に番組司会のコーニー(デレク・ホフ Derek Hough)の目に留まり、番組中に以前に黒人男子ロブ(ビリー・アイクナーBilly Eichner)から習ったダンスステップを披露して話題になる。もともと太っていたことで他のきれいな白人の女の子たちには受け入れられなかったトレーシーだが、黒人生徒たちと仲良くなって白人と黒人混同でダンス番組に出演しようと言い出したことから、トレーシーは計らずも人権運動のリーダーとなってしまう。

BLMとかファットシェイミングとか言って、やたらと黒人や肥満体の被害者意識が高い時代において、このライブは結構時代に沿った選択だったかもしれない。少なくとも左翼リベラルなプロデューサーたちはそう思ったのではないかと思う。しかしそういう濃い政治色があるにも関わらず、カカシがそれを無視してこの作品を楽しめたのは、その演出もさることながら、出演者たちのすばらしい演技にある。
先ずダンス番組ホストのコーニー・コリンズを演じるデレク・ホフは長期ダンス番組のレギュラーとして大人気のボールルームダンサー。さすがにプロのダンサーだけあって踊りは抜群。しかし歌手としての才能も見せて踊りながら歌ってビートに乗り切っていた。踊ってすぐの台詞でもまるで息が乱れていない。この役は格好言い男の役なので、一見得役に見えるのだがうまくやらないと見過ごされてしまう。役者次第でつまらなくもなれば面白くもなる役柄だと思う。コーニーという名前には中身がないのに外見だけ誠実さを見せようと格好をつけている意味あいがあるのだが、ホフはそのうすっぺらながらも、人種を超えた才能を見出すという実業家としての才能を非常にうまく演じている。
私が思わず拍手を送りたくなったのが番組の女プロデューサー、ベルマ・ボン・タスル役のクリスティン・チェノウェス。若いときの自分とそっくりな娘のアンバー(Dove Cameron)をスターにしようと躍起になっている教育ママ。自分が若かった頃の夢と今の状況を比べて歌う彼女のソロ。メランコリーにはじまって激しくメゾからソプラノへと変るクライマックスはすばらしい。
私がこのプロダクションがものすごく気に入った理由は、チェノウェスに限らず出演者たちが歌にしろ踊りにしろまるで遠慮せずに思い切って演技しまくっているという点。デレク・ホフの踊りにしろチェノウェスの歌にしろ、その才能が全面的に前に出ているのだ。
そして才能といえば、ドリームガールスでアカデミー助演女優賞を獲ったジェニファー・ハドソンのモーターマウス(早口)メイベリーは超一級!彼女の歌いっぷりは誰がきいても感激すること間違いなし。若い頃はぽっちゃり系だったのに今はすっきり痩せてゴージャスな美女になったハドソン。その上あの歌唱力、あの貫禄。もう彼女の歌を聴くだけでこのミュージカルを観た甲斐があるといえる。
トレーシーのボーイフレンド、リンク・ラーキンを演じるギャレット・クレイトン(Garrett Clayton)は正統派ハンサムボーイをまじめに演じているのがいい。同じハンサムでもコーニーのような意識した格好良さではなくて、トレーシーへの純粋な恋心とトレーシーが進めようとする人種混合運動への戸惑いを、わざとらしくない素直な演技をしている。
トレーシーの親友ペニー・ピングルトンはアリアナ・グランデ(Ariana Grande)という人気歌手(らしい)。子供っぽくておとなしい感じのペニーを良く演じていたと思うが、歌手の割りにはそんなに歌がうまいと思わなかった。ペニーが一目ぼれする黒人少年のロブ・バーカーを演じるのはビリー・アイクナー(Billy Eichner)。彼は歌も踊りも抜群。特に1960年代のダンススタイルがものすごく様になっていて、当時の踊りを真似しているという感じはなく、本当に’60年代の若者という感じがした。ペニーが一目惚するのもわかるというもの。
トレーシーの母親エドナと父親ウィルバーを演じるのはおカマのブロードウェースター、ハービー・ファイアーステイン(Harvey Fierstein)と人気コメディアンのマーティン・ショート(Martin Short)。ヘアースプレイはミュージカルの元になった同名のオリジナル映画のときから、ベルマ役はどう転んでも女性には見えない逞(たくま)しい男性が演じることになっている。ファイアーステインのがらがらな濁声と小柄なショートとの絡み合いは何故かロマンチック。さすが二人とも年期が入っている。
と、ここまで脇役を褒めてしまったのに主役を批判するのは気が引けるのだが、主役のマディ・ベイリオはこのライブのためのオーディションで選ばれた新人。周りに歌唱力のある人が多いためちょっと力不足が目立ってしまった。歌は決して下手ではないのだが声に力強さが感じられない。冒頭は彼女の歌から始まるので、もっと元気よく歌って欲しかった。演技はまあまあといったところかな。問題なのはトレーシーは太っているが踊りがうまいという設定。現実問題としてあんなに太っていて踊りがうまいというのは難しい。というよりダンサー並に踊れる太った女優を見つけること事態不可能に近いはず。太っていても身が軽い人はいるが、このミュージカルは踊りのシーンが多く長い。どの役も激しい踊りと歌が次から次へと続くので普通体型の人でも大変。特にこれはライブなので、踊りのすぐ後に続くシーンではダンサーたちの激しい息遣いが聞こえてくるほどだった。ベイリオは時折台詞が息切れでよく聞き取れないこところがあった。もっとも舞台ではみんな普通にやっていることなので言い訳にはならないが。
ともかく全体的に舞台のテレビミュージカルとは思えないほど舞台の迫力が感じられるすばらしい作品になっていた。もしDVD発売があったら是非お勧め。


Comment

現実逃避が出来ない安全を求める新世代ロッキーホラーピクチャーショー

ロッキーホラーピクチャーショーといえば、1970年代のカルトクラシック。元々はイギリスの舞台ミュージカルだったのが1975年に映画化され大ヒット。作曲家のリチャード・オブライアン(舞台版脚本家)の歌唱力を始めとし、ティム・カリー、バリー・ボストウィック、スーザン・サランドン、ミート・ローフなど後に大スターになった面々の熱演が印象的であった。その後この映画はカルト映画として親しまれるようになり、毎週末真夜中に上演する零細映画館が全国のあちこちに出没。ファンたちはそれぞれのキャラクターの仮装をするなどして劇場に現れ、キャラクターの台詞に応えて観客が声を合わせて応援の台詞を投げかけるのが慣習となった。多分今でもイギリスやアメリカのあちこちの映画館で同じ光景がくりかえされていることだろう。
さて、今回、フォックステレビ製作の新ロッキーホラーピクチャーショー(ハイライトビデオ)はこの1975年の傑作映画のリメイク。リメイクならリメイクらしく何か新しいものを観客に提供する必要がある。残念ながら迫力満載だったオリジナルに比べ、このリメイクは全体的におとなしすぎて現実味が沸かないという印象を持った。ロッキーホラーのようなファンタジーで現実味が沸かないという批判もおかしいかもしれないが、どうもこの世界にのめりこめないのである。オリジナルで感じたような肌で感じる恐怖と興奮がこのリメイクからは感じられないのだ。
話を知らないひとのためにざっと説明すると、最近婚約したばかりの若い男女、ブラッド(Ryan McCartan)とジャネット(Victoria Justice)は、ブラッドの恩師エベレット・ボン・スコット教授(Ben Vereen )を訪ねにいく途中で大雨のなか道にまよってしまい、挙句に車はパンク。二人は電話を借りられるのではないかと雨のなかずぶぬれになりながらちょっと前に通りすぎた古い城へ向かう。お城の扉を開けて出迎えたのはなにやら薄気味悪い城の使用人リフ・ラフ(Reeve Carney)。お城ではたくさんの奇抜な格好をした客が集まっており、客たちによる激しい踊りが繰り広げられている。怖くなって出て行こうとする二人の前にあらわれたのが世にも不思議な格好をした気違い科学者フランクン・ファーター博士(Laverne Cox )だった。不安ながらも博士に言われるままに二人は城で一夜を過ごすことになるのだが、、、
実はここまで観て私は非常に嫌な予感がした。そしてかなり欲求不満になっている自分を感じた。先ず、全体的に歌手たちの歌声が小さい。ブラッドがジャネットに結婚を申し込むシーンでは、マッカーテンもジャスティスも決して歌が下手だというわけではないのに伴奏の音がやかましすぎて二人の声がよく聞こえない。二人は結婚を決めたことで非常に興奮しているのにその喜びが伝わってこないのだ。
薄気味わるい古びた城の扉をあけて二人を出迎える使用人リフ・ラフ役のリーブ・カーニーは、いくらメイクをしていても元は美形と解るからなのか、オリジナルのオブライアンのような薄気味悪さを全く感じさせない。
城の中に集まっている客たちによるレッツドゥーザタイムワープアガインの踊りも、コーラスの声が小さすぎるし踊りがおとなしすぎる。振り付けもダンサーの技術もオリジナルの時よりかなり高度だ。にもかかわらずつまらないのは、あまりにも整然としているせいでオリジナルのような奇想天外で野生的な雰囲気が出ていないからだ。この踊りはごくごく普通のカップルであるブラッドとジャネットを震え上がらせるような騒然としたものでなければならないのに、なんかみんなでマスゲーム体操でもやってるみたいでつまらない。
そして極めつけはファーター博士のラバーン・コックスが登場する場面。先ずトランスベスタイド(女装男)を演じたティム・カリーの役を、トランスジェンダーのコックスに演らせたのは、はずれだった。コックスはあまりにも女に見えすぎる。ファーター博士はどう見ても男なのに女装して女のように振舞っているというところに不気味さがあるのであって(しかもお世辞にも綺麗とは言い難い厚化粧)、女に見える人間が女の格好をして現れても不気味でもなんでもない。それに歌唱力と存在感抜群のティム・カリーに比べて、コックスは歌唱力もなければ存在感もない。しかも、演技も下手でかつぜつが悪くて(どっかの運転手みたい)何を言ってるのか聞き取りづらい。
映画は先へ進んでも良くならなかった。モーターサイクルで窓を突き破って城へ入ってくるエディ役のアダム・ランバートもミートローフの器ではない。ランバートはミートローフより顔がいいだけに、かえってそれが仇になっている。たった一曲だけの出番で完全にその場を独り占めしてしまったミートローフの衝撃的なパフォーマンスに比べランバートのエディはお行儀が良すぎて存在感なし。バイクを乗り回してパーティをはちゃめちゃにしたエディに怒るファーター博士のエディへの反応もオリジナルの恐ろしく血なまぐさい場面に比べてこちらはおとなしすぎて話にならない。
これ以上個々のシーンの感想を述べても時間の無駄だ。それより何故この映画は全体的に観客を惹き込むことが出来ないのかについて語りたい。このリメイクは映画の世界と観客に距離感をあたえてしまう。その理由として映画に観客席を取り入れたことにある。すでに映画がクラシックなので観客による映画参加を映画の中に取り入れるという演出をしたのはわかるのだが、それがかえって視聴者が映画の世界にはまり込めない一つの壁になってしまっている。ちょっと映画の世界に引き込まれたかなと思うと、カメラが観客席に引いて視聴者を現実の世界に引き戻してしまうのだ。だから視聴者は映画に感情移入することが出来ない。視聴者はあくまでも登場人物たちは俳優であり演技をしているのだという意識を忘れることができないのである。
出演者の歌唱力や演技力は決してオリジナルに劣るとはいえない。コックスとランバートを除けば、ジャネットのジャスティスやロッキーのスタズ・ナイヤーやコロンビアのアナリー・アシュフォードなどかなりいい。コックスとランバートの歌唱力はオリジナルのカリーやニートローフよりずっと劣るとはいうものの、演出次第でそれはどうにでもなったはずだ。
オリジナルのティム・カリーミート・ローフの場面を改めてユーチューブで見てみたが、思ったとおり、役者の顔をアップにし歌声を全面的に前に押し出している。だから視聴者は他のことに気をとられずに主演者に集中することが出来る。リメイクではそれがされていないのだ。あたかも演出者は観客による感情移入を極力避けているかのようである。
さすがに多々の感情を恐れて安全事態(セーフゾーン)を望む2000年世代のリメイクだけある。
つけたし:往年のブロードウェイ役者のベン・ブリーンのボンスコット教授はチャーミングだ。またオリジナルの主役ティム・カリーが犯罪学として解説係を務めているのもおかしい。(でも何か変だなとおもったら数年前に脳卒中をしたとかで、完全回復はできていないようだ。)
この批評を書き終わってニューヨークタイムスの批評を読んだら、カカシとほとんど同じことを言ってるので笑ってしまった。


Comment

アメリカ民主党の真髄を突く「ヒラリーのアメリカ」

最近右翼のマイケル・ムーアとか言われているデニーシュ・デスーザ監督のドキュメンタリー・ドラマ映画が話題を呼んでいる。デスーザは元々は社会学者であり、作家でもある。彼は以前にも「オバマのアメリカ」とか世界にアメリカが居なかったらという「ワールドウイズアウトアメリカ」などの映画で名声を得ている。
今回は今年秋の大統領選挙を目前にヒラリー及びヒラリーが代表する民主党の人種差別に満ちた恐ろしい過去の歴史に焦点を当てた「ヒラリーのアメリカ」という作品だ。無論左翼だらけの映画評論家の間では過去を歪曲した偏見に満ちた映画とか言われてさんざん叩かれているが、観客からの評判は非常によく、こういう映画では難しい一般公開に先駆けた限定公開だけでも2016年公開のドキュメンタリーでは最高の売り上げを上げている。

映画はデスーザが選挙献金法違反で禁固刑になったところから始まる。こんな軽い法律違反で禁固刑など前代未聞だが、保守派が左翼政権を批判すると見せしめとしてこうなるといういい例だろう。これをきっかけにデスーザはいかに民主党が人々の言論を弾圧しているかという話から映画を始めるのだ。
一応ドキュメンタリーということになっているが、デスーザが刑務所で囚人と話している場面や民主党の事務所訪問で事務員と話したりしている部分は再現ドラマ。デスーザがインタビューした保守派評論家やテレビのニュース映像などで出てくる実物の人物を除いて他の登場人物はすべて俳優である。
詐欺で捕まっている囚人が詐欺のやり方を説明する部分では、ヒラリーのやっていることは大掛かりな詐欺なのだというメッセージと重なる。ヒラリーが若い頃の運動とか、それ以後のヒラリーの腐敗した過激な左翼政治活動など非常に面白い描写が続く。
だが、映画はアメリカの歴史をさかのぼって、アメリカの人種差別が実は民主党のよって行なわれたものであるという歴史紹介に変貌する。これはこれでいいと思うが、ちょっとお説教ぽくて、しかも長々と続くので注意を惹きつけるにはやりすぎではないかという気がした。確かに民主党こそが奴隷制度の政党であり、ジム・クローなどの黒人差別法を作り、差別法を失くそうとする人権運動に何かと反対してきたのも民主党だったという歴史上の事実を紹介することは効果的ではあるが、映画はヒラリーのアメリカなのだから、もっとヒラリーに焦点を当てるべきだったのではないかという気がする。
デスーザは自分が右翼保守であり共和党指示であり反ヒラリー・クリントンであることを全面的に押し出してはばからない。その点左翼リベラル丸出しのマイケル・ムーアと似てはいるが、ムーアのように不誠実で虚偽な描写はまるでない。
デスーザの最初の映画「オバマのアメリカ」はアメリカのドキュメンタリー映画における売り上げナンバー2で、3千3百4十万ドル。それでもナンバー1をとった左翼映画監督のマイケル・ムーアの「華氏911度」の1億1千9百万には足元にも及ばないが。今回のヒラリーのアメリカがデスーザの自己最高記録を越えることが出来るかどうか非常に興味深い。


Comment

『13 Hours The Secret Soldiers of Benghazi』ベンガジ領事館襲撃の真実を語る13時間を描いた映画

2012年の9月11日に起きたリビアのベンガジ領事館襲撃事件。その真実を描いた映画『13 Hours The Secret Soldiers of Benghazi』(13時間、ベンガジの秘密の兵士たち)が今年(2016)1月に公開になった。日本公開はまだ未定らしい。日本語の予告編はこちら
拙ブログにおいてもベンガジ攻撃については下記に書いている。

事件勃発当初のエントリー
リビア米領事館襲撃について沈黙を守る左翼リベラルメディア
ベンガジで何がおきたのか、オバマ王は説明すべき
ベンガジゲート、食い違うCIA公式発表と現場警備隊員たちの証言
ベンガジ関連のメール公開で明らかになったホワイトハウスの嘘
ベンガジを巡るオバマ王の不可解な行動
嘘だらけのヒラリー証言、ベンガジ公聴会、600回に渡り無視された領事の援軍嘆願

2012年9月11日、リビアのベンガジにある米領事館がアルカエダ系のテロリストに襲撃され、領事とそのボディガード、そして領事館救出にあたったCIA職員二人を含む計4人が殺された。襲撃当初オバマ政権及びクリントン国務長官は度重なる現場からの救援要請を無視。領事館から数キロはなれたCIA支局に居た警備員6人が支局長の待機命令を無視して領事救出に出動した。

結果的に四人の犠牲者が出たことは歴史上の事実であるが、どのようにして彼らが殺され、どのよういしてCIA支局にいた十数人の命が助かったのかという点については、詳しいことは報道されていなかった。この映画ではこの13時間の模様が詳しく表現されており、その凄まじい戦いは現場にいるかのように緊張した。

映画はアクション映画としても迫力があり、政治的な実情を全く知らなくても十分に楽しめるようになっているが、背景を知っている私から言わせると、アメリカ戦闘員の勇敢な戦いぶりを見るにつけ、たった数人でここまで応戦することが出来たのだから、もしヘリコプター一機でも援助に来てくれていたら、誰も死なずに済んだだろうにと口惜しい思いがした。

それにしてもアメリカ軍の特別部隊戦闘員というのはすごい。CIA支局の警備に当たっていた戦闘員は正規軍の兵士ではなく民間人である。皆米軍特別部隊の出身でエリート中のエリートたちである。こういう貴重な人々をオバマもクリントンも自分たちの政治生命を守るために犠牲にしたのだ。彼らが全滅せずに生き残れたのはひとえに彼らの勇敢な戦いぶりによるもので、オバマ政権とは無関係である。

リビアのような場所で戦争をするときに問題なのは、誰が味方で誰が敵かわからないことである。誰も彼も同じような顔をしてるし、言葉がわからないから内緒話をされても解らない。自分らを殺そうと相談しているのかもしれないし、道案内をしてくれようとしてるのかもしれない。またCIA支局でありながら、地元の様子がアメリカ人たちにはきちんと把握できていない。地元民が車に荷物を積み込んで一斉に避難していく姿をみて、はじめて何かが起こりそうだと悟るというように。

領事館が襲撃されてからCIA警備員が領事館に出動するまで数時間かかった。その理由は襲撃当初出動命令が出なかったからだ。CIA支局長は上からの命令なしには動けない下っ端役人。上部から何もするなとは言われていなくても、何かしろともいわれていない。それで自分の独断で命令を出して後でなんかあったら困るというどうしようもないろくでなしなのである。もしも襲撃直後に出動していれば領事及びボディーガードも救われたこと間違いない。彼らは何時間か建物内部に閉じこもって襲撃者を締め出していたからである。

役に立たないのはCIAだけではない。米軍も同じだ。CIA支局の職員が航空援助を求めると電話をしても、空軍は「誰の権限でそのような命令を出すのか?」と頓珍漢な質問をしてくる。誰の権限って、援助なくてはみんな死んじゃうんだよ、このあたしも含めてね、このバカ!とか言ってみても駄目だった。(このバカとは言ってないが、、)

この事件が起きた当初、領事への救援が遅れたのは出動命令どころか待機命令が出ていたからだという話がでた。クリントン国務長官は待機命令など出していないと否定していた。確かに待機命令は出していないかもしれないが、出動命令も出していない。政治的に非常に微妙な状況では軍隊もCIAの下っ端役人も独断で出動命令など出せない可能性は十分に考慮されるべきだった。待機命令など出していないというまえに、何故積極的に援軍を出動させなかったのかを説明すべきである。

もしこの映画が本当に真実を描写したものだったとしたら、クリントン及びオバマには責任を取ってもらいたい。断じてヒラリーを大統領になどさせてはならない!


Comment

アメリカ一の英雄狙撃手「アメリカンスナイパー」を臆病者と呼ぶ馬鹿どもに見せたいね

クリント・イーストウッド監督のアメリカンスナイパーが今売り上げナンバー1になってる。この間のローンサバイバー同様、アメリカ海軍の特別部隊シールメンバーの自叙伝を元にした映画である。そしてローンサバイバー同様、断じて見るべし、カカシお薦めである。
カカシにとってアメリカンスナイパーとローンサバイバーの共通点は、映画になる前から主人公になった当人のことを知っていたということ。無論個人的な知り合いではないが、ずっとイラク・アフガン戦争を追っていたことから、彼らの名前は当時からニュースやブログで読んでいたからである。
アメリカンスナイパーの主人公クリス・カイルは以前にテレビのリアリティショーで芸能人と一緒に戦闘ゲームに出演したことがあり、保守派政治評論家のサラ・ペイリンの夫で犬そりレースのプロでもあるタッド・ペイリンがカイルのパートナーだったように覚えている。その番組を観てわたしはクリス・カイルがアメリカ一の狙撃命中記録を持つシールであることを知ったのだ。
この映画にはとくにあらすじというものはない。カイルはなんとイラクに四回のツアーを果たして生き残って帰ってきた男。しかも最初の出動後は辞めてもよかったはずなのに、その後も志願してわざわざ危険な場所へ行き、多くの海兵隊員たちの命を救った。この映画はそれぞれのツアーで起きた出来事のハイライトの集まりといっていい。
戦闘シーンは非常に現実味があり、その場にいる兵士たちがどれだけ短時間に状況判断をしなければならないかが切羽詰って伝えられる。自叙伝とはいえ、これは映画であり今現在起きていることではないとわかっていながら、私は自分がその場にいるかのように緊張した。実際に本人が帰国して自叙伝を書いたくらいだから、カイルは生きて帰ってくると解っているのに、それでも彼の身が案じられる。そこまで現実的な映画なのだ。
私は以前からビル・ロジオやマイケル・ヨンによる従軍記者の記事を読み漁っていたので、映画の一シーンで民家に隠れているテロリストを襲撃したときの状況などは、私が以前に読んだ記事を映画化したかのように、私が自分のなかでイメージしていた戦闘がそのまま展開されていて非常に奇妙な気持ちになった。
アメリカンスナイパーは最初の週末で売り上げ9千万ドルという快挙。普段なら夏休み封切りの高予算映画のみに期待されるような数字で、同時期に公開されたピーター・ジャクソンの「ホビット」の売り上げを上回った。クリント・イーストウッド監督のこの地味な映画は1月の穴埋め的な存在で、この二分の一の興行成績も期待されていなかったという。
この映画の予想外の大人気に左翼リベラルたちはかなり怒っている様子で、左翼プロパガンダ専門映画監督のマイケル・ムーアなどは、「狙撃兵は臆病者だ!」とツイッターで発言し、非常な顰蹙を買い、テレビのトークショーなどで散々叩かれた。またこの間北朝鮮の党首暗殺映画「インタビュー」を製作主演したセス・ローガンもナチスのプロパガンダを思わせるとツイッターで発言。これもまた非常な批判を受け、「思わせる、と言っただけで同じだとは言ってない」などと言い訳せざるおえなくなった。
一般に、イラク・アフガン戦争に関するハリウッド映画は反戦テーマでアメリカ軍を悪玉にするものがほとんどである。これらの反戦映画の興行成績は至って悪い。それについてハリウッド映画関係者はこれはいかにブッシュ大統領の戦争が不人気であったかの証拠だと言っていた。だがシールチーム紹介映画の「アクトオブベイラー」やちょっと前の「ローンサバイバー」や今回のような「アメリカンスナイパー」といったハリウッドの基準から言えば比較的低予算でも、アメリカ軍を善玉にした映画は大人気になる。アメリカの観客は戦争映画が嫌いなのではなく反戦映画、特にアメリカ軍を悪玉にした映画、が嫌いなだけでアメリカ軍がヒーローになる映画なら好んで観るというのが現実なのだ。
この映画はプロパガンダだと言う馬鹿どもがいるが、映画は単にカイルの狙撃の腕自慢だけで終わっていない。いかにアメリカ軍のイラクでの戦争が輝かしいものであったかというような描写もされていない。
地上で繰り広げられる混乱に満ちた戦闘のなか、カイルとパートーナーは屋上から周りを偵察。海兵隊員を待ち伏せしようとしている戦闘員を標的に冷静に殺していく。ただ、問題なのはテロリストは女子供を自爆攻撃に使うので、ロケット手榴弾を持った子供が米軍兵に近づけば、相手が子供でも殺さなければならない。カイルはそのことを決して軽々しくは感じていない。
やはり志願した弟と中途の飛行場でばったり出会ったとき、弟は戦場から母国へ帰還する途中だった。久しぶりに再開した兄に対してうれしそうな顔もしない弟。「こんな場所はくそ食らえだ」と完全に戦争に嫌気がさしている様子。そんなところに何度も志願して出かけていく兄の気持ちは理解できないようだった。
しかしカイルの心にも戦場でのストレスは大きな影を落としていた。四回のツアーといったが、数ヶ月に渡る出動期間を終えて自宅に帰ってくるカイルは、その度に戦場と現実とを切り離すことに苦労する。妻や子供と一緒に居ても、心はどこか遠くに離れているのを妻は感じている。そしてそれが帰ってくるたびに悪化していくことも。最後のツアーを終えて、もうこれで戦場には行かないと決心して帰ってきた時、カイルはあきらかにPTSD(心的外傷後ストレス障害)にかかっていた。
妻のすすめで精神カウンセラーのもとへ相談に行ったとき、カイルはカウンセラーから「戦場でやらなければよかったと後悔していることはあるか」と聞かれ、「やったことで後悔していることはない。ただもっと仲間の命を救えなかったことを後悔している。」と語るところが反戦映画とはまるで違うところだなと思った。
確かに戦争は凄まじい。対テロ戦争は相手が相手だけに醜く悲惨だ。だが、カイルの悩みは殺した敵に対する罪悪感などというものではなく、救えなかった多くの同胞の命に対する後悔だった。そこでカウンセラーは軍事病院には彼が救える軍人がいくらもいると指摘する。
数年前に内地で「あなたに命を救ってもらった、あなたは私の英雄だ。あなたに救ってもらった仲間がたくさんいます。一度軍事病院にも来てください。」と言われたとき、自分の心に惑いのあったカイルはそのまま病院には行かないで居た。しかし、今回カウンセラーのすすめで軍事病院で負傷兵たちの話を聞いたり、彼らの復帰の手伝いをしているうちに、彼の心も救われていくのだった。
カイルの心が救われていくにつれ、観客の我々もほっと息をつく。
命がけで自由と平和を守ってくれているアメリカ軍に感謝の意を評したくなる映画である。是非お薦め!
キャスト
ブラッドリー・クーパー
シエナ・ミラー
ジェイク・マクドーマン
ルーク・グライムス
ナビド・ネガーバン
キーア・オドネル


View comments (4)

原作の精神にもどって成功したホビット完結編「決戦のゆくえ」」

現在日本でも放映中のピータージャクソン監督、JRRトールキン原作のホビット三部作の完結編「決戦のゆくえ」を観て来た。実を言うと私はジャクソン監督の前シリーズ「ロードオブザリングス(指輪物語」は大好きだったが、今回のホビットシリーズは一作目の思いがけない冒険にも二作目の「竜におそわれた王国」にも失望していた。一作目については活劇が多すぎて目が回るでも書いた通り、原作の筋から離れすぎてドッタバッタが多すぎて目が回った。二作目は時間稼ぎで筋がなくLOTRの再現をしようと短い話を無理やり三部作にするために不必要な場面を加えすぎた感があり批評する気にもなれなかった。しかし、この完結編はジャクソンが原作の精神に戻り、かなり原作に忠実に従ったことが幸いして前二作に比べて非常に良い出来に仕上がっている。

この先ネタバレ多少ありなので注意!

先ず映画はドワーフ達に眠りを覚まされた竜のスマウグ(Benedict Cumberbatch 声)が湖の町を襲い町民の英雄バルド(ルーク・エバンズ)に弓矢で射殺されるシーンから始まる。これは非常に大事なシーンなのでこれを冒頭に持ってきたのは良い決断だ。

小人たちは自分らが、昔竜に奪われた自分らの宝物を奪い返すために山に向かったわけだが、原作ではその際に王の血筋というトーりン(リチャード・アーミテージ)とその一行が竜を退治をするということで湖の町の人々から色々と接待され一宿一飯の恩義どころか数日間にわたって飲めや歌えやの歓迎を受けた。

ジャクソン監督は二作目において、何故か原作から外れて意味のないことに時間をついやしこの部分をはしょっている。その代わりにLOTRで人気者となったオーランド・ブルーム扮するレゴラスを復活させたり、タウリエル(エバンジェリン・リリー)という原作には出てこない女エルフを登場させたりして意味のない格闘シーンが続きすぎた。

二作目で肝心なのは、森のエルフらに捕らえられたドワーフたちをビルボ(マーティン・フリーマン)が機転をきかせて逃がしたいう点とドワーフたちが湖の町の人々に歓迎されバルドという弓の達人と出会うという点である。

ここで美形のエルフ二人を登場させることに筋展開としての意味はない。ホビットはもともと子供向けの物語で恋愛はないので、多分ジャクソン監督は観客の興味を惹くためにわざわざ美しい男女を筋に加えたと思われるが完全に無駄に終わっている。エルフのタウリエルと小人のキリ(アイダン・ターナー)とのプラトニックな愛も全く説得力がない。トールキンの世界ではあり得ない出来事でもある。
レゴラスとタウリエルは原作ホビットには登場しないので、その人間(エルフ?)形成が浅いのは仕方ないのだが、二人の演技には全く感動しない。それに比べてレゴラスの父親のエルフ王を演じるリー・ペースはいい。エルフは年を取らないので父親といってもレゴラスと同年代に見えるが、レゴラスの王子の感情表現が希薄なのに比べ、エルフ王は王としての貫禄もありながら、父親として愛する妻を亡くした夫としての感情表現があっていい。ペースはブルームより魅力的だと思うね。

私が原作を読んでいて驚いたのは、小人たちが山に入り宝物を手に入れた後、竜退治をしたのが小人たちではなく湖の町のバルドという人間だったことと、竜が退治された後も話しがまだまだ続いたことだ。普通のおとぎ話なら、英雄が竜退治をしたところで「めでたし、めでたし」となりそうなものだが、この話は竜が死んだところから思いがけない方に話が展開する。

山の宝物は竜が押さえていたので、近隣の勢力はそれぞれ牽制され均衡を保っていたといえる。だが、一旦竜が死んだとなれば、小人が再び王国を取り戻せるとトーりンの従兄弟ダイン(ビリー・コノリー)の軍団がはせつけようとやってくる。同時に、レゴラスの父、森のエルフ王(リー・ペース)の軍団も、竜に町を破壊された町の人々も、そしてゴブリンたちもそれぞれの思惑を持って山に集まってくる。そこで最後の決戦となるわけだ。

ま、題名からして「決戦のゆくえ」だから映画はほとんどが戦闘に次ぐ戦闘。LOTRのときも思ったのだが、ジャクソン監督は戦闘シーンの演出が非常にうまい。最近はCGを使って大掛かりな戦闘シーンが撮れるようになったとはいえ、やたらに物量作戦を取ればよいというものでもない。原作者のトールキン自身が軍人だったこともあり、原作のなかでも戦闘シーンは非常に迫力があるのだが、ジャクソン監督の戦闘には作戦があり、特に私はエルフ軍の完璧な動作には感心した。

個々の格闘シーンはちょっと長引きすぎた感があるが、ま、仕方ないだろう。

LOTRのときは指輪の魅惑に心の弱い人間だけでなく、魔法使いやエルフですらも、心を奪われることがテーマになっていたが、今回の魔力は金の宝である。祖父の代の王国を取り戻そうという気持ちで山にやってきたトーリンとその一行だが、トーリンは金の宝に心を奪われ戦争を避けようと必死に訴えるビルボの言葉に聞く耳を持たない。トーリンさえその気になれば、山の宝を文字通り町人とエルフと自分らで山分けすることも可能なのに、山の宝は小人のものだと言って聞かないのだ。ここではアーミテージ扮するトーリンの狂気との戦いが非常によく描かれている。

全体的に原作に近いところはとてもよく、原作から離れると話がだれる、というのが私の印象。
たとえば、ガラドリエル(ケイト・ブランシェット)、サルマン(クリトファー・リー)、エルロン(ヒューゴ・ウィービング)が登場し、後のLOTRの複線となるようなシーンがあるが、ホビットには無関係。ガンダルフ(イアン・マケラン)のシーンが少ないから、色々加えたのかもしれないが、あんまり意味がない。

ま、LOTRの同窓会みたいで楽しいといえば楽しいが。

ところで、LOTRではジャクソン監督は原作の最後の章を完全に削ってしまった。実はLOTRの肝心な点はその最後の章にあるので、私はその決断には非常に失望した。いくら長編すぎて時間が足りないといっても、肝心な点を見失っては仕方ない。
なので、今回も最後の章が削られてしまうのではないだろうかと非常に心配していたのだが、ビルボが無事にシャイアーに帰ってくるところまできちんと描かれていたのでほっとした。最後に年を取ったビルボ(イアン・ホルム)がほんのちょっとだけ登場するが、さすが名優。たったこれだけのシーンなのに存在感がある。私としてはホルムに全面的にビルボを演じて欲しかった。原作ではビルボはホビットの冒険のときからLOTRの時までまるで年をとっていないかに見えることになっているので、同じ役者が演じても全く差し支えないはず。ホルムはそんなに年をとっているように見えないしね。

もっともマーティン・フリーマンはいまやイギリスでは人気の若手俳優だし、ホルムのビルボを見ていなかったら、ぴったりだと思えたかもしれない。確かにビルボとしてのいい味が出ている。

ところで同窓会といえば、LOTRでピピンを演じたビリー・ボイドが作詞作曲で最後のイメージソングを歌っている。彼はLOTRでも挿入歌を歌っているが、ホビットのイメージにぴったりの曲だ。


Comment