北朝鮮がソニー映画の封切りを妨害、オバマ王の情けない反応

数日前、クリスマス日の封切りを目前にソニー映画のネット口座がハッキングされ、重役やソニー従業員俳優らの個人情報が漏洩するという事件が起きた。私は読んでいないが、オバマ王をおちょくったり、有名俳優をけなしたりしている、かなり恥かしいプライベートなメールが公開され、ソニーの重役たちは大汗をかいている。それだけでなく、ソニー現及び元従業員や俳優たちのソーシャルセキュリーナンバーを含む個人情報が盗まれたため、他人を装って詐欺を働くアイデンティティーセフト犯罪の大被害が予想されている。 だが一番問題となったのは、犯人グループが自分らは北朝鮮の工作員であり、北朝鮮のキムジョンアン暗殺を描写したソニーの新作「ザ・インタビュー」の公開を中止せよ、さもなくばアメリカ各地の映画館で911同時多発テロを思わせるようなテロ行為に及ぶと脅迫したことだ。大手映画館チェーンは儲け時のクリスマスにテロを恐れて客足が遠のいては困るということで、一斉にインタビューの公開を拒否した。困ったソニーは仕方なくインタビューの公開は全面的に中止すると発表した。
12月中旬にキューバに捕らわれていたアメリカ人とアメリカで留置されていたキューバ人スパイ二人の囚人交換を行ない、議会の承認も取らずに自分勝手にキューバとアメリカの国交を復興すると宣言し、自分はさっさとハワイ休暇に出かけてしまったオバマ王は、この北朝鮮による宣戦布告とも取れる脅迫に対して、これは戦闘行為というほどの大げさなものではなく、オバマ政権はそれ相応の対応をする、と言って取り合わなかった。しかもオバマ王は映画公開を中止という決断は誤りであるとソニーを批判した。
オバマ王はCNNのインタビューにおいて、ソニーには同情するとしながらも、ソニーが自分に事前に相談してくれていたら、大手映画チェーンに何をやってんだと問いただすことが出来たのに残念だと述べ、芸術的表現を自己制限すべきではないと付け加えた。
これに怒ったのはソニー。ソニーはオバマ王に事前に相談を持ち込んだが無視されたと反発した。ソニーのマイケル・りんトン会長は数日前にオバマ政権に事情を説明し、政権からの援助を求めたが無視されたとインタビューで答えている。
ハリウッドから莫大な政治献金をもらっておきながら、いざとなると全く頼りにならない。自分で見放しておいて、ソニーの決断を公に批判する。都合が悪くなると味方を見捨てるのはオバマの常套手段である。
私がオバマ王の立場にあったなら、ハワイ旅行なんぞにかまけていないで、ホワイトハウスに戻って断固たる態度をとる。CNNのインタビューなんぞやってる暇があったらホワイトハウスから直接全世界に響き渡るように演説をぶる。
「北朝鮮に警告する。我々は今回の脅迫を戦争行為と受け取る。よって将来アメリカ国内の映画館のひとつでもテロ攻撃を受けたなら、それは北朝鮮による攻撃とみなし、ピョンヤンを空爆する。これは約束である。」
そして相手が我々の警告を真剣に受けとめるよう、ピョンヤンの上空に戦闘機をマッハ速度で低空飛行させる。
オバマ王にその程度の肝っ玉が据わっていれば、アメリカが北朝鮮なんぞにここまでコケにされることはなかったのである。それを「それ相応の対応をする」だなどと情けない!
さて肝心の映画のほうだが、大手チェーンは公開を拒否したが、独立系中小劇場が公開を買って出た。またソニーはオンラインのストリームを使っての公開も試み、予定通り12月25日クリスマスの封切りを実行させた。
オバマ王はソニーが一転して映画公開に踏み切った態度を賛美した。大事なときに何もしないでおいて、何が賛美だ、ふざけんな!
ともかくソニーや独立系映画館のほうがオバマなんぞよりよっぽども腰が座ってるということだ。
ところで、この件に関して私の好きな俳優ジョージ・クルーニーが、映画会社はソニーと肩を並べてテロリストに立ち向かうべきだという署名運動を行なったが、他の映画会社の反応は鈍く、クルーニーはハリウッドの腰抜けぶりを批判した。映画会社の重役たちはクルーニーからそんな手紙をもらった覚えはないとしている。
ハリウッドはオバマ王なんぞにおべんちゃらを使っても、いざとなると見放されるのだという勉強をしただろうか?ま、先ず無理だろうね。
二日前に北朝鮮のインターネットが全面的にダウンしたという記事を友達がソーシャルメディアで紹介していた。そのコメントに「これがオバマのいう相応な対応というやつかな」というのがあった。私はもうすこしで、 「冗談でしょう、オバマにそんな甲斐性はないよ。」と書きそうになった。ソーシャルメディアにやたらなことを書くと仕事面でも影響する可能性があるので、止めておいた。


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ウーマンアウトサイド、過去50年にわたり米軍に尽くした韓国売春婦たちの悲劇を描いた記録映画

韓国の慰安婦というキーワードで色々ネットサーフしてたら、1996年にアメリカのPBS(公共テレビ)のPOVという番組で放映された「ウーマンアウトサイド」という記録映画を発見した。これは過去50年間(1996年当時)に渡ってアメリカ軍の基地村でアメリカ軍兵相手に売春を行なってきた韓国人女性たちの悲劇を描いたドキュメンタリーフィルムだ。公開されたのが1996年ということもあって、旧日本軍による慰安婦問題には全く触れていないのが興味深い。製作はJ.T. オーりン・タカギとヒージュン・パーク(Orinne Takagi and Hye Jung Park)で、名前だけで判断すると、日系男性と韓国人女性のパートナーによるものらしい。
POVはかなり左翼リベラル傾向の番組で、この番組の目的はアメリカ軍及びアメリカ政府への攻撃が主である。しかしながら、そのなかで、長年米兵相手に売春を行なわざる終えなかった、そして今でも行なっている韓国人女性たちの悲劇がひしひしと伝わってくる。残念ながら日本語の字幕はないのだが、韓国語か英語のわかる人は下記へ行ってぜひごらんになることをお薦めする。ユーチューブでは4つに分かれているが、第一部はこちら。

この作品のなかで、何人かの売春婦や過去に売春婦だった女性たちへのインタビューがある。製作者のパークによると、インタビューに応じてくれる人を見つけるのは難しかったという。特にそのなかの一人、ヤン・ヒュアン・キム(Yang Hyang Kim)さんの話は、これまで聞かされた旧日本軍慰安婦だったという人の話とそっくりである。
貧乏な田舎に育ったキムさんは、生計を立てるために都会に出てコーヒーショップのウエイトレスの仕事に応募したが、行ってみるとそこはナイトクラブ。店主はキムさんを彼女の意思に反して何日か監禁した後、別の場所に連れて行き、彼女を売春宿に売り飛ばしたという。当時17歳とかで生娘だった彼女は客のGIに強姦された。それが彼女の売春婦としての人生の始まり。
その後、アメリカから来た学生が彼女を6千ドルで見受けし、キムさんは実家に帰ったが。元売春婦ということで実家でも隣近所でも差別され、いたたまれなくなって再び米軍基地村に舞い戻った。そこで出会ったアメリカ兵と結婚してノースカロライナに移住したが、夫の暴力に悩まされ、離婚した子供は夫に取られてしまった。
三度韓国の基地村に帰って売春婦にもどったキムさん。今度はやさしい米兵と出会って結婚して妊娠。今(1996年現在)は夫の勤務先のハワイで平穏な毎日を送っている。彼女は幸運な方だ。
番組の中では、GIと結婚してアメリカに移住したものの、夫の暴力に耐え切れずに二人の幼子を連れてアメリカの繁華街で働いていた女性が、子供をホテルに残したまま働きに出て、帰ってきたらたんすの下敷きになって子供が死んでいた事件で殺人罪に問われた女性の話や、韓国繁華街で米兵に惨殺された韓国人女性の話なども紹介されている。
娼婦たちは韓国でのつらい仕事から逃れるためにアメリカ兵と結婚してアメリカに渡ってくることが少なくないが、そんな結婚の80%以上は離婚に終わるという。外国で教養もなく手に職もない女が出来ることは、結局アメリカの繁華街でアメリカ兵相手に怪しげな仕事をすることくらいだ。結局ひとつの苦労を別の苦労に置き換えるだけ。
しかし、こうやってアメリカに来て、なんとかアメリカ国籍を取得すると、彼女たちはそのつてを使って親兄弟親戚をアメリカに呼び出す。こういう女性たちを売春婦といって馬鹿にしている現在の韓国人移民も、もとを正せばこういう女性が家族に居てくれたから今の自分らの生活があることが珍しくない。
米軍基地村は韓国人は入れない。米軍兵だけが利用することの出来る繁華街。売春は韓国では一応違法だし、そういう店を利用することは米軍の規則には違反する。だが、それは表向きの話。こういう場所が存在していることは事実であり、こういう場所で働く女性たちが、自分らの意思でそこに居るにせよ、騙されたり、誘拐されてつれてこられたり、暴力を使って売春を強制されたりしているという事実を、韓国政府も米軍も見てみぬ振りをしているのだ。それが1953年から今も70年近くも続いているのである。
私が何度も、旧日本具の経営していた慰安所に女衒に騙されたり誘拐されてきた女たちが混じっていたことは間違いなく、それを旧日本軍が見てみぬ振りをしていたこともあっただろうと書いて来たのは、今現在のアメリカ軍の基地村を見ていれば想像に難くないからである。
現在のアメリカ政府ですらこんな状態なのに、国内でも身売りなど合法だった時代の旧日本の軍隊が、韓国人娼婦らの身元になど興味がなかったとしても少しもおかしくないと私は思う。
ただ、繰り返すが、だからといって現在の日本政府は韓国にも当時慰安婦だった人々にも謝罪する言われはない。いつまでもアメリカ各地に慰安婦像など建てられて悪者扱いされる筋合いもない。
もしも、慰安婦像を建てまくっている韓国系アメリカ人の市民団体が、慰安婦のことや人権問題や、人身売買について本当に興味があるのであれば、現在も続いている韓国人娼婦たちの救済に勤めるべきであり、今でも韓国にある基地村や、アメリカ国内の基地付近の繁華街で働く韓国人女性や他の外国人女性らの売春の事実について、真っ向から向き合うべきである。


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天才音楽家ジェームス・ブラウンの生涯を描いたゲットオンアップ

天才音楽家ジェームス・ブラウンの傷害を描いたゲットオンアップを観て来た。
この間のジャージー・ボーイズがブロードウェーミュージカルの映画化だったのとは違って,こちらは映画オリジナル。ミュージカルでもない。主役のブラウンを演じるチャドウィック・ボーズマンは歌っておらず、声はすべて御本家ジェームス・ブラウンの歌声でふき替えである。
ただし踊りは吹き替えではなく、ボーズマンがブラウンお得意の素早いフットワークとスピリットを見せてくれる。彼はもともとプロのダンサーではないそうだが、ブラウンの身振り手振りが非常に忠実に出ていて本人を観ているみたいだった。
映画を通じてブラウンのヒット曲が次々に流れるが、ブラウンの熱気に満ちた舞台がいくつも再現されていて非常に楽しい。特にボーズマン及びバックアップダンサーズたちの踊りがすばらしい。
ブラウンの親友で刑務所からブラウンを救い出し、駆け出し時代からずっと一緒に歌って来たボビー・バードを演じるネルサン・エリスの演技はすばらしく、舞台での掛け合いは最高。常に緊張感を張りつめたままのブラウンを常に冷静に陰から支えたバードの強さをよく表している。エリスは最優秀助演男優賞を取るべきだな。
映画はブラウンの幼年期から晩年までという時間をきちんと追わず、子供時代、駆け出し時代、人気絶頂期、晩年、の時間が錯誤して先送りになったり後戻りしたりする。時間ではなく、テーマごとにシーンをまとめてあるのでこうなるのだろう。
ブラウンはジャズとロックとゴスペルを混ぜ合わせた独特な音楽を作り上げた天才だが、天才であるが故の凡人からは理解できないむづかしい人格も映画は遠慮なく描写している。なにせ映画は冒頭からブラウンが酒と麻薬に酔っぱらってライフルを振り回す場面から始まるのだから、これは常套な人間の話ではないと察知がつく。
ブラウンの癇癪持ちは悪名が高く、若い頃に窃盗を働いて実刑を受けたり、後にも家庭内暴力で妻ディーディー(ジル・スコット)に暴力をふるって逮捕されるなどというエピソードがいくつかあった。だいぶ昔だが、ニュースでブラウン逮捕の話をきいたのを覚えている。
リハーサルの際のバンドメンバーに対する横暴で理不尽な態度もかなり忠実に描かれているが、これも音楽に対する本人の厳しい態度の現れと言える。なにせ「芸能界で最も勤勉な男」という別名を持つブラウンだから他人にもそれを求めたのだろう。
南部のど田舎で貧困な家に育ち、幼年期には父親の暴力に絶えきれず逃げてしまった母親スージー(ビオラ・デイビス)に捨てられ、後には父親ジョー(レニー・ジェームス)の知り合いの女将(オクタビア・スペンサー)が経営する売春宿で暮らすようになったブラウンには、きちんとした音楽教育など身に付いていない。にも拘らず、彼には彼の音がしっかりと聞こえていた。自分がイメージする音をバンドが再現できるまでしつこく練習させるシーンはブラウンの音楽に対する熱情を感じさせる。
ただ、気に入らないとメンバーに罰金をかけたり給料を滞納したりという悪い癖もあって、後にはメンバーに見放されたりもする。
ブラウンが若い頃にテレビ出演した際に、ブラウンのマネージャーだったベン・バート(ダン・アクロイド)から番組のトリはイギリスのロックバンド、ローリングストーンズだと言われるシーンがある。ブラウンは自分がトリでないことには多少不満を見せるが、それでも「ローリングストーンズね、ふ〜ん、ローリングストーンズ」とつぶやくシーンは面白い。なにせ映画のプロジューサーは誰あろうローリングストーンズのミック・ジャガーなのだから。
ところでブラウンのマネージャー役で名演技を見せるダン・アクロイドは、昔ブルース・ブラザースで御本家のジェームス・ブラウンと共演したことがある。ブルース・ブラザースでブラウンは黒人教会の神父を演じているが、実際にブラウン自身が黒人教会音楽に非常に影響を受けていたことは確か。子供の頃から近所の教会の音楽に魅かれて通っていたし、親友のボビーとの出会いもブラウンが収容されていた刑務所にボビーとそのバンドが慰安のため教会音楽を歌いに来たことがきっかけだった。
ブラウンを芸能界入りされるきっかけを作ったのが、同年代に人気のあったリトル・リチャード(ブランドン・スミス)。まだ当時は音楽をやりながらハンバーガーショップでハンバーガーを焼いていたリトル・リチャードだが、リチャードがブラウンにデモのレコードを作ってラジオ局回りをすることを教えてくれるのだ。私は最初リチャードが誰なのか思い出せなくて、なんでこんなになよなよと女っぽいしゃべり方するのだろう、と不思議だった。後になって、ああ、あの厚化粧のリトル・リチャードの若い頃だったんだなと解って納得してしまった。解らない人はウィキで調べてよね。
それにしても、最近の黒人音楽はラップとかばっかでちっとも面白くない。昔は黒人ミュージシャンはきりっとしたスーツに身をかためて息のあった踊りをみせてくれたものなのに、最近はだぼだぼのダサイ服着たちんぴらみたいな男が意味も無く動き回り、下品な恰好をした女がやたらに尻を振り回すという見るに絶えない踊りばかり。
ブラウンみたいな天才はなかなか出て来ないものなのだろうか?若いひとたちがこの映画を観て、こんな音楽をまた聴きたいとおもってくれればいいのだが。


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尻切れトンボな舞台版『Once ダブリンの街角で』

2007年の映画ワンス、ダブリンの街角での舞台ミュージカル版を観て来た。元々映画だったとは全然しらなかった、というより義母からただ券をもらって観に行っただけで内容など全くしらずに観た舞台ミュージカル。日本でも六本木で11月にブロードウェイミュージカルのキャストで上演される。そのサイトから紹介すると、、、

開演前に観客は舞台上のバーで実際にドリンクを買い、その場で飲み物を楽しむことができる。そして気づけばキャストによる生演奏が始まり、舞台は自然と幕を開ける。そんなミュージカルを今まであなたは観たことがあるだろうか。これこそがミュージカルの本場、ブロードウェイで大絶賛された舞台「Onceダブリンの街角で」だ。
本作は2007年にアカデミー賞で歌曲賞を受賞した同題の映画をベースにしたミュージカル。2011年にオフ・ブロードウェイで初演されると瞬く間に話題となり、翌年にはブロードウェイに進出。トニー賞で最優秀新作ミュージカル作品賞を含む8部門を受賞し、2013年にはグラミー賞ベスト・ミュージカル・シアター・アルバムを受賞、昨年にはロンドンのウエストエンドで開幕し、オリヴィエ賞を受賞するなど、世界中で注目を集めている。(略)
オーケストラやバンドはなく、キャスト自らがギター、ピアノ、ヴァイオリン、アコーディオン、ドラム、チェロなど楽器を演奏し、音楽がつくられていく過程が表現されるのも見どころの一つ。
人生に希望を見いだせないストリートミュージシャンの男性とチェコ系移民の女性が音楽を通して心を通わせていく愛しくて切ない恋の物語を存分にご堪能あれ。

お芝居の前にアイルランドのアイリッシュパブに見立てた舞台でお酒が出るという演出は何処でも同じらしく、私が観たハリウッドのパンテージ劇場でも同じだった。舞台なので場が変わっても舞台装置はパブのまま。テーブルや椅子を動かして主人公の家になったり銀行になったりレコーディングスタジオになったりする。
第一幕はパブで多々のキャストによる歌や演奏や踊りが満載で楽しい。どっちかいうとミュージカルというよりアイリッシュパブでアイリッシュ音楽の生演奏を観に行っているという感覚。すべて歌も演奏もすばらしく、脇の踊りも結構いいし、アイルランドやチェコ移民の庶民的な振り付けは観ていて楽しい。筋は後から付け足した感じであんまり意味がなく、あってもなくてもいいような印象を持った。それでも主役二人の男女の淡い恋物語には魅かれるものがある。この二人の関係がどういう風に展開していくのか興味をそそられて第一幕が閉じる。
注意:ここからはネタバレあり〜!


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アメリカ人であることを誇りに思う、デニーシュ・デスーザのアメリカ

政治評論家で作家のインド系アメリカ人、デニーシュ・デスーザ氏が好評だった「2016年オバマのアメリカ」に続いて制作した二弾目の話題作「アメリカ、もしもアメリカが存在しなかったら、、“America, Imagine the World Without Her”」を観て来た。デスーザ監督は前作の「オバマのアメリカ」が大成功したことによって、オバマ政権からは目の敵にされており、今回の映画公開直前にも自分の支持する政治家に規制額を多少超える(数百ドル)献金をしたとして選挙法違反の疑いで逮捕された。憲法違法行為を毎日のようにしている自分のことは棚にあげて、オバマ政権は、こんなマイナーな違反をしたデスーザに手錠をかけて連行し、それをでかでかとメディアで報道するという報復に出た。一国の大統領とは思えないほどセコイやり方である。
しかしながら、デスーザは流石に賢い。この逮捕シーンを自ら出演して再現し映画の一シーンに加えた。デスーザは自分は間違いを犯したと認めながらも、自分の逮捕はオバマが気に入らない言論を断固弾圧する典型的な政治がらみであると描写。さすが長年保守派政治評論家をやってるだけあって、デスーザは転んでもただではおきないしたたかな人間である。オバマはデスーザを映画公開直前に逮捕することでデスーザを威嚇して間(あわ)良くば映画公開をも阻止しようと企んだのかもしれないが、デスーザ逮捕は完全に裏目に出て、かえってデスーザの映画を宣伝することとなってしまった。
映画は、左翼リベラルは何かとアメリカを悪者扱いしアメリカこそが世界で最悪な国家であると強調するとし、彼らの主張がいかにまちがっているかを順序正しく歴史をふまえて一つ一つ論破していく。
デスーザが取り上げた左翼のアメリカに対するクレームは:

  1. アメリカはインディアンから土地を奪い大量殺害を行った。
  2. アメリカはメキシコから領土を奪い取った。
  3. アメリカは黒人奴隷を大量に使い虐待した。
  4. アメリカは他国の資源を乗っ取るため世界中で侵略行為をする帝国主義である。
  5. アメリカはその資本主義によって悪徳企業がのさばり、善良な一般市民が虐げられている。

デスーザはそれぞれのクレームを声高にする左翼リベラルの代表者を直接インタビューし、彼らの言い分を歪曲せず、左翼映画家のマイケル・ムーアがするような、相手がより悪く見えるような部分だけをつぎはぎに編集するなどという小細工もせずにきちんと載せている。デスーザは相手の提言をしっかりと理解した上で論理だてて崩して行くのである。
今回の映画は前作が成功して予算が高かったらしくプロダクションバリューも高い。映画の冒頭ではアメリカの最初の大統領ジョージ・ワシントンが軍隊を率いてイギリス軍と闘う独立戦争の戦闘シーンがあるが、何百人というエキストラを使ったかなりの大掛かりなシーンである。
他にも南北戦争の戦闘シーンやリンカーンの演説など、多々の再現ドラマが出て来て、単なるインタビューだけのドキュメンタリーに終わっていない。
デスーザは自分も30年前にアメリカに移住した合法移民のひとりとして、アメリカを誇りに思い愛している。この映画にはその誇りと愛が赤裸裸に描かれているといえる。なんといってもアメリカ人であることを誇りに思わせ、アメリカ人を気分よくして家に送り返してくれる作品である。
アメリカを崩壊させたいオバマ王が躍起になって阻止しようとした理由が解るというものである。


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ジャージーボーイズ、イーストウッド監督、舞台俳優を起用して大成功

1960年代後半から70年代前半にティーンポップの大人気歌手だったフランキー・バリとそのボーカルグループ、フォーシーンズのメンバー四人の若者たちの伝記映画。ジャージーボーイズというタイトルは、四人ともニュージャージー州出身だからということだけでなく、四人が育った環境が、貧しいイタリア移民子孫の集まる地元で、マフィアがらみの伝統文化が深く浸透しているという意味からくる。言ってみれば東京下町の江戸っ子気質みたいなものかな。マフィアは除くとして、、(日本語字幕予告編はこちら
アクションスターで一世を風靡したクリント・イーストウッド監督は、ハリウッド映画では珍しく映画ファンには知名度の低いミュージカル舞台俳優を起用。2005年ブロードウェイのオリジナルキャストで主役のフランキー・バリを演じてトニー賞受賞経験もあるジョン・ロイド・ヤングをはじめ、作詞作曲及びキーボードのボビー・コーディオ(エリック・バーガン)、ベースのニック・マシ(マイケル・ラマんダ)など四人のうち三人までもがオーストラリアやラスベガスの舞台でそれぞれの役をこなしてきたベテランミュージカル俳優たち。わずかにトミー・デビートだけが多少知名度のあるテレビ俳優で映画経験もあるビンセント・ピアッツアが演じている。
脇にはフランキーの守護神でマフィアの親分を演じるベテラン俳優のクリストファー・ウォーキン、作曲家としてのボビーの才能を発見するジョー・ペシ(そ、あのジョー・ペシ!)を演じるジョーイ・ルソが映える。
イーストウッド監督は、歌える俳優を起用したことをフル活用し、バックミュージシャンを使ってシーンで歌われる歌は生で録音したんだそうだ。フォーシーズンズの四人のハーモニーは抜群で主役のロイドヤングの声はフランキーそっくり!高音のフォルセットが凄く冴えてる。
映画全面を通じてヒットに次ぐヒットを飛ばしたフランキー・バリとフォーシ−ズンと後にバリがソロとなってからのヒット作が映画の進行とともに流されるが、それぞれの曲がその時のムードにぴったりはまっていていい。
今の若い世代はフランキー・バリなんて聞いた事がないかもしれないが、シェリー,ビッグガールズドンクライ、ウォークライクアマン、キャントテイクマイアイズオフオブユーなど、彼の歌は今でも歌い続けられているので、バリが歌ったとは知らずに耳には馴染みのある曲が多いはず。
映画のテーマは四人の音楽活動だけでなく、最年長でフランキーを実の弟のようにかわいがっていたトミーとその幼なじみのニックの三人の深い友情が根底にある。若い頃から指導力があり行動的なトミーは自然とグループのリーダー及びマネージャーのような役割を果たしグループの金銭の取り扱いもしていた。だが、トミーは若い頃からチンピラで常に怪しげな商売をしては刑務所を出たり入ったりしてきた前科者。フランキーやニックが契約書など交わさず何でもジャージーのやり方だと言って握手だけして、何もかもトミーに任せっきりにしてきたことが後になって大きな問題を引き起こすことになる。
幸いにしてトミーの友達のジョーイの紹介で最後に加わったボビーは、同じニュージャージー出身でもちょっと毛色の違う人種。他の三人と違ってマフィア文化とは無縁だし教養もあり作曲の才能だけでなくビジネスの才能もあった。ボビーはグループとは別にフランキーと作曲家とソロ歌手としてのパートナー契約を結ぶ。この契約が後にトミーが引き起こす膨大な大借金からグループを救うこととなる。
私はフォーシーズンズ及びフランキー・バリの歌のほとんどをボビー・コーディオが書いていたとは全く知らなかった。トミーとニックは幼なじみだし、それぞれ多少の才能はあったとはいえ、グループのメインはフランキーとボビー。トミーの借金問題でトミーとニックが抜けてグループが解散した後も、この二人がずっとパートナーとして継続できたことは音楽ファンにとっては非常に幸運なことだった。
主役四人の歌唱力は申し分ないが、トミーのビンセント・ピアツアの演技はさすがである。多少音楽才能はあるとはいえ、所詮チンピラなやくざとしての域を抜けきれない哀れな男。この役だけは映画経験のあるピアツアを起用したクリントン監督の意図は理解できる。
ところで元が戯曲だから映画でも舞台の雰囲気があちこちに漂っている。例えば四人がそれぞれカメラに向って本音を話かけるシーンなどはシェークスピア風。最後に登場人物が集まって踊ったり歌ったりするのも舞台のカーテンコール風で思わず「ブラボー」と歓声を上げたくなった。この映画には絶対にアカデミー賞を取ってもらいたい。これでロイド・ヤングがアカデミー主演男優賞を取ったら、彼はトニーとアカデミー両方で同じ役で主演男優賞を取ることになる。非常に興味深いことだ。
では最後に本家フランキー・バリーの”I can’t take my eyes off of you”アイキャントテイクマイアイズオフオブユー(君から目をそらせない)のオーディオを楽しんでもらおう。


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宮崎監督の飛行機への愛が政治を超えた風立ちぬ

日本ではすごい人気だったという宮崎駿監督の「風立ちぬ」が近所の映画館に来ていたので観て来た。私は昔から「隣のトトロ」の大ファンでお風呂場はすべてトトロモチーフにしているくらい。ただ、監督の宮崎氏はかなり左寄りの思考で「もののけ姫」とか「千と千尋の神隠し」などは彼の左翼リベラル特有の環境保全思想が全面的に出過ぎていて、映画全体がお説教ぶっていて嫌だった。また宮崎氏が護憲法9条派であることも有名なので、零戦の設計者である堀越二郎の人生を描くとなると、やたら反戦のプロパガンダを聞かされるのかなと心配だった。しかし映画では堀越二郎は戦争に加担した悪人としてではなく、単に航空科学に熱烈な情熱を注いだエンジニアだということだったので観に行くことにした。
宮崎の映画では、背景描写の細やかな美しさにはいつも心を打たれる。特に監督が育った昔の日本を描写する時、実際その時代を生き、その場を愛した監督の気持ちがひしひしと伝わってくる。この映画も例外ではない。堀越二郎が育った大正時代の田舎町。泥道を行く馬車や川を行く小舟の数々。風ぞよめく広大な草原。確かにここなら、美しい飛行機を作りたい少年が夢を見られるかもしれないと思う。この草原で少年二郎は尊敬するイタリアの設計技師カプローニに白昼夢のなかで出会う。実際に二郎がカプローニにあったことがあったのかは解らないが、カプローニは映画のところどころで二郎の幻想として登場する。
人気映画なのでいまさらあらすじをご説明するまでもないと思うが、特に説明するような筋というものもない。堀越二郎という大正時代から昭和の戦争前夜に活躍した天才的な航空科学技師の少年から青年期を描いたもので、あちこちで二郎がスライドルールを使って(計算機など無い時代)飛行機の設計に没頭している姿が全体的にまったりなペースで描かれる。
愛妻奈緒子とのラブストーリーも二郎の飛行機への愛とだぶる。二郎と奈緒子が紙飛行機を投げ合って遊びながら二人の愛は深まる。結核に病む病弱な奈緒子との明日をもしれない短い愛の暮らし。横たわる奈緒子の手をつなぎながら夜遅くまで設計に励む二郎。
これを普通のアニメを期待していた子供が観ていたらかなり退屈してしまうだろう。この映画が日本で大人気だったというのはちょっと不思議だ。観客層はかなり高年層の人たちだったのだろうか。もし日本の若者がこの映画を本気で好きだったのなら、日本の若者はアメリカの若者達よりかなり集中力があるのだなと感心してしまう。なにせハリウッド得意の手に汗握るアクションの連続とはほど遠い映画だからである。
映画を通じて感じるのは宮崎の古い日本への懐かしい想いと飛行機への愛情である。自分の設計が戦争の道具に使われるという葛藤は二郎にはない。ナチスの台頭を目前にしたドイツへの訪問や国内で特高警察に睨まれたことなども割とさりげなく扱われ、二郎自身には全く政治色はない。戦争に加担した主人公の罪を無視しているという批判もあるらしいが、宮崎が堀越二郎の伝記を反戦プロパガンダに使わないでくれたことに私は感謝している。その誘惑は多いにあったはずだから。
だいたい世界恐慌まっただなかの日本で飛行機設計技師が勤められる分野といえば防衛関係なのは当たり前。旅客機など無い時代だ、お得意さまが軍隊なのは自然の成り行き。第一、日本人技師が自分の設計が日本の国防のために使われることに誇りこそ感じるにしても、違和感を持つ方がおかしい。
ただ政治色云々より映画としては今ひとつかなという気はする。二郎が東京で関東大震災に出会うとか戦争を目前にするという背景はあるが、二郎自身の人生はそれほど波瀾万丈ではなく、これといった出来事が起きない。愛妻の奈緒子をはじめ、幻想の世界のカプロー二、三菱の上司黒川や同僚の本庄、妹の佳代やドイツ人のカストルプなど、面白い登場人物に囲まれてはいるが、二郎自身が秘密警察に逮捕されたわけでもないし、偉大なる設計士との感動的な出会いもない。ドイツでの研修旅行もエンジニアの一行として同行したような気分になった。
さて、面白い効果として、何故か関東大震災や飛行機のエンジンやプロペラの音響効果がすべて人の声でされている。また背景描写が非常に現実的であるにも拘らず、登場人物の描写は漫画的な質素さがあり、ところどころぎくしゃくとしていて、これにもちょっと違和感がある。
英語版で観たので英語の声優については、二郎役のジョセフ・ゴードン・レビットの淡々とした口調はエンジニアの二郎にはぴったりだ。黒川を演じたマーティン・ショートが択一。ロード・オブ・ザ・リングスでフロドを演じたイライジャ・ウッドが曽根という役で登場したらしいが、全く印象になかった。二郎は奈保子とフランス語を話したりドイツではドイツ語を話したりしているが、日本語版ではどのようにしたのだろう?またカプロー二のイタリア語訛りはどんなふうに演じたのか興味あるところだ。
「隣のトトロ」や「魔女の宅急便」には及ばないが、説教じみずに飛行機への愛を語ったと言う点でまずまずの出来といったところか。


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アメリカ軍人の武勇伝ローンサバイバーが大人気なのは何故か?その謎を探る!

去年の12月に公開され、日本では三月公開の「ローンサバイバー」あえて訳すなら『孤独な生還者』なんてどうかな?アフガニスタン戦争中に実際にあった戦闘を元にしたアメリカ海軍誇るシールチームの武勇伝。制作費も低く地味な映画なのにも拘らず意外な人気で大入り満員。封切から四週間も全米売り上げナンバー1の座を保った。それにしても人気がないはずの戦争映画なのに、こんなにも人気があるのはいったい何故? 今日はその謎を探ってみよう!(とドキュメンタリーテレビの冒頭みたいな台詞を書いてみた。)
この映画のあらすじは、実はカカシ自身が書いた2007年にマーカス・ルテレル原作本を読んだ時のエントリーがあるので引用しよう。(ネタバレあり!)

たとえばこの状況を読者の皆さんはどう判断されるだろう。アフガニスタンの山奥にテロリストのアジトがあるので偵察に行って来いと命令を受けた海軍特別部隊シール4人が、偵察中に羊飼いの村人三人に出くわした。戦闘規制では非武装の非戦闘員を攻撃してはいけないということになっているが、彼らの顔つきから明らかにアメリカ人を憎んでいる様子。シールの4人はこの三人を殺すべきか開放すべきか悩んだ。開放すれば、仲間達に自分らの任務を知られ待ち伏せされる可能性が多いにある。かといって、キリスト教徒としてまだあどけない顔の少年を含む一般市民を殺すのは気が引ける。第一タリバンかどうかもわからない市民をやたらに殺したりすれば、殺人犯として帰国してから裁判にかけられる可能性は大きい。シールたちはどうすればよかったのだろうか?

結論から言わせてもらうと、シールたちは殺すという意見が一人で、もう一人はどっちでもいい、他の二人が殺さずに開放するという意見で羊飼いたちは開放された。そしてその二時間後、シール4人は200人からのタリバン戦闘員たちに待ち伏せされた(中略)(生還者は後に)「どんな戦略でも、偵察員が発見された場合には目撃者を殺すのが当たり前だ。それを戦闘規制(ROE)を恐れて三人を開放したことは私の生涯で一番の失態だった」と語っている。

イラク/アフガン戦争中には、戦争を描いた映画がいくつか作られたがどれも不入りだった。それでハリウッド映画業界では、ブッシュ政権下の戦争がアメリカ国民の間で不人気なため、これらの戦争を描写した映画も不人気なのだという結論がくだされた。しかし、彼らが一つ見落としていた大事な点がある。それは、どれもこれも反米映画だったということだ!!
いったいどこの誰が金を払って自分の国をけちょんけちょんに貶す(けなす)映画など観に行くか?
これについてはカカシも過去に幾つか書いて来た。
学習力ないハリウッド、「ストップロス」反戦映画がまたも不入り
反戦映画が不入りなのは何故か
悲劇的な封切り、ディパルマ監督の反米映画「リダクテド」
今回の映画が好評なのは、悪者はタリバン、正義の味方はアメリカ軍、とはっきりしているからだろう。そして二百人からの悪者に囲まれながらたった四人で数時間に渡り闘い続け相手をほぼ全滅させたという快挙がアメリカ人の正義感を振り起こすからだろう。
映画は原作にほぼ忠実ではあるが、ただ時間の問題もあり、大事なシーンがかなり削られている。たとえば主人公のマーカスがシールになるための訓練をした数週間がオープニングのシーンで役者抜きの本物の訓練の模様が流れるだけ。それとタリバンとの熾烈な闘いの後に一人生き残ったマーカスが親米なアフガニスタン村民に助けられてからの時間もちょっと短過ぎる。本ではもっとアフガンの村に行ってからの描写がされており、村人たちとの交流も詳細に書かれている。映画ではこのあたりのシーンが足りない。また原作にはない戦闘シーンなどが加えられている。
映画に批判的な意見は、ほとんどが反戦主義の左翼リベラルたちによるもの。右翼のプロパガンダだとか戦闘を美化しているとか、ま、くだらないものだばかりだ。
特にLAウィークリー誌の載ったエイミー・ニコルソンの批評がひどすぎると、人気ラジオDJのグレン・ベックが旅費を負担するから自分の番組に出演して原作者で生還者のマーカス・ルテレル本人の前で言ってみろと番組で言うほどだった。
先ず彼女の記事は「バトルシップのピーター・バーグ監督の最新映画はプロパガンダまるだしのねつ造映画」と始まり、原作はルテレルの直筆ではなく、ルテレルがイラクに出動中、イギリスのゴーストライターが劇的にするために10人の敵を200人と書き換えたものだと続く。まったく何を根拠にこんな出鱈目を書いているのか。私はこの話だけでなくアフガニスタンやイラクでの戦闘がどのようなものだったか、かなり詳しく追っていた。
タリバンの戦闘員たちは重武装をし残虐であるとはいえ、その戦闘技術はアメリカ軍のエリートシール隊とは比べ物にならない。アメリカ兵ひとりあたり20から30人のタリバン戦死者が出るなんて言うのはごく普通に起きていた。何故かと言うとタリバンたちのやり方は物量作戦。つまりむやみやたらに突撃してくるだけで作戦がない。守り体制にあるアメリカ兵たちからしてみたら射撃しやすい状態にある。とはいえ、たった4人対200人ではいくらアメリカ兵が有能でも圧倒的に不利。救援なしではいずれは負ける。当時の戦闘状態を把握している人ならルテレルの記述はさほど大げさとは思えない。それを敵がたった10人だったなんて馬鹿なことが言えるのはニコルソンがどれだけアフガニスタン戦争を解っていないかという証拠だ。
彼女はアフガニスタン戦争はアメリカが勝手に始めた茶色人悪白人善という感情の戦争に地元民が巻き込まれただけという書き方。そして戦地に送られたシールたちもまた政権による犠牲者なのだと言いたいらしい。ま、ウィークリーみたいな零細新聞なんかに書いてる批評家の書くことなんか気にしてもしょうがないが、左翼リベラルの批評なんてのは往々にしてこんなもんだ。
ニコルソンはベックの番組で取り上げられたことで、誰も読まないウィークリーを読んだ退役軍人や家族たちからツイッターで非難囂々。軍人について何もしらないニコルソンが軍人たちの意見を聞くのもジャーナリストとしての勉強になるかもしれない。ま、無理でしょうけどね。


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メリーポピンズが救いに来たのは誰?父親像のあり方を描いたセイビングミスターバンクス

先日ディズニー映画、セイビングミスターバンクス(邦題『ウォルトディズニーの約束』日本公開2014年3月21日)を観た。予告編を観た時は、それほど面白そうな映画ではなかったので期待していなかったのだが、封を開けてみたら予想以外に非常にいい映画でちょっと驚いた。
これは1964年のミュージカル映画「メリー・ポピンズ」制作時の裏話なのだが、ウォルト・ディズニー(トム・ハンクス)が原作者のパメラ・L・トラバース(エマ・トンプソン)女史から映画製作権利を取得するため20数年に渡って女史を口説き落としたという話は有名。映画は、そのトラバース女史がいよいよ台本制作を監督するためロサンゼルスにやって来るという設定で、トラバースの非現実的な要求や我が儘で傲慢な態度に脚本家のドン(Bradley Whitford)や音楽担当のシャーマン兄弟(B.J. Novak、Jason Schwartzman)が四苦八苦するという話。
本当のトラバースが非常に難しい人だったというのは悪名高く、写真で観る限り顔も常にしかめっ面のおっかなそうなオバさんだ。映画はトラバースの子供時代にオーストラリアで育った頃の話とだぶり、銀行員だった父親(Colin Farrell)がミスターバンクス、父親が病気になってから助っ人として遠く東から訪れた伯母(母親の姉)のエリー(Rachel Griffiths)がメリー・ポピンズのモデルになっていることが示唆される。
ディズニーがトラバースをスタジオに招いた時、ディズニーがこの映画を作りたいのは昔娘と交わした約束にあると話をする。
「娘との約束はまもらなければなりません。どれだけ時間が経とうと。それが父親というものですよ。」
というようなことを言うと、トラバースは「そうでしょうか?」と意味深に答える。
私は原作を読んだことはないが、原作を読んだミスター苺にいわせると、メリー・ポピンズは決して好感を持てるような女性ではないという。映画のなかでもパメラは、ディズニー映画のメリーが優し過ぎると抗議。メリー・ポピンズは子供達に現実社会の厳しさに打ち勝つよう厳しくしつけをしなければならないのだと強調する。そして映画自体が音楽やアニメなども含め楽観的過ぎることに大きな不満を見せる。
ディズニーはパメラがこういうきつい性格になった原因はパメラがヘレン・ゴフ(パメラ・L・トラバースの本名)だった子供の頃の苦労にあるのではないかと判断する。
回想シーンに現れる父親のトラバース・ゴフはアル中で娘のヘレン(Annie Rose Buckley、パメラの本名はヘレン・ゴフ)につらい想いをさせる。実際にパメラの父親は銀行の支店長だったのに途中で窓口に降格されてしまったという過去があるので、娘のヘレンが父親に失望したことがあったのは確かだろう。しかしそれでも父親を愛していたことは、ペンネームに父親の名前をつかったことや、ドンとシャーマン兄弟が描いたミスターバンクスの性格にミスターバンクスが意地悪過ぎると半泣きで抗議する場面で顕著に現れている。
英語題の「セイビングミスターバンクス」は「バンクスさんを救う」という意味。家族を救いに来たオバのエリーはパメラの父親を救うことは出来なかった。
「メリー・ポピンズが救いにきたのは子供達ではない。ミスター・バンクスなんだね。」
とウォルト。ウォルトがパメラに自分の厳しかった父親の話をするシーンは感動的で涙が止まらない。ウォルトは父親を愛していたと同時に父親の厳し過ぎる仕打ちを憎んでいた。ウォルトはパメラに子供時代に苦労したのは彼女だけではない、いつまでも過去の悲しみに執着していてはいけないと語るのである。
エマ・トンプソンはトラバースの難しい性格をかなりよく演じていると思うが、実際のトラバース女史はもっと偏屈だったらしい。トンプソンのトラバースは偏屈ながらも好感の持てる作家として描かれている。(それに本人よりずっと美人だし、、、)
ところで、邦題の「ウォルト・ディズニーの約束」というのは非常に良い題名だと思う。バンクスさんを救うでは日本語としてはちょっとおかしい。ディズニーが娘と交わした約束という情熱が最後には実を結んだのであるから、これは非常に適格な題名だ。意味の解らないカタカナ名が多いなか、満足のいく邦題である。
題材はメリー・ポピンズでも映画の内容は大人向け。地味だが非常に感動的な映画である。是非お薦めする。


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暴力なし、セックスなし、SFなし、大人の映画ゼロ・グラビティーが大人気

久しぶりに大人向けの映画を観た。邦題はゼロ・グラビティ(無重力)(日本12月公開)。この映画はいまアメリカで売り上げナンバー1の映画である。しかも35歳以上の大人に人気があるという。登場人物はたったの五人、しかも顔が出てくるのは二人だけであとの三人は声だけ。悪者が出て来る暴力シーンもなければ主役二人の男女のセックスシーンもない。完全に現代の科学に基づいており、宇宙人も出て来ないしト大型ロボットも出て来ない。にもかかわらず二週間続けて売り上げナンバー1というのはどういうことなのだろうか?
あらすじといっても特にない。それというのも、スペースシャトルの乗組員の三人がシャトルの外で修理に当たっていた時、突発的な事故によってジョージ・クルーニー演ずる宇宙飛行士マット・コワルスキーとサンドラ・ブロック演じるペイロードスペシャリスト(スペースシャトルの搭乗科学技術者。積み込まれた実験装置や観測装置の操作および実験を担当する専門職の宇宙飛行士)ライアン・ストーン博士だけが生き残り、そのあとなんとかして二人が生きて地球に戻ろうとする冒険が描かれているだけだからなのだ。映画の説明をこちらから引用させてもらうと、、

予告編の冒頭で映し出されるのは宇宙空間から見た美しい地球の姿。そこではスペースシャトルが地球を周回しており、メディカル・エンジニアのライアン・ストーン博士(ブロック)とベテラン宇宙飛行士マット・コワルスキー(クルーニー)は船外でミッションを遂行している。しかし、突発的な事故が発生し、ふたりは無重力(ゼロ・グラビティ)空間に放り出される。映像は、突発的な状況に直面しパニックにおちいる主人公ふたりの動揺を生々しくとらえ、衝突によって大破した機器が宇宙空間に拡散してく映像が緊張感を高める。やがて訪れるのは助けの声さえも届かない漆黒の闇。映画は、地球との交信手段も絶たれ、酸素残量が2時間になってしまった状態から生還を試みるふたりの姿を描くという。

この映画の魅力はコワルスキーとストーンがいかにして生延びるかと苦心して様々な現実的な作戦を試みるところにある。無論実際に彼らのしたことが可能かどうかは疑問だが、それでもあり得ると観客に思わせるところが味噌だ。
コワルスキーはベテラン飛行士だが、ストーンは科学者で飛行士ではない。最初にシャトルから引き離されて宇宙に放り出された時の彼女のパニックぶりは非常に理解出来る。全くスケールは違うが、私が何年か前にカーンリバーの濁流下りをした時、ボートが転覆して濁流で何回転もした時のことを思い出した。無重力状態では摩擦がないから回転しだしたら止まらない。自分がそんな目にあったらあのくらいのパニックでは収まらないだろうと思う。
それでも彼女はコワルスキーにおんぶにだっこで頼り切るわけにはいかない。生存者はたったの二人きり。ベテラン飛行士とはいえ、コワルスキーは二人分の責任をすべて背負い込むことはできないのだ。それに気づいて自分でも気づかなかった予想外の勇気を奮い起こす彼女の姿は凛々しい。
宇宙の冷酷ながらも美しい映像描写はすばらしい。映画は普通版と3D版とがあるが、3D版をおすすめする。他の映画では意味もなく3Dのものが結構あるが、この映画は自然に3Dを駆使しており、充分に観る価値がある。
この映画がこれほどまでに人気を呼ぶということは、ハリウッドがどう思おうと、ティーンエージャー向きのアホな映画ばかりで大人の観客は内容のある大人の映画に飢えているということだ。ハリウッドにはこれに学んで内容の濃い大人の映画をもっと作って欲しいものだ。


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