先日アカデミー賞の候補が発表されたが、どの候補に入った映画のどれひとつ観ていなかったことに気がつき、これは発表がある前にちゃんと観ておかなければいけないと思いたった。それで芸術作として評判も高く、SF的な要素も含む『ベンジャミン・バトンの数奇な一生』を観ることにした。(日本では二月七日封切り)
普通カカシが映画を評価する時は、その映画の出来云々よりもその映画そのものを作る価値があったかどうかということが最低基準となる。どれほど画像がきれいだろうと配役が豪華だろうと特撮が優れていようと、その映画が何か観客に訴えるものを持っていなければその映画はただのフィルムの無駄使いである。しかも、そういうくだらない映画がアカデミーにノミネートなどされてしまうと、ノミネートされた映画くらいは観ておかなければと考えるカカシのような観客の大切な三時間までもが浪費されてしまうのだからはた迷惑もいいところだ。
ここまで書けばお察しの通り、カカシはこの映画は気に入らなかった。全く観る価値がないとさえ言わせてもらう。
この映画の設定は、ブラッド・ピット扮するベンジャミン・バトン(カタカナ表記は「ボタン」とすべき。彼の苗字は生家の事業であるボタン製造会社にちなんだもの)という第一次世界大戦の終戦の日に生まれた男が、赤ん坊としてではなく、肉体的には80歳を超える老人として生まれ、時が経つとともに若返り最後には赤ん坊になって死ぬという話だ。すでに読者諸君が予告編を観ていたら、わざわざ映画館に足を運ぶ必要はない。なにも三時間も時間を無駄にしなくても、すべてのことはその三分間の予告で知ることができるからだ。
この映画は完全にアイデア倒れだ。カカシはSFファンなのでこの映画のSF要素に魅かれたのだが、製作者は単に年寄りが若返るという設定以外に全く科学空想としての想像力が働かなかったと見える。三時間という長時間をかけたにも関わらず、語った話は取り立てておもしろくもおかしくもない、つまらない男のくだらない人生を語るだけで済ましてしまっている。これが同じ筋で赤ん坊で生まれ、年をとって耄碌して死んだ男の人生を語ったとしても、全く違和感のないありきたいりの人生を語っているのだ。ベンジャミン・バトンの人生は数奇どころか何ひとつ面白いことがおきない退屈極まりない生涯だ。若返る男という不思議な宿命を持つ男なら、もっと面白い体験があってもよさそうなものだ。
だいたいこの映画は観客に何を訴えたいのだ?
映画はベンジャミン・バトン(ブラッド・ピット)の生涯の恋人デイジー(ケイト・ブランシェット)が年老いてハリケーンカトリーナが近づくニューオーリンズの病院で死の床に着いているところから始まる。病院で付き添っているのはデイジーの中年の娘キャロライン(ジュリア・オーモンド)。
キャロラインの口ぶりからして、娘と母親の間はあまり親密ではなかったようで、娘が病床につきそっているのも、母親との間が疎遠のままで死に別れたくないという理由からだ。プロのバレリーナとしてアメリカ人では初めてソ連のボリショイバレエ団にゲスト出演を許可された母親のデイジーの逸脱したキャリアに比べ、娘のキャロラインは特にこれといった才能がなく、本人はそのことを恥じて母親に対して卑屈になっている印象を受ける。母親のデイジーが娘に自分の昔の恋人であるベンジャミン・バトンという奇妙な男の日記を読んで聞かせてくれと頼むところから、回想シーンが始まって本編となる。
こういうふうにお膳立てをしたからには、ベンジャミンの生涯を娘に語らせることによって、デイジーは親を失望させたと卑屈になっている中年娘に何かしら言いたいことがあるはずだ。普通なら回想シーンが終わった時点で娘が何かを悟るように物語が転回されるべきだ。ところが、三時間の退屈な映画を全編見終わっても、いったいこの物語を語ることでデイジーは娘のキャロラインに何を伝えたかったのか観客にはさっぱり解らないのである。
産時に妻を失い悲嘆にくれるベンジャミンの父親(ジェイソン・フレミング)は、しわくちゃで老人のような赤ん坊のベンジャミンを老人ホームの階段に捨てる。それを見つけた老人ホームの黒人管理人クイニー(Taraji P. Henson)はベンジャミンを保護し自分の子供として育てる。
物語の最初の方でベンジャミンが80歳くらいから60代前半に若返るまでの17年間に、彼の養母が管理する老人ホームに、訪れては死んで行った人々の話がされるが、これらの老人たちの話がベンジャミンの人格形成にどのような役に立っているのかさっぱりわからない。ベンジャミンと当時7歳だった後の恋人デイジー(エル・ファニング)が出会うのはこの頃だ。ベンジャミンは実家の老人ホームに居る祖母のホリスター夫人(フィオナ・ヘイル)を度々訊ねて来るデイジーに不思議な魅力を感じる。
映画のほぼ全編にベンジャミンを演じるピットのモノトーンのナレーションが入るのだが、このナレーションに全く感情が込められていないせいか、ベンジャミンによる周りの人々への感情移入が全く感じられない。まるでベンジャミンは部外者で周囲の人間を単に観察しているかのような印象を受けるのだ。
ベンジャミンが独立して実家を出て船乗りとしての生活を始めてからも、この部外者のような無表情さは変わらない。これはブラッド・ピットの演技が下手なせいなのか、それとも演出が悪いのか解らないのだが、従船の船長(ジャレッド・ハリス)をはじめとするカラフルな船員たちとの出会いや、アラスカのホテルのロビーで出会いベンジャミンが恋におちる人妻エリザベス(ティルダ・スイントン)との関係にしても、ベンジャミンがこれらの人々との交流において何を感じたのか、彼の人生はこれらの出会いによってどう変わったのかといった話が全くされないのだ。つまりこれらの出会いや逸話が映画の前後の話と全くつながらないのである。
第二次世界大戦終戦後、ベンジャミンは実家の老人ホームに戻り、すっかり年老いた養母のクイニーと一緒に再び暮らし始める。そこで帰省中の美しく成長してプロのバレリーナになったデイジーと再会するのだが、、、、
と、もしもこの先の筋をすべてここでばらしても、決してネタバレなどという大げさなものにはならない。何故ならこの先の一時間半に渡っての映画の中では特にこれといって驚くようなことも感動するようなことも起きないからだ。
ベンジャミン・バトンの人生にはいったいどんな意味があったのだ?彼を愛したデイジーの人生はどう影響を受けたのだ?その話を後に学んだ娘のキャロラインは何を感じたのだ?
そうした問いかけに、まったく無頓着なのがこの映画、ベンジャミン・バトンの数奇な一生である。
退屈きわまりないベンジャミン・バトンのつまらない一生
共産主義と戦うインディアナ・ジョーンズ最新作
日本では6月21日にロードショー開始のインディ・ジョーンズ、クリスタル・スカルの王国を一足先に観てきたので、本日はそのお話から。
なぜ日本では主人公のヘンリー(ハリソン・フォード)をインディアナと言わずにインディと呼ぶのかわからないが、まあもう1981年に公開されたレイダース/失われたアーク(聖櫃)の時からそう呼んでいるのだから今更変えるのも不自然だろう。
今回の最新作はオリジナルの1930年代のナチス台頭の時代から20年後の冷戦中の1957年が舞台となっている。それで必然的に悪役もナチスドイツから共産主義者へと変わった。ハリウッド映画がソ連共産党と戦うのは久しぶりではないかな。
スターリン主義の悪役イリーナはロード・オブ・ザ・リングスで年齢不詳のガラドリエルを演じたケイト・ブランシェット。彼女自身も年齢不詳の冷たい美しさを見せているが、黒いボブカットの髪型や不自然なアクセントは、冷戦時代から使われてきたソ連スパイのステレオタイプそのもので、ちょっと滑稽な感じがする。
もっともインディ・ジョーンズの特徴はまじめぶらないところにあるので、こういうステレオタイプも決して場違いではない。なにしろ映画の最初のシーンは、穴から顔を出したモグラが、走ってくるジープに驚いて穴に引っ込むというもので、これからして、この映画全体の音程が察知できるというもの。
このジープの列はテキサスの砂漠で行われている原爆実験現場を通っているのだがこの冒険についてあんまり書くとネタバレなので、共産党スパイによって売り渡されたインディ・ジョーンズは奇跡的に原爆実験現場から命からがら逃げおおすとだけ書いておこう。(はじまりでインディが死んじゃおしまいだから当たり前だが、、)
しかし、当時はアメリカ政府や大学にソ連スパイがはびこっていたため、かなり神経質になっていたCIAは、ヘンリーがトップシークレットの実験現場に何故居たのか、ヘンリーが教授を勤める大学にまで取り調べに来る。これを理由に大学側はジョーンズ教授を解雇。それに抗議した学長(ジム・ブロードベント)も辞任する。
大学から出て行くために荷造りを始めるヘンリーに学長は「最近わしはこの国が理解できんよ。誰も彼も共産党のスパイ扱いで、被害妄想にかられている。」という。しかしこの台詞ははっきりいってストーリー展開から矛盾している。
この映画の最大の悪者は共産主義者であり、しかも冒頭シーンでインディは共産党スパイにひどい目にあわされるのである。そのことを学長はよく知っているのだ。だから政府や大学が共産党スパイに神経質なのはあたりまえ。被害妄想でもなんでもない。
スピルバーグ監督は有名なリベラルではあるが、リベラル=共産主義ではない。だから共産主義者が悪者でも問題はないはず。この台詞は不自然で場違いなので、多分元のシナリオにはなく、後から左巻きの脚本家が挿入したのだろう。
もちろん共産主義者を相手にしているとはいっても、インディ・ジョーンズのことだからそれほど政治色が濃い訳ではない。映画の本題は政治的な紛争ではなく、インディが巻き込まれる不思議な冒険にある。
大学を首になったヘンリーは、若き日のマーロン・ブランドを思わせる革ジャンを着てハーリーデイビッドソンを乗り回すマット・ウィリアムス(シャイア・ラブーフ)に出会う。マットと彼の母親は、ヘンリーの親友で考古学者のオクスリー教授(ジョン・ハート)に世話になったものだという。マットは南米にいる自分の母親から手紙で、オクスリー教授が行方不明になったので、ヘンリーに助けを求めるように言われたのだという。
実はオクスリー教授が発見したのはクリスタル・スカルという頭蓋骨で、何世紀も前に墓から盗まれたものだった。この頭蓋骨を元の墓に返したものには偉大なる力が与えられると伝えられている。問題は誰もこの墓が南米のどこかにあるという以外には確かな場所を知らないということである。
そこでインディ・ジョーンズはマット青年と一緒に先ずはオクスリー教授の行方を探し求め、ひいてはクリスタル・スカルを元の墓に戻すという冒険を始めるのであった。
無論ソ連のスパイ達に後を追われているので、南米のジャングルでは手に汗逃げる追跡格闘シーンはあり、小舟に乗って逃げるシーンではナイアガラの滝さながらの滝に落ちたりもする。遺跡ではレイダースの冒頭のようなからくりのある建物を走るまくるシーンもあって、インディならではの冒険が楽しめる。
ハリソン・フォードは60歳を超すと思われるが、どうしてどうして、まだまだ格好いい。二作目で父親を演じたショーン・コネリーも格好よかったが、フォードの渋みのきいた、それでいてコメディータイミングを失わないおちゃめな点も魅力的である。
若い観客のために二枚目青年俳優ラルーフを起用したのは解るが、カカシが中年だからなのかもしれないが、やはりラルーフではフォードの魅力にはかなわない。もっともラルーフのマットも最初はヘンリーが年寄りだと思って馬鹿にしているが、悪者との格闘でヘンリーが非常にタフであることを知って感心する。ここでスピルバーグが特に胸焼けするような青年と中年男の友情など表現しないでくれるので観客としては非常に助かる。
第一作目でヘンリーの恋人マリオン・レイヴンウッド(カレン・アレン)がマットの母親として登場するが、一作目ほどの存在感はない。ま、カカシの他人のことは言えないが女性は27年も経ってしまうと腰回りが気になるな。
ところで、ミスター苺が「インディ・ジョーンズは共和党支持だったんだな」と言うので、「え、なんで?」と聴いたら、イリーナに銃を向けられ「最後に言いたことはあるか?」と聞かれたときに、「俺はアイクが好きだ」と答えたからだという。アイクとは時の共和党の大統領候補指名のドワイト・アイゼンハワーのことだ。若いひとのどのくらいがこの台詞の意味を理解できたのか興味深い。
二つに一つじゃないんだけど、、、インテリジェントデザイン対無神論
アップデートあり:下記参照
先日ベン・スタインという俳優で保守派政治評論家が監督した、マイケル・ムーア風の進化論批判ドキュメンタリー、Expelled: No Intelligence Allowedという映画を見た。実はこの映画に関する評論はしようかどうかちょっと迷っていたのだが、本日、偶然にも左翼フェミニストの小山エミさんが無神論者について書いていたのを読んで、関連のある話題なのでちょっとお話することにしよう。
先ずはベン・スタインのExpelled…の映画評論をする前に、アメリカにおける進化論に関する問題について説明しておく必要がある。アメリカはユダヤ・キリスト教の信者が非常に多い。以前からアメリカは非常に宗教心の強い国だと書いているが未だに旧約聖書の「創造説」を文字通り信じている人が少数とはいえ結構な数居るのである。そういう人たちは進化論を受け入れることは神への信仰を捨てることにつながると誤解している。
困ったことに無神論者で科学作家のリチャード・ドーキンスなどが、進化論に代表されるように科学と信仰は相容れないと断言してしまっていることから、本来ならば対立する理由のない進化論受け入れ側と創造説側の二つのグループが不必要な争いを行う結果となっている。
しかし創造説側は最近、といっても20年くらい前だが、科学説である進化論に打ち勝つためには、旧約聖書を持ち出してきてもそれは宗教だと片付けられてしまい、説得力がないことに気がついた。そこで彼らは創造説に科学的根拠があることを説明するために新たに「インテリジェントデザイン(ID)」という説を紹介した。
これは自然哲学で神の存在を証明する論理としてウィリアム・ペイリーの「盲目の時計職人」という説をもとにしている。複雑な構成を持つ時計が荒野に落ちていたら、それを作った時計職人がどこかに存在するように、他の複雑な実態も意図的に作った誰かが存在するはずだという理論である。地上に存在する生物、特に人間は、あまりにも複雑すぎる生体であり、誰かの意図的な設計なくしては説明できないというわけだ。無論この理論にはかなり穴があいているが、ベン・スタインの映画はこの理論を元にしている。
Expelled…はマイケル・ムーアも真っ青になるほど不公平で理不尽な構成になっている。先ず映画は冒頭のテーマソングでベルリンの壁を映し、東側の共産主義が進化論側で西側の自由主義がID側であると象徴。
スタインは進化論説者をダーウィニストと呼び、あたかも進化論がダーウィンという教祖によって創設されたカルトか何かのような表現をしている。しかも進化論を受け入れたら単に無神論者になるだけでなく、ユージェニクスを推進したナチスや共産主義者になるとさえ示唆しているのである。
これほど根拠もなく相手側を侮辱するやり方もないだろう。私は保守派評論家としてスタインのことはこれまで尊敬していたが、今回の映画を見てその卑怯なやり方に非常に失望した。根拠も示さずに感情のみに訴えるなら、左翼やリベラルと何の変わりもない。スタインはムーアより頭がいいだけ質が悪い。
スタインのやり方が卑怯な例のひとつとして、スタインはドーキンスのような進化論説者のなかでも過激な無神論科学者だけを集めてきて、「神など存在しない」と何度も繰り返させる。スタインは敬虔なクリスチャンであり克つ進化論を受け入れている遺伝子学の第一人者であるフランシス・コリンズのような科学者がいるにも関わらず、そういう人を一人も紹介しない。
映画の中でも進化論と宗教は矛盾しないと唱える人を紹介しておきながら、その人たちがどういう説を持ってして矛盾でないことを説明しているのかを紹介せず、あたかも彼らが信仰者をだまして進化論を受け入れさせようとしているかのようなコメントを入れている。皮肉なことにその一番の手助けをしているのが、進化論を信じる者は無神論者であると言っているドーキンスなのである。
はっきり言ってドーキンスのような無神論者とスタインのようなID論者は一つの硬貨の二つの顔だと言っていい。
科学を信じたら神を信じられないなど一体誰が決めたのだ?種の進化という真実を学ぶことによって神の力を信じられなくなるなどと本気で信じるなら、スタインこそ神への信仰に自信がない無神論者なのではないか?彼の信仰とはそんなにも軟弱なものなのか?
私は神の存在を信じる。科学を学べば学ぶほどその神秘さに驚嘆しない科学者はいないだろう。これこそ偉大なる神の創造であると信じることに何の無理があるというのだ?種族の進化こそ神の設計であると考えれば進化論と創造説に矛盾はない。何故ここに無意味な矛盾を見いだす必要があるのだろうか。これこそ信仰者を科学的に無知にしておきたい無心論者の陰謀を感じるのは私だけだろうか?
ところで、小山エミが無神論者たちが、無神論という宗教の信者になってしまっているのではないかと書いているがそれはかなり的を射ていると思う。
無神論者たちのふるまいは、信仰者のそれと何ら変わらないのではないかーーすなわち無神論者たちは、無神論という新しい宗教の信者であり、その他の宗教の信者と本質的に何ら変わらないのではないかーーという問いかけは、多くの人が直感的に感じるものだ。…
…ユートピア思想と選民思想(自分たちこそ最も優れた人間であるという思い込み)は、わたしが参加しているグループにおいても頻繁に感じた。かれらから見れば、宗教を信仰している人はそれだけでかれらより非理性的であり、冷笑するしかない対象なのだ。このままいくと、迷える子羊=信仰者を救うために無神論の布教活動でもはじめかねない。
進化論専門の科学者のなかに無神論者が多いことは確かだが、無神論を唱えるひとが必ずしも科学的な考えに基づいて無神になったというわけではない。進化論進化論と大騒ぎして創造説を馬鹿にする人々の間でも進化論が科学的に証明されているという事実だけを鵜呑みにしてその科学的な学説を何も理解せずにまるで信仰のように受け入れている人々がどれほどいることだろう。つまり、進化論そのものが信仰となっている人々が無神論を唱える人々のなかに少なからずいるのだということも念頭に置いておく必要がある。
科学は真実を求めるものにとってすばらしいものである。だが科学は中立だ。科学は道徳的判断を下さない。それを見誤ると無神論者も創造説者も同じ間違いを犯すのである。
神を信じるか信じないか、進化論では二つに一つの答えは見いだせないのだ。
アップデート: 本文中に引用した小山エミさんがこのエントリーへの返答をこちらでしている。それに対する私の返答はこのエントリーのコメント欄でさせてもらった。
学習力ないハリウッド、「ストップロス」反戦映画がまたも不入り
観てない映画の批評をするのも何だが、映画館で予告編を見ただけで十分にどういう映画かという予想はついたので観にいっていないし、観る気もない。と考えたのはどうやらカカシひとりではなかったようである。
ニッキー・フィンクの週末客入り情報サイトによると、キンペリー・ピアス監督の反イラク映画、ストップロスの売り上げはかなり悪いようだ。
金曜日7番で始まったストップロスの売り上げは8番に下がり、金曜と土曜の売り上げをあわせてもたったの170万ドル。これまでの合計はわずか460万ドルという情けなさ。この映画はMTV Filmsでは今週末一番評判がよかったにもかかわらず、制作会社のパラマウントはあまり期待をしていなかったようだ。パラマウントの重役によると、イラク戦争をテーマにした映画はこれまで成功した試しがないからだという。「イラク戦争の映画なんて誰もみたくないんですよ。どれだけ才能のあるタレントを起用しても、すばらしい予告編をつくってみても、人々は全く興味をもってくれません。これはまだ決着のついていない戦争にたいして市場がこの葛藤のドラマを受け入れる用意ができていないということでしょう。良い映画なので非常に残念です。ちょっと時代に先駆けしすぎているのでしょう。」
アホか!このパラマウント重役はアメリカ市民の軍隊に対する心情も愛国心も全く理解できないらしい。アメリカ人はイラク戦争の映画をみたくないのではなく、アメリカ人がいつも悪役になる戦争映画を拒絶しているだけだ!イラクで英雄として活躍するアメリカ軍人を主役に映画をつくってみろ!ボックスオフィス売り上げナンバー1は間違いない。
一応どういう映画なのかということを説明しておくと、イラクで活躍し英雄となって故郷のテキサスへ戻ってきた主人公は、戦場にいく前の平凡な生活に戻ろうとするが、突然かれの意に反して再びイラクへ呼び戻される。せっかく普通の生活に戻ろうと思っていた主人公の生活はめちゃくちゃになる、、といったもの。
だいたいこの筋の背景からしておかしい。アメリカは志願制なので、赤紙の召集令状がくるわけじゃない。一応特定の年数で契約して入隊するが、年期が切れても時と場合によっては年期が延期されることもあるし、一応正規軍からの除隊はしてもその後しばらくは予備軍として残るので緊急事態が発生すれば呼び戻される。これは軍隊に入隊する人はすべて覚悟の上ですることなので、戦争が続いている以上、また呼び戻される可能性はいくらでもある。軍人は戦争をするのが仕事なのだから、そんなこと当たり前ではないか。そんなことでいちいちひっくりかえっていては軍人など勤まらない。
私はイラクへ二回行き、三回目の出動が決まっている海兵隊員と話をしたことがあるが、イラクでの体験はどういうものだったかという私の質問に対してかれは、「よかったですよ。文句をいうことは何もありません。」と笑顔で答えていた。
イラクに呼ばれる可能性がかなり高い陸軍予備軍で軍医をつとめている若い男性と、イラク出動の可能性について話したときも、「命令が出ればいきますよ。任務ですから。」とたんたんとした口調ではなしていた。
自分は除隊しいまや予備軍にいて、二番目の子供ができるのを待っていた同僚の海兵隊員はイラク戦争そのものには反対だったが、「もちろん呼ばれれば行くよ。マリンだからね。」と語っていた。
つまり、私の周りにいる軍人でイラクにいきたくないよ〜、やだよ〜、とやってる人は一人もいないってことだ。うちの職場では自分の息子がイラクに行っていると自慢げに写真を同僚に似せて回るおやじさん達は何人かいるが、、、
ところで面白いのは、フィンクのサイトに寄せられたコメントだ。フィンクはこの映画だけでなく、ほかにもいくつか映画を紹介しているのに、700以上も寄せられたコメントはほとんどがストップロスに関するものばかり。しかもその意見はほとんどがカカシと同じ。下記はその一部。
反戦プロパガンダばかり作くるのをやめれば観客はみにいくようになるよ。スタジオの奴らにそんなことがわからいってのは本当に驚きだね。損失続きなのに同じような反戦映画を包装しなおして作り続けるハリウッドにはあきれるよ。—ジョー
ハリウッドが今製作する「戦争」映画をみたら、ジョン・ウェインは草葉の陰で泣いているだろうよ。もし彼が生きていたらハリウッドのばかどもに一発かましているところだ —ジェフ
ストップロスだって?今頃なにいってんだ?1950年代の初期の兵役は朝鮮戦争のおかげで、みんな一年以上のばされた。1952年になって多少延期が減り、自分の任期は1952年の8月16日のはずだったが、実際に除隊したのは11月のことだった。なんて情けない泣き虫どもだ。—Jpjm
このようなコメントをハリウッドの重役や監督たちはどう受け止めるのだろう。ま、多分馬の耳に念仏で、保守派のアホどもがなにをぬかすか。映画作りの複雑さを理解していない田舎者のいうことなど聞く耳持たん、てな調子だろう。彼等は典型的なバカサヨなので(久しぶりにこの言葉をつかったな)自分らは無知でバカな観客を教育してやらなければならないというナルシシストな使命に燃えている。だからいくら作る映画作る映画が不入りでも、こりもせずにプロパガンダ映画を作り続けるというわけだ。
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きょうはディズニー映画のEnchanted (放題は「魔法にかけられて、日本公開は来年の3月)を紹介しよう。
これはおとぎの国のお姫さまや王子様が現在のニューヨークへ送り込まれたらどうなるかというお話。おとぎの国にいる時は登場人物はすべてアニメーションだが、マンホールを通じてニューヨークへ訪れるとすべて実写になってしまう。
物語はおとぎ話のある王国を支配する魔女のナリサ王妃(スーザン・サランドン)が、継子のエドワード王子(ジェームス・マースデン)が結婚したら自分から支配者の権限を奪い取るのではないかと心配しているところから始まる。王妃の心配をよそに王子は怪物退治中に森で出会ったジゼル姫(エイミー・アダムス)に一目惚れしてしまう。木から落ちるところを王子に救われたジゼル姫も翌日結婚しようという王子の言葉を当然のように受け入れ、二人は永遠の愛を歌いながら白馬に乗って城へ向かう。これを魔法の鏡でみていた魔女の王妃はジゼルを騙して21世紀のニューヨークへ送り込んでしまう。それを知ったエドワード王子は従僕のナタニエル(ティモシー・スパル)とチップモンクのピップと一緒にニューヨークへジゼル姫を救うべくやってくる。
現実の社会でジゼル姫が出あう人々は、おとぎの国の人々のように親切ではない。城の絵が描かれた看板によじ上って落ちそうなところを通りがかりの子持ち弁護士ロバート(パトリック・デンプシー)に救われたジゼル姫は「私がこれまであった人たちは、あまり善いひとたちではありませんでした。」と言う。皮肉たっぷりに「ようこそニューヨークへ」と言うロバートの言葉に純粋に「ありがとう」と答えるジゼル姫に何かを感じるロバート。
この手の映画ではおとぎ話の道徳観をおちょくるものが多いが、この映画ではジゼルの純粋な感情をおちょくる気配は全くない。それどころかジゼル姫の誠意が一見シニカルにみえるニューヨーカーの心を動かす。それというのも、ニューヨークにきて実写になってるジゼル姫はおとぎの国にいた頃の不思議な力を失っていないからだ。姫が森で白雪姫さながらに鳥や動物たちをソプラノの声で呼び寄せる力はニューヨークの高層ビルからでも鳩や溝鼠やごきぶりに通用するし、ロバートが5年間つきあっている恋人のナンシーに最近愛していると言っていないという言葉に「言わなければ、彼女はあなたに愛されているとどうしてわかるの?」と言って歌い出すシーンでは、姫の歌声に魅せられてセントラルパークにいる普通のニューヨーカーがつられて歌い出し道路工事現場の労働者が踊り出したりして大規模なミュージカルナンバーになってしまう。
現実の社会に住むロバートは、離婚専門の弁護士で醜い離婚裁判をさんざんみせつけられ永遠の愛など信じていない。だからエドワード王子との愛を語るジゼル姫もどっかねじがはずれたかわいそうな女性くらいにしか考えていない。しかし前妻に逃げられて男手一つで6歳のモーガン(レイチェル・コーベイ)を育てるロバートは現実の愛に失望しているとはいえ決して悪い男ではない。それどころかおとぎ話の理想を追い求めて娘のモーガンが傷付くのを恐れている娘思いの父親なのだ。この当たりがサンタクロースなど信じるなといっていた34丁目の奇跡の母親に似ている。ロバートがシニカルなのは傷付くのを恐れるためだ。
さて、ロバートにジゼル姫がすくわれたとは知らないエドワード王子は一足遅れてニューヨークへやってくるが、ハンサムで誠実で勇気満々だがおつむの方は空っぽなのでやることが完全にとんちんかん。自分の婚約者をニューヨークへ送り込んだのがまま母であることも、従僕にみせかけているナタニエルの醜い本性も見抜くことができないで、やたら勇気を振り回して歌いだすから厄介だ。
だが、この王子を憎めないのは、彼のやることには全く裏腹がなく常に誠実だということだ。この王子を演じているジェームス・マースデンは確かヘアースプレイでもきれいなだけ軽薄な男を演じていたが、不自然に美形なだけにこの手の役が似合うのかもしれない。
ロバートがジゼル姫から永遠の愛が存在することを教えられるのと同時に、ジゼル姫もまたロバートのおかげで恋に落ちるということは、単に美男美女が白馬にまたがりながら愛の歌を歌うことではないのだと学ぶ。
物語の結論はおとぎばなしのように予測は付くが、それでも終わったときに感激の涙と笑顔で、「めでたし、めでたし」とつい拍手喝さいを送りたくなってしまう映画だった。
予告編の域を出ない「ライラの冒険、黄金の羅針盤」
日本では三月半ばに公開されることになっているファンタジー映画、Golden Compass, 邦題「ライラの冒険、黄金の羅針盤」を観てきた。日本語の予告編はこちら。
ミスター苺が原作のライラの冒険を読んで非常に気に入ったので、映画にも期待を寄せていた。しかし、こんなことはいいたくないがちょっと失望したというのが本音である。
この映画の原作はフィリップ・プルマン著の同題の小説三部作の第一部にあたる。あらすじを説明したいのだが、複雑すぎる上に説明不足でいったい何がなんだかさっぱりわからないというのが正直な印象だ。
***あらすじ****
私なりに映画を見ただけで理解したあらすじを述べるならば、先ずこの世界には似通ってはいるが少しづつ違う多数の次元が存在するという設定だ。この映画の舞台となっている次元では人々の魂がディーモンと呼ばれる動物の形をして体の外に現れる。このディーモンは精神的にも肉体的にも母体である人間と深く結びついており、動物の形をしているとはいえ母体の人間と普通に会話を交わすことができる。ディーモンが傷つけられれば人間も傷付き、人間とディーモンが切り離されると母体の人間は魂の抜けたごとく恍惚の人となってしまう。
この世界を統治しているのは中世ヨーロッパのカトリック教会さながらのマジェスティリアンと言われる組織である。マジェステリアンは人々の私生活から思想にいたるまで細かく支配している。
主人公のライラ(ダコタ・ブルー・リチャード)は、物心ついた時から大学に預けられて教育を受けている多感な少女である。ちまたでゴブラーと呼ばれる怪しげな組織に子供たちが次々と誘拐されているという噂を耳にしても、ライラは親友のロジャー(ベン・ウォーカー)に「あんたがさらわれたら絶対助けにいってあげる」と断言できほど決断力も勇気もある少女だ。
ライラの保護者であるアスリアル伯爵(ダニエル・クレイグ)は冒険家でしょっちゅう危険な場所を旅しているが、今回は北極において別の次元への糸口となるダスト(埃)と呼ばれる不思議な現象を発見したと大学の教授らの前で発表する。伯爵はこれをさらに研究するため大学から研究資金を出してもらうべく帰国して嘆願する。しかし別次元の窓口への研究は自分達の権力に脅威を及ぼすと考えるマジェステリアはこの伯爵の研究に懸念を抱く。
マジェステリアの意向に背き、伯爵に研究資金を提供した大学の学長(ジャック・シェファード)だが、危ないからと伯爵には置いてけぼりを食ったライラを、自分の助手にして北極探検旅行につれていきたいという不思議な女性、コルター夫人(ニコール・キッドマン)の要請を断ることができない。学長はライラに夫人を「学校の友人」として紹介するが、その口ぶりから何らかの形で夫人が大学の方針にかなり口出しできる権力者であることがわかる。
もともとアスリアル伯爵について北極旅行をしたいと思っていたライラはこの機会に飛びつく。夫人と旅立つ前夜、学長はライラに「真実を示すものだ」として黄金の羅針盤を渡す。この黄金の羅針盤がライラの人生を大きく変えることになろうとはこの時のライラには知る由もなかった。
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とまああらすじはこの程度にしておこう。予告編を見てもらえばわかるが、後にライラはコルター夫人と別れて北極での冒険にディーモンを持たないが人間と同じ頭脳を持つ鎧を着た白熊を雇ったり、マジェステリアを敵にまわしているジプシャンといわれる地下組織の仲間になったりして冒険を繰り返す。コンピューターアニメーションで描かれているシロクマの声は「ロードオブザリングス(LOTR)」でガンダルフを演じたイアン・マケオンの声だ。またマジェステリアのリーダーとして、シェークスピア役者のデレック・ジャコービが顔を出すが、その会議の席に座っている幹部の役柄でカミオ出演しているのは同じくLOTRでサルマンを演じたクリストファー・リー。魔女役で登場するのは先の007のボンドガール、エバ・グリーンと、豪華絢爛な配役なのだが、映画そのものの出来はというといまひとつ物足りない。
まず原作ではこれが三部作の一部目なので、話が完結しないのはしょうがないのだが、映画としては三部作だといって作っていない限り、一応話しの筋がまとまるようにしておくべきだ。冒険が次に続くのはかまわないのだが、一応この冒険はこれで終わりという一段落をつけてもらいたい。
第二に、この映画の主題はいったい何なのかがわからない。最初にこの世界以外に別の次元があるというナレーションが入るわりには、その筋がいまひとつ煮つまらない。どうして別の次元との交流があると現次元の支配者が困るのか、どうしてアスリエル伯爵はそんなに一生懸命別の次元に行きたいのか、そのへんの説明がほとんどない。
また子供が何者かによって拉致されているという話も、ライラは子供たちを救う目的で冒険を始めたというより、たまたま冒険に出合ったという感じで、どうして彼女が危険を承知で冒険に出かけるのかその動機がどうも頼りない。
人間とディーモンとの深いつながりが充分に説明されていないため、どうして子供をさらって組織がその関係に拘っているのかよく理解できない。
それに非常に大事なものだとして渡された黄金の羅針盤が、あまり活躍しないし、ライラがしょっちゅう眺めている割にはこの羅針盤がどういう意味を持つのか、ライラが学ぶ過程がまったく描かれていない。またライラがこの羅針盤を解読できるのは、ライラがこの世界で言い伝えられている不思議な才能を持つ魔女だからではないのか、という話も尻切れトンボになっている。
つまり、この映画は登場人物と、この次元の仕組みを説明するだけで終わってしまっており、なにやら二時間に渡るなが~い予告編をみさせられた感じがした。いったい何時になったら肝心の話が始まるのだろうと思っているうちに映画は終わってしまった。
人気が出たら、二部三部と続けるつもりだったのだろうが、週末の入りはかなり悪かったらしいから続編は無理だろう。
悲劇的な封切り、ディパルマ監督の反米映画「リダクテド」
このあいだも反戦映画が不入りなのはなぜか?でも書いたが、アメリカで次々に公開されている対テロ戦争への批判メッセージを多分に含んだ反戦映画が全く人気がない。しかしその中でもアメリカ兵がイラク少女を強姦しその家族を惨殺するという話を描いたブライアン・ディパルマ監督の「リダクテド」には観客は全く近寄らない。ニューヨークポストによれば、封切りの週末の売り上げ成績はなんとたったの$25,628、全国でこの映画を見た人はたった3000人という計算になる。 これは興行上まれにみる大惨事となった。プロデューサーのマーク・キューバンはディパルマに経費だけで売り下げたいと提案したが、周到なディパルマは断った。
映画評論家のマイケル・メッドビッドは「私が見たなかで最悪の映画」と批判。…「Aリストの映画監督、大規模な宣伝、タイムス、ニューヨーカー、左よりのサローンのようなサイトなどでの高い評価にもかかわらずです。もっと少ない劇場で公開されたジョー・ストラマーのパンクロックバンド、クラッシュのドキュメンタリーの三周目より少ない客入りです。」とある映画関係者はメールで語った。「映画の反戦テーマに賛成してるひとたちですら観にいく努力をしなかったということになります。」
反戦だからといって反米とは限らないと私は何度も強調しているのに、まだ映画関係者は分からないらしい。
私が心配するのは、アメリカ国内でこのような映画がいくら不人気でも、これが諸外国で公開された場合の悪影響である。特に言論の自由のないイスラム諸国では、真実でない背信映画を国が政策を許可するはずがないと考える。だからこのような映画がアメリカ人の手でつくられたということは真実に違いないと勘違いしてしまう可能性が高い。それでなくてもアメリカへ嫌悪の意識が高いこれらの国へ、アメリカ人自らの手で反米プロパガンダをつくることの愚かさ。これでテロリストへの志願者が増え、アメリカ人が一人でも多く殺されたら、彼等の血はマーク・キューバンとブライアン・ディパルマの手に塗られていると自覚してもらいたいものだ。
反戦映画が不入りなのはなぜか?
私が好きな映画のひとつに第二次世界大戦中につくられたフォロー・ザ・ボーイズという映画がある。これはユニバーサルスタジオのオールスターキャストの映画だ。筋自体は非常に単純で、戦争当時に兵士慰問の目的で組織されたUSOの成り立ちの話だ。主役の興行師がどうやってハリウッドのスター達を集めて慰問公演を実現するに至ったかという話に沿って戦地での慰問公演に積極的にスター達がボランティア活動をしたという筋立てになっている。主な役柄以外の出演者達はすべて本人として出演し、スターが出てくるたびに歌ったり踊ったり手品をやったりする。当時はハリウッドスタジオはどこもこういう映画を作ったが、要するに戦地で慰問公演を直接見られない兵士らのために、人気スターたちを集めたもので、筋そのものはどうでもいいようなものである。
とはいうものの、それはさすがに昔のハリウッドだけあって、そんな映画でも結構まともな筋になっている。それに人気スターたちが自分らの身の危険も顧みずに戦地への慰問を積極的におこなった姿勢が出ていて、ハリウッドがこんなに戦争に協力してくれるとは本当にいい時代だったなあとつくづく感じるような映画である。
それに比べて現在のハリウッドときたら、戦争に協力して軍人を慰めるどころか、反戦が講じてアメリカ軍人やアメリカ政府を悪く描く映画しか撮らない。
ここ最近、連続してイラク戦争や911以後のアメリカの対テロ政策に関する映画が公開されたが、どれもこれも不入りで映画評論家からも映画の娯楽価値としても厳しい批判を浴びている。下記はAFPの記事より。
CIAの外国へテロ容疑者の尋問を外注する政策を描いたリース・ウィザースプーンとジェイク・ギレンハール(Reese Witherspoon and Jake Gyllenhaal)主演の「レンディション( “Rendition”)」は売り上げ1000万ドルという悲劇的な不入りである。
オスカー受賞者ポール・ハギス監督のイラクで死んだ息子の死について捜査する父親を描いた「インザ・バレーオブエラ(”In the Valley of Elah”)は、 いくつか好評を得たが9月公開以来売り上げが9百万ドルにも満たない。
アクションを満載したジェイミー・フォックスとジェニファー・ガーナー(Jamie Foxx and Jennifer Garner)主役の「ザ・キングダム(”The Kingdom”) ですら、4千7百万の予算をかけたにもかかわらず、売り上げが7千万を切るという結果になっている。
こうした映画の不人気は公開予定のロバート・レッドフォード監督の「ライオン・フォー・ラムス」やアメリカ兵によるイラク少女強姦を描いた「リダクテド」の売り上げも心配されている。どうしてイラク戦争や対テロ戦争関連の映画は人気がないのかという理由についてAFPはムービードットコムの編集者ルー・ハリスにインタビューをしている。
「映画には娯楽性がなくちゃいけません」とハリスはAFPに語った。「反戦だとか反拷問だというだけの映画をつくって人があつまるわけがありません。」
ハリスはまたイラク戦争そのものが人気がないので、人々の関心を集めることが出来ないとも語っている。AFPはさらに、イラク戦争や対テロ戦争は第二次世界大戦と違って凶悪な敵がはっきりしないため、人々が興味をもって映画を見ようという気にならないのではないなどと書いている。(テロリストが悪いという判断が出来ないのはハリウッドとリベラルだけだろうと私はおもうが。)テレビニュースで戦争の話をいやというほど聞かされている観客は映画でまで戦争について観たくないのではないかなどと色々な理由をあげて分析している。
しかしAFPが無視している一番大事な点は、これらの映画がすべて反米だということだ。ハリウッドのリベラルたちの反戦感情は必ずしもアメリカの観客の感情とは一致していない。映画の観客の多くは自分が軍人だったり家族や親戚や友達に軍人がいるなど、軍隊に関係のある人が多いのである。そうした人々が、アメリカは悪い、アメリカ軍人は屑だ、イラク戦争も対テロ戦争も不当だという内容の映画をみて面白いはずがない。これはイラク戦争や対テロ戦争が国民の支持を得ているかどうかということとは全く別問題だ。また、戦争に反対だったり戦争の状況に不満を持っている人々でも、彼らはアメリカ人なのである。アメリカ人が金を払ってまで侮辱されるのが嫌なのは当たり前だ。しかしハリウッドの連中は自分らの殻のなかに閉じこもって外の世界を観ようとしないため、これらの映画がどれほど不公平で理不尽なものかなどという考えは全く浮かばないのだろう。
私はアフガニスタンやイラク戦争について現地からのニュースをかなり詳しくおってきたが、これは映画の題材としては完璧だなと感じる記事をいくつも読んできた。アメリカの観客がみて胸がすっとしたり、ジーンと来るような話はいくらでもある。たとえば先日も紹介した「ローンサバイバー」などがいい例だ。これはアメリカのアフガニスタン政策の落ち度を指摘する傍ら、アメリカ兵の勇敢さを描いた話になっている。他にもアメリカ兵が地元イラク人と協力してつくった病院とか学校が残虐なテロリストに爆破される話とか、テロリストによって苦しめられてきた地元イラク人がアメリカ兵の勇敢な姿に打たれてアメリカ軍と協力してテロリストと戦うようになった話とか、イラク兵養成学校でイラク兵を育てるアメリカ兵の話とか、いくらでも説教抜きでイラク戦争やアフガニスタン戦争をテーマにした愛国主義の映画を作ることは可能なはずだ。
ところでローンサバイバーは映画化される予定になっている。監督がキングダムのピーター・バーグなのでどういうことになるか、かなり心配なのだが、もしもバーグが原作の精神に乗っ取った映画をつくることができたとしたら、この映画の人気次第でアメリカの観客が戦争映画に興味があるのかないのかがはっきりするはずだ。もしもハリウッドの評論家たちがいうように、最近の戦争映画に人が入らない理由がイラク戦争に人気がないからだとか、ニュースでみてるから観客があきあきしているというような理由だとしたら、ローンサバイバーも不人気かもしれない。だがもしもこのアメリカの英雄や親米なアフガニスタン人の話が売り上げ好調だったら、観客は反米映画が嫌いなだけで、戦争映画がきらいなのではないということがはっきりするだろう。
なんにしても、この映画の出来具合と人気次第でハリウッドもなにか学ぶことが出来るはずだ。
現代の無声映画、ミスタービーンお仏蘭西を行く!
う〜ん、映画の邦題をつくるっていうのは非常に難かしいものだ。ミスタービーンというキャラクターを知らないひとにこれがコメディだということを題名だけで知らせるにはどうしたらいいのだろう?
ミスタービーンの珍道中!、ミスタービーンのそこ抜け休暇、ミスタービーンいざカンヌへ、
なんだかどれも古くさいなあ。
****アップデート! (2007年11月27日現在)Mr. Bean’s Holidayは 「ミスタービーン、 カンヌで大迷惑?!」の邦題で2008年1月18日に日本で公開されることになりました。*****
ミスタービーンといえば、1990年から1995年にかけてイギリスのテレビで放映された一回完結編で30分もののコメディ番組。伝統的なスラップスティック(どたばたコメディ)で会話はほとんどない。1920年代の無声映画をそのまま現代に持ってきたような構成で、言葉が分からなくても見てるだけで笑ってしまう傑作シリーズ。
1997年にアメリカ映画になったが、これはハッキリ言って失敗作だった。それというのも、ミスタービーンというキャラクターに親しみのないアメリカの観客のために、ミスタービーンがアメリカの家族を訪れるという設定で、テレビのエピソードで面白かった部分を無理矢理筋にあてはめて紹介するという形がとられていたからだ。
ミスタービーンの魅力は彼の個性的な宇宙人のような不思議な行動にあるのであって、込み入った筋にあるのではない。彼のコメディはそのまま1920年代の映画館へ持っていっても十分に通じるビジュアルなコメディであり、ミスタービーンを演じるローウェン・アトキンソンは世が世ならチャーリー・チャプリンや、バスター・キートンのような大スターになっていたことだろう。
そういう点で今度の新作、ミスタービーンズホリデー(Mr. Bean’s Holiday)はミスター・ビーンの原点にもどったどたばたコメディで、ミスタービーンの精神が生きていて笑いが止まらない。
先ず舞台がフランスになっているところが賢い。ミスタービーンはあまり会話を交わさないのがミソなので、外国で言葉が通じないというのは格好の設定である。明らかにこれはフランス映画のジャック・タティ主演のムッシュ・ユロの休暇、(Les Vacances de Monsieur Hulot)を意識して作られたものだろう。ムッシュ・ユロでも映画のなかで台詞はほとんどといっていいほどなかった。長距離列車駅のプラットフォームで構内放送が聞き取れずにとまどう観光客の様子はどこの国も同じだなと笑った覚えがある。
映画のあらすじといっても、特にこれといった筋はない。ミスタービーンが協会のくじ引きでフランスはカンヌの浜辺を訪れる旅行を勝ち取る。後はミスタービーンが長距離列車にのってフランス国内をカンヌの浜辺目指して旅をするという設定。もちろんミスタービーンのことだから、普通の旅にはならない。誰でも旅行中に体験したことのあるごく普通の状況をミスタービーン風にどうやって乗り切っていくか、そこにローウェン・アトキンソンならではの冒険がある。
例えば、列車の待ち時間に入ったレストランでフランス語のわからないミスタービーンは知ったかぶりして自分の嫌いな生ガキや甘エビを注文してしまう。それをどうやってウエイターに軽蔑されずに食べるのかに悩むミスター・ビーン。
列車に乗る前に自分の姿を写真に撮ってくれといって、他人の迷惑も顧みずにコーヒーを両手に持ってる男性に無理矢理写真を撮らせるミスタービーン。
電話をかけるためにお財布や地図や切符を公衆電話の受け代においたミスタービーンだが、、
バスに手いっぱい荷物をもって口に乗車券を加えているミスタービーン。行く先はどこかと運転手に聞かれて思わず口を開けると乗車券が風に舞い上がり、、、
とまあ、ミスタービーンのテレビ番組を見たことのある人ならこれがどのようにおかしなシーンになるかご想像がつくことだろう。しかし、ミスタービーンを全くご存じない方々でも、この映画をみればいっぺんにミスタービーンのファンになること間違いなし。
ミスタービーンは旅の途中で色々な人に迷惑をかけるが、特にひょんなことから一緒に旅をすることになったロシア人のステパン少年(Max Baldry)との掛け合いが面白い。ステパンはこまっしゃくれた憎たらしい子供でもなければ、不自然に可愛い子供でもない。ごくごく普通の男の子で好感がもてる。何度もいうようにミスタービーンの魅力は込み入った会話にあるわけではないので、ミスタービーンがフランス語が分からないことや、ロシア人のステパンとは全く言葉が通じないのでなんでも身ぶり手ぶりで意志の伝達をしなければならないところが面白い。特にお財布をなくした二人がお金を稼ぐために路上芸人さながらの口パクをプッチーニのトスカにあわせてやるところは床に転がるほどおかしかった。
ところで、込み入った筋はないと最初に書いたが、映画の冒頭で何気なく出会う人々が、最後のほうで非常に大切な役割を果たす。駅へ向かう途中で出会うエゴイスティックなアメリカ人映画監督の役でウィレム・デフォー(Willem Dafoe)もその一人だ。デフォーのようなまじめな俳優でもミスタービーンの前ではたじたじである。
この映画、世界中で大ヒットを遂げているのに、なぜかアメリカでは興行成績いまひとつ。パントマイムは世界の言葉のはずなのに、なぜだろう?
流れ星を追いかけて、、夢を追う、スターダスト
10月下旬からロードショーのスターダストを一足先に見てきた。(日本語版オフィシャルサイトはこちら。)
これはまるでおとぎ話そのもの。魔女にさらわれて鳥に変身させられたお姫さま。そのお姫さまに恋した村の若者。飛行船に乗った盗賊。魔法の国の王位を狙って殺しあう王子たち。永遠の若さを求めて流れ星の命を狙う魔女の姉妹、、、しかもシュレックのようにおとぎ話をおちょくっているのではなく、素直に誠実におとぎ話を語る映画である。
物語は聞き覚えのある、指輪物語でガンダルフを演じたイアン・マケランの語りではじまり、舞台は19世紀のイギリスにある田舎。この村の端には万里の長城みたいな長〜い壁が建っている。イギリスへ行くとヘイドリアンの壁というローマ時代の壁の遺跡があるが、それが周りの住民によってレンガを盗まれる前ならこういう感じだったのかなという古い壁だ。だがこの村の壁は普通のイギリス社会と魔法の国とを隔てる壁である。
ある日、村の若者ダンストン(ベン・バーンズ、Ben Barnes)は好奇心にかられて番兵(デイビッド・ケリー、David Kelly)の隙をついて壁の隙間から向こう側の魔法の国へ渡る。そこには世にも不思議な品物ばかりが売られている市場があるのだが、ダンストンはそこで美しい花売り娘のウナ(ケイト・モガワン、Kate Magowan)にであう。娘は自分は実はお姫さまで魔女にさらわれて奴隷となっているのだと言う。ウナの足首につながっている紐はダンストンのナイフで切ってもすぐに元に戻ってしまう魔法の紐。「君を解放できないなら、僕に何かできることはないのか?」そう聞くダンストンににっこり笑って手招きをするウナ。
9か月後、一日の冒険をすっかり後にして村で元の生活をしていたダンストンの元に、かごにはいった赤ん坊が届けられる。壁のたもとにダンストン宛の手紙と共に置かれていたというのである。ここでダンストンが何の抵抗もせずに子供を受け入れるのはおかしいとか、独身男性がどうやって赤ん坊を育てたのだろうかとか、深く考えないのがおとぎ話のいいところ。
そして十何年という月日がたち、この赤ん坊トリスタン(チャーリー・コックス)Charlie Coxは父親のダンストン(ナタニエル・パーカー、Nathaniel Parker)が壁を超えた時と同じくらいの年となる。実は映画の本筋はここから始まる。
正直な話、私はここでがっかりした。それというのもダンストンの若い頃を演じたベン・バーンズはとってもハンサムで魅力的だったので、てっきり彼が主役だと思っていたのに、最初の数分で出番が終わってしまい、それにひきかえ息子役のトリスタンを演じるコックスはパッとしないおよそ冒険映画の主役には向かない顔つきに見えたからだ。
ところで余談だが、バーンズのプロフィールを読んでいたら、2008年公開予定のナルニア物語の続編でバーンズは主役のキャスピアン王子を演じるらしい。これは非常に楽しみ。
さて、トリスタンは村の美少女ビクトリア(スィエナ・ミラー、Sienna Miller)に夢中。結婚を申し込むが村の金持ちの息子ハンフリー(ヘンリー・カビル、Henry Cavill)に興味のあるビクトリアには相手にしてもらえない。そこでトリスタンはビクトリアの誕生日の一週間後までに壁の向こう側に落ちた流れ星を拾ってかえってくると約束して、魔法の国へと出かける。
しかしトリスタンが魔法の国でみつけた流れ星とは、なんと天から落ちてきた美しい娘Yvaine(クレア・デインズ、Claire Danes)だったのである!
この流れ星を巡って魔法の国でどのような冒険が待っているのかという話は映画を見てもらうとして、この魔法の国で出会う魔女ラミア(ミッシェル・ファイファー、Michelle Pfeiffer)役のファイファーはすばらしい。彼女は40代後半のはずだが、なんとまあ美しい。競演の若い女優たちと比べても飛び抜けて美人だ。もっとも彼女の魅力はその美しさもあるが、彼女の存在感にあるといった方がいいだろう。
この映画は全体的にコメディタッチで進むが、テーマはトリスタンがうだつのあがらない一介の少年から、多々の冒険を経て大人になっていくというものだ。トリスタンが全くぱっとしないと第一印象を受けるのは意図的なもので、彼は映画が進むにつれて魅力的な男性へと変ぼうしていく。しかしそれにしては一週間という時間は短すぎて無理があると感じた。全く同じ筋で一年後の誕生日までに流れ星を持ってかえってくるとした方がおとぎ話としては自然だと思う。

スターダストのポスター
途中で出会う海賊のシェークスピア船長(ロバート・デニーロ、Robert De Niro)を演じるデニーロだが、ファイファーと違ってデニーロはちょっとミスキャストではないかと感じた。これは演出の問題もあるが、デニーロ自身がどうもこの役柄にしっくりこないぎこちない演技なのだ。これだけの名優でも苦手な役柄というのはあるものなのだろう。
最近のハリウッド映画では、こういうファンタジーの世界で、しかもコメディだと、時代感覚をやたらに現代風にして、おとぎ話をばかにした態度をとることが多い。19世紀の世界なのに21世紀風の言葉使いをしたり、現代風の価値観がはいったりすると、完全に夢が破れてしまう。しかしこの映画に限ってそういうことは全く起きない。
また、私は魔女たちの魔法の力に限界があるという点がとても気にいった。よくSFとかファンタジーの世界では普通の世界とは違うというだけで、何の規則も限界もないと考える人がいるが、実はそうではない。幻想の世界にもそれなりの限界が必要である。そうでなければ魔法使いはどんな場合でも破壊されない無敵の存在となってしまい、危機感も何もなくなってしまうからだ。この世界に登場する人々は皆それぞれ不思議な力をもってはいるが、個々の力にはそれぞれ個性があり、出来ることと出来ないことがある。だからこそ流れ星を巡って色々な争いが生じるのである。
おとぎ話はえてしてカラフルな脇役におされて、美男美女の主役の影が薄れることが多いが、トリスタンと流れ星の関係は面白い。流れ星役のデインズは女性であることを忘れないがか弱いだけのお姫さまというイメージからはほど遠い。しかし人間ではないのだからこれも納得がいくというもの。
おとぎ話の世界で夢を追いたい人にはぴったりの映画。ぜひお勧め!
最初のほうでピーター・オトゥールのカミオ出演がある。