現実逃避が出来ない安全を求める新世代ロッキーホラーピクチャーショー

ロッキーホラーピクチャーショーといえば、1970年代のカルトクラシック。元々はイギリスの舞台ミュージカルだったのが1975年に映画化され大ヒット。作曲家のリチャード・オブライアン(舞台版脚本家)の歌唱力を始めとし、ティム・カリー、バリー・ボストウィック、スーザン・サランドン、ミート・ローフなど後に大スターになった面々の熱演が印象的であった。その後この映画はカルト映画として親しまれるようになり、毎週末真夜中に上演する零細映画館が全国のあちこちに出没。ファンたちはそれぞれのキャラクターの仮装をするなどして劇場に現れ、キャラクターの台詞に応えて観客が声を合わせて応援の台詞を投げかけるのが慣習となった。多分今でもイギリスやアメリカのあちこちの映画館で同じ光景がくりかえされていることだろう。

さて、今回、フォックステレビ製作の新ロッキーホラーピクチャーショー(ハイライトビデオ)はこの1975年の傑作映画のリメイク。リメイクならリメイクらしく何か新しいものを観客に提供する必要がある。残念ながら迫力満載だったオリジナルに比べ、このリメイクは全体的におとなしすぎて現実味が沸かないという印象を持った。ロッキーホラーのようなファンタジーで現実味が沸かないという批判もおかしいかもしれないが、どうもこの世界にのめりこめないのである。オリジナルで感じたような肌で感じる恐怖と興奮がこのリメイクからは感じられないのだ。

話を知らないひとのためにざっと説明すると、最近婚約したばかりの若い男女、ブラッド(Ryan McCartan)とジャネット(Victoria Justice)は、ブラッドの恩師エベレット・ボン・スコット教授(Ben Vereen )を訪ねにいく途中で大雨のなか道にまよってしまい、挙句に車はパンク。二人は電話を借りられるのではないかと雨のなかずぶぬれになりながらちょっと前に通りすぎた古い城へ向かう。お城の扉を開けて出迎えたのはなにやら薄気味悪い城の使用人リフ・ラフ(Reeve Carney)。お城ではたくさんの奇抜な格好をした客が集まっており、客たちによる激しい踊りが繰り広げられている。怖くなって出て行こうとする二人の前にあらわれたのが世にも不思議な格好をした気違い科学者フランクン・ファーター博士(Laverne Cox )だった。不安ながらも博士に言われるままに二人は城で一夜を過ごすことになるのだが、、、

実はここまで観て私は非常に嫌な予感がした。そしてかなり欲求不満になっている自分を感じた。先ず、全体的に歌手たちの歌声が小さい。ブラッドがジャネットに結婚を申し込むシーンでは、マッカーテンもジャスティスも決して歌が下手だというわけではないのに伴奏の音がやかましすぎて二人の声がよく聞こえない。二人は結婚を決めたことで非常に興奮しているのにその喜びが伝わってこないのだ。
薄気味わるい古びた城の扉をあけて二人を出迎える使用人リフ・ラフ役のリーブ・カーニーは、いくらメイクをしていても元は美形と解るからなのか、オリジナルのオブライアンのような薄気味悪さを全く感じさせない。

城の中に集まっている客たちによるレッツドゥーザタイムワープアガインの踊りも、コーラスの声が小さすぎるし踊りがおとなしすぎる。振り付けもダンサーの技術もオリジナルの時よりかなり高度だ。にもかかわらずつまらないのは、あまりにも整然としているせいでオリジナルのような奇想天外で野生的な雰囲気が出ていないからだ。この踊りはごくごく普通のカップルであるブラッドとジャネットを震え上がらせるような騒然としたものでなければならないのに、なんかみんなでマスゲーム体操でもやってるみたいでつまらない。

そして極めつけはファーター博士のラバーン・コックスが登場する場面。先ずトランスベスタイド(女装男)を演じたティム・カリーの役を、トランスジェンダーのコックスに演らせたのは、はずれだった。コックスはあまりにも女に見えすぎる。ファーター博士はどう見ても男なのに女装して女のように振舞っているというところに不気味さがあるのであって(しかもお世辞にも綺麗とは言い難い厚化粧)、女に見える人間が女の格好をして現れても不気味でもなんでもない。それに歌唱力と存在感抜群のティム・カリーに比べて、コックスは歌唱力もなければ存在感もない。しかも、演技も下手でかつぜつが悪くて(どっかの運転手みたい)何を言ってるのか聞き取りづらい。

映画は先へ進んでも良くならなかった。モーターサイクルで窓を突き破って城へ入ってくるエディ役のアダム・ランバートもミートローフの器ではない。ランバートはミートローフより顔がいいだけに、かえってそれが仇になっている。たった一曲だけの出番で完全にその場を独り占めしてしまったミートローフの衝撃的なパフォーマンスに比べランバートのエディはお行儀が良すぎて存在感なし。バイクを乗り回してパーティをはちゃめちゃにしたエディに怒るファーター博士のエディへの反応もオリジナルの恐ろしく血なまぐさい場面に比べてこちらはおとなしすぎて話にならない。

これ以上個々のシーンの感想を述べても時間の無駄だ。それより何故この映画は全体的に観客を惹き込むことが出来ないのかについて語りたい。このリメイクは映画の世界と観客に距離感をあたえてしまう。その理由として映画に観客席を取り入れたことにある。すでに映画がクラシックなので観客による映画参加を映画の中に取り入れるという演出をしたのはわかるのだが、それがかえって視聴者が映画の世界にはまり込めない一つの壁になってしまっている。ちょっと映画の世界に引き込まれたかなと思うと、カメラが観客席に引いて視聴者を現実の世界に引き戻してしまうのだ。だから視聴者は映画に感情移入することが出来ない。視聴者はあくまでも登場人物たちは俳優であり演技をしているのだという意識を忘れることができないのである。

出演者の歌唱力や演技力は決してオリジナルに劣るとはいえない。コックスとランバートを除けば、ジャネットのジャスティスやロッキーのスタズ・ナイヤーやコロンビアのアナリー・アシュフォードなどかなりいい。コックスとランバートの歌唱力はオリジナルのカリーやミートローフよりずっと劣るとはいうものの、演出次第でそれはどうにでもなったはずだ。

オリジナルのティム・カリーミート・ローフの場面を改めてユーチューブで見てみたが、思ったとおり、役者の顔をアップにし歌声を全面的に前に押し出している。だから視聴者は他のことに気をとられずに主演者に集中することが出来る。リメイクではそれがされていないのだ。あたかも演出者は観客による感情移入を極力避けているかのようである。

さすがに多々の感情を恐れて安全事態(セーフゾーン)を望む2000年世代のリメイクだけある。
つけたし:往年のブロードウェイ役者のベン・ブリーンのボンスコット教授はチャーミングだ。またオリジナルの主役ティム・カリーが犯罪学として解説係を務めているのもおかしい。(でも何か変だなとおもったら数年前に脳卒中をしたとかで、完全回復はできていないようだ。)

この批評を書き終わってニューヨークタイムスの批評を読んだら、カカシとほとんど同じことを言ってるので笑ってしまった。


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イラク戦争前夜の暴言で落ちぶれたデキシー・チックスのカムバックツアーはどうなるか?

フェイスブック(FB)の友達Nがデキシー・チックスがカムバックを狙って全国ツアーをやるって話だよと書いているのを読んで、え~デキシー・チックスなんてまだ生きてたの、というのがカカシの反応である。カカシは2003年当時からチックスのアンチファン。彼女たちに関する記事をここここで書いている。背景をご存じない読者の方々は後部に説明を付け加えておいたのでご参照されたし。
わがFB友のNは、デキシー・チックスのイラク戦争反対の姿勢が馬鹿なカントリーファンの怒りに触れチックスはカントリー音楽界から締め出されてしまったと書いているが、彼女達がファンから見放されたのは戦争反対が原因ではなく、彼女たちのファンに対する失礼な態度が原因だった。ちょっとそのNとの会話をかいつまんで紹介しよう。

N:デキシーチックスはアメリカでは演奏できなくなった。脳タリンのカントリーファンが、ネオコンの始めたイラク戦争に反対したチックスを非国民と決め付けたためだ。イスラム国を作り上げアメリカ兵をボディバッグでかえしてくるだけで何の役にもたたなかった戦争。カントリーファンの馬鹿どもは、それに反対した彼女たちが結局は正しかったことを今だに認めようとしないのだ。プロパガンダは効果あるな。

カカシ:え~デキシー・チックスなんてまだ生きてたの?彼女たちがどこで演奏しようと勝手だけど、私はそれを聴く必要はない。それも私たちの権利でしょ?あなたに言わせると私も「脳タリンなカントリーファン」だけど、あんたがそうやって勝手なことをいえる自由を守るために多くのカントリーファンが出動したことを忘れないでよね。

N:デキシー・チックスは他のカントリーバンドと変わらない良いバンドだった。それがカントリー業界から締め出されたのはチェイニー・ラムスフェルド・ウォルフウィッツのイラク戦争に歯向かったからだ。あの戦争はアメリカの帝国主義を広げるためのもので、アメリカの平和を守ることとは無関係だった。

カカシ:N,カントリーファンじゃないあなたは知らないでしょうけどね、チックスがカントリーファンから見放されたのは単にイラク戦争に反対だったということじゃないのよ。彼女たちは戦争前夜に外国でアメリカ総指揮官を侮辱し、カントリーファンを田舎者とか無知だとかいって馬鹿にしたことが原因なのよ。カントリーシンガーの中にも、いくらでもイラク戦争に反対な人はいた。トビー・キースとかね。左翼リベラルの歌手でも人気あるカントリー歌手はいくらでもいるのよ。知ってた? 何故彼らの反戦姿勢が人気に影響しないかといえば、彼らがファンに礼節な態度をしめしているからなのよ。そこがチックスと違うところなんだわさ。

N: 俺もカントリーファンだ!ハンク・ウィリアムス、ザカーターズ、タミー・ワイオネット、パッツー・クライン、ジョニー・キャッシ。昔のカントリーウエスタンはひとつの政治観念だけに支配されていなかった。ウィリー・ニールソンとかジョン・デンバーとか別な見解も受け入れられていた。今の ニオコンに支配されてるカントリー業界には反吐がでるよ。

カカシ:「ニオコンに支配されてるカントリー」?そんなの私が聴いてるカントリーじゃないね。

昔っていったいどのくらい昔の話してんだよNは。Nの羅列した歌手で生きてるのは現在82歳のウィリー・ネルソンくらいだろう。すくなくとも過去20年くらいの歌手に絞って欲しかったね。それにザ・カータースって何よ、ザ・カーペンターズでしょうが。何がカントリーファンなのだよ。知ったかぶりもいい加減にして欲しいね。

Nはデキシーチックスが大口あけてアホなことを言うまでは、デキシーのデの字も聴いたことがなかったにきまってるのだ。だからカントリー歌手やそのファン層についても全然解ってない。カントリーを知らない左翼リベラルの典型的な勘違いである。

ここ20年来、アメリカにおけるカントリーウエスタンの人気はうなぎのぼりで、昔はカントリーといえば主流音楽とは別なカテゴリーに置かれていたが、最近は結構ポップスとかヒップホップとのクロスオーバーもあって、カントリー歌手でティーンエージャーに大人気なテイラースイフトなんて女性歌手は主流音楽でもトップスターの座に君臨している。彼女は絶対に右翼保守ではないよ。その影響もあって、歌手やファン層も多種多様化している。左翼リベラルなカントリー人気歌手はいくらでも居るのである。

実はNが懐かしげに話している1960年代のほうが、歌手もファン層もずっと保守的だったのではないかと思う。ジョン・デンバーが人気があったのは1970年代だが、彼の人気が衰退したのも彼が人気絶頂期に環境保全運動にあまりにも力を入れすぎたせいだという人もある。

それに、カントリーウエスタンは何と言っても南部が中心だが、アメリカ南部にはイエロードッグデモクラットという伝統があり、南北戦争で負けた際に勝った共和党からさんざん虐げられたことを未だにうらんでいる民主党支持派が非常に多いのである。トビー・キースなんかそのいい例なのだ。確かに南部には保守的な人が多く、軍隊とのつながりも大きいのだが、だからといって彼らが必ずしも共和党支持かというとそうでもないのである。

それからNのいうニオコンだが、いまどきそんな言葉を知ってるひとがカントリーファンにどれだけ居るのかかなり怪しいと思うね。いや、それを言うならニオコンなんて言葉が飛び交った1990年代ですら、どれだけのカントリーファンがそんなことに興味を持っていたか、非常に疑わしい。

で、今回のカムバックツアーなのだが、ミスター苺いわく、カムバックが成功するとは思えない。なぜなら今のカントリーファンでチックスを覚えてるひとなんていないだろうし、覚えている人は悪い印象しか持ってないから。

なるほどね~。

今も昔も音楽業界は競争が激しい。人気歌手はしょっちゅう入れ替わる。政治問題で落ちぶれた中年オバサンバンドがどれほど人気を取り戻すことが出来るのか、注目の価値はあるかも。


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尻切れトンボな舞台版『Once ダブリンの街角で』

2007年の映画ワンス、ダブリンの街角での舞台ミュージカル版を観て来た。元々映画だったとは全然しらなかった、というより義母からただ券をもらって観に行っただけで内容など全くしらずに観た舞台ミュージカル。日本でも六本木で11月にブロードウェイミュージカルのキャストで上演される。そのサイトから紹介すると、、、

開演前に観客は舞台上のバーで実際にドリンクを買い、その場で飲み物を楽しむことができる。そして気づけばキャストによる生演奏が始まり、舞台は自然と幕を開ける。そんなミュージカルを今まであなたは観たことがあるだろうか。これこそがミュージカルの本場、ブロードウェイで大絶賛された舞台「Onceダブリンの街角で」だ。
本作は2007年にアカデミー賞で歌曲賞を受賞した同題の映画をベースにしたミュージカル。2011年にオフ・ブロードウェイで初演されると瞬く間に話題となり、翌年にはブロードウェイに進出。トニー賞で最優秀新作ミュージカル作品賞を含む8部門を受賞し、2013年にはグラミー賞ベスト・ミュージカル・シアター・アルバムを受賞、昨年にはロンドンのウエストエンドで開幕し、オリヴィエ賞を受賞するなど、世界中で注目を集めている。(略)
オーケストラやバンドはなく、キャスト自らがギター、ピアノ、ヴァイオリン、アコーディオン、ドラム、チェロなど楽器を演奏し、音楽がつくられていく過程が表現されるのも見どころの一つ。
人生に希望を見いだせないストリートミュージシャンの男性とチェコ系移民の女性が音楽を通して心を通わせていく愛しくて切ない恋の物語を存分にご堪能あれ。

お芝居の前にアイルランドのアイリッシュパブに見立てた舞台でお酒が出るという演出は何処でも同じらしく、私が観たハリウッドのパンテージ劇場でも同じだった。舞台なので場が変わっても舞台装置はパブのまま。テーブルや椅子を動かして主人公の家になったり銀行になったりレコーディングスタジオになったりする。
第一幕はパブで多々のキャストによる歌や演奏や踊りが満載で楽しい。どっちかいうとミュージカルというよりアイリッシュパブでアイリッシュ音楽の生演奏を観に行っているという感覚。すべて歌も演奏もすばらしく、脇の踊りも結構いいし、アイルランドやチェコ移民の庶民的な振り付けは観ていて楽しい。筋は後から付け足した感じであんまり意味がなく、あってもなくてもいいような印象を持った。それでも主役二人の男女の淡い恋物語には魅かれるものがある。この二人の関係がどういう風に展開していくのか興味をそそられて第一幕が閉じる。
注意:ここからはネタバレあり〜!


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ヒュー・ジャクマンの歌唱力が冴えた映画レ・ミゼラブル

最近のハリウッドのミュージカルというと、主役に歌えない役者を使うことが多くてブロードウェイミュージカルが映画になると舞台ファンの間から「映画では良さは解らない、舞台をみなくっちゃ、、、」と言われることが多かった。しかし今回のレ・ミゼラブルに関しては主役陣の歌唱力には往々にして満足した。ただ全体的に映画としての演出が先きだって、肝心の歌が多少犠牲になった感がある。二時間半という長さも、舞台とちがって休憩が入らない映画としてはちょっと長過ぎたかも。
私が子供の頃、初めて読んだ大作といえば原作のビクトル・ヒューゴーの「ああ無情」。当時の私はフランス文学に凝っていて、なかでも少女コゼットがジャン・バルジャンに救われるシーンが好きで何度も読み返した記憶がある。
舞台は革命が終わり、ナポレオン時代も終わり、再びルイ王邸が仕切る復古時代の仏蘭西。青年の頃に飢える妹の子供達のためにパンを盗んだ罪で5年の刑に処されたジャン・バルジャンは拘束中に何回か脱走を企て失敗し刑期が加算され、結局合計19年もの長い間囚人奴隷として拘束されてきた。そのジャン・バルジャンがやっと刑期を終えて保釈される。だが、前科者のジャンに職を与えてくれる人などおらず、あちこちを彷徨ううちにとある教会にたどり着く。親切な神父によって一晩の宿を与えられたジャンは教会の銀の燭台を盗んで逃走。すぐに地元の警察に取り押さえられ教会に連れ戻されるが、そこで神父は燭台は自分がジャンにあげたものだと言ってジャンを弁護。恩を仇で返した男にそこまで慈悲をみせてくれた神父の親切さにうたれたジャンは、心を入れ替えて善人になると神に誓う。
レ・ミゼはミュージカルというよりオベラである。中で台詞はほとんど入らず全てが歌。踊りはない。よって踊りの好きな軽いメッセージのミュージカルが好きな私としてはちょっと苦手なタイプ。大昔にブロードウェイのコンサート版を観た時の印象はオペラとしては音楽が貧弱だが、ミュージカルとしては楽しみに欠けるというあまり好意的なものではなかった。
しかし映画版の方は、主役のジャン・バルジャンを演じたヒュー・ジャクマンが良いからなのか、舞台版より良かった思う。ジャクマンが歌えることは以前からサンセットブルバードなどでも聴いていたので知っていたが、力強く歌う「裁き」も最後の方でつぶやくように同じ歌を歌った時も非常によかった。彼の演技には泣いてしまった。
映画はジャン・バルジャン及び囚人奴隷たちが大型の船を造船所に引きつけるところから始まる。これは映画ならではの壮絶なシーン。
ただ、映画ということで演出と演技に重点を置くあまり、全体的に歌の迫力が犠牲になったように思う。特に職を失って娼婦に身を落としたフォンティーヌ(アン・ハサウェイ)の「夢破れて」は、あまりにもつぶやきすぎで歌という感じがしない。フォンティーヌは瀕死の病人なので、あまり元気に歌うのもなんではあるが、普通の人間が歌を歌うということ自体がすでに不自然なのであるから、もう少し元気よく歌っても良かったのではないかと思う。特にこの歌は有名だし他でも多くの歌手が歌っている事でもあり、もう少し歌らしく歌ってほしかった。
同じことがフォンティーヌの娘コゼット(アマンダ・セイフライド)と一緒に育った里親夫婦の実の娘エポニーヌ(サマンサ・バークス)の歌う「オンマイオン」でも言える。
歌についてもうひとつ苦情があるとしたら、仮釈放の規則を破ったジャン・バルジャンを執拗に追いかけるジャベール刑事を演じるラッセル・クローの歌唱力は他の役者の歌がうまいこともあってかなり劣る。ラッセル・クローは好きな役者だし彼の演技は申し分ないのだが、ジャベールは非常に大事な役なので、やはりもっと歌のうまい役者を選ぶべきだったのではないか。
旅館経営者のティナルディエ夫妻(サーシャ・バロン・コーヘン、ヘレナ・ポナム・カーター)の「宿屋主人の歌」は舞台ではショーストッパーになる歌なので期待していたのだが、ここでもティナルディエ夫婦の小悪党ぶりの演出は上出来だが、歌そのものがよくきこえない。オペラは確かに演技もだが、なんといっても歌が主役だし、二人とも歌はうまいのだから、もっと歌唱力を前面に出してほしかった。
そういう面では革命派の若者達の歌はコゼットにひとめ惚れするマリウス(エディ・レッドメイン)にしろリーダー格のアンジョラス(アーロン・トヴエイト)にしろ得をしていると思う。なにせ役柄からして革命家を気取って勇ましく歌うことが許されるので、おもいっきりその歌唱力を披露することが出来るからだ。
マリウスとコゼットが出会うシーンでもデュエットはキズメットで王子とマシアーナが出会うシーンを思い出させるが、歌そのものはあまり印象深くない。原作ではコゼットはもっと重要な役なのだが、ミュージカルではエポニーヌのほうに重点が置かれている。
政治的には、私はフランス革命は大嫌いなので、革命派気取りの若者達には全く同調できない。彼らは今風のオキュパイヤーのようにただ理想に溢れただけのアホにすぎないからだ。しかし、原作でもミュージカルでも彼らを取り立てて美化してるわけではないので、そのへんは気に入った。
最後に死んだ革命派たちとジャン・バルジャンが赤い旗を翻しながら「民衆の歌」を歌うシーンは完全に余計だが、リベラルの多いブロードウェイとハリウッドの映画だから、そのへんはしょうがないだろう。


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視聴率最低、国際的人気歌手PSY出演のホワイトハウス主催クリスマス特別TV番組

ユートゥーブで旋風を巻き起こした韓国のラップ歌手PSYが毎年恒例のホワイトハウス主催クリスマス特別番組に出演したが、その視聴率は去年に比べて25%減という最悪の結果となった。
実はPSYがホワイトハウスのクリスマスショーに招かれるという話があった直後、PSYが10年くらい前にイラク戦争の最中に発表した反米、特に反アメリカ軍、の歌があったことが明るみに出て、そういう人間をホワイトハウスに招くのは不適当ではないかという批判が多く上がった。しかしPSYがショー直前に公式な謝罪声明を発表したため、オバマ政権は招待を撤回しなかった。それどころか、番組収録時にPSYとオバマが握手をしている写真や、オバマの娘達がガンナムスタイルを踊っている写真などがあちこちの新聞で掲載され、もともと反米軍だという評判のオバマ王の見解が国民の間で再確認されることとなった。
米国におけるPSY自身の人気は特に衰えをみせてはいないが、やはりホワイトハウスという公式の場でのコンサートで、反米で名高い歌手を出演させたというオバマの無神経ぶりに腹を立てた視聴者は多かったのかもしれない。
ところで日本ではPSYはそれほど人気はないようだ。それというのもPSYは反米なだけでなく、竹島問題では反日的な態度を取っているとか。また、他の韓国ボーイバンドと違って日本語で歌うとかいうサービス精神は全くないことから、日本の歌謡界からは無視されているという話だ。
私自身はガンナムスタイルはパロディとして面白いと思うが、歌としては特にそれほど取り立てて騒ぐようなものではないと思う。


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アフガニスタン帰還兵、トビー・キースのコンサートで妻に再会

現代カントリーウエスタンの王者とも言えるトビー・キースのコンサートを観に行った陸軍兵の妻がトビーから舞台の上に呼ばれ、なんとトビーの演奏中にアフガニスタンに遠征中のはずの夫と再会するというエピソードがあった。
お膳立てをしたのは無論、米軍キャンプ慰安公演を幾つも行っているトビー・キース。
舞台に上がった女性にキースは、アフガニスタンに遠征中の夫の名前を聞いた。

キース:「ご主人の名前は?」

奥さん:「ピートです、少佐です。」
キース:「よっしゃ、ピート・クルーズ少佐のためにいっちょ歌おう。」

といってキースが歌ったのはキースお決まりの名曲「アメリカンソルジャー」。涙を抑えながら聴いている若妻の前に突如としてアフガニスタンに行っているはずの夫ピートが登場。涙々の夫婦再会となった。
クルーズ少佐は、予定より早く帰還となっていたのだ。


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英語圏ではまだ未発見? オーストリアと日本で人気のエリザベート

日本のミュージカルファンならもう10年以上も前に宝塚で公開され、後に東宝でも上演されたオーストリア発のミュージカル、「エリザベート」をご存知ない方はいないだろう。
しかし日本をずっと離れている私は、このミュージカルのことを今までほとんど知らなかった。日本に居た頃は劇場好きで、1970年代に花組のベルバラ初公演(大滝子、榛名友梨、初風純)を観ているくらいの元宝塚ファンとしてはお恥かしい限りである。
90年代の終わり頃、宝塚で上演中の新しいミュージカル「エリザベート」が大人気だという話をラジオの芸能ニュースで聞いた。ちょうど日本へ帰れる時期だったので、日本の母に頼んでチケットを購入してもらおうとしたら、あまりの人気でどの公演も売り切れ。結局観ることが出来ずそのままになっていた。
それがヒョンなことから最近になってユートゥーブで2005年のウィーン公演ドイツ語版「エリザベート」の映像を発見。そしてこのミュージカルの御本家はオーストラリアで言語はドイツ語だったということを知った。
面白いことに、最初はウィーンだけで公開されていた案外ローカルで話題性もなかったこのミュージカルが、ヨーロッパ各地で公演されるような人気ミュージカルに変わったのは、日本の宝塚が取り上げたことがきっかけだったらしい。
宝塚版が大成功だったので、その後何度も色々な組で上演され、2000年には東宝でも取り上げられた。
色々なコンサートや特別番組でオーストリアのオリジナルキャストが来日して日本人キャストと共演したり、日本のキャストがウィーンで行われた10周年記念コンサートに出演したり、ウィーン版キャストがそのまま梅田で公演するなど、大げさかも知れないが、このミュージカルを通じてオーストリアと日本の交友関係が深まったとも言える。
さてお芝居の歴史はウィキペディアでも読んでもらうとして、私が注目したいのは演技と歌。
1992年にウィーンで初演されてから、以来多々のプロダクションによって上演されているため、それぞれの演出やキャストによって演技も歌い方も大幅に異なる。また、宝塚ひとつを取ってみても、ほぼ同一の演出であるにも関わらず、男臭い感じのする1998年の紫月あさとといたずらっぽく妖艶な2009年の瀬名じゅんでは全然雰囲気が違う。
ウィーン版の死神トート(Dea Tod)は、初演のクレーガー(Uwe Kroger)も再演のカマラス(Mate Kamaras)も、歌い方は完全にロック調で、髪型や服装も現代風。トートはエリザベートを誘惑する美男子という設定なので、顔からするとカマラスの方が適役かと思うが、歌唱力はどちらも甲乙付け難い。(オープニングナンバー。カマラスのトート三分目くらいから登場)
東宝版でトートを演じたのは山口裕一郎。ユートゥーブに映像はないが「最後のダンス」の音声があったので聞いてみたら、彼の歌いかたはクラシックテナーと言う感じでブロードウェイ風。これがウィーン版の現代風な歌い方とは全く違っていて同じ曲とは思えない。リフレインが長く続くので、メリハリのない歌いかたをするとつまらなくなってしまうのだが、山口は曲が進むにつれて高音の質が高まり、最後の終わり方は騒然んたるものがある。
これだけ男性の声に魅了された私だが、最後に遅ればせながら宝塚版を探してみた。最初にみつけたのは春野寿美礼のトート。はっきり言って私は男の歌を女が歌うのには無理があると思っていた。特に山口のオペラみたいなテナーを聴いた後では、いくら男役でも女では叶わないだろうと思ったのだ。
ところが、春野寿美礼の「最後の踊りは俺のもの」という当たりは信じられないほど力強く、男性達に勝るとも劣らぬ声。それが紫月あさとになると鳥肌が立つほどすごい。(1998年フィナーレ、紫月あさと)二人の男役は男性の声とは全然違った意味での魅力でエリザベート(並びに観客)を魅了する。また、決して春野寿美礼が紫月より歌唱力が劣るというわけではないが、魅惑さを強調した春野より、紫月のほうが死神の不気味さを感じさせる。
題名がエリザベートなので主役はエリザベートなのかと思うとそうでもない。ユートゥーブの2005年ウィーン版を観る限り、オリジナルの主役はエリザベートでもトートでもなく、エリザベートを暗殺するルイージ・ルキーニ(Ligi Lucheni)のような気がする。少なくともこのプロダクションではルキーニ役のセルカン・カヤ(Serkan Kaya)が完全に他の二人を圧倒してしまっている。
ルキーニはエビータのチェ・ゲバラと似たような役で、お芝居を通じてナレーターのような役割を示す。特に彼の歌う「キッシュ」は独立した曲としても十分に成り立つ。カヤの高音は70年代にジーザス・クライスト・スーパースターでユダを演じたカール・アンダーソンやジーザスのテッド・ニーリーを思い出させる。(と思ったのは私だけではなかったようで、カヤは後にオーストリア版JCSでユダ役を演じている。)
ところが何故かユートゥーブでは宝塚版でも東邦版でも日本語のルキーニのソロを見つけることができない。東邦では高島政宏がルキーニを演じたとあるが、どんな歌い方をしたのか非常に興味がある。
ウィーン版では子役は可愛いが、役柄としてはそれほど大きくなく思えるエリザベートの息子ルドルフ(Rudolf)だが、東邦版では井上芳雄の演技が注目されたようで、ルドルフとトートのデュエット「闇が広がる」は、ユートゥーブでも井上がドイツ語を含め色々なパートナーと歌う種々のバージョンを見ることが出来る。(闇が広がる、井上芳雄とウーヴェ・クローガー)確かに井上のルドルフはウィーン版のルドルフ達より存在感があるが、ルドルフという人物自身が軟弱者で存在感の薄い王子だから、他の役者達の演技はそれなりに納得がいく。
さて、肝心のエリザベート(Elisabeth)なのだが、ウィーン再演版の マヤ・ハクフォート(Maya Hakvoort)の歌い方は激しい。はっきり言って角だらけで荒っぽく耳障りが良くない。傍にいると唾が飛んできそうなほど力強い歌い方だが、それが負けん気で自分の信念を押し通した独立心旺盛のエリザベートの雰囲気にぴったり。ただ高貴な皇后陛下という威厳さは感じられない。同じドイツ語で歌っても初演のピア・ドゥーベス(Pia Douwes)のまろやかな声とは大違い。(私が踊る時、ピア・ドゥーベス)この二人のうちなら私はドゥーベスの方が気品があって好きだな。
それに比べて宝塚の場合は誰の演技を観ていても、娘役だから仕方ないのだが、お姫様風の高貴さは多いにあっても、時代と身分にそぐわないエリザベートの独立心が感じられない。トートの誘惑を拒絶する場面でも、そのままトートに抱きかかえられてお芝居が終わってしまいそうなか弱さがあって、なんか頼りない。花總まり(1996年雪組、1998年宇組)の歌唱力(私が踊る時 花總まり)はハッキリ言ってハクフォートより上かもしれない。特に高音はすばらしい。ところで2009年にトート役をやっている男役の瀬名じゅんは2005年に娘役のエリザベートを演じており、彼女のエリザベートの方がイメージに合う。高音さえ出せれば、かえって男役の人がやった方がいいのではないかと思った。(瀬名じゅんのエリザベートと彩輝直のトート
というわけでエリザベート観賞でユートゥーブにかぶりつきになってしまったのだが、残念ながら英語圏ではまだ上演されていない。ミュージカルのためにオーストリアや日本には行かれないので、出来ればアメリカにも来てほしい。
今のところは宝塚やウィーンのDVDを取り寄せることにしよう。


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アメリカナイズされながら進歩ないJポップ

ひょうんな事からSuperfly(大型蝿?)というグループのことを知ったのだが、このビデオを観ていて面白いことに気が付いた。

それは、彼女たちの音楽がカカシが青年だった1970年代と全く変わりばえしていないのにもかかわらず、ミュージックビデオでの彼女たちのボディランゲージは1970年代の日本では絶対に考えられないほどアメリカナイズされているということだ。
スーパーフライの音楽は1970年当時の松任谷由実とか八神純子の音楽と大した差はないと思う。実際にユーミンの歌を彼女たちが今歌ったとして、当時を知らない若者ならそのまま受け入れているのではないかと思うほど酷似している。リードボーカルは歌はうまいが、音楽的なセンスとしては、はっきり言って70年代からまるで進歩ない。
しかしだ、ボディランゲージは雲泥の差がある。
私が始めてアメリカに来たのは1979年。当時の私は自分から握手のために手を伸ばすことさえできなかったほど、他人の身体に障ることにためらいをもった。ましてや特に親しくもない人と抱き合うなどもってのほかだった。一度、友だちのお母さんが私に抱きついてきたときは、驚いて後ずさりしてしまった覚えがある。人を抱擁するなど、カカシ家では、家族でも考えられない行為だった。
最近の人が歴史ドラマを作成するとき、どうしても違和感が生まれるのは、この現代的なボディランゲージと言葉使いだ。幕末ものなどで、登場人物にお国訛りが全くなかったりすると、完全に脱力してしまう。薩摩や長州の人間が京都や江戸の人間と同じ言葉使いをしたのでは、それだけで歴史が変わってしまうではないか?
カカシが古臭いからだと言われてしまえばそれまでではあるのだが、昔の人は現代人のようには振舞わなかった。現代人のような言葉使いをしなかった。これは何も何百年という歴史を振り返るまでもない。
私は第二次世界大戦前後に作られた白黒の日本映画を結構観ているのだが、そのなかで原節子が家族と交わす言葉使いなどをみてみると、現代家族では考えられないほど礼儀正しい。「私がお嫁にいったら、お父様どうなさるの?」なんて台詞が平気で出てくる。今の年頃の女性が父親とこんな会話を交わすのは想像できない。
昔は昔、今は今。それはそれでいいのだ。だがそうだとしたら、現代の音楽は昔より多少進歩があってもいいのでは?


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ニューヨークフィルは北朝鮮でコンサートなどするな!

先日来年の2月にニューヨークフィルハーモニックが北朝鮮でコンサートを開くことになったというニュースを読んだばかりだが、それについて、ウォールストリートジャーナルのコラムを書いている演劇評論家のテリー・ティーチアウト(Terry Teachout)の批判が的を射ていると思う。
ニューヨークフィルといえば、アメリカでもっとも古い由緒ある交響楽団である。そのNYフィルの会長が北朝鮮の国連大使パク・ギル・ヨンと肩を並べてピョンヤンでの公演の予定を発表したのを聞いてティーチアウトは恐ろしくて背筋がぞっとしたという。150万人という市民が奴隷労働を強いられている国の金正日という独裁者の前で、自由の国アメリカの交響楽団が公演するなど言語道断だ。しかもこの公演はブッシュ政権の国務庁がNYフィルにかなりの圧力をかけて実現したというのだから信じられない。いったいブッシュ大統領の「悪の枢軸」云々はどうなったのだ?
ティーチアウトは、このような公演は北朝鮮の政府を正当化する猿芝居だという。私はブッシュ大統領が北朝鮮に迎合しているとは思いたくないが、何故米国国務庁が北朝鮮のご機嫌取りをしなければならないのかさっぱり理解できない。
先日私は北朝鮮が日本へミサイル攻撃する可能性について書いたが、北朝鮮が直接日本を攻めてこないまでも、北朝鮮の核技術がイランやシリアに渡り、それがヒズボラなどのテロリストの手に渡れば、世界がどういう状態になるか想像がつくというもの。イスラエルがたたいたシリアの核兵器開発施設は北朝鮮の技術を使ったものだったという噂もあるし、この間もレバノンのヒズボラを北朝鮮が武装しているかもしれないという話がでたばかり。

マコーマック米国務省報道官は13日の記者会見で、北朝鮮がレバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラなどに武器支援を行っていたとの情報を米議会調査局が指摘したことについて、「情報を確認する立場にはない」としたうえで、北朝鮮に対するテロ支援国家指定解除にあたっては、「すべての入手可能な情報が考慮に入れられる」と述べ、この疑惑が解除の際の検討項目となる可能性も示唆した。

北朝鮮はテロリストに武器を売る条件として日本をせめて欲しいとほのめかすかもしれないし、テロリストも手っ取り早いところで東洋で一番経済力のある日本を叩いておこうと考えるかもしれない。
そういう危険な国にたいして、アメリカが北朝鮮のテロ支援国家指定解除をするかもしれないという話は非常に困惑する。
私は日本にはアメリカとの安保があるから日本が武装しなくてもいいという人に常々いうのだが、アメリカが日本を守るのはアメリカの都合でやっているだけであって、アメリカの国益に直接結びつかなければ日本など簡単に見捨てられる。アメリカがいまのところ北朝鮮のご機嫌取りをすることでアメリカは安泰だと考えれば、アメリカは日本の拉致問題になど親身になってくれないだろうし、それが日本を危険に及ぼすことになったからといって積極的にアメリカが守ってくれるという保証など全くない。安全保障条約なんて紙に方餅同様意味のないものだ。
だから私は日本は自国の防衛をアメリカに頼っていてはいけないと口を酸っぱくして言っているのである。
何にしてもNYフィルが国務庁のプロパガンダに加担する必要はないはず。それが北朝鮮の独裁政権を正当化するというならなおさらだ。


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消えたスイング、リンディホップの再来

読者のみなさんはリンディホップという踊りをご存じだろうか。これは1920年代にアメリカはニューヨーク、黒人街のハーレムで発明されたジャズダンスだ。一応スイングの一種ということになっていて、ジャイブやジルバと似てはいるが、イーストコーストスイングとリンディホップでは月とスッポン。能と阿波踊りくらいの差がある。さすがに黒人の間で人気を呼んだ踊りだけあって、動きは激しく凄まじく早く、ラフで危険な動きが多数取り入れられている。

もともとは男女のペアは双方とも足を床につけたまま踊っていたが、1930年代になると相手の頭の上を飛び越えたり、男性が女性を持ち上げて放り投げたりするような動きがフランキー・マッスルヘッド・マニングというダンサーによって発明された。
リンディホップという名前の踊りの創設者であるショーティ・ジョージとビッグベンがリポーターからこの踊りはなんというものかと聞かれた時、丁度リンドバーグが大西洋横断に成功したニュースの見出しに「リンドバーグ(リンディ)大西洋を飛び越える(ホップス)!」と書かれていたのをみたショーティが「リンディホップさ!」と答えたが最初だと言われている。

口で説明するより見てもらったほうが早いので、1941年のHellzapoppin’という映画の一部に出てきたこのシーンをまず見ていただこう。振り付けはフランキー・マニングで、踊りはフランキーが結成したハーレム・コンガルーンズで、フランキー自身も踊っている。



これだけすばらしい踊りなのに、なぜか1950年代にはロックにおされてリンディホップはダンスフロアから消えてしまった。ロックの踊りはツイストとかマッシュポテトとかでパートナーを要しない一人でリズムにあわせて適当に踊るスタイル。誰でも踊れるせいなのか技術を要するリンディよりも人気が出てしまった。
もちろん1970年代になるとディスコの時代。ジョン・トラボルタがサタデーナイトフィーバーで一躍有名になった時代。ディスコはペアを組んでリフト(男性が女性を持ち上げる)のある面白い振り付けもあったにはあったが、リンディホップのようにパートナーを振り回したり放り投げたりするエネルギッシュな踊りとはかなりかけ離れたスタイルだった。

とろこが1980年代に不思議なことが起きた。ビデオ録画技術VCRの到来である。VCRによって古い映画を若い人たちが観ることが出来るようになると、誰かが埋もれていた昔の映画を掘り起こしてきてこの幻の踊りに出くわしたのである。そしてその古いビデオの映像だけをたよりに今まで見たこともない踊りを再現させようとしたわけだ。
幸運なことに、20年代から30年代にリンディの振りを多く振り付けしたエキスパート、フランキーはまだ生きていた!そこでリンディファンたちはフランキーの教えを受けリンディホップの再現に成功したのである!実はフランキーは今現在も93歳の若さで健在。やっぱり一生踊ってきたせいかな?

先週の木曜日、ミスター苺とカカシは近くのお寺で開かれた全国リンディホップ選手権の地区予選を見てきた。コンテストが開かれる前や審査中は一般人がダンスフロアに出て自分達で踊りを楽しめたので、我々苺畑夫婦もリンディに挑戦。しかしどう見ても周りで踊っているひとたちと同じスタイルの踊りには見えない。ダンス会場は満員で、私たち夫婦がえっちらこっちら習ったばかりのステップを踏んでいると、周りで回転しまくってる若い男女に蹴られるはふっ飛ばされるはで大変だった。さて、それではここで全国選手権の決勝戦の模様をお届けしよう。振り付けがほぼ昔のままであることに注目。

最初はハーレムの黒人街で生まれたリンディホップだが、新世代のファンはなぜか白人や東洋人ばっかり。ここ数年ヨーロッパでもリンディは人気があるという話だ。しかしよく見てみると黒人の間で始まったブレークダンシングのなかにもリンディの動きがかなり取り入れられていることが分かる。

最近はアメリカの人気テレビ番組でリンディホップが紹介されるなど、リンディは若いひとたちの間でもわずかながら知られはじめている。この間地区予選が行われたうちの近所のお寺では、毎週木曜日にリンディホップのパーティがある。入場料たった7ドルで8時から午前二時過ぎまで踊り放題。早くいけば無料レッスンも受けられる。
売ってるものはペットボトルの飲料水のみ。アルコールも食事も出ないのに会場はいつも満員。もっともこんな踊りを酔っぱらってやっていては危なくてしょうがない。
踊りが激しいので若い人たちばかりかと思うとそうでもなく、中年の苺畑夫婦より年上のカップルをいくらも見かける。先週の木曜日には60歳過ぎの男性が20代の女性を振り回していたのを見たが、あまりの激しい踊りに若い女性のほうがついていけないほどだった。

当然のことながら苺畑夫婦はここで紹介したような動きは何一つできないが、基礎ステップだけでも覚えて、自分なりに楽しめるようになりたいと思っている。それにしても若い人たちの間で失われた芸能が生まれ変われるというのは喜ばしいことだ。これからもリンディホップの人気があがることを願う。
追記:日本でもリンディホップファンはいるはずだと思って検索してみたら、東京スイングダンスソサエティーとかスイフルなんていうスタジオがあるみたいなので、興味のある人は覗いてみてはいかがかな?


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