スタートレック、ストレンジニューワールドの酷すぎるシーズン2第一話

一年間まってスタートレックのストレンジニューワールドのシーズン2第一話を観た。去年スタートレックシリーズを全部観たくてパラマウントと契約したのだが、シーズンがお休みに入ったので解約し、ピカードのシーズンが始まったらまた始めようと思っていた。しかしピカードの第三シーズンは一話を無料で観たが全然面白くなかったので、ストレンジニューワールドが始まったら再開しようと待っていた。

そしてついにストレンジニューワールド第二シーズン開始ということで、先ずは無料の第一話を観た。観たが、、酷かった、、酷すぎる。

先ずシーズンプレミアなのに主役のパイク艦長が最初の数分しか出て来ない。第一シーズンで逮捕されたナンバーワンの弁護をするために出張するという設定でエンタープライズはスポックに任される。第一話でなんでこうなる?無料の第一話で視聴者の心をつかむ必要がああるのに、一番魅力的なキャラクター(しかも主役)を早々に追っ払うってのはどういうことだ?

ま、百歩譲って第二の主役であるスポックに焦点を当てたエピソードにするというなら、まあいいとしよう。ところがこの話の主役はスポックでもないのだ!

話はパイク艦長が留守の間に以前の乗組員だったエリカからのSOSを受け、スポックは上部を騙してエンタープライズを勝手に使って救助に向かう。到着した星はクリンゴンの植民地だかなんだかでクリンゴン星人が沢山いる。探索チームはムベンガ医師とチャペル看護婦を含む数人だがスポックは含まれていない。まあそれはいいとしよう。

探索中に身元がばれてドクタームベンガとナースチャペルが捕まってしまい、話の後半はこの二人がどうやって脱出するかという話になってしまう。一千歩譲って医療チームの二人に焦点をあてるのなら、それはそれでいいとしよう。しかし彼等の脱出の仕方がまるで非現実的なのだ。

ドクターは全く格闘専門家ではないドクターとナースが突然格闘のプロになれる魔法の薬を持っている。そして二人はその薬を注射することで何人もの強靭なクリンゴン警備隊をぼこぼこにやっつけるというスーパーヒーローとヒロインになってしまうのである。

なんだこの馬鹿げた話は!

格闘シーンを撮りたいなら格闘にふさわしいキャラクターを使うべきで、なんで医者と看護婦が格闘するのだ?彼等を主役にしたいなら医者と看護婦という職業を生かした筋書きにすべきじゃないのか?例えば流行り病が蔓延してクリンゴンの植民地が危機的な状況にさらされていることを知ったスポックがムバンガ医師とその医療チームを派遣してフェデレーションの医学をもってして人々を救うとか。最初はフェデレーションの力など借りないといっていたクリンゴン星人がスポックとの交渉でしぶしぶ援助を受けるとかなんとかやり方があったんじゃないのか?なんで格闘技になるのだ、アホか!

私が新しいスタートレックシリーズのなかでストレンジニューワールドが気に入ってる理由はカーク船長の時代のオリジナルの雰囲気が出ている番組だからである。それなのに、この新シーズンはまるで大駄作だったディスカバリーの脚本家や製作者がそのまま移動してきたのではないかと思えるほどひどいものになっている。

筋がくだらないのもそうだが、私がディスカバリーシリーズで大嫌いだった色々な要素がこちらにもある。

先ず画像が暗すぎる。ディスカバリーは最初から最後まで画面が暗くて何が起きてるのか分からない状況が多かった。特に船内の証明が暗すぎる。登場人物が黒人ばっかりなのに、あれでは人々の顔の表情が良く分からない。その点SNWの第一シーズンは明るくてそれぞれの登場人物の顔が良く見えてよかったと思っていたのだ。

ところが今シーズンは船内がまっくらけ。訪れたクリンゴンの植民地も薄暗くて格闘シーンでも何がおきてるのかよくわからない。ドクタームバンガはアフリカ人でかなり肌の色が黒い。コンナに暗くては彼の顔が全然見えない!

乗組員はブス女ばかり。スポックとムバンガ以外の主要な乗組員は全員女性。しかもオフラを含めて美女が一人も居ない。オリジナルシリーズではオフラは超美人で赤いミニドレスの下から美脚を出すシーンが有名だったのに。そういえばこのシリーズでは、これだけ女性乗組員が多いのに誰一人としてミニスカートのユニフォームを着ていない。

最近ゲーマーたちも文句を言っていたが、何故かサイエンスフィクションやアクション物に出てくる女性が最近やたらにブスが多くなった。昔は映画でもテレビ番組でもゲームでも、主要なキャラクターは皆美男美女と相場は決まっていた。そして美女は特にスタイルのいい身体の線がばっちり決まるセクシーな恰好をしていたものである。

そんな服を着て闘えるのか、とか、スペースシップでミニスカートはおかしいだろ、とかいうツッコミは娯楽番組に向けてすべきことではない。そんなの分かりきってることだ。そんなことをするのは、日本のアニメの女の子キャラが着てる服に機能性を要求するくらい無粋というものである。

百万歩譲って登場人物がみんな醜女とブ男ばかりなのを許すとしても、話の筋がバカバカしすぎるという点はもう許容できる範囲ではない。どうしてハリウッドは成功しているシリーズすらも台無しにしてしまうのだ?

だいたいこのシリーズは誰を対象に作られているのだ?普通サイエンスフィクションのファンには男性が多いが、男性ならセクシーな衣装を纏った美女を見たいはずだ。女性ファンを増やしたいなら格好いいイケメン俳優の活躍を見たいはずだ。

ブスの女ばかりが出てくる番組を一体誰が見たいのだ!

ひとつだけ良い点。クリンゴンが新世代の時のクリンゴンに戻ったこと。オリジナルシリーズの時はメイクアップの技術がまだ未熟であったため、クリンゴン星人は肌の色が黒っぽく釣り眉毛だったくらいで地球人との区別はあまりつかなかったのだが、新世代で額に深いしわのある顔になり、全体的に大柄で男も女も強靭である設定に変わった。クリンゴンの女は特に豊満な胸の谷間が自慢だった。

それが何故かディスカバリーではメイクが完全に変わって俳優の顔がまるで分別できないほどひどいものになっており、いったい何星人なのだろうと思うくらい変わってしまっていた。それが今回90年代のネクストジェン・新世代の時にもどったのは非常に良いことだと思う。

さて、第二話からはお金を払わないと見られないのだが、いまどうしようか思案中。パラマウントで良い作品が多いのであれば登録してもいいが、これだけしか見るのがないのであれば、登録の価値があるかどうか、今悩んでいる。


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映画のミュージカル化が大成功した「プロデューサーズ」に大感激

本日のカカシミュージカル観賞批評はメル・ブルックス監督の1958年公開の同題名の映画を、やはりブルックス監督が舞台でミュージカル化した「プロデューサーズ」。いやあ、聞いてはいたけど素晴らしかった。

さっきウィキで調べたところによると、この映画はヒットラーを主演させるミュージカルを作るという悪趣味な内容のせいなのか、日本での公開は何と2000年までされなかったというのだから驚いた。ミュージカルがブロードウェイで発表されたのが2001年だったので、ぎりぎり間に合った感がある。

映画とミュージカルの筋は全く同じなのでウィキからあらすじを拝借。ネタバレあり。

かつてはブロードウェイの大物プロデューサーだったが、今はすっかり落ち目のマックス・ビアリストックは、裕福な老婦人たちのご機嫌取りで金銭を稼ぐ日々。ある日、マックスの事務所へ気弱な会計士のレオ・ブルームが訪れる。彼は帳簿を調べている内に、ミュージカルを当てるより失敗させた方がより大儲けできることに気付く。マックスはこれはいいアイデアだと、レオを誘い最低なミュージカルを作って一攫千金の詐欺を企む。

確実に失敗させるためにはまずは最低な脚本を、と探し当てたのはナチシンパのドイツ人フランツ・リープキンが書いた『ヒトラーの春』(Springtime for Hitler)だった。首尾よく上演権をとりつけたマックスは早速金集めに奔走、高額の配当をエサに愛人の老婦人たちから莫大な出資金を騙し取る。続いて最低な演出家として、ゲイで女装趣味の演出家ロジャー・デ・ブリーを起用。そして最低の役者として主役のヒトラーに選ばれたのは、別のオーディション会場と間違えて来たヒッピーのイカレ男ロレンツォ・サン・デュボワ(イニシャルからLSDと呼ばれる)である。

以降ネタバレ注意!

これで万全、上演は失敗間違いなし!とほくそえむ2人だったが、やがて初日を迎えると予想外の反応が待っていた。最初こそ馬鹿げた内容に腹を立てる客が続出したものの、LSDが怪演するオカマ風ヒトラーに観客は爆笑につぐ爆笑。ナチ党員が手に手をとって陽気に歌い踊るあまりにも俗悪極まる内容に、ヒトラーを笑い者にした反ナチの風刺コメディだと観客に勘違いされる。結果はなんとミュージカルは大ヒットしてしまうのだった。

このミュージカルは公開するや大ヒットを飛ばし、何年ものロングランで主役も何回か入れ替わったが、2005年には今度はこのミュージカル版がオリジナルキャストのネイサン・レーンのマックスと、マシュー・ブロードリックのリオで映画化され公開された。何故かこちらの方はあまり業績はよくなかったのだが。

私が今回観た舞台は、ブロードウェイ版ではなく、なんと5年前に行われたサミット高校の演劇部公演によるものだ。ユーチューブではよく高校や大学の演劇部による舞台公演がアップされているが、これらの舞台は素人とは思えないほど素晴らしい掘り出し物がよくある。今回のこのプロダクションは舞台装置から衣装からオーケストラから、そしてもちろん役者たちの演技に至るまで、高校生とは思えない非常に質の高いものだった。

私は元の映画を1970年代に観た記憶がある。私はメル・ブルックスの大ファンだったので、1978年から2000年にかけて彼の映画を結構まとめて観た。ただ、私は当時無知な日本人女性だったことから、ブルックス監督がいかにあからさまに自分のユダヤ文化を全面的に押し出す監督なのかということに気が付かなかった。

ユダヤ文化というのは結構特異なもので、それにしょっちゅう面していないと、それがユダヤ文化なのだと言うことにも気づけない。このミュージカルではマックスもだがリオは特にユダヤ人典型の人物である。ミュージカルナンバーも屋根の上のバイオリン弾きを思わす踊りや音楽が最初から流れて来るし、ジョークもいちいちユダヤ風。ブルックス監督特有のこれでもかというくらいしつこい。

そういうわけだから、マックスとリオがプロデュースしようというミュージカルが「ヒットラーの春」なんてのは悪趣味も行き過ぎだし、誰がこんなものを見たがるものか、となるのが当然な成り行きである。

これにういて実はちょっと面白い話がある。ユダヤ系である我が夫ミスター苺はこの話について何も知らなかった。それで私がユーチューブでこのミュージカルを観ているところに部屋に入ってきたミスター苺は、私がちょうど観ていた「春の日、ヒットラーのドイツ~」というコーラスにヒットラー青年団の制服を着た若者たちがハイルヒットラーの敬礼をしながらグースステップで歩き回るナンバーを観て「なんだこの悪趣味なナンバーは、早く消せ!」と怒ったことがあるのだ。それで私が「いやいや、これは風刺だから。ジョークジョーク」と説明したのだが、主人は「冗談でもやっていいことと悪いことがある」とプンプンに怒ってしまったのだ。今回私と一緒に最初から最後まで観たミスター苺は同じナンバーのところで大笑いしていたが。

というわけで、いかにこの主題がユダヤ系の人びとにとって敏感なものであるかがお分かりいただけたと思う。だからこそミュージカルとして絶対に成功するはずはないとマックスとリオは踏んだわけである。

このミュージカルがミュージカルとして非常に優れている点は、マックスとリオが脚本家や監督を訪ねるシーンでそれぞれ個性あるキャラクターによるミュージカルナンバーが繰り広げられることや、主役を選ぶオーディションのシーンなどでも登場人物たちの個性が非常によく表れていて面白いことだ。主役は確かにマックスとリオだが、脇のキャラクターたちの見せ場が多く面白い。

そして極めつけは何と言っても「春の日、ヒットラーのドイツ」ナンバーである。これはユーチューブに色々なバージョンが上がっているが2005年の映画のバージョンが特に良い。独唱は私が大好きなジョン・バローマン。

このミュージカルにはいくつも良いミュージカルナンバーがあるが、最後のほうでマックスが独唱するシーンは素晴らしい。これは単に歌がうまいだけでは駄目で、コメディーとしての要素をしっかり表現んできる役者でなければ務まらない。ブロードウェイと映画ではネイソン・レーンが演じているが、彼はブロードウェイではコメディーミュージカル俳優としてはベテラン。映画ではラカージャフォーでも主演を演じているので親しみのある人も多いだろう。

日本の皆さんには映画バージョンをお薦めする。


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アカデミー賞、多様性配慮の新規則に俳優や監督から非難囂々

2024年度からアカデミー賞は最優秀映画賞ノミネートの資格規則を色々と変更する旨を発表したが、これに関しては俳優や監督など関係者から非難囂々の反響が出ている。特に新ルールは女優にとって不利なのではないかと懸念を表わす女優も居る。それというのも、同賞は従来の男優賞や女優賞を失くして単に最優秀主演賞や助演賞といったユニセックスに統一しようという動きがみられるからである。

しかしその話をする前に新ルールがどのようなものなのか、もっと詳しく調べてみよう。こちらのサイトが詳しく説明しているので引用する。What are the Oscars’ new diversity and inclusion rules for Best Picture nominees? – Vox

包括性基準には、4つのカテゴリーがある。映画は、4つのグループのうち2つのグループで基準を満たす必要がある。

まず、アカデミーがUnderrepresented(あまり代表されていない)とする人たちのことをこのように定義づけている。

  • アジア人、ヒスパニック/ラテン系、黒人/アフリカ系アメリカ人、先住民/ネイティブアメリカン/アラスカ先住民、中東/北アフリカ、ネイティブハワイアン/その他の太平洋諸島民、または その他の代表的でない人種または民族を基準内のunderrepresented racial or ethnic groups「代表的でない人種または民族グループと呼ぶ。
  • また、アカデミーは基準内でより広範なアイデンティティ・グループを指定しており、これには上記の代表的でない人種や民族のほか、女性、LBGTQ+の人々、認知障害や身体障害を持つ人々、聴覚障害を持つ人々が含まれます。わかりやすくするために、このグループをまとめて「代表されていないアイデンティティ・グループ」と呼ぶ。

では最初に述べた四つのグループの内訳。

グループA:配役及び登場人物

  • 代表的な人種や民族のグループから少なくとも1人の「主役または重要な助演俳優」が出ている。
  • または二次的および脇役のキャストの少なくとも30パーセントが、2つの代表的なアイデンティティ・グループ出身であること。
  • または主要なストーリーまたは主題が、代表的でないアイデンティティ・グループを中心にしている。

グループB:制作およびプロダクションチーム

  • 主要部門(編集、監督、メイクアップとヘアスタイリング、衣装、音響など、その他多数)の責任者のうち、少なくとも2人が非代表的なアイデンティティ・グループ出身でなければならない
  • さらに、そのうちの最低1人は、代表的でない人種または民族の出身者でなければならない。
  • クルー(制作アシスタント、一般的に撮影現場での初級職を除く)のうち、少なくとも6人が、代表的でない人種または民族の出身者であること。
  • クルーの少なくとも30パーセントが、代表的でないアイデンティティ・グループの出身者である。

グループC:トレーニング

  • さまざまな部門で、社会的地位の低い人たちに有給のインターンシップや実習の機会を提供し、実際にその職種の人たちを雇用していること(会社の規模によって数は異なる)。
  • 基本的に下層および中層の地位のトレーニングおよび仕事の機会を、代表的なアイデンティティ・グループの人々に提供しなければならない。

グループD:マーケティング、宣伝、および配給

  • このカテゴリの資格を得るには、映画を配給するスタジオまたは会社が、マーケティング、宣伝、または配給チームに、不特定多数のアイデンティティ・グループ出身の上級レベルの幹部を「複数」抱えている必要がある。

これらの新規則については監督や俳優らからも辛辣な批判が上がっている。とある監督は、、

「完全に馬鹿げている「多様性には賛成だが、ノミネートされたければ、特定のタイプの人を起用せよというのは?それだと、プロセス全体が作為的になってしまう。その役にふさわしい人が、その役を得るべきだ。なぜ、選択肢を制限されなければならないのですか?でも、それが私たちのいる世界なんです。こんなのおかしいよ。」

ジョーズなど多くの映画を主演している名優、リチャード・ドライフェスは、新規則には「吐き気がする。」として、映画はビジネスであると同時に芸術品であり、芸術家として誰にもその時の道徳観念を強制されるべきではないと語った。また今の世の中でどんなグループの人も特別扱いされるべきではないとした。「すまんが、私はこの国でそんな風に扱われなきゃならない少数派だの多数派などという人達が居るとは思わんね。」

全くだ。この規則は所謂少数派の人びとは特別扱いされなければ成功できない無能な人々だと言っているに過ぎない。はっきり言って少数派と言われる人々に対してかなり失礼である。

それにこの規則だと、歴代最優秀映画賞を獲得した「ゴッドファーザー」や「シンドラーズリスト」のような映画は受賞資格がないということになってしまう。時代や地域を特定した映画は先ず無理となるし、史実物は先ず不可能となる。映画は現代劇かSFくらいしか作れないということになってしまうが、それでいいのか?

さて、それではこの新ルールで女優が不利になるというのはどういう意味なのだろうか。今、アカデミー賞では従来の主演男優賞や女優賞をやめて単に最優秀主演賞や助演賞にすることを検討中だという。これに関しては何人かの女優たちが懸念を表明している。

女優のジャ三―ラ・ジャミル(Jameela Jamil)はジェンダーニュートラルな賞のカテゴリーに反対を表明し、Instagramの投稿で、ノンバイナリーの人々が独自のカテゴリーを持つ方が良いと主張した。「賞レースで受賞する男性対女性の不均衡が知られていることから、ハリウッドが女性を完全に締め出すための扉を開くよりも、ノンバイナリーの人々に独自のカテゴリーを与える方が良いのではないだろうか?」と書いている。

居や全くその通りだろう。先ず何故最終週主演や助演の役者が男性枠と女性枠に別れているのか、それは男性と女性が主演する映画は全く質が違うからだ。1940年から50年代のようにミュージカル全盛期の頃ならまだしも、近年の映画でヒットする映画のほとんどは男性が主役だ。題材は戦争物でもスパイ物でもSFアドベンチャーでも、より多くの観客が観たいと思う映画の主役は男性陣に牛耳られている。これは別におかしなことではない。女性は男性主役の映画でも観に行くが、男性は女性主役のロマンス映画など観たがらないからである。女性の主役を増やそうと無理やりスターウォーズやレイダースのように女性キャラを起用してみても、観客は完全に拒絶することは、これらの映画の不入りを見てもあきらかである。

となってくると、最優秀主演賞にノミネートされるのは圧倒的に男性が多くなるだろうし、女性が勝つ可能性は先ずなくなるだろう。もしノミネートの段階でもある程度の女子枠を設けろと言う話になってしまうなら、ユニセックスにする意味が全くなくなる。それなら女子枠を残して置けということになる。

映画に限ったことではないが、男女を一緒にすると必ず女性が割を食う。男女共同トイレしかり、男女混合スポーツしかり、そしてまた男女混合映画賞しかりである。

男女同権というのは男女を混合することにあるのではない。女性の権利は一定の場所で女性を男性から区別することで守られてきたのだ。それを平等と言う名のもとに男女の区別をなくしてしまうことは、結局女性の存在を抹消することになるのである。

アカデミー賞授賞式の視聴率は年々減る傾向にあり、はっきり言って多くの観客はアカデミー賞になど興味がない。昨今アカデミー賞でノミネートされたどれだけの映画が興行的に成功しているだろうか?私は結構映画好きであるが、それでも観たことも聞いたことも無いような映画がノミネートされ受賞している。

最近はアカデミー賞を獲ったからといって監督や俳優たちの格が上がるというものでもない。賞を獲ったからと言って次の映画で高予算の映画を作らせてもらえるわけでもない。そうであるならプロジューサーも監督も煩い規制のあるアカデミーなど無視して金儲けの出来る売れる映画を自由に作ることに専念するようになるのではないだろうか。

そしてアカデミーでノミネートされる映画は、誰も観ていない一部のエリートだけが気にする「芸術作品」と成り下がるのがおちである。

 


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時代劇や史実番組で行われる人種挿げ替えがもたらす危険

先日ご紹介したネットフリックスのクレオパトラシリーズの放映が遂に始まったが、RottenTomatoesという批評家と視聴者の反響を示す指標では、批評家11%、視聴者2%というRT史上最低の結果が出た。これはつまり、観た人ほぼ全員がこの番組に悪評価を下したということになる。この番組は放映前からクレオパトラをアフリカ系黒人が演じているということでかなりの批判があり、特に現エジプト人からなぜエジプト系やギリシャ系の女優を使わなかったのだと不満の声が上がっていた。

Netflix’s ‘Queen Cleopatra’ docuseries slammed by both critics and audience for being historically incoherent

Netflixのアデラ・ジェイムス演じるクレオパトラ

ローマやエジプトの古代歴史に詳しいユーチューバー(多分ギリシャ系)の話を聞くと、北アフリカ系黒人は主役のアデラ・ジェイムスだけでなく、エジプト人とされる人々の役は全てアフロ黒人が演じているという。当時のエジプトの支配階級はマセドニア人(現在のギリシャ)であり、アフロ黒人ではない。なぜエジプト王家の話なのにエジプト系俳優が一人も起用されていないのか、とそのユーチューバーは怒っていた。

Elizabeth Taylor as Cleopatra in the 1963 epic drama film directed by Joseph L. Mankiewicz.

Elizabeth Taylor as Cleopatra in the 1963 epic drama film directed by Joseph L. Mankiewicz.

しかしエリザベス・テーラーがクレオパトラを演じた時は人種が違うなどという批判はなかったではないかという問いに対して、エジプト人芸人Bassem Youssefはハリウッドは昔からそういうことには無頓着であり、当時のエジプト人もそれがいいと思っていたわけではないと語っていた。しかし、そういう彼の顔立ちは、中東系とはいえイタリア人やギリシャ人と言っても通用するヨーロッパ系に見えるし、肌はどちらかと言うと白人に近く目は青い。今のエジプト人でもこうなのだ。古代エジプトのマセドニア人であったクレオパトラがエリザベス・テーラーとアデラ・ジェイムスのどちらに似ていたかと言えば、明らかにテーラーの方に似ていたはずだ。

Bassem Youssef

Photo courtesy of Mustapha Azab Bassem Youssef

拙ブログでも何度かお話しているように、昨今のハリウッドやイギリスのドラマにおける人種挿げ替えの勢いは凄まじい。リトルマーメイドやティンカーベルのような架空のファンタジーキャラクターなら人種などどうでもいいという理屈も通るかもしれないが(通らないと私は思うが)、時代劇など史実を元に実在した歴史上の人物で肖像画などからその容貌が広く知れ渡っているような人たちですら黒人が演じるという本当におかしな状況になっている。

つい先日も、ウィリアム・F・バックリーJr.(1925ー2008)という1955年にナショナル・レビューを設立した保守派作家の役を黒人が演じているお芝居のコマーシャルを観た。彼は1950年代から2008年に亡くなる寸前までテレビなも多く出演しており、その教養あふれる上流階級人らしい彼独特の話方に関しては、まだまだ記憶に新しい人々が多く居る。彼の友人だった保守派の人びとも未だに作家や評論家として活躍しているわけで、全くイメージの違う人を配役することの意味がわからない。私の今は亡き我が友人はバックリーと面識もあり、彼の物真似が非常にうまかった。

しかし問題なのはイメージが違うなどという表面的なことだけではない。ほぼ単一民族だけの社会ではよそ者を忌み嫌うのはごく普通である。だいたいつい数十年前までどんな社会でもよそ者差別は普通だった。海岸沿いで貿易港などがあり諸外国の人びとが入り混じる都市ならともかく、小さいコミュニティーでは誰もが何世代も前からの知り合いだ。だからよそ者を警戒するのは当然の’話だ。

それと昔の社会はどこの社会でも階級制度というものがあった。自分らが付き合う相手は同じ階級のものだけであり、ましてや結婚などということになれば位が高ければ高いほど相手の家柄を選ばなければならない。位の違うひとたちとの付き合いは同じ階級の人びととのそれとはまるで違う。身分の違うもの同士の対等なつきあいなどというものは存在しなかったのである。

そういう社会を背景にした物語で、全く違う人種や階級の人間が、あたかも対等であるかのように自然な付き合いをする描写があった場合、歴史を良く知らない観客は昔の欧米社会についてどんな印象をもつだろうか?何も知らない観客は中世のイギリスやフランスの宮廷には普通にアフリカ系黒人の貴族が出入りし、貴族も商人も農民もみな同じようにふるまい、諸外国からの移民で街は溢れかえっていたと思ってしまうのではないか?だがそうだとしたら、当時全く文化の違う諸外国からの移民がヨーロッパの宮廷でヨーロッパ人と同じようにふるまうだけの教養を持っていたということになってしまい、当時の中東アラブの奴隷商人やアフリカ大陸からの黒人奴隷らの存在はかき消されてしまう。

つまり史実上の人物や当時の社会を無視した人種挿げ替えは当時の社会構成や文化全体を否定することになり、欧州及びアフリカや中東の歴史まで書き換えてしまうことになるのだ。

今の世の中でも人種差別が消えたわけではない。いや、それどころか人権屋が常に現社会の人種差別について声高に訴えている。しかし、ドラマの世界を信じるならば、中世や近代歴史の欧米で多人種が仲良く全く問題なく共存していたのに、昨今の人種差別は何時頃から始まったのであろうか、何故昔は人種差別がなかったのに突然現代になって人種差別が始まったのだ、そしてその原因は何なのだ?というおかしな疑問が生まれてしまう。よしんば昔から人種差別はあったと考えたとしても、ドラマの世界を見る限り、いまとそんなに違わない程度のものだったと判断せざる負えなくなり、欧米の人種問題は昔から全く変わっていないという印象を持ってしまう。実際はまるで違うにもかかわらずである。

それともうひとつ、昨今の人種挿げ替えはほぼ元の役が何人であろうと黒人が配役される。そして白人役を黒人が演じるのは構わないのに黒人役を白人が演じたら大問題になる。この間も書いた通り、現代のハワイ諸島民の役を実際のハワイ島民が配役されたにもかかわらず、役者の肌の色が白すぎると言って大騒ぎする黒人活動家たち。ハワイ諸島民はアフロ黒人ではなくヨーロッパの植民地時代が長く続いたせいで肌の色もまちまちであることなど完全無視。それでいて、非白人の有色人種(エジプト人)をあり得ない人種のアフロ黒人が演じることは全く問題がないと言い張り、当のエジプト人からの非難を「黒人差別だ」だとしてエジプト人ファン全般を侮辱するという傲慢さ。このままでいくと、そのうち「ショーグン」や「ラストサムライ」のリメイクが行われたら日本人役は全員黒人がやるのではないかとさえ思われるほどだ。

黒人俳優を多く起用したいというなら、黒人独自の歴史を語ればよい。近代の黒人英雄の遺伝はいくらもある。奴隷から政治家になったフレドリック・ダグラスやジム・クロー時代に育ちながら最高裁判事にまでなったクレアランス・トーマス判事の話など探せばいくらでもあるはず。なぜ他民族の歴史を乗っ取らなければならないのだ?何故他人の創造物を破壊しなければならないのだ?

今回のクレオパトラシリーズの大不評が良い例であるなら、今後このような人種挿げ替えはどんどん拒絶されていくだろう。そうなって反感を買うのは単に与えられた仕事をしていた黒人俳優たちのほうである。

追記:これを書いてからクレオパトラのプロデューサー、ジェダ・ピンケット・スミス(ウィル・スミスの悪妻)は、クレオパトラの失敗は白人至上主義のせいだと言っているという記事を見つけた。Jada Pinkett Smith claims her Cleopatra documentary FAILED due to WHITE SUPREMACISM (msn.com)。苦情の多くは非白人のエジプト人からなのに、なんでもかんでも白人至上主義の性にするな!歴史的にも間違いだらけの駄作を作った責任をちゃんと取るべきである。

ネット仲間のBlahさんがおもしろい動画を紹介してくれてるので張っておく。(5) 🇺🇸 🇯🇵Blah on Twitter: “ポリコレ改変が大好きなNetflix、今度はシャーロット王妃を黒人にして炎上。 シャーロット王妃黒人説は一部で根強く、原作者も賛同も、歴史家はこの説を強く否定。奴隷制廃止前に黒人系王族は無理があると批判の声。 ↓リプ欄で恒例のポリコレ映画ミーム集 https://t.co/PAqdaduhUg” / Twitter


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ドラアグクィーンがクールだった頃のミュージカル、キンキーブーツ

ミュージカル無料視聴期間の最後に観たブロードウェイミュージカルはキンキーブーツ。実はこのミュージカル、数年前に日本で今は亡き三浦春馬さんの主演で日本では大好評を得た作品。私がこの作品を知ったのも三浦さんが亡くなったというニュースを聞いた際にユーチューブで上がってきた動画を見たことによる。最近は城田優さんが主演で再演されている。

もととなったのは2005年に公開された同題のイギリス映画だが、その元の元は1999年に放映されたBBC2のドキュメンタリーシリーズで取り上げられたスティーブ・ぺイトマンという経営不振で傾きかけていた靴工場の経営者が男性用のブーツを製造し始めて成功したという話である。

今回私がみたのは2015年のロンドンのウエストエンド版だ。

ではあらすじ:日本語版ウィキペディアより

チャーリー・プライスはイギリスの田舎町ノーサンプトンの伝統ある紳士靴メーカー 『プライス社』 の跡取りだったが、周囲の重圧に耐えかね、転勤を機にロンドンに移住することを計画していた。

しかしロンドンに到着したその日に父の訃報が届き、『プライス社』 を継ぐことになり、しかも社の財政状況が火の車だということを知る。在庫の処分のためロンドンへ出張中にやけ酒を食らった勢いで、酔っ払いのチンピラに絡まれている美女を助けようとしたが、逆に美女に誤って叩きのめされてしまう。目が覚めるとそこは不作法なドラァグ・クイーンのローラ、本名サイモンの楽屋であり、その人物は桟橋で踊っていた少年の成長した姿であった。ドラァグ・クイーンには専用の靴がないため仕方なく女性用の靴をはいているが、ハイヒールは男性の重く大きな体を支えきれずに簡単に壊れてしまうことにチャーリーは興味が湧く。

ノーサンプトンに戻ったチャーリーは人員整理をしている最中、クビにしようとした社員のローレンに「ニッチ市場を開拓しろ」と捨て台詞をはかれる。そこでチャーリーはローレンを顧問として再雇用し、ローラのためのハイヒールのブーツである『女物の紳士靴』 の開発に着手し、そこにローレンの言うニッチ市場を見出す。しかし最初のデザインは機能性を重視するあまりにオバサンくさいブーツに仕立ててしまい、ローラを怒らせ、チャーリーとローレンはローラをコンサルタントとして迎える。しかし道は険しく、男性従業員の多くはローラの登場と新商品製作を快く思わず、チャーリーも婚約者のニコラとの関係がぎくしゃくし始め、「工場を売ってしまえ」と責められる。

ローラの意見を取り入れ、『危険でセクシーな女物の紳士靴 (Kinky Boots)』 を作り上げたチャーリーは、ミラノの靴見本市に打って出る決意をするが、ローラを含む多くの従業員に重労働を強いたため彼らは出て行ってしまい、事態は悪化する。-あらすじ終わり

このミュージカルで一貫して流れているのは、工場の跡継ぎとして父親から期待されていながら、父親生存中は父の事業に全く興味をしめさず父親を失望させていたチャーリーと、息子を男らしく育てようとした父の期待に沿えずに女装パフォーマーになったローラとの共通点だ。二人とも父親を失望させてしまったという負い目を背負って生きている。

この話は1990年代のイギリスの労働階級地域が舞台となっている。LGBTQ+活動が盛んな今のイギリスからは想像がつかないが、当時のイギリスはまだまだ同性愛者に対する偏見が強くあった。特にドラアグクィーンなどはロンドンなどの都会の一部では受け入れられても、ノースハンプトンのような労働階級の街ではなかなか受け入れてもらえない。いくら工場を救うためとはいえ、伝統的紳士靴を作ってきた工場で女装男性用の靴を作るなど工員たちの間で抵抗があるのは当然である。マッチョを自負している工場の男たちが女装姿のローラを見下げる姿を見ていると、まだほんの30年ちょっと前でもこうした差別意識はあったんだなと改めて感じさせられる。

さて、ローラはドラアグクィーンなので、ドラアグショーの場面が結構でてくる。ローラと彼の背後で歌ったり踊ったりするバックアップらの演技は観ていてとても楽しい。シンディー・ラウパーの曲も一緒に踊りたくなる。

ローラ役のマット・ヘンリーは全く美男子ではない。だが歌はうまく、ドラアグクィーンとしての仕草が決まっていて自然だ。はっきり言ってこのお芝居には美男美女役が登場しない。皆ごく普通だ。そしてヘンリーは身体もがっしりしているのでドラアグ(女装)しても絶対に女性には見えないのだが、そこがいいところだと私は思う。ドラアグあはくまでも女装男なので、女性に見違えるほど美しくあってはならないからだ。

しかし私は特にチャーリー役のキリアム・ドネリーが良かったと思う。最初は頼りないがだんだんと責任感ある男に変わっていくが、ストレスが貯まって周り中に当たり散らすところも自然だ。そしてドネリーの歌は凄く言い。声に張りがあって非常に力強い歌声だ。

今ドラアグクィーンたちの評判はがた落ちだが、この頃のクールなドラアグクィーンショーに戻って欲しい。

ちょうど私が観たバージョンの動画があがっていたので張っておこう。

脚本はハービー・ファインステイン(Harvey Fierstein)作曲シンディー・ラウパー(Cindy Lauper)。主な配役は次の通り。

  • チャーリー・プライス:キリアム・ドネリー(Killian Donnell
  • ローラ:マット・ヘンリー(Matt Henry)
  • ローレン:エイミー・レノックスAmy Lennox
  • 二コーラ:エイミー・ロス(Amy Ross)
  • ドン:ジェイミー・バクマン(Jamie Baughan)

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俳優の歳が追いついて味の出たミスター・サタデーナイト

本日のミュージカルはビリー・クリスタル主演のミスター・サタデーナイト。これは1992年に公開された同題の映画がもとになっている。映画の方はミュージカルではない。

私はこの映画を当時観たが、あまり良いとは思わなかった。主役のバディーが全然良い人ではなく、自分勝手で自分を愛している周りの人たちをずっと傷つけてきた嫌な奴だったからだ。それと、昔は人気者だったのに、今は落ちぶれて老人ホームで半分認知症の老人たちの前での仕事くらいしかないという70代のバディーを当時40代だったクリスタルが演じるのは無理があった。クリスタルは若いのに老人のキャラクターを演じるのがうまいことで有名だったので、多分若者から老人まで演じることのできる幅広い演技力を披露したかったのだろう。だが、映画は不評で興行成績も散々たるものだった。

クリスタルは元々スタンドアップコミックという日本語で言えばピン芸人だった。私が初めて彼をテレビで観たのは1970年代に放映されていた人気テレビコメディー番組ソープだ。彼はテイト一家のホモの息子という訳柄だった。日本語吹き替えでは女言葉を使っていたが、英語では全然それらしい演技をしておらず、やたらとホモジョークのネタにされていたという以外、普通の男性の役だった。今はあんな描写はLGBT界隈からクレームがついて駄目だろうな。

それが80年代にサタデーナイトライブというバラエティー番組のレギュラーになり、色々なキャラクターを紹介し、その演技の幅広さを示した。その当時よくクリスタルが演じていたのが老人の男性。当時はまだ30代だった彼の老人演技は非常に面白かった。

その後クリスタルは映画俳優としても成功し、大ヒットしたロマンスコメディー「ハリーメットサリー(ハリーがサリーと会った時)」都会の人間が乗馬しながら田舎生活を体験する「シティースリッカーズ」のシリーズの成功で一躍大スターへとのし上がった。ミスター・サタデーナイトはそんな絶世期のクリスタルが自ら脚本を書いた作品で、芸術映画としてアカデミー賞を狙っていたことは間違いない。しかし1950年代の人気もので1980年代現在は落ちぶれた老人という設定は、90年代当時の映画ファンから言わせるとどこにも共感を覚える接点がなかった。私自身50年代に人気のあったコメディアンのことは何も知らないし、懐かしいと思う思い出もない。言ってみれば、バディーの20代で無知なマネージャー、アニーと同じ立場だった。

そういうわけなので、なぜあの映画をわざわざミュージカルになんぞしたんだろうかと興味が湧いたので無料視聴期間に観てみた。しかしこの話、思っていたより悪くない。クリスタルが歌が歌えることは全然しらなかったのだが、彼の歌声は結構聞ける。ジョークもすごく面白い。次から次へと飛び出すジュ―イッシュ特有の皮肉に満ちたジョークに、私は久しぶりに大声で笑った。最近はげらげら笑えるコミックが少ないので、何か斬新な感じさえした。もちろん最近のポリコレブームでこんなオフカラーなジョークはちょっと無理かも。

しかし何よりも良かったのは、現在74歳のビリー・クリスタルは、役柄のバディーと同じ年になったということだ。しかも彼自身が若い頃に大スターになり、決して落ちぶれているわけではないが、昔のように引く手あまたな俳優ではない。だから今のクリスタルがバディーを演じるのはしっくりくるのだ。そしてこれは友人に指摘されたのだが、私自信もこの映画を見た30代初期から60代になっていることも、この話に共感できることの一つだろう。今の私はクリスタルの若い頃の活躍を懐かしく思える歳になっているからだ。

この話を普通のお芝居でなくミュージカルにしたのは成功だった。しかしこれはビリー・クリスタルのワンマンショーと思ってみた方がいいかもしれない。彼は芸達者なので、芝居の中で様々な持ちネタを披露する。若い時の演技も若い俳優を使わずに兄のスタンも妻のイレーン(Randy Graff)も同じ俳優がそのまま演じているが、これも舞台ならではの味である。

話の筋は結構単純。主人公のバディーは1950年代に一躍を風靡した大スターだったが、人柄に問題があり、あちこちでいざこざを起こしてしまう。せっかく大人気バラエティーショーを数年持っていたにもかかわらず、視聴率が下がった不満を生番組中に局やスポンサーの悪口としてぶつけてしまい、ショーはキャンセルされ、問題児としての評判が立って、その後は豪華客船のショーやあちこちの小さい劇場で演技を続け、今や老人ホームでの営業ぐらいしか仕事がない。長年自分のマネージャーをやっていた兄のスタンもいい加減付き合い切れずに引退しており、仕事にかまけてきちんと面倒をみてこなかった40歳の娘との関係も全くうまくいっていない。それでも彼に見切りを付けずに献身的に尽くしてくれる妻のイレーンが傍にいるだけ。

しかしエミ―賞の放映中、今は亡きコメディアンに混じってビリーの名前が出たことで大騒ぎ。実は死んでいなかったとわかって人気テレビトークショーにゲストに呼ばれる。そこでの演技がおもしろかったため、見直され大手エージェントから契約したいとオファーが来る。しかしいざインタビューに行ってみると、やってきたのは昔のビリーのことを全くしらない20代の駆け出しマネージャー、アニーChasten Harmo)だった。無知なアニーに腹をたてたバディーは一旦は契約を断るが、アニーの学ぶ熱意にほだされて色々な仕事に挑む。しかしすぐに昔の癖が自分勝手な演技を初めてことごとく失敗。そんな折、大昔、子供だった頃バディーの生ステージをみていた今は映画監督からオーディションのオファーが来る。

以下ネタバレあり

脚本は観ながら猛練習をするバディー。ちょうど家に仕事が見つかったと報告にきたスージーShoshana Bea)の話もきかずに、練習に付き合わせるバディー。しかしここでもまたスージーと大ゲンカ。数日後、オーディションに行ってみると、演技は素晴らしかったのだが、すでにその役は人気俳優に渡ってしまったことを知らされ、失望のあまり兄のスタン当たり散らし、ここでも大ゲンカ。最後に兄に「お前の言う通りだよ。でももう少し優しくできないのかい?」と言われてショックを受けるバディー。

自分を愛するひとたちをことごとく傷つけてしまうバディー。娘や兄と仲直りできるのだろうか?この先彼のキャリアは再び日の目をみることがあるのだろうか?

というわけなので興味のある人は映画を見てみるとよいと思う、筋はそのままだと思うので。ただ私は映画のエンディングを覚えていない。それでこのお芝居と映画が同じように終わるのかどうか自信がない。映画を見た時は、なにか後味が悪かった記憶があるのだが、ミュージカルの方は非常に満足のいく結末になっていた。二時間四十五分も付き合った甲斐があったというもの。

バディーの兄スタン役は、映画と同じデイビッド・ペイマー。彼はもう80歳近いだろうけど素晴らしい演技を見せる。彼は歌手ではないからミュージカルナンバーはちょっと無理があるが、それでも私は結構気に入った。

アンサンブルでジョーダン・ゲルバー、ブライアン・ゴンザレス、ミランダ・フルが、何役もこなしていて面白い。

ミュージカルとしての評判は今一つで、芝居は一年足らずで閉幕したが、それでもクリスタルは2022年トニー賞で最優秀男優賞にノミネートされている。74歳という高齢で毎日の舞台は大変だったろうし、このくらいでちょうど良かったのではないかと思う。彼以外でバディーを演じられる人はいないので、というか、このショーやクリスタルあればこそなのでロングランは最初から予定されていなかったと思う。

ともかく久しぶりに大笑いさせてもらったので満足している。


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ミス・サイゴン、今も昔も変わらない現地妻の悲劇、蝶々夫人との共通点

ネットでブロードウェイお芝居を観られるフロードウエイHDの無料視聴期間が7日間あるので、その間にこれまで観たくても観られなかった有名何処のミュージカルを毎晩観ることにした。昨晩観たのはかの有名なミス・サイゴン25周年記念上演版。初演は1989年にイギリスのウエストエンドで公開された。当時、ベトナム人と白人との混血エンジニア役を白人のジョナサン・プライスが演じたといってちょっと批判されたりしていた。初演で主役のキムを演じたリー・サロンガはウエストエンドでもブロードウェイでも大スターになった。日本でも劇団四季が市村正親主演の初演以来、何度も上演されている。

私にはミュージカル大ファンの親友が居るが、彼女は押しの俳優さんを追って、このお芝居は何十回と観ていて、前々から薦められていたのでとても楽しみであった。しかし私が思っていたのとは違う筋でちょっと意外だった。

あらすじ ネタバレあり

舞台は1975年4月、ベトナム戦争末期、文字通りサイゴン崩落前夜から始まる。エンジニアが経営する売春宿に米軍GIのジョンとクリスが遊びに来る。ジョンは女遊びには気乗りのしないクリスのために店に入ったばかりの処女キムを買い与える。最初は乗り気ではなかったクリスもキムの清純な魅力に魅かれ、キムもまたクリスのやさしさに魅かれて二人は一夜にして恋に落ちる。

しかしベトナムはすでにアメリカ軍撤退は避けられない状態。南部のベトナム人たちはサイゴンが北郡に占領される前にアメリカに逃れようと必死にアメリカ大使館の周りに集まっている。当時の様子はアメリカ軍が残していく武器を北郡に取られないようにどんどん破壊していく映像がテレビでも流れていた。特にヘリコプターが海に落ちる動画は有名だ。

そんなどさくさの中で、クリスは一日だけ休暇をもらってキムと結婚しキムをアメリカに連れて行く手続きもするが、動乱のなかキムを迎えに行けず、大使館の前まで来ているキムと連絡も取れず、クリスはそのままキムを残して帰国せざる負えなくなる。

三年後、すでにアメリカで再婚していたクリスは友人のジョンからキムが生きており自分には息子がいることを告げられる。今まで隠していた事実を妻にすべて打ち明け、クリスは妻のエレンと一緒にキムと息子がいるバンコックへ向かう。

クリスの友人ジョンからクリスがバンコックへ来ていると知らされたキムは、クリスが自分を迎えにきてくれたと早合点。ジョンの説明も聞かずにクリスが泊っているホテルに行く。そこでキムに会いに行ったクリスと入れ違いになってしまい、キムはエレンの口からクリスが再婚していた事実を知る。

狂乱したキムはエレンに自分の子供をアメリカに連れて行って欲しいと嘆願。キムの息子愛に心打たれたエレンはそのことを帰ってきたクリスに告げ、ジョンとエレンはキムと息子に会いに行く。

キムはクリスとエレンに子供を頼むと言って息子を引き渡すが、自分は奥の部屋に戻ってクリスが護身用にと昔キムに渡した銃で自殺をしてしまう。

あらすじ終わり

ちょ、ちょっと待ってよ、これってまさにプッチーニのオペラ、マダマ・バタフライ(蝶々夫人)じゃない!最後に女が自殺するところまで筋がそっくりだ!それもそのはず、なんとこの話、原作は蝶々夫人だったことを検索して知った。

作品名ミス・サイゴン
作曲クロード=ミシェル・シェーンベルク
作詞アラン・ブーブリル、リチャード・モリトビーJr
原作プッチーニのオペラ『蝶々夫人』
Musical Classicaより引用

この作詞作曲のコンビは、かの大作レ・ミゼラブルも手掛けた名コンビ。しかしクラッシック風のレミゼとは対照的に、ミス・サイゴンは非常にジャズ的な要素が高い。

話の大筋はこんなところで、主役はキムとクリスだと思いがちだが実はそうではない。この話の主役はなんといってもサイゴンで売春宿を経営していたエンジニアである。エンジニアが本名ではないのは当たり前だが、この男の素性は怪しげでよく分からない。だが頭がよくて機転が利き、どんな状況でも生き延びる手段を持っている。

売春宿で平気で女を殴る嫌な奴だが、どうも憎めない。内戦状態が何円も続いていた貧しいベトナムで、売春以外に貧乏人の子供がどんな生き方があったのかと言われてしまえば何とも言えない。この芝居が上演された時、女性蔑視だとか人種差別だとか色々言われたそうだが、ベトナム戦争中の売春宿が舞台なのだ、批評家たちは一体何を期待していたのだろうか?

エンジニアはキムの混血児を使って自分はキムの兄と言うことにしてアメリカに渡ろうと企み、アメリカで一旗揚げようとアメリカンドリームを唄う。私はこのミュージカルで知っていた歌はこれだけ。以前に市村がこれを唄ってるのを聞いたことがあった。彼の場合は踊りもうまいので非常に面白い演技になっていたが、今回のジョン・ジョン・ブライオネスの演技と歌は素晴らしかった。この役柄が憎めないのは彼のコミカルな演技にあるのだろう。

ブライネスが何処系の人なのかはわからないが、私は実際にこういうグリースィ~なベトナム人男を何人か実社会でみたことがある。ポマードべとべとの黒髪を後ろにすいて、派手な上着を着て金の鎖をじゃらじゃら首にかけて高級な腕時計をしている場末カジノの支配人といったかんじ。エンジニアならきっと難民キャンプからなんとか逃れてアメリカへわたり、きっとカリフォルニアのポーカーパーラーかなにかを仕切っていることだろう。

もう一人主役以外に私が気に入ったのがキムの元許嫁で後に北軍の指揮官になるトウィ役のカン・ハ・ホング。この役はいつでも感情的で暴力的なのだが、ホングはその感情を良く表し。その美しい声で歌い上げる。悪役なのだが、かなりの男前で惚れてしまった。

さて、この外国から来た男が一時的に滞在した地で地元女性と関係を持ちながら女を置いて去って行ってしまうというテーマは万国共通で昔からよくある話だ。また、戦争中に戦地にいた兵士との間に子供が出来る女性というのも珍しい話ではない。第二次世界大戦後に米兵相手に売春をして混血児を産んだ女性はいくらもいた。そして混血児を育てられない親たちによって捨てられた子供はいくらもいたのだ。

この芝居の中でも、第二部はクリスの友人ジョンがベトナムに置き去りにされた米兵と現地妻との間に出来た子供をアメリカに呼び寄せようという活動をしている。アメリカは世界中に出兵しているから、こういう子供は諸外国に数えきれないほど居るんだろうな。

無論クリスは好きでキムを置き去りにしたわけではない。アメリカ軍撤退の動乱のなか、ベトナム人女性一人と何とか脱出するなどそう簡単に出来たわけではない。ベトナムとアメリカの間は険悪であったから、その後置いてきた人を探し出すなどということも困難だったのは当然のことだ。それでも罪悪感にさいなまれるクリスの力になったのが妻のエレンである。彼女もまたクリスが抱える苦悩に気付いて苦しんでいる。

アメリカにはベトナム人難民が沢山いるが、ここで私の実体験をお話しておこう。1980年代初期の話だが、職場付近にあったレストランで昼食を取っていた時、仕事関係で知り合いの男性が女性と食事をしているのを見かけた。その人は中小企業の社長さんでその時もピシッとした格好をしていたが、一緒にいた東洋人の女というのがおよそ彼のような人にはふさわしくない女だった。着ている服は体にぴったりしたミニドレス。胸の半分がさらけ出されるようなローカット。しかも化粧がゴテゴテの厚化粧。場末のキャバ嬢でもあんな恰好はしないというような下品な感じのする女だったのだ。その話を後で職場の同僚にしたら、「あ、あれはあの人の奥さんだよ。ベトナム駐在の時に出会ってこっちにつれて来たんだってさ」と言われてびっくり仰天。ベトナムの繁華街で勤めていた現地妻を本当にアメリカにつれてきちゃったのか、そんな男が本当に居るんだ!そう思って私は奥さんの恰好が下品だなどと蔑んだ自分が恥かしくなった。

配役:

Jon Jon BrionesThe Engineer
Eva NoblezadaKim
Alistair BrammerChris
Kwang-Ho HongThuy
Tamsin CarrollEllen
Hugh MaynardJohn
Rachelle Ann GoGigi
William DaoTam
Paul Benedict SarteTam

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黒人至上主義者のプロパガンダ、クレオパトラは黒人という嘘

ノ、ノ、ノ、クレオパトラは黒人じゃない。だれが何と言おうと絶世の美女とうたわれたクレオパトラ7世は断じて黒人ではなかった。何を突然いい出すのかって?実は最近公開されたネットフリックスの「ドキュメンタリー」と称するフィクションでクレオパトラをイギリスの黒人女優が演じており、番組の中でもクレオパトラがアフリカ系黒人だったという話をまことしやかにしているからだ。これが単なるドラマとかであれば、まあ、架空の話でるからそれはそれでもいい。それでも私は歴史上の人物はなるべくそれに見合った俳優を起用すべきだと思うが、まあ、それはいいとしよう。問題なのはこれがドキュメンタリーであるとうたわれている点。これでは多くの日が彼女に対して間違ったイメージを持ってしまう。

彼女の人種は割合はっきり知られている。彼女はエジプトの女王であり、当時のエジプトには文字があったので、彼女のことは代々の家系図ではっきりと記されているからである。それによれば、クレオパトラはエジプトの女王ではあったが、今エジプトに住むアラブ人の系統ではなく、マセドニア人(今でいうギリシャ人)で、いくらかペルシャ人(今のイラン人)の血が混じっていたことがわかっている。

また保存されているエジプト王たちのミイラからわかったDNA調査でも、昔のエジプト人は地中海のヨーロッパ人に近いことが確認されており、アフリカ系の血は混じっていないことがはっきりしている。

クレオパトラは女王であったから彼女の肖像は壁画や銅像やコインなども多く残っており、もし彼女がアフリカ系黒人であったならそのように描かれたものがあってもいいはずだ。だが、そのような肖像はひとつも残っていない。どれをみても、彼女は彫りの深い鼻の高い美女として描かれている。女王だから実際より美しく描かれていたとしても、彼女が黒人だったなら誰か一人くらいはそう描いていたはずだ。

確かにエジプトの壁画はヨーロッパの彫刻のように写実的ではない。しかしそれでも違う人種はそのように描写されている。例えば下記の壁画だが、肌が黒いのはさることながら、髪の毛の質や顔立ちなど明らかにアフリカ系黒人と解る描写がされている。アフリカ系黒人を描いた壁画。

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リンク先をクリックすれば大きい絵がみられる。クレオパトラはこのような描写にはなっていない。下記は複製だが、大抵こんな風に描かれている。どうみても上の黒人たちとは全く違う描写である。

  • Cleopatra

またクレオパトラは2年間ローマに住んでいたことがあり、その頃もっと写実的な彫像を作る傾向にあったローマで彼女の彫像が作られており、どれも白人女性の顔で描かれている。

ローマ人であるジュリアスシーザーやマーク・アントニーなど当時のマセドニアやローマの人びとが彼女を絶世の美女と考えたわけだから、彼女は当時の美女の標準に達している必要がある。こういっては何だが、当時の人たちがアフリカ系黒人女性を美女だと思ったとは考えにくい。

下記の動画では、彫像や肖像画を元にクレオパトラはどんな顔だったのかを再現したものだ。クレオパトラは赤毛で描かれていることが多いので、もしかすると赤毛だったのかもしれないとビデオの制作者は言っている。

何にしても彼女が白人だったことは間違いはない。にもかかわらず何故一部の黒人の間でクレオパトラは黒人だった説がまことしやかに語られるのだろうか?

私はこれは最近始まった黒人至上主義が原因だと思っている。

近年イギリスやアメリカでは黒人による歴史的貢献を古代評価する傾向がある。私は大学時代にアフリカの歴史を少し学んだことがあるが、お世辞にも文明開化の社会ではなかった。アフリカにはエジプトや中国のような古い文化はなく、巨大な部族はあったとはいうものの、立派な建築物も残していない..若干アフリカ大陸北部にはアラブの影響で古い建物は残っているが、それにしたってアフリカ人が建てたわけではない。

つまりアフリカには世界の文明に貢献したようなものは特にこれと言ってないのだ。

それが気に入らないのがアメリカやイギリスに居る黒人至上主義者たち。何とか自分らにも高貴な歴史があったと思いたいばかりに歴史を書き換えてしまうのである。例えばヨーロッパ人がアフリカに来てアフリカに合った帝国を滅ぼしたとか。

そして今回のようおにクレオパトラは黒人だったとか言い出したわけだ。そんなことをしても、エジプトを支配していたのがマセドニア人だったことに変わりはないのに。

最近何かというと元々白人のキャラクターをやたらと黒人が演じることが多くなったのも、この黒人至上主義のせいだ。イギリス宮廷の王女を実際とは正反対に色の真っ黒な女優が演じたり、ディズニーのリトルマーメイドやティンカーベルやピノキオの青の妖精など、白人としてのイメージが定着しているキャラクターをこれでもかというほどイメージの違う女優にやらせている。はっきり言ってこれには悪意しか感じない。

イメージが違いすぎると苦情を言っていた人たちをレイシストと言って罵倒していた人たちが、先日発表されたハワイ原住民を主役にしたリロとトゥイッチの配役が発表されると、俳優たちは皆太平洋諸島出身であるにもかかわらず、アニメキャラより色が白すぎるとものすごい批判を浴びせた。何故白人は全くイメージの違う黒人が演じてもいいのに、非白人だったら肌の色がちょっと白目程度でそんなに怒るのだ?ダブルスタンダードもいい加減にしてほしい。

リロとトゥイッチの配役とアニメキャラ。

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以前に日本人でハリウッド俳優として活躍している男性が、マイノリティーはマイノリティーが演じるべきだと言っていたので、じゃあ黒人が白人を演じるのはどう思いますかと質問したが完全無視されたのを思い出す。

クレオパトラが黒人だった可能性はゼロだが、現代に生きるハワイ諸島の人びとに白人の血が混じっているのはよくあること。だからこれらのキャラクターがアニメで描写されているより多少色白であることなど大した問題ではないはずなんだが。何故か人種スワップは一方通行らしい。


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女性自認男への特別扱いは真実への冒涜

数日前からイギリスのロイヤルアカデミーオブダンス(RAD)というバレエ学校に、33歳からバレエを始めたという身長190cm体重は裕に120キロはあると思われる熊のような大男が受け入れられたというツイートが上がって来て話題になっている。

当初元ツイの人が間違えて彼がロイヤルバレエアカデミーに入学したと書いてしまい、まさか、そんなと誰もが息をのんだのだが、コメント欄に、いやいや、これはバレエ団付属の学校ではなく、民間のバレエ教室のことだと訂正する人があり、なんだ単に素人がお稽古事でやっているだけなのかとホットしたのもつかの間、実はこの大男はその後あちこちのイベントに招かれてプロダンサーとして踊っているという話を聞いて全く呆れてしまった。

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Mr.ソフィア・レベッカ

男の名前はソフィア・レベッカ(明らかに本名ではない)。厳密にいうとレベッカ氏は2017年にRADの初中級試験(大人が受けられる最低のレベル)に合格したということらしい。このRADにおける検定試験の様子を、普通の女子とソフィアと並べたビデオを誰かがアップしてくれたのでご覧いただきたい。こちらがそのリンク。左側の子は明らかにダンサーの卵だが、右側の男はどうみても子供のお遊戯レベル。私は5歳児のバレエコンクールの動画をいくつか観たが、どの子もこの男よりずっと上手だった。この男の踊り(と言えるのかどうか)はまるで熊がドスドス歩き回っているようである。なんでこんなんで検定試験に受かってしまうのだ?

その後レベッカ氏はプロダンサーとしてアメリカでツアーまで行ったというからあきれてものがいえない。彼が自慢げに自分のユーチューブチャンネルで上げている何かの発表会で踊っている時の動画もみたが目も当てられない。引き立て役の女の子たちのほうが数十倍も上手なので彼の下手さが余計に目立つ。それでいて舞台に置かれた花束は女の子たちが拾い上げてこの熊に渡している。そして絶賛の声援を送る観客。多くのコメンターが彼はつま先で立ってもおらず(あの体重でそれをやったら足の指が折れるだろうという批判もある)これはバレエと言えるレベルではないと辛辣な批評。まあ、あたりまえだが。

いったいこれはどういう茶番だ?パロディーなのか?

これを観て読者諸氏も数週間前に行われたヨーロッパフィギアスケート選手権の開会式で、女装した中年のおっさんがよろよろとリンクを滑り、途中で転んで立ち上がれず、女の子のスケーターたちに助けられた動画を思い出されたのではないだろうか。その時の動画がこれ

そしてもうひとつ、ミスアメリカ主催の地方コンテストでこの19歳男子が優勝したのも記憶に新しい。

これらの話で共通しているのは、彼等に課せられた基準は一般の競技者に課せられた基準よりも遥かに低く、もしも彼等が普通の女性であったなら、このようなレベルでは各競技で最初から相手にもされず門前払いを食ったのは間違いがないという事実である。

普通なら非常に厳しい訓練を受け、厳選された人のみがトップに行ける競技でも、心が女だと言い張れば熊のように醜い男がバレリーナになれるというのはどういうことなのだ?

ミスコンの肥満男やスケートおっさんを観た時も、そして今回の熊ダンサーの時も思ったのだが、女装男子にはそれなりに特別の場がある。トランスジェンダーだけの美人コンテストもあるし、女装男子のフィギアスケートもプロバレエ団も存在する。自認女子がこうした競技に参加したいのなら、そういうところで実力を発揮したらいいはずだ。それなのに、なぜこの醜い男たちはわざわざ女子枠に割り込んで調和を乱すのだ?

と書いていて、自分で自分の質問に答えてしまった。

これらの男性は普通に男子競技に参加するだけの実力を持ち合わせていない。だから生得的男子だけのトランスジェンダー専門の競技でも到底レベルが及ばない。そういう奴らがわざわざ女子枠に入り込むのは、まさにそれ、女性空間の調和を乱すこと、女性を冒涜することが目的だからである。

女性達を冒涜するためには、女装男達の実力は酷ければ酷いほど良い。醜ければ醜いほど良いのだ。そしてこの醜く無能な男たちを、「美しい!勇敢だ!胸を打たれる!」と言って誰もに称賛を強制することにこそ意義があるのだ。人々に明らかな虚偽を真実と認めさせることこそが独裁者の真の目的だ。なぜならそれは市民の完全服従を意味するからである。これは女性達だけへの冒涜ではない。真実への冒涜だ。

悪なのだ。

それにしても、周りからちやほやされて、何の才能もないのに自分は才能があると思い込んでる男たちも、考えてみれば惨めである。彼等の妄想を周りが持ち上げて影で彼等を物笑いの種にするのは残酷な行為だ。

私は最初にレベッカ氏を熊に例えたがそれには意味がある。

我々が動物の曲芸をみて面白いと思うのは、動物はしょせん人間並みの芸などできないという前提があるからで、動物が何か演技をして称賛するのは、動物にしては良く出来たと言って喜んでいるに過ぎない。熊がフリフリを着て二の足で立ち上がって一回転すれば、人々は「お上手、お上手」と手を叩くだろう。

あの舞台を観てレベッカ氏に拍手を送っている観客のように。


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トランス思想が原因で自分の創設したダンスカンパニーを追い出された女性振付師

先日イギリスのダンサー・振付師のローズィー・ケイさんのインタビューを聴いた。彼女は若い頃からバレエを習い、プロダンサーとして長年海外やイギリス国内で活躍していたが、2004年に自分のダンスカンパニー、ローズィー・ケイ―・ダンスカンパニーを創設した。最初は彼女自身、そのうちに一人二人をメンバーが増え、だんだんと大きな組織になっていった。

そんな折、ローズィーは資金集めをするためにカンパニーを慈善事業にするべきだというアドバイスを受けた。しかしそうするためにはイギリスの法律で創設者がそのまま取締役をやることはできなかったため、彼女は自らその座を退き、信用できる人員を役員に選んだ。それで書面上ローズィーは自分の会社の社員の立場になった。しかしこれは彼女の会社であり、会社の資金繰りや運営には彼女は深くかかわっていたし、創作的決断はすべて彼女が行っていた。

ローズィーは2年ほど前、ロミオとジュリエットを現代のイギリスの下町を舞台にした作品の制作途中だった。コロナ禍で舞台はどこも苦しい状況にあったため、彼女は仕事にあぶれていたあまり経験のない若いダンサーたちにも機会を与えようと何人か採用した。ところがこの新人ダンサーたちのムードが彼女がこれまで出会ったダンサーたちと違っていた。

彼女はリーダーとして新人たちがうちとけてくれる方法を考えていたが、なにせコロナ禍真っ最中だったため、みんなが一緒に食事をすることも出来ず、彼女は彼女で父親が病気で末期状態ということもあり、なかなかうまくいかなかった。

しかしそれだけでなく、ローズィーにはこの新しい世代の若者たちの態度がどうもしっくりこなかった。それというのも、彼女がダンサーたちを指導しているとき、何か注意をするとダンサーたちは嫌な顔をした。ローズィーはこの道25年のベテラン。振付師に注意されて嫌な顔をするなんて考えられない。第一コロナ禍でダンサーは仕事に飢えていたはず。そんな時経験もない新人が一流プロダクションで踊れるなど感謝すべき立場のはずなのに、彼らは振付師でありディレクターでもあるローズィーに対して全く尊敬の念をみせなかった。

そんな時事件が起きた。ローズィーはある日、若者たちを自宅に招待してパーティを開いた。夜もだいぶ更けて来てみなそろそろ出来上がってきたころ、誰かが次の題目は何を考えているのかと質問した。

ローズィーは次の題目としてバージニア・ウルフ著の「オーランド」の舞台化を考えていると話した。オーランドは不思議な話で、オーランドは何世紀も生きる不老不死の人物。私は映画を見たが確か彼はエリザベス朝の貴族として生まれた男性。ところがある日突然何故か途中で女性になってしまう。話のなかで何故そうなったのかという説明がない。しかし女性となったオーランドはそのまま何百年も生き続け最後は20世紀で終わる。

ローズィーはそろそろオーディションの広告を出そうと思っていると話した。ところがこの募集広告における言葉使いを巡って、まだカンパニーに入ったばかりの新人からクレームがついた。オーランド役はトランスジェンダーであるべきだという話しになったのである。

しかし彼女は女性と男性は違うこと、女性の身体を無視して誰もが女性になれるという考えは危険だという話を始めた。オーランドの面白いところは、男性貴族として生まれたオーランドは何の苦労もなく生きていたが、女性になった途端に自分の父親の財産を相続できないなどの差別にあう。これは社会が男と女をどれほど区別して扱っているかという話でもある。それにウルフの時代にはトランスジェンダーなどという概念すらなかった。だから女になりたい男の話などという設定にしたら話はまるで意味をなさないのだ。

話がすすむにつれて、若い子たちがどんどん喧嘩腰になっていくのが感じられた。どれだけローズィーが説明しようとしても、もう新人たちは彼女を完全に敵視していることがわかった。ローズィーは次の公演に彼等を必要としていたので、なんとかその場を収めようとしたがうまくいかなかった。

翌日彼女は取り締まり役員たちから自分が捜査対象になっていることを告げられた。捜査の結果、ローズィーの無実は認められ、ローズィー自身もダンサーたちに謝罪し、すべては収まったかに見えた。

ところがその後、その結果を不服とした自称ノンバイナリーのダンサーが抗議。外部の捜査員や弁護士がローズィーが設立しローズィーによって利益を得た会社のお金を使って雇われ、ローズィーの二度目の捜査が始まった。そして信じられないような酷い罪を着せられた。

自称ノンバイナリーのダンサーたちはローズィーが頻繁に元の性の代名詞を使うことを不満とし、ローズィーが険悪な職場を作っていると訴えた。しかしローズィーからすれば、振り付けをしている忙しく集中している間に、個々の好む代名詞など思い出せないし、「ハイ、男子はこちらから、女子はこっち」などと言ってる時にいちいちノンバイナリーだなんだのと考えている余裕はなかったと言っている。

このまま会社に残って何も言えない状況で仕事をすることは出来ないと決心したローズィーは自らが設立した会社を辞めて、心機一転、新しい会社を設立。再びダンスカンパニーを一からやり直すことにした。

彼女の新しいカンパニーでは女性が女性であるがゆえの経験を正面に押し出した作品を作り上げていくつもりだという。

これはインタビューアーの一人が言っていたのだが、自分が20歳の新人で、仕事にあぶれている時に未経験の自分を雇ってくれた20年も先輩のしかも有名な振付師が、親切にも自分たちを自宅に招待してくれて、お酒までふるまってくれているのに、その彼女の政治的な意見がどれほど気に入らないにしろ、それを責めるようなこと本人に向かって言うなんて想像もできないと言っていた。

全くその通りだ。自分がどれほど強い気もちを持っていたにしろ、自分はただの新人。ダンサーとしての能力もまだまだ未熟。その時分が有名な振付師の元で修行をさせてもらい、しかも大舞台に立たせてもらえるという時に、恩を仇で返すようなことが出来るその神経は理解に苦しむ。

こういう若者たちは学校で自分らのいう我儘が常に許されてきたのかもしれない。特に左翼思想は何を言っても受け入れられてきたため、その思想に誰かが反論するなど考えてもみなかったのかもしれない。もしこれが正気の世の中であったら、職を追われるのは振付師の方ではなく新人ダンサーの方だったはず。

しかしこれらの若者にとって、トランスジェンダリズムという考えは絶対的な善なのである。これは共産主義政権下で共産主義に批判的な上司を告発するのと全く同じだ。絶対的力のあるトランスジェンダリズムに少しでも歯向かう人間は誰であろうと許されない。即座に沈黙させる必要があるのだ。

最近プロジェクトベリタスの創設者ジェイムス・オキーフが重役会議で委員たちの裏切りにあい、自らが創設してここまでにした会社を追い出されるという事件が起きたばかりだが、ローズィー・ケイにしてもジェイムス・オキーフしても、これらの会社のブランドは創設者その人だ。彼女たちを追い出してもその会社は成り立たない。

ローズィー・ケイの居ないローズィー・ケイカンパニーなんてありえないだろう。慈善事業の資金減は寄付金だ。寄付をするひとたちはローズィーに会社だから寄付をしてきたのであり、彼女が居なくなった会社に何故寄付をする必要があるだろう?

いったいローズィーを追い出した若いダンサーたちは今後どうするつもりなのだろうか?

ローズィーには才能がある。だから彼女は再び新しい会社を始めることが出来る。だが経験もなく口うるさいだけの無能なダンサーたちに将来はあるのだろうか?

もしローズィーがこのままキャンセルされずに新しいダンスカンパニーを成功させることが出来たなら、イギリスにもまだまだ希望は持てるかもしれない。


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