ひょうんな事からSuperfly(大型蝿?)というグループのことを知ったのだが、このビデオを観ていて面白いことに気が付いた。

それは、彼女たちの音楽がカカシが青年だった1970年代と全く変わりばえしていないのにもかかわらず、ミュージックビデオでの彼女たちのボディランゲージは1970年代の日本では絶対に考えられないほどアメリカナイズされているということだ。
スーパーフライの音楽は1970年当時の松任谷由実とか八神純子の音楽と大した差はないと思う。実際にユーミンの歌を彼女たちが今歌ったとして、当時を知らない若者ならそのまま受け入れているのではないかと思うほど酷似している。リードボーカルは歌はうまいが、音楽的なセンスとしては、はっきり言って70年代からまるで進歩ない。
しかしだ、ボディランゲージは雲泥の差がある。
私が始めてアメリカに来たのは1979年。当時の私は自分から握手のために手を伸ばすことさえできなかったほど、他人の身体に障ることにためらいをもった。ましてや特に親しくもない人と抱き合うなどもってのほかだった。一度、友だちのお母さんが私に抱きついてきたときは、驚いて後ずさりしてしまった覚えがある。人を抱擁するなど、カカシ家では、家族でも考えられない行為だった。
最近の人が歴史ドラマを作成するとき、どうしても違和感が生まれるのは、この現代的なボディランゲージと言葉使いだ。幕末ものなどで、登場人物にお国訛りが全くなかったりすると、完全に脱力してしまう。薩摩や長州の人間が京都や江戸の人間と同じ言葉使いをしたのでは、それだけで歴史が変わってしまうではないか?
カカシが古臭いからだと言われてしまえばそれまでではあるのだが、昔の人は現代人のようには振舞わなかった。現代人のような言葉使いをしなかった。これは何も何百年という歴史を振り返るまでもない。
私は第二次世界大戦前後に作られた白黒の日本映画を結構観ているのだが、そのなかで原節子が家族と交わす言葉使いなどをみてみると、現代家族では考えられないほど礼儀正しい。「私がお嫁にいったら、お父様どうなさるの?」なんて台詞が平気で出てくる。今の年頃の女性が父親とこんな会話を交わすのは想像できない。
昔は昔、今は今。それはそれでいいのだ。だがそうだとしたら、現代の音楽は昔より多少進歩があってもいいのでは?


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