舞台:同性愛を全面的に出し過ぎた「ドリアン・グレイの肖像」

19世紀の詩人オスカー・ワイルドが書いた唯一つの小説として有名な「ドリアン・グレイの肖像」を地方劇団の舞台で観て来た。あまりにもローカルな話題なので劇団名を紹介しても意味ないかもしれないが、一応ノイズ・ウィズインという劇団の公演で、動画広告のリンクはこちら

あらすじ:舞台は19世紀のロンドン。画家のバジル・ハルワードは素晴らしい美貌を持つ青年ドリアン・グレイの神秘的な魅力に魅せられその肖像画を描く。バジルの友人ヘンリー(ハリー)・ワットン卿は画家の部屋でモデルをするグレイに遭遇。若さと美しさのみに価値があるとハリーに言われ、自分の代わりに肖像画が年をとればいいのにと願うドリアン。その後ハリーの悪影響で堕落したデカダンスな生活を満喫するドリアンは、いつの間にか自分ではなく肖像画が年を取っていくことに気が付く。しかも自分がなにか悪行を犯す度に、肖像画は醜くなっていくような、、、

有名な話なので何度も映画化や舞台化されている作品だが、こういうクラッシックも現代的な価値観で観るとずいぶん違った舞台になるものだなと思った。オスカー・ワイルドがバイセクシャルだったことは有名だが、だからといって彼の作品に同性愛色が濃いと考えるのは短絡的な発想だ。原作を読んでもドリアン・グレイが同性愛者だったという描写はないし、ましてやハリーやバジルに限ってはそんな気配すらない。だが、この舞台では、女性を除く男性の主要人物はすべてゲイであるという設定になっていた。

先ず最初のシーン。まだドリアンが登場する前の場面で、バジルがドリアンの肖像画を描きながら、ドリアンとどのように出会ったかという話をハリーにしているときの回想シーンでは、バジルとドリアンがほぼ顔と顔を突き合わせるようにして立っている姿が登場する。明らかに二人の間に同性愛的な興味が生まれたという描写だ。そんな話をしている時にドリアンが登場。ドリアンの美貌に一目ぼれするハリーの前でドリアンはさっさと衣服を脱ぎ捨て素っ裸になって壇上に立ちポーズをとる。言っておくがこれは舞台なので(私は最前列だった)素っ裸の姿は観客全員の前でということになる。

別に役者が脱ぐこと自体は問題ではないが、この場面でドリアンが裸になる理由がよくわからない。19世紀の時代的背景から言って貴族の男性が自分の肖像画に裸でモデルになるというのは先ず考えられないからだ。

ま、それはいいとして、ドリアン・グレイの悲劇はジキルアンドハイドと非常に似ている。舞台は同じくビクトリアン時代のロンドン。何故この時期が大事なのかというと、当時のイギリスの上流階級はビクトリア女王の潔癖主義影響を受けて男も女も非常にお行儀のよい行動をすることが求められていた。結婚している夫婦のセックスですらも必要悪と思われていたくらいなので、婚外交渉などもっての他であったし、ましてや同性愛など完全に違法。事実、著者のワイルドはその趣味が原因で刑務所送りになったくらいだから。

そういう時代なので、社会が許さない価値観でドリアンを誘惑するハリーの存在は重要なのだ。ハリーは美しく潔癖なドリアンを自分の自堕落で邪悪な世界に引き入れようと誘惑するのである。彼はドリアンを自分の愛人にしようと誘惑しているわけではない。ここで二人の関係を同性愛で引き寄せられたかのように表現すると、ハリーが代表する邪悪な世界の危険性が薄れてしまう。

またバジルがドリアンとハリーが仲良くなりすぎることを警戒するのも、バジル自身が善良な人間なので、ドリアンがハリーの悪影響にそまってしまうことを恐れているのであり、自分が片思いするドリアンをハリーに盗られてしまうという嫉妬と描かれるべきではない。

ドリアンが同性愛行為をしたり、その魅力で男性を誘惑すること自体は問題ないだろう。なぜなら当時の価値観から言えば、同性愛による誘惑は邪悪で変態的なものと受け取れるからで、他人を堕落させるドリアンの行為としては納得がいくからだ。しかし、それはドリアンが同性愛者ではないという前提があってこそ成り立つ理屈であり、彼が実際に同性愛者だったらこれは意味がない。

この舞台で一番気になったのは、肝心な肖像画が全く描かれていないということだ。これは意図的なものだというのは解るのだが、わざと等身大の額縁だけを見せ、額縁の向こう側で数人の黒服の男女がひそひそ声でドリアンやハリーのセリフを繰り返す。おそろしく変貌した自分の作品を見てバジルが驚愕するシーンでも絵そのものは見せない。

ドリアンの代わりに絵が変わっていくという話なので、絵がどのように醜くなっていくかを示さないとこの物語の一番肝心な部分が抜けてしまう。いったいバジルは何にそれほど驚愕したのか、ドリアンがこの絵を恐れて屋根裏部屋に隠してしまうのは何故なのか、やはりその中身を見せないと意味がない。

カカシ注:この先はネタバレ

遂に自分の犯した悪行の数々に罪悪感にさいなまれたドリアンが、醜く変貌し自分の魂を映し出す肖像画を破壊しようとする。しかしその途端にドリアン自身が醜い姿へと変貌し、肖像画は昔の美しいドリアンの姿へと戻る。

最後のシーンは醜く変貌したドリアンの死体を使用人が発見するという、ジキルとハイドと非常に似たような場面になるのだが、この舞台ではまたまた主役が素っ裸になって額縁の中に立ち、年寄りの俳優が床に横たわっていた。しかし年寄りの俳優は年はとっていたが特に醜くもなく、観客にショックを与えるような姿ではなかった。

醜い絵を破壊しようとして自分が破壊された時のドリアンは吐き気を催すほど醜い姿でなくてはならない。ここでも単に肖像画はドリアンを若く保つためだけのものだったと描写されていることに不満を覚えた。

同じ題名で日本でも舞台化されたようだが、あらすじを読む限り中身は全然違うようだ。

配役:

ヘンリー・ワットン卿:フレドリック・スチュアート
バジル・ハルワード:アミン・エル・ガマール
ドリアン・グレイ:コーリン・ベイツ


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若者のテレビ離れに焦るテレビネットワーク

ここ数年、エンターテイメントがすべてスマホで出来るようになってからというもの、若者のテレビ離れが目立つようになった
アメリカのテレビ番組は一年に2シーズンがあって、シーズンの終わりにはシーズン最終回を放映する。シリーズが人気があれば次期シーズに継続されるので、ファンならこのシーズン最終回は見逃せない。ところが、先月多くの連載番組のシーズンフィナーレエピソードの生視聴率がどこのネットーワークも去年に比べて30から40%も減った。
実は格いうカカシもテレビは昨今あんまり観なくなった。リアルタイムで観るテレビ番組としては芸能人とプロダンサーが組んで社交ダンスを競い合うダンシングウィズスターズ(スターと踊ろう)とか究極の障害物競走アメリカン忍者ウォーリアーとか、素人名人芸のアメリカズガットタレントくらいかな。どれも選手権なのでニュースとかで結果を知りたくないという理由から一応リアルタイムで観てるだけ。
その点、生で観る意味が特にないドラマやコメディーは全く観ないし、テレビニュースなんて地方局にしろ全国ネットにしろ出張先のホテルで観る以外は先ず観ない。ニュースも天気予報も交通情報もすべてスマホで観られる時代、テレビをつける必要がない。それでうちのテレビはもっぱらDVDで映画を観るためのモニターとして使われている。
中高年のカカシですらこうなのだから、若い人たちのテレビ離れは相当なもんだろう。それでテレビネットワークは新番組の最初のいくつかのエピソードをアプリなどを使ってネットで公開するようになった。ネットで無料公開することによって、最初の数エピソードは前宣伝の役割を果たす。こうやって番組のファンを増やしてテレビに帰ってきてもらおうということらしい。
ところでナスタチウムさんが日本も含み受信料を強制的に国民から徴収している国について紹介してくれている。他の国と違って、日本のNHKの場合はテレビを持っていなければ受信料を取り立てることはできないので、スマホ普及でますますNHKの受信料は減るのではないかな。


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舞台迫力を再現したNBCテレビ、へアースプレイーライブ

テレビで舞台ミュージカルを再現するのはなかなか難しい。映画ほどの深い映像感はないし、舞台のような迫力もない。それでテレビスタジオでのミュージカルというのはどうしても安っぽくなってしまうのだが、今回のヘアースプレイはユニバーサルスタジオ(多分)のバックドロップを使った野外映像と、テレビスタジオをうまく組み合わせた迫力ある出来になっていた。特にヘアースプレイはシーンの大半がテレビスタジオという設定になっていりるので、テレビ映画にするには恰好の題材だったと言えるだろう。
このミュージカルは1960年代メリーランド州ボルティモア市が舞台。その背景にあるのは白人と黒人の隔離主義。人気テレビ番組でも白人と黒人が一緒に踊るなどということは考えられない時代だった。女子高生のトレーシー(マディ・ベイリオMaddie Baillio)は、テレビの視聴者参加ダンス番組のレギューラーに採用されるのが夢。スポンサーのヘアースプレー会社主催のミスへアースプレーコンテストのオーディションに応募するのだが、太っているせいで番組女性プロデューサーのベルマ(クリスティン・チェノウェスKristin Chenoweth)からは相手にされない。しかし番組がトレーシーの高校でライブ放映をした際に番組司会のコーニー(デレク・ホフ Derek Hough)の目に留まり、番組中に以前に黒人男子ロブ(ビリー・アイクナーBilly Eichner)から習ったダンスステップを披露して話題になる。もともと太っていたことで他のきれいな白人の女の子たちには受け入れられなかったトレーシーだが、黒人生徒たちと仲良くなって白人と黒人混同でダンス番組に出演しようと言い出したことから、トレーシーは計らずも人権運動のリーダーとなってしまう。

BLMとかファットシェイミングとか言って、やたらと黒人や肥満体の被害者意識が高い時代において、このライブは結構時代に沿った選択だったかもしれない。少なくとも左翼リベラルなプロデューサーたちはそう思ったのではないかと思う。しかしそういう濃い政治色があるにも関わらず、カカシがそれを無視してこの作品を楽しめたのは、その演出もさることながら、出演者たちのすばらしい演技にある。
先ずダンス番組ホストのコーニー・コリンズを演じるデレク・ホフは長期ダンス番組のレギュラーとして大人気のボールルームダンサー。さすがにプロのダンサーだけあって踊りは抜群。しかし歌手としての才能も見せて踊りながら歌ってビートに乗り切っていた。踊ってすぐの台詞でもまるで息が乱れていない。この役は格好言い男の役なので、一見得役に見えるのだがうまくやらないと見過ごされてしまう。役者次第でつまらなくもなれば面白くもなる役柄だと思う。コーニーという名前には中身がないのに外見だけ誠実さを見せようと格好をつけている意味あいがあるのだが、ホフはそのうすっぺらながらも、人種を超えた才能を見出すという実業家としての才能を非常にうまく演じている。
私が思わず拍手を送りたくなったのが番組の女プロデューサー、ベルマ・ボン・タスル役のクリスティン・チェノウェス。若いときの自分とそっくりな娘のアンバー(Dove Cameron)をスターにしようと躍起になっている教育ママ。自分が若かった頃の夢と今の状況を比べて歌う彼女のソロ。メランコリーにはじまって激しくメゾからソプラノへと変るクライマックスはすばらしい。
私がこのプロダクションがものすごく気に入った理由は、チェノウェスに限らず出演者たちが歌にしろ踊りにしろまるで遠慮せずに思い切って演技しまくっているという点。デレク・ホフの踊りにしろチェノウェスの歌にしろ、その才能が全面的に前に出ているのだ。
そして才能といえば、ドリームガールスでアカデミー助演女優賞を獲ったジェニファー・ハドソンのモーターマウス(早口)メイベリーは超一級!彼女の歌いっぷりは誰がきいても感激すること間違いなし。若い頃はぽっちゃり系だったのに今はすっきり痩せてゴージャスな美女になったハドソン。その上あの歌唱力、あの貫禄。もう彼女の歌を聴くだけでこのミュージカルを観た甲斐があるといえる。
トレーシーのボーイフレンド、リンク・ラーキンを演じるギャレット・クレイトン(Garrett Clayton)は正統派ハンサムボーイをまじめに演じているのがいい。同じハンサムでもコーニーのような意識した格好良さではなくて、トレーシーへの純粋な恋心とトレーシーが進めようとする人種混合運動への戸惑いを、わざとらしくない素直な演技をしている。
トレーシーの親友ペニー・ピングルトンはアリアナ・グランデ(Ariana Grande)という人気歌手(らしい)。子供っぽくておとなしい感じのペニーを良く演じていたと思うが、歌手の割りにはそんなに歌がうまいと思わなかった。ペニーが一目ぼれする黒人少年のロブ・バーカーを演じるのはビリー・アイクナー(Billy Eichner)。彼は歌も踊りも抜群。特に1960年代のダンススタイルがものすごく様になっていて、当時の踊りを真似しているという感じはなく、本当に’60年代の若者という感じがした。ペニーが一目惚するのもわかるというもの。
トレーシーの母親エドナと父親ウィルバーを演じるのはおカマのブロードウェースター、ハービー・ファイアーステイン(Harvey Fierstein)と人気コメディアンのマーティン・ショート(Martin Short)。ヘアースプレイはミュージカルの元になった同名のオリジナル映画のときから、ベルマ役はどう転んでも女性には見えない逞(たくま)しい男性が演じることになっている。ファイアーステインのがらがらな濁声と小柄なショートとの絡み合いは何故かロマンチック。さすが二人とも年期が入っている。
と、ここまで脇役を褒めてしまったのに主役を批判するのは気が引けるのだが、主役のマディ・ベイリオはこのライブのためのオーディションで選ばれた新人。周りに歌唱力のある人が多いためちょっと力不足が目立ってしまった。歌は決して下手ではないのだが声に力強さが感じられない。冒頭は彼女の歌から始まるので、もっと元気よく歌って欲しかった。演技はまあまあといったところかな。問題なのはトレーシーは太っているが踊りがうまいという設定。現実問題としてあんなに太っていて踊りがうまいというのは難しい。というよりダンサー並に踊れる太った女優を見つけること事態不可能に近いはず。太っていても身が軽い人はいるが、このミュージカルは踊りのシーンが多く長い。どの役も激しい踊りと歌が次から次へと続くので普通体型の人でも大変。特にこれはライブなので、踊りのすぐ後に続くシーンではダンサーたちの激しい息遣いが聞こえてくるほどだった。ベイリオは時折台詞が息切れでよく聞き取れないこところがあった。もっとも舞台ではみんな普通にやっていることなので言い訳にはならないが。
ともかく全体的に舞台のテレビミュージカルとは思えないほど舞台の迫力が感じられるすばらしい作品になっていた。もしDVD発売があったら是非お勧め。


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ブロードウェイ「ハミルトン」のキャストが次期副大統領を舞台から侮辱、黙って歌え!

この間、ニューヨークのブロードウェイで人気ミュージカル「ハミルトン」の舞台を次期副大統領のマイク・ペンスが観劇したところ、劇の出演者の一人が舞台からペンスを侮辱する発言を行なったとして問題になっている。

マイク・ペンス次期副大統領が11月18日、ニューヨークのミュージカル観劇後に出演者から「アメリカの価値観を守って」と呼びかけられたことに、ドナルド・トランプ次期大統領が激怒。Twitterで「出演者は謝罪せよ」と糾弾している。 (略)
ペンス氏がニューヨークのリチャード・ロジャース劇場で「ハミルトン」を観劇しようと来場したところ、観客からは大きなブーイングとまばらな拍手が起こった。カーテンコールで、第3代副大統領アーロン・バーを演じた黒人俳優ブランドン・ディクソンが、舞台上からペンス氏にメッセージを読み上げた。
「。。。ペンス様、私たちは多様なアメリカにいます。私たちアメリカ人はあなた方の新政権が私たちを、私たちの地球を、私たちの子供を、私たちの親を守ってくれないのではないか、そして私たちを擁護せず、奪うことのできない権利を守ってくれないのではないかと危機感をつのらせ、不安を抱えております。(後略)」

このミュージカルは当初、出演者を応募した際に「白人の応募不要」と人種差別的違法な募集をしたと問題になったことがあるプロダクション。そういう奴らがよく言うよ。
アメリカだけではないが、芸能人が偉そうな顔して一般人にお説教するのはどうもいただけない。去年日本でも沢田研二がコンサート中にイスラム国の話を始めて「歌って~」と叫んだファンに「嫌なら帰れ」と怒鳴ったという話があった。

ところが、このタイミングで客席から「歌って~!」の声がかかると、即座に「黙っとれ! 誰かの意見を聞きたいんじゃない。嫌なら帰れ!」と観客を怒鳴りつけ、会場が凍りつく事態になってしまったという。この一件が一部メディアで伝えられると、
「ファンは歌を聴きにきたりエンターテイナーである『沢田研二』を見にきたのであって、政治的演説や己の主義主張を聞きにきたのではない」
「歌手、俳優、芸人に求められているのは政治的意見ではない。真摯に自分の仕事をすればよい」
「歌聴きに来てるのにいきなり政治的? な演説されたあげくキレられるなんてファンかわいそう」
 など、歌手であることを忘れて政治的に偏向するジュリーへ嫌悪感を抱くコメントが相次いだ。

実は格いうカカシもジュリー大ファン。だが、彼の政治見解にはまるで興味ない。私はこれらの批判の声に全く同意する。私はフェイスブックなどで好きな役者や歌手のフォローを行なっているが、そうした芸能人たちがそういう場所であからさまな反トランプや反共和党の発言を行なうのを見るのは気分が悪い。こういう芸能人たちは自分らが左翼リベラルに囲まれているので全ての人々が同じ意見を持っていると錯覚しており、自分らのファンのなかにも左翼リベラル思想に同意していない人たちが結構いるという現実を忘れている。
トランプ・ペンスペアは選挙に勝ったのである。ということはアメリカの半分以上の国民が彼らを支持したということになる。左翼リベラルだけのファンで成り立っていると本気で思うならともかく、自分らのファンのなかにも保守派が結構いるかもしれないということに彼らは何故気がつかないのだろうか?
それでもフェイスブックやツイッターで自分の意見を述べるだけなら別にいい。だが、ミュージカルやコンサートでお金を払って芸能人の芸を観にきた観客の前で、政治家を気取って演説をぶるのはきわめて失礼な行為だ。
拙ブログで何年も前に紹介したデキシーチックスもカントリーウエスタンのファンが圧倒的に親軍隊であることを忘れて当時のブッシュ大統領の悪口をコンサート会場でぶって人気ががた落ちした例もある。
芸能人がどのような政治見解を持とうとそれは本人の自由だ。それをどう表現しようとそれも自由だ。しかし、自分が人気があるから自分のやることや考えることすべてをファンが受け入れると思い込むのはやめたほうがいい。人気商売はファンあってこそだ。
歌手なら黙って歌え、お説教なら他でやってよね。


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現実逃避が出来ない安全を求める新世代ロッキーホラーピクチャーショー

ロッキーホラーピクチャーショーといえば、1970年代のカルトクラシック。元々はイギリスの舞台ミュージカルだったのが1975年に映画化され大ヒット。作曲家のリチャード・オブライアン(舞台版脚本家)の歌唱力を始めとし、ティム・カリー、バリー・ボストウィック、スーザン・サランドン、ミート・ローフなど後に大スターになった面々の熱演が印象的であった。その後この映画はカルト映画として親しまれるようになり、毎週末真夜中に上演する零細映画館が全国のあちこちに出没。ファンたちはそれぞれのキャラクターの仮装をするなどして劇場に現れ、キャラクターの台詞に応えて観客が声を合わせて応援の台詞を投げかけるのが慣習となった。多分今でもイギリスやアメリカのあちこちの映画館で同じ光景がくりかえされていることだろう。
さて、今回、フォックステレビ製作の新ロッキーホラーピクチャーショー(ハイライトビデオ)はこの1975年の傑作映画のリメイク。リメイクならリメイクらしく何か新しいものを観客に提供する必要がある。残念ながら迫力満載だったオリジナルに比べ、このリメイクは全体的におとなしすぎて現実味が沸かないという印象を持った。ロッキーホラーのようなファンタジーで現実味が沸かないという批判もおかしいかもしれないが、どうもこの世界にのめりこめないのである。オリジナルで感じたような肌で感じる恐怖と興奮がこのリメイクからは感じられないのだ。
話を知らないひとのためにざっと説明すると、最近婚約したばかりの若い男女、ブラッド(Ryan McCartan)とジャネット(Victoria Justice)は、ブラッドの恩師エベレット・ボン・スコット教授(Ben Vereen )を訪ねにいく途中で大雨のなか道にまよってしまい、挙句に車はパンク。二人は電話を借りられるのではないかと雨のなかずぶぬれになりながらちょっと前に通りすぎた古い城へ向かう。お城の扉を開けて出迎えたのはなにやら薄気味悪い城の使用人リフ・ラフ(Reeve Carney)。お城ではたくさんの奇抜な格好をした客が集まっており、客たちによる激しい踊りが繰り広げられている。怖くなって出て行こうとする二人の前にあらわれたのが世にも不思議な格好をした気違い科学者フランクン・ファーター博士(Laverne Cox )だった。不安ながらも博士に言われるままに二人は城で一夜を過ごすことになるのだが、、、
実はここまで観て私は非常に嫌な予感がした。そしてかなり欲求不満になっている自分を感じた。先ず、全体的に歌手たちの歌声が小さい。ブラッドがジャネットに結婚を申し込むシーンでは、マッカーテンもジャスティスも決して歌が下手だというわけではないのに伴奏の音がやかましすぎて二人の声がよく聞こえない。二人は結婚を決めたことで非常に興奮しているのにその喜びが伝わってこないのだ。
薄気味わるい古びた城の扉をあけて二人を出迎える使用人リフ・ラフ役のリーブ・カーニーは、いくらメイクをしていても元は美形と解るからなのか、オリジナルのオブライアンのような薄気味悪さを全く感じさせない。
城の中に集まっている客たちによるレッツドゥーザタイムワープアガインの踊りも、コーラスの声が小さすぎるし踊りがおとなしすぎる。振り付けもダンサーの技術もオリジナルの時よりかなり高度だ。にもかかわらずつまらないのは、あまりにも整然としているせいでオリジナルのような奇想天外で野生的な雰囲気が出ていないからだ。この踊りはごくごく普通のカップルであるブラッドとジャネットを震え上がらせるような騒然としたものでなければならないのに、なんかみんなでマスゲーム体操でもやってるみたいでつまらない。
そして極めつけはファーター博士のラバーン・コックスが登場する場面。先ずトランスベスタイド(女装男)を演じたティム・カリーの役を、トランスジェンダーのコックスに演らせたのは、はずれだった。コックスはあまりにも女に見えすぎる。ファーター博士はどう見ても男なのに女装して女のように振舞っているというところに不気味さがあるのであって(しかもお世辞にも綺麗とは言い難い厚化粧)、女に見える人間が女の格好をして現れても不気味でもなんでもない。それに歌唱力と存在感抜群のティム・カリーに比べて、コックスは歌唱力もなければ存在感もない。しかも、演技も下手でかつぜつが悪くて(どっかの運転手みたい)何を言ってるのか聞き取りづらい。
映画は先へ進んでも良くならなかった。モーターサイクルで窓を突き破って城へ入ってくるエディ役のアダム・ランバートもミートローフの器ではない。ランバートはミートローフより顔がいいだけに、かえってそれが仇になっている。たった一曲だけの出番で完全にその場を独り占めしてしまったミートローフの衝撃的なパフォーマンスに比べランバートのエディはお行儀が良すぎて存在感なし。バイクを乗り回してパーティをはちゃめちゃにしたエディに怒るファーター博士のエディへの反応もオリジナルの恐ろしく血なまぐさい場面に比べてこちらはおとなしすぎて話にならない。
これ以上個々のシーンの感想を述べても時間の無駄だ。それより何故この映画は全体的に観客を惹き込むことが出来ないのかについて語りたい。このリメイクは映画の世界と観客に距離感をあたえてしまう。その理由として映画に観客席を取り入れたことにある。すでに映画がクラシックなので観客による映画参加を映画の中に取り入れるという演出をしたのはわかるのだが、それがかえって視聴者が映画の世界にはまり込めない一つの壁になってしまっている。ちょっと映画の世界に引き込まれたかなと思うと、カメラが観客席に引いて視聴者を現実の世界に引き戻してしまうのだ。だから視聴者は映画に感情移入することが出来ない。視聴者はあくまでも登場人物たちは俳優であり演技をしているのだという意識を忘れることができないのである。
出演者の歌唱力や演技力は決してオリジナルに劣るとはいえない。コックスとランバートを除けば、ジャネットのジャスティスやロッキーのスタズ・ナイヤーやコロンビアのアナリー・アシュフォードなどかなりいい。コックスとランバートの歌唱力はオリジナルのカリーやニートローフよりずっと劣るとはいうものの、演出次第でそれはどうにでもなったはずだ。
オリジナルのティム・カリーミート・ローフの場面を改めてユーチューブで見てみたが、思ったとおり、役者の顔をアップにし歌声を全面的に前に押し出している。だから視聴者は他のことに気をとられずに主演者に集中することが出来る。リメイクではそれがされていないのだ。あたかも演出者は観客による感情移入を極力避けているかのようである。
さすがに多々の感情を恐れて安全事態(セーフゾーン)を望む2000年世代のリメイクだけある。
つけたし:往年のブロードウェイ役者のベン・ブリーンのボンスコット教授はチャーミングだ。またオリジナルの主役ティム・カリーが犯罪学として解説係を務めているのもおかしい。(でも何か変だなとおもったら数年前に脳卒中をしたとかで、完全回復はできていないようだ。)
この批評を書き終わってニューヨークタイムスの批評を読んだら、カカシとほとんど同じことを言ってるので笑ってしまった。


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イラク戦争前夜の暴言で落ちぶれたデキシー・チックスのカムバックツアーはどうなるか?

フェイスブック(FB)の友達Nがデキシー・チックスがカムバックを狙って全国ツアーをやるって話だよと書いているのを読んで、え~デキシー・チックスなんてまだ生きてたの、というのがカカシの反応である。カカシは2003年当時からチックスのアンチファン。彼女たちに関する記事をここここで書いている。背景をご存じない読者の方々は後部に説明を付け加えておいたのでご参照されたし。
わがFB友のNは、デキシー・チックスのイラク戦争反対の姿勢が馬鹿なカントリーファンの怒りに触れチックスはカントリー音楽界から締め出されてしまったと書いているが、彼女達がファンから見放されたのは戦争反対が原因ではなく、彼女たちのファンに対する失礼な態度が原因だった。ちょっとそのNとの会話をかいつまんで紹介しよう。

N:デキシーチックスはアメリカでは演奏できなくなった。脳タリンのカントリーファンが、ネオコンの始めたイラク戦争に反対したチックスを非国民と決め付けたためだ。イスラム国を作り上げアメリカ兵をボディバッグでかえしてくるだけで何の役にもたたなかった戦争。カントリーファンの馬鹿どもは、それに反対した彼女たちが結局は正しかったことを今だに認めようとしないのだ。プロパガンダは効果あるな。
カカシ:え~デキシー・チックスなんてまだ生きてたの?彼女たちがどこで演奏しようと勝手だけど、私はそれを聴く必要はない。それも私たちの権利でしょ?あなたに言わせると私も「脳タリンなカントリーファン」だけど、あんたがそうやって勝手なことをいえる自由を守るために多くのカントリーファンが出動したことを忘れないでよね。
N:デキシー・チックスは他のカントリーバンドと変わらない良いバンドだった。それがカントリー業界から締め出されたのはチェイニー・ラムスフェルド・ウォルフウィッツのイラク戦争に歯向かったからだ。あの戦争はアメリカの帝国主義を広げるためのもので、アメリカの平和を守ることとは無関係だった。
カカシ:N,カントリーファンじゃないあなたは知らないでしょうけどね、チックスがカントリーファンから見放されたのは単にイラク戦争に反対だったということじゃないのよ。彼女たちは戦争前夜に外国でアメリカ総指揮官を侮辱し、カントリーファンを田舎者とか無知だとかいって馬鹿にしたことが原因なのよ。カントリーシンガーの中にも、いくらでもイラク戦争に反対な人はいた。トビー・キースとかね。左翼リベラルの歌手でも人気あるカントリー歌手はいくらでもいるのよ。知ってた? 何故彼らの反戦姿勢が人気に影響しないかといえば、彼らがファンに礼節な態度をしめしているからなのよ。そこがチックスと違うところなんだわさ。
N: 俺もカントリーファンだ!ハンク・ウィリアムス、ザカーターズ、タミー・ワイオネット、パッツー・クライン、ジョニー・キャッシ。昔のカントリーウエスタンはひとつの政治観念だけに支配されていなかった。ウィリー・ニールソンとかジョン・デンバーとか別な見解も受け入れられていた。今の ニオコンに支配されてるカントリー業界には反吐がでるよ。
カカシ:「ニオコンに支配されてるカントリー」?そんなの私が聴いてるカントリーじゃないね。

昔っていったいどのくらい昔の話してんだよNは。Nの羅列した歌手で生きてるのは現在82歳のウィリー・ネルソンくらいだろう。すくなくとも過去20年くらいの歌手に絞って欲しかったね。それにザ・カータースって何よ、ザ・カーペンターズでしょうが。何がカントリーファンなのだよ。知ったかぶりもいい加減にして欲しいね。
Nはデキシーチックスが大口あけてアホなことを言うまでは、デキシーのデの字も聴いたことがなかったにきまってるのだ。だからカントリー歌手やそのファン層についても全然解ってない。カントリーを知らない左翼リベラルの典型的な勘違いである。
ここ20年来、アメリカにおけるカントリーウエスタンの人気はうなぎのぼりで、昔はカントリーといえば主流音楽とは別なカテゴリーに置かれていたが、最近は結構ポップスとかヒップホップとのクロスオーバーもあって、カントリー歌手でティーンエージャーに大人気なテイラースイフトなんて女性歌手は主流音楽でもトップスターの座に君臨している。彼女は絶対に右翼保守ではないよ。その影響もあって、歌手やファン層も多種多様化している。左翼リベラルなカントリー人気歌手はいくらでも居るのである。
実はNが懐かしげに話している1960年代のほうが、歌手もファン層もずっと保守的だったのではないかと思う。ジョン・デンバーが人気があったのは1970年代だが、彼の人気が衰退したのも彼が人気絶頂期に環境保全運動にあまりにも念を入れすぎたせいだという人もある。
それに、カントリーウエスタンは何と言っても南部が中心だが、アメリカ南部にはイエロードッグデモクラットという伝統があり、南北戦争で負けた際に勝った共和党からさんざん虐げられたことを未だにうらんでいる民主党支持派が非常に多いのである。トビー・キースなんかそのいい例なのだ。確かに南部には保守的な人が多く、軍隊とのつながりも大きいのだが、だからといって彼らが必ずしも共和党支持かというとそうでもないのである。
それからNのいうニオコンだが、いまどきそんな言葉を知ってるひとがカントリーファンにどれだけ居るのかかなり怪しいと思うね。いや、それを言うならニオコンなんて言葉が飛び交った1990年代ですら、どれだけのカントリーファンがそんなことに興味を持っていたか、非常に疑わしい。
で、今回のカムバックツアーなのだが、ミスター苺いわく、カムバックが成功するとは思えない。なぜなら今のカントリーファンでチックスを覚えてるひとなんていないだろうし、覚えている人は悪い印象しか持ってないから。
なるほどね~。
今も昔も音楽業界は競争が激しい。人気歌手はしょっちゅう入れ替わる。政治問題で落ちぶれた中年オバサンバンドがどれほど人気を取り戻すことが出来るのか、注目の価値はあるかも。


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尻切れトンボな舞台版『Once ダブリンの街角で』

2007年の映画ワンス、ダブリンの街角での舞台ミュージカル版を観て来た。元々映画だったとは全然しらなかった、というより義母からただ券をもらって観に行っただけで内容など全くしらずに観た舞台ミュージカル。日本でも六本木で11月にブロードウェイミュージカルのキャストで上演される。そのサイトから紹介すると、、、

開演前に観客は舞台上のバーで実際にドリンクを買い、その場で飲み物を楽しむことができる。そして気づけばキャストによる生演奏が始まり、舞台は自然と幕を開ける。そんなミュージカルを今まであなたは観たことがあるだろうか。これこそがミュージカルの本場、ブロードウェイで大絶賛された舞台「Onceダブリンの街角で」だ。
本作は2007年にアカデミー賞で歌曲賞を受賞した同題の映画をベースにしたミュージカル。2011年にオフ・ブロードウェイで初演されると瞬く間に話題となり、翌年にはブロードウェイに進出。トニー賞で最優秀新作ミュージカル作品賞を含む8部門を受賞し、2013年にはグラミー賞ベスト・ミュージカル・シアター・アルバムを受賞、昨年にはロンドンのウエストエンドで開幕し、オリヴィエ賞を受賞するなど、世界中で注目を集めている。(略)
オーケストラやバンドはなく、キャスト自らがギター、ピアノ、ヴァイオリン、アコーディオン、ドラム、チェロなど楽器を演奏し、音楽がつくられていく過程が表現されるのも見どころの一つ。
人生に希望を見いだせないストリートミュージシャンの男性とチェコ系移民の女性が音楽を通して心を通わせていく愛しくて切ない恋の物語を存分にご堪能あれ。

お芝居の前にアイルランドのアイリッシュパブに見立てた舞台でお酒が出るという演出は何処でも同じらしく、私が観たハリウッドのパンテージ劇場でも同じだった。舞台なので場が変わっても舞台装置はパブのまま。テーブルや椅子を動かして主人公の家になったり銀行になったりレコーディングスタジオになったりする。
第一幕はパブで多々のキャストによる歌や演奏や踊りが満載で楽しい。どっちかいうとミュージカルというよりアイリッシュパブでアイリッシュ音楽の生演奏を観に行っているという感覚。すべて歌も演奏もすばらしく、脇の踊りも結構いいし、アイルランドやチェコ移民の庶民的な振り付けは観ていて楽しい。筋は後から付け足した感じであんまり意味がなく、あってもなくてもいいような印象を持った。それでも主役二人の男女の淡い恋物語には魅かれるものがある。この二人の関係がどういう風に展開していくのか興味をそそられて第一幕が閉じる。
注意:ここからはネタバレあり〜!


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ヒュー・ジャクマンの歌唱力が冴えた映画レ・ミゼラブル

最近のハリウッドのミュージカルというと、主役に歌えない役者を使うことが多くてブロードウェイミュージカルが映画になると舞台ファンの間から「映画では良さは解らない、舞台をみなくっちゃ、、、」と言われることが多かった。しかし今回のレ・ミゼラブルに関しては主役陣の歌唱力には往々にして満足した。ただ全体的に映画としての演出が先きだって、肝心の歌が多少犠牲になった感がある。二時間半という長さも、舞台とちがって休憩が入らない映画としてはちょっと長過ぎたかも。
私が子供の頃、初めて読んだ大作といえば原作のビクトル・ヒューゴーの「ああ無情」。当時の私はフランス文学に凝っていて、なかでも少女コゼットがジャン・バルジャンに救われるシーンが好きで何度も読み返した記憶がある。
舞台は革命が終わり、ナポレオン時代も終わり、再びルイ王邸が仕切る復古時代の仏蘭西。青年の頃に飢える妹の子供達のためにパンを盗んだ罪で5年の刑に処されたジャン・バルジャンは拘束中に何回か脱走を企て失敗し刑期が加算され、結局合計19年もの長い間囚人奴隷として拘束されてきた。そのジャン・バルジャンがやっと刑期を終えて保釈される。だが、前科者のジャンに職を与えてくれる人などおらず、あちこちを彷徨ううちにとある教会にたどり着く。親切な神父によって一晩の宿を与えられたジャンは教会の銀の燭台を盗んで逃走。すぐに地元の警察に取り押さえられ教会に連れ戻されるが、そこで神父は燭台は自分がジャンにあげたものだと言ってジャンを弁護。恩を仇で返した男にそこまで慈悲をみせてくれた神父の親切さにうたれたジャンは、心を入れ替えて善人になると神に誓う。
レ・ミゼはミュージカルというよりオベラである。中で台詞はほとんど入らず全てが歌。踊りはない。よって踊りの好きな軽いメッセージのミュージカルが好きな私としてはちょっと苦手なタイプ。大昔にブロードウェイのコンサート版を観た時の印象はオペラとしては音楽が貧弱だが、ミュージカルとしては楽しみに欠けるというあまり好意的なものではなかった。
しかし映画版の方は、主役のジャン・バルジャンを演じたヒュー・ジャクマンが良いからなのか、舞台版より良かった思う。ジャクマンが歌えることは以前からサンセットブルバードなどでも聴いていたので知っていたが、力強く歌う「裁き」も最後の方でつぶやくように同じ歌を歌った時も非常によかった。彼の演技には泣いてしまった。
映画はジャン・バルジャン及び囚人奴隷たちが大型の船を造船所に引きつけるところから始まる。これは映画ならではの壮絶なシーン。
ただ、映画ということで演出と演技に重点を置くあまり、全体的に歌の迫力が犠牲になったように思う。特に職を失って娼婦に身を落としたフォンティーヌ(アン・ハサウェイ)の「夢破れて」は、あまりにもつぶやきすぎで歌という感じがしない。フォンティーヌは瀕死の病人なので、あまり元気に歌うのもなんではあるが、普通の人間が歌を歌うということ自体がすでに不自然なのであるから、もう少し元気よく歌っても良かったのではないかと思う。特にこの歌は有名だし他でも多くの歌手が歌っている事でもあり、もう少し歌らしく歌ってほしかった。
同じことがフォンティーヌの娘コゼット(アマンダ・セイフライド)と一緒に育った里親夫婦の実の娘エポニーヌ(サマンサ・バークス)の歌う「オンマイオン」でも言える。
歌についてもうひとつ苦情があるとしたら、仮釈放の規則を破ったジャン・バルジャンを執拗に追いかけるジャベール刑事を演じるラッセル・クローの歌唱力は他の役者の歌がうまいこともあってかなり劣る。ラッセル・クローは好きな役者だし彼の演技は申し分ないのだが、ジャベールは非常に大事な役なので、やはりもっと歌のうまい役者を選ぶべきだったのではないか。
旅館経営者のティナルディエ夫妻(サーシャ・バロン・コーヘン、ヘレナ・ポナム・カーター)の「宿屋主人の歌」は舞台ではショーストッパーになる歌なので期待していたのだが、ここでもティナルディエ夫婦の小悪党ぶりの演出は上出来だが、歌そのものがよくきこえない。オペラは確かに演技もだが、なんといっても歌が主役だし、二人とも歌はうまいのだから、もっと歌唱力を前面に出してほしかった。
そういう面では革命派の若者達の歌はコゼットにひとめ惚れするマリウス(エディ・レッドメイン)にしろリーダー格のアンジョラス(アーロン・トヴエイト)にしろ得をしていると思う。なにせ役柄からして革命家を気取って勇ましく歌うことが許されるので、おもいっきりその歌唱力を披露することが出来るからだ。
マリウスとコゼットが出会うシーンでもデュエットはキズメットで王子とマシアーナが出会うシーンを思い出させるが、歌そのものはあまり印象深くない。原作ではコゼットはもっと重要な役なのだが、ミュージカルではエポニーヌのほうに重点が置かれている。
政治的には、私はフランス革命は大嫌いなので、革命派気取りの若者達には全く同調できない。彼らは今風のオキュパイヤーのようにただ理想に溢れただけのアホにすぎないからだ。しかし、原作でもミュージカルでも彼らを取り立てて美化してるわけではないので、そのへんは気に入った。
最後に死んだ革命派たちとジャン・バルジャンが赤い旗を翻しながら「民衆の歌」を歌うシーンは完全に余計だが、リベラルの多いブロードウェイとハリウッドの映画だから、そのへんはしょうがないだろう。


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視聴率最低、国際的人気歌手PSY出演のホワイトハウス主催クリスマス特別TV番組

ユートゥーブで旋風を巻き起こした韓国のラップ歌手PSYが毎年恒例のホワイトハウス主催クリスマス特別番組に出演したが、その視聴率は去年に比べて25%減という最悪の結果となった。
実はPSYがホワイトハウスのクリスマスショーに招かれるという話があった直後、PSYが10年くらい前にイラク戦争の最中に発表した反米、特に反アメリカ軍、の歌があったことが明るみに出て、そういう人間をホワイトハウスに招くのは不適当ではないかという批判が多く上がった。しかしPSYがショー直前に公式な謝罪声明を発表したため、オバマ政権は招待を撤回しなかった。それどころか、番組収録時にPSYとオバマが握手をしている写真や、オバマの娘達がガンナムスタイルを踊っている写真などがあちこちの新聞で掲載され、もともと反米軍だという評判のオバマ王の見解が国民の間で再確認されることとなった。
米国におけるPSY自身の人気は特に衰えをみせてはいないが、やはりホワイトハウスという公式の場でのコンサートで、反米で名高い歌手を出演させたというオバマの無神経ぶりに腹を立てた視聴者は多かったのかもしれない。
ところで日本ではPSYはそれほど人気はないようだ。それというのもPSYは反米なだけでなく、竹島問題では反日的な態度を取っているとか。また、他の韓国ボーイバンドと違って日本語で歌うとかいうサービス精神は全くないことから、日本の歌謡界からは無視されているという話だ。
私自身はガンナムスタイルはパロディとして面白いと思うが、歌としては特にそれほど取り立てて騒ぐようなものではないと思う。


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アフガニスタン帰還兵、トビー・キースのコンサートで妻に再会

現代カントリーウエスタンの王者とも言えるトビー・キースのコンサートを観に行った陸軍兵の妻がトビーから舞台の上に呼ばれ、なんとトビーの演奏中にアフガニスタンに遠征中のはずの夫と再会するというエピソードがあった。
お膳立てをしたのは無論、米軍キャンプ慰安公演を幾つも行っているトビー・キース。
舞台に上がった女性にキースは、アフガニスタンに遠征中の夫の名前を聞いた。

キース:「ご主人の名前は?」

奥さん:「ピートです、少佐です。」
キース:「よっしゃ、ピート・クルーズ少佐のためにいっちょ歌おう。」

といってキースが歌ったのはキースお決まりの名曲「アメリカンソルジャー」。涙を抑えながら聴いている若妻の前に突如としてアフガニスタンに行っているはずの夫ピートが登場。涙々の夫婦再会となった。
クルーズ少佐は、予定より早く帰還となっていたのだ。


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