サンセット大通り、最初からネタバレなのにやっぱり理解に苦しむエンディング

サンセット大通りは1950年に公開されたフィルムノワール風につくられた大傑作映画である。(ビリー・ワイルダー監督、ウイリアム・ホールデンとグロリア・スワンソン主演。)

この映画の特徴は冒頭でネタバレがあることだ。ハリウッドの豪邸のプールに浮かぶ一人の若い男の死体。この男がホールデン演じるジョー・ギルス。男を殺したのはこの豪邸の持主で元大女優のノーマ・デズモンド。この物語は中年の女が若い男を殺して終わることは分かるが、どうしてそんなことになったのか、その話は数か月前にさかのぼるのだが、その解説をするのがなんとプールに浮かんでいる男その人なのである。

実は今日私がお話したいのは映画の方の感想ではなくこの映画を元にしたアンドリュー・ロイド・ウエバーによるミュージカルの方である。しかし筋は映画を忠実に再現しているので、どちらの話も一緒にして差し支えないだろう。

私がこの映画を観たのはもうずいぶん昔だ。とはいっても公開当時はまだ生まれていなかったので観たのは大人になった80年代だ。それでもちゃんと映画館で観た覚えがあるので、多分どこかの名画座あたりで観たのだろう。

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グロリア・スワンソン(映画サンセット大通りより)

ミュージカルの方は1994年のブロードウェイバージョンをグレン・クロースとアラン・キャンベル主演でロサンゼルスでミスター苺と一緒に観た。残念なことに私は当時この作品の偉大さに気付かなかった。後に私はイレイン・ぺージの歌を(https://youtu.be/zlk-gj5Ukes?si=bHWpWxgKU3Irr1K)動画で見て、あれ?これってかなりいいミュージカルなんじゃ、、と思い直したのだ。で、今回私が観たのはコンサートでイギリスのウエストエンドでのオリジナルキャスト、パティ―・ルポーンとケビン・アンダーソン主役のバージョンである。(1993年)

話の舞台は1950年代のハリウッド映画界隈。舞台でも出だしは映画と同じでジョーがプールに浮かんでいるところから始まる。ここは映画のようにフィルムで紹介されるが、その横でジョーが立って話を解説し始める。

ジョー・ギルスはハリウッドで脚本家として一旗揚げようと一年くらい前にやってきた。いくつか低予算映画には採用されたりしたが、今は全く仕事がない。壁紙の禿げた安アパートで暮らし毎日借金取りに追われている。色々エージェントや伝手をつかって仕事得ようとするが全くうまくいかない。

この状況が「Let’s have lunch」という最初の曲で説明される。ハリウッドでは持ちかけられた話を適当に誤魔化すためにこの「いつか昼食でも取りながら話そう」と言うのが定番と言われている。実際に話すつもりなら、その場で話すのが筋なわけだから、「まあそのうちに」とか言われている間はまるで希望がないと言えるだろう。この曲の間にスタジオで衣装を来た人たちが行きかい、二階建ての舞台の上の方でコーラスガールたちがリハーサルをしている姿がえがかれる。スタジオ内のばたばたとした忙しさのなかにジョーの絶望感と借金取りにおわれる緊迫感が感じられる。

そんなある日、借金取りから車で逃げている最中に道に迷ってとある屋敷のドライブウェイに迷い込んでしまう。そこがサンセット通りにあるノーマの屋敷である。ペットのチンパンジーのお葬式をしようと葬儀屋を待っていた屋敷の主に葬儀屋と間違われて屋敷内に案内されてしまう。屋敷の女主人が無声映画時代の大スターだったノーマ・デズモンドであることに気付いたジョーは「あんたは昔大物だった」と言うと、「私は今でも大物だ。小さくなったのは映画のほうだ」と答えるノーマ。ここでノーマの最初のアリア「With one look」が始まる。ここで女優は観客の心をつかむ必要があるが、ルポーンは見事にそれをやってのける。この歌でノーマの自分の昔のイメージへの狂気的な執着度がうかがわれる。

誤解が溶けてジョーが脚本家であることを知ったノーマは、自分が書いたというサロメという分厚い脚本をジョーに渡し、それをなんとかきちんとした脚本に書き換えてほしいと仕事の依頼をする。その間ノーマの屋敷の離れに住むと言う約束で。ミュージカルでは説明がないが、映画ではノーマはジョーに黙ってジョーのアパートの家賃を支払ってジョーの荷物をすべて屋敷に移してしまう。ここですでにノーマによるジョーへのコントロールが始まっているのである。

ノーマは大きな屋敷に侍従のマックスと二人暮らし。トーキーになって20年以上も経っているというのに、無声時代の自分の名声にしがみつき、時代の流れに全く順応できていない。ノーマに献身的に尽くすマックスは、ノーマの幻想を壊さないためにせっせとファンレターを書き続けている。ノーマと毎日のように脚本を書く日が数か月続き、毎日高級料理をたべ上等のシャンパンを飲み高価なスーツまで買ってもらうジョー。大晦日にノーマはパーティをすると言ってジョーを相手にタンゴを踊る。そして如何に今年が完璧な年だったかをジョーに囁く「Perfet year」。しかし踊っている最中にノーマから愛の告白をされたジョーは息の詰まる思いでノーマの求愛を拒絶する。そして若い仲間たちのいるハリウッドスタジオへ向かう。

スタジオで大晦日のパーティーに参加したジョーは友人の婚約者であり以前に少し話をしたデミル監督の元でスクリプトガールをしているベティと再会し、一緒に脚本を書かないかと提案される。彼女の提案をうけ、やはり屋敷は出ようと決心したジョーはマックスに電話をしてその旨を告げようとするが、その時ノーマがカミソリで手首を切ったと知らされる。急いで屋敷に戻ったジョーは、ノーマの哀れな姿に罪悪感と同情心が混ざりノーマに口づけをする。ノーマはジョーの襟首をつかみ引き寄せ、しっかりとジョーの首に手を回す。もうお前を離さないとでもいうかのように。

自分の命を人質にとって男を引き留めようとするやり口は汚い。しかしジョーもその手口には気付いたはずだ。ジョーのこの口づけはジョーの無条件降伏でもある。俺はこの女から逃れられないと覚悟を決めた口づけだ。ここで第一幕目が終る。

二幕目の冒頭はこの芝居の主題歌ともいえるジョーのソロ、サンセットブルバードだ。

ノーマの若い燕となり快適な暮らしをしているジョーだが、自分が籠の鳥であることは十分自覚している。それでいて自分から去ることができない自分の優柔不断さに苛立ちを感じている。それがジョーの歌のなかで一番重要な主題歌「サンセットブルバード」である。

そうさ、名声を求めてここへ来た。プール付き犬付き名誉が欲しかった。ワーナーの敷地に駐車場。でも一年経って地獄の一部屋、折り畳みのベッドに角が剥がれた壁紙。

サンセットブルバード、曲がりくねった道、秘密で金持ちで怖いサンセット大通り。油断してる奴を飲みこもうと待っている。

夢だけじゃ戦争には勝てない。ここじゃ何時も点数を控えてる。日焼けの下で熾烈な戦い。借りて来たほほ笑み、誰かのグラスを注ぎ、誰かの奥さんにキス、誰かのケツにキス。金のためなら何でもするさ。

サンセットブルバード、見出しの大通り。たどり着くのはほんのはじまり。サンセットブルバード、大当たり大通り、一度勝ったら勝ち続ける。

(魂を)売り渡したと思うか?ああそうだよ売り渡した。いい依頼があるのを待ってるんだよ。快適な部屋、定期的な配給、24時間五つ星のサービスだ。正直俺はあのご婦人が好きだしね。彼女の愚行に打たれたんだ。泳ぎながら彼女の金を受け取ってる。彼女の日没(サンセット)を観ながら。

ま、作家だからね、俺は。(後略)

引きこもり生活をしていたノーマが唯一外出するシーンがある。それはパラマウントスタジオから電話がかかってきたことがきっかけだ。ノーマはジョーと書いていた脚本をスタジオに送っていたため、それが受け入れられ女優として主役を演じられるものと思い込みマックスにクラシックカーを運転させてジョーを連れてスタジオへ向かう。スタジオを見学に来たと思ったデミル監督(映画では本人が演じている)はノーマを椅子に座らせて「今リハーサル中だからここで見学してくれ」と言う。

スタジオでは昔のノーマをしっている照明係が「デズモンドさん、デズモンドさん、はっきり見させてくださいよ」と言ってノーマに照明を当てる。それを観た他のスタッフたちが「ノーマ・デズモンドだ!」といって集まってくる。ノーマは久しぶりにファンに囲まれて上機嫌。ここでノーマが歌う「As if we never said goodbye」(まるで一度もさよならを言ったことがないかのよう)はどこでも歌われる名曲である。ルポーンの哀愁に満ちた歌声には心を打たれる。

結局スタジオからの電話は彼女へのオファーではなく、彼女のクラッシックカーを借りたいという話だったのだが、それを知ったマックスはそのことを絶対にノーマに知らせまいと決心しジョーにも口止めする。なぜそこまでマックスがノーマを守ろうとするのかジョーが問い詰めると、マックスは実は自分は昔映画監督で16歳のノーマをスターにしたのは自分だったこと、そして彼はノーマの最初の夫だったことを告白する。しようと思えば映画監督を続けられたのに、ノーマの失脚とともにノーマを守るために自分も映画界を去ったのである。マックスはこれからもノーマを守っていくとジョーに次げる。マックスもまたジョーと同じでノーマの奴隷となっているのだ。

ジョーは次第にそんな生活に飽きて、夜ごと屋敷を抜け出してはベティと一緒にオリジナルの脚本を書き始める。そうしているうちにベティは婚約者が居ながらジョーに魅かれジョーもまたベティーに魅かれていく。二人が恋に落ちる様子が「Too Much in Love to Care」(愛しすぎて気にならない)で歌われる。しかしこの間ジョーは一度もベティにノーマのことを話していないのだ。どんどんベティに魅かれて生きながら、ノーマの愛人を辞めていないジョー。

ジョーが外で女と会っていることを知ったノーマはベティの電話番号を突き止め彼女に何度と電話をして嫌がらせをする。その現場に居合わせたジョーはノーマから電話を取り上げベティにノーマのサンセット通りの住所を教えて今すぐ来いと言って電話を切る。

駆け付けたベティに向かってジョーは自分がノーマの囲い者であることを白状する。ベティは「そんなことは知らない。私は何も聞かなかった。さっさと荷物をまとめて一緒に出て行きましょう」という。だがジョーは自分はここの生活が気に入っている。ここを出ても仕事などない。またあの安アパートに戻れというのか、君は婚約者の元へ戻って結婚しな。時々遊びにおいでよ、プールを使わせてあげるからと皮肉たっぷりに言う。

ベティはショックを受けてそのまま立ち去ってしまう。ジョーはベティを引き留めようと一旦は腕を伸ばすがその手を引っ込めソファに座りこもうとしてソファから崩れ落ちてしまう。

そこへノーマが入って来て「ありがとうジョー」と言うが、ジョーはスーツケースを持って出て行こうとする。そしてどうなったか、それが冒頭のシーンである。

さてここで私には解らないことがあった。結局ノーマの元を去ろうと決心したのなら、なぜベティと一緒に出て行かなかったのだろう?どうせ出ていくなら好きな人と一緒の方がよかったのでは?何故ベティに心にもない三下り半を下したりしたのだ?

色々な人の解釈を聴いていて納得したのは、ジョーはすでにハリウッドで腐敗してしまった敗北者だという気持ちがあった。それでベティまで腐敗させたくなかったという親切心からではないかという話。たしかに、もう自分が立ち直るのは手遅れだが、愛するベティだけでもなんとか救いたいという気持ちだったのかもしれない。多分ジョーはノーマの家を出たら、故郷のオハイオにでも帰って、また一からやり直そうと考えていたのだろう。

だがノーマ(ハリウッド)は自分勝手な退場は許さない。利用するだけ利用し役立たずになったら追い出すまでジョーはノーマの奴隷だったのである。

同じテーマのこんな歌を思い出す。

ようこそホテルカリフォルニアへ、チェックアウトは何時でも出来ます。でも永遠に去ることはできません。

一番有名なシーンについて書くのを忘れていた。冒頭のシーンでジョーがプールに浮かんでいると言ったが、そこにはすでに警察や新聞記者らが集まっていた。フラッシュをたいて写真を撮っている報道陣を観て、狂気の絶頂に達してしまうノーマ、あたかも撮影現場にいるかのように大袈裟なポーズを取りながら長い螺旋階段をおりてくる。映画ではこの間、階段やその下に集まっている警察官や報道陣はまるで時が止ったかのように動かず、ノーマだけがゆっくりと階段を降りてくる。

そして無声映画の役者特有のドラマチックな表情をしたかと思うと例の有名な台詞で幕が閉じる。

「デミル監督、クロースアップをどうぞ。」


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国中がロックダウンで苦しんでいる中も仕事をしていたハリウッドのストライキなど国民は興味がない

ハリウッドの脚本家と俳優たちが合同ストライクを始めてすでに100日を超えるそうだ。テレビなんぞ全く観ない私からすれば、だから何?と言ったところだが、実をいえばアメリカ市民のほとんどが私と同じように感じているようで、私が良く観てるユーチューバーが行ったアンケート調査ではストライキを辞めて早く戻ってこいと答えたのが何とたったの3.2%だったそうだ。ま、彼の視聴者はもともとハリウッドファンではないから当然の結果だが。

一回の出演料が何千万ドルとかいうような大型スターはともかく、脇役でちょこちょこ出ているような下っ端俳優などは一か月も二か月も収入が無かったら暮らしていけない。それに撮影がなければヘアやメイクさんや技術や大道具など、撮影関係でその他いろいろな仕事をしてる人たちの生活にも支障をきたすだろう。確かにお気の毒なことではある。しかしながら、、

2020年3月から始まった2年間のロックダウンにより、どれだけのビジネスが崩壊したかを考えると、その間ずっと仕事をし続けていた芸能界が三か月やちょっと休んだからといって同情心を持てと言われてもそれは難しいだろう。

私はロックダウン中にレストラン経営者が室内飲食を禁止されたため、野外テラスを設置したにもかかわらず、不衛生ということで営業を許可されないその真横で、映画撮影のためのケイタリング用野外食事場が設置されている前で泣きながら訴えていた動画を今も鮮明に覚えている。何故レストランの野外テーブルは駄目で、撮影現場のケイタリングは良いのか、何が違うんだと彼女は訴えていた。

だいたいロックダウンで生活に必要不可欠だからと営業を継続できたビジネスと、不必要だと言われて閉店を余儀なくされた商売との不公平さは今もって理解できない。

ステイプルと言う大型文房具店は開いているのに、その隣にあるキッチン用品専門店は休店。文房具店へ入るのは安全でも台所用品店に入るのは危険とはどういう意味だ?洋服も売っているウォールマートのような大型小売店は開いているのに、個人経営の洋品店は休店。同じように不可解な理由で美容院やエステなども休店。ロックダウンの影響で潰れたビジネスはうちの近所だけでも、先に話した台所用品店、50年以上やっていたコーヒーショップ、行きつけのカフェ、近所で唯一本物の味がしたラーメン屋、個人経営の中華店、苺畑夫婦が30年来通っていた運動ジム、などなど数えたらキリがない。

人びとがそうやって苦しんでいる間にも映画やテレビの仕事は続いていた。それでいて金持ち芸能人たちがテレビで「マスクしろ!」「ワクチン打て!」「ソーシャルディスタンスを守れ!」などと煩いお説教を人々にしていたことを我々は未だ忘れていない。

それはともかく、最近のハリウッド映画はすでに観客離れが始まっている。この夏は大型映画の不発ぶりが特に顕著で、ディズニーのリトルマーメイドやライトイヤー、インディアナジョーンズ、ミッションインポッシブルなどが不入りで次々にずっこけた。これまで必ず成功していたヒーローものもザ・フラッシ、シャザーン、ブルービートルなど全く駄目だった。テレビ界でもテレビドラマ至上最高の製作費を投入したロードオブザリングスシリーズが大失敗、黒人女性を起用したクレオパトラシリーズも大不評、とまあこんな具合だ。個人的には楽しみにしていたスタートレックのピカードやストレンジニューワールドの新シーズンが酷すぎて観られたものじゃなく、パラマウントのストリームはキャンセルした。(ただしネットフリックスのワンピース実写版は評判がいい)

この映画やテレビの観客離れが続いているのも、最近のハリウッド作品のポリコレお説教に人々が嫌気をさしてきたからだろう。それにロックダウン中に押し付けられたストリーミングサービスのおかげで我々は別に新作品を観なくても、昔の傑作品をいくらでも観ることが出来る。

何にしろインフレで大変は人々がハリウッドなんぞに同情する余裕はないのである。


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キャンセルカルチャーに立ち向かうアメリカ

ジェイソン・アルディーンのTry that ina small townという曲が人種差別の歌だと言い掛かりをつけられ、カントリーミュージックテレビ局がビデオ放映を中止するなどしてアルディーンに圧力をかけたが、左翼の必死のキャンセル努力とは裏腹に曲自体は大ヒットである。

Chart (2023)Peak
position
カナダ Canada (Canadian Hot 100)[45]9
グローバル200 Global 200 (Billboard)[46]2
ニュージーランドヒットシングルスNew Zealand Hot Singles (RMNZ)[47]26
オランダグローバルNetherlands Global (Dutch Top 40)[48]28
イギリスシングルスヒットUK Singles Sales (OCC)[49]9
アメリカビルボード上位100US Billboard Hot 100[50]1
アメリカカントリーエアプレイUS Country Airplay (Billboard)[51]20
アメリカ人気カントリーソングスUS Hot Country Songs (Billboard)[44]1

アルディーンはキャンセルカルチャーの圧力に屈せず謝罪を全くしていない。反対にアルディーンの曲をかけない決断をしたCMTの方が視聴者からボイコットの対象になっているくらいだ。CMT Suffers Huge Blow After Boycott Calls Over Jason Aldean Music Video Ban (msn.com)

CMTは自分らの視聴者を理解していない。カントリーファンは愛国心の強い人が圧倒的に多いのだ。アルディーンの歌はアメリカが犯罪者の暴力で破壊されつつあるのを憂う歌だ。そんな歌を締め出したらファンが怒るのは当然だろう。女装男のディランモルベイニーと提携して破産寸前に追い込まれているバドライトもうそうだが、大企業は消費者をバカにした態度をもういい加減やめたらどうなのだろうか。

さて、もう一人、こちらも危うくキャンセルされそうになった歌手の話をしよう。こちらは詳しいことをBlahさんがツイッターで説明してくれている

この歌手の名前はNe-Yoというラッパーだ。数日前のインタビューでトランスジェンダーに批判的な発言をしたのが今回の炎上の原因。

「親がちょっと親としての役割を忘れかけてるんじゃねぇかなって思うよ。お前の5歳児がさ、『ダディ、ぼくはおんなのこなんだ』って言って、それ認めちゃうんかよって。5歳だぞ…許可すりゃ一日中キャンディばっか食べてる年齢だ…まだ車の運転もできないのに、性別は決められるってのかよ?一体いつから5歳、6歳、12歳の子供に生涯を変える選択をさせるのを良しとするようになったんだ?いつからだよ?わからん。」 (略)

「もしも自分の息子が『ダディ、ぼく、おんなのこになりたいの』って言ってきたら、『息子よ、おんなのこって何だろうね?』と訊いてやるんだよ。息子はどうすると思う?人形遊びをしたいかもしれない。いいんだよしても。人形で遊べばいい。でもお前は人形遊びをする男の子ってだけだ。『ピンクが着たい』って?いいじゃねぇか、ピンクを着れば。でもお前はピンクを着てる男の子だよ。」

普段は政治的なことを言わない芸能人が、こうやってたまに本音でいいことを言うというのはこれまでにもあったことなのだが、大抵の場合1日も経たないうちに左翼メディアやSNSで叩かれて、必死に謝罪して「ごめんなさい、勉強します、許してください」で幕を閉じるので、どうせ今回もそういうことになるんだろうと思っていた。NeYoはアルディーンと違って黒人ラッパーなのでなおさらだ。

案の定翌日にはNeYoからの謝罪声明がツイッターに掲載された。

「反省に反省を重ね、子育てと性自認に関する私のコメントで傷つけてしまった方々に深くお詫び申し上げます。私は常にLGBTQI+コミュニティにおける愛と包括性を提唱してきたので、私の言葉がいかに無神経で攻撃的なものと解釈されたかは理解しています。 ジェンダー・アイデンティティは微妙なニュアンスを持つものであり、正直なところ、私自身このトピックについてもっと深く学ぶべきだと認めます。そうしていずれ、一層の共感を持って対話に臨めるようになればと思います。 私は愛を持ってすべての人の表現の自由と幸福の追求を支持していく所存です。」

彼のファンは怒ったが、まあどうせそんなことになるだろうと思っていた私は驚かなかった。しかしNe-Yoは黒人ラッパーで、マッチョな文化のある黒人界隈ではトランスジェンダリズムはさほど人気はない。特に彼のファンは多分彼と同じ意見をもっているはず。だからNe–Yoは謝罪などせずに持論を貫き通しても決して彼の人気には悪影響など及ぼさないはずだ。だから人々は非常に落胆した。

ところがその翌日、Ne-Yoは自分の言葉で今度はインスタグラムで謝罪を撤回。先の謝罪文は自分が書いたものではなく、彼の事務所の広報部が書いたものであり自分の本意ではないことを明らかにした。

親愛なるみんな、どうしてる。Ne-Yoだ。普段はあんまり自分が何を思ってるとか何をどうするとかについて話さねぇんだけど、っていうのもみんなそれぞれ意見なんて持ってるし、なにも特別なことじゃないからな。 でもこれは俺が強く感じてることだから言わせてくれ。パブリシストのコンピュータからじゃなく、俺の口から直接聞いてもらいたい。(略)

だけど、誰かが俺に質問を投げかけたら、俺には俺の意見がある。俺は子供達が人生を台無しにするような決断をするのを、決して見過ごせない。俺はそれは絶対にできない。だめだ。

それで俺がキャンセルされるって言うんなら、世界はもうNe-Yoを必要としてないのかもしれねぇな。でも俺は全く構わない。俺はハスラーでなんとでもやっていける、俺には養わなきゃいけない子供達がいるからな。何があっても俺はやる。

ブラボー!Ne-Yoさん、良く言ってくれた。キャンセルカルチャーの圧力に負けないでくれてありがとう。

私はヒップホップは全然興味ないのでNe-Yoがどのくらいの大物ラッパーなのかは知らないのだが、だいぶ人気のある人らしい。こういう人気のある人が父親の責任についてこうして語ってくれるというのは非常に頼もしい。

キャンセルカルチャーと戦うためには、キャンセルに参加しないことが一番大事なことだ。大物芸能人が人種差別だのトランス差別だの言われても怯まず謝罪せず毅然とした態度を示し、それでもファン達から見放されない例がいくつも出てくれば、レコード会社や事務所がパニックを起こして芸能人たちと即座に手を切るなどということはなくなるだろう。さらにCMTのように手を切ったおかげでかえってウ経済的なダメージを受けるとなれば、左翼に染まっている大企業も早々簡単にキャンセルに参加することは出来なくなる。

だから今回この二人の大物がキャンセルカルチャーに立ち向かってくれたことは非常に喜ばしい限りだ。


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LGBTQ+支持のゲイ俳優も容赦なく攻撃するキャンセルカルチャー

私が好きなミュージカル俳優/歌手にジョン・バローマン(John Barrowman)という男性がいる。彼はスコットランドのグラスゴー出身だが、子供の頃に家族と一緒にカリフォルニアに移住、アメリカに帰化して、いまやアメリカ人俳優として舞台やテレビドラマやトークショー司会やコンサート歌手と、幅広い分野で活躍をしている。今日はその彼が一年ちょっと前にセクハラの汚名を着せられて、もう少しでキャンセルされそうになったというお話をしたい。

ジョン・バローマンの大ブレイクは1989年、彼がまだ22歳の頃にイギリスの大物舞台女優イレイン・ペイジに見い出され、ペイジ主演のエニシングゴーズ(Anything Goes)でペイジの相手役ビリー・クローカー役に抜擢されたことに始まる。その後イギリスのウエストエンドやニューヨークのブロードウェイの舞台で大活躍をするが、アメリカの視聴者にも知られるようになったのは2005年に再出発したドクターWHOでキャプテン・ジャック・ハークネス役を演じたのが最初だろう。その後も何度もドクターWHOに同役でゲスト出演しドクターWHOのスピンオフ番組トーチウッドの主演を演じた。最近ではヒーローものシリーズのアローで悪役を演じたりしている。彼は一応アメリカ人俳優ではあるが、出身地の母国UKでの活躍のほうが目立ち、イギリスの朝番組や音楽番組の司会などでも忙しかった。しかし常にアメリカ人キャラクターを保っており、イギリスの番組でもずっとアメリカ訛りで通している。

ドクターWhoのキャスト(左端がノエル・クラーク)とジョン・バローマン(右)

Josh Barrowman in Doctor Who

さて、そんな彼がトラブルに巻き込まれたのは2021年の春、ドクターWHOで共演したノエル・クラーク(Noel Clarke)が20人からの女性からセクハラされたと告発されたのがきっかけだ。このことでクラークの過去が色々掘り起こされ、そのなかでクラークが2015年にコンベンションかなにかでバローマンがドクターWHOの撮影現場で何度か局部をさらけ出したという話をしている動画が浮上し話題となってしまったのだ。これについてはバローマンは2008年にドクターWHOの制作者から注意を受けており、その時から何度も謝罪しており、他のインタビューや自叙伝でも色々と書いている。クラーク以外の共演者たちもバローマンの行動について面白おかしい思い出として話をしている。つまり仲間内やファンの間では広く知られていることであり新しいニュースではなかった。しかしクラークのセクハラスキャンダルが出た時点でクラークよりも遥かに知名度のあるバローマンの方にゴシップ雑誌やSNSやユーチューブチャンネルなどが食いついてしまったのだ。

おかげでドクターWHOのTime Fracture劇場版からバローマンのシーンがカットされてしまったり、トーチウッドの特別番組がキャンセルされたりジャック・ハークネスの劇画発売が発売直前にドタキャンされたりした。2021年後半、もうバローマンのキャリアはこれで終わりかと思われるほどひどい状態となってしまった。

バローマン本人は下記のように声明文を出しただけで、しばらくの間、特にこれといった発言をしなかった。

今にして思えば、私の高揚した行動によって動揺を招いたかもしれないことは理解していますし、以前にも謝罪しています(略)2008年11月の(最初の)謝罪以来、私の理解と行動も変わりました。

これは正しい行動だったと思う。こんなくだらないことで騒ぎ立てる奴らにはいくら謝罪しても意味がないからだ。かえって弱みを見せればその分叩かれるだけである。

バローマンは翌年2022年初期に、ロレイン・ケリーと言うスコットランドで人気の朝番組でスキャンダル初のインタビューを受ける。ロレインはもともとバローマンとは友人関係にあり、このインタビューもかなり同情的なものだった。これがスコットランドの番組であること、インタビュアーがスコットランド人であることなどから、普段はアメリカ人キャラクターを崩さないバローマンだが、この時はスコットランドのお国訛りで話している。

バローマンはインタビューでこれは15年前の出来事であり、身内だけの撮影現場でのことで、周りも皆ふざけていて誰もきにしていなかったこと、その後も色々な場所で何度も謝罪しており自分の自叙伝にも書いていることを説明し、ちょっとしたおふざけがまるで深刻なセクハラでもあるかのようにゴシップ紙に大袈裟に脚色されて書かれてしまったと怒りをぶつけた。無論今ならそんなことはしないが、過去を変えることは出来ないと語った。

興味深かったのはバローマンが「キャンセルカルチャー」という言葉を何度か使ったことだ。この言葉は主に保守派の人たちが使い出した言葉で、特にLGBTQ+に関して批判的なことを言った人たちがキャリアを破壊されてきたことに使われてきた。イギリスではJKローリングのようにトランスジェンダーに批判的な発言をした人たちが攻撃され色々な場でキャンセルされてきた。

ここではっきりさせておかなければならないのは、ジョン・バローマンは自分がゲイであることを最初からオープンにしていただけでなく、LGBTQ+活動にも積極的に参加していたということである。キャプテン・ジャック・ハークネスのキャラクターはバイセクシュアルで、彼には女性ファンも多いが男性ファンもかなりいる。そんな彼でさえもこのキャンセルカルチャーは容赦なく攻撃したのだ。

左翼リベラルたちはキャンセルカルチャーなどというものは存在しない。これは右翼保守の陰謀論だとか被害妄想だとか言って来た。だからそれをゲイでLGBTQ+の熱烈支持者であるバローマンが使ったのは皮肉である。保守派を黙らせるための手段がまわりまわって自分らの仲間をも攻撃し始めたというわけだ。

私はこの件でBBCは非常に偽善的だと思った。この話が広まった際に、BBCはあたかもバローマンの過去の行動を全く知らなかったかのように言っているが、すでに2008年の段階でBBCは彼に注意までしていたという事実があり、それでことは解決していたはずである。バローマン主演のトーチウッドが始まった時には、バローマンの現場での行為は有名だった。いくら注意を促したとはいえ人気があるからといって穏便に済ましていたものを、今になってあたかも驚いたようにふるまうのは卑怯だろう。そんなに許せないことだったなら、なぜ当時彼を首にしなかったのだ?当時は大したことだとは思わなかったのなら、今の価値観で15年以上も前のことを蒸し返すのはおかしいだろう。

それにBBCの番組では男女の裸体など普通に放映している。イギリスのテレビはアメリカと違って、セックスに関する描写がおおらかである。アメリカでは普通のネットワーク番組では男性の局部どころか臀部すらも映さない。だがイギリス国営放送のBBCでは男性の正面からの全裸など普通に映される。そういう局で、バローマンがうちわの仲間たちの間で裸になったからなんだというのだ?

BBCが支持しているLGBTQ+のプライド月間では、全裸の男たちが子どもたちの前で男性器をひけらかしているではないか。ああいう行為を批判しないなら、バローマンの行為だけ批判するのはおかしいだろう。

結局バローマンはどうなったのかというと、ロレインでのインタビューでも謝罪をちょっとした後は、新しく始まるテレビ番組のレギュラーになった話や自分のコンサートツアーの宣伝でインタビューの大半が埋まった。この後にも他の番組でのインタビューで、やはり冒頭でスキャンダルの話をちょっとした後は、今後のイベントの宣伝をしていた。司会者たちが好意的であったことから考えて、ああ、これで終わったんだなと感じた。イギリスメディアはバローマンを許したのだ。

そして一年後の今、バローマンのフェイスブックを覗いてみると、コンサートやコンベンション出演の予定がぎっしり詰まっている。どうやらバローマンはキャンセルカルチャーの攻撃を生き延びたようである。


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カントリー歌手ジェイソン・アルディーンがそう簡単にキャンセルされないわけ

ここ数年、芸能人や著名人が何か反ポリコレ的な発言をすると、すぐに左翼リベラル連中が大騒ぎをしメディアも一緒になって叩き、本人に弁明する機会も与えず数時間後にはスポンサーが去ったり、事務所から解雇されたりとなり、翌日には当人がひれ伏して謝罪し許しを請うというシナリオが何度となく繰り返されてきた。しかし今回のジェイソン・アルディーンの場合はこれまでと違っている。

事の起こりはカントリー歌手ジェイソン・アルディーンが新曲Try That In A Small Townのミュージックビデオを数日前に発表したことにある。この曲はすでに5月に発売が開始されており売れ行きも好調だった。ところが一週間ほど前、このMVが発表された直後、そのビデオの内容が人種差別的であるとか、暴力を煽っているとか言い掛かりをつけられSNSで大炎上となった。お決まり通り根性のないカントリー専門の音楽チャンネル、カントリーミュージックテレビジョンが即アルディーンの新曲をプレイリストから外してしまった。

いつもならここで歌手は謝罪の声明文を出すところなのだが、アルディーンはそれをせず、自分は何も悪いことはしていないと毅然としている。しかも不思議なことにアルディーンはファンから見放されるどころか、かえって新曲の売上は上がりファンたちも完全にアルディーンの味方をしている。反対にアルディーンの曲をかけないといったテレビ局をボイコットしようという動きさえある。カントリー歌手の間からも新曲への批判は言い掛かりだとアルディーンを弁護する声もいくつか上がっている。

アルディーンは金曜日行われたコンサートでもこのこと触れ「長い一週間だった」とはじめた。「俺は誇りあるアメリカ人だ。俺はこの国を愛してる。俺はこの国に、このくだらねえことが始まるまえの元の姿にもどってほしいんだ。」と語った。「USA, USA」と声援を送るファンたちに「キャンセルカルチャーてのはあるんだ。それは人の人生をすべて破壊しようとするんだ。でも今週俺が見たのは、カントリーミュージックファンがそのくだらなさを見透かしたってことだ。そうだろ?俺はカントリーファンがこれまで見たことないほど応援してくれるのを見たんだ、それは凄いものだったよ」そして今後もこの歌を歌うかと色々な人に聞かれたが「答えは簡単だ。言葉は放たれた!お前らは声高に言ったんだ。」そして彼は新曲を唄い始めた。

私はビデオを見たが、すべてここ数年で起きた暴動や犯罪事件のニュース画像である。犯罪を犯している犯人たちも人種は様々で、特にどの人種に取り立てて焦点を当てているわけでもない。これを見て黒人差別だと言っている人のほうが、犯罪を犯すのはすべて黒人だという偏見を持っていると言えるだろう。

アルディーンはこういう行為は、大都市では許されても小さな町では通用しないぞということを言っているのだ。

左翼リベラルが気に入らないのは、ニューヨークやサンフランシスコなどの大都市がどんどん民主党の悪政によって破壊されている事実を指摘されたことなのだ。そして小さい町の愛国心あるアメリカ人は都会の政治家たちの思い通りにはならないことが腹立たしいのだ。

今回のファン達の反応でアルディーンがどれほど正しかったかが明らかになった。キャンセルカルチャーだあ?小さい町でやってみろ!


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スタートレック、ストレンジニューワールドの酷すぎるシーズン2第一話

一年間まってスタートレックのストレンジニューワールドのシーズン2第一話を観た。去年スタートレックシリーズを全部観たくてパラマウントと契約したのだが、シーズンがお休みに入ったので解約し、ピカードのシーズンが始まったらまた始めようと思っていた。しかしピカードの第三シーズンは一話を無料で観たが全然面白くなかったので、ストレンジニューワールドが始まったら再開しようと待っていた。

そしてついにストレンジニューワールド第二シーズン開始ということで、先ずは無料の第一話を観た。観たが、、酷かった、、酷すぎる。

先ずシーズンプレミアなのに主役のパイク艦長が最初の数分しか出て来ない。第一シーズンで逮捕されたナンバーワンの弁護をするために出張するという設定でエンタープライズはスポックに任される。第一話でなんでこうなる?無料の第一話で視聴者の心をつかむ必要がああるのに、一番魅力的なキャラクター(しかも主役)を早々に追っ払うってのはどういうことだ?

ま、百歩譲って第二の主役であるスポックに焦点を当てたエピソードにするというなら、まあいいとしよう。ところがこの話の主役はスポックでもないのだ!

話はパイク艦長が留守の間に以前の乗組員だったエリカからのSOSを受け、スポックは上部を騙してエンタープライズを勝手に使って救助に向かう。到着した星はクリンゴンの植民地だかなんだかでクリンゴン星人が沢山いる。探索チームはムベンガ医師とチャペル看護婦を含む数人だがスポックは含まれていない。まあそれはいいとしよう。

探索中に身元がばれてドクタームベンガとナースチャペルが捕まってしまい、話の後半はこの二人がどうやって脱出するかという話になってしまう。一千歩譲って医療チームの二人に焦点をあてるのなら、それはそれでいいとしよう。しかし彼等の脱出の仕方がまるで非現実的なのだ。

ドクターは全く格闘専門家ではないドクターとナースが突然格闘のプロになれる魔法の薬を持っている。そして二人はその薬を注射することで何人もの強靭なクリンゴン警備隊をぼこぼこにやっつけるというスーパーヒーローとヒロインになってしまうのである。

なんだこの馬鹿げた話は!

格闘シーンを撮りたいなら格闘にふさわしいキャラクターを使うべきで、なんで医者と看護婦が格闘するのだ?彼等を主役にしたいなら医者と看護婦という職業を生かした筋書きにすべきじゃないのか?例えば流行り病が蔓延してクリンゴンの植民地が危機的な状況にさらされていることを知ったスポックがムバンガ医師とその医療チームを派遣してフェデレーションの医学をもってして人々を救うとか。最初はフェデレーションの力など借りないといっていたクリンゴン星人がスポックとの交渉でしぶしぶ援助を受けるとかなんとかやり方があったんじゃないのか?なんで格闘技になるのだ、アホか!

私が新しいスタートレックシリーズのなかでストレンジニューワールドが気に入ってる理由はカーク船長の時代のオリジナルの雰囲気が出ている番組だからである。それなのに、この新シーズンはまるで大駄作だったディスカバリーの脚本家や製作者がそのまま移動してきたのではないかと思えるほどひどいものになっている。

筋がくだらないのもそうだが、私がディスカバリーシリーズで大嫌いだった色々な要素がこちらにもある。

先ず画像が暗すぎる。ディスカバリーは最初から最後まで画面が暗くて何が起きてるのか分からない状況が多かった。特に船内の証明が暗すぎる。登場人物が黒人ばっかりなのに、あれでは人々の顔の表情が良く分からない。その点SNWの第一シーズンは明るくてそれぞれの登場人物の顔が良く見えてよかったと思っていたのだ。

ところが今シーズンは船内がまっくらけ。訪れたクリンゴンの植民地も薄暗くて格闘シーンでも何がおきてるのかよくわからない。ドクタームバンガはアフリカ人でかなり肌の色が黒い。コンナに暗くては彼の顔が全然見えない!

乗組員はブス女ばかり。スポックとムバンガ以外の主要な乗組員は全員女性。しかもオフラを含めて美女が一人も居ない。オリジナルシリーズではオフラは超美人で赤いミニドレスの下から美脚を出すシーンが有名だったのに。そういえばこのシリーズでは、これだけ女性乗組員が多いのに誰一人としてミニスカートのユニフォームを着ていない。

最近ゲーマーたちも文句を言っていたが、何故かサイエンスフィクションやアクション物に出てくる女性が最近やたらにブスが多くなった。昔は映画でもテレビ番組でもゲームでも、主要なキャラクターは皆美男美女と相場は決まっていた。そして美女は特にスタイルのいい身体の線がばっちり決まるセクシーな恰好をしていたものである。

そんな服を着て闘えるのか、とか、スペースシップでミニスカートはおかしいだろ、とかいうツッコミは娯楽番組に向けてすべきことではない。そんなの分かりきってることだ。そんなことをするのは、日本のアニメの女の子キャラが着てる服に機能性を要求するくらい無粋というものである。

百万歩譲って登場人物がみんな醜女とブ男ばかりなのを許すとしても、話の筋がバカバカしすぎるという点はもう許容できる範囲ではない。どうしてハリウッドは成功しているシリーズすらも台無しにしてしまうのだ?

だいたいこのシリーズは誰を対象に作られているのだ?普通サイエンスフィクションのファンには男性が多いが、男性ならセクシーな衣装を纏った美女を見たいはずだ。女性ファンを増やしたいなら格好いいイケメン俳優の活躍を見たいはずだ。

ブスの女ばかりが出てくる番組を一体誰が見たいのだ!

ひとつだけ良い点。クリンゴンが新世代の時のクリンゴンに戻ったこと。オリジナルシリーズの時はメイクアップの技術がまだ未熟であったため、クリンゴン星人は肌の色が黒っぽく釣り眉毛だったくらいで地球人との区別はあまりつかなかったのだが、新世代で額に深いしわのある顔になり、全体的に大柄で男も女も強靭である設定に変わった。クリンゴンの女は特に豊満な胸の谷間が自慢だった。

それが何故かディスカバリーではメイクが完全に変わって俳優の顔がまるで分別できないほどひどいものになっており、いったい何星人なのだろうと思うくらい変わってしまっていた。それが今回90年代のネクストジェン・新世代の時にもどったのは非常に良いことだと思う。

さて、第二話からはお金を払わないと見られないのだが、いまどうしようか思案中。パラマウントで良い作品が多いのであれば登録してもいいが、これだけしか見るのがないのであれば、登録の価値があるかどうか、今悩んでいる。


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映画のミュージカル化が大成功した「プロデューサーズ」に大感激

本日のカカシミュージカル観賞批評はメル・ブルックス監督の1958年公開の同題名の映画を、やはりブルックス監督が舞台でミュージカル化した「プロデューサーズ」。いやあ、聞いてはいたけど素晴らしかった。

さっきウィキで調べたところによると、この映画はヒットラーを主演させるミュージカルを作るという悪趣味な内容のせいなのか、日本での公開は何と2000年までされなかったというのだから驚いた。ミュージカルがブロードウェイで発表されたのが2001年だったので、ぎりぎり間に合った感がある。

映画とミュージカルの筋は全く同じなのでウィキからあらすじを拝借。ネタバレあり。

かつてはブロードウェイの大物プロデューサーだったが、今はすっかり落ち目のマックス・ビアリストックは、裕福な老婦人たちのご機嫌取りで金銭を稼ぐ日々。ある日、マックスの事務所へ気弱な会計士のレオ・ブルームが訪れる。彼は帳簿を調べている内に、ミュージカルを当てるより失敗させた方がより大儲けできることに気付く。マックスはこれはいいアイデアだと、レオを誘い最低なミュージカルを作って一攫千金の詐欺を企む。

確実に失敗させるためにはまずは最低な脚本を、と探し当てたのはナチシンパのドイツ人フランツ・リープキンが書いた『ヒトラーの春』(Springtime for Hitler)だった。首尾よく上演権をとりつけたマックスは早速金集めに奔走、高額の配当をエサに愛人の老婦人たちから莫大な出資金を騙し取る。続いて最低な演出家として、ゲイで女装趣味の演出家ロジャー・デ・ブリーを起用。そして最低の役者として主役のヒトラーに選ばれたのは、別のオーディション会場と間違えて来たヒッピーのイカレ男ロレンツォ・サン・デュボワ(イニシャルからLSDと呼ばれる)である。

以降ネタバレ注意!

これで万全、上演は失敗間違いなし!とほくそえむ2人だったが、やがて初日を迎えると予想外の反応が待っていた。最初こそ馬鹿げた内容に腹を立てる客が続出したものの、LSDが怪演するオカマ風ヒトラーに観客は爆笑につぐ爆笑。ナチ党員が手に手をとって陽気に歌い踊るあまりにも俗悪極まる内容に、ヒトラーを笑い者にした反ナチの風刺コメディだと観客に勘違いされる。結果はなんとミュージカルは大ヒットしてしまうのだった。

このミュージカルは公開するや大ヒットを飛ばし、何年ものロングランで主役も何回か入れ替わったが、2005年には今度はこのミュージカル版がオリジナルキャストのネイサン・レーンのマックスと、マシュー・ブロードリックのリオで映画化され公開された。何故かこちらの方はあまり業績はよくなかったのだが。

私が今回観た舞台は、ブロードウェイ版ではなく、なんと5年前に行われたサミット高校の演劇部公演によるものだ。ユーチューブではよく高校や大学の演劇部による舞台公演がアップされているが、これらの舞台は素人とは思えないほど素晴らしい掘り出し物がよくある。今回のこのプロダクションは舞台装置から衣装からオーケストラから、そしてもちろん役者たちの演技に至るまで、高校生とは思えない非常に質の高いものだった。

私は元の映画を1970年代に観た記憶がある。私はメル・ブルックスの大ファンだったので、1978年から2000年にかけて彼の映画を結構まとめて観た。ただ、私は当時無知な日本人女性だったことから、ブルックス監督がいかにあからさまに自分のユダヤ文化を全面的に押し出す監督なのかということに気が付かなかった。

ユダヤ文化というのは結構特異なもので、それにしょっちゅう面していないと、それがユダヤ文化なのだと言うことにも気づけない。このミュージカルではマックスもだがリオは特にユダヤ人典型の人物である。ミュージカルナンバーも屋根の上のバイオリン弾きを思わす踊りや音楽が最初から流れて来るし、ジョークもいちいちユダヤ風。ブルックス監督特有のこれでもかというくらいしつこい。

そういうわけだから、マックスとリオがプロデュースしようというミュージカルが「ヒットラーの春」なんてのは悪趣味も行き過ぎだし、誰がこんなものを見たがるものか、となるのが当然な成り行きである。

これにういて実はちょっと面白い話がある。ユダヤ系である我が夫ミスター苺はこの話について何も知らなかった。それで私がユーチューブでこのミュージカルを観ているところに部屋に入ってきたミスター苺は、私がちょうど観ていた「春の日、ヒットラーのドイツ~」というコーラスにヒットラー青年団の制服を着た若者たちがハイルヒットラーの敬礼をしながらグースステップで歩き回るナンバーを観て「なんだこの悪趣味なナンバーは、早く消せ!」と怒ったことがあるのだ。それで私が「いやいや、これは風刺だから。ジョークジョーク」と説明したのだが、主人は「冗談でもやっていいことと悪いことがある」とプンプンに怒ってしまったのだ。今回私と一緒に最初から最後まで観たミスター苺は同じナンバーのところで大笑いしていたが。

というわけで、いかにこの主題がユダヤ系の人びとにとって敏感なものであるかがお分かりいただけたと思う。だからこそミュージカルとして絶対に成功するはずはないとマックスとリオは踏んだわけである。

このミュージカルがミュージカルとして非常に優れている点は、マックスとリオが脚本家や監督を訪ねるシーンでそれぞれ個性あるキャラクターによるミュージカルナンバーが繰り広げられることや、主役を選ぶオーディションのシーンなどでも登場人物たちの個性が非常によく表れていて面白いことだ。主役は確かにマックスとリオだが、脇のキャラクターたちの見せ場が多く面白い。

そして極めつけは何と言っても「春の日、ヒットラーのドイツ」ナンバーである。これはユーチューブに色々なバージョンが上がっているが2005年の映画のバージョンが特に良い。独唱は私が大好きなジョン・バローマン。

このミュージカルにはいくつも良いミュージカルナンバーがあるが、最後のほうでマックスが独唱するシーンは素晴らしい。これは単に歌がうまいだけでは駄目で、コメディーとしての要素をしっかり表現んできる役者でなければ務まらない。ブロードウェイと映画ではネイソン・レーンが演じているが、彼はブロードウェイではコメディーミュージカル俳優としてはベテラン。映画ではラカージャフォーでも主演を演じているので親しみのある人も多いだろう。

日本の皆さんには映画バージョンをお薦めする。


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アカデミー賞、多様性配慮の新規則に俳優や監督から非難囂々

2024年度からアカデミー賞は最優秀映画賞ノミネートの資格規則を色々と変更する旨を発表したが、これに関しては俳優や監督など関係者から非難囂々の反響が出ている。特に新ルールは女優にとって不利なのではないかと懸念を表わす女優も居る。それというのも、同賞は従来の男優賞や女優賞を失くして単に最優秀主演賞や助演賞といったユニセックスに統一しようという動きがみられるからである。

しかしその話をする前に新ルールがどのようなものなのか、もっと詳しく調べてみよう。こちらのサイトが詳しく説明しているので引用する。What are the Oscars’ new diversity and inclusion rules for Best Picture nominees? – Vox

包括性基準には、4つのカテゴリーがある。映画は、4つのグループのうち2つのグループで基準を満たす必要がある。

まず、アカデミーがUnderrepresented(あまり代表されていない)とする人たちのことをこのように定義づけている。

  • アジア人、ヒスパニック/ラテン系、黒人/アフリカ系アメリカ人、先住民/ネイティブアメリカン/アラスカ先住民、中東/北アフリカ、ネイティブハワイアン/その他の太平洋諸島民、または その他の代表的でない人種または民族を基準内のunderrepresented racial or ethnic groups「代表的でない人種または民族グループと呼ぶ。
  • また、アカデミーは基準内でより広範なアイデンティティ・グループを指定しており、これには上記の代表的でない人種や民族のほか、女性、LBGTQ+の人々、認知障害や身体障害を持つ人々、聴覚障害を持つ人々が含まれます。わかりやすくするために、このグループをまとめて「代表されていないアイデンティティ・グループ」と呼ぶ。

では最初に述べた四つのグループの内訳。

グループA:配役及び登場人物

  • 代表的な人種や民族のグループから少なくとも1人の「主役または重要な助演俳優」が出ている。
  • または二次的および脇役のキャストの少なくとも30パーセントが、2つの代表的なアイデンティティ・グループ出身であること。
  • または主要なストーリーまたは主題が、代表的でないアイデンティティ・グループを中心にしている。

グループB:制作およびプロダクションチーム

  • 主要部門(編集、監督、メイクアップとヘアスタイリング、衣装、音響など、その他多数)の責任者のうち、少なくとも2人が非代表的なアイデンティティ・グループ出身でなければならない
  • さらに、そのうちの最低1人は、代表的でない人種または民族の出身者でなければならない。
  • クルー(制作アシスタント、一般的に撮影現場での初級職を除く)のうち、少なくとも6人が、代表的でない人種または民族の出身者であること。
  • クルーの少なくとも30パーセントが、代表的でないアイデンティティ・グループの出身者である。

グループC:トレーニング

  • さまざまな部門で、社会的地位の低い人たちに有給のインターンシップや実習の機会を提供し、実際にその職種の人たちを雇用していること(会社の規模によって数は異なる)。
  • 基本的に下層および中層の地位のトレーニングおよび仕事の機会を、代表的なアイデンティティ・グループの人々に提供しなければならない。

グループD:マーケティング、宣伝、および配給

  • このカテゴリの資格を得るには、映画を配給するスタジオまたは会社が、マーケティング、宣伝、または配給チームに、不特定多数のアイデンティティ・グループ出身の上級レベルの幹部を「複数」抱えている必要がある。

これらの新規則については監督や俳優らからも辛辣な批判が上がっている。とある監督は、、

「完全に馬鹿げている「多様性には賛成だが、ノミネートされたければ、特定のタイプの人を起用せよというのは?それだと、プロセス全体が作為的になってしまう。その役にふさわしい人が、その役を得るべきだ。なぜ、選択肢を制限されなければならないのですか?でも、それが私たちのいる世界なんです。こんなのおかしいよ。」

ジョーズなど多くの映画を主演している名優、リチャード・ドライフェスは、新規則には「吐き気がする。」として、映画はビジネスであると同時に芸術品であり、芸術家として誰にもその時の道徳観念を強制されるべきではないと語った。また今の世の中でどんなグループの人も特別扱いされるべきではないとした。「すまんが、私はこの国でそんな風に扱われなきゃならない少数派だの多数派などという人達が居るとは思わんね。」

全くだ。この規則は所謂少数派の人びとは特別扱いされなければ成功できない無能な人々だと言っているに過ぎない。はっきり言って少数派と言われる人々に対してかなり失礼である。

それにこの規則だと、歴代最優秀映画賞を獲得した「ゴッドファーザー」や「シンドラーズリスト」のような映画は受賞資格がないということになってしまう。時代や地域を特定した映画は先ず無理となるし、史実物は先ず不可能となる。映画は現代劇かSFくらいしか作れないということになってしまうが、それでいいのか?

さて、それではこの新ルールで女優が不利になるというのはどういう意味なのだろうか。今、アカデミー賞では従来の主演男優賞や女優賞をやめて単に最優秀主演賞や助演賞にすることを検討中だという。これに関しては何人かの女優たちが懸念を表明している。

女優のジャ三―ラ・ジャミル(Jameela Jamil)はジェンダーニュートラルな賞のカテゴリーに反対を表明し、Instagramの投稿で、ノンバイナリーの人々が独自のカテゴリーを持つ方が良いと主張した。「賞レースで受賞する男性対女性の不均衡が知られていることから、ハリウッドが女性を完全に締め出すための扉を開くよりも、ノンバイナリーの人々に独自のカテゴリーを与える方が良いのではないだろうか?」と書いている。

居や全くその通りだろう。先ず何故最終週主演や助演の役者が男性枠と女性枠に別れているのか、それは男性と女性が主演する映画は全く質が違うからだ。1940年から50年代のようにミュージカル全盛期の頃ならまだしも、近年の映画でヒットする映画のほとんどは男性が主役だ。題材は戦争物でもスパイ物でもSFアドベンチャーでも、より多くの観客が観たいと思う映画の主役は男性陣に牛耳られている。これは別におかしなことではない。女性は男性主役の映画でも観に行くが、男性は女性主役のロマンス映画など観たがらないからである。女性の主役を増やそうと無理やりスターウォーズやレイダースのように女性キャラを起用してみても、観客は完全に拒絶することは、これらの映画の不入りを見てもあきらかである。

となってくると、最優秀主演賞にノミネートされるのは圧倒的に男性が多くなるだろうし、女性が勝つ可能性は先ずなくなるだろう。もしノミネートの段階でもある程度の女子枠を設けろと言う話になってしまうなら、ユニセックスにする意味が全くなくなる。それなら女子枠を残して置けということになる。

映画に限ったことではないが、男女を一緒にすると必ず女性が割を食う。男女共同トイレしかり、男女混合スポーツしかり、そしてまた男女混合映画賞しかりである。

男女同権というのは男女を混合することにあるのではない。女性の権利は一定の場所で女性を男性から区別することで守られてきたのだ。それを平等と言う名のもとに男女の区別をなくしてしまうことは、結局女性の存在を抹消することになるのである。

アカデミー賞授賞式の視聴率は年々減る傾向にあり、はっきり言って多くの観客はアカデミー賞になど興味がない。昨今アカデミー賞でノミネートされたどれだけの映画が興行的に成功しているだろうか?私は結構映画好きであるが、それでも観たことも聞いたことも無いような映画がノミネートされ受賞している。

最近はアカデミー賞を獲ったからといって監督や俳優たちの格が上がるというものでもない。賞を獲ったからと言って次の映画で高予算の映画を作らせてもらえるわけでもない。そうであるならプロジューサーも監督も煩い規制のあるアカデミーなど無視して金儲けの出来る売れる映画を自由に作ることに専念するようになるのではないだろうか。

そしてアカデミーでノミネートされる映画は、誰も観ていない一部のエリートだけが気にする「芸術作品」と成り下がるのがおちである。

 


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時代劇や史実番組で行われる人種挿げ替えがもたらす危険

先日ご紹介したネットフリックスのクレオパトラシリーズの放映が遂に始まったが、RottenTomatoesという批評家と視聴者の反響を示す指標では、批評家11%、視聴者2%というRT史上最低の結果が出た。これはつまり、観た人ほぼ全員がこの番組に悪評価を下したということになる。この番組は放映前からクレオパトラをアフリカ系黒人が演じているということでかなりの批判があり、特に現エジプト人からなぜエジプト系やギリシャ系の女優を使わなかったのだと不満の声が上がっていた。

Netflix’s ‘Queen Cleopatra’ docuseries slammed by both critics and audience for being historically incoherent

Netflixのアデラ・ジェイムス演じるクレオパトラ

ローマやエジプトの古代歴史に詳しいユーチューバー(多分ギリシャ系)の話を聞くと、北アフリカ系黒人は主役のアデラ・ジェイムスだけでなく、エジプト人とされる人々の役は全てアフロ黒人が演じているという。当時のエジプトの支配階級はマセドニア人(現在のギリシャ)であり、アフロ黒人ではない。なぜエジプト王家の話なのにエジプト系俳優が一人も起用されていないのか、とそのユーチューバーは怒っていた。

Elizabeth Taylor as Cleopatra in the 1963 epic drama film directed by Joseph L. Mankiewicz.

Elizabeth Taylor as Cleopatra in the 1963 epic drama film directed by Joseph L. Mankiewicz.

しかしエリザベス・テーラーがクレオパトラを演じた時は人種が違うなどという批判はなかったではないかという問いに対して、エジプト人芸人Bassem Youssefはハリウッドは昔からそういうことには無頓着であり、当時のエジプト人もそれがいいと思っていたわけではないと語っていた。しかし、そういう彼の顔立ちは、中東系とはいえイタリア人やギリシャ人と言っても通用するヨーロッパ系に見えるし、肌はどちらかと言うと白人に近く目は青い。今のエジプト人でもこうなのだ。古代エジプトのマセドニア人であったクレオパトラがエリザベス・テーラーとアデラ・ジェイムスのどちらに似ていたかと言えば、明らかにテーラーの方に似ていたはずだ。

Bassem Youssef

Photo courtesy of Mustapha Azab Bassem Youssef

拙ブログでも何度かお話しているように、昨今のハリウッドやイギリスのドラマにおける人種挿げ替えの勢いは凄まじい。リトルマーメイドやティンカーベルのような架空のファンタジーキャラクターなら人種などどうでもいいという理屈も通るかもしれないが(通らないと私は思うが)、時代劇など史実を元に実在した歴史上の人物で肖像画などからその容貌が広く知れ渡っているような人たちですら黒人が演じるという本当におかしな状況になっている。

つい先日も、ウィリアム・F・バックリーJr.(1925ー2008)という1955年にナショナル・レビューを設立した保守派作家の役を黒人が演じているお芝居のコマーシャルを観た。彼は1950年代から2008年に亡くなる寸前までテレビなも多く出演しており、その教養あふれる上流階級人らしい彼独特の話方に関しては、まだまだ記憶に新しい人々が多く居る。彼の友人だった保守派の人びとも未だに作家や評論家として活躍しているわけで、全くイメージの違う人を配役することの意味がわからない。私の今は亡き我が友人はバックリーと面識もあり、彼の物真似が非常にうまかった。

しかし問題なのはイメージが違うなどという表面的なことだけではない。ほぼ単一民族だけの社会ではよそ者を忌み嫌うのはごく普通である。だいたいつい数十年前までどんな社会でもよそ者差別は普通だった。海岸沿いで貿易港などがあり諸外国の人びとが入り混じる都市ならともかく、小さいコミュニティーでは誰もが何世代も前からの知り合いだ。だからよそ者を警戒するのは当然の’話だ。

それと昔の社会はどこの社会でも階級制度というものがあった。自分らが付き合う相手は同じ階級のものだけであり、ましてや結婚などということになれば位が高ければ高いほど相手の家柄を選ばなければならない。位の違うひとたちとの付き合いは同じ階級の人びととのそれとはまるで違う。身分の違うもの同士の対等なつきあいなどというものは存在しなかったのである。

そういう社会を背景にした物語で、全く違う人種や階級の人間が、あたかも対等であるかのように自然な付き合いをする描写があった場合、歴史を良く知らない観客は昔の欧米社会についてどんな印象をもつだろうか?何も知らない観客は中世のイギリスやフランスの宮廷には普通にアフリカ系黒人の貴族が出入りし、貴族も商人も農民もみな同じようにふるまい、諸外国からの移民で街は溢れかえっていたと思ってしまうのではないか?だがそうだとしたら、当時全く文化の違う諸外国からの移民がヨーロッパの宮廷でヨーロッパ人と同じようにふるまうだけの教養を持っていたということになってしまい、当時の中東アラブの奴隷商人やアフリカ大陸からの黒人奴隷らの存在はかき消されてしまう。

つまり史実上の人物や当時の社会を無視した人種挿げ替えは当時の社会構成や文化全体を否定することになり、欧州及びアフリカや中東の歴史まで書き換えてしまうことになるのだ。

今の世の中でも人種差別が消えたわけではない。いや、それどころか人権屋が常に現社会の人種差別について声高に訴えている。しかし、ドラマの世界を信じるならば、中世や近代歴史の欧米で多人種が仲良く全く問題なく共存していたのに、昨今の人種差別は何時頃から始まったのであろうか、何故昔は人種差別がなかったのに突然現代になって人種差別が始まったのだ、そしてその原因は何なのだ?というおかしな疑問が生まれてしまう。よしんば昔から人種差別はあったと考えたとしても、ドラマの世界を見る限り、いまとそんなに違わない程度のものだったと判断せざる負えなくなり、欧米の人種問題は昔から全く変わっていないという印象を持ってしまう。実際はまるで違うにもかかわらずである。

それともうひとつ、昨今の人種挿げ替えはほぼ元の役が何人であろうと黒人が配役される。そして白人役を黒人が演じるのは構わないのに黒人役を白人が演じたら大問題になる。この間も書いた通り、現代のハワイ諸島民の役を実際のハワイ島民が配役されたにもかかわらず、役者の肌の色が白すぎると言って大騒ぎする黒人活動家たち。ハワイ諸島民はアフロ黒人ではなくヨーロッパの植民地時代が長く続いたせいで肌の色もまちまちであることなど完全無視。それでいて、非白人の有色人種(エジプト人)をあり得ない人種のアフロ黒人が演じることは全く問題がないと言い張り、当のエジプト人からの非難を「黒人差別だ」だとしてエジプト人ファン全般を侮辱するという傲慢さ。このままでいくと、そのうち「ショーグン」や「ラストサムライ」のリメイクが行われたら日本人役は全員黒人がやるのではないかとさえ思われるほどだ。

黒人俳優を多く起用したいというなら、黒人独自の歴史を語ればよい。近代の黒人英雄の遺伝はいくらもある。奴隷から政治家になったフレドリック・ダグラスやジム・クロー時代に育ちながら最高裁判事にまでなったクレアランス・トーマス判事の話など探せばいくらでもあるはず。なぜ他民族の歴史を乗っ取らなければならないのだ?何故他人の創造物を破壊しなければならないのだ?

今回のクレオパトラシリーズの大不評が良い例であるなら、今後このような人種挿げ替えはどんどん拒絶されていくだろう。そうなって反感を買うのは単に与えられた仕事をしていた黒人俳優たちのほうである。

追記:これを書いてからクレオパトラのプロデューサー、ジェダ・ピンケット・スミス(ウィル・スミスの悪妻)は、クレオパトラの失敗は白人至上主義のせいだと言っているという記事を見つけた。Jada Pinkett Smith claims her Cleopatra documentary FAILED due to WHITE SUPREMACISM (msn.com)。苦情の多くは非白人のエジプト人からなのに、なんでもかんでも白人至上主義の性にするな!歴史的にも間違いだらけの駄作を作った責任をちゃんと取るべきである。

ネット仲間のBlahさんがおもしろい動画を紹介してくれてるので張っておく。(5) 🇺🇸 🇯🇵Blah on Twitter: “ポリコレ改変が大好きなNetflix、今度はシャーロット王妃を黒人にして炎上。 シャーロット王妃黒人説は一部で根強く、原作者も賛同も、歴史家はこの説を強く否定。奴隷制廃止前に黒人系王族は無理があると批判の声。 ↓リプ欄で恒例のポリコレ映画ミーム集 https://t.co/PAqdaduhUg” / Twitter


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ドラアグクィーンがクールだった頃のミュージカル、キンキーブーツ

ミュージカル無料視聴期間の最後に観たブロードウェイミュージカルはキンキーブーツ。実はこのミュージカル、数年前に日本で今は亡き三浦春馬さんの主演で日本では大好評を得た作品。私がこの作品を知ったのも三浦さんが亡くなったというニュースを聞いた際にユーチューブで上がってきた動画を見たことによる。最近は城田優さんが主演で再演されている。

もととなったのは2005年に公開された同題のイギリス映画だが、その元の元は1999年に放映されたBBC2のドキュメンタリーシリーズで取り上げられたスティーブ・ぺイトマンという経営不振で傾きかけていた靴工場の経営者が男性用のブーツを製造し始めて成功したという話である。

今回私がみたのは2015年のロンドンのウエストエンド版だ。

ではあらすじ:日本語版ウィキペディアより

チャーリー・プライスはイギリスの田舎町ノーサンプトンの伝統ある紳士靴メーカー 『プライス社』 の跡取りだったが、周囲の重圧に耐えかね、転勤を機にロンドンに移住することを計画していた。

しかしロンドンに到着したその日に父の訃報が届き、『プライス社』 を継ぐことになり、しかも社の財政状況が火の車だということを知る。在庫の処分のためロンドンへ出張中にやけ酒を食らった勢いで、酔っ払いのチンピラに絡まれている美女を助けようとしたが、逆に美女に誤って叩きのめされてしまう。目が覚めるとそこは不作法なドラァグ・クイーンのローラ、本名サイモンの楽屋であり、その人物は桟橋で踊っていた少年の成長した姿であった。ドラァグ・クイーンには専用の靴がないため仕方なく女性用の靴をはいているが、ハイヒールは男性の重く大きな体を支えきれずに簡単に壊れてしまうことにチャーリーは興味が湧く。

ノーサンプトンに戻ったチャーリーは人員整理をしている最中、クビにしようとした社員のローレンに「ニッチ市場を開拓しろ」と捨て台詞をはかれる。そこでチャーリーはローレンを顧問として再雇用し、ローラのためのハイヒールのブーツである『女物の紳士靴』 の開発に着手し、そこにローレンの言うニッチ市場を見出す。しかし最初のデザインは機能性を重視するあまりにオバサンくさいブーツに仕立ててしまい、ローラを怒らせ、チャーリーとローレンはローラをコンサルタントとして迎える。しかし道は険しく、男性従業員の多くはローラの登場と新商品製作を快く思わず、チャーリーも婚約者のニコラとの関係がぎくしゃくし始め、「工場を売ってしまえ」と責められる。

ローラの意見を取り入れ、『危険でセクシーな女物の紳士靴 (Kinky Boots)』 を作り上げたチャーリーは、ミラノの靴見本市に打って出る決意をするが、ローラを含む多くの従業員に重労働を強いたため彼らは出て行ってしまい、事態は悪化する。-あらすじ終わり

このミュージカルで一貫して流れているのは、工場の跡継ぎとして父親から期待されていながら、父親生存中は父の事業に全く興味をしめさず父親を失望させていたチャーリーと、息子を男らしく育てようとした父の期待に沿えずに女装パフォーマーになったローラとの共通点だ。二人とも父親を失望させてしまったという負い目を背負って生きている。

この話は1990年代のイギリスの労働階級地域が舞台となっている。LGBTQ+活動が盛んな今のイギリスからは想像がつかないが、当時のイギリスはまだまだ同性愛者に対する偏見が強くあった。特にドラアグクィーンなどはロンドンなどの都会の一部では受け入れられても、ノースハンプトンのような労働階級の街ではなかなか受け入れてもらえない。いくら工場を救うためとはいえ、伝統的紳士靴を作ってきた工場で女装男性用の靴を作るなど工員たちの間で抵抗があるのは当然である。マッチョを自負している工場の男たちが女装姿のローラを見下げる姿を見ていると、まだほんの30年ちょっと前でもこうした差別意識はあったんだなと改めて感じさせられる。

さて、ローラはドラアグクィーンなので、ドラアグショーの場面が結構でてくる。ローラと彼の背後で歌ったり踊ったりするバックアップらの演技は観ていてとても楽しい。シンディー・ラウパーの曲も一緒に踊りたくなる。

ローラ役のマット・ヘンリーは全く美男子ではない。だが歌はうまく、ドラアグクィーンとしての仕草が決まっていて自然だ。はっきり言ってこのお芝居には美男美女役が登場しない。皆ごく普通だ。そしてヘンリーは身体もがっしりしているのでドラアグ(女装)しても絶対に女性には見えないのだが、そこがいいところだと私は思う。ドラアグあはくまでも女装男なので、女性に見違えるほど美しくあってはならないからだ。

しかし私は特にチャーリー役のキリアム・ドネリーが良かったと思う。最初は頼りないがだんだんと責任感ある男に変わっていくが、ストレスが貯まって周り中に当たり散らすところも自然だ。そしてドネリーの歌は凄く言い。声に張りがあって非常に力強い歌声だ。

今ドラアグクィーンたちの評判はがた落ちだが、この頃のクールなドラアグクィーンショーに戻って欲しい。

ちょうど私が観たバージョンの動画があがっていたので張っておこう。

脚本はハービー・ファインステイン(Harvey Fierstein)作曲シンディー・ラウパー(Cindy Lauper)。主な配役は次の通り。

  • チャーリー・プライス:キリアム・ドネリー(Killian Donnell
  • ローラ:マット・ヘンリー(Matt Henry)
  • ローレン:エイミー・レノックスAmy Lennox
  • 二コーラ:エイミー・ロス(Amy Ross)
  • ドン:ジェイミー・バクマン(Jamie Baughan)

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