マドンナ、容姿を売り物にしてきたものが、容姿をけなされても文句は言えない

優雅に年を取れない女は醜い

先日のグラミー賞で64歳のマドンナが登場したが、その変わり果てた姿に多くのファンが驚愕した。彼女の最新の整形があまりにも極端で以前の顔と大違いになって別人のようだったからだ。それは整形手術が失敗したと言うより、無理なフェイスリフトやシリコン注入などのやりすぎで、まるで蝋人形のような不気味な姿だった。

それでネットでは彼女のあまりの変貌ぶりを嘲笑するコメントが続き、若さにしがみつく醜い老女といった感じの記事までもが書かれるなど散々な言われようだ。

マドンナはこれに対して、ミソジニーだの家父長制度のせいだのエイジズム(年齢差別)だなどといつもの調子である。しかし私は彼女にまったく同情できない。

ミソジニーだの家父長制度だのと言うが、若さに任せて男性へのセックスアピールだけを売り物にしてきたのは自分ではないか?マドンナの売りは最初から歌唱力でも踊りでもない。彼女のパフォーマンスは極端にセックスを題材にした型破りの破廉恥芸だった。だがそういうやり方には明らかな賞味期限がある。

Madonna at the Grammys (CBS)

若くてきれいでお色気のある女の子など履いて捨てるほどいる。いつまでも同じことをやっていても、若い子たちに取って代わられるのは当然のことだ。

もちろんパフォーマーとしての彼女には才能はあった。私は特に好ではなかったが、彼女のショーはそれなりに価値のあるものだったと思う。

しかし人間は誰でも年を取る。その事実を踏まえてそれなりに自分も成長し優雅に年を取っていけば容姿のことなどそれほど言われないはずだ。マドンナは64歳。まだまだ若い。いくらでも芸を磨ける年である。だがそれをしないで、未だに若い子のように裸になれば売れると思っている彼女の浅はかさが醜いと批判されるのだ。


Comment

歌手が歌を通じて宗教布教をしてはいけないのか、藤井風の件で考える

私はポップミュージックにはとんと疎いので、藤井風氏なる歌手が存在していることを昨日まで知らなかった。彼の信仰を巡って色々話題になっているみたいなので、どんな人なのだろうと歌を聞いてみた。最近の数曲を聞く限り、かなり才能のあるシンガーソングライターだなという印象を受けた。彼は日本だけでなくアジアを中心にかなり幅広く人気のある人らしく、英語もネイティブ並みだし、今後も世界市場でどんどん活躍できる人だろう。K-Popみたいに人工的な感じではなく、本物さを感じた。

しかし最近、彼の宗教を巡って、彼が音楽を通じてサイババというインドの新興宗教を布教しているのではないかという疑惑が生まれて来た。こちらツイッターで元共産党員のKomugiさんから紹介されたIIYY project によるNote記事から読んでみた。

先ずIIYYプロジェクトとは何か。ホームページではこうある。

「藤井風さんの音楽活動を通じたサティヤサイババの思想伝道における運営の問題の改善」を求めるため、皆さんの声を集めて運営に対し問い合わせという形で送ることにしました。

つきましては、Googleフォームにて、この件に関する藤井風運営へのメッセージを募集します。
・「藤井風さんの音楽活動とサイババの教えとの結びつきに関して、運営に対し何らかの変化、改善を求める」という目的に合意されたものであれば、どんな内容でも構いません。ひとことでも、長文でも大丈夫です。伝えたいことに合わせて、自由にお書きください。(後略)

IIYYは藤井氏の音楽活動運営にどんな問題があると考えているのだろうか。彼らは抗議の要点をこう説明する。強調は原文のまま。

私たちが今回抗議しているのは、
藤井風さんのサティヤ・サイ・ババの思想を絡めた音楽活動が、それが「サイババ思想の入り口」だと全く周知されてこなかったために、
リスナーが風さんの音楽の入り口に立った時に、充分な情報を基に自分の意思に即した判断をすることが非常に困難になっていた点
についてです。

サイババというのはインド発の新興宗教で教祖のサティア・サイ・ババはすでに亡くなっている。この宗教はインドではカルトとは思われていないようで、インドのモディ首相からサイババ御降誕97周年祭お祝いメッセージが届いたというくらいだから、それなりの格式ある宗教ということはできる。

ただ教祖のサイババが多くの男児を性的虐待していたという話もあり、かなり暗い闇の部分のある宗教のようである。無論それをいうならイスラム教のモハメッドにも9歳の娘を嫁にしたという史実があるし、カトリック教会における神父による男児虐待もある。

さて、実を言うと私はサイババという宗教がいかに問題のあるカルト集団かということには全然興味がない。私が興味があるのは、もし藤井氏がサイババの熱心な教徒で彼が彼の歌を通じてこの教えを布教していきたいと思っていたとして、その何が悪いのだろうかということだ。

IIYYは藤井氏が自分の布教の意図を故意に隠してファンを洗脳しようとしているかのように語っているが、IIYY自身が認めているように、藤井氏の最初の二つのアルバムのタイトルはサイババの教えから直接取られたものだという。

藤井風さんは2020年デビューの日本のアーティストで、「HELP EVER HURT  NEVER」「LOVE ALL SERVE ALL」という二つのアルバムを出しています。
彼のレーベルも、ここから名前をとった”HEHN RECORDS”となっています。
またこれらの思想を指す、HEHN精神、LASA精神という言葉は、「藤井風のコアメッセージ」として定着しており、ファンの間ではこの精神を実践することを呼びかけあう声も見られます。
これらの言葉はツアータイトルや彼のグッズにも頻繁に使われ、藤井風さんを象徴するものになっています。
藤井風さんのオフィシャルウェブサイトでは、プロフィールに以下のように記載されています (略)

しかし、この二つの言葉は、実はいずれも、インドのサティヤ・サイ・ババが掲げるスローガン、彼が繰り返し説いていた教えそのものでした。
そして、彼の歌やパフォーマンス、言葉によるメッセージは、サイババの教えに強く基づくものでした。

ということは、藤井氏は自分の意図をかなり明確に示していたということになるのではないか?少なくともひた隠しにしたとは到底言えない行動である。彼のメッセージがサイババの教えに強く基づくものだと彼自身が発表しなくても、インドでは広く信仰されている宗教であるならば、いずれこの教えはサイババのものであることは人々の知るところとなっていただろう。現にIIYYがそれに気づいたように。

IIYYは藤井氏が最初から自分の宗教についてはっきりファンに説明し、自分の行為は布教活動であると明言すべきだったと言いたいらしいのだが、藤井氏にそんな責任があるだろうか?それに彼には自分が宣教師であるという自覚はあるだろうか?

アメリカは以前に比べるとかなり世俗的になったとはいえ、まだまだ地元の教会に属している人は多くいるし、道を歩けば教会にあたるというくらい信心深い国だ。宗教というのは日ごろの生活に密接に関連してくるものであり、普通の会話でも「神のご加護を!」「神が私の証人だ!」なんてことは平気で言うし、食事前のお祈りをする家庭も多いとはいわないが少なくもない。

カントリーウエスタンの歌詞にはしょっちゅう神だ、お祈りだ、というフレーズが登場するが、これらの歌は必ずしもクリスチャンミュージックとはとられないし、70年代にティーンアイドルとして一世を風靡したオズモンドブラザースも敬虔なモルモン教徒で、常に兄弟愛や家族愛について歌ったり語ったりしているがこれはモルモン教の布教だなんて誰も思わない。

歌手自身が敬虔な信者であれば、音楽がそれに影響をうけるのは当然の話で、その歌詞のあらゆるところでその宗教心が現れたとしても、それは必ずしも布教しているということにはならないと思う。いや、よしんばそれが布教でも、それが何故いけないのか。布教活動も宗教の自由の一貫だろう。

音楽が特定の宗教や政治思想を広めるために使われるなんてことは太古の昔からあることだ。西洋で芸術とされる音楽の多くが讃美歌である。

新しいところでは1940年代のアメリカのフォークソングでは労働者の歌としてピート・スィーガーなど共産党員の歌手が人気を博した。ベトナム戦争が始まるとボブ・ディランなどのフォーク歌手たちは、あからさまに反戦歌を唄うようになった。日本でも加藤登紀子など、東大在籍中に学生運動に参加しご主人はその関係で逮捕されたりもしていた。70年代に妹に誘われて長谷川きよしのコンサートに行ったら、当時売り出し中の左翼政治家で元歌手の中山千夏がゲスト出演し、歌う前に二人で長々と左翼政治について演説をぶった。2003年にイラク戦争前夜、カントリーのデキシーチックスがコンサート中に反戦演説をして話題になったのも記憶に新しい(私の記憶ではだが、笑)。

つまり、音楽を通じて宗教や政治活動がされるのは珍しいことでもなんでもない。

それをいうならハリウッド映画など、昔から共産主義者の巣窟で、冷戦時代に共産主義のプロパガンダ映画がいくらも作られていた。(ブラックリストで実際の共産党員は締め出されたが)今でもWOKEカルトが実験を握ってダイバーシティーだあ~インクルーシブだ~という目も当てられないプロパガンダフィルムを作り続けている。

私は藤井風の活動や運営姿勢が特に変化する必要性を感じない。それにマーケティングの上でも自分の音楽活動がサイババ布教活動だなどと宣言することは、彼の音楽を宗教とは無関係に幅広いファンに届けようというビジネスの面でも全く良いやり方ではない。何故彼がサイババ信者以外の人から敬遠されるような運営をすることを強制されなければならないのだ?そんなことを強制するのは彼の歌手としてのキャリアに関わることであり、彼のビジネスへの営業妨害ではないか?

IIYYや他の人達が、彼の活動が布教に当たり若いファンたちを洗脳していて危険だと思うのであれば、人々が藤井氏の宗教感を知らずに布教されていることに気付かないまま信者になったりしないようにと忠告するのは悪いことではないし、どんどんやればいいと思う。

人々は藤井氏の宗教感を知ったうえで彼の音楽を楽しめばいいし、彼のメッセージに共感するなら、サイババに加入するもよし、ここは人々の自由意志に任せてはどうなのか。


Comment

ジョニー・デップが名誉棄損で前妻を訴えたことで、注目されるDV妻の実態

俳優のジョニー・デップがDVの汚名を着せられて人気映画の出演を取り下げされるなど、キャリアに多大なる損害を与えられたとして、元の妻アンバー・ハードを名誉棄損で訴えた裁判が今行われている

実は私はジョニー・デップという俳優は全然好きではない。彼はハリウッドスター典型の左翼リベラルで、しょっちゅうアメリカの悪口を言って、常時フランス住まいだったと記憶している。それに彼の演技はわざとらしくて好きになれない。ミスター苺などデップが嫌いすぎて、彼の出ている映画は極力避けているほど。多分最後にデップの映画を見たのはディズニーのカリブの海賊たちのシリーズ第一弾だったと思う。それにしたって私のお目当てはオーランド・ブルームだったし。

ま、そんなんで、2~3年前にデップが前妻からDVで告発されたという話を聞いた時も、まあハリウッドリベラルなんてそんなもんだろうくらいに思っていた。もちろん離婚時に妻が夫のDVを持ち出すのはよくあることなので一概に妻の言い分だけを信じるというわけにはいかない。しかし二人は示談で離婚しデップ側から前妻に700万ドルという慰謝料が払われていたことでもあり、まあ多少の暴力はあったのだろうと理解していた。

しかし、今回の裁判を少し観ただけでも当初の報道にはかなりの誤りがあったと理解できる。実はデップはDVの加害者というよりも、妻からのDVの被害者だったのではないかと思われる事実が色々出てきているのだ。

先ずことの時系列を追ってみよう。これはスティーブン・クラウダ―のサイトより引用。

  • 2016年5月、一年足らずの結婚で妻のアンバー・ハードが離婚訴訟を起こす。
    • ジョニーから暴力を振るわれたと主張。.
    • ジョニーは妻の主張を全面的に否定。
  • 2016年8月。示談で離婚は成立。
    • ハードは700万ドルの慰謝料を受け取る。
    • ハードはその慰謝料をACLUやLA子供病院に寄付すると宣言した、彼女が実際に寄付をしたという記録はない。
  • 2018年12月。ハードはワシントンポストにジョニーの暴力を告発するエッセーを投稿。SOURCE: WaPo
    • 記事ではジョニーを名指しで責めてはいなかったというものの、「2年前に私は家庭内暴力を代表することとなった。それによって告発する女性に対する社会からの恐ろしい力を感じた」と明らかにジョニーを指す文章があった。
    • ジョニー・デップはハードに対して5000万ドルの賠償金を求めて名誉棄損で訴訟を起こした。

昨日法廷でジョニー・デップ自身が証言したが、ハードによるデップへの暴力はかなりすさまじかったようで、公開された録音テープによると、ハードはデップを殴りながら、自分が殴っていることを誰に言っても信じてなんか貰えないわよ、とあざ笑っている音声が残っている。

またジョニーはアンバーからウォッカの瓶を投げつけられ、その瓶が指に当たって指先を切断という大けがを負っている。その時のことは医者にもきちんと報告されており、怪我の写真も公開された。デップは当時、おおやけにはドアに指を挟んだと体裁を繕っていた。

そのほかにもアンバーによるジョニーへの虐待が色々提示され、これは被害者はアンバーではなくジョニーなのではと思えるような供述がどんどん出て来た。

さて、ジョニー・デップの裁判で浮彫になってきたのは、実はDVと呼ばれる家庭内暴力は結構女性が加害者であることが多いということだ。

連邦政府保健省発表の2020年の子供虐待の調査によると、子供を虐待する親は母親の方が父親よりも多いという数字が出ている(Table 5-3 Perpetrators by sex)。無論母親のほうが子供といる時間が長いので必然的にそうなるのではないかという見方もあるが、同じ調査で母子家庭と父子家庭でも子供への虐待は母子家庭の方が多いという結果も出ている(Table 3-14 Victims by relationship to their perpetrators)。

無論これは子供虐待の調査であって男女間での暴力を示すものではないので、これだけ見て男女間での暴力の加害者が女性の方が多いと結論づけることは出来ない。しかし子供に暴力を振るうような女性は配偶者に対しても暴力的な傾向があると考えることは自然だ。

女性の場合でもDVの被害者は誰にも相談せず、ましてや警察に届けるなどと言うことをしない人が多いので、ましてや男性となれば女性に暴力を振るわれても我慢している人はもっと多いことだろう。だいたい男性は自分がDVの被害者になっているという認識さえない人がほとんどだ。

こちらは日本の内閣府男女共同参画局DVの現状に関する調査結果。このアンケートでは女性の方がDVの被害にあったと応えた人の方が多く、配偶者からの被害経験の有無で数回から1~2回と答えた人は、女性が31.3% 男性が19.9%。身体的暴力となると女性は19.8%で男性は14.5%。

確かに女性の被害の方が多いのだが、それでも男性の14.5%は結構多い。また、興味深いのは、DVに関して誰かに相談したかという質問に対して、女性の4割、男性の約7割が誰にも相談していないと応えている。そしてその理由は「相談するほどのものではないと思ったから」というものだ。

Image

男性の方が身体的に強者であるから、女性から多少殴られたくらいでは大した怪我はしないだろう。男性が女性と同じことをしたら女性は大けがをする可能性があるので、病院で手当てを受けていればその記録も残る。

アメリカでも日本でもそうだが、夫婦喧嘩で暴力沙汰になり警察が呼ばれても、たとえ加害者が女性の場合でも正当防衛で女性の手を払いのけた方の男性が罪に問われるなどということは日常茶飯事である。それにせいぜい引っかかれた程度の怪我では男性も警察を呼んだり医者のお世話になったりはしないだろうから公式な記録に残らないのは当然だ。

上記のアンケートでも解るように、女性からぶたれながら罵声を浴びせかけられるといった虐待をDVだと認識していない男性は結構いると思われる。

恐ろしいのは、女性が男性を告発すると、Me Too運動でも解るように「すべての女性を信じろ」などと言い出す人たちが居て、ジョニー・デップのようにDVを犯したなんの根拠もないのに、別れた前妻の証言が全面的に信用されて男性のキャリアや名誉が一遍に汚されてしまうということだ。そして男性には弁解の余地も与えられない。こんな理不尽なことがあるだろうか?

私が無実の罪を他人に着せる偽被害者を心から憎むのは、無実の罪を着せられた人のこともだが、本当のDVや強姦の被害者が信じてもらえなくなるからである。こういう偽物が自分は犠牲者だ生存者だと言って騒ぐたびに、本当の被害者の声がかき消されていくのである。

ところで、私自身も有罪だが、メディアの言うことを鵜呑みにしてはいけないとつくづく思う。カイル・リッテンハウスの時もそうだったが、事件そのものに関心がなくニュースの見出しだけ読んでいると全くの勘違いをしてしまうものである。私もいくら嫌いな芸能人のスキャンダルだからと言って、すぐに信じることは慎まなければと思った。


Comment

ディズニー対フロリダ、ディズニーの暴走ぶりに怒るディサンティス知事はディズニーの税優遇扱いを撤廃すると発表

フロリダ議会は、「反子供手懐け法」に関するディズニーによる行き過ぎた関与に対して手厳しい報復に出た。

日本経済新聞【ヒューストン=花房良祐】米南部フロリダ州はテーマパーク「ディズニーワールド」の税務上の特区を2023年6月に廃止する。米ウォルト・ディズニーはLGBTQ(性的少数者)を巡る州政府の政策に反対しており、これに共和党のデサンティス知事が報復した格好だ。

1960年代から特権として認められ、税制の優遇措置を受けられるかわりに広大な敷地内の消防や電力、水といった社会インフラをディズニーが整備する「自治区」のような制度。優遇措置がなくなればテーマパークの収益性や設備の更新に影響する可能性もある。

きっかけは、州政府が小学校でLGBTQに関する教育を制限する政策を導入したこと。ディズニーは当初は静観していたが、世論の批判を受けて反対を表明した。知事がこれに報復するために州議会に特権の剝奪を要請した。

20日に州議会上院、21日に同下院で賛成多数で可決された。知事の署名で法案が成立する。

ディズニーはフロリダ首都に38人のロビーイストを雇っており、選挙の度に共和民主に関わらず大金の政治献金を送ってきた。オーランドにあるディズニーワールドとその周辺のリゾートは毎年5000万人の観光客を集め、フロリダの観光収入で地元に5億ドルの収益をもたらしている大企業である。

それでディズニーは55年間もフロリダでやりたい放題やってきた。

ディズニーワールドとそのリゾートがあるのはザ・リーディークリーク開発地域よ呼ばれフロリダ州がディズニーにオーランドの南20マイルのところにテーマパークを作ってもらいために1967年に設立された。これによってディズニーはフロリダから税金の面で多額の優遇を受けていた。また地域内で道路を作った時も、ディズニーが地元政府を通じずに債券を発行した。

しかしディズニーの特権は金銭的なことだけではない。ディズニーは地区内での道路計画など建物にして税金調達やディズニー独自の消防署や消防隊などを持っており、またディズニーワールド内では独自の発電施設まである。

フロリダのディズニーワールドリゾートには六つのテーマパークがあり、野外ショッピングモールやバスケットボール、サッカーバレーボール、野球などとのコートの他、18のディズニー経営ホテルがあり、ディズニーワールドのバスサービスはセントルイス市並の規模だ。

いまやフロリダといえばディズニーといったほどの大企業であるのに、フロリダ州をこんな扱いをしてもいいのだろうか?

もっともディズニーとフロリダ州の亀裂はコロナ政策に関しても衝突しており、フロリダ州の緩い政策にくらべディズニーは従業員の強制ワクチン接種などを強行しようとして知事ともめたこともある。そして極めつけは今回の学校における保護者の権利に関する法律、「反子供手懐け法」を巡り、ディニーが強く政府に抗議したことだ。

いくらディズニーが巨大な企業であろうと、フロリダ州の政策に口は出させないというのがディサントス知事とフロリダ議会の姿勢である。

お目覚め主義を押し通すと碌なことはない。Get WOKE, and go broke.

Continue readin


Comment

ディズニーの重役会議内容が漏洩、今後登場人物の半分以上をLGBT+αと少数人種にする方針を話し合う

最近見始めたスタートレックの新しい番組ディスカバリー。主役の黒人女性はじめ主要な登場人物の半分以上が黒人か女性かその両方。唯一の白人男性はゲイで恋人はもちろん、そうその通り黒人。スタートレックなので異星人も登場するが、なぜかボルカンもロミュランもクリンゴンでさえも、人間と同じく白人や黒人が居て、人種の違いの方が異星人としての違いより目立ってしまうと言う不思議な設定だ。

このように、やたら黒人や他の有色人種が出てくるのはテレビ番組に限らない。コマーシャルでもそうだ。苺畑家にはテレビがないので普通にテレビのコマーシャルを見る機会はないのだが、それでもユーチューブを観ていると時々出てくるコマーシャルを観ることはある。それで最近気が付いたのは、コマーシャルにやたら黒人やラティーノや東洋人がでてくることや、意味もなくトランスジェンダーだのゲイやレズのカップルが出てくることだ。そしてとんと見かけないのが普通の白人の俳優。特にお父さんとお母さんがそろった健全な白人家族の描写は皆無である。

いくら最近は人口配分で少数民族の割が増えているとはいっても、白人は未だ多数派である。それなのに人口の10%も占めない黒人がコマーシャルの50%以上を占めるのはどう考えても不自然だ。

私は白人ではないが、アメリカの娯楽番組の登場人物がほぼ全員白人でも全く違和感を覚えない。自分と同じような顔の人間が登場しないからと言って傷つくこともない。いやむしろ半数以上黒人とか意味もなく東洋人が出てきてカンフーやったりする方が違和感を覚える。

なんでこんな話をしたのかというと、じつは先日、ディズニーの重役ズーム会議の内容が何故か漏洩してしまった。その中で重役たちは、今後どれだけディズニー映画の内容をWOKEにしていくかという話しあいをしていた。

ディズニーの重役にはLGBT活動家がかなり多いらしく、一人の女性は自分の二人の子どもはトランスとパンセクシュアルだとか自慢げに言っていた。彼女の年齢から言って子供はまだ小さいはず。そんなことどもが自分からトランスだのパンセクシュアルだの言い出すわけはないので、明らかに自分で子供を洗脳しているのだろう。

最近になってディズニー映画にはLGBTの登場人物がやたら登場するようになったが、それでも彼らに言わせるとまだ少なすぎるという。LGBTのキャラはどちらかというとわき役が多く、主人公ではない。もっとLGBTキャラを主要な役で登場させるべきだと話し合われていた。それで今後ディズニーの作品では登場人物の半分以上をLGBT+αと少数人種で埋めることで意見が一致した。

すでに「淑女紳士の皆さま、お嬢ちゃん、お坊ちゃん」という挨拶で始まるディズニーランドの乗り物や催しも、「皆さんこんにちは」というような中性的な挨拶に変わったそうだ。

私とミスター苺は若い頃ディズニーランドの一年中使える定期を毎年買っていた。近所に住んでいたこともあるが、休日など朝早く混まないうちに行って、すべての乗り物を乗り回し、お昼ご飯を食べて帰るということを結構何度もやった。しかし近年入場料が馬鹿高くなり、毎年の会員更新は難しくなり、年に一回でも行かれないくらいになっていた。それでディズニーに関してはもう10年以上前にフロリダのディズニーワールドへ行ったのが最後である。

機会があればまた行きたいと思っていたが、こういう話を聞いてしまうと、もうディズニーランドにも行きたくないし、ディズニーの映画もテレビ番組も一切見る気がしない。子供を相手に商品を作っている会社が、子供を性的に見るような作品をたくさん作るのは問題ではないのか?

保守派の間ではGet WOKE, go brokeと言うのが定説になっている。あまりにもポリコレが過ぎるのは商売に良くないという意味である。


Comment

「星条旗よ永遠なれ」歌詞の意味と歴史

7月4日の本日はアメリカ独立記念日である。今回は祝日が日曜日と重なったので明日は振り替え休日。先日女子ハンマー投げのオリンピック出場資格決定選で第三位となり出場資格を得たグエン・ベリーという選手が、授賞式で国歌が流れた時に後ろを向いて変な顔をして国旗に対して不敬な態度を取ったとして非難を浴びるという事件が起きた。ベリーは後で言い訳としてアメリカの国歌「星条旗よ永遠なれ」は奴隷を奨励する歌詞があり、自分たちの人々(黒人)を代表する歌ではないと屁理屈を述べた。彼女は歴史を知っていればそのことは明白なはずだ、などと開き直っていた。

もし歴史を知っていれば、国歌の詞を全部知っていれば、第三章節に殺されたアメリカの奴隷の血が床中に広がっているとあります。これは黒人に対して不敬であり、この歌は黒人のためのものではありません。疑いの余地がありません。

何が疑いないだ。歴史を知らないのはベリーの方である。

「星条旗よ永遠なれ」は米英戦争という史実を元にした誌で作詞者はフランシス・スコット・キーという弁護士。華氏は4番まであるが、普段は一番しか歌われない。普通のアメリカ人でも最後まで歌詞を歌えるひとはほぼいないだろう。この詩について詳しく説明してくれてるサイトがあったので引用する。

アメリカ国歌『星条旗』(The Star-Spangled Banner/スター・スパングルド・バナー)の歌詞は、1812年に勃発した米英戦争における史実が元になっている。

米英戦争において優勢にあったイギリス軍は、首都ワシントンD.C.を陥落させ、さらにイギリス海軍がアメリカ・ボルティモア港のマクヘンリー砦を包囲していた。

ここで大事なのは作詞者のキーはこの時どこに居たのかということだ。実はこの頃、イギリス海軍はアメリカの船を次々に拿捕し、乗組員や乗客を捕虜として拘束していた。時にはアメリカ人乗組員をイギリス艦の奴隷労力として使っていた。キーはイギリス艦に捕虜として拘束されていたウィリアム・ディーンズ医師の釈放を交渉するためイギリス軍の捕虜交換職員のジョン・スチュワート・スキナー大佐と一緒にボルティモア湾のイギリス船に乗っていた。交渉は成功しディーンズ医師の釈放は決まったのだが、戦闘中だったため三人はイギリス船から降りて岸に向かうことは許されなかったのである。それでキーたちは一晩中イギリス軍によるマクヘンリー砦への砲撃を聞かされることとなったのだ。

砲撃が止んだのは1814年9月14日の朝のことだった。25時間にも及ぶ1,500発以上の砲弾にも関わらず、マクヘンリー砦の上には、星15個、縞15本が表わされた特大サイズのアメリカの国旗・星条旗が翻っていた。

この星条旗を目にした弁護士のフランシス・スコット・キーは大変感銘を受け、集中砲火を耐え抜いた国旗を讃える詩「マクヘンリー砦の防衛 The Defence of Fort McHenry」を直ちに書き上げた。

そして出来たのがこの歌詞。

おお、見えるだろうか、
夜明けの薄明かりの中
我々は誇り高く声高に叫ぶ
危難の中、城壁の上に
雄々しく翻(ひるがえ)る
太き縞に輝く星々を我々は目にした

砲弾が赤く光を放ち宙で炸裂する中
我等の旗は夜通し翻っていた
ああ、星条旗はまだたなびいているか?
自由の地 勇者の故郷の上に!

さてそれではベリーが言っている第三章には何が書かれているのだろうか?こちらがその部分。強調は彼女が言っている部分。

戦争による破壊と混乱を
自慢げに断言した奴等は何処へ
家も国もこれ以上我々を見捨てはしない
彼等の邪悪な足跡は
彼等自らの血で贖(あがな)われたのだ

敗走の恐怖と死の闇の前では
どんな慰めも傭兵や奴隷達の救いたりえず
勝利の歓喜の中、星条旗は翻る
自由の地 勇者の故郷の上に!

確かに「血」とか「奴隷達」という言葉は出てくるが、殺された奴隷の血が床中に広がっているなどという表現はない。ここでいう「彼らの血」とはアメリカに侵略してきてアメリカ人に殺されて果てたイギリス兵たちの血であり奴隷とは無関係。

それでは次の「傭兵や奴隷達」とは誰を指すのか?イギリス軍の部隊はすべて志願兵だけで成り立っていたわけではなく、外部からの傭兵や戦争などで捕虜になった奴隷などが含まれていた。つまり、ここでいう奴隷とはアメリカ人奴隷のことではなく、イギリス人が奴隷労力として使っていた人々を指す。この中にはアメリカの船に乗っていてイギリス軍につかまった白人アメリカ人も含まれている。つまり、アメリカのアフリカ人奴隷とは全く無関係な人々である。しかも、キーはそれを奨励しているわけではなく、かえってイギリス軍は傭兵や奴隷といった強制労働者を使わなければやっていけない情けない軍隊だとあざ笑っているのだ。

こうして読んでいけば、アメリカ国歌が黒人奴隷制度を奨励していただの、黒人を虐待していただのという歌ではないことは明白。

無論グエン・ベリーの誤解は彼女だけのせいではない。きちんとアメリカが義務教育で独立戦争のことや独立記念日の意味や国歌の意味だのをきちんと教えていれば彼女のような無知蒙昧な発言をする人間は出てこないはず。

独立記念日の今日、アメリカ人たるもの、全部は歌えないにしろ、その歌の意味くらいはきちんと把握してもらいたいものだ。


View comments (4)

舞台:同性愛を全面的に出し過ぎた「ドリアン・グレイの肖像」

19世紀の詩人オスカー・ワイルドが書いた唯一つの小説として有名な「ドリアン・グレイの肖像」を地方劇団の舞台で観て来た。あまりにもローカルな話題なので劇団名を紹介しても意味ないかもしれないが、一応ノイズ・ウィズインという劇団の公演で、動画広告のリンクはこちら

あらすじ:舞台は19世紀のロンドン。画家のバジル・ハルワードは素晴らしい美貌を持つ青年ドリアン・グレイの神秘的な魅力に魅せられその肖像画を描く。バジルの友人ヘンリー(ハリー)・ワットン卿は画家の部屋でモデルをするグレイに遭遇。若さと美しさのみに価値があるとハリーに言われ、自分の代わりに肖像画が年をとればいいのにと願うドリアン。その後ハリーの悪影響で堕落したデカダンスな生活を満喫するドリアンは、いつの間にか自分ではなく肖像画が年を取っていくことに気が付く。しかも自分がなにか悪行を犯す度に、肖像画は醜くなっていくような、、、

有名な話なので何度も映画化や舞台化されている作品だが、こういうクラッシックも現代的な価値観で観るとずいぶん違った舞台になるものだなと思った。オスカー・ワイルドがバイセクシャルだったことは有名だが、だからといって彼の作品に同性愛色が濃いと考えるのは短絡的な発想だ。原作を読んでもドリアン・グレイが同性愛者だったという描写はないし、ましてやハリーやバジルに限ってはそんな気配すらない。だが、この舞台では、女性を除く男性の主要人物はすべてゲイであるという設定になっていた。

先ず最初のシーン。まだドリアンが登場する前の場面で、バジルがドリアンの肖像画を描きながら、ドリアンとどのように出会ったかという話をハリーにしているときの回想シーンでは、バジルとドリアンがほぼ顔と顔を突き合わせるようにして立っている姿が登場する。明らかに二人の間に同性愛的な興味が生まれたという描写だ。そんな話をしている時にドリアンが登場。ドリアンの美貌に一目ぼれするハリーの前でドリアンはさっさと衣服を脱ぎ捨て素っ裸になって壇上に立ちポーズをとる。言っておくがこれは舞台なので(私は最前列だった)素っ裸の姿は観客全員の前でということになる。

別に役者が脱ぐこと自体は問題ではないが、この場面でドリアンが裸になる理由がよくわからない。19世紀の時代的背景から言って貴族の男性が自分の肖像画に裸でモデルになるというのは先ず考えられないからだ。

ま、それはいいとして、ドリアン・グレイの悲劇はジキルアンドハイドと非常に似ている。舞台は同じくビクトリアン時代のロンドン。何故この時期が大事なのかというと、当時のイギリスの上流階級はビクトリア女王の潔癖主義影響を受けて男も女も非常にお行儀のよい行動をすることが求められていた。結婚している夫婦のセックスですらも必要悪と思われていたくらいなので、婚外交渉などもっての他であったし、ましてや同性愛など完全に違法。事実、著者のワイルドはその趣味が原因で刑務所送りになったくらいだから。

そういう時代なので、社会が許さない価値観でドリアンを誘惑するハリーの存在は重要なのだ。ハリーは美しく潔癖なドリアンを自分の自堕落で邪悪な世界に引き入れようと誘惑するのである。彼はドリアンを自分の愛人にしようと誘惑しているわけではない。ここで二人の関係を同性愛で引き寄せられたかのように表現すると、ハリーが代表する邪悪な世界の危険性が薄れてしまう。

またバジルがドリアンとハリーが仲良くなりすぎることを警戒するのも、バジル自身が善良な人間なので、ドリアンがハリーの悪影響にそまってしまうことを恐れているのであり、自分が片思いするドリアンをハリーに盗られてしまうという嫉妬と描かれるべきではない。

ドリアンが同性愛行為をしたり、その魅力で男性を誘惑すること自体は問題ないだろう。なぜなら当時の価値観から言えば、同性愛による誘惑は邪悪で変態的なものと受け取れるからで、他人を堕落させるドリアンの行為としては納得がいくからだ。しかし、それはドリアンが同性愛者ではないという前提があってこそ成り立つ理屈であり、彼が実際に同性愛者だったらこれは意味がない。

この舞台で一番気になったのは、肝心な肖像画が全く描かれていないということだ。これは意図的なものだというのは解るのだが、わざと等身大の額縁だけを見せ、額縁の向こう側で数人の黒服の男女がひそひそ声でドリアンやハリーのセリフを繰り返す。おそろしく変貌した自分の作品を見てバジルが驚愕するシーンでも絵そのものは見せない。

ドリアンの代わりに絵が変わっていくという話なので、絵がどのように醜くなっていくかを示さないとこの物語の一番肝心な部分が抜けてしまう。いったいバジルは何にそれほど驚愕したのか、ドリアンがこの絵を恐れて屋根裏部屋に隠してしまうのは何故なのか、やはりその中身を見せないと意味がない。

カカシ注:この先はネタバレ

遂に自分の犯した悪行の数々に罪悪感にさいなまれたドリアンが、醜く変貌し自分の魂を映し出す肖像画を破壊しようとする。しかしその途端にドリアン自身が醜い姿へと変貌し、肖像画は昔の美しいドリアンの姿へと戻る。

最後のシーンは醜く変貌したドリアンの死体を使用人が発見するという、ジキルとハイドと非常に似たような場面になるのだが、この舞台ではまたまた主役が素っ裸になって額縁の中に立ち、年寄りの俳優が床に横たわっていた。しかし年寄りの俳優は年はとっていたが特に醜くもなく、観客にショックを与えるような姿ではなかった。

醜い絵を破壊しようとして自分が破壊された時のドリアンは吐き気を催すほど醜い姿でなくてはならない。ここでも単に肖像画はドリアンを若く保つためだけのものだったと描写されていることに不満を覚えた。

同じ題名で日本でも舞台化されたようだが、あらすじを読む限り中身は全然違うようだ。

配役:

ヘンリー・ワットン卿:フレドリック・スチュアート
バジル・ハルワード:アミン・エル・ガマール
ドリアン・グレイ:コーリン・ベイツ


Comment

若者のテレビ離れに焦るテレビネットワーク

ここ数年、エンターテイメントがすべてスマホで出来るようになってからというもの、若者のテレビ離れが目立つようになった
アメリカのテレビ番組は一年に2シーズンがあって、シーズンの終わりにはシーズン最終回を放映する。シリーズが人気があれば次期シーズに継続されるので、ファンならこのシーズン最終回は見逃せない。ところが、先月多くの連載番組のシーズンフィナーレエピソードの生視聴率がどこのネットーワークも去年に比べて30から40%も減った。
実は格いうカカシもテレビは昨今あんまり観なくなった。リアルタイムで観るテレビ番組としては芸能人とプロダンサーが組んで社交ダンスを競い合うダンシングウィズスターズ(スターと踊ろう)とか究極の障害物競走アメリカン忍者ウォーリアーとか、素人名人芸のアメリカズガットタレントくらいかな。どれも選手権なのでニュースとかで結果を知りたくないという理由から一応リアルタイムで観てるだけ。
その点、生で観る意味が特にないドラマやコメディーは全く観ないし、テレビニュースなんて地方局にしろ全国ネットにしろ出張先のホテルで観る以外は先ず観ない。ニュースも天気予報も交通情報もすべてスマホで観られる時代、テレビをつける必要がない。それでうちのテレビはもっぱらDVDで映画を観るためのモニターとして使われている。
中高年のカカシですらこうなのだから、若い人たちのテレビ離れは相当なもんだろう。それでテレビネットワークは新番組の最初のいくつかのエピソードをアプリなどを使ってネットで公開するようになった。ネットで無料公開することによって、最初の数エピソードは前宣伝の役割を果たす。こうやって番組のファンを増やしてテレビに帰ってきてもらおうということらしい。
ところでナスタチウムさんが日本も含み受信料を強制的に国民から徴収している国について紹介してくれている。他の国と違って、日本のNHKの場合はテレビを持っていなければ受信料を取り立てることはできないので、スマホ普及でますますNHKの受信料は減るのではないかな。


Comment

舞台迫力を再現したNBCテレビ、へアースプレイーライブ

テレビで舞台ミュージカルを再現するのはなかなか難しい。映画ほどの深い映像感はないし、舞台のような迫力もない。それでテレビスタジオでのミュージカルというのはどうしても安っぽくなってしまうのだが、今回のヘアースプレイはユニバーサルスタジオ(多分)のバックドロップを使った野外映像と、テレビスタジオをうまく組み合わせた迫力ある出来になっていた。特にヘアースプレイはシーンの大半がテレビスタジオという設定になっていりるので、テレビ映画にするには恰好の題材だったと言えるだろう。
このミュージカルは1960年代メリーランド州ボルティモア市が舞台。その背景にあるのは白人と黒人の隔離主義。人気テレビ番組でも白人と黒人が一緒に踊るなどということは考えられない時代だった。女子高生のトレーシー(マディ・ベイリオMaddie Baillio)は、テレビの視聴者参加ダンス番組のレギューラーに採用されるのが夢。スポンサーのヘアースプレー会社主催のミスへアースプレーコンテストのオーディションに応募するのだが、太っているせいで番組女性プロデューサーのベルマ(クリスティン・チェノウェスKristin Chenoweth)からは相手にされない。しかし番組がトレーシーの高校でライブ放映をした際に番組司会のコーニー(デレク・ホフ Derek Hough)の目に留まり、番組中に以前に黒人男子ロブ(ビリー・アイクナーBilly Eichner)から習ったダンスステップを披露して話題になる。もともと太っていたことで他のきれいな白人の女の子たちには受け入れられなかったトレーシーだが、黒人生徒たちと仲良くなって白人と黒人混同でダンス番組に出演しようと言い出したことから、トレーシーは計らずも人権運動のリーダーとなってしまう。

BLMとかファットシェイミングとか言って、やたらと黒人や肥満体の被害者意識が高い時代において、このライブは結構時代に沿った選択だったかもしれない。少なくとも左翼リベラルなプロデューサーたちはそう思ったのではないかと思う。しかしそういう濃い政治色があるにも関わらず、カカシがそれを無視してこの作品を楽しめたのは、その演出もさることながら、出演者たちのすばらしい演技にある。
先ずダンス番組ホストのコーニー・コリンズを演じるデレク・ホフは長期ダンス番組のレギュラーとして大人気のボールルームダンサー。さすがにプロのダンサーだけあって踊りは抜群。しかし歌手としての才能も見せて踊りながら歌ってビートに乗り切っていた。踊ってすぐの台詞でもまるで息が乱れていない。この役は格好言い男の役なので、一見得役に見えるのだがうまくやらないと見過ごされてしまう。役者次第でつまらなくもなれば面白くもなる役柄だと思う。コーニーという名前には中身がないのに外見だけ誠実さを見せようと格好をつけている意味あいがあるのだが、ホフはそのうすっぺらながらも、人種を超えた才能を見出すという実業家としての才能を非常にうまく演じている。
私が思わず拍手を送りたくなったのが番組の女プロデューサー、ベルマ・ボン・タスル役のクリスティン・チェノウェス。若いときの自分とそっくりな娘のアンバー(Dove Cameron)をスターにしようと躍起になっている教育ママ。自分が若かった頃の夢と今の状況を比べて歌う彼女のソロ。メランコリーにはじまって激しくメゾからソプラノへと変るクライマックスはすばらしい。
私がこのプロダクションがものすごく気に入った理由は、チェノウェスに限らず出演者たちが歌にしろ踊りにしろまるで遠慮せずに思い切って演技しまくっているという点。デレク・ホフの踊りにしろチェノウェスの歌にしろ、その才能が全面的に前に出ているのだ。
そして才能といえば、ドリームガールスでアカデミー助演女優賞を獲ったジェニファー・ハドソンのモーターマウス(早口)メイベリーは超一級!彼女の歌いっぷりは誰がきいても感激すること間違いなし。若い頃はぽっちゃり系だったのに今はすっきり痩せてゴージャスな美女になったハドソン。その上あの歌唱力、あの貫禄。もう彼女の歌を聴くだけでこのミュージカルを観た甲斐があるといえる。
トレーシーのボーイフレンド、リンク・ラーキンを演じるギャレット・クレイトン(Garrett Clayton)は正統派ハンサムボーイをまじめに演じているのがいい。同じハンサムでもコーニーのような意識した格好良さではなくて、トレーシーへの純粋な恋心とトレーシーが進めようとする人種混合運動への戸惑いを、わざとらしくない素直な演技をしている。
トレーシーの親友ペニー・ピングルトンはアリアナ・グランデ(Ariana Grande)という人気歌手(らしい)。子供っぽくておとなしい感じのペニーを良く演じていたと思うが、歌手の割りにはそんなに歌がうまいと思わなかった。ペニーが一目ぼれする黒人少年のロブ・バーカーを演じるのはビリー・アイクナー(Billy Eichner)。彼は歌も踊りも抜群。特に1960年代のダンススタイルがものすごく様になっていて、当時の踊りを真似しているという感じはなく、本当に’60年代の若者という感じがした。ペニーが一目惚するのもわかるというもの。
トレーシーの母親エドナと父親ウィルバーを演じるのはおカマのブロードウェースター、ハービー・ファイアーステイン(Harvey Fierstein)と人気コメディアンのマーティン・ショート(Martin Short)。ヘアースプレイはミュージカルの元になった同名のオリジナル映画のときから、ベルマ役はどう転んでも女性には見えない逞(たくま)しい男性が演じることになっている。ファイアーステインのがらがらな濁声と小柄なショートとの絡み合いは何故かロマンチック。さすが二人とも年期が入っている。
と、ここまで脇役を褒めてしまったのに主役を批判するのは気が引けるのだが、主役のマディ・ベイリオはこのライブのためのオーディションで選ばれた新人。周りに歌唱力のある人が多いためちょっと力不足が目立ってしまった。歌は決して下手ではないのだが声に力強さが感じられない。冒頭は彼女の歌から始まるので、もっと元気よく歌って欲しかった。演技はまあまあといったところかな。問題なのはトレーシーは太っているが踊りがうまいという設定。現実問題としてあんなに太っていて踊りがうまいというのは難しい。というよりダンサー並に踊れる太った女優を見つけること事態不可能に近いはず。太っていても身が軽い人はいるが、このミュージカルは踊りのシーンが多く長い。どの役も激しい踊りと歌が次から次へと続くので普通体型の人でも大変。特にこれはライブなので、踊りのすぐ後に続くシーンではダンサーたちの激しい息遣いが聞こえてくるほどだった。ベイリオは時折台詞が息切れでよく聞き取れないこところがあった。もっとも舞台ではみんな普通にやっていることなので言い訳にはならないが。
ともかく全体的に舞台のテレビミュージカルとは思えないほど舞台の迫力が感じられるすばらしい作品になっていた。もしDVD発売があったら是非お勧め。


Comment

ブロードウェイ「ハミルトン」のキャストが次期副大統領を舞台から侮辱、黙って歌え!

この間、ニューヨークのブロードウェイで人気ミュージカル「ハミルトン」の舞台を次期副大統領のマイク・ペンスが観劇したところ、劇の出演者の一人が舞台からペンスを侮辱する発言を行なったとして問題になっている。

マイク・ペンス次期副大統領が11月18日、ニューヨークのミュージカル観劇後に出演者から「アメリカの価値観を守って」と呼びかけられたことに、ドナルド・トランプ次期大統領が激怒。Twitterで「出演者は謝罪せよ」と糾弾している。 (略)
ペンス氏がニューヨークのリチャード・ロジャース劇場で「ハミルトン」を観劇しようと来場したところ、観客からは大きなブーイングとまばらな拍手が起こった。カーテンコールで、第3代副大統領アーロン・バーを演じた黒人俳優ブランドン・ディクソンが、舞台上からペンス氏にメッセージを読み上げた。
「。。。ペンス様、私たちは多様なアメリカにいます。私たちアメリカ人はあなた方の新政権が私たちを、私たちの地球を、私たちの子供を、私たちの親を守ってくれないのではないか、そして私たちを擁護せず、奪うことのできない権利を守ってくれないのではないかと危機感をつのらせ、不安を抱えております。(後略)」

このミュージカルは当初、出演者を応募した際に「白人の応募不要」と人種差別的違法な募集をしたと問題になったことがあるプロダクション。そういう奴らがよく言うよ。
アメリカだけではないが、芸能人が偉そうな顔して一般人にお説教するのはどうもいただけない。去年日本でも沢田研二がコンサート中にイスラム国の話を始めて「歌って~」と叫んだファンに「嫌なら帰れ」と怒鳴ったという話があった。

ところが、このタイミングで客席から「歌って~!」の声がかかると、即座に「黙っとれ! 誰かの意見を聞きたいんじゃない。嫌なら帰れ!」と観客を怒鳴りつけ、会場が凍りつく事態になってしまったという。この一件が一部メディアで伝えられると、
「ファンは歌を聴きにきたりエンターテイナーである『沢田研二』を見にきたのであって、政治的演説や己の主義主張を聞きにきたのではない」
「歌手、俳優、芸人に求められているのは政治的意見ではない。真摯に自分の仕事をすればよい」
「歌聴きに来てるのにいきなり政治的? な演説されたあげくキレられるなんてファンかわいそう」
 など、歌手であることを忘れて政治的に偏向するジュリーへ嫌悪感を抱くコメントが相次いだ。

実は格いうカカシもジュリー大ファン。だが、彼の政治見解にはまるで興味ない。私はこれらの批判の声に全く同意する。私はフェイスブックなどで好きな役者や歌手のフォローを行なっているが、そうした芸能人たちがそういう場所であからさまな反トランプや反共和党の発言を行なうのを見るのは気分が悪い。こういう芸能人たちは自分らが左翼リベラルに囲まれているので全ての人々が同じ意見を持っていると錯覚しており、自分らのファンのなかにも左翼リベラル思想に同意していない人たちが結構いるという現実を忘れている。
トランプ・ペンスペアは選挙に勝ったのである。ということはアメリカの半分以上の国民が彼らを支持したということになる。左翼リベラルだけのファンで成り立っていると本気で思うならともかく、自分らのファンのなかにも保守派が結構いるかもしれないということに彼らは何故気がつかないのだろうか?
それでもフェイスブックやツイッターで自分の意見を述べるだけなら別にいい。だが、ミュージカルやコンサートでお金を払って芸能人の芸を観にきた観客の前で、政治家を気取って演説をぶるのはきわめて失礼な行為だ。
拙ブログで何年も前に紹介したデキシーチックスもカントリーウエスタンのファンが圧倒的に親軍隊であることを忘れて当時のブッシュ大統領の悪口をコンサート会場でぶって人気ががた落ちした例もある。
芸能人がどのような政治見解を持とうとそれは本人の自由だ。それをどう表現しようとそれも自由だ。しかし、自分が人気があるから自分のやることや考えることすべてをファンが受け入れると思い込むのはやめたほうがいい。人気商売はファンあってこそだ。
歌手なら黙って歌え、お説教なら他でやってよね。


View comments (2)