コヨーテ様の思い出と庭の芝刈り

ツイッターでは何度も書いたのだが、今回の南カリフォルニアの雨季は長かった。カリフォルニアには季節がないという人がいるが、実はそんなことはない。カリフォルニアは大きく分けて乾季と雨季がある。乾季は3月から11月くらいまでで、雨季は12月から2月くらい。とはいえ加州は砂漠気候なので、雨季といっても大した降雨量はなく、年によっては全然雨が降らずに春が来てしまうこともしばしばである。ところが今回の雨季は12月の下旬から雨が降り出し、3月下旬まで何度も嵐が訪れ、その度に大雨が数日間続いた。(そして気温も摂氏5度から10度程度の日がずっと続いていた。おかげで暖房費が例年の5倍以上!)それで去年の8月にすっかり綺麗になっていた裏庭と前庭が物凄いことになってしまった。

苺畑家は裕福ではないので庭師を雇っていない。多分ケーブルテレビに払ってるお金を庭師に回せばいいのだろうけど、ミスター苺が庭くらい自分でやると大見得切ったので、長年庭掃除はミスター苺の担当になっていた。しかし数年前に難病にかかったミスター苺には、すでにそんな体力はない。それで去年私が大病をして入院した頃には、裏庭はまるでジャングルのような凄まじい状態になっていた。

そして現れたのがコヨーテ様である。

お隣のセキュリティーカメラにうちの庭とお隣の庭の間をうろうろするコヨーテ様の姿が映っていたと、お隣さんから聞いた。そして主人が久しぶりに草むしりでもしようかと庭に出た時に、コヨーテ様と遭遇したと言っていたことから考えて、もしやコヨーテ様はうちの裏庭にお住まいなのでは思い始めた。そしてついに私も裏庭に出た時にコヨーテ様に遭遇。私が悲鳴を上げるとコヨーテ様は庭の茂みの間に飛び込んでしまった。

この話を日本の友達にしたら、コヨーテがどんな動物か想像がつかないと言われたので、こちらの動画を見ていただこう。この動画はテキサスの家庭のセキュリティーカメラに写っていたものだが、ペットの猫がコヨーテに襲われて勇敢に戦う図である。大丈夫。猫は逃げ切った。この動画でもわかるように、コヨーテは中型の犬くらいの大きさで、犬と言うより大きなキツネといった感じである。野生動物で案外獰猛であり、小型のペットが狙われるので、コヨーテの居る地域では外でペットを飼う場合はきをつけなければいけない。人間を襲うことは先ずないが、狂犬病などを持っていると気が狂っているため何をしでかすか解らない危険な動物である。

Coyote on the prowk a fascinating coyote behavior

↑コヨーテ様

私は即座に市のアニマルコントロールに電話をしてコヨーテ様を退治して欲しいと要請したが、そういうサービスはしていないので、自分で始末してくれれば死骸は取りに行くと言われた。始末って、いったいどうしろというのだ?まさか住宅街で銃を発砲するわけにはいかない。

そこへやってきたのが庭師のアミーゴ。彼は近所を回って庭掃除が必要そうな家を探しては、仕事を売り込んでいたのだ。私は退院したばかりで体力もなかったので、少額で済むなら裏庭の雑草を何とかしてほしいと頼んだ。しかしコヨーテがでるかもしれないので気を付けて、とは言っておいたが。

アミーゴはそのまたアミーゴを連れて数日後にやってきて裏庭のジャングルを掃除してくれた。そして案の定裏庭にお住まいのコヨーテ様に遭遇したという。しかも芝刈りを始めたら二匹も飛び出して来たという! しかし二人の男たちがカマを使ってどんどん草を刈っていったのに恐れをなしてか、二匹のコヨーテ達はアミーゴたちがいる間は姿を見せなくなった。そのうち一番ひどかったジャングルはすっかり綺麗になり、そのほかの雑草も一応全部刈られて裏庭は更地に戻った。

ここで止めておけばよかったのだが、私はアミーゴの口車に乗せられ、今後雑草で裏庭がジャングルにならないように、砂利を敷いてはどうかという提案に同意してしまった。ついては砂利代、労働費用などが必要と、なんだかんだと言われてちょこちょこ払っているうちにかなりの大金を渡してしまった。ところが、もうこれ以上お金は払えないから、早く仕事を始めてくれと言ったら、仲間が病気になっただの車が事故にあっただのと言い訳が続き、いつになっても砂利は届かず、そのうちいくら電話してもアミーゴとは連絡がとれなくなり、結局更地になった裏庭はそのままで雨季が来てしまった。その間ときどき思い出したように向こうから電話がかかってきたが、なぜ仕事が出来ないのかという言い訳と共に、ずうずうしくも、さらなるお金の無心をしてくるので、いい加減腹が立って「あんたは未だに私に借金がある。その分の仕事をさっさとやれ!」と言ってからは電話もかかってこなくなった。

せっかく綺麗に更地になった裏庭が、再びジャングルにならないように、私は砂利を敷くために厚手のビニールタープを購入。以前コヨーテ様の巣となっていた場所にタープを敷き、雑草が生えてこないように大石で留めた。それでも広い庭全体にタープを敷くわけにはいかないので、ともかく目の届かないところだけタープを敷いて、コヨーテ様が戻って来れないようにした。

雨季が終って裏庭が再び草ぼうぼうになってしまっても、タープを敷いたところだけは草が生えず更地のまま。見栄えは悪いがこれならコヨーテ様のお帰りはないだろう。しかし他の場所の雑草も、あまり背が高くならないうちに刈っておかないと小動物の巣窟となってしまう可能性があるので、雨が終ったことでもあり、一段奮起してここ数日雑草狩りにいそしんだ。ウィードワッカー(雑草狩り機)は結構重たく、電池が持つのは一時間弱だが、その間ずっとの作業が結構大変。でもそれが出来るだけ健康を取り戻したのだと思えば、まあ運動のつもりで頑張った。

おかげで本日は腰が痛い。でも庭は何とか平らになった。大きい庭のゴミ用ゴミ箱が満杯になった。重たくて私では運べないので、ゴミ収集の日はお爺ちゃんに運んでもらおう。あの人は体力だけは残ってるから。

というわけで、気を良くして朝の涼しい時間に散歩でもしようと外へ出たところ、道を横切る大きなコヨーテ様に遭遇。向こうから犬の散歩をしている男性が近づいてきたので、「コヨーテがいましたよ。気を付けて」と一言。通りかかった公園にも「コヨーテに注意」の看板が出ていた。

コヨーテ様たちよ、山へお帰り。雨のおかげではげ山も緑になったし、もう下界に来る必要はないんだよ。


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お爺ちゃん日記②(2021年5月)

2021年初期のツイッターがごっそり抜けているのは、多分私が昔のツイートをまとめて消した時に一緒に消えたからだと思う。この間にもお爺ちゃんに関するツイートはしていたはずだが記録は残っていない。

コロナ禍にはいってすでに一年、カリフォルニアのロックダウンもだいぶ緩和されたとはいうものの、まだまだ色々と開いていないところも多かった。

2021年の3月、お爺ちゃんは運転免許証を返納した。私の実家の母の免許証を返納するまで本当に大変だったのとは対照的に、お爺ちゃんは医者からもう運転してはいけないと言われるとあっさりと諦めた。今後私を運転手のように使えることに快感を覚えているかのようだった。

色々能力が衰えているとはいうものの、お爺ちゃんは非常に論理的な人であり、自分に運転能力がないと医師が判断した以上それに逆らう気など全くないと言っていた。もっともアメリカの場合、医師がそう判断したら、公安にも連絡が行ってしまうので、もしお爺ちゃんが運転したいと駄々をこねたとしても無駄な抵抗だったのだが。

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1/3/21

朝お雑煮を食べていたらお爺ちゃんが「なんじゃそれは」お餅だよ「わしも食う」年寄りはだめなの「何故じゃ?」喉につかえたら危ないじゃん「わしも食う」夫「小さく切ってやれよ」そういうもんじゃないんだよ!お前らおやつのアイスは抜きにすんぞ!二人「餅なんて興味ないし」分かればよろしい!

4/30/21

お爺ちゃんはスーパーに行くのが大好き、なにそのハムの数は、まだうちにたくさん残ってるよ、腐る前に食べられないよ。「なくなる前に買うんじゃ」要らないてば!返してきなさい!「やだ!」返してこい!二度とスーパーに連れてきてやんないぞ!もう買い物に連れて行くのも限界かな?

そんな話をツイートしていて気が付いた。ベーコンがない!明日の朝食用のベーコンを使い切ってしまったのに今朝スーパーに行ったのに、お爺ちゃんとケンカしてて買うのをすっかり忘れてた!明日の朝お爺ちゃんが起きないうちにさっさとスーパーに行かなければ。

4/17/21

お爺ちゃんの行動を逐一実況報道する主婦、あ、お爺ちゃんだめそんなのもっちゃ、落とすよ落とすよ、ほら落としたあ~。

5/8/21

お爺ちゃん、今日はP爺さんがお昼に来るから、そのへん片づけといてね。「その辺てどのへんじゃ?」テーブルの上とかさ、「テーブルをどうするんじゃ?」その散らかってるチラシとか「チラシをどうする?」捨てといてよ「どこへ?」ゴミ箱へ!「どのゴミ箱?」もういい、私がします!

お爺ちゃん、なにをそんなに落ち込んでんの?P爺さんとおしゃべり出来たんでしょ?「P爺、俺より先に逝ったらぶっ〇してやる」どしたの?「あいつフォークも碌に握れんのじゃ。先に死んだら許さん」涙でたよ。

5/2/21

ユーチューブでフランスのレビューを発見し魅入っているお爺ちゃん。きれいだよねえ、生で見たいよね。「どうすれば観られるんじゃ?」そりゃパリにいくしかないでしょ。「パリに行こう」そう簡単にはいかないよ。「何故じゃ?お前が運転しろ。パリに行こう」カリフォルニアから地続きじゃないんだよ。

5/5/21

お爺ちゃん、今日は検査があるから終わるまで何も食べちゃだめだよ。「歯は磨いてもいいのか」大丈夫「デオドラントは?」大丈夫「ひげ剃りは?」デートじゃありません!

5/5/21

お爺ちゃん「これはなんという料理じゃ」ナポリタンだよ「ソースは何じゃ?」トマト(ケチャップだけど)「甘すぎる」むむ、、「塩と胡椒とべージルが足らん、ガーリックも少なすぎる」むむ?「ケチャップじゃな」おぬし、切れるな!「修行が足りんわ、小童目がわっはっは!」この糞爺!

そこで、ケチャップをそもそも食材と認めない、イタリア人の画像をどうぞ。すみっこ書き足した「ここはアメリカやメキシコじゃないんだから」と啖呵を切るのがイタリア心意気でしょう。

やぐまし:そこでケチャップをそもそも食材と認めない、イタリア人の画像をどうぞ。隅っこ化来した「ここはアメリカ」や「メキシコじゃないんだから」と単価を着るのがイタリア心意気でしょう

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5/9/21

お爺ちゃん、お風呂入んなさい。「マティーニ飲みたい。」お風呂入ってから。「今飲みたい」風呂上りの方がおいしんだよ~。「本当か?」ほんと、ほんと、「じゃ急いで入ってくる」マティーニで釣らないとお風呂もはいんないからね、お爺ちゃんは。

5/10/21

洋服ダンスの引き出しを開けて困惑中のお爺ちゃん。「今日のシャツがない」そのバットマンは?「バットマンは火曜日じゃ」月曜日は何なの?「キャプ、、ちゃぷ、、あのなんじゃ」キャプテンアメリカ?「そう、それじゃ!」バットマンの横にあるよ。「おお、隠れておったな」面倒くさい人だなあ。

5/16/21

去年3月末に始まったロックダウン以来、お爺ちゃんの散髪は私がしているが、練習を重ねた結果かなりうまくなったと自負している。比べて私の髪は伸び放題!結局毎日お団子だよん。

5/29/21

お爺ちゃん「チップスが味気ない」サルサあるけど瓶の蓋がきつくて「わしが開けてやる」へえお爺ちゃんも男だね、さすが。「このサルサをどうするんじゃ?」チップスに付けて食べるの!そのために開けたんでしょうが。

5/7/21

お爺ちゃん「カカシ、わしのパンツはどこじゃ」ハッシ、お爺ちゃん、今テレコン中だから、「カカシ、、」シー!今私しゃべってるところだから、音は言っちゃうから、、「カカシ」同僚達「カカシさんちって犬いたの?」え?はい、ポチ、お座り!

5/21/21

今朝のコーヒーはお爺ちゃんの好きなバタースコッチではなく渋みの効いたフレンチローストにしてやったのに、お爺ちゃんは気づかなかったぞ、むはははは「カカシ、今朝のコーヒーは苦すぎて砂糖が三倍要ったぞ」むむ、またしても見破られたか!「むははは、修行が足りんわい、この小童目!」

5/21/21

お医者さんでは、患者さん以外の付き添いの人は外で待っててくださいと言われるけど、お爺ちゃんは一人では何を言い出すか分からないので診察室まで付いて行ってる。最近は看護師さんもお医者さんも解ってくれてるので文句は言われなくなった。

5/22/21

あなた、ジムどうだった?「もうお爺ちゃんがさあ」皆まで言うな、来週私がお爺ちゃんをフィジカルセラピーに連れてってしっかり運動させてくるから。「頼むよ、もう限界、、」この軟弱者めが、、

5/26/21

高齢の日本にいる母が、うちのお爺ちゃんを私がリハビリに連れて行ってるという話をしたら、なんでタクシーを呼ばないんだと怒ってた。タクシーに一人で乗れるくらいなら苦労しないのよ。

5/28/21

今夜のムービーナイトは不思議の国のアリス。ロックダウンでずっと幕を開けられない地方劇場のお芝居をストリーミングで観た。2019年に2020年シーズンのチケットを買ったのに全然お芝居が観られなかったのだが、今年10月から劇場を再開するそうだ!よかった!こら、お爺ちゃん、寝るな!

5/30/21

早朝からソワソワわくわくのお爺ちゃん、「カカシ、まだ8時じゃないか?」まだだよ、何ソワソワしてるの?「8時になったらカフェが開くんじゃ」え?あ、そうか、一年以上休業してたカフェが今日からオープンだね。でもまだお夕飯だけだって。「え~!!」ごめん、もう少しの辛抱だからね。


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老後は日本で過ごすべきかな

先日Twitter仲間のBlahさんのスペースに参加させてもらった時、私が自分のことを「わたくし」と言うことを2~3人の方からご指摘を受けた。実はワタクシは自分でそういう言葉使いをしているという自覚がなかった。

「カカシさんて、いつも自分のこと『ワタクシ』って言うんですか?」

と自分に聞いてみた。ん?え?そうだったかしらん?と考えてみて、はっとした。私は普段日本語を話していない!

そうなのだ、ここはアメリカだし、家族は日本語が話せないし、職場にも日本人は一人もいない。日本語でおしゃべりできる日本人の女友達も近所にいない。せいぜい実家の母と一か月に一度電話で話す程度。つまり、私は家でも職場でも日常的に日本語を話す機会がほとんどないのだ。だから自分が日本語を話す時にどんな癖があるかなんて自分でも全然知らなかったというわけ。

ところで、普通アメリカ在住の日本人には日本人の友達が結構いるものだ。人に寄ってはアメリカ住まいなのに日本人以外とは付き合いが無いという人さえいる。それがどうして私には日本人の友達がいないのかというと、私の友達はみんな日本に帰ってしまったからなのだ。

実はつい2~3日前も、ハワイに住んでいた友人がアメリカ人の旦那さんと一緒に日本へ移住した。そのまま老後は日本で過ごすことにしたそうだ。これでアメリカ在住の私の友人は全員日本に帰ってしまったことになる。もっとも彼女は住んでた州が違うので、そんなに頻繁に会っていたわけではないが。彼女曰く、ハワイの物価は高すぎて引退者にはキツイ。物価が安くて治安もよく暮らしやすい日本に帰ることにしたのだそうだ。アメリカ人の旦那さんも自分の出身地の気候と似ている日本の地方が気に入っているとのこと。

確かに最近のアメリカの物価高にはうんざりする。私も引退間近だし、このままカリフォルニアで暮らしていけるのかどうか心配である。そういえばニューヨークに住む60代の女性ユーチューバーも引退したら日本に帰ると言っていた。(アメリカに定年はないが、大抵の人は65歳で引退する。)その人の旦那さんは日本人だが旦那さんはNYが好きなので熟年別居になるらしい。ちょっと前までは、そこまでして日本に帰りたいかなあと他人事のように思っていたけれど、今となっては身につまされる思いである。

私がアメリカに移住した1980年代は日本の景気がすこぶるよく、日系企業がアメリカにどんどん進出している時代だった。だから南カリフォルニアのガーディナやトーレンスなど日系企業で働く駐在員やその家族、地元雇用の従業員、学生などなど日本人がわんさか居たのだ。ガーディナあたりに住んでいれば、英語なんて話せなくてもなんでも事足りた。なにせレストランやスーパーだけでなく、銀行でも不動産屋でも日本語が通じるし、医者でも弁護士も会計士も全員日本人。殿方用のバーやキャバレーも普通にあった。レストランもただの日本食ではなく、寿司屋はもちろん、うどん屋、居酒屋、カレー専門店などなど、まるで日本みたいにバラエティーに富んでいた。あそこはまるで日本だった!

格いう私も当時は日系企業に勤め、友達も日本人がほとんどで、職場でも日常生活でも日本語で話す方が多かった。その事情が変わったのが1990年代初期、日本のバブル崩壊である。当時私はとある証券会社に勤めていたが、そこへは毎日のようにロサンゼルスを撤退することになったという日本企業のお得意さんたちからの手紙が来ており、じきじきにさよならの挨拶に来る人もいた。就労ビサだけで永住権の無かった友達がこの時ごっそり帰国した。仲良くしていた友達の日本人夫婦もカリフォルニアを見限って他所の州に越してしまい、その後音信不通である。

この頃私も個人的に色々とごたごたしており、実家の母からも「帰っておいで」と何度もいわれていた。今考えると、あの時帰っていたら人生が随分変わっていただろうなと思う。でも当時は日本へ帰るなんて考えもしなかった。大変でもアメリカでずっと暮らしていたいと思っていたから。

でも最近だいぶ気持ちが変わってきた。それというのもバイデン政権になって本当にアメリカは暮らしにくくなったのだ。特に民主党が牛耳るカリフォルニアのような州は物価も高いしかなり大変。年金だけでひいこらいいながら頑張るより、実家の家を引き継いで静かに老後を過ごすのも悪くないかも(家賃もいらないし)な~んて現金なことを考えている今日この頃である。


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お爺ちゃん日記①(2020年)

先日(2023年1月)セラピストのお姉さんと話をしていて、お爺ちゃんに関する介護日記のようなものを書いてますかと聞かれ、いや、そんなものは付けてないけど、と考えていたら、あ、そうだった私はそのつもりはなかったが、三年前からツイッターにお爺ちゃんについてちょこちょこ書いていたことを思い出した。これは立派な日記と言えるのでは?

残念ながら私は過去のツイートを時々まとめて消していたので、すこし抜けているところもあるのだが、探せる限りここに書き写しておくことにした。

その前に先ず最初にお断りしておくことがある。これらのツイートは純粋なる日記ではなく、起きたことをそのまま忠実に書いたわけではない。ツイッターの短い文字数規制に合わせて省略したり、効果のために多少脚色があったりする。それでこちらのブログに書き移す際に、なるべく当時の脚色は削除して真実に近い形に書き換えた。なのでオリジナルのツイッターとは多少異なるところもある。

私がお爺ちゃんの面倒を診るようになったのは2019年の終わりごろからである。面倒をみるといっても、その時はまだ身の回りの世話が必要というほどではなく、病院まで検査に行く送り迎えなどをしていた程度だ。お爺ちゃんはまだ運転できたのだが、一人で病院に行くのが心細いということと、医者に何を言われているのかよく理解できていないらしいことが解ったので、私が付いて行くようになっていたのだ。

それとお爺ちゃんは、だんだんとお金の管理が一人では出来なくなってきていた。それですべて私が引き継ぐことにした。するとお爺ちゃんは肩の荷がおりたかのように安堵のため息をついた。彼自身自分ではもう無理だということが理解できていたのだ。

お爺ちゃんはもともと頭のいい人だった。脳の検査も誰に言われたわけでもなく、自分から何かおかしいとおもって専門医に診てもらったことが始まりだった。だからだんだんと自分の能力が衰えていくことも自覚しており、他人に任せることにまるで抵抗を見せなかった。

2020年2月、お爺ちゃんは2019年から続いていた数々の脳検査を経て、最後のMRI検査を受けることになった。お爺ちゃんは極度の閉所恐怖症で普通のMRIを何度か試みたがその度にパニックに陥り検査室から出てきてしまっていた。それで最後の手段として全身麻酔をかけ意識のない間に検査をすることになった。

検査の結果、脳外科医はお爺ちゃんには明らかな脳損傷があると言った。まだ認知検査をしないと確かなことは言えないが、多分お爺ちゃんの病気はPrimary Progressive Aphasia原発性進行性失語症であろうと言われた。これは五万人に一人なるかならないかという珍しい脳の病気で認知症の一種である。ただ一般の老人性認知症とは違って知能の衰えは急速には起きないが、言葉を話す能力と他人の言っていることを理解する能力がどんどん衰えていく病気だと言われた。

医師はお爺ちゃんに認知検査をするようにと専門家を紹介してくれた。

しかしこの頃中国の武漢研究所で漏れた新型コロナが中国で猛威を振るっていた。アメリカではまだことの重大さが理解されておらず、2020年の3月初旬はまだまだアメリカは通常運転だった。お爺ちゃんは認知検査を受ける予定で予約も取っていた。

2020年3月20日、カリフォルニアのギャブン・ニューサム知事は前州民にシェルターインプレースという自宅謹慎命令を下した。これによって必要不可欠な用のない限り人々は自宅にこもっていなければならなくなった。そして病院も生きるか死ぬかの病気でない医療はすべて延期されてしまった。そして当然お爺ちゃんの認知検査も数か月の延期を余儀なくされたのだ。

2020年6月ごろ、やっとすこしづつ病院が一般の病気を扱うようになり、お爺ちゃんの認知検査が行われ、医師の当初の診断通り、お爺ちゃんはやはり原発性進行性失語症(PPA)を病んでいることが正式に診断された。

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10/3/20

お爺ちゃんは自分が忘れないようにと指輪物語みたいに暗号的なヒントを子孫に残しておいたのだけど、アガサクリスティーじゃないけど子孫には全然理解できてない。ミスマープル、出番ですよ!’

10/4/20

うちのお爺ちゃんはまだ自分のことは自分で出来るので大丈夫です。まだしばらくはこんな調子が続くらしいです。わかっているうちに色々聞いておかないと後で大変。やっと色々なサイトのユーザーネームを解読したので、パスワードをことごとく変えて今は何とかなりそう。

10/25/20

お爺ちゃん「つまみのナッツがない。これ食ってええか?」それ私のお煎餅だよ。「ナッツの味がしない」だってお煎餅だもの。「ナッツ食べたい」隔離中だから買い物は来週までダメなの。「ナッツ~~~!」もしもし義妹さん、お爺ちゃんがねえ、、

10/22/20

お爺ちゃん、今日は何の日か知ってる?「知らない」お爺ちゃんの誕生日だよ。「え?そうか?じゃあサンドマンタウニーの20年物を買ってきてくれ」そういうことだけは覚えてるんか、爺さんは!

10/31/20

あれ、ビニール袋切れてる、お爺ちゃん「わしが買ってきてやる」いいよ、危ないから、「大丈夫、まだまだ運転できるぞ」ダメだってば、、、20分後。「おいこの車はどうやってエンジンかけるんじゃ?」押しボタン式なんですけど、、ホット胸を撫でおろす。

11/17/20

自分でサンドイッチ作ったりコーヒー淹れたりする手順を忘れないように、段階ごとの写真を撮って見えるところに貼っておくとよいと言われたので、お爺ちゃんがサンドを作ってる様子を写真に撮ってたら、いちいちポーズをとるお爺ちゃん。これは記念撮影ではありません!

11/19/20

今日のリハビリは一人で行くと張り切って出かけたお爺ちゃん。何かあったら困るからと携帯をもたせた。15分後セラピストさんから電話。え?おじいちゃん15分前に出ましたけど、「いえ居らしてるんですが、カカシさんからの電話が来るまでリハビリできないって、、」違うってばお爺ちゃん!

11/14/20

お爺ちゃん「カカシ、あれはどこじゃ」あれって何?「ほれ、それじゃよ」だからほれそれって何?すかさず何かを履く素振りのお爺ちゃん、ああ靴下?、「そうそう靴下」言葉が思いつかない時はそぶりで示してごらんとセラピストに言われている失語症のお爺ちゃん。今日も朝からパントマイムで始まる。

11/16/20

来年生きてないかもしれないお爺ちゃんに今年はターキーはキャンセルだなんて言えないよ。

11/29/20

先日お爺ちゃんのセラピーについて行った時に、若いセラピストさんにiPhone11の使い方を色々教えてもらってるうちにお爺ちゃんのセラピーの時間をだいぶ使ってしまった!しかしお爺ちゃんは携帯に写ってる自分の写真をみて大興奮。「これわしじゃよ!」そういう話をしてるんじゃないの!

11/24/20

クリスマス休暇はワインカントリーに行ってワインバーでも梯子しようと思っていたけど、どこも開いてないので行く意味なし。ホテルのポイントが無駄に貯まっているよ。今年はいかえないんだよってお爺ちゃんに説明しているのだが、全く納得してない様子。

12/2/20

セラピーの日はテンションが上がるお爺ちゃん。今日は一緒に行ってあげると言ったら、早く朝ごはん食べないと遅れちゃうと7時ごろから張り切っている。まだ時間はたっぷりあるのだが、時間の感覚ゼロのお爺ちゃんである。

(子供にかえっちゃうんですね)そうですね。でも子供には未来があるけどお爺ちゃんには進歩がない。このままずっと退化していくんですよね。それが悲しいです。

12/4/20

おはようございます。こちらは金曜日の朝でございます。ロサンゼルス地域の気温はただいま摂氏10度。晴天。今から旗を掲げてまいります。皆さま本日もよい一日を。今朝はお爺ちゃんが一人でコーヒーを淹れられたよ。

😊

しかしこのコーヒー、薄い!

12/5/20

(ツイッターで)お爺ちゃんに関する話題が結構人気があるのが意外です。

12/6/20

数週間前携帯のプロバイダを変更した際はじめてスマホを購入。使い勝手がわからずあまり活用していなかったが、昨日はアマゾンへの返品、出先でのGPS使用、日本の友達とライン会話、撮った写真を人にメールなどなど一人でちゃんとやれたぞ(と自己満足)。しかしまだ日本語の打ち方が解らない。

確か外国語を加えることはできるはずなんです。まだ調べてませんが。今まで会社のスマホは使ってましたが機種はかなり旧式。今回iPhone11に買い替えました!お爺ちゃんは私の古いガラケーを目覚まし代わりに使ってます。電話しても音がなると見とれてしまうだけで出ないからあまり意味がない、、、

12/5/20

お爺ちゃんには時間の感覚というものがないのだが、なぜか決まった時間になるとお腹がすく。腹時計だけはきちんと機能しているようだ。

12/11/20

今日のお爺ちゃんはいそいそしているので、なんだろうと思ったら、買い物は金曜日の給料日までダメだよといっておいたのを覚えていたらしい。日付も時間もわかってないはずなんだが、どうしてと思ったら私がカレンダーに$マークを付けたのを解読したらしい。侮れない爺さんだ。

12/18/20

クリスマスライトを飾ろうと思ったら、夏にペンキを塗り替えた時にペンキ屋さんが杭をすべて外してしまっていたことを発見。杭を打ち直す必要があるのだが、私も最近脚にガタが来てるので梯子に上るとか危なくて出来ない。お爺ちゃんがやる気満々なんだけど出来るわけないでしょうが、やめてよもう!

12/23/20

お爺ちゃん、クリスマスはハムだよ。「そうか。クリスマスって何日だ?」クリスマスは25日だよ。「今日はクリスマスか?」違うよ明後日だよ。「じゃあハムは何時食うんじゃ?」いや、だからあ~。

12/24/20

そうだよねえ。何度繰り返しても聞こえてないお爺ちゃん、最後に怒鳴ると「怒鳴らんでも聞こえとる!わしは難聴じゃない!」とか言われるしね。いや聞こえてても分かってないでしょ、あんたは、と言いたくなる自分を抑える。

(2/1/23 追記)ここでお爺ちゃんの難聴についてひとつ書き足しておこう。

実はお爺ちゃんの様子がおかしいと思い始めたのは2019年の中頃だと記憶している。お爺ちゃんと話をしていると、こちらが何か言ってもすぐ解らないことが多くなった。それで「やだあ、お爺ちゃん難聴じゃないの、そろそろ補聴器必要かもよ」などというとお爺ちゃんは怒って「周りの音がうるさくて聞こえんのじゃ、わしの耳は悪くない」と言い訳していた。この時私たちは本当に彼の耳が悪くなっていると思っていた。

ところがある時、彼の行きつけの美容師さんと話をすることがあり、「お爺ちゃん大丈夫?なんか変じゃない?」と言われたのだ。「あ、最近耳が遠くて」と言うと、「いや、耳じゃなくて、なんかおかしいわよ。アタシの言ってることが理解できてないみたい。お医者さんに診てもらった方がいいんじゃないの?」と美容師さん。

普段から多くのお客さんを相手にしている美容師さんには、お爺ちゃんの様子が変だということが察知できたようだ。実は私も何かおかしいとは薄々感づいてはいたのだが、もう年だから、誰でも物忘れはするし、などとしっかり取り合って来なかったのが、美容師さんの言葉で決定的になった気がした。

12/27/20

お爺ちゃん和菓子買ってきたよ。「なんじゃこの過剰包装は!」さっき携帯で包装要らないよねって聞いたら絶対包装しろっていったじゃん。「そんなことは言っとらん。すぐ食べるのに無駄じゃ」いやだからあんたがきれいに包装してなきゃやだって駄々こねたんじゃないの。いつもこれの繰り返し。

いつもいつも、言った言わないででケンカです。私もいい加減慣れそうなもんなんですが。


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トイレが詰まって下水大工事に発展

大丈夫、汚い話はしません。

苺畑家では二年前の夏に風呂場のリモデルをした。古い家なのであちこちガタがきているが、得に風呂場の状態はひどかった。それでコロナ禍で在宅勤務が増えていたのを利用して風呂場全体の改築を行ったのである。その時に無論古いトイレも付け替え、下水パイプも新しいものに取り換えた。

便器のモデルは業者が勝手に選んで備え付けた。日本のようにスマート便器などないアメリカなので、私は便器など、どれも同じだろうと思って特に気を付けていなかった。ところがこれが大間違いだった。

リモデルをした業者は一番安物の便器を付けたらしく、座り心地もわるいし、便座を止めているネジがプラスチックですぐに緩くなり、座る度に便座が動く。また水を流すのがレバーではない大と小に分けた押しボタン式なのだが、小の方を推しても水圧が低すぎてきちんと流れない。結局大の方を推すか小を何度かおすかするので水は全く節約にならなかった。

しかしそんなことは大した問題ではない。トイレを新しくして一年半後、トイレが詰まった。昔のトイレは10年間使ったが一度も詰まったことはなかった。リモデルをした業者に連絡したが、すぐに連絡が付かなかった。トイレは何日も待っているわけにはいかないので近所の別の業者に来てもらった。

もし詰まっているのが便器の中とすぐ下のパイプのあたりだけならば、汚物を押し出せばすむことなので1万円程度でなおしてくれるという。パイプは取り替えたばかりだし、多分これは便器のせいだろうと思い、直してもらった。きちんと流れるようになったので満足していたら、半年後にまた詰まった。前に直してくれた業者をまた呼んで同じ措置を取ってもらったのだが、もしもう一度詰まったら、便器を取り替えた方がいいと言われた。そしたら案の定3か月もしないうちにまた詰まった。同じ業者が来てくれたが、一応、応急措置として掃除はするが、家の中と下のパイプは正常でどこも悪くない。もし便器そのものに問題があるのではないとしたら、家から外の下水道に繋がるパイプとの間で何か問題がおきている可能性があるという。便器は挿げ替えた方がいいとしても、その前にパイプの中を調べた方がいいと言われた。それで一応見積もりを書いてもらい、直す用意ができたら連絡してほしいと言われてその時は終わった。

トイレの買い替えはかなりお金がかかるので、どうしようかなあなどと思っている間におとといの夜、また詰まってしまった。ああ、これはついに駄目だなと覚悟を決めて業者を呼んだ。

家の下や外の状態を色々調べていた業者は、どうもパイプの位置がおかしいという。私も見せてもらったが家から外の下水道につながるはずのパイプが家の方を向いているのである。これでは水が外へ流れず家の方に逆流してしまう。

パイプの中にカメラを通して、私にも中を見せてくれたが、確かにパイプの中に水が貯まったままである。これでは詰まるのは当然だ。

「いったいどこの業者ですか、こんなひどい付け方するなんて」と呆れられてしまった。

「直せますか?」

「大丈夫ですよ。穴を掘ってパイプをきちんとつけ直さなければなりませんが。その後で詰まってる汚物も押し流す必要があります。」とひとつひとつを計算機で叩いていく業者のお兄さん。

「なんか大工事ですね、一日で終わります?」

「まあ、まだ午前中ですから、なんとか夕方までには」

「おいくらになるんでしょう?」

「そうですねえ、、、これくらい」

とみせてくれた数字を見て卒倒しそうになった。

  • 便器取り換え料、750ドル。
  • カメラでの検査料、150ドル。
  • パイプ挿げ替え料、1750ドル。
  • パイプ清掃料、350ドル
  • 合計3000ドル

ひょえ~、血圧が200ぐらいに上がりそう!

「前の業者に行って、お金返してもらうべきですね。これは本当酷いんで」

あ~あ、私ってどうしてこう業者選びが下手なんだろう。去年の夏に雇った庭師のアミーゴには散々お金を払った末、仕事途中で逃げられてしまったし、リモデルの業者の配管工は信じられないほどいい加減な仕事をするし。

この時期にこんな出費。あ~、脱力。

しかし下水というものは、問題があるのに放っておくというわけにはいかない。何しろトイレにも行かず風呂にも入らない生活などできるはずがないのだから。

ま、かなりの出費をしてしまったが、それでもこれで下水問題が解決したのであれば一安心。今後何年もこの問題で悩むことはなくなる。この家を売ることになっても水回りだけは大丈夫と太鼓判を押せることにもなるし。

家を買う人は本当に水回りの状況をきちんと調べた方がいいですよ。


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貸金庫で眠っていたアクセサリーに目を覚まされた自分

先日、何十年と口座を持っている銀行が引っ越しするので、貸金庫の中身を引き取ってくれという通知が来た。貸金庫は主人が「重要な書類」をしまっておくために借りたものだが、あまりにも昔に借りたので中に何が入っているのかさえ思い出せないくらいだった。ただ私はパスポートや家の権利書やソーシャルセキュリティーカード(アメリカ版マイナンバー)のオリジナルのカードなどを、すぐとれるようにと他のものの上に乗せて入れたり出したりしていた。

しかし全部引き取ってくれということになったので、私は段ボール箱を持って銀行に参上。中身を調べている暇はないのですべて箱に入れて持ち帰った。どうしてこんなに大きな箱を借りていたのかというと、中には私の宝石類が沢山入っていたからだ。

実はもう30年以上も前になるが、私が当時住んでいたマンションに泥棒が入り、私が持っていた宝石がごっそり盗まれたことがあった。それで主人は何か価値のありそうな宝石はすぐ金庫にしまっておけと命令したのだ。ところが何かあるごとに金庫に宝石を取りに行くのも面倒になり、おしゃれをして出かける場所もだんだんとなくなってきていたため、金庫に預けた宝石類は日の目をみないまま長い年月が経ってしまった。

それで先日金庫の中身を全部家に持ち帰って、書類以外の宝石類を改めて吟味してみた。しかし思ったほどこれらは価値のあるものではなかった。

確かにルビーだのダイヤだのと言ったものがないわけではないが、非常に小さなもので、もし売ろうと思っても二束三文にもならないようなものばかりだったのだ。最初はEbayか何かでセリに落として売ろうかなとも考えたのだが、ふと思うことがあり考えを変えた。

私の持ってるネックレスや指輪は、確かに買った当初はかなりの値段がしたかもしれない。だが宝石類というのは買う値段は高くても売る時はその十分の一にもならない。それで思ったのだ。どうせ売っても二束三文なら、今後死ぬまで何回付けられるかわからないのだから、毎日とっかえひっかえつけようじゃないかと。

もしも家にしまっておいて盗まれたとしても、金庫に預けたまま一度もつけないのなら持っていないのと同じことではないか。だったら毎日綺麗なものを身に付けて精一杯楽しもうではないか。

おかしなもので、特にどこへ行くというわけでもないのに、毎日違うネックレスや指輪を付けようと思うと、それに合わせてセーターやシャツはどんなものを着ようかなど、ここしばらく全く考えなかったことを考えるようになった。

実は私は去年の7月の終わりに心臓の手術をしてから、自宅に閉じこもっていることが多くなっており、おしゃれなどとは縁遠い生活をしていた。毎日同じ時間い起きて、そこらへんにある特に汚れてない程度の服を身にまとい、顔を洗って常備薬を飲んで歯を磨いて短い髪の毛をブラシで1~2回すいて終わり。鏡も碌にみない日が何日も何週間も何か月も続いていた。

それがネックレスを身に付けたら、自分がどんな風に見えるだろうかと鏡を見るようになった。あれ、私の目の下にはこんなに隈があっただろうか?首筋はちょっとたるんでないか?ちょっと太っただろうか?なんだか突然私は眠りから覚めて我に返ったような気がした。

考えてみればここ2~3年私は私ではなくなっていた。コロナ禍でロックダウンになり家に閉じこもる生活が続き、家族も私も次々に大病にかかり手術だの介護だのと大変なことが続いていた。それでなんとか私がしっかりしなきゃという重荷をしょいながら、鏡を見る余裕さえなくなっていたのだ。

目を覚まそう。いつまでも落ち込んでいても始まらない。ネックレスつけておしゃれして出かけよう。お化粧もまた始めよう。人生はまだまだ続く。私が弱音を吐いてどうするのだ。私に頼っている家族が居るのに。

でもなんだか不思議。緑色のエメラルドを見ていたら、元気が出て来たから。


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節分と知らずに巻き寿司を作ってしまったの巻

おはようございます。立春の朝カリフォルニアの気温は11℃。1月よりだいぶ暖かくなった。先日も書いたようにガス代の高騰で暖房費がかさむので暖かくなってくれるのはとても助かる。

さて昨日、私がよく見ているKevin’s English Roomというユーチューブチャンネルでアメリカの巻きずしに挑戦という企画をやっているのを見て、そういえば最近巻きずしをつくってないなあ。今日あたり作ってみるか。と思い立ち、先日近所で開店したばかりのMITSUWA(ミツワ)日系マーケットで購入した海苔を戸棚から出してきた。すると大昔(少なくとも3年は経つ)に買ったかんぴょうが、乾物を入れてある箱の底から来てきた。お、これはちょうどいいと思い、久しぶりにかんぴょう巻でも作ろうということになった。

(どう考えても賞味期限は切れてるはずだが、なぜかXX/YYYYとだけあり日付が書いてない。気にせずに食べることにした。)

かんぴょう以外にも、沢庵やキュウリもあったし、シソ風味ふりかけなどもあったので、色々な種類の巻きずしを何本か作って、ついても海老の唐揚げも加えて結構なごちそうになった。そんな話をツイッターでしていたら、節分なので巻きずしですか、と聞かれて、へ?そうなの?と検索したら、2月3日は節分で、日本ではここしばらく恵方巻なるふと巻きずしを食べるのが習慣になっているとか。私が子供の頃はそんな習慣はなかったけどなあ。豆まきならあったけど。

ああ、それでユーチューブチャンネルで巻きずし企画をやっていたのか、と納得がいった。

アメリカではSUSHIといって子供の間でも人気なのが、日本では考えられないような具の入ったふと巻きずし。もしアメリカ人の観光客が自分はスシが好きだと言っていても、あんまり値段のはる本場の寿司屋に等連れて行かないほうがいい。彼らのいうスシと我々が考える寿司とではかなりの溝がある。

こちらがケビンさんたちが作っていたアメリカ風SUSHI。ちなみに私が作ったものとはまるで違うので悪しからず。


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「今年は七面鳥は焼かないぞ~」と宣言したのに結局作ったと言う話

拙ブログご愛読の読者諸氏はおぼえておられるだろうか、ちょうど二年前の感謝祭の際に主人が買ってきた10kgという巨大な七面鳥との散々たる格闘を。今年は私も病み上がりということもあるし、主人はとっくの昔に料理から引退していることでもあり、家族と集まる感謝祭でも「七面鳥は焼きません」と早々に宣言した。

実は、苺畑家の七面鳥歴は非常に長く、かれこれ40年近い。ことの始まりはミスター苺の大学時代にさかのぼる。当時彼はカリフォルニア北部にある大学に行っていたが、父親が望むUCLAに行かなかったということで勘当状態にあった。そこで彼は自分と同じように多々の理由から感謝祭に実家に帰省できない同級生たちを集めて自分の借家に招待してホームメイド七面鳥をふるまったことにある。

大学卒業後、父親が亡くなり再び家族と感謝祭を過ごせるようになったミスター苺は、それまで義母が請け負っていたターキー作りを引き継いだ。面倒くさい料理をしなくて済むようになった義母は大喜びでミスター苺にバトンタッチ。私と結婚してからも、ミスター苺のターキー担当の伝統は守られていた。

しかし数年前から主人は病気がちになり、長時間台所に立って料理をすることが出来なくなった。それで、それまではスーシェフだった私が晴れてヘッドシェフへと昇格。その後ターキーづくりは私の担当になって今に至る。

しかし今年は私が大病をし夏に大手術で入院、その後も回復に時間がかかっているということもあり、今年は大がかりな料理は出来ないと家族に伝えた。無論家族は事情を良く知っているので、今年はターキーなしでもいい(誰もターキーを焼きたがらないので)ということになり、義母がコストコに注文してローストチキンを持ってくるということで話は決まっていた。そして私は何か簡単なオードブルでも持ってくればいいということになり、家族は肉料理には色々制限があったため、シーフード焼売を作ることになった。

感謝祭の前日、足りない材料を買いにスーパーに行くと、ターキー大セールが行われていた。それを見たら、せっかくの感謝祭にターキーを食べないのも寂しいよなあと思ってしまった。しかしだからといって、感謝祭まですでに24時間を切っており、今から気持ちをかえてターキーを作るなど無理。などと考えていたら、胸肉だけの2kgというターキーを発見。2年前の五分の一の大きさだし、これなら今からでも十分間に合うと考え2kgターキーを購入。

そうと決まればターキーの付け合わせも必要になる、スタッフィング、グレービー、ポテト、ヤム、ええい、面倒だ、せっかくだから全部作っちゃえ!

というわけで勝ったターキーは一晩漬け汁に浸して当日は6時起きして色々作った。もちろん焼売も。

なんだ結局いつもより大変になってしまったではないか!

とはいうものの、ターキーを期待していなかった家族は他に色々なものを持ち寄っていたため、この量はかえってちょうど良かった。今までターキーは丸ごと焼かなければいけないという使命感があり、自分に不必要な負担をかけていたような気がする。

「あれ、カカシ伯母さん、このターキーなんかスモーキーな味がするね」と言われて気付く。慌てて材料を集めたため、ターキー用ブラインを買い忘れてしまい、うちにあったスモーキーBBQ漬け汁ミックスを使ったのがばれてしまったようだ。


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衣替えの思い出をちょっと

10月に入り、さすがのカリフォルニアもやっと涼しくなった。未だに日中はクーラーをつけることもあるが、朝夕は涼しく過ごしやすい。

カリフォルニア南部は一年中温暖な気候というイメージがあると思うが、それでも一応季節はある。冬になると明け方零下になることもあり、朝車のウィンドシールドに張った氷を溶かしてから出かけるなんて日も時々ある。なので一応苺畑家でも衣替えの季節かなと思い、箪笥のなかを色々整理し始めた。

私の箪笥のなかにある服はどれもこれも母から送られてきたものだ。

私の母は買い物が大好きで、しょっちゅう洋品店に行き、値段も見ないでボンボン服を買ってしまう。父がバブル期にまあまあ儲けたこともあり、当時の母の買い物三昧は半端なものではなかった。その後日本の景気が低迷し、父の仕事もだいぶ下火になってからも、母の買い物癖は直らず、一度など父が怒って母のクレジットカードを全部ハサミで切ってしまったことがあったほど。

というわけで実家のクローゼットはすぐに母の洋服で山積みになってしまい始末に負えない状態になっていた。それで母は自分が着なくなった服を私にくれるようになった。

母の趣味は中年女性のもので、およそ10代の若い子が着るような服ではなく、妹は「おばんくさい」と言って嫌がり母のお下がりは愚か、新しい服でも母が買って来たものは絶対に着なかった。私はその正反対で、洋服には全く無頓着でお下がりだろうとなんだろうと母があてがうものは文句ひとつ言わずに着ていた。そのせいで母は、私が大人になってからも、私の洋服は母が揃えるべきと思い込むようになった。

私が独立してアメリカに住むようになってからも、母は大量の服を頻繁に送り付けて来た。私はそんなに着きれないから送らなくていいよと何度も言ったが、私が遠慮していると思ったのか、母からの小包が留まることはなかった。そしてそれは、なんと30年以上続いた。

さて、困ったのは私の方だ。私は長年、狭いワンベッドルームに住んでおり、ウォークインクロゼットなんて贅沢なものはなかったので、後から後から送られてくる洋服を置く場所などすぐなくなった。

そこで私が考え出したのは次のやり方だ。

  • 母から送られてきた服はどんなものでも必ず一度は着ること。
  • 一度着た服は綺麗に洗濯してから、もう一度着たい服と二度と着たくない服に分けてからしまう。
  • 年末、二度と着たくない服だけまとめてチャリティーに寄付する。

しかし、一年経つとまた母からの小荷物が届くので、以前着た服をまた着る機会がないうちに新しい服を着ることになってしまう。

そんなこんなをしているうちに、ある時私は同僚から「カカシさん、私はあなたを2年近く知ってるけど、あなたが同じ服を二度着ているのを見たことがない」と言われ、確かにそうだと思い当たった。なんとその時、同じ服を二度と着ない生活を三年以上も続けていたのだ!

その時、せっかく気に入った服があっても、まだ着てない服があるからと、同じ服を二度と着ないという自分の作った規則が、いかにおかしいかに気付いた。なんでそんな規則があるんだ。好きな服は何度でも着ればいい、嫌いな服は一度も着る必要はない、とやっと気が付いたのである。

母には何度言ってみても服を送るのを止めることはできない。ではどうすればいいのか。私は新しい方法を取り入れた。

  • 母から送られてきた服は、着たい服と着たくない服に分ける。
  • 着たくない服は年末を待たずに即座にチャリティーに寄付する。
  • 一度着て気に入った服はそのまま箪笥に戻して、また着たい時に着る。
  • 一度着て、やっぱり好きではない服はまとめておいて年末にチャリティーに寄付。

こうして私の家が洋服で埋まってしまう悲劇は何とか免れた。

ここ10年近くは、父も引退し実家は以前のように金銭的な余裕はないし、父も母も色々病気などをしたので、母もそうそう買い物になど行ってられない。それで30年以上続いた毎年恒例の洋服小包も、あまり来なくなっていた。それでも時々思い出したように母から洋服が送られてくる。

箪笥のなかから見たことのないサマードレスが出て来た。去年久しぶりに母から送られてきたものだ。今着ないと季節が終ってしまう。それで今日は久々にドレスを着た。これは着やすい、気に入った。とっておいて来年はもっと何度も着よう。


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命に執着心が出た?術後約一か月経過

今週末で手術後一か月が経過したことになる。明日は一か月後の検診でお医者に行く。まだ運転は出来ないので送迎は知り合いに頼んで迎えにきてもらうことになっている。

開胸手術という大手術だったので、回復に8週間はかかると言われていたが、もうだいぶ良くなり、近所の薬局まで歩いていけるほどになった。ただまだ重たいものを持つことはできないので、簡単な家事は出来るが、鉄製のフライパンなどは持ち上げられない。仕方なく料理らしきものはせず、夕飯なのに缶詰のトマトスープとツナサンドイッチだったりする。でも大して食欲があるわけではないから、そんなもんで十分だ。主人は何も言わずに食べてくれてるし。

今日は一日ずっと暇だなと言う気がした。でもそれで気付いたのだ。暇だと感じられるということは、身体が疲れて動けないとか、胸が痛いとか、咳き込むとか、そういうことがない証拠。なぜって身体の調子が悪い時はそれしか考えられないから、暇だなんて考えてる余裕はないからだ。

実はコロナ禍でロックダウンが始まった2020年の春ごろから、私は非常に精神的に落ち込んでいた。それというのも長年連れ添った主人が難病であると診断されたからだ。今日明日どうなるという病気ではないが、一生治ることはなく、徐々にではあるが悪化していずれは動けなくなる病気。それが10年後かもっと先なのか今は未だ分からない。

私は残りの人生を考えたら絶望的な気持ちになった。これから主人と色々な所へ旅行しようと思ってた。コロナ禍にならなければニュージーランドへ行くはずだった。でも2年後の今、主人はもう海外旅行など出来る身体ではなくなっていた。

そんな時に私の心臓が悪いと言われた。手術が必要だと。年寄りには進めないが、あなたはまだ若いから、この先20年も30年も生きる可能性があるから、やっぱり開胸手術をお薦めしますと医者に言われた。何もしなければどうなるんでしょう?それは何とも、もしかして数か月の命かもしれないし、数年かもしれない。だったら手術なんて要りません。数か月後にぽっくり死にたいです。そう言いたかった。主人と一緒に年を取れないなら、長生きなんかしたってつまらないもの。

でもそんなこと言って主人より私が先に死んでしまったら、病気なのに世話をする人も居ずに残された主人はどうなる?ここで私が倒れて死なずに寝たきりにでもなったらどうする?

そう思ったら、やっぱり生きなければいけないと思った。

術後すぐは身体が苦しくて痛くて辛くて何も考えられなかった。一日一日、ともかくこの痛みから解放されたいという思いで一杯だった。退院後も徐々によくなっているとはいえ、ここが痛い、あそこが苦しいと身体のことばかり考えていた。でもそのうちに気付いたのだ。私は生きたい。死にたくないと。

身体が悪いと生きたいという命への執念が湧くようだ。まだまだ生きてやるぞ、こんな苦しい思いをしたんだから、後20年や30年楽に生きてやる!そんな執着心が生まれたのだ。

確かに主人は病気だが、まだまだ寝たきりというわけではないし、二人で近所の散歩くらいは出来る。私が運転できるようになったら、湖のある公園に行って、主人の好きな写生でもしよう。時々はおいしいものを食べに行こう。あと何年こんな生活を続けられるかなんて嘆いているより、一日一日を大事にしよう。

そんなことを考えている術後一か月であった。


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