引退後日本暮らしを始めた元在外邦人に掛けられた配偶者年金への理不尽な相続税

これ一年以上前の記事なのだが、今日発見したのでちょっと紹介する。年200万円の海外遺族年金に、相続税700万円 受給者側「争う」:朝日新聞デジタル (asahi.com)

関東に住む女性(68)は昨夏、地元の税務署から突然、税務調査を受けた。米国の公的年金に加入していた夫がその約2年前に亡くなり、遺族年金をもらう権利を得たことが相続税の対象になると指摘され、約700万円を納税するよう求められた。夫は国内企業の米国駐在員として働き、現地の公的年金に加入を義務づけられて計12年間保険料を支払った。女性が受け取る米国からの遺族年金は月に約17万円。年間約200万円なので、納税を求められた額はその3年半分にもなる。4人の子はすでに成人しているため、女性が亡くなれば遺族年金は誰も受け取れない。「あす死ぬかもしれないのに」。税務署の担当者の説明に対し、思わずそんな言葉が出たという。納税額が巨額になったのは、平均余命まで生きた場合に受け取る遺族年金をもとに計算する仕組みだからだ。

(一旦は仕方ないと思い納税しようと考えた女性だが)その翌日の朝日新聞を読んで、目を見張った。関西の女性がスイスから受け取る遺族年金に相続税を課されたことに納得せず、国税不服審判所に審査請求するという記事が載っていた。その女性は夫が亡くなった時に71歳で、平均余命の18年間で受け取る年金約1億7千万円に対し、約3千万円の相続税をかけると通知されたという。関東の女性は記事の内容を、相談してきた税理士に伝えた。税理士も課税に疑問を持っていたため、関西の女性の代理人に連絡し、連携して税務署側と争うことにした。関東の女性は「これから外国の遺族年金を受給する人のためにも、争うべきだと考え直した」と話す。

実は私の友人の日本人女性はアメリカ国籍男性と結婚しアメリカに20年以上暮らしていた。一年ちょっと前にこの夫婦は日本で老後を過ごすべく帰国した。友人はご主人よりもソーシャルセキュリティー(厚生年金)を払っていた年数が少なかったため、配偶者年金をもらうことになった。

アメリカの法律上、結婚している人は自分が貰える年金の金額が配偶者の年金の半額を下回る場合、配偶者年金を受給する権利を得るのだ。そしてこれは配偶者が亡くなった後でも続く。わが苺畑家の場合は私の年収が夫のそれを大幅に上回っていたため、主人が配偶者年金を得ることになると、つい先日役所から通知が来たところだ。

日本では配偶者年金が遺産として扱われることはない。なのに何故外国年金の場合は遺産と見なされるのか、しかも受け取った分だけ収入として税金を課すというのならまだしも、まだ貰ってもいない金額を余命の憶測だけで税金対象にするなど理不尽このうえない。この関東女性の言うように、20年分払った後ですぐ死んでしまったらどうなるのだ?

私は老後日本で暮らすという計画はないが、将来のことは解らない。この訴訟、女性達が勝利することを祈る。


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カカシの年金生活始まる

2023年の12月一杯で正式に引退し、ことし一月から年金生活が始まったのだが、色々と手続きに時間がかかり、来月からやっと年金をもらえることになった。そのほかペンション(引退後に雇用主から支払われる月収)や、ある程度の年齢になると引き出せる積立金など、色々と合わせると贅沢をしなければ、まあまあ暮らせるくらいの金額になることが解り一息ついている。

正直な話、私は仕事を辞めても生きていけるのだろうかとかなり心配だった。色々用意はしていたとはいうものの、他の人に比べたら投資も少ないし、財産と言ってもこの家くらいしかない。それにしたってまだかなりの住宅ローンが残っているし。とはいえ、就職した当初に勧められて入っていた積立・投資貯金がかなり貯まっていたので本当に助かっている。勧めてくれた人にお礼を言いたい。

いずれ家を売るつもりだったので三年前に五年計画で断捨離をやり始めたのだが、前倒しで引っ越しとなりそうだ。大きな荷物はかなり処分してしまったが、まだまだ細かいものが残っている。不動産屋さんからは早く売ってくれとせっつかれているので、来月中に引っ越し先に持って行かないものはすべて処分してしまわなければならない。まだまだ時間はあると思っていたのに、あっという間に今年も春分を過ぎてしまった。

お恥かしながら私たち夫婦はあまり老後のたくわえについて気を使って来なかった。主人も私も江戸っ子並みに宵越しの金は持たない悪い癖があり、出張手当や残業手当を高価な外食だのお芝居だの旅行だのにすべて使ってしまっていた。

しかし今考えてみれば、若い頃に好きなことをやってきたのは悪いことではなかった。確かにお金は使ったかもしれないが、もう二度とグランドキャニオンでハイキングとかナイアガラの滝とか行かれないし、ニューヨークのブロードウェイでミュージカル観たりなんてできないだろう。心残りはニュージーランドへ行かれなかったことだ。実は前々からニュージーランドへ行こうと夫婦で計画していたのだが、なんだかんだと延期しており、やっと重たい腰を上げて2020年に行こうということにして細かい計画を立て始めていた頃にコロナ!しょうがないコロナ禍が収まったら旅行しようといっているうちに私の心臓が悪いことが解り、主人の難病も発見され、もう二人とも海外旅行なんて絶対無理な身体になってしまった。まさかお互いたかだか60代でこんなことになるとは予想していなかった。

だから若い人たちに言いたい。身体が動くときにやりたいことはやっておくべき。引退したらどうのなんて呑気なことを言ってると、いつ何が起きるか解らないから。もちろん身の丈に合わない贅沢をすべきではないが、ちょっとくらい無理しても若ければ取り戻せるから。

さてさて引っ越しに備えて忙しい毎日が始まる。


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バレンタインのキッスチョコ

今日はバレンタインズデイ。アメリカではこの日にちょっと普段は行かないような高級なレストランで食事をするカップルが多い。それで2月14日の外食は予約をしていないと、どこもかしこも大混雑である。もう久しくそんなことには構わなくなってしまった苺畑夫婦だが、私はこの時期に出張していることが多かったので、一緒にバレンタインを祝ったことはあまりない。ただ一度だけ面白いことがあった。もう20年くらい前の話だが、私が仕事を始めて初めての長期出張した時、ちょうどバレンタインズデイが被ってしまった。それで私はカリフォルニアの主人にバレンタインズデイのプレゼントを送った。その話を主人に電話で伝えると、主人も送ったよと言ったので楽しみにしていた。

私が買ったのは超大型のキッスチョコレート。普通は小粒で人差し指の人関節くらいの大きさなのだが、これは特別で片手にどっしりはまるくらいの大きさ。1ポンド(450グラム)くらいはあると思われるチョコの塊。出張先の近所のスーパーで売っていたのでつい買ってしまったのだ。

さてバレンタインズデイ当日に私が泊まっていた宿に主人からの小包が届いた。勇んで箱を開けてみると、なんとなく見覚えのある包装。なんだろう、と開けてみると、なんと超大型のキッスチョコレート!私が主人に送ったのと同じ型のものだった!

私からの小包を受け取った主人からすぐ電話がかかって来て。せっかく送料かけて送ったのに、ばっかみたいだね。でも心が通じ合ってる証拠だよ。などと言って大笑いした。

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アメリカではチョコレートを女性から男性に渡すと言う習慣はない。どちらかというと男性から女性にプレゼントする方が普通。でもカップル同士ならどちらからプレゼントしても別に構わない。

大昔私がまだ日系のコンピューター販売会社に勤めていた頃、日本の本社の女子社員たちからカリフォルニア支店の男子社員へとチョコレートが送られてきた。きちんとした英語で「日本の女子社員からアメリカの男子社員へ」とカードが添えられていたのに、最初に受け取った秘書の女性が「これはきっと英語の間違いよね。女子から男子へなんておかしいもの」と言うので、私が「いや日本では女子から男子に上げる習慣があるのよ」と説明したのだが、大量のチョコレートに魅かれて集まってきた女子社員たちが「カカシ、何言ってんのよ、女子から男子にチョコのプレゼントなんて聞いたことない。間違いよ絶対に」と私の説明を完全無視。秘書の女性がそそくさと箱を開けてしまい、女子全員で全部食べてしまった。ま、いっか、と思って私も食べたけど、、、(笑)。

後で支店長(日本からの駐在員)が秘書のところへやってきて、「あ、チョコレート着いたかい?本店の女の子たちから送ったって連絡きたけど。」と聞いたので「ありがとうございます。みんなで頂きました。美味しかったです。」と秘書の女性が答えると「みんなって?君たちが食べたの?」そう言って支店長が私の方を見た。「女子から男子だって言ったんですけどね、、」と肩をすくめた私。

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今日のことをすっかり忘れて昨日は叔母ちゃんと一緒にお昼を食べに行ってお金を使ってしまったので、今日も外食とかちょっと考えもの。どうせ予約なしで入れる店は少ないだろうし、ベイカリーでケーキでも買ってきてお祝いしようかな。


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吹雪のバージニアミッション第三話、日本食レストランに救われたホテル監禁体験

吹雪の中をパイロットシップに乗ってなんとか埠頭にたどり着いた我々民間人チームは、迎えに来てくれていた四輪駆動のSUV,ランドローバー数台にそれぞれ乗り込んだ。ここで私の任務が終るかと言えば全くそうではなかった。私のもう一人のチームメンバーの若い男性二人には、まだもうひとつ任務が残されていた。

我々は二週間にわたる航海で得た実験のデータが入ったハードドライブを所持していた。これは機密情報であり我々が一時でも目を離していいものではない。このまま空港に向かって飛行機に乗ると言うのであれば別だが、我々は一晩バージニアのホテルで泊まる予定だったので、機密メディアを持ったままの宿泊は許されていない。そういう場合は二人のチームで交互に守ることになっているが、それはあらかじめ決められたチームでなければならず、私とその男性とはそれぞれ別のデータを所持しており、指定されたチームメンバーではなかった。

それで我々のデータはきちんとした金庫にしまっておく必要があった。もし船が港に付くのであれば、船に置いてきても良かったわけだが、船はこのまま航海を続けるので、データは我々が降ろしてそれぞれが勤務する基地まで運ぶか郵送する必要があったのだ。私の場合はカリフォルニア、彼の場合はニュージャージー。というわけだから、我々は安全とされるノーフォーク基地内のとある金庫室にデータを一晩預けなければならなかった。

私とその男性を乗せてくれたドライバーの叔母ちゃんはミシガン出身の元海軍人。こんな吹雪の中を真夜中に出て来てくれてありがとうと言うと、「私はミシガン出身よ、こんな雪なんともないわ。こんなんでびびってるバージニア人は軟弱よ」というと彼女はガハハハッと大声で笑った。

機密データをなんとか安全な金庫室に預けて私のレンタルカーを止めてあった駐車所に戻ると、案の定私の車は雪に埋もれていた。幸いなことに一緒に居た男性はレンタルカーを航海前に返してしまい車を持っていなかったので、私の車を雪から掘り起こしてくれた上にホテルまで運転してくれた。「僕は現役の時ドイツで勤務してたから雪道なんて平気さ」と元陸軍人の彼は言った。

その時彼は、実はその晩のホテル予約をしていないことを私に告げた。彼は日中に港に付けると思っていたので、その足で飛行機に乗ってしまおうと思っていたらしい。しかし船の乗り換えで色々あって、その時はすでに午前2時。私は自分が常連であるホテルに行こうと提案。あのホテルなら私は顔が効く。一晩くらいなんとかなると思ったからだ。

思った通り、ホテル側はシーズンオフでがら空き。駆け込みの客でも十分対応してくれた。私たちは翌朝一緒に空港まで行こうと約束してそれぞれの部屋に行った。私は電話で翌日の飛行機の手配をし、これでなんとかこの任務完了と思い眠りについた。

翌朝、我々は金庫からデータを取り出し私は無事郵送を済ませ、彼は彼のデータを自分の胸ポケットにしまい込み、これで安全となったのでノーフォーク空港に向かった。男性が無事チェックインするのを見守ってから私は自分の予約した航空会社のカウンターまで行くと、なんと予約が入っていない!それで確認すると私の予約は翌日になっていると言われた。あ、そうか、夜中に電話した時「明日の飛行機」と言ってしまったのが原因だった。すでに零時を過ぎていたから予約は翌日になっていたのだ。

仕方なく私はタクシーに乗ってさっきチェックアウトしたばかりのホテルに戻った。事情を説明したら、まだ部屋の掃除は住んでないので、同じ部屋にもう一晩泊まってもいいと言われた。まあ、いいか、一日くらい伸びたからってどうということはない。データは郵送してしまったからもう何の心配もない。そう思い私はその晩はお気に入りの日本人経営の日本食レストランに食べに行った。

「え?明日お帰りで?それは無理ですよ。吹雪がくるってんで空港は閉鎖されますよ。道だって塞がれるし、うちは明日は休みにする予定です」と店の大将が言う。

大将によれば、天候の悪化が予測されるため、空港は閉鎖、緊急など公式な乗り物以外の車の運転は禁止というお触れが出ているという。

バージニアビーチにあるこの店は私がノーフォークに行く度に必ずよる日本食レストラン(ジャパレス)である。もうここ30年近くアメリカのジャパレスは中国人や韓国人経営の店ばかりで、生粋の日本食が食べられる店などほとんどない。しかしこの店は珍しく経営者は日本人でウエイトレスも皆年季のはいった地元日本人女性達である。私は出張手当が出るのをいいことに、この店に行く度に一人ではどう考えても食べきれない品数を注文する。すべて持ち帰って翌日の朝食や昼食にするからである。

Kyushu Japanese Restaurant – Google Maps

この店の存在は私の日系人の後輩が教えてくれた。それ以後私はバージニア出張中何度も訪れるだけでなく、数人の同僚を連れて団体で行くことも多かったので、この店は私のことを気に入っていた。日本女性のウエイトレスは、私が断らないことを知っていたので、私がいくとなんだかんだとお薦めの品をすすめた。

それで大将は帰り際に私にお弁当を包んでくれた。「どうせ明日は一日ホテル監禁になりますからね」馴染みのお店というものはありがたいものだ。

ホテルに戻って航空会社に電話をすると、やっぱり空港は閉鎖されるとのこと。すべての飛行機はキャンセル。吹雪が収まるまで数日間は身動きが効かないということが解った。カリフォルニアの上司にその旨を伝えると、「なんとかして帰ってこい」という。なんとかしてったって、道路は閉鎖され飛行場も閉鎖されてるのに、どうやって帰って来いと言うのだ!

それで私は一応「わかりました」とはいったものの、どうせ吹雪が収まるまでどうしようもないと思ったので、腹をくくってホテル監禁状態に甘んじることにした。結局その後三日位ホテルで缶詰めになったが、包んでもらったお弁当のおかげで、なんとか飢えをしのぐことが出来た、、って大袈裟かな?


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吹雪のバージニアミッション第2話、怖かった海上での船乗り換え

私が米国海軍駆逐艦に乗る仕事をしていたと言う話は以前にもした通り。今日はある冬、吹雪の中駆逐艦から小さいいパイロット船に乗り換えた時のお話をしたいと思う。

私は海軍で民間人エンジニアとして長年働いていたが、その仕事のひとつとして駆逐艦に乗って航海をすることが含まれていた。しかし私は乗組員ではかったので、艦での仕事が終わると艦そのものはまだ航海中でも途中下船をしなければならないことが度々あった。航海中の船から途中下船をするとなると、その方法は限られている。

ひとつは航行中に別の船に乗り換えて、その船によって港まで連れて行ってもらう。もうひとつは、ヘリコプターに迎えに来てもらって最寄りの陸まで運んでもらうことである。私はその双方とも経験しているが、今回の話は別の船に移動した時の話だ。

その日我々の民間人エンジニアリングチームは二週間に及ぶ航海の末下船することになっていた。

当初の計画では、下船はRigid inflatable boatという通称「RIB」という上記の写真のような小さなモーターボートに乗り換えて港まで行くはずだった。しかしこのモーターボートは波が荒かったり風が強かったりすると転覆する恐れがある。それでなくとも乗客は外部の空気に丸出しなので乗っている間かなり水浸しになる。この年のバージニアは特に寒く、この日の気温は摂氏マイナス22度だった。駆逐艦は中型とはいうものの結構大きいので、デックから小舟に乗り換えるためには10メートルくらいある縄梯子を伝って海面のボートに降りなければならない。この冷たい海水のなかにもし落ちたら数分でお陀仏である。こんな状況での乗り換えは非常に危険だし、モーターボートが無事港にたどり着けるかもかなり疑問だった。なにしろ乗船時間は少なくとも一時間という長時間だったのだから。

カカシ注:写真をそのまま張れないが、こちらのリンクの写真を見てほしい。ちょうど私も乗ったことのある米駆逐艦に近づくモーターボートの写真が載っている。こういうボートに乗って港まで一時間近く走行する予定だったのである。Petty Officers ride in a rigid-hull inflatable boat as they approach the USS Mason. (31494897982) – Rigid inflatable boat – Wikipedia

私は民間人のチームリーダーに、もしどうしてもボートでの移動が必要だというのなら、私は艦と一緒に数日余計に航海してもいいから、乗組員と一緒に最寄りの港で降ろしてもらいたいと申し出た。しかしリーダーは艦長に掛け合いさえしてくれなかった。元軍人のリーダーは上官を極度に恐れるきらいがあり、ちょっとでも規則に外れる選択肢は問題外として取り合ってさえくれなかった。

我々民間人十数人は寒空の夜間に甲板に集められた。これからRIBへの乗り換えを始めるため、それぞれ救命ベストを着用した。私はずっと嫌がっていたが、もうそんな意見が聞き入れてもらえる状況ではなかった。甲板でRIBを降ろすのを待っていたら雪が降り始めた。気温はさらに下がり風も強くなり、甲板に立っているのさえ苦痛に思われるほど天候は悪化した。艦にとどまりたいという私の要請を却下したチームリーダーですら、不安になってきているのがその表情から見て取れた。

そのうちに雪は吹雪へと変わり、目の前が全く見えない状態になった。こんな状況で縄梯子を伝いながら小舟に乗り換えるなんて可能なのか、あり得ないだろうと私たちは口々に言い合っていると、リーダーが大声で「艦長命令だ。艦内へ戻れ、移動は中止だ」と怒鳴った。あまりにも天候が悪化したためRIBを降ろすのは不可能だと艦長が判断したらしい。そりゃそうだろう、いくら民間人でも我々の身になにかおきたら艦長の責任だ。

私たちは一旦救命ベストを外し艦内で待機した。しばらくして屋根付き壁付のパイロットシップを呼び寄せて、そちらに移動することに決めたという知らせが入った。この船は船内部はきちんと屋根と窓に覆われており、乗員は外部の空気にさらされないようになっている。しかしパイロットシップの元来の役目は港に近づく大型船を港へ誘導することなので長距離運転は出来ない。それで我々の駆逐艦はさらにずっと港に近づかなければならなかった。だったら艦自体が港へいけばいいじゃないかと思われるかもしれないが、大型船が港に付くとなると色々な準備が必要で、それにかかる時間と労力とお金は相当のなものだ。だから大型船は不必要に港には近づかない。

というわけで、艦がパイロットシップの行動範囲に入る付近まで一時間近く待機した。ようやくパイロットシップが港から到着。それでも海面に浮かぶパイロットシップまで甲板から縄梯子で降りると言う行動を避けることはできなかった。真夜中の吹雪のなか縄梯子を10メートルも降りるというのは普通なら絶対やりたくない行為である。

しかしこの長い縄梯子も最後のステップまでパイロットシップに届いていなかったので、ステップがなくなった時点で手を放して飛び降りなければならなかった。パイロットシップの乗組員が「大丈夫、I got you 手を放して!」というのでぱっと手を放して後ろに飛び降りると誰かの大きな腕が私を包み込んだ。ありがとう!私は涙が出る思いだった。

ずっと寒い甲板で吹雪に晒されていた我々はやっと暖かいパイロットシップの中にはいり一息つくことが出来た。

パイロットシップののろのろ運転でやっと桟橋にたどり着いた時は夜中2時過ぎ。気温はさらに低く吹雪はその勢いを増していた。桟橋には陸で待機していたチームメンバーの叔母ちゃんドライバー達がそれぞれのランドローバーSUVから手を振った。我々は数台の車に乗り込んで次の目的地へ向かった。

私の夜はまだ終わっていないのだが、それはまた別の機会にお話ししよう。


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吹雪のバージニアミッション第一話、雪道運転

私が海軍で民間人として長年働いていたという話は何度もしているが、今回はそんな中でも特に思い出に残っているとあるミッション(任務)の話をしたいと思う。書いているうちに長くなってしまったので「吹雪のバージニアミッション」三部作としてお話していこう。

私はカリフォルニア南部住まいで山のふもとに住んでいる。それで一年中雪が降るなどと言うことは全くない。南カリフォルニア(土地の日系人は南加『なんか』と呼ぶ)の気候は乾季と雨季に別れ、12月から2月くらまでが雨季。気温も結構下がり、東京の11月頃と変わらない感じになる。よく南加は乾いたハワイのような場所だと勘違いされている方がいるが、寒い時は氷点下にもなるのでお気をつけ頂きたい。

住まいは南加でも仕事柄私は東海岸に出張することが多かった。私の出張は長期のものが多く、一度行くと2~3か月の滞在ということは普通だった。それで毎年冬は東海岸で過ごすということが何年も続いた。私がしょっちゅう冬を過ごしたのはバージニア州にあるノーフォークという市。ここには巨大な海軍基地があるからである。ノーフォークの気候は日本の関東地方と非常に似ており、夏は蒸し暑く冬は寒い。だが雪はたまにしか降らず、降っても積もるというのは珍しい。しかし東京でもたまに豪雪が降ることがあるように、ノーフォークでも時々そんな年が襲ってくる。

今回のミッションは一か月ほど港内で駆逐艦に備えた新しいソフトウエアの検査をし、その後実際に二週間ほど航海に出てその性能を確かめるというものだった。

その年のノーフォークは稀に見る寒波に見舞われていた。私はノーフォークのダウンタウンにあるレジデンスインというマリオット系の長期滞在用ホテルに泊まっていた。勤務先の海軍基地までは車で15分くらいだった。私の勤務時間は午前6時からだったが、色々準備もあるのでだいたい5時半くらまでには出勤していた。

出張が始まった日から毎日のように雪が降った。最初は積もるほどではなかったが、そのうち降雪の量が増え道がだんだん雪で埋まっていくようになった。問題なのはノーフォークは近隣の他の州と違って普段そんなに雪が降らない。それで除雪対策というものがなってないのだ。除雪車も全く足りないので近隣州から借りてくると言う始末。それに住民も雪になれていないので、家の前の雪かきは頻繁にしなければならないという感覚もない。それで大通り以外の裏道などは積雪でにっちもさっちもいかない状態になった。

市民も雪道運転になど慣れていないから事故が多発。ある朝私はホテルから基地までの7マイルの間に5件くらい事故を見た。格いう私も左折をしようとして凍った道路の上を5~6メートル横に滑ってしまい、大きな半円を描いて曲がるというお粗末ぶり。早朝で誰も周りにいなかったことが幸いして危うく難を逃れた。

なんとか基地にたどり着いたとはいうものの、基地内の状態もかなりひどかった。皆さんは海軍基地の内部がどんなふうかご想像がつかないかもしれないが、制服を着た軍人が集団で行進していたり、普通に歩き回っているという以外は、ごく普通の町である。内部には工場があり、オフィス街があり、家族用の住宅区域や独身者用の集団住宅などもある。子供もいるので幼稚園や小学校もあるし、レストランやスーパーも運動ジムもある。多分全体で2万人は常備生活したり仕事したりしているものと思われる。

そんなふうだから車通りの多い大通りは除雪が行われてはいたものの、埠頭付近の駐車場は全く除雪が行き届いていなかった。駐車場には30センチちかく雪が積もっており、表面に書かれた線など全くみえないので、人々は適当な場所に車をとめていた。私も駐車場にはいったすぐ傍に車をとめてそのまま仕事に行った。

一日仕事を済ませて駐車場に戻ってみると、さらに雪が降って止まっている車はみんな雪の中に埋まっていた。だいたいどこら辺にとめたかは覚えていたが、見つけるのに一苦労。車のキーを使ってホーンを鳴らしライトのついた車を探すしかなかった。

いざ車が見つかっても、掘り起こすのが素手では大変。シャベルも何も持っていなかったので、もってたバインダーを使って雪を掻き、なんとか車は外に出たものの、雪にすべって車が動かない。ちょうど通りかかった男性の同僚に、タイヤの下の雪をどけてもらって、なんとか車の発進が出来た。

もう雪道運転はこりごりである。


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今更気付いた英語教材詐欺、でも役にたっちゃったし、、

この話、以前に書いたような気がするんだが、見つからないのでもう一回書いておこう。私が中学生の頃、母の高校の同級生とかいう男性からかなり高額な英語教材を売りつけられた。これは英語の百科事典とカセットテープ何十個もついた多分云十万円という買い物だったはずである。その男性がうちに来ていた時、ちょうど私は学校から帰ってきたところで、母から「カカシちゃん、これ欲しい?ちゃんと勉強する?」と聞かれて「うん」とは言ったものの、それがどういうものなのかはっきりとは理解できていなかった。

もちろんそんな高額な買い物を母の一存で購入することは出来ないので、その晩母は父に相談した。父は独身の頃から英語を熱心に勉強しており、いつかは英語を習得できると思い込んでいた。それで最新式の英語教材だということで結構乗り気になって一式買ってしまったのだ。

父は自分で勉強するつもりだったので、最初の2~3日はテープを聞いたり、教材をよんだりしていたが、すぐに飽きて百科事典はそのまま本棚のお飾りになり、カセットテープと一緒についてきたプレーヤーは私が音楽を聴くために使われ、テープそのものは私の部屋に置きっぱなしになってしまった。

しかし高校生くらいから私はそのテープを使って遊び始めた。別に英語が好きだったわけではないが、テープから聞こえてくるイギリス訛りを聴くのがおもしろかったのである。しかし高校時代は単に遊び半分で聴いていたテープだが、高校を卒業して英語専門学校に通うようになって、このテープは学校で使っているランゲージラボラトリーと同じであることに気付いた。学校では週に2~3回しか練習できないが、家でこのテープを使えば個人的に練習できる。そう気が付いて私は結構真剣にこの教材を駆使し始めた。それから本棚の肥やしになっていた英語の百科事典や英英辞典も意外と役に立つことに気付いた。

そうしてアメリカに10か月ほど語学留学し帰国した時には私の英語レベルはすでにこの教材のレベルを超えていた。それでテープや古くなったプレーヤーは処分してしまった。しかし百科事典は役に立ったので、アメリカに移住した際に全て持って来たくらいだ。この百科事典はその後も結構活用し大分長いこと持っていたが、あまりにも時代遅れになってしまったので処分した。

それから一体何年が経ったろうか、アメリカに移住して10年以上は経った頃、久しぶりに里帰りをした時に妹と何気なく昔話をしていたら、妹が「覚えてる?お母さんが騙されて買わされたあの英語の教材?」と話始めた。「あれって完全に詐欺だよね」と妹は続けた。

「え?そうなの?」と私。

「そうよ、だってあんな教材、本気で使う人なんかいないでしょ。日本語ならともかく、英語の百科事典なんて誰が読むのよ。あれはお母さんがセールスマンの口車に乗せられて、お父さんが調子に乗って買っちゃったのよ。ああいう教材って言いくるめられて買っちゃった人結構いたみたいよ。一時問題になったんだから」

え~そうなの~? いや、いや、もしそうなら、あの教材も百科事典もフル活用した私はどうなるんだろう?

「そりゃ、お姉ちゃんはたまたま英語が出来るようになっちゃっただけでえ~、それは稀なケースよ、普通の人は全然使わないで終わっちゃうのよ」と妹は笑った。

確かに、もともと父がやる気で購入したのに結局父は使わなかったので、普通はそうだったのかもしれない。そうだとすればかなり高額な浪費である。

でも使えば役にたつものを買わせることは詐欺といえるのだろうか?いくらほとんどの人が活用しないというのが事実だとしても。


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苺畑断捨離五年計画(3年目)途中経過

2021年から5年計画で始めた断捨離。残ったバンカーズボックス(段ボール箱)二つ分のDVDと安物の置き物などを処分すれば一応終了。大きな家具は自分達だけでは運び出せないので、後は折をみて業者に頼んで持って行ってもらうしかない。この家を売って引っ越す際に、今使っているソファやテーブルやベッドも処分してもっと小さいものに買い替えるつもりなので、その時いっぺんに処分してしまえばいい。

過去3年間で片付け動画を随分見たが、一番役に立ったなと思うのは、先ず収納せずに床に置きっぱなしになっているものや、家具に無造作にかかっている洋服などから片付けるというものだろう。前は仕事関係のバインダーとか出張用のダフルバッグやバックパック、コンピューターバッグ、など書斎の床にに散乱して足の踏み場がないという感じだった。これは私が有罪。何せ床にあったものはすべて私のジャンクだったから。

あと私の悪い癖で、出かけて帰ってきた時に持ってたハンドバッグや上着などを玄関近くにある椅子に掛けてしまう。それで私はこの立派な椅子に何年も座れなかった!時たま人が来る時だけ椅子の上のものをそのまま寝室に持って行ってベッドの上に放り投げていた。今は上着はちゃんとクローゼットにしまうし、ハンドバッグはちゃんと書斎まで持ってくる。

いくつもあったCDラックはほぼ全部処分したので、リビングがすっきりして、何か広々としている。うちのリビングってこんなに広かったんだ!書斎からも要らない本棚と机を処分したのですっきり。

はっきり言って、もうすぐ引っ越すと言う時になって家の中がすっきりするってのもおかしなものである。もともと綺麗にしておけば住み心地がもっとよかったはずなのに。とはいえ家というのは住んでこそなんぼのもの。ショールームではないのだから常に見栄えを保つなんてことは出来ない。お金持ちで毎週何回か清掃員が来てくれるというなら別だが、自分らだけで回している家なんて、よっぽどのミニマリストでない限りみんなこんなもんだろう。


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おせち料理の材料が高値すぎて悲鳴を上げた年末

日本の皆さまがこれを読むころはもうお正月ですね。新年あけましておめでとうございます。

こちらは一日遅れで本日が大晦日。もうここ2~3年、おせち料理なんて作っていなかった。特に去年は私の心臓手術などもあって、年末にお節盛り合わせのお弁当だけ買ってきてお茶を濁した。今年もおせち料理なんて面倒くさいからつくらないでおこうと思ったのだが、私はせめて煮しめくらいは食べたいなと思い、その材料だけでもと思い日系マーケットに出向いた。

そのマーケットの名前はMITSUWAといい、カリフォルニア州に何軒かお店がある。うちから車で25分くらい行ったところにある店は非常に規模の小さい店で、日本のコンビニ位の大きさの店である。それでも店の前にはおおきな門松が飾ってあって、ちょっとお正月気分になった。

狭い店のなかには正月用の買い物をする日系人でごった返していた。結構若い夫婦が多く、誰も日本語をしゃべっていない。だが英語で話ながらも「田作り」「伊達巻」「栗きんとん」などという単語だけが日本語で飛び交っていた。まったく日本語のしゃべれない日系何世代かの若者従業員も「はんぺんはどこにありますか?」という私の英語の質問にきちんと答えてくれた。

もともと日本製品は輸入品なので値段は割高だ。しかし今年はインフレのせいもあって、いやあ何もかも凄い高値。紅白かまぼこが普通の2/3程度の大きさのものが一個9ドルから12ドル。伊達巻も小さいものでも9ドル。大きい者になると14から20ドルくらいもする。剥き栗の袋も14~5個で8ドル。栗の甘露煮は小さな瓶に数個しかはいってなくて9ドル!そして極め付きは、なんとはんぺんが一枚4ドル50セント!あまりの高さに「たっか~い!」と大声を張り上げてしまった。

しかし一年に一度のことだからと思い、かまぼこや伊達巻は諦めたが、煮しめようの里いもやゴボウを買い、大きな大根も購入した。そのかわり剥き栗はあきらめた。日本ではごく普通に手にはいるこういう野菜はカリフォルニアでは日系マーケット以外で購入することはできない。韓国系や中華系では似たような野菜はあるがちょっと違うのだ。野菜以外は栗の甘露煮とはんぺんを購入。昆布、黒豆、田作りは見送った。おもちは切り餅の一番小さいのを買った。

よもぎねこさんが、ご近所のスーパーでは鏡餅が30日ですべて売り切れてしまっていたとおっしゃっていたが、MITSUWAさんには鏡餅は最初から売っていなかったようだ。すくなくとも狭い店内ではみあたらなかった。しかし我が家では日本の妹が毎年プラスチックの容器に入った小さな鏡餅を送ってくれる。それで今年もそれを飾ることにした。

カリフォルニアでもお節料理は前々から予約しておくことが出来るが、私は他人の作ったおせちにはあまり興味がない。ああいうものは調理をする作業が楽しいのだと思う。

というわけで昨日は煮しめ、栗きんとん、なます、を作った。本日は伊達巻を作って今年はそれでおしまいにしよう。

ではみなさま良いお正月をお過ごしください。


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眼瞼下垂矯正手術とルッキズム

私は一週間ちょっと前に眼瞼下垂矯正手術を受けた。この話はを特にするつもりはなかったのだが、今日ひょんなことから眼瞼下垂の手術を数年前に受けて失敗しあまりにひどい後遺症に悩んみ苦しんだ末、自殺したMさんという女性の10代のお嬢さんが、Mさんのアカウントでお母さまの死について語っておられるのを読んで非常に心が痛んだ。自分もこの手術を受けたばかりだったので、何か他人事とは思えず、亡くなったお母さまの過去ログを少し読んでみたのだが、かなりお悩みだったようだ。御冥福をお祈りしたい。

さて、私の手術の話を簡単にすると、3か月くらい前に私の右目から涙が止まらなくなったのがきっかけだ。実は数年前に左目が同じ問題を起こした。原因は涙腺が詰まって鼻へ涙が流れなくなり、外へ溢れるようになったのだ。これは特に珍しいことではなく、涙腺を開く手術をすれば数週間で治る。左目の時は原因が解らなかったので大分ひどくなるまで放置してしまったのだが、右目の時はすぐに察知して専門医に行き即手術となった。しかしその時に専門医から眼瞼下垂が酷いから、これを治す手術が必要だと言われた。簡単な手術で眼科医で局部麻酔だけで出来ると言われたので、12月のはじめに手術を受けたのだ。

医者の言う通り措置そのものは15分くらいで終わった。瞼をちょこちょこっと縫っただけで雑巾の運針より簡単だった。ただその後の腫れはひどく最初の2~3日は薄目しか開けられず、しかも目を開けると目がしょぼしょぼして痛いのでPCの画面も観ることができなかった。それでブログエントリーもXもお休みし、もっぱらオーディオブックを聴いて過ごした。

もう一週間が経ったので腫れはほとんどなくなったが、まだ瞼は紫と黒に染まっており、何かどぎつい化粧をしているように見える。このままどんどん腫れは退くと言う話だ。数年ぶりにちゃんと目が開く状態に戻るのだったらいいのだが。

Mさんの過去ログを読んでみると、彼女が受けた手術は私と同じ手術ではなく、瞼を一部切り取って目を大きく見せる美容整形だったようである。最初の医師が皮膚を取り過ぎたせいで、彼女は瞼を完全に閉じることができなくなり、あちこち痛みを感じ視力にも影響が及んだという。修正のため何度か手術を受けたがその度にさらにおかしくなってしまい、どんどん落ち込んだようである。お嬢さんから言わせると見た目は本人がきにするほどひどい状態ではなかったという。だが本人には欠点ばかりが気になったようだ。確かに手術の失敗はあったのだろう。目の痛みもあったのだろう。だが、もっと深刻な持病を持っている人でも頑張って生きているし、Mさんに必要だったのは医療手当以上に精神の治療だったように思う。

これについてXでどなたかが自分は美人の妹と常に比べられて嫌な思いをしたと書いていた。それで危険な美容整形に走るひとはルッキズム(容姿差別)の犠牲者なのではないかというのである。確かに美を追求するあまり危険な整形をする人はいるだろう。だが、それはルッキズムのせいなのだろうか?

じつは私は子供の頃から自分の風貌に悩んだことがない。それは私はもともと美人だからというわけでは全くない。我が母は若い頃から高級化粧品のセールスをしていた。母はもともとおしゃれで化粧がうまかったのでこの仕事は彼女にとって最適だった。で、母は毎朝念入りにお化粧をするのだが(88歳の今でもやってる)朝起きた時の顔と化粧後の顔の違いに驚異的なものがある。それで私は幼いころから、顔なんて化粧をすればどうにでもなると思っていたのだ。

母のようなおしゃれ女性の娘なので妹も私も容姿に拘るかと思いきや全くそうではない。私はオフィス勤めなので一応化粧をしたりスーツを着たりして出勤していたが、出張先では現場で作業着を着てゴーグルをつけての仕事なので化粧などしてられなかった。妹も長年スーパーのパートをしているが、まるで化粧っけなどない。服も機能的なものばかりでおよそおしゃれなんてものではない。

はっきり言ってルッキズムなんてものが自分に圧力をかけるかどうかは、自分がそれをどのくらい気にしているかで決まると思う。自分がブスだと思いそれを非常に気にしている場合は、周りからブスだと言われたら傷つくかもしれない。だが自分の容姿に無頓着な人はブスだと言われたからといってさほど気にならない。自分にとって大切な人から綺麗だと言われればそれでいいのだ。他人からどう思われようと別にどうでもいい。

私は美容整形が悪いとは全然思っていない。もし危険性の低い手術で自分が気になる点を治せるのならそれでいいと思う。だが整形はあくまでも整形なので、必ずしも自分が思っていたような結果が得られるとは限らない。それでもいいのなら踏み切ればいいと思う。容姿で他人を差別するような人に自分を傷つけさせてはいけない。相手にそんな力を与えないためには、そんなことに気を取られなければいいのである。


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