「今年は七面鳥は焼かないぞ~」と宣言したのに結局作ったと言う話

拙ブログご愛読の読者諸氏はおぼえておられるだろうか、ちょうど二年前の感謝祭の際に主人が買ってきた10kgという巨大な七面鳥との散々たる格闘を。今年は私も病み上がりということもあるし、主人はとっくの昔に料理から引退していることでもあり、家族と集まる感謝祭でも「七面鳥は焼きません」と早々に宣言した。

実は、苺畑家の七面鳥歴は非常に長く、かれこれ40年近い。ことの始まりはミスター苺の大学時代にさかのぼる。当時彼はカリフォルニア北部にある大学に行っていたが、父親が望むUCLAに行かなかったということで勘当状態にあった。そこで彼は自分と同じように多々の理由から感謝祭に実家に帰省できない同級生たちを集めて自分の借家に招待してホームメイド七面鳥をふるまったことにある。

大学卒業後、父親が亡くなり再び家族と感謝祭を過ごせるようになったミスター苺は、それまで義母が請け負っていたターキー作りを引き継いだ。面倒くさい料理をしなくて済むようになった義母は大喜びでミスター苺にバトンタッチ。私と結婚してからも、ミスター苺のターキー担当の伝統は守られていた。

しかし数年前から主人は病気がちになり、長時間台所に立って料理をすることが出来なくなった。それで、それまではスーシェフだった私が晴れてヘッドシェフへと昇格。その後ターキーづくりは私の担当になって今に至る。

しかし今年は私が大病をし夏に大手術で入院、その後も回復に時間がかかっているということもあり、今年は大がかりな料理は出来ないと家族に伝えた。無論家族は事情を良く知っているので、今年はターキーなしでもいい(誰もターキーを焼きたがらないので)ということになり、義母がコストコに注文してローストチキンを持ってくるということで話は決まっていた。そして私は何か簡単なオードブルでも持ってくればいいということになり、家族は肉料理には色々制限があったため、シーフード焼売を作ることになった。

感謝祭の前日、足りない材料を買いにスーパーに行くと、ターキー大セールが行われていた。それを見たら、せっかくの感謝祭にターキーを食べないのも寂しいよなあと思ってしまった。しかしだからといって、感謝祭まですでに24時間を切っており、今から気持ちをかえてターキーを作るなど無理。などと考えていたら、胸肉だけの2kgというターキーを発見。2年前の五分の一の大きさだし、これなら今からでも十分間に合うと考え2kgターキーを購入。

そうと決まればターキーの付け合わせも必要になる、スタッフィング、グレービー、ポテト、ヤム、ええい、面倒だ、せっかくだから全部作っちゃえ!

というわけで勝ったターキーは一晩漬け汁に浸して当日は6時起きして色々作った。もちろん焼売も。

なんだ結局いつもより大変になってしまったではないか!

とはいうものの、ターキーを期待していなかった家族は他に色々なものを持ち寄っていたため、この量はかえってちょうど良かった。今までターキーは丸ごと焼かなければいけないという使命感があり、自分に不必要な負担をかけていたような気がする。

「あれ、カカシ伯母さん、このターキーなんかスモーキーな味がするね」と言われて気付く。慌てて材料を集めたため、ターキー用ブラインを買い忘れてしまい、うちにあったスモーキーBBQ漬け汁ミックスを使ったのがばれてしまったようだ。


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衣替えの思い出をちょっと

10月に入り、さすがのカリフォルニアもやっと涼しくなった。未だに日中はクーラーをつけることもあるが、朝夕は涼しく過ごしやすい。

カリフォルニア南部は一年中温暖な気候というイメージがあると思うが、それでも一応季節はある。冬になると明け方零下になることもあり、朝車のウィンドシールドに張った氷を溶かしてから出かけるなんて日も時々ある。なので一応苺畑家でも衣替えの季節かなと思い、箪笥のなかを色々整理し始めた。

私の箪笥のなかにある服はどれもこれも母から送られてきたものだ。

私の母は買い物が大好きで、しょっちゅう洋品店に行き、値段も見ないでボンボン服を買ってしまう。父がバブル期にまあまあ儲けたこともあり、当時の母の買い物三昧は半端なものではなかった。その後日本の景気が低迷し、父の仕事もだいぶ下火になってからも、母の買い物癖は直らず、一度など父が怒って母のクレジットカードを全部ハサミで切ってしまったことがあったほど。

というわけで実家のクローゼットはすぐに母の洋服で山積みになってしまい始末に負えない状態になっていた。それで母は自分が着なくなった服を私にくれるようになった。

母の趣味は中年女性のもので、およそ10代の若い子が着るような服ではなく、妹は「おばんくさい」と言って嫌がり母のお下がりは愚か、新しい服でも母が買って来たものは絶対に着なかった。私はその正反対で、洋服には全く無頓着でお下がりだろうとなんだろうと母があてがうものは文句ひとつ言わずに着ていた。そのせいで母は、私が大人になってからも、私の洋服は母が揃えるべきと思い込むようになった。

私が独立してアメリカに住むようになってからも、母は大量の服を頻繁に送り付けて来た。私はそんなに着きれないから送らなくていいよと何度も言ったが、私が遠慮していると思ったのか、母からの小包が留まることはなかった。そしてそれは、なんと30年以上続いた。

さて、困ったのは私の方だ。私は長年、狭いワンベッドルームに住んでおり、ウォークインクロゼットなんて贅沢なものはなかったので、後から後から送られてくる洋服を置く場所などすぐなくなった。

そこで私が考え出したのは次のやり方だ。

  • 母から送られてきた服はどんなものでも必ず一度は着ること。
  • 一度着た服は綺麗に洗濯してから、もう一度着たい服と二度と着たくない服に分けてからしまう。
  • 年末、二度と着たくない服だけまとめてチャリティーに寄付する。

しかし、一年経つとまた母からの小荷物が届くので、以前着た服をまた着る機会がないうちに新しい服を着ることになってしまう。

そんなこんなをしているうちに、ある時私は同僚から「カカシさん、私はあなたを2年近く知ってるけど、あなたが同じ服を二度着ているのを見たことがない」と言われ、確かにそうだと思い当たった。なんとその時、同じ服を二度と着ない生活を三年以上も続けていたのだ!

その時、せっかく気に入った服があっても、まだ着てない服があるからと、同じ服を二度と着ないという自分の作った規則が、いかにおかしいかに気付いた。なんでそんな規則があるんだ。好きな服は何度でも着ればいい、嫌いな服は一度も着る必要はない、とやっと気が付いたのである。

母には何度言ってみても服を送るのを止めることはできない。ではどうすればいいのか。私は新しい方法を取り入れた。

  • 母から送られてきた服は、着たい服と着たくない服に分ける。
  • 着たくない服は年末を待たずに即座にチャリティーに寄付する。
  • 一度着て気に入った服はそのまま箪笥に戻して、また着たい時に着る。
  • 一度着て、やっぱり好きではない服はまとめておいて年末にチャリティーに寄付。

こうして私の家が洋服で埋まってしまう悲劇は何とか免れた。

ここ10年近くは、父も引退し実家は以前のように金銭的な余裕はないし、父も母も色々病気などをしたので、母もそうそう買い物になど行ってられない。それで30年以上続いた毎年恒例の洋服小包も、あまり来なくなっていた。それでも時々思い出したように母から洋服が送られてくる。

箪笥のなかから見たことのないサマードレスが出て来た。去年久しぶりに母から送られてきたものだ。今着ないと季節が終ってしまう。それで今日は久々にドレスを着た。これは着やすい、気に入った。とっておいて来年はもっと何度も着よう。


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命に執着心が出た?術後約一か月経過

今週末で手術後一か月が経過したことになる。明日は一か月後の検診でお医者に行く。まだ運転は出来ないので送迎は知り合いに頼んで迎えにきてもらうことになっている。

開胸手術という大手術だったので、回復に8週間はかかると言われていたが、もうだいぶ良くなり、近所の薬局まで歩いていけるほどになった。ただまだ重たいものを持つことはできないので、簡単な家事は出来るが、鉄製のフライパンなどは持ち上げられない。仕方なく料理らしきものはせず、夕飯なのに缶詰のトマトスープとツナサンドイッチだったりする。でも大して食欲があるわけではないから、そんなもんで十分だ。主人は何も言わずに食べてくれてるし。

今日は一日ずっと暇だなと言う気がした。でもそれで気付いたのだ。暇だと感じられるということは、身体が疲れて動けないとか、胸が痛いとか、咳き込むとか、そういうことがない証拠。なぜって身体の調子が悪い時はそれしか考えられないから、暇だなんて考えてる余裕はないからだ。

実はコロナ禍でロックダウンが始まった2020年の春ごろから、私は非常に精神的に落ち込んでいた。それというのも長年連れ添った主人が難病であると診断されたからだ。今日明日どうなるという病気ではないが、一生治ることはなく、徐々にではあるが悪化していずれは動けなくなる病気。それが10年後かもっと先なのか今は未だ分からない。

私は残りの人生を考えたら絶望的な気持ちになった。これから主人と色々な所へ旅行しようと思ってた。コロナ禍にならなければニュージーランドへ行くはずだった。でも2年後の今、主人はもう海外旅行など出来る身体ではなくなっていた。

そんな時に私の心臓が悪いと言われた。手術が必要だと。年寄りには進めないが、あなたはまだ若いから、この先20年も30年も生きる可能性があるから、やっぱり開胸手術をお薦めしますと医者に言われた。何もしなければどうなるんでしょう?それは何とも、もしかして数か月の命かもしれないし、数年かもしれない。だったら手術なんて要りません。数か月後にぽっくり死にたいです。そう言いたかった。主人と一緒に年を取れないなら、長生きなんかしたってつまらないもの。

でもそんなこと言って主人より私が先に死んでしまったら、病気なのに世話をする人も居ずに残された主人はどうなる?ここで私が倒れて死なずに寝たきりにでもなったらどうする?

そう思ったら、やっぱり生きなければいけないと思った。

術後すぐは身体が苦しくて痛くて辛くて何も考えられなかった。一日一日、ともかくこの痛みから解放されたいという思いで一杯だった。退院後も徐々によくなっているとはいえ、ここが痛い、あそこが苦しいと身体のことばかり考えていた。でもそのうちに気付いたのだ。私は生きたい。死にたくないと。

身体が悪いと生きたいという命への執念が湧くようだ。まだまだ生きてやるぞ、こんな苦しい思いをしたんだから、後20年や30年楽に生きてやる!そんな執着心が生まれたのだ。

確かに主人は病気だが、まだまだ寝たきりというわけではないし、二人で近所の散歩くらいは出来る。私が運転できるようになったら、湖のある公園に行って、主人の好きな写生でもしよう。時々はおいしいものを食べに行こう。あと何年こんな生活を続けられるかなんて嘆いているより、一日一日を大事にしよう。

そんなことを考えている術後一か月であった。


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開胸手術体験談その3,隔離病棟

テレメトリー

「まったく昨夜はどうなることかと思ったわよ。脅かさないでよね」とロシア人看護婦のアナが言った。いや別に脅かすつもりはなかったけど、それにしても、どうして私の動悸の乱れにすぐ気づいたの?するとアナは私の身体にテレメトリーという装置が付けられており、病院内であればどこに居ても私の心臓状況が把握できるようになっているのだと説明してくれた。そっか、それでみんなが血相を変えて部屋に駆け込んで来たわけだ。

隔離病棟の看護師たちは集中治療室の看護婦たちよりリラックスしていた。それもそのはず、ここまで来れたら後は回復の一途を辿るだけなので、時々後退はあっても命に別状を来すようなことには先ずならない。

病院

私がお世話になった病院は、自宅から数キロのところにあるキリスト教系病院である。このあたりの病院は大抵がキリスト教かユダヤ教系である。うちの近所にある病院地区はどこでもそうなのだが、一定の広い区域のなかに大きな建物の病棟がいくつも、あちこちに散らばっており、この地区には大掛かりな手術をしたり、入院患者を受け入れたり、種々の検査が行われる施設が集まっている。大きな大学病院や大学のキャンパスを思い浮かべてもらうと理解しやすいかもしれない。

この地区内には個人開業医のオフィスも一か所に集められて店子のようにして入っている。そういう医師は病院勤務も義務付けられており、毎日何時間か病院で過ごし、残りの時間で外来患者を診、緊急事態は順繰りに担当が回ってくる。

患者は最初に開業医に診てもらい、その医師の指図で色々な検査を受けたりするわけだが、それらの検査施設が同じ病院地区内にあるとしても、検査施設は経営が別であり手続きも別なのですべてを同じ日にうまくコントロールしてやってしまうというのは非常に難しいというのは前回お話したとおり。

たとえば健康診断をやるにしても、あらかじめ診断に必要な血液検査を別のラボ(研究室)でやってもらって、その検査結果が出るころに医者の所へ行くというのが今は普通になっている。

食事

食事もこれまでのように単なる出汁スープではなく、きちんとした料理が出てくるようになった。とはいうものの、私は胃が痛くて吐き気も酷く食べ物など喉を通らない。そこへクリップボードを持った中年の女性が現れた。「この先三回の食事のメニューをお伺いに参りました」へ?こんな気持ち悪い時にメニューから料理選べとかおかしんじゃないの?と思ったが、その女性はまるで高級ホテルのレストランのウエイトレスがルームサービスの注文でも受けるかのように慇懃な趣で注文をきいた。

胃の調子が収まって食事が普通に出来るようになると、この病院の食事は悪くないと思った。この病棟のひとたちは皆心臓を病んでいるので、塩気のあるものや揚げ物などは無論出てこないが、それでも色々工夫されていて良かったと思う。スパゲティ―とマリネらソースとか、マカロニ&チーズなんか結構よかったし、レンティルスープはとても美味しかった。自宅に帰ってからも、これを参考にして色々作らせてもらおうなどとメンタルノートを取っていた。

フィジカルセラピー

さて隔離病棟も二日目になると、付き添い付きとはいうものの、自分の脚で立って歩行器を使いながらトイレに行かせてもらえるようになる。初めておまるではない普通のトイレの便座に座った時には感動した。(笑)

そして始まるのがフィジカルセラピー。ベッドから降りて腰にベルトを付けられる。そのベルトをセラピストさんがもって後ろから歩く。なんか犬の散歩みたいだが、最初は自分の部屋から廊下を数メートルも歩けなかったのに、やっていくうちに長い廊下を結構行ったり来たりすることができるようになった。

この病院では、動ける人はどんどん動かすというモットーのようで、動けるはずなのにいつまでもベッドから出ない患者は医者から叱られた。私は最初の一晩二晩ほとんど一睡もできなかった。それというのも眠りに入ると咳が出たからで朝はぐったりしていた。そこへ朝7時くらいにセラピストさんの若い男性二人が登場。「は~い、カカシさん、頑張って歩きましょう!」と満面の笑みを浮かべて私を叩き起こした。よたよたよちよちしながら数メートルあるくと酷い眩暈、もうだめ、勘弁して。

やっと部屋に戻り、食事をとった後、うとうとしてきたので、眠れるかなと思ってベッドに入ったその時、「カカシさん、まだベッドに居るんですか?歩き回らなきゃ元気になりませんよ!」とG先生の激しい口調。もう、G先生にはベッドサイドマナーってものがない!

翌日私はふてくされてずっとベッドから出なかった。PTのお兄さんたちが来ても気分が悪いと言って寝床から出ずにいると看護婦さんが「気持ち悪いなら余計に立ち上がったり歩き回ったりしないとダメなのよ」というが、眩暈がひどすぎて起き上がるのさえ無理なのに、あるくなんてとんでもないと思った。そこへまたG先生。「カカシさん!さっさと元気になって出て行ってもらわないと、こっちは後が使えてるんですから」と厳しい口調。この野郎め、お腹いたいんだよ!胸が苦しんだよ!

G先生が部屋を去った後、私はオーダリ―を呼んでベッドから近くにある椅子まで移させてもらった。そこで脚を上げたり下げたり運動をしていると看護師さんが入って来て「お?やっとやる気になったのね」と言った。やる気なんか出ませんよ、でもG先生にこれ以上皮肉言われたくないですから、、「でもベッドから出られたじゃない?」それは、、そうだけど、、

お見舞い及び付き添い

病室には色々な人が出入りする。朝必ず血糖値や血液内の酸素レベルなどバイタルサインを取りに来る看護婦や看護師補佐は当然のことながら、掃除のお姉さんたちや、セラピーさんや、血液だけ取りに来る人、レントゲン技師、などなど、ひっきりなしに誰かが部屋に入ってくる。 入院時に貴重品は持ってこないように、お財布もいりませんと言われたのは多分これが理由だろう。

日本の妹は90近い高齢の両親の片方でも入院すると、必ず毎日のように病院に行っていた。これは病院側から来てくれと言われたからなのか、妹が善意でしたものか解らないが、少なくともこちらの病院では家族が付きそうことは求められない。

昨今のコロナのことがあるため、見舞客は一日二人まで。しかもワクチン二回済もしくは二日以内の陰性証明書が必要とされる。主人が最初に見舞に来ようとしたときに、枠パスは持っていたが、陰性証明が必要だと言われて追い返されてしまった。しかしそれは受付の間違いでワクパスか陰性証明のどちらかを持っていれば問題ないと後で解り、無駄に陰性証明を取りに行く時間を浪費したと主人はカンカンであった。

退院

最初は終わりが見えないトンネルをゆっくり走っているように思えたが、徐々に日を追うごとに体力は回復し、なんとか一人でトイレにも行けるようになった。それでも歩行器がなければ、まだまだふらふらした状態であるが。傷口も安定しており、血圧や血糖値にも問題がないということなので退院することになった。入院してから8日目の夕方であった。

当初入院は3日から5日と言われていたが、開胸手術をして3日で退院なんてあり得ない、5日だって怪しいものだと私は最初から思っていた。結局私の場合は8日かかったわけだから、これは早くて5日、長くて10日くらいに言っておくべきじゃないかと感じた。

その話をセラピーのお兄さんにしたら、「いや、これ、本当に人に寄るんだよ。本当に三日で帰っちゃう人もいるからね」と言われた。嘘だろ~、そういう人は付きっ切りの看護婦でも雇って家で十分療養出来る環境にある人に違いない。私のように家に病人が居て、帰宅したら通常通りの家事をこなさなきゃならない人間は、なるべく長く入院させてもらった方が楽である。せめて歩行器のお世話にならなくて済むくらいまでの回復を待ってからにしてほしい。

義母が胃がんの手術で入院した時も、身体に管がついたままの状態で退院させられたそうだ。そして付き添いの看護婦が傷口のばんそうこうを取り替えたり、管からの血液や体液の除去したりという作業を一週間くらいしてくれたそうだ。日本だったらこの状態での退院は先ず不可能なのではと思うが、どうだろう?

以前からアメリカの病院はあまり長く患者を入院させないと聞いていたが、本当に冷たいもんだ。もっとも長居をしたらしたで入院費も馬鹿にならないので。

完全回復まで8週間の自宅療養

退院はしたものの、今すぐこれまで通りの生活に戻れるというわけではない。これから長い回復への道が始まる。ユーチューバーで同様の手術をし、術後4週間目くらいから無理をして仕事を初めて、肺炎を起こして死に損なった人がいる。休暇は十分とってあるので、まあ無理せず気長に治そう。なにせこの新しい弁は、少なくとも後25年はもつとのことなので。


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開胸手術体験談その2,集中治療室

手術前の手続きやらなにやらを済ませるために5時半に来いと言われたので、5時半に来院。特に付き添いは必要ないが、手術が終わった時点で連絡できる番号だけ教えてほしいと言われた。手術は3時間程度で終る予定。朝7時に手術は始まった。

目覚め

これまでにも何回か私は全身麻酔を体験しているが、この目覚めはそんな生易しいものと違って非常に暴力的なものだった。私は生まれてこのかたあんな恐ろしい思いをしたことがない。

「起きなさい!起きなさい!」というG先生の声。いきなり喉の中に恐ろしい物体が挿入されたような気がした。私が目が覚める前からその装置は喉にはいっていたのか、眼が覚めたので入れられたのかはわからない。これがコロナ禍初期で噂になった例のベントレーターである。私にはこのベントレーターが私の息を阻止しているような気がして思わず自由の効く手で口から外そうとした。「ダメダメ」と医師の声。私は赤子のようにヤダヤダと首を左右に振ってまたベントレーターを外そうとした。「抑えて」と医師が看護婦に支持する声。「目を開けて!」とG医師。だが私は断固として譲らない。そしてそのまま私は再び眠りについた。ベントレーターとの出会いはこの時だけで、次に目が覚めた時にはすでにそれは口から外されていた。ほ~っと文字通り息をついた。

集中治療室(ICU)

目覚めたのはすでに手術室ではなく集中治療室だった。私の身体からはあらゆる装置と繋がる大小色々な管があちこちから突き出ていた。鼻には酸素吸入器がつけられ、右腕にはIVと繋がる管。どこか痛い?と看護婦さんに聞かれた気がする。このあと24時間は私の記憶はところどころしかない。ただ長時間続けて寝ているということはなかったようで、もうずいぶん長く寝たのではと思って目を開けると、まだ数分しか経っていなかったりして、外の時間の流れと自分の時間とかまるで合っていないという感じがした。

ICUの看護婦さん達はほぼ全員フィリピン人女性だった。彼女たちは非常にてきぱきと動いており、私が何か言おうとするとすぐに解ってくれた。「痛みを我慢しちゃだめよ。我慢すると治りが遅くなるから」とその一人が言った。痛みは回復の兆候を表す。だからどこがどう痛いのかが解らないと、看護婦も医師も適切な判断ができなくなるのである。

この時期にどんな痛みを感じていたのか私はまるで覚えていない。感じていた時は確かに痛いと思ったし看護婦にもうそう伝えたが今はまるで思い出せない。ただ私が嫌だったのは痛みよりも鎮痛剤による副作用だ。私は昔からnarcoticsと呼ばれる強い鎮痛剤は苦手で、これを摂取するとすぐさま血圧が下がって奈落の底に落ちていくような気分になるのだ。ものすごい激痛と戦っている間はこのような劇薬も必要となるが、あのどこまでも限りのない深い穴の中を落ちていく気分はどうしても好きになれない。ああいう鎮痛剤に中毒になって痛みが消えた後でも使い続ける人がいるというのが私にはとても信じられない。

ところで看護婦たちはほとんどフィリピン女性で非常にプロフェッショナルな感じがしたが、orderly(オーダーリー)と呼ばれる看護師補佐達はその質も人種も様々だった。看護師補佐の役割は患者のベッドシーツを取り替えたり、患者の下の世話などをすることだ。手術前には二日目くらいからは隔離病棟に移され、トイレも看護師にささえられながら歩いていけるようになると言われていた。しかし私は最初の二日間まるで動けなかった。それで腸の動きがあった時はすぐにボタンを押して看護師補佐に来てもらう必要があった。

患者にとって下の世話を他人にしてもらうほど屈辱的なことはない。特に女性患者に男性のオーダーリーがついた場合には、この男性の挙動ひとつで患者は不安にもなり安心もする。入れ替わり立ち代わ来たオーダーリーの殆どの人は男性も含めて、とても優しく、私は安心して任せることが出来た。しかし一度だけ来たアフリカ人(アフリカ系アメリカ人ではなくアフリカ出身の移民)の男性にだけは、嫌な気持ちがした。このアフリカ人には私が人間扱いされていないのではないかという気がしたのだ。尻を拭く動作ひとつとっても、気を使ってしてくれているのと、無造作に機械的に人形でも扱うように済ませてしまうのとでは患者の気持ちは大きく変わる。

本来ならば手術した日の翌日には隔離病棟の方へ移されるのが普通だが、私の場合は血圧と脈が安定せず非常に危険な状況が続いたため二日経っても出してもらえなかった。

私は最初からこの手術で三日から五日で退院できるなんて信じていなかったが、この状況でその疑惑は確信に変わった。こんな状況では4日でも5日にでもICUに釘付けにされるに違いない。そうおもうほど絶望的に酷い状態だった。

しかしその数時間後、手の甲にするどい痛みを感じて目を覚ませた。すると私の周りで数人の看護婦たちが古い管を外して新しい管を取り付けるなど忙しそうに働いていた。「ICUから出て隔離病棟に移るのよ」とそのうちの一人が言った。え?本当に?嘘?!

私が横たわっていたベッドを看護婦たちが小走りに押し始めた。良く映画などで病院のシーンで患者視線で天井の模様がすばやく動いているのを見ることがあるが、まさにそんな感じだった。

別の部屋に移されると、別の看護婦が待ち構えていた。この中年看護婦はその名前や訛りからロシア人だと思われた。

ハプニング

新しい部屋で寝ていると、激しい胸騒ぎに襲われて目が覚めた。するとさっきのロシア人看護婦と他数名、見たことのない看護婦たちが慌てた顔をして部屋の中に駆け込んできた。「どうしたの!」と叱るような口調でロシア人看護婦が言う。どうしたも何も私は自分の激しい動機に起こされただけだ、’私に何が起きたのかなんて解るわけないでしょう。などと無駄なことを考えている間も看護チームはてきぱきと忙しく働いた。

肝心の私は胸がどきどきして、その晩一睡もできなかった。


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開胸手術後7日間の入院から退院へ、やっと帰宅しました (開胸手術体験談その1)

先日お話した開胸手術ですが、おかげ様で手術を無事終え数時間の入院を経て先日やっと帰宅しました。色々ご心配をおかけしました。

さて、アメリカ生活40余年、至って健康で手術だの入院だのという経験がなかった私だが、今回の手術は大手術であったこともあり、読者の皆様にアメリカで手術をし入院するということはどのようなことなのか自分の体験談をお話したいと思う。

手術決定までの検査経緯:

結論からお話すると、私が主治医のおなご先生のところで心臓専門医を紹介されてから、すべて検査を終了させ、いざ手術という段取りになるまで六か月近くかかった。そしてその間に行った検査はCTスキャン、MRI、エコー、カーディオなど8つ近くあり、それぞれにかかった費用は保険負担を引いた後でも一回150ドルから400ドルくらいだった。

アメリカには検査専門の医療機関が多くあり、検査の内容によって全く別の施設に行かなければならないことが多い。だから検査が8つあれば8つの予約をそれぞれの施設で取って、その度に出向かなければならない。それにコロナ禍で検査二日前の陰性証明が必要とあって、これも一回$35ドルでの度手間であった。

手術二日前の手続きの際に手術代と入院費の推定額合計$5000ドルを払った。これは保険が下りた後の自腹負担分である。まだそれぞれの医者からの請求書が来ていないので、この金額はさらに高まるものと思われる。

この先はどのようにして開胸手術をするに至ったかという詳細なので、興味のないかたは飛ばし読みしていただいて結構。

以前もお話したように、私の心臓には心雑音の奇形があることが若い頃から解っていた。特に問題を起こすようなことがなければ定期的な健康診断を通じて監視していればいいとずっと言われていた。

しかし、今年初期の健康診断の時に主治医のおなご先生が、コレステロールの値が上がりすぎてる、しかも急激に。これは危険かもしれないから一度心臓専門医で診てもらったほうがいいという。おなご先生と私とは20年来の付き合いである。彼女の言うことはもっともだし、私も最近なんとなく息切れがひどかったり、胸の痛みを感じるなどしていたこともあり、ちゃんと見てもらった方がいいだろうと専門医へ向かった。

専門医の先生は、実はアニメのキャラの名前そのままなのだが、それを言うと個人が特定されてしまうのでここでは控えておこう。アニメ先生の元で、CTスキャン、MRI、エコーなど色々な検査を行ったが、その結果が出る度にアニメ先生の顔が曇った。それでもっとはっきりした結論を出すためにはカメラを飲みこんで内部から様子を見る必要があると言われた。

これは全身麻酔を使った検査なので自分で運転していきてはいけない。きちんと信用できる人に送り迎えを頼めと言われた。こういう時にいつも思うのだが、付き添ってくれる家族や知人が傍にいない人はいったいどうするのだろう?

さて、この最後の検査の結果、アニメ先生は「弁を取り替える必要がありますな」とおっしゃった。動脈の血の流れを制限する弁が老化してほとんど機能を果たしていない状態にあるということだった。このままにしておくと数年以内に発作でぽっくりなんてことになりかねない。しかし現在でこの弁の取り換えは大がかりな手術をしなくても出来るので、そちらの専門医に診てもらいなさいとのことだった。幸いこの新技術手術専門医はアニメ先生の医療院と同じ。そこでアニメ先生の推薦する「砂丘」と同じ発音に聞こえるインド系の砂丘先生と新しく予約を取って。

砂丘先生「いやあ、あなたの場合、私の専門技術では治せません。私はどちらかというと開胸手術など耐えることの出来ない、後先短いご年配の方々を相手にしていますが、あなたは年もまだ若い。この新しい弁であと20年以上生きようというなら、思い切って開胸手術をすることをお薦めします。専門医をご紹介するのでそちらでお話を聞いてみてください」と言われた。

ロサンゼルスダウンタウンにあるG先生のオフィスでの診断は5分となかった。「患者さんには選ぶ権利があります。何歳だからこちらの手術で何歳以上だからこちらという決定的なラインはありません。ただあなたの場合まだ若い。どちらかというと開胸手術の方が適切でしょう。でもどうしても嫌だというなら別のやり方もあります。砂丘先生とは今日会うので相談してみましょう」と言われた。

どちらの手術を受けるにしろ、術前にはさらに4つから5つの検査が必要だそうで、全部終わるまでにはまる一か月はかかるだろうとのことだった。

最初の女子先生との健康診断があってから6か月が経とうとしていた。

さて、これらの検査は無論無料ではない。しかも検査に言って来いと情報をもらう時は実際いくらくらいかかるのか解らない。私は職場を通じて健康保険に入っているが、健康保険との差額は自前である。検査にもよるが、安くて150ドル高いのは400ドルくらいした。それを検査の当日に「はい、○○検査ですね、保険会社の負担が〇〇ドルですから、残高350ドル頂きます」と毎回払わされるのである。

どうして数々の検査を行うのに、こんなに時間がかかるのかと言うと、病院側から保険会社と交渉し、保険会社が払ってやると了承した時のみ検査が可能となるからで、この許可が下りるのに一週間は裕にかかる。

幸いそのうちの三つの検査はひとつの病院で出来るとのことだったので、最初から一遍に保険会社に要請をし、すべての許可が下り次第一日で終わらせるという強行スケジュールを決行した。

一番最後の検査は、これもまた麻酔の必要な検査であったため、一日がかりで病院へ。麻酔から覚めかけて砂丘先生とG先生の声が聞こえた。「いや、これはダメだな。開胸以外ありえないだろう」私は落胆して目を閉じた。

続く


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心臓の開胸手術をすることになりました

このブログを始めた当初は、結構自分の仕事のこととか、出張先の出来事とか書いていたのだが、最近はあまり日常生活の話をしてこなかったので、まあ自分としては一大事なので話しておこうと思う。多分暫くブログエントリーが滞ると思うし。

実は生まれつきあった心臓の奇形が原因で、今度心臓手術をすることになった。いずれはこんな日がくるかもとは思っていたが、タイミング的にあまりいい時期とはいえない。もっとも病気をするのにいい時期なんてあるわけないのだが。

実は父も心臓が悪く色々な手術をしている。私の奇形も生まれつきだから、遺伝なんだろうなと思う。はじめは開胸手術は必要ないと言われていたのだが、色々検査を重ねるうちに、やはり開胸手術が必要だということになった。

手術は来週で、その後三日から五日の入院後、自宅療養にかかる日数は8週間とのこと。私はいちおうフルタイムで仕事をしているので、そんな長い休暇は取れない。仕方ないので最初の四週間は有給、後は身体が許す限り在宅勤務ということになった。もし在宅でも仕事ができないとなると、障害者保険が下りるらしい。

自分の身体のことは私はあまり心配していない。問題なのは残される家族である。うちには私以外にも介護の必要な病人がいる。私が入院中誰が彼の面倒を診るのかが問題。

幸運なことに私は今まで至って健康で、毎年やってる健康診断でも特に問題はなかった。それでアメリカに来て40年以上も経つのに、一度も入院したことがない。日本の妹から両親の入院で色々苦労した話を聞いていたので、付き添いしてくれる家族が居ない私としてはどうしたものかと思案していた。

しかしこちらではかなりの大手術でも家族の付き添いは求められない。ただ送り迎えに誰かが来てくれればそれでいいのだ。ただし、迎えに来る人はタクシーなどでは駄目で、自宅までちゃんとついて行ってくれる家族または知人でなければならない。

何時も思うのだが、家族と一緒に住んでない人や頼れる知人が居ない人はいったいこういう時どうしているのだろう?

入院に当たって寝巻だの下着だのが必要なのだろうかと思ったが、そういうものはすべて病院が用意するとのこと。歯磨きや歯ブラシも使い捨てのものを用意してくれるとかで、私は身ひとつで行けばいいのだそうだ。

コロナ禍のご時世なので、見舞は一度に一人だけという制限があるが、短期の入院であるから見舞いなど期待していない。最初の1~2日は口もきけないらしいから、人が来ても意味がないし。

手術費と入院費は一応前払いしてあるが、アメリカの医療というのは非常に複雑で、後から後から専門医から別々の請求書が来るのが普通。なので今の段階では全部でどのくらいかかるのかちょっと解らない。詳しいことが解ったら、アメリカで手術・入院するということがどんなものかという体験談でも書こうと思う。

今日は手術前の特別な洗剤でシャワーを浴び、明日の朝もシャワーを浴びて炎症を防ぐ。手術は午前7時からだが病院へは5時半までに来いといわれている。

では皆さん、今日はこれで。

Wish me luck.


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母が運転免許証を遂に返納!妹をねぎらいたい

だいぶ以前から私の87歳の実母が運転を諦めないでとても困っているという話はしてきた。下記がその背景。

87歳の実母が車の運転を諦めず苦戦する妹(アップデートあり!) – Scarecrow in the Strawberry Field (biglizards.net)

父の病気で母の運転諦めない件に進展あり – Scarecrow in the Strawberry Field (biglizards.net)

高齢の母が運転を諦めないため、妹は母の車を知人に譲渡し一旦は母の免許証を取り上げたのだが、母は公安へ行き、免許証を紛失したとして再発行をしてもらい、妹も目を盗んで中古車を購入してしまった。幸い妹がそれにいち早く気付き、納車前に購入をキャンセルし前払いしたお金は全額戻り、再び妹は母の免許証を没収した。

そうしているうちに父が心臓の手術をすることになり、父は母が妹とケンカばかりしていて生きている甲斐はないので手術はしないと言い出した。それに慌てた母は運転は諦めるから手術をしてくれと父に懇願。父は安心して手術をし無事’回復に向かった。

しかし父が元気になると、母はまたぞろ悪知恵を働かし、父と妹を出し抜いて再び免許証を再発行してもらい、事情を良く知らない知人をたぶらかして中古車購入し、自宅の車庫に車があると父と妹にばれてしまうため、近所の駐車場を借りる手配すらしてしまったのだ。

しかし妹も負けてはいない。妹は近所中に情報網を張り巡らせていた。母が妹に内緒で車を購入した場合、近所の人たちに自慢話をする可能性も考えて、何かあったら妹に知らせてほしいと事前に頼んでおいたのだ。

それが功をなして近所の一から妹に通達があった。「お宅のお母さん、車を買ったって自慢してたわよ」。怒った妹は実家に直行。母のスマホと預金通帳と保険証を没収した。そして母がすでに中古車を購入していたこと、駐車場を借りていたことをつきとめ、すぐにすべてのキャンセルに奔走した。しかし中古車はすでに名義変更が行われており、ディーラーに引き取ってもらうためには手数料もコミッションも取られ、払った金額の三分の二も返ってこなかった。幸いなことに駐車場の方は空きがなく、母は待機リストに入っていたため、こちらのキャンセルは簡単に出来た。

妹は父と母に、母が免許証を返納するまでは預金通帳もスマホも保険書も返さないと脅迫。父がやっと母を説得。

昨日母から私にラインメッセージが届き、公安に返納に行く予定だったが血圧が上がっていかれなかったと書かれていた。明らかに私への同情を買おうとしている様子に、私は厳しく「仮病使って妹に迷惑をかける暇があったら、さっさと返納してこい!」という旨を伝えた(もっとやさしい言いかたでしたよ)

すると本日になって妹から「やりました!」と返納が見事に成功した旨が伝えられてきた。

やっと!なんという長い道のりだったのだろうか。

私は外国に居て妹には何一つ手伝いをすることができなかったのが悔やまれる。妹はこの一連の心労でなんともともと痩せていたのに160センチの身長で体重が40キロを切ってしまったという。

実はこの間、私は妹と父とは色々連絡を取り合っていたが、母のラインは無視していた。それというのも、母はもう運転はしないと私に嘘をつきながら、その陰で二回も車購入を企てたからである。いくら実母とはいえ、ここまで平然と嘘をつかれては、まともに話をする気になれなかったのだ。

ともかくこれで一安心。

溜息がでる。


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インフレの影響を感じる日常生活

先日の金曜日、久しぶりに主人と一緒に近所のカフェのハッピーアワーに行った。ハッピーアワーというのはバーやレストランなどが、仕事帰りの会社員を対象に、ちょっと軽くお酒を飲んでおつまみが食べられるように、お酒やおつまみの値段をその時間帯だけ割安にすることをいう。少食な人間なら割安のビールを飲んでちょっとしたおつまみを食べるだけでも十分夕飯になるので、私は出張してるときなどはホテル近くの歩いていけるパブなどでよく利用した。

主人と私が行きつけのカフェは、ハッピーアワーに割安のハンバーガー、フレンチフライ、ビールのセットで10ドル程度というのがあるので、それを狙って時々行っていたのだ。ところが金曜日の夜にバーガーを食べていたら、馴染みのバーテン嬢が「もうこれでここへ来るのは最後?」と聞く。「え?なんで、また来るよ」と答えると、「日曜日で閉店するのよ、表のサイン見なかった?」という。なんでもバーテン嬢も二週間前にその話をきいたばっかりで、突然のことに従業員は皆ショックを受けているという。

確かにロックダウンによって一年半も休店を無理強いされた挙句、やっと再開店出来たとおもったらこのインフレ。お客さんたちも食べ物の値上がりにひーひー言っており、なかなかレストランになど足を運べない。それで結局店の経営は傾き、店は売りに出されたようだ。

バイデン政権になって以来、何もかも値段が上がり、特にガソリンの高騰は我々庶民にとって非常な痛手である。最近はスーパーに言ってもたった二人分の食料を一週間分くらい買うだけで日本円で一万円以内で済むことなどない。それでも昔みたいにレジ袋をいくつも買ってるわけではないのだ。家族の多い家庭などいったいどうしているのだろうか?

閉店といえば、私が30年近く通っていた運動ジムも先日閉まってしまった。ここも先のレストランと同じようにロックダウン中一年以上も閉鎖させられており、再開した後も経営不振で破産宣告をしていたことは聞いていたが、いよいよ閉店すると知って悲しくなった。我々はこのジムの建物が建設中に高い入会金を払って入会した。しかし早期会員だったおかげで、その時の会費が全く値上げされずに30年近くも同じ4500円相当だった、しかも夫婦二人で!実は主人も私も年を取り、ジムに通う体力もなくなってきたことでもあり、そろそろやめようかという話をしているところだったのだが、結局こちらから辞めなくても、辞めざる負えない状況となってしまった。思えば我々はこのジムの創設ともに会員となり、このジムの閉店まで見届けたということになる。

主人はもうとっくの昔に隠居状態で、私もそろそろ引退を考えているが、今のようなインフレでは年金だけで暮らしていくなど先ず無理だろう。となると、ともかく共和党の大統領が復活して景気が良くなるまでは、なんとか仕事にしがみついて頑張る他はないのかもしれない。本当に不況になるにもタイミングが悪すぎる。

というわけでインフレの波をもろにかぶっている苺畑夫婦であった。


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本の整理で見つけた祖父の遺品

実は私は67歳になって年金がもらえるようになったら、今の仕事は辞めて、この家を売り、どっか小さいマンションでも購入して引っ越したいと思っている。しかしそうするためには、今の家にある多々のものを処分する必要がある。それで数か月前から五年計画で家の中のものをどんどん処分し始めた。

家の整理をするとき、いったいどこから手を付けてよいものか解らなくなるのが普通。整理整頓の動画をユーチューブで色々観ていて、どこか一か所だけ片付けようと決めて、そこから始めるというやり方と、カテゴリーを決めてそこから整理していくという方法の二つがあることが解った。

完全にすべて処分してしまうつもりなら第一のやり方が普通だが、実際まだ住んでいる家の整理だと第二の所謂(いわゆる)コンマリ式が適切ではないかなと思うようになった。

それで最初に手掛けたのは衣類。これは結構うまく行って、ほとんどいらない服はなくなった。おかげで長年使っていた取っ手がすべて取れていた箪笥を一つ処分できたし、洋服用クロゼットもひとつ空になった。

次に手掛けたのが本。しかしこれには手こずっている。

うちは主人も私も読書家だったのでやたら本が多い。今は二人とも目が悪くて長い間読書は無理。それにもう読んだ昔の本をいつまでも持っていてもしょうがない。そろそろ古本屋にでも引き取ってもらって若い人たちに読んでもらった方が本にとってもよいことだろう。とはいうものの、これは要らない、これは要ると整理してる間に懐かしくなって本に読むふけってしまうことも度々で、一向にはかどらない。

そんななかで見つけたのが野村胡堂著の銭形平次。これは昭和37年に発行された野村胡堂作品集の一冊。かなり古くてカバーの箱がボロボロ。触るとどんどん粉になってしまうほど痛んでいる。ただ中身の本は表紙も頑丈で、ページの紙は黄ばんではいるもののしっかりしている。文字は旧仮名遣い。昭和37年刊行なのに何故旧仮名遣いなのかというと、原作の初刊は昭和7年だったからだ。

実はこの本は亡き父方の祖父の遺品である。

私の父は祖父の7人目になる末っ子である。長男との年の差は親子ほどもあり、子供のしつけには厳しかった祖父も父とそのすぐ上の伯父の頃には、すっかりしつけに興味がなくなったようで、二人はかなり甘やかされて育ったと父からきいたことがある。父とすぐ上の伯父が物心ついたころには兄たちは皆大学に行っており家にはいなかった。だから父は、7人兄弟とはいうものの二歳違いの兄と、年の離れた姉と一緒に育ち、上の兄たちとは盆と正月に顔を合わせる程度だったという。

7人の子どもたちにより、それぞれ2~3人づつの孫を授かった祖父にとって、私は何十人目かの孫であり、名前も顔も一致しない存在だった。父は大学進学で東京に出てしまい、以後祖父とは一緒に住んでいなかった。なので私が祖父と会うのはお盆や法事くらいであった。しかし私は祖父の家が好きだった。

父の元々の実家は戦争中空襲で全焼したため、祖父は後に大きな古い武家屋敷を買った。地元はすべて焼野原になったのに、焼け残った家があったようである。この家はいくつもの部屋が繋がっていたが、昔の家特有の廊下から入れるようになっていた。祖父は正面玄関に面している大きな部屋をオフィスに改造し、そこで法律事務所を営んでいた。

私はこの祖父のオフィスがすごく好きだった。父が実家に帰る度、私は滞在中しょっちゅう祖父のオフィスに入り込み、祖父の本を漁るのが習慣になっていた。オフィスは古い昭和初期の内装で、大きなビクトリアン風の椅子があった。机の上には祖父が趣味で作った瓶のなかの模型の船が飾られていた。そして壁に取り付けられた本棚には法律関係の本がびっしりと詰まっていた。しかしその中に源氏物語集や野村胡堂の本も混じっていた。

それで私は当時人気テレビ番組で馴染みのあった銭形平次捕り物帖を見つけ祖父の大きな椅子にちょこんと座って読み始めたのである。

実は原作はテレビ番組と違って内容は非常に大人向けで、小学校4年生の私には、かなりきわどい描写もあった。第一旧仮名遣いという手強い相手。しかし読書好きだった私は必死で読んだ。

そんな折、祖父がオフィスに入ってきた。祖父は最初大きな椅子に埋もれていた私に気付かず、趣味の模型をいじり始めた、しかし私の気配に気づいた祖父は私を見て驚いた様子だった。

「や、そんなところにいたのか?お前はどっちの子じゃ?」

「(父)の娘です」

「おう、そうか、〇子か」

「違います。カカシです」

「おう、そうかカラシか。」

なんて会話をしたような気がする。覚えてはいないが。ともかく祖父は私の名前など憶えていなかった。しかし祖父は私が持っていた本をみて

「それを読んでいたのか?」

と聞いた。勝手に本棚から取り出して読んだりして叱られるかと思ったが、特に怒っている様子でもなかった。

「はい」

「面白いか?」

「はい」

「よし、では持って行きなさい。あげるから」

「え?本当に?いいの、、いいんですか?」

「いいよ。持っておいき。でも私は仕事するからもう出ていきなさい」

「ハイ!ありがとう、お爺さん」

無論はっきり覚えているわけではないが、祖父は気前よく私にその本をくれた。後で考えてこの本は作品集の一部だったのだから、一冊欠けるのは嫌ではなかったのだろうか?それともただ私を追い出したいだけだったとか。まあ今となっては知る由もないが。

祖父はその後二年ほどして亡くなった。母が電話をとって、「あなた、お父様が亡くなったそうです」と受話器を父に渡した瞬間を今も覚えている。享年91歳だった。

私の名前すら憶えていなかった祖父だが、私にはちゃんと遺産を残してくれており、それは私の学費となった。

そして祖父からもらったこの一冊が私が持つ唯一の祖父の遺品となったのである。

やっぱりこれは棚に戻しておこう。

さて、お片付け、お片付け。


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