老後は日本で過ごすべきかな

先日Twitter仲間のBlahさんのスペースに参加させてもらった時、私が自分のことを「わたくし」と言うことを2~3人の方からご指摘を受けた。実はワタクシは自分でそういう言葉使いをしているという自覚がなかった。

「カカシさんて、いつも自分のこと『ワタクシ』って言うんですか?」

と自分に聞いてみた。ん?え?そうだったかしらん?と考えてみて、はっとした。私は普段日本語を話していない!

そうなのだ、ここはアメリカだし、家族は日本語が話せないし、職場にも日本人は一人もいない。日本語でおしゃべりできる日本人の女友達も近所にいない。せいぜい実家の母と一か月に一度電話で話す程度。つまり、私は家でも職場でも日常的に日本語を話す機会がほとんどないのだ。だから自分が日本語を話す時にどんな癖があるかなんて自分でも全然知らなかったというわけ。

ところで、普通アメリカ在住の日本人には日本人の友達が結構いるものだ。人に寄ってはアメリカ住まいなのに日本人以外とは付き合いが無いという人さえいる。それがどうして私には日本人の友達がいないのかというと、私の友達はみんな日本に帰ってしまったからなのだ。

実はつい2~3日前も、ハワイに住んでいた友人がアメリカ人の旦那さんと一緒に日本へ移住した。そのまま老後は日本で過ごすことにしたそうだ。これでアメリカ在住の私の友人は全員日本に帰ってしまったことになる。もっとも彼女は住んでた州が違うので、そんなに頻繁に会っていたわけではないが。彼女曰く、ハワイの物価は高すぎて引退者にはキツイ。物価が安くて治安もよく暮らしやすい日本に帰ることにしたのだそうだ。アメリカ人の旦那さんも自分の出身地の気候と似ている日本の地方が気に入っているとのこと。

確かに最近のアメリカの物価高にはうんざりする。私も引退間近だし、このままカリフォルニアで暮らしていけるのかどうか心配である。そういえばニューヨークに住む60代の女性ユーチューバーも引退したら日本に帰ると言っていた。(アメリカに定年はないが、大抵の人は65歳で引退する。)その人の旦那さんは日本人だが旦那さんはNYが好きなので熟年別居になるらしい。ちょっと前までは、そこまでして日本に帰りたいかなあと他人事のように思っていたけれど、今となっては身につまされる思いである。

私がアメリカに移住した1980年代は日本の景気がすこぶるよく、日系企業がアメリカにどんどん進出している時代だった。だから南カリフォルニアのガーディナやトーレンスなど日系企業で働く駐在員やその家族、地元雇用の従業員、学生などなど日本人がわんさか居たのだ。ガーディナあたりに住んでいれば、英語なんて話せなくてもなんでも事足りた。なにせレストランやスーパーだけでなく、銀行でも不動産屋でも日本語が通じるし、医者でも弁護士も会計士も全員日本人。殿方用のバーやキャバレーも普通にあった。レストランもただの日本食ではなく、寿司屋はもちろん、うどん屋、居酒屋、カレー専門店などなど、まるで日本みたいにバラエティーに富んでいた。あそこはまるで日本だった!

格いう私も当時は日系企業に勤め、友達も日本人がほとんどで、職場でも日常生活でも日本語で話す方が多かった。その事情が変わったのが1990年代初期、日本のバブル崩壊である。当時私はとある証券会社に勤めていたが、そこへは毎日のようにロサンゼルスを撤退することになったという日本企業のお得意さんたちからの手紙が来ており、じきじきにさよならの挨拶に来る人もいた。就労ビサだけで永住権の無かった友達がこの時ごっそり帰国した。仲良くしていた友達の日本人夫婦もカリフォルニアを見限って他所の州に越してしまい、その後音信不通である。

この頃私も個人的に色々とごたごたしており、実家の母からも「帰っておいで」と何度もいわれていた。今考えると、あの時帰っていたら人生が随分変わっていただろうなと思う。でも当時は日本へ帰るなんて考えもしなかった。大変でもアメリカでずっと暮らしていたいと思っていたから。

でも最近だいぶ気持ちが変わってきた。それというのもバイデン政権になって本当にアメリカは暮らしにくくなったのだ。特に民主党が牛耳るカリフォルニアのような州は物価も高いしかなり大変。年金だけでひいこらいいながら頑張るより、実家の家を引き継いで静かに老後を過ごすのも悪くないかも(家賃もいらないし)な~んて現金なことを考えている今日この頃である。


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雨の金曜日、もうすぐ春ですね

納税申告終わった。

アメリカでは4月15日が納税申告の締切日。

毎年私は一月末か二月中旬くらいまでには申告を済ませてしまうのだが、今年から主人が仕事をやめて隠居生活になったこともあり、例年とは違うフォームを使うということでかなり焦っていて、すごく不安だった。

実は私は家計に関することには結婚以来全く関与してこなかった。お恥かしい話なのだが、私にはそういうことは分からないと思い込んでいて、なにもかも主人任せだった。まあそういう家庭はアメリカでは珍しくない。家計の財布の口を主婦が握っているの普通の日本と比べて、アメリカの女性は意外と家庭内での権力はない。

しかし数年前から主人は視覚がかなり弱まり細かい文字を読むことは無理になった。コンピュータースクリーンも長く見ていることもできないので、こういう面倒くさい仕事はすべて私がすることになったのだ。そして、もう今年で4年目なので主人は完全にノータッチ。「任せるよ」と言ったまま手伝ってくれそうにない。書類はすべて1月中に整っていたので、やろうと思えばいつでもやれたのだが、なんか億劫というかなんというか、ぎりぎりまで後回しにしてしまった。しかし何かあった時のためにも、三月中には済ませてしまわねばと本日本気で取り組んだというわけ。

まあ今は便利なソフトがあるので、言われるままにフォームを埋めていけばいいだけなのは助かる。昔は紙のフォームにいちいち記入して大きな封筒に入れて税務署に郵送していた。私が引き継ぐ前の年に、主人が言い張ってすべてを印字して署名して税務署に郵送したが、何週間、何か月経っても音沙汰がない。税務署は電話に出ないので悪名高いため、問い合わせもできない。結局オンラインで申請をしなおしたところ、数日後にリファンド(返金)が届いたという経験がある。というわけなので今はオンライン専門だ。

しかし自宅が職場だった主人が引退したことで、光熱費やガソリン代が控除対象から外れたのは痛い。収入はゼロでも主人の引退は黙っていて、そのまま無収入でも仕事は続けてる体を装おうかなとは思ったのだが、脱税の罪を着せられるのは嫌なので、やっぱり辞めた。

来年は私も引退してるかもしれないな、そしたらまた新しいフォームを使うのかな?本当に面倒くさいなあ。

警察に通報されたお爺ちゃん

うちのお爺ちゃんは認知症ではあるが、アルツハイマーのひとのように徘徊癖などはない。ただ土地勘はかなり狂っているので親しみのある道でも迷ってしまうことはある。だが行きつけのスタバくらいまでは行って帰ってくるくらいは出来ている。店のなかにはいってコーヒーを注文するなどは無理だが。

最近は昼間だけ面倒を診てくれるデイケアセンターに通うようになっていた。ただ一人で家にいても、特に危険なことをするわけではないし、足腰はしっかりしているので転んでけがをするといった心配もない。それで、デイケアの時間と外れ、どうしても用があって誰もお爺ちゃんの世話ができない時は、数時間お爺ちゃんを一人にさせることはたまにあった。

しかし昨日事件は起きてしまった。

昨日はどうしてもお爺ちゃんを一人にして出かけなければならない用事が出来てしまった。連れていけるところには連れて行っているが、どうしてもだめな場合もある。それで私はお昼用にサンドイッチや果物を用意してテーブルの上に置いておいた。テレビもつけっぱなしにしていれば何かやってるから大丈夫だろうと思って家を出た。

数時間後、帰宅途中に携帯に電話がはいった。出るとお隣の奥さんからだった。「お宅のお爺ちゃん、外のポーチでずっと座ったままだけど大丈夫かしら?」あ、そうですか、いや、いま帰る途中なんで、もうすぐ着きますし。どうもすいません。しかし道は混雑しており事故などもあり、結局すぐそこまで来ていながら帰宅したのはその電話を切った30分後だった。

帰るとお爺ちゃんが正面玄関の前でうろうろしていた。近づいて顔を見ると泣いていたような顔つきだった。すぐに家に入れ、寒かったのでホットチョコレートを用意して飲ませた。夕飯の支度をしようとエプロンを付けた時、玄関からノックの音が。

出ると二人の警察官がいた。

「お宅の家の前で、困惑した男性が歩き回っているという通報があったのですが」あ、うちのお爺ちゃんですね。もう大丈夫です。「お話させてもらえますか?」え?なんか信用されてない?お爺ちゃんを呼ぶと口の周りにチョコレートのついたお爺ちゃんが玄関先に現れる。

「お爺ちゃん大丈夫?どっか具合悪いの?病院行く?」と警察官は親切そうに私を無視してお爺ちゃんに聞いた。お爺ちゃんは憤慨した様子で「わしは大丈夫じゃ。何を騒いでおる」と答えた。警官らはその後もお爺ちゃんに話しかけ、何か自分らに出来ることはないかと聞いていた。しかしお爺ちゃんはこの時とばかりにふんぞり返って「大丈夫じゃ」を繰り返していた。

後でこの話をツイッターでしたら、ネグレクトだと思われたのかもと言われてはっとした。笑いごとでは済まされない。私は障害者の老人を放ったらかしで外出した無責任な家族だと思われてしまうということか?

では今後は一人で散歩とかにも行かせられないということなのだろうか?

色々考えさせられる一日であった。


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お爺ちゃん日記①(2020年)

先日(2023年1月)セラピストのお姉さんと話をしていて、お爺ちゃんに関する介護日記のようなものを書いてますかと聞かれ、いや、そんなものは付けてないけど、と考えていたら、あ、そうだった私はそのつもりはなかったが、三年前からツイッターにお爺ちゃんについてちょこちょこ書いていたことを思い出した。これは立派な日記と言えるのでは?

残念ながら私は過去のツイートを時々まとめて消していたので、すこし抜けているところもあるのだが、探せる限りここに書き写しておくことにした。

その前に先ず最初にお断りしておくことがある。これらのツイートは純粋なる日記ではなく、起きたことをそのまま忠実に書いたわけではない。ツイッターの短い文字数規制に合わせて省略したり、効果のために多少脚色があったりする。それでこちらのブログに書き移す際に、なるべく当時の脚色は削除して真実に近い形に書き換えた。なのでオリジナルのツイッターとは多少異なるところもある。

私がお爺ちゃんの面倒を診るようになったのは2019年の終わりごろからである。面倒をみるといっても、その時はまだ身の回りの世話が必要というほどではなく、病院まで検査に行く送り迎えなどをしていた程度だ。お爺ちゃんはまだ運転できたのだが、一人で病院に行くのが心細いということと、医者に何を言われているのかよく理解できていないらしいことが解ったので、私が付いて行くようになっていたのだ。

それとお爺ちゃんは、だんだんとお金の管理が一人では出来なくなってきていた。それですべて私が引き継ぐことにした。するとお爺ちゃんは肩の荷がおりたかのように安堵のため息をついた。彼自身自分ではもう無理だということが理解できていたのだ。

お爺ちゃんはもともと頭のいい人だった。脳の検査も誰に言われたわけでもなく、自分から何かおかしいとおもって専門医に診てもらったことが始まりだった。だからだんだんと自分の能力が衰えていくことも自覚しており、他人に任せることにまるで抵抗を見せなかった。

2020年2月、お爺ちゃんは2019年から続いていた数々の脳検査を経て、最後のMRI検査を受けることになった。お爺ちゃんは極度の閉所恐怖症で普通のMRIを何度か試みたがその度にパニックに陥り検査室から出てきてしまっていた。それで最後の手段として全身麻酔をかけ意識のない間に検査をすることになった。

検査の結果、脳外科医はお爺ちゃんには明らかな脳損傷があると言った。まだ認知検査をしないと確かなことは言えないが、多分お爺ちゃんの病気はPrimary Progressive Aphasia原発性進行性失語症であろうと言われた。これは五万人に一人なるかならないかという珍しい脳の病気で認知症の一種である。ただ一般の老人性認知症とは違って知能の衰えは急速には起きないが、言葉を話す能力と他人の言っていることを理解する能力がどんどん衰えていく病気だと言われた。

医師はお爺ちゃんに認知検査をするようにと専門家を紹介してくれた。

しかしこの頃中国の武漢研究所で漏れた新型コロナが中国で猛威を振るっていた。アメリカではまだことの重大さが理解されておらず、2020年の3月初旬はまだまだアメリカは通常運転だった。お爺ちゃんは認知検査を受ける予定で予約も取っていた。

2020年3月20日、カリフォルニアのギャブン・ニューサム知事は前州民にシェルターインプレースという自宅謹慎命令を下した。これによって必要不可欠な用のない限り人々は自宅にこもっていなければならなくなった。そして病院も生きるか死ぬかの病気でない医療はすべて延期されてしまった。そして当然お爺ちゃんの認知検査も数か月の延期を余儀なくされたのだ。

2020年6月ごろ、やっとすこしづつ病院が一般の病気を扱うようになり、お爺ちゃんの認知検査が行われ、医師の当初の診断通り、お爺ちゃんはやはり原発性進行性失語症(PPA)を病んでいることが正式に診断された。

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10/3/20

お爺ちゃんは自分が忘れないようにと指輪物語みたいに暗号的なヒントを子孫に残しておいたのだけど、アガサクリスティーじゃないけど子孫には全然理解できてない。ミスマープル、出番ですよ!’

10/4/20

うちのお爺ちゃんはまだ自分のことは自分で出来るので大丈夫です。まだしばらくはこんな調子が続くらしいです。わかっているうちに色々聞いておかないと後で大変。やっと色々なサイトのユーザーネームを解読したので、パスワードをことごとく変えて今は何とかなりそう。

10/25/20

お爺ちゃん「つまみのナッツがない。これ食ってええか?」それ私のお煎餅だよ。「ナッツの味がしない」だってお煎餅だもの。「ナッツ食べたい」隔離中だから買い物は来週までダメなの。「ナッツ~~~!」もしもし義妹さん、お爺ちゃんがねえ、、

10/22/20

お爺ちゃん、今日は何の日か知ってる?「知らない」お爺ちゃんの誕生日だよ。「え?そうか?じゃあサンドマンタウニーの20年物を買ってきてくれ」そういうことだけは覚えてるんか、爺さんは!

10/31/20

あれ、ビニール袋切れてる、お爺ちゃん「わしが買ってきてやる」いいよ、危ないから、「大丈夫、まだまだ運転できるぞ」ダメだってば、、、20分後。「おいこの車はどうやってエンジンかけるんじゃ?」押しボタン式なんですけど、、ホット胸を撫でおろす。

11/17/20

自分でサンドイッチ作ったりコーヒー淹れたりする手順を忘れないように、段階ごとの写真を撮って見えるところに貼っておくとよいと言われたので、お爺ちゃんがサンドを作ってる様子を写真に撮ってたら、いちいちポーズをとるお爺ちゃん。これは記念撮影ではありません!

11/19/20

今日のリハビリは一人で行くと張り切って出かけたお爺ちゃん。何かあったら困るからと携帯をもたせた。15分後セラピストさんから電話。え?おじいちゃん15分前に出ましたけど、「いえ居らしてるんですが、カカシさんからの電話が来るまでリハビリできないって、、」違うってばお爺ちゃん!

11/14/20

お爺ちゃん「カカシ、あれはどこじゃ」あれって何?「ほれ、それじゃよ」だからほれそれって何?すかさず何かを履く素振りのお爺ちゃん、ああ靴下?、「そうそう靴下」言葉が思いつかない時はそぶりで示してごらんとセラピストに言われている失語症のお爺ちゃん。今日も朝からパントマイムで始まる。

11/16/20

来年生きてないかもしれないお爺ちゃんに今年はターキーはキャンセルだなんて言えないよ。

11/29/20

先日お爺ちゃんのセラピーについて行った時に、若いセラピストさんにiPhone11の使い方を色々教えてもらってるうちにお爺ちゃんのセラピーの時間をだいぶ使ってしまった!しかしお爺ちゃんは携帯に写ってる自分の写真をみて大興奮。「これわしじゃよ!」そういう話をしてるんじゃないの!

11/24/20

クリスマス休暇はワインカントリーに行ってワインバーでも梯子しようと思っていたけど、どこも開いてないので行く意味なし。ホテルのポイントが無駄に貯まっているよ。今年はいかえないんだよってお爺ちゃんに説明しているのだが、全く納得してない様子。

12/2/20

セラピーの日はテンションが上がるお爺ちゃん。今日は一緒に行ってあげると言ったら、早く朝ごはん食べないと遅れちゃうと7時ごろから張り切っている。まだ時間はたっぷりあるのだが、時間の感覚ゼロのお爺ちゃんである。

(子供にかえっちゃうんですね)そうですね。でも子供には未来があるけどお爺ちゃんには進歩がない。このままずっと退化していくんですよね。それが悲しいです。

12/4/20

おはようございます。こちらは金曜日の朝でございます。ロサンゼルス地域の気温はただいま摂氏10度。晴天。今から旗を掲げてまいります。皆さま本日もよい一日を。今朝はお爺ちゃんが一人でコーヒーを淹れられたよ。

😊

しかしこのコーヒー、薄い!

12/5/20

(ツイッターで)お爺ちゃんに関する話題が結構人気があるのが意外です。

12/6/20

数週間前携帯のプロバイダを変更した際はじめてスマホを購入。使い勝手がわからずあまり活用していなかったが、昨日はアマゾンへの返品、出先でのGPS使用、日本の友達とライン会話、撮った写真を人にメールなどなど一人でちゃんとやれたぞ(と自己満足)。しかしまだ日本語の打ち方が解らない。

確か外国語を加えることはできるはずなんです。まだ調べてませんが。今まで会社のスマホは使ってましたが機種はかなり旧式。今回iPhone11に買い替えました!お爺ちゃんは私の古いガラケーを目覚まし代わりに使ってます。電話しても音がなると見とれてしまうだけで出ないからあまり意味がない、、、

12/5/20

お爺ちゃんには時間の感覚というものがないのだが、なぜか決まった時間になるとお腹がすく。腹時計だけはきちんと機能しているようだ。

12/11/20

今日のお爺ちゃんはいそいそしているので、なんだろうと思ったら、買い物は金曜日の給料日までダメだよといっておいたのを覚えていたらしい。日付も時間もわかってないはずなんだが、どうしてと思ったら私がカレンダーに$マークを付けたのを解読したらしい。侮れない爺さんだ。

12/18/20

クリスマスライトを飾ろうと思ったら、夏にペンキを塗り替えた時にペンキ屋さんが杭をすべて外してしまっていたことを発見。杭を打ち直す必要があるのだが、私も最近脚にガタが来てるので梯子に上るとか危なくて出来ない。お爺ちゃんがやる気満々なんだけど出来るわけないでしょうが、やめてよもう!

12/23/20

お爺ちゃん、クリスマスはハムだよ。「そうか。クリスマスって何日だ?」クリスマスは25日だよ。「今日はクリスマスか?」違うよ明後日だよ。「じゃあハムは何時食うんじゃ?」いや、だからあ~。

12/24/20

そうだよねえ。何度繰り返しても聞こえてないお爺ちゃん、最後に怒鳴ると「怒鳴らんでも聞こえとる!わしは難聴じゃない!」とか言われるしね。いや聞こえてても分かってないでしょ、あんたは、と言いたくなる自分を抑える。

(2/1/23 追記)ここでお爺ちゃんの難聴についてひとつ書き足しておこう。

実はお爺ちゃんの様子がおかしいと思い始めたのは2019年の中頃だと記憶している。お爺ちゃんと話をしていると、こちらが何か言ってもすぐ解らないことが多くなった。それで「やだあ、お爺ちゃん難聴じゃないの、そろそろ補聴器必要かもよ」などというとお爺ちゃんは怒って「周りの音がうるさくて聞こえんのじゃ、わしの耳は悪くない」と言い訳していた。この時私たちは本当に彼の耳が悪くなっていると思っていた。

ところがある時、彼の行きつけの美容師さんと話をすることがあり、「お爺ちゃん大丈夫?なんか変じゃない?」と言われたのだ。「あ、最近耳が遠くて」と言うと、「いや、耳じゃなくて、なんかおかしいわよ。アタシの言ってることが理解できてないみたい。お医者さんに診てもらった方がいいんじゃないの?」と美容師さん。

普段から多くのお客さんを相手にしている美容師さんには、お爺ちゃんの様子が変だということが察知できたようだ。実は私も何かおかしいとは薄々感づいてはいたのだが、もう年だから、誰でも物忘れはするし、などとしっかり取り合って来なかったのが、美容師さんの言葉で決定的になった気がした。

12/27/20

お爺ちゃん和菓子買ってきたよ。「なんじゃこの過剰包装は!」さっき携帯で包装要らないよねって聞いたら絶対包装しろっていったじゃん。「そんなことは言っとらん。すぐ食べるのに無駄じゃ」いやだからあんたがきれいに包装してなきゃやだって駄々こねたんじゃないの。いつもこれの繰り返し。

いつもいつも、言った言わないででケンカです。私もいい加減慣れそうなもんなんですが。


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トイレが詰まって下水大工事に発展

大丈夫、汚い話はしません。

苺畑家では二年前の夏に風呂場のリモデルをした。古い家なのであちこちガタがきているが、得に風呂場の状態はひどかった。それでコロナ禍で在宅勤務が増えていたのを利用して風呂場全体の改築を行ったのである。その時に無論古いトイレも付け替え、下水パイプも新しいものに取り換えた。

便器のモデルは業者が勝手に選んで備え付けた。日本のようにスマート便器などないアメリカなので、私は便器など、どれも同じだろうと思って特に気を付けていなかった。ところがこれが大間違いだった。

リモデルをした業者は一番安物の便器を付けたらしく、座り心地もわるいし、便座を止めているネジがプラスチックですぐに緩くなり、座る度に便座が動く。また水を流すのがレバーではない大と小に分けた押しボタン式なのだが、小の方を推しても水圧が低すぎてきちんと流れない。結局大の方を推すか小を何度かおすかするので水は全く節約にならなかった。

しかしそんなことは大した問題ではない。トイレを新しくして一年半後、トイレが詰まった。昔のトイレは10年間使ったが一度も詰まったことはなかった。リモデルをした業者に連絡したが、すぐに連絡が付かなかった。トイレは何日も待っているわけにはいかないので近所の別の業者に来てもらった。

もし詰まっているのが便器の中とすぐ下のパイプのあたりだけならば、汚物を押し出せばすむことなので1万円程度でなおしてくれるという。パイプは取り替えたばかりだし、多分これは便器のせいだろうと思い、直してもらった。きちんと流れるようになったので満足していたら、半年後にまた詰まった。前に直してくれた業者をまた呼んで同じ措置を取ってもらったのだが、もしもう一度詰まったら、便器を取り替えた方がいいと言われた。そしたら案の定3か月もしないうちにまた詰まった。同じ業者が来てくれたが、一応、応急措置として掃除はするが、家の中と下のパイプは正常でどこも悪くない。もし便器そのものに問題があるのではないとしたら、家から外の下水道に繋がるパイプとの間で何か問題がおきている可能性があるという。便器は挿げ替えた方がいいとしても、その前にパイプの中を調べた方がいいと言われた。それで一応見積もりを書いてもらい、直す用意ができたら連絡してほしいと言われてその時は終わった。

トイレの買い替えはかなりお金がかかるので、どうしようかなあなどと思っている間におとといの夜、また詰まってしまった。ああ、これはついに駄目だなと覚悟を決めて業者を呼んだ。

家の下や外の状態を色々調べていた業者は、どうもパイプの位置がおかしいという。私も見せてもらったが家から外の下水道につながるはずのパイプが家の方を向いているのである。これでは水が外へ流れず家の方に逆流してしまう。

パイプの中にカメラを通して、私にも中を見せてくれたが、確かにパイプの中に水が貯まったままである。これでは詰まるのは当然だ。

「いったいどこの業者ですか、こんなひどい付け方するなんて」と呆れられてしまった。

「直せますか?」

「大丈夫ですよ。穴を掘ってパイプをきちんとつけ直さなければなりませんが。その後で詰まってる汚物も押し流す必要があります。」とひとつひとつを計算機で叩いていく業者のお兄さん。

「なんか大工事ですね、一日で終わります?」

「まあ、まだ午前中ですから、なんとか夕方までには」

「おいくらになるんでしょう?」

「そうですねえ、、、これくらい」

とみせてくれた数字を見て卒倒しそうになった。

  • 便器取り換え料、750ドル。
  • カメラでの検査料、150ドル。
  • パイプ挿げ替え料、1750ドル。
  • パイプ清掃料、350ドル
  • 合計3000ドル

ひょえ~、血圧が200ぐらいに上がりそう!

「前の業者に行って、お金返してもらうべきですね。これは本当酷いんで」

あ~あ、私ってどうしてこう業者選びが下手なんだろう。去年の夏に雇った庭師のアミーゴには散々お金を払った末、仕事途中で逃げられてしまったし、リモデルの業者の配管工は信じられないほどいい加減な仕事をするし。

この時期にこんな出費。あ~、脱力。

しかし下水というものは、問題があるのに放っておくというわけにはいかない。何しろトイレにも行かず風呂にも入らない生活などできるはずがないのだから。

ま、かなりの出費をしてしまったが、それでもこれで下水問題が解決したのであれば一安心。今後何年もこの問題で悩むことはなくなる。この家を売ることになっても水回りだけは大丈夫と太鼓判を押せることにもなるし。

家を買う人は本当に水回りの状況をきちんと調べた方がいいですよ。


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貸金庫で眠っていたアクセサリーに目を覚まされた自分

先日、何十年と口座を持っている銀行が引っ越しするので、貸金庫の中身を引き取ってくれという通知が来た。貸金庫は主人が「重要な書類」をしまっておくために借りたものだが、あまりにも昔に借りたので中に何が入っているのかさえ思い出せないくらいだった。ただ私はパスポートや家の権利書やソーシャルセキュリティーカード(アメリカ版マイナンバー)のオリジナルのカードなどを、すぐとれるようにと他のものの上に乗せて入れたり出したりしていた。

しかし全部引き取ってくれということになったので、私は段ボール箱を持って銀行に参上。中身を調べている暇はないのですべて箱に入れて持ち帰った。どうしてこんなに大きな箱を借りていたのかというと、中には私の宝石類が沢山入っていたからだ。

実はもう30年以上も前になるが、私が当時住んでいたマンションに泥棒が入り、私が持っていた宝石がごっそり盗まれたことがあった。それで主人は何か価値のありそうな宝石はすぐ金庫にしまっておけと命令したのだ。ところが何かあるごとに金庫に宝石を取りに行くのも面倒になり、おしゃれをして出かける場所もだんだんとなくなってきていたため、金庫に預けた宝石類は日の目をみないまま長い年月が経ってしまった。

それで先日金庫の中身を全部家に持ち帰って、書類以外の宝石類を改めて吟味してみた。しかし思ったほどこれらは価値のあるものではなかった。

確かにルビーだのダイヤだのと言ったものがないわけではないが、非常に小さなもので、もし売ろうと思っても二束三文にもならないようなものばかりだったのだ。最初はEbayか何かでセリに落として売ろうかなとも考えたのだが、ふと思うことがあり考えを変えた。

私の持ってるネックレスや指輪は、確かに買った当初はかなりの値段がしたかもしれない。だが宝石類というのは買う値段は高くても売る時はその十分の一にもならない。それで思ったのだ。どうせ売っても二束三文なら、今後死ぬまで何回付けられるかわからないのだから、毎日とっかえひっかえつけようじゃないかと。

もしも家にしまっておいて盗まれたとしても、金庫に預けたまま一度もつけないのなら持っていないのと同じことではないか。だったら毎日綺麗なものを身に付けて精一杯楽しもうではないか。

おかしなもので、特にどこへ行くというわけでもないのに、毎日違うネックレスや指輪を付けようと思うと、それに合わせてセーターやシャツはどんなものを着ようかなど、ここしばらく全く考えなかったことを考えるようになった。

実は私は去年の7月の終わりに心臓の手術をしてから、自宅に閉じこもっていることが多くなっており、おしゃれなどとは縁遠い生活をしていた。毎日同じ時間い起きて、そこらへんにある特に汚れてない程度の服を身にまとい、顔を洗って常備薬を飲んで歯を磨いて短い髪の毛をブラシで1~2回すいて終わり。鏡も碌にみない日が何日も何週間も何か月も続いていた。

それがネックレスを身に付けたら、自分がどんな風に見えるだろうかと鏡を見るようになった。あれ、私の目の下にはこんなに隈があっただろうか?首筋はちょっとたるんでないか?ちょっと太っただろうか?なんだか突然私は眠りから覚めて我に返ったような気がした。

考えてみればここ2~3年私は私ではなくなっていた。コロナ禍でロックダウンになり家に閉じこもる生活が続き、家族も私も次々に大病にかかり手術だの介護だのと大変なことが続いていた。それでなんとか私がしっかりしなきゃという重荷をしょいながら、鏡を見る余裕さえなくなっていたのだ。

目を覚まそう。いつまでも落ち込んでいても始まらない。ネックレスつけておしゃれして出かけよう。お化粧もまた始めよう。人生はまだまだ続く。私が弱音を吐いてどうするのだ。私に頼っている家族が居るのに。

でもなんだか不思議。緑色のエメラルドを見ていたら、元気が出て来たから。


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節分と知らずに巻き寿司を作ってしまったの巻

おはようございます。立春の朝カリフォルニアの気温は11℃。1月よりだいぶ暖かくなった。先日も書いたようにガス代の高騰で暖房費がかさむので暖かくなってくれるのはとても助かる。

さて昨日、私がよく見ているKevin’s English Roomというユーチューブチャンネルでアメリカの巻きずしに挑戦という企画をやっているのを見て、そういえば最近巻きずしをつくってないなあ。今日あたり作ってみるか。と思い立ち、先日近所で開店したばかりのMITSUWA(ミツワ)日系マーケットで購入した海苔を戸棚から出してきた。すると大昔(少なくとも3年は経つ)に買ったかんぴょうが、乾物を入れてある箱の底から来てきた。お、これはちょうどいいと思い、久しぶりにかんぴょう巻でも作ろうということになった。

(どう考えても賞味期限は切れてるはずだが、なぜかXX/YYYYとだけあり日付が書いてない。気にせずに食べることにした。)

かんぴょう以外にも、沢庵やキュウリもあったし、シソ風味ふりかけなどもあったので、色々な種類の巻きずしを何本か作って、ついても海老の唐揚げも加えて結構なごちそうになった。そんな話をツイッターでしていたら、節分なので巻きずしですか、と聞かれて、へ?そうなの?と検索したら、2月3日は節分で、日本ではここしばらく恵方巻なるふと巻きずしを食べるのが習慣になっているとか。私が子供の頃はそんな習慣はなかったけどなあ。豆まきならあったけど。

ああ、それでユーチューブチャンネルで巻きずし企画をやっていたのか、と納得がいった。

アメリカではSUSHIといって子供の間でも人気なのが、日本では考えられないような具の入ったふと巻きずし。もしアメリカ人の観光客が自分はスシが好きだと言っていても、あんまり値段のはる本場の寿司屋に等連れて行かないほうがいい。彼らのいうスシと我々が考える寿司とではかなりの溝がある。

こちらがケビンさんたちが作っていたアメリカ風SUSHI。ちなみに私が作ったものとはまるで違うので悪しからず。


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「今年は七面鳥は焼かないぞ~」と宣言したのに結局作ったと言う話

拙ブログご愛読の読者諸氏はおぼえておられるだろうか、ちょうど二年前の感謝祭の際に主人が買ってきた10kgという巨大な七面鳥との散々たる格闘を。今年は私も病み上がりということもあるし、主人はとっくの昔に料理から引退していることでもあり、家族と集まる感謝祭でも「七面鳥は焼きません」と早々に宣言した。

実は、苺畑家の七面鳥歴は非常に長く、かれこれ40年近い。ことの始まりはミスター苺の大学時代にさかのぼる。当時彼はカリフォルニア北部にある大学に行っていたが、父親が望むUCLAに行かなかったということで勘当状態にあった。そこで彼は自分と同じように多々の理由から感謝祭に実家に帰省できない同級生たちを集めて自分の借家に招待してホームメイド七面鳥をふるまったことにある。

大学卒業後、父親が亡くなり再び家族と感謝祭を過ごせるようになったミスター苺は、それまで義母が請け負っていたターキー作りを引き継いだ。面倒くさい料理をしなくて済むようになった義母は大喜びでミスター苺にバトンタッチ。私と結婚してからも、ミスター苺のターキー担当の伝統は守られていた。

しかし数年前から主人は病気がちになり、長時間台所に立って料理をすることが出来なくなった。それで、それまではスーシェフだった私が晴れてヘッドシェフへと昇格。その後ターキーづくりは私の担当になって今に至る。

しかし今年は私が大病をし夏に大手術で入院、その後も回復に時間がかかっているということもあり、今年は大がかりな料理は出来ないと家族に伝えた。無論家族は事情を良く知っているので、今年はターキーなしでもいい(誰もターキーを焼きたがらないので)ということになり、義母がコストコに注文してローストチキンを持ってくるということで話は決まっていた。そして私は何か簡単なオードブルでも持ってくればいいということになり、家族は肉料理には色々制限があったため、シーフード焼売を作ることになった。

感謝祭の前日、足りない材料を買いにスーパーに行くと、ターキー大セールが行われていた。それを見たら、せっかくの感謝祭にターキーを食べないのも寂しいよなあと思ってしまった。しかしだからといって、感謝祭まですでに24時間を切っており、今から気持ちをかえてターキーを作るなど無理。などと考えていたら、胸肉だけの2kgというターキーを発見。2年前の五分の一の大きさだし、これなら今からでも十分間に合うと考え2kgターキーを購入。

そうと決まればターキーの付け合わせも必要になる、スタッフィング、グレービー、ポテト、ヤム、ええい、面倒だ、せっかくだから全部作っちゃえ!

というわけで勝ったターキーは一晩漬け汁に浸して当日は6時起きして色々作った。もちろん焼売も。

なんだ結局いつもより大変になってしまったではないか!

とはいうものの、ターキーを期待していなかった家族は他に色々なものを持ち寄っていたため、この量はかえってちょうど良かった。今までターキーは丸ごと焼かなければいけないという使命感があり、自分に不必要な負担をかけていたような気がする。

「あれ、カカシ伯母さん、このターキーなんかスモーキーな味がするね」と言われて気付く。慌てて材料を集めたため、ターキー用ブラインを買い忘れてしまい、うちにあったスモーキーBBQ漬け汁ミックスを使ったのがばれてしまったようだ。


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衣替えの思い出をちょっと

10月に入り、さすがのカリフォルニアもやっと涼しくなった。未だに日中はクーラーをつけることもあるが、朝夕は涼しく過ごしやすい。

カリフォルニア南部は一年中温暖な気候というイメージがあると思うが、それでも一応季節はある。冬になると明け方零下になることもあり、朝車のウィンドシールドに張った氷を溶かしてから出かけるなんて日も時々ある。なので一応苺畑家でも衣替えの季節かなと思い、箪笥のなかを色々整理し始めた。

私の箪笥のなかにある服はどれもこれも母から送られてきたものだ。

私の母は買い物が大好きで、しょっちゅう洋品店に行き、値段も見ないでボンボン服を買ってしまう。父がバブル期にまあまあ儲けたこともあり、当時の母の買い物三昧は半端なものではなかった。その後日本の景気が低迷し、父の仕事もだいぶ下火になってからも、母の買い物癖は直らず、一度など父が怒って母のクレジットカードを全部ハサミで切ってしまったことがあったほど。

というわけで実家のクローゼットはすぐに母の洋服で山積みになってしまい始末に負えない状態になっていた。それで母は自分が着なくなった服を私にくれるようになった。

母の趣味は中年女性のもので、およそ10代の若い子が着るような服ではなく、妹は「おばんくさい」と言って嫌がり母のお下がりは愚か、新しい服でも母が買って来たものは絶対に着なかった。私はその正反対で、洋服には全く無頓着でお下がりだろうとなんだろうと母があてがうものは文句ひとつ言わずに着ていた。そのせいで母は、私が大人になってからも、私の洋服は母が揃えるべきと思い込むようになった。

私が独立してアメリカに住むようになってからも、母は大量の服を頻繁に送り付けて来た。私はそんなに着きれないから送らなくていいよと何度も言ったが、私が遠慮していると思ったのか、母からの小包が留まることはなかった。そしてそれは、なんと30年以上続いた。

さて、困ったのは私の方だ。私は長年、狭いワンベッドルームに住んでおり、ウォークインクロゼットなんて贅沢なものはなかったので、後から後から送られてくる洋服を置く場所などすぐなくなった。

そこで私が考え出したのは次のやり方だ。

  • 母から送られてきた服はどんなものでも必ず一度は着ること。
  • 一度着た服は綺麗に洗濯してから、もう一度着たい服と二度と着たくない服に分けてからしまう。
  • 年末、二度と着たくない服だけまとめてチャリティーに寄付する。

しかし、一年経つとまた母からの小荷物が届くので、以前着た服をまた着る機会がないうちに新しい服を着ることになってしまう。

そんなこんなをしているうちに、ある時私は同僚から「カカシさん、私はあなたを2年近く知ってるけど、あなたが同じ服を二度着ているのを見たことがない」と言われ、確かにそうだと思い当たった。なんとその時、同じ服を二度と着ない生活を三年以上も続けていたのだ!

その時、せっかく気に入った服があっても、まだ着てない服があるからと、同じ服を二度と着ないという自分の作った規則が、いかにおかしいかに気付いた。なんでそんな規則があるんだ。好きな服は何度でも着ればいい、嫌いな服は一度も着る必要はない、とやっと気が付いたのである。

母には何度言ってみても服を送るのを止めることはできない。ではどうすればいいのか。私は新しい方法を取り入れた。

  • 母から送られてきた服は、着たい服と着たくない服に分ける。
  • 着たくない服は年末を待たずに即座にチャリティーに寄付する。
  • 一度着て気に入った服はそのまま箪笥に戻して、また着たい時に着る。
  • 一度着て、やっぱり好きではない服はまとめておいて年末にチャリティーに寄付。

こうして私の家が洋服で埋まってしまう悲劇は何とか免れた。

ここ10年近くは、父も引退し実家は以前のように金銭的な余裕はないし、父も母も色々病気などをしたので、母もそうそう買い物になど行ってられない。それで30年以上続いた毎年恒例の洋服小包も、あまり来なくなっていた。それでも時々思い出したように母から洋服が送られてくる。

箪笥のなかから見たことのないサマードレスが出て来た。去年久しぶりに母から送られてきたものだ。今着ないと季節が終ってしまう。それで今日は久々にドレスを着た。これは着やすい、気に入った。とっておいて来年はもっと何度も着よう。


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命に執着心が出た?術後約一か月経過

今週末で手術後一か月が経過したことになる。明日は一か月後の検診でお医者に行く。まだ運転は出来ないので送迎は知り合いに頼んで迎えにきてもらうことになっている。

開胸手術という大手術だったので、回復に8週間はかかると言われていたが、もうだいぶ良くなり、近所の薬局まで歩いていけるほどになった。ただまだ重たいものを持つことはできないので、簡単な家事は出来るが、鉄製のフライパンなどは持ち上げられない。仕方なく料理らしきものはせず、夕飯なのに缶詰のトマトスープとツナサンドイッチだったりする。でも大して食欲があるわけではないから、そんなもんで十分だ。主人は何も言わずに食べてくれてるし。

今日は一日ずっと暇だなと言う気がした。でもそれで気付いたのだ。暇だと感じられるということは、身体が疲れて動けないとか、胸が痛いとか、咳き込むとか、そういうことがない証拠。なぜって身体の調子が悪い時はそれしか考えられないから、暇だなんて考えてる余裕はないからだ。

実はコロナ禍でロックダウンが始まった2020年の春ごろから、私は非常に精神的に落ち込んでいた。それというのも長年連れ添った主人が難病であると診断されたからだ。今日明日どうなるという病気ではないが、一生治ることはなく、徐々にではあるが悪化していずれは動けなくなる病気。それが10年後かもっと先なのか今は未だ分からない。

私は残りの人生を考えたら絶望的な気持ちになった。これから主人と色々な所へ旅行しようと思ってた。コロナ禍にならなければニュージーランドへ行くはずだった。でも2年後の今、主人はもう海外旅行など出来る身体ではなくなっていた。

そんな時に私の心臓が悪いと言われた。手術が必要だと。年寄りには進めないが、あなたはまだ若いから、この先20年も30年も生きる可能性があるから、やっぱり開胸手術をお薦めしますと医者に言われた。何もしなければどうなるんでしょう?それは何とも、もしかして数か月の命かもしれないし、数年かもしれない。だったら手術なんて要りません。数か月後にぽっくり死にたいです。そう言いたかった。主人と一緒に年を取れないなら、長生きなんかしたってつまらないもの。

でもそんなこと言って主人より私が先に死んでしまったら、病気なのに世話をする人も居ずに残された主人はどうなる?ここで私が倒れて死なずに寝たきりにでもなったらどうする?

そう思ったら、やっぱり生きなければいけないと思った。

術後すぐは身体が苦しくて痛くて辛くて何も考えられなかった。一日一日、ともかくこの痛みから解放されたいという思いで一杯だった。退院後も徐々によくなっているとはいえ、ここが痛い、あそこが苦しいと身体のことばかり考えていた。でもそのうちに気付いたのだ。私は生きたい。死にたくないと。

身体が悪いと生きたいという命への執念が湧くようだ。まだまだ生きてやるぞ、こんな苦しい思いをしたんだから、後20年や30年楽に生きてやる!そんな執着心が生まれたのだ。

確かに主人は病気だが、まだまだ寝たきりというわけではないし、二人で近所の散歩くらいは出来る。私が運転できるようになったら、湖のある公園に行って、主人の好きな写生でもしよう。時々はおいしいものを食べに行こう。あと何年こんな生活を続けられるかなんて嘆いているより、一日一日を大事にしよう。

そんなことを考えている術後一か月であった。


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開胸手術体験談その3,隔離病棟

テレメトリー

「まったく昨夜はどうなることかと思ったわよ。脅かさないでよね」とロシア人看護婦のアナが言った。いや別に脅かすつもりはなかったけど、それにしても、どうして私の動悸の乱れにすぐ気づいたの?するとアナは私の身体にテレメトリーという装置が付けられており、病院内であればどこに居ても私の心臓状況が把握できるようになっているのだと説明してくれた。そっか、それでみんなが血相を変えて部屋に駆け込んで来たわけだ。

隔離病棟の看護師たちは集中治療室の看護婦たちよりリラックスしていた。それもそのはず、ここまで来れたら後は回復の一途を辿るだけなので、時々後退はあっても命に別状を来すようなことには先ずならない。

病院

私がお世話になった病院は、自宅から数キロのところにあるキリスト教系病院である。このあたりの病院は大抵がキリスト教かユダヤ教系である。うちの近所にある病院地区はどこでもそうなのだが、一定の広い区域のなかに大きな建物の病棟がいくつも、あちこちに散らばっており、この地区には大掛かりな手術をしたり、入院患者を受け入れたり、種々の検査が行われる施設が集まっている。大きな大学病院や大学のキャンパスを思い浮かべてもらうと理解しやすいかもしれない。

この地区内には個人開業医のオフィスも一か所に集められて店子のようにして入っている。そういう医師は病院勤務も義務付けられており、毎日何時間か病院で過ごし、残りの時間で外来患者を診、緊急事態は順繰りに担当が回ってくる。

患者は最初に開業医に診てもらい、その医師の指図で色々な検査を受けたりするわけだが、それらの検査施設が同じ病院地区内にあるとしても、検査施設は経営が別であり手続きも別なのですべてを同じ日にうまくコントロールしてやってしまうというのは非常に難しいというのは前回お話したとおり。

たとえば健康診断をやるにしても、あらかじめ診断に必要な血液検査を別のラボ(研究室)でやってもらって、その検査結果が出るころに医者の所へ行くというのが今は普通になっている。

食事

食事もこれまでのように単なる出汁スープではなく、きちんとした料理が出てくるようになった。とはいうものの、私は胃が痛くて吐き気も酷く食べ物など喉を通らない。そこへクリップボードを持った中年の女性が現れた。「この先三回の食事のメニューをお伺いに参りました」へ?こんな気持ち悪い時にメニューから料理選べとかおかしんじゃないの?と思ったが、その女性はまるで高級ホテルのレストランのウエイトレスがルームサービスの注文でも受けるかのように慇懃な趣で注文をきいた。

胃の調子が収まって食事が普通に出来るようになると、この病院の食事は悪くないと思った。この病棟のひとたちは皆心臓を病んでいるので、塩気のあるものや揚げ物などは無論出てこないが、それでも色々工夫されていて良かったと思う。スパゲティ―とマリネらソースとか、マカロニ&チーズなんか結構よかったし、レンティルスープはとても美味しかった。自宅に帰ってからも、これを参考にして色々作らせてもらおうなどとメンタルノートを取っていた。

フィジカルセラピー

さて隔離病棟も二日目になると、付き添い付きとはいうものの、自分の脚で立って歩行器を使いながらトイレに行かせてもらえるようになる。初めておまるではない普通のトイレの便座に座った時には感動した。(笑)

そして始まるのがフィジカルセラピー。ベッドから降りて腰にベルトを付けられる。そのベルトをセラピストさんがもって後ろから歩く。なんか犬の散歩みたいだが、最初は自分の部屋から廊下を数メートルも歩けなかったのに、やっていくうちに長い廊下を結構行ったり来たりすることができるようになった。

この病院では、動ける人はどんどん動かすというモットーのようで、動けるはずなのにいつまでもベッドから出ない患者は医者から叱られた。私は最初の一晩二晩ほとんど一睡もできなかった。それというのも眠りに入ると咳が出たからで朝はぐったりしていた。そこへ朝7時くらいにセラピストさんの若い男性二人が登場。「は~い、カカシさん、頑張って歩きましょう!」と満面の笑みを浮かべて私を叩き起こした。よたよたよちよちしながら数メートルあるくと酷い眩暈、もうだめ、勘弁して。

やっと部屋に戻り、食事をとった後、うとうとしてきたので、眠れるかなと思ってベッドに入ったその時、「カカシさん、まだベッドに居るんですか?歩き回らなきゃ元気になりませんよ!」とG先生の激しい口調。もう、G先生にはベッドサイドマナーってものがない!

翌日私はふてくされてずっとベッドから出なかった。PTのお兄さんたちが来ても気分が悪いと言って寝床から出ずにいると看護婦さんが「気持ち悪いなら余計に立ち上がったり歩き回ったりしないとダメなのよ」というが、眩暈がひどすぎて起き上がるのさえ無理なのに、あるくなんてとんでもないと思った。そこへまたG先生。「カカシさん!さっさと元気になって出て行ってもらわないと、こっちは後が使えてるんですから」と厳しい口調。この野郎め、お腹いたいんだよ!胸が苦しんだよ!

G先生が部屋を去った後、私はオーダリ―を呼んでベッドから近くにある椅子まで移させてもらった。そこで脚を上げたり下げたり運動をしていると看護師さんが入って来て「お?やっとやる気になったのね」と言った。やる気なんか出ませんよ、でもG先生にこれ以上皮肉言われたくないですから、、「でもベッドから出られたじゃない?」それは、、そうだけど、、

お見舞い及び付き添い

病室には色々な人が出入りする。朝必ず血糖値や血液内の酸素レベルなどバイタルサインを取りに来る看護婦や看護師補佐は当然のことながら、掃除のお姉さんたちや、セラピーさんや、血液だけ取りに来る人、レントゲン技師、などなど、ひっきりなしに誰かが部屋に入ってくる。 入院時に貴重品は持ってこないように、お財布もいりませんと言われたのは多分これが理由だろう。

日本の妹は90近い高齢の両親の片方でも入院すると、必ず毎日のように病院に行っていた。これは病院側から来てくれと言われたからなのか、妹が善意でしたものか解らないが、少なくともこちらの病院では家族が付きそうことは求められない。

昨今のコロナのことがあるため、見舞客は一日二人まで。しかもワクチン二回済もしくは二日以内の陰性証明書が必要とされる。主人が最初に見舞に来ようとしたときに、枠パスは持っていたが、陰性証明が必要だと言われて追い返されてしまった。しかしそれは受付の間違いでワクパスか陰性証明のどちらかを持っていれば問題ないと後で解り、無駄に陰性証明を取りに行く時間を浪費したと主人はカンカンであった。

退院

最初は終わりが見えないトンネルをゆっくり走っているように思えたが、徐々に日を追うごとに体力は回復し、なんとか一人でトイレにも行けるようになった。それでも歩行器がなければ、まだまだふらふらした状態であるが。傷口も安定しており、血圧や血糖値にも問題がないということなので退院することになった。入院してから8日目の夕方であった。

当初入院は3日から5日と言われていたが、開胸手術をして3日で退院なんてあり得ない、5日だって怪しいものだと私は最初から思っていた。結局私の場合は8日かかったわけだから、これは早くて5日、長くて10日くらいに言っておくべきじゃないかと感じた。

その話をセラピーのお兄さんにしたら、「いや、これ、本当に人に寄るんだよ。本当に三日で帰っちゃう人もいるからね」と言われた。嘘だろ~、そういう人は付きっ切りの看護婦でも雇って家で十分療養出来る環境にある人に違いない。私のように家に病人が居て、帰宅したら通常通りの家事をこなさなきゃならない人間は、なるべく長く入院させてもらった方が楽である。せめて歩行器のお世話にならなくて済むくらいまでの回復を待ってからにしてほしい。

義母が胃がんの手術で入院した時も、身体に管がついたままの状態で退院させられたそうだ。そして付き添いの看護婦が傷口のばんそうこうを取り替えたり、管からの血液や体液の除去したりという作業を一週間くらいしてくれたそうだ。日本だったらこの状態での退院は先ず不可能なのではと思うが、どうだろう?

以前からアメリカの病院はあまり長く患者を入院させないと聞いていたが、本当に冷たいもんだ。もっとも長居をしたらしたで入院費も馬鹿にならないので。

完全回復まで8週間の自宅療養

退院はしたものの、今すぐこれまで通りの生活に戻れるというわけではない。これから長い回復への道が始まる。ユーチューバーで同様の手術をし、術後4週間目くらいから無理をして仕事を初めて、肺炎を起こして死に損なった人がいる。休暇は十分とってあるので、まあ無理せず気長に治そう。なにせこの新しい弁は、少なくとも後25年はもつとのことなので。


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