先日Twitter仲間のBlahさんのスペースに参加させてもらった時、私が自分のことを「わたくし」と言うことを2~3人の方からご指摘を受けた。実はワタクシは自分でそういう言葉使いをしているという自覚がなかった。

「カカシさんて、いつも自分のこと『ワタクシ』って言うんですか?」

と自分に聞いてみた。ん?え?そうだったかしらん?と考えてみて、はっとした。私は普段日本語を話していない!

そうなのだ、ここはアメリカだし、家族は日本語が話せないし、職場にも日本人は一人もいない。日本語でおしゃべりできる日本人の女友達も近所にいない。せいぜい実家の母と一か月に一度電話で話す程度。つまり、私は家でも職場でも日常的に日本語を話す機会がほとんどないのだ。だから自分が日本語を話す時にどんな癖があるかなんて自分でも全然知らなかったというわけ。

ところで、普通アメリカ在住の日本人には日本人の友達が結構いるものだ。人に寄ってはアメリカ住まいなのに日本人以外とは付き合いが無いという人さえいる。それがどうして私には日本人の友達がいないのかというと、私の友達はみんな日本に帰ってしまったからなのだ。

実はつい2~3日前も、ハワイに住んでいた友人がアメリカ人の旦那さんと一緒に日本へ移住した。そのまま老後は日本で過ごすことにしたそうだ。これでアメリカ在住の私の友人は全員日本に帰ってしまったことになる。もっとも彼女は住んでた州が違うので、そんなに頻繁に会っていたわけではないが。彼女曰く、ハワイの物価は高すぎて引退者にはキツイ。物価が安くて治安もよく暮らしやすい日本に帰ることにしたのだそうだ。アメリカ人の旦那さんも自分の出身地の気候と似ている日本の地方が気に入っているとのこと。

確かに最近のアメリカの物価高にはうんざりする。私も引退間近だし、このままカリフォルニアで暮らしていけるのかどうか心配である。そういえばニューヨークに住む60代の女性ユーチューバーも引退したら日本に帰ると言っていた。(アメリカに定年はないが、大抵の人は65歳で引退する。)その人の旦那さんは日本人だが旦那さんはNYが好きなので熟年別居になるらしい。ちょっと前までは、そこまでして日本に帰りたいかなあと他人事のように思っていたけれど、今となっては身につまされる思いである。

私がアメリカに移住した1980年代は日本の景気がすこぶるよく、日系企業がアメリカにどんどん進出している時代だった。だから南カリフォルニアのガーディナやトーレンスなど日系企業で働く駐在員やその家族、地元雇用の従業員、学生などなど日本人がわんさか居たのだ。ガーディナあたりに住んでいれば、英語なんて話せなくてもなんでも事足りた。なにせレストランやスーパーだけでなく、銀行でも不動産屋でも日本語が通じるし、医者でも弁護士も会計士も全員日本人。殿方用のバーやキャバレーも普通にあった。レストランもただの日本食ではなく、寿司屋はもちろん、うどん屋、居酒屋、カレー専門店などなど、まるで日本みたいにバラエティーに富んでいた。あそこはまるで日本だった!

格いう私も当時は日系企業に勤め、友達も日本人がほとんどで、職場でも日常生活でも日本語で話す方が多かった。その事情が変わったのが1990年代初期、日本のバブル崩壊である。当時私はとある証券会社に勤めていたが、そこへは毎日のようにロサンゼルスを撤退することになったという日本企業のお得意さんたちからの手紙が来ており、じきじきにさよならの挨拶に来る人もいた。就労ビサだけで永住権の無かった友達がこの時ごっそり帰国した。仲良くしていた友達の日本人夫婦もカリフォルニアを見限って他所の州に越してしまい、その後音信不通である。

この頃私も個人的に色々とごたごたしており、実家の母からも「帰っておいで」と何度もいわれていた。今考えると、あの時帰っていたら人生が随分変わっていただろうなと思う。でも当時は日本へ帰るなんて考えもしなかった。大変でもアメリカでずっと暮らしていたいと思っていたから。

でも最近だいぶ気持ちが変わってきた。それというのもバイデン政権になって本当にアメリカは暮らしにくくなったのだ。特に民主党が牛耳るカリフォルニアのような州は物価も高いしかなり大変。年金だけでひいこらいいながら頑張るより、実家の家を引き継いで静かに老後を過ごすのも悪くないかも(家賃もいらないし)な~んて現金なことを考えている今日この頃である。


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