国中がロックダウンで苦しんでいる中も仕事をしていたハリウッドのストライキなど国民は興味がない

ハリウッドの脚本家と俳優たちが合同ストライクを始めてすでに100日を超えるそうだ。テレビなんぞ全く観ない私からすれば、だから何?と言ったところだが、実をいえばアメリカ市民のほとんどが私と同じように感じているようで、私が良く観てるユーチューバーが行ったアンケート調査ではストライキを辞めて早く戻ってこいと答えたのが何とたったの3.2%だったそうだ。ま、彼の視聴者はもともとハリウッドファンではないから当然の結果だが。

一回の出演料が何千万ドルとかいうような大型スターはともかく、脇役でちょこちょこ出ているような下っ端俳優などは一か月も二か月も収入が無かったら暮らしていけない。それに撮影がなければヘアやメイクさんや技術や大道具など、撮影関係でその他いろいろな仕事をしてる人たちの生活にも支障をきたすだろう。確かにお気の毒なことではある。しかしながら、、

2020年3月から始まった2年間のロックダウンにより、どれだけのビジネスが崩壊したかを考えると、その間ずっと仕事をし続けていた芸能界が三か月やちょっと休んだからといって同情心を持てと言われてもそれは難しいだろう。

私はロックダウン中にレストラン経営者が室内飲食を禁止されたため、野外テラスを設置したにもかかわらず、不衛生ということで営業を許可されないその真横で、映画撮影のためのケイタリング用野外食事場が設置されている前で泣きながら訴えていた動画を今も鮮明に覚えている。何故レストランの野外テーブルは駄目で、撮影現場のケイタリングは良いのか、何が違うんだと彼女は訴えていた。

だいたいロックダウンで生活に必要不可欠だからと営業を継続できたビジネスと、不必要だと言われて閉店を余儀なくされた商売との不公平さは今もって理解できない。

ステイプルと言う大型文房具店は開いているのに、その隣にあるキッチン用品専門店は休店。文房具店へ入るのは安全でも台所用品店に入るのは危険とはどういう意味だ?洋服も売っているウォールマートのような大型小売店は開いているのに、個人経営の洋品店は休店。同じように不可解な理由で美容院やエステなども休店。ロックダウンの影響で潰れたビジネスはうちの近所だけでも、先に話した台所用品店、50年以上やっていたコーヒーショップ、行きつけのカフェ、近所で唯一本物の味がしたラーメン屋、個人経営の中華店、苺畑夫婦が30年来通っていた運動ジム、などなど数えたらキリがない。

人びとがそうやって苦しんでいる間にも映画やテレビの仕事は続いていた。それでいて金持ち芸能人たちがテレビで「マスクしろ!」「ワクチン打て!」「ソーシャルディスタンスを守れ!」などと煩いお説教を人々にしていたことを我々は未だ忘れていない。

それはともかく、最近のハリウッド映画はすでに観客離れが始まっている。この夏は大型映画の不発ぶりが特に顕著で、ディズニーのリトルマーメイドやライトイヤー、インディアナジョーンズ、ミッションインポッシブルなどが不入りで次々にずっこけた。これまで必ず成功していたヒーローものもザ・フラッシ、シャザーン、ブルービートルなど全く駄目だった。テレビ界でもテレビドラマ至上最高の製作費を投入したロードオブザリングスシリーズが大失敗、黒人女性を起用したクレオパトラシリーズも大不評、とまあこんな具合だ。個人的には楽しみにしていたスタートレックのピカードやストレンジニューワールドの新シーズンが酷すぎて観られたものじゃなく、パラマウントのストリームはキャンセルした。(ただしネットフリックスのワンピース実写版は評判がいい)

この映画やテレビの観客離れが続いているのも、最近のハリウッド作品のポリコレお説教に人々が嫌気をさしてきたからだろう。それにロックダウン中に押し付けられたストリーミングサービスのおかげで我々は別に新作品を観なくても、昔の傑作品をいくらでも観ることが出来る。

何にしろインフレで大変は人々がハリウッドなんぞに同情する余裕はないのである。


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映画「サウンドオブフリーダム」南米18か国で第一位の大ヒット

子どもの人身売買を描いた独立映画サウンドオブフリーダムが中南米で公開され18か国で第一位の興行成績を上げている。(‘Sound of Freedom’ Nabs No. 1 Slot in 18 Latin American Countries – Hollywood in Toto)これは全く驚くべきことではない。もともと映画そのものが娘と息子を誘拐されたハンドラスの父親の話から始まり、舞台はほとんどコロンビア及び中南米で繰り広げられ台詞の半分はスペイン語だ。中南米の観衆にとって、これは身につまされる話でもある。

アメリカで今年の7月初期に公開されたフリーダム、、は2か月間ずっと勢いが収まることを知らず、9月も半ばになってようやくその勢いを失い上部10位からはずれたが、その売上総額1億8千万ドルに達した。低予算の独立映画としては前代未聞の成功だ。高予算のバービーとオッペンハイマーを除けば、この夏最大の話題作と言っていいだろう。

同映画は中南米以外でも売り上げは上々で、ニュージーランドで1位、オーストラリアとサウスアフリカで2位、イギリスで4位という好成績だ。まだアジアでは公開されていないようだが、早く日本でも公開して欲しい。

これほど成功している映画であるにもかかわらず、アメリカの主流映画界はこの映画を完全無視。いやそれどころか陰謀論だのなんだのとこき下ろし、映画製作に出費した何千という個人献金者のなかの一人が子どもの誘拐に関わったなどとデマを広めた。実際には離婚調停中の父親が前妻と子供の親権を巡って争っていただけ。

アメリカのラテン系は他の人種に比べて映画好きが多い。観衆の率からいくと常に他の人種を上回るんだそうだ。だとしたらアメリカ映画はもっとラテン系が活躍する映画を作るべき、と思うのは浅はかな考え。ラテン系が主役だからと言ってラテン系が好むとは限らない。

ドミニカン移民を素材にしたミュージカル、インザハイツは5.5百万の製作費を大幅に下回る4.5百万の売り上げと言う不入り、プエルトリコ移民素材のウエストサイドストーリーは1億ドルの製作費なのに売り上げはたったの1.4百万ドル。メキシコ人家族主役のスーパーヒーローものブルービートルは1.2億ドルの売り上げで製作費の1億ドルをなんとか上回ったが広告費だのなんだのを差し引いたら多分赤字だろう。

これと比較するとスーパーマリオブラザースは9千万ドルの製作費でなんと売り上げ10億ドルというからどれだけの大ヒットだったかが解るというもの。

というわけなので、ラテン系の観衆を惹きつけたいからといって、ラテン系を主役にしてみても、内容がおもしろくなければ誰も観ない。観客はそれほど自分らの属性の俳優を見たいとは思っていない。ラテン系女優を起用した白雪姫も主役女優のイメージが悪すぎて公開前から評判が悪いことこの上ない。巷ではこれ以上ディズニーの名を汚さないように劇場公開は諦めてストリームだけにするのではないかという噂である。

日本では人身売買の話があまり取沙汰されることがなく、どれほど深刻であるかを知らない人が多いようだ。出来れば日本の観客にもサウンドオブフリーダムを観てもらって、この問題の深刻さを知って欲しい。日本公開が近くなったらまたこのお話をしよう。


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「バービー」はフェミニストの映画?いやパロディーでしょ

デイリーワイヤーのベン・シャピーロなど保守派のコメンテーターたちがこの映画はフェミニストのプロパガンダ映画だと言っていたので全く観るつもりはなかったのだが、同じくデイリーワイヤーのマイケル・ノールズが、いや、そうじゃない、この映画は一見フェミニストを持ち上げているように見えるが実はフェミニストをおちょくったパロディーなのだと言っていた。また別の保守派YouTubeチャンネルでは、これはフェミニストプロパガンダだが制作者の意図に反して非常に面白いコメディーになっていると言っていたので、これは観るしかないだろうと思って観て来た。

結論からいうと、私はマイケル・ノールズの言う「これはフェミニストをおちょくったパロディー」という意見に同意する。

あらすじ:バービーランドに住むバービーたちは全て完璧で最高の生活を送っている。洋服は常に美しく最高のファッション。それぞれのバービーが壁のないプラスチックのバービーハウスに住んでいる。バービーランドはバービーたち女性人形がすべてを取り仕切っており、大統領も学者もお医者もすべてバービー。ケンたちはバービーたちを引き立てる飾りに過ぎず全く権力を持たない。しかし金髪のケンはバービーを愛していて常にバービーの気を引こうと必死だが、バービーは全然興味なく、毎日ガールズナイトでディスコパーティーに明け暮れる。

そんなバービーがある日突然何かに憑かれたのように死を意識するようになる。そして人間の母と子の夢を見る。予告編でもあるようにかかとが地面についたり完璧なバービーの世界が少し歪んでいるのだ。そこでバービーは問題を解決するためにバービーランドに住む変なバービーに相談にいく。変なバービーは現実の世界へ行って、夢に出て来た女の子を探しだせという。そこでバービーは現実社会へと旅立つが、なぜかケンもついてきてしまう。

バービーとケンが訪れた現実社会は、バービーランドとは反対にすべて男性によって牛耳られている。それを知ったケンはこの家父長社会に感激し、バービーを残して一人バービーランドへ帰る。現実社会で色々あったバービーが人間の母子を連れてバービーランドに帰ってみると、何とケンがバービーランドのリーダーになり、バービーたちを召使のように扱っていたのである!バービーはケンからバービーランドの主権を取り戻そうと実社会の母子と一緒に計画するのだが、、あらすじ終わり

まずこれがフェミニストの映画ではないと思う最初の手がかりは、予告編にもあるように何もかも女性が仕切っているバービーランドに住んでいながら主役のバービーが突然、死を意識するところである。バービーランドはフェミニスト天国であり何の落ち度もないのだ。そんな国に住んでいるのに何故わざわざ不完全な現実社会に行かなければならないのか?

現実社会に行ったバービーは公園で遊ぶ子供たちやベンチに座っている老婆に見入る。幸せそうな人もいれば悲しみにくれている人もいる。バービーはそんな人たちを観て感動してしまうのだ。でも何故?全部女性が仕切って居て完璧なバービーランドから来たのに、どうしてこんな不揃いな人たちを観て感動したりするのだろうか?

注意:この先ネタバレあり!

バービーはすぐに自分の持主である中学生くらいの少女に出会う。しかし少女は自分はバービーなんて5歳くらいから遊んだことはないと言い、完璧な女性像を描く「典型的バービー」は現実の女性とは大違いで、かえって少女たちから夢を奪っていると説教されてしまい大いに傷つく。

バービー人形と他のお人形の違いは、それまでお人形と言えばみんな赤ちゃんや子供の人形だったのが、バービーは大人の女性だということ。それまでのお人形は遊ぶ子供の年齢に合わせたもので、同時に女児たちがお母さんを真似する遊びのためのものだった。言ってみればお人形遊びやおままごとというのは将来女児たちがお母さんになるための修行の始まりだったと言ってもいいだろう。ところがバービー人形は違う。彼女は大人の女性だ。独立心旺盛でお医者さんだったり弁護士だったり大統領だったりするのだ。彼女は単に完璧に美しいだけでなく立派なキャリアもあるのだ。そのうえハンサムなボーイフレンドのケンという男性まで侍らせている。まさにフェミニストの夢だろう。

ところが現実社会に行ったバービーは少女たちがバービーの完璧すぎるフェミニスト像に絶望し希望を失っていることを知るのだ。

バービーの世界はプラスチックのファンタジーの世界だ。本当の女性は典型的バービーのように美しくもなければキャリアで成功しているわけでもない。いやよしんば美人でキャリアを持っている、いってみればこの役を演じている女優のような女性の人生もバービーランドのバービーたちのように完ぺきではない。フェミニストが言うようなすべてを完璧に持ち合わせている女性などこの世に存在しないのである。

反対に現実社会でケンは男性が権力を握っていることを知る。バービーやケンの製造会社マテルの重役はすべて男性。バービーランドのケンたちはただハンサムなだけで何も出来ないお飾りなのだが、現実社会では男達が生きがいのある仕事をしているのを見て感動する。しかし現実を理解できないケンは現実社会では男だというだけでなんでもやらせてもらえるのだと勘違いしてしまう。現実社会の男性は男性だから高い地位についているのではなく、実力があるからその地位についているのだということが理解できない。それというのもバービーランドのバービーたちはバービーだというだけで権力があるからである。バービーたちの職業は本物ではない。彼女達の肩書には中身がない。バービーランドでバービーたちがケンたちより権力があるのは、そういうふうに作られたからであって、実際にバービーたちにバービーランドを仕切る才能があるわけではないのだ。

ケンはバービーより一足先にバービーランドに帰ってケンが仕切る社会を作り出す。ケンは他のケン達に「現実社会では男が尊敬されているんだ!」と興奮して語る。どうやったのかケンはバービーたちを洗脳してケンたちに仕えることに満足させてしまう。どうしてそんなことが可能なのかは全く説明されないが、まあそれはいいとしよう。

結局現実社会から戻ったバービーは洗脳されていない他のバービーと、現実社会から連れて来た母親と娘のペアの協力を得てバービーランドを元のバービー支配下に戻すことができる。しかしその時、ケンはバービーに自分は別にバービーランドを支配したかったわけではないと告白。ただ単にバービーから尊敬されてバービーに愛してもらいたかっただけだと語る。

男性は女性の尻に敷かれて生きたいのではない。だが男性がすべてを支配したいわけでもない。ただ女性から尊敬されたいだけなのだ。これがフェミニストの考える理想的男性像だろうか?

私がこの映画がフェミニストの映画だと思わない最大の理由は、最後にバービーがバービーランドを出て現実社会で生きて行こうと決めるところだ。バービーランドはフェミニストの理想社会へと戻ったのだ。典型的バービーは大統領になってその社会を仕切ればいいではないか?それなのに彼女は不完全な現実社会へと出かけていくのだ。

何故?

彼女が最後に行った場所。それは産婦人科だったのだ!

バービーはバービーランドでフェミニストの理想的社会に生きるよりも、現実社会で子供を産むことを選んだのである。これでもこの映画はフェミニスト映画と言えるだろうか?


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ディズニーの実写版「白雪姫と7人の、、」なんじゃこれ?

この写真なんだと思います?

@ScriptTrooper weighs in on the leaked set photos from 'Snow White and the Seven Dwarfs'
Archive Link @ScriptTrooper via Twitter

なんとこれ、先日報道されたディズニーの「白雪姫と7人の小人たち」ならぬ「7人のホームレス」の撮影現場での写真だそうだ。小人役に本物の小人を使うのは差別だからいかんとかなんとかゲームオブスローンで人気の小人俳優が苦情を言ったとかで、何故か7人の小人たちはダイバーシティーに満ちたポリコレ配役になったらしい。黒人俳優より小人俳優のほうがよっぽども活躍する機会が少ないのに意味わからんな。

7人の小人たちは小人俳優を使わないかもしれないという噂が流れた時、小人俳優たちからはだいぶ苦情が上がった。俳優にとってディズニーの映画に出られるのは光栄なことで差別でも何でもない、余計なことを言って自分らの仕事を奪うなと言うことだった。以前にベルクロ―を付けた小人を壁に投げつけるショーが小人をバカにしてるといって廃止になり、多くの小人コメディアンが失業したという事実があるが、本人たちが嫌がってないのに外野がうるさく言ったために、かえって当事者達が迷惑を被るというのは良くある話である。

この写真が報道されてオンラインは大炎上。ディズニー側はこれは公式な発表ではなく、写真に写ってる人たちは実際の俳優ではなくスタンドインだと弁解。しかしスタンドインというのは証明や衣装あわせのために俳優と背格好が同じ人たちが演じるものなので、実際の俳優であるかどうかは余り意味がない。7人の小人たちが小人俳優によって演じられないという事実に変わりはないのだ。

白雪姫を題材とした実写版映画はこれまでにもいくつか制作されている。拙ブログでも11年前に紹介したことがある。

これらの映画は11年前とはいえ、もうすでにか弱き美しいお姫様が勇敢なる男らしい王子様に救われるという筋ではなく、どちらも白雪姫がアクションヒーローのように活躍する映画になってしまっていた。そういう映画ならもう嫌というほど作られている昨今、ディズニーの実写版くらい物語の精神にのっとってオリジナル通り素直に作ってもよかったんじゃないだろうか?

ディズニーの白雪姫は非常に古く、確かピーターパンと前後して長編ディズニーアニメの元祖ともいえる作品だ。私が子どもの頃、うちにはディズニーバンの白雪姫の絵本とそれについてきたレコードがあった。だから私は今でも白雪姫と森の小人たちのお掃除の歌を空で歌えるくらいなのだ(日本語だけど)。若い頃のハローウィーンでは白雪姫にふんしたこともあるくらい私はこのアニメのファンなのである。

他の映画会社が自分らなりに変更して新しい解釈の映画をいくら作ろうが私は別に構わないが、元のアニメーションを作ったディズニーだけはオリジナルへの敬意を払ってほしかった。

主役の白雪姫も雪のように白い肌のドイツ系白人ではなく、褐色肌のコロンビア系女優が演じるのだそうだ。ま、7人の小人が大人の男女になった以上、彼女の肌の色など、この際もうどうでもいい。

この映画は多分リトルマーメイドと同じで大したヒットは望めないだろう。いやこの写真に関する炎上がその前兆だとするならば、かなり悲惨な状況になる可能性がある。今ハリウッドは作家と俳優のストライキが起きているので撮影は停滞している状態。もし撮影があまり進んでいないのなら、この際だから7人の小人で撮り直しした方がいいのでは?


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神の子は売り物じゃない、子どもの人身売買を描いた実話に基づく映画「サウンドオブフリーダム」を左翼メディアがQアノンの陰謀論だと批判する訳

7月4日の一日売り上げが超大作のインディアナジョーンズ5を上回ってしまった話題の映画サウンドオブフリーダムを観て来たので、忘れないうちに感想を書いておこう。実はこの映画、ここ数日間で、なぜか左翼メディアがQアノンの陰謀論映画だと叩きまくってる。下記はその一部。

この映画がディズニーによって5年もお蔵入りしていたという話は前回したが、子供の人身売買は悪いというのは誰でも同意できることのはずで、それを訴える映画をQアノンの陰謀論だの被害妄想を煽っているだのと叩くというのはいったいどういう神経なのだろう。

ともかく先ず話のあらすじから始めよう。予告編はこちら(https://youtu.be/Rt0kp4VW1cI

あらすじ:これは実在する人物の体験談が元となっている映画だ。アメリカの国土安全保障局で小児性愛者の摘発に携わっていたティム・バラード隊員は何百人もの小児性愛者を逮捕してきたが、犠牲になっている子供たちを誰一人として救出することが出来ないことに憤りを感じていた。アメリカ国内のエージェントである彼は他所の国で誘拐され売られている子供たちを救う権限を持っていなかったからだ。そこである時、一週間だけ特別な許可をもらい、取り押さえた犯人を泳がせてメキシコから一人の子供をアメリカにつれてくるよう誘導する。それが成功して男児ミゲルを小児性愛者から救出する。救出したミゲルはほんの8歳で、性的に虐待された新しい傷跡が体中に残っていた。ミゲルを迎えにきた父親ロベルトに引き渡すと、ミゲルは別れ際にティムに一緒にさらわれた姉ロシオを取り戻して欲しいと頼む。自分にも男児とその姉と同じ年齢の子供がいるティムは迷うが、上司を説得してコロンビアへと捜査に向かう。しかしティムが考えだしたおとり作戦はアメリカ人エージェントとしては管轄外であり上司は納得しない。諦めて今すぐ帰国しろと命令されるティム。ティムは仕事を辞任してコロンビアに残り子供たちを救うべきかどうかアメリカの妻キャサリンに相談の電話をする。妻は「仕事を辞めて子供たちを救ってきなさい」と迷うティムを励ます。

映画感想

映画は冒頭から人々の心をつかむ。ハンドラスに住むロベルトは娘ロシオと息子ミゲルとの三人暮らし。或る日ジゼルという若く美しい女がやって来て、ロシオは美しく才能があるのでモデルのオーディションを受けるべきだとロベルトを説得。その時帰ってきた息子のミゲルと共に数日後にダウンタウンにあるホテルのようなところへ子供たちを連れてくるように言われる。行ってみると数人の子供たちがすでに部屋で待機しており、カメラなども用意されている。子供たちと一緒に部屋にはいろうとするロベルトに、ジゼルは保護者は入れないと言い、7時になったら迎えに来いと言って扉をしめる。数時間後言われた通りに子供たちを迎えにいくと、なんとホテルの部屋はもぬけの殻。子供たちも撮影器具もない。ショックを受けたロベルトは外へ飛び出すが、周りには人影一つなかった。このシーンは予告編にも使われている衝撃的なシーンである。

私はこれを観ていて昔読んだ「安寿と厨子王」を思い出した。人攫いというのは昔からあるものだが、こうした人さらいは今でも非常に多く起きている。映画によれば今現在奴隷として生きている人の数は奴隷制度が合法であった時代よりも多く、しかもその多くが幼い子供たちだという。さらわれた子供たちはコンテナに荷物のように詰め込まれ諸外国へ性奴隷として売り飛ばされていくのである。

題材がかなり厳しい内容ではあるが、子供が虐待される描写などは全くない。ただそういうことが起きているだろうと想像できるような描写はある。ティムは仕事柄何千という児童虐待の動画を観て、精神をやられそうになったとインタビューでも答えていたが、ティムが画像を再生してじっと見ているときの辛そうな顔で、その画面にどんな酷いことが描かれているのか想像できる。中南米の暴力団やコロンビアの反政府ゲリラとのやり取りがあるにも関わらず、画面上での暴力描写はほとんどない。

前回も書いた通り、この映画は1400万ドルというこの手の映画としてはかなりの低予算だが、CGIを駆使したスーパーヒーローのような大型映画よりもアクションシーンは迫力がある。おとり作戦で犯人グループを摘発するシーンや、主人公がコロンビアの密林の中まで子供を救いに行って反政府ゲリラに襲われるシーンなどは緊張感で手に汗握る迫力がある。

この映画には主人公ティムの他に何人かの英雄と呼んでいい登場人物が現れる。コロンビア警察のホルヘは仕事とはいえ危険な捜査に命を張ってティムに協力する。コロンビアで名の知れた元ギャングの親玉で前科者だが、今は自腹で子供たちを買い取って救い出しているいバンピノという男も裏社会のコネを使ってティムにとっては強い味方となる。大捜査の資金援助をし、おとり捜査で金持ち小児性愛者に扮して一役買う実業家のポール。彼等は自分らのやっていることがどれだけ危険か承知している。一歩間違えば殺されること間違いなしの捜査である。にもかかわらず一人でも多くの子供たちを救いたいという信念で動いているのだ。彼等こそがどんな派手なコスチュームに身を纏っているスーパーヒーローよりも本物の英雄である。

この映画には生意気で鼻もちならない女は出てこない。派手なアクションシーンもない。ただただ地道に仕事をする男たちの姿が描かれている。テーマは重苦しいものだが悲しくてオイオイ泣くような話ではない。さらわれた子供たちのことを思うと胸が締め付けられるほど悔しくて、あまりの感情が呼び覚まされたため泣くのを忘れてしまうほどだった。

主役のティムを演じるジム・カビーゼルの地味な演技だが、こういう仕事はやたらに感情的になっては務まらない。だがエージェントといえども人間だ感情はある。その冷静な風貌の内側からあふれ出る悲しみと怒りと信念がにじみ出る演技がすばらしい。

バンピノを演じるビル・キャンプもいい味が出ている。ティムからカルテルとして金儲けをし悠々自適な隠居生活をおくれるはずなのに、なぜ子供の救出などという活動をしているのかと聞かれた時、神の導きがあった時逆らうことは出来ないと答えるシーンはこころにグッとくる。

実業家ポールを演じるエドワルド・ベラステギ(Eduardo Verástegui)は凄い男前なのだが、役柄はプレイボーイではないため、おとり作戦のためにティムやバンピノからプレイボーイな演技を指導されるシーンは面白い。

ともかく俳優陣は皆力強い演技をしている。子役たちの演技も達者で、特にロシオ役クリスタル・アパリチ(Cristal Aparici)は自然ですばらしい。

何故か左翼リベラルメディアからは酷評ばかり

さて、こんな素晴らしい映画であるにもかかわらず、何故か左翼リベラルメディアからは酷評ばかりが目立つ。これについてフォックスニュースはこのように書いている。(Human-trafficking film ‘Sound of Freedom’ trashed by liberal outlets as ‘QAnon-adjacent’ | Fox News

 

複数のリベラル系メディアはここ数日、新作映画『サウンド・オブ・フリーダム』を “QAnonに隣接する”、”QAnonにふさわしい “と酷評し、人身売買を題材にしたこの映画を陰謀論者の餌食に追いやった。

英国の『ガーディアン』紙とウェブサイト『Jezebel』は、ジム・カヴィーゼル主演のこの映画は、米国国土安全保障省の捜査官が南米で人身売買業者から2人の幼い子どもを救出するという実話に基づいており、フリンジ陰謀論を鵜呑みにしていると非難されている右派コミュニティ、QAnonと癒着していると主張した。

エンジェル・スタジオが製作し、7月4日の連休に公開されたこの映画は、実際の地下性奴隷売買の裏側を暴露する一方で、そのような陰謀論には一切関与していないが、両アウトレットは、この映画とその興行的成功を貶めようとして、この映画を右派過激派と結びつけた。

なかでもひどいのはローリングストーンの記事だ。記事の見出しは「『サウンド・オブ・フリーダム』は脳ミソの弱いパパのためのスーパーヒーロー映画」となっており、映画の内容をこのように結論付けている。DeepL翻訳なのでちょっと解りにくいがこんな感じだ。

バラード、カヴィーゼル、そして彼らの同類たちは、児童の性的人身売買という著しく誇張された 「伝染病 」をめぐって何年もモラル・パニックを煽り、その多くが陰謀論者の迷宮やQAnonのコミュニティに人々を誘導することで、『サウンド・オブ・フリーダム』を妄想ではなくドキュメンタリーとして受け入れるよう大衆に呼びかけた。要するに、私は映画館で、彼らの最悪の恐怖が確認されるのを見に来た人々と一緒にいたのだ。

要するにローリングストーンの記者はこの話は誇張された妄想でありQアノンの陰謀論だといいたいらしい。しかしこれは実際にティム・バラードが率先して行ったおとり作戦の体験談であり、映画の最後では実際の記録動画も出て来る。ローリングストーンはこれらで救出された子供たちや逮捕されたペドたちも映画製作者の妄想だとでも言いたいのか?

前回もお話したように、この映画自体はすでに5年前に完成していたが、配給権を持っていたディズニーがずっとお蔵入りにして公開しなかった。ジム・カビーゼルによると、この映画の公開に当たっては、いたるところで公開を阻止しようという妨害に遭ったと言う。

いったいハリウッドは何をそんなに恐れているのだろうか?左翼リベラルはいったいこの映画の何が気に入らないのだろうか?単に大手映画会社の超大作が次々に失敗しているなか、低予算の地味な独立映画を成功させたくないだけなのか、それとも子供の人身売買というテーマに加害者として思い当たることでもあるのか?

物語の元となった体験をしたティム・バラードの話を聞いていて、左翼リベラルがヒステリーを起こしている理由に思い当たった。それはひとつにバラードはバイデン政権の国境政策に非常に批判的であるということ。今アメリカのメキシコ国境の状況は悲惨なものになっている。トランプ前大統領はメキシコを通じて違法移民が大量に流れてこないように、メキシコ及び中南米の国々に圧力をかけ、国境沿いに壁を建築するなど積極的な対策を取ってきたが、バイデン政権になった途端、そのすべての方針が白紙に戻ってしまい、ないに等しい国境を越えて中南米からさらわれてきた子供たちがどんどん性奴隷としてアメリカ国内に流れてきている。この映画によってその事実があからさまになることをバイデン政権押しの左翼連中が恐れているのではないだろうか。

もう一つは私が常々批判しているトランスジェンダリズムにも関連している。ティムはデイリーシグナルのインタビューのなかで、彼が欧州で見つけた小児性愛者の教理についてこう語る。

  • 子どもを親から引き離す ー政府こそが子どもの教育ができると言う考え
  • 子どもにポルノを見せて、性的に洗脳する
  • 神を教育現場から排除する -宗教は邪魔になる
  • 子どもが同意できると主張する、-子供の性行為同意年齢をどんどん下げようとするのもこの一つ

ティムはこのリストを読んでいて胸が悪くなったという。なぜならこれこそが左翼お目覚め主義連中のアジェンダであると気が付いたからだ。

ティム・バラードも主役のジム・カビーゼルも敬虔なキリスト教徒であることを隠しておらず、なにかと神の教えについて語るので、それだけでも左翼リベラルメディアは宗教右翼への憎悪を隠せない。しかし問題はそれだけではない。彼等は左翼リベラルが強く推している子供へのグルーミングに真っ向から挑戦している。こんな映画の存在は左翼リベラルのアジェンダにとって邪魔でしょうがないのだ。

だから彼等はこの映画をこき下ろし、これ以上人々が観に行かないように必死なのである。しかしすでに人々の口伝えで派手な宣伝もしていないこの映画はどんどんその評判を増している。左翼連中がどれだけ騒ごうと、すでにパンドラの箱は開けられてしまったのだ。


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インディアナジョーンズ5,たった4日で低予算独立映画サウンドオブフリーダムに一位の座を奪われる

いやいやいや、今年のディズニー映画は不作ぞろいだが、製作費と広告費を合わせて3憶5千万ドルかかったといわれるインディアナジョーンズ第5弾最終章「ダイアルオブデスティニー」は、なんと公開たったの4日目(しかも7月4日の独立記念日)にして製作費1千4百50万ドルの独立映画「サウンドオブフリーダム」に一日の売り上げ一位の座を奪われてしまった。サウンドオブの4日の売り上げは1.42千万ドルで、インディアナの1.17千万ドルを上回ってしまい、すでに製作費をほぼ全額取り戻しつつある。

インディアナのほうは公開が6月30日で、これまでの売り上げが1.54億ドルとまだまだ製作費の半分程度。今後国外市場の売り上げ数があがってくるとはいうものの、この手の映画の第一週末としてはあり得ないほど低い数値。

天下のディズニーだぞ!全国最多の映画館公開だぞ!インディアナジョーンズだぞ!ハリソンフォードだぞ!なんて売れない?なんで1兆ドルの売り上げにならないんだ?あり得ないだろう!!

というわけで7月4日前日にディズニー社では緊急会議が開くため夏休み休暇中の重役たちがそれぞれの旅先から呼び戻されたんだそうだ。

このサウンドオブフリーダムと言う映画は曰く付きでディズニーとは無関係ではない。子どもの人身売買シンジケートを扱った地味で重苦しい内容だが、映画自体は2018年にすでにエンジェルスタジオによって制作は完了していた。当時20thセンチュリーフォックスが配給する予定あったのだが、フォックスがディズニーに買収されてしまったため、ディズニーの配給となったのだが、何故かディズニーはこの映画を公開せず、そのままお蔵入りにしてしまった。

そこでエンジェルスタジオはディズニーから映画を買い戻し、なんと2年かけてクラウドファンディングで今回の配給に持ち込んだと言うのだ。独立映画会社であるから公開映画館もディズニーの約2分の1。限られた劇場だけでディズニーを上回るとは快挙だ。5年前にディズニーがさっさとサウンドオブを公開しておけばこんなことにはならなかったのに。馬鹿だなあ。

サウンドオブの予想外の大成功もさることながら、ディズニーの悲劇的な失態ぶりも大したものだ。なぜこんなことになってしまったのか。ちまたではプロジューサーのキャサリン・ケネディーに問題があると噂されている。ディズニーになってからスターウォーズに人気も大低落だし今度はインディアナジョーンズと来たもんだ。この2つに共通しているのがケネディーである。詳しいことは知らないが、ケネディーはスティーブン・スピルバーグとジョージ・ルーカスと初期の頃から一緒に仕事をしてきたという話だが、今回スピルバーグもルーカスもかかわっていないこの映画でケネディーだけが残った結果がこうだとすると、今までの成功にケネディーは全く貢献していなかったということは明白である。

私はどちらも観ていないのだが、スターウォーズの最新作でもこのインディアナジョーンズでも共通して言えることは全く魅力のない女性キャラクターだそうだ。スターウォーズのほうはルーク・スカイウォーカー、インディアナの方はインディアナ・ジョーンズというファンに長年愛されてきたキャラクターたちが主役だが、新作ではどちらもこれらのキャラクターが落ちぶれた老いぼれ爺さんとして脇役においやられ若くて生意気な女が何もかも解決してしまうという設定になっている。

ケネディーは一体これらの映画を誰のために作ったのだ?SF冒険もののファンはほとんどが男性だ。男は老いも若きも女にどつきまわされる老いぼれ爺さんの話なんか観たくない。いやそれをいうなら女だって何もかも自分でやってしまう女性の話なんぞ観たくない。

だいたい一番最初のスターウォーズの筋を考えてみてほしい。美しいレア(お姫様)が助けを求めるメッセージを送る。それを見た格好いいルーク(王子様)がお姫様を助けに冒険の旅に出、数々の試練を乗り越えてお姫様を救出するという昔ながらのおとぎ話の設定である。

フェミニストたちはこういふうに悲嘆の女性を救う設定は女性蔑視だといちゃもんをつけ、強い女性を描かなければならないと言い張る。元々強い女を描いた1990年代のXenaとか昔ながらのワンダーウーマンのようなキャラは人気があるが、これらの作品には彼女達の愛に等しい強い男性が登場する。どうもフェミニストたちは男をコケにすることでしか強い女を描けないらしい。

しかしこういういけ好かない女たちは人気がない。昨今のディズニーの不入り続きを観ていればそれは明白なはずだ。


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ポリコレ抜きで黒人キャラが冴えた1990年代とポリコレ現代の違い

本日7月4日はアメリカの独立記念日である。独立記念日の映画といえば、1996年に公開されたインディペンデンスデイという大ヒット作品がある。この映画が公開された当時、アメリカの映画界は人種差別を克服したという記事を読んだ覚えがある。そしてそのなかで「それが証拠に今年公開された大ヒット作品インディペンデンスデイの主役はマイノリティーだ」というような記述があった。私はすでにその映画を観ていたのだが、正直それを読んだ時それが誰を意味するのか暫く理解できなかった。「インディペンデンスデイの主役と言えばウィル・スミスだ。ウィル・スミスは大スターだし、彼のどこがマイノリティーなのだ?ふむ???」としばらく考えた後「あ、そうか、彼は黒人か!」と気が付いたのだ。そのぐらい自然な配役で人種など全く感じさせない演出になっていたのである。

思うに1990年代はアメリカで人種間の亀裂が一番少なかった時代だ。この頃は黒人の間でも人種関係は良好だと世論調査で答えた人が70%近くもいた。映画でもこの頃活躍した黒人俳優はウィル・スミスだけではなく、エディー・マーフィー、ウェスリー・スナイプス、デンゼル・ワシントン、サミュエル・ジャクソンなど何人もいる。テレビでも、超人気番組だったビル・コズビー主演のコズビーショー(1984-1992)を筆頭に、リジョナルド・ベルジョンソン演ずる黒人警官主役のファミリーマタース(1989-1998)、新人だったウィル・スミス主演のフレッシュプリンスオブベルエア(1990-1996)などがある。これらの番組は両親の揃った黒人一家を巡るコメディー番組で、出演者のほとんどが黒人だった。しかし視聴者はそんなことを全く気にせず人種の枠を超えて黒人にも白人にも広域な人々に愛される人気番組だった。

1980年代までは黒人の役は悪役やわき役が多く、例え主役でも黒人でなければ演じられないキャラクターが多かったが、1990年代になると黒人が普通の人として描かれることが多くなった。そしてそれを観客も自然に受け入れていた。これらの配役にはポリコレの「ポ」の字も感じられなかった。

それが早送りして2023年、なんで赤毛の白人役に黒人女優が起用されるなどというおかしなことが起きるようになったのだ?

あれだけ黒人俳優が活躍した1990年代に全く問題がなかったのに、2020年代の黒人配役には問題がつきものなのは何なのか。アメリカ人は俳優が白人だろうと黒人だろうといい映画や番組なら普通に受け入れていた。それなのに、なぜ2020年代の黒人配役は、こうも問題になるのだろうか?1990年代と2020年代の何が違うのか?

それは90年代の黒人配役は話の筋書き上自然だったのに対し、2020年代の黒人配役は話の内容から無理な設定が多すぎることにある。

インディペンデンスデイの主役キャプテン・スティーブン・ヒラ―は軍人だ。アメリカ軍には黒人も多くいるので全く無理な設定ではない。上に挙げたテレビ番組の場合も父親の職業が医者、弁護士、警官で、とってつけたように異人種と結婚したりしておらず、ごくごく自然な設定だ。

ところが2020年代になると、イギリスの宮廷ドラマなのに黒人が普通に貴族として出て来たり、クレオパトラが黒人になったり、デンマークの話である人魚姫が黒人になったり、イギリスの神話として書かれた指輪物語に黒人エルフが登場したりと無理やり感が半端ないのだ。

挙句の果てにアメリカのポリコレ活動家たちは、日本のアニメやゲームの登場人物にまで、黒人が登場しないとか、既存のキャラを黒人に書き換えろなどと要求してくる始末だ。

結果論から言わせてもらえば、この黒人俳優無理押しのいわゆるブラックウォッシュは概ね成功していない。最近何度も書いているように、多くの視聴者が、もう黒人俳優はたくさんんだと思い始めている。

同じ理由で女性キャラの無理押しも人気がない。ディズニーの最新作のインディアナ・ジョーンズ5では、主役のインディアナ・ジョーンズが老いぼれて全く頼りにならないのを生意気な孫娘がなんでもかんでも解決してしまうという話なんだそうで、興行成績は散々たるものだ。フェミニストたちはやたらと強い女を登場させろと煩いが、なぜかそれが、多くの人びとに愛されてきた既存のヒーローを犠牲にしてでなければ、達成されないというやり方に反感を買っている。

最後に2023年でも無理のない黒人キャラクターの登場する映画のお話で終わりにしよう。ハリウッドもやればできるという例だ。

マーベルコミックスのスパイダーマン、アクロスザスパイダーバースこれは2019年公開のInto the Spider Verseの続編。主役はマイルスという15歳の少年で、アフリカ系黒人の父親とプエルトリコ系の母親の間で生まれたハーフ。舞台はニューヨーク州のブルックリンなのでごく自然な設定だ。スパイダーマンといえば主役はピーター・パーカーという白人青年というのが原作だが、このキャラクターは同じ世界に住む別のキャラクター。無理やりピーターを黒人にせず、別のキャラクターを作り、そのキャラクターを主役にした筋書きにしピーターを脇に回すという面白い演出で非常に好感が持てる。

既存の作品に黒人キャラを登場させたいなら、こうやるべきというお手本のようなものだ。

では本日はこれまで。

Happy Independence day!


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大手映画会社が次々とダイバーシティー専門家を解雇

事あるごとにダイバーシティーだと言ってあらゆる分野で有色人種を雇用しなければならないとハチャメチャな規則を作っているハリウッドだが、ここ二週間で大手映画会社からダイバーシティー専門家が四人続けて解雇された。

ワーナーブラザース、ディズニー、ディスカバリー、ネットフリックス、が、「多様性、平等、包括性」Diversity, Equity and Inclusion (DEI)リーダーの職をここ10日間で次々に廃止してしまった。このDEIという地位は2020年のBLM暴動の際に作られたものだが、たったの三年でお払い箱になったらしい。

私はそんな地位が新しく出来ていたということを今まで知らなかったのだが、なるほどそれでか、と思いあたることがいくつもある。

先ずディズニーのリトルマーメードを始め、やたら元来白人が演じるべき役を無理やり黒人に挿げ替えて見たり、「強い女性」と言ってスーパーヒーローがフェミニストになり、頼りになるはずの男が完全にコケにされるといった内容の映画が多くなった。最新作のインディアナ・ジョーンズではハリソン・フォード演じる主役が耄碌爺さんのような頼りない扱いになっているとかで実に評判が悪い。ともかくディズニーはここ三年不作に次ぐ不作で大赤字だが、インディアナ・ジョーンズはこれまで最高の製作費を投じての作品であるにもかかわらず興行成績は悲劇的な大赤字が予測されている。

ネットフリックスもロトゥントマトで史上最低の評価を得たアフロ黒人主役のクレオパトラなど、ともかく酷い作品が続々と出て視聴率が落ちてると言う。アカデミーも新しくできたダイバシ―ティー規則は映画関係者の間からも苦情が出ている。

私は地上波テレビは全く見ないが、それでもユーチューブを観ているとコマーシャルを観ることはある。そして最近のCMと来たら、モデルや役者はほぼみんな黒人。男女カップルだと片方が白人でも必ず相手は黒人。東洋人が出る確率も増えたが、なんといっても圧倒的に多いのは黒人だ。今のアメリカのコマーシャルを観ていたら、アメリカの人口は80%以上が黒人であとの20%に白人や東洋人やラテン系が居ると言う印象を持ってしまう。

それでもこうした配役で映画が売れるというならそれでもいいだろう。だがDEIに考慮した作品はすべて不入りで評判もしごく悪い。DEIは映画界にとって疫病神以外の何物でもないのだ。

もともとハリウッドはBLMの精神を支持していたわけではなく、BLMを支持している姿勢を見せた方が自分らの得になると思っていたから迎合していたに過ぎない。しかしBLMはすでにアメリカ社会でも人気がないだけでなく、私のような人種差別心ゼロの人間ですら、もう黒人俳優を観たくないと思ってしまうほど観客たちはげんなりしている。

私は政治思想が作品に反映すること自体は悪いことだとは思わないが、誰もお説教を聞かされるためにわざわざお金を払って映画館に足を運びはしない。映画は先ず面白くなくてはならない。そのなかでメッセージを織り込めるならそうすればいい。だがメッセージだけの映画なんて誰も観たくないのだ。

ハリウッドもやっとそれに気づいたのだろうか?


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スタートレック、ストレンジニューワールドの酷すぎるシーズン2第一話

一年間まってスタートレックのストレンジニューワールドのシーズン2第一話を観た。去年スタートレックシリーズを全部観たくてパラマウントと契約したのだが、シーズンがお休みに入ったので解約し、ピカードのシーズンが始まったらまた始めようと思っていた。しかしピカードの第三シーズンは一話を無料で観たが全然面白くなかったので、ストレンジニューワールドが始まったら再開しようと待っていた。

そしてついにストレンジニューワールド第二シーズン開始ということで、先ずは無料の第一話を観た。観たが、、酷かった、、酷すぎる。

先ずシーズンプレミアなのに主役のパイク艦長が最初の数分しか出て来ない。第一シーズンで逮捕されたナンバーワンの弁護をするために出張するという設定でエンタープライズはスポックに任される。第一話でなんでこうなる?無料の第一話で視聴者の心をつかむ必要がああるのに、一番魅力的なキャラクター(しかも主役)を早々に追っ払うってのはどういうことだ?

ま、百歩譲って第二の主役であるスポックに焦点を当てたエピソードにするというなら、まあいいとしよう。ところがこの話の主役はスポックでもないのだ!

話はパイク艦長が留守の間に以前の乗組員だったエリカからのSOSを受け、スポックは上部を騙してエンタープライズを勝手に使って救助に向かう。到着した星はクリンゴンの植民地だかなんだかでクリンゴン星人が沢山いる。探索チームはムベンガ医師とチャペル看護婦を含む数人だがスポックは含まれていない。まあそれはいいとしよう。

探索中に身元がばれてドクタームベンガとナースチャペルが捕まってしまい、話の後半はこの二人がどうやって脱出するかという話になってしまう。一千歩譲って医療チームの二人に焦点をあてるのなら、それはそれでいいとしよう。しかし彼等の脱出の仕方がまるで非現実的なのだ。

ドクターは全く格闘専門家ではないドクターとナースが突然格闘のプロになれる魔法の薬を持っている。そして二人はその薬を注射することで何人もの強靭なクリンゴン警備隊をぼこぼこにやっつけるというスーパーヒーローとヒロインになってしまうのである。

なんだこの馬鹿げた話は!

格闘シーンを撮りたいなら格闘にふさわしいキャラクターを使うべきで、なんで医者と看護婦が格闘するのだ?彼等を主役にしたいなら医者と看護婦という職業を生かした筋書きにすべきじゃないのか?例えば流行り病が蔓延してクリンゴンの植民地が危機的な状況にさらされていることを知ったスポックがムバンガ医師とその医療チームを派遣してフェデレーションの医学をもってして人々を救うとか。最初はフェデレーションの力など借りないといっていたクリンゴン星人がスポックとの交渉でしぶしぶ援助を受けるとかなんとかやり方があったんじゃないのか?なんで格闘技になるのだ、アホか!

私が新しいスタートレックシリーズのなかでストレンジニューワールドが気に入ってる理由はカーク船長の時代のオリジナルの雰囲気が出ている番組だからである。それなのに、この新シーズンはまるで大駄作だったディスカバリーの脚本家や製作者がそのまま移動してきたのではないかと思えるほどひどいものになっている。

筋がくだらないのもそうだが、私がディスカバリーシリーズで大嫌いだった色々な要素がこちらにもある。

先ず画像が暗すぎる。ディスカバリーは最初から最後まで画面が暗くて何が起きてるのか分からない状況が多かった。特に船内の証明が暗すぎる。登場人物が黒人ばっかりなのに、あれでは人々の顔の表情が良く分からない。その点SNWの第一シーズンは明るくてそれぞれの登場人物の顔が良く見えてよかったと思っていたのだ。

ところが今シーズンは船内がまっくらけ。訪れたクリンゴンの植民地も薄暗くて格闘シーンでも何がおきてるのかよくわからない。ドクタームバンガはアフリカ人でかなり肌の色が黒い。コンナに暗くては彼の顔が全然見えない!

乗組員はブス女ばかり。スポックとムバンガ以外の主要な乗組員は全員女性。しかもオフラを含めて美女が一人も居ない。オリジナルシリーズではオフラは超美人で赤いミニドレスの下から美脚を出すシーンが有名だったのに。そういえばこのシリーズでは、これだけ女性乗組員が多いのに誰一人としてミニスカートのユニフォームを着ていない。

最近ゲーマーたちも文句を言っていたが、何故かサイエンスフィクションやアクション物に出てくる女性が最近やたらにブスが多くなった。昔は映画でもテレビ番組でもゲームでも、主要なキャラクターは皆美男美女と相場は決まっていた。そして美女は特にスタイルのいい身体の線がばっちり決まるセクシーな恰好をしていたものである。

そんな服を着て闘えるのか、とか、スペースシップでミニスカートはおかしいだろ、とかいうツッコミは娯楽番組に向けてすべきことではない。そんなの分かりきってることだ。そんなことをするのは、日本のアニメの女の子キャラが着てる服に機能性を要求するくらい無粋というものである。

百万歩譲って登場人物がみんな醜女とブ男ばかりなのを許すとしても、話の筋がバカバカしすぎるという点はもう許容できる範囲ではない。どうしてハリウッドは成功しているシリーズすらも台無しにしてしまうのだ?

だいたいこのシリーズは誰を対象に作られているのだ?普通サイエンスフィクションのファンには男性が多いが、男性ならセクシーな衣装を纏った美女を見たいはずだ。女性ファンを増やしたいなら格好いいイケメン俳優の活躍を見たいはずだ。

ブスの女ばかりが出てくる番組を一体誰が見たいのだ!

ひとつだけ良い点。クリンゴンが新世代の時のクリンゴンに戻ったこと。オリジナルシリーズの時はメイクアップの技術がまだ未熟であったため、クリンゴン星人は肌の色が黒っぽく釣り眉毛だったくらいで地球人との区別はあまりつかなかったのだが、新世代で額に深いしわのある顔になり、全体的に大柄で男も女も強靭である設定に変わった。クリンゴンの女は特に豊満な胸の谷間が自慢だった。

それが何故かディスカバリーではメイクが完全に変わって俳優の顔がまるで分別できないほどひどいものになっており、いったい何星人なのだろうと思うくらい変わってしまっていた。それが今回90年代のネクストジェン・新世代の時にもどったのは非常に良いことだと思う。

さて、第二話からはお金を払わないと見られないのだが、いまどうしようか思案中。パラマウントで良い作品が多いのであれば登録してもいいが、これだけしか見るのがないのであれば、登録の価値があるかどうか、今悩んでいる。


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映画のミュージカル化が大成功した「プロデューサーズ」に大感激

本日のカカシミュージカル観賞批評はメル・ブルックス監督の1958年公開の同題名の映画を、やはりブルックス監督が舞台でミュージカル化した「プロデューサーズ」。いやあ、聞いてはいたけど素晴らしかった。

さっきウィキで調べたところによると、この映画はヒットラーを主演させるミュージカルを作るという悪趣味な内容のせいなのか、日本での公開は何と2000年までされなかったというのだから驚いた。ミュージカルがブロードウェイで発表されたのが2001年だったので、ぎりぎり間に合った感がある。

映画とミュージカルの筋は全く同じなのでウィキからあらすじを拝借。ネタバレあり。

かつてはブロードウェイの大物プロデューサーだったが、今はすっかり落ち目のマックス・ビアリストックは、裕福な老婦人たちのご機嫌取りで金銭を稼ぐ日々。ある日、マックスの事務所へ気弱な会計士のレオ・ブルームが訪れる。彼は帳簿を調べている内に、ミュージカルを当てるより失敗させた方がより大儲けできることに気付く。マックスはこれはいいアイデアだと、レオを誘い最低なミュージカルを作って一攫千金の詐欺を企む。

確実に失敗させるためにはまずは最低な脚本を、と探し当てたのはナチシンパのドイツ人フランツ・リープキンが書いた『ヒトラーの春』(Springtime for Hitler)だった。首尾よく上演権をとりつけたマックスは早速金集めに奔走、高額の配当をエサに愛人の老婦人たちから莫大な出資金を騙し取る。続いて最低な演出家として、ゲイで女装趣味の演出家ロジャー・デ・ブリーを起用。そして最低の役者として主役のヒトラーに選ばれたのは、別のオーディション会場と間違えて来たヒッピーのイカレ男ロレンツォ・サン・デュボワ(イニシャルからLSDと呼ばれる)である。

以降ネタバレ注意!

これで万全、上演は失敗間違いなし!とほくそえむ2人だったが、やがて初日を迎えると予想外の反応が待っていた。最初こそ馬鹿げた内容に腹を立てる客が続出したものの、LSDが怪演するオカマ風ヒトラーに観客は爆笑につぐ爆笑。ナチ党員が手に手をとって陽気に歌い踊るあまりにも俗悪極まる内容に、ヒトラーを笑い者にした反ナチの風刺コメディだと観客に勘違いされる。結果はなんとミュージカルは大ヒットしてしまうのだった。

このミュージカルは公開するや大ヒットを飛ばし、何年ものロングランで主役も何回か入れ替わったが、2005年には今度はこのミュージカル版がオリジナルキャストのネイサン・レーンのマックスと、マシュー・ブロードリックのリオで映画化され公開された。何故かこちらの方はあまり業績はよくなかったのだが。

私が今回観た舞台は、ブロードウェイ版ではなく、なんと5年前に行われたサミット高校の演劇部公演によるものだ。ユーチューブではよく高校や大学の演劇部による舞台公演がアップされているが、これらの舞台は素人とは思えないほど素晴らしい掘り出し物がよくある。今回のこのプロダクションは舞台装置から衣装からオーケストラから、そしてもちろん役者たちの演技に至るまで、高校生とは思えない非常に質の高いものだった。

私は元の映画を1970年代に観た記憶がある。私はメル・ブルックスの大ファンだったので、1978年から2000年にかけて彼の映画を結構まとめて観た。ただ、私は当時無知な日本人女性だったことから、ブルックス監督がいかにあからさまに自分のユダヤ文化を全面的に押し出す監督なのかということに気が付かなかった。

ユダヤ文化というのは結構特異なもので、それにしょっちゅう面していないと、それがユダヤ文化なのだと言うことにも気づけない。このミュージカルではマックスもだがリオは特にユダヤ人典型の人物である。ミュージカルナンバーも屋根の上のバイオリン弾きを思わす踊りや音楽が最初から流れて来るし、ジョークもいちいちユダヤ風。ブルックス監督特有のこれでもかというくらいしつこい。

そういうわけだから、マックスとリオがプロデュースしようというミュージカルが「ヒットラーの春」なんてのは悪趣味も行き過ぎだし、誰がこんなものを見たがるものか、となるのが当然な成り行きである。

これにういて実はちょっと面白い話がある。ユダヤ系である我が夫ミスター苺はこの話について何も知らなかった。それで私がユーチューブでこのミュージカルを観ているところに部屋に入ってきたミスター苺は、私がちょうど観ていた「春の日、ヒットラーのドイツ~」というコーラスにヒットラー青年団の制服を着た若者たちがハイルヒットラーの敬礼をしながらグースステップで歩き回るナンバーを観て「なんだこの悪趣味なナンバーは、早く消せ!」と怒ったことがあるのだ。それで私が「いやいや、これは風刺だから。ジョークジョーク」と説明したのだが、主人は「冗談でもやっていいことと悪いことがある」とプンプンに怒ってしまったのだ。今回私と一緒に最初から最後まで観たミスター苺は同じナンバーのところで大笑いしていたが。

というわけで、いかにこの主題がユダヤ系の人びとにとって敏感なものであるかがお分かりいただけたと思う。だからこそミュージカルとして絶対に成功するはずはないとマックスとリオは踏んだわけである。

このミュージカルがミュージカルとして非常に優れている点は、マックスとリオが脚本家や監督を訪ねるシーンでそれぞれ個性あるキャラクターによるミュージカルナンバーが繰り広げられることや、主役を選ぶオーディションのシーンなどでも登場人物たちの個性が非常によく表れていて面白いことだ。主役は確かにマックスとリオだが、脇のキャラクターたちの見せ場が多く面白い。

そして極めつけは何と言っても「春の日、ヒットラーのドイツ」ナンバーである。これはユーチューブに色々なバージョンが上がっているが2005年の映画のバージョンが特に良い。独唱は私が大好きなジョン・バローマン。

このミュージカルにはいくつも良いミュージカルナンバーがあるが、最後のほうでマックスが独唱するシーンは素晴らしい。これは単に歌がうまいだけでは駄目で、コメディーとしての要素をしっかり表現んできる役者でなければ務まらない。ブロードウェイと映画ではネイソン・レーンが演じているが、彼はブロードウェイではコメディーミュージカル俳優としてはベテラン。映画ではラカージャフォーでも主演を演じているので親しみのある人も多いだろう。

日本の皆さんには映画バージョンをお薦めする。


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