インディアナジョーンズ5,たった4日で低予算独立映画サウンドオブフリーダムに一位の座を奪われる

いやいやいや、今年のディズニー映画は不作ぞろいだが、製作費と広告費を合わせて3憶5千万ドルかかったといわれるインディアナジョーンズ第5弾最終章「ダイアルオブデスティニー」は、なんと公開たったの4日目(しかも7月4日の独立記念日)にして製作費1千4百50万ドルの独立映画「サウンドオブフリーダム」に一日の売り上げ一位の座を奪われてしまった。サウンドオブの4日の売り上げは1.42千万ドルで、インディアナの1.17千万ドルを上回ってしまい、すでに製作費をほぼ全額取り戻しつつある。

インディアナのほうは公開が6月30日で、これまでの売り上げが1.54億ドルとまだまだ製作費の半分程度。今後国外市場の売り上げ数があがってくるとはいうものの、この手の映画の第一週末としてはあり得ないほど低い数値。

天下のディズニーだぞ!全国最多の映画館公開だぞ!インディアナジョーンズだぞ!ハリソンフォードだぞ!なんて売れない?なんで1兆ドルの売り上げにならないんだ?あり得ないだろう!!

というわけで7月4日前日にディズニー社では緊急会議が開くため夏休み休暇中の重役たちがそれぞれの旅先から呼び戻されたんだそうだ。

このサウンドオブフリーダムと言う映画は曰く付きでディズニーとは無関係ではない。子どもの人身売買シンジケートを扱った地味で重苦しい内容だが、映画自体は2018年にすでにエンジェルスタジオによって制作は完了していた。当時20thセンチュリーフォックスが配給する予定あったのだが、フォックスがディズニーに買収されてしまったため、ディズニーの配給となったのだが、何故かディズニーはこの映画を公開せず、そのままお蔵入りにしてしまった。

そこでエンジェルスタジオはディズニーから映画を買い戻し、なんと2年かけてクラウドファンディングで今回の配給に持ち込んだと言うのだ。独立映画会社であるから公開映画館もディズニーの約2分の1。限られた劇場だけでディズニーを上回るとは快挙だ。5年前にディズニーがさっさとサウンドオブを公開しておけばこんなことにはならなかったのに。馬鹿だなあ。

サウンドオブの予想外の大成功もさることながら、ディズニーの悲劇的な失態ぶりも大したものだ。なぜこんなことになってしまったのか。ちまたではプロジューサーのキャサリン・ケネディーに問題があると噂されている。ディズニーになってからスターウォーズに人気も大低落だし今度はインディアナジョーンズと来たもんだ。この2つに共通しているのがケネディーである。詳しいことは知らないが、ケネディーはスティーブン・スピルバーグとジョージ・ルーカスと初期の頃から一緒に仕事をしてきたという話だが、今回スピルバーグもルーカスもかかわっていないこの映画でケネディーだけが残った結果がこうだとすると、今までの成功にケネディーは全く貢献していなかったということは明白である。

私はどちらも観ていないのだが、スターウォーズの最新作でもこのインディアナジョーンズでも共通して言えることは全く魅力のない女性キャラクターだそうだ。スターウォーズのほうはルーク・スカイウォーカー、インディアナの方はインディアナ・ジョーンズというファンに長年愛されてきたキャラクターたちが主役だが、新作ではどちらもこれらのキャラクターが落ちぶれた老いぼれ爺さんとして脇役においやられ若くて生意気な女が何もかも解決してしまうという設定になっている。

ケネディーは一体これらの映画を誰のために作ったのだ?SF冒険もののファンはほとんどが男性だ。男は老いも若きも女にどつきまわされる老いぼれ爺さんの話なんか観たくない。いやそれをいうなら女だって何もかも自分でやってしまう女性の話なんぞ観たくない。

だいたい一番最初のスターウォーズの筋を考えてみてほしい。美しいレア(お姫様)が助けを求めるメッセージを送る。それを見た格好いいルーク(王子様)がお姫様を助けに冒険の旅に出、数々の試練を乗り越えてお姫様を救出するという昔ながらのおとぎ話の設定である。

フェミニストたちはこういふうに悲嘆の女性を救う設定は女性蔑視だといちゃもんをつけ、強い女性を描かなければならないと言い張る。元々強い女を描いた1990年代のXenaとか昔ながらのワンダーウーマンのようなキャラは人気があるが、これらの作品には彼女達の愛に等しい強い男性が登場する。どうもフェミニストたちは男をコケにすることでしか強い女を描けないらしい。

しかしこういういけ好かない女たちは人気がない。昨今のディズニーの不入り続きを観ていればそれは明白なはずだ。


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ポリコレ抜きで黒人キャラが冴えた1990年代とポリコレ現代の違い

本日7月4日はアメリカの独立記念日である。独立記念日の映画といえば、1996年に公開されたインディペンデンスデイという大ヒット作品がある。この映画が公開された当時、アメリカの映画界は人種差別を克服したという記事を読んだ覚えがある。そしてそのなかで「それが証拠に今年公開された大ヒット作品インディペンデンスデイの主役はマイノリティーだ」というような記述があった。私はすでにその映画を観ていたのだが、正直それを読んだ時それが誰を意味するのか暫く理解できなかった。「インディペンデンスデイの主役と言えばウィル・スミスだ。ウィル・スミスは大スターだし、彼のどこがマイノリティーなのだ?ふむ???」としばらく考えた後「あ、そうか、彼は黒人か!」と気が付いたのだ。そのぐらい自然な配役で人種など全く感じさせない演出になっていたのである。

思うに1990年代はアメリカで人種間の亀裂が一番少なかった時代だ。この頃は黒人の間でも人種関係は良好だと世論調査で答えた人が70%近くもいた。映画でもこの頃活躍した黒人俳優はウィル・スミスだけではなく、エディー・マーフィー、ウェスリー・スナイプス、デンゼル・ワシントン、サミュエル・ジャクソンなど何人もいる。テレビでも、超人気番組だったビル・コズビー主演のコズビーショー(1984-1992)を筆頭に、リジョナルド・ベルジョンソン演ずる黒人警官主役のファミリーマタース(1989-1998)、新人だったウィル・スミス主演のフレッシュプリンスオブベルエア(1990-1996)などがある。これらの番組は両親の揃った黒人一家を巡るコメディー番組で、出演者のほとんどが黒人だった。しかし視聴者はそんなことを全く気にせず人種の枠を超えて黒人にも白人にも広域な人々に愛される人気番組だった。

1980年代までは黒人の役は悪役やわき役が多く、例え主役でも黒人でなければ演じられないキャラクターが多かったが、1990年代になると黒人が普通の人として描かれることが多くなった。そしてそれを観客も自然に受け入れていた。これらの配役にはポリコレの「ポ」の字も感じられなかった。

それが早送りして2023年、なんで赤毛の白人役に黒人女優が起用されるなどというおかしなことが起きるようになったのだ?

あれだけ黒人俳優が活躍した1990年代に全く問題がなかったのに、2020年代の黒人配役には問題がつきものなのは何なのか。アメリカ人は俳優が白人だろうと黒人だろうといい映画や番組なら普通に受け入れていた。それなのに、なぜ2020年代の黒人配役は、こうも問題になるのだろうか?1990年代と2020年代の何が違うのか?

それは90年代の黒人配役は話の筋書き上自然だったのに対し、2020年代の黒人配役は話の内容から無理な設定が多すぎることにある。

インディペンデンスデイの主役キャプテン・スティーブン・ヒラ―は軍人だ。アメリカ軍には黒人も多くいるので全く無理な設定ではない。上に挙げたテレビ番組の場合も父親の職業が医者、弁護士、警官で、とってつけたように異人種と結婚したりしておらず、ごくごく自然な設定だ。

ところが2020年代になると、イギリスの宮廷ドラマなのに黒人が普通に貴族として出て来たり、クレオパトラが黒人になったり、デンマークの話である人魚姫が黒人になったり、イギリスの神話として書かれた指輪物語に黒人エルフが登場したりと無理やり感が半端ないのだ。

挙句の果てにアメリカのポリコレ活動家たちは、日本のアニメやゲームの登場人物にまで、黒人が登場しないとか、既存のキャラを黒人に書き換えろなどと要求してくる始末だ。

結果論から言わせてもらえば、この黒人俳優無理押しのいわゆるブラックウォッシュは概ね成功していない。最近何度も書いているように、多くの視聴者が、もう黒人俳優はたくさんんだと思い始めている。

同じ理由で女性キャラの無理押しも人気がない。ディズニーの最新作のインディアナ・ジョーンズ5では、主役のインディアナ・ジョーンズが老いぼれて全く頼りにならないのを生意気な孫娘がなんでもかんでも解決してしまうという話なんだそうで、興行成績は散々たるものだ。フェミニストたちはやたらと強い女を登場させろと煩いが、なぜかそれが、多くの人びとに愛されてきた既存のヒーローを犠牲にしてでなければ、達成されないというやり方に反感を買っている。

最後に2023年でも無理のない黒人キャラクターの登場する映画のお話で終わりにしよう。ハリウッドもやればできるという例だ。

マーベルコミックスのスパイダーマン、アクロスザスパイダーバースこれは2019年公開のInto the Spider Verseの続編。主役はマイルスという15歳の少年で、アフリカ系黒人の父親とプエルトリコ系の母親の間で生まれたハーフ。舞台はニューヨーク州のブルックリンなのでごく自然な設定だ。スパイダーマンといえば主役はピーター・パーカーという白人青年というのが原作だが、このキャラクターは同じ世界に住む別のキャラクター。無理やりピーターを黒人にせず、別のキャラクターを作り、そのキャラクターを主役にした筋書きにしピーターを脇に回すという面白い演出で非常に好感が持てる。

既存の作品に黒人キャラを登場させたいなら、こうやるべきというお手本のようなものだ。

では本日はこれまで。

Happy Independence day!


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大手映画会社が次々とダイバーシティー専門家を解雇

事あるごとにダイバーシティーだと言ってあらゆる分野で有色人種を雇用しなければならないとハチャメチャな規則を作っているハリウッドだが、ここ二週間で大手映画会社からダイバーシティー専門家が四人続けて解雇された。

ワーナーブラザース、ディズニー、ディスカバリー、ネットフリックス、が、「多様性、平等、包括性」Diversity, Equity and Inclusion (DEI)リーダーの職をここ10日間で次々に廃止してしまった。このDEIという地位は2020年のBLM暴動の際に作られたものだが、たったの三年でお払い箱になったらしい。

私はそんな地位が新しく出来ていたということを今まで知らなかったのだが、なるほどそれでか、と思いあたることがいくつもある。

先ずディズニーのリトルマーメードを始め、やたら元来白人が演じるべき役を無理やり黒人に挿げ替えて見たり、「強い女性」と言ってスーパーヒーローがフェミニストになり、頼りになるはずの男が完全にコケにされるといった内容の映画が多くなった。最新作のインディアナ・ジョーンズではハリソン・フォード演じる主役が耄碌爺さんのような頼りない扱いになっているとかで実に評判が悪い。ともかくディズニーはここ三年不作に次ぐ不作で大赤字だが、インディアナ・ジョーンズはこれまで最高の製作費を投じての作品であるにもかかわらず興行成績は悲劇的な大赤字が予測されている。

ネットフリックスもロトゥントマトで史上最低の評価を得たアフロ黒人主役のクレオパトラなど、ともかく酷い作品が続々と出て視聴率が落ちてると言う。アカデミーも新しくできたダイバシ―ティー規則は映画関係者の間からも苦情が出ている。

私は地上波テレビは全く見ないが、それでもユーチューブを観ているとコマーシャルを観ることはある。そして最近のCMと来たら、モデルや役者はほぼみんな黒人。男女カップルだと片方が白人でも必ず相手は黒人。東洋人が出る確率も増えたが、なんといっても圧倒的に多いのは黒人だ。今のアメリカのコマーシャルを観ていたら、アメリカの人口は80%以上が黒人であとの20%に白人や東洋人やラテン系が居ると言う印象を持ってしまう。

それでもこうした配役で映画が売れるというならそれでもいいだろう。だがDEIに考慮した作品はすべて不入りで評判もしごく悪い。DEIは映画界にとって疫病神以外の何物でもないのだ。

もともとハリウッドはBLMの精神を支持していたわけではなく、BLMを支持している姿勢を見せた方が自分らの得になると思っていたから迎合していたに過ぎない。しかしBLMはすでにアメリカ社会でも人気がないだけでなく、私のような人種差別心ゼロの人間ですら、もう黒人俳優を観たくないと思ってしまうほど観客たちはげんなりしている。

私は政治思想が作品に反映すること自体は悪いことだとは思わないが、誰もお説教を聞かされるためにわざわざお金を払って映画館に足を運びはしない。映画は先ず面白くなくてはならない。そのなかでメッセージを織り込めるならそうすればいい。だがメッセージだけの映画なんて誰も観たくないのだ。

ハリウッドもやっとそれに気づいたのだろうか?


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スタートレック、ストレンジニューワールドの酷すぎるシーズン2第一話

一年間まってスタートレックのストレンジニューワールドのシーズン2第一話を観た。去年スタートレックシリーズを全部観たくてパラマウントと契約したのだが、シーズンがお休みに入ったので解約し、ピカードのシーズンが始まったらまた始めようと思っていた。しかしピカードの第三シーズンは一話を無料で観たが全然面白くなかったので、ストレンジニューワールドが始まったら再開しようと待っていた。

そしてついにストレンジニューワールド第二シーズン開始ということで、先ずは無料の第一話を観た。観たが、、酷かった、、酷すぎる。

先ずシーズンプレミアなのに主役のパイク艦長が最初の数分しか出て来ない。第一シーズンで逮捕されたナンバーワンの弁護をするために出張するという設定でエンタープライズはスポックに任される。第一話でなんでこうなる?無料の第一話で視聴者の心をつかむ必要がああるのに、一番魅力的なキャラクター(しかも主役)を早々に追っ払うってのはどういうことだ?

ま、百歩譲って第二の主役であるスポックに焦点を当てたエピソードにするというなら、まあいいとしよう。ところがこの話の主役はスポックでもないのだ!

話はパイク艦長が留守の間に以前の乗組員だったエリカからのSOSを受け、スポックは上部を騙してエンタープライズを勝手に使って救助に向かう。到着した星はクリンゴンの植民地だかなんだかでクリンゴン星人が沢山いる。探索チームはムベンガ医師とチャペル看護婦を含む数人だがスポックは含まれていない。まあそれはいいとしよう。

探索中に身元がばれてドクタームベンガとナースチャペルが捕まってしまい、話の後半はこの二人がどうやって脱出するかという話になってしまう。一千歩譲って医療チームの二人に焦点をあてるのなら、それはそれでいいとしよう。しかし彼等の脱出の仕方がまるで非現実的なのだ。

ドクターは全く格闘専門家ではないドクターとナースが突然格闘のプロになれる魔法の薬を持っている。そして二人はその薬を注射することで何人もの強靭なクリンゴン警備隊をぼこぼこにやっつけるというスーパーヒーローとヒロインになってしまうのである。

なんだこの馬鹿げた話は!

格闘シーンを撮りたいなら格闘にふさわしいキャラクターを使うべきで、なんで医者と看護婦が格闘するのだ?彼等を主役にしたいなら医者と看護婦という職業を生かした筋書きにすべきじゃないのか?例えば流行り病が蔓延してクリンゴンの植民地が危機的な状況にさらされていることを知ったスポックがムバンガ医師とその医療チームを派遣してフェデレーションの医学をもってして人々を救うとか。最初はフェデレーションの力など借りないといっていたクリンゴン星人がスポックとの交渉でしぶしぶ援助を受けるとかなんとかやり方があったんじゃないのか?なんで格闘技になるのだ、アホか!

私が新しいスタートレックシリーズのなかでストレンジニューワールドが気に入ってる理由はカーク船長の時代のオリジナルの雰囲気が出ている番組だからである。それなのに、この新シーズンはまるで大駄作だったディスカバリーの脚本家や製作者がそのまま移動してきたのではないかと思えるほどひどいものになっている。

筋がくだらないのもそうだが、私がディスカバリーシリーズで大嫌いだった色々な要素がこちらにもある。

先ず画像が暗すぎる。ディスカバリーは最初から最後まで画面が暗くて何が起きてるのか分からない状況が多かった。特に船内の証明が暗すぎる。登場人物が黒人ばっかりなのに、あれでは人々の顔の表情が良く分からない。その点SNWの第一シーズンは明るくてそれぞれの登場人物の顔が良く見えてよかったと思っていたのだ。

ところが今シーズンは船内がまっくらけ。訪れたクリンゴンの植民地も薄暗くて格闘シーンでも何がおきてるのかよくわからない。ドクタームバンガはアフリカ人でかなり肌の色が黒い。コンナに暗くては彼の顔が全然見えない!

乗組員はブス女ばかり。スポックとムバンガ以外の主要な乗組員は全員女性。しかもオフラを含めて美女が一人も居ない。オリジナルシリーズではオフラは超美人で赤いミニドレスの下から美脚を出すシーンが有名だったのに。そういえばこのシリーズでは、これだけ女性乗組員が多いのに誰一人としてミニスカートのユニフォームを着ていない。

最近ゲーマーたちも文句を言っていたが、何故かサイエンスフィクションやアクション物に出てくる女性が最近やたらにブスが多くなった。昔は映画でもテレビ番組でもゲームでも、主要なキャラクターは皆美男美女と相場は決まっていた。そして美女は特にスタイルのいい身体の線がばっちり決まるセクシーな恰好をしていたものである。

そんな服を着て闘えるのか、とか、スペースシップでミニスカートはおかしいだろ、とかいうツッコミは娯楽番組に向けてすべきことではない。そんなの分かりきってることだ。そんなことをするのは、日本のアニメの女の子キャラが着てる服に機能性を要求するくらい無粋というものである。

百万歩譲って登場人物がみんな醜女とブ男ばかりなのを許すとしても、話の筋がバカバカしすぎるという点はもう許容できる範囲ではない。どうしてハリウッドは成功しているシリーズすらも台無しにしてしまうのだ?

だいたいこのシリーズは誰を対象に作られているのだ?普通サイエンスフィクションのファンには男性が多いが、男性ならセクシーな衣装を纏った美女を見たいはずだ。女性ファンを増やしたいなら格好いいイケメン俳優の活躍を見たいはずだ。

ブスの女ばかりが出てくる番組を一体誰が見たいのだ!

ひとつだけ良い点。クリンゴンが新世代の時のクリンゴンに戻ったこと。オリジナルシリーズの時はメイクアップの技術がまだ未熟であったため、クリンゴン星人は肌の色が黒っぽく釣り眉毛だったくらいで地球人との区別はあまりつかなかったのだが、新世代で額に深いしわのある顔になり、全体的に大柄で男も女も強靭である設定に変わった。クリンゴンの女は特に豊満な胸の谷間が自慢だった。

それが何故かディスカバリーではメイクが完全に変わって俳優の顔がまるで分別できないほどひどいものになっており、いったい何星人なのだろうと思うくらい変わってしまっていた。それが今回90年代のネクストジェン・新世代の時にもどったのは非常に良いことだと思う。

さて、第二話からはお金を払わないと見られないのだが、いまどうしようか思案中。パラマウントで良い作品が多いのであれば登録してもいいが、これだけしか見るのがないのであれば、登録の価値があるかどうか、今悩んでいる。


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映画のミュージカル化が大成功した「プロデューサーズ」に大感激

本日のカカシミュージカル観賞批評はメル・ブルックス監督の1958年公開の同題名の映画を、やはりブルックス監督が舞台でミュージカル化した「プロデューサーズ」。いやあ、聞いてはいたけど素晴らしかった。

さっきウィキで調べたところによると、この映画はヒットラーを主演させるミュージカルを作るという悪趣味な内容のせいなのか、日本での公開は何と2000年までされなかったというのだから驚いた。ミュージカルがブロードウェイで発表されたのが2001年だったので、ぎりぎり間に合った感がある。

映画とミュージカルの筋は全く同じなのでウィキからあらすじを拝借。ネタバレあり。

かつてはブロードウェイの大物プロデューサーだったが、今はすっかり落ち目のマックス・ビアリストックは、裕福な老婦人たちのご機嫌取りで金銭を稼ぐ日々。ある日、マックスの事務所へ気弱な会計士のレオ・ブルームが訪れる。彼は帳簿を調べている内に、ミュージカルを当てるより失敗させた方がより大儲けできることに気付く。マックスはこれはいいアイデアだと、レオを誘い最低なミュージカルを作って一攫千金の詐欺を企む。

確実に失敗させるためにはまずは最低な脚本を、と探し当てたのはナチシンパのドイツ人フランツ・リープキンが書いた『ヒトラーの春』(Springtime for Hitler)だった。首尾よく上演権をとりつけたマックスは早速金集めに奔走、高額の配当をエサに愛人の老婦人たちから莫大な出資金を騙し取る。続いて最低な演出家として、ゲイで女装趣味の演出家ロジャー・デ・ブリーを起用。そして最低の役者として主役のヒトラーに選ばれたのは、別のオーディション会場と間違えて来たヒッピーのイカレ男ロレンツォ・サン・デュボワ(イニシャルからLSDと呼ばれる)である。

以降ネタバレ注意!

これで万全、上演は失敗間違いなし!とほくそえむ2人だったが、やがて初日を迎えると予想外の反応が待っていた。最初こそ馬鹿げた内容に腹を立てる客が続出したものの、LSDが怪演するオカマ風ヒトラーに観客は爆笑につぐ爆笑。ナチ党員が手に手をとって陽気に歌い踊るあまりにも俗悪極まる内容に、ヒトラーを笑い者にした反ナチの風刺コメディだと観客に勘違いされる。結果はなんとミュージカルは大ヒットしてしまうのだった。

このミュージカルは公開するや大ヒットを飛ばし、何年ものロングランで主役も何回か入れ替わったが、2005年には今度はこのミュージカル版がオリジナルキャストのネイサン・レーンのマックスと、マシュー・ブロードリックのリオで映画化され公開された。何故かこちらの方はあまり業績はよくなかったのだが。

私が今回観た舞台は、ブロードウェイ版ではなく、なんと5年前に行われたサミット高校の演劇部公演によるものだ。ユーチューブではよく高校や大学の演劇部による舞台公演がアップされているが、これらの舞台は素人とは思えないほど素晴らしい掘り出し物がよくある。今回のこのプロダクションは舞台装置から衣装からオーケストラから、そしてもちろん役者たちの演技に至るまで、高校生とは思えない非常に質の高いものだった。

私は元の映画を1970年代に観た記憶がある。私はメル・ブルックスの大ファンだったので、1978年から2000年にかけて彼の映画を結構まとめて観た。ただ、私は当時無知な日本人女性だったことから、ブルックス監督がいかにあからさまに自分のユダヤ文化を全面的に押し出す監督なのかということに気が付かなかった。

ユダヤ文化というのは結構特異なもので、それにしょっちゅう面していないと、それがユダヤ文化なのだと言うことにも気づけない。このミュージカルではマックスもだがリオは特にユダヤ人典型の人物である。ミュージカルナンバーも屋根の上のバイオリン弾きを思わす踊りや音楽が最初から流れて来るし、ジョークもいちいちユダヤ風。ブルックス監督特有のこれでもかというくらいしつこい。

そういうわけだから、マックスとリオがプロデュースしようというミュージカルが「ヒットラーの春」なんてのは悪趣味も行き過ぎだし、誰がこんなものを見たがるものか、となるのが当然な成り行きである。

これにういて実はちょっと面白い話がある。ユダヤ系である我が夫ミスター苺はこの話について何も知らなかった。それで私がユーチューブでこのミュージカルを観ているところに部屋に入ってきたミスター苺は、私がちょうど観ていた「春の日、ヒットラーのドイツ~」というコーラスにヒットラー青年団の制服を着た若者たちがハイルヒットラーの敬礼をしながらグースステップで歩き回るナンバーを観て「なんだこの悪趣味なナンバーは、早く消せ!」と怒ったことがあるのだ。それで私が「いやいや、これは風刺だから。ジョークジョーク」と説明したのだが、主人は「冗談でもやっていいことと悪いことがある」とプンプンに怒ってしまったのだ。今回私と一緒に最初から最後まで観たミスター苺は同じナンバーのところで大笑いしていたが。

というわけで、いかにこの主題がユダヤ系の人びとにとって敏感なものであるかがお分かりいただけたと思う。だからこそミュージカルとして絶対に成功するはずはないとマックスとリオは踏んだわけである。

このミュージカルがミュージカルとして非常に優れている点は、マックスとリオが脚本家や監督を訪ねるシーンでそれぞれ個性あるキャラクターによるミュージカルナンバーが繰り広げられることや、主役を選ぶオーディションのシーンなどでも登場人物たちの個性が非常によく表れていて面白いことだ。主役は確かにマックスとリオだが、脇のキャラクターたちの見せ場が多く面白い。

そして極めつけは何と言っても「春の日、ヒットラーのドイツ」ナンバーである。これはユーチューブに色々なバージョンが上がっているが2005年の映画のバージョンが特に良い。独唱は私が大好きなジョン・バローマン。

このミュージカルにはいくつも良いミュージカルナンバーがあるが、最後のほうでマックスが独唱するシーンは素晴らしい。これは単に歌がうまいだけでは駄目で、コメディーとしての要素をしっかり表現んできる役者でなければ務まらない。ブロードウェイと映画ではネイソン・レーンが演じているが、彼はブロードウェイではコメディーミュージカル俳優としてはベテラン。映画ではラカージャフォーでも主演を演じているので親しみのある人も多いだろう。

日本の皆さんには映画バージョンをお薦めする。


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アカデミー賞、多様性配慮の新規則に俳優や監督から非難囂々

2024年度からアカデミー賞は最優秀映画賞ノミネートの資格規則を色々と変更する旨を発表したが、これに関しては俳優や監督など関係者から非難囂々の反響が出ている。特に新ルールは女優にとって不利なのではないかと懸念を表わす女優も居る。それというのも、同賞は従来の男優賞や女優賞を失くして単に最優秀主演賞や助演賞といったユニセックスに統一しようという動きがみられるからである。

しかしその話をする前に新ルールがどのようなものなのか、もっと詳しく調べてみよう。こちらのサイトが詳しく説明しているので引用する。What are the Oscars’ new diversity and inclusion rules for Best Picture nominees? – Vox

包括性基準には、4つのカテゴリーがある。映画は、4つのグループのうち2つのグループで基準を満たす必要がある。

まず、アカデミーがUnderrepresented(あまり代表されていない)とする人たちのことをこのように定義づけている。

  • アジア人、ヒスパニック/ラテン系、黒人/アフリカ系アメリカ人、先住民/ネイティブアメリカン/アラスカ先住民、中東/北アフリカ、ネイティブハワイアン/その他の太平洋諸島民、または その他の代表的でない人種または民族を基準内のunderrepresented racial or ethnic groups「代表的でない人種または民族グループと呼ぶ。
  • また、アカデミーは基準内でより広範なアイデンティティ・グループを指定しており、これには上記の代表的でない人種や民族のほか、女性、LBGTQ+の人々、認知障害や身体障害を持つ人々、聴覚障害を持つ人々が含まれます。わかりやすくするために、このグループをまとめて「代表されていないアイデンティティ・グループ」と呼ぶ。

では最初に述べた四つのグループの内訳。

グループA:配役及び登場人物

  • 代表的な人種や民族のグループから少なくとも1人の「主役または重要な助演俳優」が出ている。
  • または二次的および脇役のキャストの少なくとも30パーセントが、2つの代表的なアイデンティティ・グループ出身であること。
  • または主要なストーリーまたは主題が、代表的でないアイデンティティ・グループを中心にしている。

グループB:制作およびプロダクションチーム

  • 主要部門(編集、監督、メイクアップとヘアスタイリング、衣装、音響など、その他多数)の責任者のうち、少なくとも2人が非代表的なアイデンティティ・グループ出身でなければならない
  • さらに、そのうちの最低1人は、代表的でない人種または民族の出身者でなければならない。
  • クルー(制作アシスタント、一般的に撮影現場での初級職を除く)のうち、少なくとも6人が、代表的でない人種または民族の出身者であること。
  • クルーの少なくとも30パーセントが、代表的でないアイデンティティ・グループの出身者である。

グループC:トレーニング

  • さまざまな部門で、社会的地位の低い人たちに有給のインターンシップや実習の機会を提供し、実際にその職種の人たちを雇用していること(会社の規模によって数は異なる)。
  • 基本的に下層および中層の地位のトレーニングおよび仕事の機会を、代表的なアイデンティティ・グループの人々に提供しなければならない。

グループD:マーケティング、宣伝、および配給

  • このカテゴリの資格を得るには、映画を配給するスタジオまたは会社が、マーケティング、宣伝、または配給チームに、不特定多数のアイデンティティ・グループ出身の上級レベルの幹部を「複数」抱えている必要がある。

これらの新規則については監督や俳優らからも辛辣な批判が上がっている。とある監督は、、

「完全に馬鹿げている「多様性には賛成だが、ノミネートされたければ、特定のタイプの人を起用せよというのは?それだと、プロセス全体が作為的になってしまう。その役にふさわしい人が、その役を得るべきだ。なぜ、選択肢を制限されなければならないのですか?でも、それが私たちのいる世界なんです。こんなのおかしいよ。」

ジョーズなど多くの映画を主演している名優、リチャード・ドライフェスは、新規則には「吐き気がする。」として、映画はビジネスであると同時に芸術品であり、芸術家として誰にもその時の道徳観念を強制されるべきではないと語った。また今の世の中でどんなグループの人も特別扱いされるべきではないとした。「すまんが、私はこの国でそんな風に扱われなきゃならない少数派だの多数派などという人達が居るとは思わんね。」

全くだ。この規則は所謂少数派の人びとは特別扱いされなければ成功できない無能な人々だと言っているに過ぎない。はっきり言って少数派と言われる人々に対してかなり失礼である。

それにこの規則だと、歴代最優秀映画賞を獲得した「ゴッドファーザー」や「シンドラーズリスト」のような映画は受賞資格がないということになってしまう。時代や地域を特定した映画は先ず無理となるし、史実物は先ず不可能となる。映画は現代劇かSFくらいしか作れないということになってしまうが、それでいいのか?

さて、それではこの新ルールで女優が不利になるというのはどういう意味なのだろうか。今、アカデミー賞では従来の主演男優賞や女優賞をやめて単に最優秀主演賞や助演賞にすることを検討中だという。これに関しては何人かの女優たちが懸念を表明している。

女優のジャ三―ラ・ジャミル(Jameela Jamil)はジェンダーニュートラルな賞のカテゴリーに反対を表明し、Instagramの投稿で、ノンバイナリーの人々が独自のカテゴリーを持つ方が良いと主張した。「賞レースで受賞する男性対女性の不均衡が知られていることから、ハリウッドが女性を完全に締め出すための扉を開くよりも、ノンバイナリーの人々に独自のカテゴリーを与える方が良いのではないだろうか?」と書いている。

居や全くその通りだろう。先ず何故最終週主演や助演の役者が男性枠と女性枠に別れているのか、それは男性と女性が主演する映画は全く質が違うからだ。1940年から50年代のようにミュージカル全盛期の頃ならまだしも、近年の映画でヒットする映画のほとんどは男性が主役だ。題材は戦争物でもスパイ物でもSFアドベンチャーでも、より多くの観客が観たいと思う映画の主役は男性陣に牛耳られている。これは別におかしなことではない。女性は男性主役の映画でも観に行くが、男性は女性主役のロマンス映画など観たがらないからである。女性の主役を増やそうと無理やりスターウォーズやレイダースのように女性キャラを起用してみても、観客は完全に拒絶することは、これらの映画の不入りを見てもあきらかである。

となってくると、最優秀主演賞にノミネートされるのは圧倒的に男性が多くなるだろうし、女性が勝つ可能性は先ずなくなるだろう。もしノミネートの段階でもある程度の女子枠を設けろと言う話になってしまうなら、ユニセックスにする意味が全くなくなる。それなら女子枠を残して置けということになる。

映画に限ったことではないが、男女を一緒にすると必ず女性が割を食う。男女共同トイレしかり、男女混合スポーツしかり、そしてまた男女混合映画賞しかりである。

男女同権というのは男女を混合することにあるのではない。女性の権利は一定の場所で女性を男性から区別することで守られてきたのだ。それを平等と言う名のもとに男女の区別をなくしてしまうことは、結局女性の存在を抹消することになるのである。

アカデミー賞授賞式の視聴率は年々減る傾向にあり、はっきり言って多くの観客はアカデミー賞になど興味がない。昨今アカデミー賞でノミネートされたどれだけの映画が興行的に成功しているだろうか?私は結構映画好きであるが、それでも観たことも聞いたことも無いような映画がノミネートされ受賞している。

最近はアカデミー賞を獲ったからといって監督や俳優たちの格が上がるというものでもない。賞を獲ったからと言って次の映画で高予算の映画を作らせてもらえるわけでもない。そうであるならプロジューサーも監督も煩い規制のあるアカデミーなど無視して金儲けの出来る売れる映画を自由に作ることに専念するようになるのではないだろうか。

そしてアカデミーでノミネートされる映画は、誰も観ていない一部のエリートだけが気にする「芸術作品」と成り下がるのがおちである。

 


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リトルマーメイド海外市場不入りで大赤字の悲劇、愛を忘れた物語には誰も共感できない

ディズニーの実写版としては最高額の製作費2憶5千万を投入した映画だが、どうやら大赤字に終わりそうだ。国内の売り上げはアラジンとどっこいどっこいだったらしいのだが、何と言っても国際市場での売り上げが非常に悪い。特に中国と韓国での売り上げが9千万ドル程度らしい。製作費と広告費を合わせると6億ドルの売り上げでもトントンらしいから、もうこれはかなり悲惨な状態と言える。ディズニーとしては今週末公開された日本での収益が頼みの綱と言ったところだろう。

アメリカのメディアやディズニーは海外での不入りは中国や韓国の観客の人種差別が原因だと言っているが、それは海外の観客にかなり失礼な言い方だ。私は中国や韓国で黒人への人種差別がないとは言わないが、だから映画が不入りになるということはない。それが証拠に先週末にオープンした黒人主役のスパイダーマンアクロスザスパイダーバースは中国でも韓国でも大ヒットである。問題は主役が黒人かどうかではなく、その内容の方にあるのだ。

前回もリトルマーメイドはポリコレに気を使いすぎてなにやら訳の分からない設定になっているとお話したが、今度は話の内容についても少しお話しよう。最初に断っておくが私はアニメオリジナルは最近見直したが実写版映画のほうは観ていない。しかし映画を観た何人かの人達が作品のどの部分が変更されたかについては同じことを言っているので、それについて語るのは問題ないだろう。そして、それらの分析を聞いていて得た印象は、この実写版には愛が感じられないということだった。

今回の実写版は登場人物の人種がすげ替わったというだけでなく、その筋やキャラクターの動機なども大事なところで変更されている。

先ずアリエルが人間社会に行く動機だが、映画が公開される以前から主役のヘイル・ベイリーは、アリエルは男性なんかのために海を出るのではないと断言していた。原作ではアリエルが人間社会に行きたがる理由はただ一つ、エリックへの愛だ。

アリエルは船が難波し溺れそうになったエリック王子を救いエリックの美しさに一目ぼれし、エリックに恋焦がれて海の世界から陸の世界へ行くことを熱望する。だが2023年の現代、男のために人生を変えるなどというのはフェミニスト思想にそぐわない、女性は自分のために独立しなければならない、という考えから海を出る動機がエリックへの愛ではなく未知の世界への冒険心にと書き換えられているのだ。

しかしそうなると、アリエルは自分の声を犠牲にして、エリックがアリエルに恋に落ちて三日以内に愛のこもったキッスを受けなければならないというアースラの条件を飲むという設定には無理がある。なぜならアリエルがエリックを愛していないのなら、アリエルは自分が人間社会に行きたいがためにエリックを誘惑して利用してもかまわないという自分勝手で薄情な少女ということになってしまう。

製作者側もそれに気づいたのか、アースラはアリエルがこの条件を忘れてしまうという設定にした。しかし、これだともっとおかしなことになる。アリエルはエリックを愛しているわけでもなく、エリックにキッスをしてもらう緊急性を感じない。つまり見ている側にもその緊迫感を持つことができないのだ。

トリトン王の娘への愛も新作では感じられない。アニメ版で王がアリエルのもっていたエリックの彫像を壊すシーンでアリエルが必死に彫像を守ろうとするのはそれが愛する人の彫像だからであり、彼女の愛の象徴だからだ。トリトン王はアリエルが彫像の前で「私は彼を愛しているの!」と叫んだ時、それがどれだけアリエルにとって危険な感情であるかを察する。人魚にとって人間社会は非常に危険な場所だ。このままではアリエルは破滅の道を歩んでしまう。だからこそ彼は自分が恨まれてもいい、心を鬼にして娘への愛のためにこの彫像を壊さなければならないと考えたのだ。だからこそ彫像を壊された後に泣くアリエルをみて王の心も痛むのだ。

だが実写版の方では単にトリトン王は自分の言うことをきかない我儘娘に腹をたてて彫像を壊すと変えられている。それにアリエルがエリックを愛していないなら、これは単なる石に過ぎない。そんなものを壊されたからと言ってアリエルが嘆く理由もない。だから父親が彫像を壊すことに抗議する理由もない。無論制作者はこの矛盾にも気づいてカニのセバスチャンを彫像の傍に置くことでアリエルが焦ると変更した。しかしそうなると、トリトン王は娘に怒るあまり、娘の友達を殺すほど非情な男だということになってしまう。

次に多くの批評家が文句を言っていることに、歌の歌詞が変えられているという点だ。一つはセバスチャンが歌う「キスザガール(彼女にキスをおしよ)」だ。変えられた部分はここ。

「彼女は何も言わない、そう何も言わない、お前がキスをするまで、そうさ、お前は彼女が欲しい。見つめてごらん、わかるだろう。多分彼女だってお前が欲しいんだ、彼女に聞く方法はひとつだけ、言葉なんか要らない、一言も要らない、キスをおしよ」

しかしフェミニストらの理屈によれば、男が女の合意を得ずにキスをするのは問題だというのである。

アニメではアリエルはエリックのキスを望んでいるのだから、エリックに熱烈な愛情を込めたまなざしを向ける。わざとエリックに顔を近づけたりする。エリックがバカでなければ彼女が彼の愛を求めていることは一目瞭然だ。

しかし実写版ではアリエルはエリックを愛しても居なければアースラの条件も覚えていない訳だから、特にエリックにキスをしてもらいたいという動機はない。そんな彼女にエリックがキスをしたら確かにおかしな話ではある。これは映画のなかでも非常にロマンチックなシーンなのだが、この設定では全く台無しだ。

もうひとつ歌詞が変わったのがアースラの歌。アースラはアリエルに自分の声をアースラに渡すように説得するために、声など大して価値のあるものではないという歌を歌う。

「男はおしゃべりな女が嫌いなんだよ。女の噂話なんて退屈なのさ。陸では淑女はおとなしいのが好まれる。第一おしゃべりなんて何の役に立つんだい?男たちは会話なんかに感心しやしないんだよ。本物の紳士はそんなものは避ける。紳士は控えめな女にちやほやするのさ。」

という歌詞は無論、女はおしゃべりだというステレオタイプを強調している、とか女は男に好かれるために大人しくしておくべきだというメッセージがあるので駄目だということらしい。しかしアースラは悪役であり、アリエルを詭弁でうまく丸め込もうとしているだけだ。つまり彼女が言っていることは事実として捉えるべきではない、いやむしろその反対だ。

いったいこの映画の脚本化は原作を理解出来ているのか?

さて、この後は終盤の話でネタバレがあるが、アニメ版はもう30年も前の映画なので特にばらしても問題はないだろう。アニメではエリックのアリエルへの愛を阻止することに失敗したアースラが巨大なタコのお化けになってアリエルをさらい海を荒らす。トリトン王はアースラに立ち向かうがアースラの魔力によって惨めな生き物に変身させられてしまう。そこでエリックが勇敢にも船の先端をアースラの胸元に突撃させてアースラは退治される。アースラの死により元に戻ったトリトン王は、エリックの勇敢な行為に胸を打たれ、アリエルとの恋を祝福するのだ。

しかし実写版では強い女性を描かなければならないということで、船を使ってアースラを退治するのはエリック王子ではなくアリエルである。エリックはアリエルを愛してるはずなのに、アースラの魔力の惑わされたり、肝心な時に何も出来なかったりで、いったいこの男は何のためにこの映画に出てるのだ?なんでアリエルがこんな男と結婚するのだ?いったいこの二人は愛し合っているのか?

とまあこんな具合だ。そのほかにもセバスチャン、フラウンダー、スカトルのCGIが全然魅力的ではないとか、スカトルの声をアフレコしたアクアフィナの歌が酷いとか色々とあるが、その辺は私には解らない。

日本での公開は6/9/23で、すでに週末は終わったのでそろそろ興行成績が発表される頃だろう。中国や韓国では不入りだったが、日本での成功はあるのか、もう少し待つとしよう。

付け足し:

アリエルの姉たちの設定が変わっているという話しはしたが、そのせいで冒頭の姉たちのシーンが削除されている。(アニメではこちらの場面 https://youtu.be/wBFU7aMnrNg)

それともう一つ、セバスチャンが台所で料理されそうになるレ・パソンのシーンもベジタリアンに迎合したのかカットされている。(アニメではこちらの場面https://youtu.be/oV2SpFi4nVY)

リトルマーメイド公式サイト

  • キャストハリー・ベイリー (アリエル役), ジョナ・ハウアー=キング (エリック役), メリッサ・マッカーシー (アースラ役), ハビエル・バルデム (トリトン王役), ジェイコブ・トレンブレイ (フランダー役), オークワフィナ (スカットル役), ダヴィード・ディグス (セバスチャン役)
  • 音楽アラン・メンケン, リン=マニュエル・ミランダ
  • 監督ロブ・マーシャル

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ポリコレに気を使いすぎて訳の分からなくなったリトルマーメイド実写版とオンラインゲームの行き過ぎたポリコレ

ポリコレに気を使いすぎて訳の分からなくなったリトルマーメイド

戦没者追悼の日の三日連休で公開されたリトルマーメイドの実写版リメイクだが、公開前からアリエルが赤毛の白人少女から黒人になったということなどで色々話題になっていた作品だ。公開されてみると売り上げはあまり芳しくないらしい。国内ではまあまあらしいが海外の売れ行きはかなりひどく、製作費や宣伝費を考えると完全なる赤字で終わりそうだ。

まあそんなことは私はあまり興味がないのだが、作品を観た人たちの感想動画をいくつか観たところ、主役が黒人に変わったということよりも、全体的に一貫性がなく面白くないというのがよく聞く感想である。

私が聞いた批判をいくつか箇条書きにしてると、、

  • アリエルの両親は二人とも白人(魚?)なのにアリエルを含め7人の姉妹たちが全員違う人種なのはどういうわけだ?
  • アリエルの父親役のハビアー・バーダムのやる気のない演技にしらける
  • エリック(王子様)は白人なのにお母さんは黒人なのは変(養子という無理やりのこじつけも説得力がない)
  • 登場人物全員が全く違う方言(アクセント)で話すのは何故なんだ!
  • 画像が暗すぎる
  • CGが安っぽすぎる
  • フラウンダー、セバスチャン、スカトルのCG描写がしょぼすぎる
  • アクアフィナが演じるスカトルの歌が曲も歌声も酷すぎて死にたくなった
  • 原作アニメは一時間半未満だったのに実写版は二時間半で長すぎ
  • 王子様がアリエルに二回も救われる。軟弱でまるで存在感がない

とまあこんな具合だ。もしリトルマーメイドを観たことがない人がこうした批評だけを聞いたら、この映画が人魚姫を描いたミュージカルなのだということを知ることができるだろうか?はっきり言って、こういうどうでもいいことばかりが気になるということは、映画の内容そのものがつまらない証拠だろう。ポリコレばかり気にしすぎて、映画の内容に力を入れないからこういうことになるのだ。

リトルマーメイドは1989年にアニメ版が公開されて以来、ブロードウエイを始め高校や中学の演劇部などによっても何万回と舞台ミュージカルとして再現されている。どうせリメイクをするのであればすべてのキャラクターを人間にやらせるくらいの想像力が欲しかった。この映画を見るくらいなら、近所の高校生が文化祭でやった舞台を観た方がずっとましだ。(高校生の舞台を観たことがあるが、結構よかった)

オンラインゲームの行き過ぎたポリコレ

私はオンラインゲームは全くやらないので内容については無知なのだが、昨今ゲームの世界でも欧米のポリコレが入り込んでおり、内容が不自然に歪められているという。特にゲーマーの間では悪名のたかいフェミニスト、Briana WuとAnitaSarkeesianらによって、プレイヤーの殆どが男性というゲーマーの世界は散々な目にあっている。(BrianaWuについては拙ブログでも過去に書いたことがある。自分の政治運動のために無実の男性を告発する悪質なミーツー運動、ゲーマーの場合 – Scarecrow in the Strawberry Field (biglizards.net)

こちらのキャベツさんのユーチューブチャンネルでキャベツさんは何度もこのポリコレの悪影響について語っている。動画はそれぞれ結構長いので興味のあるかたはそちらをご覧になることをお薦めするが、この過激フェミニスト達のおかげでゲームがどのように改悪されているかというと、、

  • 美女のキャラクターがブスに変わる。何故かフェミニストは美女でグラマーな女性が嫌いなようで、あまりにも美しい主人公は少女たちに非現実的な理想を生むからとかなんとかいう理屈で、可愛かったキャラがだんだんブスになっていく。
  • 露出の多い衣装がなくなる。圧倒的に男子プレイヤーが多いゲームなのだから綺麗な女性が露出の多い服を着るのは当然のはず。
  • 筋に無関係なところで突然ヘテロだったキャラがLGBTに変貌する。文脈に関係ないところで女同士のキスシーンがあったりしてプレイヤーたちは困惑。
  • 不自然に黒人キャラが登場する、白人キャラが突然黒人に変貌したり、北欧を舞台にしたゲームの日本人制作者が登場人物に黒人が少ないと批判されたりしている。

キャベツさんは、アニータ・サキ―ジアンについての動画もあげているので興味あるかたはそちらをご覧になるのも良いだろう。

私はこれらの動画をみていて思ったのだが、時々ツイッターで私が萌え漫画のポスターなどについて批判的なツイートをすると敵意丸出しの男性オタクらに絡まれることがあるが、彼等は多分日頃から過激フェミニストによって自分らの好きなアニメやゲームを散々叩かれていることから、フェミニストに対して非常なる敵意を持っているからなのだろう。確かに彼女たちの行動を見ていると、オタク男子たちが怒るのも理解できる。

この美人がブスになるとか、白人キャラが黒人に変わるとか、やたらとLGBTが出てくるというのはテレビドラマの中でもしょっちゅうあることで、私が好きなスタートレックシリーズのディスカバリーなどはもう観ていられないほどのポリコレになっていた。主人公含め登場人物の半分以上が黒人。やたらと女性キャラが多いにもかかわらず、みんなブスかデブかその両方。オリジナルシリーズのようなミニスカートや新世代のぴちぴちスーツの美女は出て来ない。しかも前シーズンの最終回では本物の超左翼リベラル黒人女性政治家本人が登場するという、もういい加減にしろと思ってしまった。私は今シーズンはもう全く観る気ない。

ところでキャベツさんはまだ気づいていないが、こうしたポリコレの裏に居るのは単なる口うるさいフェミニストたちだけではない。フェミだけではこんなにゲーム業界全体の作品を変えてしまうような力はない。これは私が先日ご紹介したESG指標が関連している。つまり黒幕はフェミニストではなくブラックロックのような大企業なのだ。

ESGが幅を利かせている以上、今後もポリコレ迎合映画やゲームがどんどん作られていくことだろう。それに対抗するためには、消費者が抗議の声をあげ作品をボイコットしていく以外に方法はない。


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Book of Will、シェークスピアの戯曲を救った仲間たち

ミスター苺と私が30年来シーズンチケットを買っている地方劇団ノイズ・ウイズイン、今シーズン最後の作品は「Book of Will、ウィルの本」前知識全くなしで観に行ったのだが、観始めて、ここでいうウィルとはウィリアム・シェークスピアのことだったことに気付いた。これはシェークスピア亡きあと、生前彼の芝居を演じたグローブ劇場の役者や劇場のマネージャーやその家族や友人たちが、なんとか彼の作品を後の世に残そうと作品全部を一つの本にして出版するまでの話だ。これが史実に基づいたものなのか作家による創造なのかはわからないが、シェークスピアファンなら、あちこちにシェークスピア戯曲のセリフがちりばめられており、感激する戯曲である。

原作は現代劇作家ローレン・ガンダーソン。登場人物はほぼ全員実在した人々のようだ。

時はシェークスピアが死んだ数年後というから1620年代初期、グローブ劇場でキングスマンと呼ばれた劇団はシェークスピアの戯曲を演じて人気があった。しかし役者たちも年を取り、若い役者たちが別の劇場でシェークスピアもどきの芝居をへたくそに演じているのを見て、ベテラン俳優のリチャード・バーべジ、ヘンリー・コンデル、そして元俳優で今は劇場マネージャーのジョン・ヘミングスは忌々しく思っている。特にバーべジは頭の中に詰まったシェークスピアのセリフを若い大根役者の前で披露して若い役者を圧倒させてしまう。

しかし数日後、バーべジが急死。このままシェークスピアを覚えている役者が死んでしまったら、自分らの代でシェークスピアの偉大な作品は忘れ去られてしまうとヘンリーは考える。そこでヘンリーは乗り気のないジョンを説得し、ジョンの妻と娘、自分の妻も一緒になってシェークスピアの作品をすべて集めて出版しようと活動を始める。

問題なのはシェークスピアの時代には台本は皆手書き。しかも題目は日替わりなので長い芝居を登場人物の分書き写すなどと言う暇はない。また当時は著作権というものがなかったので、シェークスピアは戯曲を全部書いた台本を役者に渡して盗まれるのを恐れていた。だから役者は自分のセリフのところだけのページしか持っておらず、全編はシェークスピア本人が保存していたが、それも火事でほぼ焼けてしまったという状況。それで役者たちが持っていた部分的な台本や、台本を写本した人がたまたま持っていた台本などを集め、後はヘンリーやジョンの記憶から話をつなげるという気の遠くなるような作業が続いた。

それだけではない。本を出版するとなればお金もかかる。紙代も印刷もただではない。それでヘンリーとジョンはシェークスピアの戯曲を無断で出版していた出版社のウィリアム・ジャガードと息子のアイザックと停戦を結び協力しあって印刷にこぎつける。シェークスピアとはけんか相手だったベン・ジョンソンやシェークスピアの元愛人エミリアを説得して前書きを書いてもらったりお金を融資してもらったりする。

いったいシェークスピアの本は完成するのだろうか?

と聞くまでもなくもちろん完成した。だからこそ我々が400年以上も経った今、シェークスピアの作品を楽しめるのである。話の結末を知っているにもかかわらず、ヘンリーとジョン、そして家族や仲間たちが本完成に向けて奔走する姿は観ていてハラハラドキドキである。

全編コメディータッチで描かれているが、時々ハムレットのシーンが出て来たり、仲間の一人が死ぬなど悲しいシーンもある。喜劇在り悲劇在り詩あり、シェークスピアのお芝居のようである。

これを観ていて思い出したのは、クリスマス・カロルを書いたチャールズ・ディケンズがお金に困ってほんの数週間でクリスマス・カロルを書き上げ自費出版(色々な人に借金はしたものの)するまでの過程を描いたThe Man Who Invented Christmas(クリスマスを発明した男)を思い出した。もちろん我々はディケンズが成功したことは知っているわけだが、それでも観ていて本当にどうなるんだろうと思わせる経緯がおもしろかった。

シェークスピアはあまりにもポピュラーなのでどうやって出版されたのかなんて私は今まで考えたこともなかったのだが、もしもヘンリーやジョンのような人たちが居なかったら、今頃彼のお芝居は切り刻まれてつぎはぎになった訳の分からない形でしか残っていなかったことだろう。シェークスピアの作品がほぼ完ぺきな状態で今まで保存されたのも、仲間たちの努力のおかげだ。

最後にヘンリーとジョンがシェークスピアの未亡人アンに印刷されたばかりの本を持っていく。アンは年老いて目が悪いため本は読めない。

「私の目の前には名優が二人いるんでしょ、はじめなさい」

ヘンリーとジョンはテンペストの最初のシーンを読み始める。そして出演者全員がそれぞれシェークスピアのセリフを同時に言いながら舞台に集まった時は私は思わず涙が出て立ち上がり拍手をおくっていた。

ありがとうヘンリー、ありがとうジョン、ウィルの本を作ってくれたすべての仲間たちよ。ありがとう!

The Bokk of Will(ブックオブウィル、ウィルの本)

脚本ローレン・ガンダーソン、演出ジュリア&ジェフ・エリオット、出演ジェラミー・ラボ、ジェフ・エリオット、フレデリック・スチュアート、トリシャ・ミラン、デボラ・ストラング、ケイシー・マハフィー、ニコール・ハビアー、スタンリー・アンドリュー・ジャクソン、ケルビン・モラレス、アレックス・モリス


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ドラアグクィーンがクールだった頃のミュージカル、キンキーブーツ

ミュージカル無料視聴期間の最後に観たブロードウェイミュージカルはキンキーブーツ。実はこのミュージカル、数年前に日本で今は亡き三浦春馬さんの主演で日本では大好評を得た作品。私がこの作品を知ったのも三浦さんが亡くなったというニュースを聞いた際にユーチューブで上がってきた動画を見たことによる。最近は城田優さんが主演で再演されている。

もととなったのは2005年に公開された同題のイギリス映画だが、その元の元は1999年に放映されたBBC2のドキュメンタリーシリーズで取り上げられたスティーブ・ぺイトマンという経営不振で傾きかけていた靴工場の経営者が男性用のブーツを製造し始めて成功したという話である。

今回私がみたのは2015年のロンドンのウエストエンド版だ。

ではあらすじ:日本語版ウィキペディアより

チャーリー・プライスはイギリスの田舎町ノーサンプトンの伝統ある紳士靴メーカー 『プライス社』 の跡取りだったが、周囲の重圧に耐えかね、転勤を機にロンドンに移住することを計画していた。

しかしロンドンに到着したその日に父の訃報が届き、『プライス社』 を継ぐことになり、しかも社の財政状況が火の車だということを知る。在庫の処分のためロンドンへ出張中にやけ酒を食らった勢いで、酔っ払いのチンピラに絡まれている美女を助けようとしたが、逆に美女に誤って叩きのめされてしまう。目が覚めるとそこは不作法なドラァグ・クイーンのローラ、本名サイモンの楽屋であり、その人物は桟橋で踊っていた少年の成長した姿であった。ドラァグ・クイーンには専用の靴がないため仕方なく女性用の靴をはいているが、ハイヒールは男性の重く大きな体を支えきれずに簡単に壊れてしまうことにチャーリーは興味が湧く。

ノーサンプトンに戻ったチャーリーは人員整理をしている最中、クビにしようとした社員のローレンに「ニッチ市場を開拓しろ」と捨て台詞をはかれる。そこでチャーリーはローレンを顧問として再雇用し、ローラのためのハイヒールのブーツである『女物の紳士靴』 の開発に着手し、そこにローレンの言うニッチ市場を見出す。しかし最初のデザインは機能性を重視するあまりにオバサンくさいブーツに仕立ててしまい、ローラを怒らせ、チャーリーとローレンはローラをコンサルタントとして迎える。しかし道は険しく、男性従業員の多くはローラの登場と新商品製作を快く思わず、チャーリーも婚約者のニコラとの関係がぎくしゃくし始め、「工場を売ってしまえ」と責められる。

ローラの意見を取り入れ、『危険でセクシーな女物の紳士靴 (Kinky Boots)』 を作り上げたチャーリーは、ミラノの靴見本市に打って出る決意をするが、ローラを含む多くの従業員に重労働を強いたため彼らは出て行ってしまい、事態は悪化する。-あらすじ終わり

このミュージカルで一貫して流れているのは、工場の跡継ぎとして父親から期待されていながら、父親生存中は父の事業に全く興味をしめさず父親を失望させていたチャーリーと、息子を男らしく育てようとした父の期待に沿えずに女装パフォーマーになったローラとの共通点だ。二人とも父親を失望させてしまったという負い目を背負って生きている。

この話は1990年代のイギリスの労働階級地域が舞台となっている。LGBTQ+活動が盛んな今のイギリスからは想像がつかないが、当時のイギリスはまだまだ同性愛者に対する偏見が強くあった。特にドラアグクィーンなどはロンドンなどの都会の一部では受け入れられても、ノースハンプトンのような労働階級の街ではなかなか受け入れてもらえない。いくら工場を救うためとはいえ、伝統的紳士靴を作ってきた工場で女装男性用の靴を作るなど工員たちの間で抵抗があるのは当然である。マッチョを自負している工場の男たちが女装姿のローラを見下げる姿を見ていると、まだほんの30年ちょっと前でもこうした差別意識はあったんだなと改めて感じさせられる。

さて、ローラはドラアグクィーンなので、ドラアグショーの場面が結構でてくる。ローラと彼の背後で歌ったり踊ったりするバックアップらの演技は観ていてとても楽しい。シンディー・ラウパーの曲も一緒に踊りたくなる。

ローラ役のマット・ヘンリーは全く美男子ではない。だが歌はうまく、ドラアグクィーンとしての仕草が決まっていて自然だ。はっきり言ってこのお芝居には美男美女役が登場しない。皆ごく普通だ。そしてヘンリーは身体もがっしりしているのでドラアグ(女装)しても絶対に女性には見えないのだが、そこがいいところだと私は思う。ドラアグあはくまでも女装男なので、女性に見違えるほど美しくあってはならないからだ。

しかし私は特にチャーリー役のキリアム・ドネリーが良かったと思う。最初は頼りないがだんだんと責任感ある男に変わっていくが、ストレスが貯まって周り中に当たり散らすところも自然だ。そしてドネリーの歌は凄く言い。声に張りがあって非常に力強い歌声だ。

今ドラアグクィーンたちの評判はがた落ちだが、この頃のクールなドラアグクィーンショーに戻って欲しい。

ちょうど私が観たバージョンの動画があがっていたので張っておこう。

脚本はハービー・ファインステイン(Harvey Fierstein)作曲シンディー・ラウパー(Cindy Lauper)。主な配役は次の通り。

  • チャーリー・プライス:キリアム・ドネリー(Killian Donnell
  • ローラ:マット・ヘンリー(Matt Henry)
  • ローレン:エイミー・レノックスAmy Lennox
  • 二コーラ:エイミー・ロス(Amy Ross)
  • ドン:ジェイミー・バクマン(Jamie Baughan)

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