アカデミー賞、多様性配慮の新規則に俳優や監督から非難囂々

2024年度からアカデミー賞は最優秀映画賞ノミネートの資格規則を色々と変更する旨を発表したが、これに関しては俳優や監督など関係者から非難囂々の反響が出ている。特に新ルールは女優にとって不利なのではないかと懸念を表わす女優も居る。それというのも、同賞は従来の男優賞や女優賞を失くして単に最優秀主演賞や助演賞といったユニセックスに統一しようという動きがみられるからである。

しかしその話をする前に新ルールがどのようなものなのか、もっと詳しく調べてみよう。こちらのサイトが詳しく説明しているので引用する。What are the Oscars’ new diversity and inclusion rules for Best Picture nominees? – Vox

包括性基準には、4つのカテゴリーがある。映画は、4つのグループのうち2つのグループで基準を満たす必要がある。

まず、アカデミーがUnderrepresented(あまり代表されていない)とする人たちのことをこのように定義づけている。

  • アジア人、ヒスパニック/ラテン系、黒人/アフリカ系アメリカ人、先住民/ネイティブアメリカン/アラスカ先住民、中東/北アフリカ、ネイティブハワイアン/その他の太平洋諸島民、または その他の代表的でない人種または民族を基準内のunderrepresented racial or ethnic groups「代表的でない人種または民族グループと呼ぶ。
  • また、アカデミーは基準内でより広範なアイデンティティ・グループを指定しており、これには上記の代表的でない人種や民族のほか、女性、LBGTQ+の人々、認知障害や身体障害を持つ人々、聴覚障害を持つ人々が含まれます。わかりやすくするために、このグループをまとめて「代表されていないアイデンティティ・グループ」と呼ぶ。

では最初に述べた四つのグループの内訳。

グループA:配役及び登場人物

  • 代表的な人種や民族のグループから少なくとも1人の「主役または重要な助演俳優」が出ている。
  • または二次的および脇役のキャストの少なくとも30パーセントが、2つの代表的なアイデンティティ・グループ出身であること。
  • または主要なストーリーまたは主題が、代表的でないアイデンティティ・グループを中心にしている。

グループB:制作およびプロダクションチーム

  • 主要部門(編集、監督、メイクアップとヘアスタイリング、衣装、音響など、その他多数)の責任者のうち、少なくとも2人が非代表的なアイデンティティ・グループ出身でなければならない
  • さらに、そのうちの最低1人は、代表的でない人種または民族の出身者でなければならない。
  • クルー(制作アシスタント、一般的に撮影現場での初級職を除く)のうち、少なくとも6人が、代表的でない人種または民族の出身者であること。
  • クルーの少なくとも30パーセントが、代表的でないアイデンティティ・グループの出身者である。

グループC:トレーニング

  • さまざまな部門で、社会的地位の低い人たちに有給のインターンシップや実習の機会を提供し、実際にその職種の人たちを雇用していること(会社の規模によって数は異なる)。
  • 基本的に下層および中層の地位のトレーニングおよび仕事の機会を、代表的なアイデンティティ・グループの人々に提供しなければならない。

グループD:マーケティング、宣伝、および配給

  • このカテゴリの資格を得るには、映画を配給するスタジオまたは会社が、マーケティング、宣伝、または配給チームに、不特定多数のアイデンティティ・グループ出身の上級レベルの幹部を「複数」抱えている必要がある。

これらの新規則については監督や俳優らからも辛辣な批判が上がっている。とある監督は、、

「完全に馬鹿げている「多様性には賛成だが、ノミネートされたければ、特定のタイプの人を起用せよというのは?それだと、プロセス全体が作為的になってしまう。その役にふさわしい人が、その役を得るべきだ。なぜ、選択肢を制限されなければならないのですか?でも、それが私たちのいる世界なんです。こんなのおかしいよ。」

ジョーズなど多くの映画を主演している名優、リチャード・ドライフェスは、新規則には「吐き気がする。」として、映画はビジネスであると同時に芸術品であり、芸術家として誰にもその時の道徳観念を強制されるべきではないと語った。また今の世の中でどんなグループの人も特別扱いされるべきではないとした。「すまんが、私はこの国でそんな風に扱われなきゃならない少数派だの多数派などという人達が居るとは思わんね。」

全くだ。この規則は所謂少数派の人びとは特別扱いされなければ成功できない無能な人々だと言っているに過ぎない。はっきり言って少数派と言われる人々に対してかなり失礼である。

それにこの規則だと、歴代最優秀映画賞を獲得した「ゴッドファーザー」や「シンドラーズリスト」のような映画は受賞資格がないということになってしまう。時代や地域を特定した映画は先ず無理となるし、史実物は先ず不可能となる。映画は現代劇かSFくらいしか作れないということになってしまうが、それでいいのか?

さて、それではこの新ルールで女優が不利になるというのはどういう意味なのだろうか。今、アカデミー賞では従来の主演男優賞や女優賞をやめて単に最優秀主演賞や助演賞にすることを検討中だという。これに関しては何人かの女優たちが懸念を表明している。

女優のジャ三―ラ・ジャミル(Jameela Jamil)はジェンダーニュートラルな賞のカテゴリーに反対を表明し、Instagramの投稿で、ノンバイナリーの人々が独自のカテゴリーを持つ方が良いと主張した。「賞レースで受賞する男性対女性の不均衡が知られていることから、ハリウッドが女性を完全に締め出すための扉を開くよりも、ノンバイナリーの人々に独自のカテゴリーを与える方が良いのではないだろうか?」と書いている。

居や全くその通りだろう。先ず何故最終週主演や助演の役者が男性枠と女性枠に別れているのか、それは男性と女性が主演する映画は全く質が違うからだ。1940年から50年代のようにミュージカル全盛期の頃ならまだしも、近年の映画でヒットする映画のほとんどは男性が主役だ。題材は戦争物でもスパイ物でもSFアドベンチャーでも、より多くの観客が観たいと思う映画の主役は男性陣に牛耳られている。これは別におかしなことではない。女性は男性主役の映画でも観に行くが、男性は女性主役のロマンス映画など観たがらないからである。女性の主役を増やそうと無理やりスターウォーズやレイダースのように女性キャラを起用してみても、観客は完全に拒絶することは、これらの映画の不入りを見てもあきらかである。

となってくると、最優秀主演賞にノミネートされるのは圧倒的に男性が多くなるだろうし、女性が勝つ可能性は先ずなくなるだろう。もしノミネートの段階でもある程度の女子枠を設けろと言う話になってしまうなら、ユニセックスにする意味が全くなくなる。それなら女子枠を残して置けということになる。

映画に限ったことではないが、男女を一緒にすると必ず女性が割を食う。男女共同トイレしかり、男女混合スポーツしかり、そしてまた男女混合映画賞しかりである。

男女同権というのは男女を混合することにあるのではない。女性の権利は一定の場所で女性を男性から区別することで守られてきたのだ。それを平等と言う名のもとに男女の区別をなくしてしまうことは、結局女性の存在を抹消することになるのである。

アカデミー賞授賞式の視聴率は年々減る傾向にあり、はっきり言って多くの観客はアカデミー賞になど興味がない。昨今アカデミー賞でノミネートされたどれだけの映画が興行的に成功しているだろうか?私は結構映画好きであるが、それでも観たことも聞いたことも無いような映画がノミネートされ受賞している。

最近はアカデミー賞を獲ったからといって監督や俳優たちの格が上がるというものでもない。賞を獲ったからと言って次の映画で高予算の映画を作らせてもらえるわけでもない。そうであるならプロジューサーも監督も煩い規制のあるアカデミーなど無視して金儲けの出来る売れる映画を自由に作ることに専念するようになるのではないだろうか。

そしてアカデミーでノミネートされる映画は、誰も観ていない一部のエリートだけが気にする「芸術作品」と成り下がるのがおちである。

 


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リトルマーメイド海外市場不入りで大赤字の悲劇、愛を忘れた物語には誰も共感できない

ディズニーの実写版としては最高額の製作費2憶5千万を投入した映画だが、どうやら大赤字に終わりそうだ。国内の売り上げはアラジンとどっこいどっこいだったらしいのだが、何と言っても国際市場での売り上げが非常に悪い。特に中国と韓国での売り上げが9千万ドル程度らしい。製作費と広告費を合わせると6億ドルの売り上げでもトントンらしいから、もうこれはかなり悲惨な状態と言える。ディズニーとしては今週末公開された日本での収益が頼みの綱と言ったところだろう。

アメリカのメディアやディズニーは海外での不入りは中国や韓国の観客の人種差別が原因だと言っているが、それは海外の観客にかなり失礼な言い方だ。私は中国や韓国で黒人への人種差別がないとは言わないが、だから映画が不入りになるということはない。それが証拠に先週末にオープンした黒人主役のスパイダーマンアクロスザスパイダーバースは中国でも韓国でも大ヒットである。問題は主役が黒人かどうかではなく、その内容の方にあるのだ。

前回もリトルマーメイドはポリコレに気を使いすぎてなにやら訳の分からない設定になっているとお話したが、今度は話の内容についても少しお話しよう。最初に断っておくが私はアニメオリジナルは最近見直したが実写版映画のほうは観ていない。しかし映画を観た何人かの人達が作品のどの部分が変更されたかについては同じことを言っているので、それについて語るのは問題ないだろう。そして、それらの分析を聞いていて得た印象は、この実写版には愛が感じられないということだった。

今回の実写版は登場人物の人種がすげ替わったというだけでなく、その筋やキャラクターの動機なども大事なところで変更されている。

先ずアリエルが人間社会に行く動機だが、映画が公開される以前から主役のヘイル・ベイリーは、アリエルは男性なんかのために海を出るのではないと断言していた。原作ではアリエルが人間社会に行きたがる理由はただ一つ、エリックへの愛だ。

アリエルは船が難波し溺れそうになったエリック王子を救いエリックの美しさに一目ぼれし、エリックに恋焦がれて海の世界から陸の世界へ行くことを熱望する。だが2023年の現代、男のために人生を変えるなどというのはフェミニスト思想にそぐわない、女性は自分のために独立しなければならない、という考えから海を出る動機がエリックへの愛ではなく未知の世界への冒険心にと書き換えられているのだ。

しかしそうなると、アリエルは自分の声を犠牲にして、エリックがアリエルに恋に落ちて三日以内に愛のこもったキッスを受けなければならないというアースラの条件を飲むという設定には無理がある。なぜならアリエルがエリックを愛していないのなら、アリエルは自分が人間社会に行きたいがためにエリックを誘惑して利用してもかまわないという自分勝手で薄情な少女ということになってしまう。

製作者側もそれに気づいたのか、アースラはアリエルがこの条件を忘れてしまうという設定にした。しかし、これだともっとおかしなことになる。アリエルはエリックを愛しているわけでもなく、エリックにキッスをしてもらう緊急性を感じない。つまり見ている側にもその緊迫感を持つことができないのだ。

トリトン王の娘への愛も新作では感じられない。アニメ版で王がアリエルのもっていたエリックの彫像を壊すシーンでアリエルが必死に彫像を守ろうとするのはそれが愛する人の彫像だからであり、彼女の愛の象徴だからだ。トリトン王はアリエルが彫像の前で「私は彼を愛しているの!」と叫んだ時、それがどれだけアリエルにとって危険な感情であるかを察する。人魚にとって人間社会は非常に危険な場所だ。このままではアリエルは破滅の道を歩んでしまう。だからこそ彼は自分が恨まれてもいい、心を鬼にして娘への愛のためにこの彫像を壊さなければならないと考えたのだ。だからこそ彫像を壊された後に泣くアリエルをみて王の心も痛むのだ。

だが実写版の方では単にトリトン王は自分の言うことをきかない我儘娘に腹をたてて彫像を壊すと変えられている。それにアリエルがエリックを愛していないなら、これは単なる石に過ぎない。そんなものを壊されたからと言ってアリエルが嘆く理由もない。だから父親が彫像を壊すことに抗議する理由もない。無論制作者はこの矛盾にも気づいてカニのセバスチャンを彫像の傍に置くことでアリエルが焦ると変更した。しかしそうなると、トリトン王は娘に怒るあまり、娘の友達を殺すほど非情な男だということになってしまう。

次に多くの批評家が文句を言っていることに、歌の歌詞が変えられているという点だ。一つはセバスチャンが歌う「キスザガール(彼女にキスをおしよ)」だ。変えられた部分はここ。

「彼女は何も言わない、そう何も言わない、お前がキスをするまで、そうさ、お前は彼女が欲しい。見つめてごらん、わかるだろう。多分彼女だってお前が欲しいんだ、彼女に聞く方法はひとつだけ、言葉なんか要らない、一言も要らない、キスをおしよ」

しかしフェミニストらの理屈によれば、男が女の合意を得ずにキスをするのは問題だというのである。

アニメではアリエルはエリックのキスを望んでいるのだから、エリックに熱烈な愛情を込めたまなざしを向ける。わざとエリックに顔を近づけたりする。エリックがバカでなければ彼女が彼の愛を求めていることは一目瞭然だ。

しかし実写版ではアリエルはエリックを愛しても居なければアースラの条件も覚えていない訳だから、特にエリックにキスをしてもらいたいという動機はない。そんな彼女にエリックがキスをしたら確かにおかしな話ではある。これは映画のなかでも非常にロマンチックなシーンなのだが、この設定では全く台無しだ。

もうひとつ歌詞が変わったのがアースラの歌。アースラはアリエルに自分の声をアースラに渡すように説得するために、声など大して価値のあるものではないという歌を歌う。

「男はおしゃべりな女が嫌いなんだよ。女の噂話なんて退屈なのさ。陸では淑女はおとなしいのが好まれる。第一おしゃべりなんて何の役に立つんだい?男たちは会話なんかに感心しやしないんだよ。本物の紳士はそんなものは避ける。紳士は控えめな女にちやほやするのさ。」

という歌詞は無論、女はおしゃべりだというステレオタイプを強調している、とか女は男に好かれるために大人しくしておくべきだというメッセージがあるので駄目だということらしい。しかしアースラは悪役であり、アリエルを詭弁でうまく丸め込もうとしているだけだ。つまり彼女が言っていることは事実として捉えるべきではない、いやむしろその反対だ。

いったいこの映画の脚本化は原作を理解出来ているのか?

さて、この後は終盤の話でネタバレがあるが、アニメ版はもう30年も前の映画なので特にばらしても問題はないだろう。アニメではエリックのアリエルへの愛を阻止することに失敗したアースラが巨大なタコのお化けになってアリエルをさらい海を荒らす。トリトン王はアースラに立ち向かうがアースラの魔力によって惨めな生き物に変身させられてしまう。そこでエリックが勇敢にも船の先端をアースラの胸元に突撃させてアースラは退治される。アースラの死により元に戻ったトリトン王は、エリックの勇敢な行為に胸を打たれ、アリエルとの恋を祝福するのだ。

しかし実写版では強い女性を描かなければならないということで、船を使ってアースラを退治するのはエリック王子ではなくアリエルである。エリックはアリエルを愛してるはずなのに、アースラの魔力の惑わされたり、肝心な時に何も出来なかったりで、いったいこの男は何のためにこの映画に出てるのだ?なんでアリエルがこんな男と結婚するのだ?いったいこの二人は愛し合っているのか?

とまあこんな具合だ。そのほかにもセバスチャン、フラウンダー、スカトルのCGIが全然魅力的ではないとか、スカトルの声をアフレコしたアクアフィナの歌が酷いとか色々とあるが、その辺は私には解らない。

日本での公開は6/9/23で、すでに週末は終わったのでそろそろ興行成績が発表される頃だろう。中国や韓国では不入りだったが、日本での成功はあるのか、もう少し待つとしよう。

付け足し:

アリエルの姉たちの設定が変わっているという話しはしたが、そのせいで冒頭の姉たちのシーンが削除されている。(アニメではこちらの場面 https://youtu.be/wBFU7aMnrNg)

それともう一つ、セバスチャンが台所で料理されそうになるレ・パソンのシーンもベジタリアンに迎合したのかカットされている。(アニメではこちらの場面https://youtu.be/oV2SpFi4nVY)

リトルマーメイド公式サイト

  • キャストハリー・ベイリー (アリエル役), ジョナ・ハウアー=キング (エリック役), メリッサ・マッカーシー (アースラ役), ハビエル・バルデム (トリトン王役), ジェイコブ・トレンブレイ (フランダー役), オークワフィナ (スカットル役), ダヴィード・ディグス (セバスチャン役)
  • 音楽アラン・メンケン, リン=マニュエル・ミランダ
  • 監督ロブ・マーシャル

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ポリコレに気を使いすぎて訳の分からなくなったリトルマーメイド実写版とオンラインゲームの行き過ぎたポリコレ

ポリコレに気を使いすぎて訳の分からなくなったリトルマーメイド

戦没者追悼の日の三日連休で公開されたリトルマーメイドの実写版リメイクだが、公開前からアリエルが赤毛の白人少女から黒人になったということなどで色々話題になっていた作品だ。公開されてみると売り上げはあまり芳しくないらしい。国内ではまあまあらしいが海外の売れ行きはかなりひどく、製作費や宣伝費を考えると完全なる赤字で終わりそうだ。

まあそんなことは私はあまり興味がないのだが、作品を観た人たちの感想動画をいくつか観たところ、主役が黒人に変わったということよりも、全体的に一貫性がなく面白くないというのがよく聞く感想である。

私が聞いた批判をいくつか箇条書きにしてると、、

  • アリエルの両親は二人とも白人(魚?)なのにアリエルを含め7人の姉妹たちが全員違う人種なのはどういうわけだ?
  • アリエルの父親役のハビアー・バーダムのやる気のない演技にしらける
  • エリック(王子様)は白人なのにお母さんは黒人なのは変(養子という無理やりのこじつけも説得力がない)
  • 登場人物全員が全く違う方言(アクセント)で話すのは何故なんだ!
  • 画像が暗すぎる
  • CGが安っぽすぎる
  • フラウンダー、セバスチャン、スカトルのCG描写がしょぼすぎる
  • アクアフィナが演じるスカトルの歌が曲も歌声も酷すぎて死にたくなった
  • 原作アニメは一時間半未満だったのに実写版は二時間半で長すぎ
  • 王子様がアリエルに二回も救われる。軟弱でまるで存在感がない

とまあこんな具合だ。もしリトルマーメイドを観たことがない人がこうした批評だけを聞いたら、この映画が人魚姫を描いたミュージカルなのだということを知ることができるだろうか?はっきり言って、こういうどうでもいいことばかりが気になるということは、映画の内容そのものがつまらない証拠だろう。ポリコレばかり気にしすぎて、映画の内容に力を入れないからこういうことになるのだ。

リトルマーメイドは1989年にアニメ版が公開されて以来、ブロードウエイを始め高校や中学の演劇部などによっても何万回と舞台ミュージカルとして再現されている。どうせリメイクをするのであればすべてのキャラクターを人間にやらせるくらいの想像力が欲しかった。この映画を見るくらいなら、近所の高校生が文化祭でやった舞台を観た方がずっとましだ。(高校生の舞台を観たことがあるが、結構よかった)

オンラインゲームの行き過ぎたポリコレ

私はオンラインゲームは全くやらないので内容については無知なのだが、昨今ゲームの世界でも欧米のポリコレが入り込んでおり、内容が不自然に歪められているという。特にゲーマーの間では悪名のたかいフェミニスト、Briana WuとAnitaSarkeesianらによって、プレイヤーの殆どが男性というゲーマーの世界は散々な目にあっている。(BrianaWuについては拙ブログでも過去に書いたことがある。自分の政治運動のために無実の男性を告発する悪質なミーツー運動、ゲーマーの場合 – Scarecrow in the Strawberry Field (biglizards.net)

こちらのキャベツさんのユーチューブチャンネルでキャベツさんは何度もこのポリコレの悪影響について語っている。動画はそれぞれ結構長いので興味のあるかたはそちらをご覧になることをお薦めするが、この過激フェミニスト達のおかげでゲームがどのように改悪されているかというと、、

  • 美女のキャラクターがブスに変わる。何故かフェミニストは美女でグラマーな女性が嫌いなようで、あまりにも美しい主人公は少女たちに非現実的な理想を生むからとかなんとかいう理屈で、可愛かったキャラがだんだんブスになっていく。
  • 露出の多い衣装がなくなる。圧倒的に男子プレイヤーが多いゲームなのだから綺麗な女性が露出の多い服を着るのは当然のはず。
  • 筋に無関係なところで突然ヘテロだったキャラがLGBTに変貌する。文脈に関係ないところで女同士のキスシーンがあったりしてプレイヤーたちは困惑。
  • 不自然に黒人キャラが登場する、白人キャラが突然黒人に変貌したり、北欧を舞台にしたゲームの日本人制作者が登場人物に黒人が少ないと批判されたりしている。

キャベツさんは、アニータ・サキ―ジアンについての動画もあげているので興味あるかたはそちらをご覧になるのも良いだろう。

私はこれらの動画をみていて思ったのだが、時々ツイッターで私が萌え漫画のポスターなどについて批判的なツイートをすると敵意丸出しの男性オタクらに絡まれることがあるが、彼等は多分日頃から過激フェミニストによって自分らの好きなアニメやゲームを散々叩かれていることから、フェミニストに対して非常なる敵意を持っているからなのだろう。確かに彼女たちの行動を見ていると、オタク男子たちが怒るのも理解できる。

この美人がブスになるとか、白人キャラが黒人に変わるとか、やたらとLGBTが出てくるというのはテレビドラマの中でもしょっちゅうあることで、私が好きなスタートレックシリーズのディスカバリーなどはもう観ていられないほどのポリコレになっていた。主人公含め登場人物の半分以上が黒人。やたらと女性キャラが多いにもかかわらず、みんなブスかデブかその両方。オリジナルシリーズのようなミニスカートや新世代のぴちぴちスーツの美女は出て来ない。しかも前シーズンの最終回では本物の超左翼リベラル黒人女性政治家本人が登場するという、もういい加減にしろと思ってしまった。私は今シーズンはもう全く観る気ない。

ところでキャベツさんはまだ気づいていないが、こうしたポリコレの裏に居るのは単なる口うるさいフェミニストたちだけではない。フェミだけではこんなにゲーム業界全体の作品を変えてしまうような力はない。これは私が先日ご紹介したESG指標が関連している。つまり黒幕はフェミニストではなくブラックロックのような大企業なのだ。

ESGが幅を利かせている以上、今後もポリコレ迎合映画やゲームがどんどん作られていくことだろう。それに対抗するためには、消費者が抗議の声をあげ作品をボイコットしていく以外に方法はない。


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Book of Will、シェークスピアの戯曲を救った仲間たち

ミスター苺と私が30年来シーズンチケットを買っている地方劇団ノイズ・ウイズイン、今シーズン最後の作品は「Book of Will、ウィルの本」前知識全くなしで観に行ったのだが、観始めて、ここでいうウィルとはウィリアム・シェークスピアのことだったことに気付いた。これはシェークスピア亡きあと、生前彼の芝居を演じたグローブ劇場の役者や劇場のマネージャーやその家族や友人たちが、なんとか彼の作品を後の世に残そうと作品全部を一つの本にして出版するまでの話だ。これが史実に基づいたものなのか作家による創造なのかはわからないが、シェークスピアファンなら、あちこちにシェークスピア戯曲のセリフがちりばめられており、感激する戯曲である。

原作は現代劇作家ローレン・ガンダーソン。登場人物はほぼ全員実在した人々のようだ。

時はシェークスピアが死んだ数年後というから1620年代初期、グローブ劇場でキングスマンと呼ばれた劇団はシェークスピアの戯曲を演じて人気があった。しかし役者たちも年を取り、若い役者たちが別の劇場でシェークスピアもどきの芝居をへたくそに演じているのを見て、ベテラン俳優のリチャード・バーべジ、ヘンリー・コンデル、そして元俳優で今は劇場マネージャーのジョン・ヘミングスは忌々しく思っている。特にバーべジは頭の中に詰まったシェークスピアのセリフを若い大根役者の前で披露して若い役者を圧倒させてしまう。

しかし数日後、バーべジが急死。このままシェークスピアを覚えている役者が死んでしまったら、自分らの代でシェークスピアの偉大な作品は忘れ去られてしまうとヘンリーは考える。そこでヘンリーは乗り気のないジョンを説得し、ジョンの妻と娘、自分の妻も一緒になってシェークスピアの作品をすべて集めて出版しようと活動を始める。

問題なのはシェークスピアの時代には台本は皆手書き。しかも題目は日替わりなので長い芝居を登場人物の分書き写すなどと言う暇はない。また当時は著作権というものがなかったので、シェークスピアは戯曲を全部書いた台本を役者に渡して盗まれるのを恐れていた。だから役者は自分のセリフのところだけのページしか持っておらず、全編はシェークスピア本人が保存していたが、それも火事でほぼ焼けてしまったという状況。それで役者たちが持っていた部分的な台本や、台本を写本した人がたまたま持っていた台本などを集め、後はヘンリーやジョンの記憶から話をつなげるという気の遠くなるような作業が続いた。

それだけではない。本を出版するとなればお金もかかる。紙代も印刷もただではない。それでヘンリーとジョンはシェークスピアの戯曲を無断で出版していた出版社のウィリアム・ジャガードと息子のアイザックと停戦を結び協力しあって印刷にこぎつける。シェークスピアとはけんか相手だったベン・ジョンソンやシェークスピアの元愛人エミリアを説得して前書きを書いてもらったりお金を融資してもらったりする。

いったいシェークスピアの本は完成するのだろうか?

と聞くまでもなくもちろん完成した。だからこそ我々が400年以上も経った今、シェークスピアの作品を楽しめるのである。話の結末を知っているにもかかわらず、ヘンリーとジョン、そして家族や仲間たちが本完成に向けて奔走する姿は観ていてハラハラドキドキである。

全編コメディータッチで描かれているが、時々ハムレットのシーンが出て来たり、仲間の一人が死ぬなど悲しいシーンもある。喜劇在り悲劇在り詩あり、シェークスピアのお芝居のようである。

これを観ていて思い出したのは、クリスマス・カロルを書いたチャールズ・ディケンズがお金に困ってほんの数週間でクリスマス・カロルを書き上げ自費出版(色々な人に借金はしたものの)するまでの過程を描いたThe Man Who Invented Christmas(クリスマスを発明した男)を思い出した。もちろん我々はディケンズが成功したことは知っているわけだが、それでも観ていて本当にどうなるんだろうと思わせる経緯がおもしろかった。

シェークスピアはあまりにもポピュラーなのでどうやって出版されたのかなんて私は今まで考えたこともなかったのだが、もしもヘンリーやジョンのような人たちが居なかったら、今頃彼のお芝居は切り刻まれてつぎはぎになった訳の分からない形でしか残っていなかったことだろう。シェークスピアの作品がほぼ完ぺきな状態で今まで保存されたのも、仲間たちの努力のおかげだ。

最後にヘンリーとジョンがシェークスピアの未亡人アンに印刷されたばかりの本を持っていく。アンは年老いて目が悪いため本は読めない。

「私の目の前には名優が二人いるんでしょ、はじめなさい」

ヘンリーとジョンはテンペストの最初のシーンを読み始める。そして出演者全員がそれぞれシェークスピアのセリフを同時に言いながら舞台に集まった時は私は思わず涙が出て立ち上がり拍手をおくっていた。

ありがとうヘンリー、ありがとうジョン、ウィルの本を作ってくれたすべての仲間たちよ。ありがとう!

The Bokk of Will(ブックオブウィル、ウィルの本)

脚本ローレン・ガンダーソン、演出ジュリア&ジェフ・エリオット、出演ジェラミー・ラボ、ジェフ・エリオット、フレデリック・スチュアート、トリシャ・ミラン、デボラ・ストラング、ケイシー・マハフィー、ニコール・ハビアー、スタンリー・アンドリュー・ジャクソン、ケルビン・モラレス、アレックス・モリス


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ドラアグクィーンがクールだった頃のミュージカル、キンキーブーツ

ミュージカル無料視聴期間の最後に観たブロードウェイミュージカルはキンキーブーツ。実はこのミュージカル、数年前に日本で今は亡き三浦春馬さんの主演で日本では大好評を得た作品。私がこの作品を知ったのも三浦さんが亡くなったというニュースを聞いた際にユーチューブで上がってきた動画を見たことによる。最近は城田優さんが主演で再演されている。

もととなったのは2005年に公開された同題のイギリス映画だが、その元の元は1999年に放映されたBBC2のドキュメンタリーシリーズで取り上げられたスティーブ・ぺイトマンという経営不振で傾きかけていた靴工場の経営者が男性用のブーツを製造し始めて成功したという話である。

今回私がみたのは2015年のロンドンのウエストエンド版だ。

ではあらすじ:日本語版ウィキペディアより

チャーリー・プライスはイギリスの田舎町ノーサンプトンの伝統ある紳士靴メーカー 『プライス社』 の跡取りだったが、周囲の重圧に耐えかね、転勤を機にロンドンに移住することを計画していた。

しかしロンドンに到着したその日に父の訃報が届き、『プライス社』 を継ぐことになり、しかも社の財政状況が火の車だということを知る。在庫の処分のためロンドンへ出張中にやけ酒を食らった勢いで、酔っ払いのチンピラに絡まれている美女を助けようとしたが、逆に美女に誤って叩きのめされてしまう。目が覚めるとそこは不作法なドラァグ・クイーンのローラ、本名サイモンの楽屋であり、その人物は桟橋で踊っていた少年の成長した姿であった。ドラァグ・クイーンには専用の靴がないため仕方なく女性用の靴をはいているが、ハイヒールは男性の重く大きな体を支えきれずに簡単に壊れてしまうことにチャーリーは興味が湧く。

ノーサンプトンに戻ったチャーリーは人員整理をしている最中、クビにしようとした社員のローレンに「ニッチ市場を開拓しろ」と捨て台詞をはかれる。そこでチャーリーはローレンを顧問として再雇用し、ローラのためのハイヒールのブーツである『女物の紳士靴』 の開発に着手し、そこにローレンの言うニッチ市場を見出す。しかし最初のデザインは機能性を重視するあまりにオバサンくさいブーツに仕立ててしまい、ローラを怒らせ、チャーリーとローレンはローラをコンサルタントとして迎える。しかし道は険しく、男性従業員の多くはローラの登場と新商品製作を快く思わず、チャーリーも婚約者のニコラとの関係がぎくしゃくし始め、「工場を売ってしまえ」と責められる。

ローラの意見を取り入れ、『危険でセクシーな女物の紳士靴 (Kinky Boots)』 を作り上げたチャーリーは、ミラノの靴見本市に打って出る決意をするが、ローラを含む多くの従業員に重労働を強いたため彼らは出て行ってしまい、事態は悪化する。-あらすじ終わり

このミュージカルで一貫して流れているのは、工場の跡継ぎとして父親から期待されていながら、父親生存中は父の事業に全く興味をしめさず父親を失望させていたチャーリーと、息子を男らしく育てようとした父の期待に沿えずに女装パフォーマーになったローラとの共通点だ。二人とも父親を失望させてしまったという負い目を背負って生きている。

この話は1990年代のイギリスの労働階級地域が舞台となっている。LGBTQ+活動が盛んな今のイギリスからは想像がつかないが、当時のイギリスはまだまだ同性愛者に対する偏見が強くあった。特にドラアグクィーンなどはロンドンなどの都会の一部では受け入れられても、ノースハンプトンのような労働階級の街ではなかなか受け入れてもらえない。いくら工場を救うためとはいえ、伝統的紳士靴を作ってきた工場で女装男性用の靴を作るなど工員たちの間で抵抗があるのは当然である。マッチョを自負している工場の男たちが女装姿のローラを見下げる姿を見ていると、まだほんの30年ちょっと前でもこうした差別意識はあったんだなと改めて感じさせられる。

さて、ローラはドラアグクィーンなので、ドラアグショーの場面が結構でてくる。ローラと彼の背後で歌ったり踊ったりするバックアップらの演技は観ていてとても楽しい。シンディー・ラウパーの曲も一緒に踊りたくなる。

ローラ役のマット・ヘンリーは全く美男子ではない。だが歌はうまく、ドラアグクィーンとしての仕草が決まっていて自然だ。はっきり言ってこのお芝居には美男美女役が登場しない。皆ごく普通だ。そしてヘンリーは身体もがっしりしているのでドラアグ(女装)しても絶対に女性には見えないのだが、そこがいいところだと私は思う。ドラアグあはくまでも女装男なので、女性に見違えるほど美しくあってはならないからだ。

しかし私は特にチャーリー役のキリアム・ドネリーが良かったと思う。最初は頼りないがだんだんと責任感ある男に変わっていくが、ストレスが貯まって周り中に当たり散らすところも自然だ。そしてドネリーの歌は凄く言い。声に張りがあって非常に力強い歌声だ。

今ドラアグクィーンたちの評判はがた落ちだが、この頃のクールなドラアグクィーンショーに戻って欲しい。

ちょうど私が観たバージョンの動画があがっていたので張っておこう。

脚本はハービー・ファインステイン(Harvey Fierstein)作曲シンディー・ラウパー(Cindy Lauper)。主な配役は次の通り。

  • チャーリー・プライス:キリアム・ドネリー(Killian Donnell
  • ローラ:マット・ヘンリー(Matt Henry)
  • ローレン:エイミー・レノックスAmy Lennox
  • 二コーラ:エイミー・ロス(Amy Ross)
  • ドン:ジェイミー・バクマン(Jamie Baughan)

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俳優の歳が追いついて味の出たミスター・サタデーナイト

本日のミュージカルはビリー・クリスタル主演のミスター・サタデーナイト。これは1992年に公開された同題の映画がもとになっている。映画の方はミュージカルではない。

私はこの映画を当時観たが、あまり良いとは思わなかった。主役のバディーが全然良い人ではなく、自分勝手で自分を愛している周りの人たちをずっと傷つけてきた嫌な奴だったからだ。それと、昔は人気者だったのに、今は落ちぶれて老人ホームで半分認知症の老人たちの前での仕事くらいしかないという70代のバディーを当時40代だったクリスタルが演じるのは無理があった。クリスタルは若いのに老人のキャラクターを演じるのがうまいことで有名だったので、多分若者から老人まで演じることのできる幅広い演技力を披露したかったのだろう。だが、映画は不評で興行成績も散々たるものだった。

クリスタルは元々スタンドアップコミックという日本語で言えばピン芸人だった。私が初めて彼をテレビで観たのは1970年代に放映されていた人気テレビコメディー番組ソープだ。彼はテイト一家のホモの息子という訳柄だった。日本語吹き替えでは女言葉を使っていたが、英語では全然それらしい演技をしておらず、やたらとホモジョークのネタにされていたという以外、普通の男性の役だった。今はあんな描写はLGBT界隈からクレームがついて駄目だろうな。

それが80年代にサタデーナイトライブというバラエティー番組のレギュラーになり、色々なキャラクターを紹介し、その演技の幅広さを示した。その当時よくクリスタルが演じていたのが老人の男性。当時はまだ30代だった彼の老人演技は非常に面白かった。

その後クリスタルは映画俳優としても成功し、大ヒットしたロマンスコメディー「ハリーメットサリー(ハリーがサリーと会った時)」都会の人間が乗馬しながら田舎生活を体験する「シティースリッカーズ」のシリーズの成功で一躍大スターへとのし上がった。ミスター・サタデーナイトはそんな絶世期のクリスタルが自ら脚本を書いた作品で、芸術映画としてアカデミー賞を狙っていたことは間違いない。しかし1950年代の人気もので1980年代現在は落ちぶれた老人という設定は、90年代当時の映画ファンから言わせるとどこにも共感を覚える接点がなかった。私自身50年代に人気のあったコメディアンのことは何も知らないし、懐かしいと思う思い出もない。言ってみれば、バディーの20代で無知なマネージャー、アニーと同じ立場だった。

そういうわけなので、なぜあの映画をわざわざミュージカルになんぞしたんだろうかと興味が湧いたので無料視聴期間に観てみた。しかしこの話、思っていたより悪くない。クリスタルが歌が歌えることは全然しらなかったのだが、彼の歌声は結構聞ける。ジョークもすごく面白い。次から次へと飛び出すジュ―イッシュ特有の皮肉に満ちたジョークに、私は久しぶりに大声で笑った。最近はげらげら笑えるコミックが少ないので、何か斬新な感じさえした。もちろん最近のポリコレブームでこんなオフカラーなジョークはちょっと無理かも。

しかし何よりも良かったのは、現在74歳のビリー・クリスタルは、役柄のバディーと同じ年になったということだ。しかも彼自身が若い頃に大スターになり、決して落ちぶれているわけではないが、昔のように引く手あまたな俳優ではない。だから今のクリスタルがバディーを演じるのはしっくりくるのだ。そしてこれは友人に指摘されたのだが、私自信もこの映画を見た30代初期から60代になっていることも、この話に共感できることの一つだろう。今の私はクリスタルの若い頃の活躍を懐かしく思える歳になっているからだ。

この話を普通のお芝居でなくミュージカルにしたのは成功だった。しかしこれはビリー・クリスタルのワンマンショーと思ってみた方がいいかもしれない。彼は芸達者なので、芝居の中で様々な持ちネタを披露する。若い時の演技も若い俳優を使わずに兄のスタンも妻のイレーン(Randy Graff)も同じ俳優がそのまま演じているが、これも舞台ならではの味である。

話の筋は結構単純。主人公のバディーは1950年代に一躍を風靡した大スターだったが、人柄に問題があり、あちこちでいざこざを起こしてしまう。せっかく大人気バラエティーショーを数年持っていたにもかかわらず、視聴率が下がった不満を生番組中に局やスポンサーの悪口としてぶつけてしまい、ショーはキャンセルされ、問題児としての評判が立って、その後は豪華客船のショーやあちこちの小さい劇場で演技を続け、今や老人ホームでの営業ぐらいしか仕事がない。長年自分のマネージャーをやっていた兄のスタンもいい加減付き合い切れずに引退しており、仕事にかまけてきちんと面倒をみてこなかった40歳の娘との関係も全くうまくいっていない。それでも彼に見切りを付けずに献身的に尽くしてくれる妻のイレーンが傍にいるだけ。

しかしエミ―賞の放映中、今は亡きコメディアンに混じってビリーの名前が出たことで大騒ぎ。実は死んでいなかったとわかって人気テレビトークショーにゲストに呼ばれる。そこでの演技がおもしろかったため、見直され大手エージェントから契約したいとオファーが来る。しかしいざインタビューに行ってみると、やってきたのは昔のビリーのことを全くしらない20代の駆け出しマネージャー、アニーChasten Harmo)だった。無知なアニーに腹をたてたバディーは一旦は契約を断るが、アニーの学ぶ熱意にほだされて色々な仕事に挑む。しかしすぐに昔の癖が自分勝手な演技を初めてことごとく失敗。そんな折、大昔、子供だった頃バディーの生ステージをみていた今は映画監督からオーディションのオファーが来る。

以下ネタバレあり

脚本は観ながら猛練習をするバディー。ちょうど家に仕事が見つかったと報告にきたスージーShoshana Bea)の話もきかずに、練習に付き合わせるバディー。しかしここでもまたスージーと大ゲンカ。数日後、オーディションに行ってみると、演技は素晴らしかったのだが、すでにその役は人気俳優に渡ってしまったことを知らされ、失望のあまり兄のスタン当たり散らし、ここでも大ゲンカ。最後に兄に「お前の言う通りだよ。でももう少し優しくできないのかい?」と言われてショックを受けるバディー。

自分を愛するひとたちをことごとく傷つけてしまうバディー。娘や兄と仲直りできるのだろうか?この先彼のキャリアは再び日の目をみることがあるのだろうか?

というわけなので興味のある人は映画を見てみるとよいと思う、筋はそのままだと思うので。ただ私は映画のエンディングを覚えていない。それでこのお芝居と映画が同じように終わるのかどうか自信がない。映画を見た時は、なにか後味が悪かった記憶があるのだが、ミュージカルの方は非常に満足のいく結末になっていた。二時間四十五分も付き合った甲斐があったというもの。

バディーの兄スタン役は、映画と同じデイビッド・ペイマー。彼はもう80歳近いだろうけど素晴らしい演技を見せる。彼は歌手ではないからミュージカルナンバーはちょっと無理があるが、それでも私は結構気に入った。

アンサンブルでジョーダン・ゲルバー、ブライアン・ゴンザレス、ミランダ・フルが、何役もこなしていて面白い。

ミュージカルとしての評判は今一つで、芝居は一年足らずで閉幕したが、それでもクリスタルは2022年トニー賞で最優秀男優賞にノミネートされている。74歳という高齢で毎日の舞台は大変だったろうし、このくらいでちょうど良かったのではないかと思う。彼以外でバディーを演じられる人はいないので、というか、このショーやクリスタルあればこそなのでロングランは最初から予定されていなかったと思う。

ともかく久しぶりに大笑いさせてもらったので満足している。


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ミス・サイゴン、今も昔も変わらない現地妻の悲劇、蝶々夫人との共通点

ネットでブロードウェイお芝居を観られるフロードウエイHDの無料視聴期間が7日間あるので、その間にこれまで観たくても観られなかった有名何処のミュージカルを毎晩観ることにした。昨晩観たのはかの有名なミス・サイゴン25周年記念上演版。初演は1989年にイギリスのウエストエンドで公開された。当時、ベトナム人と白人との混血エンジニア役を白人のジョナサン・プライスが演じたといってちょっと批判されたりしていた。初演で主役のキムを演じたリー・サロンガはウエストエンドでもブロードウェイでも大スターになった。日本でも劇団四季が市村正親主演の初演以来、何度も上演されている。

私にはミュージカル大ファンの親友が居るが、彼女は押しの俳優さんを追って、このお芝居は何十回と観ていて、前々から薦められていたのでとても楽しみであった。しかし私が思っていたのとは違う筋でちょっと意外だった。

あらすじ ネタバレあり

舞台は1975年4月、ベトナム戦争末期、文字通りサイゴン崩落前夜から始まる。エンジニアが経営する売春宿に米軍GIのジョンとクリスが遊びに来る。ジョンは女遊びには気乗りのしないクリスのために店に入ったばかりの処女キムを買い与える。最初は乗り気ではなかったクリスもキムの清純な魅力に魅かれ、キムもまたクリスのやさしさに魅かれて二人は一夜にして恋に落ちる。

しかしベトナムはすでにアメリカ軍撤退は避けられない状態。南部のベトナム人たちはサイゴンが北郡に占領される前にアメリカに逃れようと必死にアメリカ大使館の周りに集まっている。当時の様子はアメリカ軍が残していく武器を北郡に取られないようにどんどん破壊していく映像がテレビでも流れていた。特にヘリコプターが海に落ちる動画は有名だ。

そんなどさくさの中で、クリスは一日だけ休暇をもらってキムと結婚しキムをアメリカに連れて行く手続きもするが、動乱のなかキムを迎えに行けず、大使館の前まで来ているキムと連絡も取れず、クリスはそのままキムを残して帰国せざる負えなくなる。

三年後、すでにアメリカで再婚していたクリスは友人のジョンからキムが生きており自分には息子がいることを告げられる。今まで隠していた事実を妻にすべて打ち明け、クリスは妻のエレンと一緒にキムと息子がいるバンコックへ向かう。

クリスの友人ジョンからクリスがバンコックへ来ていると知らされたキムは、クリスが自分を迎えにきてくれたと早合点。ジョンの説明も聞かずにクリスが泊っているホテルに行く。そこでキムに会いに行ったクリスと入れ違いになってしまい、キムはエレンの口からクリスが再婚していた事実を知る。

狂乱したキムはエレンに自分の子供をアメリカに連れて行って欲しいと嘆願。キムの息子愛に心打たれたエレンはそのことを帰ってきたクリスに告げ、ジョンとエレンはキムと息子に会いに行く。

キムはクリスとエレンに子供を頼むと言って息子を引き渡すが、自分は奥の部屋に戻ってクリスが護身用にと昔キムに渡した銃で自殺をしてしまう。

あらすじ終わり

ちょ、ちょっと待ってよ、これってまさにプッチーニのオペラ、マダマ・バタフライ(蝶々夫人)じゃない!最後に女が自殺するところまで筋がそっくりだ!それもそのはず、なんとこの話、原作は蝶々夫人だったことを検索して知った。

作品名ミス・サイゴン
作曲クロード=ミシェル・シェーンベルク
作詞アラン・ブーブリル、リチャード・モリトビーJr
原作プッチーニのオペラ『蝶々夫人』
Musical Classicaより引用

この作詞作曲のコンビは、かの大作レ・ミゼラブルも手掛けた名コンビ。しかしクラッシック風のレミゼとは対照的に、ミス・サイゴンは非常にジャズ的な要素が高い。

話の大筋はこんなところで、主役はキムとクリスだと思いがちだが実はそうではない。この話の主役はなんといってもサイゴンで売春宿を経営していたエンジニアである。エンジニアが本名ではないのは当たり前だが、この男の素性は怪しげでよく分からない。だが頭がよくて機転が利き、どんな状況でも生き延びる手段を持っている。

売春宿で平気で女を殴る嫌な奴だが、どうも憎めない。内戦状態が何円も続いていた貧しいベトナムで、売春以外に貧乏人の子供がどんな生き方があったのかと言われてしまえば何とも言えない。この芝居が上演された時、女性蔑視だとか人種差別だとか色々言われたそうだが、ベトナム戦争中の売春宿が舞台なのだ、批評家たちは一体何を期待していたのだろうか?

エンジニアはキムの混血児を使って自分はキムの兄と言うことにしてアメリカに渡ろうと企み、アメリカで一旗揚げようとアメリカンドリームを唄う。私はこのミュージカルで知っていた歌はこれだけ。以前に市村がこれを唄ってるのを聞いたことがあった。彼の場合は踊りもうまいので非常に面白い演技になっていたが、今回のジョン・ジョン・ブライオネスの演技と歌は素晴らしかった。この役柄が憎めないのは彼のコミカルな演技にあるのだろう。

ブライネスが何処系の人なのかはわからないが、私は実際にこういうグリースィ~なベトナム人男を何人か実社会でみたことがある。ポマードべとべとの黒髪を後ろにすいて、派手な上着を着て金の鎖をじゃらじゃら首にかけて高級な腕時計をしている場末カジノの支配人といったかんじ。エンジニアならきっと難民キャンプからなんとか逃れてアメリカへわたり、きっとカリフォルニアのポーカーパーラーかなにかを仕切っていることだろう。

もう一人主役以外に私が気に入ったのがキムの元許嫁で後に北軍の指揮官になるトウィ役のカン・ハ・ホング。この役はいつでも感情的で暴力的なのだが、ホングはその感情を良く表し。その美しい声で歌い上げる。悪役なのだが、かなりの男前で惚れてしまった。

さて、この外国から来た男が一時的に滞在した地で地元女性と関係を持ちながら女を置いて去って行ってしまうというテーマは万国共通で昔からよくある話だ。また、戦争中に戦地にいた兵士との間に子供が出来る女性というのも珍しい話ではない。第二次世界大戦後に米兵相手に売春をして混血児を産んだ女性はいくらもいた。そして混血児を育てられない親たちによって捨てられた子供はいくらもいたのだ。

この芝居の中でも、第二部はクリスの友人ジョンがベトナムに置き去りにされた米兵と現地妻との間に出来た子供をアメリカに呼び寄せようという活動をしている。アメリカは世界中に出兵しているから、こういう子供は諸外国に数えきれないほど居るんだろうな。

無論クリスは好きでキムを置き去りにしたわけではない。アメリカ軍撤退の動乱のなか、ベトナム人女性一人と何とか脱出するなどそう簡単に出来たわけではない。ベトナムとアメリカの間は険悪であったから、その後置いてきた人を探し出すなどということも困難だったのは当然のことだ。それでも罪悪感にさいなまれるクリスの力になったのが妻のエレンである。彼女もまたクリスが抱える苦悩に気付いて苦しんでいる。

アメリカにはベトナム人難民が沢山いるが、ここで私の実体験をお話しておこう。1980年代初期の話だが、職場付近にあったレストランで昼食を取っていた時、仕事関係で知り合いの男性が女性と食事をしているのを見かけた。その人は中小企業の社長さんでその時もピシッとした格好をしていたが、一緒にいた東洋人の女というのがおよそ彼のような人にはふさわしくない女だった。着ている服は体にぴったりしたミニドレス。胸の半分がさらけ出されるようなローカット。しかも化粧がゴテゴテの厚化粧。場末のキャバ嬢でもあんな恰好はしないというような下品な感じのする女だったのだ。その話を後で職場の同僚にしたら、「あ、あれはあの人の奥さんだよ。ベトナム駐在の時に出会ってこっちにつれて来たんだってさ」と言われてびっくり仰天。ベトナムの繁華街で勤めていた現地妻を本当にアメリカにつれてきちゃったのか、そんな男が本当に居るんだ!そう思って私は奥さんの恰好が下品だなどと蔑んだ自分が恥かしくなった。

配役:

Jon Jon BrionesThe Engineer
Eva NoblezadaKim
Alistair BrammerChris
Kwang-Ho HongThuy
Tamsin CarrollEllen
Hugh MaynardJohn
Rachelle Ann GoGigi
William DaoTam
Paul Benedict SarteTam

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ヘンリー四世とマイ・プライベート・アイダホ、リバー・フェニックスとキアヌ・リーブスの熱演

ずっと観たいと思っていた1991年公開の映画、My Own Private Idaho(マイプライベートアイダホ)を昨晩観た。私は映画の概要についてリバー・フェニックスとキアヌ・リーブス演じる二人の同性愛カップルがフェニックスの演じるマイクの母親を探しながらアメリカ中を旅してまわる話だと聞いていた。私は昔萩尾望都や武宮恵子の少年愛漫画の延長で、若く美しい少年たちの純愛物語は好きだった。当時s素晴らしく美しかったリバーとキアヌのコンビなら、さぞかし美しい映画だろうからいつか観てみたいと思っていた。それともうひとつ興味をそそられたのは、ミスター苺から、この映画には終わりの方でシェークスピアのヘンリー四世のシーンが突然出てくると聞いていたことだ。二人の少年の冒険の旅とヘンリー四世がどう関係があるのだろう。これは非常に興味深い映画だと期待していた。

しかし実際に観てみると、この映画は二人の美しい少年たちの純愛物語などというものでは全くなかった。現実はもっと汚らしく厳しいものだった。この先は筋を負いながら感想を述べるので、まだ観てない人は観てからお読みになることをお薦めする。

以下ネタバレあり

映画の冒頭で、マイクはアイダホのまっ平な高原を一直線に進むハイウェイの道路上に立っている。もっているのはバックパックだけ。そしてマイクは何かの発作に襲われバックパックの上に倒れこむ。

そして場面はポートランドへ移る。主役のマイク(フェニックス)は街頭に立つ男娼である。ストレスが貯まるとその場で寝てしまうという持病の持主。アイダホの田舎で貧乏で複雑な家庭に育ち、15~6歳の頃に家出をして今ではオレゴン州ポートランド市とワシントン州のシアトルを行ったり来たりして、街頭に立って売春や盗みなどをしてほぼホームレスの生活をしている。彼の男娼仲間で親友のスコット(リーブス)は、実はシアトル市長の息子で金持ちのボンボン。にもかかわらず父親に反抗してか、丘の上の豪邸から下町の街頭へ降りて来てふしだらな生活を送っている。

この物語の主人公は無論マイクなのだが、この映画はマイクとスコットという二人の別々の物語が描かれている。この映画は全く異なる二人が一時的に接点を持った時が舞台となっているのだ。だからこの二人がどれだけ親しい間柄であろうとそれが長くは続かないであろうことは、感情に満ちたマイクのふるまいとは対照的にスコットのやたらに冷静な態度に現れている。スコットは突然眠気に襲われて意識を失うマイクのことを常に優しく面倒を診ているのだが、それは愛情というものではない気がする。

この二人には他にも何人か男娼仲間がおり、中年男のボブ(ウィリアム・リチャード)が少年たちのリーダー格となり、大きな空き屋敷にたむろしている。この状況はディケンズの小説オリバーに出てくるファニガンと盗み集団の少年たちを思い出させる。ボブは明らかに少年たちを食い物にしているのだが、少年たちは何故か彼を慕っている。特にスコットとボブの間に肉体関係があったことは確かで、ボブがスコットに男娼としての手ほどきをしたのかもしれない。

スコットの家が金持ちであることは皆知っており、特にボブはいずれスコットが21歳になり自分の金を自由に使えるようになったら、今まで世話をしてきた自分に恩義を覚えたスコットがなにかしら面倒みてくれるものと期待している。しかしスコットが同じ気持ちでないことはあきらかだった。

「俺は21歳になったらこの生活からは立ち去るよ。俺の母さんも父さんも俺の極端な変化に驚くだろう。二人はドラ息子だと思ってた俺が実はよい息子だったのだと知って感心するだろう。すべての悪行が死んだように捨て去られるのだ。俺は彼等がもっとも意外な時に変わるんだよ。」

スコットはそう言ってボブに警告する。しかしボブはこの時点ではスコットの言葉を信じない。きっと何か仕事を世話してくれると独り言を言うのだ。この場面の二人のやり取りは非常に舞台的でシェークスピア戯曲の一場面を思い起こさせる。実は私は昔からキアヌ・リーブスの演技は平坦で起伏がないと思っていたのだが、実は全くそうではなく、不自然に大袈裟なのだということに気付いた。しかしそれは彼が演技力に欠けるからではなく、この大袈裟な演技は明らかにそういう演出になっているのだ。この芝居がかった大袈裟な演技は後々の二人の関係を示唆する伏線となる。

さて肝心のマイクなのだが、何かしら将来の計画を持っているらしいスコットに比べ、マイクにはまるで目標というものがない。映画は男娼という底辺に生きる若者たちが、どんな荒んだ生活をしているのか、その毎日を淡々と描く。少年たちは若い男子特有の美しさを持っているのだが、その若さと美しさを売春という生き方で完全に浪費してしまっている。この子たちには希望が見いだせない。この少年たちの行きつく先がぶよぶよに太って子供たちを手下にして盗みを働いたり物乞いしているボブなのだと思うと、なんと空しい人生なのだろう。

しかしそんなマイクにも、幼い頃に生き別れた母親にもう一度会いたいという願いがあった。そこでマイクはスコットと一緒にアイダホの兄リチャード(ジェームス・ルソ)の元へ向かう。途中で乗っていたバイクが故障し、二人は野宿をするが、焚火の前でマイクはスコットに友達以上の関係になりたいと求愛する。スコットは男娼をしているにもかかわらず男同士の恋愛には興味がないことをマイクに告げる。スコットはマイクに同情して彼を抱擁するが、マイクの求愛を受け入れたわけではない。ここでもスコットの今の生活に対する冷たさが感じられる。

兄の元で話をするうちに、実は兄のリチャードが自分の父親でもあり、マイクはそのことを知っていると兄に告げる。兄は仕方なく母親がラスベガスかどこかの高級ホテルでメイドをしていた時に送ってきた絵葉書を見せる。それを手がかりに二人はホテルへ向かうが、すでに一年前にホテル辞めてイタリアに渡ったことを知る。

ここで二人は以前にシアトルで出会ったゲイのドイツ人男性ハンス(ウド・クラ―)と再会する。この男性の演技も非常に興味深いのだが、映画ではところどころに男娼を買う中年男たちの変態的なフェティッシュを混ぜて来る。例えば映画の最初の方でマイクを自分の家に連れて行ってメイドの恰好をさせて流しの掃除をさせた男とか、ホテルの置きランプを持ちながら踊るこのドイツ人男性とか。こういう描写があるので、男娼の生活を描いているにもかかわらず、さほど悲惨さを感じない。

ハンスにバイクを売り、そのお金で二人はイタリアへ行く。しかし母が居たというイタリアの田舎家に行ってみると、そこにいた若い女性カルミラ(キアラ・カゼッリ)は、彼女はもうだいぶ前にアメリカに帰ったと告げる。この家に数日間世話になっているうちにスコットはカルミラと恋仲になってしまい、マイクのことはあっさり捨てる。スコットはマイクに帰りの航空券といくらかの現金を渡し、自分はカルミラと🚖タクシーに乗って旅立ってしまう。

ローマにもどったマイクはそこでまたイタリア人相手に売春をするが、そのうにポートランドに戻って再びボブらと一緒に路上生活を始める。そんなある日、高級レストランに高級車で乗り付けた立派なスーツを着たスコットと見違えるほど洗練されたカルミラと取り巻きの姿をマイクたちは見かける。

ボブはこの時を待っていたとばかりに場違いな高級レストランへと入っていく。なかには唖然としてスコットを見つめるハンスの姿もあった。ボブはスコットに近づくと、「俺だよ、ボブだよ、スコット!」と親し気に声をかけるが、スコットは振り向きもせずに後ろを向いたままこんなことを言う。

「老人よ、私はあなたを知らない。放っておいてくれませんか。I don’t know you old man. Please leave me alone. 」

なるほどこれがミスター苺の言っていたヘンリー四世の。

「老人よ。余はそなたを知らぬ。I know thee not, old man.」

のセリフだなと察しがついた。

ここでのスコットのセリフはやはり非常に芝居がかっている。

「老人よ、私はあなたを知らない。放っておいてくれませんか。私が若く、あなたが私の路上の先生で私の悪い行動の先導者だった頃から、私は変わるつもりだった。私のサイケデリックな元先生、私にはあなたから学ぶ必要があった時があった。亡くなった父よりあなたを愛しているが、私はあなたに背を向けねばならない。背を向けた以上、元に戻ることがあるまで、私の傍に近づかないでくれ」

I don’t know you old man. Please leave me alone. When I was young and you were my street touter and instigator for my bad behavior, I was planning a change. There was a time when I had a need to learn from you, my former psychedelic teacher.Although I love you dearly more than my dead father, I have to turn away.Now that I have until I change back don’t come near me. “

さてここでヘンリー四世とこの映画との共通点を説明する必要があるだろう。これはシェークスピアの有名な戯曲の一つだ。イギリスの国王ヘンリー四世には悩みがあった。お世継ぎのハル王子は皇太子と思えないほどの放蕩息子でごろつきと評判の悪い中年太りのフォルスタッフとその仲間たちと飲んだくれの生活を送っていた。

中間は色々あるが、それは飛ばして、ハル王子はフォルスタッフとギャングたちと自堕落な暮らしをしていたとはいえ、いずれ父親の亡きあと自分が国王になるのだという自覚はあった。それでフォルスタッフが何と言おうと、自分が国王になった暁にはフォルスタッフを特別扱いするようなことはないと警告していた。

そしてついに父親が亡くなりハル王子はヘンリー五世となる。立派な王となったヘンリーの元に現れるのがフォルスタッフである。ここで「老人よ、余はそなたを知らぬ」というセリフでこのシーンが始まるのだ。

王となったヘンリーには責任もある。皇太子として好き勝手に暮らしていた頃の友人をそのまま傍においておくわけにはいかない。そんなことをしたら周りに示しがつかないからだ。

ハル王子とスコットの共通点は、二人とも自堕落な放蕩生活をしているときでさえも、実はその生活は自分の本来の姿ではないのだと知っていることだ。そしていつでも自分は好きな時にこの生活から立ち去ることが出来ることもしっている。そこで知り合ったひとたちと自分は住む世界が違う。だからいつか自分はこの生活ともこの愛すべき人びととも別れる時がくるのだと。

だからスコットは十分路上生活を楽しんでいるようであっても、路上の人びとと心底心を許す関係にはならなかったのだ。ストレートでありながら男性との性交渉をしても、それは本当の自分ではないと思っているからこそ平気な顔をしていられたわけだ。

だがマイクは違う。マイクは本気でスコットを愛していた。だから彼に捨てられたことはショックだった。だがだからと言ってマイクにはその後違った人生を歩む選択肢がない。一人旅をしていても、ハイウェイの真ん中で眠りこけてしまう。そんな彼にどんな未来があるのだろうか?

そして画面は冒頭のアイダホのハイウェイに戻る。意識を失っている五マイクの傍を一台の車が通りかかるが、車から出て来た男二人はマイクのバッグと靴を盗んでそのまま走り去ってしまう。そのまま置き去りにされるのかと思いきや、次にやってきた車の運転手は、意識のないマイクの体をひきずって車に乗せて走り去る。

意識のないマイクはどこへ連れていかれるのだろうか。


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役者の人種はどうでもいい、でも筋を通して欲しい

最近ディズニーのリトルマーメイドの新しい予告編が発表されたこともあり、再びアリエルを演じる女優の人種が取りざたされているが、この映画の問題点は主役が黒人になった程度のことではないと思う。しかし今日はその話ではなく、人々が慣れ親しんでいる役を異人種が演じるのはどうなのかという話をしたい。

結論からいえばそれは別にいいと思う。ただし、その映画やお芝居の中でそういう人種の人が出て来てもおかしくない設定になっていればという条件付きではある。

私は昔からお芝居や映画が好きである。特に中学生くらいから生で舞台を見るのが大好きで、一人で歌舞伎座へ行って一幕見をしたり宝塚や劇団四季のミュージカルをみたり、明治座や芸術座なども良く通った。今でも生のお芝居を見るのが大好きなので、地元の地方劇団のシーズンチケットをずっと買い続け、かれこれ30年になる。

この劇団は色々な芝居を手掛けるが、なんといっても一番人気はシェークスピアだ。先日もMuch Ado About Nothing(邦題:空騒ぎ)という私の大好きな題目で非常によかった。

A woman in a bridal veil and man in soldier's uniform face each other in front of a stained-glass window.

↑地方劇団の「空騒ぎ」のシーン。

この劇団に限らず、私はシェークスピアが好きなので色々な劇団やプロダクションでシェークスピアを観ている。同じ題目のものも色々な舞台で観た。「空騒ぎ」もケニス・ブラノフの映画を含めると四度目だ。私は色々な劇場でシェークスピアを観ているが、イギリスのシェークスピア劇場で観たテンペストも含めて、話の設定が中世のイギリスであることは非常に稀であり、台詞はそのままだが舞台は色々な時代や場所に移されていることが多い。

例えば今回の「空騒ぎ」も舞台は1940年代の中南米だったし、以前に見た12夜は1960年代風のカリブ海周辺のどこかだった。21世紀を舞台にしたロミオとジュリエットもあるし、1930年代を舞台にしたリチャード三世なんてのもあった。黒澤明のマクベス(蜘蛛の巣城)やリア王(乱)も有名だ。

このように舞台や設定を変えてしまえば、登場人物の人種や民族が白人のイギリス人である必要はまったくないし、黒人が出て来ようがラテン系が出て来ようが日本人だろうが全く問題はない。

ヒーローものを女性にやらせるにしてもそうだ。例えばワンダーウーマンのように元々女性のキャラで作られたものなら問題はないが、元々男性キャラなのを無理やり女性に変えるのは勘弁してほしい。

私の大好きなSF長寿番組ドクターWHOが女性に生まれ変わった時も思ったのだが、女性にやらせるなら女性特有のキャラクターにしてほしかった。それが男優用に書かれた台本を単に女優にやらせているという怠慢さがにじみ出て、見てる方は完全に白けた

同じドクターWHOでも、以前にドクターの宿敵マスターが女性に生まれ変わりミッシーとなった時、彼女は正確も素振りも確かにマスターの生まれ変わりであったが、19世紀の貴婦人の服を着こなす高貴な女性で、お色気もあったし茶目っ気もある素晴らしいキャラクターだった。私はドクターWHOの女性版にもそういうキャラを期待していたのだが、完全に裏切られた。このシリーズは視聴率最低だったらしい。さもあらん。

結論を言うと、人々が慣れ親しんできたキャラクターの人種や性別を変えようというなら、その変更が人々の納得のいくような筋の通ったものにしてほしいということ。

リトルマーメードなら舞台をカリブ海付近に移して登場人物はすべて黒人にするとか、ピーターパンも舞台を別の国に移すとかして、ピーターパンが東洋人でもティンクが黒人でも違和感のない設定にしてほしかった。しかしディズニーはともかく多様な人種を使うということにだけ気を使って、物語の脚色にも筋にも全く力を入れない怠慢さ。

これらの映画が不人気なのは配役に非白人を起用したことにあるのではなく、オリジナルの設定や脚色をした映画を作るという努力を怠ったその怠慢さが原因なのだ。


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まるで映画羅生門のような「リベンジポルノ」殺人事件

みなさんは黒澤明監督の「羅生門」という映画をご存じだろうか。実はこれは芥川龍之介の「藪の中」という短編小説が原作。(同著者による「羅生門」とは違う話)主演は、三船敏郎、京マチ子、森雅之 そして志村崇。

あらすじは、ある武士(森雅之)が藪の中で殺される。数日後野武士(三船敏郎)がその犯人として逮捕され裁判にかけられるのだが、野武士の証言と、その場にいた武士の妻(京マチ子)との証言が真向から食い違う。しかも巫女を使って死んだ武士の魂を呼び戻して証言をさせるも、これまた全く話が違うのだ。そして最後にこの裁判の一部始終を見ていたとして裁判の話を最初から最後まで人に話して聞かせていた男(志村崇)も殺人現場から刃物を盗んだことを指摘され、男の話も信じられないという結末。

私がこの映画を思い出したのは、昨日読んだこんな殺人事件の記事が発端である。2022年の1月、同居中の元恋人(25歳)を(19歳)の少女が包丁で刺して殺した。少女本人の証言によれば犯行の動機は男が昔撮影した二人の性行為の動画。少女はフィリピンへの留学の前に、その写真の消去を元恋人に嘆願したが受け入れられず、咄嗟に刺してしまったというもの。

最初に私が読んだのはこの朝日新聞の記事

19歳の少女は、年上の交際相手と一緒に青森から上京した。少女は留学、男性は起業という夢を追いかけていた。しかし、少女は東京で相手を刺し殺した。法廷で声を振り絞って明かした動機は、「ある動画」だった。

 12月6日、東京地裁であった裁判員裁判の初公判。20歳になった被告の女は、肩までの黒髪と上下黒のスーツで法廷に現れた。

 起訴内容は、今年1月9日午後3時20分ごろ、東京都江戸川区のアパートの一室で、元交際相手の男性(当時25)の腹を包丁で1回刺し、殺したという殺人罪だった。

 「(間違いは)ありません」。被告ははっきりした口調で起訴内容を認めた。

好きだったので断れなかった

 検察側の冒頭陳述によると、被告が青森市内の高校3年生だった2020年の夏ごろ、地元のバーの店員だった6歳上の男性と知り合い、交際が始まった。

 

記事によると二人は一緒に東京へ上京したが、恋人は少女に家事を丸投げにし暴言も多く、二人の関係はどんどん悪化しついに破局を迎えた。少女はフィリピンのサブ島への留学を計画していたが、男性が自分の動画をSNSにアップするのではないかという被害妄想が膨らみ、ついに犯行当日、男性に動画の削除を再度嘆願したが受け入れてもらえなかったため刺したというものだった。

男性のスマホには確かに動画は保管されていたが、男性がSNSにアップした記録はなかった。

この記事は最初から最後まで少女が悪い男に騙された可哀そうな少女という視点から書かれており、私もそれをすっかり信用して、大の男が未成年を誘惑して東京に連れて来て、性交の動画まで撮ってリベンジポルノで脅すとか最低の奴だなと思った。こんな男を殺したからといって9年の実刑は長すぎるだろう、情状酌量の余地はあるのではないかと思ったのだ。

桜庭里菜.png
犯人の桜庭里菜

ところが今日になって、実はこの少女とんでもない女だったという話が出て来た。それがこの記事。「他に好きな人ができたから」元交際相手の腹部を包丁で刺した少女が口にした“衝撃の一言”《江戸川区19歳少女が殺人容疑で逮捕》 | 文春オンライン (bunshun.jp)

この記事によれば、確かに二人は故郷の青森から一緒に東京に上京して同棲していたというところまでは事実なのだが、男性の同僚の話によると、男性(佐藤雄介さん)は少女(桜庭里菜)との関係がうまくいっていないことをよく相談していたという。

ところが二人が上京して数か月も経たないうちに里菜は他に好きな人が出来たので別れてほしいと言い出したというのだ。

佐藤さんと親交があった職場関係者が証言する。

「優作さんは昨年4月からうちの建設会社で働き始めました。職場の先輩と一緒に釣りに行ったり、奄美や沖縄への社員旅行でも楽しそうにしている明るい子でした。先輩社員の家に集まる飲み会でも、率先して人形で子供たちと遊ぶような面倒見のいいところがあり、青森から持ってきたりんごを『食べきれないのでお子さんにどうぞ』と配ってくれる気づかいもできるいい子でした」

 しかし佐藤さんは、職場で交際相手の少女とうまくいっていないと相談することも多かったという。

「上京したいという少女の希望に沿う形で、優作さんが引っ越し費用をため、就職先も決めて満を持して2人で東京へやってきました。しかし上京してから少女がクラブに行って朝まで帰ってこなくなったり、未成年なのに家でたばこを吸っていると心配していました。優作さんは東京に知り合いがいないこともあり、会社の先輩に『少女が東京に来ない方が良かったんじゃないか』と相談していたとも聞いています」(前出・職場関係者)

亡くなった佐藤さん 本人インスタグラムより
亡くなった佐藤さん 本人インスタグラムより

 2人の関係に決定的な亀裂が入ったのは、同棲スタートから3カ月ほどが経った2021年夏のこと。少女が佐藤さんに「他に好きな人ができた」と突然別れ話を切り出したのだという。

「少女は東京で知り合ったアメリカ人男性のことを好きになり、それがきっかけで2人は昨年夏に別れたと聞いています。しかし少女はコールセンターで働いていたもののお金に余裕がなく、未成年なので物件を1人で契約するのも難しい。優作さんは少女に対してもう恋愛感情はなくなっていましたが、少女の親とも連絡を取り合っていたので強引に追い出すわけにもいかなかったようです。

 少女が『今から物件を探すから』というのを信じて同居を続け、最近になって『アメリカ人男性と今年2月に渡米する』と少女が言い出したことでやっと優作さんが解放されるのかなと思っていたのですが……」(同前)

優作さんは自分でアパートの家賃を払っていたにも関わらず、しょっちゅう里菜が恋人と電話するからといって部屋を追い出されるなどのひどい仕打ちを受けていたという。故郷青森の知り合いたちも優作さんが暴力を振るうような人ではなかったと証言している。

こうなってくると、どうも愛人に暴力を振るったりリベンジポルノを使って恋人を脅迫するような人とは思えない男性像が浮かび上がってきた。しかも他の記事では里菜は覚せい剤を常習していたという話もある。

最初の記事を読んだ時は、私は一方的に被告の里菜に同情していたので、こんなことを言うのは憚られるのだが、今はどちらかというと被害者の優作さんよりも加害者の里菜のほうに問題があったのではないかという気がしている。

では何故優作さんは里菜とのセックス動画を消さずに保管していたのか。二人の関係がどちらのせいであるにしろすでに冷え切っていたことは事実だ。悪いことに使うつもりがなかったなら、里菜に言われた通り動画を消してしまえばよかったのではないか?

だがもし里菜が覚せい剤を常習していたということが事実だったとしたら、そして新しくできた愛人のために優作さんを足蹴にしていたとすると、新しいアメリカ人の愛人と一緒にアメリカに行く際に、優作さんに理不尽な要求をしてくる可能性がある。優作さんとしては、もしもそういうことをされた時の取引の切り札として動画を残しておいたのではないだろうか?

こうなってくると、被告に下された9年という実刑もさほど重いとは思えなくなってくる。

ツイッターでは少女に同情する異見の方が多いのだが、裁判では優作さんの知り合いや同僚のひとたちの証言もあったはずなので、この判決はもしかすると正当なものだったのかもしれない。

私は常にメディアは信用できないと言って来たくせに、こともあろうに朝日新聞の記事を鵜呑みにしてしまうとは、我ながら恥かしい限りである。反省、反省。


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