俳優の歳が追いついて味の出たミスター・サタデーナイト

本日のミュージカルはビリー・クリスタル主演のミスター・サタデーナイト。これは1992年に公開された同題の映画がもとになっている。映画の方はミュージカルではない。

私はこの映画を当時観たが、あまり良いとは思わなかった。主役のバディーが全然良い人ではなく、自分勝手で自分を愛している周りの人たちをずっと傷つけてきた嫌な奴だったからだ。それと、昔は人気者だったのに、今は落ちぶれて老人ホームで半分認知症の老人たちの前での仕事くらいしかないという70代のバディーを当時40代だったクリスタルが演じるのは無理があった。クリスタルは若いのに老人のキャラクターを演じるのがうまいことで有名だったので、多分若者から老人まで演じることのできる幅広い演技力を披露したかったのだろう。だが、映画は不評で興行成績も散々たるものだった。

クリスタルは元々スタンドアップコミックという日本語で言えばピン芸人だった。私が初めて彼をテレビで観たのは1970年代に放映されていた人気テレビコメディー番組ソープだ。彼はテイト一家のホモの息子という訳柄だった。日本語吹き替えでは女言葉を使っていたが、英語では全然それらしい演技をしておらず、やたらとホモジョークのネタにされていたという以外、普通の男性の役だった。今はあんな描写はLGBT界隈からクレームがついて駄目だろうな。

それが80年代にサタデーナイトライブというバラエティー番組のレギュラーになり、色々なキャラクターを紹介し、その演技の幅広さを示した。その当時よくクリスタルが演じていたのが老人の男性。当時はまだ30代だった彼の老人演技は非常に面白かった。

その後クリスタルは映画俳優としても成功し、大ヒットしたロマンスコメディー「ハリーメットサリー(ハリーがサリーと会った時)」都会の人間が乗馬しながら田舎生活を体験する「シティースリッカーズ」のシリーズの成功で一躍大スターへとのし上がった。ミスター・サタデーナイトはそんな絶世期のクリスタルが自ら脚本を書いた作品で、芸術映画としてアカデミー賞を狙っていたことは間違いない。しかし1950年代の人気もので1980年代現在は落ちぶれた老人という設定は、90年代当時の映画ファンから言わせるとどこにも共感を覚える接点がなかった。私自身50年代に人気のあったコメディアンのことは何も知らないし、懐かしいと思う思い出もない。言ってみれば、バディーの20代で無知なマネージャー、アニーと同じ立場だった。

そういうわけなので、なぜあの映画をわざわざミュージカルになんぞしたんだろうかと興味が湧いたので無料視聴期間に観てみた。しかしこの話、思っていたより悪くない。クリスタルが歌が歌えることは全然しらなかったのだが、彼の歌声は結構聞ける。ジョークもすごく面白い。次から次へと飛び出すジュ―イッシュ特有の皮肉に満ちたジョークに、私は久しぶりに大声で笑った。最近はげらげら笑えるコミックが少ないので、何か斬新な感じさえした。もちろん最近のポリコレブームでこんなオフカラーなジョークはちょっと無理かも。

しかし何よりも良かったのは、現在74歳のビリー・クリスタルは、役柄のバディーと同じ年になったということだ。しかも彼自身が若い頃に大スターになり、決して落ちぶれているわけではないが、昔のように引く手あまたな俳優ではない。だから今のクリスタルがバディーを演じるのはしっくりくるのだ。そしてこれは友人に指摘されたのだが、私自信もこの映画を見た30代初期から60代になっていることも、この話に共感できることの一つだろう。今の私はクリスタルの若い頃の活躍を懐かしく思える歳になっているからだ。

この話を普通のお芝居でなくミュージカルにしたのは成功だった。しかしこれはビリー・クリスタルのワンマンショーと思ってみた方がいいかもしれない。彼は芸達者なので、芝居の中で様々な持ちネタを披露する。若い時の演技も若い俳優を使わずに兄のスタンも妻のイレーン(Randy Graff)も同じ俳優がそのまま演じているが、これも舞台ならではの味である。

話の筋は結構単純。主人公のバディーは1950年代に一躍を風靡した大スターだったが、人柄に問題があり、あちこちでいざこざを起こしてしまう。せっかく大人気バラエティーショーを数年持っていたにもかかわらず、視聴率が下がった不満を生番組中に局やスポンサーの悪口としてぶつけてしまい、ショーはキャンセルされ、問題児としての評判が立って、その後は豪華客船のショーやあちこちの小さい劇場で演技を続け、今や老人ホームでの営業ぐらいしか仕事がない。長年自分のマネージャーをやっていた兄のスタンもいい加減付き合い切れずに引退しており、仕事にかまけてきちんと面倒をみてこなかった40歳の娘との関係も全くうまくいっていない。それでも彼に見切りを付けずに献身的に尽くしてくれる妻のイレーンが傍にいるだけ。

しかしエミ―賞の放映中、今は亡きコメディアンに混じってビリーの名前が出たことで大騒ぎ。実は死んでいなかったとわかって人気テレビトークショーにゲストに呼ばれる。そこでの演技がおもしろかったため、見直され大手エージェントから契約したいとオファーが来る。しかしいざインタビューに行ってみると、やってきたのは昔のビリーのことを全くしらない20代の駆け出しマネージャー、アニーChasten Harmo)だった。無知なアニーに腹をたてたバディーは一旦は契約を断るが、アニーの学ぶ熱意にほだされて色々な仕事に挑む。しかしすぐに昔の癖が自分勝手な演技を初めてことごとく失敗。そんな折、大昔、子供だった頃バディーの生ステージをみていた今は映画監督からオーディションのオファーが来る。

以下ネタバレあり

脚本は観ながら猛練習をするバディー。ちょうど家に仕事が見つかったと報告にきたスージーShoshana Bea)の話もきかずに、練習に付き合わせるバディー。しかしここでもまたスージーと大ゲンカ。数日後、オーディションに行ってみると、演技は素晴らしかったのだが、すでにその役は人気俳優に渡ってしまったことを知らされ、失望のあまり兄のスタン当たり散らし、ここでも大ゲンカ。最後に兄に「お前の言う通りだよ。でももう少し優しくできないのかい?」と言われてショックを受けるバディー。

自分を愛するひとたちをことごとく傷つけてしまうバディー。娘や兄と仲直りできるのだろうか?この先彼のキャリアは再び日の目をみることがあるのだろうか?

というわけなので興味のある人は映画を見てみるとよいと思う、筋はそのままだと思うので。ただ私は映画のエンディングを覚えていない。それでこのお芝居と映画が同じように終わるのかどうか自信がない。映画を見た時は、なにか後味が悪かった記憶があるのだが、ミュージカルの方は非常に満足のいく結末になっていた。二時間四十五分も付き合った甲斐があったというもの。

バディーの兄スタン役は、映画と同じデイビッド・ペイマー。彼はもう80歳近いだろうけど素晴らしい演技を見せる。彼は歌手ではないからミュージカルナンバーはちょっと無理があるが、それでも私は結構気に入った。

アンサンブルでジョーダン・ゲルバー、ブライアン・ゴンザレス、ミランダ・フルが、何役もこなしていて面白い。

ミュージカルとしての評判は今一つで、芝居は一年足らずで閉幕したが、それでもクリスタルは2022年トニー賞で最優秀男優賞にノミネートされている。74歳という高齢で毎日の舞台は大変だったろうし、このくらいでちょうど良かったのではないかと思う。彼以外でバディーを演じられる人はいないので、というか、このショーやクリスタルあればこそなのでロングランは最初から予定されていなかったと思う。

ともかく久しぶりに大笑いさせてもらったので満足している。


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ミス・サイゴン、今も昔も変わらない現地妻の悲劇、蝶々夫人との共通点

ネットでブロードウェイお芝居を観られるフロードウエイHDの無料視聴期間が7日間あるので、その間にこれまで観たくても観られなかった有名何処のミュージカルを毎晩観ることにした。昨晩観たのはかの有名なミス・サイゴン25周年記念上演版。初演は1989年にイギリスのウエストエンドで公開された。当時、ベトナム人と白人との混血エンジニア役を白人のジョナサン・プライスが演じたといってちょっと批判されたりしていた。初演で主役のキムを演じたリー・サロンガはウエストエンドでもブロードウェイでも大スターになった。日本でも劇団四季が市村正親主演の初演以来、何度も上演されている。

私にはミュージカル大ファンの親友が居るが、彼女は押しの俳優さんを追って、このお芝居は何十回と観ていて、前々から薦められていたのでとても楽しみであった。しかし私が思っていたのとは違う筋でちょっと意外だった。

あらすじ ネタバレあり

舞台は1975年4月、ベトナム戦争末期、文字通りサイゴン崩落前夜から始まる。エンジニアが経営する売春宿に米軍GIのジョンとクリスが遊びに来る。ジョンは女遊びには気乗りのしないクリスのために店に入ったばかりの処女キムを買い与える。最初は乗り気ではなかったクリスもキムの清純な魅力に魅かれ、キムもまたクリスのやさしさに魅かれて二人は一夜にして恋に落ちる。

しかしベトナムはすでにアメリカ軍撤退は避けられない状態。南部のベトナム人たちはサイゴンが北郡に占領される前にアメリカに逃れようと必死にアメリカ大使館の周りに集まっている。当時の様子はアメリカ軍が残していく武器を北郡に取られないようにどんどん破壊していく映像がテレビでも流れていた。特にヘリコプターが海に落ちる動画は有名だ。

そんなどさくさの中で、クリスは一日だけ休暇をもらってキムと結婚しキムをアメリカに連れて行く手続きもするが、動乱のなかキムを迎えに行けず、大使館の前まで来ているキムと連絡も取れず、クリスはそのままキムを残して帰国せざる負えなくなる。

三年後、すでにアメリカで再婚していたクリスは友人のジョンからキムが生きており自分には息子がいることを告げられる。今まで隠していた事実を妻にすべて打ち明け、クリスは妻のエレンと一緒にキムと息子がいるバンコックへ向かう。

クリスの友人ジョンからクリスがバンコックへ来ていると知らされたキムは、クリスが自分を迎えにきてくれたと早合点。ジョンの説明も聞かずにクリスが泊っているホテルに行く。そこでキムに会いに行ったクリスと入れ違いになってしまい、キムはエレンの口からクリスが再婚していた事実を知る。

狂乱したキムはエレンに自分の子供をアメリカに連れて行って欲しいと嘆願。キムの息子愛に心打たれたエレンはそのことを帰ってきたクリスに告げ、ジョンとエレンはキムと息子に会いに行く。

キムはクリスとエレンに子供を頼むと言って息子を引き渡すが、自分は奥の部屋に戻ってクリスが護身用にと昔キムに渡した銃で自殺をしてしまう。

あらすじ終わり

ちょ、ちょっと待ってよ、これってまさにプッチーニのオペラ、マダマ・バタフライ(蝶々夫人)じゃない!最後に女が自殺するところまで筋がそっくりだ!それもそのはず、なんとこの話、原作は蝶々夫人だったことを検索して知った。

作品名ミス・サイゴン
作曲クロード=ミシェル・シェーンベルク
作詞アラン・ブーブリル、リチャード・モリトビーJr
原作プッチーニのオペラ『蝶々夫人』
Musical Classicaより引用

この作詞作曲のコンビは、かの大作レ・ミゼラブルも手掛けた名コンビ。しかしクラッシック風のレミゼとは対照的に、ミス・サイゴンは非常にジャズ的な要素が高い。

話の大筋はこんなところで、主役はキムとクリスだと思いがちだが実はそうではない。この話の主役はなんといってもサイゴンで売春宿を経営していたエンジニアである。エンジニアが本名ではないのは当たり前だが、この男の素性は怪しげでよく分からない。だが頭がよくて機転が利き、どんな状況でも生き延びる手段を持っている。

売春宿で平気で女を殴る嫌な奴だが、どうも憎めない。内戦状態が何円も続いていた貧しいベトナムで、売春以外に貧乏人の子供がどんな生き方があったのかと言われてしまえば何とも言えない。この芝居が上演された時、女性蔑視だとか人種差別だとか色々言われたそうだが、ベトナム戦争中の売春宿が舞台なのだ、批評家たちは一体何を期待していたのだろうか?

エンジニアはキムの混血児を使って自分はキムの兄と言うことにしてアメリカに渡ろうと企み、アメリカで一旗揚げようとアメリカンドリームを唄う。私はこのミュージカルで知っていた歌はこれだけ。以前に市村がこれを唄ってるのを聞いたことがあった。彼の場合は踊りもうまいので非常に面白い演技になっていたが、今回のジョン・ジョン・ブライオネスの演技と歌は素晴らしかった。この役柄が憎めないのは彼のコミカルな演技にあるのだろう。

ブライネスが何処系の人なのかはわからないが、私は実際にこういうグリースィ~なベトナム人男を何人か実社会でみたことがある。ポマードべとべとの黒髪を後ろにすいて、派手な上着を着て金の鎖をじゃらじゃら首にかけて高級な腕時計をしている場末カジノの支配人といったかんじ。エンジニアならきっと難民キャンプからなんとか逃れてアメリカへわたり、きっとカリフォルニアのポーカーパーラーかなにかを仕切っていることだろう。

もう一人主役以外に私が気に入ったのがキムの元許嫁で後に北軍の指揮官になるトウィ役のカン・ハ・ホング。この役はいつでも感情的で暴力的なのだが、ホングはその感情を良く表し。その美しい声で歌い上げる。悪役なのだが、かなりの男前で惚れてしまった。

さて、この外国から来た男が一時的に滞在した地で地元女性と関係を持ちながら女を置いて去って行ってしまうというテーマは万国共通で昔からよくある話だ。また、戦争中に戦地にいた兵士との間に子供が出来る女性というのも珍しい話ではない。第二次世界大戦後に米兵相手に売春をして混血児を産んだ女性はいくらもいた。そして混血児を育てられない親たちによって捨てられた子供はいくらもいたのだ。

この芝居の中でも、第二部はクリスの友人ジョンがベトナムに置き去りにされた米兵と現地妻との間に出来た子供をアメリカに呼び寄せようという活動をしている。アメリカは世界中に出兵しているから、こういう子供は諸外国に数えきれないほど居るんだろうな。

無論クリスは好きでキムを置き去りにしたわけではない。アメリカ軍撤退の動乱のなか、ベトナム人女性一人と何とか脱出するなどそう簡単に出来たわけではない。ベトナムとアメリカの間は険悪であったから、その後置いてきた人を探し出すなどということも困難だったのは当然のことだ。それでも罪悪感にさいなまれるクリスの力になったのが妻のエレンである。彼女もまたクリスが抱える苦悩に気付いて苦しんでいる。

アメリカにはベトナム人難民が沢山いるが、ここで私の実体験をお話しておこう。1980年代初期の話だが、職場付近にあったレストランで昼食を取っていた時、仕事関係で知り合いの男性が女性と食事をしているのを見かけた。その人は中小企業の社長さんでその時もピシッとした格好をしていたが、一緒にいた東洋人の女というのがおよそ彼のような人にはふさわしくない女だった。着ている服は体にぴったりしたミニドレス。胸の半分がさらけ出されるようなローカット。しかも化粧がゴテゴテの厚化粧。場末のキャバ嬢でもあんな恰好はしないというような下品な感じのする女だったのだ。その話を後で職場の同僚にしたら、「あ、あれはあの人の奥さんだよ。ベトナム駐在の時に出会ってこっちにつれて来たんだってさ」と言われてびっくり仰天。ベトナムの繁華街で勤めていた現地妻を本当にアメリカにつれてきちゃったのか、そんな男が本当に居るんだ!そう思って私は奥さんの恰好が下品だなどと蔑んだ自分が恥かしくなった。

配役:

Jon Jon BrionesThe Engineer
Eva NoblezadaKim
Alistair BrammerChris
Kwang-Ho HongThuy
Tamsin CarrollEllen
Hugh MaynardJohn
Rachelle Ann GoGigi
William DaoTam
Paul Benedict SarteTam

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ヘンリー四世とマイ・プライベート・アイダホ、リバー・フェニックスとキアヌ・リーブスの熱演

ずっと観たいと思っていた1991年公開の映画、My Own Private Idaho(マイプライベートアイダホ)を昨晩観た。私は映画の概要についてリバー・フェニックスとキアヌ・リーブス演じる二人の同性愛カップルがフェニックスの演じるマイクの母親を探しながらアメリカ中を旅してまわる話だと聞いていた。私は昔萩尾望都や武宮恵子の少年愛漫画の延長で、若く美しい少年たちの純愛物語は好きだった。当時s素晴らしく美しかったリバーとキアヌのコンビなら、さぞかし美しい映画だろうからいつか観てみたいと思っていた。それともうひとつ興味をそそられたのは、ミスター苺から、この映画には終わりの方でシェークスピアのヘンリー四世のシーンが突然出てくると聞いていたことだ。二人の少年の冒険の旅とヘンリー四世がどう関係があるのだろう。これは非常に興味深い映画だと期待していた。

しかし実際に観てみると、この映画は二人の美しい少年たちの純愛物語などというものでは全くなかった。現実はもっと汚らしく厳しいものだった。この先は筋を負いながら感想を述べるので、まだ観てない人は観てからお読みになることをお薦めする。

以下ネタバレあり

映画の冒頭で、マイクはアイダホのまっ平な高原を一直線に進むハイウェイの道路上に立っている。もっているのはバックパックだけ。そしてマイクは何かの発作に襲われバックパックの上に倒れこむ。

そして場面はポートランドへ移る。主役のマイク(フェニックス)は街頭に立つ男娼である。ストレスが貯まるとその場で寝てしまうという持病の持主。アイダホの田舎で貧乏で複雑な家庭に育ち、15~6歳の頃に家出をして今ではオレゴン州ポートランド市とワシントン州のシアトルを行ったり来たりして、街頭に立って売春や盗みなどをしてほぼホームレスの生活をしている。彼の男娼仲間で親友のスコット(リーブス)は、実はシアトル市長の息子で金持ちのボンボン。にもかかわらず父親に反抗してか、丘の上の豪邸から下町の街頭へ降りて来てふしだらな生活を送っている。

この物語の主人公は無論マイクなのだが、この映画はマイクとスコットという二人の別々の物語が描かれている。この映画は全く異なる二人が一時的に接点を持った時が舞台となっているのだ。だからこの二人がどれだけ親しい間柄であろうとそれが長くは続かないであろうことは、感情に満ちたマイクのふるまいとは対照的にスコットのやたらに冷静な態度に現れている。スコットは突然眠気に襲われて意識を失うマイクのことを常に優しく面倒を診ているのだが、それは愛情というものではない気がする。

この二人には他にも何人か男娼仲間がおり、中年男のボブ(ウィリアム・リチャード)が少年たちのリーダー格となり、大きな空き屋敷にたむろしている。この状況はディケンズの小説オリバーに出てくるファニガンと盗み集団の少年たちを思い出させる。ボブは明らかに少年たちを食い物にしているのだが、少年たちは何故か彼を慕っている。特にスコットとボブの間に肉体関係があったことは確かで、ボブがスコットに男娼としての手ほどきをしたのかもしれない。

スコットの家が金持ちであることは皆知っており、特にボブはいずれスコットが21歳になり自分の金を自由に使えるようになったら、今まで世話をしてきた自分に恩義を覚えたスコットがなにかしら面倒みてくれるものと期待している。しかしスコットが同じ気持ちでないことはあきらかだった。

「俺は21歳になったらこの生活からは立ち去るよ。俺の母さんも父さんも俺の極端な変化に驚くだろう。二人はドラ息子だと思ってた俺が実はよい息子だったのだと知って感心するだろう。すべての悪行が死んだように捨て去られるのだ。俺は彼等がもっとも意外な時に変わるんだよ。」

スコットはそう言ってボブに警告する。しかしボブはこの時点ではスコットの言葉を信じない。きっと何か仕事を世話してくれると独り言を言うのだ。この場面の二人のやり取りは非常に舞台的でシェークスピア戯曲の一場面を思い起こさせる。実は私は昔からキアヌ・リーブスの演技は平坦で起伏がないと思っていたのだが、実は全くそうではなく、不自然に大袈裟なのだということに気付いた。しかしそれは彼が演技力に欠けるからではなく、この大袈裟な演技は明らかにそういう演出になっているのだ。この芝居がかった大袈裟な演技は後々の二人の関係を示唆する伏線となる。

さて肝心のマイクなのだが、何かしら将来の計画を持っているらしいスコットに比べ、マイクにはまるで目標というものがない。映画は男娼という底辺に生きる若者たちが、どんな荒んだ生活をしているのか、その毎日を淡々と描く。少年たちは若い男子特有の美しさを持っているのだが、その若さと美しさを売春という生き方で完全に浪費してしまっている。この子たちには希望が見いだせない。この少年たちの行きつく先がぶよぶよに太って子供たちを手下にして盗みを働いたり物乞いしているボブなのだと思うと、なんと空しい人生なのだろう。

しかしそんなマイクにも、幼い頃に生き別れた母親にもう一度会いたいという願いがあった。そこでマイクはスコットと一緒にアイダホの兄リチャード(ジェームス・ルソ)の元へ向かう。途中で乗っていたバイクが故障し、二人は野宿をするが、焚火の前でマイクはスコットに友達以上の関係になりたいと求愛する。スコットは男娼をしているにもかかわらず男同士の恋愛には興味がないことをマイクに告げる。スコットはマイクに同情して彼を抱擁するが、マイクの求愛を受け入れたわけではない。ここでもスコットの今の生活に対する冷たさが感じられる。

兄の元で話をするうちに、実は兄のリチャードが自分の父親でもあり、マイクはそのことを知っていると兄に告げる。兄は仕方なく母親がラスベガスかどこかの高級ホテルでメイドをしていた時に送ってきた絵葉書を見せる。それを手がかりに二人はホテルへ向かうが、すでに一年前にホテル辞めてイタリアに渡ったことを知る。

ここで二人は以前にシアトルで出会ったゲイのドイツ人男性ハンス(ウド・クラ―)と再会する。この男性の演技も非常に興味深いのだが、映画ではところどころに男娼を買う中年男たちの変態的なフェティッシュを混ぜて来る。例えば映画の最初の方でマイクを自分の家に連れて行ってメイドの恰好をさせて流しの掃除をさせた男とか、ホテルの置きランプを持ちながら踊るこのドイツ人男性とか。こういう描写があるので、男娼の生活を描いているにもかかわらず、さほど悲惨さを感じない。

ハンスにバイクを売り、そのお金で二人はイタリアへ行く。しかし母が居たというイタリアの田舎家に行ってみると、そこにいた若い女性カルミラ(キアラ・カゼッリ)は、彼女はもうだいぶ前にアメリカに帰ったと告げる。この家に数日間世話になっているうちにスコットはカルミラと恋仲になってしまい、マイクのことはあっさり捨てる。スコットはマイクに帰りの航空券といくらかの現金を渡し、自分はカルミラと🚖タクシーに乗って旅立ってしまう。

ローマにもどったマイクはそこでまたイタリア人相手に売春をするが、そのうにポートランドに戻って再びボブらと一緒に路上生活を始める。そんなある日、高級レストランに高級車で乗り付けた立派なスーツを着たスコットと見違えるほど洗練されたカルミラと取り巻きの姿をマイクたちは見かける。

ボブはこの時を待っていたとばかりに場違いな高級レストランへと入っていく。なかには唖然としてスコットを見つめるハンスの姿もあった。ボブはスコットに近づくと、「俺だよ、ボブだよ、スコット!」と親し気に声をかけるが、スコットは振り向きもせずに後ろを向いたままこんなことを言う。

「老人よ、私はあなたを知らない。放っておいてくれませんか。I don’t know you old man. Please leave me alone. 」

なるほどこれがミスター苺の言っていたヘンリー四世の。

「老人よ。余はそなたを知らぬ。I know thee not, old man.」

のセリフだなと察しがついた。

ここでのスコットのセリフはやはり非常に芝居がかっている。

「老人よ、私はあなたを知らない。放っておいてくれませんか。私が若く、あなたが私の路上の先生で私の悪い行動の先導者だった頃から、私は変わるつもりだった。私のサイケデリックな元先生、私にはあなたから学ぶ必要があった時があった。亡くなった父よりあなたを愛しているが、私はあなたに背を向けねばならない。背を向けた以上、元に戻ることがあるまで、私の傍に近づかないでくれ」

I don’t know you old man. Please leave me alone. When I was young and you were my street touter and instigator for my bad behavior, I was planning a change. There was a time when I had a need to learn from you, my former psychedelic teacher.Although I love you dearly more than my dead father, I have to turn away.Now that I have until I change back don’t come near me. “

さてここでヘンリー四世とこの映画との共通点を説明する必要があるだろう。これはシェークスピアの有名な戯曲の一つだ。イギリスの国王ヘンリー四世には悩みがあった。お世継ぎのハル王子は皇太子と思えないほどの放蕩息子でごろつきと評判の悪い中年太りのフォルスタッフとその仲間たちと飲んだくれの生活を送っていた。

中間は色々あるが、それは飛ばして、ハル王子はフォルスタッフとギャングたちと自堕落な暮らしをしていたとはいえ、いずれ父親の亡きあと自分が国王になるのだという自覚はあった。それでフォルスタッフが何と言おうと、自分が国王になった暁にはフォルスタッフを特別扱いするようなことはないと警告していた。

そしてついに父親が亡くなりハル王子はヘンリー五世となる。立派な王となったヘンリーの元に現れるのがフォルスタッフである。ここで「老人よ、余はそなたを知らぬ」というセリフでこのシーンが始まるのだ。

王となったヘンリーには責任もある。皇太子として好き勝手に暮らしていた頃の友人をそのまま傍においておくわけにはいかない。そんなことをしたら周りに示しがつかないからだ。

ハル王子とスコットの共通点は、二人とも自堕落な放蕩生活をしているときでさえも、実はその生活は自分の本来の姿ではないのだと知っていることだ。そしていつでも自分は好きな時にこの生活から立ち去ることが出来ることもしっている。そこで知り合ったひとたちと自分は住む世界が違う。だからいつか自分はこの生活ともこの愛すべき人びととも別れる時がくるのだと。

だからスコットは十分路上生活を楽しんでいるようであっても、路上の人びとと心底心を許す関係にはならなかったのだ。ストレートでありながら男性との性交渉をしても、それは本当の自分ではないと思っているからこそ平気な顔をしていられたわけだ。

だがマイクは違う。マイクは本気でスコットを愛していた。だから彼に捨てられたことはショックだった。だがだからと言ってマイクにはその後違った人生を歩む選択肢がない。一人旅をしていても、ハイウェイの真ん中で眠りこけてしまう。そんな彼にどんな未来があるのだろうか?

そして画面は冒頭のアイダホのハイウェイに戻る。意識を失っている五マイクの傍を一台の車が通りかかるが、車から出て来た男二人はマイクのバッグと靴を盗んでそのまま走り去ってしまう。そのまま置き去りにされるのかと思いきや、次にやってきた車の運転手は、意識のないマイクの体をひきずって車に乗せて走り去る。

意識のないマイクはどこへ連れていかれるのだろうか。


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役者の人種はどうでもいい、でも筋を通して欲しい

最近ディズニーのリトルマーメイドの新しい予告編が発表されたこともあり、再びアリエルを演じる女優の人種が取りざたされているが、この映画の問題点は主役が黒人になった程度のことではないと思う。しかし今日はその話ではなく、人々が慣れ親しんでいる役を異人種が演じるのはどうなのかという話をしたい。

結論からいえばそれは別にいいと思う。ただし、その映画やお芝居の中でそういう人種の人が出て来てもおかしくない設定になっていればという条件付きではある。

私は昔からお芝居や映画が好きである。特に中学生くらいから生で舞台を見るのが大好きで、一人で歌舞伎座へ行って一幕見をしたり宝塚や劇団四季のミュージカルをみたり、明治座や芸術座なども良く通った。今でも生のお芝居を見るのが大好きなので、地元の地方劇団のシーズンチケットをずっと買い続け、かれこれ30年になる。

この劇団は色々な芝居を手掛けるが、なんといっても一番人気はシェークスピアだ。先日もMuch Ado About Nothing(邦題:空騒ぎ)という私の大好きな題目で非常によかった。

A woman in a bridal veil and man in soldier's uniform face each other in front of a stained-glass window.

↑地方劇団の「空騒ぎ」のシーン。

この劇団に限らず、私はシェークスピアが好きなので色々な劇団やプロダクションでシェークスピアを観ている。同じ題目のものも色々な舞台で観た。「空騒ぎ」もケニス・ブラノフの映画を含めると四度目だ。私は色々な劇場でシェークスピアを観ているが、イギリスのシェークスピア劇場で観たテンペストも含めて、話の設定が中世のイギリスであることは非常に稀であり、台詞はそのままだが舞台は色々な時代や場所に移されていることが多い。

例えば今回の「空騒ぎ」も舞台は1940年代の中南米だったし、以前に見た12夜は1960年代風のカリブ海周辺のどこかだった。21世紀を舞台にしたロミオとジュリエットもあるし、1930年代を舞台にしたリチャード三世なんてのもあった。黒澤明のマクベス(蜘蛛の巣城)やリア王(乱)も有名だ。

このように舞台や設定を変えてしまえば、登場人物の人種や民族が白人のイギリス人である必要はまったくないし、黒人が出て来ようがラテン系が出て来ようが日本人だろうが全く問題はない。

ヒーローものを女性にやらせるにしてもそうだ。例えばワンダーウーマンのように元々女性のキャラで作られたものなら問題はないが、元々男性キャラなのを無理やり女性に変えるのは勘弁してほしい。

私の大好きなSF長寿番組ドクターWHOが女性に生まれ変わった時も思ったのだが、女性にやらせるなら女性特有のキャラクターにしてほしかった。それが男優用に書かれた台本を単に女優にやらせているという怠慢さがにじみ出て、見てる方は完全に白けた

同じドクターWHOでも、以前にドクターの宿敵マスターが女性に生まれ変わりミッシーとなった時、彼女は正確も素振りも確かにマスターの生まれ変わりであったが、19世紀の貴婦人の服を着こなす高貴な女性で、お色気もあったし茶目っ気もある素晴らしいキャラクターだった。私はドクターWHOの女性版にもそういうキャラを期待していたのだが、完全に裏切られた。このシリーズは視聴率最低だったらしい。さもあらん。

結論を言うと、人々が慣れ親しんできたキャラクターの人種や性別を変えようというなら、その変更が人々の納得のいくような筋の通ったものにしてほしいということ。

リトルマーメードなら舞台をカリブ海付近に移して登場人物はすべて黒人にするとか、ピーターパンも舞台を別の国に移すとかして、ピーターパンが東洋人でもティンクが黒人でも違和感のない設定にしてほしかった。しかしディズニーはともかく多様な人種を使うということにだけ気を使って、物語の脚色にも筋にも全く力を入れない怠慢さ。

これらの映画が不人気なのは配役に非白人を起用したことにあるのではなく、オリジナルの設定や脚色をした映画を作るという努力を怠ったその怠慢さが原因なのだ。


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まるで映画羅生門のような「リベンジポルノ」殺人事件

みなさんは黒澤明監督の「羅生門」という映画をご存じだろうか。実はこれは芥川龍之介の「藪の中」という短編小説が原作。(同著者による「羅生門」とは違う話)主演は、三船敏郎、京マチ子、森雅之 そして志村崇。

あらすじは、ある武士(森雅之)が藪の中で殺される。数日後野武士(三船敏郎)がその犯人として逮捕され裁判にかけられるのだが、野武士の証言と、その場にいた武士の妻(京マチ子)との証言が真向から食い違う。しかも巫女を使って死んだ武士の魂を呼び戻して証言をさせるも、これまた全く話が違うのだ。そして最後にこの裁判の一部始終を見ていたとして裁判の話を最初から最後まで人に話して聞かせていた男(志村崇)も殺人現場から刃物を盗んだことを指摘され、男の話も信じられないという結末。

私がこの映画を思い出したのは、昨日読んだこんな殺人事件の記事が発端である。2022年の1月、同居中の元恋人(25歳)を(19歳)の少女が包丁で刺して殺した。少女本人の証言によれば犯行の動機は男が昔撮影した二人の性行為の動画。少女はフィリピンへの留学の前に、その写真の消去を元恋人に嘆願したが受け入れられず、咄嗟に刺してしまったというもの。

最初に私が読んだのはこの朝日新聞の記事

19歳の少女は、年上の交際相手と一緒に青森から上京した。少女は留学、男性は起業という夢を追いかけていた。しかし、少女は東京で相手を刺し殺した。法廷で声を振り絞って明かした動機は、「ある動画」だった。

 12月6日、東京地裁であった裁判員裁判の初公判。20歳になった被告の女は、肩までの黒髪と上下黒のスーツで法廷に現れた。

 起訴内容は、今年1月9日午後3時20分ごろ、東京都江戸川区のアパートの一室で、元交際相手の男性(当時25)の腹を包丁で1回刺し、殺したという殺人罪だった。

 「(間違いは)ありません」。被告ははっきりした口調で起訴内容を認めた。

好きだったので断れなかった

 検察側の冒頭陳述によると、被告が青森市内の高校3年生だった2020年の夏ごろ、地元のバーの店員だった6歳上の男性と知り合い、交際が始まった。

 

記事によると二人は一緒に東京へ上京したが、恋人は少女に家事を丸投げにし暴言も多く、二人の関係はどんどん悪化しついに破局を迎えた。少女はフィリピンのサブ島への留学を計画していたが、男性が自分の動画をSNSにアップするのではないかという被害妄想が膨らみ、ついに犯行当日、男性に動画の削除を再度嘆願したが受け入れてもらえなかったため刺したというものだった。

男性のスマホには確かに動画は保管されていたが、男性がSNSにアップした記録はなかった。

この記事は最初から最後まで少女が悪い男に騙された可哀そうな少女という視点から書かれており、私もそれをすっかり信用して、大の男が未成年を誘惑して東京に連れて来て、性交の動画まで撮ってリベンジポルノで脅すとか最低の奴だなと思った。こんな男を殺したからといって9年の実刑は長すぎるだろう、情状酌量の余地はあるのではないかと思ったのだ。

桜庭里菜.png
犯人の桜庭里菜

ところが今日になって、実はこの少女とんでもない女だったという話が出て来た。それがこの記事。「他に好きな人ができたから」元交際相手の腹部を包丁で刺した少女が口にした“衝撃の一言”《江戸川区19歳少女が殺人容疑で逮捕》 | 文春オンライン (bunshun.jp)

この記事によれば、確かに二人は故郷の青森から一緒に東京に上京して同棲していたというところまでは事実なのだが、男性の同僚の話によると、男性(佐藤雄介さん)は少女(桜庭里菜)との関係がうまくいっていないことをよく相談していたという。

ところが二人が上京して数か月も経たないうちに里菜は他に好きな人が出来たので別れてほしいと言い出したというのだ。

佐藤さんと親交があった職場関係者が証言する。

「優作さんは昨年4月からうちの建設会社で働き始めました。職場の先輩と一緒に釣りに行ったり、奄美や沖縄への社員旅行でも楽しそうにしている明るい子でした。先輩社員の家に集まる飲み会でも、率先して人形で子供たちと遊ぶような面倒見のいいところがあり、青森から持ってきたりんごを『食べきれないのでお子さんにどうぞ』と配ってくれる気づかいもできるいい子でした」

 しかし佐藤さんは、職場で交際相手の少女とうまくいっていないと相談することも多かったという。

「上京したいという少女の希望に沿う形で、優作さんが引っ越し費用をため、就職先も決めて満を持して2人で東京へやってきました。しかし上京してから少女がクラブに行って朝まで帰ってこなくなったり、未成年なのに家でたばこを吸っていると心配していました。優作さんは東京に知り合いがいないこともあり、会社の先輩に『少女が東京に来ない方が良かったんじゃないか』と相談していたとも聞いています」(前出・職場関係者)

亡くなった佐藤さん 本人インスタグラムより
亡くなった佐藤さん 本人インスタグラムより

 2人の関係に決定的な亀裂が入ったのは、同棲スタートから3カ月ほどが経った2021年夏のこと。少女が佐藤さんに「他に好きな人ができた」と突然別れ話を切り出したのだという。

「少女は東京で知り合ったアメリカ人男性のことを好きになり、それがきっかけで2人は昨年夏に別れたと聞いています。しかし少女はコールセンターで働いていたもののお金に余裕がなく、未成年なので物件を1人で契約するのも難しい。優作さんは少女に対してもう恋愛感情はなくなっていましたが、少女の親とも連絡を取り合っていたので強引に追い出すわけにもいかなかったようです。

 少女が『今から物件を探すから』というのを信じて同居を続け、最近になって『アメリカ人男性と今年2月に渡米する』と少女が言い出したことでやっと優作さんが解放されるのかなと思っていたのですが……」(同前)

優作さんは自分でアパートの家賃を払っていたにも関わらず、しょっちゅう里菜が恋人と電話するからといって部屋を追い出されるなどのひどい仕打ちを受けていたという。故郷青森の知り合いたちも優作さんが暴力を振るうような人ではなかったと証言している。

こうなってくると、どうも愛人に暴力を振るったりリベンジポルノを使って恋人を脅迫するような人とは思えない男性像が浮かび上がってきた。しかも他の記事では里菜は覚せい剤を常習していたという話もある。

最初の記事を読んだ時は、私は一方的に被告の里菜に同情していたので、こんなことを言うのは憚られるのだが、今はどちらかというと被害者の優作さんよりも加害者の里菜のほうに問題があったのではないかという気がしている。

では何故優作さんは里菜とのセックス動画を消さずに保管していたのか。二人の関係がどちらのせいであるにしろすでに冷え切っていたことは事実だ。悪いことに使うつもりがなかったなら、里菜に言われた通り動画を消してしまえばよかったのではないか?

だがもし里菜が覚せい剤を常習していたということが事実だったとしたら、そして新しくできた愛人のために優作さんを足蹴にしていたとすると、新しいアメリカ人の愛人と一緒にアメリカに行く際に、優作さんに理不尽な要求をしてくる可能性がある。優作さんとしては、もしもそういうことをされた時の取引の切り札として動画を残しておいたのではないだろうか?

こうなってくると、被告に下された9年という実刑もさほど重いとは思えなくなってくる。

ツイッターでは少女に同情する異見の方が多いのだが、裁判では優作さんの知り合いや同僚のひとたちの証言もあったはずなので、この判決はもしかすると正当なものだったのかもしれない。

私は常にメディアは信用できないと言って来たくせに、こともあろうに朝日新聞の記事を鵜呑みにしてしまうとは、我ながら恥かしい限りである。反省、反省。


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マイノリティーの役はマイノリティーが演じるべきなのか?

ここ2~3日ツイッターで松崎悠希という日本人ハリウッド俳優がマイノリティー(少数民族)の役は当事者のマイノリティーが演じるべきだとツイートしてかなり話題になっている。その元のツイートがこれ。

実写版「ゴールデンカムイ」でアシリパ役に… アイヌの俳優をキャストすべきだと思う人

この投稿に、いいね! アイヌの俳優をキャストしなかったら観に行かない人

この投稿を、リツイート! 金カム実写版制作者にいつもの「いい加減なキャスティング」をしたらどうなるか、見せてやりましょう。

私はこの元の漫画のことはまるで知らないのだが、どうやら役割はアイヌ民族の人らしい。しかし日本でアイヌの血を引いている役者でこの役柄のイメージにあった人がいるのかどうかかなり疑問だし、第一制作者はすでにネームバリューのある女優を配役することは決めているようなので、部外者の俳優が何を言ってみてもあまり意味はないと思う。それにこれはハリウッド映画ではない。マイノリティーがマイノリティーを演じるべきなんてポリコレ発想は日本にはない。

『ちょっと待ってよカカシさん、あなたこの間白人役を黒人がやるべきじゃないと大騒ぎしたじゃありませんか、それってダブルスタンダードでしょ』と言われそうなので言っておく。

私の主張は最初から配役は登場人物のイメージに合った人を選ぶべきだというもので血筋や国籍は関係ない。例えばリトルマーメイドのアリエル役を黒人を含め多人種の混血の人が演じたとしても、彼女の姿かたちがアリエルのイメージに合ってさえいれば問題はない。彼女の血筋に黒人が混ざっていてはいけないなどと言ってるわけではないのだ。

さて、では何故松崎氏はマイノリティー役をマイノリティーが演じなければならないと考えているのか、彼のツイートに長々と説明があるが端的にまとめるのなら、マイノリティー(例えばレズビアンとか)をレズビアンでない制作者が非レズビアンの女優を雇って映画製作をした場合、制作者の独断と偏見による間違ったレズビアン像がつくられ、それが世間にひろめられ人々の間に偏見が広まり差別へと繋がるというもの。

そういうことは確かにあるだろう。しかしあまりにもこのマイノリティー性を強調しすぎると、この間公開されて脚本もプロデューサーも出演者も全員ゲイという鳴り物付きのBrosという映画が、ボックスオフィスで完全にずっこけて散々たる興行成績を得たことでも解るように、そんなゲイによるゲイのための映画なんては誰も観たがらないのだ。観客が求めているのはどれだけゲイが忠実に描写されているかではなく、その映画が映画として面白いかどうかなのである。

松崎氏自身も経験しているように、ハリウッドにおける日本人像の歪みには日本人ならだれでも気が付いている。日本人という設定なのに日本語はカタコト、変な着物を着てたり、普通の女性が温泉芸者みたいな髪型だったり、おかしな字の看板のあるお店がでてきたりと、まあそれはあまりにも良くあることなので私は今更苛立ちもしない。そうした映画に本当に日本人俳優が起用されたとしても、よっぽどのスターでない限り、制作者に苦情など言えないだろう。

しかし松崎氏は知らないかもしれないが、昔のハリウッド映画でも日本を舞台に時代考証や文化考証をきちんとやった映画もいくつかある。

例えばジョン・ウエイン主演の野蛮人と芸者では、幕末の日本に外交官として表れたアメリカ人をジョン・ウェインが演じているが、ロケは明らかに日本で行われ、日本人役は山村総はじめ、ほぼ全員日本人俳優が演じている。この映画では侍の着物姿、建物、外交官に読まれる日程表などもすべて本物の日本のものであった。当時(1959年)のアメリカ観客にそこまでやらなくても多分誰もきにしなかっただろう。だからこそ監督の本物をつくろうという気遣いがうかがわれるのだ。

またデイビッド・ニブン主演の「80日間世界の旅」でも日本を訪れるシーンがあるが、これも明らかに日本でのロケであり、日本人役のエキストラの着物姿はきちんとしていた。つまり昔から、実際に他文化を忠実に描写しようとする監督はいくらも居たのだ。

結局、マイノリティーが忠実に描写されるかどうかは監督の気持ち次第だ。無論ハリウッドで日本人役を応募していたら、日本人が応募して採用され、多少は日本人の意見を口にしていくことも大事だろう。真田広之や渡辺謙くらいのスターになってくれば、ハリウッドと言えども無視はできない。だから松崎氏もアメリカでスターになり、ハリウッドの歪んだ日本人像をかえていけばいいと思う。

マイノリティーが普通の日本人を演じるのはありか

松崎氏がもうひとつ押してるのがこれ。少数民族の人が普通に日本人として登場する作品だ。実はアメリカでも1980年代くらいまでは、少数民族が映画に出演する場合、それは特定の人種を想定した配役であり、最近のように普通に隣人とか友達とかに白人以外の人種が登場するということはあまりなかった。

しかしこの普通の人として登場するマイノリティーも行き過ぎると不自然なことになる。イギリスやアメリカでもロンドンやロサンゼルスやニューヨークなら色々な人種の人が集まっているという設定はおかしくない。だがいったん南部の田舎とかにいくと、東洋人なんて一人もみかけない地域がいくらもある。私の知り合いが大昔にジョージア州のメイコンの大學に留学したとき、全校生徒で東洋人は彼女だけだったと言っていた。そういう場所を設定した話で東洋人が自然にフツーの人として出てくるのはちょっと無理がある。その土地には珍しい人であるなら、珍しいことを一応説明すべきではないだろうか?(彼女のように留学生とか、旅行客とか、)

私が観ているスタートレックのディスカバリーというシリーズでは、あまりにもマイノリティーを強調しすぎてマジョリティーである白人ストレート男性がひとりも登場しない。主役の女性とその恋人は黒人、ブリッジのクルーはほぼ半数以上女性でそのほとんどが黒人。他の男性クルーも黒人と東洋人。白人男性は若干一名で彼はゲイ。彼の恋人は黒人で、エンジニアリングのクルーはレズビアン、ノンバイナリそしてもちろんトランスジェンダー!これがフツーの状況だろうか?こんな職場どこにあるんだ?

さて日本に戻るが、もしも日本の刑事もので黒人婦人警官がフツーの日本人として登場したとしよう。警察署の人も犯罪者も町の人も、この女性をフツーの日本人として扱うだろうか?現実的にそれは無理ではないか?だったらうちの部署にはハーフの婦人警官が居ると最初に紹介して、それでおきる問題点などに注目した方がよいのではないか?

多人種の人が普通に溢れている都会が舞台ならそれはそれでいい。しかしそういう人が珍しい場所設定でそういうことをやると、観てる方はそっちが気になって筋に入り込めない。

そしてもとに戻るが、制作側はキャラクターのイメージにあった人を配役するのであり、普通の日本人をイメージしてるのにミックス人種の人をわざわざ雇うということはしないだろう。なぜならまだまだ日本では異人種系の人はマイノリティーなのであり、そういう人と出会うのはフツーの状況ではないからだ。

カカシ注:今日(10・25)になってバカみたいなことに気付いた。日本には昔からハーフとかコーターのミックス(混血)俳優や女優がいくらでもいる。私の年代なら草刈正雄さんとか。そしてこの人たちは普通の日本人役を「フツー」に演じている。あんまり自然に溶け込んでいたからすっかり忘れていた。いや、これこそが松崎氏のいうマイノリティーが普通の人を演じるということではないのか?松崎氏もこの人たちの存在は忘れていたのだと思う。

結局、日本でももっと多くのミックス人種の人を起用したいというなら、松崎氏自身がプロデュースして監督してそういう映画を作ったらいいと思う。以前にラテン系の大スター、リカード・モンテバンがインタビューで言っていた。金髪碧目のハンサム男優ですら、主流映画に出演できるのは応募者のほんの一部。そこでラテン系のようなマイノリティーが仕事を得たいと思うなら、自分らで映画を作っていくしかない。実際にそうやって映画作りをしている人はいくらもいる。すでにいる制作者や監督に注文をつけるより、自分の手で切り開いてはどうなのかな。観客が観たいとおもえば投資してくれる人もいるかもしれないから。


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BLMが売った最大の嘘、キャンディス・オーウェンのドキュメンタリー

数日前デイリー・ワイヤー制作のキャンディス・オーウェンのブラック・ライブス・マターの実情を暴いたドキュメンタリーThe Greatest Lie Ever Sold | The Daily Wireを観た。これはDWのメンバーでないと観られないので、その内容について少しお話したい。英語に自信があって興味のあるかたは是非DWにお金をはらって観ていただきたい。

ブラック・ライブスマターは2013年、トレボーン・マーティンという黒人青年がジョージ・ズィマーマンというラテン系の男性に射殺された事件がきっかけでパトリース・カラーズをリーダーとする三人の女性によって創設された。その後2020年くらいまでは、割合細々とした活動を続けていたが、2020年、ジョージ・フロイドがで警察官に取り押さえられた際に息を引き取ったことがきっかけとなり、BLMは全国的な巨大な組織へと膨らんだ。

彼らは一介の人々からだけでなく、企業や芸能人から巨額の寄付金を集めた。BLMの納税書によれば、BLMは2020年7月から2021年6月まで8千万ドルの寄付金を集めたという。この映画の前半はジョージ・フロイドと、彼を殺したとして有罪になったデレック・ショービンの人物像を追う。そしてBLM運動によって多大なる被害を受けた被害者のインタビューが続く。

ジョージ・フロイドが逮捕時薬漬けだったことは誰もが知っている。私は裁判を少し見たが、フロイドの死因は警官が背中に乗ったことで起きた窒息死ではなく、フェンタノルを含む大量の麻薬による中毒死であったことが裁判中に明らかにされた。にもかかわらず、メディアがフロイドを殉教者として称え、ショービンを人種差別者の悪魔であるかのように扱かった。裁判を観ていてショービンは明らかに無罪であるが、もし彼が無罪となったら、もうすでに20億の被害を出している人種暴動が、さらにひどいことになるのではないかと誰もが心配した。その恐怖が陪審たちの心にあったことは間違いない。

予測通りショービンは有罪となり21年の禁固刑が言い渡された。なんとも理不尽な話である。

さて。BLMは今回の暴動でどのような役割を担ったのだろうか。

最初の暴動が起きたミネアポリスのテレビ局でニュースキャスターを務めていたリズ・コリンさんは、地方局で人気のスターだった。ところが彼女がミネアポリス警察の警察官と結婚していることが暴露され、彼女も夫のボブもそして7歳の子どもまでもがBLM暴徒たちの攻撃と対象となった。

暴徒たちはリズとボブの紙人形を作り、それを掲げて二人の自宅前に集まり、人形を叩いて歓喜の声をあげた。そしてなんとその嫌がらせを率先したのが地元市会議員に立候補していた男だった。

リズがそれをニュースでリポートすると、地方の記者たちがBLMに味方し、彼女の辞任を要求した。身の危険を感じたリズはテレビ局を辞任した。BLMはリズのキャリアを破壊することに成功したのだ。

2020年の夏、BLM暴動は20億ドルのダメージを地方ビジネスに与えた。その一人がロサンゼルスに数件の店舗を持つフレーザー・ロスさん。KITSONというチェーン店の経営者。BLMの略奪により40万ドルの被害を受けた。ところが、クリスティー・ティーガンという3千万人のフォロワーのいる黒人芸能人が、逮捕された暴徒の保釈金を払うために20万ドルを寄付するとツイッターで発表。そして次の日にはもう20万ドル足すとツイートした。

腹が立ったロスは自分のインスタグラムに破損した店の写真をアップして「ありがとうクリスティー」というメッセージをつけた。するとクリスティーはロスに同情するどころか、「あんたの店になんか、もう10年も誰も言ってない」とツイート。キーガンの友人の白人芸能人ジェン・アトキンスは店に自分の製品があったことを揶揄して「シャンプーで床を拭いたら?」と悪態をついた。

そこへデイナ・オマーリというブロガーが首をつっこみ、ロスの別のもっと大きい店舗に関する情報を流し、ロスが黒人であるクリスティーに無神経なことを言ったことを謝罪しろとDMでせまった。後にロスはオマーリと電話で話をしたが、その内容は、クリスティーに謝ってBLMの募金サイトであるアクトブルーに一万どる振り込め、さもないとロスの本店を略奪するように暴徒をけしかけるという恐喝だった。ロスは謝罪こそしなかったが1万ドルをアクトブルーに寄付せざる負えなかった。

シリコンバレーでCEOをしていた男性は、周りの企業が宗教的にBLMを信仰していることに懸念を抱いていた。特にBLMに敵意はなかったとはいえ、そこまで熱烈な支持はしていなかった。しかし略奪などが起きていて心配な人も多いと思うので、何かあったら言ってほしいという旨のメールを従業員に送ったところ、BLMを十分に支持していないと酷い批判を受けたという。こうしてシリコンバレーの企業は多額の金をBLMに寄付していったのだ。

BLMは2020年のジョージ・フロイド事件で急激に莫大な寄付金を集めた。にもかかわらず、当のフロイドの元同居人にはまるでそのお金が還元されていない。元同居人のアルビンはジョージの残した車すら名義を持っていないため処分することができないでいる。(カカシ注:元記事でフロイド家と書いたのは間違いだったので訂正した)ジョージ・フロイドの名前がついた街の一角もスラム街と化し犯罪者は好き勝手なことやっても警察が介入しない無法地帯となっている。

いったいBLMが集めた8千万ドルというお金はどこへ行ったのだろうか?

リーダーのパトリース・カラーズがカリフォルニアに何百万ドルもする豪邸をいくつも購入したというニュースがロサンゼルスタイムスで報道されたのはまだ記憶に新しい。しかしBLMの資金はもっと他に不思議なところへ流れて行っている。

まずパトリースは自分の弟を警備担当として年に84万ドルで雇い、自分の息子の父親もメディア担当として97万ドルで雇っている。それから自分の豪邸で息子の誕生日に豪勢な誕生日パーティを開いたり、ジョー・バイデンとカマラ・ハリス就任を祝ってまたまた豪勢なパーティを開いた。

パトリースはレズビアンでジャナヤ・カーンという女性と結婚しているが、カーンは後にトランスジェンダーとなる。そしてBLMはこのカーンが関連している一ダース近いトランスジェンダー慈善事業に合計2.4百万ドルの支援をしている。中でもトランスジェンダーだけのコミュニティーを作ると言って多々の不動産を買い集めている組織の会長は、アーケンサス州に豪邸を購入したが、そこでなにかが行われたという形跡はまるでない。そして最近カーンが組織しているM4BJという団体はBLMのお金でトロントに8百万ドルの不動産を購入した。これらのどの組織も慈善事業として義務付けられている税務署への申告を行っていない。

組織として最大の額である2.3百万の支援を受けたコーヒーショップ経営者は、地元の貧困層にランチを提供するイベントをするはずだったが、そのウェッブサイトでは過去の活動も今後の活動も記されていない。この経営者はパトリースとは長年の友人で白人男性である。

BLMが支援している他の団体は、BLM活動をするためにデモを扇動する活動家を教育している。アメリカ各地で暴動が起きる度に、とても突発的とは思えない能率的で組織的な暴動が起きるなと感じていたのはそのせいだったのだ。暴動者たちは時にはバスによってはこばれてくる。DCで夫人と友人と一緒に暴徒に囲まれたランド・ポール上院議員は、暴徒らは地元民ではない、どこかから来た人々だ。彼らの旅費や宿泊費は誰がはらっているのか捜査すべきだと語っていた。

最後にキャンディスはパトリースのカリフォルニアの邸宅に向かう。パトリースがこのような大きな屋敷を購入した理由に、そこでBLMのイベントを主催するためだというものだった。ところがキャンディスが言ってみると、中で何かが行われている気配はまったくなく、塀の隙間から除いたキャンディスは「黒人なんて一人も居ない。犬すら白い」と冗談を言っていた。

その時の模様をパトリースは自分のインスタグラムで泣きながら、自宅に人が押しかけて嫌がらせをした、こんなことがあってはいけない。などと言った。まったく、

「お前が言うな!」

キャンディスはBLMが巨大な詐欺組織であることは間違いないが、BLMをこのようにしてしまったのはメディアであると痛烈に批判する。メディアは二年間にわたってBLMの広報部と化していたからだ。

「メディアこそが私たちの敵です」

後日談だが、パトリース・カラースは今BLMの支部から資金横領で訴えられており、BLMのリーダーからは辞任している。


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リトルマーメイドや白雪姫など白人キャラを非白人が演じることへのバックラッシュは人種差別なのか?

先週末、ディズニーは1989年に公開された「リトルマーメイド」の実写版の短い予告を公開した。そこではじめて主役のアリエルを演じる黒人女優のハリー・ベイリーの姿と短い歌声が紹介された。するとほんの2~3日の間に不評数1.5百万という前代未聞の評価が集まるという驚くべき事態が生じた。私もハリー・ベイリーの配役には懐疑心を抱いていたとはいうものの、ここまでの不評は予測していなかった。これは大不評のアマゾンのLOTRを凌ぐ不評である。

ハリー・ベイリーがアリエルを演じることになったということは、もう一年以上前に発表があったので別に今更主役が黒人だということに驚いた人は居ないはず。では何故人々はこんなにも否定的な反応を示しているのだろうか?

私はこれは最近続いた白人役を非白人が演じるという過剰なポリコレ傾向への反発の表れではないかと考える。

二週間前に指輪物語三部作の前編としてアマゾンが公開したリングスオブパワー(指輪の力)がファンの間で非常に不評であるという話はしたが、アマゾン側はこの不評はひとえにエルフを含め数人の黒人俳優の起用への人種差別だとトールキンファンを責めた。一週間前に公開されたピノキオの実写版が非常な不評であることも、有名な青の妖精に丸坊主の黒人女優を起用したことへの人種差別だとディズニー側は視聴者を攻撃した。そして今はまだ制作中のディズニーの「白雪姫」実写版の主役を白人ではないラテン系の女優が演じるという話も加え、それに対する批判もすべて人種差別のせいにするつもりのようだ。

こうした背景のあるなか、リトルマーメイドの予告はポリコレ迎合に嫌気がさした視聴者の恰好の攻撃対象となってしまったのだ。もしこれが他の作品でも同じことが起きていただろう。若いハリー・ベイリーはそのはざまに立たされてはた迷惑も甚だしいといったところだろう。もしポリコレ批判が彼女への個人的な攻撃になってしまったなら、私は彼女に心から同情する。

しかし視聴者の不満は黒人やラテン系が主役を演じるということにあるのではない。視聴者の不満は、なぜ長年親しまれてきたキャラクターのイメージを故意に破壊するような配役をするのかという点にあるのだ。しかもこうした批判が人種差別だとされるのは白人役を非白人が演じる時だけだ。

たとえば2年前に公開されたアラジンの実写版で主役のジャスミン姫を演じたインド系の女優が半分白人であったというだけで、彼女の色が白すぎると左翼リベラルから批判されたことを「人種差別」だとディズニー側は責めたりしなかった。人種に拘るなら彼女が半分白人だということよりも、アラジンはアラブ王国の設定だから配役はインド系ではおかしいはずだという批判であるべき。他の俳優たちも全員アラブ系であるべきなのに、俳優たちが白人ではないというだけで他人種の配役に納得した左翼たちの人種差別ぶりには呆れる。

批判的人種論(CRT)などといって、学校では白人は生まれながらにして罪深い人種であり、白人こそが悪の根源と教えられている若者が、自分らが大切にしてきた白人キャラのイメージすら黒人に取って代わられることを考えたら、いったい我々の文化とは何なのだという気持ちになったとしても不思議はない。

視聴者たちは黒人が主役であることが気に食わない訳ではない。何十年も前から、エディー・マーフィーやデンゼル・ワシントンやウェスリー・スナイプやウィル・スミス主演の映画はヒットしている。最近ではオールブラックキャストのファンタジー映画ブラックパンサーが大ヒットした。つまり観客は主役が黒人だから嫌なのではなく、もともと人々が愛し親しんで来たキャラクターのイメージをポリコレを満たすためだけに壊して欲しくないという気持ちを訴えているに過ぎない。

マット・ウォルシも言っていたが、今後映画やテレビで俳優の人種は無視して誰が何を演じてもいいということにするならそれはそれでいい。だがもしそうなら、黒人役を白人が演じても絶対に文句を言わないでほしい。白人役を黒人が演じることに苦情を言うのが人種差別だというなら、黒人役を白人がやっても一切苦情を言わないでほしい。

だが、絶対にそんなことにならないのは我々は良く知っている。だからこそ、1.5百万の不評などという事態が生じるのだ。


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トールキンファンには白人至上主義者が多い?不作作品を棚に上げて批評するファンを徹底的に侮辱するアマプラとメディア

いつまでもアマゾンプライム制作の指輪物語のリングスオブパワーについて話をするのは心苦しいのだが、制作側とメディアによるトールキンファン叩きがあまりにも凄まじく理不尽なのものなので、どうしても何か書いておかないと気が収まらない。

本日見つけたこのサロンの記事などは、“Rings of Power” gets casting backlash, but Tolkien’s work has always attracted white supremacists、ヘレン・ヤング著「トールキン作品は常に白人至上主義者を惹きつける」という内容だ。もういい加減にしろ!と言いたい。

今年の2月に出演者が発表され、そのなかに黒人俳優が混ざっているという話が出て以来、トールキンの熱烈なファンから作品がWOKE(お目覚め主義・ポリコレ)すぎるという批判が上がったが、これは現状の正しい見方ではないとヤングは書く。

ヤングは黒人俳優への差別的なコメントや、レビューバミング(批判的な批評を大量に投稿すること)などをみていると、単にトールキンの世界観に関する意見の違いとは思えないというのである。

まず、このお目覚め主義への批判だが、これはファンが始めたものではなく、アマゾンプライム自身が始めたことなのだ。制作側は作品が発表される何か月も前から、いかに自分らがポリコレのメッセージに力を入れて作品を作ったか、いかに配役が多様であるかという宣伝を執拗に行った。黒人女優や俳優たちが、色々なプロモーションでことあるごとに「多様性が~」「革新的な~」と繰り返し、作品の内容について何一つ説明がなかったのである。これではファンとしてはお目覚め主義はいいが、肝心の作品はどうなっているんだと批判する以外に仕方なかった。

しかし作品が公開されてからは、お目覚め主義への批判はほぼなくなり、登場人物の人種に関する批判も激減した。なぜなら作品の問題点はそんな表面的なものではなく、もっと根本的なところにあることにファンたちは気づいたからである。

アマゾンプライムのコメント欄には、いかにこの作品がトールキンの世界を無視しているか、登場人物に魅力がないか、話の辻褄があわないか、ペースが遅すぎて退屈するとかいった批判が大半を占めたのだが、アマプラ側はこうした批判的なコメントを一時的に隠蔽し一般には見えなくしてしまった。そして黒人俳優への人種差別的な脅迫が多数あったと言い掛かりをつけはじめたのだ。

私がこの差別的な脅迫などというものが起きていないと考える理由は、もしそれが本当なら「こんなコメントが来ています」といってどんど公表したらいいようなものなのに、その一通の例も公表されていないからだ。

ヤングは「トールキン研究者のクレイグ・フランソンによると」としてこの問題を右翼活動家が悪用してファシストのトーキングポイントを主流メディアに注入し始めたという。そして、右翼活動家たちはこの作品に批判的なファンを焚きつけて大がかりな憎悪に満ちた動きを扇動しているというのである。

なんというバカバカしい発想だろう。

The Lord of the Rings: Rings of Power

ヤングは1970年代や2000年に一部の取るに足りない白人至上主義者たちがトールキン作品を褒称したことを例にあげて、トールキンには白人至上主義を惹きつける傾向があるなどとくだらない持論を述べている。それをいうならその何千倍もの一般ファンたちの存在はどうなるのだ?どんな作品でもおかしな輩を惹きつけないものはないだろう。世界各地で何十年もベストセラーになっているトールキンの作品ならなおさらである。そんなことは何の証明にもならない。

もっともヤングは右翼保守は全員人種差別者だという固定観念で話をしているから、そういうおかしな理屈になるのだ。

ヤングは何故人種差別者は中つ国がそんなに好きなのかという理由について、トールキンがナチスやアパルトヘイトを批判する手紙の中で書いた一部分で、トールキンはある種の人は他の種よりも優れていると書いており、それは人種差別思想だという。しかしトールキンが劣っているとする種族とはナチスやアパルトヘイトの南アフリカの白人層だ。トールキンはイギリスという国がヨーロッパにもたらした良い影響について語っていたのであり、人種の話をしていたのではない。

しかしヤングは中つ国は階級社会であり人種差別の世界だと主張する。トールキンの人種差別思想は空想の生き物エルフと人間に現れているとし、明かにエルフが最上でドワーフやホビットは下層階級だというわけだ。この階級社会の差別主義に現社会の人種差別者が魅かれるのだという理屈である。

あほらしい。

ヤングがトールキンの社会が階級社会で人種差別に満ちたものだと考えているのは、彼女がきちんと作品を読んでない証拠だ。

確かに中つ国は階級社会である。エルフ社会も人間社会もどれもこれも王国であり、民主主義の国などない。考えてみればどんな王国にも属していないのはホビットだけだ。しかし、トールキンが人種差別者であったなら、指輪をモードアに返しに行くフェローシップはどのように説明するのだ?

一つの指輪を破壊する使命を帯びたホビットのフロドに、ホビットのサム、メリー、ピピンのみならず、エルフのレゴラス王子、ドワーフのギムリ、人間のアラゴンとボロミアが団結して結成されたのが指輪の仲間たちフェローシップである。エルフとドワーフは過去に戦争もしている宿敵である。彼らが協力して任務に及ぶのは非常に難しいことだったはず。人間同士でもアラゴンとの主従関係に不満を持つボロミアの反感がある。しかしこれらの種族がそれぞれの違いを乗り越えて任務におよんだのだ。これこそ種族を超えた多様性ではないか?

そして忘れてはならないのは、エルフも魔法使いも人間もドワーフも勝てなかった指輪の誘惑に、唯一打ち勝って指輪破壊に成功したのは一番軟弱だと思われていたホビットではないか!

もしトールキンが白人至上主義者なら、すべての功績をエルフにやらせることもできたはずだ。しかしトールキンはエルフをそれほど良い光にばかり照らしていない。エルフの間でも戦争は起きているし、悪に染まったオークは元はと言えばエルフであり、エルフが腐敗してオークになったのだ。だからエルフは決して崇高な存在ではないのだ。それに指輪物語の最後にはエルフ達は中つ国を捨てて去っていくではないか。

そして指輪物語の最後の8章と9章は、ピーター・ジャクソンの映画では描かれていないが、ホビット荘に帰還したメリーとピピンが留守中にサルマンの支配下に陥っていたホビット荘を、ホビット達と一緒に戦って取り戻すというものだ。つまり、指輪物語の最後はホビット達が他人に頼らずに独立して自由を取り戻すことで終っているのである。

ヤングはトールキンがサウロンの影響下に落ちた人間たちの種族を、アラブ系や東洋系のような描写をしているというが、トールキンはイギリスの神話を作り上げようとしていたのであり、遠方の外国にいる敵を味方の種族とは違う人種として表現したとしても、それは直接人種差別と解釈すべきではない。それは桃太郎の青鬼や赤鬼の描写が人種差別だと言っているのと同じくらいバカげた理屈だ。

トールキンの作品が保守派の間で人気があるのは、彼が白人至上主義だったからでも、人種差別者だったからでもない。トールキンは敬虔なキリスト教徒であり、その思想が作品のあちこちで現れており、宗教意識の強い保守派の心に通じるものがあるからなのだ。

ヤング及び左翼メディアやアマプラ製作者たちが、それを理解せずにトールキン自身まで白人至上主義者に仕立て上げ、トールキンファンを徹底的に侮辱し続ける行為は愚かとしか言いようがない。トールキンファンはアマプラの作品に成功してほしかった。彼らがこよなく愛するトールキンの世界をその精神にのっとって再現してほしかったのだ。

しかしアマプラ製作者たちの目的は最初から良い作品を作ることにはなく、自分らの左翼お目覚め主義思想を視聴者の喉に押し込むことにあった。最初からファンには受け入れられないだろうと知っていたからこそ、わざわざ黒人俳優を起用して、作品への正当な批判を人種差別だとして反撃するつもりだったのだろう。しかし予想以上に猛烈なファンからの批評に振り上げたこぶしが下せなくなっているのだ。

ところで、制作側のこの作戦で一体誰が得をするのだろうか?熱烈なトールキンファンはもう嫌気がさしてシリーズを観ないだろう。トールキンを知らない他のファンタジーファンたちは、こんなつまらない番組よりハウスオブドラゴンを見るだろう。(現にそっちの方が人気がある)

残るのはお目覚め主義の左翼ファンか、ファンタジーなら一応何でも観るというもの好きな人々だけ。それがこれだけの予算をかけてやる正しい番組作りと言えるのだろうか?

不思議である。


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多様性を満たすために白人役を黒人に演じさせる怠慢な演出にげんなり

先日始まったロードオブザリングス(指輪物語)の前編リングスオブパワーがかなりの不評だという話はすでにしたが、アマゾンプライム側は番組が不評なのはすべて黒人差別のせいだという姿勢を貫き通すつもりらしく、同作品のキャストや昔の映画のキャストまで動員して「すべての人種は歓迎する」キャンペーンを始めた。あたかもトールキンファンの不満が黒人キャストにあるかのような決めつけに、我々は少なからぬ苛立ちを感じている。

LOTRの黒人エルフやドワーフに続き、ディズニー映画のアニメリメイクのピノキオの青い妖精役が丸坊主の黒人女性、そしてリトルマーメイドのアリエル役が黒人女性と、なぜか元来白人が演じるべき役を黒人に配役するのが流行っているようだ。こうしたやり方は元来のイメージを大事にする人々への侮辱であり、また黒人に対しても非常に失礼なことだと思う。

伝統的なおとぎ話や時代物やLOTRのように原作の設定が非常に厳しいものに異人種俳優を混ぜることには問題がある。これは決して私や他の視聴者が黒人俳優を見たくないとか、我々が人種差別者であるとかいう理由からではない。物語にそぐわないあり得ない設定に問題があるのだ。

私は以前から、時代劇で時代考証がしっかりしていないものには不満を述べて来た。例えば1950年代のアメリカで黒人がナイトクラブで白人と一緒にカクテルを楽しんだり、舞台の上で黒人と白人が入り混じって演技をするなど、当時の黒人差別を考慮に入れたら絶対にありえない設定である。しかしダイバーシティーの名の元に、これらの人種をごっちゃにすると、多くの観客は昔も今も人種差別の程度は同じだったと誤解してしまう。昔の人種差別がいかに酷かったかを知らなければ、現在がどれだけ良い時代であるかが解らなくなる。それで反差別活動家たちのいう今の人種差別は昔と同じように酷いという嘘を若い人たちが信じてしまうようになるのだ。

こうした時代考証を無視した配役をすると、当時あった差別も地理的文化的生物学的論理も全て無視せざる負えなくなる。人々の行き来が難しかった時代に部外者がめったにこない孤立した部族の人種がまちまち。ひとつ川を越えた村の人間さえよそ者として忌み嫌う人たちが異人種間の結婚には抵抗がないと信じなければならない。いやそれをいうなら、両親と子供の人種が違うとか、兄弟なのにまちまちな人種とか、遺伝子科学まで無視しなければならなくなる。

元々白人として描かれている役をそのまま黒人にやらせるのは演出と脚本の怠慢きわまりないやり方だと思う。これはイギリスの長寿番組で常に男性が演じて来た役を女性が演じた時にも感じたのだが、黒人や女性を起用するなら、彼らが登場しても自然であり、彼らでなければ出来ない特有の役作りをすべきである。

例えばシェークスピアの芝居で、シェークスピア時代の芝居をそのまま演じたら、オセロ以外で黒人俳優が登場する場面はない。しかし舞台を現代のニューヨークに移したらどうか?ウエストサイドストーリーがまさにそれで、モンテギュー家とキャプロット家の争いを二つのギャング集団ジェットとシャークに変えることで、白人対プエルトリコ人との争いとなり、白人でない配役が自然となった。

もしリトルマーメイドを黒人にするなら、舞台をデンマークではなく、カリブ海にでもある空想の王国を設定し、王子様も他のキャストも全員黒人にして、踊りも音楽もそれに合わせたものに作り替えればいい。

私が気に入らないのは、白人や男性用に書かれた脚本をすこしもアレンジせずに黒人や女性に演じさせることだ。せっかく別な特性を持った人たちを配役するなら、その人たちの個性を生かせる演出をすべきである。なぜおざなりのクッキーカッター的演出をするのだ。上からダイバーシティー(多様性)を反映する映画作りをしろと言われたから、じゃあ、白人役を黒人にやらせておけばいいやという安易なやりかたからは制作側の怠慢さが見え見えである。


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