本日7月4日はアメリカの独立記念日である。独立記念日の映画といえば、1996年に公開されたインディペンデンスデイという大ヒット作品がある。この映画が公開された当時、アメリカの映画界は人種差別を克服したという記事を読んだ覚えがある。そしてそのなかで「それが証拠に今年公開された大ヒット作品インディペンデンスデイの主役はマイノリティーだ」というような記述があった。私はすでにその映画を観ていたのだが、正直それを読んだ時それが誰を意味するのか暫く理解できなかった。「インディペンデンスデイの主役と言えばウィル・スミスだ。ウィル・スミスは大スターだし、彼のどこがマイノリティーなのだ?ふむ???」としばらく考えた後「あ、そうか、彼は黒人か!」と気が付いたのだ。そのぐらい自然な配役で人種など全く感じさせない演出になっていたのである。

思うに1990年代はアメリカで人種間の亀裂が一番少なかった時代だ。この頃は黒人の間でも人種関係は良好だと世論調査で答えた人が70%近くもいた。映画でもこの頃活躍した黒人俳優はウィル・スミスだけではなく、エディー・マーフィー、ウェスリー・スナイプス、デンゼル・ワシントン、サミュエル・ジャクソンなど何人もいる。テレビでも、超人気番組だったビル・コズビー主演のコズビーショー(1984-1992)を筆頭に、リジョナルド・ベルジョンソン演ずる黒人警官主役のファミリーマタース(1989-1998)、新人だったウィル・スミス主演のフレッシュプリンスオブベルエア(1990-1996)などがある。これらの番組は両親の揃った黒人一家を巡るコメディー番組で、出演者のほとんどが黒人だった。しかし視聴者はそんなことを全く気にせず人種の枠を超えて黒人にも白人にも広域な人々に愛される人気番組だった。

1980年代までは黒人の役は悪役やわき役が多く、例え主役でも黒人でなければ演じられないキャラクターが多かったが、1990年代になると黒人が普通の人として描かれることが多くなった。そしてそれを観客も自然に受け入れていた。これらの配役にはポリコレの「ポ」の字も感じられなかった。

それが早送りして2023年、なんで赤毛の白人役に黒人女優が起用されるなどというおかしなことが起きるようになったのだ?

あれだけ黒人俳優が活躍した1990年代に全く問題がなかったのに、2020年代の黒人配役には問題がつきものなのは何なのか。アメリカ人は俳優が白人だろうと黒人だろうといい映画や番組なら普通に受け入れていた。それなのに、なぜ2020年代の黒人配役は、こうも問題になるのだろうか?1990年代と2020年代の何が違うのか?

それは90年代の黒人配役は話の筋書き上自然だったのに対し、2020年代の黒人配役は話の内容から無理な設定が多すぎることにある。

インディペンデンスデイの主役キャプテン・スティーブン・ヒラ―は軍人だ。アメリカ軍には黒人も多くいるので全く無理な設定ではない。上に挙げたテレビ番組の場合も父親の職業が医者、弁護士、警官で、とってつけたように異人種と結婚したりしておらず、ごくごく自然な設定だ。

ところが2020年代になると、イギリスの宮廷ドラマなのに黒人が普通に貴族として出て来たり、クレオパトラが黒人になったり、デンマークの話である人魚姫が黒人になったり、イギリスの神話として書かれた指輪物語に黒人エルフが登場したりと無理やり感が半端ないのだ。

挙句の果てにアメリカのポリコレ活動家たちは、日本のアニメやゲームの登場人物にまで、黒人が登場しないとか、既存のキャラを黒人に書き換えろなどと要求してくる始末だ。

結果論から言わせてもらえば、この黒人俳優無理押しのいわゆるブラックウォッシュは概ね成功していない。最近何度も書いているように、多くの視聴者が、もう黒人俳優はたくさんんだと思い始めている。

同じ理由で女性キャラの無理押しも人気がない。ディズニーの最新作のインディアナ・ジョーンズ5では、主役のインディアナ・ジョーンズが老いぼれて全く頼りにならないのを生意気な孫娘がなんでもかんでも解決してしまうという話なんだそうで、興行成績は散々たるものだ。フェミニストたちはやたらと強い女を登場させろと煩いが、なぜかそれが、多くの人びとに愛されてきた既存のヒーローを犠牲にしてでなければ、達成されないというやり方に反感を買っている。

最後に2023年でも無理のない黒人キャラクターの登場する映画のお話で終わりにしよう。ハリウッドもやればできるという例だ。

マーベルコミックスのスパイダーマン、アクロスザスパイダーバースこれは2019年公開のInto the Spider Verseの続編。主役はマイルスという15歳の少年で、アフリカ系黒人の父親とプエルトリコ系の母親の間で生まれたハーフ。舞台はニューヨーク州のブルックリンなのでごく自然な設定だ。スパイダーマンといえば主役はピーター・パーカーという白人青年というのが原作だが、このキャラクターは同じ世界に住む別のキャラクター。無理やりピーターを黒人にせず、別のキャラクターを作り、そのキャラクターを主役にした筋書きにしピーターを脇に回すという面白い演出で非常に好感が持てる。

既存の作品に黒人キャラを登場させたいなら、こうやるべきというお手本のようなものだ。

では本日はこれまで。

Happy Independence day!


2 responses to ポリコレ抜きで黒人キャラが冴えた1990年代とポリコレ現代の違い

かんぱち10 months ago

デンゼル・ワシントンは知的な人物の役が多かったですね。「インテリの黒人」 という新境地を切り開いた俳優でした。
もっとも、彼のような俳優が現れるまでは 「インテリの役といえば白人」 だったハリウッドの “リベラル” な制作陣のほうが、じつは差別意識が強いんじゃないかという気もしますが・・・。
昔は東洋人の描かれ方も酷かったけど、中国での興行成績を気にするようになってからは、露骨なチャイニーズ推しをするようになった・・・という話もありましたね。

アファーマティブ・アクションと同じで、実力もない俳優に、黒人というだけで下駄を履かせるのは、実力で役を勝ち取った黒人俳優にとっては、むしろ失礼でしょう。
こんな事をやっていては、「黒人やアジア人が出てくる作品は見ない」 という人が増えて、実力のある黒人やアジア人の俳優にも実害が出てくるんじゃないですか?

ReplyEdit
    苺畑カカシ10 months ago

    黒人差別を乗り越えてスターになった黒人と、黒人だからというだけで起用される黒人では才能もカリスマ性も全く違いますね。最近のだとアマゾンプライムのLOTRとかネトフリのクレオパトラとか、リトルマーメイドがその典型。

    リトルマーメードを見た人はハリー・ベイルは歌はうまいけど、演技が下手すぎてまるで感情が出ていないとのこと。彼女が黒人でなかったら雇われなかっただろうとみんな言ってますね。

    はっきり言って、作品の話より自分の肌の色の話ばかりになるのは本人だって嫌じゃないでしょうか?

    ところで中国市場を気にして東洋人を起用するのはいいですが、それなら中国人がどういう東洋人を魅力的だと思うのか少し研究したらどうなのかと思うほど、男も女も不細工な役者が多いですね。

    ReplyEdit

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *