最近続けてグリム童話の「白雪姫」を原作とする映画の公開があったので、カカシも早速観て来た。ふたつの映画はターセム・シン監督のミラーミラー(邦題:白雪姫と鏡の女王)とルパート・サンダース監督のスノーホワイトアンドザハンツマン(邦題:スノーホワイト)である。(何故邦題を『白雪姫と猟師』としないのか不思議)

日本ではスノーホワイトの方はふき替え版などもあって、もうすでに公開になっているが、何故かミラーミラーのほうは9月公開になるらしい。

何故同じ時期に同じ題材の映画が続けて制作されたのかは解らないが、同じ題材を使ったにも関わらず捉え方はまるで違う。ただ双方とも白雪姫より意地悪継母の王妃の方が得役になっていて、特にミラーミラーのほうのジュリア・ロバーツの演技はさすがである。

ストーリーはどちらも原作の筋に沿っている。白雪姫の父親の王が二度目の妻を娶った時から何かが起きる。父親は死ぬか姿を消すかして数年後の今は継母である父の後妻が女王として国を仕切っているが、魔女である継母の魔力によって国全体が黒く枯れた状態になっている。
シン監督のミラーミラーは最初からコメディタッチで描かれており、確かにロバーツの王妃は魔法使いではあるのだが、国が貧乏で破産状態なのは特に彼女の魔力のせいではなく、単に彼女の贅沢三昧な無駄使いが原因。しかも特に経済立て直しの政策も立てず、単に足りない分はすでに理不尽な税金で飢えている庶民からさらに税金を取り立てるしか脳がない、まるでオバマ王みたいな王妃である。
ロバーツ王妃は日がな夜がな自分の美しさを磨くことと贅沢三昧な暮らしをすることにしか興味がなく、しょっちゅう鏡の前に立って「鏡よ、鏡よ、この国で誰が一番美しい?」とやっているわけ。王妃が偶然現れた隣国の王子アーミー・ハマーと結婚しようと必死に美容に励むシーンは笑える。猟師役を演じたブロードウェイ役者、ネイソン・レーンとの絡みもおもしろい。

さて、この鏡とのやり取りなのだが、ロバーツ王妃の鏡に写るのは王妃の分身で、ディズニー映画の低く深い男性の声とは大違い。鏡とのやり取りも、割と普通の女性が鏡を観ながら「あらやだ、私、皺が増えたかしら、、あら、これシミかしら、、」とやってるのとおんなじ感じで、それに答える鏡の分身が結構意地悪で面白い。

白雪姫を演じるリリー・コリンズは愛らしく、いかにも白雪姫という感じがする。ミラーミラーは白雪姫が猟師(ネーサン・レーン)によって森に置き去りにされるところまでは原作にかなり忠実だ。しかしリリー姫が森の小人達に会うところから、ストーリーはグリム童話からはなれていく。
童話の方では、白雪姫が小人達の家に住むようになり家事などをして小人達と家族のようになるが、映画の方では小人達から武術を教わる弟子となる。このへんの訓練は昔のカンフー映画を思わせるが、訓練を通じて姫と小人達の交流が深まり、原作同様姫と小人達の間には深い友情が生まれて行く。これはディズニー映画で姫が歌いながら動物たちも一緒に「さあ仕事だよ」といって掃除したりするシーンと同様ほほえましい。

小人達に鍛えられたリリー姫は、最初に森に現れた頃のように単に可憐で世間知らずのお姫様ではない。姫がまだ生きていることを知った王妃からの攻撃にも、ハンサムなプリンスチャーミングを待っているほどか弱くもない。

ところでアーミー・ハマー演じる王子様だが、原作では老女に化けた王妃からもらった毒リンゴを食べた白雪姫を救うことになっているが、アーミー王子は顔はいいけどかなりのドジ。最初に登場する場面でもお付きと一緒に盗賊に襲われ身ぐるみはがれてステテコ姿で木からつるされてしまう。ロバーツ王妃の魔法にかかって犬みたいにそこいら中を嗅ぎ回ったり、リリー姫を救おうと閉ざされた扉に体当たりするのはいいが、扉が重過ぎて全然開かずにふーふーいったりするシーンなど、全然恰好よくない。
一番笑ったのは、最後のシーンでリリー姫がバリウッド映画さながらに全く場違いな歌を歌いだし、完全にバリウッドミュージカル風に回りのひとたちと踊るシーン。な、なんなんだ、これは、と思ったら何の事はない。監督がバリウッド出身のインド人監督だった。

床に転げ落ちて笑うような喜劇ではないが、全体的にほんわかした気分になる映画。日曜日の午後に家族連れで行くにはよいのではないかな。


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