今カリフォルニアの法廷では、同性同士の結婚を承認するかどうかという審議がされている。カリフォルニア州は比較的リベラルな州なので、読者のみなさんは、これがカリフォルニア州民の希望によって審議されているとお考えになるかもしれないが、実はその逆である。
加州民は2000年の選挙のときに、国中で同性結婚推進の動きが一部の過激派によって激しくなってきたのを懸念し、「カリフォルニアは一人の男と一人の女との結婚のみを承認する。」という州法が圧倒的多数の市民の同意によってすでに通っているのである。では法廷はなにをやっているのかというと、この法律が合憲であるかどうかを審議しているのだ。
なぜ一夫一婦制が合憲かどうかなどという審議が今さら必要なのか、同性結婚推進者の理屈は、異性同士の結婚が許されるのに同性同士の結婚が許されないのはどの個人も同等の権利を保証されるという憲法に違反するというのである。
彼等にいわせると、異性愛者は好きなもの同士で結婚できるのに、同性愛者にそれができないのは不公平だというわけだ。しかし、異性愛者同士でも好きなもの同士なんの規制もなく結婚できるかといえばそうではない。
結婚というものは、いにしえの昔から、公の結合であり決して個人の好き嫌いだけで決められてきた訳ではない。結婚に関する規制はどこの社会にもあるが自由社会においてもそれなりの規制があり、その規制は性別だけに限らない。年齢や血族関係、そして人数にも規制がある。これらの規制が憲法違反でないなら、性別の規制も憲法違反にはならないはずだ。
無論、アメリカでは異人種同士の結婚が禁止されていた時期があった。その法律は撤回されているので、これと同性結婚の規制とどういう違いがあるのかという質問は出てくる。だが、人種間の差は単に皮膚の色が違うというだけで、黒人の男も白人の男も男であることには変わりはないが、男と女とでは全く生物学的に違うではないか?
第一異人種間の結婚禁止令は法廷によって違憲とされて覆されたのではなく、アメリカ市民が異人種間の違いは全く問題がないとして、議会を通して既存の法律を廃止したのである。一夫一婦制度はアメリカ市民の大半が支持しており、異人種間結婚の規制とはまるで性質が違う。
日本では同性結婚などというものは起こりえないとみなさんがお考えなら、甘い、と申し上げる。アメリカでも同性結婚など大半の市民が認めていない。にも関わらずあちこちの州で同性結婚が法廷を通して州民に無理矢理強制されるという事例がすでに起きているのである。カリフォルニアが2000年に一夫一婦制を改めて法律に取り入れたのは、そうした州で「結婚」した人々がカリフォルニア州でも夫婦と認めよと要求してくるのを拒むのが目的だったのだ。
男女共同参画の基盤となっているジェンダーフリーという性別解消の思想が横行すれば、それが必然的に同性結婚へと結びつくことは目に見えている。性に違いがないなら同性同士の結婚になんの問題があるというのだ、という理屈になるからだ。
一夫一婦制は文明社会の基盤である
数年前、同僚の若い男性何人かと仕事の帰りに飲みにいった時のことである。テーブルにつくや否や、一人の若い男性が席を立った。しばらくしてこの男性は片手にカクテルを持って戻ってきた。カカシは「エリック、あなたガールフレンドいないでしょ?」と聞くと、彼は不思議そうに私の顔をみて「いないけど、どうして?」と聞いてきた。ガールフレンドがいれば、自分の飲み物だけひとりでさっさと買いにいくなど彼女が許すはずがないからである。彼女のいる男性なら、同席をしている女性に「飲み物買ってくるけど、君も何か飲む?」と聞くぐらいの気遣いはする。
異性の伴侶がいる人間は、男と女の違いを知っている。それぞれの強い面も弱い面も知っているから、それを考慮にいれて他人にも接することができる。だが、同性同士でしか付き合いのない人間はその違いを理解できずに間違いをおかすことが多々ある。
これが子育てとなってくると男の父親と女の母親は子供の人間形成には欠かせない要因となる。男の子が強い父親がか弱い母親を守るお手本を見ずにどうやって女性を大事にすることを学ぶのか?母親が父親の辛い時に慰めの役目を果たす図を見ずに女の子はどうやって思いやりを学ぶのか?
アメリカで母子家庭の多い黒人の間で犯罪率が他の人種よりも極端に多いのは決して偶然ではない。父親のいない家庭では男の子が粗雑になるのだ。母親がどれだけ立派でも父親の代わりはできない。
また一夫多妻制度を取り入れているイスラム諸国やアフリカ諸国を見てみた場合、女性の権利はどこでも極端に制限されている。女性の数が男性よりもずっと多いというのならともかく、一人の男性が多くの女性を妻にめとえば、女性にあぶれる男性が出てくる。そうなれば女性は奪い合いになるから、女性は男性の所有物的扱いとなり外へ出さずにかこっておくという扱いになる。サウジアラビアなどで女性が家族の男性同伴でなければ外出できないなどという規則があるのはまさにこれが理由だ。
一夫多妻制度のなかで育つこどもは、父親との交流は少ない。父親は常に母親や子供のそばにいるわけではなく、その時々の気分で母親の元をおとずれるわけだから、子供はほとんど女たちの間だけで育つことになる。
母子家庭や一夫多妻制度における子育ての弊害を考えた場合、ここで試されてもいない両親同性という家族構成を社会に紹介する危険を我々は十分に危惧すべきである。すでに一番理想の一夫一婦制という制度が存在する社会に、なぜ試されてもいない別の制度を人々が望んでもいないのに適用する必要があるのだ?適用するだけの価値があることが全く証明されてもいないのに、その弊害も明らかでないのに次の世代を担う子供たちを実験のモルモットとして危険にさらす必要がどこにあるのだ?
何でもありは何もないのと同じ
同性結婚を許可することがどうして一夫一婦制度の破壊につながるのかという疑問が出るのは当然だ。しかし社会が決めた結婚への規制をひとつ外せば、他の規制についての見直しも必要とされるのは当然だ。好きなもの同士が結婚できるというのなら、血縁者が結婚できないというのはおかしいという理論になる。なぜ兄妹や甥姪では駄目なのかということになる。近親相姦による劣性遺伝の問題も、最近は妊娠中に遺伝子を調べて健康な子供かどうか確かめた上で生めば解決できるのだから。また100人の人間が愛し合っていますといって「結婚」してお互いの扶養家族となって減税の対象となるなどということも大いにあり得る。
結婚がどういう形でも許されるということになれば、結婚による特別な関係は意味のないものとなる。これまで結婚といえば一人の女性が一人の男性とお互いに忠誠を誓い合って一緒に子供を生んで育てていこうという覚悟で結ばれるものであった。それが誰とでも何人とでもただ一緒にいることが結婚だとするなら、結婚そのもの意味は失われる。西洋社会の基盤となってきた両親がいて子供がいてという家族単位も破壊される。そんな意味のないものを特にする必要もないので、「結婚」などする人は極端に減るだろう。そうなれば子供を生み育てるのはいったい誰の責任となるのだ?
ただでさえ少子化のすすむ文明社会で結婚そのものがなくなったら、これは種の存続にも関わる危機ではないか?
家族を破壊するジェンダーフリー全体主義
どっかの左翼変態フェミニストが「個人主義を徹底させるのがジェンダーフリーでしょ」などと大嘘をついていたが、個々の性別を無視することで個人が尊重されるなどナンセンスである。
ファシストのムッソーリーニにしろ、ナチスドイツにしろ、共産主義の旧ソ連にしろ、これらの独裁政権は常に「個人の自由」だの「独立」だの「平等」だの奇麗ごとを言っては国民を騙してきた。ジェンダーフリー推進者も「自由」「平等」「個人主義」など耳障りのいい言葉を使いながら、実際には恐ろしい全体主義のジェンダーフリー思想を我々に押し付けようとしているのだ。その証拠にジェンダーフリーが適用される時にはかならず全体主義の形で適用されている。左翼変態フェミニストたちの二枚舌に騙されてはならない。
全体主義の独裁政権は常に伝統的な家族構成を破壊することで個人から自由を奪ってきた。親の権限を取り除くことで、政府が親代わりをしようというのである。全体主義政権において子供の洗脳は必要不可欠である。だから男女共同参画が学校教育の場で始まったというのは大いに納得がいく。
教育界においてジェンダーフリーがどのように適用されているのか、作家の長尾誠夫氏が書いているサイトから少し紹介しよう。
長尾氏は、このエッセーのなかで小中学校における学校教育がいかに伝統的な家族構成を敵視しているかを例をあげて述べておられるが、家族と専業主婦への敵視と題されるこれなどは本当にひどい。

中学ともなると、その内容も多岐にわたるようになる。(以下、『ジェンダーフリー教育』明石書店より)

ある中学の家庭科教師は、教科書に家族団欒の光景が載り、「家庭は共同生活を営む場で、家族が安心して毎日の生活を送り、明日への活動力をつくりだす場でもある」(開隆堂)とあることから、両親がそろっているのが当たり前で、そうでない家庭の子供に対する差別や偏見が生じると思い、様々な家庭があることを認識させるために、深江誠子という人の手記を読ませた。
深江氏は「五歳で生母と死別し、その後母が三人も変わり、恩義を受けた三番目の母が社会から冷遇されていたのを知り、被差別の立場にある人に関心を持つようになり、自らの子供を差別社会と闘わせるためにあえて私生児した」人である(手記より)。手記に言う。「私は自分の生んだ子を私生児にすることに何のためらいもなかった。私は家庭が波瀾に満ちていたからこそ、既存の結婚制度の欺瞞性を見抜く力を養われた」と。
深江氏がいかなる考えを持とうと自由だが、学校教育とは社会の仕組みや秩序を教えるのが基本であり、反社会的な考えを持ちこむのは禁物だろう。これでは既存の結婚制度や家族を否定しているようなものである。

このような教育を子供にすることが、両親は一夫一婦であるべき、子供は結婚した夫婦の間でだけ生むべきであり、私生児を生むことは自分達の道徳観に反する行為だと思っている親の権利はどうなるのだ?
また、例の左翼変態フェミニストのように性別を確定すること自体が性差別だという考えが横行するなら、学校の性教育で子供たちにセックスは好きな相手となら誰とでもしてもいい、結婚の相手は異性である必要はないと教えることになるだろう。宗教上の理由から同性愛は罪だと教えたい親の個人的な権利はここでも踏みにじられる。
ジェンダーフリーは個人主義を徹底させるだの個性をのばすなど、すべて嘘である。本当の目的は性別を無視することで伝統的な男女間の関係を破壊し、家族構成を破壊し、自由社会の基盤を破壊することにあるのだ。
最近はジェンダーフリーという言葉があらわす内容の恐ろしさが人々の間でも理解されるようになったため、その本来の定義を書き換えて実は全く別物であるかのように表現したり、別の言葉を使ったりしてごまかそうとする動きがある。
ジェンダーフリーが、いつの間にかジェンダーセンシティブとかジェンダーニュートラルとかいう名前に変わっても、読者の皆様、だまされてはいけない!彼等の目的は自由社会の破壊にあるのだということを一時たりと忘れてはならないのである!