トランスジェンダリズムを性自認至上主義とするのは単なる陰謀論なのか?

依田花蓮 (よだかれん)氏がツイッターで紹介していた『トランスジェンダーと陰謀論』というのがあったので、読んでみようと思う。記事自体は長くいくつかに別れているので、私もそれに合わせようと思う。

トランスジェンダー活動家(TRA)はやたらとTRA批評家たち(英語ではGender critical =GC)のことを陰謀論者だと否定するが、我々が、TRAの言う通りにしたら○○ということが起きる、と予言してきたことが常に現実となっている以上、彼等のいう陰謀論など全く意味がないとは思うのだが、まあ一応読むだけは読んでみよう。

この記事は全くトランスジェンダーについて無知な人たちのために書かれているため、知識溢れる拙ブログの読者諸氏にはたいくつな話が多い。なののでその部分は飛ばした。ただやたらと持って生まれた性のことを「出生時に割り当てられた性」と言ってみたり『性別(sex)』と『ジェンダー(gender)』は異なる概念ながらも複雑な相互作用の関係にある」(強調は原文のまま)などと言ってるのでまあ、後に何が続くのかは追って知るべしといったところだ。一応彼等のいうトランスジェンダーの定義は提示しておこう。

「トランスジェンダー」とは出生時に割り当てられた性別と自分のジェンダー・アイデンティティが異なる人のことです。逆に、出生時に割り当てられた性別と自分のジェンダー・アイデンティティが一致するなら「シスジェンダー」と呼びます。

トランスジェンダリズムは差別用語?

さて、この記事が問題にしているのは「トランスジェンダリズム」という概念だ。ちょっと前保守派ポッドキャスターのマイケル・ノールズが「トランスジェンダリズムは駆除されなければならない」と語ったことを「トランスジェンダージェノサイド」を訴えていると散々批判したTRAが居た。しかし概念を批判することと属性を批判することとは違う。

しかしこの記事では、トランスジェンダーという人々と概念とを区別するというのは単なる口実であって、トランスジェンダーの人びとをトランスジェンダリズムとすることで、トランスジェンダー全般を批判する口実に使われるようになったという。つまり「差別主義者の愛用ワード」になったと主張するのだ。

いやいや、それは話が逆だ。これは左翼リベラルの常套手段だが、彼等は自分勝手な言葉を作り出し、人々が良く分からないうちにその言葉が普通であるかのように広めてしまう。ところがその言葉が実際どういう意味を持つのかということを人々が理解し始め、その奥にある悪質な要素に気付き始めると「差別用語だから使うな」と言ってまた新しい言葉を使い始めるのだ。もしトランスジェンダリズムという言葉が腐敗してしまったとしたら、それをやったのはTRA当人たちである。

日本でも反トランス論者や団体の間で「“トランスジェンダリズム”」という言葉は用いられ、「性自認至上主義」という訳語をあてることもあります。それに、反トランス論者は「“トランスジェンダリズム”」を主張するトランスジェンダー権利運動支持者のことを「TRA」(「Transgender Rights Activist」の頭文字)と呼んで冷笑することがあります(強調は原文のまま)

これにも笑ってしまう。TRAとは単に「トランスジェンダー権利運動支持者」という意味であり、それが嘲笑されているとしたら、その種にされるような行動をしてきた方に責任があるのであって、嘲笑する側に責任を押し付けるのは話が逆さまである。また性自認至上主義はトランスジェンダリズムの訳語ではなく、TGイズムの性質を表現したにすぎない。そういう表現になったというのもTRA達が現実の身体性別ではなく性自認を常に優先する姿勢が顕著になってきたからだ。これも我々批評家が始めたことではなく、TRA自身が始めたことなのである。

記事ではその他にトランス批判派が使う「トランスセクシュアル」という言葉や、トランスジェンダーが性同一性障害を持っていないということをトランス批判派は武器に使っていると語る。

他にも日本では「自称にすぎない“性自認”は問題で、医者の診断である“性同一性”が望ましい」というような論調を反トランス論者が展開することがあります(松岡宗嗣;前述したとおり、「性自認」も「性同一性」もどちらも「gender identity」の訳語で意味は同じです)。言葉の意味を反トランス側に都合よく変容させて主導権を握り、トランスジェンダーを病気(精神障害)扱いに留まらせようという狙いが透けています。

この「『性自認』も『性同一性』もどちらも『gender identity』の訳語で意味は同じ」というのは嘘である。性自認は英語ではSelf ID(セルフID)と呼ばれており、性同一性違和はGIDとして区別されている。なぜなら前者は本人が自分をどう思っているかということだけだが、GIDというのは精神疾患の病名だからだ。我々がトランスセクシュアルとトランスジェンダーを分けるべきだと考える理由は片や性同一性障害という精神疾患に病む人と、片や単に自分は異性だと主張しているだけで身体違和など全く持っていない人たちとを同じように扱うのはおかしいからである。

もちろんそれをいうと世界保健機関(WHO)もGIDは病理枠から外しているとTRAたちは主張する。しかし、WHOがGIDを精神障害ではないとしたのは、GIDについて新しい医学的な発見があったからではなく、単に国際的なTRAの政治力に迎合しただけの話であり、実際に性同一性障害を持っている人々の精神状態が変わったわけではないのだ。

病気とただの概念を故意に混同させることにより、TSもTGも同じだとして常にGID当事者を表に立たせて「かわいそうな病人をいじめるな」とやるのが彼等の作戦なのだ。

「性自認の主張さえあれば女性スペースに入り放題」はデマなのか?

反トランス論者や団体は「性自認が女だと言えば、その人は女性スペースに入れてしまう。たとえ男性器を有している人でも!」と主張し、「“トランスジェンダリズム”」はそういう事態を引き起こす危険性があると語っています。

あまり知識が無い人であれば「そういうものなのか!」と不安に駆られそうな、いかにも絶妙に恐怖を煽りたてる主張なのですが、これは専門家や弁護士が説明しているとおり、事実ではありません立石結夏松岡宗嗣)。

と言いながら、なんとこの記事ではすでに現状でもトイレはきちんと身体の性別で分けられているのではないと主張する。

現状は違います。あなたはトイレに入るとき、出生時に割り当てられた性別をチェックされたことはありますか? 性別の記載のある身分証明書の提示を求められたり、ボディチェックされたりしましたか? ないはずです。

この間も依田花蓮氏がツイッターで、もうすでにあなたの隣でもトランスジェンダーの人がトイレを使っているかもしれませんよと言っていて、私はそれって脅迫に聞こえますけど、と答えたばかりだ。

現在トイレは身体の性別で分けられているというのが原則であり、その規則に違反してもばれていない人がいるからトイレは事実上男女共同なのだなどという理屈が何故通ると思うのか?こんなことを言うから実際に性別適合手術を受けて女性として埋没しているGID当事者までもが批判のやり玉に挙げられてしまうのだ。当事者が生きにくくなるようにしているのは誰なのだと聞きたい。

記事ではすでに女装男がの女子トイレ使用は行われているので、差別禁止法が通ったからといって「この既存のトイレの運用に変化はありません」などと言っている。もしそれが本当なら既存のトイレの運用には大問題があるのであり、これを是正すべきだという動きがさらに強くなるのではないか?

それからお風呂についても、「公衆浴場は日本の場合は身体的な特徴で区分することになっています」という、またまた彼等の常套手段であるお惚け理論が繰り広げられる。我々は現在の法律上どうなっているかなどということは語っていない。もし性別が性自認で決められるということになったら、こんな規則は全く意味がなくなると言っているのだ。記事ではリベラルな埼玉県の条令ですらも風呂は戸籍上の男女で分けていると主張するが、その戸籍上の男女ですら性自認のみで変えられるようにしようと運動しているのがTRAではないか?全く彼等のいうことは不誠実このうえない。

「性犯罪者が“自分はトランスジェンダーだ”と主張すれば罪に問えない」というのは嘘なのか?

性犯罪者が「自分はトランスジェンダーだ」と主張すれば罪に問えない…ということもありません。なぜなら性別やジェンダーに限らず、性犯罪行為をしたらそれはもう性犯罪だからです。性犯罪の判断は性別やジェンダーで決まりません。性犯罪目的でトイレに侵入した時点で、誰であろうとそれは性犯罪です。

これも言い尽くされた詭弁だな。今現在は異性施設に入ること自体が犯罪と見なされている。日本では異性施設に入ること自体は性犯罪ではないが、覗きや露出は犯罪である。だが性自認で異性施設に入ることが合法になれば、髭ずら胸毛男が女児の前で勃起した一物を見せつけても犯罪と見なされないのだ。つまり覗き魔や露出狂が「『自分はトランスジェンダーだ』と主張すれば罪に問えない」のである。

そして記事はアメリカの黒人と白人のトイレが分かれていた制度を持ち出し、女子供を守るためというのは差別者が好んで使う口実であり、実際に起こり得る(いや、すでに起きている)トランスジェンダリズムの弊害を指摘することは、「むやみやたらに恐怖を煽る」行為であり「脆弱な被害者の心に付け入る」行為であり「虐待的な行為に他ならない」と締めくくる。

トランスジェンダリズムの狂気とその害毒はすでに顕著になっており、それを指摘することは陰謀論でも何でもなく、社会の秩序を守りたいと思う我々一人ひとりの責任である。

第二部へ続く。


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大悪評の歌舞伎町タワー男女共同トイレ、苦情殺到で遂に男女別に改装へ!だから言ったじゃないの!

いやあ爽快な記事を読んでしまった。

歌舞伎町タワーのジェンダーレストイレ、ついに改修へ 暫定的に女性用に仕切りも設置

5/19(金) 18:34配信82

施設のジェンダーレストイレ

 東京・新宿の複合高層ビル「東急歌舞伎町タワー」で物議を醸したジェンダーレストイレについて、施設側は、一部を女性用トイレに振り分けていたが、元々の女性用と合わせてトイレに暫定的な仕切りを設置したことが分かった。 【写真】結局、仕切りで女性用が分けられた  

トイレを巡っては、使いづらいとの声が相次いでおり、施設側は、そのことに配慮したと取材に説明している。そのうえで、「更にお客様に安心してご利用頂けるトイレを目指し、今後改修工事を実施する予定」であることを明らかにした。

■仕切りには、「仮設のパーテーション」と表示  歌舞伎町タワーは、2023年4月14日にオープンし、2階には、性別に関係なく利用できるジェンダーレストイレの個室が5基設置された。  同じ空間には、ジェンダーレストイレに向かって右側に女性用トイレが5基、左側に男性用トイレが2基あり、手洗い場も共用とされた。さらに、多目的トイレが1基あるほか、男性用の小便器は別の空間に配置されていた。  

しかし、ネット上では、数種類のトイレが同じ空間にあって使いづらいとの声が相次いだほか、性犯罪などの危険を指摘する声も出ていた。特に、女性からは、トイレは別の空間にしてほしいとの声が強かった。  これに対し、案内のために警備員が配置されたとネット上で報告され、施設もそれを認めた。そして、施設では5月初めごろ、ジェンダーレストイレの3基を女性用に振り分ける措置を取ったことが新たに分かった。また、フロアガイドに書かれたジェンダーレストイレが単純な「トイレ」に表記変更されているとの情報もあった。  

その後、5月16日になって、ジェンダーレストイレの前付近に仕切りが設けられ、右側の女性用を分けていたとして、ツイッター上に写真が投稿された。それを見ると、仕切りには、「仮設のパーテーション」と表示されていた。  この投稿は、1万4000件以上「いいね」が付けられており、様々なリプライが寄せられている。

「安心してご利用頂けるトイレを目指し、今後改修工事を実施」

 「これは良い試み」と評価する声が出る一方、「これでも万全とは言えない」「もう作り直せば?既存の男性用と女性用にして」といった意見も相次いでいる。  今回の仕切りについて、施設側は5月19日、J-CASTニュースの取材に対し、トイレについて改善を何度か重ねたとし、「お客様からの多くのご意見を踏まえ、女性トイレ利用エリアを、暫定的にパーティションで区画することにいたしました」とメールで説明した。  男性用トイレと同じ空間にあるジェンダーレストイレの2基については、そのまま残したことも明らかにした。  仮設のパーテーションではなく、トイレを改装して男女別に壁を作るべきとの声も、ネット上では多い。  この点について取材すると、具体的な内容は分からなかったものの、「更にお客様に安心してご利用頂けるトイレを目指し、今後改修工事を実施する予定でございます」と明らかにした。

要するにこのジェンダーレストイレの試みは大失敗に終わり、従来通り男女別トイレに改装されることになったというわけ?

いったい誰の素晴らしいアイディアだったんだよこれは?Whose bright idea was this?

こうなることは作る前からわかりきっていたことではないか。最初から女性達は共同便所なんか求めていなかったし、普通の男性達も女子と共同なんて嫌だと思っていた。喜んでいたのは痴漢や売春目当ての売春婦やその客たちくらいだろう。

正直言って今度のことは話題になったおかげで男女共同便所が如何に時代遅れでバカげた考えであるかがはっきりした。そういう意味では少なくとも試すだけの甲斐はあったのかもしれない。私は何度も繰り返し言っているのだが、既存のやり方を変えようとする前に、そもそもどうしてそういうやり方が導入されたのかということをよくよく吟味してから考えてほしい。東急はこんなことに経費を浪費したことを十分に反省してもらいたい。


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大企業のお目覚めキャンペーンにうんざりの消費者たち

ミラーライトビールもやっていたお目覚めコマーシャル

もう一か月近くに渡って、女の子何日目キャラ男のディラン・モルベイニーと提携したバドライトビールのボイコットが続いており、その勢いは収まりそうにない。しかしそんな中、バドライトのボイコットで漁夫の利を得ている競争相手ミラーライトも実は3月にバリバリのお目覚め主義フェミニストCMを作っていたことが発覚さらにミラーライトの親会社クアーズ社は、このCMをどさくさに紛れてこっそり消していたことが判明し話題を呼んでいる。

このCMは特に綺麗でもない女性コメディアンがビール醸造の歴史には女性が深くかかわってきたに関わらず、ビール産業は常にCMにビキニ姿の女性を起用して女性をバカにしてきた。女性農家を助けるために古いポスターなどを肥料に回すので寄付してくれといった内容で。なんども肥料と言う意味で「糞」「糞」と連発する気持ちの悪いものだった。

ビールのコマーシャルにビキニ姿の美女が起用されるのは、ミラーライトのような安くてがば飲み専用の低級ビールを飲むのは主に労働階級の男性だからであり、男性が観たいと思うCMでビールを売るというマーケティングは当たり前の行為である。ミラーライトもバドライトと同じで自分らの顧客層を完全に侮辱するコマーシャルを作っていたというわけだ。

もしバドライトの炎上が無ければ、ミラーライトのこのCMは多分誰も気が付かないうちに消えてしまっていただろうが、バドライトの影響でこちらの糞CMも当てられなくてもいい注目を浴びてしまったというわけだ。

バドライトをボイコットした人たちがミラーライトもボイコットするかどうかは不明だが、バドにしろミラーにしろ、代わりはいくらもあるので、消費者たちがボイコットしようと思えば簡単にできるだろう。

アディダス女性用水着のモデルはもっこり男子

6月はプライド月間ということで大企業はこぞってプライド関係の商品を売り始めたが、はっきり言って今年ほどそれが顕著に表れた年もない。スポーツ商品のアディダスは何と女性用水着のモデルに胸毛に股間もっこりの痩せた醜い黒人男性を起用。何故女性用水着を明らかな男に着せるのだと苦情が殺到している。

女性用水着を着る股間もっこりのモデル

この話を誰かとしていて、プライド月間というのはLGBTQ+αなのだからモデルはレズビアン女性でもよかったはず、どうしてわざわざ男に女性用水着を着せる必要があるのかという話になった。プライド月間にはL=レズビアンは含まれないようだ。

これにたいして元大学女子水泳チャンピオンのライリー・ゲインズは、

なぜ企業は自らこんなことをするのか分からない。少なくとも水着はユニセックスだということも出来たはずなのに、そうしないのは女性を抹消することに意味があるからだ。でもなぜその逆はないのだろうか?

女性用水着はもっこりのアクセサリーじゃない。

ターゲットの子供用トランスジェンダー水着

なんといってもこれが一番唾棄すべき話だが、大型小売店のターゲットはこれまでもユニセックス更衣室だのトイレだのを早々に導入したことで悪名高いが、今年はわざわざ店の真ん中にプライドコーナーを設け、そこで子供用のトランスジェンダー水着や下着が売られているという。

まず男児のトランスジェンダー用に、女の子用デザインの水着におちんちんを隠すポケット付きのものがあるんだそうだ。思春期の少女のためには乳房を押しつぶすバインダーも売られている。

なんでこした大企業は子供を洗脳するのに必死なのだろうか?

モルベイニーのとばっちりで仕事依頼が減るトランスジェンダー活動家

モルベイニーのせいでボイコットされているバドライトのあおりを食らったのかどうかわからないが、プライド月間における仕事の依頼がめっきり減ったと嘆くドラアグクィーンがいる。ローズ・モントヤという自認女性の男性パフォーマーは毎年この季節になると何十件という案件のオファーが来るのだそうだ。ところが今年は5月ももう半分を過ぎたというのに依頼は1ダースにも満たないという。

企業がプライド月間に力を入れるのは、どれだけ自分らがWOKE(お目覚め主義)であるかをアピールして商品の宣伝に使うことが理由だが、それがバドライトのような逆効果になってしまう例もある。それに気づいた中小企業はもしかすると、あまりにもトランスジェンダーに入れ込むのはいい商売ではないと気が付き始めたのかもしれない。

アップデート:6/13/23 この男は昨日ホワイトハウスのプライド祭りイベントに参加し、上半身裸になって胸を揉みしだく仕草をして自分のTikTokにアップした。ホワイトハウスはこれは不適切な行為としてモントやら数人のトランス参加者をホワイトハウスから出禁にした。ホワイトハウスは何を今更驚いているのだ?保守派の我々はプライドの集まりでは必ずこういうことが起きるから、子供がいる場所でのプライドイベントは違法にすべきだと言って来たのだ。バイデン政権は自分らがなにを支持しているのか少しはわかったのだろうか?

人々の反感を感じ始めたトランス活動家たち

最後に、LGBTQ+αへの暴力が激化しているという記事を紹介しておこう。私は彼等への暴力など起きていないと思っている。トランスジェンダリズムに関する保守派の集会や女性空間を守ろうと訴える女性達の集会に、徒党を組んで武装して集まり、集会を阻止しようと暴力を振るうのは常にトランスジェンダー活動家とそのアライ達であり、その反対は先ず聞いたことがない。しかしLGBTQ+αべったりのバイデン政権国土安全保障省によると、LGBTQ+α界隈を標的とした暴力が増加しているので警戒するようにと警告している。

ま、今アメリカで一番危険なテロ集団は白人至上主義だなどとアホなことを言っているバイデン政権の言うことなので全く信用はできない。

LGBTQ+α界隈らのいう「暴力」とか「暴力の扇動」というのは、実際の暴力ではなく、アメリカ各地の州で次々に通っている反LGBTQ+α法律のことであり、その内容は教育の場における子供たちへの洗脳、子供対象の性転換医療措置や子供対象の性的なドラアグショーの禁止と言ったものである。これらの法律は決してLGBTQ+α当事者への暴力を扇動するものではない。

しかし活動家たちがヒステリックに騒ぎ立てるのは、彼等も一般市民からの反感を肌で感じているからではないかと思う。これまでのように自分らの勝手な言い分が何の抵抗もなく通ってきた時代は終わったのだ。


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時代劇や史実番組で行われる人種挿げ替えがもたらす危険

先日ご紹介したネットフリックスのクレオパトラシリーズの放映が遂に始まったが、RottenTomatoesという批評家と視聴者の反響を示す指標では、批評家11%、視聴者2%というRT史上最低の結果が出た。これはつまり、観た人ほぼ全員がこの番組に悪評価を下したということになる。この番組は放映前からクレオパトラをアフリカ系黒人が演じているということでかなりの批判があり、特に現エジプト人からなぜエジプト系やギリシャ系の女優を使わなかったのだと不満の声が上がっていた。

Netflix’s ‘Queen Cleopatra’ docuseries slammed by both critics and audience for being historically incoherent

Netflixのアデラ・ジェイムス演じるクレオパトラ

ローマやエジプトの古代歴史に詳しいユーチューバー(多分ギリシャ系)の話を聞くと、北アフリカ系黒人は主役のアデラ・ジェイムスだけでなく、エジプト人とされる人々の役は全てアフロ黒人が演じているという。当時のエジプトの支配階級はマセドニア人(現在のギリシャ)であり、アフロ黒人ではない。なぜエジプト王家の話なのにエジプト系俳優が一人も起用されていないのか、とそのユーチューバーは怒っていた。

Elizabeth Taylor as Cleopatra in the 1963 epic drama film directed by Joseph L. Mankiewicz.

Elizabeth Taylor as Cleopatra in the 1963 epic drama film directed by Joseph L. Mankiewicz.

しかしエリザベス・テーラーがクレオパトラを演じた時は人種が違うなどという批判はなかったではないかという問いに対して、エジプト人芸人Bassem Youssefはハリウッドは昔からそういうことには無頓着であり、当時のエジプト人もそれがいいと思っていたわけではないと語っていた。しかし、そういう彼の顔立ちは、中東系とはいえイタリア人やギリシャ人と言っても通用するヨーロッパ系に見えるし、肌はどちらかと言うと白人に近く目は青い。今のエジプト人でもこうなのだ。古代エジプトのマセドニア人であったクレオパトラがエリザベス・テーラーとアデラ・ジェイムスのどちらに似ていたかと言えば、明らかにテーラーの方に似ていたはずだ。

Bassem Youssef

Photo courtesy of Mustapha Azab Bassem Youssef

拙ブログでも何度かお話しているように、昨今のハリウッドやイギリスのドラマにおける人種挿げ替えの勢いは凄まじい。リトルマーメイドやティンカーベルのような架空のファンタジーキャラクターなら人種などどうでもいいという理屈も通るかもしれないが(通らないと私は思うが)、時代劇など史実を元に実在した歴史上の人物で肖像画などからその容貌が広く知れ渡っているような人たちですら黒人が演じるという本当におかしな状況になっている。

つい先日も、ウィリアム・F・バックリーJr.(1925ー2008)という1955年にナショナル・レビューを設立した保守派作家の役を黒人が演じているお芝居のコマーシャルを観た。彼は1950年代から2008年に亡くなる寸前までテレビなも多く出演しており、その教養あふれる上流階級人らしい彼独特の話方に関しては、まだまだ記憶に新しい人々が多く居る。彼の友人だった保守派の人びとも未だに作家や評論家として活躍しているわけで、全くイメージの違う人を配役することの意味がわからない。私の今は亡き我が友人はバックリーと面識もあり、彼の物真似が非常にうまかった。

しかし問題なのはイメージが違うなどという表面的なことだけではない。ほぼ単一民族だけの社会ではよそ者を忌み嫌うのはごく普通である。だいたいつい数十年前までどんな社会でもよそ者差別は普通だった。海岸沿いで貿易港などがあり諸外国の人びとが入り混じる都市ならともかく、小さいコミュニティーでは誰もが何世代も前からの知り合いだ。だからよそ者を警戒するのは当然の’話だ。

それと昔の社会はどこの社会でも階級制度というものがあった。自分らが付き合う相手は同じ階級のものだけであり、ましてや結婚などということになれば位が高ければ高いほど相手の家柄を選ばなければならない。位の違うひとたちとの付き合いは同じ階級の人びととのそれとはまるで違う。身分の違うもの同士の対等なつきあいなどというものは存在しなかったのである。

そういう社会を背景にした物語で、全く違う人種や階級の人間が、あたかも対等であるかのように自然な付き合いをする描写があった場合、歴史を良く知らない観客は昔の欧米社会についてどんな印象をもつだろうか?何も知らない観客は中世のイギリスやフランスの宮廷には普通にアフリカ系黒人の貴族が出入りし、貴族も商人も農民もみな同じようにふるまい、諸外国からの移民で街は溢れかえっていたと思ってしまうのではないか?だがそうだとしたら、当時全く文化の違う諸外国からの移民がヨーロッパの宮廷でヨーロッパ人と同じようにふるまうだけの教養を持っていたということになってしまい、当時の中東アラブの奴隷商人やアフリカ大陸からの黒人奴隷らの存在はかき消されてしまう。

つまり史実上の人物や当時の社会を無視した人種挿げ替えは当時の社会構成や文化全体を否定することになり、欧州及びアフリカや中東の歴史まで書き換えてしまうことになるのだ。

今の世の中でも人種差別が消えたわけではない。いや、それどころか人権屋が常に現社会の人種差別について声高に訴えている。しかし、ドラマの世界を信じるならば、中世や近代歴史の欧米で多人種が仲良く全く問題なく共存していたのに、昨今の人種差別は何時頃から始まったのであろうか、何故昔は人種差別がなかったのに突然現代になって人種差別が始まったのだ、そしてその原因は何なのだ?というおかしな疑問が生まれてしまう。よしんば昔から人種差別はあったと考えたとしても、ドラマの世界を見る限り、いまとそんなに違わない程度のものだったと判断せざる負えなくなり、欧米の人種問題は昔から全く変わっていないという印象を持ってしまう。実際はまるで違うにもかかわらずである。

それともうひとつ、昨今の人種挿げ替えはほぼ元の役が何人であろうと黒人が配役される。そして白人役を黒人が演じるのは構わないのに黒人役を白人が演じたら大問題になる。この間も書いた通り、現代のハワイ諸島民の役を実際のハワイ島民が配役されたにもかかわらず、役者の肌の色が白すぎると言って大騒ぎする黒人活動家たち。ハワイ諸島民はアフロ黒人ではなくヨーロッパの植民地時代が長く続いたせいで肌の色もまちまちであることなど完全無視。それでいて、非白人の有色人種(エジプト人)をあり得ない人種のアフロ黒人が演じることは全く問題がないと言い張り、当のエジプト人からの非難を「黒人差別だ」だとしてエジプト人ファン全般を侮辱するという傲慢さ。このままでいくと、そのうち「ショーグン」や「ラストサムライ」のリメイクが行われたら日本人役は全員黒人がやるのではないかとさえ思われるほどだ。

黒人俳優を多く起用したいというなら、黒人独自の歴史を語ればよい。近代の黒人英雄の遺伝はいくらもある。奴隷から政治家になったフレドリック・ダグラスやジム・クロー時代に育ちながら最高裁判事にまでなったクレアランス・トーマス判事の話など探せばいくらでもあるはず。なぜ他民族の歴史を乗っ取らなければならないのだ?何故他人の創造物を破壊しなければならないのだ?

今回のクレオパトラシリーズの大不評が良い例であるなら、今後このような人種挿げ替えはどんどん拒絶されていくだろう。そうなって反感を買うのは単に与えられた仕事をしていた黒人俳優たちのほうである。

追記:これを書いてからクレオパトラのプロデューサー、ジェダ・ピンケット・スミス(ウィル・スミスの悪妻)は、クレオパトラの失敗は白人至上主義のせいだと言っているという記事を見つけた。Jada Pinkett Smith claims her Cleopatra documentary FAILED due to WHITE SUPREMACISM (msn.com)。苦情の多くは非白人のエジプト人からなのに、なんでもかんでも白人至上主義の性にするな!歴史的にも間違いだらけの駄作を作った責任をちゃんと取るべきである。

ネット仲間のBlahさんがおもしろい動画を紹介してくれてるので張っておく。(5) 🇺🇸 🇯🇵Blah on Twitter: “ポリコレ改変が大好きなNetflix、今度はシャーロット王妃を黒人にして炎上。 シャーロット王妃黒人説は一部で根強く、原作者も賛同も、歴史家はこの説を強く否定。奴隷制廃止前に黒人系王族は無理があると批判の声。 ↓リプ欄で恒例のポリコレ映画ミーム集 https://t.co/PAqdaduhUg” / Twitter


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お爺ちゃん日記④(2021年8月、9月)

8/1/21

お爺ちゃんがお昼寝してる間にスーパーに行ってくるね。ついてこられると面倒くさいから。「カカシ!わしも行く!」あ、起きちゃったのか。大丈夫ちゃんとお爺ちゃんのリンゴも買ってくるから。「ダメじゃ!お前ではよいものが選べん。」もう完全に駄々っ子になってる爺さんである。

お爺ちゃん、このスーパー袋に詰めてくれないからレジ通ったら、さっさと買い物袋に入れてね、そうしないと後の人のと混ざっちゃうから。出来る?「出来る」よしと思ったらお爺ちゃんの叫び声。どうしたの?「リンゴの袋が破けて床に全部落ちた!」あ、やっぱり、、

「リンゴが三つも傷んでおった」自分で選んだんでしょ。「レジで落ちた時に傷んだのじゃ」一つの袋につめこみすぎたからでしょ。「お前がせかすからじゃ!」決して自分が悪かったことを認めない爺さんであった。もう絶対についてくるな!

8/4/21

お爺ちゃん「しっしっ、あっち行け!」お爺ちゃん何やってんの?「猫がじゃれついてきたんじゃ。わしは猫アレルギーなんじゃ!」それ犬だけど、、「そうか?」そうだよ。「こんなちっこい犬がおるか!」それ近所の家のスピッツだよ。「そうなのか、愛い奴じゃ、こちょこちょこちょ、、」脱力。

8/4/21

スタバにて、お爺ちゃんコーヒーの蓋がちゃんと閉まってないよ、そのまま飲んだらこぼ、、、「あちちちち!」ほらこぼした。「この店は蓋もちゃんと閉めんのか!」蓋あけたのは自分でしょうが。

「わしのシャツはどうした?」シミになるから水に浸してあるよ。「じゃあシャツが着れないのか」他のシャツ着といてよ。「あれは水曜日のシャツなのじゃ。」木曜日のシャツ着ればいいじゃない。「そしたら木曜日はどうするんじゃ。」金曜日のシャツ着れば?「そしたら、、」うるさい!裸でいろ!

8/8/21

ただいまあ~。お爺ちゃんが興奮気味「カカシ、バイデンはワクチンパスポートを実施しかねんぞ、フロリダ知事は頑張っとる!ギャブン・ニューサムは弾劾決定じゃ!」え?何?なんとお爺ちゃんは一日中保守派ポッドキャストを聴いていたらしい。え~なんでそんなこと理解できるのお~?

8/9/21

ベトナム系の同僚と研究室で二人きりになった途端、彼女の普段の不満爆発。私が保守系と知っているので遠慮なしにバイデンや民主党議員達への不満吐露。欲求不満貯まってるのよねえ。誰かが部屋に入ってくるや、突然話題偏向。「お爺ちゃん元気?」うんまあね。

8/11/21

お爺ちゃん、なんか買って帰ろうか。「この道をまっすぐ行け」え?なんで?「ブラジル風串焼きの店がある」この道来たの何か月ぶり?なんでそんなこと覚えてるの?「ホノルル通りに差し掛かったら左じゃ。」なんでそういうことだけは覚えてるんだ?

ブラジル料理とあったのにウエイトレスは韓国人のおばちゃんだし、韓国風焼肉メニューとかあるので、なんだ韓国人経営の偽ブラジル料理じゃんと思ったら、家族連れの東洋人客が、おばちゃんに自分たちはブラジルから移住してきたんだよと英語で話していた。

「え?うちの大将もブラジル移民なんですよ」とおばちゃん。奥から韓国人の大将が現れ、家族連れとポルトガル語で話が弾み、歌まで歌って大盛り上がり。お爺ちゃん「言ったじゃろ、ここは生粋のブラジル料理店なんじゃ」脱帽!

8/12/21

お爺ちゃん「ない、ない、あれがない!」何がないの、「あれじゃ、あれじゃ、」また始まったよ、お爺ちゃんの「ない、ない」が。お爺ちゃん、眼鏡してないから見えないんでしょ。眼鏡はどうしたの?「眼鏡じゃ!眼鏡がないんじゃ!」もう!

8/24/21

お爺ちゃん、夕飯まで一時間くらいかかるから、なんかビデオでも観といてよ。「持ってるビデオは全部観た」でも昔の観れば?どうせ忘れてるんだから。(心の声)「わしはこれは観たことないぞ!」でしょう、だから言ったじゃん。

8/14/21

お爺ちゃんお気に入りのイギリスドラマ。みんなで5シーズンまで観たのだが、今朝起きたら6シーズンが全部終わってる。え?まさかお爺ちゃん徹夜して全部みちゃったの?

8/19/21

スタバにてお爺ちゃん「なんじゃこのコーヒーの味は!」ごめんスプレンダ切らしちゃったんだって。でも黒砂糖三杯入れといたから「味が違う。飲めん!」どうしてそういうことだけは解るのかね、面倒な爺さんだ。

8/21/21

お爺ちゃん、良かったね。脚はよくなってるって。もうセラピー通わなくてもいいんだって。うちで運動続ければいいからね。「もう来ないのか」良かったね~。「木曜のメキシカンはこれが最後なのか?」いや、今夜は寄るとは言ってないんだが、「最後のマルガリータじゃな」それしか頭にないの?

8/23/21

お爺ちゃんが一人でスタバへ行ってしまった。心配だなあ。

未だに電話がかかってこないところを見ると、1)ちゃんとコーヒーが買えた。2)買えなかったので諦めて帰途につく、3)帰途についたが道にまよってさまよっている。3)でないことを祈る。

お爺ちゃん「ただいま」お爺ちゃん大丈夫だった?コーヒー買えたの?「いつもの子がおらんで、要領が悪くて往生したわい」でも大丈夫だったの?「スプレンダも切らしとって役にたたん奴らじゃ」でも大丈夫だったのね?「わしが物分かり良いからいいようなものの、、近頃の若いもんは、、」安堵。

8/26/21

お爺ちゃん、テレコンやってるからここでユーチューブ観ないでよ。「はん?」これから私のプレゼンだから音消して!「はん?」消せつってんだよ!会議「カカシさん、ミュートになってませんけど、、」きゃああああ、、、

8/27/21

お爺ちゃん大好きなベーコンバーガーだよ「もう要らん」四分の一も食べてないじゃん「もういい」じゃマテイーに飲んで寝る?「要らん、暑苦しい」え~?冷房効いてるのに?熱あるんじゃないの?「もう寝る!」まだ8時前なのに?「かまうな!」なんか心配だなあ。

8/28/21

今朝おきたお爺ちゃんはケロッとしていた。どうやら昨日は日中に散歩に出て多少熱中症になったらしい。昼間の散歩は控えるようにいっておかないとな。今は夕飯の残りのバーガーにかぶりついているので大丈夫だろう。

9/9/21

お隣の旦那さんがドアをノック。「今お爺ちゃんが一人で歩いていくのを見たけど、大丈夫?」あ、大丈夫ですスタバまで一人で何度も行ってるんで。「そっか、ならいんだけど、時々迷子になるってカカシさん言ってたし」どうもご心配おかけしまして。良いご近所さんでよかった。

9/13/21

お爺ちゃん、最後にお風呂はいったのいつ?「二日前」嘘もっと前でしょ。せめて一日おきに入ってよ。「一週間に一回でいい」ダメよ、そんなの。今日入んなさい。「いやじゃ」今日入ればあと一週間入らなくて済むよ。「そっか?」うん。明日も同じことを言ってやろう。

9/17/21

お爺ちゃん「カカシ、仙台に連れて行け」えええ?何突然?「朝市で串焼き食べたい」どうして仙台なの?と思ったら、私が好きなイギリス人Jブロガーの食レポを一緒に観て感化されてしまったらしい。「連れて行け」いや、だから仙台って、、リトル東京で誤魔化せるかな?

9/2/21

お爺ちゃん、家のなかでパンツ一丁で歩き回らないでよ。「何故じゃ?」みっともないからよ。室内用のショートパンツ買ってあげたでしょ。「わずらわしい」煩わしくても履きなさい!「何故じゃ!」あんたのケツなんぞみたくないからだよ!

9/22/21

お爺ちゃん「ワギュウビーフのステーキ作れ」は?「ワギュウの鉄板焼き作れ」はは~ん、また日本住まいのイギリス人ブロガーの食レポみたでしょ。あの人にはスポンサーがついてるの。だから高価でおいしいものをいくらでも食べられるの。アメリカ庶民と一緒にしないでよ。「じゃあ仙台に行こう」溜息。

9/24/21

お爺ちゃん「冷たいコーヒーってあるのか?」うんアイスコーヒーってあるよ。「頼んでくれ」今度自分で頼めばいいじゃない?「あの馬鹿店員は何もわからんからダメじゃ」お爺ちゃん語は最近難しくなってきたからなあ。一緒に行ってたのんであげようか?「うむ!」じゃお隣の床屋に最初に行こう!

9/26/21

お爺ちゃん、明日血液検査だからお夕飯の後は何も食べちゃだめよ。「オリオクッキーもだめか?」駄目!「リンゴはいいか?」駄目!「ビールは」ダメだってば!「トイレに行ってもいいのか?」トイレと食事は無関係でしょうが!「風呂は?」あなたわざとやってる?風呂入れ~!

9/27/21

看護婦さん「はい、最後にこのカップに尿を取ってきてください、このワイプで拭いてこうしてああして、、お爺ちゃん分かりましたか?」お爺ちゃん「カカシ?」駄目、そこまでは付き合えないよ、自分でやって頂戴!

真剣な話、お爺ちゃんが自分でトイレに行けなくなったら介護施設だかんね。私は面倒みんよ。義妹が何かあったら言ってねとかいうけど、ほんじゃあんたが面倒みてくれるの、とか聞けないしなあ。


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ドラアグクィーンがクールだった頃のミュージカル、キンキーブーツ

ミュージカル無料視聴期間の最後に観たブロードウェイミュージカルはキンキーブーツ。実はこのミュージカル、数年前に日本で今は亡き三浦春馬さんの主演で日本では大好評を得た作品。私がこの作品を知ったのも三浦さんが亡くなったというニュースを聞いた際にユーチューブで上がってきた動画を見たことによる。最近は城田優さんが主演で再演されている。

もととなったのは2005年に公開された同題のイギリス映画だが、その元の元は1999年に放映されたBBC2のドキュメンタリーシリーズで取り上げられたスティーブ・ぺイトマンという経営不振で傾きかけていた靴工場の経営者が男性用のブーツを製造し始めて成功したという話である。

今回私がみたのは2015年のロンドンのウエストエンド版だ。

ではあらすじ:日本語版ウィキペディアより

チャーリー・プライスはイギリスの田舎町ノーサンプトンの伝統ある紳士靴メーカー 『プライス社』 の跡取りだったが、周囲の重圧に耐えかね、転勤を機にロンドンに移住することを計画していた。

しかしロンドンに到着したその日に父の訃報が届き、『プライス社』 を継ぐことになり、しかも社の財政状況が火の車だということを知る。在庫の処分のためロンドンへ出張中にやけ酒を食らった勢いで、酔っ払いのチンピラに絡まれている美女を助けようとしたが、逆に美女に誤って叩きのめされてしまう。目が覚めるとそこは不作法なドラァグ・クイーンのローラ、本名サイモンの楽屋であり、その人物は桟橋で踊っていた少年の成長した姿であった。ドラァグ・クイーンには専用の靴がないため仕方なく女性用の靴をはいているが、ハイヒールは男性の重く大きな体を支えきれずに簡単に壊れてしまうことにチャーリーは興味が湧く。

ノーサンプトンに戻ったチャーリーは人員整理をしている最中、クビにしようとした社員のローレンに「ニッチ市場を開拓しろ」と捨て台詞をはかれる。そこでチャーリーはローレンを顧問として再雇用し、ローラのためのハイヒールのブーツである『女物の紳士靴』 の開発に着手し、そこにローレンの言うニッチ市場を見出す。しかし最初のデザインは機能性を重視するあまりにオバサンくさいブーツに仕立ててしまい、ローラを怒らせ、チャーリーとローレンはローラをコンサルタントとして迎える。しかし道は険しく、男性従業員の多くはローラの登場と新商品製作を快く思わず、チャーリーも婚約者のニコラとの関係がぎくしゃくし始め、「工場を売ってしまえ」と責められる。

ローラの意見を取り入れ、『危険でセクシーな女物の紳士靴 (Kinky Boots)』 を作り上げたチャーリーは、ミラノの靴見本市に打って出る決意をするが、ローラを含む多くの従業員に重労働を強いたため彼らは出て行ってしまい、事態は悪化する。-あらすじ終わり

このミュージカルで一貫して流れているのは、工場の跡継ぎとして父親から期待されていながら、父親生存中は父の事業に全く興味をしめさず父親を失望させていたチャーリーと、息子を男らしく育てようとした父の期待に沿えずに女装パフォーマーになったローラとの共通点だ。二人とも父親を失望させてしまったという負い目を背負って生きている。

この話は1990年代のイギリスの労働階級地域が舞台となっている。LGBTQ+活動が盛んな今のイギリスからは想像がつかないが、当時のイギリスはまだまだ同性愛者に対する偏見が強くあった。特にドラアグクィーンなどはロンドンなどの都会の一部では受け入れられても、ノースハンプトンのような労働階級の街ではなかなか受け入れてもらえない。いくら工場を救うためとはいえ、伝統的紳士靴を作ってきた工場で女装男性用の靴を作るなど工員たちの間で抵抗があるのは当然である。マッチョを自負している工場の男たちが女装姿のローラを見下げる姿を見ていると、まだほんの30年ちょっと前でもこうした差別意識はあったんだなと改めて感じさせられる。

さて、ローラはドラアグクィーンなので、ドラアグショーの場面が結構でてくる。ローラと彼の背後で歌ったり踊ったりするバックアップらの演技は観ていてとても楽しい。シンディー・ラウパーの曲も一緒に踊りたくなる。

ローラ役のマット・ヘンリーは全く美男子ではない。だが歌はうまく、ドラアグクィーンとしての仕草が決まっていて自然だ。はっきり言ってこのお芝居には美男美女役が登場しない。皆ごく普通だ。そしてヘンリーは身体もがっしりしているのでドラアグ(女装)しても絶対に女性には見えないのだが、そこがいいところだと私は思う。ドラアグあはくまでも女装男なので、女性に見違えるほど美しくあってはならないからだ。

しかし私は特にチャーリー役のキリアム・ドネリーが良かったと思う。最初は頼りないがだんだんと責任感ある男に変わっていくが、ストレスが貯まって周り中に当たり散らすところも自然だ。そしてドネリーの歌は凄く言い。声に張りがあって非常に力強い歌声だ。

今ドラアグクィーンたちの評判はがた落ちだが、この頃のクールなドラアグクィーンショーに戻って欲しい。

ちょうど私が観たバージョンの動画があがっていたので張っておこう。

脚本はハービー・ファインステイン(Harvey Fierstein)作曲シンディー・ラウパー(Cindy Lauper)。主な配役は次の通り。

  • チャーリー・プライス:キリアム・ドネリー(Killian Donnell
  • ローラ:マット・ヘンリー(Matt Henry)
  • ローレン:エイミー・レノックスAmy Lennox
  • 二コーラ:エイミー・ロス(Amy Ross)
  • ドン:ジェイミー・バクマン(Jamie Baughan)

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犯罪者が聖人扱いされ、英雄が犯罪者扱いされるニューヨーク

先日、ニューヨークの地下鉄で気のふれたホームレスが車両内にいる客たちに脅迫的な言葉を吐き、今にも暴力行為に及びそうなほど危険な行動をしていたのを、そばに居た海兵隊員の男性が他の男性二人と一緒に男を取り押さえた。警察が来るまでの15分間、海兵隊員は狂った男を羽交い絞めにしていたが、首を強く締めすぎ男は死亡してしまった。その海兵隊員は殺人の疑いで逮捕された。

海兵隊員男性の名前はダニエル・ペニー24歳。死んだのはジョーダン・ニーリー30歳。ペニーが白人でニーリーが黒人であったことから、またまたBLMの連中がデモを行い、ニューヨークの地下鉄で線路に降りて通勤客の邪魔をした。

しかしこのニーリーと言う男はこの10年間で42回も逮捕されており、最近では2021年の初老の女性の顔を殴って逮捕されている。すでに過去にニーリーに殴られて怪我をしたという人たち二人が名乗りを上げている。また事件当時そばにいた目撃者たちによれば、ニーリーは乗客たちにゴミを投げるなどしており、脅迫的な言葉を喚いていたという。またニーリーは最後に逮捕された時に精神異常と診断されており治療に通っていたが、それも数週間で辞めてしまった。

ニーリーはニューヨーク市では悪名高いホームレスで、すでに危険人物としてマークされていた。42回も逮捕され、逮捕状も出ていたのに、この男を野放しにしていたニューヨークの検察は、この男がまた犯罪を犯すのを阻止した英雄海兵隊員を逮捕するのは素早かった。

BLM活動家以外のアメリカ人は、ペニーは英雄として称えられこそすれ犯罪者扱いされて逮捕などされるべきではなかったと考えている人が多い。事実ペニーの弁護士が始めた募金運動ではすでに100万ドルのお金が寄付が集まったという。大抵が匿名希望でそれぞれは少額の寄付だという。

最近ニューヨークの治安はめっきり悪くなっており、特に地下鉄内での暴力行為は日常茶飯事である。それでもニューヨークの人びとは電車にのらないというわけにはいかない。それで毎日ニーリーのような暴力男の被害に逢うのをびくびくしながら通勤しなければならないのだ。ニューヨークのアルビン・ブラグ検事は最近ドナルド・トランプ前大統領を起訴したジョージ・ソロスの息のかかった超リベラル検事。この検事は逮捕された犯罪者を起訴せずにすぐに街に放ってしまうので治安は悪化の一途をたどっている。

特に黒人犯人による白人や東洋人を狙った意味のない暴力行為が目立っており、市民はいい加減に堪忍袋の緒が切れそうな状態である。そんな中で勇気を出して男を取り押さえようとした男性がこのような目に逢うのであれば、今後例え目の前で女性が強姦されようが老人が殴られようが止めに入る人はいなくなるだろう。犯罪者は野放しで善人が犠牲になる市。それがニューヨークなのだ。


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セックスワーク(売春)は仕事じゃない

先日歌舞伎町タワービルにある男女共同便所がトーヨコキッズと呼ばれる立ちんぼ娼婦たちのたまり場になっているという記事を読んで心が痛んだ。「未成年も」「8割はホストへ」歌舞伎町の「交縁女子」はなぜ合法店舗で働けないのか…広まる低年齢化。これらの少女たちは未成年が多く、しかも稼いだお金はホストやコンカフェ(ってなに?)や地下アイドルの男たちに貢ぐのがほとんどで、暮らしに困って道に立っているという悲惨な状況ではないらしい。この子たちは売春を卑しき行為とは思っていないようだ。

なぜかわからないが昨今左翼の『フェミニスト」とかトランスジェンダー活動家らがSex work is workとか言ってセックスワーク(売春)は立派な仕事だというのをよく聞くようになった。My body my choice(私の体、私の選択)でも同じだが、こういうスローガンをがなり立てる女たちは本当に馬鹿だと思う。彼女たちは何もかも自分の選択だと思ってるらしいが、結局稼いだ金は自分のことを屁とも思っていない男たちの手に渡ってしまうのだ。

女に売春させて稼ぎをピンハネする男のことを何と呼ぶか、そう、ヒモである。アニメキャラみたいな髪型をして趣味の悪い派手な背広をきてじゃらじゃらと宝石を付けた手を振り回すのは、どれだけ金を儲けていようがヒモに変わりはない。そうして若い子をたらしこんで風俗店に紹介する人間を何と呼ぶか、ブローカーなどとカタカナ英語つかっても、結局はただの女衒だ。娼婦より下の蔑むべき者たちだ。

私は仕事に貴賤はないという意見には賛成だが売春は仕事じゃない。少なくとも若い少女たちに、いざとなったら身を売ればいいのだなどと思わせてはいけない。あくまでも売春は卑しい行いであるというイメージを崩してはいけない。そうでないと、ホストや地下アイドルに貢ぐためなどと言ういい加減な理由で気軽に売春をする少女たちが減らないからだ。

売春自体は大昔からあるし立ちんぼも昔から居た。根絶は不可能だろう。しかし未成年の子が自分から進んで売春をするなどということは減らすことは出来ると思う。そのためには、ホストクラブやコンカフェへの未成年者の立ち入り禁止や、地下アイドル営業の規制といった法律も必要だが、それと同時に売春に対する少女たちの考え方を変えさせる必要がある。

私の若い頃(昭和50年代)の話をして、当時の女学生たちは結婚するまで純潔を守ることが当然だと思っており、高校生くらいですでに性行為経験のある女子たちのことを軽蔑していた。未婚の母などとんでもないと思われていた。ましてや売春をするなんて考えもつかない概念だった。私たちはいまやその時代に戻るべきだと思う。家庭でも学校でもそういう教育を再びすべきだ。

いやいや、カカシさん、そんなこと言ったって時代が違いますよ、いくら家庭や学校でそんなことを教えても子供たちは好き勝手なことをするのだから無理ですよ、とおっしゃるかもしれない。だがそうだろうか?今の子供たちがセックスに対して気軽な考えを持っているのは誰かに若い頃からの性行為は普通だと教え込まれたからではないのか?

家庭や学校での教育が子供たちの行動に全く影響を及ぼさないというのであれば、何故左翼教育界は子供たちにやたらとLGBTQ+教育をするのだ?何故教材に同性愛奨励のポルノ本を使ったりするのだ?学校でLGBTQ+教育が盛んになったのと同時に、自分はLGBTQ+のどれかに属していると考える10代の子供たちが極端に増え、アメリカでは自分がLGBTQ+だと自認する子が全体の過半数もいるという現状を考えてみてほしい。あきらかに子供たちは学校教育に強く感化されているのだ。

ここまで子供に影響力のある学校教育をもっと良い方向へむけたらどうだろうか?フリーセックスを奨励する教育ではなく、純潔の尊さを唱える教育をしたらどうなのか?

結婚はしない人もいるし晩婚の人もいるので、結婚するまで純潔を守れというのは無理な要求だろう。しかし少なくとも、セックスは一番大切な人のために取っておくべきであり、万が一妊娠した時に当事者二人で責任を取れる歳になるまではやたらに性行為に及んではならないということを教えることは大切だ。

もちろんそんな教育をしたからと言って全員が言うことを聞くわけではない。私の時代でもすでに性行為をしていた同級生も居たし、未婚のまま妊娠して子供を産んでしまった子もいた。大事なのはすべての子を救えなくとも、大多数の子供たちが大人になるまで純潔を守ることが理想だと理解することだ。男女共に自分の体は大切にすべきなのであり、むやみやたらに裸の写真を付き合っている子に送ったりしてはいけないこと、また相手にそれを求めるのは相手の尊厳を冒涜する行為なのだと理解することだ。

子供には既存の規則から多少外れたいと思う傾向はある。しかし基盤となっている道徳観念が非常に保守的であった場合、そこから多少外れたとしてもそこまで過激な行動には至らない。だがもしも基本の道徳観念が非常にリベラルだった場合、つまりフリーセックスもゲイセックスも普通であり何歳から始めても良いというようなものだったら、その基準よりもさらに過激な道に外れるとしたら売春に行きつくまでさほどの障害はない。ましていあセックスワークイズワークなどと言ってしまったら、もう子供たちが売春をしない理由がなくなってしまう。セックスワークイズワークなら、パパ活の何が悪いのか、たちんぼの何が悪いのか、という理屈になってしまう。

もちろん家庭や学校でいくら純潔を唱えても、ネットやメディアにはセックスが溢れている。昔と違って子供でもスマホですぐにそんな内容を観ることが出来てしまう。だから家族は余り小さい子にはスマホを持たせないなどの工夫が必要だ。

もし本気で未成年の売春を減らしたいのであれば、家庭や学校でともかく売春の悪について教えていくしかない。教育の場で奨励しておいて売春が増えていると嘆いてみてもしょうがない。

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昔の話と言えば、これはツイッターで誰かが言っていたのだが、日本社会は昔のように独身の女性の職業選択のなかに家事手伝いを取り戻すべきなのではないかという提案。男性と違って女性は必ずしもキャリアを目指す必要はない。学業にも仕事にも向かない女性もいるだろう。だったらそういう女性は実家で花嫁修業をして良い縁談を見つけてさっさと結婚してしまったほうがいいのではないか、とその人は言っていた。あまり頭のよくない女性が高卒でやたらに都会に出て一人暮らしなどするからおかしな男に捕まるのだ、というのがその人の理屈だった。ちょっと口は悪いが、その論にも一理あるなと思った。


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LGBとTQ+は離婚すべき、保守派の作戦が成功している

LGBT理解増進法が通りそうな日本でも、LGBTへの風あたりが強くなっていることから活動家たちのプロパガンダ戦略も激しくなっている。そこで私が見つけたこの記事。LGBT活動家たちは、保守派がLGBとTを分裂させ制覇しようという、所謂”divide and conquer”作戦を取っているという内容である。題して「LGBT迫害から立ち上がる シドニーで見た歴史への敬意 李琴峰著」この記事は先日拙ブログで紹介したCNNの内容と酷似している。活動家たちはどっかの司令部からこういうやり方で反対派と戦えという命令を受けているとしか思えない。

先ず李はオーストラリアの1970年代における同性愛者弾圧の歴史からはじめ、今や全く同じやり方で今度はトランスジェンダーを「てこの支点」として反対派はLGBT運動を進めていると結論付ける。その部分を読みながら私の感想を加えて行こう。

てこの支点」にされるトランス

 アメリカ全土で同性婚が認められた15年以降、反LGBT運動の標的は同性愛者からトランスに移った。17年、ワシントンDCで開かれた保守・宗教右派の集会で、ある活動家はこう語った。

 「LGBTの連帯は実際はもろい」「トランスと性自認(ジェンダー・アイデンティティー)は世間に受け入れられにくいから、分断し制圧するためには、性自認に焦点を絞ろう」「Tを切り離せば、私たちはもっと成功するはずだ」

TRAは版で押したように同じことを言う。これは話が逆。同性婚が合法化され、アメリカ国内では同性愛者に対する偏見も差別もほぼなくなってしまったので活動家はすることがなくなった。誰かが差別されていることにしておかないと仕事がなくなるので(人権活動は非常に儲かる商売だから)新しい被差別者として元LGB活動家がTを加えて活動を始めたに過ぎない。保守派たちは単にこの新しい作戦に反応しただけである。

この計略は成功した。10年代後半から、「性自認」の概念を疑問視し、トランスを攻撃する言説は世界的に広がった。攻撃者は「LGBとTは違う」「Tは女性の安全を害する」「性犯罪を助長する」と主張する。トランスはいわばてこの支点となり、攻撃者はトランスをやり玉にあげ、LGBT全体の権利を否定しようとしている。LGBTが一緒くたに迫害され、そして連帯して戦ってきた歴史を抹消し、分裂を狙っている。

実はLGB当事者たちの間からも、LGBとTQ+以降は分けて考えるべきだと言う主張が多く聞かれるようになった。欧米社会で同性愛者への偏見が酷かった頃、反同性愛者たちの懸念は同性愛者による子供の腐敗がもっともよく挙げられた。以前にも書いた通り、同性愛者(特に男性同士のゲイ)達はこの悪いイメージと長年戦って来た。そして2020年代にもなれば同性愛者が子供を腐敗させるなどと考えるひとはほぼいなくなっていた。そのイメージが再び変わってしまったのは一体誰の責任だと李は考えるのだろうか? 

日本も例外ではない。「LGBT法=男の女湯利用公認」と言う人がいる。「自称女性の男性が女性と同性婚すると、法的に女性と認めなければならなくなる」と言う人がいる。さらには、「Tは女性と子どもの安全を脅かす」――。これらの言説が広まっている状況は、一体何を意味するのか。

 70年代のアメリカで、史上最も有名な反同性愛の活動家、アニタ・ブライアントは「子どもを救おう」という標語を掲げて、同性愛者の教職追放を訴えていた。00年代の日本で、保守派は「男女共同参画=男女の風呂共用」と扇動し、男女共同参画に反対していた。過去の言説の二番煎じが、いまLGBT、とりわけTに向けられている。

李自信は保守派の「計略」が何故「成功した」のか考えてみたのだろうか?もし保守派がいう「男の女湯利用公認」や「自称女性の男性が女性と同性婚する」などという懸念がすべて嘘やデマであるなら、活動家による「それはデマです」でことは足りるのでは?しかし実際には地方自治体ですでに同様の法律を通してしまったところで、反対派の心配した状況が現実となっている。

先日埼玉県では介護施設で従業員の更衣室を突然男女共同にしろと知事からの鶴の一声で、従業員の意見も聞かずに強行した施設があったとツイッターで当の施設に勤める介護師からの告発があった。そして抵抗した介護師ら5人が解雇されたというのである!埼玉県はLGBT差別禁止法を積極的に実施。県民80%の反対意見を無視して無理やり通してしまった県だ。そしてその直後に反対派が懸念した通りのことが起きたのだ。これは主流新聞で大々的に取り上げられるべき大ニュースだと思う。

何が有効な議論で、何がただの差別・恐怖扇動なのか。様々な「正しさ」がせめぎ合う現代において、全てが等価であり、ゆえに無価値に感じる瞬間もあるかもしれない。そんな時、歴史は一つの指針になる。LGBTがどんな差別にさらされ、どのように共闘してきたか。歴史の鏡を眺めれば、おのずと答えは浮かび上がるだろう。

 かなうものなら、「#日本を滅ぼすLGBT法案」を投稿した人たちに、私はマルディ・グラの景色を見せてあげたかった。LGBTの人権が日本よりずっと進んでいるオーストラリアは、何も滅びていない。シドニーの晴れ空の下で開催される虹の祭典、そこにあふれんばかりの笑顔を、ほんとに、見せてあげたかった。そしてこうも思う。この景色を、「遠い外国のこと」にしたくない。そのためには、歴史を学び、繰り返し伝え、記憶し続けなければならない。

よくもまあ、こんなすっ惚けたことが言えるものだ。「LGBTの人権が日本よりずっと進んでいるオーストラリア」では、教育者が親に内緒で子供の性転換を推し進め、親がそれに抵抗すれば親権を失うのだ。手術はおろかホルモン治療すらしていない男ライリー・デニスが女子サッカーに参加して相手チームの女子をことごとく負傷させ、それを報道したリポーターにデニスへの接近禁止令を出され、これに関する報道はオーストラリアの法律で禁止されているとして、オーストラリアではこれに関するツイートは一切掲載されていないのだ。李は日本にそんな「ずっと進んでいる」国の真似をさせたいのか?

記念碑の名は、「Rise」――蜂起する、立ち上がる、の意だ。LGBTは人間の歴史を通して一緒くたにされて迫害を受け、それでも何度も強く立ち上がって闘ってきた。これからも連帯のために手を携えて生きていくだろう。私はそう信じている。

もしTQ+以降のひとたちと一緒くたにされて子供虐待や女性抹消の汚名を着たくないなら、LGB当事者の人たちは積極的にTQ+と別離し他の常識人たちと一緒にTQ+活動家たちの悪質な活動を撲滅するよう共闘すべきである。すでにその兆候は見えな始めている。

我々常識人はこの攻撃を緩めてはいけない。なぜなら李も認めている通り、トランスジェンダーを「てこの支点」とした抵抗運動は成功しつつあるのだから。


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俳優の歳が追いついて味の出たミスター・サタデーナイト

本日のミュージカルはビリー・クリスタル主演のミスター・サタデーナイト。これは1992年に公開された同題の映画がもとになっている。映画の方はミュージカルではない。

私はこの映画を当時観たが、あまり良いとは思わなかった。主役のバディーが全然良い人ではなく、自分勝手で自分を愛している周りの人たちをずっと傷つけてきた嫌な奴だったからだ。それと、昔は人気者だったのに、今は落ちぶれて老人ホームで半分認知症の老人たちの前での仕事くらいしかないという70代のバディーを当時40代だったクリスタルが演じるのは無理があった。クリスタルは若いのに老人のキャラクターを演じるのがうまいことで有名だったので、多分若者から老人まで演じることのできる幅広い演技力を披露したかったのだろう。だが、映画は不評で興行成績も散々たるものだった。

クリスタルは元々スタンドアップコミックという日本語で言えばピン芸人だった。私が初めて彼をテレビで観たのは1970年代に放映されていた人気テレビコメディー番組ソープだ。彼はテイト一家のホモの息子という訳柄だった。日本語吹き替えでは女言葉を使っていたが、英語では全然それらしい演技をしておらず、やたらとホモジョークのネタにされていたという以外、普通の男性の役だった。今はあんな描写はLGBT界隈からクレームがついて駄目だろうな。

それが80年代にサタデーナイトライブというバラエティー番組のレギュラーになり、色々なキャラクターを紹介し、その演技の幅広さを示した。その当時よくクリスタルが演じていたのが老人の男性。当時はまだ30代だった彼の老人演技は非常に面白かった。

その後クリスタルは映画俳優としても成功し、大ヒットしたロマンスコメディー「ハリーメットサリー(ハリーがサリーと会った時)」都会の人間が乗馬しながら田舎生活を体験する「シティースリッカーズ」のシリーズの成功で一躍大スターへとのし上がった。ミスター・サタデーナイトはそんな絶世期のクリスタルが自ら脚本を書いた作品で、芸術映画としてアカデミー賞を狙っていたことは間違いない。しかし1950年代の人気もので1980年代現在は落ちぶれた老人という設定は、90年代当時の映画ファンから言わせるとどこにも共感を覚える接点がなかった。私自身50年代に人気のあったコメディアンのことは何も知らないし、懐かしいと思う思い出もない。言ってみれば、バディーの20代で無知なマネージャー、アニーと同じ立場だった。

そういうわけなので、なぜあの映画をわざわざミュージカルになんぞしたんだろうかと興味が湧いたので無料視聴期間に観てみた。しかしこの話、思っていたより悪くない。クリスタルが歌が歌えることは全然しらなかったのだが、彼の歌声は結構聞ける。ジョークもすごく面白い。次から次へと飛び出すジュ―イッシュ特有の皮肉に満ちたジョークに、私は久しぶりに大声で笑った。最近はげらげら笑えるコミックが少ないので、何か斬新な感じさえした。もちろん最近のポリコレブームでこんなオフカラーなジョークはちょっと無理かも。

しかし何よりも良かったのは、現在74歳のビリー・クリスタルは、役柄のバディーと同じ年になったということだ。しかも彼自身が若い頃に大スターになり、決して落ちぶれているわけではないが、昔のように引く手あまたな俳優ではない。だから今のクリスタルがバディーを演じるのはしっくりくるのだ。そしてこれは友人に指摘されたのだが、私自信もこの映画を見た30代初期から60代になっていることも、この話に共感できることの一つだろう。今の私はクリスタルの若い頃の活躍を懐かしく思える歳になっているからだ。

この話を普通のお芝居でなくミュージカルにしたのは成功だった。しかしこれはビリー・クリスタルのワンマンショーと思ってみた方がいいかもしれない。彼は芸達者なので、芝居の中で様々な持ちネタを披露する。若い時の演技も若い俳優を使わずに兄のスタンも妻のイレーン(Randy Graff)も同じ俳優がそのまま演じているが、これも舞台ならではの味である。

話の筋は結構単純。主人公のバディーは1950年代に一躍を風靡した大スターだったが、人柄に問題があり、あちこちでいざこざを起こしてしまう。せっかく大人気バラエティーショーを数年持っていたにもかかわらず、視聴率が下がった不満を生番組中に局やスポンサーの悪口としてぶつけてしまい、ショーはキャンセルされ、問題児としての評判が立って、その後は豪華客船のショーやあちこちの小さい劇場で演技を続け、今や老人ホームでの営業ぐらいしか仕事がない。長年自分のマネージャーをやっていた兄のスタンもいい加減付き合い切れずに引退しており、仕事にかまけてきちんと面倒をみてこなかった40歳の娘との関係も全くうまくいっていない。それでも彼に見切りを付けずに献身的に尽くしてくれる妻のイレーンが傍にいるだけ。

しかしエミ―賞の放映中、今は亡きコメディアンに混じってビリーの名前が出たことで大騒ぎ。実は死んでいなかったとわかって人気テレビトークショーにゲストに呼ばれる。そこでの演技がおもしろかったため、見直され大手エージェントから契約したいとオファーが来る。しかしいざインタビューに行ってみると、やってきたのは昔のビリーのことを全くしらない20代の駆け出しマネージャー、アニーChasten Harmo)だった。無知なアニーに腹をたてたバディーは一旦は契約を断るが、アニーの学ぶ熱意にほだされて色々な仕事に挑む。しかしすぐに昔の癖が自分勝手な演技を初めてことごとく失敗。そんな折、大昔、子供だった頃バディーの生ステージをみていた今は映画監督からオーディションのオファーが来る。

以下ネタバレあり

脚本は観ながら猛練習をするバディー。ちょうど家に仕事が見つかったと報告にきたスージーShoshana Bea)の話もきかずに、練習に付き合わせるバディー。しかしここでもまたスージーと大ゲンカ。数日後、オーディションに行ってみると、演技は素晴らしかったのだが、すでにその役は人気俳優に渡ってしまったことを知らされ、失望のあまり兄のスタン当たり散らし、ここでも大ゲンカ。最後に兄に「お前の言う通りだよ。でももう少し優しくできないのかい?」と言われてショックを受けるバディー。

自分を愛するひとたちをことごとく傷つけてしまうバディー。娘や兄と仲直りできるのだろうか?この先彼のキャリアは再び日の目をみることがあるのだろうか?

というわけなので興味のある人は映画を見てみるとよいと思う、筋はそのままだと思うので。ただ私は映画のエンディングを覚えていない。それでこのお芝居と映画が同じように終わるのかどうか自信がない。映画を見た時は、なにか後味が悪かった記憶があるのだが、ミュージカルの方は非常に満足のいく結末になっていた。二時間四十五分も付き合った甲斐があったというもの。

バディーの兄スタン役は、映画と同じデイビッド・ペイマー。彼はもう80歳近いだろうけど素晴らしい演技を見せる。彼は歌手ではないからミュージカルナンバーはちょっと無理があるが、それでも私は結構気に入った。

アンサンブルでジョーダン・ゲルバー、ブライアン・ゴンザレス、ミランダ・フルが、何役もこなしていて面白い。

ミュージカルとしての評判は今一つで、芝居は一年足らずで閉幕したが、それでもクリスタルは2022年トニー賞で最優秀男優賞にノミネートされている。74歳という高齢で毎日の舞台は大変だったろうし、このくらいでちょうど良かったのではないかと思う。彼以外でバディーを演じられる人はいないので、というか、このショーやクリスタルあればこそなのでロングランは最初から予定されていなかったと思う。

ともかく久しぶりに大笑いさせてもらったので満足している。


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