世代を超えた魅力、ナンシー・ドルー探偵記

私は小学生の頃から読書が非常に好きだったのだが、私の通っていた小学校の図書館にはそれほど価値ある児童書はおいてなかった。しかし中学生になって雨が降ると雨漏りするような木造校舎の二階にあった図書館には古い図書がいくつも置かれていた。そのなかで少女向け探偵小説ナンシー・ドルーは懐かしい。中学校の図書館においてあったナンシー・ドルーはその表紙からどうみても1950年代の再販版で、登場人物の物腰などもかなり古くさい感じのする小説だった。にもかかわらず私はナンシーの頭の良さとその推理力に魅かれて図書館においてあったシリーズは最初から最後まで何冊も続けて読んでしまった。

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ナンシー・ドルー


ナンシー・ドルーが最初に発行されたのは1930年代初期のことである。原作者はキャロリン・キーンということになっているが実はそういう人物は存在しない。この名前はストラトメイヤーシンディケート(The Stratemeyer Syndicate)という出版社が生み出した架空の作家名である。ストラトメイヤーはシリーズ物を生み出す専門家で、複数の作家を起用しながら一つの架空の作家名で出版することで有名である。このシンディケートの生み出した少年用推理小説ハーディボーイズもナンシー・ドルーシリーズと共に世界中の少年少女たちに愛読されている。

このシリーズは時の少年少女らにアピールする目的で書かれているため、時代と共に挿絵や表紙だけでなく、中身も年代にあわせて新しくされ元の筋は保ったまま時代にそった内容に書き換えられている。リンク先のサイトにも最新版の表紙が載っているが、邦訳版の表紙はまるでアニメさながらである。(私としては完全にイメージくずれるのだが)。

最近になって1930年代に書かれたオリジナル編が何冊も再発行され、挿絵も表現もオリジナルそのままのものを私はいくつか今度は英語で読んだ。金融大恐慌の時代に書かれた原作は21世紀の少年少女の世界とは全く違うが、それなりに別の世界をかいま見るようで興味深い。金髪美少女のナンシーは経済が低迷してアメリカの失業率25%という時代に、ロードスターという自家用車を乗り回しベスとジョージという二人の女友達と一緒に高級ホテルで昼食をとるような女の子。優しく頼りになる弁護士の父親と二人暮しで何不自由ない暮らしをしているナンシーの生活は当時本一冊買うこともできなかった少女らの幻想を反映している。

ナンシー・ドルーはこれまでにも何度も映画やテレビでドラマ化されているが、今回はアンドリュー・フレミング監督の最新映画ナンシー・ドリューをご紹介しよう。(公式サイトはこちら

新作のナンシー・ドルー(エマ・ロバーツ)は21世紀の小さな田舎町に弁護士の父親(テイト・ドノバン)とお手伝いさんとの三人暮し。父親がロサンゼルスの大企業の顧問弁護士となるべくナンシーを連れてカリフォルニアへ一時転勤。ロサンゼルスで親子が借りた屋敷は25年前に人気女優が殺され幽霊が出るという噂のある家。ナンシーは父親に危険だから探偵ごっこはしてはいけないと厳重にとめられているのだが、女優の謎の死はナンシーの好奇心をかき立てる。父親との約束をやぶって謎解きをはじめるナンシーの身辺で次々に不思議な事件がおこりはじめる。

ロサンゼルスに引っ越してくると、ナンシーが通いはじめる高校の生徒らは完全に今風のファッションだし、周りの景色も現在のロサンゼルス。ファッションも価値観も古いスタイルで、学力満点、陸上をやれば人一番早いし、大工仕事では男の子たちより手先が起用。何をやっても優等生のナンシーは場違いに浮いてしまうのだがこれは意図的。

私は最初に予告編を観た時、以前に1970年代のテレビ番組を元にしたブレイディバンチの家族のように、周りが21世紀なのにも関わらず自分らだけが1970年代のままというようなコメディタッチの映画になるのかなと思っていた。しかしそうではなく、単にナンシーは古いものが好きなだけで、ちゃんと携帯電話も使うし謎解きにはデータベースのお世話にもなる現代っ子である。

そして、どんな場合でもパニックに陥らずに用意周到機転の効くナンシーは原作のナンシーの精神をそのまま保っている。明かにフレミング監督はナンシー・ドルーのファンだ。ナンシーの魅力は行動力もあり運動神経も抜群だが、決して女の子らしさを失わないことだろう。ナンシーのはにかみやのボーイフレンド、ネッド(Max Thieriot)との淡い関係はまだまだあどけなさが残っている。

それで肝心な謎解きのほうはどうかというと、ちょっと筋が単純すぎる感がなくもない。もっとも原作もアガサ・クリスティーのような込み入った内容ではなかったからこれはこれでいいのかもしれない。

ただ、時代考証がちょっとおかしいなと思われる場面が多い。冒頭で市役所に泥棒に入った間抜けな二人組にナンシーが人質になるシーンでは、ナンシーだけでなく泥棒や保安官及び周りの市民の服装などから一見1950年代を思わせる。私は映画そのものが1950年代を舞台にしているのか、それとも回想シーンなのかなと思っていたら、父親のカーソンが古いロードスターにのりながら、おもむろに懐から携帯電話を持ち出したので、あれ〜?と首を傾げてしまった。

それからロサンゼルスの屋敷で殺人事件が起きたのが25年前という設定になっているから1982年の出来事のはずだが、ナンシーが見つける昔の写真は1970年代頃を思わせる。殺された女優の身の回りの出来事を考えても、舞台を1950年代にして事件が起きたのが1930年代だったことにした方が話のつじつまがあうような気がする。もっともこれは私にとって25年前の1982年なんてそれほど昔という気がしないので、昔の事件の謎を解くとかいわれても神秘的な気にならないというおばさんの偏見なのかもしれない。(笑)

ドルー親子が借りた屋敷も殺人事件のいわれがある屋敷なのだから、もう少し神秘的な雰囲気を持った方がいいのではないだろうか。屋敷のなかで起きる不思議な現象の原因があまりにも早く暴露されすぎてちょっと気が抜ける。もうすこし観客を怖がらせてもいいような気がする。

ロサンゼルスで知り合いになり謎解きに協力する12歳の少年コーキー(Josh Flitter)との友達関係はちょっと不自然。フリッターの演技はいかにも12歳という感じで好感は持てるが無理矢理コメディリリーフをつけたようで演出が行き過ぎ。どちらかというと原作どおりベスとジョージ(Amy Bruckner、Kay Panabaker)と一緒に謎解きに取り組むか、でなければ1930年代の映画のようにボーイフレンドのネッドと一緒に行動するかした方が観客としては納得がいく。

しかし全体的に好感の持てる映画で十代の女の子でなくても十分に楽しめる映画になっている。デートでも家族ぐるみでも安心して見られる健康的な探偵映画である。

途中ブルース・ウィルスのカミオ出演がある。


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責任感だよシュレック3!

本日は一週間ぶりに丘にあがってきたこともあり、コンピューターアニメの傑作コメディ、シュレック3を観てきた。日本語公式サイトはこちら。
1も2も面白かったので今回も期待していたのだが、その期待を裏切らず非常に面白かった。あらすじは予告編を見てもらえば分かるが、遠い遠い国の王様であるカエルのハロルド王は臨終の床でシュレックに後を継いで欲しいと言う。だが王様としての責任など果たせないと感じるシュレックは次の継承の立場にある王の甥、ティーンエージャーのアーサーを探しに旅にでる。長い船旅に出る寸前、妻のフィオラが子供を宿っていることを知らされフィオラと二人きりの静かな生活を今しばらく楽しみたいと思っていたシュレックは愕然とする。
一方今は落ちぶれて安宿で臭い芝居をしているチャーミング王子は王の死去を利用しておとぎ話の悪者連中を集めて今度こそは遠い遠い国の王として返り咲こうと企むのであった。
はっきり言って話の筋はどうでもいい。シュレックの魅力は個性ある登場人物と彼等の交友関係にあると言っていい。第一作目ではしゃべり過ぎでうるさかったロバは二作目、三作目と回を追うにつけ落ち着いてきた。特に二作目で恋におちた竜と結婚して何頭もドラゴン+ドンキーのかわいい子供たちが飛び回る。この親子のじゃれあいはとっても自然で微笑ましい。
シュレックの親友のロバ以外は皆おとぎ話の登場人物ばかり。長靴をはいた猫は窮地に陥ると大きな目を潤わせて訴えかけるし、両腕をひろげる度に小鳥がとまる白雪姫、プレッシャーがかかるとすぐ床みがきをしたくなるシンデレラ、大事な時に居眠りする眠り姫。
チャーミング王にシュレックの行方を問いつめられてなんとか嘘を言わないように何をいってるのかわからないような屁理屈でごまかすピノキオ。それを見ていてたえられなくなって泣き崩れる三匹の子豚たち。とまあ、個性豊な面々である。
シュレックの音楽担当は1960年代後半から70年代くらいの音楽が好きらしい。サウンドトラックに使われる音楽がかなり場違いで面白い。ハロルド王の葬式で流れる曲はボール・マッカートニーのリブオアレットダイだったり、白雪姫が突如レッドツェッペリンを歌い出すシーンなどは傑作だ。
日本語の公式サイトを見る限りでは予告編は日本語の吹き替えになっているが、ポスターには英語版の声優の名前が出ていることから、多分英語日本語字幕と日本語吹き替えの両方で公開されるのだろう。
吹き替えだと失われてしまうのが、キャラクターたちのお国訛りである。
シュレックを演じるマイク・マイヤーはカナダ人だが何故かシュレックはスコットランド訛り。ハロルド王のジョン・クリースもジュディ・アンドリュースもチャーミング王子のルーパート・エベレットも新しく登場する魔術師マーリンのエリック・アイドルも皆イギリス人。特にチャーミング王子のイギリス訛りはハンサムな容貌と家柄の良さを常に意識している上流階級の鼻持ちならない嫌らしさ溢れる声である。
猫の声はスペイン出身のアントニオ・バンデラスが演じているため彼のちょっとハスキーなスペイン語訛りの声はラテンラバーとしてメスにもてもての猫にぴったり。
それでも予告編をちょっと見た感じではロバのエディ・マーフィーの黒人訛りの声と日本の声優は声もイメージもぴったりで驚いてしまった。王子と猫の声は訛りはないがそれなりに演技力で雰囲気がよく出ている。日本の声優の方が元の声よりきれいな印象を受ける。
映画の中ではハリウッドの地元にいると解る内輪ジョークが結構たくさん出てくる。まず遠い遠い国のサインは完全にハリウッドのサインだし、お城に向かうパムツリー並木の道はうちの近所の景色そっくり。お城の門はパラマウントスタジオの門そのもの。城内の町並みはビバリーヒルズのロデオドライブあたりかな?
最後になったが今回の映画の主題は「責任感」シュレックは自分が王様になるのが嫌でアーサーに押し付けようとするし、同時に父親になることへの不安感でいっぱい。アーサーはアーサーで子供の頃から育った全寮制の学校でつねにいじめられてきた自分に王の座が勤まる自信はまるでない。この二人がいろいろな冒険を経て成長していく姿が描かれるわけだが、このあたりはちょっとお説教っぽいかな。
しかし愉快なキャラクター満載のドタバタコメディーで十分楽しめるのでこれは是非お勧め。週末にお子さんを連れてどうぞ。日本では6月30日ロードショー開始。


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陰陽に揺れるスパイダーマン3

史上最高の売り上げを記録したスパイダーマン3の封切り。オープニングの週末に観にいってきた。前評判どおり非常に面白かった。
これまでのスパイダーマンでもそうだったが、スパイダーマンは彼の超能力による悪者退治も去ることながら、ピーター/スパイダーマン(Tobey Maguire)と恋人のマリージェイン(Kirsten Dunst)、そして親友のハリー/二代目ゴブリン(James Franco)との関係が主軸となっている。
私が特に気に入ったのはキャラクターの明暗を見せるトビー・マグワイアーとジェームス・フランコの演技だ。
映画はピーターがブロードウェイミュージカルに出演しているマリージェインの舞台を見にいくところからはじまるが、マグワイヤーの演技はまるでキートンの結婚狂であこがれの舞台女優を最前列で観ているバスター・キートンが演じた純粋で無垢な若者を思い起こさせる。しかしスパイダーマンとしての人気で図に乗ったピーターは、キャリアの伸び悩みに落ち込んでいるマリージェインの気持ちを酌むことができない。そんななかピーターは隕石にくっついて地球にやってきた異様な生物に取り憑かれる。

spiderman3

陰陽に揺れるスパイダーマン


予告編でスパイダーマンの赤い衣装がグレーのパワースーツにかわっていく映像をみなさんも御覧になったと思うが、この生物はホストの体に住み着いてホストの運動神経を増強させ、ホストにすばらしく力強い快感を与えるが、それと同時にホストの心の奥深いところに眠っている暗い本能も増強する力がある。
普段は大人しいが優しいピーターも、自分勝手な行動でぎくしゃくし出したマリージェインへの反感が異性物によって増幅され、同情心や思いやりの全くない不良っぽい女たらしへと変身する。ピーターが髪形から服装にいたるまで極端に変わっていく過程を監督のサム・レミーはミュージックビデオ風にコミカルに描いているが、ピーターの一番の変化は外面ではなく内面だ。大人しいが明るく好感の持てる若者が、やたら自信満々でごう慢なちんぴらへと変わっていくのをマグワイヤーは非常にうまくあらわしている。
ピーターの親友ハリーも同じように陰陽の葛藤に悩まされる。一方でハリーは初代ゴブリンだった父を殺したスパイダーマンを父の仇と復習に燃える暗い面を持ちながら、もう片方でピーターの親友としての友情も持っている。ハリーが親友とての友情を垣間見せる時のフランコの笑顔は非常に魅力的だ。これが復讐に燃えたゴブリンへと一瞬にして変貌するのが信じられない。しかもその変化が眉毛の釣り上げ方ひとつで起きてしまうのだからすごい。
この三人のなかで一貫してかわらないのがメリージェイン。彼女のピーターへの愛とハリーへの友情は二人の男たちには大切な希望となる。二人を暗い世界から救えるのはマリージェインのしっかりした存在だ。私は未だにダンストがインタビューウィズバンパイヤで少女吸血鬼を演じたあの子役と同一人物だとは信じがたいのだが、当たり前のことながらうまい役者は見る度に違うものだ。
さて、正義の味方には無論悪役が必要。今回の悪者はサンドマン(Thomas Haden Church)とベニム(Topher Grace)という強力な二人。サンドマンは病気の娘の手術費を稼ぐために強盗を働いた凶悪犯罪者。刑務所から脱走し逃亡の途中で、とあることから体が砂と化す怪物に変身。なぜか新しく手に入れた力を利用して堅気の商売をやろうなんて気にはならずに性懲りもなく現金輸送者を襲ったりしてる。ピーターの叔父を殺害した強盗と関係もありそうな因縁のある男である。
もうひとりの悪者ベニム登場のいきさつを語るのは控えておこう。ベニムの正体とピーターの明暗との葛藤とは密接な関わりがあるからだ。ベニムを演じるグレースはどっかで見たことある俳優だなと思っていたら、人気テレビコメディのThat 70s showでずっこけ主役を演じて一躍人気を得た俳優だった。これまでに出演した映画などから喜劇役者という印象が強かったので悪役をやるなど意外だが、これが非常な適役なのには驚いた。
スーパーヒーローものは何かとアクションに重点が行き主人公の人格形成や人間関係が希薄になることが多いが、この映画は強いストーリーラインがあるのが魅力だろう。しかしこのようなことを書くと人間関係ばかりで肝心のアクションがないかのように誤解されてもいけないので、ここで一言書いておこう。CGを存分に駆使した手に汗握るアクションシーンは盛りだくさん!ロマンスのかけらもない彼氏と恋愛映画専門の彼女が一緒に楽しめる映画である。またヒーローのかっこいい姿がみたいだけの少年少女にもサービス精神たっぷりの映画でもある。
スパイダーマン3は史上最高の封切りを記録しただけのことはある価値ある映画としてお勧め!


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おとぎの国につながる『テラビシアにかける橋』

出張中の週末、忙しい中時間が開いたので昨日はディズニーの映画、”Bridge to Terabithia“『テラビシアにかける橋』を観た。

ニューベリー賞受賞のファンタジー児童文学(邦題:テラビシアにかける橋)の映画化。学校にも、家族にすらもなじめない少年ジェス(ジョシュ・ハッチャーソン)は、転校生の女の子・レスリー(アナソフィア・ロブ)と友達になる。絵を描くのが得意なジェスと空想好きなレスリーは、森の中に “テラビシア” という世界を創造する。

ジェスは小学校6年生の男の子。ティーンエージャーでけんかばかりしている姉二人と、甘えん坊の一年生の妹、生まれたばかりの乳飲み子の妹と女ばかりに囲まれた5人兄弟の真ん中にいる。田舎の村にすむジェスの父親は金物屋を営んでいるが経営は苦しく裏庭にある温室で育てている野菜は家族にとって必要不可欠。家計のやりくりや赤ん坊の世話で忙しい母親には陸上の得意なジェスに新しい運動靴を買ってやれず、姉からのお下がりで女の子用のピンクの靴を履けという。
学校でもジェスは友達がいず、後ろからわざとぶつかってくるいじめっ子たちにも妹をいじめる8年生(アメリカでは小学校から高校まで年生を続ける。)の女の子にも対抗できない。
そんななか隣に超してきた転校生のレスリーと友達になる。作家の両親を持つレスリーは偶然みつけたツリーハウスの上でいろいろなことを想像する。想像の世界をまるで現実に起きているかのように言うレスリーにジェスは最初レスリーが何をやっているのかわからず困惑するが、だんだんとレスリーの導きで幻想の世界が自分にも見えるようになってくる。

terabithia

レスリーとジェス


映画は彼等が本当に幻想の世界に行ったのかどうか断言しない。目の前にある大木が巨人に見えたり、空を飛ぶ鷹が巨大な鳥となって攻撃してきたり、松ぼっくりが手りゅう弾になったり、モグラやリスが凶暴な獣に変身したり、観客にはそれが二人の単なる想像なのか現実なのか、二人には本当にそう見えるのかただそう振舞っているだけなのか解らない。
この映画を観たある友人はファンタジー映画だと思って観にいったのに、主役の子供たち二人はファンタジーの世界に実際に行くのではなくてただ想像しているだけでつまらなかったと言っていた。
あなたが私と同じように子供だったことがある人ならきっと覚えているはずだ。ブランコが飛行機になって世界旅行をしたり、木からぶら下がってるロープを使って密林の王者ターザンになったことや、塀の上からシュワッチと行って飛び下りて完全にウルトラマンの気分で空をとんだことや、怪獣に変身した隣のマー君をこてんぱんになぐってやったことが、あなたにもあったはず。私たちはその時幻想の世界へ行かなかったのだろうか? 私たちはあの時おとぎ話の橋を渡って向こう側の世界に存在していたのではないだろうか?
そんな経験のある人ならこの映画は大人でも十分に楽しめる映画である。私は常に想像力は人の心を豊かにすると考えている。人々に想像力があったからこそ文明は発達したのだと私は思う。自分がすんでるほら穴以外に別な世界があるはずだと想像できなかったら、我々はいまでも穴暮しをしていたことだろう。
おとぎ話は想像や幻想の世界かもしれない。だがその世界を一度もかいま見ることのできなかった人は不幸だと思う。ジェスはレスリーによってその橋を渡ることができた。あなたもジェスとレスリーと一緒にこの橋を渡ってみませんか? おとぎの国、テラビシアにかける橋を。


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北米キャンパスを乗っ取る聖戦主義のユダヤ弾圧

今日は2002年にカナダのモントリオールにあるコンコーディア大学の生徒会が過激派イスラム教徒にのっとられた一年間を記録した記録映画、マーティン・ヒメル製作の”Confrontation at Concordia” by Martin Himel(コンコーディアの対立)を紹介したい。

映像はパワーラインのリンクをつたって4部にわけて観ることができる。
2002年、イラク戦争前夜のコンコーディア大学ではどこの大学でもそうであるように、大学の生徒会に関する一般市民の関心は薄かった。それを利用したイスラム過激派の生徒たちが生徒会に立候補。イスラム系生徒を動員して生徒会の委員をすべてイスラム教徒で乗っ取ってしまった。


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武士道と現代戦略が衝突した『硫黄島からの手紙』

私は負け戦は好きではないので第二次世界大戦で日本軍側からみた戦争映画を観るのは気が進まない。硫黄島の戦いを描いた映画なら、ジョン・ウェイン主演の「硫黄島の砂」でもみたほうが気分がすかっとする。やっぱり戦争映画は勝ち戦を観たい。
しかしクリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」は勝ち負けは別として興味深い映画だ。
物語は硫黄島決戦の総指揮官となった栗林忠道陸軍中将(渡辺 謙)が硫黄島に赴任するところから始まる。初日から古いしきたりに従って海辺で敵を迎え撃とうと浜辺で穴掘りを命じていた大杉海軍少将(阪上伸正)と無駄な戦闘で戦士を失いたくないと考える栗林中尉との間で作戦上の衝突が起きる。
また栗林中尉は赴任早々頼りにしていた海軍の艦隊がサイパンで大敗し空軍も海軍も日本本土守備に向かったことを知らされ、硫黄島にいた海軍将校たちはそれを知っていながら赴任してきた指揮官の陸軍中佐にそのことを黙っていたことを知り、栗林は「大本営は一般市民だけでなく軍隊もだまそうというのうか?」と憤りを隠せない。
栗林中尉はアメリカに駐留していたこともあり、西洋風の現代的な戦略が頭にあるのだが、大杉や他の副官たちは御国のためにどのように勇敢に名誉の戦死するかという考えしかなく、どうやってこの戦に勝つかという思慮がまったくない。どのような事態になっても最後まであきらめず戦い硫黄島を守り通す目的の栗林中尉は、攻めてくるアメリカ軍だけでなく内部で何かと玉砕したがる将校たちとの双方と常に戦わねばならないはめになる。
映画の主人公は栗林中尉であるが、ナレーターの立場にいるのは西郷昇(二宮和也)という若い兵士で、彼はもともと軍人ではなく一介のパン屋である。身重の妻を残して召集された身で内地で威張り腐って日本市民を虐待していた日本軍がやっている戦争など全く興味はないし、名誉の戦死などごめん被りたいと思っているただの一等兵である。だからこんな臭い島アメリカにやっちまえとののしって上官にさんざん殴られたりする。

硫黄島からの手紙    硫黄島からの手紙

西男爵(伊原剛志)、栗林中将(渡辺謙)


私は渡辺謙以外の役者は全く知らないが、二宮和也の演技はあまり日本人らしくないという印象を受けた。しかし現代っ子の日本人というのはこういうものなのかもしれない。
この映画は決して反日ではないが、軍事独裁政権であった日本軍の弱さがどこにあったのかということを考えさせられる場面がいくつもあった。例えば、ひとりひとりの将校が個人の手柄ばかりを優先する武士道的な考えが先行しすぎ、戦国時代の日本で「や〜や〜我こそは〜」と刀を振り回して馬を蹴散らすような将校は自分の部隊がどのような行動をとることが戦闘全体に有利になるかとうことを考えていない。何かと刀を振り回しては威張り散らす伊藤海軍大尉(中村獅童)や、戦況が悪くなって指揮そっちのけで玉砕を嘆願する足立陸軍大佐(戸田年治)などがいい例である。こんな指揮官に指揮される部隊はたまったものではない。
そんな中で栗林の意図を理解し現代風の戦争に取り組むのは男爵でオリンピックの乗馬で優勝したこともある西竹一陸軍中佐(伊原剛志)である。西男爵はハリウッドの俳優たちとも食事を交わしたこともあり英語もはなせる教養の高い人物であり、負傷したアメリカ兵に治療を施せと部下に命令するほどの人情家でもある。捕虜にしたアメリカ兵の母親からの手紙を読んでアメリカ兵は鬼畜ではない、彼等も同じ人間だと気が付く日本兵たち。
この映画は硫黄島においてアメリカ軍と戦う日本軍の立場から語られているにも関わらず、アメリカ軍の存在はほとんどない。この映画の主題は日本軍側の独裁制の問題と、伝統的な武士道と現代的な戦略の衝突を描いた映画であるといえる。
もし日本軍が栗林や西のような将校に多く恵まれていたならば、日本軍はアメリカ軍に勝ったかもしれない。だが、もし日本軍が栗林や西で満たされていたならば、アメリカとの戦争など最初から始めなかった、、と言うこともできる。


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幻想と現実が錯誤するパンズ・ラビリンス(牧羊神の迷宮)

今日の映画はパンズ・ラビリンス(牧羊神の迷宮Pan’s Labyrinth )というスペイン映画。監督と脚本はギレルモ・デル・トロ(Guillermo del Toro)。日本公開は今年の秋。(映画情報はこちら
牧羊神が出てくるというから、ナルニア物語みたいな子供用の幻想映画だと思って観にいったらもっと暗くて悲劇的な大人の映画で非常に驚いた。小さい子供には残酷なシーンもありちょっと恐い映画かもしれない。ファンタジー映画のファンだけではなく一般のひとたちにもぜひ見てほしい美しくも悲しい物語である。
例によって映画好きな友達はこの映画がスペイン語で字幕付きだとは全然教えてくれなかったので、突然英語の字幕が現れてかなりカカシはうろたえた。それというのもアメリカではあまり外国語の映画というのは公開されないからで、カカシは画面の下に現れる字幕を読むのに慣れていない。最初の配役紹介の部分では文字を追うのにかなり苦労したが、実際に映画が始まってみると、すぐに幻想の世界に引き込まれ字幕を読んでいるということをすっかり忘れてしまった。
物語は1944年、スペイン戦争後のファシスト政権下のスペインが舞台となっている。主役の少女オフェーリア(Ivana Baquero)は、再婚して身重の母親と一緒にファシスト側の軍人である継父が勤務する森林基地へと車で向かう途中で昆虫の姿をした不思議な妖精に出会う。
母子を迎えた継父のビダル大佐(Sergi López)はゲリラ勢力の強い僻地でゲリラと戦う任務に当たっている冷酷非常な男だ。ゲリラの疑いのある人間は証拠があろうとなかろうと拷問したり殴り殺すことなどなんとも思っていない。妊娠中毒で容態の悪い妻カーメン(Ariadna Gil)をわざわざ危険な戦地に呼び出したのも息子は父親のそばで生まれるべきだという身勝手な考えからだった。ビダル大佐は跡継ぎを守るためカーメンに基地の医者をあてがうが、奥方は絶対安静が必要だというファレイロ医師(Álex Angulo)にいざとなったら母親はいいから息子を救えと命令する。
この寂しい基地でオフぇーリアは妖精に導かれ基地のすぐそばにある遺跡のなかに入り込む。オフェーリアはそこで羊と人間の間の子のような牧羊神に出会い、自分がいにしえの昔別の世界で悲劇の死を遂げた地下の国の姫であることを知る。牧羊神はオフェーリアが姫としての位を取り戻し、地下の国で再び君臨するためには満月までに三つの試練を全うしなければならないと語る。

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牧羊神から指示を受けるオフェーリア


オフェーリアの冒険はまるでおとぎ話なのだが、その背景にあるファシストとゲリラの戦いは決して子供だましではなく非情で残酷な戦争である。映画ではオフェーリアの幻想の世界と、現実の世界が交互に境目なく描写される。
オフェーリアは現実社会の基地で親しくなった賄い女のメルセデスが(Maribel Verdú)実は弟のペドロ(Roger Casamajor)がいるゲリラ集団と内通しており、基地の医者ファレイロ医師もゲリラに協力していることを早くから学ぶが、オフェーリアは残酷で非情な大佐とは対照的にやさしいメルセデスやファレイロ医師に同情して秘密を守る。
映画はどちらかというとゲリラに同情的な立場をとってはいるが、政治的なことよりもこれは個人の描写に重点がおかれている。命令されたというだけでどのような非人道的な行為でも盲目的に従うビダル大差と、たとえ命令でもそれが正しいかどうか常に自分の意志で判断するオフェーリアの対照的な姿に注目すべきだろう。
映像は怪しく美しく現実と幻想が交わって最後のほうでは何が現実で何が幻想なのかわからなくなる。おとぎ話の結末は観客の見方次第でハッピーエンドとも悲劇とも言えるが、私はハッピーエンドのほうを選ぶことにした。


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番組のおしらせ! 14日『911への道』放映

おしらせです。
日本時間14日20時よりWOWOWにおいて911同時多発テロがどのようにしておこったかを描いたテレビドラマが全編と後編にわかれて報道されます。詳細はこちら
真実を知りたいひとは是非御覧下さい。
この番組に関するカカシの意見は下記に書いていますのでご参考にどうぞ。
911ドラマ、『911への道』を観て、、


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夢いっぱいのドリームガールズ

同名のブロードウェイミュージカルの映画化だが、人気歌手のビヨンセ・ノールズを主役のディーナ・ジョーンズに起用、脇もジェイミー・フォックス、エディ・マーフィ、ダニー・グラバーなどで固めた大作。すでにゴールデン・グローブ賞にも主演女優、助演女優、助演男優などでの部門でノミネートされていたし、昼のトークショーでちらっと見た予告編でも歌の出演者の歌唱力には感服していたのでかなり期待して観にいった。そしてその期待は全く裏切られなかった。とにかくすばらしい!
映画の舞台は1960年代初期のデトロイトあたりからはじまる。地方の黒人観客専門に活躍していた歌手たちが、黒人市民運動を背景に、だんだんと人種のバリアーをこえて白人観客にも受け入れられいく時代である。そんななかで架空の黒人女性三人ボーカルグループが下積みからスターダムへとのし上がる姿が描かれている。

DreamGirls

ドリームガールス


シカゴで女友達の三人組、ディーナ(ノールズ)アニカ(ロレル・ロビンソン)エフィ(ハドソン)はドリーメッツ(後にドリームスと改名)としてエフィの弟CCの曲を歌ってコンテストに出たのがきっかけで中古車セールスマンをしながら興行師をやっていたカーティス(フォックス)に出合う。カーティスは人気歌手ジミー(マーフィー)のマネージャーのマーティ(グラバー)を説得してドリームスをバックアップコーラスにしてもらう。
ミュージックマネージャーとして才能のあるカーティスの強引なやり方はジミーとドリーメッツの人気をどんどんあげていくが、古い考えのマーティはついていけず去っていく。三人は念願かなってやっと独立しドリームスとしてしてデビューすることになるが、カーティスの独断で声も体もちょっと太めのエフィーではなく細身で美人のディーナがリードになる。歌は自分が一番うまいと自負するエフィーは不満をあらわにするが、弟のCCに「家族じゃないか、一緒にやろう」となだめられてしぶしぶ承諾する。
ドリームスとして人気が上がるにつれ一旦はリードボーカルをあきらめたエフィーだが、いつまでたってもバックにおかれていることに不満がたまり、グループの調和を強調するカーティスと噛み合ず何かと衝突しはじめる。テレビの録画中に立ち去ったのを最後にエフィーはグループからはずされ、恋人としてもカーティスから捨てられてしまう。
エフィー抜きで人気のあがるドリームスだが頑固なカーティスと衝突するのはエフィーだけではなかった。個性的で時代背景を反映した曲を書こうとするCC, 新しいイメージと音を求めるジミー、女優として羽をのばしたいディーナ、それぞれの芸術的才能がカーティスの頑固なビジネスの思想とぶつかりあって、一度は家族としてスタートしたグループの結束はじょじょに崩れていく。
ドリームスはダイアナロスとスプリームスをモデルにしたようなグループなのだが、主役のビヨンセはもとより新人のジェニファー・ハドソンの声はすばらしく力強い。キャリアの面からいえばデスティニーズチャイルドという女性ボーカルグループ出身のビヨンセのほうがずっと先輩だが、この映画は完全にハドソンの出世作になっている。演技といい歌といい彼女のほうがずっと印象的だ。エフィーが仲間から見放され恋人だったカーティスからも捨てられるシーンで歌う有名な”And I Am Telling You I’m Not Going”は胸をうたれる。(思わず泣いてしまった!)
助演のなかでも特に光っているのがコメディアンとして有名なエディ・マーフィー。人気絶頂の時ドリームスをバックアップに使っていたのが、人気を追い抜かれ、昔のイメージから抜けきろうと新しい音を求めながらも人気プロデューサーになったカーティスの手中から抜けきれずに葛藤する中年歌手。軽い演技が多かったマーフィーだがここでは実にコクのある味をだしている。マーフィは若いころレコードも出したことがあるので、歌えることは知っていたが、もしあの声が吹き替えでないとしたら歌手としても十分通用する熱唱だった。
ただ、ミュージカルとして徹底的に歌で筋を運んでいく形にするのか、歌手が歌手として歌うときだけ歌う形にするのか、一貫していないように思えた。映画の前半ではほとんどがドリーメッツやほかの歌手の舞台での演奏なので、歌手でない設定の登場人物が突然会話のかわりに歌い出すとちょっと違和感があった。
しかしエフィとほかのメンバーたちとの口げんかがそのまま歌になっていく”Heavy”のシーンはそれぞれの女性歌手たちの個性がでていて非常に迫力があった。欲をいうならもっとああいう場面を増やして欲しかったな。
欲が出たついでにいわせてもらうなら、私はダンスがすきなので、ミュージカルといえば歌と踊り。ドリームスの後ろで若い男性ダンサーが踊る場面があるので、もっとダンサーの振り付けが見られるようなカメラワークにしてほしかった。どうせ1960年代のテレビ番組を描くなら、カメラワークも当時のテレビの真似をするくらいの徹底さがあってもよかったのではないだろうか。決してダンスや振り付けが悪いわけではないのだから、カメラマンの才能をいかすより、ダンサーたちの才能を最大限に表現してほしかった。しかし振り付けがいまはやりの体全体にけいれんをおこしてるような醜いものではなく、指の先まで神経をつかったのびのびしたものになっていたのは懐かしくもあり新鮮だった。
私はこのミュージカルが若いひとたちの間で人気を呼んでいることに非常に喜んでいる。この世にはラップ以外にも音楽はあるのだということを知ってもらうことと、黒人ミュージックといえば、ラップが破壊してしまうまでは昔は歌謡曲の先端をいっていたすばらしいものだったのだということを若い人たちが改めて知ってくれることは、今後の音楽界にとっても非常に良いことだと思う。
映画全体に流れるすばらしい曲の数々。ハドソンが哀愁をこめて歌う”One night only”, ビヨンセのソロ”listen”,
フォックスの”When I First Saw You”など私は舞台のミュージカルを観ている気分で、一曲終わる毎に拍手を送っていた。
ミュージカル映画としては最近まれに見るすばらしい映画になっている。是非ぜひごらんあれ!


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滅びる文明を描いたアポカリプト

メル・ギブソン監督のマヤ文明末期を舞台に一人の男の冒険を描いたアポカリプトが高評価を受けて人気ナンバー1である。(こちらのサイトで製作の苦労話や写真集を見ることができる)
前評判では暴力的すぎるという話だったし、予告編でも走っている場面ばかり多いように感じたので観にいく気は全くなかったのだが、友達が絶対に観る価値があるからというので先日見てきた。しかし私にはハリウッド映画特有の意味のないピストルの撃ち合いや爆発シーンなどに比べれば、確かに暴力シーンは凄まじいが現実的な意味のあるものになっていたと思う。

Mel Gibson in Apocalpto

メル・ギブソン監督


スペインの侵略によって滅びた南米マヤ文明だが、彼等も決して平和的な民族だったわけではない。それどころか彼等の文化は非常に血みどろのものだった。彼等は近隣部落に戦争をしかけては人々を拉致して奴隷にしたり生け贄にしたりしていたのである。
メキシコにあるマヤの遺跡には生け贄の人間が殺された岩台は何千何万という生け贄の血でどす黒く染まっているという。
この話はマヤ族の襲撃にあった部族の男たちとその家族の冒険を被害者の立場から描いたものである。映画の前半は部落の男たちが密林のなかで狩りをしたり、村にかえってきて家族と和やかなひとときを過ごしたりしているのだが、それが突然明け方に攻めてきたマヤ族によって村は焼かれ女たちは冒涜され生き残った若い男女は捕虜にされ連れ去られ、幼子は置き去りにされる。
捕虜の男女がマヤの町へつれていかれる途中、一行は病気で(天然痘?)死んだ母親の遺体のそばにたちすくむ発疹だらけの少女に出合う。病気がうつると恐れるマヤ族の男が少女を木の枝で押しよけると、少女は無気味な予言をする。
「豹と一緒に走る男がお前たちの終わりをつれてくる。お前たちはこの世からかき消される」
豹と走る男とは誰か? マヤ族をこの世からかき消すものとは何者か? 
さて、登場人物はすべて役者ではなく地元のインディアンを起用しており、誰も映画出演の経験などないどころか演技すらしたことのない人たちなんだそうだ。だからメル・ギブソン監督はシーンをいちいち自分で演技してみせてから役者たちに演技指導をしたそうだ。
私はそのことをテレビのインタビューを見て知ったのだが非常に驚いた。なにしろ彼等の演技はみなすばらしいし、素人だけを集めたにしては男も女も美形ばっかりだ。私はてっきりメキシコ人の役者を集めたのだとおもっていた。なにしろふんどし一丁で走り回る男たちは皆筋肉隆々の美しい若者だし、女たちも美人ぞろい。特に主役の若い男は非常に魅了的だ。
本当は秋頃公開の予定だったのが、メキシコの天気にめぐまれずかなり撮影は手間どったらしい。しかし我々観客にとっては待った甲斐があったというもの。
日本公開はいつなのかちょっと分からないが、ぜひお勧め。


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