人権擁護法の恐ろしさ! 日本人よカナダに学べ!

日本生まれ日本育ちのカカシより日本語が上手なアメリカ人コメンター、アレンさんがカナダで起きている人権擁護法の悪用に関する非常に貴重な事件を紹介してくれた。これをみていて、この法律がどれほど恐ろしいものであるか、是非日本の皆さんにも知っていただきたいと思ったので掲載する。
以前にカナダの政治評論家で作家のマーク・スタイン氏の記事を掲載したマクリーンという雑誌が人権擁護委員会によって起訴されたという事件を紹介した。この委員会によってひどい目にあわされているもう一人のコラムニストがいる。この人はエズラ・レバント(Ezra Levant)といい、デンマークで出版されたモハメッドをおちょくる漫画をカナダで再掲載したことで、カナダに住むイスラム教徒から告発され、人権擁護審議会の取り調べにあっているのだが、その様子を自分のブログでビデオによって紹介している。
以前にもちょっと説明したが、カナダの人権擁護審議会というのは正規の裁判所とは独立した政府機関だ。カナダでも普通の民事裁判の場合は原告側は自分達で弁護士を雇って被告の言動によって物理的または金銭的な被害を受けたことを証明しなければならない。もしも原告の訴えが認められず被告が無実だと判決が出た場合には原告側が被告側の弁護費を負担しなければならないことになっている。
ところが人権擁護審議会への訴えには単なる苦情だけで十分で、弁護士を雇う必要は全くない。審議会が訴えを取り上げた場合には、その場で審議にかかる費用は税金がまかなうため訴える側には何の痛手もない。ところが訴えられたほうはそうはいかない。多額の費用を使って自分が無実であることを証明しなければならない。『被告』は無実になろうと有罪になろうと時間やお金の浪費だけでなく評判も失う。訴えられたというだけで『被告』の損害は多大なのである。しかも審議会では裁判官や陪審員が事件の証拠を吟味するわけではなく、一人か二人の審査員が独断と偏見で審議をするのだ。
このことを念頭においてレバント氏が体験しているこの茶番劇裁判の様子をみてみることにしよう。下記は審議の初めにレバント氏がおこなった陳述である。

2008年、1月11日:アルバータ人権擁護委員間尋問、エズラ・レバントの陳述より

私の名はエズラ・レバント、政府の尋問の前に陳述をさせていただきます。2年前にウエスタンスタンダードマガジンがデンマークのモハメッドの漫画を掲載した時、私は出版者でした。
私の人生のなかで一番誇りに思う時でした。事実本日もやらせていただきました。悲しいことにウエスタンスタンダードは印刷版を発行していませんが、本日私は私のウェッブサイト であるezralevant.comに漫画を掲載しました。
私は私の意に反して政府の尋問に答えるべくここにいます。政府および誰もあの絵を掲載したことについて尋問をする法的権利などないというのが私の見解です。尋問は私の古代からの揺るがせない自由を侵すものであります。この自由とは印刷の自由、宗教の自由、そして聖廟と政府の分離です。特にアルバータ人権擁護委員会となのる役所が政府機関として私の人権を迫害するなど異常です。ですから今後私はこの政府機関を「審議会」もしくは“the hrc”とします。人権擁護審議会などというのは言葉の意味を破壊してしまうからです。

以前にも説明した通り、この審議会の本来の目的はアパートを借りる時や就職の際に少数民族だという理由で差別されたといかいう低レベルのいざこざの仲裁に入るために作られたものだった。ところが今回は世俗主義の政府が市民の税金を使ってイスラム教過激派の考えを市民に押し付けようとしているのだ、これが政教分離主義のカナダでおきるなど言語道断である、とレバント氏は続ける。
レバント氏は人権擁護審議会が取り上げた過去のケースを調査したところ、この審議会は民事裁判所では取り上げられないような、くだらない事件のゴミ処理場に成り果てているらしい。
たとえば学校で「負け犬」と女の子にからかわれた男の子の苦情を審議会は本気で取り上げたり、C型肝炎を煩っている調理場支配人が解雇されたのは人権迫害だと訴えたりしている事件ではこの調理場支配人に審議会は同意し、レストランに4900ドルの罰金を支払うように命令したりしているのだ。
「つまり」とレバント氏、「アルバータの審議会は茶番劇です。」審議会の審査委員はひとりも裁判官の資格をもたず弁護士ですらない。ここでレバント氏は引退した裁判官が市民の小さな諍いを裁くアメリカのテレビ番組、ジャッジジュディを引き合いにだし、少なくともジュディ裁判官は本物の裁判官であり言論の自由を信じていると語る。
美容院やレストランでの諍いごとを取り上げるだけでも良くないのに、審議会は言論の自由を迫害しようとしている。人権擁護審議会の創設者であるアラン・ボロボイ( Alan Borovoy)氏ですら、審議会の意図は言論規制ではないと語っているとレバント氏は言う。
だが、ここでカカシが明確にしておかねばならないのは、当初の意図や目的はともかく、このように政府機関に憲法違反にあたる権威を与えてしまえば、いずれはこのような権力の乱用が起きることは目に見えていたことなのだ。一部の役人に特別権力を与えてその悪用がされないなどと考えるほうがナイーブすぎるのだ。
レバント氏が自分のサイトに掲載したビデオのなかで、審査員の女性がモハメッドの漫画を再掲載した意図は何かと聞く場面が映っている。それに対してレバント氏は、自分の意図は言論の自由を活用することにある。たとえ原告が言うように、自分の行為がイスラム教徒の神経を逆撫でするものでイスラム過激派を侮辱するものだったとしても、自分にはその意見を公表する権利があるのだと語った。
政治的宗教的な異論を唱えることができないというなら、それは自由な国とはいえない。
ところで、どうしてアメリカではこのような事件が起きないのだろうか? それはアメリカでは憲法に違反する法律は裁判所が認めないからだ。カナダやイギリスの人権擁護法は明かにアメリカの言論の自由を保証する憲法に違反する。アメリカには裁判所以外の政府機関が出版の自由についてとやかくいう権威を所持しない。日本人は何かと『欧米』などといってヨーロッパとアメリカを一緒くたにして判断する傾向があるが、アメリカの憲法は欧州とは決定的な違いを持つ。たとえ大統領といえど、国民の言論の自由を弾圧することはできない。
日本の人権擁護法がカナダの法律と同じようなものかどうかは解らない。だが日本の憲法はアメリカのそれよりもカナダやイギリスに近い。もしこの悪法を通過させれば、日本もイギリスやカナダの二の舞いを踊ることは間違いない。
どうか日本市民のみなさん、イギリスやカナダの悪例を反面教師として日本は断固このような悪法を通さないよう、戦っていただきたい。
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ここまで来たイギリスの人権擁護法:イスラム批判で保守派ブロガーに逮捕状!

人権擁護法カテゴリーを新しく建設しました。海外における人権擁護法の悪影響や日本が海外から学ぶべき情報を特集しておりますので御覧下さい。*
瀬戸氏のところで、人権擁護法が日本でも浮上しているというお話を読んで、これは由々しき問題だと感じている。私は瀬戸氏の考えには100%同意しているわけではないが、この法律が人権弾圧に悪用される恐ろしい可能性を持つ法律であるという点には全面的に同意する。
日本よりも一足先に人権擁護法を適用したイギリスやカナダでは人権擁護法がイスラムテロリストや犯罪者によって悪用され、善良な一般市民の自由が迫害されているという話を私はこのブログでも何度かしてきたが、今回はイスラム過激派によって生活を台無しにされたイギリスの保守派ブロガー、ライオンハート(Lionheart)の話をしたい。
イギリスといえば、日本やアメリカと同じで自由な国であるはずだ。言論の自由、特に政治的な意見を述べることは国の法律が保証しているはず。誰も命の危険を感じずに思ったことがいえるのが自由主義国の特徴のはず。だが、イスラム過激派に乗っ取られつつあるヨーロッパ諸国では、いまや命の危険を感じずにイスラム批判をすることは出来なくなった。これらの国の政府は人権擁護法を使って命を狙われる市民の身を守るどころか、イスラム批判をする人間を「憎しみや暴力を煽る」という罪でかえって法的に罰するというひどい状況が起きている。日本も今、人権擁護法案が検討されているが、このような法律が適用された場合、これが市民の自由にどのような悪影響を及ぼすか、自由を愛する市民の皆様に肝に銘じていただきたい。
ライオンハートの実名はポール。彼はイギリスのルトン(Luton)の出身だ。このルトンという町は最近パキスタン系イスラム教移民やアルカエダ系の暴力団が多く住み着くようになり、麻薬売買や売春などが蔓延する非常に柄の悪い町と化してしまった。7/7のロンドン地下鉄テロの犯人たちもすべてルトン出身。ルトンには自爆テロを育てるような過激聖廟がいくつかある。
ポールは自分の住む町がイスラム系暴力団に乗っ取られていくのを憂いて、その暴虐の実態を記録し、警察に協力して麻薬販売者を逮捕する手伝いをしたりしていた。しかしポールによると腐敗した警察の内部からポールの本名が情報提供者としてイスラム系暴力団に暴露されてしまったという。
命を狙われはじめたポールは住処を追われ隠れ身となった。そしてポールは自分の身に起きた話を多くの人に読んでもらおうとブログを書きはじめた。これがイギリス警察にいわせると「憎しみと暴力を煽る」行為だというのである。
チェスラークロニクルのフィリスが行ったポール・ライオンハートとのインタビューによると、ポールは現在31歳。逮捕を目前に控えて、友人を通じてイギリスでも指折りの腕のいい弁護士を紹介してもらったという。またアメリカの弁護士も相談に乗ってくれているという。

フィリス: イギリスでは他のブロガーでこういう目にあったひとはいるの?

ポール: いや、ブロガーでは僕が初めてです。
フィリス: いったいあなたは逮捕されるようなどんなことを書いたの?
ポール: 僕は自分が住んでいるルトンとダンスタブル(Dunstable)のなかにある大きなパキスタンイスラム系居住区で起きている現場の様子をこと細かく書きつらねました。ルトンはご存じのように7/7自爆犯人の出発点で、国際イスラムテロリスト非常に多くのつながりがあるのです。僕はそのことについてブログに書きました。
僕は市街を仕切っている麻薬密売暴力団から命を狙われたため逃げなければなりませんでした。知り合いが僕の経験を書き留められるようにとブログを設置してくれました。それ以来僕は住所不定になり図書館や友達のインターネットを借りてブログを書き続けているのです。
フィリス: 「人種差別」の告発の背後にいるのは誰ですか?どうしてイギリス政府がその告発に対処することになったのですか?
ポール: 僕には全くわかりません。でもそのうちに明かになると確信しています。この「人種差別」告発は僕を黙らせるために利用されています。僕は僕をよく知っていてこの告発がどれだけ馬鹿げたものかを反論してくれる多人種の友達をいくらでも紹介することができます。僕の親友の一人は黒人です。僕にはユダヤ人の友達がたくさんいますし、僕はイスラエルのために命をかけることだってできる。オマー・バクリとアム・ハムザ(7/7事件の犯人)事件に関わったグレン・ジェニーも僕を応援してくれてます。
フィリス: ユダヤ人嫌いや反ユダヤ差別が人種差別だと理解しているなんて新鮮だわ。あなたはこの戦いには何がかかっていると思う?
ポール: 僕の自由、僕の命、僕が自分の身に個人的に何が起きているのか、僕の町で、僕の国で、そして文明社会で、西側諸国に仕掛けられたイスラム教聖戦について真実を語る自由です。さらに文明社会全体がかかっています。イスラム世界はユダヤ人種や西側諸国の完全破壊を唱えているのです。

にも関わらず、イギリス警察は西側社会を崩壊せよと唱えるイスラム過激派やイギリス国内の安全を脅かす当のイスラム暴力団を野放しにしてその悪行を暴いているポールを逮捕しようというのだから本末転倒だ。ポールはイスラム過激派が西洋社会を破壊し世界支配をしようとしていることは明らかであり、自分らの世代が戦わなければいったい文明社会の将来はどうなってしまうのだと問いかける。
ところで、ポール自身がニオナチだという噂がアメリカのブログ界でひろがった。その原因はポールが英国ナショナル党(BNP)というニオナチグループに同情的な意見を書いたことが何回かあることだ。確かに過去ログのなかにはBNPを支持するようなエントリーがあるにはある。ポールにいわせるとBNPはニオナチではないという考えらしい。彼自身はナチスを嫌っているし自分のブログにはキリスト教の十字架とユダヤ教のデイビッドの星を並べて「連合!」と書かれているくらいだから、彼自身がニオナチということはないと思う。しかし人種差別を糾弾する立場の人間が人種差別を売り物にしているようなグループと交友関係をもっているというのはちょっと問題だ。誤解を受けるようなエントリーがあったことも十分反省の余地があるだろう。
しかし仮に彼がニオナチでも、だったら彼の言論の自由は迫害されてもいいという理屈にはならない。ポールはイスラム教徒を一斉に狩出して皆殺しにしてしまえ、などと言ったわけではないのだ。実際に自分の住む地元でイスラム系暴力団によってどのような犯罪がおかされているかを暴露しただけなのだ。これがなんで「憎しみや暴力を煽った」などという罪になるのだ?「ニオナチのブロガーの身に起きたことだからどうでもいい」などと考えていると、次の逮捕状は我々に送られてくるかもしれないのだ。
人権擁護法などという法律が、本当に人権擁護になど使われた試しはない。どこの国でもこの法律が取り入れられると人権擁護と称した自由弾圧と人権迫害に悪用されるだけなのだ。イギリスしかり、カナダしかりである。
日本にはイスラム教テロリストなどいないから関係ないなどと考えるならそれはとんでもない思い違いだ。日本にも中国や東南アジアの暴力団関係者がいくらも入ってきているではないか。もし外国人暴力団によって脅かされている地元の日本人が地元の状況をブログに「うちの近所では中国系暴力団の経営する風俗店で麻薬売買が行われている。」とか「中国人らしいやくざな男たちが町を歩き回り、婦女子は恐くて通りをあるけない」などと書いたら、中国人に対する人種差別、「中国人への憎しみと暴力を煽る行為」といわれて告訴されるなどというシナリオは人権擁護法の下では十分にあり得ることなのである。
こうした西側諸国の前例から日本の人々もよく学んでいただきたいと思う。
人権擁護法断じて反対!
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カナダ:イスラム批判は人権迫害? その2
人権保護という名の言論弾圧


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カナダ:イスラム批判は人権迫害? その2

先日カナダ:イスラム批判は人権迫害?で、カナダの人権擁護審議会(HRC)が新聞やブログなどの記事を対象に言論弾圧を行っているという話をしたばかりだが、実は今日になってイスラム教徒の法律学生数人がマクリーン誌を相手にHRCに苦情を申し立てたきっかけとなった記事は、私がこのブログでも何度か取り上げたマーク・スタインというカナダの作家の書いたThe Future Belongs to Islamであったことを知った。
当のマーク・スタインのブログによると、ことのきっかけは2006年10月にスタインが書いた欧米に増えつつあるイスラム教徒の人口に関する記事に数名のイスラム教徒法律学生が記事を載せたマクリーン誌に反論を載せたいと申し出て断られたことから始まる。(スタインのコラムの内容は私が以前に紹介した彼の著書の内容を短くまとめたものだ。)
これについて、HRCに訴えた学生たちのいい分はこうだ。自分らは言論の自由を重んじるため、スタインの記事を掲載したマクリーン誌の編集者と合ってスタイン氏の示すイスラム恐怖症見解の内容への反論をお互いに同意できる著者によって書くことを話しあった。

マクリーン誌はそんな反論をのせるくらいなら破産したほうがましだと答えたため、我々は人権擁護審議会に苦情を申し出た。これは少数民族が自分達に関する議論に直接異論を唱える言論の自由を持つのか、それとも迫害されるのかという問題だ。我々の調査によればマクリーンは過去に2005年の1月から2007年の7月にかけて18件にもわたるイスラム恐怖症内容の記事を掲載している。イスラム教組織からの反論は何回掲載されているかといえば全くゼロである。

しかしマクリーン誌側のいい分は原告のそれとはかなり食い違っている。

当事者の法律学生たちは記事が掲載されてから5か月も経ってから我々に合いにきた。彼等は反論する機会を与えてほしいと言った。我々はすでに多くの反論を投書欄で掲載したが、穏当なものであれば掲載を考えてもいいと答えた。彼等は5ページにわたる記事を彼等の選んだ著者にかかせ、つづりや文法の間違い以外の編集は認めないことを要請した。また彼等は反論が表紙のアートで紹介されることを要求した。我々はそれはとても穏当な要求とは考えられないと答えた。彼等がその要求を主張し続けたため、外部の人間に我々のやり方や雑誌の内容を逐一口出しされるくらいなら破産した方がましだと答えた。いまでもその気持ちは変わらない。

むろん学生たちの目的はもともとマクリーン誌に反論を載せることにあったのではない。それが目的ならマクリーン誌に拒絶された時点で、リベラルなライバル紙にでも「マクリーン誌のイスラム教恐怖症を暴く」とでもいって原稿を提出すればどこかの新聞が取り上げてくれたことは間違いない。いや、それをいうなら、マクリーン誌も指摘しているように穏当な条件で反論を提出すればよかったのである。
だが、彼等の目的はもともとスタインの記事に反論することではなく、マクリーン誌のような保守派の雑誌や新聞がイスラム批評をするのを阻止することにあったのだ。つまり、彼等はもともとわざとマクリーン誌が受け入れられない無理難題を要求してそれが断られたら人権を迫害されたといって人権擁護審議会に訴える計画だった。カナダのHRCは親イスラム教で反保守派なので、彼等が原告の訴えに同情的な判決をくだすことは十分に期待できたし、そうでないまでも訴えられたマクリーン誌は弁護のために多額の金額を浪費しなければならなくなる。
この訴えに勝っても負けてもマクリーン誌がうける損害は多大だ。となれば、今後マクリーン誌のみならず、他のメディアもHRCへの訴えを恐れてイスラム批判の記事を掲載できなくなる。学生たちの狙いはここだ。カナダのメディアからいっさいのイスラム批評を弾圧させようというのだ。彼等は自分らの言論の自由が迫害されたの何のといいながら、彼等の最終目的はイスラム批判をする人々の言論を弾圧することにある。自分らの人権が迫害されといいながら、本当の目的は他者の人権を迫害することにあるのだ。
そしてカナダの人権擁護審議会はその人権迫害言論弾圧の共犯者と成り果てているのだ
これについてスタイン自身はこのように語る。

結論からいうならば、私は自由にカナダで生まれた市民がカナダ政府の許可なくして私のコラムを読めないという考えそのものを拒絶する。腹立たしいのは(苦情を提出した)エルマスリー教授やその仲間たちの苦情ではなく、カナダの似非裁判所が彼等の訴えを真剣に聞き入れたことだ。私は判決など全く興味がない。ただ無実に終わることはかえって民間経営の雑誌の編集長として政府が口出しする行為を正当化することになる害があると思うが。 デイビッド・ワレンも指摘しているように罰は判決そのものではなくその過程にあるのだ。何千万ドルも使って自分らが正しいと議論することは言論の自由に何の役にもたたない。これは新聞の編集者や書籍の出版社や本屋の経営者たちに、この種の本を出版したり掲載したり販売したり掲示したりするのはやっかいなだけで何の得にもならないという合図をおくることになり、カナダにおける言論の自由を弾圧することにつながるのだ。

これは政治的起訴なのであり政治的に反撃すべきなのだ。「原告」は明らかにそのことを承知している。彼等が(編集長の)ケン・ホワイトに合いに行ってマクリーンから賠償金を要求した時から承知していたのだ。私は憲法上においてこの過程自体を転覆させたい。そうすることでカナダ人がアメリカやイギリスやオーストラリアの読者と同じように(自分達で)私の著書の善し悪しを判断し、市場がその価値の有る無しを決めるようになってほしい。ノルウェーのイマームがノルウェーについての発言ができるというのに、カナダの雑誌がその発言を掲載することが「憎悪犯罪」になるなどというのは、すべてのカナダ人にひどい恥をかかせることになる。

皮肉なことに、スタインはトルコやインドネシアのイスラム教出版社からコラムの掲載を打診する話がきているという。イスラム国の出版社よりもカナダの人権擁護審議会は偏狭だとは全く嘆かわしいとスタインは語る。


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カナダ:イスラム批判は人権迫害? 

以前に人権保護という言論弾圧でイギリスにおける人権保護とか擁護とかを口実にした言論弾圧について書いたことがあるが、今回はカナダの例をご紹介しよう。
カナダではイギリスや他の欧州諸国ほどひどくはないとはいえ、イスラム教市民団体による横暴がかなり幅を効かすようになってきている。これについては過去にも何度か述べてきた。

不公平なバンクーバー市内禁煙法、イスラム教徒には特別許可!

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今回はカナダのマクリーンマガジンがカナダイスラム議会(The Canadian Islamic Congress, CIC)という市民団体から人権擁護審議会に苦情を申し立てられいるという ナショナルポストに載ったこの記事からご紹介しよう。
CICがマクリーンマガジンを訴えている理由というのが、同誌が掲載したイスラム教移民に関する記事への、CICによる5ページにも渡る抗議文掲載を同誌が拒否したというだけというのだからひどい。しかもこの記事の著者、Ezra Levantによれば、多分マクリーンマガジンは負けるだろうというのである。
いくらカナダでも雑誌の編集者に自分の下らない投書を載せろと強制するのが人権保護などであるはずがない。しかしイスラム議会はそうは見ていない。ブリティッシュコロンビアの連邦人権保護評議会に苦情を訴えたイスラム議会のいい分は、マクリーン誌は「明らかにイスラム恐怖症」であり、「カナダのイスラム教徒を憎悪と嫌悪の対象としている」というものだ。「私は個人的に被害にあった。」と最近の記者会見でCICのKhurrum Awan氏は述べた。しかし、CICが怒っている理由となったマクリーン誌の記事とは単に西洋諸国でイスラム教徒の数が増えているという人口分布に関するものだったのだという。
実はカナダのイスラム議会は過去にも数々の新聞社を名誉毀損で訴えてきたがすべて敗訴で終わっている。カナダの民事では、原告側は実際に自分達が明らかな被害を受けたことを証明しなければならず、これには弁護士を雇ってめんどうくさい裁判を経なければならない。そこまでして負ければ、かえってイスラム議会は恥をかく。また負けた側が買った側の弁護費用も負担しなければならないため、やたらな訴訟は害あって益なしである。(こういう点はアメリカも見習って欲しいものだ)
民事訴訟がうまくいかないと悟ったイスラム議会は今度は極端な悪質な差別用語や一部の人間への暴力を促進するような演説に限られて作られたヘイトスピーチ取締法という刑事裁判も試みたが、これは民事よりもっと証明が難かしく最初から無理。
そこでCICが考え出したのが人権保護審議会への苦情申し立て。これなら弁護士を雇う必要はないし、一旦苦情が取り上げられれば後の審議は税金がまかなってくれるので、訴えた側の経費はゼロ。しかし訴えられた側のマクリーンは弁護士を自腹を切って雇ってCICの苦情が根も葉もないことを証明しなければならない。審議会では一般の裁判や法律で取り決められた証拠は必ずしも取り上げられない。しかも審議会はおよそ中立とはいえないのだ。審議会のメンバーの多くは弁護士だが、それでもカナダの言論の自由を保証する憲法を理解しているメンバーは少ないとナショナルポストの記事は述べている。
この審議会が課す罰というのがまた不思議なのだ。政府と原告への罰金もさることながら、被告は許容できない政治的もしくは宗教的な意見を持ったとして「謝罪」を強制される。
これはハッキリ言って罰金よりもひどい。なぜならこの罰は、政府がよしとしない思想をもったことを悔い改め、個人や雑誌の個人的意見を弾圧して、政府の決めた思想を発表せよと命令するものだからだ。カナダの人権保護審議会はマクリーン誌が正しかろうがどうしようが「謝罪」を強制することができる。同誌の編集者であるケン・ホワイトに「自分は人種差別者だ」と無理矢理言わせる権限があるのだ。ひどい時になるとホワイトは強制的にイスラム教の勉強をさせらえる可能性もある。
私はもともと人権保護だの擁護だのの目的で作られた政府機関など頭から信用していない。こういう機関は最初の意図はどうあれ、絶対に一部の団体を保護するためにほかの団体が弾圧されるという悪結果をもたらすからだ。声が大きく政治力のある少数民族が政府に取り入り、彼等のいい分はどんな理不尽なことでも通るが、彼等を批判すればそれが「人種差別だ」「人権侵害だ」と騒ぎ立てて政治的に対立するグループの言論の自由が奪われる。人権保護機関がそうでない理由で使われることなど稀なのだ。
カナダの場合も例外ではない。カナダの人権保護審議会が設立されたのは1960年代で、当初の目的は人種などによって住宅を拒絶されたり就職できなかったりといった差別を阻止するために作られた。しかしそれはすぐに、なんらかの理由で仕事を首になった従業員による苦情申し立てや、くだらないセクハラ苦情受付の機関へと変化してしまった。(セクハラそのものが下らないと言う意味ではない。これは何かあるとすぐセクハラといって大げさに騒ぐ下らないケースのことを指している。)
人権保護審議会が設立当初審議すべきだとしていた「出版物」とは、「ユダヤ人お断り」とか「白人のみ入場可」といった差別的な看板などであり、マクリーン誌の掲載したような人口分布調査などがあてはまるはずがないことは常識的に考えて明白だ。しかし今やカナダの人権保護審議会は新聞や雑誌が自由に意見を述べらるのを規制する、いわゆる言論弾圧の道具となりはてている。
げんに以前に審議会のメンバーだったリチャード・ワーマンという弁護士は、審議会に26件もの苦情をうったえており、その苦情は半分以上も受け入れられ、多額の「賠償金」を勝ち取っているという。ワーマンはリベラルな政治活動家で、弁護士など雇って反論できないような個人的な零細ブログを対象に苦情を申し立てている。
もっと恐ろしいケースでは、キリスト教神父が新聞に寄せた投書において、神父が「同性愛は道徳上の罪で」であり同性愛者には社会的な「目的」があると書いたのを、地元の教師が反論を新聞に投書するかわりに人権保護審議会に訴えた。審議会ではたった一人の離婚独身の弁護士によってこの手紙の「掲載によって同性愛者に対する憎悪と嫌悪は言論の自由を逸脱するものである」と結論つけられた。つまり神父の信教は人権迫害だというのである。
この結論こそが、まさに言論の自由と宗教の自由を迫害するものではないのか?これこそ自由社会の基礎となる自由な思想を弾圧する人権迫害ではないのか?
自分の気に入らない意見や思想の公表を容認してこそ本当の意味の言論の自由は保証されるのだ。気にいった意見だけはきいて他を弾圧する人間に人権云々の議論をする資格はない。


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信仰と政治の両立は可能か? ミット・ロムニー候補の演説を考える

共和党大統領に立候補しているミット・ロムニーマサチューセッツ元知事は、モルモン教徒であるということで、福音書右翼や世俗主義左翼から、大統領にふさわしくないという批判を多く受けている。
モルモン教はその始まりが過激思想のジョン・スミスとその妻エマによって創設されたが、そのあまりの過激さにジョン・スミスは暗殺され、教徒は追放の憂き目をみた。二代目のブリガミア・ヤングは自由の地をもとめて従者をひきつれ旅にで、ユタ州におちついた。しかしその後もモルモン教はテロリスト的な暴力行為を繰り返し、主流キリスト教徒たちからは「カルト」として忌み嫌われた。彼等の一夫多妻制度も長いこと批判の対象となっていた。
しかし時とともにモルモン教は主流化し、今ではごく普通のキリスト教の一宗派として受け入れられている。一夫多妻制度など、とっくの昔に破棄されており、ミット・ロムニーは二十何年前にめとった最初の細君といまだに円満だ。カトリック教徒なのに三回も離婚しているジュリアーニ元ニューヨーク市長とは大違いである。
にも関わらず、ロムニー候補に対する「モルモン教徒」批判は強まる一方である。そこで数カ月前から、ロム二ーは昔、ジョン・F・ケネディがアメリカで初のカトリック教大統領となるべく立候補した時にしたように、自分の信仰と大統領としての信念を国民にきちんと説明する必要があるといわれてきた。ロム二ーは最近ぱ浸礼派教徒の候補者マイク・ハッカビーに押され気味でもあり、1月のアイオワコーカスを前にここはひとつ演説をぶっておかねばならないと考えたようだ。
その演説が、先日パパブッシュの大統領図書館において行われた。上記のリンクからビデオをみることが出来るので、英語のヒアリングに自信のある方はぜひ演説を聞いていただきたい。
まずロムニー候補は先の大統領の紹介に感謝した後、パパブッシュが第二次世界大戦中に戦闘パイロットで活躍し、のちに敵に撃ち落とされたのを米潜水艦に救われたという話をし、先代はアメリカの自由を守るために常に立ち上がって戦ってくれたと讃えた。これが先の世代が「偉大なる世代」といわれるゆえんだとし、自分達の世代が直面するイスラム過激派テロリストによる脅威、国家の莫大な負債、石油の使い過ぎ、離婚問題といった問題をかかえ、先代に見習って自由を守るために戦わねばならないと演説をはじめた。

人によっては、我々の直面する脅威において宗教など特に真剣に考える必要はないといいます。しかし彼等のそうした考えはアメリカ国家創設者たちの考えと異なります。 国家創設者たちは国家の偉大なる危機に瀕した時、創造者の祝福を求めました。そしてさらに、自由な国の生存と宗教の自由を守ることが深くつながっていることを発見したのです。ジョン・アダムスの言葉ですが、「道徳と信仰によって、束縛を解かれた人間の情熱と戦うことができるほど、強く武装した政府は存在しません。我々の憲法は道徳的で信仰心の強い人々によって作られたのです。」
自由は宗教を必要とし、宗教は自由を必要とします。自由は心の窓を開け放ち、魂が神と一体となるためのもっとも重大な信仰を発見することができるのです。 自由は宗教と共に耐え、宗教なくして滅びるのです。
….
50年ほど前、マサチューセッツ出身のもうひとりの候補者が、彼はアメリカ人として大統領に立候補しているのであり、カトリックとして大統領に立候補しているのではないと説明しました。彼と同じように、私もアメリカ人として大統領に立候補しています。私は自分の候補性を私の宗教で形作るつもりはありません。人は、宗教が理由で選ばれるべきでもなければ、宗教ゆえに拒絶されるべきでもありません。
私の協会も、いやそれをいうならどの協会も、私の大統領としての決断に影響を及ぼすことはないと保証します。彼らの権限は彼らの協会内部にのみあるのであり、彼らの権限の境界から国の政が始まるのです。
…..
人によってはそのような保証だけでは不十分だと言います。彼らは私が単に私の宗教から遠ざかるべきだといいます…私はそのようなことはしません。私はモルモン教を信じ、その教えに従って生きるつもりです。
…..
私の信仰に対するこのような告白は私の候補としての立場を危険にさらすことになるという人がいます。もしそれが正しいのであれば、それは仕方ありません。しかし私は彼らはアメリカ市民を見損なっていると思います。アメリカ市民はたとえ世界を得るためでも、自分の信じるものをおざなりにする者を見飽きているのです。

ここでロムニーはイエス・キリストをどう考えるかという説明を始める。モルモン教と福音書ではこのあたりでかなり違った教えがあるからなのだろう。しかしロムニーは自分がモルモン教の教えをつぶさにせつめいする義務はないと語る。なぜならば、そのようなことをするのは国の創設者たちが憲法で禁じた宗教の試験をすることになるからだ。ロムにーが、「どんな候補も彼の宗教の報道官になるべきではありません。そして彼が大統領になったときは彼は人々のすべての信仰によるお祈りを必要とするのです。」と言ったところでは、会場から一斉に歓声が沸いた。
ロムニーは宗教こそがアメリカ国家の基盤だとしながらも、どの宗教を個人が選ぶかは個人の自由だとしている。そして政教分離の大事さを唱え、どのような宗教も政府を独裁してはいけないし、宗教の自由を迫害してもいけないと語った。しかし最近の公の場での宗教関係のシンボルがことごとく取り除かれている傾向については、これはアメリカ国家創設者たちの意図に反するものだと主張した。このような行為は世俗主義という宗教の押し付けであり間違っているとロムニーは言う。また、大統領となった暁には保守派の裁判官を任命するという意志を次のようにあらわした。

創設者たちは、国家宗教の設立は禁じましたが、公共の場から宗教を取り除けなどとはいっていません。私たちは「神の元に」そして神の中にある国家で神を信頼しています。私たちは創設者がそうしたように創造者の存在を認めるべきです。神は私たちの貨幣にも、私たちの宣誓にも、歴史の教えのなかにも、そして祝いの季節のあいだも、残るべきです。キリスト降誕の図やマノラは公共の場で歓迎されるべきです。わが国の偉大さは憲法の元となった信仰の基盤を尊敬する裁判官なくしては長くは持ちません。私は政府の政と宗教の分離に関してはきちんと計らいます。しかし、私は自由をもたらした神から人々を離すようなことは致しません。

宗教保守がこれを聞いて気分が悪いはずがない。なにしろリベラルな裁判官によって何かと宗教が迫害されている今日この頃、公共の場での宗教シンボル掲示は政教分離の精神に反さないという裁判官を多く任命してもらえるかどうかは非常に大切な問題だ。
ロムニーは大事なのは大統領が宗教を基盤にした、平等、助け合い、自由の保護といったアメリカの価値観をもっているかどうかなのであり、このような価値観はどの宗派を信じていても同じだという。この宗教の価値観によってアメリカはまとまってきたのだと語る。
アメリカ人は皆自由は神からの贈り物であることを知っている。アメリカほど自由のために自らを犠牲にして戦ってきた国はないとロムニーは言う。このアメリカの価値観と道徳的伝統はロムニー自身の宗教にも他の宗教にも共通するものだ。
現在のアメリカ人は常に宗教の自由を経験してきたので、そういう自由が無かった時代を忘れてしまったのかもしれないとロムニー。ヨーロッパから宗教弾圧を逃れるために新世界へ逃げてきた人たちが、今度は自分達が異教徒を迫害する立場になったりした歴史を振り返り、ロムニーはアメリカの創設者こそが、フィラデルフィアで「自由とは何か」という画期的な定義付けをしたのだと語る。
ロムニーは自分が欧州を訪れたとき、国教のあった国々には美しい教会がいくつもあったが、礼拝者がいずに空っぽのところが多かったという。これは一重に国が国民に宗教を押し付けたことが原因だという。宗教を国民に押し付けることも悪いが、それ以上に悪いのは過激派聖戦主義者が暴力で人々を改宗させようと言う行為だ。我々はこれまでには無かった偉大なる危機に瀕しているとする。ここでロムニーは対テロ戦争にも真剣に取り組むつもりだと国民に約束しているわけだ。
アメリカの創設者たちは、イギリスとの独立戦争に面して、宗派の違うもの同士がアメリカの愛国者として心をひとつにして祈った過去をもう一度語りかける。

この精神を、神聖な自由の著者に感謝し、一緒にこの国が常に自由の聖なる火にともされ神に祝福されるよう、祈ろうではありませんか。

神よアメリカ合衆国にご加護を与えたまえ!

このような演説を聴くと、日本の読者の皆様は何か神がかりすぎて変な印象を受けるかもしれない。だが、ロムニーが今捕らえなければならない投票者は世俗主義のリベラルではなく、信心深い宗教右翼なのである。ロムニーの最大のライバルであるマイク・ハッカビーは、ロムニーの宗教は本物のキリスト教ではないとでも言わんばかりに、自分は「キリスト教徒の候補だ」とテレビでビデオコマーシャルを流しているほどなのである。
ロムニーは今の時点で無所属やリベラルの支持を得る必要は全くない。大切なのはアイオワとニューハンプシャーで保守派の票を稼ぐことにある。だから自分が信心深い人間であり、アメリカの基盤となっているイエス・キリストが救世主であることを信じていると主張することで、他のキリスト教宗派にこの人間は安全だと信用してもらうことが大事なのだ。私はロムニーはこの演説でそれをやり遂げたと思う。


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影響力減るアメリカのユダヤ系、ユダヤ教徒相手の豚ハム宣伝が意味するもの

実はこの記事、アメリカのブログで2〜3日前に読んで大笑いしたのだが、陳さんの感想が面白いのでちょっとここで載せてみたい。しかしその前に事件の詳細。

【12月7日 AFP】米ニューヨーク(New York)のグリニッジビレッジにある高級食料品店が、ブタ肉を原料としたハムを、同教宗教行事ハヌカ(Hanukkah)用の「おすすめ品」として売り出していたことが分かった。ブタは、ユダヤ教の戒律で食べることが禁じられている不浄な食べ物の1つである。

同店でハヌカ用おすすめ品として売られていたハムに、ユダヤ教の戒律に即した適性食品を意味する「コーシャ」の印がないことに気がついたある女性が、店側に注意はせずインターネットにそのハムの画像を投稿した。
自身は厳格なユダヤ教徒ではないというその女性は、ニューヨーク・ポスト(New York Post)の取材に対し「おもしろいと思っただけで、別に怒っているわけではない。ただ、ユダヤ人の食べる物について何も知らない人がいると思ったの」と語った。
女性がハヌカ初日の4日に再び店を訪れたとき、「ハヌカ用おすすめ品」の文字はなくなっていた。店長によると、あの宣伝文句は店員が勘違いをして記載したものだったという。

これに関する陳さんの感想はこちら。

★まずこのニュースがなぜ深刻な内容を含んでいるかというと、アメリカにおけるユダヤ系市民の影響力低下を如実に示す内容だからです。…

★そもそも、これがアラブ人向けに同じ事をしていたら、今頃はテロが起こっていた筈です。発見したユダヤ人女性は「おもしろいと思っただけで、別に怒っているわけではない」などと言っていますが、これがレーガン大統領の頃なら、A○Lなんかが糾弾会をして、スーパーは倒産に追い込まれていたでしょう。そればかりか、マスコミを巻き込んでの大騒ぎになっていたはずです。そもそもユダヤ人がブタ肉を食べないなどというのは…常識であったはずなのです。そしてもともとユダヤ人が多い街で、その常識が通用しなくなったということが事態の深刻さを表しているのです。
★それにしても、ユダヤ人がこの手の深刻な人権侵害を「笑って済ませるようになった」となると・・・それもニューヨークで・・・こうした、ユダヤ人としてのアイデンティティーを喪失した単なる白人系のアメリカ人が増加しているというのは、アメリカが今後どのような方向に向かうのかを象徴しています。そして、アメリカの保護を受けることが期待できなくなるイスラエルの将来も。…

うちも世俗主義のユダヤ系で、ミスター苺は豚まんもトンカツも平気で食べるし、宗教らしいことは冠婚葬祭の時のみで、この記事を読んだ時も写真を撮った女性同様「面白いと思った」クチだ。アメリカのユダヤ系はうちみたいな世俗主義が非常に多いので、(大抵がリベラルなのだが)こういった風潮はそれほど新しいとは思えない。
ただ陳さんも指摘しているように、グリニッジビレッジといえば、ユダヤ系アメリカ人が非常に多いところで、地元の人たちもユダヤ系が豚肉を食べないことくらい常識として知っているはずだが、それがこんな大間違いを仕出かすというのは確かに不思議だ。
陳さんがいう通り、これが「ラマダンにぴったり」なんていう広告だったら、この店がイスラム教徒らによって爆破されていた可能性は大きい。そしてCAIRとかACLUなんていうお節介市民団体が乗り込んできて、この店はつぶれてしまっただろう。
ただユダヤ系は確かに訴訟好き(なにしろ弁護士が多いので)ではあるが、こと宗教にかんしてはあまりうるさくいわない主義だ。これは宗教によって差別され迫害されてきた歴史が長いことから、ユダヤ系はあまり宗教の面で社会的に目立ちたがらないせいではないかと思う。
しかし私が陳さんのいう、アメリカのユダヤ系はユダヤ系としてのアイデンティティーを失っているとか、イスラエルへの支持が低下しているというのはちょっと違うという気がする。
昔は反ユダヤ教徒といえば、右翼のキリスト教徒が多かったのだが、最近は同じ「聖書の人々」ということで、右翼キリスト教の間でユダヤ教徒やイスラエルを支持するひとたちが増えてきている。皮肉なことに、世俗主義ユダヤ系が多く所属しているリベラル派の間で、最近とみにあからさまな反ユダヤ教偏見が見られるようになった。
リベラルのモットーは「寛容」ということになっているため、表向きは彼等は人種差別を徹底的に糾弾するが、実はこれ、彼等の心の奥底にある強い人種差別意識の現れだと私は思う。だから保守派や右翼が何気なくする言動が常に人種差別意識からくるものだと我々を責め立てるのも投影というやつで、彼等は自分らの言動が常に人種差別意識から動かされているものだから、我々もそうに違いないと考えてしまうのだ。
リベラルのなかには、もともと反ユダヤ意識がいくらも存在していた。しかし口に出していうのははばかられるのでこれまで遠慮していたにすぎない。ところが、リベラルの宿敵である保守派やネオコンや宗教右翼がイスラム系テロリストと戦いはじめると、敵の敵は味方という意識でイスラム教徒への同情が強まった。そうなれば必然的にイスラム教の宿敵ユダヤ教が迫害の対象となるわけだ。元民主党議員でユダヤ教徒のジョー・リーバーマン上院議員がイラク戦争を支持したというだけで、先の選挙でリベラル派から攻撃されたが、その攻撃の仕方は彼の政策よりも彼がユダヤ人であることに集中されていた。こういうところで左翼の汚い本性が出るのだなと私は非常に嫌な気持ちになったものである。
イスラエル・パレスチナ政策でみられるように、アメリカのリベラルの間で増えているあからさまなユダヤ差別はアメリカの世俗主義ユダヤ系リベラルを複雑な立場に追い込む。一方で彼等は保守派の政策とは完全に相容れないが、もう一方でリベラルによるユダヤ差別は直接自分らの身の安全を脅かすことを知っている。彼等は宗教心など強くなく完全な世俗主義としてリベラルに融合してきた。しかし、異教社会に完全融合することが身の安全を保証しないことは、地元文化と完全融合していた彼等の祖父母たちがナチスドイツ及びヨーロッパでユダヤの血を引いているというだけで人種浄化の憂き目にあったことが証明している。
だから最近とみに力をみせてきているムーブオンなどという市民団体のあからさまなユダや差別がこれらのユダヤ系リベラルを不安な気持ちにさせているのは当然だろう。こうしてみていみると、今回のハム事件が「ユダヤ系市民の影響力低下を如実に示す」という陳さんの意見もまんざら的外れとはいえないのかもしれない。


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米フェミニストの偽善を暴いたモハメッドという熊のぬいぐるみ

最近イスラム圏の二つの国で女性を虐待する二つの事件が起きた。そのひとつはスーダンで小学校の教師をしていたイギリス人女性が生徒たちがマスコットにしているぬいぐるみの熊に「モハメッド」という名前をつけることを許可したことが、イスラム教を冒涜するとして15日間の禁固刑を受けたこと。そしてもうひとつはサウジアラビアで集団強姦された女性が強姦された際、親族でない男性と外出していたという理由で反対にむち打ちの刑にさらされることになったという事件だ。
まずはスーダンのイギリス人女性教師の事件

ハルツーム(CNN) スーダンの学校での授業中、ぬいぐるみのクマにイスラム教の預言者ムハンマドの名を付けたとして有罪判決を受け、バシル大統領から恩赦を与えられた英国人教師ジリアン・ギボンズさん(54)が、スーダンを出国した。英外務省関係者が3日明らかにした。

ギボンズさんはスーダンを訪問した英上院のイスラム系議員を通じて声明を発表し、「わたしはイスラム教を尊重しており、他人を傷つける意図はなかった」と述べ、自身の行動が苦痛を与えたことについて謝罪を表明した。
ギボンズさんは裁判所から国外退去を命じられた数時間後、旅客機でスーダンを離れた。ドバイ経由でロンドンに向かっており、4日未明にヒースロー空港に到着する予定。空港でマスコミ向けに声明を発表するとみられている。

この記事には詳細が述べられていないが、スーダン政府の15日禁固刑に不満をもったスダーン市民たちギボンズさんの処刑を要求して町で暴力的なデモンストレーションを行っていた。スダーン政府がギボンズさんを国外退去したのも、イギリス政府への遠慮と国内のイスラム市民への配慮との間をとった苦肉の策だったといえるだろう。
そして二つ目のサウジアラビアの事件

サウジアラビアの裁判所はこのほど、集団強姦罪で有罪とされた被告らの上訴審で、被害者の女性側の主張を受け入れて被告らの刑を重くする一方、女性の刑も加重する判決を言い渡した。女性の弁護士がCNNに語った。
集団暴行を受けた女性(19)は昨年の裁判で、親族ではない男性と会ったとして、むち打ち90回の刑を言い渡された。それが、14日の上訴審判決では、6カ月の服役とむち打ち200回の刑に加重されたという。
女性と友人男性を拉致・暴行した7被告に対しては、裁判所が昨年、10カ月〜5年の服役刑を宣告。女性側は死刑が妥当として、この判決への不服を表明していた。上訴審では、7被告に2年〜9年の服役刑が言い渡されたという。
女性の弁護士は「被告だけでなく、被害者の刑まで変えられたことに衝撃を受けている」と話している。裁判所はこの弁護士資格を取り消し、司法省の調べに応じるよう命じたという。
英字紙アラブ・ニューズは情報筋の話として、女性側がメディアを通じて裁判所に影響を与えようとしたことが、刑の加重につながったと伝えた。

カカシがイスラム教が嫌いな一番の理由が女性虐待の方針だ。これは単に女性蔑視などという概念では片付けられない。強姦の被害者が辱めをうけて世間に顔向け出来ないと感じるというのならまだ理解できるが、裁判所が被害者を罰するなど言語道断だ。これでは強姦の被害者が訴え出るなどということは絶対に出来なくなる。本来ならば親族の男性に復讐をしてもらいたいところだが、イスラム社会ではやたらに被害者が親族に訴えようものなら、親族を辱めたといって反対に実の兄弟に殺されかねない。要するに女は男の冒涜に黙って耐えよというのがイスラム教の教えなのだろうか?
さて、このような男尊女卑の裁判に対してアメリカではなにかと女性の人権問題で口うるさいフェミニストたちはどれほどの抗議をしているかというと、これが完全なる沈黙を守っている。
元全国女性協会(National Organization of Women, NOW)のテキサス支部長だった、タミー・ブルースがこのアメリカのフェミニストたちの偽善について書いている。(私の記憶が正しければ、先の大統領ビル・クリントンのセクハラ事件を巡ってタミー・ブルースはNOWがクリントンを批判するどころか、クリントンを弁護し、かえって被害者を攻める姿勢をとったことでNOWを辞任した。)

どうやら(スダーンでは)かわいい熊をモハメッドと名付けるのは予言者への冒涜だが、モハメッドと名乗る男が大量殺人を犯すのはイスラムへの冒涜にならないらしい。

少なくとも過去14年間にわたって、特に1993年にオサマ・ビン・ラデンが西洋文化に宣戦布告をして以来、私たちはイスラム原理教の狂気に直面してきた。そして同時に、いかにアメリカの左翼が臆病かということが暴露された。 その通り、ぬいぐるみの熊をもってして敵の精神異常性に焦点が当てられたと同時に、(アメリカの)フェミニストのだらしない実態が明らかにされたのだ。
国際社会のほとんどからギボンズへの仕打ちに適切な怒りが向けられた、ただしアメリカのフェミニストは例外だ。イギリス国内の数々のイスラム教団体がこの判決を批判した。ギブソン先生のクラスで人気者の男の子ですら先生の弁護に出て、熊は自分の名前からつけたと説明している。
しかし、フォックスニュースからコメントを求められたNOWの代表者は「このことについて見解を述べるつもりはない」と答えている。
これほどアメリカの左翼は堕落してしまったのだ。スダーンの幼いモスリムの男の子のほうがワシントンにいる「女性人権の代弁者」と自称する女性集団よりもよっぽども攻撃を受けた女性を守ろうという勇気と信念を持っている。
もう何年もアメリカのフェミニストの体制は便宜上フェミニストを名乗って民主党左翼のサクラと成り果てていることはあきらかだった。NOWやエレノア・スミールのフェミニストマジョリティーなどというグループは過去五年間に渡るイスラム教テロリストの女性への暴力に完全沈黙を守ってきた。女性問題は彼女たちにとって政治的勢力を得るためにがなり立てる便利なスローガンに過ぎない。
彼女らの悪意に満ちた沈黙はギボンズさんの事件に留まらない。サウジアラビアでは集団強姦された犠牲者が200回のむち打ちと6か月の禁固刑という判決を受けている。なぜかといえば、それは彼女が(強姦された時)親族でない男性と外出というシャリア法に違反する行為をとっていたからだ。彼女が生意気にも控訴したことで彼女の刑はより加算されたのだ。
このような奇怪な暴行にNOWやフェミニストマジョリティーの反応はどうかといえば、ジリアン・ギボンズの時と同様、全く同じく無反応。何故ならば(神よ禁めたまえ)戦うに値する邪悪な敵が存在するなどと認めるわけにはいかないからだ。そして(神よ禁めたまえ)一人の女性のためにアメリカが邪悪な帝国主義ではないかもしれないなど人々に気が付かれては困るからだ。

これは決してフェミニスト団体だけのことではないが、1960年代に創設されたアメリカの人権擁護市民団体はことごとく共産主義者や左翼主義者に乗っ取られてしまった。いまや彼等は人権擁護も女性問題も人種問題も興味がない。あるのはどれだけこれらの問題を悪用して自分達の政治的勢力を得られるかということだけだ。彼等は常に自分達こそが弱いものの味方だと言って、平等と公正を求める保守派を冷酷だとか男尊女卑主義だの人種差別者だのといって批判してきた。
だが、彼等こそが体制のみを重んじ、イスラム圏で野蛮人に教養をつけようと出かけていった善良なギボンズおなご先生や、か弱い19歳の乙女が冒涜されたことなど、自分らの政治勢力獲得に役に立たないものはことごとく無視するか邪魔になるものは敵視するかしかしない冷酷な人間どもなのだ。
タミー・ブルースはここ数年に渡ってアフガニスタンやイラクで婦女子虐待の悪を駆除するため感謝もされず認識もされずにひたすら戦ってきたのはNOWやリベラルや左翼が忌み嫌うアメリカ軍隊そのものだという。アメリカの海兵隊が自称フェミニストから命令を受けていたなら、彼等がこれまでに解放した何百万という女性たちがいまでも奴隷生活をしいられていたことだろうとタミー。
まさしくその通りだ。本来ならば女性虐待のイスラム教過激派の冒涜を真っ先に糾弾し、その過激派の悪と戦うブッシュ政権を率先して支持すべきアメリカのフェミニストたち。しかし彼女等の本性は女性人権擁護でもなんでもない。彼女たちの本来の目的は共産主義の促進だ。女性人権問題など単なる道具にすぎないのである。
無邪気なこどもたちのマスコット熊のぬいぐるみがアメリカフェミニストたちの偽善を暴くことになったのだ。


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イスラムの危機:テロリズムはイスラムの教えに反する

現代のテロはイスラム教とほぼ同義語になってしまっているので、テロリズムがイスラムの教えに反するなどといっても、そんなことは頭の弱いリベラル連中のプロパガンダとしか受け止められない読者も多いだろう。私がここで何度も紹介してきたロバート・スペンサーなどもその口で、テロリズムこそがイスラムの真髄だなどと平気で言う。だがここでルイス教授はあえて、イスラムは平和な宗教だと主張する。無論、現在世界の平和を脅かしているテロリストがイスラム過激派であることは否定できない。親イスラム教の人間がいくら「イスラムは平和な宗教だ」と言おうとテロリストの信念がイスラム教から派生したものであることは無視できない現実だ。ルイス教授もそのことは充分に認めている。イスラム教が戦いの宗教であることは過激派が好んで使うジハード(聖戦)という言葉に表れている。これについてはコーランの教えを説明するハディース(hadiths)では次のように示されている

ジハードはそなたの義務である、それが神のような支配者の下であろうと邪悪な支配者の下であろうとも。

日夜前線で戦う一日は一月の断食と祈りよりも勝るものである。
殉職者にとって武器による刺し傷よりも蟻の噛み傷のほうが痛い。
なぜなら刺し傷は彼にとって甘く冷たい真夏日の水のように歓迎されるからだ。
この合戦に参加せずに死ぬものは無信心者の死を迎える。
神は鎖によって天国へ引きずりこまれた人々を大切にする。
撃ち方を学べ、的と矢の間は天国の庭だ。
天国は刀の陰にある。

これだけみていると、いったいテロリストの説く言葉とどう違うのだという気がするが、ジハードをするにあたり、戦士はどのような戦闘規則(ROEs)に従わなければならないのかがハディースには明確に記されているという。

捕虜を優しく扱かうことを忠告しておく。
略奪は腐った肉ほども合法ではない。
神は女子供を殺すことを禁ずる。
モスリムはこれらの合意が合法であるとして縛られている。

またユダヤ教とキリスト教から派生したイスラム教は二つの宗教と同じように自殺を堅く禁じている。

預言者曰く、刃で自分を殺すものは地獄の火の中でその刃によって苦しめられるだろう。
預言者曰く、自分の首を吊ったものは地獄でも首を吊られ、自分を刺したものは地獄でも指され続ける…
自分を殺したものは地獄でも同じ方法で、復活の日が来るまで苦しめられる。

つまり、イスラム教徒はイスラム教を守るために戦うことは義務付けられているが、非戦闘員を殺したり虐待することは禁じられている。死を覚悟で戦うことは期待されるが、自ら命を絶つことは許されない。だとしたら、テロリストのやっていることは完全にこのイスラムの教えに反することになるではないか?何故このようなことをしている人間がイスラム教原理主義者だなどと大きな顔をしていられるのだろう?
イスラム過激派もいくつか種類が分かれる。サウジ体制の先制原理主義、イランの革命主義、そして無論アルカエダ過激派。どれもイスラム教の名の下に行動してはいるが、彼らの説くイスラム教はコーランを自分勝手に都合のいいところだけを選りすぐり、自分らの行動に都合の悪い部分は割愛するという、かなりいい加減なものだとルイス教授は指摘する。その典型的な例として教授は1989年の2月14日にイランのアヤトラ・ホメイニが小説家のサルマン・ラシディに向けて発布した「ファトワ」を挙げている。これは、ラシディが預言者モハメッドを冒涜する著書を書いたとしてホメイニがラシディの首に三百万ドルの賞金をかけた事件だが、暗殺者を雇って犯罪者を殺させるなどという行為はおよそファトワとは似ても似つかないものだそうだ。ファトワとは言ってみればシャリア法の起訴のようなもので、その後に容疑者は裁判によって裁かれ有罪となれば罰を言い渡されるのが筋である。ファトワの段階で罰を言い渡すだけでも違法なのに、暗殺者を募って容疑者を殺させるなど歪曲にもほどがあるのだ。
非戦闘員を大量に殺し自殺までする自爆テロにおいてはイスラム教の教えをいくつも違反していることは言うまでも無い。そういう人間を殉職者などと美化した言葉で呼び、自爆後には天国へ行って72人の乙女に囲まれるなどと、よくもまあ見え透いた嘘が言えるものである。
私は911直後にイスラム教諸国からテロリストを糾弾する声は何度か聞いたが、彼らのテロリストへの批判は必ず条件付だった。「テロリストは悪い、、だが、、」「罪の無い人々を殺すのは良くない。だが、、、」この「だが」の後につくことによって、これらの批判は何の批判にもなっていないことが常であった。つまり、「テロリストは悪い。だが最大のテロ国家はアメリカだ」「罪の無い人々を殺すのは良くない。だがアメリカに罪の無い人間などいない」といったように。
しかしこのように自分達の都合のいいように適当にコーランの解釈を変えられるというのであれば、私が考えてきた以上にイスラム教の穏健化には希望が持てることになる。自分らを原理主義などといって悪行の限りを尽くしている過激派は、実は原理主義どころかイスラムの教えから完全に離れた背信者であると穏健派は一般のイスラム教徒を納得させる必要がある。ミスター苺は最近、ジハードという言葉を使わず背信者という意味のハラビという言葉をつかってテロリストを表現するようにしている。我々異教徒がそのようなことをいくらやっても無駄なような気がするかもしれないが、実はそうではないと我々は考える。
これまで欧米諸国はイスラム教過激派に迎合しすぎてきた。彼らが自分達の戦いを聖戦と呼んだり、自分らの聖戦士だの勇士だのと呼んでいるのをわけもわからず彼らの言葉で繰り返してきた。我々は今後そのようなことをせず、テロリストはテロリストと彼らの言葉で呼んでやるべきである。彼らをジハーディストだのムジャハディーンだのと呼んで相手を讃えるべきではない。コーランを持つときにわざわざ手袋をするような自分らが卑しいものだというような態度を示すのは止めるべきである。そして我々は自分らのことをインファデル(無信心者)などと呼ばずに、きちんと彼らの言葉で「聖書の人々」と呼び、自分らの宗教に誇りを持った態度を見せるべきである。対テロ戦争は熱い戦いと共にプロパガンダ戦闘でもあるのだ。我々がテロリストを打倒したければ、そのどちらの戦場でも勝たねばならない。
イスラム教過激派はイスラム教の名のものとに西洋に宣戦布告をした。彼らの解釈はコーランの正しい解釈のひとつである。だが、テロリストを正当なイスラム教徒として扱ってはならない。テロリストを原理主義者などと呼んではいけない。コーランの解釈はひとつではない。長くつづられたコーランのなかには戦争を唱える箇所もあれば平和を唱える箇所もある。他宗教に寛容となり、弱いものを守り無実の人間を傷つけてはならないという教えもイスラム教の原理なのである。イスラム教徒の中には、西洋文化の落ち度も理解しながら、また自分らの社会の弱点を捉えながら近代化を進めようとしている人々がいる。前者とは戦い以外に道はない。だが、後者とは歩み寄れる。我々現代人はこの二つのグループを十分に見極める目を養ない、穏健派を出来る限り応援しなければならない。
これは現在イラクで行われているCOIN(対反乱分子作戦)の重要な鍵となるだけでなく、将来我々がイスラム教全体を敵に回すような大悲劇を起こさないためにも非常に大切な知識なのである。


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イスラムの危機:近代化に失敗したイスラム諸国の悲劇

近代化に失敗したイスラム諸国の悲劇
この著書の一番大切な章はなんといっても第七章のA Failure of Modernity 「近代化の失敗」である。イスラム教諸国のほとんどの国が独裁政権下にありそれゆえに貧困に苦しんでいる。しかしこれらの国々の指導者達は自分らの無能な政策から目をそらすために、自分らが貧乏なのは欧米のグローバリゼーションのせいだといってまったく反省しない。政府経営のアラブメディアは必ずその最大の原因としてアメリカの経済進出を指摘する。しかしアメリカの経済進出がアラブ諸国の貧困の原因ならば、同じようにアメリカの経済進出を体験している極東アジアの経済発展の説明がつかない。
高い出生率に伴わない低い生産力が災いして若者の失業率はイスラム諸国では深刻な問題になっている。職にあぶれてすることのない欲求不満の若者が溢れる社会は非常に危険である。しかもイスラム諸国の若者は自由に女性とデートできないので、逆立った心を慰めてくれる人もいない。国連や世界銀行の調査ではアラブ諸国は、新しい職種、教育、技術、そして生産力などすべての面で西洋社会から遅れているだけでなく、西洋式近代化を受け入れた韓国や台湾、シンガポールといった極東アジア諸国からも遅れを取っている。
こうした比較調査におけるイスラム諸国の数値は悲劇的だ。一番高い順位を持つトルコでさえも6400万の人口で23位。人口がそれぞれ5百万のオーストラリアとデンマークの間である。次が人口2120万人のインドネシアが28位。人口450万のノルウェーの次だ。イスラム諸国の中での購買力はインドネシアが一番で15位。その次がトルコの19位である。アラブ諸国ではサウジアラビアが最上位で29位でエジプトが次ぎに続く。生活水準ではQatarが23位、United Arab Emiratesが25位、クエートが28位。
教養面でもイスラム諸国は非常に遅れている。世界の書籍の販売率で上位27位のうち、アメリカの最高位とベトナム27位の中にイスラム諸国は一国も含まれていない。国連の調査によるとアラブ諸国は毎年約330冊の外書を翻訳するが、これはギリシャの約五分の一だという。アラブ諸国が翻訳した書籍の数は9世紀から現代までなんとたったの10万冊。これはスペインが一年で翻訳する書籍数と同じである。
国民生産率GDPになってくるともうアラブ諸国は目も当てられない状態だ。1999年のアラブ諸国合計のGDPは5312億ドルだったが、この数はヨーロッパのどの一国のGDPよりも少ない。学問の上でも専門書の引用さえるような科学者はアラブ諸国からほとんど出ていない。
以前にエジプトの学生の書いていたブログで読んだことがあるのだが、毎年発表される世界中の大学の位置付けのなかで、アラブ諸国の大学がひとつも含まれていないことについて、アラブのメディアが良く文句を言っているが、アラブ諸国の大学からは優秀な学者が一人も出ていないのだから当然だというような内容だった。つまり、アラブ諸国に人々が自分達が西洋や極東からも遥かに遅れをとってしまったことを痛感しているのである。以前ならばこのようなことは知らずに済んだかもしれないが、今の情報社会、このような調査はすぐに世界中に広まる。多少なりとも学識のある人なら自分達がどれほど世界から遅れをとっているか感じないはずはない。
政治の近代化も同じく惨めな状態だ。いや、場合によってはもっとひどいかもしれないとルイス教授は語る。アラブ諸国はそれぞれ、それなりに民主主義のような政策を多かれ少なかれ取り入れてきた。イランやトルコのように内部の改革者によって試されたものもあれば、撤退した帝国によって押し付けられたものもある。しかしどれもこれもその結果は芳しくない。アラブ諸国でただ一つ一応機能した政策はナチスドイツやソ連をモデルにした一党独裁制のみである。フセインイラクやシリアのバース党がその名残といえる。
これではアラブ諸国の人々が近代化に希望を失うのは仕方ない。しかし問題なのは彼らが近代化をどのように間違って行ったのか、どうすれば正しい近代化を進めることが出来るのか、といった質問がされないことだ。彼らの答えは常に「近代化そのものが間違っているのだ。イスラム教の原点を忘れたことがいけなかったのだ。」となるのである。古いイスラム教のしきたりが近代化の妨げになっていないだろうか、などということは死んでも考えない。アラブ諸国の人々は自分達と外の世界の人々の間の溝がどんどん深まってきていることを意識している。そして自分達のみじめな生活環境への怒りは自然と自分達の指導者へと向けられる。そしてその怒りはそのリーダー達の地位を保ち続けている西洋社会へと向けられるのである。リーダー達が親米であればあるほど、市民の米国への反感は強まるのだ。
911の犯人達が、比較的親米な政権を持つサウジアラビアやエジプトの出身であるのも決して偶然ではない。無論正常な外交関係のある国からなら訪米ビサが取りやすいという理由もあるが。


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イスラム教の危機:アメリカにまつわる歴史的誤解

アメリカにまつわる歴史的誤解
さてここで、アメリカとイスラム諸国との歴史で、一般的に誤解されているいくつかの点を上げてみたい。実は私自身も知らなかったことや不思議思っていたことが結構あったので、これは非常に興味深い部分だと思う。
先ず現在のイラン大統領、マフムッド・アクマディネジャドを含むイラン人学生がテヘランにあったアメリカ大使館を占拠し、警備員や職員を数名殺した後、残りの50余名を444日も拘束したあの事件だが、これはイランの宗教革命後アメリカと新イラン政府との間が険悪になっていたことの現れであるとされているが、実はそれはまったく逆であるとルイス教授は語る。
この話の発端は、1953年当時のモサデック政権にさかのぼる。当時国民から厚く支持のあったモサデック政権は石油利権を国営化しようと試みていた。無論そうなれば外資系の投資会社はすべて締め出されることになる。しかもソ連がモサデック政権に強く肩入れしてきていることもあって、英米が共謀してシャー国王の承認を得てモサデック政権を倒すべくクーデーターを企てたとされている。しかしクーデターは失敗に終わり、シャー国王は国外へ逃亡した。しかしその後何故か世論はモサデック政権よりもシャーを支持するように変化、特に軍隊がシャーを支持したため、モサデック政権はザヘディ政権に取って代わられ、シャーは英雄として帰還した。
しかしイスラム過激派はシャーをアメリカの傀儡と考え、シャーの世俗的な政治は西洋の腐敗した文化でイランを汚染しているとし、亡命中のアヤトラ・ホメイニを中心としてイランで宗教革命を起こした。ルイス教授は指摘していないが、このとき民主党のカーター大統領はイランのシャー政権がどれほどアメリカにとって大事であるかをきちんと把握していなかった。リベラルな生半可な正義感を持ったカーター大統領は、先代のイラン内政干渉に批判的でイランに潜入していたアメリカの諜報部員らをすべて引き上げさせた。そのおかげでCIAもカーター政権も1979年にホメイニの宗教革命がイランでくすぶり始めていることを察知できず、起きたときは寝耳に水という無様な結果となったのである。
カーター政権はアメリカが後押しをしたシャー国王を見捨て、シャーをアメリカへ亡命させることさせ許さなかった。アメリカは利用できるときだけ利用して、価値がなくなると簡単に見捨てるという評判が立ったのもこのことが大きな原因となっている。これは敵側に怒りと軽蔑を沸き立たせる「危険なコンビネーション」だとルイス教授は語る。
さて話を元に戻すが、ルイス教授が1979年の11月にイスラム教過激派の学生達がアメリカ大使館を占拠した理由はアメリカとイランの関係が険悪していたからではなく、良くなっていたからなのだとする理由は、当時の人質の話しや選挙した学生の供述などから次のことが明らかになったからである。実は1979年の秋、比較的穏健なイランのMehdi Bazargan首相がアルジェリア政府を仲介にしてアメリカのセキュリティアドバイザーと会見した。その時二人が握手しているところが写真に撮られているという話だ。もしこれが事実だとすれば、過激派にとっては危険な状態である。せっかくアメリカの傀儡政府であったシャーの王権を倒したにもかかわらず原理にもどるはずの宗教革命後の政権が再び偉大なる悪魔と手を結ぶなどと言うことは許されてはならない。というわけで学生達はアメリカ大使館を占拠することによって、アメリカをイランから追い出し、今後のイランとアメリカの外交を不可能にしようとしたのである。そしてこの作戦は成功した。アメリカはイランから引き上げ、28年たった今だに正式な外交は行われていない。
ところで、アメリカ大使たちを長期にわたって拘束した学生達は、当初、拘束はほんの数日の予定だったのだという。その計画が変わったのは、カーター大統領によるイランへの直接的な報復はありえないということが、弱腰なカーターの嘆願声明によって明らかになったからだと言う。ここでもカーターのリベラル政策によってアメリカは敵に侮られたと言うわけだ。あの時もしもカーター大統領が人質を即座に返さなければ軍事攻撃もありえるとひとつ脅しでもかけていれば、人質はすぐにでも帰ってきたのかと思うと、まったく忌々しいったらない。カーター大統領が共和党のレーガン大統領に大敗した後人質が返された理由は、レーガン大統領になったらアメリカの政策が変わるかもしれないとイラン側が恐れたからだと言う。
相手にいい顔を見せれば解ってもらえるなどと言う甘い考えがイスラム過激派にどれだけ通用しないかをアメリカ人はここで学ぶべきだった。しかし911以後のアメリカでもまだ「話せば解る」などといってる甘い人間がいるのだからあきれる。
敵に甘いという話なら、湾岸戦争の頃から私が常に疑問に思っていたこととして、パパブッシュ(第41代アメリカ大統領)がフセイン政権を倒さなかったことがある。あの時フセインをあそこまで追い詰めておきながら、何故バグダッドまで侵攻してフセイン政権を倒さなかったのか。なぜフセイン政権に反発していたクルド族やシーア派の反乱分子をけしかけておきながら、土壇場になって彼ら見捨て、我々の目の前で彼らが無残にもフセインに虐殺されていくのを見殺しにしたのか、私にはまったく理解できなかった。

(アメリカの)この行動、というよりむしろ無行動、の背後にあるものを見るのはそれほど難しくない。勝利を得た湾岸戦争同盟軍がイラク政府の変革を望んでいたことは間違いない。しかし彼らが望んでいたのはクーデターであり、本格的な革命ではなかった。本物の人民蜂起は危険だ。それは予測できない無政府状態を起こす可能性がある。それが民主的な国家となるという我々のアラブ「同盟国」にとっては危険な状態になりかねない。クーデターなら結果は予測がつくし都合がいい。フセインに代わってもっと扱いやすい独裁者が、連合国のひとつとして位置してもらうことが出来るからだ。

イラク戦争後の復興でイラクが混乱状態になったことを考えると、当時の政治家達の懸念は決して被害妄想ではなかったことが解る。だがどんな独裁者であろうと自分らの都合の良い政権を支持するという方針はこれまでにもことごとく失敗してきた。湾岸戦争で大敗し弱体したはずのフセインは、政権を倒されなかったことを自慢して偉大なる悪魔にひとりで立ち向かって勝利を得たと近隣諸国に吹聴してまわった。フセインをハナであしらえると思ったアメリカは完全に馬鹿をみた。だいたい傀儡政権ほどあてにならない政権は無い。傀儡政府が独裁者なら耐え切れなくなった市民によって倒される危険があるし、また政権自体が常に我々の敵と裏工作をして寝返る企みをし、我々の隙を狙っては攻撃する用意を整えているからだ。表向きは都合のいいことをいいながら、裏でテロリストと手を組んでアメリカ打倒を企だてていたフセインはその典型だ。傀儡政権ではないが、独裁政権ということで、私はサウジアラビアもパキスタンも信用していない。
パパブッシュの息子ジョージ・W・ブッシュが、イラクの政権交代を強行しイラクに民主主義の国家を設立すると宣言したのも過去の過ちから学んだからである。イラク戦争においても、フセインを別の独裁者と挿げ替えて、傀儡政権を通してイラクを統治してしまえばいいという考えが保守派の間ではあった。また、イラク戦争はイラクの石油乗っ取りが目的だったという反戦派もいた。だが、ブッシュ大統領は、これまでアメリカに好意的だというだけで我々が悪徳な独裁者に目を瞑ってきたことがどれだけ間違いであったか、今後平和な世界を作り出そうと思ったら世界中に本当の意味での民主主義を広めなければならない、と語ったことは本心だった。だからこそイラクで主な戦闘が終わった時点ですでに存在していたイラク軍や警察やバース党をそのままにして頭だけ挿げ替えるという簡単な方針を取らずに、民主主義国家設立のために大変で面倒くさいことを一からやり始めたのである。今は確かに苦労するが、長い目でみたらこれが一番確実なやり方だからだ。
我々がイラクを攻めなければならなかったもうひとつの理由は、長年にわたるカーター(民主)、レーガン(共和)、クリントン(民主)の中東政策により、イスラム諸国では「アメリカは戦わない」という強い印象を打ち砕くためである。湾岸戦争を率いたパパブッシュ大統領(共和)でさえ、圧倒的戦力を有しながら根性がなかったおかげでフセイン政権を倒すことが出来なかったと歴史は書き換えられてしまったのだ。イスラム過激派に慈悲など通用しない。こちらの戦争へのためらいは単なる弱さと解釈されるだけだ。ビンラデンが911攻撃を計画した理由として、カーターの大使館占拠に対する無報復、レーガンのレバノン海兵隊宿舎爆破事件後のレバノン撤退、クリントンのブラックホークダウン後のサマリア撤退、を挙げて、「アメリカに戦う意志はない」と判断したことを挙げている。下記は1998年にビンラデンがABCニュースのインタビューでその本心を明かしたものである。

我々は過去10年間に渡りアメリカ政府が衰退し、アメリカ兵士が弱体化するのを見てきた。冷戦に対応する準備は出来ていても長い戦いへの用意は出来ていない。また彼らがたった24時間で遁走できることも証明された。これはサマリアでも繰り返された。我らの若者はたった数発の打撃で負かされて逃げ帰った(アメリカ兵)に呆れた。アメリカは世界のリーダーたるもの、新しい世界のリーダーであることを忘れてしまっている。彼らは彼らの遺体を引きずりながら恥かしくも退散したのである。

次回へ続く。


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