舞台:同性愛を全面的に出し過ぎた「ドリアン・グレイの肖像」

19世紀の詩人オスカー・ワイルドが書いた唯一つの小説として有名な「ドリアン・グレイの肖像」を地方劇団の舞台で観て来た。あまりにもローカルな話題なので劇団名を紹介しても意味ないかもしれないが、一応ノイズ・ウィズインという劇団の公演で、動画広告のリンクはこちら

あらすじ:舞台は19世紀のロンドン。画家のバジル・ハルワードは素晴らしい美貌を持つ青年ドリアン・グレイの神秘的な魅力に魅せられその肖像画を描く。バジルの友人ヘンリー(ハリー)・ワットン卿は画家の部屋でモデルをするグレイに遭遇。若さと美しさのみに価値があるとハリーに言われ、自分の代わりに肖像画が年をとればいいのにと願うドリアン。その後ハリーの悪影響で堕落したデカダンスな生活を満喫するドリアンは、いつの間にか自分ではなく肖像画が年を取っていくことに気が付く。しかも自分がなにか悪行を犯す度に、肖像画は醜くなっていくような、、、

有名な話なので何度も映画化や舞台化されている作品だが、こういうクラッシックも現代的な価値観で観るとずいぶん違った舞台になるものだなと思った。オスカー・ワイルドがバイセクシャルだったことは有名だが、だからといって彼の作品に同性愛色が濃いと考えるのは短絡的な発想だ。原作を読んでもドリアン・グレイが同性愛者だったという描写はないし、ましてやハリーやバジルに限ってはそんな気配すらない。だが、この舞台では、女性を除く男性の主要人物はすべてゲイであるという設定になっていた。

先ず最初のシーン。まだドリアンが登場する前の場面で、バジルがドリアンの肖像画を描きながら、ドリアンとどのように出会ったかという話をハリーにしているときの回想シーンでは、バジルとドリアンがほぼ顔と顔を突き合わせるようにして立っている姿が登場する。明らかに二人の間に同性愛的な興味が生まれたという描写だ。そんな話をしている時にドリアンが登場。ドリアンの美貌に一目ぼれするハリーの前でドリアンはさっさと衣服を脱ぎ捨て素っ裸になって壇上に立ちポーズをとる。言っておくがこれは舞台なので(私は最前列だった)素っ裸の姿は観客全員の前でということになる。

別に役者が脱ぐこと自体は問題ではないが、この場面でドリアンが裸になる理由がよくわからない。19世紀の時代的背景から言って貴族の男性が自分の肖像画に裸でモデルになるというのは先ず考えられないからだ。

ま、それはいいとして、ドリアン・グレイの悲劇はジキルアンドハイドと非常に似ている。舞台は同じくビクトリアン時代のロンドン。何故この時期が大事なのかというと、当時のイギリスの上流階級はビクトリア女王の潔癖主義影響を受けて男も女も非常にお行儀のよい行動をすることが求められていた。結婚している夫婦のセックスですらも必要悪と思われていたくらいなので、婚外交渉などもっての他であったし、ましてや同性愛など完全に違法。事実、著者のワイルドはその趣味が原因で刑務所送りになったくらいだから。

そういう時代なので、社会が許さない価値観でドリアンを誘惑するハリーの存在は重要なのだ。ハリーは美しく潔癖なドリアンを自分の自堕落で邪悪な世界に引き入れようと誘惑するのである。彼はドリアンを自分の愛人にしようと誘惑しているわけではない。ここで二人の関係を同性愛で引き寄せられたかのように表現すると、ハリーが代表する邪悪な世界の危険性が薄れてしまう。

またバジルがドリアンとハリーが仲良くなりすぎることを警戒するのも、バジル自身が善良な人間なので、ドリアンがハリーの悪影響にそまってしまうことを恐れているのであり、自分が片思いするドリアンをハリーに盗られてしまうという嫉妬と描かれるべきではない。

ドリアンが同性愛行為をしたり、その魅力で男性を誘惑すること自体は問題ないだろう。なぜなら当時の価値観から言えば、同性愛による誘惑は邪悪で変態的なものと受け取れるからで、他人を堕落させるドリアンの行為としては納得がいくからだ。しかし、それはドリアンが同性愛者ではないという前提があってこそ成り立つ理屈であり、彼が実際に同性愛者だったらこれは意味がない。

この舞台で一番気になったのは、肝心な肖像画が全く描かれていないということだ。これは意図的なものだというのは解るのだが、わざと等身大の額縁だけを見せ、額縁の向こう側で数人の黒服の男女がひそひそ声でドリアンやハリーのセリフを繰り返す。おそろしく変貌した自分の作品を見てバジルが驚愕するシーンでも絵そのものは見せない。

ドリアンの代わりに絵が変わっていくという話なので、絵がどのように醜くなっていくかを示さないとこの物語の一番肝心な部分が抜けてしまう。いったいバジルは何にそれほど驚愕したのか、ドリアンがこの絵を恐れて屋根裏部屋に隠してしまうのは何故なのか、やはりその中身を見せないと意味がない。

カカシ注:この先はネタバレ

遂に自分の犯した悪行の数々に罪悪感にさいなまれたドリアンが、醜く変貌し自分の魂を映し出す肖像画を破壊しようとする。しかしその途端にドリアン自身が醜い姿へと変貌し、肖像画は昔の美しいドリアンの姿へと戻る。

最後のシーンは醜く変貌したドリアンの死体を使用人が発見するという、ジキルとハイドと非常に似たような場面になるのだが、この舞台ではまたまた主役が素っ裸になって額縁の中に立ち、年寄りの俳優が床に横たわっていた。しかし年寄りの俳優は年はとっていたが特に醜くもなく、観客にショックを与えるような姿ではなかった。

醜い絵を破壊しようとして自分が破壊された時のドリアンは吐き気を催すほど醜い姿でなくてはならない。ここでも単に肖像画はドリアンを若く保つためだけのものだったと描写されていることに不満を覚えた。

同じ題名で日本でも舞台化されたようだが、あらすじを読む限り中身は全然違うようだ。

配役:

ヘンリー・ワットン卿:フレドリック・スチュアート
バジル・ハルワード:アミン・エル・ガマール
ドリアン・グレイ:コーリン・ベイツ


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同性婚は文明社会を破壊する その3

もう10年前になるが、アメリカで同性婚の有無が取りざたされていた頃に私は同性婚は文明社会を破壊するというその1その2のエントリーを書いた。しかし実際に同性婚が合法となったアメリカでは、私の想像を絶する勢いで世の中が変わりつつある。

実は前回も紹介した海外クリスチャン情報さんが、そのことについて素晴らしい解説をしてくれているのを見つけ、私がもやもやと感じていたことを文字にしてくれていると非常に感動してしまった。

よく、同性結婚推進派は「ベティとマリーが結婚したからって、あなたの生活がどう変わるというの?社会にどんな弊害があるというの?」という質問をする。同性婚が合法化されたからといってそれが我々個人に何の弊害もないのであれば、認めないのは単なるホモフォビアでしかないと言い理論だ。

私はそのことに関して私自身の生活には特に影響はないかもしれないが、結婚は特権であるから、その特権を取り除いてしまうと結婚そのものの意義が失われ、長い目で見た時に結婚する人が減ったり少子化が進む、といった長期的な話をした。

しかし、クリスチャンさんは同性婚を認めるということはそんな甘いものではないと断言する。これまで我々が異性愛を基盤として考えて来た種々のことが、この新法律によって根底から覆される、今まで常識と思ってきたことがすべて非常識となってしまうのだと警告する。

同性婚の法制化は、価値観の転倒という、それこそ天と地がひっくり返るほどの「おおごと」、大事件なのです。

我々は同性愛当事者も含めて、同性愛とは異常なものであるという常識をずっと持っていた。種々の宗教では同性愛は邪悪とみなされ、多くの国々で同性愛行為そのものが違法とされてきた。今もイスラム教圏では違法だ。日本には同性愛を悪とみる伝統はないが、それでも同性愛行為とは、ごく僅かな異常な人々がする行為と見て来た。だからこそテレビでオネエタレントが人気があるのであり、おカマバーやお鍋バーが流行り、BL漫画が婦女子の心をくすぐったりしてきたのである。

だが、同性婚を認めるということは、同性愛行為そのものが「普通」だと認めることになる。今までクイアー(変態)な行為と思っていたことを普通の日常的な現実として認めなければならないということだ。それは具体的にどういうことなのか、これは一風変わった人々が好きなように生きる権利を認めるなどという生易しいものではない。

学校における同性愛正常化教育

2003年に米国全土でいち早く同性婚を認めたマサチューセッツ州の話だ。

米国におけるゲイ活動への警鐘を鳴らす活動家であり、弁護士と神学者の二つの肩書きを持つScott Lively氏が著した “Redeeming the Rainbow” という書籍があります。(オンラインで無料。)同書には、マサチューセッツ州在住の Brian Camenker氏の体験談が収載されており、「同性婚が州裁判所により認定されてから、公立学校で一体どのようなことが起こったか」たかが生々しくまとめられています

同州では、州最高裁が州民の意志を無視して同性婚を合法と認めたとたん、教育委員会は積極的に同性愛正常化教育を義務教育においてするようになった。最初は高校に同性愛専門家なる人々が訪れ、生徒たちに同性愛を受け入れさせる講義を行った。それはさらに中学小学校にまで及んだ。その内容は単に同性愛者を差別してはいけないとか理解を示そうなどという生半跏なものではなく、ゲイやレズのセックスのやり方など詳細にわたって指導するというものだった。そしてこの「教育」の範囲はゲイやレズだけでなく、バイやトランスに関するものにまで広がっている。

また、伝統的なお姫様童話は異性愛だけを対象にした差別的なものとされ、「王様と王様」などといった男同士のおとぎ話なども子供たちに読んで聞かせるようになった。ディズニー映画でも同性愛キャラクターが出演するなど、これからもこうした傾向は強くなっていくだろうとクリスチャンさんはいう。

私自身も去年ニューヨークの図書館でけばけばに化粧をしたドラッグクィーン(女装男)が幼稚園児対象に同性愛童話を読むという、ドラッグクィーンストーリーアワーなる行事について読んだことがある。宗教的な理由で子供たちにそんなことを教えてほしくないという親たちの意見など完全無視である。

同性愛両親に育てられた二世代目の問題

ただでさえ離婚の多いアメリカで、同性婚カップルが養子を迎えたり、精子授与や代理受胎などで実子を設けたりした場合、次の世代の子供たちが大きく同性愛両親の影響を受けることは必定だ。私は同性愛結婚の合法化が進んだ頃、レズビアンカップルに育てられた成人した人々の話を幾つか紹介したことがあるが、彼・彼女たちの人生は非常に苦労の多いものだったと彼らは語っていた。同性婚カップルに育てられたこどもたちの悲痛なさけび)

同性愛カップルは普通の夫婦よりも決別が多く、長い間一緒に居るカップルは非常に少ない。以前に読んだ調査では両親の片方が同性愛者だった場合、子供たちの教育レベルが低かったり、精神病を病んでいたり、麻薬中毒にかかる割合が多かったりするというものがあった。

また、親が同性愛者である場合、子供にも同性愛を強制する親たちは多いだろう。最近話題になっている12歳の少年ドラッグクィーンE!などがいい例だ。

“E!”は、人々がジェンダーを見る目を変えられるよう活発に唱導しており、ジェンダーとは束縛的であって立ち向かうべき概念であると信じる。[大会が開かれる]オースティンへの旅費を工面するため、少年の家族は彼の写真をプリントしたシャツを製作。そこには「ジェンダーを忘れよう、と世界に告げよう!」と書かれている。少年は言う。「ジェンダーを忘れるってことは、男の子も女の子も自分の思うとおりに自分を表現するべきってことなんだ、皆から「君は女の子だからこうしなさい」とか「君は男の子だからここに来なさい」、とか言われないでね。」

LGBT活動家にとって同性婚の合法化は最終目的ではなく単なる布石だ。同性婚が合法化されれば次は子供たちへの洗脳、トランスジェンダーの女性空間への侵略など、どんどん社会は変態性に向かって激化していくのだ。

忘れてはならないのが、「同性婚推進活動」の原動力が、「反差別活動」であったということです。そうすると、同性婚法制化が成功した暁に、これらの活動が沈静化するかといえば、むしろ逆で、かえってますます激しくなるのです。具体的にいうと、同性婚をしたがっていたゲイ・レズビアンカップルだけでなく、全ての性的少数者への差別を撤廃しようと動いてきたのですから、その性的少数者には当然「トランスジェンダー」「トランスセクシャル」「ジェンダークエスチョニング」といったものも含まれるわけです。

同性婚の合法化は結婚の形が多様になるなどということだけでは収まらない。同性婚は社会を基盤を根本から覆し常識や道徳を完全破壊することにつながる。まさに

同性婚は文明社会を破壊するのである。


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女性を女性と呼べなくなる日、トランスによるフェミニスト弾圧

最近私が何気なしに書いたツイートがなんと2~3日のうちに1500を超えるリツイートされるという不思議な現象が起きた。その元ツイートというのがこちら。

イギリスではなんと辞書の「女性」の定義がヘイトスピーチとして除去されるという摩訶不思議なことが起きた。だから言ったんだよ、ヘイトスピーチなんてのは言論弾圧の言い訳でしかないってね。

実はこれは ケイティー・ホプキンズの英語のツイートをリツイートしたものだったのだが、ちょっとはしょって訳してしまったため誤解が生じてしまった。原文はこちら。

Katie Hopkins

In the U.K. – a poster featuring the dictionary definition of a woman has been removed as hate speech. I repeat. The dictionary definition of a woman. Is now hate speech.(イギリスでは、辞書の女性の定義を提示したポスターがヘイトスピーチとして撤去されました。繰り返します。辞書の女性の定義はいまやヘイトスピーチなのです。)

これはまずいと思って翌日補正したのだが、その時にはすでに1000回以上のリツイが起きており、このツイートはおかしいという意見も多少あった。下記がその補正。

撤去されたのは辞書による女性の定義が書かれた看板であり、辞書から女性の定義が除去されたわけではありません。誤解を招く書き方をして申し訳ありませんでした。

私の最初の書き方はちょっと誤解を招くものがあったとはいうものの、辞書にある女性の定義を示しただけの看板がヘイトだとか反トランスだとか言いがかりをつけられて除去されたというのは事実。

ではいったいどういう状況でこのようなことが起きたのかというと、去る9月27日、イギリスのリバープール市において労働党の会議が開かれた。その会議に先駆けて、フェミニスト団体が大きな看板のスペースを700ポンド払って借り、女性の定義を提示するポスターを看板に張り付けた。それに対してトランス活動家の間から「ヘイトスピーチだ」とクレームが付き、市はクレームを受け入れてポスターを撤去したというもの。ポスターには「ウーマン(女性)、ウイメン(女性の複数形)、名詞、大人の雌」と書かれているだけ。ところが、アドリアン・ハロップ教授なるGP(?)及びLGBT活動家が、ポスターを作ったのはヘイトグループだとクレームを付けたところ、市はその要望に応えてポスターを撤去してしまった。

 

ポスターの作者はキーンミンシュル夫人という女性でハロップ教授のクレームは「馬鹿げている」まるで「オーウエリアンだ」と抗議している。夫人は、最近女性という言葉が色々な意味で使われるようになったため、女性の人権についての会話を始めるために掲げたのだと言っている。

四人の子持ちである夫人は「我々は『女性』という言葉が『ヘイトスピーチ』とされる新しいミソジニーの側面に立たされている。」と語る。「女性たちはもうたくさんだと思ってます。トランス活動家たちはこういうことをするんです。こうやって女たちを沈黙させるのです。」「何が起きているのか、みなさんに目を覚ましてもらいたいです。」

このトランス活動家によるとこのポスターは「トランスの人々を不安な気持ちにさせるもの」なんだそうだ。
トランス活動家によるフェミニスト弾圧という関係記事で、やはりイギリスのリーズ市で9月29日、フェミニストが性自認に関する法律改正について会合を開こうと予定していたものが、土壇場になって「トランスフォビック」とクレームが付き、市議会によってキャンセルされるという事件が起きた。

 

この会合を主催したのは、ウーマンズプレースUK(女性の場の意味)というフェミニストグループ。彼女たちは提案されている性自認法の改正にあたり、その影響について女性の声を聴くという話をしたかったのだと語っている。特に自称トランス女による女性刑務所における女子受刑者への暴行といった事件も含め、女性のみの場所にトランスを入れることの問題点について語りあう予定だったという。

しかしながら、反対派は彼女たちのグループを「反トランスジェンダー」とし、主催者たちはフェミニストやLGBTQのふりをしている差別者たちだと主張する。

主催者側は自分らはLGBTQの味方であり、正式な理由もなしに会合をキャンセルするのは民主的なやり方ではないと抗議している。
トランス活動家がフェミニストたちを攻撃するのは理解できるが、他のフェミニストやLGBTQの人たちがトランスにばかり迎合して女性の安全を犠牲にしてしまうというところが恐ろしい。

 

最後に、これに関して海外クリスチャン事情のブログ主さんがとても良いことを書いているので引用する。

「女性と自認するが男性器を持つ生物学的男性」がフルに「女性としての扱いを受ける」ことを要求し、女性に限定されたスペースの使用を求めるとき、そこに必ず不安や恐怖を感じる女性たちがいる。こんな、ごくごく当たり前のことを、多くの人たちがトランス活動家たちに遠慮して言えず、最後になって同じセクマイであるレズビアンたちが言い出すというのも、なんとも皮肉です。
私がクリスチャンさんの言うことで非常に感動したのがこの考察。「トランス運動の本質は男性的な「征服」と「支配」」というこの部分。
それにしてもこれらの事象からよくわかることがあります。それは、トランス運動の本質は、きわめて男性的な「征服」と「支配」にあるということです。
例えば、生物学的に男性としてあらゆる特徴を備えていながら「女性として自認」することのみをもって、周囲の全ての人間に対し、「自分を女性と認識しそのように扱え」と強要し、反対する者は片端から「フォブ」と指弾する。
 
また、自らの男性的特徴はそのままで、更衣室などの「女性のための空間」を次々と「侵略」していき、さらには「女性のためのスポーツ競技」さえにも進出し、女性競技者たちを打ち負かす。
なんのことはない、これって昔の征服者である「男」たちがやってきたこととまるで同じではないですか!他人をねじ伏せ、支配し、その領域に進出し、打ち負かす。
上記レズビアン活動家たちが、トランス運動は…..保守的な運動である。」
といみじくも看破したのも、偶然とは思えません。

 


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理解しがたいトランスジェンダーの「同性愛」嗜好

ちょっと変な短編映画を二作見てしまった。ユーチューブでたまたま出くわしたので題名も何も覚えてないのだが、二つともテーマが女性から男性に移行した人たちが男性に恋をするというものだったのでちょっとお話したい。

最初の映画の主役はゲイの男性で、男性だと思って付き合いはじめた人物が実は元は女性のいわゆるFTMであることを知って戸惑う話。主人公がFTMの子の友達と会うシーンでは、みんなLGBTQ+の訳の解らない代名詞を使うことを主人公に要求。ゲイの主人公は「僕にはわかんないよ、僕は『正常』な人間だから!」と言うシーンは笑ってしまった。男の人を好きになるゲイの男性が普通というのがトランスの世界なのである。これはもしかしてトランスジェンダーやノンバイナリーとかいう訳の解らん連中をおちょくったパロディ映画だったのかもしれない。

もうひとつの方は、主人公の男性が男と思って付き合った人間が、ゲイバッシングでさんざん殴る蹴るの暴行を受け病院に運ばれる。そこで恋人が実は女だったことが解り主人公は吐いてしまうほどショックを受ける。しかし相手がFTMであることを受け入れた主人公は、再び恋人と付き合うようになるが、いざセックスをしようとしたら実は主人公もFTMであったことが解って今度は恋人の方が拒絶する。その恋人は「僕はずっと普通の人として溶け込みたいと思っていた。」と言って去っていく。

私はこの結末を予測していたので驚きはしなかったが「なんでだよ~!」という気持ちでいっぱいだった。生物学的な女性が男性に魅力を感じるならそれは普通ではないか?男性/女性であるということの基本は異性に対する性欲であるはず。だからこそ同性愛者は異質な存在なのであり少数派として扱われてきたのだ。それが異性に愛情を感じるのに自分は異性だと思い込むというのはどういうことだろう?しかも「普通の人間として溶け込みたい」人が、わざわざ社会が異質と思う性転換という行為に及ぶというのはどういうことなのか?異性が好きならそのままの状態で異性と付き合えばいいだけの話。そうすれば普通の人間として社会に溶け込むことが出来るではないか。それが普通なんだから。

ところで最初の映画で主人公と恋人がどのようにセックスすればいいのかを悩むシーンがあった。だが、二人は生物学的な男女カップルなので、普通にすれば全く問題ないと思うんだけどね。人間はそういうふうに出来てるんだから。

余談だが、私の美容師はゲイの男性だがもう孫が何人も居るおっさん。それというのも男と思ってナンパした子が実は女性で、一回きりの交渉で女性が妊娠してしまったからなんだそうだ。彼の場合、相手が異性とわかっても特に拒絶反応は起きなかったらしい。その後その女性とは結婚はしなかったが、母子とはずっと家族として付き合ってる。だから孫たちからも慕われている。

自称トランスの人々は、どうして生まれたままの性を受け入れることができないのだろう?同性に愛情を感じるというのは感情の問題なのでどうしようもないが、自分が女性/男性として生まれたことは単にそれを受け入れるだけで何の弊害も生まれない。好きな人が同性でも異性でも今の時代特に問題はない。異性のような恰好をしたいならすればいい。制服などで規制されている場合は臨機応変に対応し社会になるべく迷惑のかからないプライベートな時に男装なり女装なりを楽しめばいいではないか。

私が同性愛者に関しては全く嫌悪感を覚えないのにトランスジェンダーを受け入れられないのは、彼/彼女たちが自分らの異質な嗜好を他者に押し付け拒絶されると、ありのままの自分を受け入れてくれない、といって駄々をこねるからである。

ありのままの自分を最初に拒絶したのは誰あろう自分たちなのに。


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思春期前後の「性転換治療」は幼児虐待だ!

最近後退派左翼過激派の間では大人によるトランスジェンダーどころか年端も行かない未成年しかも思春期前の少年少女に異性ホルモンや思春期停止ホルモンの投与をして子供のトランスジェンダーを生み出すことが流行っている。先日も私は10歳の男児が自分はトランスキッズだと言ってけばけばし厚化粧をして自慢げにツイッターに投稿している気持ちの悪い映像を見せつけられた。子供がお遊びでやっているのならともかく、周りの大人がその異常行為をたしなめるどころか奨励及び促進しているところに問題がある。これにホルモン投与などが加われば、これはもう幼児虐待以外の何物でもない。

思春期前後の少年少女が初めて持った自意識に困惑するのは普通である。それまでは子供として自分の存在に何の疑問も持たずに暮らしてきたのに、ある日突然、自分というものに気が付く。そうするといったい自分は何者なんだろうという人生の岐路となる大切な疑問を持つようになるのだ。この時期を何事もなく何も悩まずに通り過ぎる人間は先ずいないだろう。人はこの関門にぶち当たり色々悩んだ末に大人になっていく。

しかしこういう多感な時期に、何故自分がこんなにも不幸だと感じるのか、何故自分であることに違和感を持つのか、と悩んでいる少年少女が、性転換をしたらすべての悩みが解決したなどというユーチューバーのビデオに遭遇したらどうなるだろうか?自分がこんなふうに感じるのは自分が間違った性に生まれたからなのではないか、性転換をしたらすべて悩みが解決するのではないか、と錯覚を起こす少年少女が居たとしてもおかしくはない。特に自分の性嗜好が回りの同年代の人々と違うように感じた場合には、もしかして、と思ってしまうのも理解できる。しかし問題はその悩みをどうするかにある。

本来ならば、こういう悩みを抱く少年少女を正しい道に導くのが回りに居る大人の責任だ。普通の子は放っておけば自然に通り過ぎる。だが多感な子はこの時期が一番危険でもある。だから普通以上に落ち込んでいる青少年には適切なカウンセリングが必要だ。

実をいうと私も思春期の頃、男の子にあこがれるあまりに、自分も男の子だったらよかったのにと思ったことがある。それで髪の毛も男の子のように短くしデニムの上下を着るなどして、周りから男の子と間違われたりすると、自分があたかも秘密のアイデンティティーを持っているようで興奮したものだ。しかしこれは、あくまでも私が普通の異性愛者だったゆえ、異性である男の子の格好良さを意識し始めていたからにすぎない。

もしあの頃の私が今のような悪い意味での情報過多社会に生き、人気トランスジェンダーユーチューバーのビデオに遭遇していたら、そして周りの大人たちにトランスは格好いいと常に洗脳されていたら、いったいどんな取り返しのつかないことをしてしまっていただろうかと思うと考えただけでも恐ろしい。

事実幼児や思春期に異性ではないかと悩む子供たちの80%以上が、思春期を超えると自然に神から授かった性を受け入れるようになるという。だから自分はトランスなのではないかと悩む子供たちの親は、即座にホルモン治療などを受けさせず、他の活動をさせるなり、きちんとした精神科のお医者さんに悩みの根底は何なのか、しっかりカウンセリングしてもらうなりせねばならない。

だが、このカウンセラーは即座に性転換を進めるいわゆる「トランス専門家」ではなく、小児科や小児専門の医学的カウンセラーでなくてはならない。

即座にホルモン治療などをせずに親が親身になって色々な活動に参加させて女性としての自覚を取り戻した例がザ・アトランティックで紹介されている。題して「子供が自分はトランスだと宣言したとき」。

この記事では14歳のローリーという少女が自分の思春期の悩みを自分がトランスだと錯覚し、それを両親に告白したところ、両親はトランス治療を受けさせる前にローリーをインターネットから離してアウトドア活動に連れ出し、極力彼女の気が紛れるように努めたところ、ある日突然ローリーは自分は女の子だと自覚したという話。この記事の著者ジェス・シンガルはその記事の書き方から決して右翼保守ではない。きわめてトランスジェンダーに対して同情的な姿勢を取っている。だが、こと思春期のこどもに関しては、少し経つと自然に自分の性を受け入れる率が非常に高いことでもあり、子供が自分はトランスだと宣言したからといって即座に医療的な措置を取ることの危険性について書いたにすぎない。

だが普段どれだけポリコレに服従していようとも、多少なりとも左翼絶対主義から外れたこの記者に対し、過激派からの批判は迅速かつ壮絶であった。ザ・デイリー・ドットに載った「なぜトランスに関して間違った報道をしたジャーナリストが更なるトランスフォビアを拡散することが許されるのか?」と題したこの記事などが典型。

著者のアレックス・ダルビーはシンガルの記事の題名そのものにひっかかっている。ダルビーは「子供がトランスジェンダーだった時」とせずに「子供がトランスジェンダーだと宣言した時」とすることで子供が自分がトランスであることを自覚できないという先入観を抱かせると書く。

ダルビーはローリーの両親がネット情報からローリーを隔離しトランス治療を拒絶した結果ローリーが女性だと自覚したことは「よく耳にする恐ろしい話」だと言う。ちょっと待った!女の子として生まれた子供が自分は女の子だと自覚するに至ったことの何が恐ろしいのだろうか?もしトランス活動家がいうようなトランスに対する差別や虐待が真実だとすれば、自分の子供がそんな状況に至らないように極力努力することの何が恐ろしいことなのか?

ダルビーによれば、自分はトランスではないかと思う子供は即座にトランス専門家の世話になるべきだとのことだが、これらの専門家にはなるべく多くの性転換者を増やしたいという下心があることも忘れてはならない。カウンセラーと言われる人々が性転換医療で金儲けをしている業者と密接な関係がある場合は多いのだから。

ダルビーが言うように、自分がトランスなのではないかと悩む子供たちを即座にトランスだと診断して性転換治療を始めてしまったら、八割強居ると言われる思春期後に自然に自分の性を受け入れるはずだった子供たちの将来はどうなるのか?思春期の気の迷いで乳房や睾丸を取り除いたり成長阻止ホルモンを摂取してしまって生殖機能を失ったり発癌の可能性を高めてしまったうえに、自分はやっぱり生まれたままの性でよかったのだと気づいた子供たちの人生を誰が弁償するのだ?

トランスの人々はありのままの自分を受け入れてほしいとよく言うが、ありのままの自分を最初に拒絶したのは他ならぬ自分なのだということを忘れている。トランスジェンダーほど男女のステレオタイプや男女の差を意識している人々もいない。もし男女が平等であり男女に全く差がないという従来のリベラル派の考えが正しいのであれば、男っぽい女や女っぽい男がいてもいいはず。なにも無理して危険な医療処置を受けて異性に似た格好や振る舞いをする必要はないはず。

女でも筋力逞しく男顔負けの運動神経を持っていて何がわるい?男でも繊細な感性を持ってデザインやファッションの仕事をして何がわるい?自分が持って生まれた外見にそれほどこだわらなければならない理由は何?そしてそれを年端も行かない自己意識が確立していない思春期間際の子供たちに押し付ける動機は何なんだ?

ダルビーは性別には色々あり二者択一ではないという過激派思想を持っている。自分は異性であるべきなのではないかと疑問を持つ子供に対して、それは違う、お前は生まれたままの性を受け入れるべきだとする教育が彼女には許せないのだ。だからダルビーのような過激派は子供が自意識に疑問を持ったその時点で、子供の気がかわらないうちに、なるべく早くトランスへの道を歩ませようとする。

ダルビーの記事からは、最初からトランスジェンダーに関して自分と違った考え方は弾圧されるべきだという姿勢が見え見えだ。題名からしてシンガルが記事を書くことがなぜ「許されるのか」としていることからして明白である。

彼女に言わせると、思春期のトランスに関する思い違いは子供が成長するにつれ消えていくという思想そのものが許せない。そんなことを言う人間の言論は弾圧されるべきとの考えなのだ。

さらに危険なのは、シンガルのようなシスジェンダー(生物学的性侮蔑と意識が一致している)でトランスについて間違った記事を書いてきた過去のある人間にこの件について書くために雇われたということだ。

ダルビーは、他にいくらもトランス専門家がいるにも拘わらず、わざわざトランスは異常だという考えの記者に調査をさせたということ自体に腹を立てているようだ。しかしこういう「専門家」のアジェンダは、子供の悩みを解決することではなく、より多くのトランスジェンダーを勧誘することでしかない。ローリーの両親がこういう自称専門家から娘を遠ざけたのは非常に賢明な行動だった。

18歳以上の大人が自分の意志で野蛮な「性転換」処置を受けるというのは本人の勝手だ。しかし未成年が自分の人生を変えてしまう不必要な医療措置を両親が許可することや、ましては奨励することは幼児虐待以外のなにものでもない。

 

 

 


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米最高裁、オレゴン州同性婚ウエディングケーキを拒否したケーキ屋さんを全面的に支持

宗教の自由が勝った! オレゴン州で男同士の結婚式に出すウエディングケーキ製作を宗教上の理由から拒否して訴えられ州裁判で敗訴したケーキ屋が、それを不服とし最高裁に上訴していたのだが、そのケーキ屋さんが先日最高裁で勝訴した。下記は日本語版ハフポの記事より。(カカシ注:イタリックの部分をクリックするとリンクにつながる)英語の記事はこちら

アメリカの連邦最高裁判所は6月4日、宗教を理由に、同性愛カップルにウェディングケーキを作るのを拒否した男性を擁護する判決を下した

裁判を起こしていたのは、コロラド州デンバーにケーキ店を構えるジャック・フィリプス氏。

フィリップス氏は2012年、ウェディングケーキの相談をするために店を訪れた同性カップルのチャーリー・クレイグ氏とデビッド・マリンズ氏に対し、キリスト教を信仰しているのでケーキは作れないと拒否した。

コロラド州の州法は、人種、性別、配偶者の有無、性的指向に基づいてサービスを拒否することを禁じている。クレイグ氏とマリンズ氏は、ケーキ作りを拒んだフィリップス氏は州法を違反していると同州の人権委員会に訴えた。

コロラド州人権委員会はフィリップス氏が州法を犯していると認定。コロラド州裁判所も人権委員会の認定を支持した。

しかしフィリップス氏はこの判決を不服とし、コロラド州人権委員会を相手取って裁判を起こしていた

連邦最高裁判所は判決で、「コロラド州人権委員会は宗教に対する敵意を示しており、アメリカの憲法が保証する、信教の自由に反している」として7-2でフィリップス氏の訴えを支持した。

実はオレゴン州でも似たようなケースがあり、カカシは最初、今回の勝訴をそちらの裁判と勘違いしていた。オレゴン州の件は、スイートケーキと言うケーキ屋さんがレズビアンカップルの同性婚ウエディングケーキを拒否したことにより、レズカップルから訴えられて店は多額の罰金支払いを命じられ、ネットで過激派左翼たちに叩かれひどい嫌がらせを受けるなどして閉店に追い込まれ破産状態になっている。

今回のケースはコロラド州の人権委員会が極端に反宗教偏見を持っていたという理由でケーキ屋の勝訴となったので、オレゴン州のケースとは同等には扱えないとはいうものの、宗教の自由を尊重したという点に非常に大事な凡例となった。

同性婚に関するサービスを拒否して裁判沙汰になったのはケーキ屋さんだけでなく、ウィスコンシン州のフリーランスカメラマンの件やニューヨークのカトリック教徒経営の結婚式場の件などがある。他にも裁判沙汰にならずとも市や州から同性婚へのサービスを拒否して罰金を課された経営者は多く居る。

これらの件で共通しているのは、同性愛カップルたちは、断られることを承知のうえで、わざと敬虔なるキリスト教徒のビジネスを狙ったことにある。同性愛者たちは申し込み拒否されると即座に訴訟を起こした。はっきり言ってこれは完全なるLGBTパワハラである、宗教弾圧である。

他にいくらも同性婚フレンドリーなビジネスはあるわけで、何も取り立てて同性婚に反対な宗教家を選んで依頼を持ち込む必要はない。最初からキリスト教徒への嫌がらせと弾圧が目的であったと考えれば話の辻褄はあう。それが証拠にモスレムケーキ屋が訴えられた例はひとつもない。(コメディアンのスティーブン・クラウダーがわざとモスレムケーキ屋に同性婚ウエディングケーキを注文したところ、はっきりと断られていた。)だからこそ今回の最高裁の判決は非常に大事なのだ。

アメリカでは宗教の自由と言論の自由が憲法補正案第一条で保証されている。何故宗教の自由が言論の自由と同等に扱われるのかといえば、宗教は思想であり思想を表現することが言論であるからだ。思想を弾圧するのは言論を弾圧するとこと同じである。

しかし宗教の自由はどこまで認められるのか。イスラム教のように女児性器を切除するような野蛮な因習を宗教のしきたりだからと言って認めてもいいのかと言えば、そうではない。アフリカ産のブードゥー教では動物を生贄にするしきたりがあるが、これも無論認めることはできない。では、どこまでが認められてどこまでが認められないのか。

思うに、宗教及び言論の自由は自分や他人の身体に危害を与えない及び、他人の権利を損なわないところまでが限界である。他の宗教や思想を批判する行為は許されるが、他人の名誉を傷つける行為や、「○○宗教の人間は皆殺しにしろ」と暴力を煽るような行為は言論の自由では認められない。

しかし、宗教上の理由から特定のサービスを拒否する権利はビジネスには認められるべきだ。そうでなければユダヤ教徒のコーシャーレストランやイスラム教のハラルレストランで豚肉を出さないのは差別だとか、ヒンドゥーレストランでビフテキを出すことを強制できるというおかしなことになってしまうからだ。

それでは宗教上の理由から従業員が仕事を拒否できるのか。この質問の答えは、イエスアンドノー。例えばコンビニの従業員が豚肉製品やアルコール製品の扱いを拒否したとしたら、経営者は彼に仕事を強要することは出来ないが、解雇する権利はある。仕事をしない従業員を抱かえておく義務はどんな経営者にもないからだ。最初からどんな仕事か承知の上で就職しておいて、後で仕事を拒むのはおかしい。

この問題を同性愛者への差別と歪曲している人がいるが、これらのビジネスはそれまでにも同性愛者の客へのサービスを断って来たわけではない。特にスイートケーキの場合はレズカップルとは知り合いで、それまでにも色々なケーキを焼いてきたという話だ。問題なのは同性婚なのであり、同性愛そのものではない。

ともかくこれを機に、同性婚サービスを拒否して裁判沙汰になっているほかのケースもビジネス経営者を支持する判決が下る希望が出て来た。


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トランスジェンダーに関して保守派は譲歩してはいけない!

 今を去ること10年前、私は同性婚は文明社会を滅ぼすというブログエントリーを書いた。今思うと私の予測はあまりにも甘かった。実際に同性婚が合法化されたアメリカでは私が憂いていた以上の恐ろしい状態が起きている。

私は、同性婚が実施されたら一夫多妻制や近親婚や少女妻などといった因習が舞い戻ってくるのではないかと懸念していた。一夫一婦制という文明社会の基盤を崩せば、結婚制度そのものが崩壊すると考えていたからだ。

しかし現実は私が懸念する以上の異常な状況を生み出した。

人間と言うものは常に異常な文化に興味を持ち魅力を感じるものなのだ。多分それは我々の遺伝子の中に組み込まれているものなのだろう。

異常であるものを求めること自体は悪いことではない。もし保守的な遺伝子のみが優勢であれば我々はいまだに洞穴に住む原始人でしかなかったであろう。それが文明人として進化したのは異常と思われる生活を誰かが欲したからだ。現存している洞穴のむこうに何かがあると求めた人間が居たからこそ現在の我々があるのだ。

しかし、問題なのは一つ異常とされていた行動や現象を通常であると認識するともっと異常な状況を通常として認めろという動きが出てくる。この異常な行為が単に個人の嗜好で済んでいればいいが、それが他人の人権を損ない危害を与えるようなものになってくると話は別だ。トランスジェンダー容認はまさにこれにあたる。

先日こともあろうに王道派の保守雑誌のナショナルレビューにおいてJ. J. McCullough(J.J.マクラフ)という人物が保守派は社会の秩序を守るためにもトランスジェンダーに関しては多少の妥協をすべきだというコラムを書いた。

マクラフ曰く、同性愛行為そのものが不道徳かどうかなどという議論はとうの昔に決着がつき、人々は同性愛者との共存に慣れて来た。同性婚すら合法となった現在、トランスジェンダーを奇妙な目で見たり気持ち悪がったりするのは時代おくれなのではないか、彼らの存在を認めて彼らの求める彼/彼女といった代名詞をつかってあげればいいではないか。その代り、リベラルの方も性は男女の二つしかないことを認め保守派にそれ以上のことを求めないようにするべき。

トランスジェンダーの人権や尊厳を損なうような行動は保守派はとるべきではないというマクラフの意見には同意するがだから相手の好きな代名詞を使うべきというのは理論の飛躍も甚だしい。

ジェームスがジェーンと呼ばれたいというなら、彼をジェーンを呼ぶこと自体は問題ではない。だが、男であるジェームスを彼女と呼ぶということは、私がジェームスを女と認めたことになる。言葉にはそれなりに意味があるのであり、事実と異なる言葉使いをすれば、私は事実を否定することになるのだ。他人に虚偽の事実を認めさせることのどこが妥協なのだろうか?

第一、例え保守派がトランスジェンダーを個人の好きな性別で呼んだとしてもリベラルがそれで満足すると思うのは甘すぎる。後退派左翼の運動はあたかもそこが出発点であるかのようにさらに異常で非常識な現実を認めさせようと激化するに違いないのだ。

男を女と認めさせれば、男が女子施設に入ることも認めなければならない。男が女子スポーツに参加することも認めなければならない。トランスジェンダーが好むのだから彼を彼女と呼んであげればいいではないかでは済まされないのだ。

自称保守派のマクラフがそんなことも解らないというのは悲しいものである。しかし保守派にはこういうふうに左翼に迎合する人間が少なからずいる。保守派はどっちかいうと礼儀正しくしていたい、相手には親切でいてあげたい、と思う人が多い。しかし秩序を守るということは事実を捻じ曲げて相手の言うなりになるという意味ではない。あきらかに間違っていることは間違っていると真実を言い続けなければ本当の秩序など保てないのだ。

我々は今までずっとLGBTの言いなりになってきた。今度という今度こそ、この戦いを諦めてはいけない。

 

 


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ゲイ白人男性による有色及びトランス差別

この間の「ウイマンズマーチ(女性行進)」と名づけられたリベラル女性たちによるわけのわからないデモ行進では、ピンクの猫型毛糸帽子が目立ったが、猫の属名プシーは女性性器を意味することから、あの帽子もプシーキャップと呼ばれた。それだけならまあいいとしても、その他に女性性器をかたどったピンクの着ぐるみを着て参加した女性があちこちに居た。これはトランプが10年以上も前に「女性を性器で摑んでやる」という下品なことを言ったことから、トランプへの抗議として使われたらしい。しかし女性の人権運動をするのに女性を性器で表すというのは女性に対して侮辱ではないのか?フェミニストたちは常に女性を性の対象としてだけ扱うなと言っているのに、自分らの抗議運動を女性性器で象徴するのは矛盾しているだろうに。
ところで、この性器強調に対してトランスジェンダーたちからクレームが付いた。「女性性器のある人間だけが女性ではない」というものである。(マジで、、)女性性器があるから女性というのは定義だからね、そうでない人が女性を名乗るのはおかしいはずだが、今の世の中不思議である。
さて、別の話だが、ペンシルベニア州にあるフィラデルフィア市では、ゲイバーフッドと呼ばれる同性愛男性が集まる繁華街において、有色人種に対する人種差別が横行しているとして市長が飲食店やナイトクラブの経営者に「公平な営業」訓練を受けるようにと命令している。
同市の人間関係協会はゲイバーフッドの経営者たちはほとんどが「白人シスジェンダー男性」(シスというのは生物学的な性別を受け入れている普通の人のことを示す造語)に占められているとし、人種差別やトランス差別が横行しているというもの。
普通LGBTQ社会は保護の対象となる少数派としてこういう問題で責められることはないが、保護対象にも段階があり、いくらゲイといえども白人シス男性はその中でも下の下の存在。つまり、まともであればあるほどリベラル差別の対象となるわけ。
アイデンティティーポリティクスを進めれば進めるほど、誰が一番保護を必要とする少数派かということで勢力争いがおきるのは当然。
この間の「女性行進」でもパレスチナ人のテロ親派女性が主催者の一人として参加していたが、モスレムとフェミニズムや同性愛者人権が共存できるはずはない。特に暴力的なモスレムにこれらの運動が乗っ取られてしまう日は近いだろう。そうなってからフェミニストやゲイたちはどうするつもりなのか。興味深いことである。


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少数民族が得をする国、アメリカの白人がマイノリティーを装うわけ

アメリカは人種のるつぼである。よってアメリカにおいては人種に関する話題が後を絶たない。しかもBLMのようなアメリカの左翼リベラルがことあるごとに国内の『人種問題』を誇張して報道しまくるので、諸外国においてアメリカ国内における『人種問題』に関して完全なる誤解を招いてしまう。
この間、私のトランスジェンダーに関する記事にトラックバックを送ってくれた東大出の凡人というイギリス在住(?)の日本人ブロガーさんのエントリーを読んでいて、他国よりは理解度がありそうなイギリス在住人にすら、ここまでアメリカを誤解されてしまうのかと改めて驚いた。
東大出の凡人さんのトランスジェンダーに関する意見にはおおむね同意するのだが、人種に関する記述についてはかなり気になったことがある。

黒人になりたい白人は極めて少ないと思うのだけれど、白人になりたい黒人は多いと思う。例えば、白人と黒人のハーフ。

オバマ大統領もその一人で、3歳の時に両親が離婚したので、彼は白人のお母さんによって、そして10歳からは祖父母(母の両親=白人)によって育てられた。だとすると、「白人のお母さん/おじいちゃん/おばあちゃんなのに自分はなんで黒人なの?」とオバマ少年が思ったとしても不思議ではないし、現実に彼はそのような違和感を抱いた旨の発言をしている。
悲しいかな、白人の母親から生まれても黒人が父親だと世間は白人と認めてくれない。だから、心の中では「白人のお母さんから生まれた自分は白人のはず」と思うのだけれど、世間が「黒人」としか見てくれないので仕方なく「黒人」たる自分を受忍しているハーフは数多い、と私は確信する。そういう人たちが「自分は白人!」とカミングアウトしたら、社会は彼らを「白人」として遇するだろうか?
答えは当然「ノー!」になりますが、マイケル・ジャクソンみたいに自己改造できたら認めてやってもいいのでは・・・と個人的には思う。

東大さんはかなり誤解しているのだが、どうみても黒人に見える人が自分が実は白人と黒人のハーフなのだとかカミングアウトしたからといって別にアメリカ「社会」は何とも思わない。そんな人はいくらでも居る。それを言うならば、アメリカの黒人はほぼ誰もが白人との混血なので、たとえ両親が黒人に見えても子供は白人に見えるという例は珍しくない。(ビヨンセなんてほぼ白人だ)それで、どうみても白人に見える人が実は両親は黒人だったということがわかったとしても、今のアメリカでは別に問題にならない。いや、かえってその方が得をする可能性の方が高い。
東大さんが言うような黒人差別が存在していたのは黒人が組織的に法律で差別されていた1960年代までであって、ジムクロー法のような、黒人は学校を含めホテルやレストランや公衆トイレや水飲み場に至るまで白人とは一緒の公共施設を使うことが出来ないという法律があった時代に限られる。
オバマ大統領は白人と黒人のハーフであるが、彼は昔から自分の黒人性を強調してきた。大学時代から自分はケニア生まれだと嘘をついて黒人市民運動に参加したり、自叙伝でも自分を育ててくれた白人の母よりも乳児の自分を捨てた黒人の父への憧ればかりをつづっていた。オバマは黒人だという理由で差別を受けたこともない。いやそれどころか、彼は黒人であることの特権を散々利用してきた。オバマが黒人でなかったら彼のような政治的に未経験な男が大統領の座を得るなど絶対に考えられないことだった。
東大出の凡人さんは、この記述の前に黒人に化けていた白人女性運動家について述べているが、実はアメリカでは少数民族を装う偽有色人種白人が結構いるのである。

  • エリザベス・ワレン:民主党政治家のエリザベス・ワレンは、自分はチェロキーインディアンの血筋だと偽って大学教授の座を得た。後になってチェロキーのチの字も血筋に入っていないことがばれたが心はインディアンとか言って開き直っている。
  • レイチェル・ドレザル:東大出の凡人さんがテレビで見たのはこの人だと思う。以前にカカシが紹介した金髪白人女性。色黒の化粧をして髪をアフロにして黒人だと偽って黒人市民運動の幹部を務めていた。
  • ショーン・キング:黒人だと偽ってこともあろうにブラックライブスマターを組織。過激な対警察暴力を煽っているけしからん奴。だが実際には両親ともに白人。本人は今でも自分は白人と黒人のハーフだと言い張っている。

アメリカの左翼リベラルは「白人特権」とかいう言葉を使っていかに白人が生まれながらにして優遇されているかを強調するが、実は今のアメリカ社会、少数派の有色人種であったほうが得をすることの方が多いのだ。(ただし、少数派でもユダヤ人、中国人、日本人、韓国人は除く。)何故少数派である方が得なのか、それについては以前ここで説明した。

アメリカにはアファーマティブアクションという制度がある。もともとは有色人種が大学入試時や就職の際に白人より差別されないようにするという目的で作られたもので、元来大学などへ入学する文化のない有色人種の若者が大学に行きやすくするように政府が手助けするというのが名目だった。

しかし、それがいつの間にか有色人種を白人より優遇するという制度に変わってしまった。 特に問題なのはコータとよばれる人種別枠組み制度。州の人種構成の割合をほぼそのまま大学の生徒にあてはめ、黒人は何%ラテン系は何%と決める訳だ。すると州で非常な少数派である東洋人の枠組みは他の人種より極端に減ってしまう。
ところが、生徒の学力は人種によって非常な違いがあり、特に東洋人は優秀な生徒が多く大学受験をする生徒が他の人種よりも圧倒的に多いため、東洋人の一流大学への倍率は他の人種の何十倍にもなってしまうという非常に不公平な現象が生じた。
たとえば、ある中国系生徒がバークレー大学を受験した際、学校の成績はオールAで、SATと呼ばれる全国学力テストもほとんど満点だったのに受験に落ちてしまった。ところが同じ大学に受験したラテン系の受験生はこの中国系生徒の6割程度の成績だったのに入学したなんてケースは日常茶飯事だった。
それで1990年代後半のカリフォルニアではユダヤ系や白人や東洋系の生徒らによる大学を相手取った訴訟が続発していた。

聡明なる読者諸氏にはこれで白人が少数民族を偽る謎が解けたのではないかと思う。大学入試の際に、自分は白人だと名乗ればより高い学力を示さなければ入れないが、黒人だと名乗れば今の学力でも充分に入れる。また、黒人だといえば白人には支給されない奨学金が得られる場合などもある。また、大学教授でも少数民族の教授が少なすぎる大学なら、自分はインディアンの血筋だと言い張れば白人であるより就職の可能性が高まる。
以前に色黒のインド人が医学大学の入試をしたとき、インド人はたとえ黒人でも少数民族の枠組みには入らなかったため、髪の毛を三部狩りの坊主頭にして長いまつげを切ってアフリカ系黒人を装って医学大学に入ったという男性の告白記を読んだことがある。結局彼は勉強についていけずに脱落したそうだが。
今のアメリカの風潮では「犠牲者」を気取る人がちやほやされる。だから多数派の白人でいるより、なんらかの少数派を装い、それが少数民族であれ同性愛者であれトランスジェンダーであれ、自分は差別をされている犠牲者だと言い張れば、それで箔が付くというわけ。
。。。。。。。。。
さて、話はちょっとずれるのだが、イスラム移民について結構いい記事を書いている「無敵の太陽」というブログがある。紹介しようかとも思ったが、いかんせんこの著者はものすごい人種差別者。特にユダヤ人が大嫌いで未だにユダヤ金融陰謀説なんぞを本気で信じてるひどい男。その彼がアメリカの白人夫婦が異人種の子供を進んで養子にもらうことに関して書いている。そのなかで彼の人種差別度が赤裸々になる部分があったので張っておく。
偽善主義で人種差別的なアメリカの左翼リベラル白人でもここまでは言わない、というより思わないだろう。彼はいかにアメリカの白人が人種差別主義であるかをあらわそうとして自分の人種差別意識を表してしまった。それに気がついていないだけ重度だね。
読者諸氏には私が何故そう思ったのか、下記を読んでいただければお分かりいただけると思う。もし解らなかったら、それこそご自分の人種に関する考えをもう一度見直してみる必要があるだろう。強調はカカシ。

異人種を敬遠する我々から観ると、このような里親をちょっと疑いたくなってしまう。「本当に愛情を持って育てられるのか? 」と訊きたくなる。でも、そんな心配をするのは日本人の余計な癖で、個人主義が徹底しているアメリカ人には馬耳東風。子供の面倒は20歳まで。それ以降は勝手に暮らせ、親と子供は別の人生を歩むもの、というのがアメリカ人の考え方だ。厳しい言い方をすると、貰われた子供は養子縁組という幸運に感謝すればいいだけで、里親が「子育て」という趣味を“楽しむ”ことができれば問題なし。そんなことよりも、実子を持てなかった夫婦は悲しみを慰めるための何かが必要で、その役目を犬、猫、養子のいずれかが果たせばよいのである。アメリカ人にはご先祖の偉業を受け継ぐ子孫とか、絶やしてはいけない高貴な血筋、なんて考えは無いから、自分が生きている間に「充実した時間」を持てれば満足なのだ。ということで、家門の存続など気にしないから、白人の赤ん坊をゲットできなかった夫婦は、貧しい第三世界で適当な子供を入手して、人間に近い「ペット」として可愛がっている。


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トランスジェンダーは現実社会を破壊する

最近欧米の大学を中心に「社会正義戦士」(Social Justice Worrier – SJW ソーシャルジャスティスウォリアー)と名乗る若者たちが、我々一般人が普通に信じている常識になにかといちゃもんをつけるようになった。そろそろ近づいているハロウィーンなどでも、これまでは普通に着ていたインディアンやベリーダンサーの衣装などが文化盗用だとか人種差別だとか言われて攻撃されるようになった。ごく普通に男性を彼と呼ぶことや女性のみが女子トイレを使うべきだという考えすらトランスジェンダーを名乗る人々から差別だと攻撃される。こうしたちょっとしたことで傷つくトランスジェンダーに代表されるSJWたちのことを、取るに足らないとか可憐は雪片などといって馬鹿にしていてはいけないと警告する人がいる。トランスジェンダーたちは実は我々文明社会の常識を破壊しようとする戦士たちなのだと。
本日紹介したいのはPronouns, Ordinary People, and the War over Reality by Anthony Esolen(代名詞、普通の人々、そして対現実戦争)というエッセー。著者のアンソニーエソレン教授はアメリカはロードアイランド州プロビデンス大学の英語学教授。
トランスジェンダーらに代表されるSJWたちは今や我々人間の根本にある性別を破壊しようとしている。だが、人間にとって性別の認識は現実を把握するために非常に大切なものなのだとエソレン教授は言う。

さて、他人の性別は我々が最初に気が付き最後まで印象に残るものである。何故そうなのかは容易に理解できる。いかなる生物においてメスとオスを混乱することが有益であるはずはない。性別は犬や猫や馬や多くの鳥の種別の身体よりも人間の身体により強く標されている。男の顔は女の顔とは違う。女の声は男の声のようではない、たとえ女がグリアー・ガーソンであろうと男がフランキー・バリだろうとである。男の肩は女の肩のようではないし、女の腰は男のそれとは違う。男と女は髪の毛の先まで違うのだ。誰もが女のすべすべした顎や男のはげ頭に気が付くように。

だから時々男か女かわからない人に出会うと一般の人々は非常に不安になる。性別のはっきりしない人は完全に人間とは思えないのだ。よって我々誰もが即座に把握する現実をあたかも誤りであるかのように振舞うのは人間の本能や言葉や共通体験や現実を把握する能力に対する暴力であると教授は言う。

もし「道を歩いている男がいる」と言えないのであれば、人間の存在に関するほかのどんなことに関して信頼できる判断ができるのか。

性別ほどはっきりしているものはない。アイゼンハワー大統領が良い指導者だったかどうか、良い夫で父親だったっかどうか、といったことには人それぞれ違う意見があるだろう。だが、アイゼンハワーが男だったという事実に誰もが同意できなかったとしたら、言葉そのものが意味を失う。
最近SJWたちはしきりに彼とか彼女とかいう従来の代名詞ではなく彼女達がでっちあげ架空の代名詞の使用を要求している。これは色々な性癖の人間に安心感を与えるためだと主張するが、本当の目的は他人を不安にさせ居心地を悪くさせることにあるのだと教授は言う。SJWたちは普通の見解を破壊し普通の人々が言葉の地雷に当たらないようびくびくして歩くのをほくそ笑んで楽しんでいるのだ。いや、実を言えば一般人が失敗して地雷にあたって爆発することを望んでいる。そうなればさらなる「教育の機会」が訪れ、さらに厳しい現実弾圧を目指すことが出来るからである。
エソレン教授は彼・彼女以外にSJWが作り上げた数知れない代名詞には非常に醜く恐ろしい謀略が隠されていると語る。これらの代名詞は言葉を豊かにするどころか、かえって我々の誰もが所持している男女識別能力という現実を破壊しようとするものだという。
だが、何故SJWたちはこのようなことをするのだろう?何故一般人が何世紀にも渡って培ってきた男と女という現実を破壊しようとするのだろうか?
教授は「誰が得をするのか?」と問いかける。
第一に得をする人たちは、自分自身が混乱している人たちである。自分の妄想に他人を巻き込むことによって自分は正常だと思い込みたいのだ。女の振りをしている男を女と認めろということは、エルウッド・P・ダウドが身長180センチのハービーウサギを空想の友達として持っているだけでなく他人にハービーと握手をすることを要求するようなものだ。そしてもしキリスト教のケーキ屋さんが「ハービーなんて居ない。居る振りをする気もない」などと言おうものなら自分の妄想を否定したケーキ屋に凄まじい報復を加えるのだ。
第二に得をするのは思想上の仲買人。大学教授や人事課の課長や人権弁護士や役人や一様性を目指す「多様化」運動家たち。やつらは自分たちで地雷を埋め込んでおいて地雷地図を売りつける。井戸に毒を落としておいて自分らの井戸の水を高い金で売りつける。一般人が勝手に汚染されていない水を発見して飲んだりすれば高い罰金を課す。彼らは混乱と衝突を求める。なぜならそれらが彼らに富と力をもたらすからである。
第三に得をするのは家族という文明社会の基盤を心から嫌う人々だ。性革命は常に普通の家族や一般の男女及び子供たちの日常生活を脅かす。 性に関する道徳は家族を内外からの脅威から守るものだ。一緒に暮らしている男女でも単に性欲だけで結ばれていたり、浮気や衝動的な性行為を許容すれば、夫婦という絆は弱り家族という構成が成り立たなくなる。男が一国城の主となり得るのも家族としての伝統や法律がその城を守っているからである。それがなくなって得をするのはいったい誰なのか?それは自身が家族を構成できない、家族としての生活を楽しむことが出来ない人々だ。自分らが幸せな家庭を築くことが出来ないので他人の幸せな家庭を破壊することに喜びを見出すのである。
一番怖いのはもちろん第三の人々だ。我々一般人は自分が獲得できない美しいものを破壊しようなどとは思わない。だが、SJWたちは、まさに自分が得られない現実の完全破壊を望んでいる。SJWの人間はその名の通り戦士である。彼らはベン・シャーピーロが言うような可憐な雪片などではないのである。彼らの目的は我々が常識としてはぐくんできた現実を破壊することにあるのだ。
SJWが好き好んで使う「ミクロアグレッション」という言葉がある。それはミクロ単位の小さな攻撃だが繰り返されるうちに巨大な攻撃へとつながるという意味。だが実際にこのマイクロアグレッション戦略を施行しているのはSJWそのものだ。最初は差別につながるとか平等を目指してなどときれいごとを言って小さなことから要求してくる。彼・彼女をやめて本人が求める代名詞を使えとか、MTFに女子トイレや施設を使わせろとか。だが、こうしたひとつひとつの行為を認めてしまうと、それは我々が大事にしている現実を少しづつ少しづつ削っていくことになり、いずれ全てが破壊されてしまう。
SJWたちがイスラム教徒と同調しているのはこういう共通点があるからなのだろう。
だから私は誓う。SJWの要求にはひとつたりとも応えない。鬘をかぶってスカートを履いてる男を「彼女」などとは死んでも言わない。勢力に屈服して自分が見ている現実を否定せざる負えないようなファシズム社会に生きる気は毛頭ない。


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