国民の意志を無視して訴訟で同性婚を押し通そうという策略

前回のエントリーで日本ではまだ同性婚を禁止するのは違憲だとする訴訟が起きていないのだろうかと書いたが、やはり日本ではすでにそういう訴訟を起こそうという計画があった。これがハフィントンポストの記事

「同性同士が結婚できないのは、憲法に違反している」として、複数の同性カップルが2019年2〜3月、東京地裁など全国数カ所の地裁で国に損害賠償を求める訴訟を一斉に起こす。「同性婚ができないのは、違憲」だとして、同性カップルが国を提訴するのは日本初となる。 11月28日のメディア懇談会で代理人の弁護士や、木村草太・首都大学東京教授(憲法学)らが訴訟の目的について解説した。

やっぱりねえ。これは時間の問題だと思っていたが。憲法改正だの国民投票だの面倒臭いことをするよりも、既存の憲法の解釈を訴訟を使って変えさせたほうがずっと近道だ。これを使わない手はない。 さて、では日本における結婚の定義をしめす憲法24条に何と書かれているのか。

婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない

明らかに「両性の合意」とあるので、これは男女両性の意味だと解釈するのが妥当だが、同性婚推進者はそうではないと言い張る。

しかし木村氏によると、この条文が意図するのは「男女のみが結婚できる」ではなくて「当事者のカップルが、自分の意思で結婚できる」ということ。
旧民法では「婚姻には戸主(父や母など)の同意を必要とする」と書かれていて、本人たちの合意だけでは結婚できなかった。それを、当事者(両性)の合意だけで結婚できるようにするために、憲法24条は作られた。
ただ憲法が起草された当時、自由に結婚できずに困っていたと想定されたのは異性カップルだけ。同性カップルが結婚できない、という問題が認識されていなかった。(強調はカカシ)
つまり24条の指す「両性」は男女を指すものではあるが、憲法24条自体は、同性カップルの結婚を否定はするものではない、と木村氏は解釈した。

この理屈はどう考えてもおかしい。確かに憲法24条設立当時、同性婚を念頭に置いていた人は居ないだろう。だがそうであるならば、何故発案者は「当事者」とせずにわざわざ「両性」としたのであろうか?わざわざ「両性」と断っている以上、この結婚は男女の間でのことだけだとはっきり明記しているのだと解釈するべきではないだろうか?それを『当時は同性結婚は念頭になかったがもし念頭にあったら「当事者」としていただろうからこの「両性」は当事者と解釈すべきなのだと』というのはあまりにも屁理屈ではないか?

原告側はさらに憲法13条と14条の「婚姻の自由の侵害」と憲法14条の「平等原則違反」の二つ を持ち出してくる。


「第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

憲法13条は、幸福追求権に基づいて「人は自分のことは自分で決定できる」という自己決定権を保証するもの。
そのため「婚姻をするかどうか、いつ誰と婚姻をするか」は、相手が異性・同性に関係なく(強調はカカシ)、個人の決定に委ねられるべきことであるはずだと、弁護団は主張する。 寺原真希子弁護士は「憲法13条と24条1項で、同性カップルにも結婚の自由を認めるということが、要請をされている。それができていない現状は、婚姻の自由の侵害に当たります」と述べる。 (略)

この解釈には無理がある。日本人は誰とでもいつでも好きな時に結婚できるわけではない。同性に限らず、近親や、未成年(親の承諾なくしては)や、複数の人間とはいくら好きでも結婚は許されていない。ここで「相手が異性・同性に関係なく」というのは原告の勝手な解釈であり、第24条ですでに「両性」と限定されている以上、ここで同性を持ち出してくるのはおかしい。

では続けて憲法14条。

「第三章 国民の権利及び義務
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない。
② 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
③ 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。」

憲法14条は、「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分または門地によって、区別することが許されない」と定められている。
今回は「社会的身分」と「性別」が平等原則に違反するという。寺原弁護士はこう説明する。
「性的指向は自らの意思で自由に変えられないもので、社会的身分に該当します」
性別についても、憲法制定当時は男性・女性を想定していたことは否定できません(強調はカカシ)が、人間の性のあり方が多様になった現代社会では、性的指向に基づく差別も性別による差別に含めるべきであるという風に考えます」

これはさらに苦しい解釈だ。ここでいう性別とは主に女性差別のことを言っているのであり、同性愛者差別のことを指すのではない。どこにも「性嗜好によって差別されない」とは書かれていない。同性愛者は少数派だから「社会的身分」に相当するなどこじつけもいいところだ。この場合に身分とは華族だの貴族だののことを指すのであって性嗜好を指すのではない。

原告側の主張は憲法にどう書かれていたとしても、当初の想定がどのようなものであったとしても、同性結婚を含まない解釈は時代おくれだから解釈を変えるべきなのだ、そうしないのは違憲なのだというもの。

しかしだったら何故同性婚推進者は憲法そのものが時代おくれなのだから憲法改正をすべきだと主張しないのだろうか?何故わざわざプレッツエルのように条文をねじ負けて解釈させようとするのか?

その答えは簡単だ。憲法改正となれば議会での議論が必要。そのためには一般国民の支持と理解も必要。多くの人が同性婚の是非について語り始めれば多くの人が反対意見にも耳を傾けることになり、ホモフォブ!レイシスト!と騒いでるだけでは国民を納得させることなど出来なくなるからだ。

同性婚推進者に確固たる理念があるならまだしも、単に「時代遅れだから」「欧米ではやってるから」というだけでは憲法改正は望めない。

その点訴訟をおこせば、同性婚の合法性を決めるのは裁判官だけ。リベラルな判事にかかれば国民の意志など完全無視であっという間に同性婚が合法になる。推進者たちの狙いはここにある。

これはアメリカで後退派左翼た使った汚い手だ。ま、アメリカでもうまくいったから日本でもうまくいく可能性は大いにあるだろう。はなはだ卑怯極まりない手口である。


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法の網をくぐって裏口から同性婚を合法化してしまおうという同性婚推進派の卑怯極まりない手口

昨日ツイッターで同性婚を日本で合法化するか否かという議論中に、以前にも絡まれたことのあるアレク慎太郎@alekshintarouという屁理屈男に絡まれた。この男は人に絡むので有名で、まともな話など出来る人間ではない。だが、おもしろいことに、彼とのやり取りで日本の後退派左翼の非常に汚い手口を学ばせてもらった。これはアメリカで後退派左翼が行ったことと酷似しているので、一筆の価値ありとみた。先ずアメリカの場合から復習してみよう。

アメリカの同性婚は国民の同意で起きたのではない。

拙ブログの読者諸氏はご存知だが、アメリカで同性婚が合法になったのは、国民投票や憲法改正によって認められたのではなく、一部の運動家による訴訟によって最高裁が決めたことだ。アメリカにおける結婚は一夫一婦制のみというのが原則であったが、特に同性結婚を禁じていたわけではない。なぜなら元々同性婚など誰の念頭にもなかったからだ。

それで10年以上前に同性婚の話が出始めた頃、各州で改めて結婚は一夫一婦制のみとするという州憲法改正案を通した。極リベラルのカリフォルニアですらも、この州憲法改正案は州民投票で過半数以上の支持を得て可決された。これを不服とした一部の同性婚推進派がカリフォルニア州を相手どって、一夫一婦制は違憲であるとして訴訟を起こしたのである。当時の最高裁は保守派のスカリア判事の急死で一人足りない状態。リベラル派が優勢だったことから、原告の訴えが認められ、結果的に同性婚が合法となってしまった。

つまり、アメリカでは同性結婚を合法にするという新しい法律が出来たのではなく、同性婚を認めないのは違憲だという裁断が下ったことで、同性婚が認められるに至ったのである。この裁断に国民の意見は全く反映されていないのだ。

同性婚推進派が同性婚の是非をきちんと議論しない理由

同性婚推進派は同性婚を合法とすることが何故そんなにも必要なのかという議論をしない。ただ単に異性夫婦が認められるのに同性夫婦が認められないのは不公平だというだけ。しかも反対派に対してどうして反対なのかきちんと説明しろ!同性婚が合法になったからってどんな弊害があるんだ!と開き直る。普通既存の法律を変えろという方が、何故法律を変える必要があるのかを説明すべきだろう。反対意見を述べるのはその後のはず。しかしアレク君との不毛なやりとりでひとつ重大な発見をした。同性婚推進派は法律を変えて同性婚を認めさせようなどという意図ははなからないのである。

法律を変えるのではなく、解釈だけを変える汚いやり方

アレク君が紹介してくれたこのサイト、の同性婚人権救済弁護団員という鈴木明絵と森あいの議論を読んでいると、日本でもアメリカと全く同じやり方で法律を変えずに法律の解釈だけを変えて同性婚を既成事実にしてしまおうという魂胆が見える。魂胆といっても彼らはその主旨を全く隠していないのだが。著者らはまず憲法学と民法学に分けて結婚の定義を吟味している。

憲法24条1項(「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し(以下略)」)を根拠に同性婚は容認されないというのが従来の通説とする見解がある (略) しかし、日本の憲法学上、同性婚はほとんど論じられてこなかった。そもそも、同性婚を論ずる際に問題とされがちな憲法24条についてさえ、著名な基本書に記載は存在しないか、または極めて少ない 。

もっとも、若干の議論はあり、学説は大まかには以下のようにまとめることができる。(略)


①非許容説  注6) 、 注 7) 憲法24条に「両性の合意」とあることから、文理解釈上現行憲法では許されないとする。

②許容説 注8) 憲法24条に「両性の合意」とあっても、婚姻両当事者以外の合意は不要であるとの趣旨であり、また、憲法制定当時は同性婚に対しては無関心であり、時代の変化に伴い同性婚の課題が顕在化した以上、憲法24条によって同性婚制度の立法が禁じられてはおらず、憲法上許容されるとする。 (強調はカカシ)

③保障説 注9) 憲法13条、24条等に基づき積極的に同性婚が憲法上保障されるとする。

そして民法学においては、

①否定説1・婚姻障害説  注10) 民法に明文の規定はないが、憲法24条の「両性の合意」、民法731条「男は」「女は」との婚姻適齢の規定から民法典起草者は当然のこととして書かなかったにすぎず、同性間の婚姻は生物学的婚姻障害であるとする。


②否定説2・婚姻意思否定説 注11) 婚姻する意思は夫婦関係を成立させる意思であり、夫婦関係とはその社会で一般に夫婦関係と考えられているような男女の精神的・肉体結合というべきであり、同性間にはこの婚姻意思がないとする。


③許容説 注12)現行民法では認められないとしても、憲法24条の趣旨は、親や戸主の意向のままに婚姻が決められるという慣例をなくし、女性の権利を確立することにあり、異性カップルのみに婚姻を保障する規定とはいえず、民法で同性婚を認めたり登録制度を設けたりすることは憲法に違反しないとする。

既存の法律で、あからさまに同性結婚を禁止していないのは、アメリカの場合と同じように憲法設立当時、誰も同性婚の可能性など念頭に入れていなかったからだ。だが明確に禁じていないから合法と解釈してよいという考えは非常に危険だ。

結婚制度を改正し同性婚を合法とすることが日本社会にとって必要なことなのかどうかという議論をせずに、既存の憲法で同性愛も許容できると解釈することも出来なくもないので、そういうふうに自分勝手に歪曲して解釈し、国民の意志や社会への悪影響など全く考慮せずに押し通してしまおうというのが日本の同性婚推進派の汚いやり方なのだ。

日本では同性婚を禁じるのは違憲だという訴訟はまだ起きていないのだろうか?アメリカの「成功例」から考えて、そういうやり方は十分に効果があると思う。特に日本政府はアメリカに比べたらずっとリベラルだから。

同性結婚が日本社会に必要だというなら、正々堂々とその議論をしたうえで国民の支持を受けて憲法改正に乗り出せばいい。そうした正規の過程を通さずに憲法の網の目をくぐって裏口から無理やり合法化させてしまおうという考えは全くもって卑怯極まりない。

付けたし:やっぱり同性婚を禁じるのは違憲だという訴訟は起きていた!当たり前だな、それが一番の近道だから。これについては別エントリーを改めて書くつもり。



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フェミニストの「男は女ではない」という言論を弾圧するトランスジェンダー活動家たちにツイッターも加担

カカシのブログをお読みの方は私がフェミニストのファンでないことはよくご存知のことと思う。しかしながら、フェミニストの中でもポリコレの圧力に負けずにトランスジェンダー女は本当の女ではないと勇気をもって言える女性には敬意を示す。彼女たちにとってトランスジェンダーに対して批判的なことを述べるのは我々一般の保守派がするより難しいことだからである。

この間もお話したように、ツイッターにおいてはトランスジェンダーを本人が好まない代名詞で呼んだり性転換前の名前で呼んだりすると口座を凍結される恐れがある。つまり、自称男/女を彼女/彼と呼んだり、デッドネイミングという規則が出来、今は女性名のケイトリンを名乗ってるジェナーを元の男性名ブルース・ジェナーと呼んだりするのは厳禁というわけ。

そういう理由でツイッターを永久的に追放されたのがメーガン・マーフィーというフェミニスト。彼女は来年の一月にカナダのバンクーバーで講演をする予定だが、トランスジェンダー活動家がなんとかその講演を阻止しようと開催会場となる図書館に圧力をかけている。フェミニスト自身もこれまで他人の言論を弾圧してきたグループなので、彼女たちに同情などする気はない。だが、私は言論弾圧は誰が誰に対してしても支持できない。トランスジェンダー女が自分は女だと主張するのはの権利だが、マーフィーがトランス女は女じゃないと言うのも彼女の権利であり、双方の言論の自由は守られるべきだ。

それにしても、ツイッターから永久追放されたり、トランス活動家からこれほど毛嫌いされるメーガン・マーフィー女史とはどういう女性なのだろうかと思い、彼女が過去に書いた記事を読もうと彼女が運営するフェミニストカレントというウエッブサイトに行ってみたら、今サーバーがダウンしていて開けられない。これはトランス運動家らによるサボタージュかな?

仕方ないので、彼女について書いている他の記事を読んでみた。マーフィーは今年の8月、ツイッターから警告を受け、数々のツイートを削除させられたり、口座を一時凍結されたりしていた。その内容というのは「男は女じゃない」とか「男は女になれない」「普通の男とトランス女の違いっていったい何?」といったもの。ツイッターをご使用の方々は、今やツイッターではこういう常識的発言がヘイトスピーチとして削除されるのだということをよ~く心得ておいていただきたい。

さて、そのマーフィーの口座が永久的に閉鎖される理由となったのは、ジョナサン・ヤニーブという男がとある美容院で睾丸の毛の脱毛を要求し、女性のスタッフから断れたことから美容師数人を相手に訴訟を起こしたことにある。男は自分はトランス女だと言い張り、女性専門の脱毛をしている美容院で女性スタッフ拒絶されたのは差別だと言いがかりを付けたのである。この件に関する感想をツイッターで述べた時、マーフィーはヤニーブのことを「彼」と呼んだことが原因で彼女はツイッターから追放され、彼女がツイッターでしていたウエッブサイトの宣伝なども出来なくなった。

ところでツイッターが施行している新しいデッドネイミイングがもしも法律にでもなったら非常に危険だとスペクテイターのジュリー・ビンデルは言う。どのような理由があるにせよ改名した人間の本名を公開してはいけないということになれば、犯罪者が名前を変えてデッドネイミイングの陰に隠れていくらも犯罪を繰り返すことが出来るようになるからだ。

さて、ツイッターのこうした言論弾圧はかえって言論の自由につながるという訳のわからんことを書いてる記事があった。

著者はパーカー・モリーというトランス女(女装男)。モリーは、トランスジェンダー女(女装男)として、自分がトランスで大多数の人々から永久に妄想癖変態だと思われていると、常に思い知らされるのは屈辱的だと言う。デッドネイミイングはトランスの正当性やその生活態度に異論を述べるものであり、それこそが会話を遮断するのものだと言うのだ。

ミスジェンダーを弾圧するのは言論の弾圧だという人がいるが、何もかも自由にすることは権力のある人が会話を独占することになるとモリーは言う。つまり、モリーは本当の女性ではなく単なる変態の女装男だという偏見から話が始まると、それ以上の会話が出来ないと主張するのだ。

私には男を男と呼ぶことで会話が遮断されるという理屈にはどうしてもついていけない。

だいたいヘイトスピーチなどというものは存在しない。嫌な言論に対抗するのは良い言論だ。相手を負かしたいならこちらが理論正しい説をもっと提供すればいいだけの話。相手を黙らせなければ自分の意見が通せないなら、それは相手が自分に同意したのではなく、単に脅迫で屈服させただけ話だ。そういうことをしていれば、いつか自分より力のある人間が現れて自分を弾圧するだろう。言論の自由が言論弾圧で促進されるなどということは絶対にありえないのだ。

ところで保守派からのボイコットを恐れて、ツイッターの株が暴落しているという。

ツイッターの株はこの木曜日6パーセントも落ちたのだそうだ。フォックスニュースがここ二週間ほど全然ツイートしていないことが原因なのではないかという。フォックスニュースは同局のコメンテーター、タッカー・カールソンの住所がツイッターで公表され、彼の自宅に暴徒が押し寄せたことに抗議し、静かな抗議運動をしているのではないかというのだ。

ツイッターは保守派のツイートを次々に追放していることでもあり、今後こう言ったボイコットも広まる可能性がある。格言う私も何時なんどきツイッターから追放されても仕方ないと覚悟は出来ている。

しかしそうやって誰も彼も追放していたら、いずれ誰もツイッターをつかえなくなるのではないかな。

ま、最近はツイッターよりインスタグラムとか他のSNSが人気があるらしいので、ツイッターなど消滅したからといってどうということはないが。


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「ドラッグクィーンストーリーアワー」のさほど隠れていないトランスジェンダー養育計略

以前にも紹介したが、アメリカやカナダのあちこちの図書館で、ケバケバしい女装をしたドラッグクイーン(女装男)が子供たちの前で同性愛やトランスジェンダーについて物語を読んで聞かす「ドラッグクイーンストーリーアワー(DQSH)」なる催しが開催されている。日本風に言えば「オネエが語るおカマ話」みたいなもんかな?当然のことながら、多くの父母たちは、やたら破廉恥な恰好をした女装男が、あきらかなトランスジェンダー推進の動機を持って感受性の高い小さな子供たちに話をするのは教育上良くないのではないかと心配していたが、先日とあるドラッグクイーンの発言で彼らの心配が正当であったことが証明された。

ルイジアナ州にあるラファエテ市の図書館で10月にDQSHが催されることになった。対象は若い子になると3歳という幼稚園児。主催者はディラン・ポンティフというドラッグクイーン。これについて住民のなかで反対の声があがり、市議会においてイベント開催の是非を問う審議がされた。

ポインティフは市議会において、自分が子供の頃に他の男の子と違うということでいじめの対象となったことなどを語り、次の世代に他の子と違うことは恥かしいことではないと教えるのは大事だと語った。また、この件において同市民から色々な批判を受けたが、それは誤解や不寛容よるものだと語った。ドラッグクイーンは必要以上に性的であるという批評に関しても、ドラッグクイーンは時と場合に合わせて性的描写を制御することが出来るのでその心配はないと語る。

イベント反対派のラファエテ住民、レスリー・アレキサンダーは、これはいじめとか不寛容の問題ではない、これは、確固たる指導を一番必要としている時期の子供たちに対して性的混乱を招くことを意図的に目的としたものである。後々になって子供たちが自分の性に疑問を抱くように種を蒔こうという策略だと語った。

ポンティフは自分にはこれといった計略があるわけではないとしながらも、次の世代を養育することが目的だと自慢げに認めた。次の世代とはどんな世代だ?明らかに次のトランスジェンダー世代を育てるという意味だろう。反対派が心配している通りではないか?

根性のない市議会議員たちはこのことについて審議することを拒否した。しかし10月4日のニュースによると、私立図書館でのイベントは一応延期。ルイジアナコミュニティー大学でのイベントも警備の問題から延期になった。市立図書館は完全なる中止ではなく、あくまでも適当な会場が見つかるまでの延期だと主張している。

こういうことがあるごとに、良識ある市民が立ち上がって抗議しないと、どんどん子供たちが洗脳されていく。どれだけ相手がこちらを差別主義だのホモフォブだの不寛容だの騒いでも、子供たちの将来がかかっているのだ、我々は常に戦わねばならない。


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トランスジェンダーという精神病に世界が付き合うべきじゃない

トランスジェンダー関連の記事を二つ紹介しよう。

一つは、なんで調査なんかしなきゃわからないんだ、というような記事。その内容はというと、男女共用の更衣室は女性が性犯罪の被害者になる可能性が高いというもの

当たり前だろうが!そんなこと試してみなくても最初から解ってたことだろうが!いったいどれだけの人がそういうって反対したと思ってるんだ。あまりのポリコレで、どれだけの婦女子が犠牲になったことか。

記事は全部読むまでもなく、90%以上のセクハラや覗きや女性への性暴行は市民プールなどの男女共同更衣室で起きていることが使用者たちの被害届で分かったというもの。

もうひとつの記事はナショナルレビューのベン・シャピーロ著のコラムで、トランスジェンダーへの同情が社会の現実を変えてはいけないという意見筆者はトランスをめぐるいくつかの例をあげて、行きすぎたトランスへの同情が社会秩序を乱していると語る。

女性専門の運動ジムに女装男が現れ更衣室で着替えを始めた。経営者は彼に個室を使うよう求めたが、本人は自分は女だと言い張り個室使用を拒否。他の普通の女性会員が苦情を述べたが、経営者側はトランス女に個室を使わなければ会員権をはく奪すると言えば訴えられる可能性があるとして女性会員たちの苦情を受け入れることが出来なかった。結果多くの女性会員がジムを辞めてしまった。ジムの経営者はたったひとりの女装男のためにジムがつぶれる危機に陥っている。

ツイッターでは、本人が好まない代名詞を使った場合はその口座を凍結するというもの。つまり、自称トランス女を「ミスター」とか「彼」とか読んだりしたらもうアウト。ジョーダン・B・ピーターソン教授がカナダで通ったこの法律について抗議していたのは、これは言論弾圧だからだ。トランスジェンダー運動は本当に他人の言論を徹底的に弾圧する思想だ。

このオプエドでも紹介されているが、私が最近読んだ記事で、テキサスで離婚後の親権を巡り母親が6歳の男の子を女子として育て名前までルナと変えてしまったことに関して父親が抗議したところ、かえって母親の方から幼児虐待だと責められ、父親の方が親権を取り上げられそうだという話。しかもこの母親は別れた夫に対して子供のホルモン治療やセラピーや性転換治療費を払えと要求している。

だが肝心の男の子ジェームスはどうかというと、彼は自分が女の子だなどとは思っておらず、男の子として扱ってほしいと思っているというのだ!にも拘わらず法廷は父親に子供とセクシュアリティに関しての話をすることを禁じ、女子と男子の両方の服装を提供することを義務付けたという。だが父親は男の子は自分といるときに女子の服を着るのは断固拒絶しているという。

ジェームス君は母親が連れて行った精神科の医者によって性同一障害と診断され、母親が付き添いで行くセラピーでは女の子の性を好む行動を取っているという。しかし父親といる時や他の友達といる時はジェームスと呼ばれることを好み男の子として振る舞っている。ジェームス君が通う教会の牧師さんも、ジェームス君はどう見ても普通の健全な6歳の男の子に見えると語る。

はっきりいって精神科の医者にかかるべきなのは母親の方だろう。これはいわゆる代理ミュンヒハウゼン症候群(munchausen by proxy)という病気だ。つまり、母親が自分が病気なのにそれを投影して子供が病気だと思いこむ精神病。病弱な子供を献身的に支える母親として注目されたいと思うのが症状。これは明らかに母親が男の子をトランスだとすることによって自分が注目されたいと思っている症状だ。これによって本当にジェームス君がホルモン治療などされてしまったら、彼の人生はどうなるのだろうか?

しかし今や常識が通用しない世の中。この父親は自分の子供が母親の妄想によって虐待されるのを手をこまねいてみているしかないのか、抗議したらそれこそ子供を失う恐れがあるのだ。こんなことってあっていいのか?

自然な生物学を書き換えることは現実社会に多大なる悪影響を及ぼすとシャピーロは言う。客観的な現実を無視し誰かの主観的な社会観を押し付けるということは、ビジネスや学校や病院や言論の自由に至るまで、ありとあらゆることを根底から崩さなければならなくなる。性同一性障害に病む人々への同情が客観的な社会現実を破壊することになってはならない。

一部の人々の精神病に何故世界中が付き合わなければならないのだ?そんなことをしてみても当事者は救われないだけでなく、部外者が多大なる被害を被る。婦女子が安心して更衣室やトイレに行かれない。言論は弾圧される。子供は無理やり異性ホルモンを飲まされる。抗議する片親が親権を失う。

そんな世界に誰が生きたいのだ?


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フェミニストはトランスに仕えろ!フェミニストに完全服従を要求する女装男たち

もう数年前からMTFと呼ばれるトランス女(女装男)たちが生物学的な女子以外を女とは認めないと主張するフェミニストやレズビアンに圧力をかけているという話はすでに拙ブログでも何回かしてきたが、先日もそれにかかわる話題を二つ見つけた。

先ず東ミシガン大学はイーブ・アンスラー著の1994年作の戯曲で女性のセクシュアリティーを全面的に押し出した「バジャイナモノローグ」(膣の独白)を、トランス女性に対する配慮がないとして、今後上演しないことにしたと発表。ここ2~3年、アメリカではこの戯曲の排斥が広がっている。一時は女性の性解放を示すものとして大称賛され、どこの女性グループもこぞって上演したものなのだが、左翼社会のポリコレの変化はめまぐるしい。常にその時代にあった「政治的に正しい」ことをしていないと弾圧される。

さて、それに関連してハフィントンポストがすべてのフェミニストはトランス解放のため戦わねばならない」というオプエドを発表した。トランス連中は、特に女装男たちは、やたらとフェミニストを目の仇に完全服従を要求する。このコラムはその典型。

著者はセンティ・ソジワルという写真からみて明らかな黒人女装男。ソジワルは先ず11月20日はトランスの日だと発表。これは暴力によって殺されたトランスを追悼する日なんだそうだ。ソジワルによると2017年暴力的に殺されたトランスの数は29人と記録的な高さであり、特に有色人種の被害の割合が高いという。この数が多いか少ないかという判断は、他の人口と比べてみないと意味がない。

左翼の黒人が「パーソンオブカラー、色のついてる人」という時は、まず黒人と限定しており、ラテン系や東洋系は年頭にない。残念ながらアメリカ国内で暴力的な死を遂げる黒人の割合は多人種よりも圧倒的に高い。それは、黒人が集中しているシカゴやボルティモアなどで暴力的犯罪が集中して起きているからである。であるから、黒人トランス女が殺される割合が他の黒人男性の殺される割合と同じであったなら、彼の死の原因は必ずしもトランス差別によるものとはいえない。

ソジワルによると、アメリカにおいてトランスにおける失業者やホームレスや健康保険のない割合は非常に高いという。そうして彼らは人種差別やホモフォビアやトランスフォビアの性差別や階級差別といったあらゆる差別の対象となって苦しんでいるという。今日こうした非常に厳しい環境に直面しているトランスコミュニティーが出来ることは、団結してトランスが平等に生きられる社会をつくるべく作戦を立てることだという。

彼に言わせるとトランスになると突然差別されて貧困に陥るかのようだが、もともと労働意欲のない人間がトランスライフに魅かれるという可能性も考えられる。トランスでも普通に仕事をしている人はいるので(明らかな女装男のパイロットを私は見たことがある)なぜトランスに失業者やホームレスが多いのかという問題は真剣に考える必要がある。

トランス人権獲得のための第一の作戦としてソジワルが克服しなければならないと考えるのは、伝統的なフェミニストたちによるトランス(特に女装男)の拒絶意識だ。フェミニストたちは自分たちの空間から女装男を排除してきた。女性弾圧や男性社会における平等といった会話にはトランスが含まれることは先ずない。当たり前だろう、女装男は女じゃないんだから。

フェミニストたちがトランス拒否をしてきた以上、今後はフェミニストたちこそがトランス解放のために最前線に立って戦う必要があるのだという。

トランプ大統領就任を抗議した「女性行進」と呼ばれる左翼女性たちの行進で、女性器を意味する「プシーハット」と呼ばれるピンクの帽子も、ソジワルにあってはトランス差別の象徴。この行進には多々の人種の女性が参加したが、トランス女は含まれなかった。プシーとは膣の俗語であり、それを女性の象徴として活動するということは、膣をもたないトランスやノンバイナリー(男女どちらでもないと主張する変態性の人々を指す)を差別するものだというのである。

ここまで笑わずに読めた人は偉い。今風に言うなら「まじかよ」といった感じの屁理屈だ。ま、彼に言わせるとトランプ大統領はトランスコミュニティーにとっては非常に危険な存在であり、反トランプ活動にトランスを含まないのは差別だというわけだ。

しかし彼はトランス差別はトランプ政権で始まったわけではないと認める。男女差別の問題でトランスは常に会話から排除されてきた、ミーツー運動にトランス女が含まれないのはおかしいとか。

ソジワルはトランス(男女ともに)が性的暴力を受ける割合は非常に高いというが、彼の出す例は要するに売春に携わる人々だ。売春というのは元々危険を伴う商売だ。アメリカのほとんどの州で売春は非合法なので、セックスワーカーなどときれいごとを言っても、顧客には変態が多く、売春婦/夫が暴力を振るわれる可能性は高い。これも、トランスだから受けた暴力なのか、それとも売春婦一般における暴力なのかをきちんと区別しないと意味がない。

しかし、ここでソジワルが無視している現実は、フェミニストが最初に戦った男女差別は個人の選択によって起きたものではないということだ。女性差別は女性という持って生まれた性質によって差別されることであり、本人にはどうしようもない。だが、トランスは自分で選んだ生き方だ。男性優先社会だと本気で信じるなら、なぜ差別されるような女装をわざわざするのだ? 差別が嫌なら普通の男性のように振る舞えばいいではないか。なぜ女装してわざわざ危険な売春という仕事を選ぶのだ?

しかしソジワルは、トランス弾圧を無視する人間にフェミニストを自称する資格はないとまで断言する。特にフェミニストたちのなかでもいまだに勇敢に女装男は女ではないと主張している一部の女性たちのことを彼は「TERFs、トランス排除的過激派フェミニスト」と呼んで侮蔑する。彼はこうした正常な女性たちは右翼保守の家族主義の人々よりもトランスにとって危険な存在だとしている。当然だ左翼同士での亀裂の方が右翼への敵対心より深刻なのは常にあること。

最近のフェミニストたちは全く不甲斐なくトランスの圧力に負けているが、それでもソジワルに言わせれば、まだまだ足りないというのだ。ソジワルにとってフェミニストたちの完全服従がない限り、トランスの人権が守られたことにはならないからだ。まったくなんという男性至上主義!これこそミソジニーだ。

私がトランスコミュニティーに全く同情できないのは、これは彼らが選んだ道だということ。自分らで人に嫌われる行為を選んでおいて、受け入れられないから差別だ、受け入れろと要求するのは理不尽だ。しかも自称トランス女という女装変態男による性犯罪は頻繁に起きている。明らかな男を女性施設に立ち入らせる危険はすでに顕著に表れている。そういうことを常に要求して、やれ平等だやれ人権だと騒ぐ奴らは本当にうっとうしい。

勇ましいことを言っていても、結局アメリカのフェミニストなんてだらしない女たちの集まり。女装男たちのこうした圧力に戦えるのはほんの一部の伝統的フェミニストおばさんたちだけ。まったく情けないもんだ。


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舞台:同性愛を全面的に出し過ぎた「ドリアン・グレイの肖像」

19世紀の詩人オスカー・ワイルドが書いた唯一つの小説として有名な「ドリアン・グレイの肖像」を地方劇団の舞台で観て来た。あまりにもローカルな話題なので劇団名を紹介しても意味ないかもしれないが、一応ノイズ・ウィズインという劇団の公演で、動画広告のリンクはこちら

あらすじ:舞台は19世紀のロンドン。画家のバジル・ハルワードは素晴らしい美貌を持つ青年ドリアン・グレイの神秘的な魅力に魅せられその肖像画を描く。バジルの友人ヘンリー(ハリー)・ワットン卿は画家の部屋でモデルをするグレイに遭遇。若さと美しさのみに価値があるとハリーに言われ、自分の代わりに肖像画が年をとればいいのにと願うドリアン。その後ハリーの悪影響で堕落したデカダンスな生活を満喫するドリアンは、いつの間にか自分ではなく肖像画が年を取っていくことに気が付く。しかも自分がなにか悪行を犯す度に、肖像画は醜くなっていくような、、、

有名な話なので何度も映画化や舞台化されている作品だが、こういうクラッシックも現代的な価値観で観るとずいぶん違った舞台になるものだなと思った。オスカー・ワイルドがバイセクシャルだったことは有名だが、だからといって彼の作品に同性愛色が濃いと考えるのは短絡的な発想だ。原作を読んでもドリアン・グレイが同性愛者だったという描写はないし、ましてやハリーやバジルに限ってはそんな気配すらない。だが、この舞台では、女性を除く男性の主要人物はすべてゲイであるという設定になっていた。

先ず最初のシーン。まだドリアンが登場する前の場面で、バジルがドリアンの肖像画を描きながら、ドリアンとどのように出会ったかという話をハリーにしているときの回想シーンでは、バジルとドリアンがほぼ顔と顔を突き合わせるようにして立っている姿が登場する。明らかに二人の間に同性愛的な興味が生まれたという描写だ。そんな話をしている時にドリアンが登場。ドリアンの美貌に一目ぼれするハリーの前でドリアンはさっさと衣服を脱ぎ捨て素っ裸になって壇上に立ちポーズをとる。言っておくがこれは舞台なので(私は最前列だった)素っ裸の姿は観客全員の前でということになる。

別に役者が脱ぐこと自体は問題ではないが、この場面でドリアンが裸になる理由がよくわからない。19世紀の時代的背景から言って貴族の男性が自分の肖像画に裸でモデルになるというのは先ず考えられないからだ。

ま、それはいいとして、ドリアン・グレイの悲劇はジキルアンドハイドと非常に似ている。舞台は同じくビクトリアン時代のロンドン。何故この時期が大事なのかというと、当時のイギリスの上流階級はビクトリア女王の潔癖主義影響を受けて男も女も非常にお行儀のよい行動をすることが求められていた。結婚している夫婦のセックスですらも必要悪と思われていたくらいなので、婚外交渉などもっての他であったし、ましてや同性愛など完全に違法。事実、著者のワイルドはその趣味が原因で刑務所送りになったくらいだから。

そういう時代なので、社会が許さない価値観でドリアンを誘惑するハリーの存在は重要なのだ。ハリーは美しく潔癖なドリアンを自分の自堕落で邪悪な世界に引き入れようと誘惑するのである。彼はドリアンを自分の愛人にしようと誘惑しているわけではない。ここで二人の関係を同性愛で引き寄せられたかのように表現すると、ハリーが代表する邪悪な世界の危険性が薄れてしまう。

またバジルがドリアンとハリーが仲良くなりすぎることを警戒するのも、バジル自身が善良な人間なので、ドリアンがハリーの悪影響にそまってしまうことを恐れているのであり、自分が片思いするドリアンをハリーに盗られてしまうという嫉妬と描かれるべきではない。

ドリアンが同性愛行為をしたり、その魅力で男性を誘惑すること自体は問題ないだろう。なぜなら当時の価値観から言えば、同性愛による誘惑は邪悪で変態的なものと受け取れるからで、他人を堕落させるドリアンの行為としては納得がいくからだ。しかし、それはドリアンが同性愛者ではないという前提があってこそ成り立つ理屈であり、彼が実際に同性愛者だったらこれは意味がない。

この舞台で一番気になったのは、肝心な肖像画が全く描かれていないということだ。これは意図的なものだというのは解るのだが、わざと等身大の額縁だけを見せ、額縁の向こう側で数人の黒服の男女がひそひそ声でドリアンやハリーのセリフを繰り返す。おそろしく変貌した自分の作品を見てバジルが驚愕するシーンでも絵そのものは見せない。

ドリアンの代わりに絵が変わっていくという話なので、絵がどのように醜くなっていくかを示さないとこの物語の一番肝心な部分が抜けてしまう。いったいバジルは何にそれほど驚愕したのか、ドリアンがこの絵を恐れて屋根裏部屋に隠してしまうのは何故なのか、やはりその中身を見せないと意味がない。

カカシ注:この先はネタバレ

遂に自分の犯した悪行の数々に罪悪感にさいなまれたドリアンが、醜く変貌し自分の魂を映し出す肖像画を破壊しようとする。しかしその途端にドリアン自身が醜い姿へと変貌し、肖像画は昔の美しいドリアンの姿へと戻る。

最後のシーンは醜く変貌したドリアンの死体を使用人が発見するという、ジキルとハイドと非常に似たような場面になるのだが、この舞台ではまたまた主役が素っ裸になって額縁の中に立ち、年寄りの俳優が床に横たわっていた。しかし年寄りの俳優は年はとっていたが特に醜くもなく、観客にショックを与えるような姿ではなかった。

醜い絵を破壊しようとして自分が破壊された時のドリアンは吐き気を催すほど醜い姿でなくてはならない。ここでも単に肖像画はドリアンを若く保つためだけのものだったと描写されていることに不満を覚えた。

同じ題名で日本でも舞台化されたようだが、あらすじを読む限り中身は全然違うようだ。

配役:

ヘンリー・ワットン卿:フレドリック・スチュアート
バジル・ハルワード:アミン・エル・ガマール
ドリアン・グレイ:コーリン・ベイツ


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同性婚は文明社会を破壊する その3

もう10年前になるが、アメリカで同性婚の有無が取りざたされていた頃に私は同性婚は文明社会を破壊するというその1その2のエントリーを書いた。しかし実際に同性婚が合法となったアメリカでは、私の想像を絶する勢いで世の中が変わりつつある。

実は前回も紹介した海外クリスチャン情報さんが、そのことについて素晴らしい解説をしてくれているのを見つけ、私がもやもやと感じていたことを文字にしてくれていると非常に感動してしまった。

よく、同性結婚推進派は「ベティとマリーが結婚したからって、あなたの生活がどう変わるというの?社会にどんな弊害があるというの?」という質問をする。同性婚が合法化されたからといってそれが我々個人に何の弊害もないのであれば、認めないのは単なるホモフォビアでしかないと言い理論だ。

私はそのことに関して私自身の生活には特に影響はないかもしれないが、結婚は特権であるから、その特権を取り除いてしまうと結婚そのものの意義が失われ、長い目で見た時に結婚する人が減ったり少子化が進む、といった長期的な話をした。

しかし、クリスチャンさんは同性婚を認めるということはそんな甘いものではないと断言する。これまで我々が異性愛を基盤として考えて来た種々のことが、この新法律によって根底から覆される、今まで常識と思ってきたことがすべて非常識となってしまうのだと警告する。

同性婚の法制化は、価値観の転倒という、それこそ天と地がひっくり返るほどの「おおごと」、大事件なのです。

我々は同性愛当事者も含めて、同性愛とは異常なものであるという常識をずっと持っていた。種々の宗教では同性愛は邪悪とみなされ、多くの国々で同性愛行為そのものが違法とされてきた。今もイスラム教圏では違法だ。日本には同性愛を悪とみる伝統はないが、それでも同性愛行為とは、ごく僅かな異常な人々がする行為と見て来た。だからこそテレビでオネエタレントが人気があるのであり、おカマバーやお鍋バーが流行り、BL漫画が婦女子の心をくすぐったりしてきたのである。

だが、同性婚を認めるということは、同性愛行為そのものが「普通」だと認めることになる。今までクイアー(変態)な行為と思っていたことを普通の日常的な現実として認めなければならないということだ。それは具体的にどういうことなのか、これは一風変わった人々が好きなように生きる権利を認めるなどという生易しいものではない。

学校における同性愛正常化教育

2003年に米国全土でいち早く同性婚を認めたマサチューセッツ州の話だ。

米国におけるゲイ活動への警鐘を鳴らす活動家であり、弁護士と神学者の二つの肩書きを持つScott Lively氏が著した “Redeeming the Rainbow” という書籍があります。(オンラインで無料。)同書には、マサチューセッツ州在住の Brian Camenker氏の体験談が収載されており、「同性婚が州裁判所により認定されてから、公立学校で一体どのようなことが起こったか」たかが生々しくまとめられています

同州では、州最高裁が州民の意志を無視して同性婚を合法と認めたとたん、教育委員会は積極的に同性愛正常化教育を義務教育においてするようになった。最初は高校に同性愛専門家なる人々が訪れ、生徒たちに同性愛を受け入れさせる講義を行った。それはさらに中学小学校にまで及んだ。その内容は単に同性愛者を差別してはいけないとか理解を示そうなどという生半跏なものではなく、ゲイやレズのセックスのやり方など詳細にわたって指導するというものだった。そしてこの「教育」の範囲はゲイやレズだけでなく、バイやトランスに関するものにまで広がっている。

また、伝統的なお姫様童話は異性愛だけを対象にした差別的なものとされ、「王様と王様」などといった男同士のおとぎ話なども子供たちに読んで聞かせるようになった。ディズニー映画でも同性愛キャラクターが出演するなど、これからもこうした傾向は強くなっていくだろうとクリスチャンさんはいう。

私自身も去年ニューヨークの図書館でけばけばに化粧をしたドラッグクィーン(女装男)が幼稚園児対象に同性愛童話を読むという、ドラッグクィーンストーリーアワーなる行事について読んだことがある。宗教的な理由で子供たちにそんなことを教えてほしくないという親たちの意見など完全無視である。

同性愛両親に育てられた二世代目の問題

ただでさえ離婚の多いアメリカで、同性婚カップルが養子を迎えたり、精子授与や代理受胎などで実子を設けたりした場合、次の世代の子供たちが大きく同性愛両親の影響を受けることは必定だ。私は同性愛結婚の合法化が進んだ頃、レズビアンカップルに育てられた成人した人々の話を幾つか紹介したことがあるが、彼・彼女たちの人生は非常に苦労の多いものだったと彼らは語っていた。同性婚カップルに育てられたこどもたちの悲痛なさけび)

同性愛カップルは普通の夫婦よりも決別が多く、長い間一緒に居るカップルは非常に少ない。以前に読んだ調査では両親の片方が同性愛者だった場合、子供たちの教育レベルが低かったり、精神病を病んでいたり、麻薬中毒にかかる割合が多かったりするというものがあった。

また、親が同性愛者である場合、子供にも同性愛を強制する親たちは多いだろう。最近話題になっている12歳の少年ドラッグクィーンE!などがいい例だ。

“E!”は、人々がジェンダーを見る目を変えられるよう活発に唱導しており、ジェンダーとは束縛的であって立ち向かうべき概念であると信じる。[大会が開かれる]オースティンへの旅費を工面するため、少年の家族は彼の写真をプリントしたシャツを製作。そこには「ジェンダーを忘れよう、と世界に告げよう!」と書かれている。少年は言う。「ジェンダーを忘れるってことは、男の子も女の子も自分の思うとおりに自分を表現するべきってことなんだ、皆から「君は女の子だからこうしなさい」とか「君は男の子だからここに来なさい」、とか言われないでね。」

LGBT活動家にとって同性婚の合法化は最終目的ではなく単なる布石だ。同性婚が合法化されれば次は子供たちへの洗脳、トランスジェンダーの女性空間への侵略など、どんどん社会は変態性に向かって激化していくのだ。

忘れてはならないのが、「同性婚推進活動」の原動力が、「反差別活動」であったということです。そうすると、同性婚法制化が成功した暁に、これらの活動が沈静化するかといえば、むしろ逆で、かえってますます激しくなるのです。具体的にいうと、同性婚をしたがっていたゲイ・レズビアンカップルだけでなく、全ての性的少数者への差別を撤廃しようと動いてきたのですから、その性的少数者には当然「トランスジェンダー」「トランスセクシャル」「ジェンダークエスチョニング」といったものも含まれるわけです。

同性婚の合法化は結婚の形が多様になるなどということだけでは収まらない。同性婚は社会を基盤を根本から覆し常識や道徳を完全破壊することにつながる。まさに

同性婚は文明社会を破壊するのである。


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女性を女性と呼べなくなる日、トランスによるフェミニスト弾圧

最近私が何気なしに書いたツイートがなんと2~3日のうちに1500を超えるリツイートされるという不思議な現象が起きた。その元ツイートというのがこちら。

イギリスではなんと辞書の「女性」の定義がヘイトスピーチとして除去されるという摩訶不思議なことが起きた。だから言ったんだよ、ヘイトスピーチなんてのは言論弾圧の言い訳でしかないってね。

実はこれは ケイティー・ホプキンズの英語のツイートをリツイートしたものだったのだが、ちょっとはしょって訳してしまったため誤解が生じてしまった。原文はこちら。

Katie Hopkins

In the U.K. – a poster featuring the dictionary definition of a woman has been removed as hate speech. I repeat. The dictionary definition of a woman. Is now hate speech.(イギリスでは、辞書の女性の定義を提示したポスターがヘイトスピーチとして撤去されました。繰り返します。辞書の女性の定義はいまやヘイトスピーチなのです。)

これはまずいと思って翌日補正したのだが、その時にはすでに1000回以上のリツイが起きており、このツイートはおかしいという意見も多少あった。下記がその補正。

撤去されたのは辞書による女性の定義が書かれた看板であり、辞書から女性の定義が除去されたわけではありません。誤解を招く書き方をして申し訳ありませんでした。

私の最初の書き方はちょっと誤解を招くものがあったとはいうものの、辞書にある女性の定義を示しただけの看板がヘイトだとか反トランスだとか言いがかりをつけられて除去されたというのは事実。

ではいったいどういう状況でこのようなことが起きたのかというと、去る9月27日、イギリスのリバープール市において労働党の会議が開かれた。その会議に先駆けて、フェミニスト団体が大きな看板のスペースを700ポンド払って借り、女性の定義を提示するポスターを看板に張り付けた。それに対してトランス活動家の間から「ヘイトスピーチだ」とクレームが付き、市はクレームを受け入れてポスターを撤去したというもの。ポスターには「ウーマン(女性)、ウイメン(女性の複数形)、名詞、大人の雌」と書かれているだけ。ところが、アドリアン・ハロップ教授なるGP(?)及びLGBT活動家が、ポスターを作ったのはヘイトグループだとクレームを付けたところ、市はその要望に応えてポスターを撤去してしまった。

 

ポスターの作者はキーンミンシュル夫人という女性でハロップ教授のクレームは「馬鹿げている」まるで「オーウエリアンだ」と抗議している。夫人は、最近女性という言葉が色々な意味で使われるようになったため、女性の人権についての会話を始めるために掲げたのだと言っている。

四人の子持ちである夫人は「我々は『女性』という言葉が『ヘイトスピーチ』とされる新しいミソジニーの側面に立たされている。」と語る。「女性たちはもうたくさんだと思ってます。トランス活動家たちはこういうことをするんです。こうやって女たちを沈黙させるのです。」「何が起きているのか、みなさんに目を覚ましてもらいたいです。」

このトランス活動家によるとこのポスターは「トランスの人々を不安な気持ちにさせるもの」なんだそうだ。
トランス活動家によるフェミニスト弾圧という関係記事で、やはりイギリスのリーズ市で9月29日、フェミニストが性自認に関する法律改正について会合を開こうと予定していたものが、土壇場になって「トランスフォビック」とクレームが付き、市議会によってキャンセルされるという事件が起きた。

 

この会合を主催したのは、ウーマンズプレースUK(女性の場の意味)というフェミニストグループ。彼女たちは提案されている性自認法の改正にあたり、その影響について女性の声を聴くという話をしたかったのだと語っている。特に自称トランス女による女性刑務所における女子受刑者への暴行といった事件も含め、女性のみの場所にトランスを入れることの問題点について語りあう予定だったという。

しかしながら、反対派は彼女たちのグループを「反トランスジェンダー」とし、主催者たちはフェミニストやLGBTQのふりをしている差別者たちだと主張する。

主催者側は自分らはLGBTQの味方であり、正式な理由もなしに会合をキャンセルするのは民主的なやり方ではないと抗議している。
トランス活動家がフェミニストたちを攻撃するのは理解できるが、他のフェミニストやLGBTQの人たちがトランスにばかり迎合して女性の安全を犠牲にしてしまうというところが恐ろしい。

 

最後に、これに関して海外クリスチャン事情のブログ主さんがとても良いことを書いているので引用する。

「女性と自認するが男性器を持つ生物学的男性」がフルに「女性としての扱いを受ける」ことを要求し、女性に限定されたスペースの使用を求めるとき、そこに必ず不安や恐怖を感じる女性たちがいる。こんな、ごくごく当たり前のことを、多くの人たちがトランス活動家たちに遠慮して言えず、最後になって同じセクマイであるレズビアンたちが言い出すというのも、なんとも皮肉です。
私がクリスチャンさんの言うことで非常に感動したのがこの考察。「トランス運動の本質は男性的な「征服」と「支配」」というこの部分。
それにしてもこれらの事象からよくわかることがあります。それは、トランス運動の本質は、きわめて男性的な「征服」と「支配」にあるということです。
例えば、生物学的に男性としてあらゆる特徴を備えていながら「女性として自認」することのみをもって、周囲の全ての人間に対し、「自分を女性と認識しそのように扱え」と強要し、反対する者は片端から「フォブ」と指弾する。
 
また、自らの男性的特徴はそのままで、更衣室などの「女性のための空間」を次々と「侵略」していき、さらには「女性のためのスポーツ競技」さえにも進出し、女性競技者たちを打ち負かす。
なんのことはない、これって昔の征服者である「男」たちがやってきたこととまるで同じではないですか!他人をねじ伏せ、支配し、その領域に進出し、打ち負かす。
上記レズビアン活動家たちが、トランス運動は…..保守的な運動である。」
といみじくも看破したのも、偶然とは思えません。

 


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理解しがたいトランスジェンダーの「同性愛」嗜好

ちょっと変な短編映画を二作見てしまった。ユーチューブでたまたま出くわしたので題名も何も覚えてないのだが、二つともテーマが女性から男性に移行した人たちが男性に恋をするというものだったのでちょっとお話したい。

最初の映画の主役はゲイの男性で、男性だと思って付き合いはじめた人物が実は元は女性のいわゆるFTMであることを知って戸惑う話。主人公がFTMの子の友達と会うシーンでは、みんなLGBTQ+の訳の解らない代名詞を使うことを主人公に要求。ゲイの主人公は「僕にはわかんないよ、僕は『正常』な人間だから!」と言うシーンは笑ってしまった。男の人を好きになるゲイの男性が普通というのがトランスの世界なのである。これはもしかしてトランスジェンダーやノンバイナリーとかいう訳の解らん連中をおちょくったパロディ映画だったのかもしれない。

もうひとつの方は、主人公の男性が男と思って付き合った人間が、ゲイバッシングでさんざん殴る蹴るの暴行を受け病院に運ばれる。そこで恋人が実は女だったことが解り主人公は吐いてしまうほどショックを受ける。しかし相手がFTMであることを受け入れた主人公は、再び恋人と付き合うようになるが、いざセックスをしようとしたら実は主人公もFTMであったことが解って今度は恋人の方が拒絶する。その恋人は「僕はずっと普通の人として溶け込みたいと思っていた。」と言って去っていく。

私はこの結末を予測していたので驚きはしなかったが「なんでだよ~!」という気持ちでいっぱいだった。生物学的な女性が男性に魅力を感じるならそれは普通ではないか?男性/女性であるということの基本は異性に対する性欲であるはず。だからこそ同性愛者は異質な存在なのであり少数派として扱われてきたのだ。それが異性に愛情を感じるのに自分は異性だと思い込むというのはどういうことだろう?しかも「普通の人間として溶け込みたい」人が、わざわざ社会が異質と思う性転換という行為に及ぶというのはどういうことなのか?異性が好きならそのままの状態で異性と付き合えばいいだけの話。そうすれば普通の人間として社会に溶け込むことが出来るではないか。それが普通なんだから。

ところで最初の映画で主人公と恋人がどのようにセックスすればいいのかを悩むシーンがあった。だが、二人は生物学的な男女カップルなので、普通にすれば全く問題ないと思うんだけどね。人間はそういうふうに出来てるんだから。

余談だが、私の美容師はゲイの男性だがもう孫が何人も居るおっさん。それというのも男と思ってナンパした子が実は女性で、一回きりの交渉で女性が妊娠してしまったからなんだそうだ。彼の場合、相手が異性とわかっても特に拒絶反応は起きなかったらしい。その後その女性とは結婚はしなかったが、母子とはずっと家族として付き合ってる。だから孫たちからも慕われている。

自称トランスの人々は、どうして生まれたままの性を受け入れることができないのだろう?同性に愛情を感じるというのは感情の問題なのでどうしようもないが、自分が女性/男性として生まれたことは単にそれを受け入れるだけで何の弊害も生まれない。好きな人が同性でも異性でも今の時代特に問題はない。異性のような恰好をしたいならすればいい。制服などで規制されている場合は臨機応変に対応し社会になるべく迷惑のかからないプライベートな時に男装なり女装なりを楽しめばいいではないか。

私が同性愛者に関しては全く嫌悪感を覚えないのにトランスジェンダーを受け入れられないのは、彼/彼女たちが自分らの異質な嗜好を他者に押し付け拒絶されると、ありのままの自分を受け入れてくれない、といって駄々をこねるからである。

ありのままの自分を最初に拒絶したのは誰あろう自分たちなのに。


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