多分日本でもそうだろうが、初期の目的はどうあれ、いまやフェミニズムというと、ちょっと「勘弁してよ」と敬遠したがる人が多いのではないだろうか。アメリカではフェミニズムなどという社会的な運動は今や時代遅れ。フェミニズムなど一部の左翼運動家以外は誰も興味を持っていない。
もうほぼ男女同権を獲得したアメリカ社会では、特に今更フェミニズムなどという動きは必要ないが、まだまだ女性差別がある日本で、女性の地位向上という本当の意味でのフェミニズム運動が一部の過激派によって台無しにされてしまったことは残念でならない。
それにしても、なぜフェミニズムは一般市民に理解されないのであろうか? マサキチトセというフェミニストの書いたエッセーによると、これは意図的なものだそうだ。
このエッセーは、WANという世界的なフェミニスト団体の日本支部と東大ジェンダーコロキアムと共催して行った「男(の子)に生きる道はあるか?」というライブイベントに関する感想文である。
アップデート:
WANが国際的な組織ではないという指摘が私の知らないところでされてるようなのだが、アメリカに全く同じWomen’s Action Networkという名前のフェミニスト団体があり、そのミッションステートメントが日本のWANに非常に似ている。
国際的な組織で160カ国に支部をもち35000人のメンバーを持つと誇るWomen’s Action Network (WAN)というフェミニストグループも存在する。
同じ名前で、同じような目的の国際組織が存在していることは確かである。全く無関係な組織であるというなら、同じ名前はただの偶然かもしれないし、もしかして日本の組織は国際組織のファンなのかもしれない。ま、部外者の私にはそこまでは解らない。
「一般の人にわかりやすい言葉で話して下さい」と言われる経験は、私たちフェミニストには日常茶飯事だ。そう言われるたびに私はその言葉に憤りを感じ、口をつぐむ。時には相手に噛み付くこともあるけれど、そこまでして相手に分かってほしいと思っているかというとそうでもない。何が頭に来るのかと言ったら、それはフェミニズムに「わかりやすさ」を求め、「わかりやすくないなら私はそれに賛同しないぞ」と、言外にほのめかす態度なのだと思う。そしてまた、自分がわからないということを「一般の人」という安易なカテゴリーを使って、あたかもかれらを代弁しているかのような振る舞いで当然のように開き直っている様子も、苦手だ。「一般の人」とはいったい、誰のことを言っているのだろう。
偶然というほどでもないが、隠フェミニスト記でこのイベントに関する紹介があり、ビデオのほうもちらっと見ていたが、途中でつまらなくなって観るのを止めてしまった。内容があまりにも内輪のじゃれ合いという感じがしたし、第一、彼女たちの使う語彙の中に、私の知らない言葉がぽんぽん飛び出して来て、私にはこのおなごせんせ達が何をいってるのかさっぱり解らなかったからだ。
それで私は「どうしてこう左翼エリートは一般人に理解できない言葉使いをするのかなあ。」と思っている矢先にこの批判を読んだので笑ってしまったのだ。
普通一般の人が「一般の人にも解るように話してください」というのは、「専門家ではない私みたいな者でも解るように話してください。」という意味であり、別に自分が不特定多数の一般人を代表するという意味で言ってるわけではないだろう。
これはフェミニストに限った事ではないのだが、左翼エリートは「一般人」が使わない言葉を使って聞く方をたぶらかす傾向がある。やたらに意味のないカタカナ英語を並び立て、聞いてる方が理解できなかったり誤解したりすると、あたかも自分らは頭がいいんですよ〜、わかんないあんたが馬鹿なのよ〜、という態度を取る。ミスター苺に言わせると、相手に理解出来るように話せないのは自分が解ってない証拠なんだそうだ。私から言わせたら相手をわざと煙に巻くのが目的なんだと思うが。
その点マサキはかなり正直だなという気がした。(強調はカカシ)
私が常日頃からこういうことを言われるのは、私にとってフェミニズムとクィア理論が密接に結びついているからかもしれない。(略)その両方をきちんと分けられない私にとって、「一般の女性」や「一般の人」という言葉はほとんど意味を持たない。なぜならそういう言葉が発せられるとき、ほとんどの場合、異性愛の、貧困ではない、障害のない、人種・民族的にマジョリティの、先進国の人を指しているからだ。(略)マジョリティを「一般」というレトリックで欺瞞的に表現するその態度こそ、私が批判したいと常日頃思っているようなイデオロギーだ。
フェミニズムは、あるいは、私が信じ、惹かれているタイプのフェミニズムは、「一般」に迎合したりしない。これまでも私の尊敬するフェミニストたちは、一般を挑発するような言葉を作り出したり、反感を買いやすい主張やパフォーマンスをしたり、そして案の定強い反発を受けて来た。(略)
もちろん世の中を変えようというときに、特に社会政策を変えようというときには、多くの人の賛同を得る必要がある。しかしフェミニズムが容易に「一般」に受け入れられるとき、それは必ずしもフェミニズムの思想の発展や広がり、普及を意味するとは限らない。「一般」受けする思想には、常に危険が伴う。それはジュディス・バトラーがお茶の水女子大学に講演にやって来たときに、彼女の文章は難解でエリート主義に陥っているのではないかという質問に対する返答として、抵抗なしに受け入れられる言説はつまり現状既に社会に織り込み済みの言説であって、それでは理解可能性の領域の拡大を狙うことはできないと言っていたこととも共鳴する。(略)
そもそも「一般的」とされるような現存の言語を用いて語ることは、正にその言語が同性愛嫌悪的でトランス嫌悪的で女性蔑視的であるときに、ほとんど不可能なのである。その点において私は既にある程度語る言葉を制限されているのであり、更にそれを「一般向け」に翻訳せよというのは、二重の暴力を行使することを意味する。
過去十数年のあいだクィア運動の中で培われて来た言語、更に言えば過去1世紀(あるいはそれ以上)のあいだフェミニストたちやゲイ・レズビアン運動の担い手が紡ぎだして来た言語、黒人解放運動や障害者運動がなんとかして、あらゆる言葉をつなぎ合わせ、作り出し、また本来の意味から引き剥がし自らの言葉に変えて来た言語。それらは、私たちが日常を生き延びるために、私たち自身の人生をよりよく理解し、よりよいものにするために、日々の実践の中から生み出された言語である。私は、あらゆる理論はそのように作り出されたと思うし、またそうではない理論には魅力を感じない。わかりにくいフェミニズムこそ、私の理解可能性の領域を広げてくれるし、社会の変化への希望を感じさせられる。
私はいつもどうしてフェミニズムの話になると、ゲイやレズビアンといった同性愛嗜好がくっついてくるのか不思議でしょうがないのだが、このマサキチトセなる人も、実を言うと女性ではない。彼の自己紹介を読んでも、何がいいたいのか解りにくい。
マサキチトセといいます。自分のことは a homosexual asian male butch from California, New Zealand and Japan (カリフォルニア・ニュージーランド・日本からきた同性愛・アジア系・男性のブッチ) と表現しています。現在は群馬県の館林市に住んでいて、近所の塾講師・ジェンダー/セクシュアリティ系の研究所のスタッフ兼翻訳者・文化系ウェブサイトの管理をやっています。
ブッチというのは男っぽい女性のことを意味するので、レズビアンの男役にも相当するが、実際に男性に生まれた人がブッチというのはおかしいし、彼のように女装趣味の男性では、まるで意味が正反対である。ま、あえて一般人に通じない言葉で自分を表現したいというのだから、彼のサイトはその目的を果たしていると言える。一般人のカカシにはまるで彼の言ってる事が理解出来ないもの。
ま、それは別にいいのだ。
彼/彼女らが一般人の理解を求めていないというならそれはそれでかまわない。でもだとしたら、我々一般人の生活習慣や文化を変えるようなことは止めてもらいたい。自分らの内輪だけで細々とクィアー(風変わりな)生き方を楽しめばいいのだ。
ところが、それがジェンダーフリーとかいって子供達の教育に悪影響を及ぼそうとしたり、同性結婚を押し付けようとしたり、既存の言葉の定義を勝手に書き換えて、元の意味で使う人々を差別者扱いしたりする、といった傲慢な態度になるからバックラッシュなんていうふうに一般人からの反感を買うのである。
少数派は多数派に迎合する必要はない。そういう生き方をしたけりゃ自由な国に住んで要る以上どうぞご勝手にと思う。だが、一般人に理解できない言葉使いを主張したいなら、フェミニズムが日本社会で理解を得られなかったとしても文句は言えない。彼らが主張する特権を得られないからと言って癇癪を起こさないでほしい。