空飛ぶイマームの逆襲

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空港や飛行機内で怪しげな行動をして旅客機からおろされた6人のイスラム教イマーム(聖職者)たちの話をこの間したばかりだが、この話は聞けば聞くほどイマームたちによる陰謀だという気がしてきた。ことの起こりはというと、、

月曜日、ミネアポリスの空港ターミナルでお祈りを捧げていたイスラム教徒のイマームと呼ばれる聖職者たち6人が一旦搭乗した後で、心配したほかの乗客からの通報により飛行機からおろされて質問を受けるという事件があった。

最初は単に時と場所をわきまえない無神経で不作法なイスラム聖職者が警察に尋問されて過激な反応をしめしただけの話かのように報道されたが、 詳細 を読んでみると, 6人の聖職者たちが単に無神経なだけだったとは信じ難くなってきた。

  • わざわざ従業員や他の乗客の注意を引くような大声をはりあげてゲートでお祈りをささげ、搭乗時に英語でアメリカを批判する会話を交わしていた。
  • 太ってもいないのに、シートベルトの延長ベルトを注文。ところがシートベルトにつけずに椅子の下においた。(鉄のバックルとベルトはぬんちゃくのような武器としても使える。)
  • 6人のうち二人が指定されていないファーストクラスの席に代わろうとした。これによって6人は911の乗っ取り犯人がとったのと同じ配置になった。

このあからさまな(そして故意に)あやしい行動は単なる無神経では片付けられない。知らずにやったにしてはあまりにも計画的だ。彼等がどうしてこのような行動をとったのか、その理由は彼等のその後の行動からあきらかになっている。
航空機から無理矢理おろされたことから、彼等は人種差別だの人種プロフィールだのといって人権を損害されたとして航空会社を相手どって訴訟を起こす立派な口実を得た。 実を言えばこの6人の1人は過去にもそのような訴訟に関わったことがあるのである。

Muhammed al-Qudhaieen と Hamdan al-Shalawiというアリゾナの大学生二人がアメリカウエスト航空において、操縦席のドアを二度に渡ってこじ開けようとした事件があった。911調査委員会によるとFBIはこれが911乗っ取り事件の予行演習だったと判断したとある。この学生のひとりはアフガニスタンへ渡航し、もうひとりは911捜査の重要参考人となった。

にもかかわらず、この二人アメリカウエストの方針が人種的差別であるとしては今はUS Airwaysに買収された航空会社を訴えた。その犯人の一人を弁護したのが誰あろう、今週US Airwaysの飛行機から引きずりおろされた6人の聖職者たちのリーダーだったのである。
学生たちはアリゾナ州のツーサン市にある聖廟に通っていたのだが、その聖廟の経営者というのが、ミネアポリス空港のUS Airwaysの切符売りカウンターでカメラの前で大騒ぎをしていたヨルダン出身のSheikh Omar Shahinなのだ。

訴訟の目的は単なる金儲けが目当てではない。本当の目的はもっとあくどいものである。イマームたちはアメリカ人を恐喝して「平和な宗教」をアメリカ人に強制しようとしている。アメリカ人の道徳観や訴訟システムや政治機構を逆手にとってアメリカにシャリアを広めようとしているのだ。
彼等の最終的な目標はイスラム教徒やイスラム教そのものへの批判を完全に禁止することにある。しかしとりあえず、民主党が多数議席をとった新しい議会においてイスラム教徒へのプロファイリングをやめさせる特別な法律をとおさせようという魂胆なのだろう。
彼等は適切なキーワードを使い政治的に正しくあろうとするアメリカ人を威嚇すれば腰抜けのアメリカ人は怖じ気づいて反撃しないと考えているのだ。なにしろ同じ手段でヨーロッパでは大成功をおさめたのだから、アメリカでも同じようにうまくいくと踏んでいるのであろう。
おふらんすでは、政治的に正しくあろうという姿勢がいきすぎて、『比較的平穏な日』にいちにち百台もの車が焼かれているのに、フランスメディアはその犯人たちである暴徒をただ「若者」というだけでイスラム教徒と特定することすらできないでいる。イスラム教暴徒のバス放火で若情勢が重傷を負った時でさえもまだそうなのだからあきれる。警察官への攻撃は悪化する一方で、警察は警察官の安全すら守ることができない状態だ。おかげでイスラム教徒の居住区は事実上シャリアによって統括されているのである。まだそこまでいっていないとはいえ、イギリスでもその傾向が多少みられる。
最近ではヨーロッパの各地でイスラム教を批判したり、女性のかぶるベールを批判したりする程度で、命を脅迫される。イスラム教過激派はこのような状況をアメリカにも持ちこもうというのである。イマームたちがこの空港を選んだのは決して偶然ではない。この空港は以前に紹介したイスラム教徒のタクシーの運転手が酒類をもった乗客を拒否しても罰があたらないような特別な法律を要求していたのと同じ空港なのである。
この6人のイマームのうちの4人は市民運動団体とは名ばかりのイスラム教テロ組織CAIR(Council on American-Islamic Relations)と組んで訴訟を起こしている。そればかりか誰が経費を負担しているのか知らないが、国中のテレビ局を回ってあちこちのトーク番組で反米プロパガンダをまき散らしている。情けないことにアメリカメディアは喜んでこれに協力している。
音声を聞いただけなので完全に正確な言い回しではないが、CNNのポーラ・ザーンはインタビュー番組で次のような「厳しい」質問をイマームたちに投げかけた。

  • 「この経験はどれほど屈辱的でしたか?」
  • 「911以後、イスラム教徒は理不尽に標的にされてると思いますか?」

民主党の下院議員、シーラ・ジャクソン・リーなどは911事件がイスラム教徒への人種プロファイリングによるイスラム教徒やアラブ系アメリカ人を差別したり迫害したりする口実になってはいけないとし、今回の事件で彼等は明らかに屈辱を感じ、差別されたと感じたことだろうと語った。
それじゃあ何かい、ジャクソン・リー議員によると我々は人種プロファイリングのみならず、あやしげな行動をする人間さえ尋問してはいけないというのか?
アメリカの馬鹿サヨの反応をみていると、どうやらイマームたちの作戦の一段階目は成功したようだ。アメリカはまだヨーロッパのような状況にはさらされていないが、こんどのようなことを黙認すればあっという間にヨーロッパと同じ運命をたどることになる。
怪しげな行動すら捜査できないとなれば、どれだけ液体持ち込みを禁止しようが、スーツケースにレントゲン検査をしようが何の役にも立たない。どんな機械も人々の観察力には勝てないのだから。
我々は戦争中なのだということを忘れてはいけない。しかも、我々の敵はCAIRやこのイマームたちが支持するイスラム教過激派なのである。我々は決して彼等の脅迫に屈して服従するべきではない。我々は自分らの国を命を守らなければならない。乗客も乗組員もそしてすべてのアメリカ人がすべての場所で常に怪しげな振る舞いに注意を払うべきである。これはイスラエルが何年も前に痛い経験を積んで学んだことである。
ただイスラム過激派が見落としていることがひとつある。アメリカ人は度重なる政治家の試みにも関わらず銃砲所持を絶対にあきらめない国民である。アメリカには「12人にさばかれる方が6人に運ばれるよりましだ」という言い回しがある。12人とは陪審員のことで、6人とは棺桶を運ぶ人の数である。これと同じで、私はテロリストのような怪しげな行動をする人間を目撃したら人種差別者といわれようとどうしようとためらわず通告するだろう。なぜなら、他人の気持ちを気遣っていて空中でふっ飛ばされるのはごめんだからである。
ほかの乗客も同じように感じてくれてることを願うのみだ。


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同和対策が導いた落とし穴

この間私は日本の人権擁護法案とアメリカのアファーマティブアクションが抱えている落とし穴について、日本とアメリカ、共通する差別問題と落とし穴においてこのように書いた。

アファーマティブアクションの当初の目的は、雇用や大学などの入学審査のときに、人種や性別によって差別されないよう少数民族や女性の人権を守ることだった。 それまでジム・クロー法などといった悪法にいより、黒人と白人が同じ公共施設を使用できないという現実があり、同じ職業でも黒人と白人では給料に格差があったり、少数民族や女性がつける職業は限定されていたりと、色々な差別が存在していたことを是正するのが目的であった。

ところが人種・男女差別をしてはいけない、という法律がいつの間にか少数民族や女性を特別扱いする法律へと変貌してしまった…
アファーマティブアクションが適用されるのは大学だけでなく、雇用の際でも同じである。 黒人運動のリーダー的存在に、ジェシー・ジャクソンという人物がいるが、彼とその中間達は、大企業などの雇用方針が黒人差別を行っているといいがかりをつけては訴訟を起こすという行為をくりかえしていた。 大抵の企業は人種差別のレッテルを貼られて訴訟をおこされては会社のイメージにかかわるということで、裁判沙汰になる前に急いで示談にしてしまう。 つまり、ジャクソン氏の一連の訴訟は裁判を脅しにつかった恐喝に他ならない。 日本でも同和開放同盟などが同じような行為をしているのではないだろうか?

しかし板さんの同和対策事業はもう必要ない!を読んでいて、日本の場合はアメリカよりもっと組織的なレベルでの問題になっているということがわかった。

なぜ、本来は“差別の解消”が目的だった同和対策が、このような“特権の世界”になってしまったのか?

その最大の原因は“窓口一本化”にある。
そもそも同和関係の団体は、大きく分けて三つあった。部落解放同盟(解同)、全国部落解放運動連合会(全解連)、全日本同和会(同和会)。このうち全解連は共産党系であり、同和会は保守系、そして解同は社会党(現社民党及び民主党)と密接な関係があった。
被差別部落の住民が同和対策事業にともなう施策を受ける時、これらの団体が窓口になることが多かった。ところが、解同が「窓口一本化=全解連や同和会の排除」を要求し、行政がそれに屈服することで、解同が“特別な団体”になってしまったのである。
毎年、国と地方を合わせて何千億円という税金が同和対策事業に投入される。それを解同が一手に取り仕切る。
ここに、被差別部落民は解同に従わなければ同和対策事業が受けられない、また行政は解同の了解がなければ同和対策事業を進められない―そういう同和対策事業の頂点に解同が君臨する構図ができ上がったのである。
こうなると“利にさとい”連中は、皆、解同の下(もと)に結集することになる。そこでは理念も方針も関係がない。とにかく解同にいれば利権にあずかれる。だから暴力団や単なる利権屋も皆、解同ということになる。
そこで何が起こったのか?
“悪貨は良貨を駆逐する”という現象である。まじめに差別の解消に取り組む者より、威嚇と暴力でより多くの税金を分どる者の方が幅をきかせるようになる。

この「窓口一本化」はアメリカの労働組合と非常に似ている。私の職場にも組合があるが、組合のメンバーは毎月会費を給料から差し引かれ、給料の交渉などは個々で出来ず組合が一括してまとめて行う。だが個々の能力はそれぞれ異なるのであり能力のない職員も能力のある職員も一律の給料というのは不公平だ。私はこういう全体主義は非常に嫌いだ。
病気を理由に5年間で数カ月しか働かなかったという職員が交渉の際に机をひっくりかえすなどの暴力をつかって交渉相手を威嚇していたという話をきいて、カカシは私の職場で2年前に起きた事件を思い出した。
私より1年後に入ってきた同僚のAさんは学歴の高い期待の新人だった。カカシより学歴があるということで一年後輩といえどもグレードは私よりずっと上でお給料もずっといい。ところがこのAさん、何をやらしても失敗ばかりで全く役に立たない。Aさんが携わった企画部では部長からAさんはつかいものにならないといってはずされてしまったこともあった。先にはいったということで上司が私にAさんをトレーニングしろといった時も、訓練生を好まない出張先の職場の担当を拝み倒してAさんを加えてもらったのに、当日になって家族に緊急の用ができたのでいかれませんと飛行中に切ってあった私の携帯に伝言がひとこと入っていたきり。無理をいって訓練生を加えてもらったカカシは出張先で面目丸つぶれだった。しかしその後もAさんからは何の説明があるでなし、迷惑かけて申し訳ないというわびのひとつもなかった。
怒った上司は年度末の成績見直しでAさんの昇級を見送ることにした。 ところが次の日Aさんは労働組合のおっかないお兄ちゃんと連れだって上司のオフィスに乗り込んだ。そこでどういう交渉が行われたのかは分からないが、Aさんは単なる年功序列の昇進ではなく、二つぐらい級を飛び越えた大幅昇進となり給料も大幅に跳ね上がってしまったのである! 上司としては悔しかっただろうが「労働組合をおこらせるな」と上から圧力がかかったらしい。
Aさんはいまだにうちの職場にいるが、毎日いったい何をやっているのか誰も知らない。やたらなことをいうとやくざなお兄ちゃんから訪問を受けかねないので誰もなにもいわないでいる。ひとつの団体に給料交渉の権限を一括して与えてしまった以上こうなるのは最初から目に見えていたことだった。そしてこういう団体に暴力団がひっつくのも自然現象というものだろう。
アメリカの労働組合にしろ、日本の解放同盟にしろ、過去に必要な時期があったかもしれないが、いまやその役割をとおに超えて、いまやかえって差別を促進するような悪団体と成り果てた。このような団体はもういらない。

自尊と自律なくしては何一つ解決されない。差別する者と差別される者、加害者と被害者、という思考を脱皮しない限り問題は永遠に解決しないし、逆に差別もなくならない。
解同がなすべきことは、行政に特別扱いを求めることではなく、むしろ特別扱いを必要としない人間を一人でも多く養成することである。

まさにその通りだと思う。


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フランス軍、イスラエル偵察機への発砲を許可

以前にレバノン、フランス軍が戦う相手はイスラエル???で書いたように、フランス軍はイスラエルがレバノンの上空を偵察するのは停戦条約を違反するものだと文句を言っていたが、ついにフランス政府は軍隊にイスラエル偵察機に発砲してもよいという許可を出したという。(Hat tip Yoni the Blogger)
フランスはイスラエルを敵にまわすことによって国内のイスラム教過激派に迎合できるとでもおもっているのだろうか。なぜフランスはフランスもイスラエルも同じ敵と戦っているのだということに気が付かないのだろう。敵に媚を売る手段は絶対にうまくいかないのだということが全然理解できないようだ。(フランスはナチスドイツとの戦いで十分に学んだはずなのだがね。)
それにしてもフランスは本気でイスラエルとドンパチやるつもりなのだろうか? イスラエルは黙って撃ち落とされるようなやわな軍隊ではないのだが、、、


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空港でお祈り、航空機から降ろされた6人のイマームたち

月曜日ミネアポリスの空港ターミナルでお祈りを捧げていたイスラム教徒のイマームと呼ばれる聖職者たち6人が一旦搭乗した後で、心配したほかの乗客からの通報により飛行機からおろされて質問を受けるという事件があった。
そのうちのひとりが常に口うるさいイスラム教市民団体のCAIRとともに、搭乗拒否をしたUSAirway航空会社のボイコットを呼びかけている。
通報した乗客はなぜこの6人が怪しい連中だと感じたのだろうか。単に彼等がアラブ人だったからという人種差別が原因だとCAIRは主張しているが彼等の行動はかなり怪しげだったようだ。ニューヨークタイムスによると、詳細は目撃者によって違ってはいるものの、US Airwaysの乗客や従業員の何人かが男たちが反米的な発言をしたり、搭乗の際と後に飛行機からおろされた時に「アラー」と唱えていたりしたのを聞いている。
またひとりの乗組員の話では男たちは搭乗後、シートベルトの延長を求めたと証言している「(長めのシートベルトが)必要なようには見えませんでした。」と搭乗員の一人は警察で証言した。「彼等は太ってませんでした。」
またゲート従業員は男たちがゲート付近で大声で祈っているのをきいており、「あんまり大きな声で祈っているので怪しいと思いました。」と証言している。
普通、空港ではやってはいけない行動というものがある。ゲート付近で「ハイジャック」とか「爆発、爆弾」といった言葉を口にしないことは常識だ。またこれまでにも搭乗口で、乗客が「パイロットは酔っぱらっていないだろうね」と冗談をいって搭乗を拒否された例もある。
今のアメリカはイスラム過激派テロリストと戦争中である。しかもその戦争の発端となったテロ事件の犯人たちはアメリカの旅客機を乗っ取ってビルに突っ込んだのである。私がイスラム教徒の若い男性だったら、空港で自分がイスラム教徒であることをおおっぴらに発表するような真似は避けるだろう。もしお祈りの時間なら心の中でつぶやけばいいではないか。何もわざわざ他人の注意を引くような大声で祈る必要がどこにある? そんなまねをしておいて警戒されたら人種差別だの宗教弾圧だの騒ぐほうがどうかしている。
US Airwaysには乗客の安全を守るという責任があるのだから、怪しげな人間を警戒するのは当たり前だし、通報のあった警察が尋問をするのも当たり前だ。それができないというのであれば空港でいくら鞄や靴をレントゲンにかけてみても空港の警備などないも同然ではないか。一部の人たちの気分を害するからといって多くの人々の安全を犠牲にしてもいいという理屈は通らないはずだ。
もっともイスラム教徒がUS Airwaysをボイコットするというなら、今後は安心して乗れると考える乗客がかえっ増えたりして、、はは、、


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穏健派イスラム教徒の意見を聞かない理由

どうしてアメリカ国内では、穏健派のイスラム教徒の内部告発を聞くことができないのだろうか、それは過激派イスラム教徒が穏健派を黙らせようとするからだ。
ミスター苺の弟の母校でもあるワシントンDCにあるエリート大学のブラウン大学で、ユダヤ系生徒のグループ、ヒラルの主催で現在のイスラム教に批判的な意見を持つイスラム教穏健派スピーカーを招待して講演会が開かれる予定だった。ところが、これをきいたイスラム教生徒の間から激しい抗議が殺到。学校側は様々な意見をきくことの価値を強調するどころか、生徒の意志にまかせるとして決断を生徒達にゆだねてしまった。イスラム生徒たちからの脅迫に怖じ気づいたヒラルのメンバーたちは臆病にも講演をキャンセルしてしまったのだ。(Not talking back to Nonie Darwish Kesher Talk)
招待をキャンセルされたスピーカーはノニー・ダーニッシュ女史。エジプト生まれのダーニッシュ女史はイスラム教徒として育ち、テロリストグループに所属していた父親をイスラエル軍に殺された体験を持つ。 女史は過激派イスラム教徒による女性弾圧や、911はシオニストの陰謀だなどと信じる考え方について批判的な意見を述べるはずだった。
ダーニッシュ女史は、イスラム教徒の間では建設的な自己批判を聞く姿勢が全くないと嘆く。これは以前にもコメンターのアセアンさんが同じことをいっていた。

カカシさんの仰ってることはイスラム教が21世紀という現代にどうイスラム教自体が変革するのか?という問いを含んでいるのです。
その為に最も重要なことは、当のイスラム教徒が真にイスラム教を学習し直す必要性があるのです。
しかし、それを実現する為には「権力闘争」の一環でもある宗派対立的な問題を解消する必要性をイスラム内部(特に宗教指導者層、エリート層)が理解しなくてはなりません。(統合する必要性はありません、キリスト教でもカトリックとプロテスタントが存在するのですがから)
以前、ローマ法王の発言に対して批判が噴出しましたが、あの最大のポイントはローマ法王の神学論争としての発言に対してイスラム教が神学論争として応えられないこと大きな問題が含まれていたのは自明なのです。

イスラム教徒の多くがコーランを暗記しているだけで、中身をきちんと理解しているわけでもなければ、自分なりに解釈しようなどとは考えたこともない。コーランの解釈は専門家である聖職者に任せきりで、彼等の勝手な解釈がどう政治的に利用されていようともそもまま鵜呑みにされてしまうというのが現代におけるイスラム教のもっとも悲劇的な状況だと思う。
だからイスラム教徒の行動に関する批判を、イスラム教を向上させる、または時代遅れのイスラム教を21世紀の文明社会に沿った宗教にしていこうという建設的な意見を素直に聞こうとするどころか、イスラム教への冒涜であるとか攻撃であるというふうにしか取り扱えずに反射的で暴力的な拒絶反応をしめすわけだ。
本来ならば、ブラウン大学の学校側は教育者として、異なる意見も多いに聞き、演説者の意見に反対であるならば清聴した後の質疑応答で演説者に挑戦し討論の場として教養を高めることを教える場所である。反対意見を公表されたら反論もできないというのなら自分達の理論に落ち度がある可能性を反省するべきだ、くらいのことを指導するのが筋だろう。それが大学という教育者の義務ではないか。それを気に入らない意見の演説者を沈黙させた生徒の意見を尊重するなどもってのほかだ。
演説をキャンセルしてしまったユダヤ系生徒グループも腰抜けだが、学校側からの後押しがない以上、脅迫を恐れた生徒たちが怖じ気づくのも無理はない。保守派の演説者がリベラルの生徒らの暴力で壇上からひきずりおろされる事件がアメリカのあちこちの大学で起きているという事実がある以上、生徒たちも講演者の安否を気づかったという可能性も否定できない。
自由社会の将来を担う若者を育てる大学で、言論の自由が暴力で脅迫されて迫害されているというのはなんと情けないことだろう。このような大学を出た生徒たちが実社会に出れば、反対意見は暴力で黙らせればいいと考えるようになるのは当たり前ではないか。


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日本とアメリカ、共通する差別問題と落とし穴

先日、私が日本の保守派としてよく参考にさせていただいている極右評論の瀬戸さんらが主体となって維新政党・新風という新しい政治運動が結成された。 
この新政党結成にあたり、瀬戸さんが大事な項目として次のことを挙げておられる。

我々は次の項目を維新政党・新風に要望しました。
 教育の正常化        日教組の解体・道徳教育の復活
 安心・安全な社会      不法滞在外国人の強制送還
                  入管法の強化・雇用者罰則強化
 在日特権の廃止      特別永住資格付与制度の見直し
 人権擁護法案に反対   部落解放同盟の同和利権阻止
 外国人参政権に反対   国籍条項の完全徹底を図る
 「政教一致」問題      公明党の政界からの追放!
 国家反逆罪の制定     極左・総連・カルト宗教の解散
 国防体制の強化      非核三原則の廃止・核保有論議の推進
 偏向マスメディア      マスコミ監視制度の創設・特権の廃止

瀬戸さんが挙げておられる多くのことが、アメリカの社会問題とも非常に通じるところがある。 教育問題しかり、同和問題や不法滞在外国人や、在日朝鮮・韓国人への特別永住権の問題などはアメリカ社会の人種問題や移民問題と酷似しているといっていい。
こういう問題を取り上げ、既存の法律を改正すべきであると唱えると、必ず左翼の方から「人種差別だ!」という脊髄反射的反応で批判されるので、保守派がこれらの問題を扱うときには充分な注意が必要だ。 特に改正案が講じて本当の人種差別になってしまう危険が存在することは事実なので、そのようなことは断固避けねばならない。 しかし、だからといって存在する問題にいつまでも目を瞑っていては事態は悪化するばかりである。
そこで私が気になった人権擁護法案と移民問題の二つの項目に絞って日本とアメリカを比べてみたいと思う。 この際読者の皆様にご理解いただきたい点は、私は日本で大人をやったことがないので、日本の社会問題をきちんと理解しているとは言いがたい。 最近になってネットを通じ、日本の状況が以前よりはわかるようになってきたとはいえ、地元で肌で感じるものとは程遠いと考える。 いわゆる鼓動が今ひとつ聞こえてこないといったところだろうか。 だからもし私の比較のなかで日本の状況に関する無知から来る頓珍漢な解釈があったら、読者の皆様からご遠慮なくご指摘いただきたいと思う。
人権擁護法案とアファーマティブアクション 
人権擁護法案というものをネット検索でザット読んだ限り、この法案が言論の自由迫害につながる危険性は充分にある。 また企業などが雇用方針が差別的であるという理由で起訴されやすいという危険性も多く含まれている。 ここで訴訟社会のアメリカにおいて人権擁護の目的で1960年代に設立されたアファーマティブアクションがアメリカ社会にもたらした悪影響を少し考えてみよう。
アファーマティブアクションの当初の目的は、雇用や大学などの入学審査のときに、人種や性別によって差別されないよう少数民族や女性の人権を守ることだった。 それまでジム・クロー法などといった悪法にいより、黒人と白人が同じ公共施設を使用できないという現実があり、同じ職業でも黒人と白人では給料に格差があったり、少数民族や女性がつける職業は限定されていたりと、色々な差別が存在していたことを是正するのが目的であった。
ところが人種・男女差別をしてはいけない、という法律がいつの間にか少数民族や女性を特別扱いする法律へと変貌してしまった。 雇用、大学入試、アパートなどの賃貸契約、レストランのサービスに至るまで、アファーマティブアクションがやたら介入してくるようになったのである。 
大学入試を例にして説明すると、大学入学の際、少数民族だからといって入学を拒否されないように、新入生の人種の枠をつける方針が多くの大学で取り入れられた。 この枠組みはアメリカ社会の人口比率が参考にされており、詳細は学校によって違うがここでは便宜上黒人20%、ラテン系10%、東洋系10%、白人60%としておこう。 ここで問題なのは大学志願者の比率が社会の人口比率とは一致しない点である。 これは文化の違いによるのだが、黒人やラテン系の若者が大学へ進む比率は東洋人や白人のそれよりもずっと低い。 ということは同じ大学へ志願しているにもかかわらず人種によってその倍率が全く違うということになってしまうわけだ。 
たとえば単純計算である大学の100人の枠のなかで、黒人志願者が20人、東洋人志願者が100人だったとする。 同じ大学へ志願したにもかかわらず黒人の志願者は全員入学できるが、東洋人の合格倍率はなんと10倍。 嘘みたいな話だがこれは実際に起きたことなのである。
数年前にカリフォルニアのバークレー大学に志願した中国系の女性が通知表はほとんど完璧、全国学力テストの成績もほぼ99%という優秀な成績だったのに不合格、同時に合格した黒人生徒の学力テストの成績は60%代だったという事件が発覚した。 東洋人も黒人ほどではないにしろ、人種差別の対象になってきたことは事実なのだが、持ち前の努力と勤勉さでいまやアメリカ社会では有能な人種として尊敬されている。 だが、それが裏目に出て東洋人を人種差別から守る目的で決められた下限の枠がかえって東洋人を差別する上限となってしまったという変な状況が起きてしまったのである。
それで生徒達の間でも、黒人生徒は頭が悪いという先入観をもたれるし、学力不足で落第する生徒もあいつぎ、かえって黒人への差別意識を高くしてしまうという悪影響がおきた。 ちなみに東洋人生徒は頭がいいという先入観があることも事実である。 特に理系は得意だというステレオタイプがあるため、私など大学時代化学の実験パートナーになってくれという申し込みが殺到して困った。 カカシは化学は大の苦手なのに~! (カリフォルニアの公立大学では人種による枠決めは14~5年前から廃止されている。)
さて、アファーマティブアクションが適用されるのは大学だけでなく、雇用の際でも同じである。 黒人運動のリーダー的存在に、ジェシー・ジャクソンという人物がいるが、彼とその中間達は、大企業などの雇用方針が黒人差別を行っているといいがかりをつけては訴訟を起こすという行為をくりかえしていた。 大抵の企業は人種差別のレッテルを貼られて訴訟をおこされては会社のイメージにかかわるということで、裁判沙汰になる前に急いで示談にしてしまう。 つまり、ジャクソン氏の一連の訴訟は裁判を脅しにつかった恐喝に他ならない。 日本でも同和開放同盟などが同じような行為をしているのではないだろうか?
アパートの賃貸などでも差別をしてはいけないことになっているが、白人のおばあちゃん一人で管理人をやっているところに、人相の悪い黒人のギャングバンガーのような男がひとりでアパートを借りにきても、おばあちゃんはやたらにこの男性を断れない。 実際に夜中に仲間のギャング達がアパートにおしかけ夜毎大騒ぎをしたり、麻薬売買などをやることは目に見えていてもである。 また私の昔の知り合いのメキシコ系アメリカ人女性は、メキシコ人には部屋は貸さないと私にささやいたことがある。 それはメキシコ系夫婦に部屋を貸すと、いつのまにか親戚一同50人近い人間が合同宿舎のように寝泊りするようになるからだという。 だが、もしこの女性がメキシコ人だから部屋は貸さないなどと言えば、人種差別の法律に触れることになるのである。
また最近では、アラブ系の若い男性に照準をあてて空港などの警備の対象にするいわゆるプロファイリングも、人種差別だと言われて出来ない状態にあることも付け加えておこう。
人種差別をなくす法律はあるのか?
私はそんなものは存在しないと考える。 人種差別という個人的な感情を法律で規制することなど出来ない。 差別をするなといって強制的に嫌いなもの同士を一緒に勉強させたり仕事させたりしては、かえって反感を買うのがおちである。 
ではどうすればいいのか。
私は人種や男女を差別する法律さえ取り除けば、後は市場が解決すると考えている。 (人種差別をする法律とは、過去のジム・クロー法のように、同じ公共施設を黒人と白人が使ってはならないとか、黒人や女性が一定の職種につくのが禁じられているとかいうような悪法を意味する。)
たとえばあるレストランの経営者が、「黒人お断り」の看板を出したとしよう。 このレストランがどういう場所にあるかによるが、黒人客は無論のこと、黒人を含んだ他人種のお客や、白人客でも、「こんな人種差別をするような店で飯など食えん」といって敬遠するだろう。 お客がこなければ商売にならないのに、わざわざ一定の客を遠ざけるような商売方針は愚の骨頂というものだ。
また黒人だからという理由で有能な人材をみすみす見逃せば、企業にとっても痛手である。 たとえば黒人だからとか女性だからという理由で多くの企業が彼らを雇わなかったとする。 これを利用したある企業が有能な黒人や女性を白人男性より低い給料で雇ったとしよう。 雇われたほうも別の企業で低レベルの仕事をしているよりは給料がいいので、この会社にとびつく。 他では雇ってもらえないことがわかっているから企業への忠誠心も強い。 そこでこの企業は人件費を節約して儲けが上がるという寸法だ。
金の力は強いから、他の企業もこれを見習ってだんだんと黒人や女性を雇うようになる。 そうすると彼らの給料はだんだんとあがり、いつの間にか白人と変わらない状態になる。 これにて人種差別は事実上消えてしまうのである。
このように人権擁護法などというものは、一見少数民族の人権を守るために作られるもののように見えるが、現実問題として一部の市民団体の政治勢力強化に悪用されるのがおちであり、実際に差別を受けているひとたちは、この法律によって一般市民が得る反感によってかえって差別がひどくなる可能性の方が大きいと考える。 差別をなくすために必要なのは特別な擁護法ではなく、差別が悪いことだという道徳的な教育からはじめることだ。 差別意識のある人々に法律で差別をするなと押し付けてみてもかえって逆効果である。
長くなるので移民問題に関しては次回へ続く。


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求むイスラム教メソジスト!

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さてさて、私は西洋の宗教キリスト教がしたように、イスラム教にも改革の希望はあると書いてきたが、そのことについてミスター苺が2005年の9月に書いているので、その記事をここで紹介して今週のイスラム教談話を完結することにしよう。
私は昨日、西洋の政治家たちが「イスラム教は平和な宗教だ」と言い続けることは大事だと書いた。 しかしミスター苺はこれには全く反対の意見をもっている。 なぜならミスター苺もロバート・スペンサーと同じ意見で、コーランそのものに暴力を奨励する節がある以上、イスラム教は平和な宗教だという解釈は間違っているという。 そんな口からでまかせをいっても、コーランの裏表を知り尽くしている敬虔なるイスラム教徒を説得することは出来ないというのだ。
ではイスラム教には希望はないのか? ただただこのまま暴力を繰り返し我慢しきれなくなった西洋社会に滅ぼされる運命なのか? いや、そうではない、とミスター苺は語る。 イスラム教にも希望はある。 だがそのためにはイスラム教は中世にキリスト教が行ったような宗教改革が必要だというのだ。
歴史を振り返ってみれば、キリスト教も決して「平和な宗教」などではなかった。 何世紀も前のキリスト教はいまの過激派イスラム教に勝るとも劣らないほど暴力的な宗教だった。イスラム教徒のようにユダヤ教徒と不信心者を攻撃していただけでなく、背教者、異教徒、(神に対する)不敬者、魔女、想像できるありとあらゆる人々が攻撃された。 悪名高き十字軍、Torquemada、Kramer そしてSprengerなどがいい例である。
しかし、協会は色々な課程を踏みながらついに自ら改革をすすめた。 すべてが同じ時期に起きたわけではないし、世界中のあちこちで同時に起きたわけでもない。だがだんだんとキリスト教の「宗教革命」は成し遂げられた。 そしてその結果キリスト教は今日ある姿に生まれ変わったのである。
今日、カトリック、バプティスト、ロシアオーソドックスの協会が通りを隔てて同じ町に建っているなどというのは普通だ。お互いの牧師や神父たちが仲良くチャリティー運動を一緒にするのも珍しくない。
またキリスト教徒もユダヤ教徒も厳密な意味での宗教の教えを実施する人々はほとんどいない。 だから例え敬虔なクリスチャンとかユダヤ教徒とか言われる人々でも、現実的には家族、近所付き合い、仕事などが優先される。 そしてこれはいいことなのだ。 我々はキリスト教徒のお隣同士で住んでも、ユダヤ教徒だといって迫害されることはないし、我々もお隣がコーシャーでないからお呼ばれされてもいけないとか断る必要もない。 (カカシとミスター苺が結婚式を挙げた裏のユダヤ寺院のカンターが駐車場でマクドナルドのチーズバーガーを食べてたのをカカシは目撃したもんね!)
つまり、ミスター苺はイスラム教にももっと多くのメソジストが必要だというのである。
個人的なレベルではイスラム教メソジストはすでに多く存在している。たとえば私の同僚にはアフガニスタン出身のイスラム教徒がいるが、彼は一日に何回もメッカに向かってお祈りなどしないし、ラマダンの時期でもちゃんとお弁当を食べているし、企画終了の打ち上げのときにはビールも飲む。 それでも彼は自分をイスラム教徒だと考えている。 カカシが行った大学の同級生には何人もイスラム教徒がいたが、私が間違って豚と牛の合い挽きでシュウマイを作ってしまったときでも、豚と知ってて皆たべていた奴が結構いた。 明らかに我々はこのようなイスラム教徒と戦争をしているわけではない。
こうした人々は自分達のことをイスラム教徒だと考えてはいても、それはもっと自分の内部のことだと解釈している。 たとえばシャリアとは自分の心の中の葛藤であると考えることによって、普通の生活がそれに従うことから開放されるというように。 大事なのはイスラムを現実の生活から引き離して、死後の世界のものとすることである。 日常生活に支障をきたすような面倒くさい儀式や習慣はこの際だから捨て去ることだ。 オーソドックスのユダヤ教徒でさえも、きょうび妻が生理の時に汚らわしいものといって触らないなどという人はいないのと同じだ。(Leviticus 15:19).
このような穏健なイスラム教徒はいくらでもいるはずだ。いや、たとえ熱心なイスラム教徒でシャリアを自宅で実施しているひとでも、イスラム教徒でない人間をすべて殺したいなどと考えている人はそうはいないはずだ。 いや実際の話このような穏健派は大多数に違いない。
だが、問題なのはイスラム教徒の運動団体はどこの国でも皆かなり過激であり、テロリストにも同情的だ、アメリカのCAIRなんてのがそのいい例である。 彼らの存在は非常に危険だ。 なぜなら穏健派イスラム教徒が見る公のイスラム教グループが皆過激派であることから、穏健派である自分には何か問題があるのではないかという疑問を抱くようになるだろう。 そして自分の意見を聖廟などで表現するのは控えめになるはずである。 やたらにイスラム過激派を批判するような行動はイスラム社会から村八分にされるだけでなく、命の危険すら伴う可能性があるからだ。
もしも多くの穏健派イスラム教とが、イスラムメソジスト運動を起こし、組織を作って自分らはひとりではないということをイスラム教徒内部で訴えることができれば、この動きはだんだんと広まるのではないだろうか。 憎しみにはエネルギーを要するから、普通の人は自然と穏健派メソジストの方向へ魅かれるのではないだろうか。
多くの男達が静かな絶望感をもって生きていると言う。どれだけ多くの穏健派イスラム教とはこの「静かな絶望感を持って生きている」のだろうか? どうにかしてこの人たちに絶望的な行為に走らないよう説得できないものだろうか?
追記: イスラム教徒が独特である事には二つの理由がある。イスラム教の創設者であるモハメッド自身が戦士であり、戦闘を指揮した経験のある人間だということ。 もうひとつはモハメッドは長生きしすぎたため、老齢になって機嫌の悪い爺さんになってから、彼を拒絶したユダヤ教徒への憎しみに満ちた愚痴が救世主の言葉として記録されてしまったということがある。 これらの点がこのイスラムという宗教をどのくらい暴力的なものにしているのか知る由も無いが、前にも書いたとおり、今は平和な宗教として定評のあるキリスト教にも、暴力的な歴史はあった。
中世の人たちが考えていた宗教と、現代人が考える宗教とでは全く天と地との差がある。 現代人には宗教が理由で何年も戦争をしていた十字軍の頃のキリスト教徒の心情などとても理解できない。
彼らの生きていた世界は現代の我々の生きる世界とは全く別な世界なのだ。 イスラム教だってそのくらいの年月がたてばどのくらい変わるか解らない。 イスラム教のためにも、その日が来るのに数百年もかからないことを祈ろう。 そうでないとこっちが持たない。


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何故西洋社会はイスラムの事実を認めないのか?

さて、イスラムについて文明社会が知るべき事実、シリーズ三段目の最終回はおなじみロバート・スペンサー氏のおでましである。
スペンサー氏は、西洋社会は悪の根源はイスラム教にあるという明白な事実を受け入れようとしないと語る。この事実はイスラム教の教えをみれば誰にでもわかる事実だという。 本来ならば「イスラムについて、、」のようなドキュメンタリーはハリウッドの主流映画会社が作るような作品であり、多くの人々にイスラムの脅威を知らしめる必要があるのだと。
にも拘わらず主流メディアはこの事実を無視しようとする。 しかしこの事実を永久に無視し続けることは不可能だと氏は語る、なぜならこの事実に真っ向から立ち向かわなければ我々は自滅してしまうからである。
シューバット氏はコロンビア大学で演説した時に受けた生徒達からの反応をこのように語る。

私の演説のなかで、私はイスラムへの批判のみならず、プロテスタントの変革者マーティン・ルーサー の書いた「ユダヤ教とその嘘」についても批判しました。また私はマーティン・ルーサー・キングJRが黒人の人権のために戦ったと讃えたにもかかわらず、生徒達からは人種差別者、偏見主義と批判を受けました。 どうして私がマーティン・ルーサーを批判したことについては誰も私をキリスト教への偏見だと批判しないのでしょうか?

ここまではよく聞く話だが次のシューバット氏の話には衝撃的だ。

私がテロリストだったときには世界は私を解放戦士と呼びました。 私が「解放戦士」だったときは私は「ユダヤ人はシャイロックだ、イスラエルは人種差別政権だ、(アメリカの)議会もメディアもユダヤ人によってコントロールされている」と言いたい放題でした。 その頃は私はユダヤ人を憎んでいました。でもこのごろは気が変わってすべての人々を愛するようになると、私は人種差別者とレッテルを貼られるようになったのです。

しかもシューバット氏がテロリスト時代に言っていたようなレトリックがいまではアメリカの大学教授らが普通に言っているというのだ。 彼らがテロリストの味方といわれず、シューバット氏が人種差別者と言われるなんて逆さまではないのだろうか? またシューバット氏はイギリスのBBCでインタビューを受けたとき、こんな応答をした。

インタビュアーは私に「今日の問題は原理主義にあるのでは」と聞くので私は「キリスト教の原理主義は我々に頭痛を与えるだけだが、イスラム教の原理主義は我々の頭を肩から斬り取るんですよ」とこたえたところ、速やかに感謝され出口に案内されました。

私はこのブログでも何度か文明社会がイスラム教徒全体を敵に回すことの危険性を主張してきた。 だから私は悪の根源はイスラムの教えにあるというこのドキュメンタリーの製作者たちの意見には全面的に賛成できないでいる。 特にシューバット氏はイギリスのブレア首相がイスラム教を「平和を愛する宗教」だと何度も繰り返すことに関して、愚かなのか嘘つきなのかどちらかだろう、と言い切ることには全く同意できない。
ブレア首相ほど対テロ戦争に関して自分の政治生命を犠牲にしてまでブッシュ大統領と一緒になって努力してきた政治家はいない。 ブレア首相ほどイスラムテロリストの脅威を正しく理解して戦い続けなければならないと主張した人はいない。 私は911事件以後のこの世の中にブレア首相という立派な政治家がイギリスにいてくれたことを何度神に感謝したか知れない。
「イスラムについて、、」の製作者たちがわかっていないのは、政治家達がイスラムを「平和な宗教」だと主張し、テロリストは過激派であり、本来のイスラム教の教えを歪曲しているのだと語るには理由があるということだ。 イスラム教の人口は12億といわれている。 この中で過激派は約一割というではないか。 彼らはその一割の過激派と戦うために我々文明諸国に対して12億の人々全体を敵に回せというのか? 
無論、数や欧米の戦争技術をすれば、12億の敵をもってしても西洋社会がいずれは勝つだろう。 だが、もしそのような戦争がおきれば、第2次世界大戦どころの騒ぎではなくなるということがこのドキュメンタリーの製作者たちにはわかっているのだろうか?
イスラムの教えそのものに問題があるという事実は私も認める。 その事実から我々が目をそむけてはいけないという事実も認めよう。 しかしながら、12億からいるイスラム教徒全体を敵に回して我々が得るものは何もない。
キリスト教、ユダヤ教、仏教、ヒンドゥー、どの宗教をとってみても、詳しい読み方をすればあらゆる部分で暴力を容認する節を見つけることができるはずだ。 これらの宗教の歴史のなかにも他宗教を排斥し虐待してきた事実があるではないか。 だがこれらの宗教が現在の平和的な共存をみつけたのには理由があるはずだ。 その変革がイスラム教だけには出来ないと断言してしまうのはあまりにも乱暴ではないだろうか?
イスラム教徒でも大抵の人々はテロリストではない。 大抵の人々はただ普通に自分らのささやかな生活を守って生きたいだけの人々だ。 彼らが心のよりどころとしているイスラム教を真正面から批判するよりも、イスラム教を正しく解釈せよと促すことのほうが建設的ではないだろうか? 我々はイスラム教徒でありながら穏健派の道を選んだ沈黙の多数派に注目し、何故それが可能なのかを考える必要があると思う。
私はこのようなドキュメンタリーが作られることには賛成だ。 そして多くの西洋人が(日本も含む)イスラム教の脅威を学ぶべきであるとも、アメリカの教育の場でイスラムを美化した嘘が教えられているという事実を暴露し変えていく事実も必要だと思う。 だが、政治家達は今までどおりイスラムは本来は平和な宗教であるというレトリックを言い続けるべきだ。 そしてイスラム教徒ら自身にその「事実」を納得してもらい、暴力的な過激派ジハーディズムを拒絶してもらよう努力すべきだと考える。
本来のイスラム教の実態への教育は政府レベルではなく、草の根運動でやっていくべきだと私はおもう。


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西洋社会が持つ間違ったイスラム像

昨日に続き、フロントページマガジンに載った「イスラムについて西洋が知るべき事実」の座談会から紹介しよう。
教育界が教えるイスラム偽りの歴史
トリフコビック氏は、アメリカの教育の場ではイスラム教の真実が教えられるどころか、アメリカのエリート教授らが勝手に信じ込んでいるイスラムを美化した妄想が公然と教えられていると語る。たとえばカリフォルニアの中学で使われているHoughton Mifflin出版の教科書などは、CAIRの創設者のひとりでテロリストと強い関係のあるShabbir Mansuriという男がその一部を執筆しているという。

アメリカ人の12歳から13歳の子供たちを教えるこの教科書では、コーランの最初の節はモハメッドが西暦610年に「打ち明けられた」とあり、モハメッドの最初のひらめきは「後に彼がガブリエルと明らかにした」天使から授かったものだなどという事実まがいのことが書かれているのです。 これはパキスタンの聖廟では似つかわしいかもしれませんが、アメリカの公立学校で教えられるにはふさわしくありません。 もっとひどいのはこの教科書には「ユダヤ人の中にはモハメッドが神の最新の救世主であることを認めない人たちがいます。」とあり、モハメッドがユダヤ教徒が彼を救世主であることを受け入れなかったことに対して、暴力的なユダヤ憎悪論の「ひらめき」をコーランに書き連ねているという事実を無視しています。このようなアラーからの教えこそが後にモハメッド政権下における民族浄化や極端なユダヤ民族駆除への下敷きになったのです。 その部分をイスラム初期の歴史から除外してしまうというのは、ナチス台頭の歴史でクリスタルナクットやヌーレンバーグ法(Kristallnacht and the Nuremberg Laws)を無視するのと同じです。

氏はこの教科書から別の例もあげて語る。 ひとつはジハードという言葉の意味の説明だ。 ジハードという言葉には「葛藤」という意味がある。これは「誘惑に抵抗し悪に打ち勝つ」という意味で個人の人間形成の葛藤を意味すると解釈することができる。 しかしこの葛藤が他者への暴力を容認していることについて、この教科書には場合によっては武力を使って悪に抵抗することが許されているとはされているものの、それは他者からの攻撃への正当防衛に限るとコーランには書いてある記されており、イスラムに改宗しない異教徒を暴力で脅迫し、挙句の果てには殺してもいいという解釈は全く無視されているというのだ。
また同教科書にはイスラム教は女性の権利を尊敬し結婚や教育いおいても正当な権利が認められているとあり、キリスト教やユダヤ教などの他宗教もイスラム社会では宗教の自由が認められているというでたらめが書かれているというのである。そしてこの教科書の練習問題には、イスラムの着物を着てイスラムの名前を名乗り、「アラーの名の下に、、、」、「アラーをたたえよ、創造の主よ」とお祈りのお経を唱えることが課されているという。
こんなことがアメリカの公立学校で、しかもカカシの地元のカリフォルニアで教えられていたとは驚いた。 子供の教科書は親は注意をして見る必要があるというものである。
ハリウッド創作のイスラム美化の神話
トリフコビック氏は、アメリカメディアは常にヨーロッパのキリスト教徒が暴力的な攻撃者であり、イスラム教徒は唯その理不尽な攻撃から身を守ろうとする道徳的な民族であるというイスラムを美化した描写を我々に押し付けるという。 リドリースコット監督のキングダム・オブ・ヘブン( Kingdom of Heaven) などがその典型的な例だと語る。(注:映画の公式サイトは音楽が鳴るので音量に注意)
またアメリカの公共テレビ局PBSが2002年に政策したモハメッドの伝記ミニシリーズ番組、Legacy of a Prophet, ではソビエト共産党当局製作のレーニン像さながらの美化伝だったという。 PBSの番組ではモハメッドがユダヤ民族に対しておこなった強姦や虐殺の歴史、イスラム教徒以外の人々を人間以下として扱い理不尽な税金をかけた事実などすべて無視した。 登場した9人の「専門家」は信じられない口調でモハメッドを褒め称えたという。しかもモハメッドは女性解放を行った人物と描写され、コーランの節に女性を強姦したり、妻に暴力を振るうことが容認されている部分があることなどは全く語られなかった。
氏は「イスラムについて、、」においてこのような神話を次々に崩壊していくと語る。 しかしこのようなドキュメンタリーはイスラム美化の神話を長年植えつけられてきた西洋社会で受け入れられるだらうか? 氏はこの真剣な質問に対してブラックユーモアで答える。

ヨーロッパ連盟では放映禁止になるでしょう。そして私も他の4人の「スター」たちも次の(イギリスの)ヒースロー空港やSchiphol行きの飛行機に乗るのは考え直したほうがいいでしょうね、そうでないと言ってはならないことを言ったといって刑務所送りは間違いないでしょう。 しかし我々のナイーブで油断しきった西洋の中間達におうちが火事だよと気がついてもらうためには充分価値のあることかもしれませんが。

刑務所送りになるくらいならまだしも、ヨーロッパには過激派ジハーディストがわんさかいて、イスラム教を批判する人間を暴力で脅迫していることはすでにこのブログでも何度も書いたとおり。 彼らがヨーロッパ旅行をする際にはボディガードを連れて充分な警戒対策をとってほしいものだ。
明日は座談会もうひとりの参加者、当ブログの読者にもおなじみのロバート・スペンサー氏の話を紹介しよう。


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イスラム教、文明社会が知るべき事実 その1

本日はイスラム教過激派の脅威を描いた二つのドキュメンタリーを紹介したいと思う。 ひとつはObsession(執念)、 もうひとつはIslam – What the West Needs to Know(イスラムについて西洋が知るべき事実)。
イスラム過激派の狂信を描くオブセッション
「執念」のほうは先日テレビでその一部を観たが、情報提供をするドキュメンタリーとしてはあまり良く出来ているとはいえない。 ただ過激派イスラム教徒の狂信ぶりを言葉で説明するのではなく、イメージで訴えるやり方にはそれなりの効果がある。 何万人という信者が集まって「アメリカに死を!」と独裁者の音戸に取られて腕を降りたてながら何度も繰り返す映像はナチスドイツのヒットラーの演説を思い出させる。
また別のシーンでは幼稚園の女教師が子供に「ユダヤ人は豚だ」と教えていた。 女児が言葉に詰まった時に「はい、次はなに? 」と優しく聞き返し、女児が「ユダヤ人は豚です!」と答えると「は~い、よくできました!」と褒めてる図は背筋がぞっとする思いである。
我々文明人は自分らの物差しで他の社会を計るため、比較的民度が高いと思われるサウジやトルコ、エジプトのようなイスラム社会であからさまな反西欧のプロパガンダが朝から晩まで流されているということの深刻さに気がついていない。 一歳児に自爆ベルトを着させて自慢げに写真を撮る父親の気持ちが理解できていない。 幼稚園児が大きくなったら自爆テロになってイスラエルの豚どもを吹っ飛ばすなどと涙を流しながら訴える姿がつかみきれない。 
外面(そとづら)のいいイスラム諸国の代表者らは、西洋のメディアに面するときは西洋諸国が聞きたがる奇麗事を並べ立てる。 多くの「スポークスマン」たちは英語も達者で西欧風の振る舞いにも長けてチャーミングなため、我々西洋人は彼らも我々と同じ価値観を持っている文明人なのだとちゃっかり騙される。 だが彼らが自分達だけの間で話す時の西洋観は我々がきいてぞっとするような憎しみに満ちているのである。 たとえばここでも何度か取り上げたアメリカのイスラム教市民団体CAIRの代表が、911事件直後、「我々はこのテロリズムを断固糾弾する」と表向きは宣言しておきながら、自分らの会合では911の犯人たちを「19人の英雄たち」とたたえている映像がこのドキュメンタリーでははっきり映し出されている。
イスラム過激派は西洋社会に嘘をつきインファデル(無信心者)の我々を欺くことなど屁とも思っていない。 彼らの真の姿を知るべきだ、というのがこのドキュメンタリーのテーマだ。
悪の根源はイスラムの教えそのもにある
これとは別に、「イスラムについて西洋が知るべき事実」のほうは私はまだ観ていないが、その製作者たちの座談会がフロントページマガジンに載ったので。(Hat tip le’eXtreme-Centre )そこからこの映画の内容について紹介しよう。
元パレスチナ解放連盟(PLO)のテロリスト、福音書キリスト教徒に改宗し現在は熱心なシオニスト、「何故私がジハードを去ったのか」の著者ワリード・シューバット(Walid Shoebat)氏は、この映画についてこのように説明する。

私が過激派イスラム教を去ってからというもの、私は常に過激派イスラム教徒の心情について無知な西洋人に遭遇してきました。 どちらの側にもいたことのある私にとって私はその度に、スタートレックのスポック博士がカーク船長に幾度も宇宙人の考えを説明したように、(西洋人に)異邦人の考え方を説明するはめになったのです。 しかし西洋人と話す上で最初に私が遭遇した問題は彼らがイスラム社会も彼らと同じように、自由、平等、文明化、民主主義、そして生活向上といった希望を持っていると勘違いしている点なのです。

今日、古の世界で西に傷つけられ忘れられていた巨人であるイスラムは凄い勢いを息で吹き返してきてます。 イスラム教徒が多数を占める多くの国々で世俗主義や社会主義は人気を失い新しい傾向、本当はとても古いのですが、山火事が広まるかのように、よみがえろうとしているのです。 それが過激派イスラム教です。
私が参加したこのドキュメンタリーではイスラムの歴史のはじめから今日にいたるまでのつながりを、神話と事実が織り交ぜながら見せています。このドキュメンタリーはイスラム創造の父であるモハメッドによる紛れもない供述、イスラムそのものを情報源として、どう彼の教えが現在の我々の時代に生きているかということを説明しています。この証拠が討論されている間にも、世界の政治家達は否定できない事実を否定しています。 イスラムの真髄は単に「美しく平和な宗教」などではありません。 これは彼らだけの政治機構であるだけでなく残りの世界にも強制されようとしているのです。
東洋はイスラムが生まれた最初から知っていますが、西洋はまだ全くこの歴史に無知です。しかし西洋でもイスラムは広まりつつあるのです。すべての西洋人がこのドキュメンタリーを観るべきです。特にまだイスラムを批評する自由をもっている今のうちに。

このドキュメンタリーの製作者で、座談会に参加したほかの二人は、サージ・トリフコビック(Serge Trifkovic, 元 BBCワールドサービス報道員、元US News & World Report の記者、元Chronicles海外ニュースの編集長, そして The Sword of the Prophetの著者)と、ロバート・スペンサー(Robert Spencer, おなじみのイスラム教歴史学者。トルコ系カトリック教徒。イスラムに関する多々の著書があるが、一番最近はThe Truth About Muhammad)氏である。
この顔ぶれだけを観ても読者の皆さんにはこのドキュメンタリーの主旨がご想像いただけると思うが、彼らのテーマは欧米社会の政治家達が好んで使う、「イスラム教が問題なのではない、本来のイスラムは美しく平和な宗教である。問題はジハーディズム(聖戦主義)というイスラム過激派がイスラムを歪曲して解釈をしてテロを行っていることなのである。」という西側のレトリックは間違っているというものだ。 このドキュメンタリーはジハードの根源はイスラム教そのもにある、我々西洋人はそのイスラム教の悪から目をそむけてはならない、というのである。
この座談会でトリフコビック氏が紹介しているアメリカの公立中学で教えられているイスラム教について、驚くべき事実がある。
長くなるのでこの座談会の続きはまた明日。


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