この間ボストン市の中華系ミッシェル・ウー市長は白人抜きの市会議員たちでクリスマスパーティならぬホリデーパーティを計画した。しかし招待状を出した秘書は誤って議員全員に招待状を送ってしまい、この白人抜きパーティー計画が公になってしまった。これに関してウー市長は謝罪するどころか、自分は政敵によって攻撃されていると被害者ぶっている。

市長は自分は特定の政治見解を持つ人々による事実に基づかない批判の被害者になっているとし、招待状が誤って白人議員たちにも送られてしまった件に関して、白人議員たちは特定のグループに属しておらず、自分は既存の特定のグループの人だけを招待しただけだ。それをわざと漏洩して国中に広めた人たちには政治的な動機があるとラジオのインタビューで説明している。

彼女の言う「特定のグループ」とは非白人のグループだ。単に何か特定の委員会に属しているといったグループではない。いや、もしこれらの人びとが特定の委員会のメンバーだったとしても、その中に白人議員が一人も含まれていないと言うこと自体が問題だ。何故彼女は白人と非白人を分けなければならなかったのだ?

アメリカ社会では白人が非白人を組織的に差別していた時代はあった。黒人が白人と同じ公共施設を使えなかったり学校が分かれていたり、20世紀初期には中国人移民の労働者が劣悪な環境で奴隷のように扱われたり、第二次世界大戦中は日系移民や日系二世が財産を没収され収容所に送られたこともある。その歴史を変えることはできない。だが、1960年代の公民権運動後、人種差別的な法律はすべて撤廃され、法の上ではどんな人種も平等となったのである。

もちろん法律上平等であっても、人々の心にある人種差別意識を変えることは簡単ではない。だから政府はEEOCという組織を作り、職場におけるあからさまな人種や性差別を失くす努力がされてきたのだ。

私は拙ブログでも何度も書いてきたが、私がアメリカに移住した1981年からこの40年余りアメリカに暮らしてきて、私は日本人であると言う理由で差別を受けたことは片手の指で数えられるほどしかない。あまりにも珍しいことだから、そのひとつひとつを覚えているくらいなのだ。しかもそのうち白人から差別されたのは一回だけで、後は他の移民経営の店などで受けたものだ。

であるにもかかわらず、アメリカのアカデミーでは何に付けても人種差別が取り扱われる。そして最近ではあからさまな白人差別が起きている。先日も私はマット・ウォルシの放送を聞いていて思ったのだが、今起きているユダヤ人差別は突然おきたものではない。アメリカのエリート大学の間ではすでにその傾向はここ20年くらいの間にかなりひどくなっていたのだ。

悪の根源はインターセクショなリティーという考えにある。ウィキによる定義は次の通り。強調はカカシ。

インターセクショナリティ(intersectionality)とは、複数のアイデンティティが組み合わさることによって起こる特有の差別や抑圧を理解するための枠組みである。また、複数のアイデンティティによる特有の社会的な特権を理解するためにも使われる。

20世紀後半にフェミニズム理論として提唱され、扱われるアイデンティティの代表的なものに、ジェンダー、セックス(身体的特徴による性別)、人種、社会階層や経済的階層、セクシャリティ、特定の能力や障害の有無、身体的特徴などがある。日本語では交差性とも呼ばれる。

インターセクショナリティは、人種やジェンダーなどの複数の社会的、政治的アイデンティティの組み合わせにより、人々が経験する不公平さや有利さを識別するために使われる。

実際この定義がどう使われるかといえば、個人を個人として評価せず、その人の属性が「抑圧者」側か「被抑圧者」側にあるかで扱いを変えるという概念である。そして被抑圧者のなかにも順位があり、一位黒人、2位ラテン系、3位アラブ系その他があり、東洋人やユダヤ系は白人とほぼ変わらない抑圧者側に所属している。抑圧者はどのような場合でも被抑圧者である有色人種に権利を譲らなければならないという思想であり、抑圧者が受ける不公平や理不尽な扱いは「差別」とはみなされない。何故なら被抑圧者は定義上差別者にはなり得ないからである。

具体例を出すならば、大学で有色人種優先勉強室なるものがあり、そこで白人が勉強していたら黒人から追い出されてもそれは人種差別とはならないが、もし白人オンリーなどという部屋があったら、これは差別と見なされる。大学入試の際に被抑圧者人種に下駄を履かせ、もっと高得点を取った白人や東洋人が不合格になるのは人種差別とはみなされないといった具合だ。

ハーバード大学の黒人学長がユダヤ人のジェノサイドを唱える学生たちを大学の行動規範に反するとして罰しなくても辞任に追い込まれれないのは、被抑圧者の黒人が抑圧者であるユダヤ人を差別することはインターセクショナリティー上不可能なことだからである。

最近BBCの歴史物のドラマでも歴史上の白人が黒人によって演じられるなど普通になった。だが反対に黒人役を白人が演じたりしたら大騒ぎである。以前にも紹介したようにハワイ島人を演じる俳優の肌の色が白すぎるといって、ハワイ島民の役者を降ろさせるなんてこともが平気で起きている。最近公開されたバラク・オバマ夫妻がプロディースしたネットフリックスの映画でもあからさまな白人差別のシーンがあるというし、また近日公開されるThe American Society of Magical Negroes (2024) – IMDbという映画では「世界中で最も危険な動物は白人だ」というセリフがあり、映画の中でいかに白人を大人しくさせるかというメッセージが盛り込まれているという。

もしこれが黒人に向けられたものなら、一瞬にして映画製作者はキャンセルされるだろうが、被差別者が白人ならまるで問題にならない。

アメリカではすでに白人の出生率が非白人のそれより下回った。数の上で白人が過半数ではなくなったのである。もし人種差別のない国なら、これは全く何の意味もない。アメリカ人の肌の色が多少暗くなると言うだけの話である。だが問題なのは、過半数を越したら非白人が少数派の白人を差別し迫害してもいいのだという考えである。何故黒人差別はいけないが白人差別は良いということになるのか?差別は誰に向けられてもいけないはずだ。もし黒人差別はいけないが白人差別は良いというのであれば、彼等は最初から人種差別は悪いという認識をもっていなかったということになる。彼等が不満だったのは自分が差別をされる側だったからであって、自分らが差別する分には全く問題もないと考えているのだ。(この際たるものが今の南アフリカだ)

この特定の人びとを差別しても良いという考えが如何に邪悪であるかは、今起きている過激なユダヤ人差別を見ればわかる。このユダヤ人差別はイスラエルとハマスの戦争がきっかけとはいうものの、ここ二か月で突然起きたものではない。20世紀後半から培われてきたインターセクショナリティーが抑圧者差別を是として学生たちを洗脳し続けて来た結果がこれなのだ。

繰り返すが我々は白人でもないしユダヤ人でもないから関係ないなどと思っているととんでもないことになる。被抑圧者ナンバーワンの黒人活動家たちは、自分ら以外の属性は程度の差こそあれ皆差別対象にしている。特に東洋人は白人やユダヤ人と同じ扱いだ。いや、身体が小さい分余計に迫害の対象になる。

今、アメリカ中で起きている過激なユダヤ人差別によって、多くのアメリカ白人は気づいているはずだ。アメリカの人口分布が変わって白人が少数派になったらこの弾圧はさらにひどくなる。そうなる前に何とかしなければならないと。これまで人種差別など考えたこともなかった白人の間で白人至上主義が生まれる可能性さえある。そうなったらどうなるのか?

インターセクショナリティーは人種差別を増幅させる。アメリカは今岐路に立たされている。


Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *