何かとトランスジェンダー活動家(TRA)は女性自認の男子が女子空間に入れないのは、昔黒人が白人施設に入れなかったのと同じで差別だというが、公民権法が通った1964年前のアメリカ南部での組織的な黒人差別は、今「トランスジェンダー」と言われる人々が受けているような「差別」とは質も程度も全く違うものである。だが、どこがどう違うのかを知るためには、昔のアメリカの黒人差別がどんなものであったのかを知る必要がある。

日本の皆さまは、アメリカでは黒人差別があったということはご存じでも、それがどのようなものだったのかということについてはよくご存じないだろう。いや、それを言うならアメリカ人ですら、実際の黒人差別とはどういうものだったのか知らない人が多い。

私が前々から言っているように、現在のテレビドラマや映画で時代ものをやる時に、当時の人種差別感覚及び法律から言ってあり得ない設定が多すぎることが、現代人の人種差別知識を歪めている。人種差別は現在でも存在する。それは確かだ。しかし公民権運動前のアメリカと今のアメリカではその度合いは全く違うのだ。先ずそれを理解できないと現代の差別も正しく理解することは出来ない。

組織的な人種差別

よく人権屋が口にするこの「組織的な人種差別 (systemic racism)」だが、いったいこれは何を意味するのか。これは法律などで強制される差別のことである。つまり、ジム・クロー法のあった南部では、黒人と白人が特定の施設を共用出来ないことがその一つ。これは法律が積極的に黒人を差別しなければいけないとしていた法律なのだ。例えば、

  • 黒人は白人専用のトイレや水飲み場を使ってはいけない
  • 黒人と白人は同じ学校に通ってはいけない。
  • 黒人は白人専用のホテルに泊まってはいけない。
  • 黒人は白人専用のレストランに入ってはいけない。
  • 軍隊は黒人と白人の部隊を分けなければいけない。

といったものがあった。ここではっきりさせなければならないことは、これは強制的な分離であり、施設の運営者や経営者が個人的にどう思っているかとは関係なかった。よしんばホテルのオーナーが黒人も泊めてもいいと思ったとしても、彼の一存でそれを決めることは出来なかったのである。

このような分離をしていたにもかかわらず、南部ではこれは黒人差別だとは思われていなかった。「分離した平等」というのが彼等の口実だった。しかし現実は全く平等ではなかった。

例えば白人用のトイレは清潔で安全であっても、黒人用トイレは数も少なく掃除も警備も行き届いていないとか、学校も白人用の学校は水泳プールがあったり施設も新しく設備も整っているが、黒人用のほうには碌な教材もないなど、その格差は酷いものだったのだ。

以前に観た1950年代を舞台にした「ドライビング・ミス・デイジー」という映画(芝居)のなかで、デイジーの運転手の黒人男性が運転途中にトイレに行きたいので車を止めると言った時、ミス・デイジーが「なんで、さっきホテルで止った時に行かなかったの?」と聞く場面があった。「あんなところで黒人がトイレに入れるわけないでしょ」と運転手が答えるとミス・デイジーはハッとした顔をする。彼女は決して人種差別者ではなかったが、差別されている黒人がどんな生活をしているかに全く興味もなかったし無知だったのである。

1940年代のビッグバンドでも、もしバンドメンバーに黒人と白人が混じっていたら、バンドマスターがいくら望んでもメンバーたちが同じホテルに泊まることは出来なかった。演奏以外はいちいち別行動を強いられるため、移動の多いバンドは人種混合を好まなかった。しかも理不尽だったのは、ホテルやナイトクラブでエンターテイナーとして歌ったり演奏したりする黒人ミュージシャンたちは、自分らが演奏する施設を客として使うことが出来なかった。もし、ホテル側が特別配慮で黒人エンターテイナーを宿泊させたとしても、他の白人客と鉢合わせしないように業務用エレベーターや非常階段使用を強要されるなどといった屈辱的な扱いを受けた。

だから現在のように黒人や白人が同じレストランで肩を並べて食事をするとか、同じホテルに泊まるとか、同じ舞台で演技をするとか先ずあり得ないことだったのだ。ただし、白人が黒人専用のナイトクラブへ行くのは許されていたので、ハーレムのクラブなど白人客も多かった。この反対はあり得なかったわけだから、これも不平等であった。

1964年に公民権法が通り、法律による人種差別は廃止され、上記のような組織的差別は失くなった。もちろん法律で差別しなくなったからといって長年にわたる人々の差別意識が失くなったわけではない。しかし組織的差別廃止のおかげで、アメリカの人種間関係は急速に良好化したのである。

黒人差別と身体性別の区別は同じではない

さてここで何をもってしてトランスジェンダー差別というのか、それを黒人差別を例にして考えてみよう。前述のようにジム・クロー時代の黒人は白人と比べて劣悪な環境の施設の使用を余儀なくされ、どれだけお金を持っていようと白人が使う高級施設を使うことは出来なかった。同じ仕事をしても黒人の賃金は安く同じ待遇では扱われなかった。単に白人と黒人は分離されていただけでなく、その待遇には雲泥の差があったのである。

これと同じことがトランスジェンダー(TG)と言われるひとたちにも言えるだろうか?

異性を自認したからと言って、泊まれないホテルや入れないレストランがあるわけではない。スポーツにしろ何にしろ自分の身体の性に合った方に参加しさえすれば、他の人たちと全く違う扱いをされることはない。

昔タイではオネエだらけの男子バレーチームがあり、彼等も男子として普通に試合に参加したという例がある。化粧をしていようが髪の毛を伸ばしていようが男子である以上男子としての参加は許可されているのだ。これのどこが差別なのだろうか?

TRAは女性自認男子が女子トイレや更衣室に入れないのは差別だという。だが、黒人と白人の分離と違って、男子トイレや更衣室が女性のそれより劣るというわけでもなければ数が足りないというわけでもない。特に女性自認男性が男子施設で危険にさらされるという根拠もない。しかも、多くの施設ではトランスジェンダーに気を使ってユニセックスの個室があったり、誰でもトイレを増設したりしている。こんなに色々と気を使ってもらえる差別があるだろうか?

異性を自認する人に許されていないのは、自分の身体と違う性別専用の施設や活動に参加することだけだ。その程度のことは異性を自認するという異常な生き方を選んだ以上、本人が責任を持つべきだと思うが、どうだろうか?


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