フェミニストマガジン『Ms.』が見せたくない広告

私はこの間からアメリカのフェミニスト運動が左翼運動家にのっとられ、女性人権や男女平等の促進よりも左翼政治促進が優先されているという話をしてきたが、今回それを示す典型的な出来事が起きた。(Hat tip Power Line)
アメリカユダヤ議会(The American Jewish Congress、AJC)がイスラエルにおける女性の地位について、Ms.Magazine(ミズマガジン)に広告掲載を依頼した。この広告はイスラエルの外相Tzipi Livni女史、最高裁裁判所長Dorit Beinish女史、そしてイスラエル議会(the Knesset)の議長Dalia Itzik女史の三人の女性の写真の下に「これがイスラエルだ」とか書かれているものだ。ミズマガジンは昨日AJCの依頼を断った。(広告の写真はこちら

「ほかにどのような結論に達することができたでしょうか」とAJC会長のリチャード・ゴードン氏、「ミズマガジンの出版社もミズマガジンのかなり多くの読者もイスラエルを嫌うあまり、イスラエルどのような良い広告もみたくないと解釈する他に。」

AJCの女性支部長(Director of AJCongress’ Commission for Women’s Empowerment)Harriet Kurlander女史が広告掲載を依頼したところ、女史は出版社からこの広告は「火の嵐を巻き起こす」といわれた。そしてこの主題には「強い意見が存在する」といわれたという。この主題とはつまりイスラエルについて何か良いことを言ってもいいかどうかという意味と思われる。ミズマガジンのエレノア・スミール女史は受取証に署名をした写真を受け取ったかどうかも、ゴードン氏の一週間にわたる度重なる電話連絡にもまったく応答していない。

ミズマガジンの代表者スージー・ギリガン女史は、ミズマガジンは「女性の権威拡大や生殖の自由についての広告なら大歓迎するが、これだけはできない」としたが、「これ」がなにをさすのかの説明はしていない。
ミズマガジンといえばジェンダーフェミニストの代表のようなものだが、それでも女性の地位向上もイスラエルの場合は認めないということらしい。最近のアメリカ左翼はあからさまに反ユダヤ教意識をあらわすようになったが、左翼フェミニストも左翼意識がフェミニズムを先行するという典型例である。


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ジェンダーフェミニストの見分け方

アップデートあり、下記参照。
先日から続いているフェミニズムに関する討論で、macskaさん(ペンネームは小山エミ)はかなりお疲れのようなので彼女の最新の反論を取り上げながら、ジェンダー及びエクイティフェミニズムについて最終的にまとめてみたいと思う。その後でmacskaさんが犯した間違いについて指摘してただしておきたい。


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エクイティーフェミニストからジェンダーフェミニストへ

先ず最初に言っておくが、私の先のブログエントリー、ジェンダーフリー、左翼が幅を効かす女性運動はmacskaさんへの個人的な攻撃ではない。私が攻撃したのはアメリカ及び日本の女性運動を乗っ取った、もしくは乗っ取ろうとしている左翼連中なのである。
しかしmacskaさんは私の意見に関して反論をなさっておいでなので、礼儀としてこちらでも誤解のないよう説明をしておくべきだろう。


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ジェンダーフリー、左翼が幅を効かす女性運動

ちょっと前に私は『ジェンダーフリーという神話』というエントリーを書いたが、この時、私は日本語でいうところのジェンダーフリーという言葉の意味をあまりきちんと理解しておらず、ウィキペディアで検索した定義をそのまま紹介して、どうやら私が理解しているところのジェンダーフェミニズムのようなものだろうと書いた。

「ラディカル・フェミニズム」においては、「ジェンダー」は、男性と女性を平等で相互補完的に位置づけているものではなく、「男が上で女は下」「男が支配し女が従う」といった、一方的な支配関係として機能している、と捉えている。「ジェンダー」は男女の支配従属の関係を維持するための装置であり、また、ジェンダーを根底から規定し、女性を差別的状況におく社会的仕組みの中心をなすのが、性別役割分業であるとしている。

すなわち、ジェンダーフリー運動における「ジェンダー」は、中立的な概念・用語ではなく、性別役割分業を階級構造であると見なし、また、これを解消すべきという意図を持った政治的な概念・用語となっている。

このジェンダーフェミニズムという言葉はアメリカの哲学者クリスティナ・ホフ・ソマーズ女史(Christina Hoff Sommers)がその著書Who Stole Feminism(誰がフェミニズムを乗っ取ったのか)で紹介した造語である。それについて日本語のウィキは下記のように説明している。

ホフ・ソマーズは、この用語を、現代の性役割を批判し、全廃することを望むたぐいのフェミニズムを説明するために使っており、これが、現代のフェミニスト理論の多くの本質的な特徴であると主張する。その代わりにホフ・ソマーズが好むのがエクイティ・フェミニズム (これも同書でジェンダー・フェミニズムと対立するものとして造られた用語)で、その目標は、女性と男性の完全な法的平等および機会均等の確立である。ホフ・ソマーズは、彼女が「ジェンダー・フェミニスト」と呼ぶフェミニストたちが、女性に対する優遇措置を支持し、女性を犠牲者として描くのに対し、エクイティ・フェミニズムは、フェミニズムに存続可能なもう一つの形を提供するのだと主張し、異常なほど女性中心的かつ男性差別的な、現代のアカデミックな中流階級のフェミニスト運動を批判するために、この用語を使っている。

(注)エクイティ (equity) は「公正、公平」という意味を持つ英語。

正直な話、私はソマーズ女史の”Who Stole…”は10年くらい前に読んでいたが、ジェンダーとエクイティフェミニズムという言葉を最初に使ったのがソマーズ女史であることはすっかり忘れていた。それに加えてエクイティをクオリティなどと間違って覚えていてそれをそのままブログエントリーに書いてしまい大恥をかいた。(笑)
幸いなことに私の間違いを親切に指摘して下さった*minx* [macska dot org in exile]というブログがある。このブログ経営者のmasckaさんという人は、そのブログの内容を読む限り、オレゴン州のポートランド在住で、女性学(特に性に関する)専門の教授らしい。アメリカ各地の大学で講演などを活発に行っている人のようだ。
しかしアメリカのフェミニストを見慣れているカカシからみるとmasckaさんは典型的なアメリカの左翼系(多分共産主義者)レズビアンフェミニストに見える。いやいや彼女が同性愛者だという言っているのではない。私がこれまでに遭遇したそういう部類の人に似ている、といっているだけだ。masckaさん自身は自分に張られた左翼というレッテルが気に入らないらしいが、左翼が自分が左翼であることを認めたがらないのは何も今始まったことではない。
アメリカのフェミニズムはもうずいぶん昔に共産主義の一角であるマルクス主義者に乗っ取られてしまった。ホフ・ソマーズ女史がいうところのジェンダーフェミニズムの支持者はすべて左翼だといって間違いない。私がmasckaさんもその部類だろうと判断するのには根拠がある。


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米フェミニストの偽善を暴いたモハメッドという熊のぬいぐるみ

最近イスラム圏の二つの国で女性を虐待する二つの事件が起きた。そのひとつはスーダンで小学校の教師をしていたイギリス人女性が生徒たちがマスコットにしているぬいぐるみの熊に「モハメッド」という名前をつけることを許可したことが、イスラム教を冒涜するとして15日間の禁固刑を受けたこと。そしてもうひとつはサウジアラビアで集団強姦された女性が強姦された際、親族でない男性と外出していたという理由で反対にむち打ちの刑にさらされることになったという事件だ。
まずはスーダンのイギリス人女性教師の事件

ハルツーム(CNN) スーダンの学校での授業中、ぬいぐるみのクマにイスラム教の預言者ムハンマドの名を付けたとして有罪判決を受け、バシル大統領から恩赦を与えられた英国人教師ジリアン・ギボンズさん(54)が、スーダンを出国した。英外務省関係者が3日明らかにした。

ギボンズさんはスーダンを訪問した英上院のイスラム系議員を通じて声明を発表し、「わたしはイスラム教を尊重しており、他人を傷つける意図はなかった」と述べ、自身の行動が苦痛を与えたことについて謝罪を表明した。
ギボンズさんは裁判所から国外退去を命じられた数時間後、旅客機でスーダンを離れた。ドバイ経由でロンドンに向かっており、4日未明にヒースロー空港に到着する予定。空港でマスコミ向けに声明を発表するとみられている。

この記事には詳細が述べられていないが、スーダン政府の15日禁固刑に不満をもったスダーン市民たちギボンズさんの処刑を要求して町で暴力的なデモンストレーションを行っていた。スダーン政府がギボンズさんを国外退去したのも、イギリス政府への遠慮と国内のイスラム市民への配慮との間をとった苦肉の策だったといえるだろう。
そして二つ目のサウジアラビアの事件

サウジアラビアの裁判所はこのほど、集団強姦罪で有罪とされた被告らの上訴審で、被害者の女性側の主張を受け入れて被告らの刑を重くする一方、女性の刑も加重する判決を言い渡した。女性の弁護士がCNNに語った。
集団暴行を受けた女性(19)は昨年の裁判で、親族ではない男性と会ったとして、むち打ち90回の刑を言い渡された。それが、14日の上訴審判決では、6カ月の服役とむち打ち200回の刑に加重されたという。
女性と友人男性を拉致・暴行した7被告に対しては、裁判所が昨年、10カ月〜5年の服役刑を宣告。女性側は死刑が妥当として、この判決への不服を表明していた。上訴審では、7被告に2年〜9年の服役刑が言い渡されたという。
女性の弁護士は「被告だけでなく、被害者の刑まで変えられたことに衝撃を受けている」と話している。裁判所はこの弁護士資格を取り消し、司法省の調べに応じるよう命じたという。
英字紙アラブ・ニューズは情報筋の話として、女性側がメディアを通じて裁判所に影響を与えようとしたことが、刑の加重につながったと伝えた。

カカシがイスラム教が嫌いな一番の理由が女性虐待の方針だ。これは単に女性蔑視などという概念では片付けられない。強姦の被害者が辱めをうけて世間に顔向け出来ないと感じるというのならまだ理解できるが、裁判所が被害者を罰するなど言語道断だ。これでは強姦の被害者が訴え出るなどということは絶対に出来なくなる。本来ならば親族の男性に復讐をしてもらいたいところだが、イスラム社会ではやたらに被害者が親族に訴えようものなら、親族を辱めたといって反対に実の兄弟に殺されかねない。要するに女は男の冒涜に黙って耐えよというのがイスラム教の教えなのだろうか?
さて、このような男尊女卑の裁判に対してアメリカではなにかと女性の人権問題で口うるさいフェミニストたちはどれほどの抗議をしているかというと、これが完全なる沈黙を守っている。
元全国女性協会(National Organization of Women, NOW)のテキサス支部長だった、タミー・ブルースがこのアメリカのフェミニストたちの偽善について書いている。(私の記憶が正しければ、先の大統領ビル・クリントンのセクハラ事件を巡ってタミー・ブルースはNOWがクリントンを批判するどころか、クリントンを弁護し、かえって被害者を攻める姿勢をとったことでNOWを辞任した。)

どうやら(スダーンでは)かわいい熊をモハメッドと名付けるのは予言者への冒涜だが、モハメッドと名乗る男が大量殺人を犯すのはイスラムへの冒涜にならないらしい。

少なくとも過去14年間にわたって、特に1993年にオサマ・ビン・ラデンが西洋文化に宣戦布告をして以来、私たちはイスラム原理教の狂気に直面してきた。そして同時に、いかにアメリカの左翼が臆病かということが暴露された。 その通り、ぬいぐるみの熊をもってして敵の精神異常性に焦点が当てられたと同時に、(アメリカの)フェミニストのだらしない実態が明らかにされたのだ。
国際社会のほとんどからギボンズへの仕打ちに適切な怒りが向けられた、ただしアメリカのフェミニストは例外だ。イギリス国内の数々のイスラム教団体がこの判決を批判した。ギブソン先生のクラスで人気者の男の子ですら先生の弁護に出て、熊は自分の名前からつけたと説明している。
しかし、フォックスニュースからコメントを求められたNOWの代表者は「このことについて見解を述べるつもりはない」と答えている。
これほどアメリカの左翼は堕落してしまったのだ。スダーンの幼いモスリムの男の子のほうがワシントンにいる「女性人権の代弁者」と自称する女性集団よりもよっぽども攻撃を受けた女性を守ろうという勇気と信念を持っている。
もう何年もアメリカのフェミニストの体制は便宜上フェミニストを名乗って民主党左翼のサクラと成り果てていることはあきらかだった。NOWやエレノア・スミールのフェミニストマジョリティーなどというグループは過去五年間に渡るイスラム教テロリストの女性への暴力に完全沈黙を守ってきた。女性問題は彼女たちにとって政治的勢力を得るためにがなり立てる便利なスローガンに過ぎない。
彼女らの悪意に満ちた沈黙はギボンズさんの事件に留まらない。サウジアラビアでは集団強姦された犠牲者が200回のむち打ちと6か月の禁固刑という判決を受けている。なぜかといえば、それは彼女が(強姦された時)親族でない男性と外出というシャリア法に違反する行為をとっていたからだ。彼女が生意気にも控訴したことで彼女の刑はより加算されたのだ。
このような奇怪な暴行にNOWやフェミニストマジョリティーの反応はどうかといえば、ジリアン・ギボンズの時と同様、全く同じく無反応。何故ならば(神よ禁めたまえ)戦うに値する邪悪な敵が存在するなどと認めるわけにはいかないからだ。そして(神よ禁めたまえ)一人の女性のためにアメリカが邪悪な帝国主義ではないかもしれないなど人々に気が付かれては困るからだ。

これは決してフェミニスト団体だけのことではないが、1960年代に創設されたアメリカの人権擁護市民団体はことごとく共産主義者や左翼主義者に乗っ取られてしまった。いまや彼等は人権擁護も女性問題も人種問題も興味がない。あるのはどれだけこれらの問題を悪用して自分達の政治的勢力を得られるかということだけだ。彼等は常に自分達こそが弱いものの味方だと言って、平等と公正を求める保守派を冷酷だとか男尊女卑主義だの人種差別者だのといって批判してきた。
だが、彼等こそが体制のみを重んじ、イスラム圏で野蛮人に教養をつけようと出かけていった善良なギボンズおなご先生や、か弱い19歳の乙女が冒涜されたことなど、自分らの政治勢力獲得に役に立たないものはことごとく無視するか邪魔になるものは敵視するかしかしない冷酷な人間どもなのだ。
タミー・ブルースはここ数年に渡ってアフガニスタンやイラクで婦女子虐待の悪を駆除するため感謝もされず認識もされずにひたすら戦ってきたのはNOWやリベラルや左翼が忌み嫌うアメリカ軍隊そのものだという。アメリカの海兵隊が自称フェミニストから命令を受けていたなら、彼等がこれまでに解放した何百万という女性たちがいまでも奴隷生活をしいられていたことだろうとタミー。
まさしくその通りだ。本来ならば女性虐待のイスラム教過激派の冒涜を真っ先に糾弾し、その過激派の悪と戦うブッシュ政権を率先して支持すべきアメリカのフェミニストたち。しかし彼女等の本性は女性人権擁護でもなんでもない。彼女たちの本来の目的は共産主義の促進だ。女性人権問題など単なる道具にすぎないのである。
無邪気なこどもたちのマスコット熊のぬいぐるみがアメリカフェミニストたちの偽善を暴くことになったのだ。


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ジェンダーフリーという神話

アップデート:*エントリーの内容に間違いがあったので訂正しました。*
瀬戸さんのブログを読んでいたら、瀬戸さんがジェンダーフリーという言葉を使っているのが目に付いた。実を言うと、私はェジェンダーーフリーという言葉を今まであまりきいたことがなかった。アメリカのフェミニズム、つまり女性運動は一般にジェンダー(性別)フェミニズムと*エクゥイティ(平等)*フェミニズムに分かれるが、ジェンダーフリーというのはその言葉からして性別を完全に無視したものという印象を受ける。フリーという英語はこの場合「~ぬき」という意味になるからだ。だから多分アメリカでいうところのジェンダーフェミニズムと共通するものがあるのだろうという憶測はできる。

ジェンダーフリーは主として「ラディカル・フェミニズム」の一環として、あるいはその考え方を中心にした文脈で理論、運動が展開されたため、この運動において用いられる「ジェンダー」の概念は、人文系の学問において一般的に用いられる中立的・客観的な意味での「社会的文化的性別」という概念とは異なっている。

「ラディカル・フェミニズム」においては、「ジェンダー」は、男性と女性を平等で相互補完的に位置づけているものではなく、「男が上で女は下」「男が支配し女が従う」といった、一方的な支配関係として機能している、と捉えている。「ジェンダー」は男女の支配従属の関係を維持するための装置であり、また、ジェンダーを根底から規定し、女性を差別的状況におく社会的仕組みの中心をなすのが、性別役割分業であるとしている。
すなわち、ジェンダーフリー運動における「ジェンダー」は、中立的な概念・用語ではなく、性別役割分業を階級構造であると見なし、また、これを解消すべきという意図を持った政治的な概念・用語となっている。
また、この運動においては、「社会に男女の区別や性差の意識があるために役割分業も発生するから、男女を分ける制度を失くしてしまおう」という考え方のもとに、男女の差異そのものを否定・相対化してしまおうという主張を展開する。

上記の日本語版ウィキの説明を読んでいると、かなりアメリカのジェンダーフェミニズムの悪影響を得ている概念だということがわかる。ではここでジェンダー・フェミニズムとエクィティフェミニズムの違いについて説明しておかなければならないだろう。
先ず私が信じているエウィティフェミニズムだが、これは男女の性別にかかわりなく才能によって個人は判断されるべきという考えだ。つまり、ある会社がセールスマンを募集していたとして、その採用の判断は応募者の性別ではなく、個々の経歴とか才能で判断されるべきというもの。だから私は消防署の隊員であろうと、警察官であろうと、軍隊の戦闘員であろうと、もしある女性が男性と同じように重たいものを持ったり、長距離を走ったり、敵と取っ組み合いをするだけの能力があるのであれば、女性だというだけで特定の職種に応募する資格すらないという考え方には反対なのである。
しかし、これは決してどのような職種にも女性が雇われなければならないという意味でもなければ、女性が男性と同じ率で昇格させられなければならないという意味でもない。たとえば単純な例として、女性は一般的に男性に筋力では劣る。これはそのように作られているのだから仕方ない。無論これは一般にという意味であり、個人的には一般の男性よりずっと力持ちの女性は存在する。しかしその数はまれである。必然的に筋力を必要とする職種では必要な条件に当てはまる女性は男性にくらべて少なくなる。時には全くいないということもあるだろう。しかしこれは単純に必要な筋力を持ち合わせている人間が女性にいなければしかたないことであり、男女差別ではない。
これに引き換えジェンダーフェミニズム、いわゆるジェンダーフリーの思想はこうした男女の違いを完全に無視して、あたかも男女はなにもかもが同じであるかのように扱うというものだ。これは一見公平なようで非常に不公平な(特に女性に対して)思想だと私はおもう。
私の職種はエンジニアリング、日本語でいえば工学だが、こういう職種に女性は少ない。うちの大学などは女性の生徒への考慮はゼロで、工学部の校舎には1990年代まで女子トイレがなかったくらいだ。(笑) しかしこうした職種を選ぶ女性は別にジェンダーフリーを望んでいるわけではない。頭脳では男性に負けない工学士でも、筋力では男性に劣る。そういう女性に男性と同じ重たい荷物を持たせたり、男性でも耐え難い肉体労働の勤務に女性を配置するのは、かえって不公平だと私はおもう。か弱い女性に肉体労働をさせることはかえって女性への差別だと私は考えるからだ。
無論肉体労働に耐えられるタフな女性が存在するのであれば、存分にやってもらえばそれでいい。私の祖母などは重たい荷物を背中にしょって売りまわる商人だった。今はとんと見かけなくなったが、昔は背中に自分の体重以上の荷物かごをしょってあちこち売り歩く女性を見かけるのは極普通だった。その血を引いてる私は普通の女性よりは力持ちだと自負している。しかし、私は個人的に重たいものは筋力のある男性に持ってもらうようにしている。自分で持てる荷物でも必ず男性の助けを求めることにしている。(笑)
男女差別というのは、個人の能力を無視して性別だけで判断するというもので、男女の違いを意識してそれなりに反応することは性差別ではない。私はジェンダーフリーという考え方はか弱い女性に男性の仕事を無理強いする女性にとって非常に迷惑な考え方だと思うし、男性が本能的に持っているか弱い女性を守りたいという意識に反する悪質な考え方だと思う。だから私は女性の立場からジェンダーフリーは女性には害あって益なしと考えている。
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アップデート:2007年1月4日
エントリーのなかで私はアメリカのフェミニズムはジェンダーとウォリティーに分けられると書いたが、これはジェンダーとエクゥイティの間違いだったので訂正した。この間違いを指摘してくださったのは*minx* [macska dot org in exile]というブログ。

アメリカのフェミニズムを「ジェンダーフェミニズム」と「クォリティフェミニズム」に分けるなんて話は聞いたことがない、一体どこから出て来た話なんだろうと言っていたのだけれど、この種の議論を知っている人にとってソースははっきりしている。保守派哲学者クリスティーナ・ホフ・ソマーズが代表作『Who Stole Feminism? How Women Have Betrayed Women』(「デビューボ」でおなじみのエドワーズ博美氏のネタ元)で主張している「ジェンダーフェミニズム」と「エクイティフェミニズム equity feminism」を間違って覚えているだけ。そもそもソマーズの分類自体一般的なものではない(スティーブン・ピンカーが紹介して知られた程度で、一般には使われない)のに、「アメリカでは一般にこうである」とまで言って間違ってるんだから、どーしよーもない。

私はこの言葉使いが一般的だと書いたのではなく、一般にこのように分けることができるという分析をしたまで。言葉を間違えたのは私の落ち度だが、もう少し気をつけて読んでほしいものだ。
ところでこのブロガーはカカシのことを「アメリカ保守の真似をする在米日本人ブロガー」とおっしゃているが、私はアメリカの保守派であり真似をしてるわけではないので、あしからず。


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