友人のLが入院したと言う話を北カリフォルニアに住む共通の友達Dに連絡をしたことがきっかけで昨晩遅く久しぶりの長電話をした。Lの事情を一通り説明してから、そういえば最後に私たちが会ったのは4~5年前だったねという話になり、色々と昔話に花がさいた。友人のLとDとミスター苺を含めた仲間たちと私が出会ったのはなんと1979年のことである。

私とミスター苺が出会ったのがお互いに10代だったので、ハイスクールスィートハートだと誤解する人が多いが実は全くそういうわけではない。

私がアメリカに初めて来たのは1979年(昭和53年)のことである。私が19歳の春であった。当時私はウエストウッドというUCLA(カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校)のある町でホームステイをしていた。歩いていける距離に大学があったので、そこの付属の英語学校に通っていたのだ。私は大学の学生ではなかったが、学食では「Student? (学生?)」と聞かれて「イエ~ス!」と偽って学割を使った食事をしたりしていた。キャンパス内は学生でなくても入れたので、あたかも留学生であるかのように歩き回っているうちにとある男子学生と知り合いになり、彼が所属してた大学のサークルに誘われた。

学生でもないのにサークル活動に参加したのがきっかけでミスター苺やLやDや他の仲間と出会った。よく日本人留学生は日本人や他の外国人留学生とばかり付き合って地元のアメリカ人とは友達になれないという話を聞くが、私の場合はその反対で、アメリカで知り合った人たちは英語学校で知り合いになった2~3人の日本人以外はすべてアメリカ人だった。それというのも、初級クラスに集まる外国人ばかりの英語学校には早々に見切りを付けてサンタモニカビーチで甲羅干しばかりしていたからなのかもしれない。

ミスター苺とLとDはサークルの中でも凄く仲が良かった。私はこのサークル仲間のパーティにも参加したし、一緒に当時話題だったスターウォーズを含め色々な映画鑑賞やSFコンベンションにも行った。Lと私は同い年でDとミスター苺はまだ18歳だった。Lは卒業後ロサンゼルスの法律学校へ進み、ミスター苺とDは北部の大学院へ進み後に海軍に入隊してしまった。そして私は日本に帰国。

というわけで我々の交際は数年間途絶えたのだが後に私は再び渡米し、その間にも電話や手紙(手紙!)などで交流は続いていた。大学のサークル仲間たちはそれぞれ大学卒業後も交際は続いており、Dが軍隊の出動から帰国した際にはダウンタウンのユニオン駅にみんなで迎えに行った覚えがある。サークル仲間の誰かの結婚式にはミスター苺が白の海軍制服で出席した。制服姿のミスター苺を見た時は馬子にも衣裳とは良く言ったものだなと感心したものである。

我々が出会って10年が経った頃、Lは法律事務所勤め、海軍を除隊したDはカリフォルニア北部の大学で数学の教師、除隊後ロサンジェルスに戻ったミスター苺は会社員となっていた。私は長年勤めていた日系企業からリストラに遭い今後どうしようかと迷っていた時期だった。近所住まいになったLとミスター苺と私はしょっちゅう食事に行ったり映画を観たりハイキングをしたりしていた。Lとミスター苺は週末にラケットボールをしていた。

そのうち私とミスター苺は男女交際をするようになり、なんと出会ってから20年後の1999年の春に私たちは結婚した。

Lは付き合っていた女性が脳卒中で倒れ介護施設くらしになった彼女の最後の数年を献身的にすごしたが、その後はずっと独身生活を続けている。DはDで除隊後にゲイだとカムアウト(清潔で痩身で独身と三拍子そろった彼がゲイなのはみんな知っていた)しその後もずっと独身だ。

ミスター苺と私が結婚してからは、毎年冬になるとサンフランシスコで休暇を過ごし、必ず一日はSF郊外に住むDを訪ねてイングリッシュパブでサイダーを飲むなどして過ごしていた。コロナ禍になる直前の冬、ずっとDに会っていなかったLを誘って三人でSF旅行をし久しぶりの再会を果たした。今にしてみれば本当にあの時三人で一緒にSF旅行をしておいて良かったと思う。あの後Lの病状は悪化し、とても旅行など出来る状況ではなくなったからだ。

そんなこんなで昔話は尽きなかったが、二時間の長電話の後名残を惜しみながら電話を切った。


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