ずっと観たいと思っていた1991年公開の映画、My Own Private Idaho(マイプライベートアイダホ)を昨晩観た。私は映画の概要についてリバー・フェニックスとキアヌ・リーブス演じる二人の同性愛カップルがフェニックスの演じるマイクの母親を探しながらアメリカ中を旅してまわる話だと聞いていた。私は昔萩尾望都や武宮恵子の少年愛漫画の延長で、若く美しい少年たちの純愛物語は好きだった。当時s素晴らしく美しかったリバーとキアヌのコンビなら、さぞかし美しい映画だろうからいつか観てみたいと思っていた。それともうひとつ興味をそそられたのは、ミスター苺から、この映画には終わりの方でシェークスピアのヘンリー四世のシーンが突然出てくると聞いていたことだ。二人の少年の冒険の旅とヘンリー四世がどう関係があるのだろう。これは非常に興味深い映画だと期待していた。

しかし実際に観てみると、この映画は二人の美しい少年たちの純愛物語などというものでは全くなかった。現実はもっと汚らしく厳しいものだった。この先は筋を負いながら感想を述べるので、まだ観てない人は観てからお読みになることをお薦めする。

以下ネタバレあり

映画の冒頭で、マイクはアイダホのまっ平な高原を一直線に進むハイウェイの道路上に立っている。もっているのはバックパックだけ。そしてマイクは何かの発作に襲われバックパックの上に倒れこむ。

そして場面はポートランドへ移る。主役のマイク(フェニックス)は街頭に立つ男娼である。ストレスが貯まるとその場で寝てしまうという持病の持主。アイダホの田舎で貧乏で複雑な家庭に育ち、15~6歳の頃に家出をして今ではオレゴン州ポートランド市とワシントン州のシアトルを行ったり来たりして、街頭に立って売春や盗みなどをしてほぼホームレスの生活をしている。彼の男娼仲間で親友のスコット(リーブス)は、実はシアトル市長の息子で金持ちのボンボン。にもかかわらず父親に反抗してか、丘の上の豪邸から下町の街頭へ降りて来てふしだらな生活を送っている。

この物語の主人公は無論マイクなのだが、この映画はマイクとスコットという二人の別々の物語が描かれている。この映画は全く異なる二人が一時的に接点を持った時が舞台となっているのだ。だからこの二人がどれだけ親しい間柄であろうとそれが長くは続かないであろうことは、感情に満ちたマイクのふるまいとは対照的にスコットのやたらに冷静な態度に現れている。スコットは突然眠気に襲われて意識を失うマイクのことを常に優しく面倒を診ているのだが、それは愛情というものではない気がする。

この二人には他にも何人か男娼仲間がおり、中年男のボブ(ウィリアム・リチャード)が少年たちのリーダー格となり、大きな空き屋敷にたむろしている。この状況はディケンズの小説オリバーに出てくるファニガンと盗み集団の少年たちを思い出させる。ボブは明らかに少年たちを食い物にしているのだが、少年たちは何故か彼を慕っている。特にスコットとボブの間に肉体関係があったことは確かで、ボブがスコットに男娼としての手ほどきをしたのかもしれない。

スコットの家が金持ちであることは皆知っており、特にボブはいずれスコットが21歳になり自分の金を自由に使えるようになったら、今まで世話をしてきた自分に恩義を覚えたスコットがなにかしら面倒みてくれるものと期待している。しかしスコットが同じ気持ちでないことはあきらかだった。

「俺は21歳になったらこの生活からは立ち去るよ。俺の母さんも父さんも俺の極端な変化に驚くだろう。二人はドラ息子だと思ってた俺が実はよい息子だったのだと知って感心するだろう。すべての悪行が死んだように捨て去られるのだ。俺は彼等がもっとも意外な時に変わるんだよ。」

スコットはそう言ってボブに警告する。しかしボブはこの時点ではスコットの言葉を信じない。きっと何か仕事を世話してくれると独り言を言うのだ。この場面の二人のやり取りは非常に舞台的でシェークスピア戯曲の一場面を思い起こさせる。実は私は昔からキアヌ・リーブスの演技は平坦で起伏がないと思っていたのだが、実は全くそうではなく、不自然に大袈裟なのだということに気付いた。しかしそれは彼が演技力に欠けるからではなく、この大袈裟な演技は明らかにそういう演出になっているのだ。この芝居がかった大袈裟な演技は後々の二人の関係を示唆する伏線となる。

さて肝心のマイクなのだが、何かしら将来の計画を持っているらしいスコットに比べ、マイクにはまるで目標というものがない。映画は男娼という底辺に生きる若者たちが、どんな荒んだ生活をしているのか、その毎日を淡々と描く。少年たちは若い男子特有の美しさを持っているのだが、その若さと美しさを売春という生き方で完全に浪費してしまっている。この子たちには希望が見いだせない。この少年たちの行きつく先がぶよぶよに太って子供たちを手下にして盗みを働いたり物乞いしているボブなのだと思うと、なんと空しい人生なのだろう。

しかしそんなマイクにも、幼い頃に生き別れた母親にもう一度会いたいという願いがあった。そこでマイクはスコットと一緒にアイダホの兄リチャード(ジェームス・ルソ)の元へ向かう。途中で乗っていたバイクが故障し、二人は野宿をするが、焚火の前でマイクはスコットに友達以上の関係になりたいと求愛する。スコットは男娼をしているにもかかわらず男同士の恋愛には興味がないことをマイクに告げる。スコットはマイクに同情して彼を抱擁するが、マイクの求愛を受け入れたわけではない。ここでもスコットの今の生活に対する冷たさが感じられる。

兄の元で話をするうちに、実は兄のリチャードが自分の父親でもあり、マイクはそのことを知っていると兄に告げる。兄は仕方なく母親がラスベガスかどこかの高級ホテルでメイドをしていた時に送ってきた絵葉書を見せる。それを手がかりに二人はホテルへ向かうが、すでに一年前にホテル辞めてイタリアに渡ったことを知る。

ここで二人は以前にシアトルで出会ったゲイのドイツ人男性ハンス(ウド・クラ―)と再会する。この男性の演技も非常に興味深いのだが、映画ではところどころに男娼を買う中年男たちの変態的なフェティッシュを混ぜて来る。例えば映画の最初の方でマイクを自分の家に連れて行ってメイドの恰好をさせて流しの掃除をさせた男とか、ホテルの置きランプを持ちながら踊るこのドイツ人男性とか。こういう描写があるので、男娼の生活を描いているにもかかわらず、さほど悲惨さを感じない。

ハンスにバイクを売り、そのお金で二人はイタリアへ行く。しかし母が居たというイタリアの田舎家に行ってみると、そこにいた若い女性カルミラ(キアラ・カゼッリ)は、彼女はもうだいぶ前にアメリカに帰ったと告げる。この家に数日間世話になっているうちにスコットはカルミラと恋仲になってしまい、マイクのことはあっさり捨てる。スコットはマイクに帰りの航空券といくらかの現金を渡し、自分はカルミラと🚖タクシーに乗って旅立ってしまう。

ローマにもどったマイクはそこでまたイタリア人相手に売春をするが、そのうにポートランドに戻って再びボブらと一緒に路上生活を始める。そんなある日、高級レストランに高級車で乗り付けた立派なスーツを着たスコットと見違えるほど洗練されたカルミラと取り巻きの姿をマイクたちは見かける。

ボブはこの時を待っていたとばかりに場違いな高級レストランへと入っていく。なかには唖然としてスコットを見つめるハンスの姿もあった。ボブはスコットに近づくと、「俺だよ、ボブだよ、スコット!」と親し気に声をかけるが、スコットは振り向きもせずに後ろを向いたままこんなことを言う。

「老人よ、私はあなたを知らない。放っておいてくれませんか。I don’t know you old man. Please leave me alone. 」

なるほどこれがミスター苺の言っていたヘンリー四世の。

「老人よ。余はそなたを知らぬ。I know thee not, old man.」

のセリフだなと察しがついた。

ここでのスコットのセリフはやはり非常に芝居がかっている。

「老人よ、私はあなたを知らない。放っておいてくれませんか。私が若く、あなたが私の路上の先生で私の悪い行動の先導者だった頃から、私は変わるつもりだった。私のサイケデリックな元先生、私にはあなたから学ぶ必要があった時があった。亡くなった父よりあなたを愛しているが、私はあなたに背を向けねばならない。背を向けた以上、元に戻ることがあるまで、私の傍に近づかないでくれ」

I don’t know you old man. Please leave me alone. When I was young and you were my street touter and instigator for my bad behavior, I was planning a change. There was a time when I had a need to learn from you, my former psychedelic teacher.Although I love you dearly more than my dead father, I have to turn away.Now that I have until I change back don’t come near me. “

さてここでヘンリー四世とこの映画との共通点を説明する必要があるだろう。これはシェークスピアの有名な戯曲の一つだ。イギリスの国王ヘンリー四世には悩みがあった。お世継ぎのハル王子は皇太子と思えないほどの放蕩息子でごろつきと評判の悪い中年太りのフォルスタッフとその仲間たちと飲んだくれの生活を送っていた。

中間は色々あるが、それは飛ばして、ハル王子はフォルスタッフとギャングたちと自堕落な暮らしをしていたとはいえ、いずれ父親の亡きあと自分が国王になるのだという自覚はあった。それでフォルスタッフが何と言おうと、自分が国王になった暁にはフォルスタッフを特別扱いするようなことはないと警告していた。

そしてついに父親が亡くなりハル王子はヘンリー五世となる。立派な王となったヘンリーの元に現れるのがフォルスタッフである。ここで「老人よ、余はそなたを知らぬ」というセリフでこのシーンが始まるのだ。

王となったヘンリーには責任もある。皇太子として好き勝手に暮らしていた頃の友人をそのまま傍においておくわけにはいかない。そんなことをしたら周りに示しがつかないからだ。

ハル王子とスコットの共通点は、二人とも自堕落な放蕩生活をしているときでさえも、実はその生活は自分の本来の姿ではないのだと知っていることだ。そしていつでも自分は好きな時にこの生活から立ち去ることが出来ることもしっている。そこで知り合ったひとたちと自分は住む世界が違う。だからいつか自分はこの生活ともこの愛すべき人びととも別れる時がくるのだと。

だからスコットは十分路上生活を楽しんでいるようであっても、路上の人びとと心底心を許す関係にはならなかったのだ。ストレートでありながら男性との性交渉をしても、それは本当の自分ではないと思っているからこそ平気な顔をしていられたわけだ。

だがマイクは違う。マイクは本気でスコットを愛していた。だから彼に捨てられたことはショックだった。だがだからと言ってマイクにはその後違った人生を歩む選択肢がない。一人旅をしていても、ハイウェイの真ん中で眠りこけてしまう。そんな彼にどんな未来があるのだろうか?

そして画面は冒頭のアイダホのハイウェイに戻る。意識を失っている五マイクの傍を一台の車が通りかかるが、車から出て来た男二人はマイクのバッグと靴を盗んでそのまま走り去ってしまう。そのまま置き去りにされるのかと思いきや、次にやってきた車の運転手は、意識のないマイクの体をひきずって車に乗せて走り去る。

意識のないマイクはどこへ連れていかれるのだろうか。


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