またセクハラの話題で恐縮だが、最近の日本のセクハラ騒ぎを見ているとセクハラよりも怖いなと思うことが多々ある。私は昔から思っていたのだが、日本と言う国は伝統を大事にしているようで実はそうではなく、何かの拍子にそれが悪いことだとなると180度の転回をあっと言う間にやってしまうという凄さがある。

ちょっと前にユーチューブで観た日本のバラエティー番組のなかで「今ならコンプライアンスにひっかかって出来ない場面」というコントを見せていた人が居た。それは1970年代の刑事ドラマ「太陽にほえろ」の一場面という設定で、外出から帰って来たジーパン刑事がお茶くみの女の子のスカートをめくったり、胸に触ったりしていた。

確かに今ならこんなことはセクハラとして職場では許されまじき行為である。それを言うなら当時でも、そのような行為は許されるべきではなかった。私自身も若い頃は、その程度のことは経験して嫌だったので、日本がそういう行為を容認しなくなったというのは良いことだと思う。

しかし、悪質なセクハラを容認しないということと、なんでもかんでもセクハラだと責め立てることとは違う。男性が女性の容姿を褒める行為や、男女を問わず結婚や出産を促す言葉まで、セクハラだのパワハラだのと言われたのでは、人々は怖くて同僚と口もきけない。そしてこういう行きすぎた取り締まりは本当に女性の地位向上につながっているのだろうか。

この間財務省の福田事務次長がセクハラの疑いをかけられて辞任に追い込まれるという事件があった。

単に嫌疑をかけられただけで、被害者とされる人が公式に被害届を出したわけでも訴訟を起こしたわけでもないのに福田次長が弁護の場すら与えられずに辞任に追い込まれたというのは非常に理不尽だ。

しかしこういうことが起きると男性は迂闊に女性と二人きりで食事に行ったり飲みにいったり出来なくなる。

これは決して日本だけではないが、ビジネスというのは職場だけのつながりでなく、社交の場での付き合いが大切な要因となることが多い。同僚や上司と部下が一緒に食事に行ったり飲みに行ったりして個人的に親しくなって信頼関係が生まれるとコネも生まれる。同業者が一緒にゴルフに行くなどはこの典型だ。上司が部下を誘って昼ご飯に出れば、職場では話せなかったような非公式な話をすることも出来る。男同士ならこれはごく普通に行われることだが、上司が異性の部下を簡単に誘えなくなるとこれは問題だ。

仕事に関する大事な情報が非公式の場で交換されることはよくあることだ。もしセクハラを恐れた男性上司が女性部下を非公式な社交の場に招かなくなれば、女性職員は多々の面で情報を取り逃がす。それに上司も人間だから気の許せる部下には企画を頼みやすいということもあり、社交の場で全く付き合いのない部下にはなかなか任せられないという状況も出てくるだろう。

そうなって損をするのは女性だ。

昔の女性が多少のセクハラには甘んじてきたのも、ちょっとしたことで苦情を言って「だから女に任せられない」と重要な仕事から外されるのを恐れたからだ。それに女性たちはそれなりに嫌らしい同僚や上司への対策も取っていた。単に泣き寝入りしていたわけではない。そうやって少しづつでも確実に女性の立場を向上させてきたのに、今フェミニストたちが一気に階段を駆け上って男性たちを蹴落とそうとする行為を見ると、これまで我慢して頑張って来た女性たちに対し非常に失礼だし、非常に迷惑だ。

今中高年でキャリアウーマンとして若い頃から頑張って来た女性たちは、決して男性を蹴落とそうとか男性を弾圧しようとか思って生きて来たわけではない。女性だからと馬鹿にされないように、人一倍頑張って自分の実力を証明してきた人々だ。彼女たちには若い馬鹿フェミによるセクハラ騒ぎは害あって益なしの雑音に過ぎない。


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