今を去ること10年前、私は同性婚は文明社会を滅ぼすというブログエントリーを書いた。今思うと私の予測はあまりにも甘かった。実際に同性婚が合法化されたアメリカでは私が憂いていた以上の恐ろしい状態が起きている。

私は、同性婚が実施されたら一夫多妻制や近親婚や少女妻などといった因習が舞い戻ってくるのではないかと懸念していた。一夫一婦制という文明社会の基盤を崩せば、結婚制度そのものが崩壊すると考えていたからだ。

しかし現実は私が懸念する以上の異常な状況を生み出した。

人間と言うものは常に異常な文化に興味を持ち魅力を感じるものなのだ。多分それは我々の遺伝子の中に組み込まれているものなのだろう。

異常であるものを求めること自体は悪いことではない。もし保守的な遺伝子のみが優勢であれば我々はいまだに洞穴に住む原始人でしかなかったであろう。それが文明人として進化したのは異常と思われる生活を誰かが欲したからだ。現存している洞穴のむこうに何かがあると求めた人間が居たからこそ現在の我々があるのだ。

しかし、問題なのは一つ異常とされていた行動や現象を通常であると認識するともっと異常な状況を通常として認めろという動きが出てくる。この異常な行為が単に個人の嗜好で済んでいればいいが、それが他人の人権を損ない危害を与えるようなものになってくると話は別だ。トランスジェンダー容認はまさにこれにあたる。

先日こともあろうに王道派の保守雑誌のナショナルレビューにおいてJ. J. McCullough(J.J.マクラフ)という人物が保守派は社会の秩序を守るためにもトランスジェンダーに関しては多少の妥協をすべきだというコラムを書いた。

マクラフ曰く、同性愛行為そのものが不道徳かどうかなどという議論はとうの昔に決着がつき、人々は同性愛者との共存に慣れて来た。同性婚すら合法となった現在、トランスジェンダーを奇妙な目で見たり気持ち悪がったりするのは時代おくれなのではないか、彼らの存在を認めて彼らの求める彼/彼女といった代名詞をつかってあげればいいではないか。その代り、リベラルの方も性は男女の二つしかないことを認め保守派にそれ以上のことを求めないようにするべき。

トランスジェンダーの人権や尊厳を損なうような行動は保守派はとるべきではないというマクラフの意見には同意するがだから相手の好きな代名詞を使うべきというのは理論の飛躍も甚だしい。

ジェームスがジェーンと呼ばれたいというなら、彼をジェーンを呼ぶこと自体は問題ではない。だが、男であるジェームスを彼女と呼ぶということは、私がジェームスを女と認めたことになる。言葉にはそれなりに意味があるのであり、事実と異なる言葉使いをすれば、私は事実を否定することになるのだ。他人に虚偽の事実を認めさせることのどこが妥協なのだろうか?

第一、例え保守派がトランスジェンダーを個人の好きな性別で呼んだとしてもリベラルがそれで満足すると思うのは甘すぎる。後退派左翼の運動はあたかもそこが出発点であるかのようにさらに異常で非常識な現実を認めさせようと激化するに違いないのだ。

男を女と認めさせれば、男が女子施設に入ることも認めなければならない。男が女子スポーツに参加することも認めなければならない。トランスジェンダーが好むのだから彼を彼女と呼んであげればいいではないかでは済まされないのだ。

自称保守派のマクラフがそんなことも解らないというのは悲しいものである。しかし保守派にはこういうふうに左翼に迎合する人間が少なからずいる。保守派はどっちかいうと礼儀正しくしていたい、相手には親切でいてあげたい、と思う人が多い。しかし秩序を守るということは事実を捻じ曲げて相手の言うなりになるという意味ではない。あきらかに間違っていることは間違っていると真実を言い続けなければ本当の秩序など保てないのだ。

我々は今までずっとLGBTの言いなりになってきた。今度という今度こそ、この戦いを諦めてはいけない。

 

 


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