2008年に性転換後に妊娠出産した男性として話題になったトーマス・ビーティー氏が、今度は離婚を巡って話題を起こしている。この話はカカシも2008年当時取り上げている。

ここ数日「男性が妊娠した、奇跡だ」という話題が持ち上がって大騒ぎになっていたので、いったい何のことなんだろうと不思議に思っていたら、何のことはない、性器整形手術とホルモン治療で外見が男に見えるようになったというだけの、生物学的には女性が妊娠したという話。奇跡でもなんでもないではないか。(略)私は性器整形をしただけで生物学的に全くなんの変化も遂げていない女性を「男性」と呼ぶのには非常な抵抗がある。見かけがどうあれ、彼女はいまでも女性なのだ。しかも、子供を生むという女性として最高の役割をあきらめていない人が自分を男だなど呼ぶのは矛盾も甚だしい

ビーティーは乳房摘出手術をし男性ホルモン治療を受けて多少あごひげが生えていたりもし外見は男に見えないくもない。だが、子供を生むために子宮は保存し、子宮摘出手術を受けて妊娠不可能だった「妻」に代わって、2008年の最初の出産に続いて人工授精で3人の子供を出産した。
しかし「結婚」9年後の今、ハワイで一緒になった二人の関係は破局。アリゾナで離婚訴訟を起こした。しかしアリゾナ法廷は、ビーティーは生物学的に女性であり、同性結婚を認めていないアリゾナ州においては同性結婚の離婚は認められないとしてビーティーの訴訟を棄却した。自分の子供達を私生児にしたくないと感じたビーティーは、アリゾナ法廷の裁断を不服として最高裁に訴えている。
ビーティーの場合、彼女は自分は女性だとは考えていないので、彼女の結婚は同性結婚だったという意識はないのだろう。しかし、いくらなんでも三人もの子供を生んだ女性を男性として扱えというのは理不尽な話だ。
同性カップルの結合を結婚という形で認めることになれば、必然的にビーティー氏のような異質な「結婚/離婚」についてまともに考えなければならなくなる。
さて、2008年当時の記事を読んでみると、

うっすらとあご髭を生やしたビーティーさんは、子供をもうけたいと思うのは性を超えた人としての欲求であり、当然自分にも血のつながった子供をもうける権利があると訴えた。

とある。だが、女性として生まれ、きちんと女性機能を持っている彼女にとって、子供を生みたいという欲求があるのは当然のことで、その同じ欲求が男性にもあるかなんてことは、生物学的に女性である彼女にわかるはずはない。彼女の子供を生みたいという強い欲求はそれは「性を超えたひととしての欲求」からではなく、単に彼女の女性としての母性本能からくるものではないのか。自分が女性であることを忌み嫌って乳房どころか健康な子宮もとってしまうというならまだ話はわかるが、女性と男性を決定的に分ける妊娠出産という欲望と機能を保った彼女が、自分は男性だと主張するのは矛盾に満ちている。
彼女自身の矛盾に満ちた自己の確立は彼女個人の問題であり我々には関係がない。だが、その矛盾を正当なものとして社会に認めろとなってくると話は別である。なぜ我々一般人が彼女の変質的な欲望につき合わなければならないのか。
問題なのは、同性婚という例外を社会が公式に認めた場合、別の形の結合も結婚として認めなければならないとなってくるのは自然の成り行きである。ひとつでも例外を認めれば他の例外も考慮しなければならなくなる。だが、そうやって例外をいくつも受け入れてしまえば、結婚制度そのものの価値が失われる。何でもありは何にもないのと同じだからである。
ビーティーのような判例が普通に議論されるようになるのも、同性結婚が真剣に吟味されることにより、いかに我々の社会が乱れて来ているかという証拠である。


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