”Colleges Celebrate Diversity With Separate ‘Commencements’人種別卒業式で多様性を祝うというニューヨークタイムスの見出しを観て、「これって皮肉で書いてるのかな?」と一瞬目を疑った。しかし内容を読む限りNYTはこれは良いことだと思っているらしい。「多様性」と「人種別」という言葉を同じ文章でこのように書けるところがさすが左翼の二重思考。
6月といえばアメリカは卒業シーズン。これまでも黒人学生だけの卒業式を行ってきた大学はあったにはあったが、今年に入って人種別卒業式を大々的に行う大学が一挙に増えた。この間紹介したエバーグリーン大学での黒人学生による白人排斥事件でもわかるように、最近なぜか黒人および有色人種による自発的な人種隔離が流行りだしている。これは非常に由々しきことである。
読者諸氏もアメリカでは1960年代頃までアメリカ南部では白人と黒人を隔離する法律があったことはよくご存知だろう。
マーティン・ルーサー・キング牧師らが筆頭となって起きた市民運動は、まさにこの悪法を撤廃すべき運動であり、その激しい戦いは1954年から1964年公民権法の設立まで続いたのである。多くの黒人および白人の共和党人権派によって撤廃されたこの隔離制度を、なんと現在当の黒人たちが再び復活させようというのだ。彼らには「隔離すれども平等」がどれほど不平等な思想だったかが解っていない。それをやっているのが歴史上人種差別大好きな後退派左翼なのは頷けるが。
大学での人種隔離制度を実行したなら、一番被害を受けるのは黒人・ラテン系生徒たちである。だいたい人種多様な大学で各人種でクラス分けするなど可能なはずはない。それで大きく区分けすれば一方で白人および東洋人その他の少数民族、もう一方で黒人および色の濃いラテン系、といった二つのグループに分かれることが想定される。しかしこれは誰もが知っている事実なのだが、大学は以前にも紹介したアファーマティブアクション(AA)制度を取り入れて学力い黒人やラテン系の生徒を多く取り入れている。AAで入った黒人の入試テスト成績は狭き門を通って入ったトップクラスの東洋人に比べて100点満点で30から40点も違うという事実があるのだ。
ということは、もし黒人およびラテン系のみのクラスが編成されれば、事実上これは大学の落ちこぼればかりのクラスという結果になってしまう。黒人やラテン系でも成績が良く高度の教育を受けたい生徒たちは白人側のクラスを好むだろう。白人側は人種差別の汚名を着たくないのでどんな人種でも受け入れるはずだからだ。
こうなっていったい誰が一番損をするのか、それは落ちこぼれクラスに押し込められた当の黒人やラテン系生徒たちだ。せっかく親に高い授業料払ってもらって有名大学に行かせてもらっているのに、二流の教育しか受けさせてもらえなくなるのだ。低い成績を取ればそれが人種差別だと騒ぎ立てて何も学ばずに卒業証書だけもらってみても、実際に実社会に出た時にそんな似非卒業証書など何の役にも立たない。特に自主的にしろ黒人ラテン隔離クラスに所属していた学生たちは、もうそれだけで企業から敬遠されること間違いなしだ。「隔離すれども平等」なんてことが事実上不可能なのは誰でも承知だからである。
本当の意味での競争を身に付けずに世の中を渡るのに必要な教育も受けずに、君たちは黒人だからラテン系だから特別なんだよ、努力なんかしなくていいんだよ、成功しなかったらそれは白人の人種差別によるもんなんだから、と言われたことを鵜呑みにして、いったいどんな社会人になれるというのだろうか?
人種隔離制度は邪悪な制度だった。そして今もその邪悪性は変わっていない。
こういうことになったのも、アメリカの大学が黒人・ラテン系生徒を存分甘やかしてきたのが原因である。迷惑なのは若者たちだ。