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May 20, 2009

ヨーロッパで激化する反ユダヤ思想 その2

ヨーロッパ , 宗教と文化

先日に引き続き、マーク・スタインのIsrael Today, the West Tomorrow(今日はイスラエル、明日は西)についてさらに書いて行きたいと思う。スタインは欧州のイスラム化が進んだ場合、下記のようなことになると予測する。

イギリス、ヨーッロパそしてアメリカの軍隊すらもイラクやアフガニスタンから撤退し、マドリッドやハンブルグやマンチェスターにおいて爆弾が爆破されるだろう。そしてイスラエルの「不均衡」さ以外に責めるものがなくなってしまう。ヨーロッパに残ったユダヤ人たちはといえば、既に始まっているフランス系ユダヤ人のケベックへの移住に加え、フロリダや他の土地への移住が加速するだろう。現在約15万のユダヤ人がロンドンに住んでいる。ユダヤ人の住む都市としては世界で13番目に大きな市だ。しかしそこには約100万人のイスラム教徒が住んでいる。ユダヤ人の人口で最大なのが50歳から54歳の年代。イスラム教徒で一番人数が多いのは4歳以下だ。2025年には、ユダヤ人はイスラエルとアメリカ以外にはあまり住めるところはなくなるだろう。 ユダヤ政権の正当性が拒絶されても、土地を離れたユダヤ人による世界での存在感は縮小するだろう。

そして、その時、リチャード・イングラムではないが、イスラエルを責めずに居られる者などいるだろうか?もちろんホロコーストの慰安日は存在するだろう。主に新しいナチスを糾弾する楽しみに使われるだけだが。2005年にアウシュビッツ生存者の息子アンソニー・リプマンが書いたように。「1月27日私は母の手をとります。A-25466と入れ墨のある腕。そして私は焼却炉や家畜トラックのことだけでなく、ダルフール、ルワンダ、ジンバブエ、ジェニーン、ファルージャのことを考えます。」ジェニーン?

ジェニーンといえば、読者諸君も記憶にあるように、2002年の4月、イスラエル軍によってパレスチナ人が大虐殺されたという偽事件のことだ。パレスチナ側は何の証拠もないにもかかわらず、イスラエル自衛軍がマシンガンで人々を撃ち殺し、ブルドーザーを使って無数の家屋を中にいる住民もろとも破壊したとか、パレスチナ人をイスラエルの戦車にくくりつけて人間の楯にしたとか、めちゃくちゃないいがかりをつけてきた。その後の国連の捜査により、イスラエルを嫌っているアムネスティーインターナショナルですらこれらのクレームが虚偽であったことを認めざる負えなかった。事実が確認できたのはふたつだけ。

  • ジェニーンにおいて確かに戦いはあった。しかしそれはイスラエル自衛軍と少人数のハマス、イスラミックジハード、アラファト、アルアクサマータイヤ旅団らのテロリスト達との間でおきた。ジェニーンで殺されたのはどちらも兵士か武装戦闘員だけだった。
  • イスラエルがジェニーンを制覇した時点で、それまでにもやって来て効果をあげていた、自爆テロリストの家族の家をブルドーザーで破壊する政策が続行された。しかしイスラエル軍が破壊した家は自爆テロの褒美としてPLOが生存者の家族に与えた新しい家に限られていた。

パレスチナのリーダー達は、自爆テロを促進するため、息子達が自爆した後、生き残った父親や母親や兄弟や姉妹に、普通なら絶対に住めないような立派な家をあてがってやった。そういう家をブルドーザーで破壊することによって、自爆テロを敬遠させようというのがイスラエルの目的だった。しかしアムネスティーインターナショナルは、この行為を「市民」の家屋を破壊する「戦争犯罪」だと批判した。

戦争犯罪だかなんだか知らないが、偽虐殺事件のジェニーンと、ダルフールやルワンダの本当の人種浄化 を一緒くたにするなど気違い沙汰だ。 特にホロコースト生存者を母親に持つ男がそんなことを言うとは信じられない。シャリア法廷がリプマン氏を絞首刑にやってくる時、彼は自分の「宗派を超えた多文化主義」を証明するために自分の首を吊る縄を処刑人に貸してやるのかもしれない。

イスラエルは西側諸国にとって非常に大切なのは、イスラエルがユダヤ人の母国であるというだけでなく、また中東におけるたった二つ民主主義国家のひとつであるというだけでなく、(もう一つは最近民主化したイラク) イスラエルは「炭坑のカナリア」のように非イスラム諸国の将来を予測する指針なのである。イスラエルが溺れれば「戦争の家」も溺れるのだ。

まさに今やイスラエルは 溺れつつある。すでに二回も潜ってしまった。まだ三度目には至っていないが。(三度潜れば誰も這い上がれない。)イスラエルが世界平和の最大の脅威だと思う国が増えて来た。それはイスラエルがアントワープやブルッセルを攻撃するなどと考えるからではなく、イスラエルの存在そのものが戦争と人間の生け贄以外に考えられない「平和の家」イスラム過激派を激怒させるからだ。

アメリカを除く世界(そしてオバマ政権)はイスラム教徒がイスラエルに過敏で暴力的な反応するのはイスラエルに責任があると考えている。だから、イスラム過激派が反応するような国が存在する事自体が世界平和への脅威だと言うのである。犠牲者に向かって殺人犯人が「よくも俺にこんなことをさせたな!」といってる理屈だ。

そして世界はイスラエルの自殺という精神的な罪の償いによって世界平和が生まれると信じてる。彼らはイスラム教独裁の元に非イスラム教徒として比較的平和に生存させてもらおうと願っている。シャリア法が許容する非イスラム教徒はディミーと呼ばれるセカンドクラス市民しかいないのにだ。にもかかわらず世界中の世俗主義左翼たちは俺たちが世界中でもっとも暴力的な場所で唯一つ平和主義を保っている国への攻撃に加担することで世界平和をもたらすことが出来ると主張するのだ。

猿の家にようこそ!

May 20, 2009, 現時間 3:25 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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May 17, 2009

ヨーロッパで激化する反ユダヤ思想

ヨーロッパ , 宗教と文化

マーク・スタインが書いたこのエッセイIsrael Today, the West Tomorrow(今日はイスラエル、明日は西)は、是非とも読者諸君に読んでもらいたい。俺、ミスター苺、が強く強く推薦する。下記はその一部。

「イスラエルはファッショナブルじゃない。」と、とある大陸の外相が昔私に言った事がある。「でもイスラエルは変わるかもしれません。そしたらファッションも変わるでしょう。」しかしイスラルがどう変わろうと、このファッションは変わらない。 アメリカを除く西洋人のほとんどによる反ユダヤ政権思想への変化は1970年台に始まった。前記の外相によると、これは配役の反映だという。つまり、イスラエルはすでに穴馬ではなく勝ち馬であり、そんな国がホロコーストの罪悪感に縛られない戦後のヨーロッパ左翼にどうやってアピールできるのだ?

確かにそうかもしれない。ファッションは変化する。しかし新しいJudenhass(ドイツ語でユダヤ嫌悪の意)はファッションではない。これはこの先数年後に転移する単なる厳しい現実であり、今世紀の初めなど古き良き時代思えるほどイスラエルは「国際社会」から孤立してしまうだろう。

問題なのはヨーロッパ人がホロコーストに飽きたということだけではなく、下記の三つの傾向にある。

  1. アラブ人やイスラム教徒の人口が増加に反して、古い世界の基督教の衰退。(基督教は中南米、アジア、アフリカには広がっている。だが、これらの国々はまだ文明戦争には参加していない。)
  2. 攻撃的で軍事的なイスラム過激派の拡大。それがサラフィストであれ、スンニ派のワハビストであれ、イラン勢力下にあるクォムシーアであれ、変わりはない。最近は両派のテロリストグループが彼らが「ダーアルハーブ」(戦争の家)と戦うべく同盟を結んだという。「戦争の家」とは要するにイスラム過激派のシャリア法に従わないすべての社会を刺す。 イランのシーアがスンニのハマスをコントロールしているのも、その傾向の現れだ。
  3. 最近の無宗教者とインテリ左翼と過激派イスラムによる 自殺的同盟は、前二者とも一時的に過激派イスラムと手を組んで民主主義及び資本主義、キリスト教主義を転覆させようという魂胆から起きたものだ。そして用が済んだらさっさとムラーやカリフを掃き捨てて、新しいマルクス主義、いわゆるリベラルファシズムで世界を牛耳ろうという考えだ。

上記三番目の問題だが、実際には当然のことながら左翼連中の思惑とは正反対のことが起きる。イスラム過激派こそが世俗主義者八つ裂きにしてその屍の上を君臨するのである。左翼連中、特にヨーロッパ左翼の「インタレクト」イデオロギーは中国やラテンアメリカの一部のリーダー達の間に巣食っているとはいえ、現実的には思想が倒産し気力が完全に衰弱している。すべての情熱やエネルギーや革命的熱狂度はイスラム過激派の方にあるのだ。

スタインに話を戻そう、、、脱線して忘れかけたが、このエントリーの主題は彼なのだから、、

ブルッセルには社会主義の市長がいる。これ自体は驚くべきことではないが、彼が統治するは議員総会は主にイスラム教徒を多数とする総会である。これは将来ゆっくりとじょじょに行われていく課程だと思っていた人々にはちょっとした驚きかもしれない。しかしこれも基督教社会が三千年代に堕ちる道なのである。ヨーロッパ連合の統治諸国の首都はほとんどがイスラム教徒なのだ。

俺はこれにはあぜんとした。スタインが予測していたことを全く知らなかったからではなく、この傾向がこんなにもひどいところまで進んでいたということに驚いているのだ。これは単に「心配だ。」ですまされるようなものではない。すでに「パニックボタンを押すべき時」が着ているのだ。しかしそれだけではない。

数週間前のある土曜日の午後、「イスラエルをボイコットしよう」というT−シャツを来たグループがフランスのCarrefourという世界最大のスーパーマーケットチェーンのフランス支店に乗り込んで名乗りを上げた。そして彼らは組織的に店の通路に進み、ひとつひとつ商品を調べイスラエル産の商品を全て略奪しカートに山済みにして持ち出し破壊した。彼らが撮ったビデオを見る限り、抗議者のほとんどがイスラム移民で数人のフランス左翼が混じっていた.しかしもっと驚くのは店内にいた店員や買い物客の傍観ぶりである。みなおとなしく他人の所有物がかき乱され破壊されるのを黙って見ているだけなのだ。この暴虐について質問された買い物客達は破壊行為に支持する意を表していた。「南アフリカもボイコットにされて初めて揺るがされた。」と一人の老婦人は語った。「あなた方がやっていることは良い事だと思う。」と婦人は付け加えた。

人によっては1930年代のドイツに教訓的な比較を見いだすかもしれない。「沈黙の多数派が走行するのではなく、声高な少数派がするのだ。」とカナダのインテリ、ジョージ・ジョナスは最近書いている。「頭数を数えるな。デシベルを数えよ。すべての社会が、アメリカ、西側諸国、そしてアラブの通りにおいて、ある種のムードがひろまりつつある。このムードがある一時に一斉に広がるのだ。」去る12月、ボンベイの力と富の象徴が計画的な同時攻撃にあった。パキスタンテロリストは、その勢力の1/5をついやして、めだたない建物で地方の貧乏人を助けている少数のユダヤ司教を拷問にかけて殺した。これがカシミア問題に関する抗議だったとしたら、何故ボンベイにいるユダや司教だけを殺すのだ?なぜならパキスタンのイスラム過激派はアラブ化の影響を受けているからだ。人口分布からいってヨーロッパにしろアラブ以外の地域にではイスラム教徒の数はそれほどでもない。だが、思想上過激派の音声はトルコにしろバルカンにしろ西ヨーロッパでも非常に高いのだ。

ヨーロッパのリベラルファシストの指導者達が、暴走する「アジア人の若者達」(イスラム教徒移民の意味)に媚びへつらってこのような「ボイコット」を国の政策にとりいれ、経済の行き詰まりや自分たちの社会的政治的失敗から国民の目をそらさせるようになるまで、どれだけの時間を要するだろうか?このイスラエル「ボイコット」がイスラエルの手先であるユダヤ人にまで及ぶのにどれだけの時間が必要なのだ? 申し訳ないが、俺は自分たちに都合が悪くなるとすぐ少数民族を責めるような、インテリ左翼の奴らの道徳心など信じられない。

俺が「ボイコット」と皮肉って鍵括弧に入れてる理由は、本当のボイコットというのは自発的に起きる物であって他人に強制するものではないはずだからだ。この Carrefourスーパーの 暴徒達の行為は他の買い物客がイスラエル製品を買うのを阻止するものだ。

もう少しマーク・スタインのエッセイーを引用したいのだが、長くなるので続きは次回に話す。

May 17, 2009, 現時間 1:50 PM | コメント (3) | トラックバック (0)

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February 16, 2009

反イスラム過激派映画がイギリスで巻き起こした波紋

ヨーロッパ , 人権擁護法 , 宗教と文化

イギリスではすでにイスラム過激派がかなりの幅を効かし、多くのイギリスの政治家たちがディミー(イスラム教徒に仕える低い身分に甘んじている民)に成り下がっているという話はすでに何度もしてきたが、この度オランダの国会議員でイスラム過激派を批判したフィトナという映画を製作したガート・ワイルダース(Geert Wilders)氏がこの映画の試写会にイギリスから招かれたことでイギリスでは大変な旋風が巻き起こった。パジャマメディア、ロジャースルール紹介

それというのも、イギリスの上院議員労働党のナズィアー・アクメッド(Nazir Ahmed)という名前からしてイスラム教徒の議員がワイルダース氏のイギリス訪問はイギリスの秩序を乱すとして抗議をしたことからはじまる。気に入らないことがあると何かと騒がしいことで悪名高いアクメッド議員はもしワイルダース氏の訪英が実現したら一万人からのイスラム教徒を動員して大騒動をおこしてやると英国政府を脅迫したらしい。本人はそんな脅迫をした事実はないと否定しているが、自分がワイルダース氏の訪英及びフィトナ試写会を阻止し英国国会に恥をかかせてやったとガーディアン紙で自慢している

ガート・ワイルダースが英国を訪れ、コックス男爵夫人とピアーソン侯爵がこの映画を上映したいと望んでおられることを知った時、私は内省に手紙を書き、上院のリーダーとブラック・ロッド氏に、ワイルダースの訪英は宗教と人種嫌悪を刺激し、公共秩序を乱すものとなると抗議しました。....

ワイルダースの映画フィトナは、コーランの文節を文脈を無視して引用し、あたかもコーランがひどいテロ事件と関係があり、(イスラムの)教えがテロ行為と結びついているかのように描いています。私はこの訪問はBNP(英国ナチグループ)のような極右翼やイスラム過激派の双方から彼を応援する結果になると考えました。

私のこの手紙により、内政省長官はワイルダースに彼の訪問は「地域社会の調和ひいてはイギリスの公共安全を脅かす」と手紙を送り、国土安全を脅かし公共秩序もしくは市民の安全を乱す人員の入国を禁じるというヨーロッパ連盟の法律に基づきワイルダースの入国は拒否されました。私は長官の考察に賛同します。....

スペクター紙において、メラニー・フィリップスは私がイスラム教と一万人を動員してワイルダースに反するデモ行進をおこなうと脅迫したと虚偽の記事を書きました。その結果私は何百という苦情のメールや電話や世界中から私や私のスタッフに対して脅迫状を受け取ることになりました。

アクメッド議員が実際に一万人のイスラム教徒を動員して大騒ぎしてやると脅迫したかどうかは別として、ワイルダース氏の存在が公共秩序を乱す可能性があるとか、過激派による嫌悪や暴力を誘発する恐れがあるなどと言うことこそ、これまでのイスラム教徒の行動から考えて脅迫と取られても文句はいえない。ワイルダース氏はテロリストでもなければイギリス敵国のリーダーでもない。自分たちと考えが違うという理由でこのような人の訪問や映画上映を阻止するのであれば、英国には言論の自由などないと判断されても仕方ないだろう。

そして英国は暴力を恐れて少数派のイスラム教のいいなりになろうというのである。かつて帝国としてそ名を世界におののかせた偉大なるブリテンはいったいどこへいったのだ?

しかし言ってみれば内政省の判断こそ、ワイルダース氏の映画フィトナのメッセージを裏付けるものになっていると、イギリスの評論家チャールス・ムーア(Charles Moore)は書いている

(内政省のスミス長官が言ってるのは)「イスラム教徒を怒らせると暴力が起きますよ」という意味だ。ということはスミス女史の関連づけこそ、それ自体イスラム教徒を侮辱するものだ。彼女はキリスト教徒やユダヤ教徒、及び農民や社会主義社や菜食主義者を怒らせることについて同じことを言うだろうか?もちろんそんなことはない。イスラム教徒だけが彼女を怖がらせるのである。つまり彼女はガート・ワイルダースが言っていることとほぼ同じことを言っているのだ。

ところでスミス女史が必死にまもろうとしている『地域の調和』だが、アメリカにも地域の調和を強調するムザーミ・ハッサン(Muzzammil Hassan)なる「穏健派イスラム教徒」がいる。彼は有線放送で好意的なイスラム教徒像を描く番組つくりに力を入れていたが、ワイルダース氏がオランダに強制送還を食ったその日、ハッサンは離婚申請をしていた妻の首を切り取った罪で逮捕された。

ロジャー曰く、「イスラム教徒ってどうしてこう他人の首を身体から切り離すことを好むんだろうね?」

February 16, 2009, 現時間 2:26 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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February 6, 2009

マサチューセッツの同性結婚を導いた夫婦が離婚

フェミニズム , 宗教と文化

マサチューセッツ州で同性結婚の合法化運動を先導したレズビアンカップルが今月三日(2/3/09)離婚を申請したことがあきらかになった。

離婚を申請したのはジュリー・グッドリッジとその夫人のヒラリー。(どっちがどっちとも言えないが、、)ジュリーとヒラリーは2004年にマサチューセッツで結婚の合法化を巡って訴訟を起こした7組の一組だった。もっともこの二人は2006年にすでに別居を発表しており、離婚は時間の問題だったらしい。訴訟まで起こして結婚させてもらったのに、たった二年で別居、5年もしないで離婚。馬鹿馬鹿しいったらないね。

2006年にもマサチューセッツで合法に結婚した同性カップルがロードアイランド州で離婚届けを出すという事件があった。ロードアイランドでは同性結婚は認めていないので、認めていない結婚の離婚を認めることが出来るのかどうか問題となった。

で、結局離婚は認められたのかというと、2008年7月のロサンゼルスタイムスにこんな記事がある。

2004年の5月、カサンドラ・オーミストン(Cassandra Ormiston)と長年の伴侶マーガレット・チェンバーズ(Margaret Chambers)は同性結婚が合法化されたばかりのマサチューセッツ州で結婚した。

しかし2年後、10年来の付き合いは何故か破局を迎え、二人は居住していたロードアイランド州で離婚を申請した。しかし、家庭裁判所の裁判官は前例のない同性結婚の離婚について、ロードアイランド州の最高裁に自分に離婚を許可する権限があるのか意見を求めた。ロードアイランド州最高裁は、州が同性結婚を認めていない以上離婚も認められないと判決を下した。

チェンバーズ夫妻はその後ロードアイランド最高裁に直接離婚届を申し出たが、2008年6月、最高裁からも離婚は認められないという採決が出た。なぜ二人が結婚したマサチューセッツ州で離婚届けを出さないのかというと、マサチューセッツでは一年以上居住している州住民のにみ離婚が認められるからだそうだ。

離婚を認められなかったカサンドラのいい分がおかしい。

「彼らは永遠に結婚している他に選択の余地を与えてくれないのです。」とオーミストン、「彼らの最悪の悪夢です。」

同性結婚を認めない州が同性夫婦に一生結婚していることを強制するというのは皮肉だとカサンドラは言いたいのだろう。しかし、ずっと一緒にいるのが嫌なら最初から無理して結婚などしなければよかったのではないか。

アメリカは連邦制度を敷いているから法律も各州でかなり異なる。しかし結婚だけは特別で、異性同士のカップルの場合はネバダ州のラスベガスでエルビスもの真似牧師を前に即席結婚しても、テキサス州でもアーカンサス州でもその結婚は認められる。だから同性結婚も一州で合法化してしまうと、そこでの結婚を全国で認めなければならなくなる恐れがあった。そこで慌てた各州の州民はは、カリフォルニアも含め「結婚は一夫一婦の間でのみ認める」という憲法改正案をここ数年のうちに次々に通してしまった。州の憲法を改正するためには州民の2/3の同意を必要とする大事業なのだが、リベラルのカリフォルニアですらこの法案がしっかり通ってしまったところを見ると、アメリカ人の同性結婚への抵抗は相当なものだと言えるだろう。

ロサンゼルスタイムスの記事では、同性離婚は結婚よりもずっと複雑だとし、延々とその問題点を挙げているが、はっきり言ってカカシには興味がない。あれだけ大騒ぎして州民の意志を踏みにじって法廷により州民に無理強いしたマサチューセッツでの同性結婚は、合法化されて、まだ5年もたっていないのだ。もともと結婚などすべきでなかった人々が社会の祝福も受けずに一緒になっておいて、離婚が大変だなどといってみても全く同情の余地はない。

それにしても、ロサンゼルスタイムスは同性離婚の問題点を掲げることで何を言わんとしているのだろうか?「全国の結婚制度が違いすぎて離婚が大変なので、同性結婚が離婚しやすくなるように、全国で同性結婚を合法にすべき。」とでも言いたいのかな?

複雑な離婚が嫌なら安易に結婚などすべきでない。それだけのことだ。

February 6, 2009, 現時間 12:32 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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November 16, 2008

カリフォルニア州、同性愛結婚が敗北した日

フェミニズム , 宗教と文化

今年の五月にカカシはカリフォルニア州の最高裁が同性同士の結婚を禁止する州法がカリフォルニアの憲法に違反するとして、州民の60%が投票した州法22条を違憲とし、事実上カリフォルニアにおける同性結婚を認めたという話をカリフォルニア最高裁、同性結婚禁止法は違憲と判決したで述べた。

そこでカリフォルニア州の保守派が中心となって、結婚は成人した一人の男と一人の女との間でのみ認められるという憲法改正案を提案、今回の全国選挙の際に州民の投票によってこの憲法改正案の決議案8条は見事に通った。

土曜日、これに抗議した同性愛者たちが全国で一斉に抗議のデモ行進を行った。ロサンゼルスタイムスの記事によると、ロサンゼルスでは、抗議者達が市役所前に集まり、虹の旗や「ミスターナイスゲイはもう止めた」「憎しみにノー」などのスローガンを書いたサインなどをかかげて肩を組んで歌いながらダウンタウンに繰り出したという。

はっきり言って、結婚は「一人の男と一人の女の間のみで認められる」という法律のどこに同性愛者に対する憎しみが含まれているというのか、自分らの身勝手な要求が受け入れられないと、すぐに他人の差別意識や憎しみのせいにするのはリベラル運動家の悪いクセである。

ロサンゼルス警察の概算によると1万から1万2千の抗議者が集まったが、予測された4万をかなり下回る数だったようだ。

いくら運動家たちが抗議のデモ行進をしてみても、カリフォルニア市民が投票して決めたことなので、これ以上どうすることも出来ない。こういうデモ行進は選挙の前に行って市民の理解を仰ぐのが正当なやり方だ。だいたい同性結婚を法廷を使って無理矢理市民に押し付けようとしたことが、今回の憲法改正案につながったのだということを運動家たちは心得るべきである。州民の理解を得たいのであれば、州民の意思を冒涜するような裁判を起こすべきではなかったのだ。

しかし同性結婚奨励派の運動家たちは何故かその「憎しみ」を宗教、特にモルモン教に向けている。運動家達が持っていた看板のメッセージを読んでみると、、

「もし天国が差別するなら行きたくない。」
「同じ聖書が奴隷を正当化した。」
「一夫多妻制度のどこが伝統なのさ?」
「どこに私のゲイ税金控除があるの?」I
「ジョセフ・スミスの33人の妻達。対してゲイの妻はひとり」
「私はゲイに生まれた。お前らは宗教を教えられた。」
「兄貴が結婚する、、また!なんでおれは一度も結婚できねんだ?」

とまあ、宗教にあてつけたメッセージが続く。憎しみを止めろ、とか言ってる割にはどっちが憎しみを煽っているんだとききたいね。ま、左翼市民運動なんてのはいつもこういう偽善に満ちているものだが。

興味深いのは、同性結婚を認める理由として黒人と白人の結婚の例がよく上げられるが、当の黒人は出口結果によると2:1の割で決議案8条に投票したという。黒人と白人の結婚は同性結婚とは全く別もの。一緒にされてはたまらないといったところだろう。

カカシには同性愛の友達が結構いるが、結婚したいと言っている人はいない。過激派の同性愛運動家はこうしたごく普通の同性愛者にとっては非常に迷惑な存在だ。何故なら結婚ではなく、シビルユニオンというほぼ結婚と同じような保証がされるシステムなら、私を含め多くの州民が支持してきた。だが、今回のような極端なやり方をみて、あのシステムは結婚を無理矢理私たちに押し付ける策略だったのだと気がついた州民の多くが今後同性愛者の立場をよくする法律にはその都度疑いの目を向けるようになるだろうから。

November 16, 2008, 現時間 5:41 PM | コメント (2) | トラックバック (0)

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June 28, 2008

出張ブロギング、マウイ島にて

宗教と文化 , 旅行記 , 日常の出来事

カカシは今、ハワイ諸島のひとつ、マウイ島のホテルにてブロギングをしている。もちろん出張。バカンスではない。

仕事でオアフ島のホノルルはよく行くが、出張でマウイ島へ来たのは初めてだ。私が居るのはラハイナ(Lahaina)というところで、海岸線に沿ってホテルやコンドミニアムが立ち並んでいるとはいうものの、ホノルルのような都会的な雰囲気は全くない。

砂浜が目の前にあるこのホテルに泊まってもう三日になるが、ワイキキビーチのようにタオルを敷く場所もないほど混雑しているビーチとちがって、夕方でもそれほど人出はなく、家族ずれやカップルと時々すれ違う程度だ。何マイルも続く海岸線だが、浜辺はきれいでゴミひとつ落ちていない。今朝も一時間ほど砂浜を散歩したが、静かでとても落ち着くビーチだ。無論海の色はエメラルドだし、沖のほうでパラセーリングをしている人の姿が見え、海外にそってカヤックをしているカップルに出会った。ちょっと沖のほうに低い山のような島が見える。空は晴れているが山の上のほうにはかすみがかかっていた。まさしくパラダイスだな。

10年近く前に新婚旅行でミスター苺とハワイ諸島を一応一巡りしたが、その時に得た印象はといえば、景色が一番美しかったのはカワイ島で、一流ホテルに泊まって贅沢な休暇を楽しみたい人にはカワイ島はぴったりだが、アウトドアの活動がすきな人にはマウイ島が一番適している。

マウイ島ではスノーコリング、スクーバダイビング、サーフィン、パラセイリング、カヤッキングなどが手軽に出来る。クジラ見物のボートも毎朝波止場から出ている。私は休暇で来ているわけではないので料金は調べていないが、毎朝波止場では観光客がさまざまないでたちで現れる。

こういう人たちを傍目に自分は出勤用のモーターボートに乗り込む。観光地での仕事はこういう時みじめだ。考えてみればカカシが出張するところは、今居るラハエナもうそうだが、ポートランド(メイン州)、ジャクソンビル(フロリダ)、サンディエゴ(カリフォルニア)、と観光地ばっかりだ。

ところで我々の出勤用のモーターボートだが、桟橋からボートへの乗り降りはどうということはないが、このボートから大型船への乗り降りはちょっと怖い。特に二日前は波が高く、上下の差が10メートルくらいあった。船には階段がつけてあり、海面のレベルにプラットフォームが設置してあるが、波のタイミングをつかんでちょうどプラットフォームちかくにボートが上がった時点で踏み出さないと、次はストーンと10メートルも落ちてしまうという危険さだ。しかし私が降りるときに都合よく高い波が来て、ちょうどボートとプラットフォームが同じレベルに並んだので、私は楽に降りることができた。

しかし昨日は打って変わって静かな海だった。これは船に乗って仕事をしている時は楽だが、帰りにプラットフォームからボートに乗り込むときに波がないとかえって難しいことを学んだ。それというのもボートがプラットフォームからの高さが一メートル半くらい離れていたからで、波がないからそれ以上ボートは上がらないというのである。ボートの乗組員がボートの屋根をつかめと言ったが、私は腕が短いから手が届かない。しょうがないからプラットフォームから飛び降りた。ボートはゴム製なので足を折ったりはしないが、私は数週間前につま先を骨折していたので、ほぼ完治した状態で助かった。これが二週間前だったらかなりきつかっただろう。

船からの乗り降りは、以前にもやはりハワイで縄梯子からボートへ降りた経験がある。あの時はさすがに落ちた場合を考えて救命具を着せられた。船の上にはダイバーのお兄ちゃんが、万が一の場合の救助のために我々を見守っていた。あの時は朝6時でまだ日も出ておらず、真っ暗な中、縄梯子を降りるのはかなり怖かった。もっとも降りるのはまだしも、ボートから縄梯子で登るのはもっとたいへん。幸いにして私はまだそれはやったことがないのだが、この仕事を長年やっていると、いつかはそういう体験をすることになるだろう。はっきり言ってタフじゃないと勤まらないな、この仕事。

なんて考えていたら、太った同僚のおじさんがドスンとボートに飛び降りてきた。あの体でよく飛び降りられたなと感心してしまった。

おっとそろそろ行かなければ。エントリーの間隔が開きすぎてることをお詫びします。今夜はがんばって書きますので、よろしく。

June 28, 2008, 現時間 1:21 PM | コメント (0) | トラックバック (1)

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June 5, 2008

仏法廷:女優ブリジッド・バルドー、イスラム批判で有罪判決

人権擁護法 , 宗教と文化

ブリジッド・バルドーと言えば、1950年代のその抜群なスタイルとセックスアピールを生かしてビキニを世界に広め、一世を風靡した女優で、今は動物愛護運動の熱心な活動家としても知られている。その彼女が「イスラム教徒がフランスを破壊しつつある」と批判したことで、先日フランスの法廷において、人種差別と憎しみを誘発した罪で有罪となり、一万五千ユーロの罰金が課せられた。

フランスでは言論の自由は憲法で保証されていない。侮辱罪だの名誉毀損だの、たとえ批判の内容が真実でも被害者が傷ついたと訴えれば平気で裁判になってしまう国だから、マドモアゼル・バルドーが訴えられたのも解るというものだ。(フランス法廷の言論の自由に関する裁判はここでも紹介した通りだ)l

原因となったのは、バルドーさんが2006年の12月に当時国会議員だった現在のサルコージ大統領に向けて出した手紙の中で、イスラム教徒による羊を生け贄にする習慣について、フランスは「この人口によって鼻先で煽動されるのにはいい加減頭にきている。彼らは我々を破壊しようとしている。このような行動を我々に無理強いして我が国を破壊している。」と書いたことだ。

フランスの対人種差別法は、人種や宗教への差別や憎しみを誘発する行為を禁じている。だが、カナダやイギリスの人権擁護法と同じで、フランスの対人種差別法も結局はフランス国民が少数民族や宗教団体に対して、正当な抗議や批判ができないよう言論弾圧の道具と成り果てている。

こういう法律は本来の目的のように少数民族や宗教団体の人権擁護などに使われることは先ずなく、被害妄想が強くやたらに声高で暴力的な少数民族や宗教団体、要するにヨーロッパの場合はイスラム過激派によって、一般人の人権が迫害される方法としてしか使われていない。イスラム過激派ほど多人種や他宗教に不寛容な団体もいないのに、対人種差別法が世界でも一番人種差別をする人種によって悪用されているというのも皮肉なものである。

バルドーさんが、この法律に違反したとして罰せられたのはこれが最初ではない。1997年にもレ・フィガロ新聞に掲載したコメントが原因で罰金を課せられた。またその翌年にもフランスにイスラム教聖廟が増えるなか、フランスの協会は沈黙を余儀なくされていると批判して有罪となった。

それにしても、フランス市民は往年の女優や一部のジャーナリストだけに言論の自由のための戦いを任せておいて恥かしくないのだろうか?

June 5, 2008, 現時間 12:02 AM | コメント (5) | トラックバック (0)

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May 25, 2008

同性結婚は文明社会を破壊する、その2

アメリカ内政 , フェミニズム , 人権擁護法 , 宗教と文化 , 狂ったメディア

以前に私は同性結婚は文明社会を破壊するというエントリーで、同性結婚を合法にしたスカンジナビア諸国で、結婚制度そのものが崩壊状態にあるという事実を紹介したことがあるが、今回はさらにもっと詳しい調査をミスター苺がしてくれたので、それを紹介しよう。

ヨーロッパ諸国ではすでに結婚する人々の数が激減している。同性結婚が合法であるベルギーやオランダだけでなく、結婚の宗教的価値を往々に見放してきているヨーロッパ全体にこの傾向が強い。結婚の価値が見下されれば結婚そのものの数が減るというわけである。結婚する人の数が減るにつれ、すでに深刻な少子化問題を抱えていたヨーロッパでは出産率の低下は進む一方である。

CBSの調査では、オランダの場合1995年から200年にかけて結婚率はゆっくりではあるが上がりつつあった。しかし同性結婚の合法化運動が置き始めた2000年から実際に合法化された2001年の中頃から上がりつつあった結婚率は急激なUターンをし、その数は急降下してしまった。2005年になると結婚率が最低だった第二次世界大戦当時同率まで落ちてしまったのである。

もうひとつのCBSの表を見てみると、1995年から2000年までは一年間で結婚した人の数は1000人のうち平均5.5人だった。しかし2001年からその数は減り始め、2006年には4.4人というなんと20%の減少となった。

その間の出産率(一人の女性が一生のうちに生んだ子供数)は多少増加し1.53人から1.73人となった。しかしこの増加はすべてモロッコやトルコ生まれのイスラム教徒の移民の女性のおかげである。オランダ生まれのオランダ女性の出産率は2000年から2005年まで、1.7人と全く変化がなく、人口維持に必要な2.1人を大幅に下回る。

無論ヨーロッパに置ける結婚率や出産率の低下をすべて同性結婚のせいにするわけにはいかない。同性結婚をみとめていないフランスでもこの傾向はあるからだ。

しかしヨーロッパ全体で結婚率が減っている理由として次のことが上げられる。

  • どちらの落ち度も問われない、簡単な離婚法
  • 神前結婚を拒絶し世俗式結婚をするカップルが増えていること
  • 同棲や婚外出産への大幅な許容
  • より左翼的社会主義的政府による伝統的な宗教や道徳観の迫害
  • ヨーロッパ全土でおきている一般的な宗教拒絶の姿勢

つまりヨーロッパ人は伝統的な道徳観の大事さを忘れつつあるので結婚が特別な制度であるという考えも失いつつあるのである。だから結婚の定義に同性を含むことに何の抵抗もなくなってしまったというわけだ。

喜ばしいことに、いまのところアメリカではまだ結婚率も出産率も減少の傾向はない。ロサンゼルス・タイムスの世論調査によると、この間州最高裁で同性結婚を一夫一婦制のみに認めるという法律を違憲という判定が出たカリフォルニアは、州民の過半数が同性結婚合法化を阻止するための憲法改正案を支持していると発表している。カリフォルニアはアメリカ国内でも非常にリベラルな州で、州民のほとんどが同性愛そのものには特に問題がないと考えている。そのカリフォルニア州民ですら同性結婚を拒絶しているくらいだから、近い将来アメリカ全土でそのような法律が通るなどということは先ず考えられない。

同性結婚を認める法律が存在しているのは、アメリカではマサチューセッツだけだが、これも決してマサチューセッツ州民が選挙で決めたことではなく、マサチューセッツの法廷が勝手に決めたことなのだ。マサチューセッツの民主党議会はこの問題を市民に問いかけることを徹底的に拒絶している。それは州民投票を行えば州民が同性結婚を拒絶すると知っているからに違いない。

しかしヨーロッパでは、イスラム教移民による横暴のバックラッシからなのか、最近カトリック教が再び人気を挽回しつつある。トーマス・野田神父のサイトでフランスへの巡礼の模様が報告されている。ヨーロッパ中から集まった若いひとたちの姿が多いのは喜ばしいことだ。ヨーロッパ崩壊を防ぐためにも、ぜひともヨーロッパの人々に結婚の大事さをもう一度見直してもらいたいものだ。

May 25, 2008, 現時間 9:32 PM | コメント (1) | トラックバック (0)

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May 17, 2008

過激派イスラム教徒に蝕まれる英国警察

フェミニズム , ヨーロッパ , 人権擁護法 , 宗教と文化

先日放送協会へ訴えられていた英国のチャンネル4制作部は、訴えが棄却され、訴えていた英国警察側が制作部に謝罪と慰謝料を要求されるという出来事があった。

訴えられていたのはチャンネル4で、英国内の聖廟における暴力的なお説教を暴露したドキュメンタリー「Undercover Mosque(聖廟覆面捜査)」の制作部のメンバー達で、訴えていたのは聖廟のある地元警察の、 ウエストミッドランド警察と検察庁(West Midlands Police and the Crown Prosecution Service)だ。

このドキュメンタリーでは、ある聖廟では聖教師たちが同性愛者やイギリス兵を殺す話や非イスラエル教徒への暴力などを訴えている姿がありありと隠しカメラで撮られていた。警察は暴力を促進している聖廟の関係者を摘発するどころか、反対にその事実を暴露したテレビ局を訴えたのである。原告側のいい分は偏向した編集によって地元の平和を乱そうとしたというもの。まったく話が逆さまではないか。ま、イスラム教暴力団の悪行を暴いたブロガーを逮捕するような国だから不思議でもなんでもないが。

英国ではOfcomと呼ばれる放送業界を監視する審議会のようなものがあるようで、今回Ofcomは原告側の訴えを根拠が全くないものであるとして棄却。さらに原告側に謝罪と慰謝料の支払いを求めた。

以前にも当ブログで、チャンネル4のドキュメンタリーについてや、イギリス警察がイスラム系暴力団への取り締まりに消極的であるという事実はイスラムの横暴に腰抜けなイギリス協会でも紹介している。

イギリスでイスラム教の暴力団が麻薬売買をし未成年の少女たちを売春に追い込んでいるという話は大分前から問題になっている。しかしこうした少女たちの親たちが地元警察に訴えでても警察当局は少数民族の異文化に十分な理解を示していない と責められるのではないかと懸念し、しかもやり過ぎれば人種暴動になりかねないと恐れてイスラムやくざを取り締まろうとしない。

問題なのは今回の事件だけではない。英国の中部や北部のイスラム教移民が多いところでは、地元警察はイスラム教の暴挙をみてみない振りをするのが普通になっているが、最近では警察官のなかにイスラム暴力団メンバーが潜入しているため、家庭内暴力の犠牲となったイスラム教の女性らは警察に被害届を出すのをためらうという。特に警察官がパキスタン系の男性だったら最初から話はしないと言う女性が増えている。パキスタン系の警察官は暴力をふるった男性を取り調べるどころか、かえって夫の暴力から逃げている女性の居所を家族に知らせるというようなことがあるからだという。

女性救済運動をしているあるグループによると、特にウエストミッドランド警察ではこのような傾向が非常に強かったという。

去年紹介されたデイリーメールの記事によると、イギリスの諜報機関MI5の調査で英国内で8人に及ぶ警察官と民間スタッフがアルカエダを含む過激派グループとつながりがあることが疑われている。中にはパキスタンかアフガニスタンのテロリスト訓練キャンプに参加していた者もいるという。にも関わらず、これらの人物はテロリストとして逮捕されるどころか警察を首にもなっていないというのだ。

イギリスでは警察官に少数民族を多く起用しようという方針がここ数年できたらしいが、イギリス在住のイスラム過激派やテロリストがこの方針を多いに利用してイギリス警察内に潜入しつつあるというわけだ。

これじゃ、バスラの警察がシーア派民兵に乗っ取られたのと何ら変わりはないではないか。そういえばバスラはイギリスの管轄で完全崩壊したいい例だった。その後始末を現在マリキのイラク軍及びアメリカ軍がやっているのである。

自国内でこのざまでは、イラクなどうまくいかないのも当たり前だ。しかし、イギリスはいいのか、このままで?

May 17, 2008, 現時間 9:31 AM | コメント (2) | トラックバック (0)

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May 15, 2008

カリフォルニア最高裁、同性結婚禁止法は違憲と判決

アメリカ内政 , フェミニズム , 宗教と文化

今年の3月8日のエントリーで、カリフォルニア最高裁で同性結婚を禁止する州法が合憲かどうか審議されているという話を紹介したが、本日この法律は違憲であるという判決が下った

この判決は2000年に通った州法22条を覆すものだが、この州法とは、すでに1978年に取り決められた結婚は一夫一婦制という言葉をさらに強調するべく「カリフォルニアにおいては一夫一婦の間でのみ結婚が正式に認められる」というもので、61%の圧倒的な州民の支持で通過していた。

民主党が独占するカリフォルニア州議会において、この法律を覆す議案が二回通っているが、知事のシュワちゃんは二回とも拒否権を使って拒絶してきた。その理由は「州民に意志を尊重する」というものだった。ところが、これを最高裁が違憲としたということは、法廷が州民の意志をふみにじったことになる。

この判決には二つの問題がある。ひとつは言わずと知れた同性結婚の合法化による弊害だが、もうひとつは法廷による独裁だ。

同性結婚の弊害については前に同性結婚は文明社会を破壊するで書いているが、一つの州で結婚が認められれば、別の州でも認めざる負えなくなるのでこれはカリフォルニア州の問題だけでは済まされない。

また法廷が気に入らない法律をきちんとした理由もなく違憲としてしまう弊害はこのことだけでは収まらない。アメリカは三権分立を基本としており、法廷に立法権はないはずだ。それが州民の意志を無視して法廷が強引に特定の法律をおしつける行為は非常に問題だ。

では、カリフォルニア州民はこのまま意に反した同性結婚をみとめざるおえないのかというとそうではない。州民には州憲法改正という最後の手段がある。

すでに保守派や宗教グループが協力して憲法改正案を11月の選挙時の項目に入れる運動が起きている。州務長官は6月の終わりまでに選挙項目に入れるだけの署名が集まったかどうか判断を下すことになっている。すでにこのような州憲法改正法は26の州で通過している。これによって憲法が改正されれば、今回の法廷判決は無効となる。

この判決は実は英語で言うところの「偽装した祝福」というものだという見方もある。つまり、11月の一般選挙を前にして保守派が政治に関心を持つ大事な問題が持ち上がったとなると、リベラルが多いカリフォルニアでは普段はあまり元気のない保守派層が何が何でも憲法改正案を通させようと投票に現れるからである。せっかく投票にいったのだから、地元の共和議員にも票を入れておこうということになり、保守派議員には有利な結果が生まれる可能性がある。

また、大統領の大事な役割に裁判官の任命があるが、もし次の大統領が民主党から出れば、連邦政府の裁判官は必ずはリベラルが任命される。特に最高裁ではすでに高齢の二人がおり、次大統領が新しい最高裁判官を二人任命しなければならないことは確実だ。裁判官がリベラルであれば、今回のカリフォルニアの同性結婚のように法廷からリベラルな方針が国民に強制される可能性大である。

全国の保守派がカリフォルニアを見て、次期大統領は絶対に民主党に渡してはならないと考えて、マケインはバリバリの保守派ではないと支持に消極的だった有権者もオバマよりはよっぽどましと気がついてくれるかもしれない。

リベラルの性質はおごりの行き過ぎ。今回はカリフォルニア法廷はリベラルに権限を渡せばどういうことになるかを顕著に表す例であった。そしてこれは保守派の取るべき道をはっきりさせたものと言えるだろう。

May 15, 2008, 現時間 7:23 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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April 15, 2008

政教分離はどうなった? イスラム教公立学校を認めるミネソタ州

人権擁護法 , 宗教と文化 , 対テロ戦争

ミネソタにはイスラム教徒が多く住んでおり、なにかと自分らの権利を主張して無理難題をふっかけ、それが拒絶されると人種差別だ宗教弾圧だ人権迫害だといって大騒ぎをしているという話はここでも何度かしてきた。下記はその一部である。

イスラム教スーパー店員ベーコンの販売を拒否!
イスラム教徒のタクシー運転手の乗車拒否
アメリカのイスラム化を狙うCAIR
ミネアポリス空港イスラム教タクシー運転手の乗車拒否に厳しく対処

そのミネソタで、今度は州民の税金で経営されている公立学校で、イスラム教学校が経営されているという話が地元の新聞のコラムニスト、キャサリン・カーストンによってスタートリビューンで暴露された

私が上記に挙げた例でも背後にモスラムアメリカンソサエティー(The Muslim American Society、MAS)という市民団体が存在する。この団体は実はモスラムブラザーフッド(the Muslim Brotherhood)というハマスなどのテロリストたちを生み出しているテロ養成グループのアメリカ版看板団体である。

MASは2007年の大会でシェイク・カリード・ヤシン(Shayk Khalid Yasin)という悪名高い男を講演者として招いた。この男は英国やオーストラリアで、妻に暴力を振るうのは許されるとか、同性愛者は死刑になるべきだとか、エイズはアメリカの陰謀だとかめちゃくちゃなことを言ってる過激なイスラム師教である。

このMASミネソタ支部は何かとミネソタでシャリア法を広めるのに熱心だが、カーストンは今回彼等が先導してなんとミネソタにイスラム教を教えるいわゆるマドラスを州の税金で経営される公立学校として州に認定させてしまったことを学んだのだ。

ツインシティーの郊外にあるこの学校の名前はTarek ibn Ziyad Academy、略してTIZA,
昔スペインを征服したモスラム将軍の名前からとったもので、生徒全員もしくはほとんどがイスラム教徒であり、校長はいイマームと呼ばれるイスラム師教、学校のスポンサーはイスラムリリーフUSA、学校の建っている土地はMASが持っている。

この小学校で5年生の臨時教員をつとめた女性の話によると、学校では一日に5回のお祈りの時間がもうけられており、その前には教師の指導で子供たちは足を洗う。イスラム教では聖なる日とされる金曜日には体育館で集会がもうけられそこでイスラム教の教えが説かれるという。

断っておくが、アメリカでは宗教学校そのものが存在することは違法でも何でもない。それが私立の学校であれば何を教えようと学校の判断に任せられる。だが、それが税金を使った公立学校となってくるとそうはいかない。教育と宗教は完全に分離しなければならないという最近の風潮から、公立学校では聖書研究部がひらけないとか、学校内では生徒たちが個人的にキリスト教のお祈りをするのさえいけないとか、うるさくいわれている。学校によっては十戒を取り除いたりクリスマスツリーを排除したりしているところさえあるのである。

そこまで宗教を公立学校から閉め出そうとしている教育委員会が、あからさまなイスラム宗教学校を公立学校として認定しているというのはどういうことなのだ?完全に州法に違反するはずである。

TIZAのザマン(Zaman)理事長はカーストンの「イスラム教徒への明らかな偏見」は心配であると意思表示をし、カーストンからの取材を拒んだ。そして記事が掲載された直後ザマン理事長はカーストンが個人的に自分と学校を宗教を理由に攻撃したとし「悪質で、文明社会では受け入れられない」と糾弾した。

こういう話になると必ず乗り出してくるアメリカのイスラム過激派グループCAIRがついに、キャサリン・カーストンへの猛攻撃をはじめるべくお出ましである。

人権擁護市民団体を装うCAIRのミネソタ支部はツインシティーの小学校に向けられた脅迫について刑事犯罪がおかされている恐れがあるとしてFBIに調査を求めた。CAIRは小学校の子供たちの安全が脅かされるおそれがあると心配しているのだという。「我々は人々にはまあだ明らかにされていないこの件に関して光をあてたいと思う」とCAIRの代表者は語った。

私はこの件が大っぴらになるのはいいことだと思う。なぜなら政教分離というのは単にキリスト教迫害に他ならず、イスラム教徒からの脅迫に恐れおののいて何でもかんでもいいなりになっているミネソタ教育委員会の情けない現状に「光を当てる」いい機会だからである。

こんなことがアメリカで許されるなら、アメリカも欧州やカナダのようになるのは時間の問題だ。キャサリン・カーストンはガードマンを雇って今後もミネソタのイスラム教暴虐を暴露し続けてほしい。本当に身の安全が心配されるのはイスラム批判をするジャーナリストたちのほうだろう。

April 15, 2008, 現時間 1:43 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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April 6, 2008

「性転換」手術後に妊娠した女性を「男性」扱いするな!

フェミニズム , 宗教と文化

ここ数日「男性が妊娠した、奇跡だ」という話題が持ち上がって大騒ぎになっていたので、いったい何のことなんだろうと不思議に思っていたら、何のことはない、性器整形手術とホルモン治療で外見が男に見えるようになったというだけの、生物学的には女性が妊娠したという話。奇跡でもなんでもないではないか。

【4月5日 AFP】トーマス・ビーティー(Thomas Beatie)さんは、女性として生まれた後、性転換手術を受けて法的に男性となったが、現在妊娠中。雑誌で妊娠が告白されるや性同一性障害者の権利をめぐり、米国で議論が白熱している。

 ビーティーさんは、胸部の整形手術を行い、男性ホルモン療法を受けながらも、女性生殖器を残すことを決心していたという。性転換後に結婚した妻が子宮を摘出したため、人工授精で自分が妊娠することにしたという経緯を公表して以来、数々の雑誌が「彼」を取材した。

 人気のテレビ司会者オプラ・ウィンフリー(Oprah Winfrey)のトーク番組にも出演した。うっすらとあご髭を生やしたビーティーさんは、子供をもうけたいと思うのは性を超えた人としての欲求であり、当然自分にも血のつながった子供をもうける権利があると訴えた。

 ビーティーさんの妊娠は、前月米国のゲイ雑誌「Advocate」に投稿した「愛の労苦(Labor of Love)」と題するエッセイのなかで告白された。

このLaborという言葉はだじゃれで、Laborには「労苦」という意味と「出産」という意味があるのでそれを掛けているのだ。ま、そんなことはどうでもいい。私は性器整形をしただけで生物学的に全くなんの変化も遂げていない女性を「男性」と呼ぶのには非常な抵抗がある。見かけがどうあれ、彼女はいまでも女性なのだ。しかも、子供を生むという女性として最高の役割をあきらめていない人が自分を男だなど呼ぶのは矛盾も甚だしい。

男女双方の性器及び染色体を持って生まれたいわゆる両性体質の人が、幼い頃に医者が便宜上選んだ性別にどうしても馴染めず反対の性別を選ぶという例はあってもおかしくないと思う。こういう体質の場合はホルモンの関係もあって見かけと中身が一致しないことはあるからである。

しかし、生物学的に何の異常もなく、はっきりとした性を持って生まれた人間が、大人になって「自分は常に異性であると感じていたので整形手術をして異性に見えるようになりたい」と言うのはどうもいただけない。

それでもまだ、自分は異性ではなく同性に愛情を感じるというのであれば、自分は間違った性で生まれてきたのだと感じたとしても、まあわからなくはない。

だが、私に分からないのは、普通の性を持つ異性愛者として生まれ、異性に対する欲望は全くかわっていないのに自分は異性であると主張する人である。手術後にも女性としての妊娠機能を保ちたいと思っているひともそうだが、手術後も元の性の特質をそのまま保っておきたいと考えるなら、なぜ「性転換」手術などする必要があるのだろうか。

よく、ジェンダーフリーを売り物にする人たちはジェンダーは持って生まれた性に捕われないものだと主張する。もしそれが本当なら、「性転換」という概念自体が成り立たない。つまり、持って生まれた性と自分のジェンダーのアイデンティティーが矛盾してもよいというのであれば、生物学的には女性でも自分は男性だと主張するのは個人の勝手だが、特に男性に見えるような手術をしたり戸籍を男性に変えたりして周りの人間に無理矢理自分は男だと認めさせる必要はないはずである。しかも女性として子供を生むという機能を保ちたいならばなおさらだ。

私は男性から女性への「性転換手術」を行った人物が女性のマウンテンバイクトーナメントに参加したカナダの例をテレビのドキュメンタリーでみたことがある。この人物の私生活は常に野外でするスポーツに始終しており、特に女性らしい生活をしているとはいいがたい。しかもデートする相手は特に男女どちらとは特定していないというのである。だとしたらどうしてこの人が「女性」に「性転換」などする必要があったのだろうか?(レースに勝つための性転換だったとしたらこんな人間を参加させるカナダのスポーツ業界にも問題がある。)

また女性として生まれながら乳ガンでお乳を失ったのをきっかけに男性ホルモン治療を受けながら、男性に魅力を感じるとして男性とつきあっている「元女性」の例も読んだことがある。どうしてこの人は単に男っぽい女性として好きな男性とつきあう普通の生活を望まないのであろうか?女性でもいくらでも男性顔負けの運動神経の人は存在するし、男性が多い学問でも才能を見せる女性はいくらでもいる。(ちゃんと縦列駐車できる女性もいるし、、)それなのになぜあえて男性の同性愛者という異常な生き方を選んだのであろうか?

男女双方の性の特性を両方持って生きたいのであれば、元々持って生まれたジェンダーをそのままにしておいても何の差し支えもないはず。それをわざわざ整形手術で見かけを変えたいというなら、これは美容整形の域を出ない。そんな安易がファッション感覚で「性転換」手術を受けるなど、あまりにも無責任すぎはしないか?

私はこれらの問題は現在の医学会に大きな責任があると考える。いくら最新の整形技術のおかげで、見かけだけはなんとなく異性に見えないこともないという手術が可能だとしても、可能だからやってもいいという理屈は道徳に反すると思う。自分が特定の性に生まれながら異性であると信じ込むひとたちに必要なのは性器整形ではなく精神治療のはずである。

これもテレビのドキュメンタリーでみたのだが、男性として生まれ異性愛者として妻子もある人が、女性になりたいという幻想を拭え切れないので精神科のお医者さんに診てもらったところ、このヤブ医者は彼に性転換をすすめたというひどい例があった。男性は医者に説得され妻子を捨てて性転換手術を受けてしまったのである。捨てられた妻は医者を夫を洗脳したとして訴えていたがその訴訟がどうなったのかその後のことは私は知らない。

性器整形は鼻を高くしたり目をぱっちりさせるような美容整形とは訳が違うのだ。妻子を持ち自らも異性愛者と認めている男性に性転換をすすめるなど医者としてあるまじき行為である。この男性は明らかに精神異常を煩っておるのであり、いかにして男性として生きることが正しい行為であるか理解させるのが医者としての義務である。それを怠って安易に「性転換手術」を治療として施すなど医者の風上にもおけない人物だ。訴えられて当然だろう。

私は原則として「性転換」という名前の性器整形手術には反対だ。整形して見かけを異性に変えることを考えるまえに、自分の個としての自我の確率に力をいれるべきだ。男として女として生きるということは、見かけだけで決まるのではないのだから。

April 6, 2008, 現時間 11:25 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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March 30, 2008

国連人権擁護審議会のお粗末な実態、イスラム告発映画はイスラム教への侮辱と決定

人権擁護法 , 宗教と文化 , 対テロ戦争

まあね、イスラム圏のあからさまな人権迫害は完全無視してイスラエルを責める条令ばかり発令してる国連のやることだから、いまさら驚くべきことではないが。

国連が騒いでいる映画とは、オランダの保守派議員でイスラム批判をしたおかげで命を狙われるはめになったヘールト・ウイルダース氏が作ったイスラム告発ドキュメンタリー映画である。

私はまだ観ていないので、この内容については小林さんのサイトから引用しよう。

オランダの国会議員、ヘールト・ウイルダース氏の反コーラン映画「フィトナ」が昨日、オランダのウエブサイトで公開・放映された。

早速見てみた。コーランの教えの一部を紹介しながら、テロで亡くなったり傷ついた人、首を切られた人、ユダヤ人に対する憎しみを教えるクリップをつなげる。オランダや欧州でイスラム教徒が増えて行き、映画監督が殺され、ゲイが攻撃されるクリップも出る。イスラム教徒の恐怖がオランダに押し寄せる新聞記事が紹介される。最初と最後に、デンマークのムハンマド風刺画(ターバンに爆弾がついている)が出る。

幻想的な音楽に乗って、静かにメッセージが繰り返される。最後はコーランを破くシーンもある(これには後で仕掛けがあると分かるのだが)。

本当はテレビで放映される予定だったらしいのだが、イスラム教徒からの脅迫が相次ぎどこのテレビ局も取り扱わないので、インターネットでの放映となったが、これも放映していたサーバーが次々に脅迫されビデオサイトはあちこちで閉鎖されてしまっている。これについてマイク・ロスが書いている。

元々、このビデオはNetwork Solutions社が運営するデータセンターにあるコンピューターにあるサイトから世界に配信されるはずだった。しかし、過激イスラムを恐れ、サイトはシャットダウンされた。また、別に作ったサイトはイスラムハッカーによって乗っ取られてしまった。

先週末にLiveLeakのサイトでYoutubeと同じ様に見れる形でアップロードされていたが、Liveleak社が従業員の身をあんじて配信を中止した。

つまり、イスラム教の暴力性を告発するドキュメンタリー映画を放映しようとしたところ、怒ったイスラム教徒らがテレビ局やサーバーに暴力的な脅迫をしてその放映を阻止したというわけである。平和な宗教が聞いてあきれるわな。

そして世界の人々の人権に神経質な国連の人権擁護審議会はといえば、このドキュメンタリーはイスラム教徒を侮辱するものであるから即刻その放映を各国で禁止すべきであるという条令を発令したというのだからお笑いである。

この条令はフランス、ドイツ、イギリス、カナダなど10か国の反対を押し切って、21対10で通過した。

EU諸国は対宗教侮辱法が言論の自由を規制するものになるとしてこの条令には反対したが、サウジアラビア代表は言論の自由について間違った解釈があると主張した。

もちろんその通りだろうとも。サウジアラビアのいう言論の自由とは、イスラム教を讃え、ユダヤ人を蔑む言論の自由という意味なのであり、イスラム教を批判する行為は言論の自由として認められないと考えているのだからこの発言は当たり前である。

ヨーロッパ連合は(条令の)内容が一方的でありイスラムへの攻撃のみを特定しているとした。

しかしサウジアラビアは「言論の自由という名の下にイスラムのみが攻撃の犠牲者になっているせいだろう。」とし、この条令は「2001年9月11日の悲劇的な事件後に強まるイスラム教少数派に対する宗教的民族的侮辱運動に対する深い心配を記載するものである」と語った。

サウジ代表はさらに、最近イスラム教やその救世主に対して意図的に悪意のあるステレオタイプなイメージが広められているとして、デンマークでおきたモハメッド漫画掲載などを例にあげてだらだらと文句をいっている。

イスラム教徒は暴力的であるというイメージが西側諸国によって広められているというが、爆弾しょったイスラム教徒が世界中で自爆テロやったり、乗客を乗せた旅客機をビルに突っ込ませたり、宣教師の団体を誘拐して殺してみたり、救世主が漫画でおちょくられたくらいで世界中で暴動おこしたり、法王のイスラム批判に怒って無関係な尼さんを殺したりする行為のほうがよっぽどもイスラム教のイメージダウンに貢献していると思うのは、カカシだけであろうか?

こんなお笑いぐさがあるだろうか?何の罪もない外国人労働者を誘拐して首をちょん切るビデオを製作してはユートゥーブで世界中に放映する行為は表現の自由だが、それを告発する行為はイスラム教徒への侮辱だというのである!非イスラム教徒がいくらイスラム教徒に殺されても、これは人権侵害にはならないが、イスラム教徒以外がイスラム教を言葉や映像で批判する行為は人権侵害だから擁護しなければならないというのである、これが国連のいう人権擁護法なのだ!これがヨーロッパやカナダで適用され、日本が適用しようとしている人権擁護法の実態なのである!

デンマークの政治家が告発するまでもなく、我々非イスラム教徒がステレオタイプなど悪意をもって広げるまでもなく、イスラム教徒らが自ら自分らがどれほど凶暴で野蛮な種族であるかを毎日証明しているではないか!

このドキュメンタリーが世界各国のテレビ局で放映できない理由はなんだ?凶暴で野蛮なイスラム教徒からの復讐を恐れるからではないか。

サウジアラビアや他のイスラム圏諸国が、イスラム教は平和な宗教であり、このようなドキュメンタリーは嘘だと世界中を説得したいのであれば、言論の自由を規制するのではなく、自分らの国々から派生している過激派イスラム教徒らを自ら排除することからはじめるべきだ。テロリズムへの言い訳をすべて西側諸国の悪意のせいにせず、自分らの中に巣食う悪を排除してこそイスラム教が平和な宗教だと世界に知らしめる一番良い方法ではないか。

私は常に西側諸国はイスラム全体を敵にまわすべきではないと書いてきた。イスラム教は平和な宗教として生まれ変わることができるはずだと主張してきた。しかしそれにはイスラムの悪を告発する人々を弾圧していてもはじまらない。そのことに早く気が付かないと我々はいずれ、イスラム教そのものを排除する戦いをするはめになる。そうなったらどちらにとっても決していい結果にはならない。

マイクさんによると、まだダウンロードできるサイトがあるらしい。イスラム教徒らの妨害が激しいのでいつまでアップされているか分からないが、興味のある方は今のうちに御覧になることをお勧めする。

ネット上でこのビデオは探せる。いろんな人たちがダウンロードできるようにサイトを準備し始めている。私はこのサイトからダウンロードした:

http://www.sendspace.com/file/bodnck

ページの下部の  Download Link: VideoFitnatheMovieGe.mp4  をクリックすればダウンロードできます。何時まで、このサイトでダウンロードできるかわかりません。

1939年にナチズムがヨーロッパから葬られた
1989年に共産主義がヨーロッパから葬られた
過激イスラムが葬られるのは何時?

ビデオが行う最後の問いかけです。

March 30, 2008, 現時間 2:34 AM | コメント (1) | トラックバック (0)

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March 29, 2008

イスラムの横暴に腰抜けなイギリス協会

ヨーロッパ , 人権擁護法 , 宗教と文化

The English version of this entry can be read here.


最近イギリスにおけるイスラム教徒の暴挙は目に余るものがある。彼等の暴挙は暴力的な犯罪のみならず、彼等がイギリス政府に要求する理不尽な特別扱いにある。しかしこの状況をみるにつけ、私はイギリスの問題はイスラム教徒にあるのではなく、イギリスの国教のイギリス協会そのものにあるのだと考える。

英国には国教というものがある。多くのイギリス人がこの国の協会による教えを道徳的な基準として仰いでいる。イギリス帝国の国民にとって協会だけは常に妥協せず、変化せず、苦境に屈しない強固な柱のような存在として人々の心の拠り所となっているのである。

人間とは弱いものだ。神の期待に常に応えることはできない。しかし信者たちは神が自分達に何を求めているかを常に知っている。少なくとも人々が神の教えに近付けるように導いてくれるのが協会であるはずだ。

だからこそ人々は他人のために命を投げ出して正しいことをしようとするのではないか?
だからこそ普通の人々が悪と立ち向かうために立ち上がるのではないのか?人々が何が悪で何が善かを知っているからこそ、善を保つために戦う勇気を持てるのではないのか?

しかしもしもその精神の拠り所となるはずの協会が弱腰になって、争いを避けるためにと、ことあるごとに不寛容に寛容になれといって、人間を生け贄にするような野蛮な宗教に理解を示せとか言い出したらどうなるだろう。

信じられないことだが、イギリスでは実際にそんなことはすでに起きているのである。トム・ブランクリーが伝えるこのニュースなどは まさにその典型例だ。

この話は二週間前に、キリスト教文明発展の指導力として900年の伝統を持つ大学のある町、イギリスはオックスフォードから来たものだ。またしても青い鳥よりも恐ろしいものがイギリスの空を脅かしている。オックスフォード中央聖廟の役員たちは聖廟の塔のてっぺんから大型スピーカーで町中に響くようけたたましい音で一日に五回イスラム教のお祈りを放送する許可を申し出たという、過去900年に渡って春夏秋冬に地元の協会の鐘の音だけが聴かれてきたこの町でである。

今さら驚くことではないが、オックスフォードのイギリス協会主教であるジョン・プリットチャート神父は(the Right Rev. John Pritchard)地元のキリスト教信者たちは「多様性を楽しむ」べきであると発表した。この神父は先日イギリスにシャリア法を取り入れるべきだと語ったカンタベリーの大主教の跡継ぎとされている人物である。

問題なのはヨーロッパのイスラム教徒が移住先の社会を彼等の信仰に合わせて変えていこうとしていることではなく、ヨーロッパ人が自ら進んで彼等に迎合しているこである。シャリア法の侵攻はこのまま続くであろう。このまま何の抵抗も受けないのであれば。

もしキリスト教の教えに「多様性」の大事さを説く部分があるというなら見せていただきたいものだ。信仰の多様性を受け入れるならキリスト教を信じる意味がないではないか?壊れた道徳の羅針盤は何処も示さない。暴力への理解は平和などもたらさない。かえってことは混乱し暴力は増すのみである。そしてその結果キリスト教信者は減ってしまうのだ。

イギリスでイスラム教の暴力団が麻薬売買をし未成年の少女たちを売春に追い込んでいるという話は大分前から問題になっている。しかしこうした少女たちの親たちが地元警察に訴えでても警察当局は少数民族の異文化に十分な理解を示していない と責められるのではないかと懸念し、しかもやり過ぎれば人種暴動になりかねないと恐れてイスラムやくざを取り締まろうとしない。(Hat tip to Lionheart.)

昨晩ラマダンファウンデーションのモハメッド・シャフィク会長は警察は犯罪者の人種によって取り扱いを差別していると批判した。

氏によると警察はブラックバーンやオルダムで起きたような人種暴動を恐れて「神経過敏」になりきちんとした取り締まりを行っていないと言う。

今週のパノラマ誌の氏の問題な発言は2004年のチャンネル4のドキュメンタリー番組で爆発敵な話題を巻き起こした問題に再び火をつけることとなった。

この番組ではブラッドフォードのアジア人(パキスタン人)が地元の未成年白人少女たちを売春婦として教育しているというものだったが、チャンネル4の番組リストからは外されていた。

警察が地元の選挙期間中に人種暴動を誘発する恐れがあると主張したことが原因だった。

しかし英国のイスラム教徒たちが要求しているのは「寛容」などという生易しいものではない。最近パキスタン人移民二世代目の青少年たちが、ナチス台頭直前のヒットラー青年団よろしく、キリスト教徒やユダヤ教徒に対して実際に暴力を振るう事件が 相次いでいる。

三月五日、聖ジョージ協会の前で、神父のカラーを着用していたキャノン・アインスワースさん57歳は(Canon Ainsworth)二人のアジア人の若者に殴る蹴るの暴力を受けた。その間もう一人が宗教的暴言を叫び続けたという。神父は切り傷、打撲、両目に青あざの怪我を負った。神父は聖バースロミュー病院から一旦退院したが、その後怪我の後遺症が出たため再び入院した。

しかし英国警察はなにもしない。イギリス協会もただただ腰を抜かすだけである。いや、厳密にはそれは正しくない。警察がなにもしてないというのは嘘だ。 彼等はイスラムの暴挙を暴露したイギリス人ブロガーライオンハートをイスラム教徒への人種的な嫌悪を広めるとして逮捕していたんだっけ。ミスター苺が皮肉っぽく、「イギリスには言論の自由が尊重されてて良かったねえ〜。」と言っている。これもイギリスの人権擁護法のたまものである。

どうやらイギリスはイスラム過激派を止めることより、それを暴露する人間の口を閉ざし、シャリアという五右衛門風呂のなかで序々に煮え殺されるのを好むらしい。ローチェスター市の主教、マイケル・ナズィアー・アリ神父(the Right Reverend Michael Nazir-Ali)がイスラム教徒による非イスラム教徒への暴力を非難すると、反対に彼に対してあちこちから非難轟々の嵐が集まった。自由民主党の党首までも一緒になって神父を非難しているのだから信じられない。

日曜日のテレグラフ紙にローチェスター市の主教、マイケル・ナズィアー・アリ神父は多様性こそが宗教団体を隔離する原因であり、非イスラム教徒らがイスラム過激派が占めている土地でひどい扱いを受けていると書いた。

アリ神父は政府が強制している混合は「道徳および精神的な見解」に欠けるとし(国教として)設立されているイギリス協会を優先しないことを指摘、これが「多様信仰のちゃんぽん」になったと強く批判した。

神父はさらにシャリア法の一部、特に聖廟の上から大型スピーカーでの祈祷放送は英国において適切であるかどうか懸念を示した。

これに対して自由民主党の党首、ニック・クレッグ氏は神父は非イスラム教徒「立ち入り禁止地区」ができているという証拠を出していないとし、神父の発言は「非常に挑発的ないい方だ」と表現した。

クレッグ氏が文化的に敏感であれば、神父の名前からして彼がパキスタン系移民であることに気が付いたはずだ。神父の家族自体はずっとキリスト教徒だったらしいが、イスラム社会で少数派のキリスト教徒としてイスラム教を批判することがどれほど勇気のいることか、多様文化に理解を示すことに忙しいクレッグ氏には理解できないのだろう。イスラム社会出身なだけあってアリ神父にはイギリス協会の教えが根本的にイスラム教のそれとは相容れないことを身にしみにて知っているのであろう。

で、このような信者や神父らへのイスラム教徒による暴力をイギリス協会の大主教様はどう思われているのかといえば、この人は以前にもイギリスにシャリアを適用すべきなどといってるようなトンデモ大主教だけあって、今回もまた イスラム過激派とその犠牲者を同等扱いする発言をした。.

神父の文章はちょっと難かしいので直訳せずに要約すると、要するに内部で分裂している社会でも外部からの敵を正しく見極めることができれば一時的に団結することが出来るのは自然である。不安定な状態にあるイスラム圏の人々が不思議な西側のキリスト教を悪視するのも、困惑し脅えたヨーロッパ社会がイスラム教を「自分らの生き方を破壊する」宗教だという映像にしがみつくのも同じことなのである。といった意味のことを書いている。

大主教がこんな調子じゃ英国のイスラム教徒がごう慢になるのは当たり前だ。そして同時にイギリスのキリスト教徒たちが宗教そのものに失望して協会を去っていくのも当然の成り行きである。といってカトリック教会が迷える子羊の英国市民をすくってくれるのかといえば、ローマ法王からも援助の手が届いているという話は聞かない。

イギリスでは最近結婚する人の数が極端に減っているそうだ。今年は記録的に結婚数が最低だったという。イスラム教徒が増え、協会へいく人々の数が激減し、「アジア人青年たち」が一夫多妻性を本気で要求する世の中で、協会が何だ、結婚がなんだ、神様が何だ、キリスト教などくそくらえだ!とイギリス市民がやけになるのは当たり前ではないか?

ローウェン・ウィリアムス大主教やジョン・プリチャード主教の声は英国中に響き渡る。真の危険はイスラム教徒達がごう慢になることではなく、英国市民が絶望し信仰を捨ててしまうことにあるのだ。もし英国のキリスト教徒たちがイギリス協会に精神的な救いを見いだせなくなったならば彼等が何処へ行けばいいのだ? もし協会がイスラムテロリストもキリスト教信者も何の変わりもないのだと主張するなら、誰が祈ったり聖書に従ったり結婚したりする必要があるのだ?そんな神のために誰が戦ったりするものか!

私はキリスト教徒ではないが、それでもイギリス協会が直面している危機は肌で感じるものがある。だからあえていわせてもらう。イギリス協会は多様主義社会主義左翼世俗主義の神父らを即刻排除すべきである。これはまずカンタベリーの大主教を追い出すことからはじめるべきだ。奴らには神の言葉を代弁する資格などない!自分の宗教の教えを体を張って守れないような腰抜けな人間に自分を神父などと呼ぶ資格はない!こんな奴らをのさばらせておいてはイギリス協会そのものの破壊を意味するだけでなく偉大なる英国として知られた国自身の崩壊を意味するのだ。

イギリス協会の存続は英国の存続を意味する。英国は決してイギリス協会をこいつら腰抜け主教どもに乗っ取られてはならない!

カカシには偉大なる英国が抵抗もせずにイスラム教の魔の手に墜ちるのを見るに忍びない。英国には悪と立ち向かう勇気ある騎士は一人も残っていないのか? もちろん中には勇気ある人々が何人かはいる。ライオンハートがそのひとりだし、メラニーやアリ神父もそのひとりだ。そしてアフガニスタンやイラクでイスラム過激派と戦うイギリス軍人たちの存在も忘れてはならない。(トニー・ブレアが去った後では軍隊も本領を発揮できないでいるが)

しかし彼等だけではまだまだ足りない。イギリス協会が彼等の背後を守ってくれないのに、どやって戦士らは目の前の敵に面することができるのだ?

March 29, 2008, 現時間 1:47 AM | コメント (3) | トラックバック (1)

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March 22, 2008

人権擁護法絶対反対! 市民の判断よりお上の判断を信じる推進者たち

フェミニズム , 人権擁護法 , 宗教と文化 , 移民問題

社会でおきる差別行為は差別をする法律さえ取り除いてしまえば、後は自由市場が解決してくれる、また人権を迫害するような言動も個人から構成される社会の道徳的な判断によって制裁される、というのがカカシの主題だ。だが、自由市場に任せておいては完璧な解決は望めない、もしくは能率的で早急な解決は無理だと主張する人々が後を絶たない。

人権擁護法推進者や男女共同参画やジェンダーフリーを唱える人々がその部類だが、彼等に共通しているのは、自由市場や個々の市民の判断で解決できない問題が、なぜか法律を通すことによって解決出来ると考えている点だ。例の左翼変態フェミニストや当ブログに宛てられたあるコメンターの意見などはその典型的な例である。私の他人を侮辱するような行為や人道的に正しくない行為は法律で罰するのではなく、社会が制裁すべきだという意見に対してこのコメンターはこう述べた。

カカシさん、あなたは道徳に反する行為に対して社会的制裁を加えることを肯定しています。個々の判断で制裁を加えることは、私刑(リンチ)につながりかねません。

だが人権擁護法によって市民が罰せられる可能性についてはこのように述べている。

悪意で人を傷つける言動が言論の自由で守られると思って、平気で侮辱をするような恐ろしい人のいない、住みよい国なるでしょうね。

なぜ個人の判断は信用できないが政治家や裁判官の判断は信用できるのかという問いに対しては、

立法は議員により、その議員は我々の代表です。選挙で選べるし、意見を述べ、法を改廃することも可能です。民主主義の基本です。

民主主義の基本は「民」である。個々の民の判断力を全く信用しないで、お役人の判断だけを信用するなどという考えが民主主義などであるものか。こういうのを社会主義というのだ。

私に理解できないのは、こういう主張をする人々は、どうして政府が人々の行動に介入することのほうが、個々の市民が個人的な判断を下す行為よりも、より人道的で能率的な結果を生むと確信できるのかということなのだ。

このコメンターは悪意で他人の気持ちを傷つけた人間が国によって罰せられた例として、初対面の女性を「デブ」と侮辱して訴えられ禁固刑になった男性の話をあげている。他人をデブといって相手の気持ちを傷つける行為が違法なら、会う度にカカシをデブといって侮辱する我が母など終身刑の罰を受けることになってしまう。

本来見ず知らずの女性に「デブ」などといって侮辱するようなけしからん男は、周りの人々から白い目で見られ軽蔑され、他の女性たちからも全く相手にされないというような社会的制裁を受ければ十分なはず。この礼儀知らずは社会の道徳観が裁けばよいのであって、法律で罰する必要などない。

だが、人権擁護法が成立すれば、このような事件は日常茶飯事に起きることだろう。なぜなら推進者たちは人々の気持ちは政府が守ってあげる義務がある、、いや政府だけが守る権限があると考えているからだ。不道徳な行為や失礼な行為を細いことまで違法として政府が罰するような世の中は、他人を『平気で侮辱をするような恐ろしい人のいない、住みよい国』になるどころか、盗みや凶暴な犯罪が頻発する心の荒んだ粗雑な世の中と化すのである。

何度も言うように合法であるということと道徳的に正しい行為であるということとは別だ。他人を傷つけるような失礼なことを言わない、というのは親からしつけられた礼儀作法というものだろう。だがそれを法律で取り締まってしまうと個人はそのような行為は道徳的に失礼だと判断する能力を失ってしまう。「違法だからしない行為」はいずれ、「つかまりさえしなければやってもいい行為」という解釈になる。法律が誰にでも均等に適用されるというならまだしも、人々の言動に関してこのような多大なる権限を与えられた役人がその権限を悪用しはじめ、相手次第で適用が不公平になってくればなおさらである。

いくら選挙で選ばれたとはいえ、立法に関わる政治家とはどういう種類の人間たちなのだ? 政治家など自分の政治的権力を常に増幅させたいと望んでいる野心家の集まりではないか。そういう人々が差別をされている少数民族やか弱い女性の救済を道徳心だけで行うとは信じがたい。これらの政治家が表向きや建前はともかく、どれほどきれいごとを言ってみても、彼等が押し進める政策は彼等にとって個人的な利益となることに違いないのだ。となれば、この政治家の野心を利用していくらでもあくどい団体や企業が政治家に取り入って自分の都合のいいような政策をつくってもらうことが可能となる。

このことはお隣の中国を見ていれば歴然としているではないか。政府が人々から信仰をとりあげ、人々による個々の道徳的判断を取り上げた結果、中国人は釘で打ち付けてないものはなんでも盗むと悪評が高い。衛生管理だの安全管理をする役人は腐敗しきっているから、工業廃水は垂れながし、品質管理はずさん、あげくの果てに猛毒殺虫剤を含んだ冷凍餃子や汚染された増血剤や偽グリセリンのまざった歯磨きなどが外国に輸出され、何百人という外国人を殺すはめになる。

日本でも腐敗した政治家の贈賄事件だの、市役所の役人が国民の税金や年金を長年に渡って横領していた事件などいくらでもあるではないか。そのような人間に我々の崇高な人権擁護を全面的に任せて彼等がその権力を悪用しないと推進者たちは本気で考えているのだろうか?

いや、私は前述のコメンターにしろ左翼変態フェミニストにしろ、彼等がそれほどナイーブで愚かだとは思わない。それどころか彼等は政府にそのような絶対的な権限を与えることが、個々の市民の権利を極端に迫害し自由社会を破壊する結果を生むことを十分に承知しているのである。あえていわせてもらうならば、人権擁護法推進者の本当の目的は人権擁護でも弱者救済でもなく政府による市民の完全統制、つまり、共産主義やファシズムのような社会主義の確立なのである。少数民族はその道具として使われているに過ぎない。

我々市民は人権擁護などという上辺だけのきれいごとに騙されてはならない。断じて政府にそのような権限を与えてはならない。個人の行いは個人が責任を持つ社会、それこそが文明社会の基盤である。

March 22, 2008, 現時間 10:27 AM | コメント (5) | トラックバック (0)

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March 19, 2008

同性結婚は文明社会を破壊する

アメリカ内政 , フェミニズム , 人権擁護法 , 宗教と文化

先日、私は同性結婚には反対するというエントリーを書いたが、それについて読者の方からいくつかご意見をいただいたので、そのなかから重要な点を言及してみたい。

異人種弾圧のための結婚規制

一時期禁止されていた異人種同士の結婚も見直されたのだから、同性同士の結婚も見直されてもいいのではないですか?異人種結婚を認めるにあたっても、反対派からはそんなことをしたら他の形の結婚も認めざる終えなくなるという意見が聞かれましたが、そのようなことにはならなかったじゃないですか?

アメリカで異人種間の結婚が禁止されていた理由は、異人種への偏見というよりも、少数民族のアメリカにおける社会的な地位の維持が目的だった。多くの人が黒人は白人に劣ると考えていたことは事実だが、黒人と白人の夫婦が白人同士の夫婦とそれほど変わりがあると思われていたわけではない。

異人種同士の結婚を禁止するという制度はヨーロッパでもアメリカでも決して伝統的なものではない。それどころか、アメリカでは奴隷制度をまだ布いていた南部で白人男性による黒人女性との結婚が相次ぎ、混血児が一般の白人社会に入り込むことが日常茶飯事に起きていた。社会的地位が低い少数民族との結婚による混血の存在は、その少数民族の地位があいまいになってしまい、奴隷制度の崩壊にもつながる。異人種の低い地位を維持するためには混血児の存在は非常に問題だ。困った白人社会が悩んだ末の苦肉の策が白人と黒人の結婚禁止だったわけだ。そのほかにも地元インディアンとの結婚や中国人移民との結婚を禁止する法律などが多くの州で通されたが、これもすでにそういう結婚をする人が後を絶たなかったため、法律を通すことでそうした行為を阻止する必要があったのである。

南北戦争が終わり奴隷制度が廃止されると共に、異人種間結婚禁止法はすぐに見直された。1967年のラビング対バージニア(Loving v. Virginia)訴訟で違反するとされた憲法は南北戦争直後の1868年に通った憲法修正第14条なのである。

奴隷制度が廃止された19世紀の終わりごろから異人種間結婚禁止法を全国的に廃止しようという議案は議会で何度も提案されていた。しかしアメリカは連邦制度をとっているため、それぞれの州によって結婚の法律もまちまちであり異人種への姿勢も異なることから、全国的に均一な廃止は出来ないでいた。

南部での禁止法廃止が1960年代までかかったのは、南北戦争後も根強い人種差別意識が残っていたせいだが、1960年代の人権運動と共に、そうした人種差別法が次々と廃止されるにしたがって、異人種間結婚禁止も見直されたのである。つまり、異人種間結婚禁止令というのはもともと少数民族を弾圧するための政治的な法律であり、結婚制度への挑戦ではなかったのである。

男女の違いは明白

異人種間結婚の禁止が人種差別を強制しておきたい権力者によって作られたせいぜい2~3百年程度の歴史しかない新しい制度であったのに対し、一夫一婦制はアメリカ市民、いや文明社会では少なくとも2000年以上の太古の昔から圧倒的多数の市民によって受け入れられ支持されてきた制度である。

いにしえの昔から、どこの社会でも異人種への差別や偏見を批判する意見は聞くことができた。これはどこの世界でも人種が違うからといって人間としてそれほど差があるわけではないという考えがあったからだ。しかし世界ひろしといえども、男と女に差がないという意見を述べるひとなどいない。

生物学的に見て、男は黒人であろうと白人であろうと黄色人種であろうと男であることに変わりはない。多少肌の色や顔つきが違うという以外は人種が違うからという理由で女に子供を生ませて一緒に家庭を築くという意味ではなんの弊害もない。

だが、男と女では生物学的に全く違う。顔立ちや肌の色などという表面的な違いではなく、肉体の構造もその機能もまるで別物だ。はっきり言って男に子供を生むことはできないし、女はほかの女に子供を生ませることはできないのだ。つまり、子供を生んで育てるという種の存続を考えた場合、男女の結婚は異人種であろうと同人種であろうと全く違いはないが、同性同士の結婚では不可能なことである。

結婚は公の行為である。

同性結婚を認めたからといって異性結婚にどういう影響があるというのですか?結婚がどういう形であるか、どのような意味のものとするかはそれぞれの個人もしくは家族に任されるべきではないのか?常に個人の判断が政府の判断よりも重要視されるべきだと主張しているカカシさんが、いったいいつから規制が好きな大きな政府主義になったんですか?

ここでひとつ私ははっきりさせておきたいことがある。私は別に同性愛行為そのものが不道徳であるとは考えていないし、違法であるべきだなどとも考えていない。お互い納得した大人同士が相手を永久的に傷つけるような行為さえしていなければ、閉ざされた扉の向こうでなにをしようと私には一向にかまわない。であるから同性愛者同士が一緒に住むことも全く問題ないと考える。

同性愛者同士の同棲はかまわないのに、どうして結婚はいけないのか。それは同性愛行為も同棲も個人がプライベートにすることであり、社会制度の変更を必要としないからである。

それに比べて結婚とは公(おおやけ)の場で社会の承認と祝福を求める非常に公な行為である。必然的にその社会が結婚はこうあるべきだという規則に従わないものを結婚と呼ぶことは出来なくなる。それを無理やり社会に押し付ければ、社会は結婚そのものを拒絶するようになる。

結婚は特権である。

とはいえ、読者の皆さんは、「どうしてベティとマリーが結婚したら、苺畑夫婦の結婚が意味のないものになるんですか?」という疑問を抱かれるかもしれない。確かにベティとマリーの結婚はカカシとミスター苺の関係を変えるわけではない。個人的に我々の結婚に特定の悪影響を与えるというわけでもないだろう。では何が問題なのか?それは、結婚を誰にでも同じように与えられた権利ではなく、特別な条件を満たした人のみに社会が与える特権だと考えれば解りやすい。

昔私の職場の近くに高給なスポーツクラブがあった。ここは会員費が高いだけでなく、会員になれる資格が非常に厳しく、年収がいくら以上でなければならないとか、他の会員からの紹介がなければならないとか色々うるさかった。よってここの会員であるということが一種のステータスシンボルとなった。ところが会費の安いスポーツクラブがあちこちに出来、このクラブは経営不振に陥った。そこで困ったクラブは会員の資格をうるさく言わなくなった。そうなるとこのクラブの会員であることの意味が全く変わってしまった。別にクラブの施設やサービスが変わったわけではない。個人的にそれまでのメンバーにこれといった悪影響が出たというわけでもない。だが、このクラブの会員であるという特別なステータスシンボルとしての意味合いは完全に消えてしまったのである。そんなクラブに高い会費を出してまで入っている意味はないので、メンバーは続々と辞めてしまい、結局そのクラブはつぶれてしまった。

結婚とはこの特別なクラブの会員になるようなもので、特別な条件を満たしたものだけに与えられる特権なのである。自分は特別だと思って入会したのに、条件をきちんと満たしていない人たちまで無差別に入会させるというなら自分らが入会している意味がない。自然とこのクラブの存在価値そのものが消失してしまうわけだ。となれば、こんなクラブに新しい会員を募るのは難しくなるだろう。

同性結婚は結婚制度を破壊する

同性結婚を認めることは種の存続をも脅かすこととなる。これは決して同性結婚を容認したら、異性愛者が突然同性結婚に走るという意味ではない。以前にも書いたように結婚というものが特権でなくなれば、とりたてて結婚をしなければならない意味が失せるため結婚をする人が減り、必然的に子供を生み育てるひとが減るという意味である。

これは単なる卓上の空論ではない。すでに結婚とはいかないまでも、同性愛者のカップルを法的に認める法律の存在するヨーロッパ各地で、最近結婚する人の数がとみに減っているというのは事実なのだ。

ウィークリースタンダードに掲載されたスタンリー・カーツのエッセイによれば、同性愛カップルを法的に認めたスカンジナビア諸国では結婚せずに子供を生むひとが増えているという。もう10年以上も前に同性結婚を認めたスエーデンやノルウェーでは生まれてくる子供の60%の親が未婚だという。

同性結婚によって、結婚と子育てという習慣が壊されてしまったことと、どのような形の家庭も受け入れられるという考えができ、子供を生むのに結婚している必要はないという理屈になったのだろう。同性結婚という異質な結婚による家庭が許容されるなら、未婚の両親という家庭も別に悪くはないという当然の成り行きである。

同性結婚推進者であるジャーナリストのアンドリュー・サリバンとエール大学教授のウィリアム・エスクリッジJr.がダレン・スピーデール(Darren Spedale)という独立研究者が1990年代におこなったデンマークでの調査をもとに、同性結婚は結婚制度を弱めるどころか強める結果となったと発表した。それというのも、デンマークでは同性結婚が容認されて以来離婚するカップルが減り、結婚するカップルが増えたというのである。

しかしながら、この現象にはからくりがある。1990年代のデンマークでは結婚する人の数が大幅に減った。結婚している人の絶対数が減ったのだから離婚する絶対数が減るのは当たり前である。また、多くの人が結婚せずに同棲しているため、結婚せずに子供を生んだカップルがまだ子供が幼少のうちに離別しても、その率は公式な記録に残らないのである。

結婚するカップルの数が増えたというのも、傾向ではなく一時的なもので、1997年の結婚率がデンマーク史上最低であったため、その後多少盛り返したというだけのものだ。しかも結婚したのはすでに結婚せずに一人目の子供を生んだカップルが二人目の子供が生まれた時点で正式に結婚するといった例がほとんどであった。それにしたところで、最近はその傾向も薄らいでいる。

ノルウェーでは、1990年から2000年にかけて未婚のカップルによる出生がなんと39%から50%に増えた。スエーデンでは47%から55%に増えている。デンマークでは変化はないが、1990年にすでに46%だったというのだからこれもひどい。

スカンジナビアで未婚のまま子供を生む傾向が高まったのはこれらの国で過激派フェミニズムが台頭した1970年代の頃からだが、過半数を超える傾向として拍車をかけたのは同性結婚の容認である。子供を生む国民の半数以上が子供を生み育てるために結婚する必要がないと考えているとしたらこれは恐ろしいことだ。今かろうじて結婚制度が保たれているのは、わずかに残った宗教的な考えから最初の子供を未婚で生んだカップルが二人目のときは正式に結婚しようとしているからで、もしこの傾向すらもなくなったら、スカンジナビアにおいて結婚制度は崩壊の一途をたどるだろう。すでに極端な少子化が深刻な問題となっているヨーロッパでは結婚の減少によってますます少子化が進むであろう。

このままでは、少子化による人手不足で取り入れたイスラム系移民たちによる暴虐に苦しめられているデンマークで、全く産児制限などしないイスラム教徒らに国を乗っ取られるのは時間の問題である。

離婚率と未婚の母の率が高いアメリカとしてはスカンジナビアで起きている問題は他人事ではない。もしここでアメリカも同性結婚を認めれば、アメリカもまたスカンジナビア諸国の二の舞になることは間違いない。そうなって一番不幸になるのは両親なしで育つ子供たちである。

一夫一婦制の結婚は文明社会の基盤である。結婚した両親のもとで育つ子供が文明社会を担うのである。その基盤を破壊すれば、文明社会そのものが破壊される。

そのようなことを阻止するためにも、結婚は一人の男と一人の女との間だけという基本的な制度を断固守って行く必要があるのである。

March 19, 2008, 現時間 1:05 AM | コメント (2) | トラックバック (2)

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March 8, 2008

ジェンダーフリーは自由社会を破壊する

フェミニズム , 人権擁護法 , 宗教と文化

今カリフォルニアの法廷では、同性同士の結婚を承認するかどうかという審議がされている。カリフォルニア州は比較的リベラルな州なので、読者のみなさんは、これがカリフォルニア州民の希望によって審議されているとお考えになるかもしれないが、実はその逆である。

加州民は2000年の選挙のときに、国中で同性結婚推進の動きが一部の過激派によって激しくなってきたのを懸念し、「カリフォルニアは一人の男と一人の女との結婚のみを承認する。」という州法が圧倒的多数の市民の同意によってすでに通っているのである。では法廷はなにをやっているのかというと、この法律が合憲であるかどうかを審議しているのだ。

なぜ一夫一婦制が合憲かどうかなどという審議が今さら必要なのか、同性結婚推進者の理屈は、異性同士の結婚が許されるのに同性同士の結婚が許されないのはどの個人も同等の権利を保証されるという憲法に違反するというのである。

彼等にいわせると、異性愛者は好きなもの同士で結婚できるのに、同性愛者にそれができないのは不公平だというわけだ。しかし、異性愛者同士でも好きなもの同士なんの規制もなく結婚できるかといえばそうではない。

結婚というものは、いにしえの昔から、公の結合であり決して個人の好き嫌いだけで決められてきた訳ではない。結婚に関する規制はどこの社会にもあるが自由社会においてもそれなりの規制があり、その規制は性別だけに限らない。年齢や血族関係、そして人数にも規制がある。これらの規制が憲法違反でないなら、性別の規制も憲法違反にはならないはずだ。

無論、アメリカでは異人種同士の結婚が禁止されていた時期があった。その法律は撤回されているので、これと同性結婚の規制とどういう違いがあるのかという質問は出てくる。だが、人種間の差は単に皮膚の色が違うというだけで、黒人の男も白人の男も男であることには変わりはないが、男と女とでは全く生物学的に違うではないか?

第一異人種間の結婚禁止令は法廷によって違憲とされて覆されたのではなく、アメリカ市民が異人種間の違いは全く問題がないとして、議会を通して既存の法律を廃止したのである。一夫一婦制度はアメリカ市民の大半が支持しており、異人種間結婚の規制とはまるで性質が違う。

日本では同性結婚などというものは起こりえないとみなさんがお考えなら、甘い、と申し上げる。アメリカでも同性結婚など大半の市民が認めていない。にも関わらずあちこちの州で同性結婚が法廷を通して州民に無理矢理強制されるという事例がすでに起きているのである。カリフォルニアが2000年に一夫一婦制を改めて法律に取り入れたのは、そうした州で「結婚」した人々がカリフォルニア州でも夫婦と認めよと要求してくるのを拒むのが目的だったのだ。

男女共同参画の基盤となっているジェンダーフリーという性別解消の思想が横行すれば、それが必然的に同性結婚へと結びつくことは目に見えている。性に違いがないなら同性同士の結婚になんの問題があるというのだ、という理屈になるからだ。

一夫一婦制は文明社会の基盤である

数年前、同僚の若い男性何人かと仕事の帰りに飲みにいった時のことである。テーブルにつくや否や、一人の若い男性が席を立った。しばらくしてこの男性は片手にカクテルを持って戻ってきた。カカシは「エリック、あなたガールフレンドいないでしょ?」と聞くと、彼は不思議そうに私の顔をみて「いないけど、どうして?」と聞いてきた。ガールフレンドがいれば、自分の飲み物だけひとりでさっさと買いにいくなど彼女が許すはずがないからである。彼女のいる男性なら、同席をしている女性に「飲み物買ってくるけど、君も何か飲む?」と聞くぐらいの気遣いはする。

異性の伴侶がいる人間は、男と女の違いを知っている。それぞれの強い面も弱い面も知っているから、それを考慮にいれて他人にも接することができる。だが、同性同士でしか付き合いのない人間はその違いを理解できずに間違いをおかすことが多々ある。

これが子育てとなってくると男の父親と女の母親は子供の人間形成には欠かせない要因となる。男の子が強い父親がか弱い母親を守るお手本を見ずにどうやって女性を大事にすることを学ぶのか?母親が父親の辛い時に慰めの役目を果たす図を見ずに女の子はどうやって思いやりを学ぶのか?

アメリカで母子家庭の多い黒人の間で犯罪率が他の人種よりも極端に多いのは決して偶然ではない。父親のいない家庭では男の子が粗雑になるのだ。母親がどれだけ立派でも父親の代わりはできない。

また一夫多妻制度を取り入れているイスラム諸国やアフリカ諸国を見てみた場合、女性の権利はどこでも極端に制限されている。女性の数が男性よりもずっと多いというのならともかく、一人の男性が多くの女性を妻にめとえば、女性にあぶれる男性が出てくる。そうなれば女性は奪い合いになるから、女性は男性の所有物的扱いとなり外へ出さずにかこっておくという扱いになる。サウジアラビアなどで女性が家族の男性同伴でなければ外出できないなどという規則があるのはまさにこれが理由だ。

一夫多妻制度のなかで育つこどもは、父親との交流は少ない。父親は常に母親や子供のそばにいるわけではなく、その時々の気分で母親の元をおとずれるわけだから、子供はほとんど女たちの間だけで育つことになる。

母子家庭や一夫多妻制度における子育ての弊害を考えた場合、ここで試されてもいない両親同性という家族構成を社会に紹介する危険を我々は十分に危惧すべきである。すでに一番理想の一夫一婦制という制度が存在する社会に、なぜ試されてもいない別の制度を人々が望んでもいないのに適用する必要があるのだ?適用するだけの価値があることが全く証明されてもいないのに、その弊害も明らかでないのに次の世代を担う子供たちを実験のモルモットとして危険にさらす必要がどこにあるのだ?

何でもありは何もないのと同じ

同性結婚を許可することがどうして一夫一婦制度の破壊につながるのかという疑問が出るのは当然だ。しかし社会が決めた結婚への規制をひとつ外せば、他の規制についての見直しも必要とされるのは当然だ。好きなもの同士が結婚できるというのなら、血縁者が結婚できないというのはおかしいという理論になる。なぜ兄妹や甥姪では駄目なのかということになる。近親相姦による劣性遺伝の問題も、最近は妊娠中に遺伝子を調べて健康な子供かどうか確かめた上で生めば解決できるのだから。また100人の人間が愛し合っていますといって「結婚」してお互いの扶養家族となって減税の対象となるなどということも大いにあり得る。

結婚がどういう形でも許されるということになれば、結婚による特別な関係は意味のないものとなる。これまで結婚といえば一人の女性が一人の男性とお互いに忠誠を誓い合って一緒に子供を生んで育てていこうという覚悟で結ばれるものであった。それが誰とでも何人とでもただ一緒にいることが結婚だとするなら、結婚そのもの意味は失われる。西洋社会の基盤となってきた両親がいて子供がいてという家族単位も破壊される。そんな意味のないものを特にする必要もないので、「結婚」などする人は極端に減るだろう。そうなれば子供を生み育てるのはいったい誰の責任となるのだ?

ただでさえ少子化のすすむ文明社会で結婚そのものがなくなったら、これは種の存続にも関わる危機ではないか?

家族を破壊するジェンダーフリー全体主義

どっかの左翼変態フェミニストが「個人主義を徹底させるのがジェンダーフリーでしょ」などと大嘘をついていたが、個々の性別を無視することで個人が尊重されるなどナンセンスである。

ファシストのムッソーリーニにしろ、ナチスドイツにしろ、共産主義の旧ソ連にしろ、これらの独裁政権は常に「個人の自由」だの「独立」だの「平等」だの奇麗ごとを言っては国民を騙してきた。ジェンダーフリー推進者も「自由」「平等」「個人主義」など耳障りのいい言葉を使いながら、実際には恐ろしい全体主義のジェンダーフリー思想を我々に押し付けようとしているのだ。その証拠にジェンダーフリーが適用される時にはかならず全体主義の形で適用されている。左翼変態フェミニストたちの二枚舌に騙されてはならない。

全体主義の独裁政権は常に伝統的な家族構成を破壊することで個人から自由を奪ってきた。親の権限を取り除くことで、政府が親代わりをしようというのである。全体主義政権において子供の洗脳は必要不可欠である。だから男女共同参画が学校教育の場で始まったというのは大いに納得がいく。

教育界においてジェンダーフリーがどのように適用されているのか、作家の長尾誠夫氏が書いているサイトから少し紹介しよう。

長尾氏は、このエッセーのなかで小中学校における学校教育がいかに伝統的な家族構成を敵視しているかを例をあげて述べておられるが、家族と専業主婦への敵視と題されるこれなどは本当にひどい。

中学ともなると、その内容も多岐にわたるようになる。(以下、『ジェンダーフリー教育』明石書店より)

ある中学の家庭科教師は、教科書に家族団欒の光景が載り、「家庭は共同生活を営む場で、家族が安心して毎日の生活を送り、明日への活動力をつくりだす場でもある」(開隆堂)とあることから、両親がそろっているのが当たり前で、そうでない家庭の子供に対する差別や偏見が生じると思い、様々な家庭があることを認識させるために、深江誠子という人の手記を読ませた。

深江氏は「五歳で生母と死別し、その後母が三人も変わり、恩義を受けた三番目の母が社会から冷遇されていたのを知り、被差別の立場にある人に関心を持つようになり、自らの子供を差別社会と闘わせるためにあえて私生児した」人である(手記より)。手記に言う。「私は自分の生んだ子を私生児にすることに何のためらいもなかった。私は家庭が波瀾に満ちていたからこそ、既存の結婚制度の欺瞞性を見抜く力を養われた」と。

深江氏がいかなる考えを持とうと自由だが、学校教育とは社会の仕組みや秩序を教えるのが基本であり、反社会的な考えを持ちこむのは禁物だろう。これでは既存の結婚制度や家族を否定しているようなものである。

このような教育を子供にすることが、両親は一夫一婦であるべき、子供は結婚した夫婦の間でだけ生むべきであり、私生児を生むことは自分達の道徳観に反する行為だと思っている親の権利はどうなるのだ?

また、例の左翼変態フェミニストのように性別を確定すること自体が性差別だという考えが横行するなら、学校の性教育で子供たちにセックスは好きな相手となら誰とでもしてもいい、結婚の相手は異性である必要はないと教えることになるだろう。宗教上の理由から同性愛は罪だと教えたい親の個人的な権利はここでも踏みにじられる。

ジェンダーフリーは個人主義を徹底させるだの個性をのばすなど、すべて嘘である。本当の目的は性別を無視することで伝統的な男女間の関係を破壊し、家族構成を破壊し、自由社会の基盤を破壊することにあるのだ。

最近はジェンダーフリーという言葉があらわす内容の恐ろしさが人々の間でも理解されるようになったため、その本来の定義を書き換えて実は全く別物であるかのように表現したり、別の言葉を使ったりしてごまかそうとする動きがある。

ジェンダーフリーが、いつの間にかジェンダーセンシティブとかジェンダーニュートラルとかいう名前に変わっても、読者の皆様、だまされてはいけない!彼等の目的は自由社会の破壊にあるのだということを一時たりと忘れてはならないのである!

March 8, 2008, 現時間 10:05 PM | コメント (13) | トラックバック (4)

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銅像にバーカ! ヨーロッパでイスラム教女性虐待に抗議

フェミニズム , ヨーロッパ , 人権擁護法 , 宗教と文化

アメリカのリベラルフェミニストたちは、クリントン時代にはイスラム圏の女性虐待の習慣にずいぶん批判的であったのに、いったんブッシュ政権になってイスラム教テロリストとの戦いが始まるやいなや、イスラム教への批判を完全にやめてしまった。それどころか、いまだに依然としてイスラム圏の女性虐待を批判するフェミニストたちを「過激派」などといって批判するにいたっている。

そんななか、ヨーロッパのフェミニストたちは自分達の原点を忘れていない。Gate of Viennaによると、去年の9月を皮切りに、ヨーロッパ各地のドイツ語を話す国々で、暴走するイスラム教徒による女性虐待に抗議した女性たちが各地の銅像にイスラム教の女性が着る、頭からかかとまで覆い隠す、バーカという着物を着せる静かな運動を行っているそうだ。

この運動を行っている団体の声明文によると、先日2008年3月6日、この団体はヨーロッパ各地で銅像にバーカを着せる運動をおこなった。これはヨーロッパのイスラム化及びそれによって禁句とされる問題について市民に討論を呼びかけるのが目的である。過去6か月に渡って団体はドイツ、フィンランド、ロシアなどヨーロッパ全土に広めてきた。今回、Berlin, Braunschweig, Dortmund, Düsseldorf, Helsinki, Moscow, Tampere, そして Turku,において、8体の銅像にバーカもしくはスカーフを着せた。ヨーロッパの価値観を強調するため、銅像には「男女平等」と書かれた腕章をつけさせ、片方の手に1948年に国連で適用された人権宣言の条約が書かれた看板をもたせ、もう片方の手にコーランの女性の扱いかたが書かれた看板をもたせた。

彼等はヨーロッパ各地で、バーカやスカーフを着て歩くイスラム教女性の姿が目立つようになってきたことを懸念して、これはヨーロッパ諸国の自由と平等へのあからさまな挑戦だと考えている。そして彼等はイスラムの教えにはヨーロッパの基盤である男女平等、個人の自由、人権といったものとは絶対に相容れないものがあるとし、このことについてヨーロッパ市民は十分に考えるべきだとしている。

以前に私はイギリスのカンタベリー主教がイギリスにも一部イスラム教の法則シャリアを取り入れるべきだと提案したことについて書いたが、この団体は、シャリアとコーランを文字どおりに適用するやり方はヨーロッパの自由主義に真っ向から逆らうものであり、共存は不可能であるとしている。

移民を多く受け入れた国ではどこでも同じ問題を抱えるが、常識的に考えて、移民を受け入れた国が移民に合わせるのではなく、移民してきた人々こそが自分を受け入れてくれた国の文化や法律を尊重するのが筋のはず。にも関わらず、欧米諸国に移住してきたイスラム教徒たちは、自分達の法律をそのまま持ち込み、それが移住先の国の法律に触れようとどうしようとおかまいなしに施行する。そしてホストカントリーの市民が苦情を述べれば、「差別だ」、人権侵害だ!」といって大騒ぎをする。

最近イギリスではスーパーのレジで、イスラム教の店員は酒類を扱わなくてもよいことになったところが出来たという。アメリカでもボストンのハーバード大学でおくゆかしいイスラム教女性のために体育館で女性のみの使用時間を設けはじめた。

イギリスやカナダで人権擁護法がイスラム批判をする人々への言論弾圧につながっていることは、ここでも何度も紹介しているが、欧州諸国でもイスラム批判はほぼタブーな主題となっているようだ。そこでこの団体の目的は、禁制とされているこれらの問題、特に女性虐待の習慣について、ヨーロッパ市民は討論をすべきであると呼びかけているのである。

しかし我々はイスラム教徒の宗教の自由を尊重すべきではないのか、という意見もある。無論、自由諸国においては宗教の自由は尊重されなければならない。だが、それもその宗教がその土地の法律に触れない限りにおいてという条件はつけるべきだ。そうでなければ、その宗教が人間の生け贄を神に捧げるのが習慣だったら、自由諸国で乙女が八つ裂きにされるのを容認してもいいのか、ということになってしまうからだ。

ヨーロッパ諸国では、実際に家族の名前を汚したとして、親の決めた許嫁ではなく自分の好きな人と結婚しようとした女性が父兄に殺されたり、妹の離婚の自由を弁護した兄が父親の雇ったやくざに半殺しの目に合うといった事件が頻繁に起きている。これも、シャリア法で規定されているからといってヨーロッパ諸国は容認してもいいというのか?

このやり方ではイスラム教徒という少数派の人権を守るという名目で、イスラム教社会に生きざるおえない移民個人の人権は無視されている。親がイスラム教徒なら子供は好むと好まざるとにかかわらずイスラム教徒であるとされる。シャリア法では改宗は認められないどころか極刑に値する罪である。このような社会で生きる個人には人権も自由もあり得ないのだ。このような社会で女性がバーカやスカーフを着用するのが彼女たちの自由意志であるなどと考えるのはナイーブすぎる。

この団体の主張は、自由国家に生きる人間は誰もがその自由国家の法律によって守られるべきであり、イスラム教徒も例外であってはならないということだ。本当の意味での人権尊重はイスラム社会の自分勝手な行動を容認することではなく、権力のある一部のイスラム教徒による人権迫害から市民を守ることにあるのである。

我々はこの運動を通じて、特定の宗教運動に禁句となった主題があり、それに即座に対処すべきであるということを提示するものである。禁句とされている主題だからといって我々は黙っているべきではない。この問題を指摘することは人種差別ではない。イスラム社会に生きる女性たちが、それがわが国であろうと外国であろうと、彼女たちの権利について我々が主張しないことこそ人種差別である。かつて西洋の女性たちの人権のために立ち上がった人々はどこへ行ったのだ?イスラム教女性だけは援助もせずに放っておいていいという理屈は成り立たない。

ここでこの団体は人権宣言とコーランを比べ、どこが違っているかを提示している。国連の人権宣言では『すべての人間は生まれながらにして自由であり平等な尊厳と権利を持つ。』

“All human beings are born free and equal in dignity and rights. They are endowed with reason and conscience and should act towards one another in a spirit of brotherhood.”

— Universal Declaration of Human Rights, United Nations, Art. 1

とあるのに対して、コーランでは、

“To those (women) on whose part you fear desertion, admonish them, and leave them alone in the sleeping-places and beat them.”

— Quran, Sura 4,34

逃走する可能性のある女ちは、警告せよ、そして寝床に放置せよ、そして殴れ。

以前にとある左翼フェミニストが、どうしてフェミニストがイスラム教を批判しなきゃいけないのだと聞いていた。ぜひとも彼女に読んでほしい声明文だ。

March 8, 2008, 現時間 10:58 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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March 2, 2008

左翼の二枚舌を見抜く方法

フェミニズム , 人権擁護法 , 宗教と文化

私がここ最近議論を交わしてきたあるフェミニストは、私がこれまでに遭遇してきた数知れない左翼連中となんらかわりはない。彼等一般に共通するのは、公平な議論をせず常に卑怯な手段で相手をはぐらかそうとするものである。そこで、私は今回彼等特有の卑怯な議論のやり方をある左翼フェミニストのやり方を例にとっておさらいしてみたい。断っておくが、これは決して特定の人間への個人攻撃ではない。

(A) 満たせない条件付きの提言(Argument by unsatisfiable conditionality)

以前にも左翼の連中は何故か自分を左翼と認めたがらない傾向があると指摘したが、左翼のなかでも多少頭が切れる連中は、一般人の間で受け入れやすい思想とそうでない思想の違いを十分に承知している。だから表向きは常識的なことを言うが、よくよく話を聞いてみるとそれとは全く反対のことを信じていることが多い。我々一般人は左翼のこうした本音と建前を見抜く目を鍛える必要がある。

彼等がどのように矛盾する二つの考えをつなぎあわせるのかというと、「満たせない条件付きの提言」という手段を使うのだ。これは最初に常識的な提言をした後で、「但し〜の場合に限る」というような条件をつける。ところが彼の特定する〜の場合は存在しないため、最初の提言が本当になることはない。結論として彼の最初の提言は覆されてしまうのである。分かりやすい例をあげると、、、

例1

提言(建前):私は自由市場を信じているので、政府介入は支持しない。
条件:但し自由市場が完璧な問題解決が出来る場合に限る。
満たされない条件:自由市場による完璧な問題解決など存在しない。
結論(本音):私は自由市場を信じていないので政府介入を支持する。

例2

提言(建前):(大学や職場で特定の少数民族や女性の人数の枠組みを決める)クォータ制度は支持しない。
条件:但し、ほかに差別是正のための良い方法がない場合にはクォータ制を支持する。
満たされない条件:クォータ制以外の是正方法など存在しない。
結論(本音):クォータ制度を支持する。

無論、この場合彼等が課した条件が実際に存在しているかどうかは彼等自身の判断によるものなので、条件が満たされることは絶対にないのは言うまでもない。

(B) 既存する言葉の定義の書き換える(Law of tendentious redifinition)

左翼連中はすでに存在している言葉の意味を自分勝手に都合のいいように書き換えるのが得意だ。これにはもともと衝撃的な意味のある言葉の定義を拡大し、元の意味で解釈した一般人に間違った印象を与えるやり方と、言葉の提言を縮小し元の意味で話をしている論敵の説がその言葉にはあてはまらないというやり方や、ごく普通に使われてきた言葉を突然差別用語だと勝手に指定したりするやり方がある。

例3

a) 衝撃的な言葉を別の意味で使い、それを知らない一般人に衝撃的な印象を持たせるやりかた:

男性嫌いの過激派フェミニストは男女間における全てのセックスはたとえ合意の上でもレイプだと定義を書き換える。そして書き換えられた意味を説明せずに、妻とセックスした男性のことをあの男は強姦魔だと言って、何も知らない一般人に間違った印象を与える。また、元々侮蔑語であるクィアという言葉の定義を単に異性愛者ではない人という定義に書き換えて、自分はクィアであると言っておきながら、論敵から「じゃあ今後クィアという意味で変態とお呼びしてもよろしいんですね。」というと「変態などといって侮辱するな!」というふうに言い、なにもしらない第三者に論敵からやみくもに変態扱いされたと犠牲者ぶるわけである。(アップデート、3月3日:ミス左翼の推薦するサイトでもクィアは変態と訳されている。)

例4

b) 言葉の定義を都合のいいように狭くするやり方:

私が先日話をしていたアファーマティブアクション(AA)だが、私はこの政策は法律によって市民に強制されていると語った。しかしミス左翼は、「アファーマティブアクションという法律は存在しない。存在しない法律が強制されるわけがない」といいはじめた。確かにAA法という名前の法律は存在しないが、AAは地方政府の設立した規則や法廷での判定などの課程を得て強制されている。普通『法律』というのは、政府が取り決め市民が従わなければならない施行力のある、社会の規則のことを言う。ところが、彼女は『法律』という言葉を『連邦政府が議会で通したもののみ』という非常に狭い意味で定義し、地方政府が取り決めた規則や法廷で出た判定などは『法律』ではないと言い張るのである。こうすることによって、彼女のいう「AAという法律は存在しない」という理屈が成り立つわけだ。一般的に広義な意味で使われている言葉の定義を極端に狭めることで、どれほど的を射た相手の議論も絶対にあてはまらないようにする。これで「あなたの言うことはこのこととは全く関係ない」と言い張るのがこの方法の狙いである。

例5

普通の言葉を差別語にするやり方:

これは非常に単純なやり方だが非常に効果のあるやり方だ。今まで普通にある特定の人々を説明する言葉として使われていた言葉を突然「差別用語だから使ってはいけない」と言い張る。間違った呼び方をすると人種差別者だといわれかねないので、人々は神経質になって常に正しい言葉を使おうとする。例えば、昔黒人はニグロと言われていた。これは単に「黒」という意味で、特に侮蔑的ないい方ではない。ニグロという言葉のついた団体まで存在しているくらいだから。しかしいつの頃からか、これは差別用語だと市民団体が言い出した。今後はアフリカンと呼ばなければならない、いや、アフリカンは差別だ、カラードと呼ぶべきだ、いや、カラードは差別用語だブラックと呼ぶべきだ、いやブラックは差別だ、ピープルオブカラーと呼ぶべきだ、いや、それは駄目だアフリカンアメリカと呼ぶべきだ、、、、というように。このように常に言葉の定義を変えることによって一般人を常にびくびくさせることが目的だ。

(C) 限りなく漠然とした複雑な文章

左翼連中は絶対に自分の考えていることをはっきりと他人が理解できるように表現しない。何故ならば、彼等の目的は自分の考えていることを正しく相手に伝えることではなく、相手を限りなく混乱させることにあるからだ。

左翼連中は非常に簡単な質問の答えでも長々と複雑な文章で答える。しかしよくよく読んでいるとのらりくらりと答えを避けただけで何の答えにもなっていない。それで「つまりあなたはこういうことがいいたいのですね?」というと「そんなことは言ってない!」と、あたかも分からないのはこちらの読解力が不足するせいだとでもいうような言い方をする。それで彼等はまた説明になっていない説明を繰り返し、こちらが「ではこういう意味なのですか?」というと「そんなことは言ってないってばああ〜」とどうしてこんな簡単なことが分からないのだという反応をする。

それでこちらもしびれをきらして「イエスかノーかで答えて下さい!」というと、「こんな複雑な問題をイエスとかノーで答えろというほうに無理がある。」とはぐらかすのである。下記は、とある左翼フェミニストとのコメント欄で交わされた一連の会話だが、これを読んでいただくとカカシのいう意味がお分かり頂けると思う。

カカシ:あなたをレズビアンといったのは、あなたが自分のことをクィア(同性愛者)だといったことと、あなたは女性であると思ったからですが、違うんですか?

ミス左翼:クィア=同性愛者、ではありません。いまさらあなたにあれこれ説明してそれを理解してもらおうとは思いませんが、同じではないことだけはご理解ください。(もし理解したい、とのことでしたら、「デルタG」というサイトで「クィア・スタディーズ入門」というすばらしい連載があるので、一般教養と思って読んでみてはと思います。)

コメンター:クィア=同性愛者ではないという回答ですが、上記の質問は左翼さんが同性愛者であるかどうかということではないでしょうか?私も左翼さんの文章は読んでいてときどきはぐらかしているような印象を受けることがあります

ミス左翼:単純にイエスかノーで応えないからですか? しかし世の中イエスかノーで応えられる問題だけではないでしょう?

自分が同性愛者かどうか、イエスかノーかで答えられないってのもおかしな話だが、彼女がこれを読めといってリンクを貼付けたサイトにいってみると、なんと何章にも渡る一冊の本!なんで私が他人の性嗜好を知るために長々と本を一冊よまなきゃならないのよ、といいたい。はっきりいって私は彼女の下半身にそこまで興味ない。

しかし今後も左翼と効果的な議論を交わすためには、左翼のいう言葉使いも勉強しておく価値はあるかなと思い直した。かなり苦労した挙げ句に該当しそうな部分を斜め読みしてみたら下記のよう部分があった。

Queer(以後、「クィア」とカタカナ表記)はもともと「奇妙な」という意味です。これは古い意味合いなので、いまでは「奇妙な」という意味ではあまり使われないのですが、もとは奇妙だ、ヘンだ、おかしい、という意味で、そこから同性愛者、とりわけゲイ男性を指す蔑称として使われるようになっていました。

.....この言葉を「再盗用」するにあたって、「奇妙な」「まっとうでない」という原義が使いやすくしっくりきたというのは、間違いがないと思われる。つまり、具体的な特定のありかたを指すのではなく、ただ漠然と「変」「普通と違う」というように、社会状況のなかでの自分たちのありかたをあらわすのに、一番使いやすい言葉だったということ。...

クィアとは、どこか奇妙で、普通ではない、変だ、正当ではないという感覚、態度なのだ、ということは強調しておきたい。

性嗜好が「」で「奇妙な」「普通とは違う」「度」の人のことを一般的に「変態」と呼ぶのではないのか?だったらクィアは変態でいいではないか、などと読者がお考えならまだまだ甘い!そのような読解力ではミス左翼には勝てない!

カカシ:だったら『変態』でぴったしじゃない!

ミス左翼:しかし、あれだけ分かりやすいリソースを紹介してもこの程度の理解しかできない人がいるとは驚きました。あれ以上簡単な解説なんてほぼあり得ないでしょう。

分かりやすいもなにも、このサイトには「クィアとは何か」という章に、クィアの定義が一つも載ってない!ただただクィア学の思想はこうである、ああである、とどうでもいいことがだらだらと書き連ねてあるだけで、クィアとはこういう性癖を持つ人のことをいうのであるとはどこにも書かれてない。書かれているなら非常に良く隠されている。ミス左翼が本気でクィアの定義を私に分からせたいと思っているなら、自分がその部分を抜粋して添付すればいいことであり、それをこの本を読めと言って解らないのはお前が悪いという態度をとっているのは、非常に不誠実だが左翼典型のやり方だ。

結局この一連の会話から私はいまだにミス左翼が同性愛者なのか異性愛者なのかわからない。いや、それをいうならミス左翼が女性なのか男性なのかさえも分からない。無論、ミス左翼の本当の目的は我々読者がいつまでも混乱している姿をほくそ笑んでみていることにあるのだからわからなくて当たり前だ。

左翼の二枚舌を見抜くには、左翼の使うこのような数々の手管を十分に研究しておく必要がある。練習として下記にミス左翼とのやりとりをいくつか掲載しておこう。読者のみなさんがどれだけ上記のやり方を指摘できるか試しにやってみるのも悪くない。

****************************
下記はとある左翼(多分共産主義ではなくてファシストらしい)変態フェミニストのコメント欄から一部抜粋しました。

例題1:

ミス左翼:「ブッシュ大統領は純粋な保守派ではない」とか、自分は純粋な保守派だと思っているから言えることであって、そういう純化主義・純化思想は一般社会から見れば過激だとしか言えない。

カカシ:私のことを純粋な保守派だといってくれてありがとうございます。

ミス左翼:言ってません。あなたが自分のことをそう思っているのだろう、とは言いましたが、あなたのことを「純粋な保守派」だとわたしが評価しているわけではありません。

例題2:

カカシ:左翼さんは自分は自由市場を信じるといってますが、あなたは企業や個人が自分達の偏見や差別意識を持つ自由を全く許せない。本当に自由市場を信じるなら、偏見に満ち満ちた企業が自分勝手なやり方で商売に失敗する権利を守るべきです。

ミス左翼:偏見や差別意識の自由は100%完璧に支持します。そしてそれを公に主張する権利も支持します。ネオナチでも「新しい教科書をつくる会」でもカカシさんでも、信条の自由と言論の自由は尊重されるべきです。問題は偏見や差別意識ではなく、差別行為です。

統計型差別においては差別的に行動すればするほど商売に成功してしまう。そればかりかインセンティヴ・ギャップまで生み出して、社会的格差をさらに深刻にしてしまう。市場はこの悪循環を解消する術を持ちません。
 
カカシ:差別への制裁は政府がするのではなく、我々消費者や社会がすればいいのです。それが本当の自由です。

ミス左翼:理想論としては良いですが、まったく現実的でなく話になりません。それができればそもそもこんな問題になってないって。

カカシ:あなたは個人からなる社会が自由市場であなたの気に入る結論を出さない場合は、政府が介入して是正すべきだという考えな訳です。 あなたは市場の決断よりも政府の介入の方を信頼しているわけです。 これがまさしく社会主義の典型的な考えです。

ミス左翼:違います。ほとんどの場合政府の介入は市場の効用を下げることになるので(つまりは人々の平均的な自由度や豊かさが犠牲にされるということです)、どういう施策を導入すればどの程度弊害があるのか冷静に調査したうえで、その弊害を施策の効用と比較して社会的に受け入れるべきトレードオフなのかどうか民主的に決定すべきであるという考えです。...おかしなことを勝手に決めつけないでください。

...市場の失敗によって市場がうまく働かない場合や、市場に任せた結果がわたしたちの社会に広く共有された倫理観・公正観から観て容認しがたい場合も生じます。そのとき、市場の不十分なところを補うためにどの程度なら社会的にコストを負担できるのかは民主的に決定されるべきです。わたしの好みを一方的に押しつけるつもりはありません。

カカシ:つまりまとめると、あなたは自分が気に入った結果を生んでいる限りは自由市場を支持するが、その結果があなたから見て不十分な時には民主主義のプロセスを踏んだ上でという条件付きで政府介入も容認する。 ですね?

ミス左翼:そのまとめは2つの点において正しくありません。

まず第一に、政府の介入をわたしが容認するためには、自由市場の出した結果がただ単にわたしの好みに合わないというだけでなく、公共的な倫理もしくは公正観に反するという判断をわたしが下すことが要件です。...つまり、わたしがある施策を容認するかどうかはただ単にわたしが「気に入るかどうか」ではなく、そこに公共的な理由があるかどうかを基準としているということです。

第二に、市場の結果が不十分なものであったとしても、政府が介入すれば良くなるとは限りません。「市場の失敗」に注意する必要があるのと同様に、「政府の失敗」の危険にも気をつけるべきです。すなわち、政府の介入を容認するためには、介入が実際に社会に利益をもたらすこと、そして介入によってもたらされる社会的な利益が介入によるコストを上回ることが示される必要があるでしょう。

例題3:

カカシ:あなたは「クォータ制を支持しない」といいましたよね?だとしたら裁判で訴えられた企業が示談にしろ判定にしろ、少数民族の雇用昇格のクォータ制を強いられた場合、つまりテキサコとかコカコーラなどのように(ロサンゼルス警察もこれに含まれますが)あなたにその権限があったとしたらこのクォータ制を撤回しますか?

ミス左翼:もしクォータ制より良い方法があるなら撤回しますが、クォータ制であるという事実だけを理由に必ず撤回されるべきだとは考えません。わたしが支持しない施策であっても、何もしないよりはマシな状況だってあり得るわけで。そもそも、裁判の判決や和解条件として導入されるクォータ制はアファーマティヴアクションとは全然違う話なので、両者をごちゃ混ぜに議論するのはやめてね。

カカシ:で、クォータ制は支持するんですか?しないんですか?イエスかノーの質問です。答えて下さい。

ミス左翼:イエスかノーで回答できるような質問ではありません。基本的に、クォータ制は融通が効かず弊害の大きい制度なので、あまり褒められたことではないと考えていますが、絶対に行なってはいけないほどの悪だとも思いません。あくまで与えられた状況に即してでなければ、応えられないのです。

カカシ:つまりまとめると、...基本的にはクォータ制は支持しないが、他に適当な是正策がない時はクォータ制も容認する。ですね?

ミス左翼:そのまとめは正しくありません。なぜなら他に適当な是正策がなくても、クォータ制の弊害の方がもともとの問題より深刻であれば、何もしないことが最善の選択であるということになります。「他に是正策がない」というだけで自動的にクォータ制が容認されるわけではありません。

カカシ:では...アメリカですでに起きている状況でクォータ制以外によい方法がない状況とはどういう状況のことをいうのですか?

ミス左翼:いますぐ特に思いつきませんが、わたしが知らないことだって世の中にはあるのですから、絶対にそういう状況がないとまでは言いきれません。

March 2, 2008, 現時間 2:33 AM | コメント (9) | トラックバック (2)

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February 24, 2008

人権擁護法反対! アメリカの悪制度アファーマティブアクションに学ぶ

フェミニズム , 人権擁護法 , 宗教と文化 , 教育と政治

お断り:このエントリーは数時間前に掲載したものを訂正して書き直したものです。特定の人物への個人攻撃のような内容があったのでその部分を削除しました。数時間前の内容と多少違う面があることをご了承ください。

米国で少数民族や女性が大学への入学や就職の際に不当な差別を受けないようにと設けられた制度にアファーマティブアクション(AA)というものがある。これについて私は何度かその悪質な特質について、大学入試や就職の際に特定の少数民族が優遇される人数枠組みを決めたいわゆるクォータ制を例にあげて、ここやここで述べてきた。

私の説明するような形ではアファーマティブアクションは存在しないと主張する人もいる。厳密な意味でアファーマティブアクションという法律が存在しないと言うのは正しい。AAは連邦政府の方針であり、その適用は州単位でそれぞれの地域が自分らに見合ったと思われる規則を設立して行うことになっているからだ。しかしAAを適用するために設立された規制や規則は私がいう通りの結果を生んでいるのであり、そんな法律は存在しないから、カカシのいっていることは真実ではないという言い方はそうした現実を無視した非常に不誠実な意見である。

AAには良い面もあれば悪い面もあると主張する人は、アウトリーチ(勧誘)という制度に重点を置いて話をしている。アウトリーチとは、普通では大学入学などには不利な立場にいると思われる少数民族が一流の大学に入れるように種々の方法で援助をするというのが建前になっている。だが、時間もお金も手間もかかるアウトリーチなどという制度は簡単に適用できるものではない。結果的に簡単に適用出来るクォータ制度が優先し、アウトリーチなど現実の日の目を見ないのが普通だ。つまり建前はどうあれ、現実的にはAAの適用は少数派優遇のクォータ制となったり、アウトリーチという名目で少数派受験生の成績が水増しされたりする形で落ち着いてしまうのである。だから私に言わせればAAに良い面など存在しない。

悪法アファーマティブアクションが生んだ訴訟例:

AAの悪質な制度は1961年の創設当時から問題になっていた。1969年には当時のニクソン大統領が、AAの目的は差別廃止の「目的と予定表」(goals and timetable)であって、少数民族優遇システムであってはならないと説明しなければならないほどだった。しかし、その不公平な適用は1970年代から最近では2001年に至るまであちこちで訴訟の対象となっている。

最初にアファーマティブアクションによる不公正な大学入試制度に関する訴訟を紹介しよう。私は以前にアメリカの大学入試システムをこのように説明した。

大学入試を例にして説明すると、大学入学の際、少数民族だからといって入学を拒否されないように、新入生の人種の枠をつける方針が多くの大学で取り入れられた。 この枠組みはアメリカ社会の人口比率が参考にされており、詳細は学校によって違うがここでは便宜上黒人20%、ラテン系10%、東洋系10%、白人60%としておこう。 ここで問題なのは大学志願者の比率が社会の人口比率とは一致しない点である。 これは文化の違いによるのだが、黒人やラテン系の若者が大学へ進む比率は東洋人や白人のそれよりもずっと低い。 ということは同じ大学へ志願しているにもかかわらず人種によってその倍率が全く違うということになってしまうわけだ。

下記の訴訟例を吟味してみよう。

1979年、カリフォルニア州立大学対バッキー(the University of California v. Bakke): 大学の不公平な入学制度に挑戦した一番有名な訴訟は、1979年にカリフォルニア州立のデイビス医学大学においておきた。当時UCデイビスでは、100人中の16人は少数民族のためにとっておくという人員枠を決めており、入学の基準も少数民族と白人学生とでは全く違う二重基準になっていた。アラン・バッキーという白人学生は自分よりも成績の劣る少数民族の学生が合格したのに自分が入学を拒否されたのは人種差別であり、憲法違反であるとして大学側を訴えた。

合衆国最高裁判所は、人種が大学入試基準の一部として考慮されることは正当だが、融通のきかない人員枠決めは正当ではないと判決をくだした。

1996年、カリフォルニア州、提案209条: 1990年代の後半からカリフォルニアを中心に、アファーマティブアクションによる不公平な大学入学システムを廃止しようという運動が起きた。カリフォルニアの黒人ビジネスマン、ワード・コネリーは1996年に特定の人種や性別を優遇する入学システムを全面的に廃止する法律、提案209条を提案。カリフォルニア州市民の圧倒的多数の同意を得て議案は通過した。しかし、小山エミが「賛成する人などどこにもいない」といっている少数民族優遇システムを支持する運動家らが、この法律は憲法違反だとして州を相手に訴訟を起こし、一旦は地方裁判所(U.S. District Court)で議案の施行一旦停止判決がでたが、後の高等裁判所の審査によって(9th Circuit Court)判決は覆され法律として成立した。しかしその後も少数民族女性優遇システムを支持する人々の間からこの法律への訴訟は後を絶たない。

ところで、この法律が通って以来、バークレーのような一流大学への入学生は減ったが、カリフォルニアの州立大学全体では少数民族の卒業率が増加した。つまりAAによって自分の能力にあわない高度な大学へ行って落ちこぼれていた少数民族の学生たちが、自分の能力にあった大学へ入ったため、卒業率が増えたということだ。いくら一流大学へ入っても、ついていけずに落ちこぼれるくらいなら、二流大学でもちゃんと卒業したほうがいいに決まっている。AAの少数民族優遇制度がいかに少数民族を傷つけてきたかという証拠だ。

1996年、ホップワード対テキサス大学法律学校(Hopwood v. University of Texas Law School):シェリル・ホップウッド並びに三人の白人受験生がテキサス大学のアファーマティブアクションに挑戦して起こした訴訟。ホップウッドたちは自分たちが入学を拒否されたのは学力が劣るにも関わらず一部の少数民族が優先されたからだと主張。 その結果、法廷は(the 5th U.S. Court of Appeals)は大学のアファーマティブアクションによる入学制度を差しとめるように命令し、同時に1978年のバッキー訴訟で、人種が入学審査の際に考慮に入れられるのは正当であるとした判決は不当であったと裁断した。これが原因でテキサス州は1997年から入学審査に人種中立の制度を取り入れることになった。

2003年、グラッツ、ハマチャー/グラッター対ミシガン州立大学 Gratz and Hamacher / Grutter v.The Regents of the University of Michigan

2003年に最高裁判所が下した判決は、ミシガン州立大学のAA制度に対する二つの訴訟がもとになっている。ミシガン州立大学と法律学校の双方で、人種を基準にした大学受け入れ制度は憲法違反であるという訴えが起きたが、地方裁判所は人種が入学基準の一部の要素となることは正当であると判決をくだした。ただし大学のほうで少数民族の受験生に水増し点があてがわれる制度は改正されるべきであるとした。後に最高裁は人種を考慮することは憲法違反であるとすでに判決が出ていることから、この判決は覆された。

不公正な就職制度

AAが適用されるのは大学入学審査の時だけではない。就職や職場での昇格や解雇の時などでも考慮される。私はそのことについてこのように説明した。

AAは才能のあるなしに関わらず、ある企業はある一定数の少数民族や女性を雇わなければならない、それだけでなく、昇進の時でも人種や性別を考慮にいれなければならない。仕事のできない少数民族や女性でもやたらに解雇できないといった非常に厳しい規制がある。こうなってくると企業は少数民族や女性を雇う利点を見いだすことができない。かえって少数民族や女性には迷惑な政府介入なのである。

これに関して企業におけるアファーマティヴアクションはあくまで企業が自主的に行なうもので、それを強制するような法律は存在しないという人がいる。これも厳密には正しい。しかしここでどうして企業が自主的にAAを起用したりするのか考えてみる必要がある。AAの実施は企業にとって合理的でも経済的でもない。ではなぜそんなことを強制もされていないのにやるのか?

アメリカではAAとは別にEqual Employment Opportunity Law (EEO)という職場での差別を禁じる法律がある。職場で差別を受けたと思う従業員はEEOCという連邦施設に苦情を訴えられるようになっている。企業が差別訴訟を避けるための予防対策としては、AAを自発的に適用することが最善の方法なのだ。つまり、「わが社はAAを取り入れており人種差別はしておりません」と言うように。

しかし州立の大学でさえアウトリーチなどという面倒くさいことが出来ない以上、企業でのAAでそんなことが出来るはずがない。であるから必然的に簡単なクォータ制度が取り入れられてしまうわけだ。1000人の従業員のうち黒人が一人しかいないという企業はたとえ偶然そうだったとしても、黒人の市民団体から人種差別をしていると訴えられかねないし、やたらに黒人を解雇すれば、黒人差別だといってまたまた訴えられる恐れが十分にあるからだ。

これがどのような結果を生むか、これも訴訟例をあげて吟味してみよう。

1986年、ワイガント対ジャクソン教育委員会(Wygant v. Jackson Board of Education): 少数民族の教員を守るために、年功では勝る少数派でない教員が先に解雇されたことで教育委員会が訴えられた訴訟。最高裁判所は教育委員会の少数民族を保護する目的でも少数民族でない教員から解雇するというのは、雇用の際に少数民族を優遇するというのとは違って、個人に与える損害は大きく正当化できないとして勝訴となった。

AA方針は法律ではなく企業が自発的に適用するものだというが、AAを導入していない公営施設は存在しない。つまり、公務員は必然的にAAの元に生きることになる。それでなくても解雇が難かしい公営施設は民間企業よりも神経質にAA方針を貫こうとする。AAは法律ではないから強制されているわけではないという議論がどれほど空しいかが良く分かるはずだ。

さて、AAそのものに行使力はなくても、裁判所によってクォータ制度が強制されるという例がある。

1987年、合衆国対パラダイス(United States v. Paradise):

アラバマ州の公共安全局(the State of Alabama Department of Public Safety )では組織的に黒人差別をする傾向があるとして、何度も訴えられた。その結果裁判所は、局の従業員の25%が黒人になるまで、白人が一人雇われるごとに一人の黒人が雇われるか昇格されなければならないとした。このクォータ制は上訴されたが、この場合は極端な人種差別を是正するためにやむ終えない処置であったとして維持されるべきと判決が下された。

雇用や昇格にクォータ制度を用いなければならないという法律が存在しなくても、このように裁判所が企業に制度を強制することが出来れば、法律と同じ機能を果たすわけだ。

AAにはほかにも悪い点があるのだが、長くなるのでそれはまた別の機会に続けよう。とにかく、人種や男女差別を廃止する目的で作られた制度が、結果的に一部の少数民族や女性優遇のシステムになってしまったという例として、アメリカのアファーマティブアクションからは、今人権擁護法を考えている日本社会にとって良い反面教師となるはずである。

February 24, 2008, 現時間 8:18 PM | コメント (2) | トラックバック (1)

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February 18, 2008

イギリス、カンタベリー大主教の発言が呼ぶ波紋、その2

ヨーロッパ , 宗教と文化

今日は、イギリスの国教教会の最高指導者であるカンタベリー大主教の問題発言についての分析を続けよう。これまでのお話は下記参照。

ことの起こりはこちら
カンタベリー大主教の発言が呼ぶ波紋、その1

個人主義より全体主義

ウィリアムス大主教にとって大事なのは個人ではなく、その個人が所属する団体である。この場合は無論イスラム教団体だ。

ウィリアムス主教はイスラム教団体がシャリアを求める以上、イスラム教徒全員がシャリアの法のもとで生きるべきだと主張する。ウマと呼ばれるイスラム教徒たちはサウジアラビアに住んでいようと、インドネシアだろうとワジリスタンだろうとパキスタンやアフガニスタンであろうと、パリの郊外であろうとオーストラリアのクロヌラ海岸であろうと、そしてもちろんそれがイギリスでも、イスラム教徒であれば誰でもシャリア法のもとに生きるべきだというのである。ウィリアムスはシャリア法のもとに生きることが個人ではなくウマ(イスラム教徒)という団体が受け継いだ権利だというのだ。

しかし、単にイスラム教という漠然とした宗教でつながっているだけの団体に「権利」などというものがあるのだろうか?(アメリカの法廷では「権利」とは常に個人の権利でありグループや団体に認められるべきではないという裁断をくだしている。)

ウィリアムス大主教が、人々がウマに属している、と語る時これは人々がある協会に所属しているというのとは全く違う意味を持つ。一個人が特定のキリスト教の協会のメンバーになる場合、これはその一個人の意志によるものであり、生まれながらにしてその協会に属しているというわけではない。しかしイスラム教徒は自分が好むと好まざるとに関わらずイスラム教徒の子供として生まれた人間はすべてイスラム教に属すると考える。そのような状況に生まれた一個人がイスラム教を拒絶した場合、イスラム教はその個人の意志を認めるどころか背信者として非常に重たい罪に問う。背信者に課する罰は大抵が死刑である。

ウィリアムス大主教もこの点については問題だと認めており、イギリスの法廷は背信者への罰を認めるべきではないと主張している。しかしながらウィリアムス大主教は背信者への社会的制裁は容認している。つまりウィリアムスは、イスラム教徒として生まれた者がイスラム教を拒絶するのは罪であり死すらもイスラムの呪文から個人を解かない、という概念を容認しているのだ。

ウィリアム大主教が「ウマ」(イスラム教徒)という場合には、こうした自らの意志に反してイスラム教社会に無理矢理組み込まれた人々まで含まれてしまうのである。

非現実的な理想主義:

ウィリアムスの念頭には非常に洗練された理想的なイスラム教徒が存在するようで、イギリスが適用するシャリア法は決して個人の人権を迫害するようなものにはならないという幻想を抱いているようだ。だがこれはイギリスですでに起きている現実とはかけ離れた理想だ。ウィリアムスは自分の目で見ている現実のイスラム教徒を無視している。西洋文化の基本ともいえる推論から観察そして結論を出すというシステムを完全に無視してしまっているのだ。下記はウィリアムス主教のお説教の一部。

There needs to be access to recognised authority acting for a religious group: there is already, of course, an Islamic Shari'a Council, much in demand for rulings on marital questions in the UK; and if we were to see more latitude given in law to rights and scruples rooted in religious identity, we should need a much enhanced and quite sophisticated version of such a body, with increased resource and a high degree of community recognition, so that 'vexatious' claims could be summarily dealt with. The secular lawyer needs to know where the potential conflict is real, legally and religiously serious, and where it is grounded in either nuisance or ignorance. There can be no blank cheques given to unexamined scruples.

14 So the second objection to an increased legal recognition of communal religious identities can be met if we are prepared to think about the basic ground rules that might organise the relationship between jurisdictions, making sure that we do not collude with unexamined systems that have oppressive effect or allow shared public liberties to be decisively taken away by a supplementary jurisdiction. Once again, there are no blank cheques.

ーーイスラム教徒には正しいシャリア法を適用できる公式に認められた組織が必要である。すでにシャリア法を解釈するイスラム法評議会(Islamic Shari'a Council)という非公式な組織がイギリス国内での結婚問題の解決に大変必要とされている。このような組織に合法な権限を与え社会が公式な組織として認めれば、評議会はより洗練されたものとなり、下らない嫌がらせのような訴訟は的確に処分されるようになる。宗教的な習慣を十分に理解した世俗主義の弁護士は、宗教上どういう点で問題が起き、どういう訴えが宗教上正しいもので、どういうものが単に無知やきまぐれからくるものなのか判断する知識を習得する必要がある。こうした調査なくして訴えを盲滅法に認めることはない。またこの新しい法が人々の権利や自由を弾圧するようなものにならないよう十分な配慮が必要であるーー

だが現実にシャリア法を適用することで市民の自由が弾圧されないなどという理想が通用したことはない。マルクス主義の理想がスターリン主義の現実に取って代わられたように、平和主義の理想が凶暴な左翼反米革命主義に変貌したように、シャリア法廷がどれほど「洗練された」西洋式概念を取り入れた形でイギリス国民が納得できるような法廷、という理想で始まろうと現実には単にシャリア法を文字どおり行使する横暴な組織と化すことは目に見えている。

ウィリアムスの欠点は彼が信じているはずの宗教を基盤としている西洋文化を全く信用していないということだ。宗教と西洋の法廷は矛盾しない。もしあるイスラム教徒がシャリア法のもとに生きたいと思えば我々は彼のその権利を尊重する。だが、その反対は絶対に許されない。

ウィリアムスがいうような「洗練された」イスラム教なら特に西洋の法律との矛盾はない。今現在のイギリスで、非公式なシャリア法廷がアクメッドの娘のソフィアはファイサルと結婚しなければならないと決めることは完全に合法だ。ただし、ソフィアとファイサルがその決断を受け入れるか拒絶するかは彼等自身の判断に任される。なぜなら西洋文化は個人の決断の権利を保証しているからだ。

イスラム教への自発的な「服従」はすでに西洋社会は実存する法律で認めている。ウィリアムスがいうようなシャリア法を裁定する法廷など取り入れれば、シャリア法が既存の法律を規制する形になってしまうことは免れない。

  1. イギリスにはすでに強制力はないが自発的に従いたい個人が従うことが出来るイスラム教法廷が存在している。
  2. ウィリアムスはこのイスラム法廷に強制力のある公式な権力を与えよと唱えている。
  3. つまりウィリアムスはイスラム教法廷に、彼等が自分勝手に決めた「イスラム教徒」たちに、個人がそのような法律に従いたいと思っているかどうかにかかわらず、無理矢理にイスラム教を行使する権限を与えよというのだ。

このような法律が適用されれば、現実の社会ではイスラム法評議会が貧民窟のイスラム教住民を独裁政権によって牛耳ることは間違いない。たとえイギリスの法律がそのような拡大されたシャリアを認めなかったとしても、一旦公式で行使力のあるシャリア法が存在するという概念んが人々の思想に入れば、シャリア法をとなえる支配層の権限を強大させようという動きに発展することは間違いないのである。そうなれば無教養で民度の低いイスラム移民がイスラム教リーダーたちの唱える単純なシャリアに従って、奴隷を持ったり、重婚したり、家族の名誉のために妻や娘を殺すことなど普通になるだろう。

「軒下貸して母屋取られる」というように、一旦一部でもシャリアが公式に認められれば、その権限を拡大しようとするのは人間として当たり前の欲望だ。ましてやイスラム教には常に他の宗教を迫害して自分らの宗教を強制的に広めるというモハメッドの教えがある。イスラム教徒が多数を占める地域で、イギリスのごく一部だからといって少しでもシャリアが合法として認められれば、イスラム教徒がそれだけで満足するはずがない。そのうちイスラム教徒が住んでいようといまいとイギリス全体でシャリア法を受け入れるべきだという要求が生まれ、それが実現すれば現存するイギリスの法律がシャリアと矛盾する場合にはシャリアを優先させるべきだという主張になり、いずれはイギリスの法律をシャリアのみにすべきだという要求になるのだ。

それを多数派のイギリス国民が拒絶すれば、シャリアが国の法律となるまでテロ行為をしてでも命がけで戦うと誓う過激派が出てくるのは時間の問題だ。そうなったらイギリスは内乱の憂き目にあう。

イギリスがほんの一部だからなどといって、シャリアの一部でも適用すれば、その妥協はイギリス政府が軟弱な証拠であると解釈され、今こそイギリス政府を攻めるチャンスとばかりに、イスラム教徒らはそれを足場にどんどんと無理難題をふっかけてくるだろう。一旦降参したイギリス法廷が次の要求を拒絶するのはもっとむずかしくなるのだ。

February 18, 2008, 現時間 4:19 PM | コメント (1) | トラックバック (0)

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February 16, 2008

「イギリスはシャリア法を適用すべき」イギリス国教カンタベリー大主教の発言が呼ぶ波紋、その1

ヨーロッパ , 人権擁護法 , 宗教と文化

昨日イギリス国国教会の最高指導者、『カンタベリー大主教が7日、英BBCラジオの番組で、英国内で「シャリア法(イスラム法)」を部分的に適用することは「避けられないと思う」と述べ』た話についてちょっと紹介したが、きょうはお約束どおり、ミスター苺の詳しい分析を参考にしてこちらでも考えてみよう。

人は神を信じなくなると....

人は神を信じなくなると何も信じなくなるのではなく、なんでも信じるようになる。

--とはG.K. Chestertonが 言ったとか言わないとかという話だが言ったとすれば名言だ。

イギリス国教教会の最高指導者であるローワン・ウィリアムス大主教は、険悪化するイギリス在住のイスラム教徒との関係を緩和するためにイスラム回教の法律であるシャリアをイギリス国内で適用すべきであると語ったが、これはおよそ神を信じる者の言うことではない。もしウィリアムスが旧約聖書に描かれている自由(個人が自由に人生を選ぶ権利)を愛する神を信じているならば、それとは全く正反対の概念を唱える宗教をイギリスが取り入れるべきだなどと言えるはずがないからだ。

となると自然に、ローワン・ウィリアムス大主教は本当に神様を信じているのだろうか?という疑問が生まれる。

普遍の正義を拒絶する大主教

ウィリアムス主教の考え方は、マルクス主義ともいえるほど全体主義だ。彼にいわせると世の中には多々の団体が存在するが、その関係は常に競い合う団体同士の力関係にあるというもので、政治上での葛藤は人数が多数を占める「有力な団体」と少数派の「無力な団体」に別れるというものだ。

シャリアをイギリスの法律に取り入れるべきと議論するためには、イスラム教徒が他の改革者と同じように民主的な改革を求めている団体であるかのように扱う必要がある。しかし無論イスラム教団体は民主的な改革など求めていない。彼等は意見があわない人間にファトワを発令し、信者に呼びかけて地下鉄を爆破したりしているのだ。このような理不尽な行為をウィリアム大主教はどう弁護しようというのか?

これはアメリカの黒人活動家のアル・シャープトンやジェシー・ジャクソンなどがよく使う手なのだが、有力な団体(多数派)のみが人種(宗教的)差別を行うことが出来る、という理屈を適用すれば、少数派によるどんな理不尽な行為も正当化することができる。無力な団体である少数派が多数派を差別するのはあたりまえ。これは力のある多数派が少数派を差別するのとは全く別な行為だとするのである。だから少数派が多少荒っぽい行為をしたとしても、(例えば自爆テロとか、、)他に手段がないのだから許されるという理屈になる。

こういう理屈はイスラエルとパレスチナとの紛争でもよく用いられることで、イスラエルが標的を絞った空爆で数人のテロリストを殺すと世間からやいのやいの言われるが、パレスチナのテロリストが自爆テロをやって無関係なユダヤ人を何十人何百人と殺しても、強力な軍隊を持つイスラエルとまともに戦っても勝ち目がないし、歴史的にしいたげられてきた無力な団体だから、パレスチナ人にはテロ以外に方法がないといって弁護される、というように起用される。

であるからウィリアムスはイスラム教徒の多少の横暴は見て見ぬ振りをしてやるべきだというのだ。たとえそれが異教徒を迫害する過激な行為のように見えたとしてもだ。裏を返せばここにカカシにはウィリアム大主教の「所詮イスラム教徒などキリスト教徒と同じ基準で判断するような存在ではない』という差別意識が伺われるのだが、ま、それはそれだ。

下記は大主教のお説教の一部である。難解な文章で直訳は無理なのでまとめるとこういうことになる。

I have argued recently in a discussion of the moral background to legislation about incitement to religious hatred that any crime involving religious offence has to be thought about in terms of its tendency to create or reinforce a position in which a religious person or group could be gravely disadvantaged in regard to access to speaking in public in their own right: offence needs to be connected to issues of power and status, so that a powerful individual or group making derogatory or defamatory statements about a disadvantaged minority might be thought to be increasing that disadvantage. The point I am making here is similar. If the law of the land takes no account of what might be for certain agents a proper rationale for behaviour -- for protest against certain unforeseen professional requirements, for instance, which would compromise religious discipline or belief -- it fails in a significant way to communicate with someone involved in the legal process (or indeed to receive their communication), and so, on at least one kind of legal theory (expounded recently, for example, by R.A. Duff), fails in one of its purposes.

ーーーー宗教上の憎しみが生み出す犯罪については、犯罪を犯した人間が所属する団体がどのくらい無力な立場におかれており、公共で発言する機会がどれほどあるのかを考える必要がある。犯罪は犯罪者の力と立場を考慮に入れて判断されなければならない。法律はその個人の行動がその個人が所属する団体において正しい行為かどうかを見極めてから判断するべきである。それをしないと、その土地の法律が犯罪者個人の所属する団体の宗教や教えに反するものであった場合に、その個人との正しい意思疎通は不可能となる。ーーーー

ユダヤ・キリスト教の基盤となる「普遍の正義」とは画期的な概念だ。それはたとえ犯罪をおかした者が王様であろうと乞食であろうと犯罪は犯罪であり、それは神の法律によって同じように裁かれるという思想である。ウィリアム大主教は「人々は誰も同じように神の法によって裁かれる」という西洋文化の基本となった宗教を投げ捨てて、イスラム教徒だけを特別扱いすべきだと主張しているのである。同じ犯罪をおかしてもイスラム教徒だけは別の法律で特別に裁かれるべきだというのだ。なにしろウィリアムスは英国に在住する他の少数派であるアイルランド人のカトリック法とか、フランス人移民のナポレオン法を適用せよとは呼びかけていないのだから。

西洋文化の土台となる「普遍の正義」というひとつの柱を破壊したウィリアムス大主教は、西洋文化を強く支えてきたもうひとつの柱、「個人主義」もなぎ倒そうとする。

その話は次回に続く。

February 16, 2008, 現時間 11:43 AM | コメント (3) | トラックバック (2)

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February 13, 2008

イギリス、カンタベリー大主教のイスラム教一部適用提案に懸念の声

人権擁護法 , 宗教と文化

ちょうどミスター苺がこの話をしていたので、ここでも取り上げようと思っていたら、イギリス在住の小林恭子さんのブログでも詳しい説明が載っているので、こちらでも紹介しておこう。

ことの起こりは、この間イギリス国教の大教祖ともいうべきカンタベリー大主教がイギリスでも一部イスラム回教法であるシャリアを取り入れるべきだと語ったことだ。カンタベリー大主教ともあろう人がイギリスの平和を乱しているイスラム教にここまで寛容というのは、寛容を通り越して愚かとしか言い様がない。まずは産經新聞の記事より。

英国国教会大主教「イスラム法部分適用」 「1国2制度になる」論争に 2月9日16時10分配信 産経新聞

英国国教会の最高指導者、カンタベリー大主教が7日、英BBCラジオの番組で、英国内で「シャリア法(イスラム法)」を部分的に適用することは「避けられないと思う」と述べ、大論争を巻き起こしている。

 大主教は、英国内の移民が持つ抑圧感を和らげるためには、すべての移民社会が公的手続きに参加できるようにすることが重要との認識を示し、「シャリア法の一部を適用することを考える余地がある」として離婚手続きを一つの例に挙げた。

 英国には約160万人のイスラム系移民が地域社会を形成しており、離婚や結婚では英国の司法体系とは異なるイスラム独特の手続きを取っている。英国と母国で一人ずつ妻を迎える例もある。

 シャリア法には、公開処刑やムチ打ちの刑、女性差別など人権問題に発展する内容も含まれているため、大主教は、過剰な刑罰や女性差別は認められないと強調した。

 しかし、1国2制度を認めると法の支配を根幹から揺るがしかねない。英首相官邸の報道官は「英国の法律に違反する行為をシャリア法で正当化することは認められない。シャリア法を民事裁判に適用すべきではない」と即座に大主教の考えを退けた。大主教周辺からも「発言は英国を驚かせた」などと批判的な意見が相次いだ。(ロンドン 木村正人記者)

これに関して小林さんは反対意見を述べておられるが、その一番大きな点は法の前ですべての人が平等ではなくなるということだろう。

私はいろいろな理由から、シャリア法を入れる、その考え方を反映させることに反対である。一つには、「法の前で英国民が平等」という原則が崩れる。何世紀もかけて、宗教と法を切り離してきた、世俗主義の流れに逆行する。何故イスラム教だけを特別とするのか?

例えばイギリスでは重婚は違反だがシャリアでは合法だ。人工中絶はイギリスでは合法だが社リアでは違法だ。となると同じイギリスにすんでいるイギリス人でも、イスラム教徒とそうでないひとたちは全く別の法律の元に生きるということになってしまう。これではイギリスに移住してきたイスラム教徒がイギリス社会に溶け込むなど無理である。

英国に居住する、ある女性は、「イスラム教徒の女性」という存在なのか、それとも「英国民の女性」という存在なのか?自分は「英国市民」という意識であっても、「イスラム教徒だから」と、別の決まり・法体系で扱われたら、どう感じるだろう?

 私はこれまで、欧州の中のイスラム社会・文化とホスト社会の文化との融合に関して考えをめぐらせてきた。ホスト社会がもっと変わるべきとも主張してきた。しかし、どこかで互いに結びつくための共通の価値観を共有することは非常に重要だし、これは譲れないものと思う。価値観の「同化」ではなく、互いに了解の上の、「共有」が肝心だ。

 現在の英国において、シャリア法の一部反映は社会をばらばらにするだけのように思える。

問題なのはウィリアムス大主教は個人を個人として考えず、その個人が所属している団体を単位にものを考えていることだ。ミスター苺にいわせると、大主教はもう神を信じていないに違いないという。彼が代表する宗教では神が決めた普遍の正義というものが存在する。だがイスラム教徒であれば娘が親が決めた相手以外の男性とつきあっているかもしれないという疑惑だけで娘を殺すことはシャリアで許されているが、無実の者を殺すことはアングリカン教では禁じている。これは殺人者がイスラム教徒であろうとキリスト教徒であろうと殺人の罪は罪なのであり、同じように罰を受けるべきという原則があるのだ。もし大主教がイスラム教徒は特別にこの規則から免除されるというのなら、ウィリアムス大主教は自分の神の決めた「普遍の正義」を信じていないということになる。つまり、ウィリアム大主教は神を信じていないのだ。

『人は神を信じなくなると何も信じなくなるのではなく何でも信じるようになる』

長くなるのでミスター苺の分析は明日から何編かに分けて掲載する。今日は一応簡単な紹介まで。

February 13, 2008, 現時間 9:40 PM | コメント (1) | トラックバック (2)

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February 2, 2008

日本の右翼が反米になる理由

宗教と文化 , 狂ったメディア

The English version of this post can be read here.

先日からコメンターの一宿一飯さんのコメントを読んでいて、なるほど〜と思うことがあった。それは日本の右翼や保守派の間でおきている所謂(いわゆる)『欧米アレルギー』のことである。

私はここ数年起きている日本人の反米意識が非常に不思議でしょうがなかった。リベラル派が自由資本主義のアメリカを嫌うのはしょうがないとしても、国土安全保証や防衛などという点で非常に強力な味方であるアメリカを未だに太平洋戦争で負けたのを恨んでいる一部の人は別として、普通の日本の右派が嫌うという理由が私には合点がいかなかったのである。

それがこの間の一連の会話の間で、私が計らずも言った、日本は「アメリカの悪い点ばかりを輸入している」ということがその原因なのではないかと気が付いた。

日本ではカカシが義務教育を受けた頃のような詰め込み風受験地獄から卒業してゆとり教育なるものが取り入れられたと聞く。以前にも話した通り、去年の9月から12月まで私は日本企業の方々と一緒に仕事をしていて、若い日本人が私より漢字が書けないことに驚かされた。そういえば世界の学力テストでは以前なら常に上位にいた日本が、最近は中国や韓国からかなり引き離されているという話を聞く。私が10代の頃は純血など教育されなくても普通だったのに、今では自由主義な性教育のおかげで10代の性交渉が普通になっているため、純血教育が必要になっているなどという話まで聞いて、いったい日本はどれだけアメリカの悪い面を輸入すれば気が済むのだと腹立たしい思いでいっぱいになる。

今日本で問題になっている人権擁護法だの男女共同参画だの名前からして英語のDV防止法など、元はといえばアメリカや欧州の法律の輸入であり、日本が独自の文化や歴史に見合ったものとして生み出したものではないのだ。しかもこれらの法律や方針には非常に多くの問題点があり、欧州やカナダではその悲惨な結果を今見直している最中だ。

もともと日本の鼻持ちならないエリート左翼連中に『欧米ではこんなに進んでるざ〜ます。日本もみならうべきさ〜ます』などと言われ、他国の法律をあたかも日本の文化よりも優れているかのように押し付けられているだけでも気分が悪いのに、これらがあからさまな人権迫害に結びつくとなっては、日本の愛国者のみなさんが欧米アレルギーを起こすのは当然である。

ヨーロッパのことは分からないが、アメリカだけについて言わせてもらうならば、日本政府や教育界が輸入しているアメリカの方針はアメリカで試され大失敗に終わっているアメリカ左翼が生んだ悪質な方針ばかりだ。しかも日本のメディアは怠慢で独自の取材をしないで、アメリカのニュースといえばアメリカ左翼メディアの報道をそのまま翻訳しただけの受け売り報道ときては、日本人がアメリカを誤解するのも理解出来る。

そしてまた慰安婦問題などでもアメリカは自分達の落ち度は棚に上げて日本ばかりを責めるという印象を与えてしまったが、それをやったのはアメリカ民主党の連中だ。ブッシュ大統領はその影響で日本との関係がぎくしゃくしないようにとずいぶん苦労させられた。

日本の皆様は、アメリカ左翼メディアの偏向を鵜呑みにして、女性初の大統領だとか黒人初の大統領などといって民主党の候補者を支持しているが、日本にとって民主党は決して良い味方ではないのである。特にクリントン夫婦は中国と非常に密接な関係にあるし、オバマはものすごいリベラルで北朝鮮の金正日やイランのアクマディネジャードなどと本気で交渉が可能だと思っているほどのお人好しなのである。

日本人に参政権があるわけではないからアメリカの大統領候補の誰を応援しようと特に影響があるわけではないが、日本の右翼や保守派のみなさんが、アメリカには日本の文化と同調できる保守派が存在していることを広くご存じないことが残念でたまらない。

そういえば、カカシが日本語ブログをはじめたのも、こうした誤解を解くことにあったのだと思い出した。弱小ながら少しでも読者の皆様にアメリカを分かってもらえることを願うものである。

February 2, 2008, 現時間 3:13 AM | コメント (8) | トラックバック (0)

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なんで左翼は自分を左翼と認めないのか?

フェミニズム , 宗教と文化

これは読者の皆様もすでにお気付きのことだろうと思うが、保守派や右翼の人たちは自分達の政治思想を隠したりしない。それどころか「私は極右翼です!」などと誇り高く宣言するくらいで、こうした人たちを間違って「あなたは左翼でしょう」などといった日には何時間にも渡ってどういう理由で自分が右翼であり左翼ではないのか延々とお説教を受けること間違いなしである。

ところが、どういう訳か左翼の人たちは自分達がリベラル/左翼/共産主義であることを認めようとしない。それどころかそれを必死に隠して自分達のことを革新派、自由主義者、進歩主義者などと訳の分からない名前で呼んだりして一般市民を煙に巻くのが得意である。

こういう人たちに「あなたは左翼ですか」と聞くと、「私は左翼ではない!」と断言するのではなく、「左翼とか右翼というレッテルで他人を判断しようとすることに問題がある」とかなんとか言われて話をはぐらかされてしまうのがオチだ。

もちろん本当に右でも左でもなく中庸な人は存在する。しかし普通政治的に強い意見を持っているひとは、自分がどちらの傾向に傾いているかを知っている。自分が多種の問題に直面する度に右と左のどちらの方針を支持してきたかを考えれば必然的に自分の傾向があきらかになるのである。だから本当に左翼でも右翼でもない中庸なひとならば、「私は中庸です。」といった後で具体例を出して「私は人工中絶の合法性には賛成ですけど、麻薬の合法化には反対です。」とか、「強い軍隊は支持しますが個人の銃砲所持には反対です」といったように自分の立場をはっきり説明することが出来るはずなのである。

私の知り合いでファシストに近い右翼から立ち直って今は心を入れ替えて保守派孤立主義になった人がいるが、彼にいわせると表向きは個人主義や自由主義を唱えるファシストや共産主義の人間にはこれまでにいくらも会ってきたという。ソ連の憲法には個人の言論の自由などがいくらでも保証されていたというが、実際に国民がスターリンの悪口などいおうものなら強制労働キャンプ送りになった。北朝鮮や中国にしたところで、朝鮮民主主義人民共和国だの中華人民共和国だのと民主主義も共和制も全くないくせに名前だけは立派なものがついているのがいい例である。

実は先日から、例の左翼(多分共産主義)のレズビアンフェミニストの小山エミちゃんが(写真をみてから親しみが生まれてしまったカカシなのよね)自分の経済面における姿勢を示すことで、自分は左翼でもなければましてや共産主義者ではないといいたげなエントリーを書いている。もっとも例によって彼女は「私は左翼でも共産主義者でもありません!」とは断言していないので、判断は読者に任せるといったかなりいい加減な態度をとっている。

フェミニズムに限らず活動家業界というのは、...基本的に「左翼」の方が多いわけだけど、...わたしは...どうしてもその文化に馴染めない部分があった。それを一言で言うなら、「正しい動機」を元に「正しい目的」のために異論を排除したり必要なプロセスを省き、ある不公正を是正するための行動が別の不公正を生み出している可能性に無頓着な活動家たちの傲慢さだ。....

わたしがそうした違和感を感じたのは、...たまたまわたしが、白人社会におけるアジア人というマイノリティ(少数派)であり、クィア(同性愛者)であり、活動家業界のどこにも「自分と同じ人たち」ばかりが集まる居場所を見つけられなかったことに関係していると思う.....

わたしのことを「左翼フェミニスト」と決めつけて批判した人は、左翼やフェミニストは口先で正義を語りながら実際にはこんなに腹黒い奴らだみたいなことを言っていたのだけれど、わたしが思うに問題はその逆だ。腹黒いだけの連中なら、利害によってはどちらにでも転ぶわけだから、まだ行動を予想・コントロールしやすい。問題なのは、活動家業界では「正しい動機」「正しい目的」が現実的なコスト計算やトレードオフの分析を押し退けて、ある行為の正当性の根拠とされてしまいがちなことだ

なにしろ経済学によれば、...社会問題を解決するために政府が何らかの政策を実施することは、基本的に経済の生産性を犠牲にすることになる。そこにどんな「正しい動機」「正しい目的」があろうと関係ない。...それを承知のうえで、それでも看過できない不公正をただすために政府が介入するのであれば、それがどういうトレードオフをもたらすのか冷静に分析・論議したうえで、民主的な決定に委ねるべきだと思う

....わたしは(Thomas Sowell『A Conflict of Visions: Ideological Origins of Political Struggles』を)読みながら「進歩主義のことを悪く言いやがって」と反発するのではなく、かれの言う「束縛的価値観」(保守主義)の方に強く共感した。そしてかれだけでなく、世界のさまざまな不正義や不公正の是正を心から願いつつも、左右双方の活動家業界が主張する短絡的な解決策から距離を取り、より現実的なトレードオフを政策として提示する経済学者たちに共感する。

わたしのことを左翼だとか共産主義者だとか決めつける人がいて、...どういう部分がどのように左翼なのかきちんと説明してもらえた覚えがない。...「左翼」はともかく、「共産主義者」というのはいくらなんでも違いすぎるだろう。

上記の彼女の文章を読んでいると、彼女は自分達の崇高な動機と目的のためにその方針が市場に及ぼす悪影響など全く無視している活動家を批判しているように見えるし、また自由市場や自由競争を尊重しているかのように感じる。しかしながら、彼女は一度もこの自分の信念が現実社会においてどのようにあてはまるのかという説明をしていない。

エミちゃんは、自分を左翼だの共産主義だの決めつける人間がその理由をちゃんと説明していないと言い張るので、この際だから説明しよう。

以前に私は人種差別にしろ男女差別にしろ政府が差別する(女性は何々の仕事についてはいけないとか、黒人はどこそこの公立学校に入学できないといったような)法律さえ取り除きさえすれば、あとは市場が解決してくれると書いた。これは女性や黒人の賃金が白人男性よりも安ければ人種や性別にこだわりのない雇用主が人件費節約のために優秀な黒人や女性を雇うようになるからで、他の企業が人件費が高すぎて経費がかさんで最初の企業と競争できないとなれば、こちらの企業も黒人や女性を雇うようになる。多くの企業が同じことをはじめれば黒人や女性の需要は高まり自然と給料も上がり、そのうち才能のある黒人や女性は白人男性と同等の給料をもらえるようになるというわけだ。

ところがこの自由市場による差別緩和を阻止する悪法がある。これが先に説明したアファーマティブアクションで(AA)ある。AAは才能のあるなしに関わらず、ある企業はある一定数の少数民族や女性を雇わなければならない、それだけでなく、昇進の時でも人種や性別を考慮にいれなければならない。仕事のできない少数民族や女性でもやたらに解雇できないといった非常に厳しい規制がある。こうなってくると企業は少数民族や女性を雇う利点を見いだすことができない。かえって少数民族や女性には迷惑な政府介入なのである。

もしエミちゃんが本当の意味で自由市場を尊重しているのであれば、このような悪法には真っ先に反対するはずだが、私のアファーマティブアクションを支持するかしないかという質問に彼女は「アファーマティブアクションにもいいところもあれば悪いところもある」とか「必ずしも女性優遇なシステムとは言えない」とか言って私の質問から逃げてしまった。

私は最近のフェミニストたちの本当の目的は女性救済ではなく左翼主義の促進であると書いたが、これをエミちゃんは『左翼やフェミニストは口先で正義を語りながら実際にはこんなに腹黒い奴らだみたいなことを言っていたのだけれど、わたしが思うに問題はその逆だ。腹黒いだけの連中なら、利害によってはどちらにでも転ぶわけだから』と言って、利益の追求=腹黒いと解釈している。本当の資本主義者なら利益を追求するのは当たり前。それが腹黒いとはどういう意味だ?しかもこうした活動家たちの動機や目的は現実的トレードオフを考慮にしていないが「正しい」と書いていることも注目されたし。(もっとも鍵括弧をしているから自分では正しいとは信じていないというのであればまた話は別だが。)ここでいうフェミニストたちの「正しい動機や目的」こそが左翼主義の促進なのだ。左翼が左翼主義の促進を望むのは左翼にとっては「正しい」動機であり目的であるから全く矛盾はない。彼女たちが市場でおきる矛盾になど興味がないのは当然である。

そしてそういう左翼主義のフェミニストグループのNOWのことを「自分は嫌いだ」といいながらも、カカシが左翼思想促進の役に立つ時はイスラム教の女性迫害をさんざん批判していたのにイスラム教が保守派から攻撃されるようになった途端に批判をやめてしまったことを例にあげてその偽善を指摘した時、エミちゃんはNOWがイスラム教を批判する理由はないといってこの女性団体を弁護した。つまり、NOWによる左翼主義促進という「正しい動機と目的」のために保守派の不公正を是正するためにイスラム教の悪行を無視するという不公正を生んだ女性グループのごう慢さを批判するどころか弁護までしているのである。

しかもエミちゃんはアフガニスタン戦争後も前と同じく一貫したイスラム批判を貫き通しているフィリス・チェスラーをイスラモフォビアのラディカルフェミニストと言って批判してみたり、エクイティーフェミニズムを唱えるクリスティナ・ホフ・ソーマーズの概念をデタラメな解釈だとして「排除」している。(ソマーズ女史にたいしてはジェンダーフェミニズムを批判したというだけでリベラルな女史に「極右翼といっていいほどの保守派論者」などとレッテルを張って過小評価している。)そして別の件でも旧日本軍(右翼)による慰安婦問題の責任を追求しているのに、当時の共産主義といっていいほど左翼よりだったルーズベルト大統領が総指揮官だったアメリカ軍やその配下にあった韓国軍への責任追及には興味がない。

『「共産主義者」というのはいくらなんでも違いすぎるだろう。』ということにしても、彼女はマルクス主義フェミニズムとはマルクス主義を徹底的に批判したものだと述べて、マルクス主義フェミニズムが共産主義を元にしたものだという事実を読者から隠そうとした。自分がマルクス主義でも共産主義でもないなら、マルクス主義フェミニズムを弁護する理由などないはずだ。

もう一度強調するが、私は別に小山のエミちゃんに恨みもつらみもないし、彼女個人を攻撃するつもりは全くないのだ。ただ彼女は非常に典型的な左翼(多分共産主義者)レズビアンフェミニストであるため、その例をつかって左翼がどのように一般市民を騙しながら右翼と戦うかというその戦法を披露してみただけだ。エミちゃんと議論をしていた空さんが、エミちゃんはこういう議論になれていないのではないかとコメントをしていたが、私は彼女は確信犯なのだと断言できる。

ではどうして左翼は自分を左翼と認めないのだろうか?自分の思想に誇りはないのか?他人に自分の本心を知られると何か都合の悪いことでもあるのか?実を言うと、アメリカのフェミニズムが一般にジェンダーとエクイティーの二つに別れると書いたカカシの最初の文章が、「偽装だ」といったエミちゃんの言葉のなかにこの答えはあるのだ。

つまり、フェミニズムがジェンダーフェミニストによって乗っ取られて以来、エクイティーフェミニストと解される普通のフェミニストたちは自分達をフェミニストと呼ぶのをやめてしまった。この中にカカシが含まれていることはいうまでもない。「あんな左翼と一緒にされたくないわ」というのが大多数のフェミニストの考えだったからだ。ジェンダーフェミニストたちはそのことを十分承知しているから、自分達がジェンダーフェミニストだなどとは絶対に認めないのである。

大きな意味で左翼にしろ共産主義者にしろ動機は同じだ。これらの思想を一般市民が認めないことを彼等は知っている。彼等が左翼だとか共産主義者だということが暴露されれば普通の人はまじめに意見を聞いてくれないことを彼等は十分承知しているのだ。だからその事実はなんとか隠さなければならない。しかし彼等が自分達のことを「自分は左翼ではありません!」と断言しないのは、そのように断言して自分達の仲間から「裏切り者」と思われると困るからである。例えばエミちゃんにしても、左翼である以上アファーマティブアクションを支持しません!とは断言できない。かといって支持します、といってしまえば自分の正体がばれてしまう。だからそういう質問は間違っているとか、そんな単純な答えのでるものでもないとか、いい面もあれば悪い面もあるとかいって保守派や右翼の直接的な質問には絶対に答えないのである。

私がエミちゃんは議論に慣れていないどころか確信犯だといったのはこれが理由だ。

というわけなので、自分の政治的見解をはっきり表明しない人間はリベラル/左翼/共産主義者のどれかだと考えて先ず間違いはない。彼等は自分の思想に誇りのもてないあわれな輩なのだ。

February 2, 2008, 現時間 2:37 AM | コメント (3) | トラックバック (3)

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January 29, 2008

イスラム教批判はイスラモフォビアなのか?

フェミニズム , ヨーロッパ , 中東問題 , 宗教と文化 , 対テロ戦争

私が二年近く書いてきた過激派イスラム教批判について、ある場所で批判をなさっている方がらしたので、こちらへ来て話されてはどうかとお誘いしたのだが、カカシのブログは読んでいるということなので、彼の私及びアメリカのネオコンに対する批判をちょっと載せてみよう。

まずは一宿一飯さんのあるブログへのコメント。

所詮憶測ながら苺畑カカシさんのイスラモフォビアに関して感じることは、「恐らくこの人は実際にモスリムに合って対話した経験も無ければする気も無く、単に自分の世界観を維持するための仮想的を必要としているに過ぎない」と言うものです。実際に接触してみれば、例えば敬虔なクリスチャン・モスリム・ジューイッシュは「共通する価値観を持っている」訳で、現実にハマス創設者ヤシン師にはユダヤ宗教界における高位の和平支持派ラビとの親交があったと言うような話など実例は幾らでもある訳なのですが。

別に、「真に共存の可能性を持っているのは西欧化した世俗主義者のみ」では無いのですけれどね。苺畑さんの決め付けは多分に「自分の壊れやすく、多分に現実と齟齬を来たしてしまいがちな価値観を守るために、少しでもそれに沿わないものは攻撃せずにはおられない」と言うような衝動的な物に見えてしまう。

一宿一飯さんは私の書いたことを読む前に某ブロガーによる「カカシはイスラム教恐怖症だ」という偏向な意見を読んでしまったため、私の書いていることもそういう色眼鏡をかけてよんだのだろうと思う。もう少し気をつけて読んでくれれば、私が攻撃しているのはイスラム教徒全般ではなく、過激派イスラム教徒およびイスラム教テロリストなのだということがわかるはずである。

常連の読者のかたがたならご存じだが、私はこのブログにおいて我々文明社会はイスラム教全体を敵に回してはならないと何度も強調してきた。イスラムの危機:テロリズムはイスラムの教えに反するにおいて歴史家のバーナード・ルイス博士の言葉を借りてこのように書いた。

現代のテロはイスラム教とほぼ同義語になってしまっているので、テロリズムがイスラムの教えに反するなどといっても、そんなことは頭の弱いリベラル連中のプロパガンダとしか受け止められない読者も多いだろう。私がここで何度も紹介してきたロバート・スペンサーなどもその口で、テロリズムこそがイスラムの真髄だなどと平気で言う。だがここでルイス教授はあえて、イスラムは平和な宗教だと主張する。...

...イスラム教徒はイスラム教を守るために戦うことは義務付けられているが、非戦闘員を殺したり虐待することは禁じられている。死を覚悟で戦うことは期待されるが、自ら命を絶つことは許されない。だとしたら、テロリストのやっていることは完全にこのイスラムの教えに反することになるではないか?何故このようなことをしている人間がイスラム教原理主義者だなどと大きな顔をしていられるのだろう?

...イスラム教過激派はイスラム教の名のものとに西洋に宣戦布告をした。彼らの解釈はコーランの正しい解釈のひとつである。だが、テロリストを正当なイスラム教徒として扱ってはならない。テロリストを原理主義者などと呼んではいけない。コーランの解釈はひとつではない。長くつづられたコーランのなかには戦争を唱える箇所もあれば平和を唱える箇所もある。他宗教に寛容となり、弱いものを守り無実の人間を傷つけてはならないという教えもイスラム教の原理なのである。イスラム教徒の中には、西洋文化の落ち度も理解しながら、また自分らの社会の弱点を捉えながら近代化を進めようとしている人々がいる。前者とは戦い以外に道はない。だが、後者とは歩み寄れる。我々現代人はこの二つのグループを十分に見極める目を養ない、穏健派を出来る限り応援しなければならない。

私は穏健派イスラム教徒となら歩み寄れるという言い方はしたが、歩み寄れるイスラム教徒は「西欧化した世俗主義者のみ」などといった覚えは一度もない。いや、それどころか私はヨーロッパの世俗主義をずっと批判してきている。私の「滅び行く欧州、栄えるイスラムの脅威シリーズ」を読んでいただければ分かるが、私はここでヨーロッパの行き過ぎた世俗主義こそがヨーロッパの崩壊につながると書いている。そのまとめとして目覚めるヨーロッパでこのように書いた。

(マーク)スタインはヨーロッパの世俗主義が現在の欧州の堕落を招いたのだと書いている。私はこれには全く同意見。イスラム教という宗教に対抗できるのはヨーロッパの基盤となっているジュデオ・クリスチャンの価値観しかない。

またカカシはイスラム教こそ悪の根源といいはるロバート・スペンサーの映画を紹介した時もこのように述べた。

私はこのブログでも何度か文明社会がイスラム教徒全体を敵に回すことの危険性を主張してきた。 だから私は悪の根源はイスラムの教えにあるというこのドキュメンタリーの製作者たちの意見には全面的に賛成できないでいる。 特にシューバット氏はイギリスのブレア首相がイスラム教を「平和を愛する宗教」だと何度も繰り返すことに関して、愚かなのか嘘つきなのかどちらかだろう、と言い切ることには全く同意できない。

ブレア首相ほど対テロ戦争に関して自分の政治生命を犠牲にしてまでブッシュ大統領と一緒になって努力してきた政治家はいない。 ブレア首相ほどイスラムテロリストの脅威を正しく理解して戦い続けなければならないと主張した人はいない。 私は911事件以後のこの世の中にブレア首相という立派な政治家がイギリスにいてくれたことを何度神に感謝したか知れない。

「イスラムについて、、」の製作者たちがわかっていないのは、政治家達がイスラムを「平和な宗教」だと主張し、テロリストは過激派であり、本来のイスラム教の教えを歪曲しているのだと語るには理由があるということだ。 イスラム教の人口は12億といわれている。 この中で過激派は約一割というではないか。 彼らはその一割の過激派と戦うために我々文明諸国に対して12億の人々全体を敵に回せというのか? 

無論、数や欧米の戦争技術をすれば、12億の敵をもってしても西洋社会がいずれは勝つだろう。 だが、もしそのような戦争がおきれば、第2次世界大戦どころの騒ぎではなくなるということがこのドキュメンタリーの製作者たちにはわかっているのだろうか?

一宿一飯さんの誤解は過激派イスラム教及びイスラム教テロリストへの批判を、イスラム教全体への批判イスラム教徒への人種差別およびイスラム教恐怖症、と混同してしまっていることにある。イスラム教過激派による犯罪やテロ行為を指摘して批判することは決して個々のイスラム教徒への人種差別でもなければ人権迫害でもない。それを混同してしまうと今ヨーロッパやカナダで起きているような人権擁護法の乱用のようなことが起きてしまうのである。

さて、一宿一飯さんは、私がイギリスのブロガーがイスラム批評をして逮捕状が出たという話を紹介した時、ラディカルフェミニストのフィリス・チェスラー女史のブログからインタビューを引用したことに関して、ラディカル・フェミニストたちのイスラム教蔑視はごう慢であり、イスラム教を批判しているというだけで、カカシが嫌いなはずのラディカルフェミニストを好意的に扱うのは私のアメリカ的なごう慢の現れであるという意見を述べられている。

まず第一に、私はチェスラーなる人がラディカルフェミニストであるという事実は知らなかった。しかし彼女がもしラディカルフェミニストだとしたら、彼女のイスラム教批判は全く理にかなっている。なぜならば、本当に女性優先の思想を持つ人であるならば、男尊女卑の最たるものであるイスラム教を批判するのはごく自然だからである。ラディカルフェミニストと自称する人ならばイスラム教の厳しい掟を恐れるのは当たり前だ。なにしろ強姦された被害者がむち打ちの刑にあうようなイスラム圏国が存在するのである。このような宗教を恐れることはフォビア(恐怖症)などではなく当然な自己防衛的な警戒心である。

私は自分はフェミニストだとか女性救済を目的としているといいながら、敵の敵は味方というせこい考えで非常な女性迫害をしている過激派イスラム教を全く批判しないリベラルフェミニストのほうがよっぽども偽善的だと思う。カカシは自分とは全く意見の合わない人でも信念をもって自分の考えを貫き通すひとのことは尊敬する。それがラディカルフェミニストであれ、共産主義者であれ同じである。反対に言うこととやることが正反対の偽善者は軽蔑する。

一宿一飯さんは、私のパレスチナ人への批判的な考えを『「遅れた、未開な非西欧」に対する敵意』だと考えているようだが、私がパレスチナ人に批判的なのはイスラエルがガザを撤退して自治をする絶好の機会を与えられた時に、ハマスというテロ軍団を政権に選び、自治にはまったく無関心で、ただただユダヤ人殺しだけを念頭において、平和交渉に何度も応じているイスラエルに執拗にミサイルをうち続けているからである。パレスチナ人はアラブ諸国でも民度が低いという悪評の高い民族だ。これはカカシの人種的偏見でもなんでもない。パレスチナ人の子供たちが飢えで死ぬようなことがあったら、これは一重に戦争に明け暮れて自分らの子供たちの将来にむとんちゃくなパレスチナのテロリストどもの責任である。

さて、ここで一宿一飯さんの白人コンプレックスについて反論したい。

..経営者さんは苺畑さんを「アメリカ保守の真似をしている」と評されましたが、私は「大変日本人的な反応」だと感じているのです。

「遅れた、未開な非西欧」に対する敵意と「自分の愛するアメリカ・西欧・白人社会」に固執するが故の「国粋主義」、そしてそれは「自身が日本人であるから」ではないかと。苺畑さんにとって依然憧れの「他者」であるアメリカと言う国の言説は、相互に如何に食い違い、相反していてもそれが「西欧・白人社会・アメリカ」を肯定し補強する範囲においては「矛盾せず」、逆にそれらの価値を批判し、見直そうとする言説には無条件に「敵」のレッテルが貼られるのではないかと。

差別は廃さなければいけないが、それは別に「白人・男性・プロテスタント」の価値観を否定するものでは無い筈なのにこの扱いは何だ、と言うのと同じ感覚を日本人も、そして世界各地のモスリムも持っていると言う事です。

少なくとも私の眼にはネオコンサバティズムとラディカルフェミニズムの「傲慢さ」「愚かしさ」は同じものに映ります。それは一部にドメスティックバイオレンス常習者や過激主義者が居るからと言って「すべての白人男性」「すべてのイスラム教徒」そして「全ての日本人の男」は野蛮で旧弊で遅れていると決め付ける類の愚かさです。

私にとって新保守主義は「保守」でもなんでもない。西洋かぶれの妄言に過ぎません。自分達の文化を否定し、西欧に媚び諂い、彼等にほめて貰う為に他のアジア人を殊更に野蛮と蔑む態度の恥知らずさに「お前達はそれでも日本人か」と怒りたくなることは枚挙に暇がありません。

私はネオコンではない。宗教右翼とか孤立主義の旧保守派とも違うが、どちらかといえば旧保守派に近いと思う。私としてはネオコンはリベラルすぎると思うので。ま、それはいいのだが、この白人に対する羨望という意識は、はっきり言って一宿一飯さん自信の反影だという気がする。アメリカは移民の国であり、その市民の種族も多種多様である。確かに過去には有色人種が差別されるという風潮がなかったわけではないが、カリフォルニアのように出会う人の半分以上が外国出身といういうような社会に住んでいると、白人だから何か特別に偉いなどと感じることはまずなくなる。少なくとも私は白人がうらやましいとか白人になりたいとか思ったことは一度もない。

アメリカにはいい面もあれば悪い面もある。特に日本はアメリカのよくない面を輸入し過ぎると思う。日本の教育界やフェミニストなどが「欧米では〜がとても進んでいる。日本も見習うべき」などといって取り入れる概念が日本社会の役に立ったことなどほとんどないと断言できる。

アメリカに長年住んで、アメリカの保守派思想を取り入れたカカシがアメリカ人なら、アメリカでフェミニスト活動を長年つづけて左翼フェミニストとなった例の小山のエミちゃんも立派なアメリカ人だろう。一宿一飯さんが、欧米を一緒くたにして白人社会と呼んでいるのも、彼が白人はすべて同じだという人種差別意識を持っている証拠だ。

私が生きているのはアメリカであり欧州ではない。欧州とアメリカではその文化に雲泥の差がある。私が価値あるものとしているのは人種や性別や年齢にこだわらずに個人の才能で判断してくれるアメリカの自由主義だ。これは白人であるとかプロテスタントであるとかなどということとは完全に無関係だ。もっとも一宿一飯さんが自由平等は白人プロテスタント男性の専売特許だと言い張るなら、また話は別だが。

January 29, 2008, 現時間 11:40 PM | コメント (8) | トラックバック (0)

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人権擁護法と男女共同参画に共通する政府介入と人権侵害

フェミニズム , 人権擁護法 , 宗教と文化 , 教育と政治

私はずっと人権擁護法とジェンダーフリーについて別々に書いてきたが、人権擁護法と男女共同参画にはその根底に共通する概念が存在する。それは政府による団体主義の強制であり、個人の人権迫害である。

無論人種差別や男女差別の廃止は奨励されるべきことだ。しかしそうしたことは個人レベルで個々が判断して変えたければ変えていけばいいのであり、政府が介入すべきことではない。これらの法律が人権迫害につながるのは、個人のし好や思想に関することを国がいちいち干渉してくるからである。私が以前に人種差別をなくす法律は存在しないでも書いたように、嫌いなもの同士を無理矢理法律で一緒に仕事や勉学をさせてもかえって反感を買うだけで差別排除にはかえって逆効果なのだ。

また擁護法のように一部の人間を政府が特別扱いするということは、必然的に他のグループの人間を組織的に差別するという結果を生むのである。これは人種差別や性差別をなくす目的で作られたアメリカのアファーマティブアクションが政府が奨励する人種や性差別へと変化してしまったことがいい例だ。これについてもう一度私の過去ログから引用する。

アファーマティブアクションの当初の目的は、雇用や大学などの入学審査のときに、人種や性別によって差別されないよう少数民族や女性の人権を守ることだった。...

ところが人種・男女差別をしてはいけない、という法律がいつの間にか少数民族や女性を特別扱いする法律へと変貌してしまった。...

大学入試を例にして説明すると、大学入学の際、少数民族だからといって入学を拒否されないように、新入生の人種の枠をつける方針が多くの大学で取り入れられた。 この枠組みはアメリカ社会の人口比率が参考にされており...ここでは便宜上黒人20%、ラテン系10%、東洋系10%、白人60%としておこう。 ここで問題なのは大学志願者の比率が社会の人口比率とは一致しない点である。...黒人やラテン系の若者が大学へ進む比率は東洋人や白人のそれよりもずっと低い。... 

たとえば単純計算である大学の100人の枠のなかで、黒人志願者が20人、東洋人志願者が100人だったとする。同じ大学へ志願したにもかかわらず黒人の志願者は全員入学できるが、東洋人の合格倍率はなんと10倍。

今やアメリカの大学では女子生徒のほうが男子生徒を上回っているにも関わらず、いまだに女子を優先する大学が後を絶たない。しかし男女平等を主張する左翼フェミニストたちがこの女性上位の状況に文句をいう気配は全く見られない。いまや女子優遇男子冷遇法となったアファーマティブアクションを廃止すべきだという左翼フェミニストなど存在しない。

左翼フェミニストといえば、以前に左翼フェミニストと議論を交わしていたブロガーさんで、ここでも何度か紹介したBruckner05さんは男女平等を政府が政策として起用した場合、単に男女差別はやめましょうというような啓発だけでは済まない、「公的広報のガイドライン、啓発パンフレット、意識調査、学校教育(教科書、副読本)、行政の講座等々」を使って国民意識が操作がされると書いている。強調はカカシ。

行政は法律に基づいて施策を行い、男女共同参画社会基本法は「ジェンダーフリー思想に基づく男女共同参画」を「国民の責務」としているのである。そしてその実現を確かなものとするため国内本部機構を設け、監視の役割まで持たせている。....

呼び掛けはやりました。あとは国民の皆さんの自由選択ですよ、では終わらない。意識啓発は、その自由選択が政府が望む方向に確実に変化し、その変化が広く深いものとなるように、と意図して行われているのだ。...

...施策の効果を上げようとすればするほど、介入の度合いは激しくなる。

差別意識を減らすなどという国内政策はそのうち、その成果を国民の意識調査で判断するなどという柔なことだけでは済まなくなる。政府介入は必ずエスカレートする。Bruckner05さんが紹介している家庭内暴力に関するDV防止法などもその典型だろう。括弧内はカカシの注釈。(ちなみにDV防止法は先日改正(改悪?)されたそうだ。)

自由な社会には“機会の平等”こそふさわしいのに、男女共同参画は“結果の平等”を目指す。その実現には上からの強権発動が欠かせないから、これはまぎれもない全体主義だ。「性差より個人差」「性別にとらわれない社会」と言いながら、他方、徹底して「女」にこだわるダブルスタンダード。数値目標によって女性の参画比率を恣意的に引き上げ、DVは事実上、女性のみを保護対象にし、女性限定で起業支援、健康支援をするなど露骨な逆差別。

人種差別も男女差別もこれは個人の意識の問題である。国がすべきなのは差別につながる法律を排除することであって、法律による意識介入ではない。一部の少数派を擁護するという建前で一部を優遇し他を冷遇するのであれば、まさにそれは政府が奨励する組織的差別に他ならないのだ。

January 29, 2008, 現時間 12:25 PM | コメント (1) | トラックバック (0)

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January 25, 2008

アメリカ人は信心深すぎる?

アメリカ内政 , 宗教と文化 , 対テロ戦争

ボストングローブでジェームス・キャロルがアメリカのイスラエル・パレスチナ政策がうまくいかない理由はアメリカがキリスト教への信仰が強すぎるからだと書いている。

日本のような世俗社会に育った人間がアメリカに来ると、最初に気が付くのは非常に多くの人々が信心深いという点だろう。日本の祭日には古い神道の伝統から来るものが多くあるにはあるが、その宗教を実際にどれだけの人々が信じているかというとかなり疑わしい。しかしアメリカには市民の41%が定期的に協会に通うというくらい信心深い国民性がある。アメリカではごく普通に神様の話題が登るし、それが特に不思議だという感覚は全くない。せんだってもカカシが食堂で頭痛がするので頭を押さえていたら、同僚に「お祈り中に邪魔をして悪いけど、ここ座ってもいい?」などと言われたほどだ。

アメリカの大統領選挙でミット・ロムニーのモルモン教が話題になったり、マイク・ハッカビーに宗教右翼の支持が集まったりするのも、アメリカ社会が自分達の生活の基盤として宗教に重点をおいているからに他ならない。アメリカから日本へ輸入する文化がかなりリベラルで左よりであることから、日本人はとかくアメリカをリベラルな国だと思いがちだが、事実はその反対で非常に信心深い保守的な社会なのである。

キャロルによると、アメリカの中東政策がうまくいかない理由は、まさにアメリカ人のこのキリスト教信仰にあるという。特にイスラム過激派への対応にキリスト式シオニストの考えが弊害になっているというのだ。

キャロルはアメリカの熱狂的な信心がアメリカ人の自己権威力を誇張させ他の宗教、特にイスラムを蔑む衝動にかられるのだという。この風潮は福音書原理主義者の間で多くみられるが決して彼等だけに限られたものではない。よってアメリカは中東やアフリカ、南アジアなどで起きる宗教的な問題に対して自らの宗教心が邪魔してかえって問題を煽ってしまうのだと言う。

ほう、では世俗主義で伝統的宗教をほとんど破棄してしまったヨーロッパ各地でイスラム教暴徒が治安を乱し、ヨーロッパ全体がイスラム系移民に国を乗っ取られそうな時に、アメリカだけがイスラム教徒の横暴を阻止しているのは何故なのか是非キャロルに説明してもらいたいものだ。これは世俗主義の先進国諸国で少子化問題が深刻になっている時にアメリカだけが高い出生率を保っているのと無関係ではない。

キャロルはアメリカの宗教心がイスラエル・パレスチナ問題の弊害になっているというが、それが本当ならイスラエル創設の主役だった世俗主義のイギリスや、何かというとイスラエル批判に忙しいフランスが中東問題の解決に何の役にもたっていない理由を説明してもらいたい。そのやり方や成果は別として、中東問題を解決しようという意志があるのはアメリカだけではないか。

欧州で暴れているイスラム教ギャングがアメリカで暴れられないのは、アメリカ人にはイスラム教に対抗できるだけの宗教があるからである。宗教心の強いアメリカでは人工中絶をする人の割合は少なく子だくさんの家庭が多いため、ヨーロッパが直面しているような、産児制限をしないイスラム教徒に人口を追い越される心配もない。アメリカの強さはキリスト教への信心深さが基本となっているのだ。

もし宗教心が強すぎることが外交を妨げているというのがキャロルの本心なら、イスラム諸国にその宗教心を捨てるように解いてはどうかな? もっともそんなことをしたらイスラム教徒から命を狙われる可能性はかなり大きい。

君の嫌うキリスト教が寛容でよかったね、キャロルさん。

January 25, 2008, 現時間 6:57 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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January 17, 2008

人種差別者の汚名を着ないために、、

人権擁護法 , 宗教と文化 , 移民問題

人権擁護法反対の勢いが日本の右翼ブログの増してきているが、それらのブログ及びコメント欄を読んでいてちょっと心配になることがある。人権擁護法は確かに悪法であり、差別意識の「サ」の字もないような善良な市民がこの法律によって迫害される可能性は多大にある。しかしながら、この法律を反対する人たちのなかにこのような法律を正当化してしまうようなあからさまな差別意識を持っている人々がいることも否めない。

我々人権擁護法反対派が本気でこの法律の阻止を望むのであれば、断固として人種(および性別年齢並びに国籍)差別者を拒絶すべきである。例えば中国及び東南アジア諸国からの違法移民や外国人暴力団員などへの批判は当然だが、何世代にも渡って日本に住み着いている在日合法外国人をこれらの違法移民や犯罪者と同等に扱うべきではない。また合法に就労許可を持っている外国人への差別も決して容認されてはならない。

我々が容認できないとする外国人は、日本国内に違法に滞在し日本の法律を犯している外国人のみにしぼられるべきである。そしてその批判の理由は彼等が犯罪者であるからであり、彼等が異人種であるとか外国人であるからという理由からではないことを明確にしなければならない。

であるから、日本にいる「支那人や半島人は国外追放せよ」とか、「ユダ公の陰謀に騙されるな」とかいう発言は「苺畑より」においては完全に拒絶することを明確にしておく。

このような発言は人権擁護法を悪用しようとする左翼連中の「右翼や保守派は人種差別者のあつまりである」というステレオタイプにきっちりはまってしまう。

人権擁護法を阻止したいのであれば、法支持者の立場を正当化するような差別意識は断固拒絶しなければならない。相手側に法律の必要性の大義を与えるような行動を反対派は絶対にとってはいけない。差別意識が存在しなければ擁護法など必要ないのだ。そのことを人権擁護法反対派の我々は肝に銘じておく必要がある。

January 17, 2008, 現時間 11:12 PM | コメント (2) | トラックバック (0)

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