November 4, 2007

イスラム教の危機:アメリカにまつわる歴史的誤解

アメリカにまつわる歴史的誤解

さてここで、アメリカとイスラム諸国との歴史で、一般的に誤解されているいくつかの点を上げてみたい。実は私自身も知らなかったことや不思議思っていたことが結構あったので、これは非常に興味深い部分だと思う。

先ず現在のイラン大統領、マフムッド・アクマディネジャドを含むイラン人学生がテヘランにあったアメリカ大使館を占拠し、警備員や職員を数名殺した後、残りの50余名を444日も拘束したあの事件だが、これはイランの宗教革命後アメリカと新イラン政府との間が険悪になっていたことの現れであるとされているが、実はそれはまったく逆であるとルイス教授は語る。

この話の発端は、1953年当時のモサデック政権にさかのぼる。当時国民から厚く支持のあったモサデック政権は石油利権を国営化しようと試みていた。無論そうなれば外資系の投資会社はすべて締め出されることになる。しかもソ連がモサデック政権に強く肩入れしてきていることもあって、英米が共謀してシャー国王の承認を得てモサデック政権を倒すべくクーデーターを企てたとされている。しかしクーデターは失敗に終わり、シャー国王は国外へ逃亡した。しかしその後何故か世論はモサデック政権よりもシャーを支持するように変化、特に軍隊がシャーを支持したため、モサデック政権はザヘディ政権に取って代わられ、シャーは英雄として帰還した。

しかしイスラム過激派はシャーをアメリカの傀儡と考え、シャーの世俗的な政治は西洋の腐敗した文化でイランを汚染しているとし、亡命中のアヤトラ・ホメイニを中心としてイランで宗教革命を起こした。ルイス教授は指摘していないが、このとき民主党のカーター大統領はイランのシャー政権がどれほどアメリカにとって大事であるかをきちんと把握していなかった。リベラルな生半可な正義感を持ったカーター大統領は、先代のイラン内政干渉に批判的でイランに潜入していたアメリカの諜報部員らをすべて引き上げさせた。そのおかげでCIAもカーター政権も1979年にホメイニの宗教革命がイランでくすぶり始めていることを察知できず、起きたときは寝耳に水という無様な結果となったのである。

カーター政権はアメリカが後押しをしたシャー国王を見捨て、シャーをアメリカへ亡命させることさせ許さなかった。アメリカは利用できるときだけ利用して、価値がなくなると簡単に見捨てるという評判が立ったのもこのことが大きな原因となっている。これは敵側に怒りと軽蔑を沸き立たせる「危険なコンビネーション」だとルイス教授は語る。

さて話を元に戻すが、ルイス教授が1979年の11月にイスラム教過激派の学生達がアメリカ大使館を占拠した理由はアメリカとイランの関係が険悪していたからではなく、良くなっていたからなのだとする理由は、当時の人質の話しや選挙した学生の供述などから次のことが明らかになったからである。実は1979年の秋、比較的穏健なイランのMehdi Bazargan首相がアルジェリア政府を仲介にしてアメリカのセキュリティアドバイザーと会見した。その時二人が握手しているところが写真に撮られているという話だ。もしこれが事実だとすれば、過激派にとっては危険な状態である。せっかくアメリカの傀儡政府であったシャーの王権を倒したにもかかわらず原理にもどるはずの宗教革命後の政権が再び偉大なる悪魔と手を結ぶなどと言うことは許されてはならない。というわけで学生達はアメリカ大使館を占拠することによって、アメリカをイランから追い出し、今後のイランとアメリカの外交を不可能にしようとしたのである。そしてこの作戦は成功した。アメリカはイランから引き上げ、28年たった今だに正式な外交は行われていない。

ところで、アメリカ大使たちを長期にわたって拘束した学生達は、当初、拘束はほんの数日の予定だったのだという。その計画が変わったのは、カーター大統領によるイランへの直接的な報復はありえないということが、弱腰なカーターの嘆願声明によって明らかになったからだと言う。ここでもカーターのリベラル政策によってアメリカは敵に侮られたと言うわけだ。あの時もしもカーター大統領が人質を即座に返さなければ軍事攻撃もありえるとひとつ脅しでもかけていれば、人質はすぐにでも帰ってきたのかと思うと、まったく忌々しいったらない。カーター大統領が共和党のレーガン大統領に大敗した後人質が返された理由は、レーガン大統領になったらアメリカの政策が変わるかもしれないとイラン側が恐れたからだと言う。

相手にいい顔を見せれば解ってもらえるなどと言う甘い考えがイスラム過激派にどれだけ通用しないかをアメリカ人はここで学ぶべきだった。しかし911以後のアメリカでもまだ「話せば解る」などといってる甘い人間がいるのだからあきれる。

敵に甘いという話なら、湾岸戦争の頃から私が常に疑問に思っていたこととして、パパブッシュ(第41代アメリカ大統領)がフセイン政権を倒さなかったことがある。あの時フセインをあそこまで追い詰めておきながら、何故バグダッドまで侵攻してフセイン政権を倒さなかったのか。なぜフセイン政権に反発していたクルド族やシーア派の反乱分子をけしかけておきながら、土壇場になって彼ら見捨て、我々の目の前で彼らが無残にもフセインに虐殺されていくのを見殺しにしたのか、私にはまったく理解できなかった。

(アメリカの)この行動、というよりむしろ無行動、の背後にあるものを見るのはそれほど難しくない。勝利を得た湾岸戦争同盟軍がイラク政府の変革を望んでいたことは間違いない。しかし彼らが望んでいたのはクーデターであり、本格的な革命ではなかった。本物の人民蜂起は危険だ。それは予測できない無政府状態を起こす可能性がある。それが民主的な国家となるという我々のアラブ「同盟国」にとっては危険な状態になりかねない。クーデターなら結果は予測がつくし都合がいい。フセインに代わってもっと扱いやすい独裁者が、連合国のひとつとして位置してもらうことが出来るからだ。

イラク戦争後の復興でイラクが混乱状態になったことを考えると、当時の政治家達の懸念は決して被害妄想ではなかったことが解る。だがどんな独裁者であろうと自分らの都合の良い政権を支持するという方針はこれまでにもことごとく失敗してきた。湾岸戦争で大敗し弱体したはずのフセインは、政権を倒されなかったことを自慢して偉大なる悪魔にひとりで立ち向かって勝利を得たと近隣諸国に吹聴してまわった。フセインをハナであしらえると思ったアメリカは完全に馬鹿をみた。だいたい傀儡政権ほどあてにならない政権は無い。傀儡政府が独裁者なら耐え切れなくなった市民によって倒される危険があるし、また政権自体が常に我々の敵と裏工作をして寝返る企みをし、我々の隙を狙っては攻撃する用意を整えているからだ。表向きは都合のいいことをいいながら、裏でテロリストと手を組んでアメリカ打倒を企だてていたフセインはその典型だ。傀儡政権ではないが、独裁政権ということで、私はサウジアラビアもパキスタンも信用していない。

パパブッシュの息子ジョージ・W・ブッシュが、イラクの政権交代を強行しイラクに民主主義の国家を設立すると宣言したのも過去の過ちから学んだからである。イラク戦争においても、フセインを別の独裁者と挿げ替えて、傀儡政権を通してイラクを統治してしまえばいいという考えが保守派の間ではあった。また、イラク戦争はイラクの石油乗っ取りが目的だったという反戦派もいた。だが、ブッシュ大統領は、これまでアメリカに好意的だというだけで我々が悪徳な独裁者に目を瞑ってきたことがどれだけ間違いであったか、今後平和な世界を作り出そうと思ったら世界中に本当の意味での民主主義を広めなければならない、と語ったことは本心だった。だからこそイラクで主な戦闘が終わった時点ですでに存在していたイラク軍や警察やバース党をそのままにして頭だけ挿げ替えるという簡単な方針を取らずに、民主主義国家設立のために大変で面倒くさいことを一からやり始めたのである。今は確かに苦労するが、長い目でみたらこれが一番確実なやり方だからだ。

我々がイラクを攻めなければならなかったもうひとつの理由は、長年にわたるカーター(民主)、レーガン(共和)、クリントン(民主)の中東政策により、イスラム諸国では「アメリカは戦わない」という強い印象を打ち砕くためである。湾岸戦争を率いたパパブッシュ大統領(共和)でさえ、圧倒的戦力を有しながら根性がなかったおかげでフセイン政権を倒すことが出来なかったと歴史は書き換えられてしまったのだ。イスラム過激派に慈悲など通用しない。こちらの戦争へのためらいは単なる弱さと解釈されるだけだ。ビンラデンが911攻撃を計画した理由として、カーターの大使館占拠に対する無報復、レーガンのレバノン海兵隊宿舎爆破事件後のレバノン撤退、クリントンのブラックホークダウン後のサマリア撤退、を挙げて、「アメリカに戦う意志はない」と判断したことを挙げている。下記は1998年にビンラデンがABCニュースのインタビューでその本心を明かしたものである。

我々は過去10年間に渡りアメリカ政府が衰退し、アメリカ兵士が弱体化するのを見てきた。冷戦に対応する準備は出来ていても長い戦いへの用意は出来ていない。また彼らがたった24時間で遁走できることも証明された。これはサマリアでも繰り返された。我らの若者はたった数発の打撃で負かされて逃げ帰った(アメリカ兵)に呆れた。アメリカは世界のリーダーたるもの、新しい世界のリーダーであることを忘れてしまっている。彼らは彼らの遺体を引きずりながら恥かしくも退散したのである。

次回へ続く。

November 4, 2007, 現時間 7:19 PM

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コメント

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下記投稿者名: hatch

まず、一つ、上記エントリーの苺さんの歴史認識ミスを指摘します。
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しかしその後何故か世論はモサデック政権よりもシャーを支持するように変化
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これはないでしょう。「何故か」ではありません。CIAが金をばらまいてイランの世論を変えたのです。
ウィキペディアにまとめた文章がありますので以下に参照します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/アメリカ合衆国とイランの関係
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1952年から53年、民主的に選出されたナショナリストの首相モハンマド・モサッデグは急速に勢力を伸ばし、一時はモハンマド・レザー・シャーを短期亡命に陥れた(のち帰国し権力奪取)。1952年の諸事件は石油国有化運動、すなわちモサッデグによるアングロ・イラニアン石油会社、現在のブリティッシュ・ペトロリアムの国有化政策に端を発する。同社は20世紀初に英国によって設立され、英国85%・イラン15%の割合で利権を分割する協定を結んでいたが、イラン政府に財務報告を提出していなかった。アングロ・イラニアン石油会社による利権の独占の嫌疑により、イラン議会は同社の国有化を満場一致で可決した。この当時アングロ・イラニアン石油会社は英帝国最大の企業であった。合衆国と英国は、現在はCIAも認めている秘密作戦「アイアス作戦」を展開した。これはテヘランの合衆国大使館の指揮によるもので、反モサデッグ勢力の組織化を援助し、シャーを帰国させるというものであった。しかし作戦は失敗、シャーはイタリアに亡命した。その後同様の試みが行われて成功。シャーは短期の亡命から帰国した。こののち、政府に対するシャーの権限を制約する憲法上の規定を撤廃。専制君主としての支配を開始し、イランにおける民主主義の萌芽は独裁のもとに潰えた。

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私が知っているだけでも、この手の証言は他に2つあります。一つめは小田実著「何でも見てやろう」です。
上記の書の「たがいにむかいあう2つの眼について-イランの「外人」のなかで-より
ガロウェイは、イランの民衆の腐敗の一つの例として、モザデグ失脚の背後事情について語った。モザデグ支持の大会が開かれ、デモがテヘラン市中をねり歩いた翌日だかに、その大会・デモに参加した同じ民衆によって、モザデグ打倒の大会・デモが行われ、それが結局、モザデグ政府の命取りとなった。その前夜、民衆のボス連中に、大金がある筋からばらまかれていたのである。
「ある筋とは何か?」私は何気なく訊ねた。私はそのときのガロウェイの表情を忘れることはできない。ガロウェイは、アメリカを愛し、アメリカ人であることを誇りにしていたのである。彼は吐き出すように言った。【The Unaited States】

つぎは日本では2003年11月25日にBS1で放送された「CIA・秘められた真実」の第1回-暗殺工作-の7分過ぎから、CIAの初めての外国政府転覆作戦「エイジャック作戦」として描かれています。
「エイジャック作戦」とは英語を日本語表記に変えるときに変化するのがよくありますがウィキペディアにいう「アイアス作戦」のことでしょうね。


さて、苺さんが力説しているようにこちらの意のままになる独裁政権がうまくいかないのは確かです。長い目で見ればです。
しかし、だからといって他国が力によって、他国を民主化できるのですかねえ。
ブッシュJ大統領は、第二次大戦時の日本とドイツを例に挙げるのがお好きですが、日本とドイツは第二次大戦によって初めて民主化したわけではありません。
ドイツのことは他国ですから言えませんが、日本の民主化は、明治維新から始まります。そして、その明治維新でさえ、その前の江戸時代270年間の太平時代に培わられた国力の下地がありました。
産業革命をへたイギリス人が幕末時代の日本に対して言いました。「石炭と製鉄技術さえ与えれば日本は産業革命を起こせたであろう」
ペリーの最初の来航から半年で、現代も地名に残るお台場という人工島の砲台を築き、また3年後には今の鹿児島県(島津家)、佐賀県(鍋島家)、宇和島市(伊予伊達家)のそれぞれが、よちよち泳ぎとはいえ蒸気船を文献とみようみまねで作って見せたのです。
力で押さえつけた奴隷は、誇りがありません。誇りがない人々が自らを主人公とする民主主義を作り上げられますか?
苺さん、あなたは矛盾しています。
強権的な独裁政権にはアメリカは何度も失敗してきたとあなたは言われます。その通りです。私は異存がありません。しかし、アメリカがその軍事力によって他国に民主主義を樹立することはできません。力によって押さえつけた民衆はその力に対して媚びるだけで自立できないからです。
ではアメリカはどうしたらよいかですか。悪人を演じるしかないでしょうね。もし、どうしてもアメリカの力で他国に民主主義を根付かせたいのならです。
アメリカが敵役となり、握っていなければ砂になるアラブ人を結束させて、自分たちの力で国を作ったとアラブの人々に思わせなければなりません。
自らが正義とは決していえない戦争を何年も何十年も、何千人何万人もの犠牲を払ってアメリカが続ける覚悟がおありですか、苺さん?

上記投稿者名: hatch Author Profile Page 日付 November 6, 2007 6:52 AM

下記投稿者名: scarecrowstrawberryfield

hatchさん、

ネットアクセスがなかったので、返事がおくれました。細かい情報をご提供いただきありがとうございます。

CIAのイラン内政干渉についてはCIA自体の誇大吹聴がかなりあると思われ、CIAにそういうプログラムがなかったとはいいませんが、いったいどの程度イランの内政に影響を及ぼすことが出来たのか、かなり怪しいと私は考えています。

イラクが民主化するためにはアメリカを悪人としてイラクがまとまるしかないというお考えには賛成できません。しかしこれは非常に興味深い主題なので改めてエントリーとして書きたいと思います。

カカシ

上記投稿者名: scarecrowstrawberryfield Author Profile Page 日付 November 7, 2007 3:28 PM

下記投稿者名: hatch

最初にお詫びを、カカシさんと苺さんを私は混同していたようです。大変失礼しました。
さて、カカシさんが言われた私の考え
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イラクが民主化するためにはアメリカを悪人としてイラクがまとまるしかないというお考えには賛成できません
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これは私の考えではありません。私はアメリカが武力によって短期的に(短期といっても10年以上かかります)
イラクを民主化するには悪役になるしかないと考えているのです。
民主化の過程、近代化の過程は国により様々です。ブッシュJ大統領が、イラクの民主化に第2次世界大戦後の日本やドイツを挙げるのがどうしても私には許せないのです。もし、仮に今のイラクに日本を当てはめたいのなら、幕末の日本を近似値として当てはめるのが、まだましでしょう。それにしてもよほど離れた近似値です。まあ、あの時代の日本には外国人相手のテロ(生麦事件その他)がありましたし、日本自体が300諸侯の寄せ集めの国でしたからね。

上記投稿者名: hatch Author Profile Page 日付 November 7, 2007 5:52 PM

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