November 19, 2006

求むイスラム教メソジスト!

English version of this post can be found here.

さてさて、私は西洋の宗教キリスト教がしたように、イスラム教にも改革の希望はあると書いてきたが、そのことについてミスター苺が2005年の9月に書いているので、その記事をここで紹介して今週のイスラム教談話を完結することにしよう。

私は昨日、西洋の政治家たちが「イスラム教は平和な宗教だ」と言い続けることは大事だと書いた。 しかしミスター苺はこれには全く反対の意見をもっている。 なぜならミスター苺もロバート・スペンサーと同じ意見で、コーランそのものに暴力を奨励する節がある以上、イスラム教は平和な宗教だという解釈は間違っているという。 そんな口からでまかせをいっても、コーランの裏表を知り尽くしている敬虔なるイスラム教徒を説得することは出来ないというのだ。

ではイスラム教には希望はないのか? ただただこのまま暴力を繰り返し我慢しきれなくなった西洋社会に滅ぼされる運命なのか? いや、そうではない、とミスター苺は語る。 イスラム教にも希望はある。 だがそのためにはイスラム教は中世にキリスト教が行ったような宗教改革が必要だというのだ。

歴史を振り返ってみれば、キリスト教も決して「平和な宗教」などではなかった。 何世紀も前のキリスト教はいまの過激派イスラム教に勝るとも劣らないほど暴力的な宗教だった。イスラム教徒のようにユダヤ教徒と不信心者を攻撃していただけでなく、背教者、異教徒、(神に対する)不敬者、魔女、想像できるありとあらゆる人々が攻撃された。 悪名高き十字軍、Torquemada、Kramer そしてSprengerなどがいい例である。

しかし、協会は色々な課程を踏みながらついに自ら改革をすすめた。 すべてが同じ時期に起きたわけではないし、世界中のあちこちで同時に起きたわけでもない。だがだんだんとキリスト教の「宗教革命」は成し遂げられた。 そしてその結果キリスト教は今日ある姿に生まれ変わったのである。

今日、カトリック、バプティスト、ロシアオーソドックスの協会が通りを隔てて同じ町に建っているなどというのは普通だ。お互いの牧師や神父たちが仲良くチャリティー運動を一緒にするのも珍しくない。

またキリスト教徒もユダヤ教徒も厳密な意味での宗教の教えを実施する人々はほとんどいない。 だから例え敬虔なクリスチャンとかユダヤ教徒とか言われる人々でも、現実的には家族、近所付き合い、仕事などが優先される。 そしてこれはいいことなのだ。 我々はキリスト教徒のお隣同士で住んでも、ユダヤ教徒だといって迫害されることはないし、我々もお隣がコーシャーでないからお呼ばれされてもいけないとか断る必要もない。 (カカシとミスター苺が結婚式を挙げた裏のユダヤ寺院のカンターが駐車場でマクドナルドのチーズバーガーを食べてたのをカカシは目撃したもんね!)

つまり、ミスター苺はイスラム教にももっと多くのメソジストが必要だというのである。

個人的なレベルではイスラム教メソジストはすでに多く存在している。たとえば私の同僚にはアフガニスタン出身のイスラム教徒がいるが、彼は一日に何回もメッカに向かってお祈りなどしないし、ラマダンの時期でもちゃんとお弁当を食べているし、企画終了の打ち上げのときにはビールも飲む。 それでも彼は自分をイスラム教徒だと考えている。 カカシが行った大学の同級生には何人もイスラム教徒がいたが、私が間違って豚と牛の合い挽きでシュウマイを作ってしまったときでも、豚と知ってて皆たべていた奴が結構いた。 明らかに我々はこのようなイスラム教徒と戦争をしているわけではない。

こうした人々は自分達のことをイスラム教徒だと考えてはいても、それはもっと自分の内部のことだと解釈している。 たとえばシャリアとは自分の心の中の葛藤であると考えることによって、普通の生活がそれに従うことから開放されるというように。 大事なのはイスラムを現実の生活から引き離して、死後の世界のものとすることである。 日常生活に支障をきたすような面倒くさい儀式や習慣はこの際だから捨て去ることだ。 オーソドックスのユダヤ教徒でさえも、きょうび妻が生理の時に汚らわしいものといって触らないなどという人はいないのと同じだ。(Leviticus 15:19).

このような穏健なイスラム教徒はいくらでもいるはずだ。いや、たとえ熱心なイスラム教徒でシャリアを自宅で実施しているひとでも、イスラム教徒でない人間をすべて殺したいなどと考えている人はそうはいないはずだ。 いや実際の話このような穏健派は大多数に違いない。

だが、問題なのはイスラム教徒の運動団体はどこの国でも皆かなり過激であり、テロリストにも同情的だ、アメリカのCAIRなんてのがそのいい例である。 彼らの存在は非常に危険だ。 なぜなら穏健派イスラム教徒が見る公のイスラム教グループが皆過激派であることから、穏健派である自分には何か問題があるのではないかという疑問を抱くようになるだろう。 そして自分の意見を聖廟などで表現するのは控えめになるはずである。 やたらにイスラム過激派を批判するような行動はイスラム社会から村八分にされるだけでなく、命の危険すら伴う可能性があるからだ。

もしも多くの穏健派イスラム教とが、イスラムメソジスト運動を起こし、組織を作って自分らはひとりではないということをイスラム教徒内部で訴えることができれば、この動きはだんだんと広まるのではないだろうか。 憎しみにはエネルギーを要するから、普通の人は自然と穏健派メソジストの方向へ魅かれるのではないだろうか。

多くの男達が静かな絶望感をもって生きていると言う。どれだけ多くの穏健派イスラム教とはこの「静かな絶望感を持って生きている」のだろうか? どうにかしてこの人たちに絶望的な行為に走らないよう説得できないものだろうか?

追記: イスラム教徒が独特である事には二つの理由がある。イスラム教の創設者であるモハメッド自身が戦士であり、戦闘を指揮した経験のある人間だということ。 もうひとつはモハメッドは長生きしすぎたため、老齢になって機嫌の悪い爺さんになってから、彼を拒絶したユダヤ教徒への憎しみに満ちた愚痴が救世主の言葉として記録されてしまったということがある。 これらの点がこのイスラムという宗教をどのくらい暴力的なものにしているのか知る由も無いが、前にも書いたとおり、今は平和な宗教として定評のあるキリスト教にも、暴力的な歴史はあった。

中世の人たちが考えていた宗教と、現代人が考える宗教とでは全く天と地との差がある。 現代人には宗教が理由で何年も戦争をしていた十字軍の頃のキリスト教徒の心情などとても理解できない。

彼らの生きていた世界は現代の我々の生きる世界とは全く別な世界なのだ。 イスラム教だってそのくらいの年月がたてばどのくらい変わるか解らない。 イスラム教のためにも、その日が来るのに数百年もかからないことを祈ろう。 そうでないとこっちが持たない。

November 19, 2006, 現時間 7:19 PM

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コメント

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下記投稿者名: sou

それは無理です。

なぜならキリスト教には戒律そのものがない(「神を愛し、隣人を愛せ」という内面の規範のみ)のに対し、ユダヤやイスラムでは戒律こそがその基盤(救済への絶対条件)だからです。

戒律を守らないイスラム教徒は堕落しているだけです。
全く逆に、キリスト教の宗教改革においては、秘蹟、免罪符などの聖書に書かれてもいない戒律、儀式を勝手に作り出したローマ教会こそが堕落しているとされたのです。
キリスト教は本質的には人間の内面のみを規定し、外面的行動は世俗法がこれを規定する、この考え方なくしては近代主義(民主主義、資本主義)もあり得ないのです。

上記投稿者名: sou Author Profile Page 日付 November 20, 2006 10:57 PM

下記投稿者名: asean

こんにちは、カカシさん

イスラムメソジスト運動・・・う~~ん、発想としては悪くないアイデァですね、はい。
(ただ、どうしても思考がキリスト教側からの視点ですけどね、はは)

ようはですね、スンニ派、シーア派等がその施設も含めてイスラム高等研究所みたいな確保して
”イスラム神学”を再構成する試みが出来るか?その実現の可能性を探ることなんですよ。

そうした研究所では各派が、イスラム法や政治的な関わり方等に至るあらゆる分野を単にコーランの中のアッラーの言葉を
現実の世界に引用するのではなく(今がそうですね)理論体系を構築する方向で検討する。

そして、同じ場所に各派の施設がある訳ですから、イスラム神学者としてその論理体系をお互いに検証する
・・・そういったことをイスラムが目指すことが出来るか?に実はかかっていると思いますよ。

シーア派ではSeyyed Mohammad Khatamiがこの構想の最有力候補でしょうね、はい。
(その機関の権威付けの問題を解決する上でも、それなりの人物を抜擢しないとならないですけど)

彼がどうしてアメリカへ行ったのか?(入国出来たのか?)は結構興味深いモノがあるんですけどね・・・

スンニ派は誰が有力候補になれるでしょうね?サウジから出しては駄目でしょうね(サウジも出す気はないと思いますが)

実際、問題は多いんですがアフリカ連合(AU)なんて機構もある訳ですからイスラム諸国もやろうと思えば出来ないことはない。

特に前段階として「現代イスラム神学の確立」という行動はね。

で、そうした研究機関から出来上がった現代イスラム神学の理論体系が西欧型自由・民主主義とは解釈が違っていたとしても
実は問題がある訳じゃない。

バース党等という似非社会主義が蔓延ってしまったのも実は各派がしっかりした神学体系を確立しなかったせいなのは、ハタミさんなんかは一番理解していると思いますよ。

因みに、ビールを飲んでいるとかハンバーガーを食べているってな話を引き合いに出すのはちょっと変ですけどね(笑)


上記投稿者名: asean Author Profile Page 日付 November 22, 2006 12:44 AM

下記投稿者名: Sachi

アセアンさん、souさん、

因みに、ビールを飲んでいるとかハンバーガーを食べているってな話を引き合いに出すのはちょっと変ですけどね(笑)

いや、ここが肝心なところなんですよ。なぜかというとsouさんがおっしゃてる通り要するにイスラム教の戒律というのは、精神的な高揚をはかるというより、個人の私生活を厳しく制約することによって常にイスラム教の存在を個人におしつけているわけです。

だから私生活の上で、厳しい戒律を守ることが非現実的だという理由でビールを飲んだりハンバーガーを食べたりという行為が許されるのであれば、その他の解釈も現実社会に沿った解釈をしてもいいという理論につながるのです。

イスラム教にしろユダヤ教にしろ個人生活を厳しく制限するリチュアルが大事なのではなく、宗教をとおして個人の精神の高揚をはかることなのだと信者が納得できれば、多くの問題が解決すると私は思うんですけどね。

でもアセアンさんの今回の意見をきいて私はかなり希望が湧いてきました。

カカシ

上記投稿者名: Sachi Author Profile Page 日付 November 22, 2006 3:50 PM

下記投稿者名: sou

補足ですが、イスラム教は厳しい宗教であるというのは誤りです。
たとえばコーランでは冒頭で「慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名において~」と始まるように、イスラムの神はユダヤ教やキリスト教の数々の試練を人間に強いるばかりの神とは違って、ずっと優しい神様なのです。「ビールを飲んだりハンバーガーを食べたり」しても、それは堕落であるとはいえきっと許してもらえるはずです。そういった柔軟性も持っているからこそイスラム教は世界中に広がっているのです。
また、コーランには「宗教に強制なし」とも明確に謳われれています。誰かが以前にここでコメントされていましたが、歴史的に見てもイスラム程、他宗教徒に対して平和的な宗教はなかったでしょう。イスラムが元来、暴力的だなんて全くのウソです。
そういう意味でアセアンさんのおっしゃるようなこと(実はよくは分かってないんですが)はとても意味のある事だと思えます。

しかし!それでもジハードはなくならないのです。
なぜならイスラムの寛容さとジハードの思想は矛盾しない。そして、イスラム主義と近代主義は必ず矛盾するからです。
戒律による縛りが緩くなっていけばきっと近代主義みたいなものが生まれるだろうというのは間違いです。世俗における宗教的戒律を積極的に徹底的に否定する思想こそが近代主義を生んだのです。こうした近代主義という考え方こそ実は特殊なものであるかもしれないと我々は気づくべきでしょう。

では近代主義者である我々に何ができるか、というのは、繰り返しになりますが、とっても難しい問題ですねー。

上記投稿者名: sou Author Profile Page 日付 November 23, 2006 5:03 PM

下記投稿者名: Sachi

souさん、

souさんがおっしゃるようなイスラム教が真実の姿なのだとすればイスラム教が近代会するのはもっと容易いはずだと思います。

イスラム教諸国でも世俗主義の法律を組み入れて一応民主主義的な近代化した国家も存在しています。トルコとかヨルダンなどがそのいい例でしょう。無論、西洋の我々が思うような完全な民主主義とはいえませんがね。

しかし申し訳ないですが、souさんはアメリカの大学で教えられているような美化されたそしてかなりわい曲されたイスラム教を信じておられると思いますよ。イスラム教には異教徒に暴力で改宗を強制してもいい、いやそうすべきだという節があるとイスラム教専門の学者数人からきいてます。またイスラム教国家において他宗教が認められているとはいっても、それは異教徒がディミー、つまりセカンドクラス市民としての立場を受け入れた場合のみであり、彼等にイスラム教徒と同じような権利など認められていません。

また、サウジなどでは女性がベールをかぶらずに歩いているというだけで赤の他人の男性から暴行をうけたり、女性が男性エスコートなしに外出すればひどい目にあうというのは日常茶飯事です。

souさんのいうようなイスラム教が真実のイスラム教の姿であるべきだという理想像であるならば、そしてそれを全世界のイスラム教徒が受け入れることができるのであれば、イスラム教の近代化は可能なはずです。

カカシ

上記投稿者名: Sachi Author Profile Page 日付 November 24, 2006 1:10 AM

下記投稿者名: sou

僕とカカシさんとの考え方の違いの一つはどうやら近代社会に対する認識の違いのようですね。
いわゆるヴェーバーゾンバルト論争ですな。
僕はインテリなんで(←自虐!)当然、ヴェーバー派なんです。

またイスラムに関してさらに補足すると、彼らの問題は厳しい宗教であるということから生まれているのではないと思いますね。
例えば彼らがよく使う言葉に「インシァラー(アッラーの思し召しによって)」というのがあります。彼らはこの言葉で、我々が普段交わし、そして当然に守るような約束、契約、そして法律など平気で破り、反故にしてしまいます。それもすべては神、アッラーがあらかじめ決められたことなのだ、というわけです。僕からすれば、彼らは付き合ってられない程、いいかげんでテキトーな奴らです。
そしてこのように彼らが宿命論的考え方を採りがちなために、それはしばしば、ひどい女性差別主義者やファシストたちに利用されることにもなる。この現実がほんとにあるべき現実なのか、などと彼らは(それがコーランに書かれていない限り)考えもしないのです。
一方で神との約束、契約、法律について、これを否定するコトは絶対に許せない。とはいえ彼らは神の慈悲につけ込んで結構それらを平気で破ったりするのですが、一方でその戒律そのものの重要性を否定されるのは許せない。彼らがその否定を強制されていると考えれば自ら命すら投げ出してこれを守ることになるのです。

上記投稿者名: sou Author Profile Page 日付 November 25, 2006 3:22 PM

下記投稿者名: Sachi

souさん、

私がすきなスペインのバンド、ジプシーキングの歌のなかで「インシャラー・インシャラー・サラーム」が何度も繰り返される歌があります。そういう意味とは知らずにいつも口ずさんでいた私。(笑)

僕からすれば、彼らは付き合ってられない程、いいかげんでテキトーな奴らです。

アメリカに来たばかりの頃非常に多くのイラク人やイラン人との付き合いがあり、私もsouさんと同じような印象を受けました。でもこれはイスラム教徒というよりも中近東の文化とも関係あるみたいですよ。東南アジアのイスラム教徒とはかなり違った面もありますからね。

でもかえっていい加減でテキトーだからこそ、変革の希望がもてるのではないか、と私は結構楽観的にみてるんですけどね。

カカシ

上記投稿者名: Sachi Author Profile Page 日付 November 25, 2006 4:23 PM

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