October 1, 2006

西洋が過激化する時

よくテロリストとの戦いはイスラム過激派との戦いなどという限定されたものではなく、我々の戦っている敵はイスラムそのものであるという人がいる。ここでもそう考える人々の意見をいくつか紹介してきた。

だが私はそれは違うと考える。少なくともそうであってはならないと。しかしだからと言って、私は決してイスラムは「平和な宗教」などというイスラム過激派の表向きのいい分を買っているわけではない。イスラムの神の名の下にどれだけの人々が殺されているかを考えれば、イスラムが平和な宗教だなどとはどう考えても受け入れられないからだ。

西洋の多くの人々は、テロリズムとは一部の過激派による行為であると考えている。ほとんどのイスラム教徒は話せば分かる人々であり、文明社会がまだ発達が遅れているイスラム教徒に対して寛容な姿勢を示せば、イスラム教徒も西洋の文化に歩み寄ってくれるとまだ信じているのだ。

だが、数年前に起きたバンゴッホ映画監督暗殺事件といい、この間のデンマークの漫画事件といい、法王演説への過激反応といい、ドイツのオペラ座公園、フランス教授への脅迫と、なにか問題が起きる度に「話せば分かる」と考えている西洋の人々の間でひとつづつ「寛容」への箍が外れていくような気がしてならない。

聖戦主義者、ジハーディスト、たちは西洋の他民族や他宗教への「寛容」を我々の「弱さ」であると考えるからだ。我々が弱者をかばい、少数民族の自由を保証するやり方は、我々の「欠点」であると考えるのだ。そして彼等は我々の自由と生命を尊ぶ思想こそが我々を崩壊へ導くと信じてやまないのである。(以下National Reviewより。)

初期のイスラム歴史の章から、イスラム教徒が西側と戦争をする上で今日の教訓となるものがある。それは「死への愛」である。これは西暦636年のカディスィヤの戦いにおいて、イスラム軍の指揮者、カリード·イブ·アル·ワリードが敵側のKhosru宛てに使者に手紙を持たせた。そのなかには「そのほうたち、イスラムに改宗せよ、さすれば安全は保証する。さもなくば命を愛する貴様らを、我が輩がひきつれる死を愛する男たちの軍がその力を思い知らせてくれよう。」と書かれていた。このエピソードは今日のイスラム教の説教でも、新聞でも、教科書でも繰り返されている。

現にヒズボラの指導者ナスララも数年前イスラエルとヒズボラが人質交換をした後で、こんなことを言っている。

「我々はユダヤ人の最悪の弱点を発見した。ユダヤ人は命を愛する。だから我々はそれを奴らから奪ってやるのだ。我々は勝つ。なぜなら奴らが命を愛するように、我々は死を愛するからだ。」

これは話が完全に逆さまだ。イスラム勢力が歴史上何度も西洋社会に敗北したのは常に彼等の「死への愛」が原因なのである。男たちが敵を前に立ちはだかって死ぬまで戦い続けるのは命を愛するからであって、死を愛するからではない。死を愛するものに勇気は持てない。死への愛は希望ではなく絶望だからだ。

我々は命を愛するからこそ命を捧げて我々の自由のために戦う英雄を讃えるのである。我々は自由を愛するからこそ科学、技術、哲学などで最先端をいっている。自由主義であるからこそ戦力も優れているのである。自由な国の軍隊では個々の部隊で優れた指揮官が融通の利いた判断をくだすことができる。個人の才能が生かされ状況に臨機応変に対応できる軍隊ほど危険で強力なものはない。

ジハーディストたちがそんな自由主義の西洋と戦って勝てるなどと思うのは馬鹿げている。彼等は西洋の血なまぐさい歴史を全く知らない愚か者だ。西洋の軍隊ほど効率良く大量殺人をやってきた軍隊はない。その犠牲者の数はイスラム勢力のすべてをかき集めても足下にもおよばないのである。

最近の歴史において、戦争における最新技術を生み出してきたのはすべて西側である。自由主義の国々における技術発展は凄まじい。融通の利かない独裁社会は武器を自分らで開発できず、ライフルから戦車からすべて技術を西側諸国から買い取るか盗み取るしか能がない。このような西側がイスラム勢力と本気になって戦争をやったらイスラム勢力はひとたまりもない。

その悲劇的結末をいまはまだかろうじて止めているのが西洋社会の弱者への「寛容」である。だが、「イスラムが悪いのではない、一部の過激派が問題なのだ」といまはまだ考えいる人々も、イスラム教徒らの暴走がある度に、そして「穏健派」といわれるイスラム社会から暴力を糾弾する気配が全く感じられない度に、、ひとり、またひとりと、「悪いのはイスラムそのものだ。イスラム教徒は皆殺しにせよ」という過激派に変化していくのではないだろうか。

西洋の人々が過激化する時、「イスラム教徒は皆殺しにせよ」という過激派の思想が西洋を支配した時、崩壊するのは西側ではない。完全崩壊するのはイスラム教のほうなのである。だがその時大量に殺されるのは、「死への愛」を唱えるイスラム過激派だけでない、過激派に抗議しなかった穏健派も道ずれとなるのである。西洋の過激化を防げるのはイスラム教の穏健派だけである。

関連記事:イスラム教徒はテロリスト予備軍なのか? 灰色の思考算術さんより

October 1, 2006, 現時間 10:35 PM

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以前にも私は西洋が過激化する時と題して、ヨーロッパの穏健派がイスラム教徒による暴挙がおこる度に少しづつではあるが、過激化していくような気がすると書いた。 今、フランスで... [Read More]

トラックバック日付け October 13, 2006 5:28 PM

コメント

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下記投稿者名: snoozy

イスラームにとって不幸だなぁと思うのは、ムスリム=過激派・排他的・攻撃的・野蛮というイメージが広まってしまったことです。少し歴史を遡れば、オスマン朝という、豊かで寛容で開かれた帝国が栄えた時代が長く続いたことが分かるのですが・・・
本などの受け売りなのですが、オスマン朝自体はイスラームを奉じながら、ユダヤ教徒やキリスト教徒などにも寛大で、互いに共存共栄していたということです。こういうことを知ると、中東のゴタゴタは“千年を超える宗教対立”が原因などという見方が、人々の無知に付け込んだ浅はかなものに思われてきます。

だからといって、イスラームが悪者にされるのは欧米の帝国主義者のせいだ!!!という過激派や一部リベラリストのプロパガンダに与するのは、問題をややこしくするだけです。これも池内恵など専門家の受け売りですが、中東の国々では、非民主的で抑圧的な体制を維持するための口実として“西欧が悪い”というステレオタイプが繰り返されているそうです。似たような図式は、極東にもありますね(苦笑

そもそも、過激派は宗派や信仰の有無を問いません。“宗教が過激派を生み出す”というのは不毛な誤解ですが、“過激派が宗教を利用している”といって宗教を完全に免罪してしまうことは、過激派を宗教に逃げ込ませる口実を与えるだけだと思います。グローバルには“寛容”の原則を徹底する一方で、ローカルには無用の衝突が起きないような様々な工夫を積み重ねてゆく必要があるのではないでしょうか。例えば、信仰ごとに住む地区を分けて、地域ごとに通用する規則を作るとか・・・他人の信仰を抑圧する愚行を繰り返したくはありませんが、他人の信仰に抑圧される愚行も犯したくないものです。

上記投稿者名: snoozy Author Profile Page 日付 October 2, 2006 2:01 AM

下記投稿者名: sou

もう「イスラム教徒は皆殺しに」しちゃった方がいいんじゃないすかねぇ?

「融通の利かない独裁社会」であるイスラム勢力においては、いわゆる穏健派が過激派に抗議し暴力をやめさせるなど土台無理な話でしょう?

blog主さんは
「だが私はそれは違うと考える。」
と書かれていますが、「弱者への「寛容」」に過ぎるのでは?

上記投稿者名: sou Author Profile Page 日付 October 2, 2006 6:31 PM

下記投稿者名: Sachi

souさん

blog主さんは 「だが私はそれは違うと考える。」 と書かれていますが、「弱者への「寛容」」に過ぎるのでは?

いや、これは「寛容」でいってるのではないのです。もしも、イスラム全体と西側諸国(仏教やヒンドゥーなども含む)が戦争をやったらば、最終的にはイスラム教が滅びるでしょうが、その間にでる双方での犠牲は第二次世界大戦なんてどころじゃない、天文学的な数になってしまうと思うのです。

そしてこれまで個人の思想の自由を保証してきた我々が、一時期でもそれを差しとめて、イスラム教を弾圧し、イスラム教徒というだけで個人的に彼等がどんな思想を持っていようと、差別するような社会になるのを恐れるからです。

また、個人的に私には尊敬できるイスラム教徒が何人もいます。彼等の声は小さいですが、それでも彼等は過激派でもジハーディストでもないのです。そうした人々がこの戦いに巻き込まれて滅ぼされたとしたら文明社会にとってもマイナスだと思うのです。

だからこそ、こうしてイスラムの穏健派にがんばって過激派を説得してほしいと願うのです。

カカシ

上記投稿者名: Sachi Author Profile Page 日付 October 2, 2006 8:35 PM

下記投稿者名: sou

なるほどー。本気で期待しておられるのですね。
僕はまた、「私は違うと考える」と第三者的立場に立ちながら、責任をイスラム穏健派といわれる人々に押しつけているんじゃないかと勝手に邪推して、またまた下手な皮肉をかましてしまいました。
反省。

しかしイスラム主義とキリスト教をベースとした近代主義との間の根本的な矛盾は、難しい問題ですねぇ。

「死への愛」のような現世否定はいかなる宗教においても基礎であるといえますが、イスラム主義の重要な特徴の一つは歴史を不変のものであると見なすところにあります。
これはムハンマドが最後(以後不出)の預言者であることとも関わっているようですが、近代主義社会における、社会は変わりうる(たとえば革命などによって)、そして積極的に変えるべきだ、という考え方と根本的に違うため、我々がイスラム社会を「融通の利かない」と思ってしまう原因の一つといえるでしょう。
さらにこの「不変である歴史」に名を残すためには命を捨てることも惜しくないという思想はジハーディストにもつながってしまいます。彼らのいう聖なる行為は永遠の歴史に残ることで意味を持つのでしょう。
イスラム穏健派といわれる人々はこのあたりの矛盾にどう決着をつけるのか。あるいはつけないのか。

またイスラムだけではなく、たとえば中国の偉大な史家、司馬遷は『刺客列伝』を記し、刺客(=テロリスト)を大いに誉めていますが、ここにも歴史とは不変である、あるいは単に繰り返すものだ、という歴史観があるようです。
日本における万世一系といった歴史観も同じかもしれない。

我々もこのような近代主義以外の論理も理解する(同情でなく、知る)必要はあるでしょう。
さらなる宗教戦争を避けるためにも。

上記投稿者名: sou Author Profile Page 日付 October 3, 2006 7:45 PM

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