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September 3, 2017

風と共に去りぬがポリコレ規制に触れた日

映画

アメリカの歴史を抹消しようとする動きは遂にアカデミー賞受賞傑作映画「風と共に去りぬ」にまで手を伸ばしてきた。政治は自分たちには関係がないと思っていても、言論規制はこのように我々の生活の隅々まで手を伸ばしてくるのである。

テネシー州のメンフィス市にあるオーフィウム劇場では毎夏恒例風と共に去りぬの上映が今月11日をもって今後同映画を上映しない旨を発表した。劇場側の案内によると、この映画上映に関していくつかの苦情をもらったことから経営者の判断で今後の上映はしないことにしたというのだ。

私は風と共に去りぬを中学生の頃に読んで、その時ずいぶんと黒人差別をあからさまにした小説だなと思ったものだ。しかし同時に南北戦争を南部の金持ちの視点から見たという意味では興味深い小説だとも思った。その後宝塚の舞台や映画も観たが、どちらからも原作にあるあからさまな黒人差別の描写はかなり削られていた。

しかし、1970年代に初演された宝塚の舞台版とは違って映画の方は公開が1930年代。まだまだ黒人差別が普通だった時代なだけに、今だったら信じられないような描写があることは確か。

先ず南部の視点から見ているので南部軍は英雄で、奴隷制度廃止を唱えていた北軍を悪者にしていること。それだけでなく、映画を通じて優しい人とされている従妹のメラニーが、主人公のスカーレットが安い労働者として白人囚人を雇ったとき、囚人を無理やり働かせるなんて非人道的だ、何故くろんぼを雇わない?と怒ったり、スカーレットが黒人と白人の二人組に襲われそうになり逃げかえってきた後、KKKのメンバーであるスカーレットの家人が黒人退治に出かけて警察に追われるシーンなどがあったりする。

この小説は我々現代人からは受け入れられない視点から見ていることは確かだ。だが昔はこういうふうに考えている人もいたということを知っておくのも大事な勉強だ。原作者のマーガレット・ミッチェルは南北戦争当時の人ではない。この小説は彼女が昔の南部にあこがれて書いた幻想小説である。

それに対して奴隷制度時代に生きていたマーク・トウェイン作のハックルベリーフィンの冒険はトウェインの実体験が背後にあるためかなり重みが違う。マーク・トウェインの名作であるこの小説も多くの小学校や中学校の図書館から取り除かれている。その理由というのもニガー(黒んぼの意味)という黒人侮蔑語が小説内で頻繁に使われているから、というのが理由だ。しかしハックの冒険ほど奴隷制度を批判した小説も珍しい。しかもこの小説の舞台は作家の生きていた実社会の物語なのだ。黒人奴隷がいて当たり前な社会に生きていたトウエインが奴隷逃亡に加担する少年の話を書くことは、言ってみれば当時のポリティカルコレクトネスに多いに違反する行為だったはずだ。

それなのに奴隷制度を批判し黒人差別反対と唱える人に限ってハックの冒険を排斥しようとする。奴隷制度の悪を描き、その制度に反抗した勇気ある少年の話を当時普通に使われていた侮蔑語を使っているからといって排斥することの愚かさに彼らは気が付かない。

このままだと学校教育で南北戦争を教えてはいけないという時代が来るのは近い。何故アメリカは国家二分の戦いをしたのか。なぜあれほどまでの犠牲を出して親兄弟が敵対するような戦争をやったのか。そのことを理解できないから、南部軍英雄の彫像を破壊したり、国歌斉唱の時に起立しないで膝をついてみたり、星条旗を冒涜したりする馬鹿人間が出てくるのだ。南北戦争の本当の意味を国民が理解していたら、アメリカ国民がアメリカに誇りをもちこそすれ恥を感じるようなことは断固あり得ないはずだ。

繰り返すが奴隷解放を歌って北部軍を率いた大統領は誰あろう共和党のエイブラハム・リンカーンである。

"Those who don't know history are doomed to repeat it." 「歴史を忘れるものは歴史を繰り返す」                     ー     Edmund Burke エドモンド・バーク。


風と共に去りぬ -あらすじ

物語は南北戦争勃発寸前の南部ジョージア州アトランタ市で始まる。主人公のスカーレット・オハラは通称タラという大農場を持つアイルランド系移民の金持ち令嬢。(タラというのはオハラ氏の祖国アイルランドの出身地の名前)負けん気の強いうら若きスカーレットは慕っていたアシュレーに激しく求愛するが、彼が従妹のメラニーと結婚するつもりだと聞いて、腹いせに好きでもない男と結婚してしまう。

そうこうしているうちに南北戦争が始まる。夫のチャールズはわずか結婚二か月で戦地で病死。若くして未亡人となったスカーレットは大邸宅を負傷兵たちのために明け渡し、戦争中ずっと負傷兵の看病に身を尽くす。

南部は負け、スカーレットの大農場も破産。金に困ったスカーレットは怪しげな手段で金儲けをして裕福で危険な魅力を持つレット・バトラーと結婚。二人の間には娘が授かるが、スカーレットの思いは今もアシュレーのもの。スカーレットはレットの献身的な愛情を素直に受け止められない。そんな二人の間に悲劇が訪れる。二人の愛娘が落馬してこの世を去り、スカーレットとレッドの亀裂はさらに深まる。そんな折、アシュレーの妻メラニーが病死。メラニーの死に振り乱すアシュレーを見て、やっとスカーレットはアシュレーの弱さを知り、レットの深い愛を悟り、自分がどれほどレットを愛するようになっていたかを悟る。

レッドの本当の愛と自分の気持ちを知ったスカーレットはそのことを伝えようとレットのもとに行くが、レットは荷物をまとめて家を出ていこうとしていた。あなたを愛している、あなたが居なくなったら私はどうすればいいの、というスカーレットに対し、レッドは、

「正直なところ、俺にはもうどうでもいいことだ」"Frankly my dear, I don't give a damn."

という名台詞を残して去っていく。残されたスカーレットは私はどうすればいいの、といったんは泣き崩れるが「それは明日考えよう、明日は明日の風がふく」と言って立ち上がる。

ーーーーーーあらすじ終わりーーーーー

September 3, 2017, 現時間 1:27 PM | コメント (2) | トラックバック (0)

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July 30, 2017

地球は過去19年間温まっていない、冷却期に入る恐れも

映画 , 科学

この間、ダンカークという映画を観に行ったときに、アル・ゴアの空想非化学映画「不都合な(不)真実」の続編トゥルーストゥパワーの予告編(ビデオ)を見てしまった。あんまりバカバカしかったので、トランプがEPA(環境庁)をつぶしてやると演説している部分でわざと拍手を送ってやったら、後退派左翼で牛耳られる映画館ではかなりの顰蹙を買ってしまった、私とミスター苺に向かって「黙れ!」「トランプは裏切り者だ、このくそ野郎!」などとヤジが飛んだ。

しっかしながら、アルゴアがいっくら映画なんぞを作ってみても地球温暖化が起きていないという「不都合な真実」を変えることは出来ない。

今年の五月に紹介された記事なのだが、デンマーク気象研究所Danish Meteorological Institute (DMI). の調査によると、北極の海氷は例年よりずっと厚く、地球はここ19年間全く温暖化していないということが解った。

2016年12月から北極の気温は零下20度(摂氏)以下が続いている。4月現在の北極海氷は13年前の4月の厚さまで戻った。さらに海氷が非常に薄いと言われた2008年に比べて今年の海氷の厚さはどこも少なくとも2メートルはあるという。グリーンランドのアイスキャップはこの冬、ここ数年に比べて速い速度で増えている。

エルニーニョのおかげで例年にない暑さと言われた2016年だが、記録的に暑いと言われた17年前の1998年のエルニーニョの時同様、数か月後の今は0.6度ほど温度が下がっている。

ということは、地球温暖化の傾向は19年前から全くないということになる。

地球は温暖化が起きているどころかミニ氷河期に向かっているという説もある。最近の太陽活動の減少から三年以内にかなりの温度低下が見られるだろうというもの。地球は230年周期で冷却するが、その周期は2014年に始まり2019年にはずっと気温が落ち込むという予測だ。

気象学者らによると、太陽活動の大きな現象が予測されており、2020年から2053年までの33年間に極度の冷却が期待されるという。もし本当に地球が冷却周期に入っているのだとしたら、温暖化などよりずっと世界経済に悪影響を及ぼす。

地球気象周期研究所の会長デイビッド・ディリー(David Dilley)氏によると、地球の温暖や冷却の周期は地球と月と太陽の引力関係によって決まるという。それぞれの周期は約12万年周期で巡ってくるが、そのうちでも230年周期で小さな温暖冷却が巡ってくる。西暦900年からすでに五回に渡って温暖化周期が巡ってきたが、その度ごとに冷却期が続くという。

前回の温暖化周期が終わったのが1790年。2020年はその230年後にあたる。そのことからディリー氏は2019年あたりから極度な冷却が始まるだろうと予測している。そうなった場合、イギリスでは1940年に見られたような摂氏零下21度などという温度を見るかもしれない。「2019年からはじまる冷却は2020年から2021年の間に地球の温度を1940年から1960年のレベルまで引き下げることでしょう」とディリー氏は語る。

2019年になって本当に地球冷却化が始まったら、アルゴアはじめ温暖化迷信の妄信者たちはどうするのだろうか?それでも地球は温暖化してると喚き続けるつもりなのだろうか?

July 30, 2017, 現時間 8:46 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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June 25, 2017

ワンダーウーマンはフェミニストじゃない、左翼メディアからの不思議な攻撃

映画

今年はどの映画も全く不入りで悩んでいるハリウッドだが、その中で一つだけ興行成績ダントツの大人気映画ワンダーウーマン(日本語公式サイト)を観てきた。

これは人気があれば三部作になるらしい話の第一部。ワンダーウーマンの出生物語。舞台は第一次世界大戦の真っ最中。女性戦士のアマゾン族のお姫様として、ダイアナは外世界からは完全に隔離された女性だけの住む離島で育った。そこへアメリカ軍のパイロットスティーブ・トラバーの乗った戦闘機が海に墜落。それを目撃したダイアナはスティーブを海から救出するが、スティーブの後を追ってきたドイツ軍により島は襲撃を受ける。多数の犠牲者をだしながらも、何とか外敵を撃墜したアマゾン族は、スティーブからオトマン帝国とドイツが共謀して化学兵器を開発している事実を学ぶ。世界中の人々がオトマンおよびドイツによって脅威にさらされていると知ったダイアナは、これはゼウスの息子で戦いの神であるアレスの仕業に違いないと確信。人々をアレスの魔力から救出すべき使命に燃えたダイアナはスティーブと共に現実社会へと旅立つ。

ダイアナは当初、闘いの神であるアレスを倒しさえすれば戦争は収まるものと非常にナイーブな気持ちで挑むのだが、現実はそんな単純なものではない。アレスは人々の戦闘心や他人を服従させ支配したいという野心に拍車をかけるだけであり、戦う戦わないは人間の自由意志によるものだ。ダイアナはスティーブの援助でそのことを少しづつ学んでいく。この映画の一番大事な点は個人の「自由意志」だ。悪を選ぶも善を選ぶも個人の自由意志なのだ。そんな人間を超人ワンダーウーマンが救う価値があるのだろうか?

常にスーパーヒーローが男ばっかりだと文句を言っている左翼フェミニストたちにとってワンダーウーマンは歓迎すべきヒロインであるはずだが、なぜか彼女たちの批評は冷ややかである。

左翼雑誌のスレートは、ワンダーウーマンの美しさが許せないようだ。主演のガル・ガドットがあまりにも美しく、ダイアナが絶世の美女であることが映画のあちこちで強調され、彼女が登場する場面ですべての男性の目が彼女の美しさに魅せられてしまうことが気に入らないというのだ。登場人物の一人が「恐怖を感じると共に性的興奮にかられる」と語るシーンが観客の笑いを誘うことにこの批評家は怒りを隠せない

そして主演のガドットがイスラエル国民であり、イスラエル軍で戦ったこともある元兵士であるということも左翼連中には気に入らないらしい。彼女がイスラエル人であることが原因でモスレム圏では上映が禁止された国もある。

同じく左翼雑誌のサローンも、ガドットがイスラエル人であることが気に入らないなかのひとつ。

ガドットがパレスチナ人の悪行を自分のツイッターで批判していたことを指して、イスラエルがパレスチナに対してしている悪行について書かないのは片手落ちだと批判。はっきり言って戦争している敵を批判するのは戦士として当然のことだろう。なんで他国による自国の批判までツイートしなければならないのか?彼女にそんな義理はない。第一、それと映画と何の関係があるのだ?

同じくサローンの別の記事では、スーパーヒーローは個人の強さを美化する傾向があり、政府設立の階級制エリート意識丸出しで平等とは程遠いと語る。これははっきり言って矛盾している。政府設立の階級制度では個人主義は奨励されない。なぜなら生まれが高階級の人間は個人的に能力があるなしにかかわらず権限が高いからだ。この批評家はわざと階級制度を持ち出すことによってスーパーヒーローの個人主義を批判している。彼女にとっての平等とは誰もが平等に力のない状態を指すのだろう。

特に馬鹿馬鹿しいのがMSマガジンのこれ、なぜワンダーウーマンは太った有色人種ではないのかという批判。そんなこといちいち説明する必要があるのか?

なぜワンダーウーマンは有色人種ではないの?ガドットがワンダーウーマンを演じると決まった時、観衆は彼女の貧乳を批判し恥をかかせた。もし主役を黒人女性が演じるとなったら白人至上主義者たちが何と言ったか想像がつく。(アマゾン族の住む)パラダイス島には白人と共に黒人戦士もいる。これは良い傾向だ。だが他の人種が見あたらない。

アマゾン族の島はギリシャにあるのだ。ギリシャにそうそういろんな人種が集まるわけはない。だいたい一つの種族で成り立っているのに、人種がまちまちだったらそれこそ変である。

あ、それともうひとつ。主演のガル・ガドットはユダヤ人で白人ではない。アラブ人と同様セマイト人種である。

また、女戦士たちは皆強く勇敢だが、誰もが背が高く細身ですぐにもファッションモデルをやれそうだ。(略)なぜ戦士のなかには太目のがっちりした背の低いタイプがいないのか?

確かに戦士がファッションモデルみたいに痩せ痩せで筋肉がない女ばかりだったら問題ではあるが、私の見た限り、かなりがっしりした女優も居た。アマゾン族は高度な技術のあるエリート戦士の集まりだから、必然的に戦闘に有利な体系の人間を集める。太って動きの鈍い人間じゃ役に立たない。これ、常識。

もうひとつの問題は明らかな同性愛描写が両性愛の普通化によって隠されてしまうことだ

女ばかりの種族ならダイアナもレズビアンであるべきなのに、男性のスティーブに恋をするのはおかしいということらしい。なぜダイアナをレズビアンで通さずヘテロセクシャルにしたのかという批判だ。ダイアナは自分の出生を選んだわけではないので、周りに男が居ないから男の必要性に気が付かなかっただけ。彼女が男性に魅かれても不思議でもなんでもない。それにワンダーウーマンがレズビアンだったという描写は原作にもないので、観客は彼女と男性とのロマンスを期待しているだろうし、これは商業映画として当たり前の決断だと思うけどね。

な~んかこれら左翼の批評は映画とは無関係のところでされているように思える。強い女ワンダーウーマンをフェミニズムの象徴として素直に喜べないフェミニストたちって、いったいどういう神経してるんだろう?


主な配役:
ダイアナ・プリンス / ワンダーウーマン、演 - ガル・ガドット
スティーブ・トレバー、演 - クリス・パイン アメリカ陸軍航空部隊長。
ヒッポリタ女王、演 - コニー・ニールセン セミスキラを治める女王でありダイアナの母。
アンティオペ将軍 演 - ロビン・ライト ヒッポリタ女王の妹でありダイアナの叔母。
エッタ・キャンディ 演 - ルーシー・デイヴィス スティーブ・トレバーの秘書。
サムイール 演 - サイード・タグマウイ
ドクター・ポイズン、演 - エレナ・アナヤ 毒物の専門家であり気違い科学者。
サー・パトリック・モーガン  演 - デヴィッド・シューリス

June 25, 2017, 現時間 9:01 AM | コメント (2) | トラックバック (0)

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June 13, 2017

懐かしさとジャズに心を奪われた「坂道のアポロン」

娯楽番組 , 映画

2012年にアニメシリーズとして報道された「坂道のアポロン」の全12作を観て感激してしまった。アニメシリーズは古いのだが、2018年には実写版の映画になるということなので、ちょっと中途半端な時期かもしれないが感想を述べさせてもらおう。

このアニメを見た時すぐに気が付くべきだったことがある。すばらしいジャズミュージックが全編に散らばめられているということよりも、高校生男女の純愛やBLをまったく感じさせない男同士の友情に感銘することよりも先に、なぜカカシがこのアニメに懐かしい思いを感じるのか、もっと早く気が付くべきだった。このアニメには現代の若者たちの間で失われてしまった何かがあるのような気がした。いったいそれは何なんだろう?

先ずはあらすじ、

主人公の薫は16歳の高校一年生。最近九州の佐世保に引っ越してきた。両親は薫が赤ん坊の時に離婚。父親に引き取られたとはいえ、船乗りの父親の仕事のせいであっちこっちの学校に転校を繰り返し、家でも一人でいることが多かった。そんな薫を案じて父親は自分の兄夫婦の安定した家庭に薫を預ける。これによって薫は生まれて初めて同じ学校に長期在籍することが可能となった。しかし、母親に捨てられたという気持ちや同年代の子供たちとの出会いと別れを繰り返してきたことによる傷つきやすい気持ちはそう簡単には癒されない。かえって多くの人に囲まれると吐き気がするという癖まで身に付けてしまっていた。

そんな薫だが学級委員で世話好きな律子の親切に心をほだされ、彼女に淡い恋心も抱く。律子の幼馴染でちょっと不良で乱暴者の仙太郎ともジャズミュージックを通じて友達になる。多くの兄弟姉妹に囲まれて幸せそうな仙太郎だが、彼にも出生を巡るつらい過去があった。

律子の父勉の営むレコードショップの地下で、薫のピアノ、仙太郎のドラム、勉のベース、そして東京の大学から時々帰省する仙太郎の先輩淳一のトランペットという構成でジャズセッションを何度か繰り返し、薫は青春を謳歌するようになる。

先ず変だなと気が付くのは律子の父親がレコードショップを経営しているということ。今時レコードショップなんて誰がやってる?ま、楽器やCDやDVDと一緒にビニールのレコード盤を売ってる店はあるが、レコード専門店なんて時代おくれも甚だしいだろう。これだけでも明らかなはず。そして1990年以降に作られたアニメでは必ず登場人物の手に握られているあの四角い物体が全く描写されていない、ということも大きなヒントだったはず。

そうなんだ、このアニメの舞台は過去なんだ、ずっと昔ではないがちょっと昔の日本。薫の同級生の星二が今やロックの時代だとか言ってビートルズだのスパイダースの歌を歌ってることから察して、まあ1960年代半ばの1965年くらいかな、と想像していたところ、ミスター苺が「学生運動に淳一が巻き込まれるところから考えて、1966年以降のはず」という。それでウィキで調べたらなんと大当たり、物語は1966年の初夏からはじまるのだ。

関係ないが、ここで私がものすごく好きなアニメの傑作「となりのトトロ」を思い出した。あのアニメの舞台は1950年代半ば頃の雰囲気がある。主役の五月は6歳くらい。彼女が1950年生まれだったとしたら、1966年にはちょうど薫と同じ高校生だなあと考えてしまったのだ。どうも私はこの頃の日本が懐かしく思われるのだ。

私は薫より多分10歳くらい年下だ。だが、私が育った頃にも、まだまだこんな雰囲気はかなり漂っていたように思う。まだ携帯もネットもない時代。地球温暖化とか少子化問題なんて誰も考えてなかった時代。

さて、本題に戻ると、このアニメの最大の魅力はなんといっても全編を通して聞こえてくるジャズミュージック。それが単にBGMとして起用されているのではなく、登場人物たちが演奏する一曲一曲がきちんと最初から最後まで演奏されるということ。なんかガーシュインの音楽満載のミュージカル「パリのアメリカ人」を思い出させる。

地下室でのジャズセッションもだが、佐世保という土地柄アメリカ人セイラーにも人気のジャズ喫茶での「バットノットフォミー」でみせる淳一の歌唱力や、高校の文化祭での薫と仙太郎のジャズメドレー。特に文化祭のシーンはものすごい感動する。これはユーチューブでもすぐ見つかるから是非おすすめ。だが私が一番好きなシーンは薫と律子と仙太郎が高校最後の文化祭を目指して(My favorite things 私の一番好きなもの)「マイフェイバレットシング」を練習する場面。ここに三人の友情が結晶化されるからだ。私が一番好きなことは今こうしてこうやっていること、という律子の言葉が心に残る。

この映画のサウンドトラックは英語版だと「キッズオンザスロープ」(坂道の子供たち)として売られている。英語版吹替もあるが、私は九州弁のアニメの方がずっと好きだな。それにアメリカの声優は日本の声優より失がかなり落ちる。ま、需要が少ないからしょうがないといえばしょうがないのだが。

登場人物の複雑にからむ純愛物語がエログロなしに描かれているので、どの年代の子供が観ても大丈夫。最近のアニメはものすごいどぎついものが多いなか、こういう純愛は新鮮だ。ちょっとメロドラマチックなところはあるにはある。薫と律子の駅でのシーンはちょっとありきたりすぎって感じ。

ただ私が残念に思ったのは最終回。あ、これからはネタバレありなので要注意。

最初から12作で完結する予定だったのか、まだ2シーズン目もあると思って油断していたのかわからないのだが、最終回が端折りすぎ。仙太郎は文化祭の後に家出して行方不明になったまま。薫と律子は高校を卒業して薫が東京の大学に、律子は地元の大学に進学。最後に二人が言葉を交わした時に気まずい別れ方をしたまま。駅に見送りに来た律子との別れのシーンで二人はなんとかこれからも付き合えそうという余韻はあるが、はっきりしない。

そしてそのまま8年後と場面が変わる。ここで残り時間はもう10分を切る。東京で医者のインターンとして忙しく働く薫は、高校時代に淳一と駆け落ちした一年上の百合香と偶然再会。彼女の持っていた一枚の写真から仙太郎の行方を突き止めて再会。そこに律子も現れてめでたしめでたし。

てな感じなのだがなんかしっくりこない。

この8年間、薫と律子はどういうふうに付き合っていたのだろうか? お互い手紙のやり取りをしていたとか、薫は休みには時々帰省していたとか、律子が時々は上京していたとか、そういうことが全然知らされない。

15年ぶりに再会した薫と母親はその後どうなったのか。あれからも母親とは時々会っていたのか、それともせいぜい年賀状や暑中見舞い程度の関係だったのか?

原作の漫画は薫と律子の卒業後も連載が続いたので、色々これらの説明がされるらしい。だが、アニメを観ている人には、やはりアニメだけで納得できる完結編を作るべきだったと思う。

ただ私はラストシーンで薫が今は神父見習いとなった仙太郎の教会へたどり着き、教会のパイプオルガンで薫が仙太郎に最初に紹介されたジャズ「モーニン」を弾き始め、それを聞いた仙太郎が外からかけこんできてドラムを演奏し出すというくだりは好きだ。大昔にジャネット・マクドナルドとネルソン・エディが"When I'm calling you.. woooo"をデュエットするシーンを思い出させる。(わからない人は検索してよね。)

さあて、それではここでカカシ風エンディングを二つ提案。

手紙編:8年後のシーンから始まって、現在の薫の状況を表す映像に薫の声でナレーションが入る。

「りっちゃん、お元気ですか。最近なかなか手紙を書けなくてごめんなさい。研修生になってからというもの忙しくて目が回りそうです。寝る時間もないほど働いています。母さんの店にも最近行ってません。母さんは心配して時々電話をくれますが、忙しいのはわかっているので許してくれていると思います。僕も時々は母さんの店にいって、何年か前にふと現れた淳一兄さんとやったように、またジャズセッションをやりたいです。

あ、そういえば、この間星二君をテレビで観ました。彼もポップスターになる夢がかなったようですね。

りっちゃん。今年の春は佐世保に帰ろうと思います。その頃には休暇が取れるはずですから。僕は今度りっちぁんに合う時に、どうしても言いたいことがあります。僕の研修期間はまだ続きますが、そろそろ僕たち二人の将来を語り合う時だとは思いませんか?

そうそう、この間、誰にあったと思います?百合香さんが病院に来ました、、、、」

これで百合香が病院に来たシーンに続く。こうしておけば二人がずっと付き合っていたことや、最後に律子が仙太郎の居る教会に突然姿を現した理由がはっきりする。

続編シリーズを期待した編

後半を薫が大学に向かう駅での見送りシーンから始めるのはそのまま。伯母と勉に挨拶を済ませた薫が電車に乗った時、ドアが閉まる直前、見送りに来ないと思っていた律子が走ってくる。「薫さん、薫さん、よかった間に合った。」「りっちゃん」「薫さん、私、決めた。大学卒業したら東京に行くから。薫さんのところに行くから、待っとって、、薫さんとこにお嫁さんに行くから、、それまで待っとって、、」「りっちゃん」そして電車の扉が閉まる。電車の後ろに走ってプラットホームに走る律子に向かって薫は叫ぶ。「必ず来いよ、待ってるから、待ってるから!」

次のシーン。ダフルバッグを肩に抱えた大きな男が九州離島の田舎道を歩いている。離島の先端にある教会の前まで来ると男は外に出てきた神父に挨拶をする。神父、「お~お前か、新しい見習いというのは、、よお着たの。まあおはいり。」どこからともなく小さい子供たちが集まってくる。教会が面倒を見ているみなしごたちだ。「お兄ちゃん、神父さんになるの?」子供たちを抱き上げて笑顔をみせるのは誰あろう仙太郎。

そして最後は薫、仙太郎、勉、淳一の地下室でのジャズセッションの回想シーンでモーニンを演奏して終わり。

これだと希望を持ったまま終われるし、続編があっても辻褄があう。

June 13, 2017, 現時間 12:59 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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December 10, 2016

舞台迫力を再現したNBCテレビ、へアースプレイーライブ

映画 , 音楽芸能関係

テレビで舞台ミュージカルを再現するのはなかなか難しい。映画ほどの深い映像感はないし、舞台のような迫力もない。それでテレビスタジオでのミュージカルというのはどうしても安っぽくなってしまうのだが、今回のヘアースプレイはユニバーサルスタジオ(多分)のバックドロップを使った野外映像と、テレビスタジオをうまく組み合わせた迫力ある出来になっていた。特にヘアースプレイはシーンの大半がテレビスタジオという設定になっていりるので、テレビ映画にするには恰好の題材だったと言えるだろう。

このミュージカルは1960年代メリーランド州ボルティモア市が舞台。その背景にあるのは白人と黒人の隔離主義。人気テレビ番組でも白人と黒人が一緒に踊るなどということは考えられない時代だった。女子高生のトレーシー(マディ・ベイリオMaddie Baillio)は、テレビの視聴者参加ダンス番組のレギューラーに採用されるのが夢。スポンサーのヘアースプレー会社主催のミスへアースプレーコンテストのオーディションに応募するのだが、太っているせいで番組女性プロデューサーのベルマ(クリスティン・チェノウェスKristin Chenoweth)からは相手にされない。しかし番組がトレーシーの高校でライブ放映をした際に番組司会のコーニー(デレク・ホフ Derek Hough)の目に留まり、番組中に以前に黒人男子ロブ(ビリー・アイクナーBilly Eichner)から習ったダンスステップを披露して話題になる。もともと太っていたことで他のきれいな白人の女の子たちには受け入れられなかったトレーシーだが、黒人生徒たちと仲良くなって白人と黒人混同でダンス番組に出演しようと言い出したことから、トレーシーは計らずも人権運動のリーダーとなってしまう。

BLMとかファットシェイミングとか言って、やたらと黒人や肥満体の被害者意識が高い時代において、このライブは結構時代に沿った選択だったかもしれない。少なくとも左翼リベラルなプロデューサーたちはそう思ったのではないかと思う。しかしそういう濃い政治色があるにも関わらず、カカシがそれを無視してこの作品を楽しめたのは、その演出もさることながら、出演者たちのすばらしい演技にある。

先ずダンス番組ホストのコーニー・コリンズを演じるデレク・ホフは長期ダンス番組のレギュラーとして大人気のボールルームダンサー。さすがにプロのダンサーだけあって踊りは抜群。しかし歌手としての才能も見せて踊りながら歌ってビートに乗り切っていた。踊ってすぐの台詞でもまるで息が乱れていない。この役は格好言い男の役なので、一見得役に見えるのだがうまくやらないと見過ごされてしまう。役者次第でつまらなくもなれば面白くもなる役柄だと思う。コーニーという名前には中身がないのに外見だけ誠実さを見せようと格好をつけている意味あいがあるのだが、ホフはそのうすっぺらながらも、人種を超えた才能を見出すという実業家としての才能を非常にうまく演じている。

私が思わず拍手を送りたくなったのが番組の女プロデューサー、ベルマ・ボン・タスル役のクリスティン・チェノウェス。若いときの自分とそっくりな娘のアンバー(Dove Cameron)をスターにしようと躍起になっている教育ママ。自分が若かった頃の夢と今の状況を比べて歌う彼女のソロ。メランコリーにはじまって激しくメゾからソプラノへと変るクライマックスはすばらしい。

私がこのプロダクションがものすごく気に入った理由は、チェノウェスに限らず出演者たちが歌にしろ踊りにしろまるで遠慮せずに思い切って演技しまくっているという点。デレク・ホフの踊りにしろチェノウェスの歌にしろ、その才能が全面的に前に出ているのだ。

そして才能といえば、ドリームガールスでアカデミー助演女優賞を獲ったジェニファー・ハドソンのモーターマウス(早口)メイベリーは超一級!彼女の歌いっぷりは誰がきいても感激すること間違いなし。若い頃はぽっちゃり系だったのに今はすっきり痩せてゴージャスな美女になったハドソン。その上あの歌唱力、あの貫禄。もう彼女の歌を聴くだけでこのミュージカルを観た甲斐があるといえる。

トレーシーのボーイフレンド、リンク・ラーキンを演じるギャレット・クレイトン(Garrett Clayton)は正統派ハンサムボーイをまじめに演じているのがいい。同じハンサムでもコーニーのような意識した格好良さではなくて、トレーシーへの純粋な恋心とトレーシーが進めようとする人種混合運動への戸惑いを、わざとらしくない素直な演技をしている。

トレーシーの親友ペニー・ピングルトンはアリアナ・グランデ(Ariana Grande)という人気歌手(らしい)。子供っぽくておとなしい感じのペニーを良く演じていたと思うが、歌手の割りにはそんなに歌がうまいと思わなかった。ペニーが一目ぼれする黒人少年のロブ・バーカーを演じるのはビリー・アイクナー(Billy Eichner)。彼は歌も踊りも抜群。特に1960年代のダンススタイルがものすごく様になっていて、当時の踊りを真似しているという感じはなく、本当に’60年代の若者という感じがした。ペニーが一目惚するのもわかるというもの。

トレーシーの母親エドナと父親ウィルバーを演じるのはおカマのブロードウェースター、ハービー・ファイアーステイン(Harvey Fierstein)と人気コメディアンのマーティン・ショート(Martin Short)。ヘアースプレイはミュージカルの元になった同名のオリジナル映画のときから、ベルマ役はどう転んでも女性には見えない逞(たくま)しい男性が演じることになっている。ファイアーステインのがらがらな濁声と小柄なショートとの絡み合いは何故かロマンチック。さすが二人とも年期が入っている。

と、ここまで脇役を褒めてしまったのに主役を批判するのは気が引けるのだが、主役のマディ・ベイリオはこのライブのためのオーディションで選ばれた新人。周りに歌唱力のある人が多いためちょっと力不足が目立ってしまった。歌は決して下手ではないのだが声に力強さが感じられない。冒頭は彼女の歌から始まるので、もっと元気よく歌って欲しかった。演技はまあまあといったところかな。問題なのはトレーシーは太っているが踊りがうまいという設定。現実問題としてあんなに太っていて踊りがうまいというのは難しい。というよりダンサー並に踊れる太った女優を見つけること事態不可能に近いはず。太っていても身が軽い人はいるが、このミュージカルは踊りのシーンが多く長い。どの役も激しい踊りと歌が次から次へと続くので普通体型の人でも大変。特にこれはライブなので、踊りのすぐ後に続くシーンではダンサーたちの激しい息遣いが聞こえてくるほどだった。ベイリオは時折台詞が息切れでよく聞き取れないこところがあった。もっとも舞台ではみんな普通にやっていることなので言い訳にはならないが。

ともかく全体的に舞台のテレビミュージカルとは思えないほど舞台の迫力が感じられるすばらしい作品になっていた。もしDVD発売があったら是非お勧め。

December 10, 2016, 現時間 1:53 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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October 23, 2016

現実逃避が出来ない安全を求める新世代ロッキーホラーピクチャーショー

映画 , 音楽芸能関係

ロッキーホラーピクチャーショーといえば、1970年代のカルトクラシック。元々はイギリスの舞台ミュージカルだったのが1975年に映画化され大ヒット。作曲家のリチャード・オブライアン(舞台版脚本家)の歌唱力を始めとし、ティム・カリー、バリー・ボストウィック、スーザン・サランドン、ミート・ローフなど後に大スターになった面々の熱演が印象的であった。その後この映画はカルト映画として親しまれるようになり、毎週末真夜中に上演する零細映画館が全国のあちこちに出没。ファンたちはそれぞれのキャラクターの仮装をするなどして劇場に現れ、キャラクターの台詞に応えて観客が声を合わせて応援の台詞を投げかけるのが慣習となった。多分今でもイギリスやアメリカのあちこちの映画館で同じ光景がくりかえされていることだろう。

さて、今回、フォックステレビ製作の新ロッキーホラーピクチャーショー(ハイライトビデオ)はこの1975年の傑作映画のリメイク。リメイクならリメイクらしく何か新しいものを観客に提供する必要がある。残念ながら迫力満載だったオリジナルに比べ、このリメイクは全体的におとなしすぎて現実味が沸かないという印象を持った。ロッキーホラーのようなファンタジーで現実味が沸かないという批判もおかしいかもしれないが、どうもこの世界にのめりこめないのである。オリジナルで感じたような肌で感じる恐怖と興奮がこのリメイクからは感じられないのだ。

話を知らないひとのためにざっと説明すると、最近婚約したばかりの若い男女、ブラッド(Ryan McCartan)とジャネット(Victoria Justice)は、ブラッドの恩師エベレット・ボン・スコット教授(Ben Vereen )を訪ねにいく途中で大雨のなか道にまよってしまい、挙句に車はパンク。二人は電話を借りられるのではないかと雨のなかずぶぬれになりながらちょっと前に通りすぎた古い城へ向かう。お城の扉を開けて出迎えたのはなにやら薄気味悪い城の使用人リフ・ラフ(Reeve Carney)。お城ではたくさんの奇抜な格好をした客が集まっており、客たちによる激しい踊りが繰り広げられている。怖くなって出て行こうとする二人の前にあらわれたのが世にも不思議な格好をした気違い科学者フランクン・ファーター博士(Laverne Cox )だった。不安ながらも博士に言われるままに二人は城で一夜を過ごすことになるのだが、、、

実はここまで観て私は非常に嫌な予感がした。そしてかなり欲求不満になっている自分を感じた。先ず、全体的に歌手たちの歌声が小さい。ブラッドがジャネットに結婚を申し込むシーンでは、マッカーテンもジャスティスも決して歌が下手だというわけではないのに伴奏の音がやかましすぎて二人の声がよく聞こえない。二人は結婚を決めたことで非常に興奮しているのにその喜びが伝わってこないのだ。

薄気味わるい古びた城の扉をあけて二人を出迎える使用人リフ・ラフ役のリーブ・カーニーは、いくらメイクをしていても元は美形と解るからなのか、オリジナルのオブライアンのような薄気味悪さを全く感じさせない。

城の中に集まっている客たちによるレッツドゥーザタイムワープアガインの踊りも、コーラスの声が小さすぎるし踊りがおとなしすぎる。振り付けもダンサーの技術もオリジナルの時よりかなり高度だ。にもかかわらずつまらないのは、あまりにも整然としているせいでオリジナルのような奇想天外で野生的な雰囲気が出ていないからだ。この踊りはごくごく普通のカップルであるブラッドとジャネットを震え上がらせるような騒然としたものでなければならないのに、なんかみんなでマスゲーム体操でもやってるみたいでつまらない。

そして極めつけはファーター博士のラバーン・コックスが登場する場面。先ずトランスベスタイド(女装男)を演じたティム・カリーの役を、トランスジェンダーのコックスに演らせたのは、はずれだった。コックスはあまりにも女に見えすぎる。ファーター博士はどう見ても男なのに女装して女のように振舞っているというところに不気味さがあるのであって(しかもお世辞にも綺麗とは言い難い厚化粧)、女に見える人間が女の格好をして現れても不気味でもなんでもない。それに歌唱力と存在感抜群のティム・カリーに比べて、コックスは歌唱力もなければ存在感もない。しかも、演技も下手でかつぜつが悪くて(どっかの運転手みたい)何を言ってるのか聞き取りづらい。

映画は先へ進んでも良くならなかった。モーターサイクルで窓を突き破って城へ入ってくるエディ役のアダム・ランバートもミートローフの器ではない。ランバートはミートローフより顔がいいだけに、かえってそれが仇になっている。たった一曲だけの出番で完全にその場を独り占めしてしまったミートローフの衝撃的なパフォーマンスに比べランバートのエディはお行儀が良すぎて存在感なし。バイクを乗り回してパーティをはちゃめちゃにしたエディに怒るファーター博士のエディへの反応もオリジナルの恐ろしく血なまぐさい場面に比べてこちらはおとなしすぎて話にならない。

これ以上個々のシーンの感想を述べても時間の無駄だ。それより何故この映画は全体的に観客を惹き込むことが出来ないのかについて語りたい。このリメイクは映画の世界と観客に距離感をあたえてしまう。その理由として映画に観客席を取り入れたことにある。すでに映画がクラシックなので観客による映画参加を映画の中に取り入れるという演出をしたのはわかるのだが、それがかえって視聴者が映画の世界にはまり込めない一つの壁になってしまっている。ちょっと映画の世界に引き込まれたかなと思うと、カメラが観客席に引いて視聴者を現実の世界に引き戻してしまうのだ。だから視聴者は映画に感情移入することが出来ない。視聴者はあくまでも登場人物たちは俳優であり演技をしているのだという意識を忘れることができないのである。

出演者の歌唱力や演技力は決してオリジナルに劣るとはいえない。コックスとランバートを除けば、ジャネットのジャスティスやロッキーのスタズ・ナイヤーやコロンビアのアナリー・アシュフォードなどかなりいい。コックスとランバートの歌唱力はオリジナルのカリーやニートローフよりずっと劣るとはいうものの、演出次第でそれはどうにでもなったはずだ。

オリジナルのティム・カリーミート・ローフの場面を改めてユーチューブで見てみたが、思ったとおり、役者の顔をアップにし歌声を全面的に前に押し出している。だから視聴者は他のことに気をとられずに主演者に集中することが出来る。リメイクではそれがされていないのだ。あたかも演出者は観客による感情移入を極力避けているかのようである。

さすがに多々の感情を恐れて安全事態(セーフゾーン)を望む2000年世代のリメイクだけある。

つけたし:往年のブロードウェイ役者のベン・ブリーンのボンスコット教授はチャーミングだ。またオリジナルの主役ティム・カリーが犯罪学として解説係を務めているのもおかしい。(でも何か変だなとおもったら数年前に脳卒中をしたとかで、完全回復はできていないようだ。)

この批評を書き終わってニューヨークタイムスの批評を読んだら、カカシとほとんど同じことを言ってるので笑ってしまった。

October 23, 2016, 現時間 4:18 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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July 30, 2016

アメリカ民主党の真髄を突く「ヒラリーのアメリカ」

映画

最近右翼のマイケル・ムーアとか言われているデニーシュ・デスーザ監督のドキュメンタリー・ドラマ映画が話題を呼んでいる。デスーザは元々は社会学者であり、作家でもある。彼は以前にも「オバマのアメリカ」とか世界にアメリカが居なかったらという「ワールドウイズアウトアメリカ」などの映画で名声を得ている。

今回は今年秋の大統領選挙を目前にヒラリー及びヒラリーが代表する民主党の人種差別に満ちた恐ろしい過去の歴史に焦点を当てた「ヒラリーのアメリカ」という作品だ。無論左翼だらけの映画評論家の間では過去を歪曲した偏見に満ちた映画とか言われてさんざん叩かれているが、観客からの評判は非常によく、こういう映画では難しい一般公開に先駆けた限定公開だけでも2016年公開のドキュメンタリーでは最高の売り上げを上げている。

映画はデスーザが選挙献金法違反で禁固刑になったところから始まる。こんな軽い法律違反で禁固刑など前代未聞だが、保守派が左翼政権を批判すると見せしめとしてこうなるといういい例だろう。これをきっかけにデスーザはいかに民主党が人々の言論を弾圧しているかという話から映画を始めるのだ。

一応ドキュメンタリーということになっているが、デスーザが刑務所で囚人と話している場面や民主党の事務所訪問で事務員と話したりしている部分は再現ドラマ。デスーザがインタビューした保守派評論家やテレビのニュース映像などで出てくる実物の人物を除いて他の登場人物はすべて俳優である。

詐欺で捕まっている囚人が詐欺のやり方を説明する部分では、ヒラリーのやっていることは大掛かりな詐欺なのだというメッセージと重なる。ヒラリーが若い頃の運動とか、それ以後のヒラリーの腐敗した過激な左翼政治活動など非常に面白い描写が続く。

だが、映画はアメリカの歴史をさかのぼって、アメリカの人種差別が実は民主党のよって行なわれたものであるという歴史紹介に変貌する。これはこれでいいと思うが、ちょっとお説教ぽくて、しかも長々と続くので注意を惹きつけるにはやりすぎではないかという気がした。確かに民主党こそが奴隷制度の政党であり、ジム・クローなどの黒人差別法を作り、差別法を失くそうとする人権運動に何かと反対してきたのも民主党だったという歴史上の事実を紹介することは効果的ではあるが、映画はヒラリーのアメリカなのだから、もっとヒラリーに焦点を当てるべきだったのではないかという気がする。

デスーザは自分が右翼保守であり共和党指示であり反ヒラリー・クリントンであることを全面的に押し出してはばからない。その点左翼リベラル丸出しのマイケル・ムーアと似てはいるが、ムーアのように不誠実で虚偽な描写はまるでない。

デスーザの最初の映画「オバマのアメリカ」はアメリカのドキュメンタリー映画における売り上げナンバー2で、3千3百4十万ドル。それでもナンバー1をとった左翼映画監督のマイケル・ムーアの「華氏911度」の1億1千9百万には足元にも及ばないが。今回のヒラリーのアメリカがデスーザの自己最高記録を越えることが出来るかどうか非常に興味深い。

July 30, 2016, 現時間 12:27 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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February 29, 2016

『13 Hours The Secret Soldiers of Benghazi』ベンガジ領事館襲撃の真実を語る13時間を描いた映画

対テロ戦争 , 映画

2012年の9月11日に起きたリビアのベンガジ領事館襲撃事件。その真実を描いた映画『13 Hours The Secret Soldiers of Benghazi』(13時間、ベンガジの秘密の兵士たち)が今年(2016)1月に公開になった。日本公開はまだ未定らしい。日本語の予告編はこちら

拙ブログにおいてもベンガジ攻撃については下記に書いている。
事件勃発当初のエントリー
リビア米領事館襲撃について沈黙を守る左翼リベラルメディア
ベンガジで何がおきたのか、オバマ王は説明すべき
ベンガジゲート、食い違うCIA公式発表と現場警備隊員たちの証言
ベンガジ関連のメール公開で明らかになったホワイトハウスの嘘
ベンガジを巡るオバマ王の不可解な行動
嘘だらけのヒラリー証言、ベンガジ公聴会、600回に渡り無視された領事の援軍嘆願

2012年9月11日、リビアのベンガジにある米領事館がアルカエダ系のテロリストに襲撃され、領事とそのボディガード、そして領事館救出にあたったCIA職員二人を含む計4人が殺された。襲撃当初オバマ政権及びクリントン国務長官は度重なる現場からの救援要請を無視。領事館から数キロはなれたCIA支局に居た警備員6人が支局長の待機命令を無視して領事救出に出動した。

結果的に四人の犠牲者が出たことは歴史上の事実であるが、どのようにして彼らが殺され、どのよういしてCIA支局にいた十数人の命が助かったのかという点については、詳しいことは報道されていなかった。この映画ではこの13時間の模様が詳しく表現されており、その凄まじい戦いは現場にいるかのように緊張した。

映画はアクション映画としても迫力があり、政治的な実情を全く知らなくても十分に楽しめるようになっているが、背景を知っている私から言わせると、アメリカ戦闘員の勇敢な戦いぶりを見るにつけ、たった数人でここまで応戦することが出来たのだから、もしヘリコプター一機でも援助に来てくれていたら、誰も死なずに済んだだろうにと口惜しい思いがした。

それにしてもアメリカ軍の特別部隊戦闘員というのはすごい。CIA支局の警備に当たっていた戦闘員は正規軍の兵士ではなく民間人である。皆米軍特別部隊の出身でエリート中のエリートたちである。こういう貴重な人々をオバマもクリントンも自分たちの政治生命を守るために犠牲にしたのだ。彼らが全滅せずに生き残れたのはひとえに彼らの勇敢な戦いぶりによるもので、オバマ政権とは無関係である。

リビアのような場所で戦争をするときに問題なのは、誰が味方で誰が敵かわからないことである。誰も彼も同じような顔をしてるし、言葉がわからないから内緒話をされても解らない。自分らを殺そうと相談しているのかもしれないし、道案内をしてくれようとしてるのかもしれない。またCIA支局でありながら、地元の様子がアメリカ人たちにはきちんと把握できていない。地元民が車に荷物を積み込んで一斉に避難していく姿をみて、はじめて何かが起こりそうだと悟るというように。

領事館が襲撃されてからCIA警備員が領事館に出動するまで数時間かかった。その理由は襲撃当初出動命令が出なかったからだ。CIA支局長は上からの命令なしには動けない下っ端役人。上部から何もするなとは言われていなくても、何かしろともいわれていない。それで自分の独断で命令を出して後でなんかあったら困るというどうしようもないろくでなしなのである。もしも襲撃直後に出動していれば領事及びボディーガードも救われたこと間違いない。彼らは何時間か建物内部に閉じこもって襲撃者を締め出していたからである。

役に立たないのはCIAだけではない。米軍も同じだ。CIA支局の職員が航空援助を求めると電話をしても、空軍は「誰の権限でそのような命令を出すのか?」と頓珍漢な質問をしてくる。誰の権限って、援助なくてはみんな死んじゃうんだよ、このあたしも含めてね、このバカ!とか言ってみても駄目だった。(このバカとは言ってないが、、)

この事件が起きた当初、領事への救援が遅れたのは出動命令どころか待機命令が出ていたからだという話がでた。クリントン国務長官は待機命令など出していないと否定していた。確かに待機命令は出していないかもしれないが、出動命令も出していない。政治的に非常に微妙な状況では軍隊もCIAの下っ端役人も独断で出動命令など出せない可能性は十分に考慮されるべきだった。待機命令など出していないというまえに、何故積極的に援軍を出動させなかったのかを説明すべきである。

もしこの映画が本当に真実を描写したものだったとしたら、クリントン及びオバマには責任を取ってもらいたい。断じてヒラリーを大統領になどさせてはならない!

February 29, 2016, 現時間 9:09 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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January 23, 2015

アメリカ一の英雄狙撃手「アメリカンスナイパー」を臆病者と呼ぶ馬鹿どもに見せたいね

映画

クリント・イーストウッド監督のアメリカンスナイパーが今売り上げナンバー1になってる。この間のローンサバイバー同様、アメリカ海軍の特別部隊シールメンバーの自叙伝を元にした映画である。そしてローンサバイバー同様、断じて見るべし、カカシお薦めである。

カカシにとってアメリカンスナイパーとローンサバイバーの共通点は、映画になる前から主人公になった当人のことを知っていたということ。無論個人的な知り合いではないが、ずっとイラク・アフガン戦争を追っていたことから、彼らの名前は当時からニュースやブログで読んでいたからである。

アメリカンスナイパーの主人公クリス・カイルは以前にテレビのリアリティショーで芸能人と一緒に戦闘ゲームに出演したことがあり、保守派政治評論家のサラ・ペイリンの夫で犬そりレースのプロでもあるタッド・ペイリンがカイルのパートナーだったように覚えている。その番組を観てわたしはクリス・カイルがアメリカ一の狙撃命中記録を持つシールであることを知ったのだ。

この映画にはとくにあらすじというものはない。カイルはなんとイラクに四回のツアーを果たして生き残って帰ってきた男。しかも最初の出動後は辞めてもよかったはずなのに、その後も志願してわざわざ危険な場所へ行き、多くの海兵隊員たちの命を救った。この映画はそれぞれのツアーで起きた出来事のハイライトの集まりといっていい。

戦闘シーンは非常に現実味があり、その場にいる兵士たちがどれだけ短時間に状況判断をしなければならないかが切羽詰って伝えられる。自叙伝とはいえ、これは映画であり今現在起きていることではないとわかっていながら、私は自分がその場にいるかのように緊張した。実際に本人が帰国して自叙伝を書いたくらいだから、カイルは生きて帰ってくると解っているのに、それでも彼の身が案じられる。そこまで現実的な映画なのだ。

私は以前からビル・ロジオやマイケル・ヨンによる従軍記者の記事を読み漁っていたので、映画の一シーンで民家に隠れているテロリストを襲撃したときの状況などは、私が以前に読んだ記事を映画化したかのように、私が自分のなかでイメージしていた戦闘がそのまま展開されていて非常に奇妙な気持ちになった。

アメリカンスナイパーは最初の週末で売り上げ9千万ドルという快挙。普段なら夏休み封切りの高予算映画のみに期待されるような数字で、同時期に公開されたピーター・ジャクソンの「ホビット」の売り上げを上回った。クリント・イーストウッド監督のこの地味な映画は1月の穴埋め的な存在で、この二分の一の興行成績も期待されていなかったという。

この映画の予想外の大人気に左翼リベラルたちはかなり怒っている様子で、左翼プロパガンダ専門映画監督のマイケル・ムーアなどは、「狙撃兵は臆病者だ!」とツイッターで発言し、非常な顰蹙を買い、テレビのトークショーなどで散々叩かれた。またこの間北朝鮮の党首暗殺映画「インタビュー」を製作主演したセス・ローガンもナチスのプロパガンダを思わせるとツイッターで発言。これもまた非常な批判を受け、「思わせる、と言っただけで同じだとは言ってない」などと言い訳せざるおえなくなった。

一般に、イラク・アフガン戦争に関するハリウッド映画は反戦テーマでアメリカ軍を悪玉にするものがほとんどである。これらの反戦映画の興行成績は至って悪い。それについてハリウッド映画関係者はこれはいかにブッシュ大統領の戦争が不人気であったかの証拠だと言っていた。だがシールチーム紹介映画の「アクトオブベイラー」やちょっと前の「ローンサバイバー」や今回のような「アメリカンスナイパー」といったハリウッドの基準から言えば比較的低予算でも、アメリカ軍を善玉にした映画は大人気になる。アメリカの観客は戦争映画が嫌いなのではなく反戦映画、特にアメリカ軍を悪玉にした映画、が嫌いなだけでアメリカ軍がヒーローになる映画なら好んで観るというのが現実なのだ。

この映画はプロパガンダだと言う馬鹿どもがいるが、映画は単にカイルの狙撃の腕自慢だけで終わっていない。いかにアメリカ軍のイラクでの戦争が輝かしいものであったかというような描写もされていない。

地上で繰り広げられる混乱に満ちた戦闘のなか、カイルとパートーナーは屋上から周りを偵察。海兵隊員を待ち伏せしようとしている戦闘員を標的に冷静に殺していく。ただ、問題なのはテロリストは女子供を自爆攻撃に使うので、ロケット手榴弾を持った子供が米軍兵に近づけば、相手が子供でも殺さなければならない。カイルはそのことを決して軽々しくは感じていない。

やはり志願した弟と中途の飛行場でばったり出会ったとき、弟は戦場から母国へ帰還する途中だった。久しぶりに再開した兄に対してうれしそうな顔もしない弟。「こんな場所はくそ食らえだ」と完全に戦争に嫌気がさしている様子。そんなところに何度も志願して出かけていく兄の気持ちは理解できないようだった。

しかしカイルの心にも戦場でのストレスは大きな影を落としていた。四回のツアーといったが、数ヶ月に渡る出動期間を終えて自宅に帰ってくるカイルは、その度に戦場と現実とを切り離すことに苦労する。妻や子供と一緒に居ても、心はどこか遠くに離れているのを妻は感じている。そしてそれが帰ってくるたびに悪化していくことも。最後のツアーを終えて、もうこれで戦場には行かないと決心して帰ってきた時、カイルはあきらかにPTSD(心的外傷後ストレス障害)にかかっていた。

妻のすすめで精神カウンセラーのもとへ相談に行ったとき、カイルはカウンセラーから「戦場でやらなければよかったと後悔していることはあるか」と聞かれ、「やったことで後悔していることはない。ただもっと仲間の命を救えなかったことを後悔している。」と語るところが反戦映画とはまるで違うところだなと思った。

確かに戦争は凄まじい。対テロ戦争は相手が相手だけに醜く悲惨だ。だが、カイルの悩みは殺した敵に対する罪悪感などというものではなく、救えなかった多くの同胞の命に対する後悔だった。そこでカウンセラーは軍事病院には彼が救える軍人がいくらもいると指摘する。

数年前に内地で「あなたに命を救ってもらった、あなたは私の英雄だ。あなたに救ってもらった仲間がたくさんいます。一度軍事病院にも来てください。」と言われたとき、自分の心に惑いのあったカイルはそのまま病院には行かないで居た。しかし、今回カウンセラーのすすめで軍事病院で負傷兵たちの話を聞いたり、彼らの復帰の手伝いをしているうちに、彼の心も救われていくのだった。

カイルの心が救われていくにつれ、観客の我々もほっと息をつく。

命がけで自由と平和を守ってくれているアメリカ軍に感謝の意を評したくなる映画である。是非お薦め!


キャスト

ブラッドリー・クーパー
シエナ・ミラー
ジェイク・マクドーマン
ルーク・グライムス
ナビド・ネガーバン
キーア・オドネル

January 23, 2015, 現時間 5:41 PM | コメント (4) | トラックバック (0)

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December 27, 2014

原作の精神にもどって成功したホビット完結編「決戦のゆくえ」」

映画

現在日本でも放映中のピータージャクソン監督、JRRトールキン原作のホビット三部作の完結編「決戦のゆくえ」を観て来た。実を言うと私はジャクソン監督の前シリーズ「ロードオブザリングス(指輪物語」は大好きだったが、今回のホビットシリーズは一作目の思いがけない冒険にも二作目の「竜におそわれた王国」にも失望していた。一作目については活劇が多すぎて目が回るでも書いた通り、原作の筋から離れすぎてドッタバッタが多すぎて目が回った。二作目は時間稼ぎで筋がなくLOTRの再現をしようと短い話を無理やり三部作にするために不必要な場面を加えすぎた感があり批評する気にもなれなかった。しかし、この完結編はジャクソンが原作の精神に戻り、かなり原作に忠実に従ったことが幸いして前二作に比べて非常に良い出来に仕上がっている。

この先ネタバレ多少ありなので注意!

先ず映画はドワーフ達に眠りを覚まされた竜のスマウグ(Benedict Cumberbatch 声)が湖の町を襲い町民の英雄バルド(ルーク・エバンズ)に弓矢で射殺されるシーンから始まる。これは非常に大事なシーンなのでこれを冒頭に持ってきたのは良い決断だ。

小人たちは自分らが、昔竜に奪われた自分らの宝物を奪い返すために山に向かったわけだが、原作ではその際に王の血筋というトーりン(リチャード・アーミテージ)とその一行が竜を退治をするということで湖の町の人々から色々と接待され一宿一飯の恩義どころか数日間にわたって飲めや歌えやの歓迎を受けた。

ジャクソン監督は二作目において、何故か原作から外れて意味のないことに時間をついやしこの部分をはしょっている。その代わりにLOTRで人気者となったオーランド・ブルーム扮するレゴラスを復活させたり、タウリエル(エバンジェリン・リリー)という原作には出てこない女エルフを登場させたりして意味のない格闘シーンが続きすぎた。

二作目で肝心なのは、森のエルフらに捕らえられたドワーフたちをビルボ(マーティン・フリーマン)が機転をきかせて逃がしたいう点とドワーフたちが湖の町の人々に歓迎されバルドという弓の達人と出会うという点である。

ここで美形のエルフ二人を登場させることに筋展開としての意味はない。ホビットはもともと子供向けの物語で恋愛はないので、多分ジャクソン監督は観客の興味を惹くためにわざわざ美しい男女を筋に加えたと思われるが完全に無駄に終わっている。エルフのタウリエルと小人のキリ(アイダン・ターナー)とのプラトニックな愛も全く説得力がない。トールキンの世界ではあり得ない出来事でもある。

レゴラスとタウリエルは原作ホビットには登場しないので、その人間(エルフ?)形成が浅いのは仕方ないのだが、二人の演技には全く感動しない。それに比べてレゴラスの父親のエルフ王を演じるリー・ペースはいい。エルフは年を取らないので父親といってもレゴラスと同年代に見えるが、レゴラスの王子の感情表現が希薄なのに比べ、エルフ王は王としての貫禄もありながら、父親として愛する妻を亡くした夫としての感情表現があっていい。ペースはブルームより魅力的だと思うね。

私が原作を読んでいて驚いたのは、小人たちが山に入り宝物を手に入れた後、竜退治をしたのが小人たちではなく湖の町のバルドという人間だったことと、竜が退治された後も話しがまだまだ続いたことだ。普通のおとぎ話なら、英雄が竜退治をしたところで「めでたし、めでたし」となりそうなものだが、この話は竜が死んだところから思いがけない方に話が展開する。

山の宝物は竜が押さえていたので、近隣の勢力はそれぞれ牽制され均衡を保っていたといえる。だが、一旦竜が死んだとなれば、小人が再び王国を取り戻せるとトーりンの従兄弟ダイン(ビリー・コノリー)の軍団がはせつけようとやってくる。同時に、レゴラスの父、森のエルフ王(リー・ペース)の軍団も、竜に町を破壊された町の人々も、そしてゴブリンたちもそれぞれの思惑を持って山に集まってくる。そこで最後の決戦となるわけだ。

ま、題名からして「決戦のゆくえ」だから映画はほとんどが戦闘に次ぐ戦闘。LOTRのときも思ったのだが、ジャクソン監督は戦闘シーンの演出が非常にうまい。最近はCGを使って大掛かりな戦闘シーンが撮れるようになったとはいえ、やたらに物量作戦を取ればよいというものでもない。原作者のトールキン自身が軍人だったこともあり、原作のなかでも戦闘シーンは非常に迫力があるのだが、ジャクソン監督の戦闘には作戦があり、特に私はエルフ軍の完璧な動作には感心した。

個々の格闘シーンはちょっと長引きすぎた感があるが、ま、仕方ないだろう。

LOTRのときは指輪の魅惑に心の弱い人間だけでなく、魔法使いやエルフですらも、心を奪われることがテーマになっていたが、今回の魔力は金の宝である。祖父の代の王国を取り戻そうという気持ちで山にやってきたトーリンとその一行だが、トーリンは金の宝に心を奪われ戦争を避けようと必死に訴えるビルボの言葉に聞く耳を持たない。トーリンさえその気になれば、山の宝を文字通り町人とエルフと自分らで山分けすることも可能なのに、山の宝は小人のものだと言って聞かないのだ。ここではアーミテージ扮するトーリンの狂気との戦いが非常によく描かれている。

全体的に原作に近いところはとてもよく、原作から離れると話がだれる、というのが私の印象。

たとえば、ガラドリエル(ケイト・ブランシェット)、サルマン(クリトファー・リー)、エルロン(ヒューゴ・ウィービング)が登場し、後のLOTRの複線となるようなシーンがあるが、ホビットには無関係。ガンダルフ(イアン・マケラン)のシーンが少ないから、色々加えたのかもしれないが、あんまり意味がない。

ま、LOTRの同窓会みたいで楽しいといえば楽しいが。

ところで、LOTRではジャクソン監督は原作の最後の章を完全に削ってしまった。実はLOTRの肝心な点はその最後の章にあるので、私はその決断には非常に失望した。いくら長編すぎて時間が足りないといっても、肝心な点を見失っては仕方ない。

なので、今回も最後の章が削られてしまうのではないだろうかと非常に心配していたのだが、ビルボが無事にシャイアーに帰ってくるところまできちんと描かれていたのでほっとした。最後に年を取ったビルボ(イアン・ホルム)がほんのちょっとだけ登場するが、さすが名優。たったこれだけのシーンなのに存在感がある。私としてはホルムに全面的にビルボを演じて欲しかった。原作ではビルボはホビットの冒険のときからLOTRの時までまるで年をとっていないかに見えることになっているので、同じ役者が演じても全く差し支えないはず。ホルムはそんなに年をとっているように見えないしね。

もっともマーティン・フリーマンはいまやイギリスでは人気の若手俳優だし、ホルムのビルボを見ていなかったら、ぴったりだと思えたかもしれない。確かにビルボとしてのいい味が出ている。

ところで同窓会といえば、LOTRでピピンを演じたビリー・ボイドが作詞作曲で最後のイメージソングを歌っている。彼はLOTRでも挿入歌を歌っているが、ホビットのイメージにぴったりの曲だ。


December 27, 2014, 現時間 11:26 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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December 26, 2014

北朝鮮がソニー映画の封切りを妨害、オバマ王の情けない反応

ネット戦争 , 映画 , 東洋危機

数日前、クリスマス日の封切りを目前にソニー映画のネット口座がハッキングされ、重役やソニー従業員俳優らの個人情報が漏洩するという事件が起きた。私は読んでいないが、オバマ王をおちょくったり、有名俳優をけなしたりしている、かなり恥かしいプライベートなメールが公開され、ソニーの重役たちは大汗をかいている。それだけでなく、ソニー現及び元従業員や俳優たちのソーシャルセキュリーナンバーを含む個人情報が盗まれたため、他人を装って詐欺を働くアイデンティティーセフト犯罪の大被害が予想されている。 だが一番問題となったのは、犯人グループが自分らは北朝鮮の工作員であり、北朝鮮のキムジョンアン暗殺を描写したソニーの新作「ザ・インタビュー」の公開を中止せよ、さもなくばアメリカ各地の映画館で911同時多発テロを思わせるようなテロ行為に及ぶと脅迫したことだ。大手映画館チェーンは儲け時のクリスマスにテロを恐れて客足が遠のいては困るということで、一斉にインタビューの公開を拒否した。困ったソニーは仕方なくインタビューの公開は全面的に中止すると発表した。

12月中旬にキューバに捕らわれていたアメリカ人とアメリカで留置されていたキューバ人スパイ二人の囚人交換を行ない、議会の承認も取らずに自分勝手にキューバとアメリカの国交を復興すると宣言し、自分はさっさとハワイ休暇に出かけてしまったオバマ王は、この北朝鮮による宣戦布告とも取れる脅迫に対して、これは戦闘行為というほどの大げさなものではなく、オバマ政権はそれ相応の対応をする、と言って取り合わなかった。しかもオバマ王は映画公開を中止という決断は誤りであるとソニーを批判した。

オバマ王はCNNのインタビューにおいて、ソニーには同情するとしながらも、ソニーが自分に事前に相談してくれていたら、大手映画チェーンに何をやってんだと問いただすことが出来たのに残念だと述べ、芸術的表現を自己制限すべきではないと付け加えた。

これに怒ったのはソニー。ソニーはオバマ王に事前に相談を持ち込んだが無視されたと反発した。ソニーのマイケル・りんトン会長は数日前にオバマ政権に事情を説明し、政権からの援助を求めたが無視されたとインタビューで答えている。

ハリウッドから莫大な政治献金をもらっておきながら、いざとなると全く頼りにならない。自分で見放しておいて、ソニーの決断を公に批判する。都合が悪くなると味方を見捨てるのはオバマの常套手段である。

私がオバマ王の立場にあったなら、ハワイ旅行なんぞにかまけていないで、ホワイトハウスに戻って断固たる態度をとる。CNNのインタビューなんぞやってる暇があったらホワイトハウスから直接全世界に響き渡るように演説をぶる。

「北朝鮮に警告する。我々は今回の脅迫を戦争行為と受け取る。よって将来アメリカ国内の映画館のひとつでもテロ攻撃を受けたなら、それは北朝鮮による攻撃とみなし、ピョンヤンを空爆する。これは約束である。」

そして相手が我々の警告を真剣に受けとめるよう、ピョンヤンの上空に戦闘機をマッハ速度で低空飛行させる。

オバマ王にその程度の肝っ玉が据わっていれば、アメリカが北朝鮮なんぞにここまでコケにされることはなかったのである。それを「それ相応の対応をする」だなどと情けない!

さて肝心の映画のほうだが、大手チェーンは公開を拒否したが、独立系中小劇場が公開を買って出た。またソニーはオンラインのストリームを使っての公開も試み、予定通り12月25日クリスマスの封切りを実行させた。

オバマ王はソニーが一転して映画公開に踏み切った態度を賛美した。大事なときに何もしないでおいて、何が賛美だ、ふざけんな!

ともかくソニーや独立系映画館のほうがオバマなんぞよりよっぽども腰が座ってるということだ。

ところで、この件に関して私の好きな俳優ジョージ・クルーニーが、映画会社はソニーと肩を並べてテロリストに立ち向かうべきだという署名運動を行なったが、他の映画会社の反応は鈍く、クルーニーはハリウッドの腰抜けぶりを批判した。映画会社の重役たちはクルーニーからそんな手紙をもらった覚えはないとしている。

ハリウッドはオバマ王なんぞにおべんちゃらを使っても、いざとなると見放されるのだという勉強をしただろうか?ま、先ず無理だろうね。

二日前に北朝鮮のインターネットが全面的にダウンしたという記事を友達がソーシャルメディアで紹介していた。そのコメントに「これがオバマのいう相応な対応というやつかな」というのがあった。私はもうすこしで、 「冗談でしょう、オバマにそんな甲斐性はないよ。」と書きそうになった。ソーシャルメディアにやたらなことを書くと仕事面でも影響する可能性があるので、止めておいた。

December 26, 2014, 現時間 11:09 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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October 21, 2014

ウーマンアウトサイド、過去50年にわたり米軍に尽くした韓国売春婦たちの悲劇を描いた記録映画

映画 , 東洋危機

韓国の慰安婦というキーワードで色々ネットサーフしてたら、1996年にアメリカのPBS(公共テレビ)のPOVという番組で放映された「ウーマンアウトサイド」という記録映画を発見した。これは過去50年間(1996年当時)に渡ってアメリカ軍の基地村でアメリカ軍兵相手に売春を行なってきた韓国人女性たちの悲劇を描いたドキュメンタリーフィルムだ。公開されたのが1996年ということもあって、旧日本軍による慰安婦問題には全く触れていないのが興味深い。製作はJ.T. オーりン・タカギとヒージュン・パーク(Orinne Takagi and Hye Jung Park)で、名前だけで判断すると、日系男性と韓国人女性のパートナーによるものらしい。

POVはかなり左翼リベラル傾向の番組で、この番組の目的はアメリカ軍及びアメリカ政府への攻撃が主である。しかしながら、そのなかで、長年米兵相手に売春を行なわざる終えなかった、そして今でも行なっている韓国人女性たちの悲劇がひしひしと伝わってくる。残念ながら日本語の字幕はないのだが、韓国語か英語のわかる人は下記へ行ってぜひごらんになることをお薦めする。ユーチューブでは4つに分かれているが、第一部はこちら。

この作品のなかで、何人かの売春婦や過去に売春婦だった女性たちへのインタビューがある。製作者のパークによると、インタビューに応じてくれる人を見つけるのは難しかったという。特にそのなかの一人、ヤン・ヒュアン・キム(Yang Hyang Kim)さんの話は、これまで聞かされた旧日本軍慰安婦だったという人の話とそっくりである。

貧乏な田舎に育ったキムさんは、生計を立てるために都会に出てコーヒーショップのウエイトレスの仕事に応募したが、行ってみるとそこはナイトクラブ。店主はキムさんを彼女の意思に反して何日か監禁した後、別の場所に連れて行き、彼女を売春宿に売り飛ばしたという。当時17歳とかで生娘だった彼女は客のGIに強姦された。それが彼女の売春婦としての人生の始まり。

その後、アメリカから来た学生が彼女を6千ドルで見受けし、キムさんは実家に帰ったが。元売春婦ということで実家でも隣近所でも差別され、いたたまれなくなって再び米軍基地村に舞い戻った。そこで出会ったアメリカ兵と結婚してノースカロライナに移住したが、夫の暴力に悩まされ、離婚した子供は夫に取られてしまった。

三度韓国の基地村に帰って売春婦にもどったキムさん。今度はやさしい米兵と出会って結婚して妊娠。今(1996年現在)は夫の勤務先のハワイで平穏な毎日を送っている。彼女は幸運な方だ。

番組の中では、GIと結婚してアメリカに移住したものの、夫の暴力に耐え切れずに二人の幼子を連れてアメリカの繁華街で働いていた女性が、子供をホテルに残したまま働きに出て、帰ってきたらたんすの下敷きになって子供が死んでいた事件で殺人罪に問われた女性の話や、韓国繁華街で米兵に惨殺された韓国人女性の話なども紹介されている。

娼婦たちは韓国でのつらい仕事から逃れるためにアメリカ兵と結婚してアメリカに渡ってくることが少なくないが、そんな結婚の80%以上は離婚に終わるという。外国で教養もなく手に職もない女が出来ることは、結局アメリカの繁華街でアメリカ兵相手に怪しげな仕事をすることくらいだ。結局ひとつの苦労を別の苦労に置き換えるだけ。

しかし、こうやってアメリカに来て、なんとかアメリカ国籍を取得すると、彼女たちはそのつてを使って親兄弟親戚をアメリカに呼び出す。こういう女性たちを売春婦といって馬鹿にしている現在の韓国人移民も、もとを正せばこういう女性が家族に居てくれたから今の自分らの生活があることが珍しくない。

米軍基地村は韓国人は入れない。米軍兵だけが利用することの出来る繁華街。売春は韓国では一応違法だし、そういう店を利用することは米軍の規則には違反する。だが、それは表向きの話。こういう場所が存在していることは事実であり、こういう場所で働く女性たちが、自分らの意思でそこに居るにせよ、騙されたり、誘拐されてつれてこられたり、暴力を使って売春を強制されたりしているという事実を、韓国政府も米軍も見てみぬ振りをしているのだ。それが1953年から今も70年近くも続いているのである。

私が何度も、旧日本具の経営していた慰安所に女衒に騙されたり誘拐されてきた女たちが混じっていたことは間違いなく、それを旧日本軍が見てみぬ振りをしていたこともあっただろうと書いて来たのは、今現在のアメリカ軍の基地村を見ていれば想像に難くないからである。

現在のアメリカ政府ですらこんな状態なのに、国内でも身売りなど合法だった時代の旧日本の軍隊が、韓国人娼婦らの身元になど興味がなかったとしても少しもおかしくないと私は思う。

ただ、繰り返すが、だからといって現在の日本政府は韓国にも当時慰安婦だった人々にも謝罪する言われはない。いつまでもアメリカ各地に慰安婦像など建てられて悪者扱いされる筋合いもない。

もしも、慰安婦像を建てまくっている韓国系アメリカ人の市民団体が、慰安婦のことや人権問題や、人身売買について本当に興味があるのであれば、現在も続いている韓国人娼婦たちの救済に勤めるべきであり、今でも韓国にある基地村や、アメリカ国内の基地付近の繁華街で働く韓国人女性や他の外国人女性らの売春の事実について、真っ向から向き合うべきである。

October 21, 2014, 現時間 3:44 PM | コメント (3) | トラックバック (0)

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August 16, 2014

天才音楽家ジェームス・ブラウンの生涯を描いたゲットオンアップ

映画

天才音楽家ジェームス・ブラウンの傷害を描いたゲットオンアップを観て来た。

この間のジャージー・ボーイズがブロードウェーミュージカルの映画化だったのとは違って,こちらは映画オリジナル。ミュージカルでもない。主役のブラウンを演じるチャドウィック・ボーズマンは歌っておらず、声はすべて御本家ジェームス・ブラウンの歌声でふき替えである。

ただし踊りは吹き替えではなく、ボーズマンがブラウンお得意の素早いフットワークとスピリットを見せてくれる。彼はもともとプロのダンサーではないそうだが、ブラウンの身振り手振りが非常に忠実に出ていて本人を観ているみたいだった。

映画を通じてブラウンのヒット曲が次々に流れるが、ブラウンの熱気に満ちた舞台がいくつも再現されていて非常に楽しい。特にボーズマン及びバックアップダンサーズたちの踊りがすばらしい。

ブラウンの親友で刑務所からブラウンを救い出し、駆け出し時代からずっと一緒に歌って来たボビー・バードを演じるネルサン・エリスの演技はすばらしく、舞台での掛け合いは最高。常に緊張感を張りつめたままのブラウンを常に冷静に陰から支えたバードの強さをよく表している。エリスは最優秀助演男優賞を取るべきだな。

映画はブラウンの幼年期から晩年までという時間をきちんと追わず、子供時代、駆け出し時代、人気絶頂期、晩年、の時間が錯誤して先送りになったり後戻りしたりする。時間ではなく、テーマごとにシーンをまとめてあるのでこうなるのだろう。

ブラウンはジャズとロックとゴスペルを混ぜ合わせた独特な音楽を作り上げた天才だが、天才であるが故の凡人からは理解できないむづかしい人格も映画は遠慮なく描写している。なにせ映画は冒頭からブラウンが酒と麻薬に酔っぱらってライフルを振り回す場面から始まるのだから、これは常套な人間の話ではないと察知がつく。

ブラウンの癇癪持ちは悪名が高く、若い頃に窃盗を働いて実刑を受けたり、後にも家庭内暴力で妻ディーディー(ジル・スコット)に暴力をふるって逮捕されるなどというエピソードがいくつかあった。だいぶ昔だが、ニュースでブラウン逮捕の話をきいたのを覚えている。

リハーサルの際のバンドメンバーに対する横暴で理不尽な態度もかなり忠実に描かれているが、これも音楽に対する本人の厳しい態度の現れと言える。なにせ「芸能界で最も勤勉な男」という別名を持つブラウンだから他人にもそれを求めたのだろう。

南部のど田舎で貧困な家に育ち、幼年期には父親の暴力に絶えきれず逃げてしまった母親スージー(ビオラ・デイビス)に捨てられ、後には父親ジョー(レニー・ジェームス)の知り合いの女将(オクタビア・スペンサー)が経営する売春宿で暮らすようになったブラウンには、きちんとした音楽教育など身に付いていない。にも拘らず、彼には彼の音がしっかりと聞こえていた。自分がイメージする音をバンドが再現できるまでしつこく練習させるシーンはブラウンの音楽に対する熱情を感じさせる。

ただ、気に入らないとメンバーに罰金をかけたり給料を滞納したりという悪い癖もあって、後にはメンバーに見放されたりもする。

ブラウンが若い頃にテレビ出演した際に、ブラウンのマネージャーだったベン・バート(ダン・アクロイド)から番組のトリはイギリスのロックバンド、ローリングストーンズだと言われるシーンがある。ブラウンは自分がトリでないことには多少不満を見せるが、それでも「ローリングストーンズね、ふ〜ん、ローリングストーンズ」とつぶやくシーンは面白い。なにせ映画のプロジューサーは誰あろうローリングストーンズのミック・ジャガーなのだから。

ところでブラウンのマネージャー役で名演技を見せるダン・アクロイドは、昔ブルース・ブラザースで御本家のジェームス・ブラウンと共演したことがある。ブルース・ブラザースでブラウンは黒人教会の神父を演じているが、実際にブラウン自身が黒人教会音楽に非常に影響を受けていたことは確か。子供の頃から近所の教会の音楽に魅かれて通っていたし、親友のボビーとの出会いもブラウンが収容されていた刑務所にボビーとそのバンドが慰安のため教会音楽を歌いに来たことがきっかけだった。

ブラウンを芸能界入りされるきっかけを作ったのが、同年代に人気のあったリトル・リチャード(ブランドン・スミス)。まだ当時は音楽をやりながらハンバーガーショップでハンバーガーを焼いていたリトル・リチャードだが、リチャードがブラウンにデモのレコードを作ってラジオ局回りをすることを教えてくれるのだ。私は最初リチャードが誰なのか思い出せなくて、なんでこんなになよなよと女っぽいしゃべり方するのだろう、と不思議だった。後になって、ああ、あの厚化粧のリトル・リチャードの若い頃だったんだなと解って納得してしまった。解らない人はウィキで調べてよね。

それにしても、最近の黒人音楽はラップとかばっかでちっとも面白くない。昔は黒人ミュージシャンはきりっとしたスーツに身をかためて息のあった踊りをみせてくれたものなのに、最近はだぼだぼのダサイ服着たちんぴらみたいな男が意味も無く動き回り、下品な恰好をした女がやたらに尻を振り回すという見るに絶えない踊りばかり。

ブラウンみたいな天才はなかなか出て来ないものなのだろうか?若いひとたちがこの映画を観て、こんな音楽をまた聴きたいとおもってくれればいいのだが。

August 16, 2014, 現時間 9:03 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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August 3, 2014

尻切れトンボな舞台版『Once ダブリンの街角で』

映画 , 音楽芸能関係

2007年の映画ワンス、ダブリンの街角での舞台ミュージカル版を観て来た。元々映画だったとは全然しらなかった、というより義母からただ券をもらって観に行っただけで内容など全くしらずに観た舞台ミュージカル。日本でも六本木で11月にブロードウェイミュージカルのキャストで上演される。そのサイトから紹介すると、、、

開演前に観客は舞台上のバーで実際にドリンクを買い、その場で飲み物を楽しむことができる。そして気づけばキャストによる生演奏が始まり、舞台は自然と幕を開ける。そんなミュージカルを今まであなたは観たことがあるだろうか。これこそがミュージカルの本場、ブロードウェイで大絶賛された舞台「Onceダブリンの街角で」だ。

本作は2007年にアカデミー賞で歌曲賞を受賞した同題の映画をベースにしたミュージカル。2011年にオフ・ブロードウェイで初演されると瞬く間に話題となり、翌年にはブロードウェイに進出。トニー賞で最優秀新作ミュージカル作品賞を含む8部門を受賞し、2013年にはグラミー賞ベスト・ミュージカル・シアター・アルバムを受賞、昨年にはロンドンのウエストエンドで開幕し、オリヴィエ賞を受賞するなど、世界中で注目を集めている。(略)

オーケストラやバンドはなく、キャスト自らがギター、ピアノ、ヴァイオリン、アコーディオン、ドラム、チェロなど楽器を演奏し、音楽がつくられていく過程が表現されるのも見どころの一つ。

人生に希望を見いだせないストリートミュージシャンの男性とチェコ系移民の女性が音楽を通して心を通わせていく愛しくて切ない恋の物語を存分にご堪能あれ。

お芝居の前にアイルランドのアイリッシュパブに見立てた舞台でお酒が出るという演出は何処でも同じらしく、私が観たハリウッドのパンテージ劇場でも同じだった。舞台なので場が変わっても舞台装置はパブのまま。テーブルや椅子を動かして主人公の家になったり銀行になったりレコーディングスタジオになったりする。

第一幕はパブで多々のキャストによる歌や演奏や踊りが満載で楽しい。どっちかいうとミュージカルというよりアイリッシュパブでアイリッシュ音楽の生演奏を観に行っているという感覚。すべて歌も演奏もすばらしく、脇の踊りも結構いいし、アイルランドやチェコ移民の庶民的な振り付けは観ていて楽しい。筋は後から付け足した感じであんまり意味がなく、あってもなくてもいいような印象を持った。それでも主役二人の男女の淡い恋物語には魅かれるものがある。この二人の関係がどういう風に展開していくのか興味をそそられて第一幕が閉じる。

注意:ここからはネタバレあり〜!

ところが、第二幕目は完全に失望する。音楽は一幕目の焼き直しに過ぎず繰り返しばかりで新曲がない。主役男女の関係も一幕目以上には発展しない。どちらもそれぞれ魅かれているのは確かなのに、じゃあ、この次の段階へ持って行こうという勇気がどちらにもない。

なんとか近所の人たちの寄せ集めバンドを作ってデモのためのレコーディングを終わらせた男と女。

男は女に女の子供も一緒にニューヨークへ行こうという。だが、女はためらう。男はそれ以上説得しようとしない。どうも煮え切らない態度。ここで私は思わず「なんで?」と言いたくなった。

結局男はニューヨークに居る元彼女のもとへ旅立ち、女のもとには母国に帰っていた夫がもどってきて夫婦と子供一人の家族生活に戻る。

これって作家が結末をどうしていいのかわからんくて投げ出したという怠慢な終わり方だ。まったく欲求不満に陥る。こんな尻切れとんぼな終わり方納得いかない。

もしも最初からこの二人は結ばれる運命になかったのであれば、最初からロマンティックな関係にもっていかず、単なる友情だけを描くべきだった。

淡い恋心を抱かすなら、それなりに恋の決着をつけるべき。だいたい筋などあんまり重大でないミュージカルにおいてハッピーエンドにしないなんてルール違反だ! 

ではここでカカシ風アルターネイトエンディングを二つ紹介する。

エンディングその1 友情編

最初の設定で女は男よりずっと年上の中年の子持ち女。夫との夫婦生活がうまくいっておらず別居中。そんななか街頭芸人の若い男に出会う。男は恋人と半年前に別れたばかり。音楽で身を立てようとニューヨークへ旅た恋人と一緒に行く勇気が持てず、恋愛にも音楽にも自信を喪失して自暴自棄になっていた。偶然出会った中年女の友情に励まされ、男は恋にも音楽にも自信を持つようになる。ついに男は思い切ってニューヨークの恋人の元へ旅立ち、恋にも音楽にも人生をかけようと決意する。

ラストシーン:中年女は若い男を励ますことによって自分も夫婦生活に全力投球していなかったことを反省。故郷に帰っていた夫に電話し、もう一度やり直そうと提案する。

エンディングその2 恋愛編

女をダブリンに残してニューヨークへ旅立った男は、ニューヨークで再会した恋人はすでに別の恋人と一緒に暮らしている事を知る。だがそれをみても悲しくない男は、いかにダブリンに残して来た女を愛するようになっていたかを悟る。一方デモのCDはレコード会社に認められ大手会社と契約を結ぶ。そんな男のもとに女の親友(母親でも弟でもいいが)から電話がかかってくる。親友は女が夫とよりを戻すつもりだと男に言ったのは嘘で、本当は子持ちで年寄りの母親がいる自分が居ては男の仕事の邪魔になると思ってわざと身を引いたのだと告げる。

ラストシーン:ダブリンのアイリッシュパブで働く女の元へプレゼントが届く。なんと女がずっと欲しいと思っていたピアノ。送り主の名前は匿名。感激した女がピアノを魅き始めると後ろから男のギターと歌声が聞こえて来る。男はレコード契約やレコーディングはニューヨークでしても、音楽活動はニューヨークでなくても出来ると言って彼女のもとに帰って来たのだ。「一緒にアルバムを作ろう!」二人は抱き合う。登場人物全員揃って音楽演奏で終焉。めでたし、めでたし!

August 3, 2014, 現時間 9:39 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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July 13, 2014

アメリカ人であることを誇りに思う、デニーシュ・デスーザのアメリカ

映画

政治評論家で作家のインド系アメリカ人、デニーシュ・デスーザ氏が好評だった「2016年オバマのアメリカ」に続いて制作した二弾目の話題作「アメリカ、もしもアメリカが存在しなかったら、、"America, Imagine the World Without Her"」を観て来た。デスーザ監督は前作の「オバマのアメリカ」が大成功したことによって、オバマ政権からは目の敵にされており、今回の映画公開直前にも自分の支持する政治家に規制額を多少超える(数百ドル)献金をしたとして選挙法違反の疑いで逮捕された。憲法違法行為を毎日のようにしている自分のことは棚にあげて、オバマ政権は、こんなマイナーな違反をしたデスーザに手錠をかけて連行し、それをでかでかとメディアで報道するという報復に出た。一国の大統領とは思えないほどセコイやり方である。

しかしながら、デスーザは流石に賢い。この逮捕シーンを自ら出演して再現し映画の一シーンに加えた。デスーザは自分は間違いを犯したと認めながらも、自分の逮捕はオバマが気に入らない言論を断固弾圧する典型的な政治がらみであると描写。さすが長年保守派政治評論家をやってるだけあって、デスーザは転んでもただではおきないしたたかな人間である。オバマはデスーザを映画公開直前に逮捕することでデスーザを威嚇して間(あわ)良くば映画公開をも阻止しようと企んだのかもしれないが、デスーザ逮捕は完全に裏目に出て、かえってデスーザの映画を宣伝することとなってしまった。

映画は、左翼リベラルは何かとアメリカを悪者扱いしアメリカこそが世界で最悪な国家であると強調するとし、彼らの主張がいかにまちがっているかを順序正しく歴史をふまえて一つ一つ論破していく。

デスーザが取り上げた左翼のアメリカに対するクレームは:

  1. アメリカはインディアンから土地を奪い大量殺害を行った。
  2. アメリカはメキシコから領土を奪い取った。
  3. アメリカは黒人奴隷を大量に使い虐待した。
  4. アメリカは他国の資源を乗っ取るため世界中で侵略行為をする帝国主義である。
  5. アメリカはその資本主義によって悪徳企業がのさばり、善良な一般市民が虐げられている。

デスーザはそれぞれのクレームを声高にする左翼リベラルの代表者を直接インタビューし、彼らの言い分を歪曲せず、左翼映画家のマイケル・ムーアがするような、相手がより悪く見えるような部分だけをつぎはぎに編集するなどという小細工もせずにきちんと載せている。デスーザは相手の提言をしっかりと理解した上で論理だてて崩して行くのである。

今回の映画は前作が成功して予算が高かったらしくプロダクションバリューも高い。映画の冒頭ではアメリカの最初の大統領ジョージ・ワシントンが軍隊を率いてイギリス軍と闘う独立戦争の戦闘シーンがあるが、何百人というエキストラを使ったかなりの大掛かりなシーンである。

他にも南北戦争の戦闘シーンやリンカーンの演説など、多々の再現ドラマが出て来て、単なるインタビューだけのドキュメンタリーに終わっていない。

デスーザは自分も30年前にアメリカに移住した合法移民のひとりとして、アメリカを誇りに思い愛している。この映画にはその誇りと愛が赤裸裸に描かれているといえる。なんといってもアメリカ人であることを誇りに思わせ、アメリカ人を気分よくして家に送り返してくれる作品である。

アメリカを崩壊させたいオバマ王が躍起になって阻止しようとした理由が解るというものである。

July 13, 2014, 現時間 8:19 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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June 29, 2014

ジャージーボーイズ、イーストウッド監督、舞台俳優を起用して大成功

映画

1960年代後半から70年代前半にティーンポップの大人気歌手だったフランキー・バリとそのボーカルグループ、フォーシーンズのメンバー四人の若者たちの伝記映画。ジャージーボーイズというタイトルは、四人ともニュージャージー州出身だからということだけでなく、四人が育った環境が、貧しいイタリア移民子孫の集まる地元で、マフィアがらみの伝統文化が深く浸透しているという意味からくる。言ってみれば東京下町の江戸っ子気質みたいなものかな。マフィアは除くとして、、(日本語字幕予告編はこちら

アクションスターで一世を風靡したクリント・イーストウッド監督は、ハリウッド映画では珍しく映画ファンには知名度の低いミュージカル舞台俳優を起用。2005年ブロードウェイのオリジナルキャストで主役のフランキー・バリを演じてトニー賞受賞経験もあるジョン・ロイド・ヤングをはじめ、作詞作曲及びキーボードのボビー・コーディオ(エリック・バーガン)、ベースのニック・マシ(マイケル・ラマんダ)など四人のうち三人までもがオーストラリアやラスベガスの舞台でそれぞれの役をこなしてきたベテランミュージカル俳優たち。わずかにトミー・デビートだけが多少知名度のあるテレビ俳優で映画経験もあるビンセント・ピアッツアが演じている。

脇にはフランキーの守護神でマフィアの親分を演じるベテラン俳優のクリストファー・ウォーキン、作曲家としてのボビーの才能を発見するジョー・ペシ(そ、あのジョー・ペシ!)を演じるジョーイ・ルソが映える。

イーストウッド監督は、歌える俳優を起用したことをフル活用し、バックミュージシャンを使ってシーンで歌われる歌は生で録音したんだそうだ。フォーシーズンズの四人のハーモニーは抜群で主役のロイドヤングの声はフランキーそっくり!高音のフォルセットが凄く冴えてる。

映画全面を通じてヒットに次ぐヒットを飛ばしたフランキー・バリとフォーシ−ズンと後にバリがソロとなってからのヒット作が映画の進行とともに流されるが、それぞれの曲がその時のムードにぴったりはまっていていい。

今の若い世代はフランキー・バリなんて聞いた事がないかもしれないが、シェリー,ビッグガールズドンクライ、ウォークライクアマン、キャントテイクマイアイズオフオブユーなど、彼の歌は今でも歌い続けられているので、バリが歌ったとは知らずに耳には馴染みのある曲が多いはず。

映画のテーマは四人の音楽活動だけでなく、最年長でフランキーを実の弟のようにかわいがっていたトミーとその幼なじみのニックの三人の深い友情が根底にある。若い頃から指導力があり行動的なトミーは自然とグループのリーダー及びマネージャーのような役割を果たしグループの金銭の取り扱いもしていた。だが、トミーは若い頃からチンピラで常に怪しげな商売をしては刑務所を出たり入ったりしてきた前科者。フランキーやニックが契約書など交わさず何でもジャージーのやり方だと言って握手だけして、何もかもトミーに任せっきりにしてきたことが後になって大きな問題を引き起こすことになる。

幸いにしてトミーの友達のジョーイの紹介で最後に加わったボビーは、同じニュージャージー出身でもちょっと毛色の違う人種。他の三人と違ってマフィア文化とは無縁だし教養もあり作曲の才能だけでなくビジネスの才能もあった。ボビーはグループとは別にフランキーと作曲家とソロ歌手としてのパートナー契約を結ぶ。この契約が後にトミーが引き起こす膨大な大借金からグループを救うこととなる。

私はフォーシーズンズ及びフランキー・バリの歌のほとんどをボビー・コーディオが書いていたとは全く知らなかった。トミーとニックは幼なじみだし、それぞれ多少の才能はあったとはいえ、グループのメインはフランキーとボビー。トミーの借金問題でトミーとニックが抜けてグループが解散した後も、この二人がずっとパートナーとして継続できたことは音楽ファンにとっては非常に幸運なことだった。

主役四人の歌唱力は申し分ないが、トミーのビンセント・ピアツアの演技はさすがである。多少音楽才能はあるとはいえ、所詮チンピラなやくざとしての域を抜けきれない哀れな男。この役だけは映画経験のあるピアツアを起用したクリントン監督の意図は理解できる。

ところで元が戯曲だから映画でも舞台の雰囲気があちこちに漂っている。例えば四人がそれぞれカメラに向って本音を話かけるシーンなどはシェークスピア風。最後に登場人物が集まって踊ったり歌ったりするのも舞台のカーテンコール風で思わず「ブラボー」と歓声を上げたくなった。この映画には絶対にアカデミー賞を取ってもらいたい。これでロイド・ヤングがアカデミー主演男優賞を取ったら、彼はトニーとアカデミー両方で同じ役で主演男優賞を取ることになる。非常に興味深いことだ。

では最後に本家フランキー・バリーの"I can't take my eyes off of you"アイキャントテイクマイアイズオフオブユー(君から目をそらせない)のオーディオを楽しんでもらおう。

June 29, 2014, 現時間 9:51 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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March 9, 2014

宮崎監督の飛行機への愛が政治を超えた風立ちぬ

映画

日本ではすごい人気だったという宮崎駿監督の「風立ちぬ」が近所の映画館に来ていたので観て来た。私は昔から「隣のトトロ」の大ファンでお風呂場はすべてトトロモチーフにしているくらい。ただ、監督の宮崎氏はかなり左寄りの思考で「もののけ姫」とか「千と千尋の神隠し」などは彼の左翼リベラル特有の環境保全思想が全面的に出過ぎていて、映画全体がお説教ぶっていて嫌だった。また宮崎氏が護憲法9条派であることも有名なので、零戦の設計者である堀越二郎の人生を描くとなると、やたら反戦のプロパガンダを聞かされるのかなと心配だった。しかし映画では堀越二郎は戦争に加担した悪人としてではなく、単に航空科学に熱烈な情熱を注いだエンジニアだということだったので観に行くことにした。

宮崎の映画では、背景描写の細やかな美しさにはいつも心を打たれる。特に監督が育った昔の日本を描写する時、実際その時代を生き、その場を愛した監督の気持ちがひしひしと伝わってくる。この映画も例外ではない。堀越二郎が育った大正時代の田舎町。泥道を行く馬車や川を行く小舟の数々。風ぞよめく広大な草原。確かにここなら、美しい飛行機を作りたい少年が夢を見られるかもしれないと思う。この草原で少年二郎は尊敬するイタリアの設計技師カプローニに白昼夢のなかで出会う。実際に二郎がカプローニにあったことがあったのかは解らないが、カプローニは映画のところどころで二郎の幻想として登場する。

人気映画なのでいまさらあらすじをご説明するまでもないと思うが、特に説明するような筋というものもない。堀越二郎という大正時代から昭和の戦争前夜に活躍した天才的な航空科学技師の少年から青年期を描いたもので、あちこちで二郎がスライドルールを使って(計算機など無い時代)飛行機の設計に没頭している姿が全体的にまったりなペースで描かれる。

愛妻奈緒子とのラブストーリーも二郎の飛行機への愛とだぶる。二郎と奈緒子が紙飛行機を投げ合って遊びながら二人の愛は深まる。結核に病む病弱な奈緒子との明日をもしれない短い愛の暮らし。横たわる奈緒子の手をつなぎながら夜遅くまで設計に励む二郎。

これを普通のアニメを期待していた子供が観ていたらかなり退屈してしまうだろう。この映画が日本で大人気だったというのはちょっと不思議だ。観客層はかなり高年層の人たちだったのだろうか。もし日本の若者がこの映画を本気で好きだったのなら、日本の若者はアメリカの若者達よりかなり集中力があるのだなと感心してしまう。なにせハリウッド得意の手に汗握るアクションの連続とはほど遠い映画だからである。

映画を通じて感じるのは宮崎の古い日本への懐かしい想いと飛行機への愛情である。自分の設計が戦争の道具に使われるという葛藤は二郎にはない。ナチスの台頭を目前にしたドイツへの訪問や国内で特高警察に睨まれたことなども割とさりげなく扱われ、二郎自身には全く政治色はない。戦争に加担した主人公の罪を無視しているという批判もあるらしいが、宮崎が堀越二郎の伝記を反戦プロパガンダに使わないでくれたことに私は感謝している。その誘惑は多いにあったはずだから。

だいたい世界恐慌まっただなかの日本で飛行機設計技師が勤められる分野といえば防衛関係なのは当たり前。旅客機など無い時代だ、お得意さまが軍隊なのは自然の成り行き。第一、日本人技師が自分の設計が日本の国防のために使われることに誇りこそ感じるにしても、違和感を持つ方がおかしい。

ただ政治色云々より映画としては今ひとつかなという気はする。二郎が東京で関東大震災に出会うとか戦争を目前にするという背景はあるが、二郎自身の人生はそれほど波瀾万丈ではなく、これといった出来事が起きない。愛妻の奈緒子をはじめ、幻想の世界のカプロー二、三菱の上司黒川や同僚の本庄、妹の佳代やドイツ人のカストルプなど、面白い登場人物に囲まれてはいるが、二郎自身が秘密警察に逮捕されたわけでもないし、偉大なる設計士との感動的な出会いもない。ドイツでの研修旅行もエンジニアの一行として同行したような気分になった。

さて、面白い効果として、何故か関東大震災や飛行機のエンジンやプロペラの音響効果がすべて人の声でされている。また背景描写が非常に現実的であるにも拘らず、登場人物の描写は漫画的な質素さがあり、ところどころぎくしゃくとしていて、これにもちょっと違和感がある。

英語版で観たので英語の声優については、二郎役のジョセフ・ゴードン・レビットの淡々とした口調はエンジニアの二郎にはぴったりだ。黒川を演じたマーティン・ショートが択一。ロード・オブ・ザ・リングスでフロドを演じたイライジャ・ウッドが曽根という役で登場したらしいが、全く印象になかった。二郎は奈保子とフランス語を話したりドイツではドイツ語を話したりしているが、日本語版ではどのようにしたのだろう?またカプロー二のイタリア語訛りはどんなふうに演じたのか興味あるところだ。

「隣のトトロ」や「魔女の宅急便」には及ばないが、説教じみずに飛行機への愛を語ったと言う点でまずまずの出来といったところか。

英語版声優一覧:

Joseph Gordon-Levitt – Jiro Horikoshi[7]
Emily Blunt – Naoko Satomi (spelled "Nahoko" in the end credits)
John Krasinski – Honjo
Martin Short – Kurokawa
Werner Herzog – Castorp
William H. Macy – Satomi
Darren Criss – Katayama
Mae Whitman – Kayo
Mandy Patinkin – Hattori
Jennifer Grey – Mrs. Kurokawa
Stanley Tucci – Giovanni Battista Caproni
Elijah Wood – Sone
Ronan Farrow – Mitsubishi Employee
Zach Callison – Young Jirô

March 9, 2014, 現時間 10:21 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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January 20, 2014

アメリカ軍人の武勇伝ローンサバイバーが大人気なのは何故か?その謎を探る!

映画

去年の12月に公開され、日本では三月公開の「ローンサバイバー」あえて訳すなら『孤独な生還者』なんてどうかな?アフガニスタン戦争中に実際にあった戦闘を元にしたアメリカ海軍誇るシールチームの武勇伝。制作費も低く地味な映画なのにも拘らず意外な人気で大入り満員。封切から四週間も全米売り上げナンバー1の座を保った。それにしても人気がないはずの戦争映画なのに、こんなにも人気があるのはいったい何故? 今日はその謎を探ってみよう!(とドキュメンタリーテレビの冒頭みたいな台詞を書いてみた。)

この映画のあらすじは、実はカカシ自身が書いた2007年にマーカス・ルテレル原作本を読んだ時のエントリーがあるので引用しよう。(ネタバレあり!)

たとえばこの状況を読者の皆さんはどう判断されるだろう。アフガニスタンの山奥にテロリストのアジトがあるので偵察に行って来いと命令を受けた海軍特別部隊シール4人が、偵察中に羊飼いの村人三人に出くわした。戦闘規制では非武装の非戦闘員を攻撃してはいけないということになっているが、彼らの顔つきから明らかにアメリカ人を憎んでいる様子。シールの4人はこの三人を殺すべきか開放すべきか悩んだ。開放すれば、仲間達に自分らの任務を知られ待ち伏せされる可能性が多いにある。かといって、キリスト教徒としてまだあどけない顔の少年を含む一般市民を殺すのは気が引ける。第一タリバンかどうかもわからない市民をやたらに殺したりすれば、殺人犯として帰国してから裁判にかけられる可能性は大きい。シールたちはどうすればよかったのだろうか?

結論から言わせてもらうと、シールたちは殺すという意見が一人で、もう一人はどっちでもいい、他の二人が殺さずに開放するという意見で羊飼いたちは開放された。そしてその二時間後、シール4人は200人からのタリバン戦闘員たちに待ち伏せされた(中略)(生還者は後に)「どんな戦略でも、偵察員が発見された場合には目撃者を殺すのが当たり前だ。それを戦闘規制(ROE)を恐れて三人を開放したことは私の生涯で一番の失態だった」と語っている。

イラク/アフガン戦争中には、戦争を描いた映画がいくつか作られたがどれも不入りだった。それでハリウッド映画業界では、ブッシュ政権下の戦争がアメリカ国民の間で不人気なため、これらの戦争を描写した映画も不人気なのだという結論がくだされた。しかし、彼らが一つ見落としていた大事な点がある。それは、どれもこれも反米映画だったということだ!!

いったいどこの誰が金を払って自分の国をけちょんけちょんに貶す(けなす)映画など観に行くか?

これについてはカカシも過去に幾つか書いて来た。

学習力ないハリウッド、「ストップロス」反戦映画がまたも不入り
反戦映画が不入りなのは何故か
悲劇的な封切り、ディパルマ監督の反米映画「リダクテド」

今回の映画が好評なのは、悪者はタリバン、正義の味方はアメリカ軍、とはっきりしているからだろう。そして二百人からの悪者に囲まれながらたった四人で数時間に渡り闘い続け相手をほぼ全滅させたという快挙がアメリカ人の正義感を振り起こすからだろう。

映画は原作にほぼ忠実ではあるが、ただ時間の問題もあり、大事なシーンがかなり削られている。たとえば主人公のマーカスがシールになるための訓練をした数週間がオープニングのシーンで役者抜きの本物の訓練の模様が流れるだけ。それとタリバンとの熾烈な闘いの後に一人生き残ったマーカスが親米なアフガニスタン村民に助けられてからの時間もちょっと短過ぎる。本ではもっとアフガンの村に行ってからの描写がされており、村人たちとの交流も詳細に書かれている。映画ではこのあたりのシーンが足りない。また原作にはない戦闘シーンなどが加えられている。

映画に批判的な意見は、ほとんどが反戦主義の左翼リベラルたちによるもの。右翼のプロパガンダだとか戦闘を美化しているとか、ま、くだらないものだばかりだ。

特にLAウィークリー誌の載ったエイミー・ニコルソンの批評がひどすぎると、人気ラジオDJのグレン・ベックが旅費を負担するから自分の番組に出演して原作者で生還者のマーカス・ルテレル本人の前で言ってみろと番組で言うほどだった。

先ず彼女の記事は「バトルシップのピーター・バーグ監督の最新映画はプロパガンダまるだしのねつ造映画」と始まり、原作はルテレルの直筆ではなく、ルテレルがイラクに出動中、イギリスのゴーストライターが劇的にするために10人の敵を200人と書き換えたものだと続く。まったく何を根拠にこんな出鱈目を書いているのか。私はこの話だけでなくアフガニスタンやイラクでの戦闘がどのようなものだったか、かなり詳しく追っていた。

タリバンの戦闘員たちは重武装をし残虐であるとはいえ、その戦闘技術はアメリカ軍のエリートシール隊とは比べ物にならない。アメリカ兵ひとりあたり20から30人のタリバン戦死者が出るなんて言うのはごく普通に起きていた。何故かと言うとタリバンたちのやり方は物量作戦。つまりむやみやたらに突撃してくるだけで作戦がない。守り体制にあるアメリカ兵たちからしてみたら射撃しやすい状態にある。とはいえ、たった4人対200人ではいくらアメリカ兵が有能でも圧倒的に不利。救援なしではいずれは負ける。当時の戦闘状態を把握している人ならルテレルの記述はさほど大げさとは思えない。それを敵がたった10人だったなんて馬鹿なことが言えるのはニコルソンがどれだけアフガニスタン戦争を解っていないかという証拠だ。

彼女はアフガニスタン戦争はアメリカが勝手に始めた茶色人悪白人善という感情の戦争に地元民が巻き込まれただけという書き方。そして戦地に送られたシールたちもまた政権による犠牲者なのだと言いたいらしい。ま、ウィークリーみたいな零細新聞なんかに書いてる批評家の書くことなんか気にしてもしょうがないが、左翼リベラルの批評なんてのは往々にしてこんなもんだ。

ニコルソンはベックの番組で取り上げられたことで、誰も読まないウィークリーを読んだ退役軍人や家族たちからツイッターで非難囂々。軍人について何もしらないニコルソンが軍人たちの意見を聞くのもジャーナリストとしての勉強になるかもしれない。ま、無理でしょうけどね。

January 20, 2014, 現時間 10:44 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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January 2, 2014

メリーポピンズが救いに来たのは誰?父親像のあり方を描いたセイビングミスターバンクス

映画

先日ディズニー映画、セイビングミスターバンクス(邦題『ウォルトディズニーの約束』日本公開2014年3月21日)を観た。予告編を観た時は、それほど面白そうな映画ではなかったので期待していなかったのだが、封を開けてみたら予想以外に非常にいい映画でちょっと驚いた。

これは1964年のミュージカル映画「メリー・ポピンズ」制作時の裏話なのだが、ウォルト・ディズニー(トム・ハンクス)が原作者のパメラ・L・トラバース(エマ・トンプソン)女史から映画製作権利を取得するため20数年に渡って女史を口説き落としたという話は有名。映画は、そのトラバース女史がいよいよ台本制作を監督するためロサンゼルスにやって来るという設定で、トラバースの非現実的な要求や我が儘で傲慢な態度に脚本家のドン(Bradley Whitford)や音楽担当のシャーマン兄弟(B.J. Novak、Jason Schwartzman)が四苦八苦するという話。

本当のトラバースが非常に難しい人だったというのは悪名高く、写真で観る限り顔も常にしかめっ面のおっかなそうなオバさんだ。映画はトラバースの子供時代にオーストラリアで育った頃の話とだぶり、銀行員だった父親(Colin Farrell)がミスターバンクス、父親が病気になってから助っ人として遠く東から訪れた伯母(母親の姉)のエリー(Rachel Griffiths)がメリー・ポピンズのモデルになっていることが示唆される。

ディズニーがトラバースをスタジオに招いた時、ディズニーがこの映画を作りたいのは昔娘と交わした約束にあると話をする。

「娘との約束はまもらなければなりません。どれだけ時間が経とうと。それが父親というものですよ。」

というようなことを言うと、トラバースは「そうでしょうか?」と意味深に答える。

私は原作を読んだことはないが、原作を読んだミスター苺にいわせると、メリー・ポピンズは決して好感を持てるような女性ではないという。映画のなかでもパメラは、ディズニー映画のメリーが優し過ぎると抗議。メリー・ポピンズは子供達に現実社会の厳しさに打ち勝つよう厳しくしつけをしなければならないのだと強調する。そして映画自体が音楽やアニメなども含め楽観的過ぎることに大きな不満を見せる。

ディズニーはパメラがこういうきつい性格になった原因はパメラがヘレン・ゴフ(パメラ・L・トラバースの本名)だった子供の頃の苦労にあるのではないかと判断する。

回想シーンに現れる父親のトラバース・ゴフはアル中で娘のヘレン(Annie Rose Buckley、パメラの本名はヘレン・ゴフ)につらい想いをさせる。実際にパメラの父親は銀行の支店長だったのに途中で窓口に降格されてしまったという過去があるので、娘のヘレンが父親に失望したことがあったのは確かだろう。しかしそれでも父親を愛していたことは、ペンネームに父親の名前をつかったことや、ドンとシャーマン兄弟が描いたミスターバンクスの性格にミスターバンクスが意地悪過ぎると半泣きで抗議する場面で顕著に現れている。

英語題の「セイビングミスターバンクス」は「バンクスさんを救う」という意味。家族を救いに来たオバのエリーはパメラの父親を救うことは出来なかった。

「メリー・ポピンズが救いにきたのは子供達ではない。ミスター・バンクスなんだね。」

とウォルト。ウォルトがパメラに自分の厳しかった父親の話をするシーンは感動的で涙が止まらない。ウォルトは父親を愛していたと同時に父親の厳し過ぎる仕打ちを憎んでいた。ウォルトはパメラに子供時代に苦労したのは彼女だけではない、いつまでも過去の悲しみに執着していてはいけないと語るのである。

エマ・トンプソンはトラバースの難しい性格をかなりよく演じていると思うが、実際のトラバース女史はもっと偏屈だったらしい。トンプソンのトラバースは偏屈ながらも好感の持てる作家として描かれている。(それに本人よりずっと美人だし、、、)

ところで、邦題の「ウォルト・ディズニーの約束」というのは非常に良い題名だと思う。バンクスさんを救うでは日本語としてはちょっとおかしい。ディズニーが娘と交わした約束という情熱が最後には実を結んだのであるから、これは非常に適格な題名だ。意味の解らないカタカナ名が多いなか、満足のいく邦題である。

題材はメリー・ポピンズでも映画の内容は大人向け。地味だが非常に感動的な映画である。是非お薦めする。

January 2, 2014, 現時間 1:44 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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October 12, 2013

暴力なし、セックスなし、SFなし、大人の映画ゼロ・グラビティーが大人気

映画

久しぶりに大人向けの映画を観た。邦題はゼロ・グラビティ(無重力)(日本12月公開)。この映画はいまアメリカで売り上げナンバー1の映画である。しかも35歳以上の大人に人気があるという。登場人物はたったの五人、しかも顔が出てくるのは二人だけであとの三人は声だけ。悪者が出て来る暴力シーンもなければ主役二人の男女のセックスシーンもない。完全に現代の科学に基づいており、宇宙人も出て来ないしト大型ロボットも出て来ない。にもかかわらず二週間続けて売り上げナンバー1というのはどういうことなのだろうか?

あらすじといっても特にない。それというのも、スペースシャトルの乗組員の三人がシャトルの外で修理に当たっていた時、突発的な事故によってジョージ・クルーニー演ずる宇宙飛行士マット・コワルスキーとサンドラ・ブロック演じるペイロードスペシャリスト(スペースシャトルの搭乗科学技術者。積み込まれた実験装置や観測装置の操作および実験を担当する専門職の宇宙飛行士)ライアン・ストーン博士だけが生き残り、そのあとなんとかして二人が生きて地球に戻ろうとする冒険が描かれているだけだからなのだ。映画の説明をこちらから引用させてもらうと、、

予告編の冒頭で映し出されるのは宇宙空間から見た美しい地球の姿。そこではスペースシャトルが地球を周回しており、メディカル・エンジニアのライアン・ストーン博士(ブロック)とベテラン宇宙飛行士マット・コワルスキー(クルーニー)は船外でミッションを遂行している。しかし、突発的な事故が発生し、ふたりは無重力(ゼロ・グラビティ)空間に放り出される。映像は、突発的な状況に直面しパニックにおちいる主人公ふたりの動揺を生々しくとらえ、衝突によって大破した機器が宇宙空間に拡散してく映像が緊張感を高める。やがて訪れるのは助けの声さえも届かない漆黒の闇。映画は、地球との交信手段も絶たれ、酸素残量が2時間になってしまった状態から生還を試みるふたりの姿を描くという。

この映画の魅力はコワルスキーとストーンがいかにして生延びるかと苦心して様々な現実的な作戦を試みるところにある。無論実際に彼らのしたことが可能かどうかは疑問だが、それでもあり得ると観客に思わせるところが味噌だ。

コワルスキーはベテラン飛行士だが、ストーンは科学者で飛行士ではない。最初にシャトルから引き離されて宇宙に放り出された時の彼女のパニックぶりは非常に理解出来る。全くスケールは違うが、私が何年か前にカーンリバーの濁流下りをした時、ボートが転覆して濁流で何回転もした時のことを思い出した。無重力状態では摩擦がないから回転しだしたら止まらない。自分がそんな目にあったらあのくらいのパニックでは収まらないだろうと思う。

それでも彼女はコワルスキーにおんぶにだっこで頼り切るわけにはいかない。生存者はたったの二人きり。ベテラン飛行士とはいえ、コワルスキーは二人分の責任をすべて背負い込むことはできないのだ。それに気づいて自分でも気づかなかった予想外の勇気を奮い起こす彼女の姿は凛々しい。

宇宙の冷酷ながらも美しい映像描写はすばらしい。映画は普通版と3D版とがあるが、3D版をおすすめする。他の映画では意味もなく3Dのものが結構あるが、この映画は自然に3Dを駆使しており、充分に観る価値がある。

この映画がこれほどまでに人気を呼ぶということは、ハリウッドがどう思おうと、ティーンエージャー向きのアホな映画ばかりで大人の観客は内容のある大人の映画に飢えているということだ。ハリウッドにはこれに学んで内容の濃い大人の映画をもっと作って欲しいものだ。

October 12, 2013, 現時間 7:22 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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June 17, 2013

人気スターに恋をした哀れなボーイトーイの悲劇:ビハインドキャンデラブラ

映画

1930年代後半から1980年代半ばまでポップなピアノ奏者として人気スターの座を保ったリベラチというエンターテイナーと、その同性愛人スコット・ソーソン(Scott Thorson)との6年にわたる関係を描いたのがこのHBO映画"Behind the Candelabra"(「燭台の背後に」の意。邦題は「恋するリベラーチェ」)である。題材はソーソンの同名の自叙伝からとったもので、舞台となるのはリベラチが人気ディナーショーをやっていた頃のラスベガス。スコットとリベラチが出会った1977年からリベラチが死去する1987までが描かれている。

リベラチは日本ではあまり知られていないが、クラシック音楽を一般大衆にも受け入れられるようにポップなアレンジで軽快に弾くスタイルが人気を呼んで、1950年代には「ザ・リベラチ・ショー」という大人気テレビ番組に出演していた。その後もコンサートやリサイタルやテレビゲスト出演など色々と活躍していたが、1970年代にはラスベガスヒルトンやレイクタホで毎晩大入り満員の豪華絢爛なディナーショーを繰り広げていた。スコットがリベラチに会ったのはこの頃のことで、1977年に友人にラスベガスのショーに連れて行ってもらったのがきっかけだった。リベラチが57歳、スコットが17歳の時だった。

昔からリベラチが同性愛者だという話は囁かれていたが、50年代から70年代のアメリカで同性愛を公認するのは難しかった。一度リベラチはゴシップマガジンに同性愛をすっぱ抜かれて反対に雑誌社を訴え勝訴したことがある。にもかかわらずリベラチの同性愛嗜好は公然の秘密だった。ま、リベラチのパフォーマンスを一度でも観たら、彼がホモなのは一目瞭然だから仕方ないだろう。

ミスターショーマンシップと呼ばれた中年太りのリベラチを演じるのは名俳優マイケル・ダグラス。そのずっと若い愛人役のスコットにマット・デーモン。二人ともマッチョでタフガイのイメージがあり、なよなよなホモのリベラチや美少年スコットのイメージとはほど遠いのだが、さっすが名俳優だけあって二人の同性愛ぶりには説得力がある。

ゲイバーでスコットと知り合いリベラチとの間をとりもった友人のボブ・ブラックを演じるのはクォンタムリープやスタートレックでおなじみのテレビ俳優スコット・バキュラ。実はずっと映画をみていてボビーを演じているのがバキュラだと言うことに全く気がつかなかった。バキュラは身体も結構大きくてかなりの男前なのだが、70年代風の長髪が異様に似合って当時のゲイのイメージがよく出ている。

この話はスコットの体験談が題材となっているので、スコットとリベラチとの関係はリベラチに居た無数の愛人たちとのうすっぺらな関係とは違うということが強調されている。スコット自身は二人は愛し愛される特別な関係にあったのに、最後にはゴミのように捨てられてしまったと悲劇のヒロインを気取っている。だが、実際に二人の関係が他の愛人とくらべて特別なものだったのかどうか、これはかなり疑問である。

スコットがリベラチのお気に入りとなって有頂天になっていた当初から不幸な結末の予兆はいくらもあった。スコットが初めてリベラチの楽屋を訪れた時、リベラチの取り巻きに混じって一人苦虫をかみつぶしたような顔でひたすらむしゃむしゃ昼飯を食っていた男がいる。これはスコットがリベラチと住むためボストンバッグを持って現れたのと入れ替わりに出て行ったリベラチの愛弟子ピアノ奏者のビリー(シャイアン・ジャクソン)だった。

出口でビリーのはめていた金の指輪を外させたのはリベラチの忠実なマネージャー、シーモア(ダン・アクロイド)。リベラチのハウスボーイのカルーチ(ブルース・ラムジー)からも、スコットは「お前が最初じゃない、これまでにも何人も来ては去って行った、いずれシーモアから電話で、もう君は必要ないと宣告されて終わるのさ。」と忠告を受ける。

スコットはカルーチの言葉やシーモアが自分に向ける軽蔑に満ちた視線に腹を立てながらも、自分がいつかは別の若い男によってお気に入りの座を奪われることを常に恐れていた。リベラチの愛情を保つためリベラチに言われるままに整形手術を受けたりもした。この整形外科医のジャック・スターツを演じるロブ・ロウの演技が傑作。彼にはコミックアクターとしての才能があると思う。リベラチからスコットの顔を若い頃の自分に似せて欲しいと依頼を受けた時のロブ・ロウの間の取りかたは最高だ。

スターツ医師から処方された痩せ薬や手術後の痛み止めなどがきっかけで、スコットはどんどんと麻薬にとりつかれていく。リベラチから家を買ってもらい、車を何台もあてがってもらい、毛皮のコートや金の指輪等の贈り物をいくらも貰っていながらも、自分がいつかは捨てられるという恐怖からなのか麻薬中毒になっていく。だがスコットが麻薬に溺れれば溺れるほどリベラチの心は遠ざかって行く。リベラチを失いたくないという気持ちから麻薬に走り、それがかえってリベラチを遠ざけてしまうという悪循環がここで生まれる。

この映画はリベラチとスコットのラブストーリーということになっているが、実際にリベラチがスコットを特別に愛していたのかどうかは解らない。ただ他の愛人たちよりは時間的に長い付き合いだったということもあるし、別れた後のリベラチの気前のいい慰謝料から考えて、リベラチはスコットのことを実際に愛していたのかもしれない。

だが、自分には全く才能もなく、ただ綺麗で若いというだけのスコットがいずれはリベラチに飽きられてしまうと恐れるのは当然のことだろう。しかしそうと解っていたのなら、麻薬におぼれるなど自虐的な行為に走らずに、限られた時間内でのリベラチの愛情をもっと育むべきだったのではないか?それをせずに与えられたこずかいを無駄使いして、捨てられたら慰謝料を目当てに訴訟をおこすなど、はっきり言って愛情を持っていた愛人のする行為とは思えない。

実際のスコットは現在他人のクレジットカードを違法に使った罪で刑務所に入っている。本気でリベラチを愛していたのかしれないが、リベラチ側はスコットは麻薬中毒の行き過ぎでリベラチの宝石などを盗むようになっていたと語っていた。そうした姿は映画では描かれておらず、ボーイトーイとして遊ばれた無能なゲイボーイの哀れさをマット・デーモンは見事に演じている。

June 17, 2013, 現時間 10:25 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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February 1, 2013

活劇が多過ぎて目が回るホビットの思いがけない冒険

映画

今夜の映画はJRRトールキン原作、ピータージャクソン監督の指輪物語(ロードオブザリング)の前編である「ホビットの冒険」の第一話「ホビットの思いがけない冒険」である。

カカシがこの原作を初めて読んだのは20年くらい前だが10年くらい前に読み直した。そして5〜6年前に今度は日本語でも読んでみた。ま、そういうわけだから原作には結構くわしいつもり。

原作を知らない人は、ジャクソン監督のロードオブザリングの前編だから、ロードと同じような雰囲気の作品を想像するかもしれないが、実はホビットは子供向けの小説として書かれたものなでロードとは全く違う代物だ。それに原作が三部作という長編のロードに比べ、ホビットは子供用の短い一冊の小説(邦訳は上下二冊)。ジャクソン監督はロードの成功を再現させようとホビットも三部作にしたようだが、ちょっと無理があるように感じた。

物語はロードでホビットのビルボ・バギンス(イアン・ホルム)が甥のフロド(イライジャ・ウッド)にバッグエンドと呼ばれる自分の家を託して110歳の誕生日に姿を消したあの運命の日から60年前の回想録として始まる。居心地のいいバッグエンドで刺激のない自適悠々な暮らしにすっかり満足していた若い(50歳!)ビルボ(マーティン・フリーマン)が自慢の家バッグエンドの前で煙管(キセル)タバコをふかしているところへ突然魔法使いのガンダルフ(イアン・マケラン)が現れる。ビルボに冒険の旅に出る気はあるかと、なにやら不思議なことを言い残して去って行ったガンダルフだが、翌日の晩、バッグエンドには続々と予期せぬ客たちが現れる。現れたのは見知らぬ小人たちで、口々に自己紹介をすると「どうぞよろしく」と言ってあたかも招待された訪問客のようにビルボの家のなかにずかずか入って来てビルボが慌てて出す食事をがつがつと食べ始める。

実は、こうやってビルボの家に現れた13人の小人達は、大昔に竜に奪い取られた小人の王国を取り戻そうと冒険を計画している勇士らで、冒険に参加する14人目の勇士に会うためにガンダルフの紹介でバッグエンドに現れたのだった。しかもその14人目の勇士というのが自分だと知ったビルボはびっくり。小人達にビルボは「忍びの者」として有名だとガンダルフから聞いていると言われ、またまたびっくり。とまあ色々あってビルボは13人の小人達とガンダルフと一緒に冒険の旅に出る事になる。

映画は、この冒頭のシーンから途中でトロルに出会うとこくらいまでは結構原作の筋に沿っている。特に小人達がビルボの家で飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎをするところや、小人の王子トーリン(リチャード・アーミテージ)が昔を忍んで歌を歌うシーンは感動的である。

しかしながら、原作の冒険だけだと戦いのシーンが少な過ぎるとでも感じたのか、ジャクソン監督はトーリンの祖父の時代にゴブリンと大戦争をした回想シーンや、オークらに追跡されるシーンを加えたりで、とにかく格闘に続く格闘で忙しいったらない。しかも3Dということで、やたらにカメラワークが激しく目が回る。私は3Dでは観なかったが、3Dで観たひとたちは乗り物酔いのような気分になったと語っていた。

原作の良いところは、冒険など性に合わないと言っていたビルボが腕力ではなく機転を効かせてあらゆる場面でドワーフ達を危機から救うところにある。映画でもビルボが頭を使って危機から脱出する場面は非常に良い。特にゴラム(アンディ・サーキス)との運命的な出会いやビルボが指輪を発見するいきさつなど、原作に忠実な場面は非常に面白い。

ロードを観た時、是非ジャクソン監督にホビットも作ってもらいたいと思った。そしてその際にはイアン・ホルム主演でイアン・マケランのガンダルフにアンディ・サーキスのゴラムが適役だと思っていた。しかし若いビルボを演じるマーティン・フリーマンは非常にいい。ホルムがもっと若かったら是非とも若いビルボも演じて欲しかったのだが、フリーマンの演技も味があるのでこれは良い配役だと思う。

エルフの村リバンデールでエルロンド(ヒュー・ウィービング)やサルマン(クリストファー・リー)やガラドリエル(ケイト・ブランシェット)達が集まって会議を開くシーンは映画ファンとしてはうれしい再会ではあるが、原作にはなく、よって話の展開にはあまり意味をなさない。

ビルボの出て来るシーンは原作に沿っていて面白いが、ドワーフ達の格闘シーンは後で加えたものだけに筋が進まず時間稼ぎという感が拭えない。ただ、それぞれのドワーフ達の個性が出ているし演技もすばらしいので、それはそれなりに観る価値はある。

ただ、ジャクソン監督は英雄的な格好いい役柄が必要だとでも思ったのか、アーミテージのトーリンは小人としてはちょっと恰好良過ぎるし、若いフィリとキリを演じるディーン・オゴーマンとアイダン・ターナーはティーンエイジアイドルみたいで可愛いすぎる。

と色々批判はあるが、全体的には面白い映画だと思う。私はすでに二回観たが、二回目の方が面白く感じたので、一応おすすめ。

February 1, 2013, 現時間 4:56 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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December 29, 2012

ヒュー・ジャクマンの歌唱力が冴えた映画レ・ミゼラブル

映画 , 音楽芸能関係

最近のハリウッドのミュージカルというと、主役に歌えない役者を使うことが多くてブロードウェイミュージカルが映画になると舞台ファンの間から「映画では良さは解らない、舞台をみなくっちゃ、、、」と言われることが多かった。しかし今回のレ・ミゼラブルに関しては主役陣の歌唱力には往々にして満足した。ただ全体的に映画としての演出が先きだって、肝心の歌が多少犠牲になった感がある。二時間半という長さも、舞台とちがって休憩が入らない映画としてはちょっと長過ぎたかも。

私が子供の頃、初めて読んだ大作といえば原作のビクトル・ヒューゴーの「ああ無情」。当時の私はフランス文学に凝っていて、なかでも少女コゼットがジャン・バルジャンに救われるシーンが好きで何度も読み返した記憶がある。

舞台は革命が終わり、ナポレオン時代も終わり、再びルイ王邸が仕切る復古時代の仏蘭西。青年の頃に飢える妹の子供達のためにパンを盗んだ罪で5年の刑に処されたジャン・バルジャンは拘束中に何回か脱走を企て失敗し刑期が加算され、結局合計19年もの長い間囚人奴隷として拘束されてきた。そのジャン・バルジャンがやっと刑期を終えて保釈される。だが、前科者のジャンに職を与えてくれる人などおらず、あちこちを彷徨ううちにとある教会にたどり着く。親切な神父によって一晩の宿を与えられたジャンは教会の銀の燭台を盗んで逃走。すぐに地元の警察に取り押さえられ教会に連れ戻されるが、そこで神父は燭台は自分がジャンにあげたものだと言ってジャンを弁護。恩を仇で返した男にそこまで慈悲をみせてくれた神父の親切さにうたれたジャンは、心を入れ替えて善人になると神に誓う。

レ・ミゼはミュージカルというよりオベラである。中で台詞はほとんど入らず全てが歌。踊りはない。よって踊りの好きな軽いメッセージのミュージカルが好きな私としてはちょっと苦手なタイプ。大昔にブロードウェイのコンサート版を観た時の印象はオペラとしては音楽が貧弱だが、ミュージカルとしては楽しみに欠けるというあまり好意的なものではなかった。

しかし映画版の方は、主役のジャン・バルジャンを演じたヒュー・ジャクマンが良いからなのか、舞台版より良かった思う。ジャクマンが歌えることは以前からサンセットブルバードなどでも聴いていたので知っていたが、力強く歌う「裁き」も最後の方でつぶやくように同じ歌を歌った時も非常によかった。彼の演技には泣いてしまった。

映画はジャン・バルジャン及び囚人奴隷たちが大型の船を造船所に引きつけるところから始まる。これは映画ならではの壮絶なシーン。

ただ、映画ということで演出と演技に重点を置くあまり、全体的に歌の迫力が犠牲になったように思う。特に職を失って娼婦に身を落としたフォンティーヌ(アン・ハサウェイ)の「夢破れて」は、あまりにもつぶやきすぎで歌という感じがしない。フォンティーヌは瀕死の病人なので、あまり元気に歌うのもなんではあるが、普通の人間が歌を歌うということ自体がすでに不自然なのであるから、もう少し元気よく歌っても良かったのではないかと思う。特にこの歌は有名だし他でも多くの歌手が歌っている事でもあり、もう少し歌らしく歌ってほしかった。

同じことがフォンティーヌの娘コゼット(アマンダ・セイフライド)と一緒に育った里親夫婦の実の娘エポニーヌ(サマンサ・バークス)の歌う「オンマイオン」でも言える。

歌についてもうひとつ苦情があるとしたら、仮釈放の規則を破ったジャン・バルジャンを執拗に追いかけるジャベール刑事を演じるラッセル・クローの歌唱力は他の役者の歌がうまいこともあってかなり劣る。ラッセル・クローは好きな役者だし彼の演技は申し分ないのだが、ジャベールは非常に大事な役なので、やはりもっと歌のうまい役者を選ぶべきだったのではないか。

旅館経営者のティナルディエ夫妻(サーシャ・バロン・コーヘン、ヘレナ・ポナム・カーター)の「宿屋主人の歌」は舞台ではショーストッパーになる歌なので期待していたのだが、ここでもティナルディエ夫婦の小悪党ぶりの演出は上出来だが、歌そのものがよくきこえない。オペラは確かに演技もだが、なんといっても歌が主役だし、二人とも歌はうまいのだから、もっと歌唱力を前面に出してほしかった。

そういう面では革命派の若者達の歌はコゼットにひとめ惚れするマリウス(エディ・レッドメイン)にしろリーダー格のアンジョラス(アーロン・トヴエイト)にしろ得をしていると思う。なにせ役柄からして革命家を気取って勇ましく歌うことが許されるので、おもいっきりその歌唱力を披露することが出来るからだ。

マリウスとコゼットが出会うシーンでもデュエットはキズメットで王子とマシアーナが出会うシーンを思い出させるが、歌そのものはあまり印象深くない。原作ではコゼットはもっと重要な役なのだが、ミュージカルではエポニーヌのほうに重点が置かれている。

政治的には、私はフランス革命は大嫌いなので、革命派気取りの若者達には全く同調できない。彼らは今風のオキュパイヤーのようにただ理想に溢れただけのアホにすぎないからだ。しかし、原作でもミュージカルでも彼らを取り立てて美化してるわけではないので、そのへんは気に入った。

最後に死んだ革命派たちとジャン・バルジャンが赤い旗を翻しながら「民衆の歌」を歌うシーンは完全に余計だが、リベラルの多いブロードウェイとハリウッドの映画だから、そのへんはしょうがないだろう。

December 29, 2012, 現時間 12:22 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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September 16, 2012

最後の一滴の勇気、お説教じみた完全な右翼プロパガンダだけど、こんな映画もあっていいさ

映画 , 防衛

本日の映画は"Last Ounce of Courage ラストオンスオブカレッジ"。あえて訳すならば「最後の一滴の勇気」という意味。ラジオで聞いた広告では、戦争で英雄として勲章までもらったことがある男が、息子が戦死し、その嘆きのあまり愛国心を見失って失望しているところへ、ずっと離れ離れに暮らしていた亡き息子の未亡人と10代の若者に育った孫息子が帰ってくる。孫との交流を通じて男は新たな戦いに挑む。戦いはもっと身の回りに近いところにあった。というものだった。

しかしこれが、最初は頑固だったおじいちゃんの気持ちが孫の真心が通じて温まるというような映画だと思ったら大間違い。実際はアメリカ人が忘れかけているキリスト教を基本とするアメリカの価値観を見直し、自由の国アメリカへの愛国心を奮い立たせようという宗教保守のプロパガンダ映画なのである!

以前に自分の言いたいことを頭ごなしに説教するような映画は、映画の作り方のなかでも最低のやり方だと聞いたことがあるが、まさにこれがそれ。プロパガンダは熟練している左翼リベラルの映画つくりみたいに、ロマンスとかアクションとかおもしろいストーリーの裏に隠して何気なく知らないうちにプロパガンダを説くなんて器用な真似は出来ない。

この「ラスト、、」ときたら、あまりにも不器用で、最初から最後まで宗教保守の価値観をかなづちを振り下ろすごとく、これでもかあ、あれでもかあ、と説教するのだ。最後のほうでは、なんと主人公のボブが孫のクリスチャンと一緒に重たい十字架をミッションの建物の上に引き上げ、逮捕寸前にビルの屋上で演説をぶったりする。ちょっと、あんた、そこまでやる?

であるから、映画の出来としてはかなりの素人芸だし、特撮は低レベルだし、ストリー展開もぎこちない。 役者の演技ときたら、見てらんないのから名演技まであって、かなりまちまちだ。だから、芸術としての映画を考えた場合、かなりひどい点数を取りそうな映画である。

し、か、し、プロパガンダもここまであからさまにやられると、かえって気持ちよかったりする。特に右翼や宗教保守のプロパガンダ映画は珍しいので、それなりの価値はあるだろう。

それに、悪者として出てくる左翼リベラルたちの描写が、あまりにも大げさで突拍子もなくてステレオタイプで、これじゃあまるでパロディじゃないの、と思わせるほどおかしいのだが、実はそれが的を射ていて笑えないのだ。

ボブの孫息子クリスチャン(名前からしてキリスト教徒!)が、転入したばかりの中学に父の遺品である聖書を持ち込み罰せられるシーンからして実際にありそうなことだし、市役所の敷地内に大きなクリスマスツリーを建てることが禁止されたり、市スポンサーのミッションから十字架が取り除かれたり、市主催のクリスマス祭りが冬祭りと改名されたりなど、すべて実際のアメリカ全国各地で起きている現状なのである。

映画の中で私がもっとも気に入ったのは、主人公ボブのクリスマスを取り戻そうキャンペーンよりも、中学で冬の学芸会にキリスト誕生のお芝居を復活させようと学校のドラマコーチの目を盗んで子供たちが陰謀を企む筋。題して「クリスマス大作戦」。この作戦の名前を考えるシーンでの子供たちの素朴な演技がほほえましい。

ドラマコーチの書いた冬のお芝居は宗教に関する言葉がすべて削除され、天使の変わりに宇宙人が出てきたりする。「清しこの夜」から宗教取り除いて何が残るんだ、と聞きたくなるが、この替え歌が笑える。また、このお芝居で歌ったり踊ったりする子供たちの演技は子供らしくてかわいい。実際に私はキリスト生誕劇中劇を全編みたいなとおもってしまったくらい。

クリスマスの映画を何でこの暑い9月に公開するのかといえば、もちろん11月の選挙を前に公開しておきたかったということだろう。そりゃそうだ、プロパガンダは世論に影響を及ぼすのが目的だからね。選挙前にやんなきゃ意味が無い。

ただ、選挙云々に限らず、亡き父をしのんで、孫息子のクリスチャンが祖父のボブに向かって尋ねるシーン、脚本を読んだわけではないので覚えている限り再現すると、、

「おじいちゃん、お父さんは何のために死んだの?」

「そりゃお前、お国のためだよ。」

「そうじゃなくて、何を守るために死んだの?」

と言う会話があった。

これはアメリカ人一人一人が尋ねる価値のある重大な質問だと思う。

September 16, 2012, 現時間 9:11 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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August 25, 2012

反オバマ映画『2016年オバマのアメリカ』が意外な反響を呼ぶ

映画 , 独裁者オバマ王の陰謀

今回は、ブログカテゴリーの映画と独裁者オバマの陰謀の両方に該当するトピックである。保守派作家のデニーシュ・デスーザ制作の反オバマ記録映画『2016年、オバマのアメリカ』が、限られた映画館で封切になったにも関わらず、金曜日の売り上げは全国一位になるという意外な人気を呼んでいる。

映画はドキュメンタリー風で、オバマやデスーザが若い頃の出来事を多少ドキュドラマ風にとらえ、母親違いの弟を含むオバマの昔の知り合いなどのインタビューとデスーザのナレーションで構成されている。オバマという政治家を批判する映画ということで、マイケル・ムーアの突撃取材映画を思わせるが、ムーアと違ってデスーザは政治学者なので、ムーアの意地の悪い嘘だらけの反保守映画と違って、論理建ててオバマを批判していて興味深い。

デスーザのオバマ論は、オバマ思想は国粋主義のファシズムでもなければヨーロッパ風の社会主義でもない。オバマの思想は反植民地主義であるというもの。そしてその根本はオバマが生き別れになったケニアの革命活動家の実父の思想にあるというのである。

映画はそのデスーザの説を裏付けるために、オバマの生い立ちを追い、オバマの実父の出身地ケニアやオバマが実母とその再婚の相手と暮らしたインドネシアに出かけて行く。

デスーザはインド出身でオバマとは同じ年。オバマ同様第三国家で育ったことから、幼少時代をインドネシアで過ごしたオバマの体験がよく理解出来ると言う。だが、インドという発展途上国の古いしきたりが嫌いでアメリカに移住したデスーザと違って、オバマは元植民地の革命精神に同調し、植民地主義を取って来たヨーロッパ諸国を忌み嫌っているという。

反植民地主義といえば、アメリカこそ、その最たるもののはずだ。アメリカは元々イギリスの植民地として作られ、イギリスから革命によって自由を勝ち取った国で、アメリカ自らは一度も植民地主義を持った事がない。だが、経済面でも軍事面でも、そして特に文化の面で、世界的に影響を及ぼす国ということでアメリカを帝国と批判する人は多い。特に少数民族の元植民地の人々はアメリカを白人の国と思い込み、イギリスやフランスと一緒くたにして憎んだりする。デスーザ自身、アメリカの大学へ行く事になった時、家族から「アメリカは白人ばっかだぞ」と脅されたと言う。

オバマは実の父に一度しか会ったことがない。にも関わらずオバマは革命家だった父の理想像を持ち続け、ずっと父に憧れていた。オバマの自叙伝の題名は「ドーリム・フロム・マイファザー」で『我が父からの夢』というもの。白人でアメリカ人の実母はバリバリの左翼革命主義者だった、そして自分と乳飲み子を捨てた夫を憎むどころか、その革命精神のすばらしさを常にバラクに教えていた。イスラム教徒のインドネシア人と再婚した母はバラクを連れてインドネシアに住むが、再婚相手が妻子を養うためにオランダ企業と契約し商売を始めたことで夫婦間に亀裂が生まれ、バラクはハワイの実家に戻され白人でバリバリ左翼の祖父母に育てられる。革命主義の実母は再婚相手が資本主義になったことが許せなかったのだ。

デスーザはオバマの青年時代に多いに影響を及ぼした革命家や、反アメリカ黒人牧師のジェラマイヤー・ライトなどについても述べ,いかにバラク・オバマが第三国家の虐げる帝国としてアメリカの自由主義を憎んでいるかを証明する。

私はこれまでにもオバマほどアメリカ嫌いのアメリカ大統領は初めてだと思っていたが、デスーザの映画を観ていて、なるほどそういうわけだったのか、と納得がいった。

デスーザは2008年のアメリカはバラク・オバマがどういう男か知らずに希望と変革という言葉に夢を託してオバマを選んでしまった。だが、今やアメリカはオバマの政策によってどれだけアメリカが傷ついたかを学んだはずだという。

オバマが再選されたら2016年にはどんなひどいことになっているか、アメリカ市民は今度の選挙で正しい選択をするだろうか?

デスーザの映画はその問いかけで幕を閉じる。

August 25, 2012, 現時間 10:38 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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June 17, 2012

気張り過ぎ、きれいだけど中身が薄いスノーホワイト

映画

もう一つの「白雪姫」は「スノーホワイトアンドザハンツマン」(白雪姫と漁師の意、邦題はスノーホワイト)公式サイトはこちら

シネマトゥデイの紹介から、

世界中で愛されているグリム童話「白雪姫」を大胆にアレンジした、白雪姫と女王が死闘を繰り広げるアドベンチャー。戦術とサバイバル術を身に付けた白雪姫ことスノーホワイトには『トワイライト』シリーズのクリステン・スチュワートがふんし、『モンスター』のシャーリーズ・セロン、『マイティ・ソー』のクリス・ヘムズワースが共演。メガホンを取るのはCMディレクター出身のルパート・サンダーズ。オリジナリティーを加えたストーリーはもちろん、白雪姫の斬新なイメージを演出するスタイリッシュな映像やファッションも要チェックだ。

実際にこの説明通りの映画だったらかなり面白いものになったと思うのだが、「スタイリッシュな映像やファッション」という以外にはあんまり観るところがないと言うのが正直な感想。シネマトグラフィーは最高だし、豪快なシーンも多く、確かにみかけは美しい。登場人物の演出も演技も格好よくクールである。だが、あまりにもクールに見せようするのが先走って、人格や人間関係の形成が不十分である。

前記のミラーミラーと同様、主役はどちらかというと白雪姫演じるスチュワートより、王妃のシャリーズ・セロンのほうで、こっちのほうが断然得な役だ。しかし、セロンの美貌は申し分ないが、彼女の演じる役柄自体にはかなり問題がある。

先ず王妃が魔女であるという設定がはっきりしない。子供の頃何かのいきさつで魔女になったらしいという回想シーンが映画のところどころで出て来るが、はっきり言って王妃は最初から魔女だとして、過去のことなど見せない方がややこしくなくてよかったと思う。彼女の過去はあまり映画の主題とは関係ないからだ。

また、王妃の魔女としての力があやふやである。王妃が変装と毒使いの名人であることは童話でも描かれているが、セロン王妃は何百羽のカラスに化けて空を飛んだり、遠距離に居る人間に魔法をかけたり、ガラスの兵士らを操ったり、若い乙女の生気を吸って若さを保ったりと、あまりにも色々で出来過ぎる。また、ナイフで刺されても死なない不死身でもある。

それはそれでいいが、だとしたらいったい白雪姫はどうすれば王妃を倒すことが出来るのか、そのへんの説明が必要だ。明らかに普通のやり方では王妃を殺すことは出来ないのだから。

私が非常にまどろっこしく思ったのは猟師と白雪姫との関係だ。原作では漁師は王妃から姫を殺せと命じられる。そしてその証拠として姫の心臓を持ち帰れと。だが土壇場で姫の可憐な姿を哀れに思った猟師は姫を逃がしてイノシシの心臓を持って帰る。

予告編を見る限りでは、この映画の猟師(クリス・ヘムスワース、Chris Hemsworth)は単に白雪姫を哀れと思うだけでなく、その美しさに打たれて姫に恋をするという印象を持つ。しかし、ヘムスワースの猟師は特に白雪姫の美しさに圧倒された風でもない。王妃のやり方が気に入らずに姫の味方として寝返るまではいいが、命がけで白雪姫を救おうとしたり、ましてや姫に恋心まで持つようになるという動機や過程がはっきり描かれていない。白雪姫は確かに美しいが、それ以外には猟師に恋心を抱かせるような特別な魅力を感じさせないからだ。

スノーホワイトの白雪姫は王妃によって塔の牢獄に何年も幽閉されている。牢獄は汚く、姫はぼろを着て大したものも食べさせてもらえていない印象を受ける。そのお姫様が、王妃の弟フィン(Sam Spruell)の隙を付いて逃亡し、追っ手の手を逃れて下水道に滑り込み、崖っぷちから海に飛び込んで逃げきるなど、プロのスタントマンでも出来そうもないことを十年近くも牢獄で幽閉されていた小娘がやってのけるのは不自然。

これが、王亡き後、王妃に無視されていることをいいことに、姫が森で女の子らしからぬ運動神経を見せて飛び回っている姿などを見せていれば、いざという時に姫が軽業師よろしく王妃の手からすり抜けるというのも納得がいくのだが、そういう下敷きがされていないので姫の運動神経は不自然である。

王妃の手を逃れて森に逃げ込んだ後、白雪姫は姫の刺客からボディガードへと寝返った猟師とともに隣国で亡き王の残党を集めている前国王の重臣バース(Ian McShane)の元へむかう。その途中に女性ばかりの村を訪れたり小人達と出会ったりする。

だが、この旅の部分は無駄が多い割には、必要な話の展開が不足している。

この旅の間で必要なのは、猟師と白雪姫の間になんらかの感情が生まれること、白雪姫が森でのサバイバル術や格闘技などをまなぶこと、そして小人達との友情を育む事、である。

私は予告編を観た時に、白雪姫が猟師に連れられて森に逃げた後、小人たちに救われ小人達から数年に渡って牛若丸さながら戦術を学んだ後、いざと言う時は兵を上げようと待ち構えていた前国王の残党たちと合流して時期を計って王妃に反旗を翻すようになる、という展開を期待していた。

だが、そうしたことは一切おきず、意味も無くやたらに怪物が現れたりキリスト教の象徴の白い鹿が現れたり妖精が飛び回ったりして時間を無駄にし、それがストーリー展開に全く結びついていない。

途中で再会する幼なじみのウィリアム(サム・クラフリン)との関係も今ひとつはっきりしないし、亡き王の残党が何故小娘の白雪姫に従がって不死身の女王と闘う気になれるのか、白雪姫の演説だけでは全く説得力がない。

ここでもし、隣国でバースと合流した白雪姫が戦略師としての才能を見せ、次々に小さな戦闘に勝ち抜き、遂に王妃の国に攻め入るというくらいのことをしてくれれば、何故軍隊が白雪姫に従う気持ちになれるのか納得がいく。

白雪姫の指導力は別に武術でなくてもいい。いや、かえって武術などではなく、なにか魔法のような力で、不死身の王妃も白雪姫のその力でのみ倒す事が可能である、といった設定があると面白い。

だが、これらのことでストーリー展開が面白くなったとしても、この映画には一番重要なものが抜けている。

白雪姫の童話で一番大切なのは、毒リンゴを食べて昏睡状態に陥った姫を王子様の愛情を混めたキッスが救うというもの。それがなければ白雪姫とは言えないのだ。

だが、スノーホワイトではその肝心な王子様の存在がない。

ミスター苺いわく、何百年にも渡って生き残って来た童話にはそれなりの力強さがある。それをドラマチックに書き直そうとすることに自体に無理があるのだと。『そんなことをせずにオリジナルの映画を作ればいいじゃないか、、』

ミスター苺、それをいっちゃあおしまいよ。

June 17, 2012, 現時間 1:28 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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SFの魅力たっぷり、シリーズ最高の出来。メンインブラック3

映画

久しぶりにスカっとする映画を観た。今日の映画はシリーズ第三弾目のメンインブラック3

シリーズの第一話は結構アイディアが斬新で面白いと思ったが、二話目はあまり記憶にない。別に好きでも嫌いでもなかった覚えがある。しかしこの第三話目はこれまでで最高に面白いストーリー展開になっている。特にSFファンには非常に楽しめる魅力ある作品だ。

あらすじ:話はトミーリー・ジョーンズ扮するエージェントKが40年前に逮捕してずっと月の刑務所で臭いメシを食っていたボリス・ザ・アニマル(Jemaine Clement)が刑務所を脱走するところからはじまる。ボリスはタイムマシンを使って40年前にもどり、逮捕される前にエージェントKを殺そうと企む。アニマルが脱走したと聞いて何時になく動揺するKを見て、ウィル・スミス扮するKのパートナー、エージェントジェイは、口の固いKから事情を引き出そうとするのだがまるでだめ。

その晩Kが真夜中にジェイに電話をしてくる。何か言いたそうなのに口ごもるKに、苛立ったジェイは電話を切ってしまう。ところが翌日出勤したオフィスにはKの存在がまるでない。Kの存在を主張する現所長のエージェントO(エマ・トンプソン)は、Kは40年前に殉職していると語った上で、会った事がないはずのKを覚えているジェイは、もしや時空間にはまっているのではないかと説明する。Kをもとの次元に連れ戻すためにはジェイ自らが時間を溯ってKがボリスに殺される前にKの命を救う必要があるのだ。

これが話の設定で、映画の大半はジェイが溯った1960年代のアメリカが舞台になる。若い頃のKを演じるのはジョッシュ・ブローリン(Josh Brolin)。正直言ってトミーリー・ジョーンズの若い頃よりずっとハンサム。しかしジョーンズのエージェントKの訛りや癖がそっくりそのままのブローリンのKに会ったジェイが、ブローリンがすぐに若い頃のKだと気がつくのは納得がいく。

ただ、若いKは老人のKより表情も豊で笑顔も見せる。特に好きな女性、若いエージェントO(アリス・イブ)の話をする時なんかはハナの下を伸ばしてデレデレである。そんなKを観て「まったく何があったんだよ。」と首をかしげるジェイ。

タイムとラベルをして現れたという人間を過去の人間が信じるためにはそれなりの心構えが必要だが、KはもともとMIBの人間。普通の人間が信じられないような宇宙人の存在を知っているし、1960年代の地球の技術では考えられないような高技術を常に使って仕事をしている。だから厳重機密のはずのMIBのことを熟知しているジェイが未来から来たと言えば、それほど信じ難い話でもない。

この話は1980年代に大人気を得たやはりタイムとラベルを扱ったバックトゥーザフューチャーシリーズを思わせ、非常によく出来たSF映画だ。

冒頭のシーンに現れるトミーリー・ジョーンズはかなり年老いて見え、現場のエージェントをやるにはちょっと無理があるように見えたので、時代を溯って若いエージェントKが現れるという設定はうまいなと感じた。特にブローリンの演技がいいので違和感がない。

是非おすすめである。

June 17, 2012, 現時間 12:40 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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June 16, 2012

ふたつの白雪姫、バリウッド対ハリウッド、まずは「白雪姫と鏡の女王」から

映画

最近続けてグリム童話の「白雪姫」を原作とする映画の公開があったので、カカシも早速観て来た。ふたつの映画はターセム・シン監督のミラーミラー(邦題:白雪姫と鏡の女王)とルパート・サンダース監督のスノーホワイトアンドザハンツマン(邦題:スノーホワイト)である。(何故邦題を『白雪姫と猟師』としないのか不思議)

日本ではスノーホワイトの方はふき替え版などもあって、もうすでに公開になっているが、何故かミラーミラーのほうは9月公開になるらしい。

何故同じ時期に同じ題材の映画が続けて制作されたのかは解らないが、同じ題材を使ったにも関わらず捉え方はまるで違う。ただ双方とも白雪姫より意地悪継母の王妃の方が得役になっていて、特にミラーミラーのほうのジュリア・ロバーツの演技はさすがである。

ストーリーはどちらも原作の筋に沿っている。白雪姫の父親の王が二度目の妻を娶った時から何かが起きる。父親は死ぬか姿を消すかして数年後の今は継母である父の後妻が女王として国を仕切っているが、魔女である継母の魔力によって国全体が黒く枯れた状態になっている。

シン監督のミラーミラーは最初からコメディタッチで描かれており、確かにロバーツの王妃は魔法使いではあるのだが、国が貧乏で破産状態なのは特に彼女の魔力のせいではなく、単に彼女の贅沢三昧な無駄使いが原因。しかも特に経済立て直しの政策も立てず、単に足りない分はすでに理不尽な税金で飢えている庶民からさらに税金を取り立てるしか脳がない、まるでオバマ王みたいな王妃である。

ロバーツ王妃は日がな夜がな自分の美しさを磨くことと贅沢三昧な暮らしをすることにしか興味がなく、しょっちゅう鏡の前に立って「鏡よ、鏡よ、この国で誰が一番美しい?」とやっているわけ。王妃が偶然現れた隣国の王子アーミー・ハマーと結婚しようと必死に美容に励むシーンは笑える。猟師役を演じたブロードウェイ役者、ネイソン・レーンとの絡みもおもしろい。

さて、この鏡とのやり取りなのだが、ロバーツ王妃の鏡に写るのは王妃の分身で、ディズニー映画の低く深い男性の声とは大違い。鏡とのやり取りも、割と普通の女性が鏡を観ながら「あらやだ、私、皺が増えたかしら、、あら、これシミかしら、、」とやってるのとおんなじ感じで、それに答える鏡の分身が結構意地悪で面白い。

白雪姫を演じるリリー・コリンズは愛らしく、いかにも白雪姫という感じがする。ミラーミラーは白雪姫が猟師(ネーサン・レーン)によって森に置き去りにされるところまでは原作にかなり忠実だ。しかしリリー姫が森の小人達に会うところから、ストーリーはグリム童話からはなれていく。

童話の方では、白雪姫が小人達の家に住むようになり家事などをして小人達と家族のようになるが、映画の方では小人達から武術を教わる弟子となる。このへんの訓練は昔のカンフー映画を思わせるが、訓練を通じて姫と小人達の交流が深まり、原作同様姫と小人達の間には深い友情が生まれて行く。これはディズニー映画で姫が歌いながら動物たちも一緒に「さあ仕事だよ」といって掃除したりするシーンと同様ほほえましい。

小人達に鍛えられたリリー姫は、最初に森に現れた頃のように単に可憐で世間知らずのお姫様ではない。姫がまだ生きていることを知った王妃からの攻撃にも、ハンサムなプリンスチャーミングを待っているほどか弱くもない。

ところでアーミー・ハマー演じる王子様だが、原作では老女に化けた王妃からもらった毒リンゴを食べた白雪姫を救うことになっているが、アーミー王子は顔はいいけどかなりのドジ。最初に登場する場面でもお付きと一緒に盗賊に襲われ身ぐるみはがれてステテコ姿で木からつるされてしまう。ロバーツ王妃の魔法にかかって犬みたいにそこいら中を嗅ぎ回ったり、リリー姫を救おうと閉ざされた扉に体当たりするのはいいが、扉が重過ぎて全然開かずにふーふーいったりするシーンなど、全然恰好よくない。

一番笑ったのは、最後のシーンでリリー姫がバリウッド映画さながらに全く場違いな歌を歌いだし、完全にバリウッドミュージカル風に回りのひとたちと踊るシーン。な、なんなんだ、これは、と思ったら何の事はない。監督がバリウッド出身のインド人監督だった。

床に転げ落ちて笑うような喜劇ではないが、全体的にほんわかした気分になる映画。日曜日の午後に家族連れで行くにはよいのではないかな。

June 16, 2012, 現時間 10:20 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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February 17, 2012

勇敢な海軍シールチームを描いた「アクト・オブ・ベイラー」

対テロ戦争 , 映画

Act of Valorという久しぶりにスカっとする映画をみた。ミスター苺がオンラインで見つけた試写会。シールチームを描いた映画だとは聞いていたが、どうせまたイスラムテロリストと闘うという設定で出動した米兵が、現地で金を盗むとか、地元婦女子に暴行を加えるとか、無実の市民を無差別に虐殺するとかいう話なんじゃないのか、とあまり乗り気になれずに観に行ったのだが、中身はまさにその逆、アメリカ兵が完全に善い側にまわった、勧善懲悪の映画だった。

試写会だったからなのかもしれないが、映画の冒頭で製作者のマイク・マッコイ(Mike McCoy)とスコット・ワーフ(Scott Waugh)による挨拶が入っていた。そこで二人は、主役のシールチームは役者ではなく現役のシールチームメンバーなのだと説明している。

かなり細かくシールチームの活動を描写しているので、素人の俳優にシール的な動きを教えるより、本物のシールに演技を教えた方が効果があるということだろう。 話は実際の話を元にしたとはいっても、登場人物や状況は架空のもの。しかし本物のチームを使っているので、チームメンバーの名前とランクはそのまま。本名が使われているせいなのか、IMDbのキャストには名前が乗っていない。

演技は度素人のはずなのに、シールチームメンバーたちの演技は説得力がある。もっともミスター苺いわく、軍人はどのような状況でも感情的にならずに冷静に状況判断をするように訓練されているし、そういう人でなければエリート中のエリートであるシールになどなれないわけだから、感情的な演技は要求されない。任務を与えられた時に「何か質問は?」と聞かれて、「任務にかけられる時間はどのくらいなのか、」「脱出が巧く行かない場合、どこでランデブーしたらいいか」とかいった任務上の質問は、常に自分らの仕事のうえで交わされている会話だからそれほど難しいこともないだろう。

あらすじは非常に簡単。誘拐されたCIA工作員モラレス(ロザリン・サンチェズ)を救うべくシールチームは救出の任務を課される。モラレスはボランティアの医者として現地に潜入し、密輸麻薬組織を調べていたが、相棒の工作員と連絡中に相棒を殺され自分は誘拐されてしまったのだ。最初は単なる麻薬密輸組織に捉えられた工作員の救出という任務に見えたが、探って行くうちに、フィリピンやアフリカのイスラム聖戦テロリスト(ジェイソン・コテル)や、ロシアマフィア(Alex Veadov)などの関係も明らかになり、シールチームの任務はどんどん拡大していく。

私はシールチームの訓練のドキュメンタリーや、アフガニスタンで一人生き残ったシールの体験談なども読んでいるから、ある程度シールの行動は理解しているように思っていたが、この映画を観ていて、シール達と彼らを上部から後方から援助する部隊の技術やテクノロジーなど、まざまざと見せつけられて完全に圧倒された。

監督たちの話だと、戦闘場面では実弾を使ったり、シール達が潜水艦に乗り込むシーンなどは、本物の潜水艦と経度緯度の位地と時間を待ち合わせて、たった4時間のウィンドーで撮影し、撮影が終わると潜水艦はどこへともなく消えてしまった。監督達は、観客がその場でシールの立場になって映画を体験してもらいたいと語っていたが、その目的は完全に果たせていると思う。

最初の方でシール達が飛行機からパラシュートで飛び降りて行くシーンは、ハイラインのスターシップトゥルーパーのドロッブのシーンを思わせる。ここで実際にパラシュートで降りたチームはリープフロッグというシールのスカイダイビングチーム。夜の空にまるで忍者みたいに音もなく降りて行くシール達の姿はすごく不気味だ。

シール達の任務は悪者が厳重に武装している要塞のようなアジトへ潜り込んで行くことが多い。ここでもシール達は忍者よろしく緑のカモフラージュやシダなどで身体を覆い、沼のなかからにょきっと顔をだす。プレデターでもこんなシーンがあったが、本物と俳優ではこうも違うのかと改めて監督達が本物シールを使った理由が理解できた。

メキシコのドラッグカーテルのアジトでの撃ち合いでは、狭い建物のあちこちに悪い奴らが隠れて待ち構えている。建物のなかにはギャング達の家族も一緒に住んでいる。扉を蹴破って入って行くと寝巻き姿の中年の女が悲鳴をあげていたりする。だが、寝巻き姿のオバンだから安心なのかといえばそんなことはない。オバンだって自動小銃を撃つ事は出来るのだ。とっさの判断でこの女を見逃すのか殺すのか決めなければならない、間違えればこちらが命を落とすことになるのだ。

イラクやアフガニスタンの戦闘で、「一般市民」が殺される度に、米兵は無差別に無実の市民を虐殺していると大騒ぎしていたメディアや批評家たちにこの映画を是非見てもらいたい。一瞬の判断で死ぬか生きるかという戦いをしているシール達が、どれほど超人的な判断力で無用な殺傷をしないように気をつけているか、よくよく考えてもらいたい。自分たちがそんな立場に置かれて、全く間違いを犯さないと誰が言える? これだけ危険な場所で命がけの仕事をしている兵士らに対し、戦闘中の起きた悲劇をとりあげて、まるで彼らを犯罪者のように扱った連中は戦場の厳しさなど全く理解できていないのだ。

こういう映画がイラク・アフガニスタン戦争中にもっと多く作られていたなら、二つの戦争はもっと多くの国民の支持を得ることが出来ていただろう。

だが、大手映画スタジオはこういう映画には興味がない。CGIだらけの意味のないアクション映画ばかり作っていて、戦争映画といえば必ずアメリカ軍が悪い方に回り、イスラムテロリストが良いほうか犠牲者という設定ばかりだ。それで何故イラク・アフガン戦争をテーマにした映画の業績が上がらないのか首をひねってる馬鹿さ加減。

この映画がボックスオフィスでも大成功を収めることを祈る。

February 17, 2012, 現時間 9:14 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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April 29, 2011

不気味に現在の社会と重なる映画『肩をすくめるアトラス』

映画

リバタリアンのカリスマ、ロシア出身のアイン・ランド原作のAtlas Shrugged (『アトラス、肩をすくめる』の意。)が映画化され公開された。

アイン・ランドは共産圏のロシアからアメリカに亡命して作家となった女性で、利己主義の美徳を説いた人だ。彼女の伝記はヘレン・ミレン主演でアイン・ランドの情熱というテレビ映画にもなっているので、「アトラス、、、」と二本立てで観るのも悪くない。

原作は一種のSF小説なのだが、ジョージ・オーウェルの「アニマルファーム」や「1984」と同じように、社会主義の恐ろしさを描いた小説だ。読者がリバタリアン系保守派なら一読の価値ある小説だが、いかんせん長いので、アイン・ランドが誰か彼女の思想はどのようなものなのか、全く知らない人はこの映画から入って行くのも悪くない。小説の精神を誠実に保った非常に素直な映画だ。

原作が書かれたのは1957年なので、アメリカの主流な交通機関が鉄道という設定は現在のアメリカ社会を舞台にするには無理があるのではないかと思ったのだが、アラブ諸国での紛争で原油の値段が暴騰し飛行機や自家用車での移動や輸送が不可能になったという説明があり、「うまい」と思わずうなってしまった。この映画の撮影中にはまだエジプトやリビアの紛争が起きていなかったはずだが、この映画がSFとして設定した未来像が実際にそのまま起きていることは非常に不気味だ。

しかも、冒頭でテレビの政治討論番組で実業家と政治家が言い争いをするなか、実業家が「アメリカにはいくらも資源があるのに、国が発掘を拒んでいる」と政府の方針に文句をいうあたりなど、まさに去年の原油漏れ以来海洋原油発掘を事実上差し止めにしているオバマ王や、アラスカのアンワーの原油発掘を自然保護を理由にかたくなに拒む民主党議員達の政策をそのまま批判しているかのようだ。

もっともアイン・ランドの原作は、誰が何時の時代に読んでも、私にもそんな経験があると思わせる部分がいくつも出てくる。特に左翼リベラルとしょっちゅうやりあってる人間なら、小説のところどころで主人公に浴びせられる批判は、そっくりそのままの語彙で浴びせられた経験があるはずで、作家は私の人生を何故知っているのかと不思議に思う場面が数々ある。

映画の設定は2016年という近い未来。世界はアラブ諸国の原油生産国での紛争がもとで資源不足。交通や輸送手段は鉄道が主な手段として残っているだけ。政府の社会主義的な悪政策のせいでアメリカの中小企業は大打撃を得ており、社会は非常な不景気で1930年代の大恐慌のような失業率は25%以上。

日に日に政府による産業への官制が厳しくなっていくなか、父親から受け継いだ鉄道会社タガートトランスコンティネンタルの副社長として、なんとか会社を保もっていこうとしているのが主人公のダグニー・タガート(Taylor Schilling)。長男として社長の座を引き継いだ弟のジェームス(Matthew Marsden)は社長とは肩書きだけの理想家。ジェームスは政治家に取り入るしか能がないビジネスの才能はゼロの男。実際の経営にたずさわっているのは姉のダグニーで、彼女がいなければ、とっくの昔に倒産していただろう会社経営だが、利益のためなら容赦なく無駄を切り捨てるダグニーの経営姿勢に対して「姉さんは冷酷だ、他人の気持ちなど一度も考えたことがないんだろう」とことあるごとに批判的な態度をとるジェームス・タガート。

100年も修復されていない線路を長距離に渡って新しくし、新幹線のような高速列車を通そうと野心を燃やすダグニーは、最新の鉄を生産しているリアドンメタル製鉄会社の社長ヘンリー(ハンク)・リアドン(Grant Bowler)と契約を結ぶ。

リアドンはこの不況時において非常な成功を収めている数少ない実業家であるが、その家庭には恵まれていない。30も過ぎて仕事もせずに兄の脛かじりの実弟フィリップ(Grant Bowler)はリアドンから自分が支持する左翼団体への10万ドルという寄付金をせびりとっておきながら、大企業主からの寄付金だとわかると左翼団体として恥かしいので小切手ではなく銀行へ直接振り込んで欲しいなどという。実母(Christina Pickles)も妻のリリアン(Rebecca Wisocky)もリアドンの経済力のおかげで贅沢な暮らしをさせてもらっているにもかかわらず、金儲けのために働く実業家としてのリアドンに対し軽蔑心を隠す事が出来ない。

特に妻のリリアンは冷たい美女で、豪華なドレスや高価な宝石を身にまとい高級社会の妻としての世間体にしか興味がなく、そんな生活を可能にしているハンクへの愛情などひとかけらも感じていない。ハンクは妻と寝室も別々で、時折性行為のためだけに妻の寝室を訪問する以外には、二人の間に精神的なつながりは全くない。

そんなハンクが自分と同じように事業に情熱をそそぐダグニーと出会い、二人の仲が急速に進展するのは当然のこと。だが、二人が力を合わせて高速列車を走らせようとする間にも、二人を取り囲む世界はファシズムへの道を猛烈な勢いで進んで行く。

政府が次々に提案する法律は、労働者を守るとか平等や公平を保つためという名目のもとに通されるが、実際には才能と実力のある企業を競争相手の企業や政府が結託して気に入らない企業をつぶしたり食い物にするのが目的な理不尽な法律ばかり。

映画はディストピアを描いた架空小説ではあるが、そのなかに出てくる逸話は現代社会と不気味に重なる部分がある。

労働組合が企業を乗っ取り、組合が経営者に給料を能力別ではなく必要に応じて金額を決めるやり方を強制してつぶれてしまった企業などは、労働組合に食い物にされて労働組合のオバマ政府に乗っ取られたジェネラルモーターズを思い出させるし、企業が勝手に本社を移転しないように規制する法律は、ワシントン州のシアトル市にあるボーイング社が労働組合の力から逃れるために他州に移転しようとしてオバマ政権の労働省からクレームがついた例などを思い出させる。

能力と実行力のある人々が支えて来た社会を、何の能力もなく自分では何も生産しない腐敗した政治家や理想主義の社会主義者たちがどんどん蝕んで行く。そんななかで、ダグニーの回りでは才能ある人々が次々に姿を消して行く。それぞれに「ジョン・ガルトって誰だ?」という不思議な言葉を残して。

この映画は三部作の第一作なのだそうだ。すでに三部まで制作が済んでいるのかどうか解らないが、こんな反社会主義映画が政策されたということ自体奇跡に近い。無論ハリウッドでは非難囂々。公開している映画館の数も限られているし、宣伝も派手にはされていない。

だが、保守派ブロガーやトークラジオなどの紹介で、結構地味な人気が出て来ているようだ。2012年の選挙を前に、オバマ王や民主党が幅を利かせると社会がどういうことになるかを知ってもらうためにも、アイン・ランドなど聞いたこともないという普通の人に観てもらいたい映画だ。

April 29, 2011, 現時間 12:15 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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November 12, 2010

失って初めてわかる真実の愛、泣かせますシュレック4

映画

真実の愛、それはそのまっただ中にいると気がつかないことがある。本当の幸せと言うのは、「あ〜ぼかあ〜しやわせだな〜」と実感することよりも、後になってみて「ああ、今思うとあの頃は幸せだったんだな。」ということのほうが多いのかもしれない。

本日はシリーズ四段目で最終回のシュレック4についてお話したい。日本での公開は2010年12月18日だそうだ。

シュレックも子持ち男になって早くも一年。子育てに忙しい毎日。妻のフィオナとロマンティックな時間を過ごしたくても、ロバや長靴を履いた猫が朝早くから夜遅くまで毎日のように訪れてはどんちゃん騒ぎ。こっちの迷惑などまるで念頭にない。観光客を乗せたバスがシュレックの家を観に定期的に訪れるから、ゆっくり泥風呂にもはいってられない。

そんなある日、子供たちの誕生会で村人の子供から雄叫びのリクエストを受けたシュレックはついに堪忍袋の緒がきれてしまう。子供の誕生日を台無しにして、愛妻フィオナとも大げんか。

フィオナからお説教をうけてむしゃくしゃしながらパーティ会場を後にしたシュレックは思う。ああ、昔は自分は恐れられていたものだがなあ、町に繰り出せば人々は恐れおののいて逃げ惑った物だ。あの頃はよかったよなあ。一日でいいからあの頃に戻りたいなあ。

そんなシュレックの前にランプルスティルトスキン(Rumplestiltskin)という小悪魔が現れる。スティルトスキンは、シュレックの望む一日をあげるから、交換にシュレックの過去の一日をくれないかと提案。「いいさ、過去の一日くらい、好きな日を選んでもってけよ。」と気軽に契約書に署名してしまうシュレック。

だが、シュレックが望んだ、オーガが人々に恐れられる世界とは、シュレックが存在していた世界とは根本的にどこか違う。ロバとも猫とも出会っていない、ましてやフィオナと恋に落ちた事実もない。なぜならシュレックが望んだ一日と引き換えにした過去の一日とは、シュレックの生まれた日だったからである。シュレックが生まれなかった世界での一日。日没までにまだ出会ってもいないフィオナの真実を愛を得られければ、シュレックの存在は永遠に消滅してしまう。どうするシュレック、時間がないぞ。

結婚してしばらくたった誰でもそうかもしれないが、シュレックもまた、妻フィオナの愛情を当たり前のように感じ始めていた。日々の忙しさにかまけて、子育ての大変さにめげて、大事なものを見失っていた。それを小悪魔の策略で失ってみて初めて自分の持っていたものの価値を知る。

この映画は、シュレックがシュレックのことを知らないフィオナとキスを交わせばそれで済むというような単純な内容ではない。実際にフィオナがシュレックを愛さなければ小悪魔の魔法は解けないのだ。

新しい次元の世界で出会ったフィオナは、閉じ込められていた塔からシュレックに救われたか弱い御姫様ではない。なにしろシュレックが存在しない世界だからフィオナはシュレックに救われるというわけにはいかない。待って待って誰も助けに来てくれなかったという過去のある彼女のもとに、とつぜんシュレックが現れて、「我こそがそなたの真の愛じゃ」てなことをいってもビンタを食らうのが関の山。たった一日でフィオナの愛を射止めるなんてそう簡単にはいかない。

話の設定は、クリスマスの時期によくテレビで放映される昔の映画、ジミー・スチュワート主演の「イッツ ア ワンダフルライフ (すばらしき人生)」と同じ。もしも自分がこの世に存在していなかったら、自分の回りの世界はどう変わっていたか、というアルターネートヒストリーのSF物語といったところだ。

いつもながら、おとぎ話のキャラクターをうまく起用しているところは傑作。

ロバとシュレックの掛け合いは飽きがこない。第一作の時はエディー・マーフィーのロバは煩く感じたが、回を追うごとにキャラクターに味が出て来た感じがする。アントニオ・バンデラスの猫も、今回はちょっと中年太り過ぎのせいか、いつもの潤う目もちょっと効果が薄いよう。ランプルスティルトスキンの手下の魔女たちは、明らかにオズの魔法使いの魔女で水は天敵。最後のほうはエロル・フリンのロビンフッドを思わせる。

妻の愛、大切な子供達、そして友情。失ってみて初めて解るその大切さ。シュレックはアニメとは思えないほど奥が深い。そのほのぼのさに思わず泣いてしまった。

自分の生活がマンネリ化してる人に希望を与える心温まる映画だ。是非おすすめ。

November 12, 2010, 現時間 1:11 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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October 13, 2010

左翼プロパガンダと解っていても楽しんでしまった「マイレージ、マイライフ」

映画

今日の映画、マイレージ・マイライフ(英語題名はUp in the air)が日本で公開されたのは今年の三月(アメリカ公開は去年の11月)。アカデミー最優秀映画賞の候補にも上がったほどで、内容はかなり上出来だと思う。

どうして一年も前に公開済みの映画を今頃観たのかというと、出張ばかりしている同僚が最近出張先のホテルのテレビで観て、いやに気に入ったらしく、私も興味があるのではと勧めてくれたからだ。

主人公のライアン・ギンガム(ジョージ・クルーニー)の仕事は、リストラ中の企業に出向いて行っては自社の従業員を自ら解雇する根性のない重役らに替わって解雇して回ることだ。ライアンはその時だけで後は個人的なつながりを全く持たないこの仕事が気に入っている。

ファーストクラスで飛び回り、一年のうち322日間出張していることや、手荷物だけでする手軽な荷造りの技術にも誇りを持っている。フリークエントトラベラー(頻繁に旅をする人)だから航空会社でもレンタルカー会社でもホテルでもVIP扱い。どこへ行っても列に並んだりせずVIPカードを見せてほぼ素通り。

結婚したこともないし、女性関係はカジュアルで満足。両親はとっくに他界し、結婚間近に控えた妹や男性関係に恵まれない姉とも、ほとんど付き合いはない。人間関係といったら、しょっちゅう使ってるアメリカン航空のチェックイン係りの女性に「おかえりなさい、ギンガムさん」と言ってもらうことくらい。

そんなライアンの生活に二つの変化が起きる。ひとつは魅力的なキャリアウーマン、アレックス(ヴェラ・ファーミガ)との出会い。もうひとつはライアンの会社が新しく採用したインターネットでの解雇方式を提案する有能な新入社員ナタリー(アナ・ケンドリック)の指導を命令されたことだ。

ライアンが自分の能率的な仕事の仕方や生活習慣を、片手間で行ってるレクチャーで説明したり、すばやくセキュリティーチェックを通るための方法を新人のナタリーに教授したりする場面はユーモアたっぷりで楽しめる。フリークエントフライヤーのカカシとしては「なるほど~。」と勉強になる部分も多くあった。

だが、私が一番気に入ったのはホテルのバーでアレックスと出会う場面だ。

バーのカウンターでアレックスが何かのVIPカードを弄んでいる。ライアンがそのカードではどこどこの店では使えないとか、どういう得点があるとかないとか言う話を始めると、自分と同じように色々なメンバーシップカードを持ってるライアンに興味を示すアレックス。

即座に二人はテーブルを挟んでお互いのVIPカードをトランプのように出してその格を競い合う。ライアンのマイレージ数にすっかり魅了されるアレックス。お酒の入った勢いもあるが、マイレージの話で完全に意気投合していく二人の姿はその後に続くベッドシーンよりもずっと色気がある。(ここまで読んでベッドシーンがあると期待した読者は、その淡白な描写に失望するはず。)

一夜を共にした二人は、次回の再開場所をお互いの忙しいスケジュールにあわせてノートパソコンではじき出す。

私がこのへんのくだりを気に入ったわけは、私自身が同僚たちとVIPレベルを比べてカードを見せ合った経験があるし、同じ仕事をしてるのに本社で会う機会などほとんどない同僚たちと示し合わせて飛行機の待ち時間を利用して出先の空港で会ったなんてこともあるからで、同じフリークエントトラベラーとして共感できる点が非常に多くあるからだろう。

しかし、ここまで観ていて、この映画がこれまで個人的な人間関係を持てなかったライアンがアレックスとの出会いによって人との交流の大切さを学ぶロマンティックコメディーだと思ったら大間違い。この映画の本筋はもっと腹黒い反資本主義思想が根底にある。

先ず第一に、ライアンの勤める会社が繁盛するということは、アメリカの景気が不況であちこちで企業がリストラをせざる終えなくなっている状況が背景にある。しかも、企業は景気のいいときはさんざん従業員を利用しておきながら、ちょっと経営不振になると個人感情などおかまいなしに利用価値のなくなった部品を捨てるかのように社員を簡単に解雇する。

この映画のしたたかなところは、企業をあからさまに悪者として責めないところだ。にくったらしく葉巻を吸うような脂ぎった中年男が重役として出てくるわけでもなければ、私腹を肥やす重役のために、まじめな下っ端社員が解雇されるなどというシーンは全く見せない。いや、それどころかこの映画では企業の姿はほとんど描かれない。リストラを決意した重役や、長年勤めた従業員の解雇を外注する人々の冷酷な姿も見せない。だからこそ、この映画に現れる企業はなにかしら不気味で冷酷な物体としてのイメージしかわかない。

映画でライアンに解雇される従業員の一部は俳優ではなく、実際に最近解雇された一般人を起用している。

「30年もまじめに勤めた見返りがこういう仕打ちなんですか?」
「住宅ローンも組んだばっかりなのに、いったいどうやって生活しろっていうんですか?」
「女房や子供にどういう顔みせろってんだよ!」

若い人はまだしも、50や60になって突然リストラされたら、いったいどうすればいいのか。しかも企業は何十年と働いた従業員にねぎらいの言葉をかける気遣いもない。個人的に解雇する勇気すらないで、ライアンのような刺客を雇ってリストラをする。なんて冷酷非情なやつらなんだ!

という感情を観客に生み出させることが出来ればこの映画のプロパガンダは成功したことになる。プロパガンダを承知の上で観ていたカカシですら、自ら従業員を解雇できない重役の根性を批判したくなったほどだから、この映画は非常に良く出来た左翼プロパガンダだといえる。

しかし現実を考えて見よう。

カカシもこれまでに3回ほどリストラされたことがある。そのうち二回とも私は直接の上司から解雇された。どれも会社の経営状態などを考えたら仕方ない現実だった。私がリストラを言い渡される前からすでに社内では大幅な人員削減がおこなわれていたので、私のところに話が来るのは時間の問題だった。

左翼リベラルは認めないが、企業も生き物だ。企業は決して顔のない血も涙もない冷血非道な物体ではない。企業は利益をあげることが商売だが、それが出来なくなれば損失を最小限に抑え何とか生存に勤めるのがその義務でもある。

どんな企業が好き好んでリストラなどするだろう。

確かに長年勤めてきた会社から解雇されてうれしいわけはない。若くてやり直しがいくらでも出来るというならともかく、50だの60だのになって定年間近でリストラなどされたらいまさらどうしろというのだ、という気にもなる。リストラされた当時は私も傷ついた。特に最初の企業は8年も勤めていて、昇進まで約束されていたので、突然の解雇はショックだった。だからこの映画に出てくるリストラされた従業員たちの気持ちは手にとるほど良くわかる。

だが、だからといって企業がリストラをしなかったらどうなるのだ? リストラをするということ自体、企業は経営難でうまくいっていないという証拠だ。そのまま全く経営方針を変えずに同じことを繰り返していれば、いずれは企業自体が倒産の憂き目にある。会社がつぶれれば社員全員が失業するのだ。一部の社員を解雇するだけでは収まらないのだ。

左翼連中はそういう現実を全く考慮に入れない。

すでに公開済みの映画なのでネタばれを心配する必要はないのかもしれないが、ここで私は実際の映画の終わりではなく、私自身が考えた資本主義的終わり方を披露しておきたい。以下はカカシ風結末で映画の本当の結末ではないのであしからず。

ナタリーの訓練を終え、ライアンはナタリーを本社に帰す。アレックスに会いに行った先でのライアンとアレックスのやりとりは映画のまま。

ホテルに帰ったライアンには本社から緊急なイーメールが届いている。翌日ビデオ会議に参加するようにという内容だった。

翌日ビデオ会議を開いてみると、なんとこれはインターネットによるライアンへの解雇通告だった。本社はナタリーの提案を受け入れ本格的にネット解雇に方針を切り替えることにしたため、外回りのライアンたちの職種は削除されることになったからだ。そしてネット解雇部の新しい部長は誰あろうナタリー。

次のシーン。

どこかのホテルのロビー。ライアン・ギンガムのレクチャー看板が飾ってある。その題名は「リストラ後の職探しはどうするか、あなたの未来を考える。」とかなんとかいうもの。会社を首になったライアンは解雇任務を改め、失業した人々のために本当の意味でのキャリアカウンセラーをする仕事を始めたのだ。「あなたの新しい人生は解雇されたときから始まるのです。」観客の中にはライアン自身が解雇した社員たちの顔も見られる。

最後にリストラされた人々が家族の支えでなんとか立ち直ったとかいう証言を流す代わりに、リストラのおかげで自分がそれまで惰性でつづけていた仕事を辞めることが出来、自分が本当にやりたかったキャリアを見出すことが出来た、というような証言が立て続けにされる。

カカシ自身、最初のリストラにあって始めて、それまでの仕事では自分の才能が充分に生かされていなかったことや、給料が低すぎたことを知ったし、二度目三度目のリストラのおかげで、自分の職種には未来がないことを悟り、新しく学歴を得て全く違う分野に視野を広げることが出来た。

そういうことが出来るたのも、アメリカが資本主義の国であり、七転び八起きを許容してくれる社会だからこそだ。そういうことを描写してくれたなら、この映画は満点の価値ありだろう。

無論、この映画のメッセージはその正反対。にもかかわらず、ジョージ・クルーニーのチャーミングな演技に半資本主義プロパガンダ映画にすっかり魅了されてしまったカカシであった。

October 13, 2010, 現時間 5:37 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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June 20, 2010

巣立ち行く子供を見送る寂しい親の気持ち、トーイストーリー3

映画

今日は日本では7月公開のトーイストーリー3段目のご紹介。日本語ふき替え版の予告編はこちら。

最近久しぶりに映画を立て続けにみてしまったのだが、シュレック4に始まってアイアンマン2と今度はトーイストーリー3。なんだか続編ばっかだなあ。

普通続編というのは前の話の人気におんぶしてるだけで、回が進むごとに質が下がるのが定番なのだが、この三つの映画は回を追うごとによくなってる。特にトーイストーリー3は2よりずっと中身が濃い。

本筋は割と単純。私の記憶だけで会話を再現すると、おもちゃと遊んでいたアンディも、早いものでもう17歳。明日から家を出て別の町にある大学へと向かう。勉強部屋を取り払って大人への一歩を歩き出すのだ。そこでお母さんは、「行く前に部屋の整理をしてちょうだいね、要らないものは捨てるか屋根裏部屋にしまうかしてよ。」そして「もう遊ばなくなったおもちゃは、保育園に寄付するから。」

「こんな古いおもちゃ、誰も欲しがらないよ」というアンディの本音は、まだ手放したくない子供時代の自分。一番気に入っているカウボーイの人形ウッディだけ大学行きの箱に入れて、あとは屋根裏にしまおうとおもちゃをゴミ袋に入れるアンディ。ところがお母さんはこれをゴミと間違えて外に出してしまう。

ゴミとして捨てられるくらいなら、とおもちゃたちは保育園寄付用の箱に大移動。着いた保育園で、ストロベリー色の熊のロッツオや着せ替え人形のケンドールら保育園のおもちゃたちに暖かく迎えられる。保育園ではこどもたちが毎日のように遊んでくれるよ、と言われたアンディのおもちゃたちは大喜び。アンディの妹のおもちゃだったバービーもハンサムなケンに一目惚れ。

ここは天国だ。ずっとここに居よう。おもちゃたちは、ひとりだけ別の箱にいて間違いを見届け、おもちゃたちを救うために追いかけて来たウッディの「アンディは君たちを捨てたんじゃない、間違いだよ、家に帰ろう」という声にも聞く耳もたない。「アンディは俺たちを捨てようとしたじゃないか、もう俺たちは必要とされてないんだ。」

しかし、一見パラダイスに見える保育園には、熊のラッツオが仕切る暗黒の世界があった。おもちゃたちは腹黒いラッツオとその仲間達が企む恐ろしい陰謀に嵌りつつあるのであった。

この映画のテーマは子離れの難しさにある。ウッディたちはおもちゃだが、子供の頃からアンディと一緒にいて、その育成の過程を見守って来た親のような存在だ。アンディに対してもそうした愛情がある。だからアンディが大人になって、用無しになってしまう自分らの存在を嘆いているのだ。

育って行く子供は手離さなければならない、そして親は親で子育てを含まない自分らだけの新しい生活を始めなければならない。だがそれは口で言うほど簡単なことではない。熊のラッツオが悪者になったのも、元の持ち主から捨てられたという恨みから立ち直れなかったのが原因。

この映画の主役はもちろんウッディなのだが、それぞれのキャラクター達の活躍は面白い。宇宙探検家のバズライトイヤーがリセットされてスペイン語を話だし、カウガールのジェシー相手にパサドブレを踊るシーンは傑作。ミスターポテトヘッドが胴体をポテトの替わりにうすっぺらなメキシコのパン、トルティーヤを使って鳥に食べられそうになるのは笑える。

また、ケンとバービーが恋に落ちるのは当然の成り行き。「まるで私たち、一緒になるために作られたみたい」って当たり前だ!。でもこのケンのドリームハウスにはケンの着替え用の服がいっぱいなのだが、その服が皆1970代のディスコ風。ちょっとケンちゃん、服に拘りすぎない?もしかしてあのケがあるとか、、

そうそう、保育園から抜け出そうとしているウッディを道でみつけて家に持ち帰った幼女の家に、カカシが持ってるのと同じトトロのぬいぐるみがあったのには笑ってしまった。トトロは何も言わないが、そういえばオリジナルでもトトロは無口。

すっかり整理が終わって空っぽになったアンディの部屋をみて、お母さんはハッと息を飲んだ。解っていたことではあるけれど、こうして改めて整理した部屋を見ると、この子は本当に巣立って行くのだなと実感する。カカシはお母さんと一緒に涙ぐんでしまった。

さて、おもちゃたちはロッツオの仕組んだ罠から抜け出すことが出来るだろうか? ウッディは無事アンディと一緒に大学へ行くのだろうか、そして残されたおもちゃたちの運命はいかに?

トーイストーリ3は、子供も大人も別の意味でおもちゃたちの冒険を楽しめる。是非おすすめ。

June 20, 2010, 現時間 10:19 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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January 28, 2009

退屈きわまりないベンジャミン・バトンのつまらない一生

映画

先日アカデミー賞の候補が発表されたが、どの候補に入った映画のどれひとつ観ていなかったことに気がつき、これは発表がある前にちゃんと観ておかなければいけないと思いたった。それで芸術作として評判も高く、SF的な要素も含む『ベンジャミン・バトンの数奇な一生』を観ることにした。(日本では二月七日封切り)

普通カカシが映画を評価する時は、その映画の出来云々よりもその映画そのものを作る価値があったかどうかということが最低基準となる。どれほど画像がきれいだろうと配役が豪華だろうと特撮が優れていようと、その映画が何か観客に訴えるものを持っていなければその映画はただのフィルムの無駄使いである。しかも、そういうくだらない映画がアカデミーにノミネートなどされてしまうと、ノミネートされた映画くらいは観ておかなければと考えるカカシのような観客の大切な三時間までもが浪費されてしまうのだからはた迷惑もいいところだ。

ここまで書けばお察しの通り、カカシはこの映画は気に入らなかった。全く観る価値がないとさえ言わせてもらう。

この映画の設定は、ブラッド・ピット扮するベンジャミン・バトン(カタカナ表記は「ボタン」とすべき。彼の苗字は生家の事業であるボタン製造会社にちなんだもの)という第一次世界大戦の終戦の日に生まれた男が、赤ん坊としてではなく、肉体的には80歳を超える老人として生まれ、時が経つとともに若返り最後には赤ん坊になって死ぬという話だ。すでに読者諸君が予告編を観ていたら、わざわざ映画館に足を運ぶ必要はない。なにも三時間も時間を無駄にしなくても、すべてのことはその三分間の予告で知ることができるからだ。

この映画は完全にアイデア倒れだ。カカシはSFファンなのでこの映画のSF要素に魅かれたのだが、製作者は単に年寄りが若返るという設定以外に全く科学空想としての想像力が働かなかったと見える。三時間という長時間をかけたにも関わらず、語った話は取り立てておもしろくもおかしくもない、つまらない男のくだらない人生を語るだけで済ましてしまっている。これが同じ筋で赤ん坊で生まれ、年をとって耄碌して死んだ男の人生を語ったとしても、全く違和感のないありきたいりの人生を語っているのだ。ベンジャミン・バトンの人生は数奇どころか何ひとつ面白いことがおきない退屈極まりない生涯だ。若返る男という不思議な宿命を持つ男なら、もっと面白い体験があってもよさそうなものだ。

だいたいこの映画は観客に何を訴えたいのだ?

映画はベンジャミン・バトン(ブラッド・ピット)の生涯の恋人デイジー(ケイト・ブランシェット)が年老いてハリケーンカトリーナが近づくニューオーリンズの病院で死の床に着いているところから始まる。病院で付き添っているのはデイジーの中年の娘キャロライン(ジュリア・オーモンド)。

キャロラインの口ぶりからして、娘と母親の間はあまり親密ではなかったようで、娘が病床につきそっているのも、母親との間が疎遠のままで死に別れたくないという理由からだ。プロのバレリーナとしてアメリカ人では初めてソ連のボリショイバレエ団にゲスト出演を許可された母親のデイジーの逸脱したキャリアに比べ、娘のキャロラインは特にこれといった才能がなく、本人はそのことを恥じて母親に対して卑屈になっている印象を受ける。母親のデイジーが娘に自分の昔の恋人であるベンジャミン・バトンという奇妙な男の日記を読んで聞かせてくれと頼むところから、回想シーンが始まって本編となる。

こういうふうにお膳立てをしたからには、ベンジャミンの生涯を娘に語らせることによって、デイジーは親を失望させたと卑屈になっている中年娘に何かしら言いたいことがあるはずだ。普通なら回想シーンが終わった時点で娘が何かを悟るように物語が転回されるべきだ。ところが、三時間の退屈な映画を全編見終わっても、いったいこの物語を語ることでデイジーは娘のキャロラインに何を伝えたかったのか観客にはさっぱり解らないのである。

産時に妻を失い悲嘆にくれるベンジャミンの父親(ジェイソン・フレミング)は、しわくちゃで老人のような赤ん坊のベンジャミンを老人ホームの階段に捨てる。それを見つけた老人ホームの黒人管理人クイニー(Taraji P. Henson)はベンジャミンを保護し自分の子供として育てる。

物語の最初の方でベンジャミンが80歳くらいから60代前半に若返るまでの17年間に、彼の養母が管理する老人ホームに、訪れては死んで行った人々の話がされるが、これらの老人たちの話がベンジャミンの人格形成にどのような役に立っているのかさっぱりわからない。ベンジャミンと当時7歳だった後の恋人デイジー(エル・ファニング)が出会うのはこの頃だ。ベンジャミンは実家の老人ホームに居る祖母のホリスター夫人(フィオナ・ヘイル)を度々訊ねて来るデイジーに不思議な魅力を感じる。

映画のほぼ全編にベンジャミンを演じるピットのモノトーンのナレーションが入るのだが、このナレーションに全く感情が込められていないせいか、ベンジャミンによる周りの人々への感情移入が全く感じられない。まるでベンジャミンは部外者で周囲の人間を単に観察しているかのような印象を受けるのだ。

ベンジャミンが独立して実家を出て船乗りとしての生活を始めてからも、この部外者のような無表情さは変わらない。これはブラッド・ピットの演技が下手なせいなのか、それとも演出が悪いのか解らないのだが、従船の船長(ジャレッド・ハリス)をはじめとするカラフルな船員たちとの出会いや、アラスカのホテルのロビーで出会いベンジャミンが恋におちる人妻エリザベス(ティルダ・スイントン)との関係にしても、ベンジャミンがこれらの人々との交流において何を感じたのか、彼の人生はこれらの出会いによってどう変わったのかといった話が全くされないのだ。つまりこれらの出会いや逸話が映画の前後の話と全くつながらないのである。

第二次世界大戦終戦後、ベンジャミンは実家の老人ホームに戻り、すっかり年老いた養母のクイニーと一緒に再び暮らし始める。そこで帰省中の美しく成長してプロのバレリーナになったデイジーと再会するのだが、、、、

と、もしもこの先の筋をすべてここでばらしても、決してネタバレなどという大げさなものにはならない。何故ならこの先の一時間半に渡っての映画の中では特にこれといって驚くようなことも感動するようなことも起きないからだ。

ベンジャミン・バトンの人生にはいったいどんな意味があったのだ?彼を愛したデイジーの人生はどう影響を受けたのだ?その話を後に学んだ娘のキャロラインは何を感じたのだ?

そうした問いかけに、まったく無頓着なのがこの映画、ベンジャミン・バトンの数奇な一生である。

January 28, 2009, 現時間 7:49 AM | コメント (2) | トラックバック (0)

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May 26, 2008

共産主義と戦うインディアナ・ジョーンズ最新作

映画

日本では6月21日にロードショー開始のインディ・ジョーンズ、クリスタル・スカルの王国を一足先に観てきたので、本日はそのお話から。

なぜ日本では主人公のヘンリー(ハリソン・フォード)をインディアナと言わずにインディと呼ぶのかわからないが、まあもう1981年に公開されたレイダース/失われたアーク(聖櫃)の時からそう呼んでいるのだから今更変えるのも不自然だろう。

今回の最新作はオリジナルの1930年代のナチス台頭の時代から20年後の冷戦中の1957年が舞台となっている。それで必然的に悪役もナチスドイツから共産主義者へと変わった。ハリウッド映画がソ連共産党と戦うのは久しぶりではないかな。

スターリン主義の悪役イリーナはロード・オブ・ザ・リングスで年齢不詳のガラドリエルを演じたケイト・ブランシェット。彼女自身も年齢不詳の冷たい美しさを見せているが、黒いボブカットの髪型や不自然なアクセントは、冷戦時代から使われてきたソ連スパイのステレオタイプそのもので、ちょっと滑稽な感じがする。

もっともインディ・ジョーンズの特徴はまじめぶらないところにあるので、こういうステレオタイプも決して場違いではない。なにしろ映画の最初のシーンは、穴から顔を出したモグラが、走ってくるジープに驚いて穴に引っ込むというもので、これからして、この映画全体の音程が察知できるというもの。

このジープの列はテキサスの砂漠で行われている原爆実験現場を通っているのだがこの冒険についてあんまり書くとネタバレなので、共産党スパイによって売り渡されたインディ・ジョーンズは奇跡的に原爆実験現場から命からがら逃げおおすとだけ書いておこう。(はじまりでインディが死んじゃおしまいだから当たり前だが、、)

しかし、当時はアメリカ政府や大学にソ連スパイがはびこっていたため、かなり神経質になっていたCIAは、ヘンリーがトップシークレットの実験現場に何故居たのか、ヘンリーが教授を勤める大学にまで取り調べに来る。これを理由に大学側はジョーンズ教授を解雇。それに抗議した学長(ジム・ブロードベント)も辞任する。

大学から出て行くために荷造りを始めるヘンリーに学長は「最近わしはこの国が理解できんよ。誰も彼も共産党のスパイ扱いで、被害妄想にかられている。」という。しかしこの台詞ははっきりいってストーリー展開から矛盾している。

この映画の最大の悪者は共産主義者であり、しかも冒頭シーンでインディは共産党スパイにひどい目にあわされるのである。そのことを学長はよく知っているのだ。だから政府や大学が共産党スパイに神経質なのはあたりまえ。被害妄想でもなんでもない。

スピルバーグ監督は有名なリベラルではあるが、リベラル=共産主義ではない。だから共産主義者が悪者でも問題はないはず。この台詞は不自然で場違いなので、多分元のシナリオにはなく、後から左巻きの脚本家が挿入したのだろう。

もちろん共産主義者を相手にしているとはいっても、インディ・ジョーンズのことだからそれほど政治色が濃い訳ではない。映画の本題は政治的な紛争ではなく、インディが巻き込まれる不思議な冒険にある。

大学を首になったヘンリーは、若き日のマーロン・ブランドを思わせる革ジャンを着てハーリーデイビッドソンを乗り回すマット・ウィリアムス(シャイア・ラブーフ)に出会う。マットと彼の母親は、ヘンリーの親友で考古学者のオクスリー教授(ジョン・ハート)に世話になったものだという。マットは南米にいる自分の母親から手紙で、オクスリー教授が行方不明になったので、ヘンリーに助けを求めるように言われたのだという。

実はオクスリー教授が発見したのはクリスタル・スカルという頭蓋骨で、何世紀も前に墓から盗まれたものだった。この頭蓋骨を元の墓に返したものには偉大なる力が与えられると伝えられている。問題は誰もこの墓が南米のどこかにあるという以外には確かな場所を知らないということである。

そこでインディ・ジョーンズはマット青年と一緒に先ずはオクスリー教授の行方を探し求め、ひいてはクリスタル・スカルを元の墓に戻すという冒険を始めるのであった。

無論ソ連のスパイ達に後を追われているので、南米のジャングルでは手に汗逃げる追跡格闘シーンはあり、小舟に乗って逃げるシーンではナイアガラの滝さながらの滝に落ちたりもする。遺跡ではレイダースの冒頭のようなからくりのある建物を走るまくるシーンもあって、インディならではの冒険が楽しめる。

ハリソン・フォードは60歳を超すと思われるが、どうしてどうして、まだまだ格好いい。二作目で父親を演じたショーン・コネリーも格好よかったが、フォードの渋みのきいた、それでいてコメディータイミングを失わないおちゃめな点も魅力的である。

若い観客のために二枚目青年俳優ラルーフを起用したのは解るが、カカシが中年だからなのかもしれないが、やはりラルーフではフォードの魅力にはかなわない。もっともラルーフのマットも最初はヘンリーが年寄りだと思って馬鹿にしているが、悪者との格闘でヘンリーが非常にタフであることを知って感心する。ここでスピルバーグが特に胸焼けするような青年と中年男の友情など表現しないでくれるので観客としては非常に助かる。

第一作目でヘンリーの恋人マリオン・レイヴンウッド(カレン・アレン)がマットの母親として登場するが、一作目ほどの存在感はない。ま、カカシの他人のことは言えないが女性は27年も経ってしまうと腰回りが気になるな。

ところで、ミスター苺が「インディ・ジョーンズは共和党支持だったんだな」と言うので、「え、なんで?」と聴いたら、イリーナに銃を向けられ「最後に言いたことはあるか?」と聞かれたときに、「俺はアイクが好きだ」と答えたからだという。アイクとは時の共和党の大統領候補指名のドワイト・アイゼンハワーのことだ。若いひとのどのくらいがこの台詞の意味を理解できたのか興味深い。

May 26, 2008, 現時間 8:22 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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May 9, 2008

二つに一つじゃないんだけど、、、インテリジェントデザイン対無神論

映画

アップデートあり:下記参照

先日ベン・スタインという俳優で保守派政治評論家が監督した、マイケル・ムーア風の進化論批判ドキュメンタリー、Expelled: No Intelligence Allowedという映画を見た。実はこの映画に関する評論はしようかどうかちょっと迷っていたのだが、本日、偶然にも左翼フェミニストの小山エミさんが無神論者について書いていたのを読んで、関連のある話題なのでちょっとお話することにしよう。

先ずはベン・スタインのExpelled...の映画評論をする前に、アメリカにおける進化論に関する問題について説明しておく必要がある。アメリカはユダヤ・キリスト教の信者が非常に多い。以前からアメリカは非常に宗教心の強い国だと書いているが未だに旧約聖書の「創造説」を文字通り信じている人が少数とはいえ結構な数居るのである。そういう人たちは進化論を受け入れることは神への信仰を捨てることにつながると誤解している。

困ったことに無神論者で科学作家のリチャード・ドーキンスなどが、進化論に代表されるように科学と信仰は相容れないと断言してしまっていることから、本来ならば対立する理由のない進化論受け入れ側と創造説側の二つのグループが不必要な争いを行う結果となっている。

しかし創造説側は最近、といっても20年くらい前だが、科学説である進化論に打ち勝つためには、旧約聖書を持ち出してきてもそれは宗教だと片付けられてしまい、説得力がないことに気がついた。そこで彼らは創造説に科学的根拠があることを説明するために新たに「インテリジェントデザイン(ID)」という説を紹介した。

これは自然哲学で神の存在を証明する論理としてウィリアム・ペイリーの「盲目の時計職人」という説をもとにしている。複雑な構成を持つ時計が荒野に落ちていたら、それを作った時計職人がどこかに存在するように、他の複雑な実態も意図的に作った誰かが存在するはずだという理論である。地上に存在する生物、特に人間は、あまりにも複雑すぎる生体であり、誰かの意図的な設計なくしては説明できないというわけだ。無論この理論にはかなり穴があいているが、ベン・スタインの映画はこの理論を元にしている。

Expelled...はマイケル・ムーアも真っ青になるほど不公平で理不尽な構成になっている。先ず映画は冒頭のテーマソングでベルリンの壁を映し、東側の共産主義が進化論側で西側の自由主義がID側であると象徴。

スタインは進化論説者をダーウィニストと呼び、あたかも進化論がダーウィンという教祖によって創設されたカルトか何かのような表現をしている。しかも進化論を受け入れたら単に無神論者になるだけでなく、ユージェニクスを推進したナチスや共産主義者になるとさえ示唆しているのである。

これほど根拠もなく相手側を侮辱するやり方もないだろう。私は保守派評論家としてスタインのことはこれまで尊敬していたが、今回の映画を見てその卑怯なやり方に非常に失望した。根拠も示さずに感情のみに訴えるなら、左翼やリベラルと何の変わりもない。スタインはムーアより頭がいいだけ質が悪い。

スタインのやり方が卑怯な例のひとつとして、スタインはドーキンスのような進化論説者のなかでも過激な無神論科学者だけを集めてきて、「神など存在しない」と何度も繰り返させる。スタインは敬虔なクリスチャンであり克つ進化論を受け入れている遺伝子学の第一人者であるフランシス・コリンズのような科学者がいるにも関わらず、そういう人を一人も紹介しない。

映画の中でも進化論と宗教は矛盾しないと唱える人を紹介しておきながら、その人たちがどういう説を持ってして矛盾でないことを説明しているのかを紹介せず、あたかも彼らが信仰者をだまして進化論を受け入れさせようとしているかのようなコメントを入れている。皮肉なことにその一番の手助けをしているのが、進化論を信じる者は無神論者であると言っているドーキンスなのである。

はっきり言ってドーキンスのような無神論者とスタインのようなID論者は一つの硬貨の二つの顔だと言っていい。

科学を信じたら神を信じられないなど一体誰が決めたのだ?種の進化という真実を学ぶことによって神の力を信じられなくなるなどと本気で信じるなら、スタインこそ神への信仰に自信がない無神論者なのではないか?彼の信仰とはそんなにも軟弱なものなのか?

私は神の存在を信じる。科学を学べば学ぶほどその神秘さに驚嘆しない科学者はいないだろう。これこそ偉大なる神の創造であると信じることに何の無理があるというのだ?種族の進化こそ神の設計であると考えれば進化論と創造説に矛盾はない。何故ここに無意味な矛盾を見いだす必要があるのだろうか。これこそ信仰者を科学的に無知にしておきたい無心論者の陰謀を感じるのは私だけだろうか?

ところで、小山エミが無神論者たちが、無神論という宗教の信者になってしまっているのではないかと書いているがそれはかなり的を射ていると思う。

無神論者たちのふるまいは、信仰者のそれと何ら変わらないのではないかーーすなわち無神論者たちは、無神論という新しい宗教の信者であり、その他の宗教の信者と本質的に何ら変わらないのではないかーーという問いかけは、多くの人が直感的に感じるものだ。...

...ユートピア思想と選民思想(自分たちこそ最も優れた人間であるという思い込み)は、わたしが参加しているグループにおいても頻繁に感じた。かれらから見れば、宗教を信仰している人はそれだけでかれらより非理性的であり、冷笑するしかない対象なのだ。このままいくと、迷える子羊=信仰者を救うために無神論の布教活動でもはじめかねない。

進化論専門の科学者のなかに無神論者が多いことは確かだが、無神論を唱えるひとが必ずしも科学的な考えに基づいて無神になったというわけではない。進化論進化論と大騒ぎして創造説を馬鹿にする人々の間でも進化論が科学的に証明されているという事実だけを鵜呑みにしてその科学的な学説を何も理解せずにまるで信仰のように受け入れている人々がどれほどいることだろう。つまり、進化論そのものが信仰となっている人々が無神論を唱える人々のなかに少なからずいるのだということも念頭に置いておく必要がある。

科学は真実を求めるものにとってすばらしいものである。だが科学は中立だ。科学は道徳的判断を下さない。それを見誤ると無神論者も創造説者も同じ間違いを犯すのである。

神を信じるか信じないか、進化論では二つに一つの答えは見いだせないのだ。

アップデート: 本文中に引用した小山エミさんがこのエントリーへの返答をこちらでしている。それに対する私の返答はこのエントリーのコメント欄でさせてもらった。

May 9, 2008, 現時間 1:43 AM | コメント (7) | トラックバック (0)

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March 30, 2008

学習力ないハリウッド、「ストップロス」反戦映画がまたも不入り

映画 , 狂ったメディア

観てない映画の批評をするのも何だが、映画館で予告編を見ただけで十分にどういう映画かという予想はついたので観にいっていないし、観る気もない。と考えたのはどうやらカカシひとりではなかったようである。

ニッキー・フィンクの週末客入り情報サイトによると、キンペリー・ピアス監督の反イラク映画、ストップロスの売り上げはかなり悪いようだ。

金曜日7番で始まったストップロスの売り上げは8番に下がり、金曜と土曜の売り上げをあわせてもたったの170万ドル。これまでの合計はわずか460万ドルという情けなさ。この映画はMTV Filmsでは今週末一番評判がよかったにもかかわらず、制作会社のパラマウントはあまり期待をしていなかったようだ。パラマウントの重役によると、イラク戦争をテーマにした映画はこれまで成功した試しがないからだという。「イラク戦争の映画なんて誰もみたくないんですよ。どれだけ才能のあるタレントを起用しても、すばらしい予告編をつくってみても、人々は全く興味をもってくれません。これはまだ決着のついていない戦争にたいして市場がこの葛藤のドラマを受け入れる用意ができていないということでしょう。良い映画なので非常に残念です。ちょっと時代に先駆けしすぎているのでしょう。」

アホか!このパラマウント重役はアメリカ市民の軍隊に対する心情も愛国心も全く理解できないらしい。アメリカ人はイラク戦争の映画をみたくないのではなく、アメリカ人がいつも悪役になる戦争映画を拒絶しているだけだ!イラクで英雄として活躍するアメリカ軍人を主役に映画をつくってみろ!ボックスオフィス売り上げナンバー1は間違いない。

一応どういう映画なのかということを説明しておくと、イラクで活躍し英雄となって故郷のテキサスへ戻ってきた主人公は、戦場にいく前の平凡な生活に戻ろうとするが、突然かれの意に反して再びイラクへ呼び戻される。せっかく普通の生活に戻ろうと思っていた主人公の生活はめちゃくちゃになる、、といったもの。

だいたいこの筋の背景からしておかしい。アメリカは志願制なので、赤紙の召集令状がくるわけじゃない。一応特定の年数で契約して入隊するが、年期が切れても時と場合によっては年期が延期されることもあるし、一応正規軍からの除隊はしてもその後しばらくは予備軍として残るので緊急事態が発生すれば呼び戻される。これは軍隊に入隊する人はすべて覚悟の上ですることなので、戦争が続いている以上、また呼び戻される可能性はいくらでもある。軍人は戦争をするのが仕事なのだから、そんなこと当たり前ではないか。そんなことでいちいちひっくりかえっていては軍人など勤まらない。

私はイラクへ二回行き、三回目の出動が決まっている海兵隊員と話をしたことがあるが、イラクでの体験はどういうものだったかという私の質問に対してかれは、「よかったですよ。文句をいうことは何もありません。」と笑顔で答えていた。

イラクに呼ばれる可能性がかなり高い陸軍予備軍で軍医をつとめている若い男性と、イラク出動の可能性について話したときも、「命令が出ればいきますよ。任務ですから。」とたんたんとした口調ではなしていた。

自分は除隊しいまや予備軍にいて、二番目の子供ができるのを待っていた同僚の海兵隊員はイラク戦争そのものには反対だったが、「もちろん呼ばれれば行くよ。マリンだからね。」と語っていた。

つまり、私の周りにいる軍人でイラクにいきたくないよ〜、やだよ〜、とやってる人は一人もいないってことだ。うちの職場では自分の息子がイラクに行っていると自慢げに写真を同僚に似せて回るおやじさん達は何人かいるが、、、

ところで面白いのは、フィンクのサイトに寄せられたコメントだ。フィンクはこの映画だけでなく、ほかにもいくつか映画を紹介しているのに、700以上も寄せられたコメントはほとんどがストップロスに関するものばかり。しかもその意見はほとんどがカカシと同じ。下記はその一部。

反戦プロパガンダばかり作くるのをやめれば観客はみにいくようになるよ。スタジオの奴らにそんなことがわからいってのは本当に驚きだね。損失続きなのに同じような反戦映画を包装しなおして作り続けるハリウッドにはあきれるよ。---ジョー

ハリウッドが今製作する「戦争」映画をみたら、ジョン・ウェインは草葉の陰で泣いているだろうよ。もし彼が生きていたらハリウッドのばかどもに一発かましているところだ ---ジェフ

ストップロスだって?今頃なにいってんだ?1950年代の初期の兵役は朝鮮戦争のおかげで、みんな一年以上のばされた。1952年になって多少延期が減り、自分の任期は1952年の8月16日のはずだったが、実際に除隊したのは11月のことだった。なんて情けない泣き虫どもだ。---Jpjm

このようなコメントをハリウッドの重役や監督たちはどう受け止めるのだろう。ま、多分馬の耳に念仏で、保守派のアホどもがなにをぬかすか。映画作りの複雑さを理解していない田舎者のいうことなど聞く耳持たん、てな調子だろう。彼等は典型的なバカサヨなので(久しぶりにこの言葉をつかったな)自分らは無知でバカな観客を教育してやらなければならないというナルシシストな使命に燃えている。だからいくら作る映画作る映画が不入りでも、こりもせずにプロパガンダ映画を作り続けるというわけだ。

関連エントリー:
反戦映画が不入りなのはなぜか?
悲劇的な封切り、ディパルマ監督の反米映画「リダクテド」

March 30, 2008, 現時間 2:52 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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December 17, 2007

永遠の愛を皮肉なく語る「魔法にかけられて」

映画

きょうはディズニー映画のEnchanted (放題は「魔法にかけられて、日本公開は来年の3月)を紹介しよう。

これはおとぎの国のお姫さまや王子様が現在のニューヨークへ送り込まれたらどうなるかというお話。おとぎの国にいる時は登場人物はすべてアニメーションだが、マンホールを通じてニューヨークへ訪れるとすべて実写になってしまう。

物語はおとぎ話のある王国を支配する魔女のナリサ王妃(スーザン・サランドン)が、継子のエドワード王子(ジェームス・マースデン)が結婚したら自分から支配者の権限を奪い取るのではないかと心配しているところから始まる。王妃の心配をよそに王子は怪物退治中に森で出会ったジゼル姫(エイミー・アダムス)に一目惚れしてしまう。木から落ちるところを王子に救われたジゼル姫も翌日結婚しようという王子の言葉を当然のように受け入れ、二人は永遠の愛を歌いながら白馬に乗って城へ向かう。これを魔法の鏡でみていた魔女の王妃はジゼルを騙して21世紀のニューヨークへ送り込んでしまう。それを知ったエドワード王子は従僕のナタニエル(ティモシー・スパル)とチップモンクのピップと一緒にニューヨークへジゼル姫を救うべくやってくる。

現実の社会でジゼル姫が出あう人々は、おとぎの国の人々のように親切ではない。城の絵が描かれた看板によじ上って落ちそうなところを通りがかりの子持ち弁護士ロバート(パトリック・デンプシー)に救われたジゼル姫は「私がこれまであった人たちは、あまり善いひとたちではありませんでした。」と言う。皮肉たっぷりに「ようこそニューヨークへ」と言うロバートの言葉に純粋に「ありがとう」と答えるジゼル姫に何かを感じるロバート。

この手の映画ではおとぎ話の道徳観をおちょくるものが多いが、この映画ではジゼルの純粋な感情をおちょくる気配は全くない。それどころかジゼル姫の誠意が一見シニカルにみえるニューヨーカーの心を動かす。それというのも、ニューヨークにきて実写になってるジゼル姫はおとぎの国にいた頃の不思議な力を失っていないからだ。姫が森で白雪姫さながらに鳥や動物たちをソプラノの声で呼び寄せる力はニューヨークの高層ビルからでも鳩や溝鼠やごきぶりに通用するし、ロバートが5年間つきあっている恋人のナンシーに最近愛していると言っていないという言葉に「言わなければ、彼女はあなたに愛されているとどうしてわかるの?」と言って歌い出すシーンでは、姫の歌声に魅せられてセントラルパークにいる普通のニューヨーカーがつられて歌い出し道路工事現場の労働者が踊り出したりして大規模なミュージカルナンバーになってしまう。

現実の社会に住むロバートは、離婚専門の弁護士で醜い離婚裁判をさんざんみせつけられ永遠の愛など信じていない。だからエドワード王子との愛を語るジゼル姫もどっかねじがはずれたかわいそうな女性くらいにしか考えていない。しかし前妻に逃げられて男手一つで6歳のモーガン(レイチェル・コーベイ)を育てるロバートは現実の愛に失望しているとはいえ決して悪い男ではない。それどころかおとぎ話の理想を追い求めて娘のモーガンが傷付くのを恐れている娘思いの父親なのだ。この当たりがサンタクロースなど信じるなといっていた34丁目の奇跡の母親に似ている。ロバートがシニカルなのは傷付くのを恐れるためだ。

さて、ロバートにジゼル姫がすくわれたとは知らないエドワード王子は一足遅れてニューヨークへやってくるが、ハンサムで誠実で勇気満々だがおつむの方は空っぽなのでやることが完全にとんちんかん。自分の婚約者をニューヨークへ送り込んだのがまま母であることも、従僕にみせかけているナタニエルの醜い本性も見抜くことができないで、やたら勇気を振り回して歌いだすから厄介だ。

だが、この王子を憎めないのは、彼のやることには全く裏腹がなく常に誠実だということだ。この王子を演じているジェームス・マースデンは確かヘアースプレイでもきれいなだけ軽薄な男を演じていたが、不自然に美形なだけにこの手の役が似合うのかもしれない。

ロバートがジゼル姫から永遠の愛が存在することを教えられるのと同時に、ジゼル姫もまたロバートのおかげで恋に落ちるということは、単に美男美女が白馬にまたがりながら愛の歌を歌うことではないのだと学ぶ。

物語の結論はおとぎばなしのように予測は付くが、それでも終わったときに感激の涙と笑顔で、「めでたし、めでたし」とつい拍手喝さいを送りたくなってしまう映画だった。

December 17, 2007, 現時間 8:18 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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December 15, 2007

予告編の域を出ない「ライラの冒険、黄金の羅針盤」

映画

日本では三月半ばに公開されることになっているファンタジー映画、Golden Compass, 邦題「ライラの冒険、黄金の羅針盤」を観てきた。日本語の予告編はこちら

ミスター苺が原作のライラの冒険を読んで非常に気に入ったので、映画にも期待を寄せていた。しかし、こんなことはいいたくないがちょっと失望したというのが本音である。

この映画の原作はフィリップ・プルマン著の同題の小説三部作の第一部にあたる。あらすじを説明したいのだが、複雑すぎる上に説明不足でいったい何がなんだかさっぱりわからないというのが正直な印象だ。

***あらすじ****

私なりに映画を見ただけで理解したあらすじを述べるならば、先ずこの世界には似通ってはいるが少しづつ違う多数の次元が存在するという設定だ。この映画の舞台となっている次元では人々の魂がディーモンと呼ばれる動物の形をして体の外に現れる。このディーモンは精神的にも肉体的にも母体である人間と深く結びついており、動物の形をしているとはいえ母体の人間と普通に会話を交わすことができる。ディーモンが傷つけられれば人間も傷付き、人間とディーモンが切り離されると母体の人間は魂の抜けたごとく恍惚の人となってしまう。

この世界を統治しているのは中世ヨーロッパのカトリック教会さながらのマジェスティリアンと言われる組織である。マジェステリアンは人々の私生活から思想にいたるまで細かく支配している。

主人公のライラ(ダコタ・ブルー・リチャード)は、物心ついた時から大学に預けられて教育を受けている多感な少女である。ちまたでゴブラーと呼ばれる怪しげな組織に子供たちが次々と誘拐されているという噂を耳にしても、ライラは親友のロジャー(ベン・ウォーカー)に「あんたがさらわれたら絶対助けにいってあげる」と断言できほど決断力も勇気もある少女だ。

ライラの保護者であるアスリアル伯爵(ダニエル・クレイグ)は冒険家でしょっちゅう危険な場所を旅しているが、今回は北極において別の次元への糸口となるダスト(埃)と呼ばれる不思議な現象を発見したと大学の教授らの前で発表する。伯爵はこれをさらに研究するため大学から研究資金を出してもらうべく帰国して嘆願する。しかし別次元の窓口への研究は自分達の権力に脅威を及ぼすと考えるマジェステリアはこの伯爵の研究に懸念を抱く。

マジェステリアの意向に背き、伯爵に研究資金を提供した大学の学長(ジャック・シェファード)だが、危ないからと伯爵には置いてけぼりを食ったライラを、自分の助手にして北極探検旅行につれていきたいという不思議な女性、コルター夫人(ニコール・キッドマン)の要請を断ることができない。学長はライラに夫人を「学校の友人」として紹介するが、その口ぶりから何らかの形で夫人が大学の方針にかなり口出しできる権力者であることがわかる。

もともとアスリアル伯爵について北極旅行をしたいと思っていたライラはこの機会に飛びつく。夫人と旅立つ前夜、学長はライラに「真実を示すものだ」として黄金の羅針盤を渡す。この黄金の羅針盤がライラの人生を大きく変えることになろうとはこの時のライラには知る由もなかった。

******
とまああらすじはこの程度にしておこう。予告編を見てもらえばわかるが、後にライラはコルター夫人と別れて北極での冒険にディーモンを持たないが人間と同じ頭脳を持つ鎧を着た白熊を雇ったり、マジェステリアを敵にまわしているジプシャンといわれる地下組織の仲間になったりして冒険を繰り返す。コンピューターアニメーションで描かれているシロクマの声は「ロードオブザリングス(LOTR)」でガンダルフを演じたイアン・マケオンの声だ。またマジェステリアのリーダーとして、シェークスピア役者のデレック・ジャコービが顔を出すが、その会議の席に座っている幹部の役柄でカミオ出演しているのは同じくLOTRでサルマンを演じたクリストファー・リー。魔女役で登場するのは先の007のボンドガール、エバ・グリーンと、豪華絢爛な配役なのだが、映画そのものの出来はというといまひとつ物足りない。

まず原作ではこれが三部作の一部目なので、話が完結しないのはしょうがないのだが、映画としては三部作だといって作っていない限り、一応話しの筋がまとまるようにしておくべきだ。冒険が次に続くのはかまわないのだが、一応この冒険はこれで終わりという一段落をつけてもらいたい。

第二に、この映画の主題はいったい何なのかがわからない。最初にこの世界以外に別の次元があるというナレーションが入るわりには、その筋がいまひとつ煮つまらない。どうして別の次元との交流があると現次元の支配者が困るのか、どうしてアスリエル伯爵はそんなに一生懸命別の次元に行きたいのか、そのへんの説明がほとんどない。

また子供が何者かによって拉致されているという話も、ライラは子供たちを救う目的で冒険を始めたというより、たまたま冒険に出合ったという感じで、どうして彼女が危険を承知で冒険に出かけるのかその動機がどうも頼りない。

人間とディーモンとの深いつながりが充分に説明されていないため、どうして子供をさらって組織がその関係に拘っているのかよく理解できない。

それに非常に大事なものだとして渡された黄金の羅針盤が、あまり活躍しないし、ライラがしょっちゅう眺めている割にはこの羅針盤がどういう意味を持つのか、ライラが学ぶ過程がまったく描かれていない。またライラがこの羅針盤を解読できるのは、ライラがこの世界で言い伝えられている不思議な才能を持つ魔女だからではないのか、という話も尻切れトンボになっている。

つまり、この映画は登場人物と、この次元の仕組みを説明するだけで終わってしまっており、なにやら二時間に渡るなが~い予告編をみさせられた感じがした。いったい何時になったら肝心の話が始まるのだろうと思っているうちに映画は終わってしまった。

人気が出たら、二部三部と続けるつもりだったのだろうが、週末の入りはかなり悪かったらしいから続編は無理だろう。

December 15, 2007, 現時間 8:42 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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November 25, 2007

悲劇的な封切り、ディパルマ監督の反米映画「リダクテド」

映画 , 狂ったメディア

このあいだも反戦映画が不入りなのはなぜか?でも書いたが、アメリカで次々に公開されている対テロ戦争への批判メッセージを多分に含んだ反戦映画が全く人気がない。しかしその中でもアメリカ兵がイラク少女を強姦しその家族を惨殺するという話を描いたブライアン・ディパルマ監督の「リダクテド」には観客は全く近寄らない。ニューヨークポストによれば、封切りの週末の売り上げ成績はなんとたったの$25,628、全国でこの映画を見た人はたった3000人という計算になる。 これは興行上まれにみる大惨事となった。プロデューサーのマーク・キューバンはディパルマに経費だけで売り下げたいと提案したが、周到なディパルマは断った。

映画評論家のマイケル・メッドビッドは「私が見たなかで最悪の映画」と批判。...「Aリストの映画監督、大規模な宣伝、タイムス、ニューヨーカー、左よりのサローンのようなサイトなどでの高い評価にもかかわらずです。もっと少ない劇場で公開されたジョー・ストラマーのパンクロックバンド、クラッシュのドキュメンタリーの三周目より少ない客入りです。」とある映画関係者はメールで語った。「映画の反戦テーマに賛成してるひとたちですら観にいく努力をしなかったということになります。」

反戦だからといって反米とは限らないと私は何度も強調しているのに、まだ映画関係者は分からないらしい。

私が心配するのは、アメリカ国内でこのような映画がいくら不人気でも、これが諸外国で公開された場合の悪影響である。特に言論の自由のないイスラム諸国では、真実でない背信映画を国が政策を許可するはずがないと考える。だからこのような映画がアメリカ人の手でつくられたということは真実に違いないと勘違いしてしまう可能性が高い。それでなくてもアメリカへ嫌悪の意識が高いこれらの国へ、アメリカ人自らの手で反米プロパガンダをつくることの愚かさ。これでテロリストへの志願者が増え、アメリカ人が一人でも多く殺されたら、彼等の血はマーク・キューバンとブライアン・ディパルマの手に塗られていると自覚してもらいたいものだ。


November 25, 2007, 現時間 10:41 AM | コメント (1) | トラックバック (1)

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November 12, 2007

反戦映画が不入りなのはなぜか?

対テロ戦争 , 映画 , 狂ったメディア

私が好きな映画のひとつに第二次世界大戦中につくられたフォロー・ザ・ボーイズという映画がある。これはユニバーサルスタジオのオールスターキャストの映画だ。筋自体は非常に単純で、戦争当時に兵士慰問の目的で組織されたUSOの成り立ちの話だ。主役の興行師がどうやってハリウッドのスター達を集めて慰問公演を実現するに至ったかという話に沿って戦地での慰問公演に積極的にスター達がボランティア活動をしたという筋立てになっている。主な役柄以外の出演者達はすべて本人として出演し、スターが出てくるたびに歌ったり踊ったり手品をやったりする。当時はハリウッドスタジオはどこもこういう映画を作ったが、要するに戦地で慰問公演を直接見られない兵士らのために、人気スターたちを集めたもので、筋そのものはどうでもいいようなものである。

とはいうものの、それはさすがに昔のハリウッドだけあって、そんな映画でも結構まともな筋になっている。それに人気スターたちが自分らの身の危険も顧みずに戦地への慰問を積極的におこなった姿勢が出ていて、ハリウッドがこんなに戦争に協力してくれるとは本当にいい時代だったなあとつくづく感じるような映画である。

それに比べて現在のハリウッドときたら、戦争に協力して軍人を慰めるどころか、反戦が講じてアメリカ軍人やアメリカ政府を悪く描く映画しか撮らない。

ここ最近、連続してイラク戦争や911以後のアメリカの対テロ政策に関する映画が公開されたが、どれもこれも不入りで映画評論家からも映画の娯楽価値としても厳しい批判を浴びている。下記はAFPの記事より。

CIAの外国へテロ容疑者の尋問を外注する政策を描いたリース・ウィザースプーンとジェイク・ギレンハール(Reese Witherspoon and Jake Gyllenhaal)主演の「レンディション( "Rendition")」は売り上げ1000万ドルという悲劇的な不入りである。

オスカー受賞者ポール・ハギス監督のイラクで死んだ息子の死について捜査する父親を描いた「インザ・バレーオブエラ("In the Valley of Elah")は、 いくつか好評を得たが9月公開以来売り上げが9百万ドルにも満たない。

アクションを満載したジェイミー・フォックスとジェニファー・ガーナー(Jamie Foxx and Jennifer Garner)主役の「ザ・キングダム("The Kingdom") ですら、4千7百万の予算をかけたにもかかわらず、売り上げが7千万を切るという結果になっている。

こうした映画の不人気は公開予定のロバート・レッドフォード監督の「ライオン・フォー・ラムス」やアメリカ兵によるイラク少女強姦を描いた「リダクテド」の売り上げも心配されている。どうしてイラク戦争や対テロ戦争関連の映画は人気がないのかという理由についてAFPはムービードットコムの編集者ルー・ハリスにインタビューをしている。

「映画には娯楽性がなくちゃいけません」とハリスはAFPに語った。「反戦だとか反拷問だというだけの映画をつくって人があつまるわけがありません。」

ハリスはまたイラク戦争そのものが人気がないので、人々の関心を集めることが出来ないとも語っている。AFPはさらに、イラク戦争や対テロ戦争は第二次世界大戦と違って凶悪な敵がはっきりしないため、人々が興味をもって映画を見ようという気にならないのではないなどと書いている。(テロリストが悪いという判断が出来ないのはハリウッドとリベラルだけだろうと私はおもうが。)テレビニュースで戦争の話をいやというほど聞かされている観客は映画でまで戦争について観たくないのではないかなどと色々な理由をあげて分析している。

しかしAFPが無視している一番大事な点は、これらの映画がすべて反米だということだ。ハリウッドのリベラルたちの反戦感情は必ずしもアメリカの観客の感情とは一致していない。映画の観客の多くは自分が軍人だったり家族や親戚や友達に軍人がいるなど、軍隊に関係のある人が多いのである。そうした人々が、アメリカは悪い、アメリカ軍人は屑だ、イラク戦争も対テロ戦争も不当だという内容の映画をみて面白いはずがない。これはイラク戦争や対テロ戦争が国民の支持を得ているかどうかということとは全く別問題だ。また、戦争に反対だったり戦争の状況に不満を持っている人々でも、彼らはアメリカ人なのである。アメリカ人が金を払ってまで侮辱されるのが嫌なのは当たり前だ。しかしハリウッドの連中は自分らの殻のなかに閉じこもって外の世界を観ようとしないため、これらの映画がどれほど不公平で理不尽なものかなどという考えは全く浮かばないのだろう。

私はアフガニスタンやイラク戦争について現地からのニュースをかなり詳しくおってきたが、これは映画の題材としては完璧だなと感じる記事をいくつも読んできた。アメリカの観客がみて胸がすっとしたり、ジーンと来るような話はいくらでもある。たとえば先日も紹介した「ローンサバイバー」などがいい例だ。これはアメリカのアフガニスタン政策の落ち度を指摘する傍ら、アメリカ兵の勇敢さを描いた話になっている。他にもアメリカ兵が地元イラク人と協力してつくった病院とか学校が残虐なテロリストに爆破される話とか、テロリストによって苦しめられてきた地元イラク人がアメリカ兵の勇敢な姿に打たれてアメリカ軍と協力してテロリストと戦うようになった話とか、イラク兵養成学校でイラク兵を育てるアメリカ兵の話とか、いくらでも説教抜きでイラク戦争やアフガニスタン戦争をテーマにした愛国主義の映画を作ることは可能なはずだ。

ところでローンサバイバーは映画化される予定になっている。監督がキングダムのピーター・バーグなのでどういうことになるか、かなり心配なのだが、もしもバーグが原作の精神に乗っ取った映画をつくることができたとしたら、この映画の人気次第でアメリカの観客が戦争映画に興味があるのかないのかがはっきりするはずだ。もしもハリウッドの評論家たちがいうように、最近の戦争映画に人が入らない理由がイラク戦争に人気がないからだとか、ニュースでみてるから観客があきあきしているというような理由だとしたら、ローンサバイバーも不人気かもしれない。だがもしもこのアメリカの英雄や親米なアフガニスタン人の話が売り上げ好調だったら、観客は反米映画が嫌いなだけで、戦争映画がきらいなのではないということがはっきりするだろう。

なんにしても、この映画の出来具合と人気次第でハリウッドもなにか学ぶことが出来るはずだ。

November 12, 2007, 現時間 2:39 AM | コメント (4) | トラックバック (2)

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September 17, 2007

現代の無声映画、ミスタービーンお仏蘭西を行く!

映画

う〜ん、映画の邦題をつくるっていうのは非常に難かしいものだ。ミスタービーンというキャラクターを知らないひとにこれがコメディだということを題名だけで知らせるにはどうしたらいいのだろう?

ミスタービーンの珍道中!、ミスタービーンのそこ抜け休暇、ミスタービーンいざカンヌへ、

なんだかどれも古くさいなあ。

****アップデート! (2007年11月27日現在)Mr. Bean's Holidayは 「ミスタービーン、 カンヌで大迷惑?!」の邦題で2008年1月18日に日本で公開されることになりました。*****

ミスタービーンといえば、1990年から1995年にかけてイギリスのテレビで放映された一回完結編で30分もののコメディ番組。伝統的なスラップスティック(どたばたコメディ)で会話はほとんどない。1920年代の無声映画をそのまま現代に持ってきたような構成で、言葉が分からなくても見てるだけで笑ってしまう傑作シリーズ。

1997年にアメリカ映画になったが、これはハッキリ言って失敗作だった。それというのも、ミスタービーンというキャラクターに親しみのないアメリカの観客のために、ミスタービーンがアメリカの家族を訪れるという設定で、テレビのエピソードで面白かった部分を無理矢理筋にあてはめて紹介するという形がとられていたからだ。

ミスタービーンの魅力は彼の個性的な宇宙人のような不思議な行動にあるのであって、込み入った筋にあるのではない。彼のコメディはそのまま1920年代の映画館へ持っていっても十分に通じるビジュアルなコメディであり、ミスタービーンを演じるローウェン・アトキンソンは世が世ならチャーリー・チャプリンや、バスター・キートンのような大スターになっていたことだろう。

そういう点で今度の新作、ミスタービーンズホリデー(Mr. Bean's Holiday)はミスター・ビーンの原点にもどったどたばたコメディで、ミスタービーンの精神が生きていて笑いが止まらない。

先ず舞台がフランスになっているところが賢い。ミスタービーンはあまり会話を交わさないのがミソなので、外国で言葉が通じないというのは格好の設定である。明らかにこれはフランス映画のジャック・タティ主演のムッシュ・ユロの休暇、(Les Vacances de Monsieur Hulot)を意識して作られたものだろう。ムッシュ・ユロでも映画のなかで台詞はほとんどといっていいほどなかった。長距離列車駅のプラットフォームで構内放送が聞き取れずにとまどう観光客の様子はどこの国も同じだなと笑った覚えがある。

映画のあらすじといっても、特にこれといった筋はない。ミスタービーンが協会のくじ引きでフランスはカンヌの浜辺を訪れる旅行を勝ち取る。後はミスタービーンが長距離列車にのってフランス国内をカンヌの浜辺目指して旅をするという設定。もちろんミスタービーンのことだから、普通の旅にはならない。誰でも旅行中に体験したことのあるごく普通の状況をミスタービーン風にどうやって乗り切っていくか、そこにローウェン・アトキンソンならではの冒険がある。

例えば、列車の待ち時間に入ったレストランでフランス語のわからないミスタービーンは知ったかぶりして自分の嫌いな生ガキや甘エビを注文してしまう。それをどうやってウエイターに軽蔑されずに食べるのかに悩むミスター・ビーン。

列車に乗る前に自分の姿を写真に撮ってくれといって、他人の迷惑も顧みずにコーヒーを両手に持ってる男性に無理矢理写真を撮らせるミスタービーン。

電話をかけるためにお財布や地図や切符を公衆電話の受け代においたミスタービーンだが、、

バスに手いっぱい荷物をもって口に乗車券を加えているミスタービーン。行く先はどこかと運転手に聞かれて思わず口を開けると乗車券が風に舞い上がり、、、

とまあ、ミスタービーンのテレビ番組を見たことのある人ならこれがどのようにおかしなシーンになるかご想像がつくことだろう。しかし、ミスタービーンを全くご存じない方々でも、この映画をみればいっぺんにミスタービーンのファンになること間違いなし。

ミスタービーンは旅の途中で色々な人に迷惑をかけるが、特にひょんなことから一緒に旅をすることになったロシア人のステパン少年(Max Baldry)との掛け合いが面白い。ステパンはこまっしゃくれた憎たらしい子供でもなければ、不自然に可愛い子供でもない。ごくごく普通の男の子で好感がもてる。何度もいうようにミスタービーンの魅力は込み入った会話にあるわけではないので、ミスタービーンがフランス語が分からないことや、ロシア人のステパンとは全く言葉が通じないのでなんでも身ぶり手ぶりで意志の伝達をしなければならないところが面白い。特にお財布をなくした二人がお金を稼ぐために路上芸人さながらの口パクをプッチーニのトスカにあわせてやるところは床に転がるほどおかしかった。

ところで、込み入った筋はないと最初に書いたが、映画の冒頭で何気なく出会う人々が、最後のほうで非常に大切な役割を果たす。駅へ向かう途中で出会うエゴイスティックなアメリカ人映画監督の役でウィレム・デフォー(Willem Dafoe)もその一人だ。デフォーのようなまじめな俳優でもミスタービーンの前ではたじたじである。

この映画、世界中で大ヒットを遂げているのに、なぜかアメリカでは興行成績いまひとつ。パントマイムは世界の言葉のはずなのに、なぜだろう?

September 17, 2007, 現時間 1:10 PM | コメント (2) | トラックバック (0)

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September 13, 2007

流れ星を追いかけて、、夢を追う、スターダスト

映画

10月下旬からロードショーのスターダストを一足先に見てきた。(日本語版オフィシャルサイトはこちら。)

これはまるでおとぎ話そのもの。魔女にさらわれて鳥に変身させられたお姫さま。そのお姫さまに恋した村の若者。飛行船に乗った盗賊。魔法の国の王位を狙って殺しあう王子たち。永遠の若さを求めて流れ星の命を狙う魔女の姉妹、、、しかもシュレックのようにおとぎ話をおちょくっているのではなく、素直に誠実におとぎ話を語る映画である。

物語は聞き覚えのある、指輪物語ガンダルフを演じたイアン・マケランの語りではじまり、舞台は19世紀のイギリスにある田舎。この村の端には万里の長城みたいな長〜い壁が建っている。イギリスへ行くとヘイドリアンの壁というローマ時代の壁の遺跡があるが、それが周りの住民によってレンガを盗まれる前ならこういう感じだったのかなという古い壁だ。だがこの村の壁は普通のイギリス社会と魔法の国とを隔てる壁である。

ある日、村の若者ダンストン(ベン・バーンズ、Ben Barnes)は好奇心にかられて番兵(デイビッド・ケリー、David Kelly)の隙をついて壁の隙間から向こう側の魔法の国へ渡る。そこには世にも不思議な品物ばかりが売られている市場があるのだが、ダンストンはそこで美しい花売り娘のウナ(ケイト・モガワン、Kate Magowan)にであう。娘は自分は実はお姫さまで魔女にさらわれて奴隷となっているのだと言う。ウナの足首につながっている紐はダンストンのナイフで切ってもすぐに元に戻ってしまう魔法の紐。「君を解放できないなら、僕に何かできることはないのか?」そう聞くダンストンににっこり笑って手招きをするウナ。

9か月後、一日の冒険をすっかり後にして村で元の生活をしていたダンストンの元に、かごにはいった赤ん坊が届けられる。壁のたもとにダンストン宛の手紙と共に置かれていたというのである。ここでダンストンが何の抵抗もせずに子供を受け入れるのはおかしいとか、独身男性がどうやって赤ん坊を育てたのだろうかとか、深く考えないのがおとぎ話のいいところ。
そして十何年という月日がたち、この赤ん坊トリスタン(チャーリー・コックス)Charlie Coxは父親のダンストン(ナタニエル・パーカー、Nathaniel Parker)が壁を超えた時と同じくらいの年となる。実は映画の本筋はここから始まる。

正直な話、私はここでがっかりした。それというのもダンストンの若い頃を演じたベン・バーンズはとってもハンサムで魅力的だったので、てっきり彼が主役だと思っていたのに、最初の数分で出番が終わってしまい、それにひきかえ息子役のトリスタンを演じるコックスはパッとしないおよそ冒険映画の主役には向かない顔つきに見えたからだ。

ところで余談だが、バーンズのプロフィールを読んでいたら、2008年公開予定のナルニア物語の続編でバーンズは主役のキャスピアン王子を演じるらしい。これは非常に楽しみ。

さて、トリスタンは村の美少女ビクトリア(スィエナ・ミラー、Sienna Miller)に夢中。結婚を申し込むが村の金持ちの息子ハンフリー(ヘンリー・カビル、Henry Cavill)に興味のあるビクトリアには相手にしてもらえない。そこでトリスタンはビクトリアの誕生日の一週間後までに壁の向こう側に落ちた流れ星を拾ってかえってくると約束して、魔法の国へと出かける。

しかしトリスタンが魔法の国でみつけた流れ星とは、なんと天から落ちてきた美しい娘Yvaine(クレア・デインズ、Claire Danes)だったのである!

この流れ星を巡って魔法の国でどのような冒険が待っているのかという話は映画を見てもらうとして、この魔法の国で出会う魔女ラミア(ミッシェル・ファイファー、Michelle Pfeiffer)役のファイファーはすばらしい。彼女は40代後半のはずだが、なんとまあ美しい。競演の若い女優たちと比べても飛び抜けて美人だ。もっとも彼女の魅力はその美しさもあるが、彼女の存在感にあるといった方がいいだろう。

この映画は全体的にコメディタッチで進むが、テーマはトリスタンがうだつのあがらない一介の少年から、多々の冒険を経て大人になっていくというものだ。トリスタンが全くぱっとしないと第一印象を受けるのは意図的なもので、彼は映画が進むにつれて魅力的な男性へと変ぼうしていく。しかしそれにしては一週間という時間は短すぎて無理があると感じた。全く同じ筋で一年後の誕生日までに流れ星を持ってかえってくるとした方がおとぎ話としては自然だと思う。



Stardust

スターダストのポスター


途中で出会う海賊のシェークスピア船長(ロバート・デニーロ、Robert De Niro)を演じるデニーロだが、ファイファーと違ってデニーロはちょっとミスキャストではないかと感じた。これは演出の問題もあるが、デニーロ自身がどうもこの役柄にしっくりこないぎこちない演技なのだ。これだけの名優でも苦手な役柄というのはあるものなのだろう。

最近のハリウッド映画では、こういうファンタジーの世界で、しかもコメディだと、時代感覚をやたらに現代風にして、おとぎ話をばかにした態度をとることが多い。19世紀の世界なのに21世紀風の言葉使いをしたり、現代風の価値観がはいったりすると、完全に夢が破れてしまう。しかしこの映画に限ってそういうことは全く起きない。

また、私は魔女たちの魔法の力に限界があるという点がとても気にいった。よくSFとかファンタジーの世界では普通の世界とは違うというだけで、何の規則も限界もないと考える人がいるが、実はそうではない。幻想の世界にもそれなりの限界が必要である。そうでなければ魔法使いはどんな場合でも破壊されない無敵の存在となってしまい、危機感も何もなくなってしまうからだ。この世界に登場する人々は皆それぞれ不思議な力をもってはいるが、個々の力にはそれぞれ個性があり、出来ることと出来ないことがある。だからこそ流れ星を巡って色々な争いが生じるのである。

おとぎ話はえてしてカラフルな脇役におされて、美男美女の主役の影が薄れることが多いが、トリスタンと流れ星の関係は面白い。流れ星役のデインズは女性であることを忘れないがか弱いだけのお姫さまというイメージからはほど遠い。しかし人間ではないのだからこれも納得がいくというもの。

おとぎ話の世界で夢を追いたい人にはぴったりの映画。ぜひお勧め!

最初のほうでピーター・オトゥールのカミオ出演がある。

September 13, 2007, 現時間 12:42 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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July 25, 2007

内外二つの敵と戦う『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』

映画

日本では21日公開のハリー・ポッターの新作映画ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団(Harry Potter and the Order of the phoenix)。リンク先であらすじや配役、写真集、予告編など詳しい情報が読めるのでご参照頂きたい。

今回のハリー・ポッターを観ていてその根底に流れる強い正義感を感じた人は私だけではないだろう。J.K.ローリング著の同名の原作から映画化されたハリーポッターの新作が、いわんとすることは明白だ。

『この世には交渉不可能な絶対的な悪が存在する、敵が恐いからといって頭を穴に突っ込み相手の存在さえ認めなければ敵がいつの間にかいなくなってくれるなどという考えは甘い、その悪に滅ぼされないためには勇気を持って立ち向かわなければならない、もし誰もその戦いに協力してくれなかったら、自分ひとりでも戦わねばならない、なぜならこの世には命をかけて守る価値のあるものが存在するからだ』

私はこの映画を見ていて、イスラム教過激派という悪と戦う自由主義諸国という現在の状況を比較せずにいられなかった。ローリング女史がどのような政治思想を持つのか私は知らないが、911事件後に書かれたこの著書にあの事件が全く影響を受けていないと考えるのはナイーブすぎるだろう。

ヴォルデモートという凶悪な魔法使いの帰還を訴えるハリーやホグワーツ校の校長アルバス・ダンブルドアに魔法省のお偉方が全く耳を傾けない様子や、それどころか警鐘を鳴らすハリー達こそが問題であるかのように扱い、平穏を守るためとハリーたちを沈黙させようとさえする魔法省のお役人を観ていると、イスラム過激派という邪悪な敵の脅威を全く認めようとせず、戦いは必要だと訴えたアメリカ政府やイギリス政府をせせら笑っていたフランス並びに国連を思い出さずにはいられない。

本来ならば、善である魔法使い達が力を合わせて悪であるヴォルデモートとその一味と戦わねばならないはずである。着々と力をつけているヴォルデモートらを相手に一刻の猶予も許されない時に、魔法省は内部で勢力争いに明け暮れている。特に大臣のコーネリアス・ファッジはヴォルデモートを恐れるあまりその再来すらも認めようとしない。魔法省の腰抜けお役人たちはヴォルデモートの名前さえ口にしない。あたかも声に出していわなければその存在がかき消されるかのように。このような姿勢はブッシュ大統領について『ブッシュはテロリストの脅威を誇張して無益な戦争に国民を巻き込もうとしている』と言ってアルカエダの存在さえ認めようとしないアメリカ国内の民主党議員たちや反戦派の市民団体の姿とだぶってしまう。

魔法省から派遣されてきた新しい教授ローレンス・アンブリッジ女史は次期魔法省大臣の座を狙っている。アンブリッジ女史は次期アメリカ大統領有力候補ヒラリー・クリントンさながらの暴君である。アンブリッジ教授は生徒たちの教育など全く興味がない。魔法会での自分の勢力を強化するためにホグワーツの学長という立場を利用することができれば、魔法会がヴォルデモートの脅威にさらされて破壊の危機に陥ることすら価値ある犠牲と考えるような魔女である。民主党が自分らの国内での勢力強化のために勝てる可能性のあるイラク戦争に必死に負けようとしているのと全く同じだ。

私が心を打たれのは、このような逆境にあって勇気を捨てないハリー・ポッターと彼の正義を信じて疑わないハーマイオニーやロンたちの友情だ。大人たちから平穏を乱すとして厳しい処罰を受ける危険を知りながら、あえて三人は悪の軍団ヴォルデモートと戦うべく生徒たちのなかから戦士をつのりはじめる。悪は相手が子供だからと手加減などしてくれない。大人が頼りにならないなら自分達だけでも戦おう、敵が攻めてくるのをのんびり待っているわけにはいかないのだというハリー達の勇気には感動させられる。

多様文化主義の台頭で、伝統的な価値観がどんどん失われていく中、子供向けの小説、そして映画となったハリー・ポッターが、全世界の子供たちの間で大人気を呼んでいるというのはすばらしいことだと思う。子供たちに必要なのは政治的に正しい大人たちの下らない三流心理学や思想ではない。子供たちにとって必要なのは、いつの世にも悪と善が存在する、そして善を悪による攻撃から守るために、人々は勇気を持って戦わねばならないということを知ることだ。

世界中の子供たちがこの映画からその道徳を学んでくれたとしたらこれほどすばらしいことはない。

July 25, 2007, 現時間 12:22 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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July 6, 2007

ネズミのシェフ『レミーのおいしいレストラン』ラタトゥーイ

映画

さて、今日の映画はディズニー・ピクサー共同製作のアニメーション、ラタトゥーイ。邦題はレミーのおいしいレストラン。日本とアメリカはほぼ同時公開だったようだ。(写真集はこちら

一言でいって、今年最高の映画といっていい!いや近年中稀なる素晴らしいアニメーション映画というべきかもしれない。ピクサーのザ・インクレティブルスも良かったけど、この映画の方が数段上だと思う。インクレティブルズと同じブラッド・バードの監督、脚本。

左巻きで商業色どっぷりだったアイズナー会長の時代はかなり質が落ちていたディズニー映画の評判だが、会長辞任後のこの映画でその評判は一気に取り戻すことができそうだ。ウォルト小父さんもこれなら太鼓判を押してくれるだろう。

映画の主役はフランスの田舎町で残飯を大量に食べあさることで十分に満足しているネズミ一族のなかで、極端に鼻が効き味にうるさいグルメし好のレミー。食べ物の匂いを嗅いだだけで材料がわかってしまうという天才のレミーは忍び込んだ民家の台所で偶然テレビに映っていた今は亡き天才シェフ、ガストーの「誰でもシェフになれる!」という言葉に刺激される。どぶねずみの生き方は常に変わらないと語る父親に反して、レミーはどこかに自分の才能を発揮できる場所があるはずだと夢見る。

ひょんなことから一族とはぐれパリの町中に放り出されたレミーは自分の描いたガストーの幻に導かれ、今や世代が代わってすっかり評判の落ちているガストーレストランの前に立つ。そこへ下働きに雇われたうだつの上がらない青年リングイーニがストーブにかかっているスープに手を出し台無しにしかけているところへ、レミーが助っ人にはいる。これがきっかけでどぶねずみのレミーと人間リングイーニの共同料理作戦が生まれる。

話はレストランで下働きをする若者リングイーニがねずみのレミーに料理を教えてもらって料理がうまくなるというような安易な筋ではない。リングイーニは救い用のない料理下手なので、レミーを帽子の中に隠して料理を手伝ってもらう。猫の手もかりたくなる忙しさとはいうがネズミの手を借りるというのは聞いたことがない。しかしこのあたりは靴屋のおじいさんが眠っている間に小人たちが現れて靴をつくってしまったなんていうおとぎ話を思い出させる。

だがこの映画で一番大切な点は、ガストーの「誰でもシェフになれる」というモットーである。これはどんな才能のない人間でも努力次第でシェフになれるという意味ではない。「どんな運命の星の下に生まれようと、自分の夢を追い求めよ」という意味だ。どぶねずみとして生まれたからは、これまでもこれからも残飯漁りに明け暮れる運命だという人生をレミーは拒絶する。これまでずっとそうだったからこれからもそうでなければならないはずはない、生まれた時から運命が決められているはずはない、という頑固なレミーの根性が数々の試練を乗り越える糧となる。自分の運命は自分で切り開くものという非常に大切なメッセージが説教ぶらずに伝わってくるのがディズニーらしい。

ところで話のほとんどがガストーレストランのキッチンで展開されるが、料理中の描写がすばらしい。アニメをみているだけでコックたちがどういう材料でどんな調味料を使っているのかがわかるし、リングイーニの教育係になったキッチンでも紅一点のコレットが材料の下ごしらえをする場面では彼女の包丁さばきにはみとれてしまう。

映画ではプロのシェフが数名参加しており、多分本物シェフらの動きがそのままアニメ化されたのだろう。それに実際の高級レストランの忙しい調理場の雰囲気が伝わってくるのもこれらのシェフ達の協力を得ていること間違いない。私が思うに映画の制作者は実際にシェフのチームが調理をする状況をフィルムに撮ってそのままアニメ化したのではないだろうか。各担当のシェフたちがお互いに「ソース2分」とか怒鳴りあっているシーンは非常に現実的だし、ラミーが出来上がった皿のふちを布巾で拭くシーンなど本物のシェフがしているのをテレビの料理番組などでみたことがある。

さてラタトゥーイというのは南フランスの家庭料理の名前なのだが、映画の中でこの皿が出された時、その盛り付けの芸術的なこともさることながら、アニメーションなのにその材料がほぼ解るほど詳細に描かれている。私はこの料理がどんなものか全然しらなかったのだが、自分なりにズキーニ、スクワッシ、トマト、茄子などをトマトソースのようなもので煮た野菜料理ではないかと想像した。帰宅してからネットで調べてみると本当にその通りでふ〜むと思わず唸ってしまった。

背後に流れる音楽もフランス風ジャズの味な音だ。サウンドトラックを購入の価値あり。シェフがどぶねずみというのが弊害になって映画を遠慮する人もあるかもしれないが、どぶねずみだから成り立つこの映画、是非ともご家族をつれて御覧あれ!

アカデミー賞にノミネートされるべき!

関連レビュー:

ちょっと考え過ぎじゃないかなと思うんだけど、、、『レミーのおいしいレストラン』の場合/「ゲイな映画」と「クィアな映画」のあいだ。自分が自分の生きてる社会に所属しないなあという気持ちって別にゲイでなくてもクィアでなくても感じることなのよね。自己中心すぎる感想だと思うのだが、ま、こういう見方もあるかなってとこかな。

July 6, 2007, 現時間 6:54 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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June 18, 2007

世代を超えた魅力、ナンシー・ドルー探偵記

映画

私は小学生の頃から読書が非常に好きだったのだが、私の通っていた小学校の図書館にはそれほど価値ある児童書はおいてなかった。しかし中学生になって雨が降ると雨漏りするような木造校舎の二階にあった図書館には古い図書がいくつも置かれていた。そのなかで少女向け探偵小説ナンシー・ドルーは懐かしい。中学校の図書館においてあったナンシー・ドルーはその表紙からどうみても1950年代の再販版で、登場人物の物腰などもかなり古くさい感じのする小説だった。にもかかわらず私はナンシーの頭の良さとその推理力に魅かれて図書館においてあったシリーズは最初から最後まで何冊も続けて読んでしまった。



nancydrew

ナンシー・ドルー

ナンシー・ドルーが最初の発行されたのは1930年代初期のことである。原作者はキャロリン・キーンということになっているが実はそういう人物は存在しない。この名前はストラトメイヤーシンディケート(The Stratemeyer Syndicate)という出版社が生み出した架空の作家名なのである。ストラトメイヤーはシリーズ物を生み出す専門家で、複数の作家を起用しながら一つの架空の作家名で出版することで有名である。このシンディケートの生み出した少年用推理小説ハーディボーイズもナンシー・ドルーシリーズと共に世界中の少年少女たちに愛読されている。

このシリーズは時の少年少女らにアピールする目的で書かれているため、時代と共に挿絵や表紙だけでなく、中身も年代にあわせて新しくされ元の筋は保ったまま時代にそった内容に書き換えられている。リンク先のサイトにも最新版の表紙が載っているが、邦訳版の表紙はまるでアニメさながらである。(私としては完全にイメージくずれるのだが)

最近になって1930年代に書かれたオリジナル編が何冊も再発行され、挿絵も表現もオリジナルそのままのものを私はいくつか今度は英語で読んだ。金融大恐慌の時代に書かれた原作は21世紀の少年少女の世界とは全く違うが、それなりに別の世界をかいま見るようで興味深い。金髪美少女のナンシーは経済が低迷してアメリカの失業率25%という時代に、ロードスターという自家用車を乗り回しベスとジョージという二人の女友達と一緒に高級ホテルで昼食をとるような女の子。優しく頼りになる弁護士の父親と二人暮しで何不自由ない暮らしをしているナンシーの生活は当時本一冊買うこともできなかった少女らの幻想を反映している。

ナンシー・ドルーはこれまでにも何度も映画やテレビでドラマ化されているが、今回はアンドリュー・フレミング監督の最新映画ナンシー・ドリューをご紹介しよう。(公式サイトはこちら

新作のナンシー・ドルー(エマ・ロバーツ)は21世紀の小さな田舎町に弁護士の父親(テイト・ドノバン)とお手伝いさんとの三人暮し。父親がロサンゼルスの大企業の顧問弁護士となるべくナンシーを連れてカリフォルニアへ一時転勤。ロサンゼルスで親子が借りた屋敷は25年前に人気女優が殺され幽霊が出るという噂のある家。ナンシーは父親に危険だから探偵ごっこはしてはいけないと厳重にとめられているのだが、女優の謎の死はナンシーの好奇心をかき立てる。父親との約束をやぶって謎解きをはじめるナンシーの身辺で次々に不思議な事件がおこりはじめる。

ロサンゼルスに引っ越してくると、ナンシーが通いはじめる高校の生徒らは完全に今風のファッションだし、周りの景色も現在のロサンゼルス。ファッションも価値観も古いスタイルで、学力満点、陸上をやれば人一番早いし、大工仕事では男の子たちより手先が起用。何をやっても優等生のナンシーは場違いに浮いてしまうのだがこれは意図的。

私は最初に予告編を観た時、以前に1970年代のテレビ番組を元にしたブレイディバンチの家族のように、周りが21世紀なのにも関わらず自分らだけが1970年代のままというようなコメディタッチの映画になるのかなと思っていた。しかしそうではなく、単にナンシーは古いものが好きなだけで、ちゃんと携帯電話も使うし謎解きにはデータベースのお世話にもなる現代っ子である。

そして、どんな場合でもパニックに陥らずに用意周到機転の効くナンシーは原作のナンシーの精神をそのまま保っている。明かにフレミング監督はナンシー・ドルーのファンだ。

ナンシーの魅力は行動力もあり運動神経も抜群だが、決して女の子らしさを失わないことだろう。ナンシーのはにかみやのボーイフレンド、ネッド(Max Thieriot)との淡い関係はまだまだあどけなさが残っている。

それで肝心な謎解きのほうはどうかというと、ちょっと筋が単純すぎる感がなくもない。もっとも原作もアガサ・クリスティーのような込み入った内容ではなかったからこれはこれでいいのかもしれない。

ただ、時代考証がちょっとおかしいなと思われる場面が多い。冒頭で市役所に泥棒に入った間抜けな二人組にナンシーが人質になるシーンでは、ナンシーだけでなく泥棒や保安官及び周りの市民の服装などから一見1950年代を思わせる。私は映画そのものが1950年代を舞台にしているのか、それとも回想シーンなのかなと思っていたら、父親のカーソンが古いロードスターにのりながら、おもむろに懐から携帯電話を持ち出したので、あれ〜?と首を傾げてしまった。

それからロサンゼルスの屋敷で殺人事件が起きたのが25年前という設定になっているから1982年の出来事のはずだが、ナンシーが見つける昔の写真は1970年代頃を思わせる。殺された女優の身の回りの出来事を考えても、舞台を1950年代にして事件が起きたのが1930年代だったことにした方が話のつじつまがあうような気がする。もっともこれは私にとって25年前の1982年なんてそれほど昔という気がしないので、昔の事件の謎を解くとかいわれても神秘的な気にならないというおばさんの偏見なのかもしれない。(笑)

ドルー親子が借りた屋敷も殺人事件のいわれがある屋敷なのだから、もう少し神秘的な雰囲気を持った方がいいのではないだろうか。屋敷のなかで起きる不思議な現象の原因があまりにも早く暴露されすぎてちょっと気が抜ける。もうすこし観客を怖がらせてもいいような気がする。

ロサンゼルスで知り合いになり謎解きに協力する12歳の少年コーキー(Josh Flitter)との友達関係はちょっと不自然。フリッターの演技はいかにも12歳という感じで好感は持てるが無理矢理コメディリリーフをつけたようで演出が行き過ぎ。どちらかというと原作どおりベスとジョージ(Amy Bruckner、Kay Panabaker)と一緒に謎解きに取り組むか、でなければ1930年代の映画のようにボーイフレンドのネッドと一緒に行動するかした方が観客としては納得がいく。

しかし全体的に好感の持てる映画で十代の女の子でなくても十分に楽しめる映画になっている。デートでも家族ぐるみでも安心して見られる健康的な探偵映画である。

途中ブルース・ウィルスのカミオ出演がある。

June 18, 2007, 現時間 10:41 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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May 27, 2007

責任感だよシュレック3!

映画

本日は一週間ぶりに丘にあがってきたこともあり、コンピューターアニメの傑作コメディ、シュレック3を観てきた。日本語公式サイトはこちら。

1も2も面白かったので今回も期待していたのだが、その期待を裏切らず非常に面白かった。あらすじは予告編を見てもらえば分かるが、遠い遠い国の王様であるカエルのハロルド王は臨終の床でシュレックに後を継いで欲しいと言う。だが王様としての責任など果たせないと感じるシュレックは次の継承の立場にある王の甥、ティーンエージャーのアーサーを探しに旅にでる。長い船旅に出る寸前、妻のフィオラが子供を宿っていることを知らされフィオラと二人きりの静かな生活を今しばらく楽しみたいと思っていたシュレックは愕然とする。

一方今は落ちぶれて安宿で臭い芝居をしているチャーミング王子は王の死去を利用しておとぎ話の悪者連中を集めて今度こそは遠い遠い国の王として返り咲こうと企むのであった。

はっきり言って話の筋はどうでもいい。シュレックの魅力は個性ある登場人物と彼等の交友関係にあると言っていい。第一作目ではしゃべり過ぎでうるさかったロバは二作目、三作目と回を追うにつけ落ち着いてきた。特に二作目で恋におちた竜と結婚して何頭もドラゴン+ドンキーのかわいい子供たちが飛び回る。この親子のじゃれあいはとっても自然で微笑ましい。

シュレックの親友のロバ以外は皆おとぎ話の登場人物ばかり。長靴をはいた猫は窮地に陥ると大きな目を潤わせて訴えかけるし、両腕をひろげる度に小鳥がとまる白雪姫、プレッシャーがかかるとすぐ床みがきをしたくなるシンデレラ、大事な時に居眠りする眠り姫。

チャーミング王にシュレックの行方を問いつめられてなんとか嘘を言わないように何をいってるのかわからないような屁理屈でごまかすピノキオ。それを見ていてたえられなくなって泣き崩れる三匹の子豚たち。とまあ、個性豊な面々である。

シュレックの音楽担当は1960年代後半から70年代くらいの音楽が好きらしい。サウンドトラックに使われる音楽がかなり場違いで面白い。ハロルド王の葬式で流れる曲はボール・マッカートニーのリブオアレットダイだったり、白雪姫が突如レッドツェッペリンを歌い出すシーンなどは傑作だ。

日本語の公式サイトを見る限りでは予告編は日本語の吹き替えになっているが、ポスターには英語版の声優の名前が出ていることから、多分英語日本語字幕と日本語吹き替えの両方で公開されるのだろう。

吹き替えだと失われてしまうのが、キャラクターたちのお国訛りである。

シュレックを演じるマイク・マイヤーはカナダ人だが何故かシュレックはスコットランド訛り。ハロルド王のジョン・クリースもジュディ・アンドリュースもチャーミング王子のルーパート・エベレットも新しく登場する魔術師マーリンのエリック・アイドルも皆イギリス人。特にチャーミング王子のイギリス訛りはハンサムな容貌と家柄の良さを常に意識している上流階級の鼻持ちならない嫌らしさ溢れる声である。

猫の声はスペイン出身のアントニオ・バンデラスが演じているため彼のちょっとハスキーなスペイン語訛りの声はラテンラバーとしてメスにもてもての猫にぴったり。

それでも予告編をちょっと見た感じではロバのエディ・マーフィーの黒人訛りの声と日本の声優は声もイメージもぴったりで驚いてしまった。王子と猫の声は訛りはないがそれなりに演技力で雰囲気がよく出ている。日本の声優の方が元の声よりきれいな印象を受ける。

映画の中ではハリウッドの地元にいると解る内輪ジョークが結構たくさん出てくる。まず遠い遠い国のサインは完全にハリウッドのサインだし、お城に向かうパムツリー並木の道はうちの近所の景色そっくり。お城の門はパラマウントスタジオの門そのもの。城内の町並みはビバリーヒルズのロデオドライブあたりかな?

最後になったが今回の映画の主題は「責任感」シュレックは自分が王様になるのが嫌でアーサーに押し付けようとするし、同時に父親になることへの不安感でいっぱい。アーサーはアーサーで子供の頃から育った全寮制の学校でつねにいじめられてきた自分に王の座が勤まる自信はまるでない。この二人がいろいろな冒険を経て成長していく姿が描かれるわけだが、このあたりはちょっとお説教っぽいかな。

しかし愉快なキャラクター満載のドタバタコメディーで十分楽しめるのでこれは是非お勧め。週末にお子さんを連れてどうぞ。日本では6月30日ロードショー開始。


May 27, 2007, 現時間 12:41 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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May 9, 2007

陰陽に揺れるスパイダーマン3

映画

史上最高の売り上げを記録したスパイダーマン3の封切り。オープニングの週末に観にいってきた。前評判どおり非常に面白かった。

これまでのスパイダーマンでもそうだったが、スパイダーマンは彼の超能力による悪者退治も去ることながら、ピーター/スパイダーマン(Tobey Maguire)と恋人のマリージェイン(Kirsten Dunst)、そして親友のハリー/二代目ゴブリン(James Franco)との関係が主軸となっている。

私が特に気に入ったのはキャラクターの明暗を見せるトビー・マグワイアーとジェームス・フランコの演技だ。

映画はピーターがブロードウェイミュージカルに出演しているマリージェインの舞台を見にいくところからはじまるが、マグワイヤーの演技はまるでキートンの結婚狂であこがれの舞台女優を最前列で観ているバスター・キートンが演じた純粋で無垢な若者を思い起こさせる。しかしスパイダーマンとしての人気で図に乗ったピーターは、キャリアの伸び悩みに落ち込んでいるマリージェインの気持ちを酌むことができない。そんななかピーターは隕石にくっついて地球にやってきた異様な生物に取り憑かれる。



spiderman3

陰陽に揺れるスパイダーマン


予告編でスパイダーマンの赤い衣装がグレーのパワースーツにかわっていく映像をみなさんも御覧になったと思うが、この生物はホストの体に住み着いてホストの運動神経を増強させ、ホストにすばらしく力強い快感を与えるが、それと同時にホストの心の奥深いところに眠っている暗い本能も増強する力がある。

普段は大人しいが優しいピーターも、自分勝手な行動でぎくしゃくし出したマリージェインへの反感が異性物によって増幅され、同情心や思いやりの全くない不良っぽい女たらしへと変身する。ピーターが髪形から服装にいたるまで極端に変わっていく過程を監督のサム・レミーはミュージックビデオ風にコミカルに描いているが、ピーターの一番の変化は外面ではなく内面だ。大人しいが明るく好感の持てる若者が、やたら自信満々でごう慢なちんぴらへと変わっていくのをマグワイヤーは非常にうまくあらわしている。

ピーターの親友ハリーも同じように陰陽の葛藤に悩まされる。一方でハリーは初代ゴブリンだった父を殺したスパイダーマンを父の仇と復習に燃える暗い面を持ちながら、もう片方でピーターの親友としての友情も持っている。ハリーが親友とての友情を垣間見せる時のフランコの笑顔は非常に魅力的だ。これが復讐に燃えたゴブリンへと一瞬にして変貌するのが信じられない。しかもその変化が眉毛の釣り上げ方ひとつで起きてしまうのだからすごい。

この三人のなかで一貫してかわらないのがメリージェイン。彼女のピーターへの愛とハリーへの友情は二人の男たちには大切な希望となる。二人を暗い世界から救えるのはマリージェインのしっかりした存在だ。私は未だにダンストがインタビューウィズバンパイヤで少女吸血鬼を演じたあの子役と同一人物だとは信じがたいのだが、当たり前のことながらうまい役者は見る度に違うものだ。

さて、正義の味方には無論悪役が必要。今回の悪者はサンドマン(Thomas Haden Church)とベニム(Topher Grace)という強力な二人。サンドマンは病気の娘の手術費を稼ぐために強盗を働いた凶悪犯罪者。刑務所から脱走し逃亡の途中で、とあることから体が砂と化す怪物に変身。なぜか新しく手に入れた力を利用して堅気の商売をやろうなんて気にはならずに性懲りもなく現金輸送者を襲ったりしてる。ピーターの叔父を殺害した強盗と関係もありそうな因縁のある男である。

もうひとりの悪者ベニム登場のいきさつを語るのは控えておこう。ベニムの正体とピーターの明暗との葛藤とは密接な関わりがあるからだ。ベニムを演じるグレースはどっかで見たことある俳優だなと思っていたら、人気テレビコメディのThat 70s showでずっこけ主役を演じて一躍人気を得た俳優だった。これまでに出演した映画などから喜劇役者という印象が強かったので悪役をやるなど意外だが、これが非常な適役なのには驚いた。

スーパーヒーローものは何かとアクションに重点が行き主人公の人格形成や人間関係が希薄になることが多いが、この映画は強いストーリーラインがあるのが魅力だろう。しかしこのようなことを書くと人間関係ばかりで肝心のアクションがないかのように誤解されてもいけないので、ここで一言書いておこう。CGを存分に駆使した手に汗握るアクションシーンは盛りだくさん!ロマンスのかけらもない彼氏と恋愛映画専門の彼女が一緒に楽しめる映画である。またヒーローのかっこいい姿がみたいだけの少年少女にもサービス精神たっぷりの映画でもある。

スパイダーマン3は史上最高の封切りを記録しただけのことはある価値ある映画としてお勧め!


May 9, 2007, 現時間 11:41 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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March 23, 2007

おとぎの国につながる『テラビシアにかける橋』

映画

出張中の週末、忙しい中時間が開いたので昨日はディズニーの映画、"Bridge to Terabithia"『テラビシアにかける橋』を観た。

ニューベリー賞受賞のファンタジー児童文学(邦題:テラビシアにかける橋)の映画化。学校にも、家族にすらもなじめない少年ジェス(ジョシュ・ハッチャーソン)は、転校生の女の子・レスリー(アナソフィア・ロブ)と友達になる。絵を描くのが得意なジェスと空想好きなレスリーは、森の中に "テラビシア" という世界を創造する。

ジェスは小学校6年生の男の子。ティーンエージャーでけんかばかりしている姉二人と、甘えん坊の一年生の妹、生まれたばかりの乳飲み子の妹と女ばかりに囲まれた5人兄弟の真ん中にいる。田舎の村にすむジェスの父親は金物屋を営んでいるが経営は苦しく裏庭にある温室で育てている野菜は家族にとって必要不可欠。家計のやりくりや赤ん坊の世話で忙しい母親には陸上の得意なジェスに新しい運動靴を買ってやれず、姉からのお下がりで女の子用のピンクの靴を履けという。

学校でもジェスは友達がいず、後ろからわざとぶつかってくるいじめっ子たちにも妹をいじめる8年生(アメリカでは小学校から高校まで年生を続ける。)の女の子にも対抗できない。

そんななか隣に超してきた転校生のレスリーと友達になる。作家の両親を持つレスリーは偶然みつけたツリーハウスの上でいろいろなことを想像する。想像の世界をまるで現実に起きているかのように言うレスリーにジェスは最初レスリーが何をやっているのかわからず困惑するが、だんだんとレスリーの導きで幻想の世界が自分にも見えるようになってくる。



terabithia

レスリーとジェス

映画は彼等が本当に幻想の世界に行ったのかどうか断言しない。目の前にある大木が巨人に見えたり、空を飛ぶ鷹が巨大な鳥となって攻撃してきたり、松ぼっくりが手りゅう弾になったり、モグラやリスが凶暴な獣に変身したり、観客にはそれが二人の単なる想像なのか現実なのか、二人には本当にそう見えるのかただそう振舞っているだけなのか解らない。

この映画を観たある友人はファンタジー映画だと思って観にいったのに、主役の子供たち二人はファンタジーの世界に実際に行くのではなくてただ想像しているだけでつまらなかったと言っていた。

あなたが私と同じように子供だったことがある人ならきっと覚えているはずだ。ブランコが飛行機になって世界旅行をしたり、木からぶら下がってるロープを使って密林の王者ターザンになったことや、塀の上からシュワッチと行って飛び下りて完全にウルトラマンの気分で空をとんだことや、怪獣に変身した隣のマー君をこてんぱんになぐってやったことが、あなたにもあったはず。私たちはその時幻想の世界へ行かなかったのだろうか? 私たちはあの時おとぎ話の橋を渡って向こう側の世界に存在していたのではないだろうか?

そんな経験のある人ならこの映画は大人でも十分に楽しめる映画である。私は常に想像力は人の心を豊かにすると考えている。人々に想像力があったからこそ文明は発達したのだと私は思う。自分がすんでるほら穴以外に別な世界があるはずだと想像できなかったら、我々はいまでも穴暮しをしていたことだろう。

おとぎ話は想像や幻想の世界かもしれない。だがその世界を一度もかいま見ることのできなかった人は不幸だと思う。ジェスはレスリーによってその橋を渡ることができた。あなたもジェスとレスリーと一緒にこの橋を渡ってみませんか? おとぎの国、テラビシアにかける橋を。

March 23, 2007, 現時間 10:28 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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March 18, 2007

北米キャンパスを乗っ取る聖戦主義のユダヤ弾圧

宗教と文化 , 映画

今日は2002年にカナダのモントリオールにあるコンコーディア大学の生徒会が過激派イスラム教徒にのっとられた一年間を記録した記録映画、マーティン・ヒメル製作の"Confrontation at Concordia" by Martin Himel(コンコーディアの対立)を紹介したい。

映像はパワーラインのリンクをつたって4部にわけて観ることができる。

2002年、イラク戦争前夜のコンコーディア大学ではどこの大学でもそうであるように、大学の生徒会に関する一般市民の関心は薄かった。それを利用したイスラム過激派の生徒たちが生徒会に立候補。イスラム系生徒を動員して生徒会の委員をすべてイスラム教徒で乗っ取ってしまった。

多数議席を取ったイスラム生徒会が最初にやったのは、キャンパス内にあるユダヤ教サークル、ヒラルを生徒会から追放することだった。大学のサークルとして公式に認められないサークルは学校からの資金援助が全くもれなくなり、大学祭などの参加にも支障を来す。ヒラルとは全世界に存在するユダヤ教のグループで、ヒラルを追放したことのあるのはナチスドイツ政権下のドイツ以来だということだ。

同年、ヒラルは元イスラエルのネッテン・ヤフを演説の客賓として招くが、過激派イスラム教生徒たちが現れメガホンなどを使って演説を妨害。警備に当たった警察の数は全く足りずにデモ隊に完全に圧倒されてしまう。演説を聞きにきたある男性はヒジャブをつけた男に押し倒され、転んだ際に股間を蹴られたと証言。「まるで私が逃れたオーストリアでナチスの暴徒に接しているようだった。こんなことが再び起きるとは思ってもみなかった」とその恐怖と怒りをあらわにした。

暴徒らは会場にあつまってきた生徒や市民に暴力を古い、会場の窓ガラスを割、会場にはいりこんでエレベーターを占拠。(ベルリン市内のユダヤ系商店の窓ガラスを割るナチス暴徒の映像と重なって無気味だ。)先に会場内にはいっていた他の生徒たちを缶詰にした。ネッテン・ヤフ首相の身柄をあんずるという理由で学校側は演説を中止。演説をききにきた生徒たちの間で抗議の声があがる。なぜ我々は暴徒に屈するのか、ヤマカをかぶったユダヤ系生徒にたいし、主催側の生徒は「我々は彼等とはちがう、我々までいきりたっていては話にならない」と必死になだめていた。

演説が中止になったときいて外で騒いでいたイスラム教暴徒たちは大喜び。イスラエルの旗を持っていたユダヤ系生徒から旗を奪い取り引き裂いて足げにして猿のように飛び回って喜んでいた。

1960年代の学生運動がおきてから、北米の大学の多くが左翼運動家に乗っ取られてしまった。普通大学こそが多様の考えを自由に交換できる場所であるべきだが、実際にはそうではない。アメリカで保守派として愛国主義や親軍隊の思想を持っていたら左翼生徒だけでなく、左翼の教授らからも目の敵にされるのは必定だ。社会学や政治科学などの時間で保守派生徒は自分らの考えを述べようものなら赤点をとるだけでなく、クラスから追放されかねない。

また、保守派のサークルなどが保守派のスピーカーを招いて演説など主催しようものなら、左翼生徒たちがメガホンやラッパなどを使って会場を取り囲むだけでなく、暴力を使って演説を阻止するなど普通である。左翼主義の学校側もこのような左翼生徒の暴挙を見て見ぬ振りをするなどしょっちゅうだ。アメリカの大学でリクルートをしていた軍人たちが生徒に暴力を振るわれた例などざらにある。

コンコーディア大学ではイスラム系の生徒たちがこのやり方でユダヤ系生徒の運動を何かと妨害した。ヒラルのメンバーが校舎内で机を出してパンフレットを配ったりほかの生徒と話をしていると、パレスチナ人特有のスカーフを巻いた生徒たちがやってきて大声をはりあげ嫌がらせをする。ヒラルが主催するパーティや勉強会の会場前では常に徒党を組んで、参加者に口頭や時には暴力で参加の邪魔をする。

イスラム生徒達は英語圏では人々が敏感に反応する言葉使いに堪能だ。例えばヒラルのメンバーがイスラエルの歴史についての勉強会を開くといえば、「人種差別をやめさせよう!」といって騒ぐ。彼等のいう「人種差別」というのは「シオニズム」のことだ。彼等は「人種差別」「アパルタイト」と言った言葉を連発してユダヤ人を攻撃する。

ここで私がユダヤ人というのは文字どおり、ユダヤ人の血を受け継いでいるひとたちのことをさし、ユダヤ教徒やイスラエル国民に限定しない。イスラム生徒たちは自分らはイスラエルの暴挙に抗議しているだけであって、ユダヤ人そのものに敵意を持っているのではないと主張する。「仲間のなかにはユダヤ人の彼女を持ってるやつもいるし。」と薄ら笑いを浮かべる生徒会の男は無気味だ。そしてこれが真っ赤な嘘であることくらい誰の目にも明らかである。

コンコーディアのイスラム生徒たちはほとんどがパレスチナ系アラブ人だが、彼等の目的はパレスチナの独立だのイスラエルとの平和共存などではない。最終的な目的はユダヤ民族撲滅であり、イスラエル撲滅はその第一歩にすぎない。ユダヤ民族を海に葬ることさえできればパレスチナなどどうなってもいいのである。

イスラム系生徒たちの反ユダヤ人運動はナチスドイツのやったこととそっくりそのままである。最初にユダヤ人の陰謀というプロパガンダを流し、ユダヤ人の行動をなにからなにまで規制しはじめる。ユダヤ人には物を言わせない。ユダヤ人に味方する人々を暴力で脅迫するなどなど。

以前にも私はISMと呼ばれるパレスチナテロリストの外人部隊の話をしたことがある。彼等は欧米の大学のサークルなどを利用して、感化されやすい大学生を勧誘しパレスチナで反イスラエル運動をやらせるというあくどいテロ軍団である。しかしこのようなテログループが欧米の大学で自由に行動できるという事実に問題がある。

私はこの映画をみていて、ホロコーストはこうやって始まったのだと実感した。当時のドイツ人たちは、ユダヤ人が弾圧されるのを見て、自分には関係ないと考えたかもしれない。また多くのユダヤ人たちも、目立たないようにしていればいずれこの危機も去る、やたらに抵抗などしないほうがいいと思ったかもしれない。

だが、我々はその結果がどのような悲劇を招いたかを知っている。ユダヤ人がナチスドイツから学んだことは「二度とご免だ」ということだ。当時ドイツやオーストラリアにいたユダヤ人はそれでも逃げる場所があったが、いま北米に住むユダヤ人たちは逃げることはできない。いや、逃げるべきではない。このような反ユダヤ運動は発芽のうちに摘んでおくべきだ。イスラム教だろうがなんだろうが、自分らの考え以外の存在を許さない思想を我々は容認してはいけない。

イスラム生徒たちが反イスラエル思想をキャンパスですすめたいなら自由にやるべきだ。だが、ユダヤ生徒や他の意見を持つ生徒の言論や行動を迫害する態度は厳しく罰せられるべきだ。誰の主催する講演会であれ暴力で阻止しようとする生徒たちは機動隊を導入して暴力で阻止し、警察官および市民や生徒に暴力を振るった生徒は逮捕されるべきだ。

コンコーディア大学で一年間を描いたこの映画は希望の持てる終わり方をしている。

ヒラルの生徒たちの抵抗のおかげで、コンコーディア大学側もやっとイスラム過激派生徒による生徒会乗っ取りがかもし出した深刻な問題に対処しはじめた。まず生徒会は学校の予算を悪用している疑いがかかり、調査の対象になった。生徒会がパレスチナ運動のみに執着して肝心な学校の生徒会運動をおざなりにしていることで生徒の間でも不満がつのった。2003年の生徒会選挙では生徒全体を代表する生徒会にしようという新しい動きが生まれ、2000票対1000票という圧倒的勝利を得た。

一年間にわたるイスラム生徒独裁政権は終わったのである。

March 18, 2007, 現時間 12:51 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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February 24, 2007

武士道と現代戦略が衝突した『硫黄島からの手紙』

映画

私は負け戦は好きではないので第二次世界大戦で日本軍側からみた戦争映画を観るのは気が進まない。硫黄島の戦いを描いた映画なら、ジョン・ウェイン主演の「硫黄島の砂」でもみたほうが気分がすかっとする。やっぱり戦争映画は勝ち戦を観たい。

しかしクリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」は勝ち負けは別として興味深い映画だ。

物語は硫黄島決戦の総指揮官となった栗林忠道陸軍中将(渡辺 謙)が硫黄島に赴任するところから始まる。初日から古いしきたりに従って海辺で敵を迎え撃とうと浜辺で穴掘りを命じていた大杉海軍少将(阪上伸正)と無駄な戦闘で戦士を失いたくないと考える栗林中尉との間で作戦上の衝突が起きる。

また栗林中尉は赴任早々頼りにしていた海軍の艦隊がサイパンで大敗し空軍も海軍も日本本土守備に向かったことを知らされ、硫黄島にいた海軍将校たちはそれを知っていながら赴任してきた指揮官の陸軍中佐にそのことを黙っていたことを知り、栗林は「大本営は一般市民だけでなく軍隊もだまそうというのうか?」と憤りを隠せない。

栗林中尉はアメリカに駐留していたこともあり、西洋風の現代的な戦略が頭にあるのだが、大杉や他の副官たちは御国のためにどのように勇敢に名誉の戦死するかという考えしかなく、どうやってこの戦に勝つかという思慮がまったくない。どのような事態になっても最後まであきらめず戦い硫黄島を守り通す目的の栗林中尉は、攻めてくるアメリカ軍だけでなく内部で何かと玉砕したがる将校たちとの双方と常に戦わねばならないはめになる。

映画の主人公は栗林中尉であるが、ナレーターの立場にいるのは西郷昇(二宮和也)という若い兵士で、彼はもともと軍人ではなく一介のパン屋である。身重の妻を残して召集された身で内地で威張り腐って日本市民を虐待していた日本軍がやっている戦争など全く興味はないし、名誉の戦死などごめん被りたいと思っているただの一等兵である。だからこんな臭い島アメリカにやっちまえとののしって上官にさんざん殴られたりする。



硫黄島からの手紙    硫黄島からの手紙

西男爵(伊原剛志)、栗林中将(渡辺謙)

私は渡辺謙以外の役者は全く知らないが、二宮和也の演技はあまり日本人らしくないという印象を受けた。しかし現代っ子の日本人というのはこういうものなのかもしれない。

この映画は決して反日ではないが、軍事独裁政権であった日本軍の弱さがどこにあったのかということを考えさせられる場面がいくつもあった。例えば、ひとりひとりの将校が個人の手柄ばかりを優先する武士道的な考えが先行しすぎ、戦国時代の日本で「や〜や〜我こそは〜」と刀を振り回して馬を蹴散らすような将校は自分の部隊がどのような行動をとることが戦闘全体に有利になるかとうことを考えていない。何かと刀を振り回しては威張り散らす伊藤海軍大尉(中村獅童)や、戦況が悪くなって指揮そっちのけで玉砕を嘆願する足立陸軍大佐(戸田年治)などがいい例である。こんな指揮官に指揮される部隊はたまったものではない。

そんな中で栗林の意図を理解し現代風の戦争に取り組むのは男爵でオリンピックの乗馬で優勝したこともある西竹一陸軍中佐(伊原剛志)である。西男爵はハリウッドの俳優たちとも食事を交わしたこともあり英語もはなせる教養の高い人物であり、負傷したアメリカ兵に治療を施せと部下に命令するほどの人情家でもある。捕虜にしたアメリカ兵の母親からの手紙を読んでアメリカ兵は鬼畜ではない、彼等も同じ人間だと気が付く日本兵たち。

この映画は硫黄島においてアメリカ軍と戦う日本軍の立場から語られているにも関わらず、アメリカ軍の存在はほとんどない。この映画の主題は日本軍側の独裁制の問題と、伝統的な武士道と現代的な戦略の衝突を描いた映画であるといえる。

もし日本軍が栗林や西のような将校に多く恵まれていたならば、日本軍はアメリカ軍に勝ったかもしれない。だが、もし日本軍が栗林や西で満たされていたならば、アメリカとの戦争など最初から始めなかった、、と言うこともできる。

February 24, 2007, 現時間 7:24 PM | コメント (2) | トラックバック (0)

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February 18, 2007

幻想と現実が錯誤するパンズ・ラビリンス(牧羊神の迷宮)

映画

今日の映画はパンズ・ラビリンス(牧羊神の迷宮Pan's Labyrinth )というスペイン映画。監督と脚本はギレルモ・デル・トロ(Guillermo del Toro)。日本公開は今年の秋。(映画情報はこちら

牧羊神が出てくるというから、ナルニア物語みたいな子供用の幻想映画だと思って観にいったらもっと暗くて悲劇的な大人の映画で非常に驚いた。小さい子供には残酷なシーンもありちょっと恐い映画かもしれない。ファンタジー映画のファンだけではなく一般のひとたちにもぜひ見てほしい美しくも悲しい物語である。

例によって映画好きな友達はこの映画がスペイン語で字幕付きだとは全然教えてくれなかったので、突然英語の字幕が現れてかなりカカシはうろたえた。それというのもアメリカではあまり外国語の映画というのは公開されないからで、カカシは画面の下に現れる字幕を読むのに慣れていない。最初の配役紹介の部分では文字を追うのにかなり苦労したが、実際に映画が始まってみると、すぐに幻想の世界に引き込まれ字幕を読んでいるということをすっかり忘れてしまった。

物語は1944年、スペイン戦争後のファシスト政権下のスペインが舞台となっている。主役の少女オフェーリア(Ivana Baquero)は、再婚して身重の母親と一緒にファシスト側の軍人である継父が勤務する森林基地へと車で向かう途中で昆虫の姿をした不思議な妖精に出会う。

母子を迎えた継父のビダル大佐(Sergi López)はゲリラ勢力の強い僻地でゲリラと戦う任務に当たっている冷酷非常な男だ。ゲリラの疑いのある人間は証拠があろうとなかろうと拷問したり殴り殺すことなどなんとも思っていない。妊娠中毒で容態の悪い妻カーメン(Ariadna Gil)をわざわざ危険な戦地に呼び出したのも息子は父親のそばで生まれるべきだという身勝手な考えからだった。ビダル大佐は跡継ぎを守るためカーメンに基地の医者をあてがうが、奥方は絶対安静が必要だというファレイロ医師(Álex Angulo)にいざとなったら母親はいいから息子を救えと命令する。

この寂しい基地でオフぇーリアは妖精に導かれ基地のすぐそばにある遺跡のなかに入り込む。オフェーリアはそこで羊と人間の間の子のような牧羊神に出会い、自分がいにしえの昔別の世界で悲劇の死を遂げた地下の国の姫であることを知る。牧羊神はオフェーリアが姫としての位を取り戻し、地下の国で再び君臨するためには満月までに三つの試練を全うしなければならないと語る。



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牧羊神から指示を受けるオフェーリア

オフェーリアの冒険はまるでおとぎ話なのだが、その背景にあるファシストとゲリラの戦いは決して子供だましではなく非情で残酷な戦争である。映画ではオフェーリアの幻想の世界と、現実の世界が交互に境目なく描写される。

オフェーリアは現実社会の基地で親しくなった賄い女のメルセデスが(Maribel Verdú)実は弟のペドロ(Roger Casamajor)がいるゲリラ集団と内通しており、基地の医者ファレイロ医師もゲリラに協力していることを早くから学ぶが、オフェーリアは残酷で非情な大佐とは対照的にやさしいメルセデスやファレイロ医師に同情して秘密を守る。

映画はどちらかというとゲリラに同情的な立場をとってはいるが、政治的なことよりもこれは個人の描写に重点がおかれている。命令されたというだけでどのような非人道的な行為でも盲目的に従うビダル大差と、たとえ命令でもそれが正しいかどうか常に自分の意志で判断するオフェーリアの対照的な姿に注目すべきだろう。

映像は怪しく美しく現実と幻想が交わって最後のほうでは何が現実で何が幻想なのかわからなくなる。おとぎ話の結末は観客の見方次第でハッピーエンドとも悲劇とも言えるが、私はハッピーエンドのほうを選ぶことにした。

February 18, 2007, 現時間 5:25 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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January 13, 2007

番組のおしらせ! 14日『911への道』放映

イラク関係 , 映画

おしらせです。

日本時間14日20時よりWOWOWにおいて911同時多発テロがどのようにしておこったかを描いたテレビドラマが全編と後編にわかれて報道されます。詳細はこちら

真実を知りたいひとは是非御覧下さい。

この番組に関するカカシの意見は下記に書いていますのでご参考にどうぞ。

911ドラマ、『911への道』を観て、、

January 13, 2007, 現時間 7:03 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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January 2, 2007

夢いっぱいのドリームガールズ

映画 , 音楽芸能関係

同名のブロードウェイミュージカルの映画化だが、人気歌手のビヨンセ・ノールズを主役のディーナ・ジョーンズに起用、脇もジェイミー・フォックス、エディ・マーフィ、ダニー・グラバーなどで固めた大作。すでにゴールデン・グローブ賞にも主演女優、助演女優、助演男優などでの部門でノミネートされていたし、昼のトークショーでちらっと見た予告編でも歌の出演者の歌唱力には感服していたのでかなり期待して観にいった。そしてその期待は全く裏切られなかった。とにかくすばらしい!

映画の舞台は1960年代初期のデトロイトあたりからはじまる。地方の黒人観客専門に活躍していた歌手たちが、黒人市民運動を背景に、だんだんと人種のバリアーをこえて白人観客にも受け入れられいく時代である。そんななかで架空の黒人女性三人ボーカルグループが下積みからスターダムへとのし上がる姿が描かれている。



DreamGirls

ドリームガールス

シカゴで女友達の三人組、ディーナ(ノールズ)アニカ(ロレル・ロビンソン)エフィ(ハドソン)はドリーメッツ(後にドリームスと改名)としてエフィの弟CCの曲を歌ってコンテストに出たのがきっかけで中古車セールスマンをしながら興行師をやっていたカーティス(フォックス)に出合う。カーティスは人気歌手ジミー(マーフィー)のマネージャーのマーティ(グラバー)を説得してドリームスをバックアップコーラスにしてもらう。

ミュージックマネージャーとして才能のあるカーティスの強引なやり方はジミーとドリーメッツの人気をどんどんあげていくが、古い考えのマーティはついていけず去っていく。三人は念願かなってやっと独立しドリームスとしてしてデビューすることになるが、カーティスの独断で声も体もちょっと太めのエフィーではなく細身で美人のディーナがリードになる。歌は自分が一番うまいと自負するエフィーは不満をあらわにするが、弟のCCに「家族じゃないか、一緒にやろう」となだめられてしぶしぶ承諾する。

ドリームスとして人気が上がるにつれ一旦はリードボーカルをあきらめたエフィーだが、いつまでたってもバックにおかれていることに不満がたまり、グループの調和を強調するカーティスと噛み合ず何かと衝突しはじめる。テレビの録画中に立ち去ったのを最後にエフィーはグループからはずされ、恋人としてもカーティスから捨てられてしまう。

エフィー抜きで人気のあがるドリームスだが頑固なカーティスと衝突するのはエフィーだけではなかった。個性的で時代背景を反映した曲を書こうとするCC, 新しいイメージと音を求めるジミー、女優として羽をのばしたいディーナ、それぞれの芸術的才能がカーティスの頑固なビジネスの思想とぶつかりあって、一度は家族としてスタートしたグループの結束はじょじょに崩れていく。

ドリームスはダイアナロスとスプリームスをモデルにしたようなグループなのだが、主役のビヨンセはもとより新人のジェニファー・ハドソンの声はすばらしく力強い。キャリアの面からいえばデスティニーズチャイルドという女性ボーカルグループ出身のビヨンセのほうがずっと先輩だが、この映画は完全にハドソンの出世作になっている。演技といい歌といい彼女のほうがずっと印象的だ。エフィーが仲間から見放され恋人だったカーティスからも捨てられるシーンで歌う有名な"And I Am Telling You I'm Not Going"は胸をうたれる。(思わず泣いてしまった!)

助演のなかでも特に光っているのがコメディアンとして有名なエディ・マーフィー。人気絶頂の時ドリームスをバックアップに使っていたのが、人気を追い抜かれ、昔のイメージから抜けきろうと新しい音を求めながらも人気プロデューサーになったカーティスの手中から抜けきれずに葛藤する中年歌手。軽い演技が多かったマーフィーだがここでは実にコクのある味をだしている。マーフィは若いころレコードも出したことがあるので、歌えることは知っていたが、もしあの声が吹き替えでないとしたら歌手としても十分通用する熱唱だった。

ただ、ミュージカルとして徹底的に歌で筋を運んでいく形にするのか、歌手が歌手として歌うときだけ歌う形にするのか、一貫していないように思えた。映画の前半ではほとんどがドリーメッツやほかの歌手の舞台での演奏なので、歌手でない設定の登場人物が突然会話のかわりに歌い出すとちょっと違和感があった。

しかしエフィとほかのメンバーたちとの口げんかがそのまま歌になっていく"Heavy"のシーンはそれぞれの女性歌手たちの個性がでていて非常に迫力があった。欲をいうならもっとああいう場面を増やして欲しかったな。

欲が出たついでにいわせてもらうなら、私はダンスがすきなので、ミュージカルといえば歌と踊り。ドリームスの後ろで若い男性ダンサーが踊る場面があるので、もっとダンサーの振り付けが見られるようなカメラワークにしてほしかった。どうせ1960年代のテレビ番組を描くなら、カメラワークも当時のテレビの真似をするくらいの徹底さがあってもよかったのではないだろうか。決してダンスや振り付けが悪いわけではないのだから、カメラマンの才能をいかすより、ダンサーたちの才能を最大限に表現してほしかった。しかし振り付けがいまはやりの体全体にけいれんをおこしてるような醜いものではなく、指の先まで神経をつかったのびのびしたものになっていたのは懐かしくもあり新鮮だった。

私はこのミュージカルが若いひとたちの間で人気を呼んでいることに非常に喜んでいる。この世にはラップ以外にも音楽はあるのだということを知ってもらうことと、黒人ミュージックといえば、ラップが破壊してしまうまでは昔は歌謡曲の先端をいっていたすばらしいものだったのだということを若い人たちが改めて知ってくれることは、今後の音楽界にとっても非常に良いことだと思う。

映画全体に流れるすばらしい曲の数々。ハドソンが哀愁をこめて歌う"One night only", ビヨンセのソロ"listen",
フォックスの”When I First Saw You”など私は舞台のミュージカルを観ている気分で、一曲終わる毎に拍手を送っていた。

ミュージカル映画としては最近まれに見るすばらしい映画になっている。是非ぜひごらんあれ!

January 2, 2007, 現時間 11:31 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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December 14, 2006

滅びる文明を描いたアポカリプト

映画

メル・ギブソン監督のマヤ文明末期を舞台に一人の男の冒険を描いたアポカリプトが高評価を受けて人気ナンバー1である。(こちらのサイトで製作の苦労話や写真集を見ることができる)

前評判では暴力的すぎるという話だったし、予告編でも走っている場面ばかり多いように感じたので観にいく気は全くなかったのだが、友達が絶対に観る価値があるからというので先日見てきた。しかし私にはハリウッド映画特有の意味のないピストルの撃ち合いや爆発シーンなどに比べれば、確かに暴力シーンは凄まじいが現実的な意味のあるものになっていたと思う。



Mel Gibson in Apocalpto

メル・ギブソン監督


スペインの侵略によって滅びた南米マヤ文明だが、彼等も決して平和的な民族だったわけではない。それどころか彼等の文化は非常に血みどろのものだった。彼等は近隣部落に戦争をしかけては人々を拉致して奴隷にしたり生け贄にしたりしていたのである。

メキシコにあるマヤの遺跡には生け贄の人間が殺された岩台は何千何万という生け贄の血でどす黒く染まっているという。

この話はマヤ族の襲撃にあった部族の男たちとその家族の冒険を被害者の立場から描いたものである。映画の前半は部落の男たちが密林のなかで狩りをしたり、村にかえってきて家族と和やかなひとときを過ごしたりしているのだが、それが突然明け方に攻めてきたマヤ族によって村は焼かれ女たちは冒涜され生き残った若い男女は捕虜にされ連れ去られ、幼子は置き去りにされる。

捕虜の男女がマヤの町へつれていかれる途中、一行は病気で(天然痘?)死んだ母親の遺体のそばにたちすくむ発疹だらけの少女に出合う。病気がうつると恐れるマヤ族の男が少女を木の枝で押しよけると、少女は無気味な予言をする。

「豹と一緒に走る男がお前たちの終わりをつれてくる。お前たちはこの世からかき消される」

豹と走る男とは誰か? マヤ族をこの世からかき消すものとは何者か? 

さて、登場人物はすべて役者ではなく地元のインディアンを起用しており、誰も映画出演の経験などないどころか演技すらしたことのない人たちなんだそうだ。だからメル・ギブソン監督はシーンをいちいち自分で演技してみせてから役者たちに演技指導をしたそうだ。

私はそのことをテレビのインタビューを見て知ったのだが非常に驚いた。なにしろ彼等の演技はみなすばらしいし、素人だけを集めたにしては男も女も美形ばっかりだ。私はてっきりメキシコ人の役者を集めたのだとおもっていた。なにしろふんどし一丁で走り回る男たちは皆筋肉隆々の美しい若者だし、女たちも美人ぞろい。特に主役の若い男は非常に魅了的だ。

本当は秋頃公開の予定だったのが、メキシコの天気にめぐまれずかなり撮影は手間どったらしい。しかし我々観客にとっては待った甲斐があったというもの。

日本公開はいつなのかちょっと分からないが、ぜひお勧め。

December 14, 2006, 現時間 10:56 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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November 30, 2006

007の基本に戻ったカジノ・ロワイヤル

映画

日本公開は12月1日、(カカシの誕生日!)の007の新作、カジノ・ロワイヤル。 こちらアメリカでは2週間ほど前に公開されたので日本のみなさんに先駆けてみてきました〜! (配役やあらすじはこちら, 写真集はこちら

この新作は見出しにもあるように、ジェームス・ボンドの基本にもどったイアン・フレミングの原作が表現した生の男が赤裸々に描かれている。



CasinoRoyale

男臭さを見せるダニエル・クレイグ


まず、この話はボンドが007という肩書きをもらったところから始まるため、まだボンドは007というスパイとしての実績や経験が足りない。そのため基本的な間違いも起こすし、人を信用しすぎたり、感情に惑わされたりする。また彼が巻き込まれる暴力沙汰もコンピューターグラフィックがあからさまなきれい過ぎ画像ではなく、体と体がぶつかりあう生々しく暴力的な格闘だ。これは「ロシアから愛をこめて」でショーン・コネリー扮するボンドが列車の個室で殺し屋と格闘したシーンを思い出させる。

ここ数年ボンド映画はしょっぱなのスタントがずっと話題になってきていたが、最近はそれが行き過ぎで人間業ではないような不思議なスタントが多すぎた。「ちょっとそれはないだろう」というものが多々あった。 

今回のスタントは考えてみれば非現実であることに変わりはない。ジャッキーチェーンまがいの黒人スタントマンがすいすいと高いクレーンをのぼっていったり、クレーンからクレーンに飛び移ってみたり、確かに普通の人間ができることではない。にもかかわらず、非常に鍛えた人間なら可能かもしれないという幻想をもてるような現実みがあった。映画評論家のおスギさんがいっていたが、高所恐怖症の人にはチョット見られないシーンかもしれない。

主演のダニエル・クレイグは、美形でもなければショーン・コネリーのようなチャームもないが、生の男という感じがひしひし伝わってくる非常に魅力的な男だ。ボンドはロジャー・ムーアやピアス・ブラスノンのようなきれいな男がやってはいけないのだと私はずっと考えていたので、ダニエル・クレイグの起用は大成功だったといえる。

ボンドといえば何と言ってもタキシード姿でカードゲームをやるのが基本。映画のタイトルどおり、カードゲームのシーンがいくつか連続する。ボンド映画はアクション映画であると同時に推理映画でもあるし、精神的な戦いの映画でもある。静かにテーブルを囲んでボンドと悪者がポーカーをするシーンはどんなアクションシーンよりも迫力がある。また、ボンドたちがやってるゲームは最近欧米で大流行の上限なしのテキサスホールダム。ルールを知っている観客もかなりいるだろうから見ていて緊張感たっぷりである。なにしろこのボンド、新米だから必ず勝つとは限らないし、、

映画は何度となくどんでん返しがあり、これでおわりかなあと思うと意外な展開を繰り返す。そのなかにはアメリカ公開ではカットされそうになった残酷なシーンもまざっている。映画が始まる前に注意書きとして「裸のシーン、性的な拷問のシーンがあります」とあったが、13歳以上なら子供でも見られる映画でそんなたいしたシーンはないだろうと鷹をくくっていたらば、かなり衝撃的なシーンだった。(特にに男性には苦しいかも)

これはマッツ・ミケルセン扮する悪者ル・シッフルにとらわれの身となったボンドが座る部分をくり抜かれた椅子に全裸にされてくくりつけられ、縄の先におもりをつけたものを振り回して椅子の下からぶつけられるという拷問をうけるシーンだ。主役のクレイグにインタビューしたオスギさんの話だと、椅子の下にアクリルの板を敷いて実際には当たらないように工夫してあったそうなのだが、ミケルセンがロープについたおもりを強く振り回し過ぎて板が壊れてしまい、おもりがもろに当たってしまったという。クレイグは5分間悶絶して動けなかったとか、俳優さんも大変だな。

そうそう、忘れてはならないのがボンドガール。競演のエヴァ・グリーンは細身できゃしゃだが知的な美人。頭はいいけれど繊細な精神をもっていて勇敢。ポーカーゲームの最中に圧倒される美しさで他のメンバーの気をそらすことになっていたのに、そのあまりの美しさに肝心のボンドが気をとられてしまうというシーンは、ボンドの人間らしさが出ていて良かった。

ところであからさまなCGはないとは書いたが、迫力ある特撮は結構ある。ただどれが特撮かなどと考えずにそのまま楽しめるところがこの映画のいいところ。最後のベニスのシーンは最高。

ボンドファンは必見です!

November 30, 2006, 現時間 9:10 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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November 16, 2006

イスラム教、文明社会が知るべき事実 その1

ヨーロッパ , 宗教と文化 , 対テロ戦争 , 映画

本日はイスラム教過激派の脅威を描いた二つのドキュメンタリーを紹介したいと思う。 ひとつはObsession(執念)、 もうひとつはIslam - What the West Needs to Know(イスラムについて西洋が知るべき事実)。

イスラム過激派の狂信を描くオブセッション

「執念」のほうは先日テレビでその一部を観たが、情報提供をするドキュメンタリーとしてはあまり良く出来ているとはいえない。 ただ過激派イスラム教徒の狂信ぶりを言葉で説明するのではなく、イメージで訴えるやり方にはそれなりの効果がある。 何万人という信者が集まって「アメリカに死を!」と独裁者の音戸に取られて腕を降りたてながら何度も繰り返す映像はナチスドイツのヒットラーの演説を思い出させる。

また別のシーンでは幼稚園の女教師が子供に「ユダヤ人は豚だ」と教えていた。 女児が言葉に詰まった時に「はい、次はなに? 」と優しく聞き返し、女児が「ユダヤ人は豚です!」と答えると「は~い、よくできました!」と褒めてる図は背筋がぞっとする思いである。

我々文明人は自分らの物差しで他の社会を計るため、比較的民度が高いと思われるサウジやトルコ、エジプトのようなイスラム社会であからさまな反西欧のプロパガンダが朝から晩まで流されているということの深刻さに気がついていない。 一歳児に自爆ベルトを着させて自慢げに写真を撮る父親の気持ちが理解できていない。 幼稚園児が大きくなったら自爆テロになってイスラエルの豚どもを吹っ飛ばすなどと涙を流しながら訴える姿がつかみきれない。 

外面(そとづら)のいいイスラム諸国の代表者らは、西洋のメディアに面するときは西洋諸国が聞きたがる奇麗事を並べ立てる。 多くの「スポークスマン」たちは英語も達者で西欧風の振る舞いにも長けてチャーミングなため、我々西洋人は彼らも我々と同じ価値観を持っている文明人なのだとちゃっかり騙される。 だが彼らが自分達だけの間で話す時の西洋観は我々がきいてぞっとするような憎しみに満ちているのである。 たとえばここでも何度か取り上げたアメリカのイスラム教市民団体CAIRの代表が、911事件直後、「我々はこのテロリズムを断固糾弾する」と表向きは宣言しておきながら、自分らの会合では911の犯人たちを「19人の英雄たち」とたたえている映像がこのドキュメンタリーでははっきり映し出されている。

イスラム過激派は西洋社会に嘘をつきインファデル(無信心者)の我々を欺くことなど屁とも思っていない。 彼らの真の姿を知るべきだ、というのがこのドキュメンタリーのテーマだ。

悪の根源はイスラムの教えそのもにある

これとは別に、「イスラムについて西洋が知るべき事実」のほうは私はまだ観ていないが、その製作者たちの座談会がフロントページマガジンに載ったので。(Hat tip le'eXtreme-Centre )そこからこの映画の内容について紹介しよう。

元パレスチナ解放連盟(PLO)のテロリスト、福音書キリスト教徒に改宗し現在は熱心なシオニスト、「何故私がジハードを去ったのか」の著者ワリード・シューバット(Walid Shoebat)氏は、この映画についてこのように説明する。

私が過激派イスラム教を去ってからというもの、私は常に過激派イスラム教徒の心情について無知な西洋人に遭遇してきました。 どちらの側にもいたことのある私にとって私はその度に、スタートレックのスポック博士がカーク船長に幾度も宇宙人の考えを説明したように、(西洋人に)異邦人の考え方を説明するはめになったのです。 しかし西洋人と話す上で最初に私が遭遇した問題は彼らがイスラム社会も彼らと同じように、自由、平等、文明化、民主主義、そして生活向上といった希望を持っていると勘違いしている点なのです。

今日、古の世界で西に傷つけられ忘れられていた巨人であるイスラムは凄い勢いを息で吹き返してきてます。 イスラム教徒が多数を占める多くの国々で世俗主義や社会主義は人気を失い新しい傾向、本当はとても古いのですが、山火事が広まるかのように、よみがえろうとしているのです。 それが過激派イスラム教です。

私が参加したこのドキュメンタリーではイスラムの歴史のはじめから今日にいたるまでのつながりを、神話と事実が織り交ぜながら見せています。このドキュメンタリーはイスラム創造の父であるモハメッドによる紛れもない供述、イスラムそのものを情報源として、どう彼の教えが現在の我々の時代に生きているかということを説明しています。この証拠が討論されている間にも、世界の政治家達は否定できない事実を否定しています。 イスラムの真髄は単に「美しく平和な宗教」などではありません。 これは彼らだけの政治機構であるだけでなく残りの世界にも強制されようとしているのです。

東洋はイスラムが生まれた最初から知っていますが、西洋はまだ全くこの歴史に無知です。しかし西洋でもイスラムは広まりつつあるのです。すべての西洋人がこのドキュメンタリーを観るべきです。特にまだイスラムを批評する自由をもっている今のうちに。

このドキュメンタリーの製作者で、座談会に参加したほかの二人は、サージ・トリフコビック(Serge Trifkovic, 元 BBCワールドサービス報道員、元US News & World Report の記者、元Chronicles海外ニュースの編集長, そして The Sword of the Prophetの著者)と、ロバート・スペンサー(Robert Spencer, おなじみのイスラム教歴史学者。トルコ系カトリック教徒。イスラムに関する多々の著書があるが、一番最近はThe Truth About Muhammad)氏である。

この顔ぶれだけを観ても読者の皆さんにはこのドキュメンタリーの主旨がご想像いただけると思うが、彼らのテーマは欧米社会の政治家達が好んで使う、「イスラム教が問題なのではない、本来のイスラムは美しく平和な宗教である。問題はジハーディズム(聖戦主義)というイスラム過激派がイスラムを歪曲して解釈をしてテロを行っていることなのである。」という西側のレトリックは間違っているというものだ。 このドキュメンタリーはジハードの根源はイスラム教そのもにある、我々西洋人はそのイスラム教の悪から目をそむけてはならない、というのである。

この座談会でトリフコビック氏が紹介しているアメリカの公立中学で教えられているイスラム教について、驚くべき事実がある。

長くなるのでこの座談会の続きはまた明日。

November 16, 2006, 現時間 4:29 PM | コメント (3) | トラックバック (0)

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September 2, 2006

恥知らず反米左翼! ブッシュ暗殺架空ドラマを公開

対テロ戦争 , 映画 , 狂ったメディア

トロントで今月開かれる国際映画祭ではどうやら反米映画が溢れているようだ。イラク戦争前夜にイギリスでアメリカ大統領を侮辱してカントリーファンから見放されたデキシーチックスの文句たらたら自慰映画、「黙って歌え」がここで公開されるという話をきいたばかりだったら、今度はブッシュ大統領が暗殺されるという英国作成の擬似ドキュメンタリーが公開されるという。

「ブッシュ大統領暗殺!」、英TVが空想ドキュメンタリー

【ロンドン31日】英国の民放・チャンネル4が、ブッシュ米大統領暗殺というショッキングなテーマを扱った空想ドキュメンタリーを公開する予定だ。「ある大統領の死」と題する作品で、過去の記録映像とCG映像をミックスし、「ゾッとするほど」リアルな内容となっている。論争を巻き起こすのは必至とみられる。
 「ある大統領の死」は、ブッシュ大統領がシカゴでの経済界リーダーたちを前にした演説で大々的な反戦行動に遭遇、会場を後にする際に狙撃され、シリア生まれの男に捜査の焦点が向けられるというストーリー。
 9月7日に開幕するトロント映画祭で上映された後、チャンネル4のデジタル放送「More4」で10月9日に放映される予定という。
 「More4」代表のピーター・デール氏は、「これは並外れて人を引き付ける、迫力ある作品だ。魅力的な推理劇の出発点としてジョージ・ブッシュの暗殺を振り返るドキュメンタリー形式で作られている」と述べ、「現代米国社会についていろいろ考えさせる批評ドラマだ」と売り込む。「憤慨する人もきっといるだろうが、見てもらえば、洗練された作品だと分かるだろう。決して扇情的・短絡的なものではなく、示唆に飛んだ迫力ある作品であり、背景にある制作意図は善良なのだと分かってもらいたい」と話している。

な〜にが『背景にある政策意図は善良』なのだ。アメリカ憎しブッシュ憎しの悪意に満ちた映画ではないか。テロリストたちがアメリカを初め全世界の自由国家を皆殺しにしたいと考えている時に、自由諸国の代表でもあるアメリカ大統領の暗殺を奨励するような映画を作る人間どもの悪意には吐き気がする思いである。彼等はブッシュ憎しが講じてテロリストシンパへと成り下がったといっても過言ではない。

さて時事通信の記事では映画の内容があまり詳しく説明されていないが、ミスター苺がメールしてくれたデイリーメールの記事にはもっと詳しく映画の説明が載っている。(注:カカシは映画をみていないのでこの記事に書かれていることが本当なのかどうかはまだ確認できていない。)下記はこの記事をもとにカカシが要約したものである。

2006年11月、民主主義によって世界平和をもたらそうと演説するジョージWブッシュ大統領を暗殺者の銃弾が貫いて殺害する。容疑者の正体はすぐにメディアによって大々的に報道される。アメリカ人のほとんどが犯人がシリア生まれであるということだけで満足し、イランの犬と考えられているシリア政府に焦点が当てられる。シリア外相による悔やみの言葉や否定も空しく、アメリカ市民はダマスカスやテヘランからの正式発表など全く興味をもたなかった。テレビではこれらの国々の市民がお祭り騒ぎにくり出す姿が何度も放映された。

大統領の座を得たディック·チエイニーは常に非公開の安全な場所から声明発表をするため「洞穴の男」とあだ名される。「大統領の死を祝った者たちはすぐにその味を噛み締めるだろう」と新大統領。

アラブ諸国では人々が喜びにみちたが、ヨーロッパ諸国の反応も冷たかった。イスラムテロリストによって苦しめられたイギリスでさえあまり同情はみられなかった。場合によってはイスラム教徒以外の間でも喜ぶ声さえきかれた。

しかしひどかったのはチェイニー新大統領による厳しい取り締まりであった。テロ容疑者は条令もなく逮捕され裁判もなく処刑された。ブッシュ大統領の死を祝ったとされる諸国への攻撃案が作成され、シリアがまず攻撃され、イランが続いた。イランの革命軍はヒズボラの戦い方を学び真っ向からアメリカ軍にいどまずゲリラ戦をおこなった。

戦争はペネズエラまでにおよび、イギリスではイスラム教徒による暴徒によってガソリンスタンドなどが次々に爆破された。

テロ容疑者は容赦なくガンタナモ送りになり、キューバから亡命してくるキューバ人たちをアメリカ海兵隊が虐殺したとして、抗議したキューバを黙らせるためアメリカはキューバも攻撃。

チェイニーの独裁により、アメリカは危機につぎ危機を迎えるがアメリカ市民はチェイニーを断然支持、、、

まあ、こんなもんだ。この記事を読んでわかるのは、この映画制作者たちはアメリカ国民の本質を全く理解していないか、理解してわざと無視しているかのどちらかだろうということだ。

ブッシュ大統領の暗殺を待つまでもなく、アメリカでは国民全員を怒らせるテロ行為がすでに2001年9月11日に起きているのである。犠牲者の数が最終的に3000人前後と発表されるまでの数週間、我々は犠牲者数は4000人から6000人と聞かされていた。もし貿易センターが縦に崩れずに横倒しになっていたら、もしテロが起きたのが9時10分前ではなくてほとんどの人が出勤していた10分後だったら、何万という犠牲者がでたことは必定だ。それを考えた場合、もしアメリカ国民が怒りに狂って復讐をだけを考えるような国民なら、あの時ほどその本性が現れるのに絶好の機会はなかったはずである。

だがアメリカ国内でアラブ系の人間がリンチになったり、イスラム教の聖廟が破壊されたり、条令もないのに中近東の人々が、ただイスラム教徒あるというだけで大量に逮捕されたなどという出来事は全くおきなかった。一部ぼっ発的にイスラム教徒と間違われたインド人が嫌がらせをされたり、イスラム教聖廟に石が投げられたり落書きがされたといった程度のことはあったが、組織的なイスラム教徒迫害は全くおきなかった。それどころか、アメリカ在住のイスラム教徒に不心得者からの攻撃がないようにと地元のキリスト教徒やユダヤ教徒が率先して市民に冷静を保つよう呼びかけたりしていたほどだ。

テロ対策として提案された「愛国法」ですら、アメリカ市民や合法永住の外国人の人権を妨げるようなことがあってはならないと神経質なほどの考慮がされた。

だからブッシュ大統領がシリア生まれの男に暗殺されたとしても、アメリカ国民がヒステリーを起こしてシリアやイランに戦争を挑み、チェイニー新大統領が国民の人権を無視して容疑者をかたっぱしからガンタナモに送るなどということはまずあり得ない。

この映画はブッシュ大統領やチェイニー副大統領への侮辱であるばかりでなく、アメリカ国民全体への侮辱である。このような汚物を製作する人間が自由に物を言えるのも、彼等が軽蔑するアメリカやイギリスの愛国者たちが諸外国で命がけでテロ退治をしていくれているからではないか。もし我々がイスラム過激派とのテロ戦争にまけたならば、彼等のような堕落した馬鹿左翼どもが一番最初にジハーディストの刃に倒れるのである。

September 2, 2006, 現時間 8:52 PM | コメント (7) | トラックバック (0)

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July 21, 2006

映画韓半島ウソク監督の反日ぶり

映画

アップデート: 下記参照

きのうも当惑する韓国の反日感情でちょっと紹介したとおり、反日映画韓半島が韓国で公開された。

韓半島』 監督:カン・ウソク、製作:シネマサービス、主演:チョ・ジェヒョン、チャ・インピョ、アン・ソンギ、カン・シンイル

南北統一の日が近づく近未来。だが日本は妨害に出て韓半島(朝鮮半島)を危機に陥れる。カルチャーセンターを転々としていた歴史学者、チェ・ミンジェ (チョ・ジェヒョン)はその荒波の渦に100年以上隠されて来た歴史の秘密を暴かなければならない責任を負うことになる。後輩の歴史学者イ・サンヒョン (チャ・インピョ)と勇気ある大統領(アン・ソンギ)も危機に陥った韓半島を救うために立ち上がる。

映画監督のカン・ウソク氏のこの映画に対する思い入れを夢庵風流日記さんが紹介してくれている。

この映画を撮ったのはカン・ウソク、「シルミド」を撮った監督なのだが、彼は次のようにハッキリ語っている。「なぜこんなに反日的に描いたのかと思われるかもしれないが、個人的な思いが強く作用した」、「日本人の政治的な妄言や不適切な表現は、いくら傷つけても大した抵抗はしてこないだろうという彼らの考えが現われている」、「映画監督ではあるが、個人的に(そんな日本を)映画の中でぎゃふんと言わせたかった。だから反日色が濃くなった」。 この映画、最後に悪の日本国を国際法廷に立たせることが目的とまで言い切っている。

ウソク氏のいう「日本人の政治的な妄言や不適切な表現」とは具体的に何のことをいってるのだろう。日本政府が日本領海における査察は自制しろと促したことか? 竹島のことは国際社会にもちだして白黒はっきりつけようといったことか?

朝鮮戦争開戦記念日に豊臣秀吉の話がでてくる自分んとこの大統領の「妄言」は棚におき、何をいってるんだといいたくなる。

だいたい私は芸能人や映画監督が自分の著名度を利用して政治活動をするのを見るのが大嫌いである。特にこの映画の場合韓国政府の肩入れがかなりあるというから、これじゃあまるで大本営政策のプロパガンダ映画といわれても仕方ない。

でも第二次世界大戦などおじいさんの時代になってるひとたちが、こうも日本を嫌うのは何故なのだろう。不思議でしょうがない。

いくら韓国映画が好きな人でも、この映画はボイコットすべきだろうな。

アップデート:

韓半島公開5日で163万人動員という記事を見つけました。(Rainbow Chaserさん紹介)

韓国型ブロックバスター『韓半島(原題)』が、公開5日目にして全国で160万人を突破した。

 『韓半島』(監督:カン・ウソク、製作: KnJエンターテインメント)の配給を担当しているCJエンターテインメントは18日、「今月13日に、ソウル121スクリーン、全国520スクリーンで公開された『韓半島』は、17日までで、全国観客数163万6000余人を動員した」と明かした。

 また、「この記録は、全国的に集中豪雨に見舞われている中、多くの観客が劇場を訪れた証拠」、「この勢いなら、今週末には200万人を軽く越えられるだろう」と伝えた。

 一方、15日に豪雨の中、大邱(テグ)地域を舞台挨拶に回った、チョ・ジェヒョン、チャ・インピョ、アン・ソンギ、ムン・ソングン等、『韓半島』キャストは、釜山(プサン)地域を回る等、プロモーションをさらに展開していく計画だ。 

これに関してRainbow Chaserさん曰く、

日本でもし、朝鮮を悪者にした映画なんて作ったら国内外からものすごいバッシングで、謝罪の気持ちだとか差別だとか行き過ぎたナショナリズムだとか軍靴の足音が〜とか言われまくって、ものすごいことになるんだろうなぁ。

なんというダブルスタンダード!

July 21, 2006, 現時間 6:26 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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July 19, 2006

当惑する韓国の反日感情

映画 , 東洋危機

私の日本情報はどこで得るかというとこれがなんと浜村淳さんの、「ありがとう浜村淳です」という毎日放送のラジオ番組。私の出身は関東なので日本にいた頃はきいたことなどなかったのに、ここ数年インターネットのラジオですっかり浜村さんにはまってしまった。ははは、、

そんなことはどうでもいいのだが、本日の放送で浜村さんが韓国のノムヒョン大統領の異常なまでの反日ぶりに首を傾げておられた。このあいだの朝鮮戦争開戦56周年にあたる25日に歴代大統領は北朝鮮の脅威を述べるのが伝統となっていたのに、ノムヒョン大統領は突然豊臣秀吉の朝鮮侵略の話をはじめた。

「毎年、この日が来ると我が国の歴史を振り返って複雑な心境になる」と述べ、「例えば1592年、我が国は日本に踏みにじられ、あらゆる侮辱を受けた。中国からも2000年の間、何度となく侵略を受けた」と、豊臣秀吉が朝鮮半島を攻めた「文禄・慶長の役」までさかのぼって「受難の民族史」を強調した。

また韓国で公開された反日映画「韓半島」は韓国政府の御墨付きで韓国軍の全面的な協力があるなど、最近の韓国政府の親北反日ぶりは本当に当惑する。

『韓半島』 監督:カン・ウソク、製作:シネマサービス、主演:チョ・ジェヒョン、チャ・インピョ、アン・ソンギ、カン・シンイル

南北統一の日が近づく近未来。だが日本は妨害に出て韓半島(朝鮮半島)を危機に陥れる。カルチャーセンターを転々としていた歴史学者、チェ・ミンジェ (チョ・ジェヒョン)はその荒波の渦に100年以上隠されて来た歴史の秘密を暴かなければならない責任を負うことになる。後輩の歴史学者イ・サンヒョン (チャ・インピョ)と勇気ある大統領(アン・ソンギ)も危機に陥った韓半島を救うために立ち上がる。

共産主義の国、北朝鮮と手を結ぶのにこれまで韓国映画をたくさん買ってくれて韓国の観光産業をいっぺんに潤わせてくれた日本は敵に回すというわけね。うちの母などなんとかいう韓国人俳優のポスターを自家用車のダッシュボードにはりつけて毎日運転しているというのに、韓国映画界は日本様様ではないか、それがこの裏切りはなんだろう。

いや映画がこうなるのも指導者たるノムヒョンさんは、日本の拉致被害者の家族が韓国へいっても冷たい態度をとるし、韓国の拉致被害者家族への配慮もない。このあいだの北のミサイル発射だってノムヒョン大統領は日本やアメリカの反応が過剰だとすら批判していた。こうした大統領の態度には朝鮮日報の社説が強く批難している。

19日に開かれた安保関係長官会議において、盧武鉉大統領は北朝鮮ミサイル対策に関し、「実際の状況以上に過剰に対応したり、不必要な緊張と対決局面を作り出す一部の動きは問題解決にプラスにならない。特にわれわれが置かれた立場に照らして留意すべき部分だ」と述べた。

また、盧大統領は「現在は状況の本質を冷静に分析し、関連国の間で認識の共有を進め、根本的な解決のためのアプローチ方法を講究するのが何よりも重要だ」とも述べた...

しかし、一体何を指して過剰対応だとしているのだろうか。日本の首相が自国の領土を射程に収める北朝鮮のミサイルが発射されたのを受け、早朝から状況を点検したのが過剰対応だというのであろうか...

大統領は北朝鮮ミサイル問題に対し、関係国の間で認識を共有しなければならないと述べた。だが、北朝鮮ミサイル問題は韓国と北朝鮮を除けば、類例を捜し出すのが難しいほど関係国間の認識共有がうまくいっている。現在、ミサイル問題について独りよがりな変わった認識をしているのは韓国と北朝鮮だけだ。北朝鮮の「兄弟国」である中国さえも国連安保理決議案に賛成し、中国主席はこの決議案を支持するという意志を再度表明している。

大統領の発言は事実を正反対にひっくり返すものだ。現在、韓国が北東アジアでのけ者にされ、世界の迷子になってしまった原因は、韓国が北朝鮮ミサイル発射の第一の当事者であるにもかかわらず、拱手傍観で一貫してきたことにある。その結果、韓国と北朝鮮、言い換えれば「わが民族同士」を叫ぶ南と北だけが世界で孤立してしまったのだ。それにもかかわらず、大統領は世界の過剰対応が問題だとしている。

韓国にとっては日本やアメリカのほうが中国や北朝鮮などよりずっと頼もしい同盟国のはず。血がつながっているからなんていうくだらない感情に負けて自由主義を捨てるような危険をおかすべきではない。

私の同僚に以前韓国の非武装地帯で戦車を運転していた元米軍陸軍兵がいる。彼らの戦車にはアメリカ兵3人と韓国兵が一人乗り込むのが通常だったが、韓国兵はよく北朝鮮の兄弟に攻撃をしかける気はないといったという。それで私の同僚はもし打ち合いが始まったら最初に韓国兵を戦車から追い出すといっていた。敵をのせたまま戦争はできんからね。

しかしそんな韓国も今回の国連決議には日本がめずらしく背骨をみせたおかげで、諸外国の圧力に負けてしぶしぶながら同意せざるおえなかったが、これをうけて北朝鮮はすぐさま離散家族再会事業の中断を一方的に宣言した。

いくら韓国がご機嫌をとって北朝鮮を「我が民族」などと呼んでみて、北朝鮮は韓国など屁とも思っていないのであろう。ノムヒョン大統領のお人好しを利用して韓国を乗っ取ってやろうというくらいにしか思っていないはずである。北朝鮮の兄弟愛などしょせんこんなもんである。韓国は本当の味方をみきわめるべきだ。

July 19, 2006, 現時間 10:26 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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映画スーパーマンの帰還!

映画

さて、一応カテゴリーに映画をのせていることでもあるので、昨日みたスーパーマン·リターンズについてちょっと書こう。

全体的にみて失望したというのが私の意見。これって偏見がかなりあるのかもしれないが、私は旧作のスーパーマンシリーズが大好きだった。特に主役のクリストファー·リーブスの魅力には惚れたもんだ。それに悪役のジーン·ハックマンや痩せてた頃のマーロン·ブランドなどに比べると新しいキャストはどうも目劣りしてしまう。

物語は前作シリーズから5年くらい経った後という設定ではじまり、ロイス·レーンはその間に同棲して一子までもうけてしまっている。5年も放っておいたのだから仕方ないのだが、スーパーマンはいまだロイスにぞっこん。ロイスも口では強気だがいまだにスーパーマンを慕っている。

しかし主役のブランドン·ルースは美形だがまったく魅力がない。マネキンをみているみたいに堅くて生身の人間という感じがまるでしなかった。それでロイスのケイト·ボスワースとの間に全くケミストリーというものが感じられない。かえって恋人のリチャード(ジェームス·マーデン)のほうがよっぽども魅力があって、あんなすてきな彼がいたら、ブランドンのスーパーマンじゃ危ないだろう。

特にスーパーマンとクラーク·ケントの差がほとんどないためあれではすぐに正体がばれてしまうだろうな。正義の味方で秘密の正体がある場合、正義の味方のかっこうよさに比べて、普段のキャラはかなりずっこけてるとか、女たらしだとか、臆病者だとか、何かメリハリのある特徴が必要。だから周りの人たちがみて顔かたちは似ているけれど「まっさかあ〜」と思わせるような格差があるわけだ。

ストーリーもかなりまったらで、全然手にあせ握るという感じではなかったなあ。やたら大仰な音楽がなりっぱなしで、ここがみどころです〜と無理矢理思わせるやりかたにはかえってしらけてしまった。

確か昔のスーパーマン2で、スーパーマンが力を失いどっかのコーヒーショップでヤクザなお兄ちゃんにこてんぱんにやられるシーンがあった。後に力を取り戻したスーパーマンが同じコーヒーショップで同じお兄ちゃんを今度はこてんぱんにやり返した時は観客席から歓声がわいた。

今回もロイス·レーンが危機一髪で救われるシーンやスーパーマンが危機に陥いりそうになったりするシーンが結構あったのだがどういうわけか危機感が全然つたわってこず、助けが来てもどうも感激しなかった。それに海に沈みかけた船を引っ張りあげるシーンでスーパーマンは船の上にのっていたので、彼はどうやって自分の乗ってる船を持ち上げることができるんだろう、なんてどうでもいいことを考えてしまった。

ミスター苺の採点は、昼間の割引券程度の出来ということだった。

July 19, 2006, 現時間 6:15 PM | コメント (1) | トラックバック (2)

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