May 16, 2007
21世紀の共産主義、多様文化主義は自由社会を滅ぼす
カカシの苺畑よりをご愛読いただいている読者の皆様はもういつものことなので慣れていらっしゃると思うが、カカシはまたまた来週からネットアクセス不能の状態となる。リアルタイムでのエントリー更新は不可能な時はテーマを決めての特集をしているが、今回は今読んでいるマーク・スタイン著のアメリカアローン(アメリカ一人で)について特集するつもりだ。スタインの主題は欧州の少子化がイスラム文化侵略を許容しているといものだ。
しかしそれに先駆けて、同じテーマの記事を見つけたので今日はそれを紹介しておきたいと思う。ここでは少子化ではなく、多様文化主義がヨーロッパへのイスラム教侵略を許しているというもの。
私は長いことマルチカルチャーリズム(Multiculturalism)、いわゆる多様文化主義には疑いの目を向けてきた。多様文化主義とは何かといえば、どのような文化も均等に価値のあるものであり、どれが善くてどれが悪いということはない、それぞれの違いを認めた上でお互いに尊重し合おうというものだ。
一方でお互いの違いを尊重しあおうと言いながら、その違いを指摘すれば人種差別者とレッテルを貼られるのも多様文化主義の矛盾である。この矛盾を乗り越えて多様文化主義を完全に取り入れることができるのは全体主義でしかあり得ないと語るのがブルッセルジャーナル(Brussel Journal)のFjordman である。
多様文化主義では文化が非常に軽視されている。文化などファッションのようなもの。ただのアクセサリー。時々変えてみるのも悪くない。しかし、この文化への軽視こそが共産主義の本質であったことを忘れるべきではないとFjordmanは警告する。
文化が一般に重要ではないという考えはまさにマルクス的見解の世界であることを忘れてはならない。この、人は経済において一様であり、労働者と消費者の合わさった存在以上の何者でもないという考えは左翼だけでなく、政治的な右翼の間ですら受け入れられている。マルクス主義者は文化的考えが全く意味がないとは言っていないが、政治機構や経済についで比較的重要性の低いものと考えている。
多様文化主義者たちは宗教の価値を大幅に過小評価しているため、たとえイスラム教が世界を制覇するようになったとしても、キリスト教と名前が変わり協会の代わりに聖廟へいくだけのことでたいした差はないと考えている。これこそマルクス主義の物欲主義だとFjordmanは言う。
暗黙の了解となっている前提は独特の文化の時代は終わったということだ。それは世界中の人々がじょじょにお互いと混ざり合い、民族や宗教、人種間の緊張も消えてなくなる。なぜなら人類はひとつであり平等だからだ。これこそ共産主義の遺伝と文化である。個々の国の憲法や国境を守ることは「差別」であり、新しい理想郷の障害物となるだけだ。そしてこの妨害は無論西側諸侯を筆頭に自然と破壊される。そしてそれに成り代わり国際法や人権条例といった、良心的とされるエリートが取り決めした、彼らが我々の生活を統括する世界へと移り変わる、という思想だ。
まるでジョン・レノンのイマジンそのものの世界だなあ。
イマジン
想像してごらん 天国なんてないんだと・・・
その気になれば簡単なことさ
僕らの足下に地獄はなく頭上にはただ空があるだけ
想像してごらん すべての人々が
今日のために生きていると・・・
想像してごらん 国境なんてないんだと・・・
そんなに難しいことじゃない
殺したり死んだりする理由もなく
宗教さえもない
想像してごらん すべての人々が
平和な暮らしを送っていると・・・想像してごらん 所有するものなんか何もないと・・・
果たしてきみにできるかな
欲張りや飢えの必要もなく
人は皆兄弟なのさ
想像してごらん すべての人々が
世界を分かち合っていると・・・僕を空想家だと思うかも知れない
だけど 僕ひとりじゃないはずさ
いつの日か きみも僕らに加われば
この世界はひとつに結ばれるんだ
おっとろし~!1960年代のカウンターカルチャー(反文化)といわれたリベラルの動きの真っ只中にいたジョン・レノンがこういう歌を書いたのは当たり前と言えば当たり前だ。小野ヨー子の影響もあるしね。ま、そういう時代だったのだ。しかしこの反文化的思想が今日の社会に与えた悪影響は計り知れない。たった一世代がこれだけ欧米社会を変えてしまうと誰が予想したであろうか?
しかし多様文化主義者がどれだけすべての文化が同じだと唱えようとも、個々の文化には大きな差があることは事実であり、人々の好き嫌いまで多様文化主義の理想ではコントロールできない。にもかかわらず多様文化主義者達は異質文化を受け入れられない個人を処罰してまでこの思想を強制的に受け入れさせようとしている。
Fjordmanは多様文化主義が個人の自由意志を迫害する全体主義であることの証明として、イギリスの少女コーディ・スコットちゃんが英語の話せない東南アジアの学生と同席することを拒んだため、公共人種差別禁止法第5条に触れるとして逮捕された例や、ブライアン・コークさんという49歳のイギリス人男性が「イギリス人であることを誇りに思う」などとイスラム教徒に対して「故郷(くに)へ帰れ」と聖廟の前で怒鳴ったことから、人種差別的発言をしたとして6ヶ月の禁固刑となった例をあげている。しかもその一方でイギリス内のある地方都市ではイスラム法を主張するイスラム男性が数人の妻を娶る権利を与えられたというのだから驚く。
欧米の左翼思想はソ連や東圏の共産主義の崩壊と共に滅びなかった。欧米の左翼達は共産主義が実現できなかった全体主義を今度は多様文化主義という名のもとでイスラム系移民を使って実現させようというのである。共産革命は充分に暴力を駆使することが出来ず失敗したので、今度は暴力の有り余るイスラム教移民のジハードを利用して自由社会の崩壊を企んでいるのだ。
そしてまた、もともと暴力的な性質のイスラム過激派は欧米諸国左翼をさげすみながらもその多様文化主義を多いに利用して欧米社会を乗っ取ろうとしている。残念なことに両者の思惑は今のところ非常な成果を挙げていると認めざる終えない。
欧米諸国は自らの少子化による労働者不足を第三世界からの移民で補おうとした。しかも宗教も文化も極端に違うこれらの移民を多様文化主義の名の下に寛容に受け入れ、その違いを指摘する人々を「人種差別者」「排他主義者」と罵倒して無視してきた。左翼連中は多様文化主義を隠れ蓑として言論の自由、宗教の自由、そして交友の自由まで奪うことに成功しつつあるのだ。多様文化主義の国境のないヨーロッパ連盟とはまさに第二のソビエト連邦への第一歩といえる。
思想は重要だ。個性は重要だ。文化は重要だ。真実は重要であり真実は存在する。我々はかつてそのことを知っていた。我々が再びその事実を知るべき時がきたのだ。文化が無意味だという間違った考えは拒絶すべきだ。我々の伝統を未来の世代に伝えたいと思うことは人種差別ではない。また社会実験のモルモットのように扱われることに抵抗することは悪ではない。我々は国境を越えた多様文化主義そして採取的な大量移民の悪の芽を21世紀の共産主義として暴露し摘み取るべきである。
私は多様文化主義が共産主義かどうかという議論にはあまり興味がない。だが、多様文化主義の「寛容」という言葉は実は不寛容の裏返しである。異文化を寛容に受け入れなければならないという主張が異文化の悪い面を指摘する自由を奪っている。異文化を持つ人々を受け入れなければならないという主張が自由社会では基本となる交友の自由を迫害している。これらの問題は共産主義と呼ぼうと多様文化主義と呼ぼうと同じことだ。我々の自由はどのような名目の上にも奪われてはならないのである。
May 16, 2007, 現時間 9:25 PM
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下記は他のサイトからのリンクです 21世紀の共産主義、多様文化主義は自由社会を滅ぼす:
» カナダ:マーク・スタインの人権擁護裁判始まる from In the Strawberry Field
このブログではカナダやイギリスで起きている人権擁護法による人権迫害についてずっと追ってきているが、来週からカナダのジャーナリストで作家のマーク・スタインの「ヘイトスピーチ」裁判が始まる。 ヘイトスピーチとは要するに「悪意を持って相手を侮辱する発言」のことである。私は自由社会においては、偽りで相手を陥れ、相手の名誉を激しく毀損するような発言以外は許されるべきだと主張してきた。単に相手の気持ちを傷つけたという程度のことでいちいち訴えられていたのでは言論の自由など保つことは出来ない。 この裁判を直前にして... [Read More]
トラックバック日付け May 29, 2008 6:30 PM
コメント
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下記投稿者名: popper
「多文化主義・移民受け入れは失敗」
ヘルムート・シュミット元首相が少し前のインタビューの中で「多文化主義は民主主義とは折り合いが悪く、権威主義的国家内でのみ機能する。こう考えると、西欧諸国が前世紀60年代に、外国人労働者を導入したのはあやまちであった」と述べた。この老政治家の発言が波紋を投じるのは、彼が反外国人感情の尻馬に乗るような政治家でないことをドイツ人の誰もが知っているからである。
http://www.asahi.com/column/aic/Tue/d_tan/20041130.html
ヨーロッパの左翼の巨頭が白旗を掲げているわけですから、この問題は決着がついてもいいようだが、そうはならない。何しろ、左翼だけでなく、低廉な労働力を欲する資本家も多文化主義の後見人なのだから。しかも、現実には多文化主義にすらならない。管理人氏がイスラムに乗っ取られたカナダの大学を紹介したように、様々なエスニック集団による、特権を獲得するための、果てしなき闘争になる可能性がある。デンマークのイスラム教徒諷刺画がワシントン・ポストとニューヨークタイムズで転載されなかった事件があったけれども、日本で天皇の諷刺画が騒動を巻き起こしたら、即日掲載されているところだ。既にイスラム教徒はある種の特権階級である。人口構成比の変動とともに、移民社会の内部でのコミュニケーションコスト、調整コストは膨大なものになるだろう。
上記投稿者名: popper 日付 May 17, 2007 4:38 AM
下記投稿者名: scarecrowstrawberryfield
読者の皆様、
いつもリンクをしていただいている陳さんが、この件について下記のようにおっしゃってるので、ちょっと一部引用させていただきます。
確かにおっしゃる通りなんですが、多元文化主義はグローバリズムと表裏一体のものであるということに触れなければ片手落ちというもの。...
問題は、自由主義社会が多元化してイスラムを受け入れなければならないというのではなく、イスラム教国では自由社会で当たり前のことである信教の自由などが全くないということです。...
これは中共などについてもいえます。....この非対称性こそが最大の問題なのです。そしてこの非対象性は血を見ずに解決することはできない、と我は思います。...
我は崩壊寸前の中共がそうであるとは思いませんが、欧州世界がイスラムにのっとられたなら、それも自らが進めたグローバリズムの撒いたタネです。
ヨーロッパユニオンなどまさにグローバリズムの象徴といえるでしょう。国境のない社会という恐ろしい思想が巻き起こした悲劇です。ヨーロッパが生き残れるのかどうか、それについては来週特集します。
カカシ
上記投稿者名: scarecrowstrawberryfield 日付 May 17, 2007 7:01 AM
下記投稿者名: rice_shower
脊髄反射的に異文化を排斥せんとする脳筋反応者を侮蔑する。 何故なら、そこには己の精神の脆弱ゆえの、単なる異文化フォビア、多様性フォビア、異論、異質フォビアが透かし見えるからだ。 ヘタレは無様で、見苦しい。
一方、文化的ヘリテージを、非合理だから、非効率だからと軽視し、浅薄な普遍性を盲信する、拙劣、軽率、迂闊な多文化主義者とやらは、そもそも文化が必然的に孕む排他性を理解せぬ、非文化的存在だね。
日本で言えば、アッラーもキリストもヤハウェも、八百万の神々のone of themに過ぎないので、それを弁えて振舞って下さい、その枠を踏み越えるようなら、刈り取られることを甘受し、寛容に感謝し、身の程を知り、自制、自律して生活して下さい、という事かな。
上記投稿者名: rice_shower 日付 May 17, 2007 2:40 PM
下記投稿者名: scarecrowstrawberryfield
popperさん、
人口構成比の変動とともに、移民社会の内部でのコミュニケーションコスト、調整コストは膨大なものになるだろう。
鋭いご指摘です。実はこれについて来週書く予定です。今作成中。
カカシ
上記投稿者名: scarecrowstrawberryfield 日付 May 17, 2007 5:03 PM
下記投稿者名: scarecrowstrawberryfield
rice_showerさん、
脊髄反射的に異文化を排斥せんとする脳筋反応者を侮蔑する。...日本で言えば、アッラーもキリストもヤハウェも、八百万の神々のone of themに過ぎないので、それを弁えて振舞って下さい、
異文化だからと自動的に排斥するのではなく、自分の文化とはどうしても相容れない文化を寛容に受け入れるならば、それは自分が大切にしている文化を滅ぼす結果となります。キリスト教の神もヤハウェもそれを信じないものに強制的に自分らの価値観を押し付けませんが、アッラーを唱える過激派は改宗しないなら奴隷となるか、出て行くか、出なければ殺されるかを選べとなるから始末が悪いのです。
何もかも受け入れるという寛容な姿勢は結果的に不寛容な文化をも取り入れてすべてを破壊してしまうのです。ここが多様文化主義の矛盾です。
カカシ
上記投稿者名: scarecrowstrawberryfield 日付 May 17, 2007 5:08 PM
下記投稿者名: rice_shower
カカシさんとは、“寛容”と言う言葉の定義というか、感覚が違うようですね。
私の場合、言い換えるなら“filtering”か。 貴女の言われる“寛容”は、私の言葉で表現するなら“迂闊”ですかね。
“枠を踏み越えるようなら、刈り取られることを甘受”しないなら、宗教に関しては融通無碍と言っても良い、この日本社会も受容することは有りません、という感じでしょうか。
あ、それから“イマジン”の語る世界が噴飯物であることには激しく賛成。(私、ビートルズで音楽に目覚めたのですがね)
上記投稿者名: rice_shower 日付 May 17, 2007 9:03 PM
下記投稿者名: goda
>そしてこの非対象性は血を見ずに解決することはできない、と我は思います。...
これには残念ですが同意せざるを得ません。キリスト教が地球上で勝ち得た栄光・権力とその過程で犯した罪―コンキスタ=発見・征服する主体と客体という神学の罪―、これが今のキリスト教の成熟(異論は有るかも知れませんが)を齎しています。600年遅れて出てきた恐らく最後のセム語系宗教イスラム教もまた同じ道を辿るしか無いと悲観しているのです。彼等の神学には「贖罪」や「敗北」は皆無、つまりこれに耐えこれから学ぶ精神を持ち合わせず、その成り立ち故に本質的には好戦的、征服的です。これは非常に危険だと私は考えています。
あまつさえイスラムはアブラハムを「最後の預言者」とし、ユダヤ教にとってのイエスの出現という革命的変革への道を自ら閉ざしています。「シャリーア」による適応には限界が有りますし、私の知る限りでは(要確認ですが)9世紀以降改正されていないと言う。これでは彼等が現代社会と摩擦を起こさないほうが不思議と言うものです。
イスラム文化に限らず、多文化主義への寛容とは自己欺瞞の悲劇を招く危険が有ります。私の精神の核は神道と仏教です。故にその泥沼を恐れず、多様性や相対性を尊重するに吝かでは無いのですが、これにも自ずと限界が有る。卑近な例で申し訳ないのですが、私なりの観察と分析の結果、今現在の韓民族の精神文化は、私には決して受け入れられない物、否、絶対に許容しては成らぬ、それは私の精神を自ら損ない裏切る行為である、との確信が深まりつつ有るのです。
それは「相対性」がそれ自身「相対性」を否定するパラドックスの愚なのです。
私も"イマジン"を愛する世代です。だが同時に之ほど徹底的に私のリアリスムに反するものは無いですね(笑) 長文、失礼しました。
上記投稿者名: goda 日付 May 18, 2007 6:33 AM
下記投稿者名: scarecrowstrawberryfield
みなさんどうも、
私は子供の頃から英語の歌を意味も解らず暗記して口ずさむ習慣があり、イマジンなんかもメロディーがすきで歌ってた歌です。
ところが、英語が解るようになって、しかも政治とかに目覚めてから、何気なく覚えていた歌を口ずさんだら、「な、なんだ、なんだこの歌詞はあ~?」と思うような歌が多かった。(笑)
歌詞はわからないほうが言い歌って結構あるんですよね。
カカシ
上記投稿者名: scarecrowstrawberryfield 日付 May 18, 2007 7:26 AM
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