日付け → →March 31, 2008

対シーア民兵にイラク軍大勝利! 降伏するサドルに狼狽えるメディア

現在イラクではバスラを本拠地とするモクタダ・アルサドル率いるシーア派民兵軍に対して、イラク軍による猛攻撃が行われているが、イラク軍の圧倒的な勝利にサドルは悲鳴をあげ、なんとか生き残ろうと必死になっている。

以下ビル・ロジオより。

イラク政府がバスラのマフディ軍及びイランに援助されたシーア恐怖団体に対して挑んだ、騎士の突撃作戦(Operation Knights’ Charge)が始まって六日後、マフディ軍の指揮者モクタダ・アルサドルは戦士らに武器を捨てイラク警備群に協力するようにと呼びかけた。サドルによるマフディ軍への戦いを終わらせよという呼びかけは作戦が始まって以来マフディ軍に多大なる損害が出たことからきている。

「サドルは彼の忠誠者たちにすべての武力行使をやめるよう訴える伝言を送った。」とアル・イラキヤテレビ局は報道した。サドルはまた「政府や政党のオフィスや事務所...などを攻撃する者は勘当する。」と語った。

サドルの従者への戦いをやめるようにという呼びかけは、6日に渡ってマフディ軍が多くの死傷者を出したことが原因である。火曜日に戦いが始まって以来、358人のマフディ戦士が殺され、531人が負傷、343人が捕虜にとられ、30人が降伏した。米・イラク連合軍はバグダッドだけでも125人のマフディ戦士を殺している。イラク軍はバスラで140人のマフディ兵を殺した。

3月25日から29日の間でマフディ軍は平均毎日71人の割で殺されている。69人がすでに捕虜となり、ほかに160人が戦闘中に負傷したと報告されている。米・イラク連合軍は2007年の夏に行われたアルカイダとの戦いで、このような多大なる打撃を敵に与えたことはなかった。

ところがこの大勝利がニューヨークタイムスにかかると' こうなっちゃうんだからおそろしい:

シーア聖教者モクタダ・アルサドル師は日曜日、バスラとバグダッドで彼の味方である民兵軍とイラク・米軍の間で行われている六日間に渡る激しい戦闘を終わらせるべく第一歩を踏み出した。師は従者への提言でイラク軍が自分達の要求を飲む条件で銃を置くようにと呼びかけた。

 .....

米軍の戦闘機に援助されたイラク軍はサドル師関係のシーア民兵軍とバスラにおいて過去六日間に渡って引き分け状態を続けている。この作戦はノーリ・アル・マリキ首相への厳しい批判呼び起こしている。

南部を民兵の統括から取り戻そうとするマリキ首相の作戦は当初の予測よりもずっと激しい抵抗にあっていると先週イラクの防衛大臣アブドゥール・アル・オベイディ氏は認めた。

......

サドル師の今回の行動は2004年にナジャフで死ぬまで戦えと命令した態度とは対照的であり、サドル師の軍事指導者としての技能が過去数年で成長したことを意味する。

死ぬまで戦えと強気だった人間が、抵抗するな、抵抗する人間は勘当するぞ、などといきりたってることが指導者として成長した証拠だ?バカも休み休み言え!勝ってる人間がなんで降参の条件を提案したりするのだ?勝ってるなら戦いを止めろなどといわず、このまま相手が怯むまで突き進め!攻撃はやめるな、というのが筋ではないか。なんで勝ってる人間が相手に協力しろなんていうのだ?

そしてこれが日本の産経新聞になるともっとひどい!

【カイロ=村上大介】イラクのマリキ政権が南部バスラで開始したイスラム教シーア派民兵に対する掃討作戦は29日、5日目に入り、イラク政府軍の威信をかけた「単独作戦」の失敗が鮮明となりつつある。米軍は29日も前日に続き、空爆、昨年12月にバスラの治安権限をイラク側に移譲した英軍も作戦・情報面で政府軍への支援を開始した。しかし、民兵側は依然、バスラ中心部を支配下に置き、戦闘は中南部シーア派地域に広がっている。治安能力の限界を露呈したマリキ政権が自力で争乱を収拾できる可能性は少ないとみられる。

 政府軍は25日、イラク第2の都市、バスラのかなりの部分を支配下に置くシーア派の反米強硬派指導者、ムクタダ・サドル師派の民兵組織マフディー軍の影響力排除を目的に掃討作戦に着手。だが、マフディー軍側は予想以上に強固な抵抗を見せ、マリキ首相は28日、「同日深夜まで」とした民兵側への武装解除の最後通告期限を4月8日まで延期せざるを得なかった。

 バスラ攻略戦への関与を控えていた米軍は28日、戦闘機による限定的な空爆で直接介入に踏み切り、民兵に押され気味の政府軍の支援を始めた。イラクのジャーシム国防相は28日の記者会見で、「抵抗の強さに驚いている」と認めた。

 マリキ首相は27日、バスラの部族長を集め、「無法者とは最後まで戦う。話し合いも交渉もしない」と言明。これに対しサドル師側は「平和的解決を望む」としているが、徹底抗戦を続ける構えで、武装解除に応じる気配は全くない。

はっきり言って産經新聞の記者や編集部には現代の軍事作戦がどういうものか分かってる人間がいるのかと聞きたい。現代の戦闘では先ず地上部隊が戦いに挑み、敵に陣地をしっかり把握した時点で空軍の援助を呼ぶのは普通に行われている。地上部隊と空軍の協力行動は今や当たり前の作戦となっている。だが、イラク軍には空軍はない。また諜報部もない。だからイラク軍に足りない部分をアメリカ軍が補うのは当たり前だ。

これまではアメリカ軍が地上の先鋭部隊を送り込み、イラク軍は後部からの援助に参加する程度だったのが、いまではイラク軍が率先して先鋭部隊として地上で行動し、空軍援助を要請する立場となったのである。これはイラク軍が単独で行動できないことを証明したのではなく、イラク軍がどれだけ現代戦闘のやり方に慣れてきたかその成長ぶりを証明する状況が起きているのだ。それを産經新聞の馬鹿記者は全然わかっとらんのだ!よくもこんな無知蒙昧な人間がエリートメディアでジャーナリストですなんて顔をしてられるものだ、頭くるなあ!

従軍経験豊富なビル・ロジオはこういうことに関しては専門で、カカシは彼のサイトをもう5年くらい読んでいるが、彼がとんちんかんな分析をしたことは一度もない。そのビル・ロジオがサドルが必死に降伏交渉に入っていると言っているのに、ニューヨークタイムスや産経新聞(産経の記事はハッキリ言ってロサンゼルスタイムスの焼き直し)は引き分けだのイラク政府の不能を示しているだの滅茶苦茶なことを書いてる。

ニューヨークタイムスはしょうがないとしても、せめて産経新聞くらいは独自の取材をして真実を書いて欲しいものだな。かなり失望した。

March 31, 2008, 現時間 5:12 PM | コメント (0) | トラックバック (1)

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日付け → →March 30, 2008

学習力ないハリウッド、「ストップロス」反戦映画がまたも不入り

観てない映画の批評をするのも何だが、映画館で予告編を見ただけで十分にどういう映画かという予想はついたので観にいっていないし、観る気もない。と考えたのはどうやらカカシひとりではなかったようである。

ニッキー・フィンクの週末客入り情報サイトによると、キンペリー・ピアス監督の反イラク映画、ストップロスの売り上げはかなり悪いようだ。

金曜日7番で始まったストップロスの売り上げは8番に下がり、金曜と土曜の売り上げをあわせてもたったの170万ドル。これまでの合計はわずか460万ドルという情けなさ。この映画はMTV Filmsでは今週末一番評判がよかったにもかかわらず、制作会社のパラマウントはあまり期待をしていなかったようだ。パラマウントの重役によると、イラク戦争をテーマにした映画はこれまで成功した試しがないからだという。「イラク戦争の映画なんて誰もみたくないんですよ。どれだけ才能のあるタレントを起用しても、すばらしい予告編をつくってみても、人々は全く興味をもってくれません。これはまだ決着のついていない戦争にたいして市場がこの葛藤のドラマを受け入れる用意ができていないということでしょう。良い映画なので非常に残念です。ちょっと時代に先駆けしすぎているのでしょう。」

アホか!このパラマウント重役はアメリカ市民の軍隊に対する心情も愛国心も全く理解できないらしい。アメリカ人はイラク戦争の映画をみたくないのではなく、アメリカ人がいつも悪役になる戦争映画を拒絶しているだけだ!イラクで英雄として活躍するアメリカ軍人を主役に映画をつくってみろ!ボックスオフィス売り上げナンバー1は間違いない。

一応どういう映画なのかということを説明しておくと、イラクで活躍し英雄となって故郷のテキサスへ戻ってきた主人公は、戦場にいく前の平凡な生活に戻ろうとするが、突然かれの意に反して再びイラクへ呼び戻される。せっかく普通の生活に戻ろうと思っていた主人公の生活はめちゃくちゃになる、、といったもの。

だいたいこの筋の背景からしておかしい。アメリカは志願制なので、赤紙の召集令状がくるわけじゃない。一応特定の年数で契約して入隊するが、年期が切れても時と場合によっては年期が延期されることもあるし、一応正規軍からの除隊はしてもその後しばらくは予備軍として残るので緊急事態が発生すれば呼び戻される。これは軍隊に入隊する人はすべて覚悟の上ですることなので、戦争が続いている以上、また呼び戻される可能性はいくらでもある。軍人は戦争をするのが仕事なのだから、そんなこと当たり前ではないか。そんなことでいちいちひっくりかえっていては軍人など勤まらない。

私はイラクへ二回行き、三回目の出動が決まっている海兵隊員と話をしたことがあるが、イラクでの体験はどういうものだったかという私の質問に対してかれは、「よかったですよ。文句をいうことは何もありません。」と笑顔で答えていた。

イラクに呼ばれる可能性がかなり高い陸軍予備軍で軍医をつとめている若い男性と、イラク出動の可能性について話したときも、「命令が出ればいきますよ。任務ですから。」とたんたんとした口調ではなしていた。

自分は除隊しいまや予備軍にいて、二番目の子供ができるのを待っていた同僚の海兵隊員はイラク戦争そのものには反対だったが、「もちろん呼ばれれば行くよ。マリンだからね。」と語っていた。

つまり、私の周りにいる軍人でイラクにいきたくないよ〜、やだよ〜、とやってる人は一人もいないってことだ。うちの職場では自分の息子がイラクに行っていると自慢げに写真を同僚に似せて回るおやじさん達は何人かいるが、、、

ところで面白いのは、フィンクのサイトに寄せられたコメントだ。フィンクはこの映画だけでなく、ほかにもいくつか映画を紹介しているのに、700以上も寄せられたコメントはほとんどがストップロスに関するものばかり。しかもその意見はほとんどがカカシと同じ。下記はその一部。

反戦プロパガンダばかり作くるのをやめれば観客はみにいくようになるよ。スタジオの奴らにそんなことがわからいってのは本当に驚きだね。損失続きなのに同じような反戦映画を包装しなおして作り続けるハリウッドにはあきれるよ。---ジョー

ハリウッドが今製作する「戦争」映画をみたら、ジョン・ウェインは草葉の陰で泣いているだろうよ。もし彼が生きていたらハリウッドのばかどもに一発かましているところだ ---ジェフ

ストップロスだって?今頃なにいってんだ?1950年代の初期の兵役は朝鮮戦争のおかげで、みんな一年以上のばされた。1952年になって多少延期が減り、自分の任期は1952年の8月16日のはずだったが、実際に除隊したのは11月のことだった。なんて情けない泣き虫どもだ。---Jpjm

このようなコメントをハリウッドの重役や監督たちはどう受け止めるのだろう。ま、多分馬の耳に念仏で、保守派のアホどもがなにをぬかすか。映画作りの複雑さを理解していない田舎者のいうことなど聞く耳持たん、てな調子だろう。彼等は典型的なバカサヨなので(久しぶりにこの言葉をつかったな)自分らは無知でバカな観客を教育してやらなければならないというナルシシストな使命に燃えている。だからいくら作る映画作る映画が不入りでも、こりもせずにプロパガンダ映画を作り続けるというわけだ。

関連エントリー:
反戦映画が不入りなのはなぜか?
悲劇的な封切り、ディパルマ監督の反米映画「リダクテド」

March 30, 2008, 現時間 2:52 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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国連人権擁護審議会のお粗末な実態、イスラム告発映画はイスラム教への侮辱と決定

まあね、イスラム圏のあからさまな人権迫害は完全無視してイスラエルを責める条令ばかり発令してる国連のやることだから、いまさら驚くべきことではないが。

国連が騒いでいる映画とは、オランダの保守派議員でイスラム批判をしたおかげで命を狙われるはめになったヘールト・ウイルダース氏が作ったイスラム告発ドキュメンタリー映画である。

私はまだ観ていないので、この内容については小林さんのサイトから引用しよう。

オランダの国会議員、ヘールト・ウイルダース氏の反コーラン映画「フィトナ」が昨日、オランダのウエブサイトで公開・放映された。

早速見てみた。コーランの教えの一部を紹介しながら、テロで亡くなったり傷ついた人、首を切られた人、ユダヤ人に対する憎しみを教えるクリップをつなげる。オランダや欧州でイスラム教徒が増えて行き、映画監督が殺され、ゲイが攻撃されるクリップも出る。イスラム教徒の恐怖がオランダに押し寄せる新聞記事が紹介される。最初と最後に、デンマークのムハンマド風刺画(ターバンに爆弾がついている)が出る。

幻想的な音楽に乗って、静かにメッセージが繰り返される。最後はコーランを破くシーンもある(これには後で仕掛けがあると分かるのだが)。

本当はテレビで放映される予定だったらしいのだが、イスラム教徒からの脅迫が相次ぎどこのテレビ局も取り扱わないので、インターネットでの放映となったが、これも放映していたサーバーが次々に脅迫されビデオサイトはあちこちで閉鎖されてしまっている。これについてマイク・ロスが書いている。

元々、このビデオはNetwork Solutions社が運営するデータセンターにあるコンピューターにあるサイトから世界に配信されるはずだった。しかし、過激イスラムを恐れ、サイトはシャットダウンされた。また、別に作ったサイトはイスラムハッカーによって乗っ取られてしまった。

先週末にLiveLeakのサイトでYoutubeと同じ様に見れる形でアップロードされていたが、Liveleak社が従業員の身をあんじて配信を中止した。

つまり、イスラム教の暴力性を告発するドキュメンタリー映画を放映しようとしたところ、怒ったイスラム教徒らがテレビ局やサーバーに暴力的な脅迫をしてその放映を阻止したというわけである。平和な宗教が聞いてあきれるわな。

そして世界の人々の人権に神経質な国連の人権擁護審議会はといえば、このドキュメンタリーはイスラム教徒を侮辱するものであるから即刻その放映を各国で禁止すべきであるという条令を発令したというのだからお笑いである。

この条令はフランス、ドイツ、イギリス、カナダなど10か国の反対を押し切って、21対10で通過した。

EU諸国は対宗教侮辱法が言論の自由を規制するものになるとしてこの条令には反対したが、サウジアラビア代表は言論の自由について間違った解釈があると主張した。

もちろんその通りだろうとも。サウジアラビアのいう言論の自由とは、イスラム教を讃え、ユダヤ人を蔑む言論の自由という意味なのであり、イスラム教を批判する行為は言論の自由として認められないと考えているのだからこの発言は当たり前である。

ヨーロッパ連合は(条令の)内容が一方的でありイスラムへの攻撃のみを特定しているとした。

しかしサウジアラビアは「言論の自由という名の下にイスラムのみが攻撃の犠牲者になっているせいだろう。」とし、この条令は「2001年9月11日の悲劇的な事件後に強まるイスラム教少数派に対する宗教的民族的侮辱運動に対する深い心配を記載するものである」と語った。

サウジ代表はさらに、最近イスラム教やその救世主に対して意図的に悪意のあるステレオタイプなイメージが広められているとして、デンマークでおきたモハメッド漫画掲載などを例にあげてだらだらと文句をいっている。

イスラム教徒は暴力的であるというイメージが西側諸国によって広められているというが、爆弾しょったイスラム教徒が世界中で自爆テロやったり、乗客を乗せた旅客機をビルに突っ込ませたり、宣教師の団体を誘拐して殺してみたり、救世主が漫画でおちょくられたくらいで世界中で暴動おこしたり、法王のイスラム批判に怒って無関係な尼さんを殺したりする行為のほうがよっぽどもイスラム教のイメージダウンに貢献していると思うのは、カカシだけであろうか?

こんなお笑いぐさがあるだろうか?何の罪もない外国人労働者を誘拐して首をちょん切るビデオを製作してはユートゥーブで世界中に放映する行為は表現の自由だが、それを告発する行為はイスラム教徒への侮辱だというのである!非イスラム教徒がいくらイスラム教徒に殺されても、これは人権侵害にはならないが、イスラム教徒以外がイスラム教を言葉や映像で批判する行為は人権侵害だから擁護しなければならないというのである、これが国連のいう人権擁護法なのだ!これがヨーロッパやカナダで適用され、日本が適用しようとしている人権擁護法の実態なのである!

デンマークの政治家が告発するまでもなく、我々非イスラム教徒がステレオタイプなど悪意をもって広げるまでもなく、イスラム教徒らが自ら自分らがどれほど凶暴で野蛮な種族であるかを毎日証明しているではないか!

このドキュメンタリーが世界各国のテレビ局で放映できない理由はなんだ?凶暴で野蛮なイスラム教徒からの復讐を恐れるからではないか。

サウジアラビアや他のイスラム圏諸国が、イスラム教は平和な宗教であり、このようなドキュメンタリーは嘘だと世界中を説得したいのであれば、言論の自由を規制するのではなく、自分らの国々から派生している過激派イスラム教徒らを自ら排除することからはじめるべきだ。テロリズムへの言い訳をすべて西側諸国の悪意のせいにせず、自分らの中に巣食う悪を排除してこそイスラム教が平和な宗教だと世界に知らしめる一番良い方法ではないか。

私は常に西側諸国はイスラム全体を敵にまわすべきではないと書いてきた。イスラム教は平和な宗教として生まれ変わることができるはずだと主張してきた。しかしそれにはイスラムの悪を告発する人々を弾圧していてもはじまらない。そのことに早く気が付かないと我々はいずれ、イスラム教そのものを排除する戦いをするはめになる。そうなったらどちらにとっても決していい結果にはならない。

マイクさんによると、まだダウンロードできるサイトがあるらしい。イスラム教徒らの妨害が激しいのでいつまでアップされているか分からないが、興味のある方は今のうちに御覧になることをお勧めする。

ネット上でこのビデオは探せる。いろんな人たちがダウンロードできるようにサイトを準備し始めている。私はこのサイトからダウンロードした:

http://www.sendspace.com/file/bodnck

ページの下部の  Download Link: VideoFitnatheMovieGe.mp4  をクリックすればダウンロードできます。何時まで、このサイトでダウンロードできるかわかりません。

1939年にナチズムがヨーロッパから葬られた
1989年に共産主義がヨーロッパから葬られた
過激イスラムが葬られるのは何時?

ビデオが行う最後の問いかけです。

March 30, 2008, 現時間 2:34 AM | コメント (1) | トラックバック (0)

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日付け → →March 29, 2008

イスラムの横暴に腰抜けなイギリス協会

The English version of this entry can be read here.


最近イギリスにおけるイスラム教徒の暴挙は目に余るものがある。彼等の暴挙は暴力的な犯罪のみならず、彼等がイギリス政府に要求する理不尽な特別扱いにある。しかしこの状況をみるにつけ、私はイギリスの問題はイスラム教徒にあるのではなく、イギリスの国教のイギリス協会そのものにあるのだと考える。

英国には国教というものがある。多くのイギリス人がこの国の協会による教えを道徳的な基準として仰いでいる。イギリス帝国の国民にとって協会だけは常に妥協せず、変化せず、苦境に屈しない強固な柱のような存在として人々の心の拠り所となっているのである。

人間とは弱いものだ。神の期待に常に応えることはできない。しかし信者たちは神が自分達に何を求めているかを常に知っている。少なくとも人々が神の教えに近付けるように導いてくれるのが協会であるはずだ。

だからこそ人々は他人のために命を投げ出して正しいことをしようとするのではないか?
だからこそ普通の人々が悪と立ち向かうために立ち上がるのではないのか?人々が何が悪で何が善かを知っているからこそ、善を保つために戦う勇気を持てるのではないのか?

しかしもしもその精神の拠り所となるはずの協会が弱腰になって、争いを避けるためにと、ことあるごとに不寛容に寛容になれといって、人間を生け贄にするような野蛮な宗教に理解を示せとか言い出したらどうなるだろう。

信じられないことだが、イギリスでは実際にそんなことはすでに起きているのである。トム・ブランクリーが伝えるこのニュースなどは まさにその典型例だ。

この話は二週間前に、キリスト教文明発展の指導力として900年の伝統を持つ大学のある町、イギリスはオックスフォードから来たものだ。またしても青い鳥よりも恐ろしいものがイギリスの空を脅かしている。オックスフォード中央聖廟の役員たちは聖廟の塔のてっぺんから大型スピーカーで町中に響くようけたたましい音で一日に五回イスラム教のお祈りを放送する許可を申し出たという、過去900年に渡って春夏秋冬に地元の協会の鐘の音だけが聴かれてきたこの町でである。

今さら驚くことではないが、オックスフォードのイギリス協会主教であるジョン・プリットチャート神父は(the Right Rev. John Pritchard)地元のキリスト教信者たちは「多様性を楽しむ」べきであると発表した。この神父は先日イギリスにシャリア法を取り入れるべきだと語ったカンタベリーの大主教の跡継ぎとされている人物である。

問題なのはヨーロッパのイスラム教徒が移住先の社会を彼等の信仰に合わせて変えていこうとしていることではなく、ヨーロッパ人が自ら進んで彼等に迎合しているこである。シャリア法の侵攻はこのまま続くであろう。このまま何の抵抗も受けないのであれば。

もしキリスト教の教えに「多様性」の大事さを説く部分があるというなら見せていただきたいものだ。信仰の多様性を受け入れるならキリスト教を信じる意味がないではないか?壊れた道徳の羅針盤は何処も示さない。暴力への理解は平和などもたらさない。かえってことは混乱し暴力は増すのみである。そしてその結果キリスト教信者は減ってしまうのだ。

イギリスでイスラム教の暴力団が麻薬売買をし未成年の少女たちを売春に追い込んでいるという話は大分前から問題になっている。しかしこうした少女たちの親たちが地元警察に訴えでても警察当局は少数民族の異文化に十分な理解を示していない と責められるのではないかと懸念し、しかもやり過ぎれば人種暴動になりかねないと恐れてイスラムやくざを取り締まろうとしない。(Hat tip to Lionheart.)

昨晩ラマダンファウンデーションのモハメッド・シャフィク会長は警察は犯罪者の人種によって取り扱いを差別していると批判した。

氏によると警察はブラックバーンやオルダムで起きたような人種暴動を恐れて「神経過敏」になりきちんとした取り締まりを行っていないと言う。

今週のパノラマ誌の氏の問題な発言は2004年のチャンネル4のドキュメンタリー番組で爆発敵な話題を巻き起こした問題に再び火をつけることとなった。

この番組ではブラッドフォードのアジア人(パキスタン人)が地元の未成年白人少女たちを売春婦として教育しているというものだったが、チャンネル4の番組リストからは外されていた。

警察が地元の選挙期間中に人種暴動を誘発する恐れがあると主張したことが原因だった。

しかし英国のイスラム教徒たちが要求しているのは「寛容」などという生易しいものではない。最近パキスタン人移民二世代目の青少年たちが、ナチス台頭直前のヒットラー青年団よろしく、キリスト教徒やユダヤ教徒に対して実際に暴力を振るう事件が 相次いでいる。

三月五日、聖ジョージ協会の前で、神父のカラーを着用していたキャノン・アインスワースさん57歳は(Canon Ainsworth)二人のアジア人の若者に殴る蹴るの暴力を受けた。その間もう一人が宗教的暴言を叫び続けたという。神父は切り傷、打撲、両目に青あざの怪我を負った。神父は聖バースロミュー病院から一旦退院したが、その後怪我の後遺症が出たため再び入院した。

しかし英国警察はなにもしない。イギリス協会もただただ腰を抜かすだけである。いや、厳密にはそれは正しくない。警察がなにもしてないというのは嘘だ。 彼等はイスラムの暴挙を暴露したイギリス人ブロガーライオンハートをイスラム教徒への人種的な嫌悪を広めるとして逮捕していたんだっけ。ミスター苺が皮肉っぽく、「イギリスには言論の自由が尊重されてて良かったねえ〜。」と言っている。これもイギリスの人権擁護法のたまものである。

どうやらイギリスはイスラム過激派を止めることより、それを暴露する人間の口を閉ざし、シャリアという五右衛門風呂のなかで序々に煮え殺されるのを好むらしい。ローチェスター市の主教、マイケル・ナズィアー・アリ神父(the Right Reverend Michael Nazir-Ali)がイスラム教徒による非イスラム教徒への暴力を非難すると、反対に彼に対してあちこちから非難轟々の嵐が集まった。自由民主党の党首までも一緒になって神父を非難しているのだから信じられない。

日曜日のテレグラフ紙にローチェスター市の主教、マイケル・ナズィアー・アリ神父は多様性こそが宗教団体を隔離する原因であり、非イスラム教徒らがイスラム過激派が占めている土地でひどい扱いを受けていると書いた。

アリ神父は政府が強制している混合は「道徳および精神的な見解」に欠けるとし(国教として)設立されているイギリス協会を優先しないことを指摘、これが「多様信仰のちゃんぽん」になったと強く批判した。

神父はさらにシャリア法の一部、特に聖廟の上から大型スピーカーでの祈祷放送は英国において適切であるかどうか懸念を示した。

これに対して自由民主党の党首、ニック・クレッグ氏は神父は非イスラム教徒「立ち入り禁止地区」ができているという証拠を出していないとし、神父の発言は「非常に挑発的ないい方だ」と表現した。

クレッグ氏が文化的に敏感であれば、神父の名前からして彼がパキスタン系移民であることに気が付いたはずだ。神父の家族自体はずっとキリスト教徒だったらしいが、イスラム社会で少数派のキリスト教徒としてイスラム教を批判することがどれほど勇気のいることか、多様文化に理解を示すことに忙しいクレッグ氏には理解できないのだろう。イスラム社会出身なだけあってアリ神父にはイギリス協会の教えが根本的にイスラム教のそれとは相容れないことを身にしみにて知っているのであろう。

で、このような信者や神父らへのイスラム教徒による暴力をイギリス協会の大主教様はどう思われているのかといえば、この人は以前にもイギリスにシャリアを適用すべきなどといってるようなトンデモ大主教だけあって、今回もまた イスラム過激派とその犠牲者を同等扱いする発言をした。.

神父の文章はちょっと難かしいので直訳せずに要約すると、要するに内部で分裂している社会でも外部からの敵を正しく見極めることができれば一時的に団結することが出来るのは自然である。不安定な状態にあるイスラム圏の人々が不思議な西側のキリスト教を悪視するのも、困惑し脅えたヨーロッパ社会がイスラム教を「自分らの生き方を破壊する」宗教だという映像にしがみつくのも同じことなのである。といった意味のことを書いている。

大主教がこんな調子じゃ英国のイスラム教徒がごう慢になるのは当たり前だ。そして同時にイギリスのキリスト教徒たちが宗教そのものに失望して協会を去っていくのも当然の成り行きである。といってカトリック教会が迷える子羊の英国市民をすくってくれるのかといえば、ローマ法王からも援助の手が届いているという話は聞かない。

イギリスでは最近結婚する人の数が極端に減っているそうだ。今年は記録的に結婚数が最低だったという。イスラム教徒が増え、協会へいく人々の数が激減し、「アジア人青年たち」が一夫多妻性を本気で要求する世の中で、協会が何だ、結婚がなんだ、神様が何だ、キリスト教などくそくらえだ!とイギリス市民がやけになるのは当たり前ではないか?

ローウェン・ウィリアムス大主教やジョン・プリチャード主教の声は英国中に響き渡る。真の危険はイスラム教徒達がごう慢になることではなく、英国市民が絶望し信仰を捨ててしまうことにあるのだ。もし英国のキリスト教徒たちがイギリス協会に精神的な救いを見いだせなくなったならば彼等が何処へ行けばいいのだ? もし協会がイスラムテロリストもキリスト教信者も何の変わりもないのだと主張するなら、誰が祈ったり聖書に従ったり結婚したりする必要があるのだ?そんな神のために誰が戦ったりするものか!

私はキリスト教徒ではないが、それでもイギリス協会が直面している危機は肌で感じるものがある。だからあえていわせてもらう。イギリス協会は多様主義社会主義左翼世俗主義の神父らを即刻排除すべきである。これはまずカンタベリーの大主教を追い出すことからはじめるべきだ。奴らには神の言葉を代弁する資格などない!自分の宗教の教えを体を張って守れないような腰抜けな人間に自分を神父などと呼ぶ資格はない!こんな奴らをのさばらせておいてはイギリス協会そのものの破壊を意味するだけでなく偉大なる英国として知られた国自身の崩壊を意味するのだ。

イギリス協会の存続は英国の存続を意味する。英国は決してイギリス協会をこいつら腰抜け主教どもに乗っ取られてはならない!

カカシには偉大なる英国が抵抗もせずにイスラム教の魔の手に墜ちるのを見るに忍びない。英国には悪と立ち向かう勇気ある騎士は一人も残っていないのか? もちろん中には勇気ある人々が何人かはいる。ライオンハートがそのひとりだし、メラニーやアリ神父もそのひとりだ。そしてアフガニスタンやイラクでイスラム過激派と戦うイギリス軍人たちの存在も忘れてはならない。(トニー・ブレアが去った後では軍隊も本領を発揮できないでいるが)

しかし彼等だけではまだまだ足りない。イギリス協会が彼等の背後を守ってくれないのに、どやって戦士らは目の前の敵に面することができるのだ?

March 29, 2008, 現時間 1:47 AM | コメント (3) | トラックバック (1)

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日付け → →March 27, 2008

護衛艦「あたご」乗り組み員一か月ぶりに休暇許可おりる

事件後ずっと艦内で缶詰になっていた護衛艦「あたご」の乗り組員には一か月ぶりに上陸許可がおりたようだ。以下3月25日付け朝日新聞の記事より。

 海上自衛隊は25日、衝突事故を起こしたイージス艦「あたご」の乗組員に上陸や休暇を認めることを決めた。上陸は同日夕方から許可し、休暇も2泊3日程度をめどに認めるという。2月19日の事故発生以来、乗組員は一部を除いて海自横須賀基地(横須賀市)に停泊している艦内にとどまり、海上保安庁の捜査や防衛省の調査を受けていた。

 あたご乗組員をめぐっては、衝突時の当直で見張り員だった海士長が24日に手首を切って自殺を図ったことから、防衛省もカウンセラーらの派遣を決めるなど、乗組員のケアに乗り出していた。

海士長が自殺を図るほどひどい状態になっていたとはなんとも情けない。どうして皆自衛隊ばかりを責めるのだ?なくなった方々には申し訳ないが、当時の状況から考えて漁船のほうにも責任があったと考えてもおかしくない。だいたいいくら捜査中とはいえ、乗組員を一か月以上も上陸もさせずに艦内に缶詰状態などにするからこういうことが起きるのだ。

事件後に乗り組員が長く別れ別れになっていた家族に慰められていればこのような事件はおきなかっただろう。

前回も書いたように、私は乗組員のみなさんとは直接面識はないし個人的なお友達が乗っていたわけでもない。ただ「あたご」のみなさんがパールハーバーで何か月も厳しい訓練と実験にいそしんでおられたのを目の当たりにしていたので、もう少しで帰宅という土壇場でこのような不幸な事故にあってしまったことがお気の毒でならない。しかし気の毒なのを通り越して、海自や日本政府の対応には腹が立ってならないのである。

世が世ならば日本の平和を守ってもらわなければならない海軍の兵士らをたかが交通事故の責任を問うためにここまで迫害してもいいのか?

以前にパールハーバーを訪れていた横須賀からの海自の曹長さんとその部下の方々数名とオアフ島観光に出かけたことがあった。その時一緒に記念写真を撮ろうということになったのだが、曹長さんが「髪の毛に花をつけているカカシさんと並んで写真をとったりしたら、また海自の人間は税金を無駄使いしてハワイでネイティブの女性と遊んでいると批判されかねない。」と半分まじめにおっしゃった。私が驚いて「海上自衛隊のひとたちってそんなにしいたげられてるんですか?」と聞くと、話を聞いていた他の隊員たちも口々に「そ〜なんです〜!」とうなづいた。

私はその時、曹長さんの話を冗談だと思って聞いていたのだが、いま考えてみると冗談ではなかったのだろう。

早く事故の捜査が終了してみなさんがホームーポートの舞鶴に一日も早く帰れる日を祈るものである。

March 27, 2008, 現時間 6:26 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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ボロが出たヒラリー・クリントンの戦場体験談

先日ヒラリー・クリントンのボスニア訪問体験談のなかに、ちょっと誇張した表現があったらしい。毎日新聞の記事から引用しよう。

アメリカの選択:大統領選予備選 クリントン氏「ボスニアで銃火浴びた」…ウソと判明

 【ワシントン及川正也】米大統領選民主党候補指名を争うヒラリー・クリントン上院議員が96年3月、ボスニア・ヘルツェゴビナを訪れた際の体験として「銃火をかいくぐった」と発言、これがウソだったことが判明し釈明に追われている。「安全保障のプロ」を売り物にするクリントン氏の手痛い失点になった。

 クリントン氏は先週の演説で、ボスニアのツズラ空軍基地に降り立った時の話を紹介し「着陸時に狙撃手の銃火を浴びた。予定された歓迎式典は中止され、頭を低くし(送迎の)車まで走った」と発言した。

 ところが、当時の映像を米メディアが公開。クリントン氏が悠然と米軍機から降り、混乱なく出迎えを受けていた。クリントン陣営は「言い間違いだった」とウソを認めた。思わぬボロに「外交経験は誇張」との批判を裏付ける結果になった。2008年3月27日

『ウソと判明』とはちょっとメディアとしては厳しい言い方だな。ヒラリーべったりのアメリカメディアを見なれているカカシとしてはこの毎日新聞の口調はかなり手厳しいと思う。

この話を聞いていて私は自分が初めて軍用ヘリコプターに乗った時のことを思い出した。これは同時に私が初めて米軍の護衛艦に乗った時のことなのだが、すでに沖に出ている船へ私はヘリコプターに乗って行ったのだ。ヘリがフライトデックに着陸してドアが開いた時、私は普通の地面に足をおろすように脚を延ばしたら、ちょうど波の関係で足下の甲板が下がってしまい私は足をすくわれた。私はよろよろと前のめりになってひっくりかえるところだったのだが、そこへ力強い海兵隊員の太い腕が伸びてきて私は抱きとめられた。立ち上がろうとした私の頭をもう一つの腕が押さえつけた。腕の主は「かがんでいろ」と怒鳴った。私はヘリから船の中までほとんどこの太い腕に担がれるようにして走っていったのを覚えている。言っておくが私がいたのは戦場ではない。サンディエゴの沖合の平和なアメリカ領域の海である。

ヒラリーがボスニアでの体験談をした時、私はこんな感じで銃火をかいくぐったのかなと想像したのである。ところがCBSのビデオをみていたら、ヒラリーはお供と一緒に普通に飛行機からおりてくるようにヘリコプターから降りて、出迎えのみなさんに笑顔で手を降りながら歩いていた。ちいさな女の子から花束をもらったりしておよそ危ないところにいるという感じはない。



clintonbosniajpg

出迎えの少女から花束をもらうヒラリー

もっともこの程度の誇張でヒラリーがウソをついたと大騒ぎすることもないという気はしないでもない。自分のちょっとした体験をおもしろおかしく誇張してあたかも自分が英雄であったかのような体験談は誰でも多かれ少なかれしていることだし、ヒラリーが戦場を訪問したことは事実なのだから多少の誇張くらいどうってことはないだろう。ただし、それはこれが単に元ファーストレディが昔話をしていたというだけのことならばの話である。それが次期大統領を目指す候補者としての外交体験の例として出された場合はその事実を吟味されるのは当然のことなのかもしれない。

第一特に嘘をつく必要もないところで、しかもすぐばれる嘘をつく悪い癖があると思われるのは大統領候補としては望ましくない。

ただ私としてはヒラリーのこのような誇張よりも、オバマの周りにいる反イスラエル精神まるだしのアドバイザーのほうが心配なのだが。ま、その話はまた改めてすることにしよう。

ところで、ヒラリーとオバマとの間がかなり険悪になってきていることから、漁父の利というかなんというか面白い世論調査があったので紹介しておこう。

指名敗北でマケイン氏応援の比率拡大、民主党2候補の支持層

ワシントン(CNN) 米大統領選の民主党候補指名争いで、歴史的な接戦を演じているオバマ、ヒラリー・クリントン両上院議員の支持者が、それぞれの候補が指名を得られなかった場合、共和党候補の指名を確定させたマケイン上院議員に一票を投じるとの割合が拡大していることが最新世論調査で26日分かった。

CNNとオピニオン・リサーチ社が3月14日─16日に共同実施した。この割合はオバマ陣営で、今年1月の26%から3月には41%に拡大。クリントン陣営では35%から51%に伸びた。

民主党全国委員会のディーン委員長はこの調査結果に触れ、「マケイン議員が大統領になれるのは民主党内が割れた時のみ」であることを改めて示したと警戒している。

ギャラップ社も3月に同様の世論調査を実施、オバマ氏支持者の19%が、クリントン氏が指名を勝ち取った場合、マケイン氏支援に転じると回答。逆の事態の場合の比率は28%だった。

支援する民主党候補が指名を得られず、対抗馬の共和党候補者に相当数の票が流れた例は1980年、84年の大統領選で起きた。レーガン元大統領がそれぞれ26%、25%の民主党票を奪っていた。

また、オバマ、クリントン両候補の支持票が指名獲得の勝敗後、マケイン氏に大きく流れかねない背景には、マケイン氏の評価で民主党が割れている事情もあるとみられる。CNNとオピニオン・リサーチ社が今年2月1日─3日に実施した民主党員、支持者対象の世論調査では、マケイン氏を「好感」していたのが44%、逆は42%ときっ抗していた。

もっとも今はそんなことを言っていても、実際の一般選挙になったらオバマファンもヒラリーファンも鼻をつまんで民主党に入れるかもしれない。だから今の時点での世論調査はあまり当てにはならない。ただし、マケイン議員はバリバリの保守派ではないので、民主党の候補者が気に入らない民主党有権者がそれほど抵抗なく支持できる候補であることは確かだ。これがミット・ロムニーとかだったら無理だっただろう。

March 27, 2008, 現時間 4:34 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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日付け → →March 24, 2008

今年の冬はここ数年来で一番寒い冬だった。地球は冷えつつある? 

先日2007年の12月から2008年の冬は2001年以来一番寒い冬となったというニュースを読んだ。これは昨日も話した1998年以来地球の気温は停滞しているという話とつながって興味深い。

私のブログ仲間のマイク・ロスさんが地球温暖化についてはずっと書いているのだが、二酸化炭素排出による地球温暖化という説は気象学者の間では人工温暖化説が出た当時から、かなりおかしいと疑問提議がされてきた。それというのも地球の温度は産業革命が起きる前から何百年かのサイクルで上がったり下がったりしており、その極端な温度差は産業による影響などよりもっと激しいものだったからだ。

例えば地球は中世(1600ー1850)に小氷河期を体験している。読者の皆様も当時描かれた肖像画で、ヨーロッパの貴族がやたらに厚着をしている姿を御覧になったことがあるだろう。当時はテムズ河が冬になると凍り付き、人々が氷祭りをやってアイススケートをしたなどという記録があるくらいだ。いまではフェリーで行き来をしているスタットン島とマンハッタンの間も当時はニューヨーク湾が凍ったため、冬の間は人々が歩いて渡ることができたという。

この氷河期が終わったのは1850年ぐらいなのだが、確かにこの頃ヨーロッパでは産業革命が起きていた時代なので、そのせいで地球の温暖化が始まったのだといえばそれはそうかなあ〜という気もしないでもない。が、しかし、17世紀の小氷河期が始まる前まで地球は非常に温暖であり、その当時の気温と現在の気温を比べてみると当時の方が暖かかったというのである。

この2003年のテレグラフの記事によるとハーバード大学の調査チームが行った調査では小氷河期が始まる前の9世紀から14世紀における地球の気温は現在のそれよりずっと高かったという。

要するに地球は暖かい時期と寒い時期とが数百年のサイクルで順繰りに起きるのであり、今の暖かい時期は中世の小氷河期からの復帰であると考えれば気象学的な歴史の上ではそれほどめずらしい現象ではないということだ。

では地球の温度変化がどうして起きるのかという話になるが、これは太陽活動に大きく影響されているというのが最近の説だ。太陽の活動が盛んな時は地球は気温があがるが、その活動が減ってくると温度は下がるわけだ。今年2月のフリーリパブリックの記事によると、最近この太陽の活動が減っているというのである。

太陽には一つの直径が地球と同じくらいの大きさのサンスポットというものがいくつもあるが、これによって太陽の温度は上がるという。ところが最近このサンスポットが次々に減っているのだそうだ。以前にこの現象が起きたのが何を隠そう400年前の小氷河期だったのである。元リンクは切れてしまったのだが、今年の2月9日の時事通信での記事を読んでみよう。

ロシアの天文学者、アブドサマトフ天体観測研究所研究員は6日、太陽活動の停滞から、6〜7年後に世界の気温が次第に低下し始め、17〜18世紀に続く「ミニ氷河期」に入る可能性があると予測した。ロシア通信とのインタビューで語った。今冬ロシアなど欧州全域を襲った寒波も地球冷却化現象の可能性がある。

実はこのアブドサマトフ博士は2005年に太陽活動はそろそろピークを迎え、急激な気温の低下がみられるだろうと予測していた。先月になってロシアの国立科学大学のオレグ・ソロクティン博士も(Dr. Oleg Sorokhtin, a fellow of the Russian Academy of Natural Sciences)この見解に同意した。太陽活動の最低は2040年くらいで低気温は2100年以降も続くだろうということである。

イギリスのメットオフィス研究所の集めたデータによると、地球気温は1998年からいくぶん低くなっているという。しかしメットオフィスは温暖化が再発すれば問題ないだろうとしているが、前回の小氷河期の気温冷却度を考えると、二酸化炭素排出による地球温暖化など雀の涙ほどの影響もないだろう。

カールトン大学の地球科学部の部長であるティモシー・パターソン博士も歴史的に見て地球の環境変化には太陽活動が深く関連していると語る。しかし二酸化炭素と環境変化との間にはそのような関連性が見られないという。パターソン博士は太陽と地球に深い関係があるのはあたりまえだという。「なにしろ太陽はこの惑星の最大のエネルギー源なんですからね。」と博士はいう。

太陽活動と地球の温度変化についてはデンマーク気象研究所(DMI)が過去数世紀に渡る地球の気温の変化が太陽活動のサイクルと関連があるという調査結果を1991年に発表しているが、2004年にもマックス・プランク研究所でも同じような調査結果を発表している。ただマックス・プランク研究所は太陽活動の変化がそれほど激しくなかったため、これは偶然ではないかと結論付けていた。

しかしDMIの更なる調査によって、地球の気温変化は太陽の発熱の排出度ではなく地球をコスミックレイから守る強い盾である太陽の磁力球(magnetosphere)の変化が要点となることがわかった。この盾が弱まるとコスミックレイによる雲が多く発生しより多くの光熱を反射させてしまうため地球は冷えるのだそうだ。

この太陽活動と地球の温度変化との関わりは確実な学説となっているわけではない。まだまだ研究が必要だ。しかし、少なくとも二酸化炭素排出による温暖化よりは科学的な根拠があるようだ。そうだとすれば、地球は温暖化どころかミニ氷河期にむかっているのかもしれない。

アブドサマトフ博士の助言に従って、毛皮のコートでも買いにいこうかな、ね、ミスター苺?

March 24, 2008, 現時間 5:12 PM | コメント (1) | トラックバック (1)

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日付け → →March 23, 2008

え? 地球温暖化は10年前に止まっていた?!

友達のリーがさっきこんな新聞記事をメールで送ってきた。その内容は、地球温暖化は10年前にすでに停滞しており、地球は暖かくなるどころか冷却の傾向にあるというものだった。

これはオーストラリアからのニュースだが、ABCラジオナショナルニュースで地球温暖化について、司会のマイケル・ダフィがジェニファー・マロハスィという生物学者でオーストラリアシンクタンクの広報担当の学者にインタビューした時の模様が綴られている。

マロハスィ博士によると、地球の温暖化は1998年代を境に停滞しており、特に温度があがっているということはないというのである。

これは確かに予想外の出来事ですね。二酸化炭素が増えれば気温が上がるはずですが、実を言うと(地球の)気温はここ10年ばかり下がってきているのです。

しかもこれについては国際環境変化委員会(IPCC)も認めているのだという。

マロハスィ博士:これは全く予想外です。なにしろ二酸化炭素が温暖化を促進しているなら、気温はあがるはずです。現に二酸化炭素のレベルはあがり続けているのですから。...これは議論の必要があります。すでに議論されているべきなのです。なにしろ非常に大事なことなのですから。

ダフィ:議論されていないどころか私たちはこんな話きいたこともありませんよね?温暖化と関係があるとされる気候変化は第一面に載るのに、地球温暖化が10年も前にほぼ停止していたなどという話は全く報道されていません。これは全く驚きです。

ダフィはグリーンハウス現象で地球が危険な速度で温暖化が進んでいると今でも訴えている人がいるが、IPCCは現事情をどう説明しているのかと質問。これに対してマロハスィ博士は、二酸化炭素による気温上昇は多々の自然現象によって阻止されているという。特に太陽の影響が注目されており、太陽の活動が減る時期に入っているため地球冷却という影響が出ているのだという。

特に2002年に打ち上げられたNASAのアクア人工衛星によって地球の環境に関して我々はもっと詳細を学ぶことができるようになった。従来の説では二酸化炭素増加による気温上昇が起きると、それによって水蒸気が増し温度がさらにあがるというものだったのが、アクア人工衛星によって集められた情報によると、実際はその逆で、二酸化炭素による多少の気温上昇はグリーンハウス現象を制限しかえって気温が下がる効果があるというのである。つまり、自然環境というのは我々が考えていたほど華奢なものではなく、もっと臨機応変に変化に対応できるタフなシステムだったというわけだ。

マロハスィ博士: そうなんです。... この発見は気象学会では全く異論は出ていません。ただ彼等はこの発見の消化に戸惑っているのです。発見そのものは認識しています。NASAのアクア人工衛星のデータはモデルが予測したものとは違います。ですからモデルそのものが完全に見直されなければならないのです。そしてモデルが完全に改良されれば、二酸化炭素の影響による将来の地球温暖化が大幅に減ることに気が付くでしょう。

それが本当だとすれば、地球温暖化を防ぐという目的ですでに実施されている国際的な政策への影響は多大ではないのか?

マロハスィ博士:まったくその通りです。政策への影響は多大です。気象学会は今NASAアクア人工衛星のデータと気象学者のロイ・スペンサー博士の分析をどう扱うか迷っているところです。 博士の調査は発表され、受け入れられました。しかし人々はまだショックを受けているところです。

もしマロハスィ博士の話が本当だとしたら、これまで地球温暖化が地球を滅ぼすと大騒ぎをして、京都議定だのなんだので先進国に多々の規制をかけてきた国連などの政策はいったいどうなるのだろうか?

実をいうと私はもう10年以上も前から地球温暖化説は眉唾だと考えていたので、今回の発見は特に驚きはしない。だいたい最初の地球温暖化といっていたのに、そのうち地球環境変化と危機の名前がかわったことからしてどうもおかしいと思っていたのだ。だからブッシュ大統領が京都議定から完全に手を引いた時には、それでよいのじゃと思っていた。

国連をはじめ地球温暖化でかなりの権力を得た一部の市民団体や政治団体は、この新しい発見をそうやすやすとは認めないだろう。だが実際に地球が温暖化するどころか氷河期に向かいはじめたら彼等はいったいどうするつもりなのだろう。今度は地球冷却化に対応するための規制でも考えはじめるのかな?彼等のすることだからそれも全くあり得ないことではないだろう。

なぜか地球冷却化への対応策は地球温暖化へのそれと全くおなじなんてことになったとしてもカカシは驚かないけどね。

March 23, 2008, 現時間 1:05 AM | コメント (1) | トラックバック (1)

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日付け → →March 22, 2008

人権擁護法絶対反対! 市民の判断よりお上の判断を信じる推進者たち

社会でおきる差別行為は差別をする法律さえ取り除いてしまえば、後は自由市場が解決してくれる、また人権を迫害するような言動も個人から構成される社会の道徳的な判断によって制裁される、というのがカカシの主題だ。だが、自由市場に任せておいては完璧な解決は望めない、もしくは能率的で早急な解決は無理だと主張する人々が後を絶たない。

人権擁護法推進者や男女共同参画やジェンダーフリーを唱える人々がその部類だが、彼等に共通しているのは、自由市場や個々の市民の判断で解決できない問題が、なぜか法律を通すことによって解決出来ると考えている点だ。例の左翼変態フェミニストや当ブログに宛てられたあるコメンターの意見などはその典型的な例である。私の他人を侮辱するような行為や人道的に正しくない行為は法律で罰するのではなく、社会が制裁すべきだという意見に対してこのコメンターはこう述べた。

カカシさん、あなたは道徳に反する行為に対して社会的制裁を加えることを肯定しています。個々の判断で制裁を加えることは、私刑(リンチ)につながりかねません。

だが人権擁護法によって市民が罰せられる可能性についてはこのように述べている。

悪意で人を傷つける言動が言論の自由で守られると思って、平気で侮辱をするような恐ろしい人のいない、住みよい国なるでしょうね。

なぜ個人の判断は信用できないが政治家や裁判官の判断は信用できるのかという問いに対しては、

立法は議員により、その議員は我々の代表です。選挙で選べるし、意見を述べ、法を改廃することも可能です。民主主義の基本です。

民主主義の基本は「民」である。個々の民の判断力を全く信用しないで、お役人の判断だけを信用するなどという考えが民主主義などであるものか。こういうのを社会主義というのだ。

私に理解できないのは、こういう主張をする人々は、どうして政府が人々の行動に介入することのほうが、個々の市民が個人的な判断を下す行為よりも、より人道的で能率的な結果を生むと確信できるのかということなのだ。

このコメンターは悪意で他人の気持ちを傷つけた人間が国によって罰せられた例として、初対面の女性を「デブ」と侮辱して訴えられ禁固刑になった男性の話をあげている。他人をデブといって相手の気持ちを傷つける行為が違法なら、会う度にカカシをデブといって侮辱する我が母など終身刑の罰を受けることになってしまう。

本来見ず知らずの女性に「デブ」などといって侮辱するようなけしからん男は、周りの人々から白い目で見られ軽蔑され、他の女性たちからも全く相手にされないというような社会的制裁を受ければ十分なはず。この礼儀知らずは社会の道徳観が裁けばよいのであって、法律で罰する必要などない。

だが、人権擁護法が成立すれば、このような事件は日常茶飯事に起きることだろう。なぜなら推進者たちは人々の気持ちは政府が守ってあげる義務がある、、いや政府だけが守る権限があると考えているからだ。不道徳な行為や失礼な行為を細いことまで違法として政府が罰するような世の中は、他人を『平気で侮辱をするような恐ろしい人のいない、住みよい国』になるどころか、盗みや凶暴な犯罪が頻発する心の荒んだ粗雑な世の中と化すのである。

何度も言うように合法であるということと道徳的に正しい行為であるということとは別だ。他人を傷つけるような失礼なことを言わない、というのは親からしつけられた礼儀作法というものだろう。だがそれを法律で取り締まってしまうと個人はそのような行為は道徳的に失礼だと判断する能力を失ってしまう。「違法だからしない行為」はいずれ、「つかまりさえしなければやってもいい行為」という解釈になる。法律が誰にでも均等に適用されるというならまだしも、人々の言動に関してこのような多大なる権限を与えられた役人がその権限を悪用しはじめ、相手次第で適用が不公平になってくればなおさらである。

いくら選挙で選ばれたとはいえ、立法に関わる政治家とはどういう種類の人間たちなのだ? 政治家など自分の政治的権力を常に増幅させたいと望んでいる野心家の集まりではないか。そういう人々が差別をされている少数民族やか弱い女性の救済を道徳心だけで行うとは信じがたい。これらの政治家が表向きや建前はともかく、どれほどきれいごとを言ってみても、彼等が押し進める政策は彼等にとって個人的な利益となることに違いないのだ。となれば、この政治家の野心を利用していくらでもあくどい団体や企業が政治家に取り入って自分の都合のいいような政策をつくってもらうことが可能となる。

このことはお隣の中国を見ていれば歴然としているではないか。政府が人々から信仰をとりあげ、人々による個々の道徳的判断を取り上げた結果、中国人は釘で打ち付けてないものはなんでも盗むと悪評が高い。衛生管理だの安全管理をする役人は腐敗しきっているから、工業廃水は垂れながし、品質管理はずさん、あげくの果てに猛毒殺虫剤を含んだ冷凍餃子や汚染された増血剤や偽グリセリンのまざった歯磨きなどが外国に輸出され、何百人という外国人を殺すはめになる。

日本でも腐敗した政治家の贈賄事件だの、市役所の役人が国民の税金や年金を長年に渡って横領していた事件などいくらでもあるではないか。そのような人間に我々の崇高な人権擁護を全面的に任せて彼等がその権力を悪用しないと推進者たちは本気で考えているのだろうか?

いや、私は前述のコメンターにしろ左翼変態フェミニストにしろ、彼等がそれほどナイーブで愚かだとは思わない。それどころか彼等は政府にそのような絶対的な権限を与えることが、個々の市民の権利を極端に迫害し自由社会を破壊する結果を生むことを十分に承知しているのである。あえていわせてもらうならば、人権擁護法推進者の本当の目的は人権擁護でも弱者救済でもなく政府による市民の完全統制、つまり、共産主義やファシズムのような社会主義の確立なのである。少数民族はその道具として使われているに過ぎない。

我々市民は人権擁護などという上辺だけのきれいごとに騙されてはならない。断じて政府にそのような権限を与えてはならない。個人の行いは個人が責任を持つ社会、それこそが文明社会の基盤である。

March 22, 2008, 現時間 10:27 AM | コメント (5) | トラックバック (0)

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日付け → →March 21, 2008

弁明演説で正体がばれたバラク・オバマ

先日から、恩師の過激発言について厳しい批判を受けていたバラク・オバマ議員民主党大統領候補は18日、ライト牧師の見解について30分にわたる弁明演説を行った

これを受けてオバマ氏は当地の国立憲法センターで演説し、こうした発言を受け入れない姿勢を明言。自身がケニア出身で黒人の父と、カンザス州出身で白人の母を持ち、米国人として育った点を強調した。星条旗を背景に1人で演台に立った同氏は、「この国が寄せ集め以上であり、多くの人々が真に団結しているとの考えは、わたしの生い立ちにさかのぼる」と語った。

オバマ氏はさらに、トリニティー統合キリスト教会でライト牧師の問題発言を聞いたことを認めたうえで、自身が同牧師の政治観の多くに強く反対していると明言。発言が「誤りであるばかりではなく、団結が必要とされている時に分断を助長する」ものだと述べた。オバマ氏はまた、同牧師の発言と、12日にクリントン氏陣営の財政委員会を辞任したジェラルディン・フェラーロ元下院議員による人種差別発言との類似点を指摘し、「人種間の統合の一部はまだ完璧ではない」との見解を表明。差別制度を経験した同牧師の世代の黒人が本気で強い怒りを持っているものの、怒りが常に生産的とは限らず、「真の問題解決から注意を逸らしていることが多い」と指摘した。

オバマ氏はそのうえで、ユーチューブに投稿された動画がライト牧師の人格の全てを示すものではないと述べ、「牧師は完璧な人間ではないかも知れないが、私にとっては知り合いだ」と語り、理解を求めた。

演説の全体を聞いていたミスター苺の感想は、最初にライト牧師の言葉をさんざん批判したうえで、次の30分間ライト牧師の弁護にあたるという非常に不誠実な内容だったということだ。しかも白人の母方の祖母のことを「典型的な白人」といって引き合いにだし、いかに典型的な白人が人種差別者であるかという話を延々としたという。千差万別の個人に向かって「典型的な白人」などと人種だけでひとからげに人種差別者だと批判するとは失礼きわまりない。この発言によってオバマ議員の白人への偏見が丸出しとなった。これまでオバマ議員は人種間の隔たりを狭める偏見を超越した候補者を装ってきたが、それが今回の演説によっていかに偽りであったのか暴露する形となった。

これについてパワーラインのポールが鋭い指摘をしているので、今日はそちらから紹介しよう。

保守派で黒人の哲学者、シェルビー・スティールがバラク・オバマについて書いたものに「A Bound Man」という著書がある。スティール氏は政治活動によって権力を求める黒人にはバーゲンナー(譲渡人)とチャレンジャー(挑戦者)という、ふたつのタイプがいると説明する。譲渡人は常に「私はあなた方が人種差別者ではないことは解っている。その見解が正しいことを証明するために私を支持してください。」といって白人から支持を求め、おうおうにしてその支持を受けることができる。

それに比べて挑戦者は、白人は皆人種差別者だと決めつけ、自分らの人種偏見是正方針を受け入れて、黒人になんらかの優遇政策をとるまでは白人はすべて差別者であるとみなす、といういい方をする。黒人政治活動家のジェシー・ジャクソンやアル・シャープトンなどはこの部類だ。スティールによると黒人の政治家は挑戦者のやり方を好む。それというのも、黒人の間では白人に迎合する黒人は信用されないと恐れるからだ。

このモデルからいくと、無論オバマは譲渡者を装っており、今後もその路線で進みたいはずだが、それは難かしいだろうとスティールは言う。それというのも譲渡者は常に仮面を被っていなければならないが、大統領候補ともなればその仮面が至る所で吟味されることになるからだ。一度我々が譲渡者は人種を無視しているふりをしているだけで、実際には人種に固執している人間だということを学んでしまうと、彼の譲渡者の仮面ははがれる。魔法は解けてしまうのである。彼が「あなた方が人種差別者でないことは分かっている」と言っていたのは嘘で本当は我々を差別者だと忌み嫌っていたことを知った人々は彼を無条件では支持しなくなる。

この間の演説はまさにオバマの仮面を剥がしてしまったのである。あのさわやかな笑顔で自分は人種問題など超越していると語っていたオバマは実は反米で白人嫌悪の演説を繰り返す牧師のいる協会へ20年間も熱心に通っていてなんとも思っていなかった。それどころかその白人嫌いの牧師と個人的にも親しかったことがはっきりしてしまったのだ。

ライト牧師の白人嫌悪に満ちた演説ビデオが公開された今となっては、オバマはこれまで通りの好青年イメージを売り付けることはできない。すくなくともオバマは自分が誰なのか、人種について自分はどう考えているのかをアメリカ市民にはっきりと伝える必要があった。今週のオバマの演説はそのためのもののはずだった。

ポールの感想はミスター苺とは違って、オバマは誠実に人種に関する自分の意見を正直に述べたと語っている。例えばオバマはライト牧師の人種差別的な意見には賛成できないとしながらも、彼がそう思うのにはそれなりの理由があること、アメリカの人種問題は非常に複雑であり、一人の政治家候補や一つの選挙で解決できるようなものではないことを語った。しかしオバマはアメリカ社会の人種差別を変えていくのは白人の責任だと語っている。

白人が人種問題を一種の騒動としてのみ捉えることによって生じる分裂や衝突を防ぐためには、単にオバマに投票する以上のことをしなければなりません。白人たちはアフリカ系アメリカ社会に存在する苦しみは、彼等の頭の中だけに存在するのではなく、人種差別の後遺症、過去よりあからさまではないとはいえ現在もある差別が事実であることを認め取り組んでいく必要があるのです。単に口でいうだけでなく学校や社会に投資することや、人権擁護の法律を行使するなど...の行動で示すことによって先の世代には不可能だった機会へのはしごを提供しなければなりません。

つまりアメリカの人種問題は白人のせいだから白人は自分に投票することによってアメリカ社会をかえていく必要があると説いているわけだ。これは明かに挑戦者の口調である。しかし、あくまでも穏健派を装いたいオバマとしては、白人たちが黒人救済のための政策に反感を持つことに理解を示した後で、自分がその溝を埋める橋渡しの役割として白人に手助けをすると提案している。人種問題は今の世の中無視することは出来ない問題だと強調しながら「一緒に努力しましょう」そして「古い人種の傷を乗り越えましょう」と繰り返す。

常に罪悪感にかられている左翼やリベラルは別として、そうでない中道派のオバマ支持者たちはオバマからこのような演説を聞きたくはなかったはずだとポールは言う。はっきり言って、アメリカ社会の問題がお前らの責任だ、俺が手助けしてやるから罪の償いをしろ、などと言われて気分のいい人はいないだろう。ましてや自分達は人種差別者ではないと考えているひとたちにとってはなおさらである。第一これでは今までの黒人リベラル政治家と何のかわりもないではないか。オバマのモットーは「変化」にあったはず。単にアメリカ社会の問題はすべて白人による黒人差別にあるのだと主張するなら、ジェシー・ジャクソンでやアル・シャープトンと同じではないか。以前にビル・クリントンがバラク・オバマをジェシー・ジャクソンと比べてオバマを単なる黒人だけを代表する候補者だと表現した時、オバマは黒人だけの候補者ではないとクリントンを責めたオバマ支持者たちはオバマの本性をみて今いったいどんな気持ちだろうか?

ライト牧師スキャンダルはオバマが民主党の候補指名になるのには特にそれほど影響はないだろうというのが一般的な見方だが、一般選挙となると話は全く別である。この演説は黒人や極左翼からの支持を得るという意味では効果があったかもしれないが、一般選挙に必要な中道派を遠ざけることになったのは否めない。

オバマはメディアからも有権者からもこれまでのような救世主並の扱いを受けることはなくなるだろう。

March 21, 2008, 現時間 4:02 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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日付け → →March 19, 2008

同性結婚は文明社会を破壊する

先日、私は同性結婚には反対するというエントリーを書いたが、それについて読者の方からいくつかご意見をいただいたので、そのなかから重要な点を言及してみたい。

異人種弾圧のための結婚規制

一時期禁止されていた異人種同士の結婚も見直されたのだから、同性同士の結婚も見直されてもいいのではないですか?異人種結婚を認めるにあたっても、反対派からはそんなことをしたら他の形の結婚も認めざる終えなくなるという意見が聞かれましたが、そのようなことにはならなかったじゃないですか?

アメリカで異人種間の結婚が禁止されていた理由は、異人種への偏見というよりも、少数民族のアメリカにおける社会的な地位の維持が目的だった。多くの人が黒人は白人に劣ると考えていたことは事実だが、黒人と白人の夫婦が白人同士の夫婦とそれほど変わりがあると思われていたわけではない。

異人種同士の結婚を禁止するという制度はヨーロッパでもアメリカでも決して伝統的なものではない。それどころか、アメリカでは奴隷制度をまだ布いていた南部で白人男性による黒人女性との結婚が相次ぎ、混血児が一般の白人社会に入り込むことが日常茶飯事に起きていた。社会的地位が低い少数民族との結婚による混血の存在は、その少数民族の地位があいまいになってしまい、奴隷制度の崩壊にもつながる。異人種の低い地位を維持するためには混血児の存在は非常に問題だ。困った白人社会が悩んだ末の苦肉の策が白人と黒人の結婚禁止だったわけだ。そのほかにも地元インディアンとの結婚や中国人移民との結婚を禁止する法律などが多くの州で通されたが、これもすでにそういう結婚をする人が後を絶たなかったため、法律を通すことでそうした行為を阻止する必要があったのである。

南北戦争が終わり奴隷制度が廃止されると共に、異人種間結婚禁止法はすぐに見直された。1967年のラビング対バージニア(Loving v. Virginia)訴訟で違反するとされた憲法は南北戦争直後の1868年に通った憲法修正第14条なのである。

奴隷制度が廃止された19世紀の終わりごろから異人種間結婚禁止法を全国的に廃止しようという議案は議会で何度も提案されていた。しかしアメリカは連邦制度をとっているため、それぞれの州によって結婚の法律もまちまちであり異人種への姿勢も異なることから、全国的に均一な廃止は出来ないでいた。

南部での禁止法廃止が1960年代までかかったのは、南北戦争後も根強い人種差別意識が残っていたせいだが、1960年代の人権運動と共に、そうした人種差別法が次々と廃止されるにしたがって、異人種間結婚禁止も見直されたのである。つまり、異人種間結婚禁止令というのはもともと少数民族を弾圧するための政治的な法律であり、結婚制度への挑戦ではなかったのである。

男女の違いは明白

異人種間結婚の禁止が人種差別を強制しておきたい権力者によって作られたせいぜい2~3百年程度の歴史しかない新しい制度であったのに対し、一夫一婦制はアメリカ市民、いや文明社会では少なくとも2000年以上の太古の昔から圧倒的多数の市民によって受け入れられ支持されてきた制度である。

いにしえの昔から、どこの社会でも異人種への差別や偏見を批判する意見は聞くことができた。これはどこの世界でも人種が違うからといって人間としてそれほど差があるわけではないという考えがあったからだ。しかし世界ひろしといえども、男と女に差がないという意見を述べるひとなどいない。

生物学的に見て、男は黒人であろうと白人であろうと黄色人種であろうと男であることに変わりはない。多少肌の色や顔つきが違うという以外は人種が違うからという理由で女に子供を生ませて一緒に家庭を築くという意味ではなんの弊害もない。

だが、男と女では生物学的に全く違う。顔立ちや肌の色などという表面的な違いではなく、肉体の構造もその機能もまるで別物だ。はっきり言って男に子供を生むことはできないし、女はほかの女に子供を生ませることはできないのだ。つまり、子供を生んで育てるという種の存続を考えた場合、男女の結婚は異人種であろうと同人種であろうと全く違いはないが、同性同士の結婚では不可能なことである。

結婚は公の行為である。

同性結婚を認めたからといって異性結婚にどういう影響があるというのですか?結婚がどういう形であるか、どのような意味のものとするかはそれぞれの個人もしくは家族に任されるべきではないのか?常に個人の判断が政府の判断よりも重要視されるべきだと主張しているカカシさんが、いったいいつから規制が好きな大きな政府主義になったんですか?

ここでひとつ私ははっきりさせておきたいことがある。私は別に同性愛行為そのものが不道徳であるとは考えていないし、違法であるべきだなどとも考えていない。お互い納得した大人同士が相手を永久的に傷つけるような行為さえしていなければ、閉ざされた扉の向こうでなにをしようと私には一向にかまわない。であるから同性愛者同士が一緒に住むことも全く問題ないと考える。

同性愛者同士の同棲はかまわないのに、どうして結婚はいけないのか。それは同性愛行為も同棲も個人がプライベートにすることであり、社会制度の変更を必要としないからである。

それに比べて結婚とは公(おおやけ)の場で社会の承認と祝福を求める非常に公な行為である。必然的にその社会が結婚はこうあるべきだという規則に従わないものを結婚と呼ぶことは出来なくなる。それを無理やり社会に押し付ければ、社会は結婚そのものを拒絶するようになる。

結婚は特権である。

とはいえ、読者の皆さんは、「どうしてベティとマリーが結婚したら、苺畑夫婦の結婚が意味のないものになるんですか?」という疑問を抱かれるかもしれない。確かにベティとマリーの結婚はカカシとミスター苺の関係を変えるわけではない。個人的に我々の結婚に特定の悪影響を与えるというわけでもないだろう。では何が問題なのか?それは、結婚を誰にでも同じように与えられた権利ではなく、特別な条件を満たした人のみに社会が与える特権だと考えれば解りやすい。

昔私の職場の近くに高給なスポーツクラブがあった。ここは会員費が高いだけでなく、会員になれる資格が非常に厳しく、年収がいくら以上でなければならないとか、他の会員からの紹介がなければならないとか色々うるさかった。よってここの会員であるということが一種のステータスシンボルとなった。ところが会費の安いスポーツクラブがあちこちに出来、このクラブは経営不振に陥った。そこで困ったクラブは会員の資格をうるさく言わなくなった。そうなるとこのクラブの会員であることの意味が全く変わってしまった。別にクラブの施設やサービスが変わったわけではない。個人的にそれまでのメンバーにこれといった悪影響が出たというわけでもない。だが、このクラブの会員であるという特別なステータスシンボルとしての意味合いは完全に消えてしまったのである。そんなクラブに高い会費を出してまで入っている意味はないので、メンバーは続々と辞めてしまい、結局そのクラブはつぶれてしまった。

結婚とはこの特別なクラブの会員になるようなもので、特別な条件を満たしたものだけに与えられる特権なのである。自分は特別だと思って入会したのに、条件をきちんと満たしていない人たちまで無差別に入会させるというなら自分らが入会している意味がない。自然とこのクラブの存在価値そのものが消失してしまうわけだ。となれば、こんなクラブに新しい会員を募るのは難しくなるだろう。

同性結婚は結婚制度を破壊する

同性結婚を認めることは種の存続をも脅かすこととなる。これは決して同性結婚を容認したら、異性愛者が突然同性結婚に走るという意味ではない。以前にも書いたように結婚というものが特権でなくなれば、とりたてて結婚をしなければならない意味が失せるため結婚をする人が減り、必然的に子供を生み育てるひとが減るという意味である。

これは単なる卓上の空論ではない。すでに結婚とはいかないまでも、同性愛者のカップルを法的に認める法律の存在するヨーロッパ各地で、最近結婚する人の数がとみに減っているというのは事実なのだ。

ウィークリースタンダードに掲載されたスタンリー・カーツのエッセイによれば、同性愛カップルを法的に認めたスカンジナビア諸国では結婚せずに子供を生むひとが増えているという。もう10年以上も前に同性結婚を認めたスエーデンやノルウェーでは生まれてくる子供の60%の親が未婚だという。

同性結婚によって、結婚と子育てという習慣が壊されてしまったことと、どのような形の家庭も受け入れられるという考えができ、子供を生むのに結婚している必要はないという理屈になったのだろう。同性結婚という異質な結婚による家庭が許容されるなら、未婚の両親という家庭も別に悪くはないという当然の成り行きである。

同性結婚推進者であるジャーナリストのアンドリュー・サリバンとエール大学教授のウィリアム・エスクリッジJr.がダレン・スピーデール(Darren Spedale)という独立研究者が1990年代におこなったデンマークでの調査をもとに、同性結婚は結婚制度を弱めるどころか強める結果となったと発表した。それというのも、デンマークでは同性結婚が容認されて以来離婚するカップルが減り、結婚するカップルが増えたというのである。

しかしながら、この現象にはからくりがある。1990年代のデンマークでは結婚する人の数が大幅に減った。結婚している人の絶対数が減ったのだから離婚する絶対数が減るのは当たり前である。また、多くの人が結婚せずに同棲しているため、結婚せずに子供を生んだカップルがまだ子供が幼少のうちに離別しても、その率は公式な記録に残らないのである。

結婚するカップルの数が増えたというのも、傾向ではなく一時的なもので、1997年の結婚率がデンマーク史上最低であったため、その後多少盛り返したというだけのものだ。しかも結婚したのはすでに結婚せずに一人目の子供を生んだカップルが二人目の子供が生まれた時点で正式に結婚するといった例がほとんどであった。それにしたところで、最近はその傾向も薄らいでいる。

ノルウェーでは、1990年から2000年にかけて未婚のカップルによる出生がなんと39%から50%に増えた。スエーデンでは47%から55%に増えている。デンマークでは変化はないが、1990年にすでに46%だったというのだからこれもひどい。

スカンジナビアで未婚のまま子供を生む傾向が高まったのはこれらの国で過激派フェミニズムが台頭した1970年代の頃からだが、過半数を超える傾向として拍車をかけたのは同性結婚の容認である。子供を生む国民の半数以上が子供を生み育てるために結婚する必要がないと考えているとしたらこれは恐ろしいことだ。今かろうじて結婚制度が保たれているのは、わずかに残った宗教的な考えから最初の子供を未婚で生んだカップルが二人目のときは正式に結婚しようとしているからで、もしこの傾向すらもなくなったら、スカンジナビアにおいて結婚制度は崩壊の一途をたどるだろう。すでに極端な少子化が深刻な問題となっているヨーロッパでは結婚の減少によってますます少子化が進むであろう。

このままでは、少子化による人手不足で取り入れたイスラム系移民たちによる暴虐に苦しめられているデンマークで、全く産児制限などしないイスラム教徒らに国を乗っ取られるのは時間の問題である。

離婚率と未婚の母の率が高いアメリカとしてはスカンジナビアで起きている問題は他人事ではない。もしここでアメリカも同性結婚を認めれば、アメリカもまたスカンジナビア諸国の二の舞になることは間違いない。そうなって一番不幸になるのは両親なしで育つ子供たちである。

一夫一婦制の結婚は文明社会の基盤である。結婚した両親のもとで育つ子供が文明社会を担うのである。その基盤を破壊すれば、文明社会そのものが破壊される。

そのようなことを阻止するためにも、結婚は一人の男と一人の女との間だけという基本的な制度を断固守って行く必要があるのである。

March 19, 2008, 現時間 1:05 AM | コメント (2) | トラックバック (3)

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日付け → →March 17, 2008

スキャンダル続きの民主党に共和党マケインが優勢に!

日本のメディアは次期大統領選挙は民主党のオバマとヒラリーの間だけで選ばれるかのような報道をしているようだが、実は先週たて続けに起きた民主党のスキャンダルで、共和党候補のマケインの支持率があがっている。

バラク・オバマ関係のスキャンダルといえば、先日お話したジェラマイア・ライト牧師の過激発言だけでなく、現在贈賄容疑などで裁判にかけられているアントワン・トニー・レズコ(Antoin “Tony” Rezko)というビジネスマンとオバマの関係が以前にオバマが認めていたよりももっと深い関係であることが明らかになってきた。

レズコは長年に渡ってオバマのいくつかの選挙運動で資金調達をしてきた人物だが、レズコの怪しげな商売方法が明るみに出るにつれ、オバマはレズコとの関わりを過小評価してきた。しかしレズコの裁判によって、レズコからのオバマへの献金が注目を浴びてきたため、先週の金曜日、オバマはレズコとはこれまで認めてきたよりもずっと深い関係にあったこを認めざる終えなくなったのだ。今わかっているだけでレズコはオバマのために25万ドルの献金を集めたということだが、その詳細はオバマ側からは明らかにされていない。

さて、ヒラリー側のスキャンダルだが、ヒラリーの選挙事務所で役員をつとめていた、1984年には民主党の副大統領候補として立候補したこともあるジェラルディーン・フェラーロ女史が、「バラク・オバマが白人だったら、いまのような立場にはないだろう」といったことから、オバマ側から人種差別的な発言をしたと責められ、ヒラリーの選挙事務所から辞任するという騒ぎがおきた。はっきりいってフェラーロ女史の発言は真実だと思うが、それはそれ。人種差別はいけないと常に他人をお説教しているリベラル政治家としては失言だったというわけだ。

これに続いてヒラリーにとって都合の悪いことに、ヒラリーを支持していたニューヨークのエリオット・スピッツァー知事が高級娼婦を長年に渡って雇っていたスキャンダルが明るみに出て、知事を辞任するにまでにいたった事件が起きた。スピッツアー氏は知事になる前に州の検事をしていたが、その時売春リングを摘発した手柄で名を揚げたひとであるだけに、その頃から自分は一晩2千ドルとかいう高級娼婦を雇っていたというのだから呆れる。

さて、どうしてスピッツアー知事のスキャンダルがヒラリーに関係あるのかという話は産經新聞の古森さんが詳細にわたって説明してくれているのでちょっと引用しよう。

さてこの事件には多くの重要な側面がありますが、まずいまものすごい勢いで進行中の大統領選挙キャンペーンへの影響が考えられます。その面で最も頻繁に指摘されるのが、ヒラリー・クリントン候補の人気への悪影響です。いくつかの要因があげられます。

まず第一は、このニューヨーク州知事はクリントン候補の最有力支持者の一人だったという点です。クリントン候補は周知のように、ニューヨーク州選出の上院議員、同じ民主党のエリオット・スピッツァー知事の熱心な支援を受けてきました。同知事は大統領選挙の予備選の段階でも、クリントン候補を強く推し、やがてはニューヨーク州での同候補の予備選大勝利に寄与していきます。

つまり民主党の上院議員と州知事という形での二人三脚で、クリントン候補をスピッツァー氏が助けてきたのです。スピッツァー氏はオバマ候補には背を向けました。そしてクリントン候補を選び、支援を明確にしたのです。その支援は全米レベルでも大きな話題となりました。しかしその「同志」の片方がスキャンダルで失脚すれば、他方によい影響が及ぶことはないでしょう。

第二の要因として、古森さんはスピッツアー知事の政策であまりの悪評版で撤回せざるおえなくなった違法移民への自動車免許書発行について、当初は支持していたヒラリーが後に反対したことを追求されてしどろもどろの答弁をしたことなどが、今回の知事のスキャンダルで蒸し返されたことを指摘している。

また第三の要因はこれがセックススキャンダルであるということから、ヒラリーの夫のビル・クリントンのセックススキャンダルを人々に思い出させるという悪影響がある。これについて、アメリカのコメディアンたちはさっそく趣味の悪い冗談で花を咲かせているという。

意地の悪いコメディアンたちはすでに、今回の事件とクリントン前大統領とを結びつけるジョークや寸劇をテレビで演じ始めました。「スピッツァー氏の最大の弁解を聞きましょう。『こういう行動はすでにクリントン大統領が法律で許すようにしたと思っていた』」(デービッド・レターマン)「ヒラリーはいまニューヨーク州内で二番目に最も怒っている女性だろう」(ジェイ・レノ)

さてこのようなスキャンダル続きはオバマにもヒラリーにも良い結果をもたらしていない。ワシントンタイムスによれば、どちらの支持率も共和党候補のマケイン議員に比べて落ちているという。

四日間に渡って行われたラスマスン世論調査では、マケインがクリントンとオバマの双方相手に6%支持率が上がった。また先週の日曜日のギャロップ調査ではマケインは双方に誤差の範囲程度の遅れをとっていたが、金曜日になるとその差さえ消えてしまったという。ゾグビー調査では、マケインは45:39でヒラリーより6%優勢となった。

オバマとヒラリーがお互いに攻撃しあうだけでもマケインには有利なのに、二人の周りの人間がこれでは候補者たちも苦労するというものだ。もっとも類は友を呼ぶともいうので、自分達に全く責任がないともいえないわけだが。

マケインはヨーロッパや中東を訪問するなどして、すでに次期大統領としての貫禄をみせはじめている。そろそろ日本のメディアも共和党候補のマケイン議員に注目する時がきているのではないだろうか?

March 17, 2008, 現時間 2:23 AM | コメント (2) | トラックバック (0)

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日付け → →March 16, 2008

米共和党大統領候補、ジョン・マケインのバグダッド訪問

共和党の大統領候補ジョン・マケイン上院議員は現在バグダッドを訪問中。マケイン議員は早期からイラクでの戦法はCOINといわれる対テロ戦略を起用しなければならないと、いわゆる現在進行中の増派を押してきた数少ない一人である。マケイン議員はベトナム時代に海軍の戦闘パイロットとして活躍しベトナムで捕虜になっていた経験もある英雄であり、イラク戦争批評家がブッシュ大統領などをチキンホーク(自分は戦闘体験がないのに戦争を推進する臆病者という意味)などといっていた批判もマケイン議員には通じない。詳細を日本語のニュースで探したのだが、下記ような短い記事しか見つからない。どうも日本メディアは共和党候補のマケイン議員にはあまり興味がないようだ。

【バグダッド16日AFP=時事】在イラク米大使館当局者によると、米大統領選の共和党候補指名を確実にしているマケイン上院議員が16日、イラクを訪問した。マケイン氏は欧州・中東を歴訪している。

同当局者は「マケイン議員はバグダッドにいる」と語った。マケイン氏は滞在中、クロッカー駐イラク米大使と会談するという。〔AFP=時事〕

16日付けのAPニュースによると、マケイン議員は日曜日、バグダッドにおいてアメリカの外交官、米軍上層部、およびイラク高官らと会見の予定だという。マケインがイラク訪問をするという話は数日前から報じられていたが、警備上の理由で詳細はあきらかにされていなかった。マケインはイラクに24時間ほど滞在するという話だ。マケインのイラク訪問は今回で8回目だ。

5年に渡るイラク戦争の成功に自分の政治生命を賭けてきたマケインの訪問はイラク北部で起きた化学兵器攻撃のちょうど20周年記念にあたる。

アメリカ大使館の発表では、マケインはイラク副首相のBarham Saleh氏と会見しイラクのアメリカ軍総司令官デイビッド・ペトラエウス将軍とも会見の予定である。 ...

出発前にマケインは今回の中東とヨーロッパ訪問は事情聴取が目的であり選挙運動の写真をとるためのフォトアップではないと語っていた。しかし、マケインはイラクのテロリストが11月のアメリカ選挙に影響を与える可能性については懸念していると語った。

「はい、心配しています。」ペンシルベニアの選挙運動中にされた質問にマケインはそう答えた。「彼等が注目していることは知っています。彼等同士の連絡を盗聴しているからです。」

上院議会軍委員会のメンバーとして、マケイン議員の訪問には同僚のジョー・リーバーマン議員(独立)とリンズィ・グラハム議員(共和)が同伴した。二人ともマケインの大統領候補の強力な支持者である。

マケインの今回の諸外国訪問は一週間の予定だが、目的地にはイスラエル、英国、フランスが含まれ、イギリスのゴードン・ブラウン首相やフランスのニコラス・サルコージ首相との会見が予定されている。

まだ大統領に選ばれたわけでもないのに、すでに大統領並の視察旅行に出かけ、各国の首相らと会見をするとはかなりの余裕だ。

マケインが去年の4月にバグダッドを訪問した時は、イラク情勢が良くなっていないという記者団の質問にかなりいらだちを覚えた様子で答えていたマケインだが、今年はバグダッド情勢は非常な良化をみせており、マケインの押した増派が非常な成功をおさめている。イラクでの攻撃は去年に比べてすでに6割型減少しているのである。

二人あわせても政治的な実績からいってマケインの足下にもおよばない民主党のヒラリーとオバマの内部争いが続く中、マケインはすでに国の代表よろしく外国訪問。

やっぱり大統領にはマケイン議員になってもらわなきゃいかんなこれは。

March 16, 2008, 現時間 2:18 PM | コメント (1) | トラックバック (0)

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言論の自由とは何か?

私が使った「私生児」という言葉が差別用語なので使わないようにと「警告」するコメントを読んでいて、言論弾圧とはこのようにして始まるのだなと今さらながら実感した。

私はコメントのなかで、『たとえ、この言葉を私が悪意によって他人の気持ちを傷つけるために使ったのだとしても、私にはこの言葉を使う権利があります。それが言論の自由というものです。』と書いたが、これは言論の自由を語るにあたり非常に大切なことなのでもう一度明確にしておこう。

言論の自由とは特定の政府が市民に与える権利ではなく、我々個人が元来持っている権利である。言論の自由とは自分がいいたいことをいう権利と、自分が聞きたいことを聞く権利とがある。そこで問題となるのは政府がその個人の権利をどこまで守り保証するのかということだ。

ここで区別しなければならないのは、政府が公に保証する権利と、民間企業や個人が保証する権利は全く別物だということである。例えば個人の家で母親が子供に向かって「そういう汚い言葉をこの家ではつかってはいけません!」とやるのは彼女の自由だし、民間の企業が従業員に特定の政治的見解や宗教的表現を禁じたとしても、それは企業主の勝手であるべきだ。裸足で道を歩く行為は違法ではないが、レストランが裸足のお客はお断りという方針を持つのが許されるべきなのと同じ理屈である。

言論の自由という権利は個人が元来持っているものではあるが、他人の言動によって自分の気持ちが傷つけられない権利などというものは存在しない。であるから仮にそのような言動が悪意に満ちたものであったとしても、その言動によって傷付かない権利など政府が守る義務がないどころか、政府はそのようなことに口出しすべきではないのだ。なぜならそのような権利を守ろうとしたら、それは必ず言論弾圧に結びつくからである。

以前にカナダの人権擁護審議会で質問を受けていたレバント氏の話をしたことがあるが、彼が審査員から「あなたがモハメッドの漫画を掲載した意図はなんだったのか」と質問された時、彼が自分の意図は出版の自由という自分の権利を施行することであり、たとえそれによってイスラム教徒らの気持ちが逆なでされようと自分にはそうする権利があるのだと語っていた。

言論の自由とは自分が気に入った言論だけを許可するというものではない。悪意に満ちた発言で自分ではとうてい賛成できないような発言でも保証されなければ、いやそういう発言こそ保証されなければ真に言論の自由があるとはいえないのである。

「悪意のある発言は禁止する」などという法律が実際に通ったら、それこそこれは思想コントロールである。同じ言葉を使うにしても善意で使う分にはかまわないが、悪意で使った場合は法律違反などということになったら、我々一般市民は恐くて何もいえなくなる。いったい悪意だの善意だの誰が判断するのだ?政府か?人権擁護審議会か?

自分の住む町でイスラム系マフィアが幅をきかせて麻薬だの売春だのをおおっぴらにおこなって市民の安全を脅かしていたとしよう。それを地元のブロガーが告発したとしたら、彼の行為はイスラム教徒の気持ちを傷つけることになるからこのブロガーは悪意ある発言をしたとして逮捕されるべきなのか?(まさにそれがイギリスではおきたわけだが)

市民が政治家の政策を批判したら、それは政治家の気持ちを傷つけることになるだろう。だからこのような悪意ある批判的な発言は違法だとして市民は罰っせられてもいいのか?

無論言論の自由とは自分勝手なことをいって誰からも批判されない権利という意味ではない。私が他人の気持ちを傷つけるような言動をとった場合、社会の人々から私のそのような発言を批判されたとしても文句はいえない。たとえば私がラジオのDJで、特定の少数民族を侮辱するような発言をしたとしよう。このことによって私は警察に逮捕されるべきではない。しかし、腹をたてたリスナーの人たちから苦情が殺到して、ラジオ局が私を解雇したとしても、リスナーには苦情を述べる権利があるし、ラジオ局には私を解雇する権利があるのだ。

また、私の言動が行き過ぎて、他人の気持ちだけでなく、金銭的もしくは物理的損害を他人に与えた場合には名誉毀損で訴えられても仕方ない。ただし、名誉毀損が法廷で認められるためには、かなり厳しい条件を満たす必要がある。コメンターのalaalaさんは誤解しているが、名誉毀損とは単に他人の気持ちを傷つけるという行為ではない。

例えば私がある人物について「あいつは強姦魔だ」と言って、その人物による『犯罪行為』を公の場で発表したとしよう。実際にそのような事実がなかったにも関わらず、強姦魔であるという汚名を着せられたためにこの人物の評判が落ちて職場からも解雇され奥さんにも離婚された、などという損害が起きた場合、根拠もなく犯罪者の汚名を着せた私をこの人物が名誉毀損で訴える基盤は存在する。しかし私がこの人物に「あんたは変態だ」と言ってその人物の気持ちを傷付けたというだけでは名誉毀損にはならない。

私は個人の生活になるべく政府が口出ししないでくれたほうが社会はうまくいくという考えを持っている。であるから人種差別にしろ男女差別にしろ政府が規制するのではなく、自由市場にその解決を任せるべきだと考える。

合法であるということと道徳的に正しいということとは違う。私は未婚の女性が子供を生むことも人工中絶も道徳的には正しい行為だとは思わないが、法律によって罰せられるべきだとは考えない。若い女性に子供を生ませて責任をとらない不心得者が社会的尊敬を失ったり、遊びまくって未婚の母となった女性が世間から軽蔑の目でみられるといったように、不道徳な行為は社会が制裁すればいいのである。そして人々はこのような行為を容認するような学校教育には断固反対し抗議すべきであり、その抗議をする権利は言論の自由によって保証されなければならないのである。

人権擁護法の恐ろしい点は、このような道徳的な意見の違いを「差別意識である」とか「少数派の人権を迫害するものである」などといって思想の自由を弾圧することにある。一見弱者を守るように見えるこの法律は、必ずや思想の自由、宗教の自由、言論の自由を迫害するものとなるのである。

であるから、自由社会においては「悪意によって他人の気持ちを傷つける権利」も保証されなければならないのだ。それができなければ本当の自由社会とは言えないのである。

March 16, 2008, 現時間 2:24 AM | コメント (10) | トラックバック (1)

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日付け → →March 15, 2008

バラク・オバマ危機、恩師と仰ぐ牧師の反米過激発言に困惑

アメリカは宗教心の強い国だという話は以前からしているが、政治家となるとふだんはさほど信心深くない人でも、選挙が近付くとやたらと協会へ足を運んでみたり、演説のなかに「神」だの「信仰」だのいう言葉が不自然に出てくるようになるのはよくあることだ。しかし民主党の有力候補者バラク・オバマが信心深いキリスト教徒であるという話は自他共に認めるところ。ライバルのヒラリー・クリントン陣営やジョン・マケインの支持者からオバマの父親がイスラム教徒だったことや、オバマのミドルネームが「フセイン」であることから、オバマはイスラム教徒なのではないかなどと取りざたされたが、その度にオバマは、自分は敬虔なクリスチャンであり、同じキリスト教協会に20年も通っていると誇らしげに語っていたものである。

ところが最近になって、オバマが二十年来通い続け、オバマが信仰上の恩師として仰いでいる協会の牧師による過激な発言が問題となっている。

この牧師はトリニティユナイテッドチャーチのジェラマイヤ・ライト牧師(Rev. Jeremiah Wright)といい、牧師が自分の協会の教徒たちのために収録したDVDの内容が非常に反米でしかも白人やユダヤ人への人種差別むき出しのとんでもない陰謀説まで含まれていることが最近明るみに出てきた。

オバマはこれまでライト牧師について、誰にでも一風変わった伯父さんがいるように、ライト牧師はかれにとって風変わりな伯父さんみたいなものだとか、牧師を30年もやっていれば何万と行ったお説教のなかには、たまにおかしなものもあるだろう。そんなたまの失言だけを選りすぐって批判するのは不公平だ、などと語っていた。しかし風変わりなおじさんとか、たまの失言では言い逃れできないような内容が注目されはじめたのである。ロナルド・ケスラーはニュースマックスで牧師の演説の一部を下記のように紹介している。

ライト牧師はお説教やインタビューにおいて、シオニズムと人種差別を同等に扱い、イスラエルと南アフリカの旧アパルタイト制度は同じだとしている。また911同時多発テロの次の日曜日、ライト牧師は(911テロは)アメリカの暴力的政策がもたらした結果だと語った。4年後、ライト牧師は(911は)アメリカの人種差別への罰だとさえ示唆した。

「21世紀に、白人アメリカは2001年9月11日というモーニングコールで目を覚まさせられた。」とライト牧師は協会関係の雑誌に書いている。「白人アメリカと西洋社会は有色人種が木工場のなかへ去っていないことを、偉大なる白い西洋世界が自分の道を行き黒人のことなど無視してきた中で消えてしまってはいなかったことに気が付いたのだ。」

ライト牧師はある説教で、「人種差別によってこの国は創立され今でも運営されているのだ!わが国は白人至上黒人劣等主義を神よりも信じている。」

ライト牧師はイスラエルについては、「イスラエルは違法にパレスチナ領土を40年以上も占領している。」とかたり、アメリカ社会や世界のビジネス界にイスラエルへの投資をやめさせ、シオニズムの統治下で行われている人種差別による不正からアメリカを目覚めさせるべきだと呼びかけている。これらのスピーチはこちらで観ることができる。カカシがテレビでみたビデオの一部では、ライト牧師は世界で広まったエイズは白人が黒人を殺すために作り出した陰謀だなどと、とんでもないことまで語っている。

ライト牧師のこうした暴言は、牧師の若かりし日の過ちですまされるようなものではなく、昔から今日にいたるまで何度も繰り返されてきた発言なのである。それをオバマはたまにおきるごく一部の失言であるかのように語っていたが、アメリカのあちこちのテレビ局がライト牧師のお説教を流しはじめたので、オバマの言い訳がかなり白々しいものとなってしまった。

恥かしい親戚の伯父さんを持ってることは自分の責任ではないが、こんな暴言を吐く牧師のいる協会へ20年も通い、子供も日曜教室に通わせているとなるとオバマ議員自身もライト牧師の考えに同意しているのではないかという疑問が生まれるのは当然のことだ。オバマはアメリカをひとつにまとめたいと強調しているのに、このような差別主義を持つ牧師を恩師とあおぐとなるとオバマ氏自身の考えが問題になってくる。

ライト牧師の暴言はもう去年からぼちぼちと話題にのぼっていたのだが、どういうわけか先週になって突然あちこちのテレビ局が特集をし始めた。それでいままでいい加減な弁明しかしてこなかったオバマもついに、昨日ハッフィントンポストにおいて公式な説明声明を出すこととなった。

まず最初にいわせていただきますが、問題となっている提言にはわたくしは完全に反対意見であり、強く非難いたします。わたくしはわが偉大なる国を侮辱するような、また我々を同盟国から隔離するような発言は断固非難いたします。またわたくしは個人を侮蔑するような言葉は公の会話において、それが選挙運動の演説であろうと説教壇であろうと、決して使われるべきではないと信じます。つまり、わたくしは問題のライト牧師の発言を完全に拒絶します。

問題なのは、ライト牧師のこの発言はいまに始まったことではなく、オバマがせっせと通っていた20年間一貫して行われてきたのである。オバマは自分の恩師のこうした思想を全くしらなかったはずはない。だとしたら、どうしてこのような人間が説教をしている協会へずっと通ってきたのだ?いまさらこの発言を断固拒絶するという声明文を出すくらいなら、なぜもっと前にこの協会をやめてもっと穏健なキリスト教協会へ籍を移さなかったのだ?牧師の発言が明るみに出てそれを糾弾されて、はじめてその内容を非難するというのもなにか変ではないか?

この声明文はどうもしっくりいかないと感じるのは私だけだろうか?

March 15, 2008, 現時間 3:44 PM | コメント (0) | トラックバック (1)

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日付け → →March 12, 2008

ヒラリーとオバマのドリームコンビはあり得るのか?

最近、ヒラリーとオバマの戦いが熾烈になってきているので、二人を大統領と副大統領というコンビにして共和党のマケインに立ち向かわせてはどうかという話が出ている。だが、それは無理だろうとカカシは思う。

ヒラリーが大統領でオバマが副大統領の場合:

年齢から言っても経験から言っても、ヒラリーの方が先輩なので、こういう状況は考えられないこともない。しかし副大統領は普通ナンバー2の立場だが、ヒラリーが大統領になった場合、夫のビルが政権で重要な役割を果たすことは暗黙の了解がある。ということはオバマはナンバー2どころかナンバー3の立場になってしまう。

しかもヒラリー大統領の政権が大失敗だった場合、オバマがこの次の候補として出馬するときには、ヒラリーという重荷をしょっての出馬になってしまう。そんなことをするくらいなら、上院議員として目立つ議案でも提案して活躍し、「ほら、僕を選んでおけばこんなことにならなかったのに、この次は是非とも僕を選んでね。」と言えるようになる。どう考えてもオバマがヒラリーおばさんの使い走りを短くて4年、長くて8年もやらされるのを我慢できるとは思えない。

オバマが大統領でヒラリーが副大統領というシナリオ:

ありえない!ヒラリーがオバマ政権の人間になったら、ヒラリーはオバマのすることなすこと裏で邪魔すること必至である。ヒラリーはいかにオバマが大統領として資格がないかを国民にみせしめ、あわよくば4年後にオバマ再選の時にライバルとして立候補しようとするに違いない。そんな人間を副大統領にしておいては危なっかしくてしょうがない。オバマがそんなことを許すわけがない。

結論:

ヒラリーとオバマのドリームコンビはまず有り得ない。

となると本当に民主党全国大会でアメリカ歴史の中でも珍しいブローカーコンベンションが行われるかもしれない。これは非常に楽しみである。

March 12, 2008, 現時間 2:30 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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日付け → →March 10, 2008

気の毒な護衛艦「あたご」の乗組員

先日から護衛艦「あたご」と漁船の衝突事故のことで、自衛隊のほうばかりが責められているような印象を受ける。なかには自衛隊など何の役にも立たないのに税金の無駄使いをして不祥事ばかりを起こしていると、この時とばかりに自衛隊バッシングに専念する人たちもいるようだ。

きのうぼやきくっきりさんのところで、「あたご」の乗組員300余名はいまだに艦内で幽閉状態にあるという話を読んで非常に腹が立つと同時に、クルーのみなさんやその家族の心情を考えるとお気の毒でしょうがない思いでいっぱいになった。

事故の詳細については、すでにメディアでもブログ界でも色々と書かれているので、本日、カカシはちょっと個人的な話をしようと思う。

カカシが一年の半分以上は海の上で過ごしているという話はこのブログの常連の方々はご存じだが、去年は8か月以上船の上で、後半はずっとハワイの沖合で船に乗っていた。

よってカカシの一時的な職場となったのは、ハワイのパールハーバー。ちょうどその時、パールハーバーではBMD実験を行う護衛艦「こんごう」とイージスシステム実験を行う「あたご」が停泊しており、隣通しで仲良く綱でつながれて泊まっていた。この二隻の前にこの間の人工衛星撃ち落としに成功したアメリカのイージス艦クルーザー、レイク・イーリーが停泊していた。朝の国旗掲揚時には、「星条旗よ永遠に」と「君が代」が続けて演奏され、それが「あたご」が帰国するために真珠湾を去った今年の2月まで続いていた。

何か月も同じ港で顔を合わせていたので、私も「あたご」の乗組員とは多少顔見知りになった。「あたご」船上では私の知り合いが数人試験中のみ一時勤務していたことなどもあり、私にとって「あたご」の事件は他人事とは思えないのである。

「あたご」がホームポートの舞鶴を後にしてハワイの真珠湾へ向かったのは去年の10月後半のことである。それ以来、「あたご」の乗組員はハワイへつくまでの二週間半、毎日何時間もハワイで行われる実験に備えて訓練を行った。

11月にパールハーバーに着いてからの「あたご」のスケジュールは非常に厳しいもので、土日は港に帰ってくるが、週日はほぼずっと海上だ。港内で停泊中も訓練は続けられる。これが2月の本番のミサイル実発射実験まで、三か月も続いたのである。その厳しいスケジュールのなかで、「あたご」の乗り組員150名が11月に行われたホノルルマラソンに参加して全員完走という快挙をとげた。(「こんごう」からも50余名が参加、全員完走)しかも「あたご」はその翌日すぐに出航。

実際の実験がどんなものであるかという細い話は省くとして、実験そのものは大成功だった。何か月も家族から離れて厳しい訓練を続け、やっと実験も大成功を遂げた「あたご」の乗組み員たちはやっとうちへ帰れるとホッとしたに違いない。館長さんも肩の荷がおりたことだろう。

パールハーバーから舞鶴までは約二週間半の航海である。行きと違って帰りは特に訓練の必要はないので、(でも日本の船だから何かはやってただろうけど)結構のんびりした帰路が想像できる。実を言うと乗員の立場からすると、なにもやることがないほど退屈なことはない。なにしろ船からおりて飲みにいけるというわけではないし、(艦内はいっさい禁酒)ゲームセンターや映画館があるわけでもない。ま、艦内図書館で映画のDVDを借りてみたり、持参の本を読んでみたり、仲間とだべったり、トランプしたり、午後には甲板でジョギングするくらいしかやることはない。私の仕事と「あたご」の方々とでは質が全然違うとはいえ、このへんは日本の船でもアメリカの船でも大した差はないだろう。一週間くらいならまだ我慢できるが、これが二週間以上となると最後の方では髪の毛をむしりたくなる。だからホームポートにつくことを乗組員がどれほど楽しみにしていたか、私にはよく分かる。

「あたご」が事故にあったのは、こんなふうにして帰ってきた途中で、しかも舞鶴までは多分あと一日、というくらい近場まで戻ってきた時のことだった。乗組員もその家族も、どれだけこの日を楽しみにしていたことだろう。それがあと一歩という時にあんな事故。本当に心が痛む。(カカシも数年前に艦内で伝染病が発生し、湾内に入ってきたのに寄港できない状態で艦内に缶詰状態になったことがあるので、乗員の気持ちはいたいほどわかる。)

確かに亡くなった漁師親子はお気の毒である。決して彼等の死を軽々しく扱う気はない。早急な事故の原因究明は大切である。しかし、直接の事故とはほとんど無関係な乗り組み員まで艦内に二週間以上も幽閉しておく必要がいったいどこにあるのだろうか?帰宅してもメディアはもちろんのこと、家族とも事故の話はいっさいしてはいけないと命令してかえさせればいいだけのことではないか?そんなに自衛隊は自分達の隊員を信用していないのか?そんなことも信用できない隊員にイージスシステムを任せていて大丈夫なのか?

日本の自衛隊には危機感というものがないという批判はよく聞く。実を言えばカカシもそれは多少感じている。だがそれは自衛隊に問題があるというより、日本の軍事に対する姿勢そのものに問題があると思う。自衛隊をいつまでも「自衛隊」と呼んで、正規軍として扱わないから隊員の心にも油断がうまれるのではないか?

とにかく早急に調査を終了させ、すくなくとも乗組員のみなさんが家族の元へ数日中に帰宅できることを祈っている。

March 10, 2008, 現時間 11:31 AM | コメント (0) | トラックバック (1)

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日付け → →March 8, 2008

ジェンダーフリーは自由社会を破壊する

今カリフォルニアの法廷では、同性同士の結婚を承認するかどうかという審議がされている。カリフォルニア州は比較的リベラルな州なので、読者のみなさんは、これがカリフォルニア州民の希望によって審議されているとお考えになるかもしれないが、実はその逆である。

加州民は2000年の選挙のときに、国中で同性結婚推進の動きが一部の過激派によって激しくなってきたのを懸念し、「カリフォルニアは一人の男と一人の女との結婚のみを承認する。」という州法が圧倒的多数の市民の同意によってすでに通っているのである。では法廷はなにをやっているのかというと、この法律が合憲であるかどうかを審議しているのだ。

なぜ一夫一婦制が合憲かどうかなどという審議が今さら必要なのか、同性結婚推進者の理屈は、異性同士の結婚が許されるのに同性同士の結婚が許されないのはどの個人も同等の権利を保証されるという憲法に違反するというのである。

彼等にいわせると、異性愛者は好きなもの同士で結婚できるのに、同性愛者にそれができないのは不公平だというわけだ。しかし、異性愛者同士でも好きなもの同士なんの規制もなく結婚できるかといえばそうではない。

結婚というものは、いにしえの昔から、公の結合であり決して個人の好き嫌いだけで決められてきた訳ではない。結婚に関する規制はどこの社会にもあるが自由社会においてもそれなりの規制があり、その規制は性別だけに限らない。年齢や血族関係、そして人数にも規制がある。これらの規制が憲法違反でないなら、性別の規制も憲法違反にはならないはずだ。

無論、アメリカでは異人種同士の結婚が禁止されていた時期があった。その法律は撤回されているので、これと同性結婚の規制とどういう違いがあるのかという質問は出てくる。だが、人種間の差は単に皮膚の色が違うというだけで、黒人の男も白人の男も男であることには変わりはないが、男と女とでは全く生物学的に違うではないか?

第一異人種間の結婚禁止令は法廷によって違憲とされて覆されたのではなく、アメリカ市民が異人種間の違いは全く問題がないとして、議会を通して既存の法律を廃止したのである。一夫一婦制度はアメリカ市民の大半が支持しており、異人種間結婚の規制とはまるで性質が違う。

日本では同性結婚などというものは起こりえないとみなさんがお考えなら、甘い、と申し上げる。アメリカでも同性結婚など大半の市民が認めていない。にも関わらずあちこちの州で同性結婚が法廷を通して州民に無理矢理強制されるという事例がすでに起きているのである。カリフォルニアが2000年に一夫一婦制を改めて法律に取り入れたのは、そうした州で「結婚」した人々がカリフォルニア州でも夫婦と認めよと要求してくるのを拒むのが目的だったのだ。

男女共同参画の基盤となっているジェンダーフリーという性別解消の思想が横行すれば、それが必然的に同性結婚へと結びつくことは目に見えている。性に違いがないなら同性同士の結婚になんの問題があるというのだ、という理屈になるからだ。

一夫一婦制は文明社会の基盤である

数年前、同僚の若い男性何人かと仕事の帰りに飲みにいった時のことである。テーブルにつくや否や、一人の若い男性が席を立った。しばらくしてこの男性は片手にカクテルを持って戻ってきた。カカシは「エリック、あなたガールフレンドいないでしょ?」と聞くと、彼は不思議そうに私の顔をみて「いないけど、どうして?」と聞いてきた。ガールフレンドがいれば、自分の飲み物だけひとりでさっさと買いにいくなど彼女が許すはずがないからである。彼女のいる男性なら、同席をしている女性に「飲み物買ってくるけど、君も何か飲む?」と聞くぐらいの気遣いはする。

異性の伴侶がいる人間は、男と女の違いを知っている。それぞれの強い面も弱い面も知っているから、それを考慮にいれて他人にも接することができる。だが、同性同士でしか付き合いのない人間はその違いを理解できずに間違いをおかすことが多々ある。

これが子育てとなってくると男の父親と女の母親は子供の人間形成には欠かせない要因となる。男の子が強い父親がか弱い母親を守るお手本を見ずにどうやって女性を大事にすることを学ぶのか?母親が父親の辛い時に慰めの役目を果たす図を見ずに女の子はどうやって思いやりを学ぶのか?

アメリカで母子家庭の多い黒人の間で犯罪率が他の人種よりも極端に多いのは決して偶然ではない。父親のいない家庭では男の子が粗雑になるのだ。母親がどれだけ立派でも父親の代わりはできない。

また一夫多妻制度を取り入れているイスラム諸国やアフリカ諸国を見てみた場合、女性の権利はどこでも極端に制限されている。女性の数が男性よりもずっと多いというのならともかく、一人の男性が多くの女性を妻にめとえば、女性にあぶれる男性が出てくる。そうなれば女性は奪い合いになるから、女性は男性の所有物的扱いとなり外へ出さずにかこっておくという扱いになる。サウジアラビアなどで女性が家族の男性同伴でなければ外出できないなどという規則があるのはまさにこれが理由だ。

一夫多妻制度のなかで育つこどもは、父親との交流は少ない。父親は常に母親や子供のそばにいるわけではなく、その時々の気分で母親の元をおとずれるわけだから、子供はほとんど女たちの間だけで育つことになる。

母子家庭や一夫多妻制度における子育ての弊害を考えた場合、ここで試されてもいない両親同性という家族構成を社会に紹介する危険を我々は十分に危惧すべきである。すでに一番理想の一夫一婦制という制度が存在する社会に、なぜ試されてもいない別の制度を人々が望んでもいないのに適用する必要があるのだ?適用するだけの価値があることが全く証明されてもいないのに、その弊害も明らかでないのに次の世代を担う子供たちを実験のモルモットとして危険にさらす必要がどこにあるのだ?

何でもありは何もないのと同じ

同性結婚を許可することがどうして一夫一婦制度の破壊につながるのかという疑問が出るのは当然だ。しかし社会が決めた結婚への規制をひとつ外せば、他の規制についての見直しも必要とされるのは当然だ。好きなもの同士が結婚できるというのなら、血縁者が結婚できないというのはおかしいという理論になる。なぜ兄妹や甥姪では駄目なのかということになる。近親相姦による劣性遺伝の問題も、最近は妊娠中に遺伝子を調べて健康な子供かどうか確かめた上で生めば解決できるのだから。また100人の人間が愛し合っていますといって「結婚」してお互いの扶養家族となって減税の対象となるなどということも大いにあり得る。

結婚がどういう形でも許されるということになれば、結婚による特別な関係は意味のないものとなる。これまで結婚といえば一人の女性が一人の男性とお互いに忠誠を誓い合って一緒に子供を生んで育てていこうという覚悟で結ばれるものであった。それが誰とでも何人とでもただ一緒にいることが結婚だとするなら、結婚そのもの意味は失われる。西洋社会の基盤となってきた両親がいて子供がいてという家族単位も破壊される。そんな意味のないものを特にする必要もないので、「結婚」などする人は極端に減るだろう。そうなれば子供を生み育てるのはいったい誰の責任となるのだ?

ただでさえ少子化のすすむ文明社会で結婚そのものがなくなったら、これは種の存続にも関わる危機ではないか?

家族を破壊するジェンダーフリー全体主義

どっかの左翼変態フェミニストが「個人主義を徹底させるのがジェンダーフリーでしょ」などと大嘘をついていたが、個々の性別を無視することで個人が尊重されるなどナンセンスである。

ファシストのムッソーリーニにしろ、ナチスドイツにしろ、共産主義の旧ソ連にしろ、これらの独裁政権は常に「個人の自由」だの「独立」だの「平等」だの奇麗ごとを言っては国民を騙してきた。ジェンダーフリー推進者も「自由」「平等」「個人主義」など耳障りのいい言葉を使いながら、実際には恐ろしい全体主義のジェンダーフリー思想を我々に押し付けようとしているのだ。その証拠にジェンダーフリーが適用される時にはかならず全体主義の形で適用されている。左翼変態フェミニストたちの二枚舌に騙されてはならない。

全体主義の独裁政権は常に伝統的な家族構成を破壊することで個人から自由を奪ってきた。親の権限を取り除くことで、政府が親代わりをしようというのである。全体主義政権において子供の洗脳は必要不可欠である。だから男女共同参画が学校教育の場で始まったというのは大いに納得がいく。

教育界においてジェンダーフリーがどのように適用されているのか、作家の長尾誠夫氏が書いているサイトから少し紹介しよう。

長尾氏は、このエッセーのなかで小中学校における学校教育がいかに伝統的な家族構成を敵視しているかを例をあげて述べておられるが、家族と専業主婦への敵視と題されるこれなどは本当にひどい。

中学ともなると、その内容も多岐にわたるようになる。(以下、『ジェンダーフリー教育』明石書店より)

ある中学の家庭科教師は、教科書に家族団欒の光景が載り、「家庭は共同生活を営む場で、家族が安心して毎日の生活を送り、明日への活動力をつくりだす場でもある」(開隆堂)とあることから、両親がそろっているのが当たり前で、そうでない家庭の子供に対する差別や偏見が生じると思い、様々な家庭があることを認識させるために、深江誠子という人の手記を読ませた。

深江氏は「五歳で生母と死別し、その後母が三人も変わり、恩義を受けた三番目の母が社会から冷遇されていたのを知り、被差別の立場にある人に関心を持つようになり、自らの子供を差別社会と闘わせるためにあえて私生児した」人である(手記より)。手記に言う。「私は自分の生んだ子を私生児にすることに何のためらいもなかった。私は家庭が波瀾に満ちていたからこそ、既存の結婚制度の欺瞞性を見抜く力を養われた」と。

深江氏がいかなる考えを持とうと自由だが、学校教育とは社会の仕組みや秩序を教えるのが基本であり、反社会的な考えを持ちこむのは禁物だろう。これでは既存の結婚制度や家族を否定しているようなものである。

このような教育を子供にすることが、両親は一夫一婦であるべき、子供は結婚した夫婦の間でだけ生むべきであり、私生児を生むことは自分達の道徳観に反する行為だと思っている親の権利はどうなるのだ?

また、例の左翼変態フェミニストのように性別を確定すること自体が性差別だという考えが横行するなら、学校の性教育で子供たちにセックスは好きな相手となら誰とでもしてもいい、結婚の相手は異性である必要はないと教えることになるだろう。宗教上の理由から同性愛は罪だと教えたい親の個人的な権利はここでも踏みにじられる。

ジェンダーフリーは個人主義を徹底させるだの個性をのばすなど、すべて嘘である。本当の目的は性別を無視することで伝統的な男女間の関係を破壊し、家族構成を破壊し、自由社会の基盤を破壊することにあるのだ。

最近はジェンダーフリーという言葉があらわす内容の恐ろしさが人々の間でも理解されるようになったため、その本来の定義を書き換えて実は全く別物であるかのように表現したり、別の言葉を使ったりしてごまかそうとする動きがある。

ジェンダーフリーが、いつの間にかジェンダーセンシティブとかジェンダーニュートラルとかいう名前に変わっても、読者の皆様、だまされてはいけない!彼等の目的は自由社会の破壊にあるのだということを一時たりと忘れてはならないのである!

March 8, 2008, 現時間 10:05 PM | コメント (13) | トラックバック (5)

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銅像にバーカ! ヨーロッパでイスラム教女性虐待に抗議

アメリカのリベラルフェミニストたちは、クリントン時代にはイスラム圏の女性虐待の習慣にずいぶん批判的であったのに、いったんブッシュ政権になってイスラム教テロリストとの戦いが始まるやいなや、イスラム教への批判を完全にやめてしまった。それどころか、いまだに依然としてイスラム圏の女性虐待を批判するフェミニストたちを「過激派」などといって批判するにいたっている。

そんななか、ヨーロッパのフェミニストたちは自分達の原点を忘れていない。Gate of Viennaによると、去年の9月を皮切りに、ヨーロッパ各地のドイツ語を話す国々で、暴走するイスラム教徒による女性虐待に抗議した女性たちが各地の銅像にイスラム教の女性が着る、頭からかかとまで覆い隠す、バーカという着物を着せる静かな運動を行っているそうだ。

この運動を行っている団体の声明文によると、先日2008年3月6日、この団体はヨーロッパ各地で銅像にバーカを着せる運動をおこなった。これはヨーロッパのイスラム化及びそれによって禁句とされる問題について市民に討論を呼びかけるのが目的である。過去6か月に渡って団体はドイツ、フィンランド、ロシアなどヨーロッパ全土に広めてきた。今回、Berlin, Braunschweig, Dortmund, Düsseldorf, Helsinki, Moscow, Tampere, そして Turku,において、8体の銅像にバーカもしくはスカーフを着せた。ヨーロッパの価値観を強調するため、銅像には「男女平等」と書かれた腕章をつけさせ、片方の手に1948年に国連で適用された人権宣言の条約が書かれた看板をもたせ、もう片方の手にコーランの女性の扱いかたが書かれた看板をもたせた。

彼等はヨーロッパ各地で、バーカやスカーフを着て歩くイスラム教女性の姿が目立つようになってきたことを懸念して、これはヨーロッパ諸国の自由と平等へのあからさまな挑戦だと考えている。そして彼等はイスラムの教えにはヨーロッパの基盤である男女平等、個人の自由、人権といったものとは絶対に相容れないものがあるとし、このことについてヨーロッパ市民は十分に考えるべきだとしている。

以前に私はイギリスのカンタベリー主教がイギリスにも一部イスラム教の法則シャリアを取り入れるべきだと提案したことについて書いたが、この団体は、シャリアとコーランを文字どおりに適用するやり方はヨーロッパの自由主義に真っ向から逆らうものであり、共存は不可能であるとしている。

移民を多く受け入れた国ではどこでも同じ問題を抱えるが、常識的に考えて、移民を受け入れた国が移民に合わせるのではなく、移民してきた人々こそが自分を受け入れてくれた国の文化や法律を尊重するのが筋のはず。にも関わらず、欧米諸国に移住してきたイスラム教徒たちは、自分達の法律をそのまま持ち込み、それが移住先の国の法律に触れようとどうしようとおかまいなしに施行する。そしてホストカントリーの市民が苦情を述べれば、「差別だ」、人権侵害だ!」といって大騒ぎをする。

最近イギリスではスーパーのレジで、イスラム教の店員は酒類を扱わなくてもよいことになったところが出来たという。アメリカでもボストンのハーバード大学でおくゆかしいイスラム教女性のために体育館で女性のみの使用時間を設けはじめた。

イギリスやカナダで人権擁護法がイスラム批判をする人々への言論弾圧につながっていることは、ここでも何度も紹介しているが、欧州諸国でもイスラム批判はほぼタブーな主題となっているようだ。そこでこの団体の目的は、禁制とされているこれらの問題、特に女性虐待の習慣について、ヨーロッパ市民は討論をすべきであると呼びかけているのである。

しかし我々はイスラム教徒の宗教の自由を尊重すべきではないのか、という意見もある。無論、自由諸国においては宗教の自由は尊重されなければならない。だが、それもその宗教がその土地の法律に触れない限りにおいてという条件はつけるべきだ。そうでなければ、その宗教が人間の生け贄を神に捧げるのが習慣だったら、自由諸国で乙女が八つ裂きにされるのを容認してもいいのか、ということになってしまうからだ。

ヨーロッパ諸国では、実際に家族の名前を汚したとして、親の決めた許嫁ではなく自分の好きな人と結婚しようとした女性が父兄に殺されたり、妹の離婚の自由を弁護した兄が父親の雇ったやくざに半殺しの目に合うといった事件が頻繁に起きている。これも、シャリア法で規定されているからといってヨーロッパ諸国は容認してもいいというのか?

このやり方ではイスラム教徒という少数派の人権を守るという名目で、イスラム教社会に生きざるおえない移民個人の人権は無視されている。親がイスラム教徒なら子供は好むと好まざるとにかかわらずイスラム教徒であるとされる。シャリア法では改宗は認められないどころか極刑に値する罪である。このような社会で生きる個人には人権も自由もあり得ないのだ。このような社会で女性がバーカやスカーフを着用するのが彼女たちの自由意志であるなどと考えるのはナイーブすぎる。

この団体の主張は、自由国家に生きる人間は誰もがその自由国家の法律によって守られるべきであり、イスラム教徒も例外であってはならないということだ。本当の意味での人権尊重はイスラム社会の自分勝手な行動を容認することではなく、権力のある一部のイスラム教徒による人権迫害から市民を守ることにあるのである。

我々はこの運動を通じて、特定の宗教運動に禁句となった主題があり、それに即座に対処すべきであるということを提示するものである。禁句とされている主題だからといって我々は黙っているべきではない。この問題を指摘することは人種差別ではない。イスラム社会に生きる女性たちが、それがわが国であろうと外国であろうと、彼女たちの権利について我々が主張しないことこそ人種差別である。かつて西洋の女性たちの人権のために立ち上がった人々はどこへ行ったのだ?イスラム教女性だけは援助もせずに放っておいていいという理屈は成り立たない。

ここでこの団体は人権宣言とコーランを比べ、どこが違っているかを提示している。国連の人権宣言では『すべての人間は生まれながらにして自由であり平等な尊厳と権利を持つ。』

“All human beings are born free and equal in dignity and rights. They are endowed with reason and conscience and should act towards one another in a spirit of brotherhood.”

— Universal Declaration of Human Rights, United Nations, Art. 1

とあるのに対して、コーランでは、

“To those (women) on whose part you fear desertion, admonish them, and leave them alone in the sleeping-places and beat them.”

— Quran, Sura 4,34

逃走する可能性のある女ちは、警告せよ、そして寝床に放置せよ、そして殴れ。

以前にとある左翼フェミニストが、どうしてフェミニストがイスラム教を批判しなきゃいけないのだと聞いていた。ぜひとも彼女に読んでほしい声明文だ。

March 8, 2008, 現時間 10:58 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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日付け → →March 7, 2008

変態たちが押し進めるジェンダーフリーという神話

男女共同参画という政策にはジェンダーフリーという概念がついて回る。あたかも性別を無視することによって男女平等が実現するかのような不可思議な思想だ。しかし現実には、ジェンダーフリーとは私が当初考えていたよりもずっと悪質な概念であることが最近になってわかってきた。

真実のジェンダーフリーとは男女平等だの女性救済のための思想などではなく、文明社会の基盤となる一夫一婦制という男女間の関係を破壊し、我々の自由社会を根底から覆えそうという恐ろしい概念なのである。この思想は我々が一番大事にしている道徳観や価値観や信仰を嫌い、個人の自由を迫害する全体主義の左翼思想だ。

ジェンダーフリー推進者の真の目的は、人権擁護法が特定の少数派が特権階級となるために提案されているのと同じように、自分達の変態的な性嗜好を一般社会に強制的に押しつけ、伝統的な社会を破壊した上で自分達が理想とする変態社会を作り上げ、ファシストよろしく自分たちがその社会をコントロールしようというものなのだ。

カカシはジェンダーフリー推進者の本質を暴くことによって、この概念がいかに邪悪なもので、我々の愛する自由社会を脅かす非常に危険な思想であるかを証明していきたいと思う。

そこで先ず、今回はジェンダーフリーを押し進める人々とは、いったいどんなひとたちなのか、という話から進めてみたい。

自分が男か女か答えられない人たち

カカシ:あなたをレズビアンといったのは、あなたが自分のことをクィア(同性愛者)だといったことと、あなたは女性であると思ったからですが、違うんですか?

ミス左翼:クィア=同性愛者、ではありません。いまさらあなたにあれこれ説明してそれを理解してもらおうとは思いませんが、同じではないことだけはご理解ください。

上記の会話はこの間もお話した通り、とある左翼フェミニストとの会話の一部である。(カカシ注:オリジナルのエントリーでは実名を使っていたのですが、ご本人から中傷だと苦情をいただいたので、名前の部分は「ミス左翼」と勝手にかえさせていただきました。管理人)
「彼女」が聞かれてもいないのに、自分のことを「クィア」だと言ったことについて私がした質問と「彼女」の返答だ。

この後に他のコメンターの人が「上記の質問は左翼さんが同性愛者であるかどうかということではないでしょうか?」と質問しているが、実はそうではない。この「違うんですか?」という質問にはコメンターさんが考えた「あなたは同性愛者じゃないんですか?」という質問の前に「あなたは女性じゃないんですか?」という質問が含まれているのである。ミス左翼は無論そのことを察知した上で、そのどちらの質問にも答えていない。

自分が同性愛者かどうかという質問に答えるためには、自分が男か女かという質問に答える必要がある。しかし「彼女」にはそれができないのだ。その理由は下記のとおり。

「ミス左翼」の性別は何? 「ミス左翼」は以前この性別とかあの性別とかで自己の確定をしたり、時には性別は無しとまで言ってました。でも最近はそういうことには疲れました。一時期は「ジェンダークィアー」で説明がつきましたが、それが特に確定なしだった頃はよかったのですが、「ジェンダークィアー」と確定する人たちが使うようになったため、これにもあてはまらなくなりました。

今日、「ミス左翼」は特にどの性別という自己意識はありません。しかし全く無性別という性別に強く同調しているという訳でもないのです。正直な話、彼女は自己確定があること、特に性別による自己確定をするということ自体、なんか奇妙だと思うのです。彼女が自分をどう見るかは、彼女の内側にある自身というものよりも、彼女の周りの人たちとの関係ややりとりによって判断されるといったほうがいいと思います。ーーーミス左翼の英語版自己紹介より

「ミス左翼」にとって自己というものは存在せず、彼女の存在は彼女の周りにいるひとたちが彼女にどう反応するか彼女をどう見るかによって決まるというのだ。だから人間としての基本ともいえる性別さえ彼女には確定することが出来ないというのである。自分の自我を他人の目に映った反映でしか確認できない人間とはなんと悲しく情けない存在であろうか。

どうりでミス左翼は個人という単位を軽視するわけである。自身の価値を見極めず、常に全体の中でどこに自分が位置しているかということでしか自分の価値を見いだせないという考え方こそ社会主義(左翼)の根本的な思想である。そのミス左翼のお友達の自称変態人間は自分の性別についてこのように語っている。

セクシュアリテイをイエス/ノーで答えられると思ってる人ってものすごくストレートな感性をお持ちだと思う。答えられる人もいるだろうけれど、それはあくまで一部の人だ。

いや、簡単に考えればすぐ分かる事じゃない?晴れのち曇りみたいに「今日は女だけど昨日は男」みたいな人もいるわけだから。そんな人に「貴方の性別が、男(女)であるのかどうか、YES/NOで答えなさい」と聞く事で「いつも必ずどちらか」であることを求めるのは、無茶ではないか。ーーーノダダ腐男子より

カカシは子供の頃から女子か男子かという質問には色々な場所で答えてきたが、その質問が無茶だと思ったことは一度もない。これは自分の生年月日や親の名前などと同じようにごく普通の個人情報だと思って生きてきたのだが、ジェンダーフリー推進者にはそんな常識も通用しないらしい。

自分達を変態と呼んではばからないひとたち

前述の左翼フェミニストは自分のことを「クィア」であると断言した。しかし自分が何であるかを確定しないミス左翼が使う言葉は注意して読む必要がある。私としてはなるべく日本の読者に分かりやすい訳として「変態」という言葉が一番適切であると考えた。

クィア(名詞)とは普通の英語では1)変態 2)同性愛者(特に男性同性愛者への侮蔑語として使われる)という意味ですから、エミさんが同性愛者ではないと言い張るなら、今後私はエミさんを左翼変態フェミニストとお呼びするより仕方ないですね。ご本人がそう主張なさってるのだから、Who am I to argue?

これに対してミス左翼はもちろん私の解釈は間違っていると主張している。

あなたの理解が不十分です。わたしは何を言われても平気だけど、そんな中途半端な理解で人のセクシュアリティをあれこれ言うと失礼に当たるのでお気をつけください。それぞれの言葉がどう使われているのか知らないし理解するつもりもないのであれば、ある人がゲイだと言えばゲイ、クィアだと言えばクィアという具合に、相手の言った通りを尊重するのが一番だと思いますよ。わざわざ「左翼」とか「変態」とか相手が言ってもいない言葉に言い換えない方が無難です。

いや、自分は理解する意志はあるぞと言うのでしたら、先に紹介した「クィア・スタディーズ入門」をよく読んでください。

というのでそのクィア・スタディーズの説明を読んでみると、、、

クィアをとてもうまく説明したものに、“Anything that is not straight(ストレートでない者はすべてクィア)”という表現がある。ストレートは、「真っすぐ、まっとうな」の意。とすると、クィアは「まっとうではない」ので、そういう意味では「変態」という日本語がいちばん近い。(強調はカカシ)

つまり、クィアとは、自分はまっとうなものとは違う、という差異を示す言葉であって、どう違うかを示す言葉ではない。違いの内容に言及すると、なにがまっとうかを認めてしまうことになるから。中身の違いを言わずにただ「違う」とだけ主張するのがクィアだから、究極的には態度の問題であるといえる。クィアとは、「自分たちはまっとうじゃないよ」という態度のこと。...

したがって、クィアとは特定のグループを指す言葉ではない。ましてや、同性愛者やバイセクシュアル、トランスジェンダーやトランスセクシュアルを指す用語でもない。原理上は、「自分はまっとうじゃない」と言えばだれでもクィア。なにがまっとうかまっとうじゃないかは決めない。そんな線引きはせずに、みんな変態でいいじゃないか、という感じ。だから、クィアとはある意味、非限定的な言葉。いろんなものを含む包括的な用語概念。ーーーミヤマアキラ著クィア・スタディ入門(2)より

私はミス左翼に

あなたは常に『私は〜じゃ、ありまえせん!』とはいうけど、『私は〜です!』といはいいませんね。つまり相手にいつまでも『左翼ちゃんて何なんだろう?』と想像させ、『あなたは〜なんですね?』というと、『違います!』と主張するだけで、では何なんだという質問には絶対に答えない。

と言ったことに対してミス左翼は、

クィアだって書いてるじゃん。あなたが回答を理解できないからといって、「絶対に答えない」などとすり替えるのは不誠実ですよ。

と反撃したが、上記の説明を読むとカカシが言った通り「クィア」とはあえて訳すならば「変態」が一番近いが実は「非限定的な言葉」だとある。つまりカカシが最初から指摘している通り、ミス左翼は自分がなんであるかをはっきり確定することをあくまで拒む人間なのである。だからこそ常にジェンダーフリーの本質を一般市民から隠し通そうとしている推進者の代弁者としては理想的な存在だろう。ちなみにミス左翼が自分のブログで推薦しているノダダ腐男子もクィアは変態という意味だと書いている。

そんな自分にとってYES/NOでセクシュアリティを問われる事は、答えられない問いを突きつけられるようなものだ。だからこそ、私にとってクィア変態、あるいはオカマというのは自己説明に便利なものだ。ーーーノダダ腐男子

自分達の間では自分達を「変態」といってはばからない人たちが、外部のものからそれを指摘されると、その元の言葉が一般社会でどういう意味で使われているかを理解しているので、そういういい方は「失礼にあたるのでお気をつけ下さい」などと白々しいことを言う。これはカカシがせんだって左翼の二枚舌を見抜く方法で説明した通りの手口である。

ジェンダーフリーは性別抜きという意味

英語でこういうふうに「フリー」と言う言葉を使った場合、「〜抜き」「〜無し」という意味になる。「フリー」には「解放する」という意味もあるが、そういう意味で使うなら「フリーフロムジェンダー(Free from gender)」といういい方の方が適切だろう。しかしどちらにしても、ジェンダーフリーとは性別抜き、もしくは性別解消という意味だと解釈するのが適切である。無論これは別に私独特の考え方ではない。

ジェンダーバイアスからのフリー」は、それをとことん追求すれば自動的に「ジェンダーレス」の追求になってしまうような構造になっているのです。「ジェンダーバイアスからのフリー」と「性差否定」とは、もともと連続しているもので、両者の間にはあらかじめ明確な境界線が存在しているわけではありません。ーーー神名龍子
ジェンダーフリーはジェンダーレスと違うと言うが、ジェンダーフリーの提唱者で、男女共同参画社会基本法の理念作りに中心的役割を果たした大沢真理・東大教授は、「ジェンダーからの解放=ジェンダーそのものの解消」とはっきり書いている。ーーーBruckner05

これに対してミス左翼はお決まりだが、Bruckner05さんが大沢教授のいったことを誤解していると主張する。

これは、大沢さんがどういう意味で「ジェンダーそのものの解消」と言ったのか、Bruckner05 さんが理解できていないだけ。ジェンダーというのは辞書的には文化的・社会的な性役割や「男らしさ/女らしさ」といったものを指す価値中立的な言葉だけれども、現実にそれは一種の規範として強制力というか圧力を持つわけ。ジェンダーフリーの立場は「性役割の強制はよくない」「男らしさ・女らしさの強制はよくない」というものだけれど、強制力を伴わない「ジェンダー」というのは実質的に考えられない。(強調はカカシ)というか、辞書的な定義はともあれ、現実には強制力を伴う規範的なものが「ジェンダー」として認識されるわけ。大沢さんが「解消」するべきだという「ジェンダー」は、このような規範のことであり、また性別という差異にことさら大きな意味が与えられ違った扱いの理由とされる社会的構造のことでしょ。

大沢真理の「ジェンダーからの解放」という概念は同じフェミニストの間でも誤解を生む解釈であるとしてかなり批判を得ているので、ミス左翼がBruckner05さんの解釈が間違っていると主張するのはいつもながら不誠実である。しかし実はミス左翼は大沢真理の本音に完全に同調していながら読者をだまそうとしている。これを左翼の二枚舌で分析してみるとよく分かる。

建前:ジェンダーフリーとはジェンダーレスという意味ではない。
条件:ただし社会によって強制された性別は除く。
満たされない条件:強制力を伴わないジェンダーは実質的には考えられない。
本音:ジェンダーフリーとはジェンダーレスという意味である。

上記の神名龍子さんもジェンダーフリーの本質をついてこのように語る。

ジェンダーフリーやその元になったフェミニズムでは、「男らしさ」や「女らしさ」というジェンダーは歴史的・社会的に作られたものであり、それを個人に押し付けられるのだと考える。それと同時に、人間は誰でも皆、その人に固有の「自分らしさ」をもっていると考える。ジェンダーが押し付けられることによって「自分らしさ」が抑圧されると考えるわけだ。

 しかし、ジェンダーフリーでは最初から「ジェンダー」をネガティブな意味でしか扱わないため、本当にジェンダーが「自分らしさ」と相容れないものなのかということが検証されていない。それは、ジェンダーフリー思想の中では疑うことすら許されない「真理」なのである。また、本当にジェンダーを知らずに成長したら「自分らしさ」が発現するという実験も存在しない。強いていえば、狼に育てられたという野生児姉妹の話があるが、彼女達は、ついに人間としていかなる可能性を持つこともなく、その短い生涯を終えた。

1960年代後半から1970年代にかけて、子供たちを対象に中性的な教育をするのが一部の過激派左翼の間で流行ったが、その結果は悲劇的なものだった。男の子と女の子を育てたことがある親なら誰もが知っていることだが、男の子と女の子は全く違うのである。男の子はお人形を与えられてもお人形をトラックのように「ぶーぶー」とやって遊ぶし、女の子はトラックの上にコーヒーカップを乗せてままごとをやりはじめる。

私が思うに、本気で性別解消を唱える変態の存在は女性優遇社会を目指すジェンダーフェミニスト達たちにはかなり迷惑な存在だろう。この山口智美のサイトなどを読んでいるとその葛藤が理解できる。

大沢真理は、ビジョンとプランの目的は「ジェンダー・フリー」の実現であり、ジェンダーそのものの解消、すなわち「ジェンダーからの解放」を意味すると解説している(「21世紀の女性政策と男女共同参画社会基本法」ぎょうせい 1998)。...

 加えて、「ジェンダー」には「社会文化的に与えられた役割」としての意味の他に、「アイデンティティ」としての意味もある。この意味からいえば、「ジェンダーからの解放」という表現は確かに変だ。私が自ら選んで、「女」として「女性解放運動」に関わることもできなくなるかもしれない。

 また、「ジェンダーからの解放」という概念は、「ジェンダーにとらわれない」という意味での「ジェンダー・フリー」と同様、性差別を積極的に解消するために女性を優先的に採用するなど、ジェンダーに着目した政策であるアファーマティブ・アクションやクオータ制などにつながりにくい。こうした暫定的特別措置が未だにほとんど実行されていない日本の現実を考えると、事態は深刻だ。

 この大沢真理が使う「ジェンダー・フリー」と、東京女性財団版の「心や文化の問題」としての「ジェンダー・フリー」とは明らかにズレがある。大沢が「ジェンダーからの解放」を実質上は政策・制度面で「ジェンダー・バイアスをなくす」という視点で捉えているのに対し、東京女性財団版では人々の意識の問題が強調され、制度・実践面に応用される場合に関しても男女の区別(例えば持ち物の色分け、男女のグループ分け、学校での活動における男女のちがいなど)の解消という点に重点が置かれている。...

 アメリカの学者の権威を借りて、「ジェンダー・フリー」という概念を誤読に基づき曲げて紹介し、誰も原典を確認せず、意味のズレが生じても批判も議論もないままに広めた学者の責任は重大ではないか。今こそ、この概念について、しっかり議論や批判をしていく必要があるのではないか。学者の権威を利用しつつ、「ジェンダー・フリー」を推進してきた行政の責任も、問われるべきだろう。ーーー山口智美

山口が理解できないのは、日本でジェンダーフリー推進者たちの目的は女性優位な社会をつくることではないということである。推進者たちは米国学者の説を間違って解釈したのではなく、意図的にわい曲して米国学者の説だと言うことにして、その権威をふりかざしているに過ぎないのだ。山口にはジェンダーフリー推進者が本気で性別解消を唱えているという事実が信じられないのである。

山口はいまでは古くなったジェンダーフェミニストであり、自分が女性であることを十分に自覚し、女性優位な社会を目指している「まっとうな」人間だ。カカシにいわせれば、女性に生まれながら男性が嫌いで女性が好きだというレズビアンも男性の同性愛者も「まっとう」な人間だ。なぜならこれらの人々は自分の性別も性もきちんと把握しており、自己の確立をきちんとして完成させたひとたちだからだ。私はジェンダーフェミニズムには全く賛同できないが、現存する社会のなかで自分達の立場を優位にさせたいという考え方はごく自然であり、賛成はできないが理解はできる。しかしジェンダーフリー主義はそれとは似て非なるものである。

今やフェミニズムは、かつて男女機会均等主義のエクイティーフェミニストたちが女性優位主義のジェンダーフェミニストに乗っ取られたように、今度はジェンダーフェミニストたちからジェンダーフリーを唱える変態フェミニストたちによって乗っ取られようとしているのだ。そしてこの変態フェミニスト達は自由社会にとって、ジェンダーフェミニストたちよりももっと危険な存在なのである。

ジェンダーフリー主義の左翼変態フェミニストたちがどのように自由社会を脅かすのか、それは回を改めてお話することにしよう。

March 7, 2008, 現時間 11:48 AM | コメント (1) | トラックバック (2)

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日付け → →March 6, 2008

人権擁護法、カナダでも保守派ブロガーが攻撃の対象に!

イギリスのブロガーがイスラム教犯罪者を自分のブログで告発したことで、イギリスの人権擁護法に触れるとして起訴された話は以前にしたが、今度はアメリカのお隣のカナダでも、これまで新聞記者や政治コラムニストを相手取って訴えを起こしていた人権擁護審議会が、保守派のブロガーを狙って訴えをおこしているという話しを聞いた。

カナダではここ数年、キリスト教徒の自由が迫害されているとカナダのブロガー、コニー・フォーニエー(Connie Fournier)さんは言う。彼女は夫のマークと一緒にカナダ最大の政治掲示板フリードミニオン(FreeDominion.com.pa)を経営している。この掲示板の参加者は8500人にのぼり、ページのヒット数はなんと月に二百万という人気サイトだ。

インターネットのおかげで普通のカナダ市民も政治に積極的に参加することができるようになった。カナダではこれまで片身の狭い思いをしていたキリスト教徒や社会的に保守派の人々もネットの力を利用して自分達の意見を多くの人に読んでもらえるようになった。

しかしコニーさんは、今、その保守派のブロガーたちはカナダ政府から攻撃を受けているという。カナダの人権擁護審議会はすでに人権迫害を口実に多くの保守派ウェッブサイトを閉鎖してしまい、サイトの管理人を審議会に引きずり出して、永久に言論の自由をはく奪したりしている。

このトピでも新聞の編集者や政治評論作家であるエズラ・レバントやマーク・スタインが人権擁護審議会から理不尽な訴えを受けているという話は紹介しているが、これらの人たちの話が多くのカナダ人に知られるようになるにつれ、カナダ市民は人権擁護法の恐ろしさについてネットを使って色々と意見を述べるようになった。これが気に入らない審議会はネット住民の言論弾圧に強行手段をとりはじめた。

最近審議会は名誉毀損を口実に審議会の役員を批判したブロガーや掲示板サイト経営者たちを次々と訴えはじめた。掲示板の経営者たちがメンバーが書いたコメントの内容で訴えられるとなると、ブログや掲示板を経営するものたちは、メンバーのコメントを許したものかどうか考えねばならなくなった。

アメリカではすでに、ブログや掲示板に残されたコメントの内容は経営者には責任がないという判決が出ているので、このようなことは問題にならないが、カナダではまだその前例がないらしい。

『キリスト教徒として私たちはすべてをかけてこの戦いに挑まねばなりません。』とコニーさんは言う。フォーイエー夫妻の経営する掲示板も去年の夏に審議会から訴えられたそうだが、一応訴えは取り下げられた。しかしご夫妻は現在もワレン・キンセラ(Warren Kinsella)という元審議会の役人から個人的に名誉毀損で訴えられているという。キンセラは審議会のあくどいやり方を暴露したエズラ・レバント氏のことも訴えている。マーク・スタインも審議会から何回も起訴され、元審議会役員のキンセラのブログで毎日のように攻撃を受けているという。人権擁護審議会について批判的な内容のブログを書いてきたブロガーたちが次々に訴訟の憂き目にあっている。政府機関を批判する市民を罰するなど独裁政権のやることではないか!

すでに多くのブロガーたちが訴訟を恐れてサイトを自発的に閉めてしまった。しかしコニーさんは言う。ここで負けたらカナダからは言論の自由はなくなってしまうと。宗教と言論の自由を守るためにはここで沈黙してはならない。断じて戦わねばならないと。

日本ではまだ人権擁護法はできていない。審議会も設立されていない。一旦できてしまったものを廃止するのは並大抵のことではない。なにしろ審議会のやり方は不公平だといっただけで訴えられてしまうのである。日本のみなさん、どうかカナダの悪例を参考に日本での人権擁護法設立を断じて拒んでください!

***人権擁護法というカテゴリーを設立しました。外国での人権擁護法による悪影響を特集しているので、興味のある方は参考にどうぞ。******

関連記事:
その蜩さん、人権擁護法案。推進派も非常に甘いようにしか考えて無いんですよね。

韓国でもひどいことになってるみたいだ。最後の「英国やカナダなどはパリ原則に沿った人権機関を設けている。いずれも人権侵害の定義を明確に規定し、「表現の自由」は最大限尊重されている。」というところが笑っちゃう。

March 6, 2008, 現時間 8:18 PM | コメント (3) | トラックバック (0)

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日付け → →March 4, 2008

ヒラリーがんばれ! 共和党保守派が一斉にヒラリーを応援

アップデートあり、下記参照:

今日はテキサス、オハイオ、ロードアイランド、バーモントの四つの州で大統領選予備選が行われている。共和党のほうはジョン・マケインが当選確実なので特に問題はないが、民主党の方はどこも接戦。これでクリントンが大敗した場合、ヒラリーおばさんの大統領への道は完全に閉ざされる。オバマとほぼ同点だった場合でもヒラリーの方がこれから苦しい。ここはなんとしてもヒラリーは勝たねばならない。

ところで、このヒラリーおばさんに意外な味方が現れた。それはラッシュ・リンボーを代表とした共和党の極右翼ラジオトークショーの司会者達である。

私は毎朝1時間15分の通勤中、ローラ・イングラムという女性の保守派政治評論家のトークショーを聴いているが、彼女も共和党の有権者に今回だけ民主党に登録してヒラリーに投票しようと呼びかけていた。

どうしてヒラリーおばさんだけは勘弁してよねと言っていた極右翼の連中がこぞってヒラリーの応援をしているのかというと、ヒラリーとオバマが接戦を続けてくれればくれるほど民主党の泥試合が長引くからだ。ヒラリー・クリントンが民主党候補当選間違いなしと思われていた頃は、ヒラリーを個人的には好きになれなくても民主党だということでアメリカ主流メディアはヒラリーおばさんに都合の悪いニュースは全くといっていいほど流さなかった。私が何回か特集した中国からの献金スキャンダルもほんの一部で報道されただけで、気をつけて新聞を読んでいなかった人々はきっと気が付かなかっただろう。

ところが、民主党にはバラク・オバマという別の選択が可能となった。そうなってくると主流メディアはオバマ選挙事務所から流れてくるヒラリー批判のニュースもそれほどためらわずに報道するようになった。もちろんヒラリーも負けてはいない。最近オバマに関するスキャンダルがあちこちで聞かれるようになった。

オバマの長年の友人で有力資金調達者にアントワン・レズコ(Antoin Rezko)というビジネスマンがいるが、その男が今詐欺容疑で裁判にかけられており、今陪審員の選択中である。レズコ氏はオバマが政治家としてのキャリアをはじめた頃からの恩人で、今詐欺容疑がかけられているのも数年前にオバマのために土地を買った時のやり方に問題があったからなのである。このようなスキャンダルが地元のシカゴサンタイムスで報道されるのならともかく、ニューヨークタイムスまでが報道しているのだからすごい。

オバマのスキャンダルはこれだけではない。オバマ議員はずいぶん前から、大統領になった暁には北アメリカ貿易条約(North American Trade Agreement、NAFTA/ナフタ)から撤退すると有権者に公約してきた。これは国内の企業を守るためというのが名目だ。しかしカナダの政治家たちはオバマの側近から「ナフタから撤退するというのは選挙運動のためだけの空約束で、オバマにそんな意志はないので安心してほしい」と保証されたと口々に言い出したからこれが問題となった。

これまでオバマに関する否定的なニュースの報道などほとんど聞かれなかったのに、最近になって主流メディアもちょっとはオバマに厳しい質問をすべきだと目覚めたようだ。これもバラク・オバマにはヒラリー・クリントンというライバルの存在があるからに他ならない。主流メディアもあんまりオバマべったりにしていて、もしクリントンに大統領になられた日には大変である。今のうちに双方のご機嫌をとっておいた方がいい。となるとどちらも同じ様に批判する必要があるというわけだ。

そこで共和党の保守派たちは、ヒラリーが選挙戦から脱落しないで夏に行われる民主党の大会までヒラリー対オバマの熾烈な戦いが続いてくれたほうが共和党にとっては都合がいいと踏み、ヒラリーを応援しようとなったわけである。

しかしミスター苺は、ヒラリー支持者でもない共和党有権者がオバマを勝たせたくないという理由でヒラリーに投票するのは好ましくないと言っている。「そういう汚い手口は左翼の専売特許だろう。おれたちがやってどうするんだよ。感心しねえな。」と不服そうである。

私としては相手が汚い手を使っているのに、こちらが手をこまねいてみているだけでは勝てないではないかという気がする。もっともだからといって相手がサッカーの試合中に反則のとび蹴りをしたからといって、こっちも相手チームの脛を蹴ってもいいという理屈は通らないが。

なにはともあれ、今夜遅くには保守派の策略が功を成したかどうかわかるであろう。

アップデート:20時36分(PST)現在、ヒラリーがオハイオとロードアイランドで圧勝した。テキサスでもヒラリーが優勢だ。

3月5日6時34分(PST)現在、一夜あけて起きたら、テキサスでもヒラリーが圧勝したとNYTの記事が来ていた。これから出勤だが、ローラ・イングラムは何と言うかな?

March 4, 2008, 現時間 7:42 PM | コメント (0) | トラックバック (1)

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日付け → →March 2, 2008

左翼の二枚舌を見抜く方法

私がここ最近議論を交わしてきたあるフェミニストは、私がこれまでに遭遇してきた数知れない左翼連中となんらかわりはない。彼等一般に共通するのは、公平な議論をせず常に卑怯な手段で相手をはぐらかそうとするものである。そこで、私は今回彼等特有の卑怯な議論のやり方をある左翼フェミニストのやり方を例にとっておさらいしてみたい。断っておくが、これは決して特定の人間への個人攻撃ではない。

(A) 満たせない条件付きの提言(Argument by unsatisfiable conditionality)

以前にも左翼の連中は何故か自分を左翼と認めたがらない傾向があると指摘したが、左翼のなかでも多少頭が切れる連中は、一般人の間で受け入れやすい思想とそうでない思想の違いを十分に承知している。だから表向きは常識的なことを言うが、よくよく話を聞いてみるとそれとは全く反対のことを信じていることが多い。我々一般人は左翼のこうした本音と建前を見抜く目を鍛える必要がある。

彼等がどのように矛盾する二つの考えをつなぎあわせるのかというと、「満たせない条件付きの提言」という手段を使うのだ。これは最初に常識的な提言をした後で、「但し〜の場合に限る」というような条件をつける。ところが彼の特定する〜の場合は存在しないため、最初の提言が本当になることはない。結論として彼の最初の提言は覆されてしまうのである。分かりやすい例をあげると、、、

例1

提言(建前):私は自由市場を信じているので、政府介入は支持しない。
条件:但し自由市場が完璧な問題解決が出来る場合に限る。
満たされない条件:自由市場による完璧な問題解決など存在しない。
結論(本音):私は自由市場を信じていないので政府介入を支持する。

例2

提言(建前):(大学や職場で特定の少数民族や女性の人数の枠組みを決める)クォータ制度は支持しない。
条件:但し、ほかに差別是正のための良い方法がない場合にはクォータ制を支持する。
満たされない条件:クォータ制以外の是正方法など存在しない。
結論(本音):クォータ制度を支持する。

無論、この場合彼等が課した条件が実際に存在しているかどうかは彼等自身の判断によるものなので、条件が満たされることは絶対にないのは言うまでもない。

(B) 既存する言葉の定義の書き換える(Law of tendentious redifinition)

左翼連中はすでに存在している言葉の意味を自分勝手に都合のいいように書き換えるのが得意だ。これにはもともと衝撃的な意味のある言葉の定義を拡大し、元の意味で解釈した一般人に間違った印象を与えるやり方と、言葉の提言を縮小し元の意味で話をしている論敵の説がその言葉にはあてはまらないというやり方や、ごく普通に使われてきた言葉を突然差別用語だと勝手に指定したりするやり方がある。

例3

a) 衝撃的な言葉を別の意味で使い、それを知らない一般人に衝撃的な印象を持たせるやりかた:

男性嫌いの過激派フェミニストは男女間における全てのセックスはたとえ合意の上でもレイプだと定義を書き換える。そして書き換えられた意味を説明せずに、妻とセックスした男性のことをあの男は強姦魔だと言って、何も知らない一般人に間違った印象を与える。また、元々侮蔑語であるクィアという言葉の定義を単に異性愛者ではない人という定義に書き換えて、自分はクィアであると言っておきながら、論敵から「じゃあ今後クィアという意味で変態とお呼びしてもよろしいんですね。」というと「変態などといって侮辱するな!」というふうに言い、なにもしらない第三者に論敵からやみくもに変態扱いされたと犠牲者ぶるわけである。(アップデート、3月3日:ミス左翼の推薦するサイトでもクィアは変態と訳されている。)

例4

b) 言葉の定義を都合のいいように狭くするやり方:

私が先日話をしていたアファーマティブアクション(AA)だが、私はこの政策は法律によって市民に強制されていると語った。しかしミス左翼は、「アファーマティブアクションという法律は存在しない。存在しない法律が強制されるわけがない」といいはじめた。確かにAA法という名前の法律は存在しないが、AAは地方政府の設立した規則や法廷での判定などの課程を得て強制されている。普通『法律』というのは、政府が取り決め市民が従わなければならない施行力のある、社会の規則のことを言う。ところが、彼女は『法律』という言葉を『連邦政府が議会で通したもののみ』という非常に狭い意味で定義し、地方政府が取り決めた規則や法廷で出た判定などは『法律』ではないと言い張るのである。こうすることによって、彼女のいう「AAという法律は存在しない」という理屈が成り立つわけだ。一般的に広義な意味で使われている言葉の定義を極端に狭めることで、どれほど的を射た相手の議論も絶対にあてはまらないようにする。これで「あなたの言うことはこのこととは全く関係ない」と言い張るのがこの方法の狙いである。

例5

普通の言葉を差別語にするやり方:

これは非常に単純なやり方だが非常に効果のあるやり方だ。今まで普通にある特定の人々を説明する言葉として使われていた言葉を突然「差別用語だから使ってはいけない」と言い張る。間違った呼び方をすると人種差別者だといわれかねないので、人々は神経質になって常に正しい言葉を使おうとする。例えば、昔黒人はニグロと言われていた。これは単に「黒」という意味で、特に侮蔑的ないい方ではない。ニグロという言葉のついた団体まで存在しているくらいだから。しかしいつの頃からか、これは差別用語だと市民団体が言い出した。今後はアフリカンと呼ばなければならない、いや、アフリカンは差別だ、カラードと呼ぶべきだ、いや、カラードは差別用語だブラックと呼ぶべきだ、いやブラックは差別だ、ピープルオブカラーと呼ぶべきだ、いや、それは駄目だアフリカンアメリカと呼ぶべきだ、、、、というように。このように常に言葉の定義を変えることによって一般人を常にびくびくさせることが目的だ。

(C) 限りなく漠然とした複雑な文章

左翼連中は絶対に自分の考えていることをはっきりと他人が理解できるように表現しない。何故ならば、彼等の目的は自分の考えていることを正しく相手に伝えることではなく、相手を限りなく混乱させることにあるからだ。

左翼連中は非常に簡単な質問の答えでも長々と複雑な文章で答える。しかしよくよく読んでいるとのらりくらりと答えを避けただけで何の答えにもなっていない。それで「つまりあなたはこういうことがいいたいのですね?」というと「そんなことは言ってない!」と、あたかも分からないのはこちらの読解力が不足するせいだとでもいうような言い方をする。それで彼等はまた説明になっていない説明を繰り返し、こちらが「ではこういう意味なのですか?」というと「そんなことは言ってないってばああ〜」とどうしてこんな簡単なことが分からないのだという反応をする。

それでこちらもしびれをきらして「イエスかノーかで答えて下さい!」というと、「こんな複雑な問題をイエスとかノーで答えろというほうに無理がある。」とはぐらかすのである。下記は、とある左翼フェミニストとのコメント欄で交わされた一連の会話だが、これを読んでいただくとカカシのいう意味がお分かり頂けると思う。

カカシ:あなたをレズビアンといったのは、あなたが自分のことをクィア(同性愛者)だといったことと、あなたは女性であると思ったからですが、違うんですか?

ミス左翼:クィア=同性愛者、ではありません。いまさらあなたにあれこれ説明してそれを理解してもらおうとは思いませんが、同じではないことだけはご理解ください。(もし理解したい、とのことでしたら、「デルタG」というサイトで「クィア・スタディーズ入門」というすばらしい連載があるので、一般教養と思って読んでみてはと思います。)

コメンター:クィア=同性愛者ではないという回答ですが、上記の質問は左翼さんが同性愛者であるかどうかということではないでしょうか?私も左翼さんの文章は読んでいてときどきはぐらかしているような印象を受けることがあります

ミス左翼:単純にイエスかノーで応えないからですか? しかし世の中イエスかノーで応えられる問題だけではないでしょう?

自分が同性愛者かどうか、イエスかノーかで答えられないってのもおかしな話だが、彼女がこれを読めといってリンクを貼付けたサイトにいってみると、なんと何章にも渡る一冊の本!なんで私が他人の性嗜好を知るために長々と本を一冊よまなきゃならないのよ、といいたい。はっきりいって私は彼女の下半身にそこまで興味ない。

しかし今後も左翼と効果的な議論を交わすためには、左翼のいう言葉使いも勉強しておく価値はあるかなと思い直した。かなり苦労した挙げ句に該当しそうな部分を斜め読みしてみたら下記のよう部分があった。

Queer(以後、「クィア」とカタカナ表記)はもともと「奇妙な」という意味です。これは古い意味合いなので、いまでは「奇妙な」という意味ではあまり使われないのですが、もとは奇妙だ、ヘンだ、おかしい、という意味で、そこから同性愛者、とりわけゲイ男性を指す蔑称として使われるようになっていました。

.....この言葉を「再盗用」するにあたって、「奇妙な」「まっとうでない」という原義が使いやすくしっくりきたというのは、間違いがないと思われる。つまり、具体的な特定のありかたを指すのではなく、ただ漠然と「変」「普通と違う」というように、社会状況のなかでの自分たちのありかたをあらわすのに、一番使いやすい言葉だったということ。...

クィアとは、どこか奇妙で、普通ではない、変だ、正当ではないという感覚、態度なのだ、ということは強調しておきたい。

性嗜好が「」で「奇妙な」「普通とは違う」「度」の人のことを一般的に「変態」と呼ぶのではないのか?だったらクィアは変態でいいではないか、などと読者がお考えならまだまだ甘い!そのような読解力ではミス左翼には勝てない!

カカシ:だったら『変態』でぴったしじゃない!

ミス左翼:しかし、あれだけ分かりやすいリソースを紹介してもこの程度の理解しかできない人がいるとは驚きました。あれ以上簡単な解説なんてほぼあり得ないでしょう。

分かりやすいもなにも、このサイトには「クィアとは何か」という章に、クィアの定義が一つも載ってない!ただただクィア学の思想はこうである、ああである、とどうでもいいことがだらだらと書き連ねてあるだけで、クィアとはこういう性癖を持つ人のことをいうのであるとはどこにも書かれてない。書かれているなら非常に良く隠されている。ミス左翼が本気でクィアの定義を私に分からせたいと思っているなら、自分がその部分を抜粋して添付すればいいことであり、それをこの本を読めと言って解らないのはお前が悪いという態度をとっているのは、非常に不誠実だが左翼典型のやり方だ。

結局この一連の会話から私はいまだにミス左翼が同性愛者なのか異性愛者なのかわからない。いや、それをいうならミス左翼が女性なのか男性なのかさえも分からない。無論、ミス左翼の本当の目的は我々読者がいつまでも混乱している姿をほくそ笑んでみていることにあるのだからわからなくて当たり前だ。

左翼の二枚舌を見抜くには、左翼の使うこのような数々の手管を十分に研究しておく必要がある。練習として下記にミス左翼とのやりとりをいくつか掲載しておこう。読者のみなさんがどれだけ上記のやり方を指摘できるか試しにやってみるのも悪くない。

****************************
下記はとある左翼(多分共産主義ではなくてファシストらしい)変態フェミニストのコメント欄から一部抜粋しました。

例題1:

ミス左翼:「ブッシュ大統領は純粋な保守派ではない」とか、自分は純粋な保守派だと思っているから言えることであって、そういう純化主義・純化思想は一般社会から見れば過激だとしか言えない。

カカシ:私のことを純粋な保守派だといってくれてありがとうございます。

ミス左翼:言ってません。あなたが自分のことをそう思っているのだろう、とは言いましたが、あなたのことを「純粋な保守派」だとわたしが評価しているわけではありません。

例題2:

カカシ:左翼さんは自分は自由市場を信じるといってますが、あなたは企業や個人が自分達の偏見や差別意識を持つ自由を全く許せない。本当に自由市場を信じるなら、偏見に満ち満ちた企業が自分勝手なやり方で商売に失敗する権利を守るべきです。

ミス左翼:偏見や差別意識の自由は100%完璧に支持します。そしてそれを公に主張する権利も支持します。ネオナチでも「新しい教科書をつくる会」でもカカシさんでも、信条の自由と言論の自由は尊重されるべきです。問題は偏見や差別意識ではなく、差別行為です。

統計型差別においては差別的に行動すればするほど商売に成功してしまう。そればかりかインセンティヴ・ギャップまで生み出して、社会的格差をさらに深刻にしてしまう。市場はこの悪循環を解消する術を持ちません。
 
カカシ:差別への制裁は政府がするのではなく、我々消費者や社会がすればいいのです。それが本当の自由です。

ミス左翼:理想論としては良いですが、まったく現実的でなく話になりません。それができればそもそもこんな問題になってないって。

カカシ:あなたは個人からなる社会が自由市場であなたの気に入る結論を出さない場合は、政府が介入して是正すべきだという考えな訳です。 あなたは市場の決断よりも政府の介入の方を信頼しているわけです。 これがまさしく社会主義の典型的な考えです。

ミス左翼:違います。ほとんどの場合政府の介入は市場の効用を下げることになるので(つまりは人々の平均的な自由度や豊かさが犠牲にされるということです)、どういう施策を導入すればどの程度弊害があるのか冷静に調査したうえで、その弊害を施策の効用と比較して社会的に受け入れるべきトレードオフなのかどうか民主的に決定すべきであるという考えです。...おかしなことを勝手に決めつけないでください。

...市場の失敗によって市場がうまく働かない場合や、市場に任せた結果がわたしたちの社会に広く共有された倫理観・公正観から観て容認しがたい場合も生じます。そのとき、市場の不十分なところを補うためにどの程度なら社会的にコストを負担できるのかは民主的に決定されるべきです。わたしの好みを一方的に押しつけるつもりはありません。

カカシ:つまりまとめると、あなたは自分が気に入った結果を生んでいる限りは自由市場を支持するが、その結果があなたから見て不十分な時には民主主義のプロセスを踏んだ上でという条件付きで政府介入も容認する。 ですね?

ミス左翼:そのまとめは2つの点において正しくありません。

まず第一に、政府の介入をわたしが容認するためには、自由市場の出した結果がただ単にわたしの好みに合わないというだけでなく、公共的な倫理もしくは公正観に反するという判断をわたしが下すことが要件です。...つまり、わたしがある施策を容認するかどうかはただ単にわたしが「気に入るかどうか」ではなく、そこに公共的な理由があるかどうかを基準としているということです。

第二に、市場の結果が不十分なものであったとしても、政府が介入すれば良くなるとは限りません。「市場の失敗」に注意する必要があるのと同様に、「政府の失敗」の危険にも気をつけるべきです。すなわち、政府の介入を容認するためには、介入が実際に社会に利益をもたらすこと、そして介入によってもたらされる社会的な利益が介入によるコストを上回ることが示される必要があるでしょう。

例題3:

カカシ:あなたは「クォータ制を支持しない」といいましたよね?だとしたら裁判で訴えられた企業が示談にしろ判定にしろ、少数民族の雇用昇格のクォータ制を強いられた場合、つまりテキサコとかコカコーラなどのように(ロサンゼルス警察もこれに含まれますが)あなたにその権限があったとしたらこのクォータ制を撤回しますか?

ミス左翼:もしクォータ制より良い方法があるなら撤回しますが、クォータ制であるという事実だけを理由に必ず撤回されるべきだとは考えません。わたしが支持しない施策であっても、何もしないよりはマシな状況だってあり得るわけで。そもそも、裁判の判決や和解条件として導入されるクォータ制はアファーマティヴアクションとは全然違う話なので、両者をごちゃ混ぜに議論するのはやめてね。

カカシ:で、クォータ制は支持するんですか?しないんですか?イエスかノーの質問です。答えて下さい。

ミス左翼:イエスかノーで回答できるような質問ではありません。基本的に、クォータ制は融通が効かず弊害の大きい制度なので、あまり褒められたことではないと考えていますが、絶対に行なってはいけないほどの悪だとも思いません。あくまで与えられた状況に即してでなければ、応えられないのです。

カカシ:つまりまとめると、...基本的にはクォータ制は支持しないが、他に適当な是正策がない時はクォータ制も容認する。ですね?

ミス左翼:そのまとめは正しくありません。なぜなら他に適当な是正策がなくても、クォータ制の弊害の方がもともとの問題より深刻であれば、何もしないことが最善の選択であるということになります。「他に是正策がない」というだけで自動的にクォータ制が容認されるわけではありません。

カカシ:では...アメリカですでに起きている状況でクォータ制以外によい方法がない状況とはどういう状況のことをいうのですか?

ミス左翼:いますぐ特に思いつきませんが、わたしが知らないことだって世の中にはあるのですから、絶対にそういう状況がないとまでは言いきれません。

March 2, 2008, 現時間 2:33 AM | コメント (9) | トラックバック (2)

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