日付け → →February 3, 2013

オバマ王、あれ、ゴルフしたんじゃなかったの? 去年の誕生日に射撃をやったと写真公開したのはいいが

厳しい銃規制法を促進しているオバマ王は、決して狩猟趣味の銃愛好家たちから銃を取り上げようとしているわけではないと言うために、自分もしょっちゅうクレー射撃を楽しんでいると発言した。だが、オバマが射撃をしてるなんて信じられないという批判があちこちで出たため、ホワイトハウスは去年の8月4日、自分の誕生日にキャンプデイビッドで射撃を楽しんだとされる写真を公開した。しかし、去年の8月4日の新聞記事によると、オバマは51歳の誕生日をゴルフ場で祝ったとある。

(ロイター)バラク・オバマ大統領は土曜日(8/5/1912)51歳の誕生日をゴルフをして楽しんだ後、ヘリコプターでキャンプデイビッドへ行き選挙運動の合間を縫って静かな夜を過ごしました。

キャンプデイビッドでは静かな夜を過ごしたはずじゃなかったんですかね。もっとも射撃はゴルフをした後の夕方か翌日にしたのかもしれないが、当時の新聞がオバマが誕生日にゴルフをしたという話を一斉に書き立てているのに射撃練習をした話を全く報道しなかったというのも変な話だ。

はっきり言ってオバマが射撃を楽しんだのが8月4日でも5日でもいいのだが、わざわざ51歳の誕生日に、といって写真公開をしたのがうさんくさい。オバマがクレー射撃を「しょっちゅう楽しんでいる」というのが本当なら、何も誕生日を選ばなくても他にいくらもそういう話が報道されているはず。オバマのゴルフ好きやバスケ好きは有名だし、ハワイでサーフィンしている姿などは何度も写真公開されているのだから、オバマが本当にスポーツ射撃が好きなら、今頃は無数の射撃写真が公開されてきたはずだ。大統領の趣味が隠されているなんてことは有り得ないのだから。

ところで公開された写真は「やらせ」だという噂がすでに銃愛好家の間で立っている。私がこの写真を見てすぐに気がついたのは、オバマ王の狙いが低過ぎるということだ。ま、的のクレー鳩を誰かが低く投げたのかもしれないが、そうだとするとしょっちゅうやってる割には射撃が下手すぎるということになり、どうも話がおかしい。

オバマのやることは常にこういうふうにうさんくさいのだ。射撃など興味がないならないと言えばいいではないか、何故やったこともない射撃をしょっちゅうやってるとか嘘をつかなければならないのだ?

これだからオバマは信用できんのだ。

February 3, 2013, 現時間 11:41 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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初めて知った節分と立春と旧正月の関係

この歳になるまで旧暦の常識を知らなかったというのもお恥かしい話なのだが、実は私は日本の旧正月がどのように決められているのかよく知らなかった。ただ、私の回りの東洋人が盛大に祝う旧正月が節分の前後に来ることには気がついていたので、旧正月と節分には何らかの関係があるのだろうくらいの知識くらいはあったが。

カカシの職場にはベトナム人や中国人が多く、彼らは新正月より旧正月のお祝いを盛大に行うので、何時が旧正月なのか知らないと困ることがある。(例えばベトナム人の同僚が一斉に休暇を取ったりするとか。)アメリカでは一般に旧正月のことをチャイニーズニューイヤー(中国の新年)と呼んでいたが、最近は他の東洋人たちから「新年は中国人だけのものではない」という苦情が出たのか出ないのか、ルーナーニューイヤー(陰暦新年)と呼ぶ人も多くなった。

さて、それで節分と旧正月はどういう関係になるのかという話だが、よく節分は旧正月の大晦日だと言われるが、それは厳密には正しくない。節分は立春の前日で、立春は年のはじめとされるが、旧暦1日は必ず朔(新月)でなければならないので、立春と新月が必ず一致するとは限らず、というより一致しないことの方が多いので、立春すなわち正月とはいかないわけだ。

中国の太陰太陽暦だと、旧正月は冬至から二番目の新月なんだそうだ。立春はその新月の前に来る事もあれば後に来る事もあるので、私が旧正月が節分の前後だと思ったのも当たり前の話。

で、立春が正月前か後かでそれぞれ年内立春、新年立春と呼ばれるのだそうだ。それで立春と旧正月が偶然重なった年は朔旦立春(さくたんりっしゅん)といって非常に縁起がよいとされた。

立春から新しい年が始まるという考えは昔からあったので、年内立春は昔の人も困惑したらしい。参照したウィキによると、『古今和歌集』の巻頭には、年内立春を詠んだ歌があるという。

ふるとしに春たちける日よめる、年のうちに 春は來にけり 一年(ひととせ)を去年(こぞ)とやいはむ 今年とやいはむ       —在原元方

『年が明けないうちに立春が来てしまった。昨日までの一年(一月一日から節分)を去年と言おうか、今年と言おうか』

ま、古今和歌集の人でも混乱するくらいだからカカシが混乱したのも無理はない。ま、ともかく立春おめでとうございます。

February 3, 2013, 現時間 10:22 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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日付け → →February 1, 2013

活劇が多過ぎて目が回るホビットの思いがけない冒険

今夜の映画はJRRトールキン原作、ピータージャクソン監督の指輪物語(ロードオブザリング)の前編である「ホビットの冒険」の第一話「ホビットの思いがけない冒険」である。

カカシがこの原作を初めて読んだのは20年くらい前だが10年くらい前に読み直した。そして5〜6年前に今度は日本語でも読んでみた。ま、そういうわけだから原作には結構くわしいつもり。

原作を知らない人は、ジャクソン監督のロードオブザリングの前編だから、ロードと同じような雰囲気の作品を想像するかもしれないが、実はホビットは子供向けの小説として書かれたものなでロードとは全く違う代物だ。それに原作が三部作という長編のロードに比べ、ホビットは子供用の短い一冊の小説(邦訳は上下二冊)。ジャクソン監督はロードの成功を再現させようとホビットも三部作にしたようだが、ちょっと無理があるように感じた。

物語はロードでホビットのビルボ・バギンス(イアン・ホルム)が甥のフロド(イライジャ・ウッド)にバッグエンドと呼ばれる自分の家を託して110歳の誕生日に姿を消したあの運命の日から60年前の回想録として始まる。居心地のいいバッグエンドで刺激のない自適悠々な暮らしにすっかり満足していた若い(50歳!)ビルボ(マーティン・フリーマン)が自慢の家バッグエンドの前で煙管(キセル)タバコをふかしているところへ突然魔法使いのガンダルフ(イアン・マケラン)が現れる。ビルボに冒険の旅に出る気はあるかと、なにやら不思議なことを言い残して去って行ったガンダルフだが、翌日の晩、バッグエンドには続々と予期せぬ客たちが現れる。現れたのは見知らぬ小人たちで、口々に自己紹介をすると「どうぞよろしく」と言ってあたかも招待された訪問客のようにビルボの家のなかにずかずか入って来てビルボが慌てて出す食事をがつがつと食べ始める。

実は、こうやってビルボの家に現れた13人の小人達は、大昔に竜に奪い取られた小人の王国を取り戻そうと冒険を計画している勇士らで、冒険に参加する14人目の勇士に会うためにガンダルフの紹介でバッグエンドに現れたのだった。しかもその14人目の勇士というのが自分だと知ったビルボはびっくり。小人達にビルボは「忍びの者」として有名だとガンダルフから聞いていると言われ、またまたびっくり。とまあ色々あってビルボは13人の小人達とガンダルフと一緒に冒険の旅に出る事になる。

映画は、この冒頭のシーンから途中でトロルに出会うとこくらいまでは結構原作の筋に沿っている。特に小人達がビルボの家で飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎをするところや、小人の王子トーリン(リチャード・アーミテージ)が昔を忍んで歌を歌うシーンは感動的である。

しかしながら、原作の冒険だけだと戦いのシーンが少な過ぎるとでも感じたのか、ジャクソン監督はトーリンの祖父の時代にゴブリンと大戦争をした回想シーンや、オークらに追跡されるシーンを加えたりで、とにかく格闘に続く格闘で忙しいったらない。しかも3Dということで、やたらにカメラワークが激しく目が回る。私は3Dでは観なかったが、3Dで観たひとたちは乗り物酔いのような気分になったと語っていた。

原作の良いところは、冒険など性に合わないと言っていたビルボが腕力ではなく機転を効かせてあらゆる場面でドワーフ達を危機から救うところにある。映画でもビルボが頭を使って危機から脱出する場面は非常に良い。特にゴラム(アンディ・サーキス)との運命的な出会いやビルボが指輪を発見するいきさつなど、原作に忠実な場面は非常に面白い。

ロードを観た時、是非ジャクソン監督にホビットも作ってもらいたいと思った。そしてその際にはイアン・ホルム主演でイアン・マケランのガンダルフにアンディ・サーキスのゴラムが適役だと思っていた。しかし若いビルボを演じるマーティン・フリーマンは非常にいい。ホルムがもっと若かったら是非とも若いビルボも演じて欲しかったのだが、フリーマンの演技も味があるのでこれは良い配役だと思う。

エルフの村リバンデールでエルロンド(ヒュー・ウィービング)やサルマン(クリストファー・リー)やガラドリエル(ケイト・ブランシェット)達が集まって会議を開くシーンは映画ファンとしてはうれしい再会ではあるが、原作にはなく、よって話の展開にはあまり意味をなさない。

ビルボの出て来るシーンは原作に沿っていて面白いが、ドワーフ達の格闘シーンは後で加えたものだけに筋が進まず時間稼ぎという感が拭えない。ただ、それぞれのドワーフ達の個性が出ているし演技もすばらしいので、それはそれなりに観る価値はある。

ただ、ジャクソン監督は英雄的な格好いい役柄が必要だとでも思ったのか、アーミテージのトーリンは小人としてはちょっと恰好良過ぎるし、若いフィリとキリを演じるディーン・オゴーマンとアイダン・ターナーはティーンエイジアイドルみたいで可愛いすぎる。

と色々批判はあるが、全体的には面白い映画だと思う。私はすでに二回観たが、二回目の方が面白く感じたので、一応おすすめ。

February 1, 2013, 現時間 4:56 PM | コメント (0) | トラックバック (0)

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ファインスタイン議員の銃規制法案、政府高官の自衛用銃所持は例外

長年銃規制法と闘って来た人間にとって、ニューヨークのチャック・シューマー上院議員とカリフォルニアのダイアン・ファインスタイン上院議員は我々の宿敵である。だが、下々の者達による銃所持や携帯の完全禁止を唱える彼らが、自らは銃携帯許可書を持っているというのは有名な事実である。

アメリカの事情をよくご存じない方々に説明すると、シューマーとファインスタインが代表するニューヨークとカリフォルニアは、アメリカでも非常にリベラルな州で、テキサスやアリゾナとは違って州民による銃携帯は先ず不可能。一応表向きは許可書を申し込み許可が降りれば携帯は可能なことになっているが、なにか特別な理由でも無い限り許可書は先ず降りない。しかも、ここでいう特別というのは、宝石商であるとかガードマンであるとかストーカーに狙われて命の危険にさらされているというものではなく、いかに州の政府高官と深いつながりがあるかというもの、(郡の保安官の甥っ子とかね、、)

そういう普通なら銃携帯許可など絶対にもらえない州で二人が平気で許可書を所持しているということは、いかに二人が自分らの職権を乱用したかがわかるというもの。一般市民の銃所持規制を唱えながら、自分らのアサルトウエポンでの完全武装を偽善と感じないこういう政治家をみると、これだから市民は銃を渡してはならんのだと実感する。

今回提案された偽善者のダイアン・ファインスタイン上院議員提案のアサルトウエポン所持禁止法に政府高官はあてはまらないという例外項目があると知っても、カカシは全くおどろかないね。

ワシントンタイムスによると、ファインスタイン女史の提案はでは狩猟用ライフル、スポーツライフル、ボルト使用の手動銃、パンプ、レバー、スライドアクション、といった2200種以上の銃が、政府高官や現役及び退役警察官による所持が例外とされるある。

また、国土安全保障省は今度あたらしく7000丁の5.56x45mm NATO という所謂アサルトウエポンを職員の護衛用武器(“personal defense weapons” (PDW))として購入することになった。 同省によるとこれらのアサルトウエポンは「狭い場所での自衛に最適」だとその購入の正当性を説明している。しかも同省が注文した武器はセミオートではなく、「セレクトファイアー」と呼ばれ、調節によってフルオートにもセミオートにもなる銃である。これはいわゆるマシンガンで、一般市民による使用は禁止されている。

さて、ここで質問だ。どうして一般市民がこうした銃を所持することはいけないのに、政府高官や警察官ならいいとされるのだ?

銃規制反対派が憲法修正条項第二条を大事にする理由は、政府による独裁に抵抗するためである。そのことを口にするとピアース・モーガンなるイギリス人が本気でアメリカ政府がアメリカ市民を弾圧するような独裁政権になると思っているのか、と皮肉っぽい笑みを浮かべて問う。あたかも我々が被害妄想の固まりの過激派みたいな言い方である。

だが、もし我々の懸念が被害妄想だというのであれば、何故ファインスタイン議員は一般市民の武装解除をし同時に政府高官を武装強化をしようとするのか。市民が丸腰で政府だけが銃を持つ社会なら政府による独裁は容易である。政府による独裁が目的ではないのなら、何故政府高官から率先して武装解除をしないのだ?何故ファインスタイン自らが自分の銃を諦めようとしないのだ?

こういう法律を提案しておいて、憲法修正条項第二条支持派の我々を被害妄想呼ばわりするのは、人を馬鹿にするにもほどがある、と言わせてもらうね。

幸いにして、モーガンはじめメディアが銃規制銃規制と大騒ぎするのとは裏腹に、一般のアメリカ人は銃規制を支持していない。リーズンポールという世論調査によると67%のアメリカ人が銃規制は犯罪を減らすのに役立たないと感じていることがわかった

この調査によるとアサルトウエポン所持禁止がコネチカット州のサンディフック小学校で起きたような悲劇を防ぐ事ができるとおもうかという問い対して、たった27%の人々が防ぐ事ができると答え、67%のアメリカ人が防げないと答えている。

強調するが、アサルトウエポン所持禁止法は1994年にはじまって2004年に期限が切れるまで施行され続けたのである。その間、この法律は銃犯罪防止には全く役に立たなかった。にもかかわらずファインスタインは性懲りもなく同じ法律をもっと厳しくてまたまた施行しようというのである。アメリカ国民はこんな法律をいくら通してもみても犯罪防止には何の役にも立たないと身にしみて感じているというのに。

はっきり言って、カカシは今回の銃規制議論は良い事だと思っている。なぜかというと、最初にアサルトウエポン所持が禁止された1994年にくらべ、今のアメリカでは合法に銃を所持している人や携帯している人の数がずっと増えており、人々は合法な銃所持が犯罪にはつながならにこと、いや、反対に犯罪防止になっていると肌で感じている。そういう人々が個人的な印象だけを持っていたことが、今回の議論によって多くの統計によって証明され、犯罪学者や銃所持権利支持派の論理だてた議論が色々な場で紹介されることとなった。それで一般市民による銃への理解度が高まったと思うからだ。

確かにサンディフックやオーロラのような悲劇がおきると「アメリカは銃社会だから」「アメリカは銃が氾濫しているから」とセンセーショナルにメディが掻き立てるからアメリカは危険な銃社会だという印象を持ってしまう。だが実際にライフルによる乱射事件というのは非常に稀なのである。ピストルによる犯罪のほうがずっとずっと多いのだ。あまりにしょっちゅうのことなのでニュースにもならないが、シカゴやワシントンDCでは毎晩何人もの若者達がピストルによって殺されているのである。シカゴの人口割の殺人件数は麻薬戦争で大荒れに荒れているメキシコよりも多いのである。しかもシカゴはアメリカで一番銃規制が厳しい市なのだ。この関連性が見えないのはファインスタインやシューマーのような馬鹿だけだ。

いや、そうではない。ファインスタインもシューマーも馬鹿ではない。彼らの目的は最初から犯罪を減らすことではなく、一般市民の武装解除にあるのだ。彼らの目的は市民を無抵抗な状態にして自分らだけが武装することにある。どうしてそんなことをしなければならないのか。

これでもまだ憲法修正条項第二条支持派を被害妄想扱いするのか?

February 1, 2013, 現時間 11:56 AM | コメント (0) | トラックバック (0)

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